2026年9月25日金曜日

第276号

 次回更新 10/9


【広告】夏潮別冊虚子研究と余滴の会 》読む

【最新鑑賞】身体は国家から逃走する——加藤知子句集『情死一擲』を読む  赤野四羽 》読む

攝津幸彦記念賞応募作品について 》読む

 *

■新現代評論研究

【未来俳句・短期連載】

共有のアリーナとしての季語・歳時記——未来俳句宣言への応答   谷川嘉浩 》読む

未来俳句宣言関連資料 》読む

新現代評論研究(第32回)各論:後藤よしみ、村山恭子 》読む

新現代評論研究:『天狼』つれづれ 第12回:「実作者の言葉」…「誓子の万葉揮毫歌碑」/米田恵子 》読む

現代評論研究:第29回各論―テーマ:雲または霧その他― 藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、しなだしん、北川美美、深谷義紀  》読む

現代評論研究:第22回総論・「遷子を通して戦後俳句史を読む」座談会 》読む

【特別稿】口語俳句の可能性・余滴  筑紫磐井 》読む

新現代評論研究:音楽的俳句論 図像編 川崎果連 》読む

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【連載通信】ほたる通信 Ⅲ(74) ふけとしこ 》読む

【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり57 杉山久子『春の柩』 》読む

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【新連載】名俳句鑑賞へのラブレター『尾崎紅葉の百句』(高山れおな) 豊里友行 》読む

俳壇観測280 未来俳句論争ーー「俳句」7月号「合評鼎談」より  筑紫磐井 》読む

【豊里友行句集『赤ん坊オーケストラ』を読みたい】4 『赤ん坊オーケストラ』鑑賞 三木基史 》読む

句集歌集逍遙 梶原さい子『震災短歌ノート 東日本大震災ののちに』/佐藤りえ 》読む

【新連載】口語俳句の可能性について・番外

 俳句の虚構―西躰かずよし「窓の海光」論―  金光 舞 》読む

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【連載】伝統の風景――林翔を通してみる戦後伝統俳句

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【最新鑑賞】身体は国家から逃走する——加藤知子句集『情死一擲』を読む  赤野四羽

 加藤知子句集『情死一擲』を読むとき、まず目につくのは、いたるところで身体が壊れ、増殖し、変形し、何かを呑み込み、あるいは何かに侵入されていることである。

 「風船の首や吊られる一代記」では首が吊られ、「月とるにあばらの骨をそぎ落とす」では肋骨が削られ、「春の馬超えて女に脚六本」では女の脚が六本に増える。「ほと深きところに卍春は傷」は性器の最深部に歴史と記号を刻印し、「雷につらなれる脇腹の地霊」では身体の脇腹から地霊へと回路が開く。ここにある身体は、近代的な主体を包む安定した容器ではない。身体はむしろ、国家、神話、暴力、性、死者、土地が通過する裂け目である。

 その意味で『情死一擲』の核心にあるものを一語で呼ぶなら、「逸脱」であろう。ただし、その逸脱は奇矯なイメージを生み出すためだけの技法ではない。加藤の句において逸脱とは、身体を正常化し、分類し、所有しようとする力から逃れる運動そのものである。

 たとえば「ニッポンが股間にあるも昼寝覚」。ここでは「ニッポン」という巨大な共同体の名が、唐突に「股間」という極私的かつ性的な部位に押し込まれる。国家と身体の大小関係が逆転しているのである。本来なら個人の身体を包囲し、戸籍、家族、性別、再生産、徴兵といった制度を通じて管理する国家が、ここでは股間にぶら下がる滑稽な異物になる。「昼寝覚」という脱力した季語も重要だ。国家的崇高さは、目覚め際のぼんやりした肉体感覚によって一挙に脱神聖化される。

 この国家と身体の転倒は、「長男に継ぐこと無きや梅腐る」にも現れる。家制度的な「継承」の論理、その中心に置かれてきた「長男」に対して、句は「継ぐこと無き」と言い切る。しかも結末は「梅腐る」である。血統や家名の永続性に対して、生物は腐敗する。家父長制が想定する直線的な系譜に、腐敗という循環的な自然時間が侵入してくる。

 ここから見れば、本句集のフェミニズムは、「女性」というカテゴリーを肯定的に提示することよりも、女性身体に割り当てられた役割そのものを攪乱するところにあると言える。「神さびる乳房は島へ沖へ波」の乳房は、母性や性愛のために存在する器官ではない。それ自体が老い、神となり、島や海へと漂流してゆく。乳房は所有者たる「女」からさえ離脱している。

 「春の馬超えて女に脚六本」に至っては、女は人間という種的輪郭からも逸脱する。二本脚の「正常な女」は解体され、六本脚の異形の生命となる。これは怪物化であると同時に解放でもある。古来、女性の異形化はしばしば恐怖や排除の対象とされてきた。しかし加藤の句では、異形は劣位を意味しない。むしろ二本脚という規範を捨てた身体には、人間中心的秩序から逃走する奇妙な自由がある。

 だからこそ『情死一擲』における神話もまた、権威の源泉としてではなく、解体され、食われ、再配置される対象として現れる。

 「土蜘蛛を丸ごと吞みし真葛原」の「土蜘蛛」は、古代国家によって服属させられた周縁的存在を想起させる。だがここでは、その土蜘蛛をさらに「真葛原」が丸ごと呑み込んでいる。征服する側とされる側という単純な歴史図式すら、大地の巨大な消化作用のなかへ回収されてしまう。

 「神生みの朧を食らうだんご虫」はさらに徹底している。「神生み」という壮大な創世神話の傍らにいるのは、小さなだんご虫である。しかもだんご虫は神話を仰ぎ見るのではなく、「食らう」。高位の神話が低位の虫によって摂取されるこの逆転は、『情死一擲』の詩法をよく示している。高いものは低くされ、大きいものは小さくされ、聖なるものは肉体化される。

 「ビル壁を染み出る弥勒汗みどろ」も同様だ。救済者たる弥勒は、天上から清らかに降臨するのではない。都市のビル壁から汗まみれで染み出してくる。救済は超越ではなく、コンクリートと体液の混合として出現する。神は汚れ、肉体化し、都市の物質のなかに閉じ込められる。

 この神話の脱神聖化は、そのまま戦争の表象へとつながる。

 「自警団うち揃いては西瓜割り」は、一見すると夏の滑稽な景である。しかし「自警団」という語が置かれた瞬間、集団的な暴力の記憶が不穏に立ち上がる。目隠しをして棒を振り下ろし、対象を叩き割る西瓜割りは、遊戯であると同時に、群集暴力の模型となる。ここで恐ろしいのは、暴力が特別な狂気としてではなく、夏の余興のような日常性のなかに存在していることだ。

 「花野にてなにするひとぞミサイルマン」でも、花野とミサイルという不釣り合いが強烈である。古典的には死者や旅、秋の美と結びつく花野へ、現代戦争の象徴であるミサイルが侵入する。戦争は戦場だけにあるのではない。花野にも、昼寝にも、冷蔵庫にも、身体内部にも現れる。

 その極点が「木下闇強姦兵器生まれつぐ」であろう。「強姦」と「兵器」を直結させることで、この句は性暴力を個人的逸脱ではなく、反復生産される暴力装置として示す。「生まれつぐ」という語が残酷である。生命を継承するはずの「生む」という言葉が、ここでは暴力の継承を意味する。戦争と家父長制は、ともに身体を占有し、次代へ再生産するシステムとして重なって見える。

 「人間を狩る冷蔵庫灯るべし」も不気味だ。人間が自然を狩る主体なのではなく、冷蔵庫という人工物が人間を狩る。主体と客体は逆転する。文明が人間を保護するという物語はここで破綻し、道具の側が捕食者となる。その白い内部灯は、保存と死体安置、家庭と戦争、日常と殺戮の境界を曖昧にする。

 こうして見ると、この句集で戦争は「戦争を詠んだ句」の内部だけに存在しているのではない。戦争とは、身体を規格化し、性を統制し、敵味方を分け、殺すことのできる身体を製造する原理であり、その原理が日常の奥深くにまで浸透している。

だから『情死一擲』では、死もまた一回的な終点ではない。

 「昨日ひとだま今日は瓜へと化すおみな」において、死者は人魂となり、さらに瓜へと変わる。死は消滅ではなく変態である。「夜桜に体当たりして魂入れ換え」でも、魂は唯一不変の自己ではなく、交換可能な何ものかになる。

 「電報の死を炙りけり檸檬の香」は、この死の物質性を鮮烈に示す。死の知らせとしての電報が「炙」られ、その傍らに檸檬の香りが立つ。死は抽象的な観念ではなく、紙、火、香りからなる感覚的な出来事に戻される。

 さらに「献体を拒みて菜種梅雨の底」「夏果ての自力排泄とは妙技」と進むにつれ、句集は死を英雄的な事件から徹底的に引き離す。死を前にして重要なのは、大義でも記念碑でもなく、身体を誰に渡すのか、最後まで排泄できるのかという、生々しく卑近な身体の主権なのだ。

そして最終的に現れるのが、

「もうよかろう最期は情死帰り花」

である。

 表題『情死一擲』へと響き返すこの句の「もうよかろう」には、奇妙な軽さがある。情死は通常、恋愛の絶対化、二人だけの世界への閉鎖として理解される。しかし本句集を読み進めてきた後では、この「情死」はそれほど単純ではない。それは国家、家族、血統、正常な身体、神話、戦争といった、自分の死の意味を外側から決定しようとするあらゆる制度への最後の逸脱とも読める。

 ただし、そこには英雄的な自己決定の身振りさえない。「もうよかろう」という投げやりとも諦念ともつかぬ口調と、季節外れに咲く「帰り花」があるだけだ。

 帰り花とは、本来の季節から外れて咲く花である。

 そう考えれば、この季語ほど『情死一擲』にふさわしいものはない。六本脚の女も、汗を流す弥勒も、神話を食うだんご虫も、人間を狩る冷蔵庫も、すべて本来あるべき位置から外れている。女は女の位置から、神は神の位置から、人間は人間の位置から、死者は死者の位置から逸脱する。

 その逸脱は破滅なのか。

 おそらく加藤知子の句は、そう簡単には答えない。

 「街の足裏が沈みゆくゆく蟻地獄」と詠まれるように、世界そのものが沈下している以上、正常であることの方が危ういのかもしれない。秩序の内部にとどまることが生存を保証しない世界で、身体は怪物となり、虫となり、地霊となり、花となって、別の出口を探し続ける。

 『情死一擲』とは、死へ向かう句集である以上に、「正しい生」によって飼い慣らされることを拒む句集なのである。

 その意味で、ここにあるフェミニズム、神話、戦争、死は別々の主題ではない。それらを貫いているのは、誰が身体を所有し、誰がその身体に意味を与えるのかという問いである。

 国家なのか。家族なのか。男なのか。神なのか。歴史なのか。

 加藤の句は、その問いに明快な答えを返すかわりに、身体そのものを変形させてしまう。

 肋骨を削り、脚を六本にし、乳房を海へ流し、神を汗まみれにし、死者を瓜へ変える。

 意味づけられる前に、別のものへなってしまうこと。

 それこそが『情死一擲』における、最も根源的な抵抗なのではないだろうか。

【未来俳句・短期連載】 共有のアリーナとしての季語・歳時記——未来俳句宣言への応答  谷川嘉浩

 この種の「宣言」を読むのは久しぶりだった。評論が居場所を失うとき、宣言もまた存在感を失う。筑紫磐井の未来俳句宣言は、俳句の現在を「閉塞の時代」と名指し、伝統とはルールではなく過去の作品という財産だと捉え直す。過去の俳句が掬いきれなかったところにこそ未来がある。前衛に自句自解はできず、宣言だけが許されている。作品の内側で自分を説明するのではなく、これから何をするのかを外に出して、応答を待つ。

 宣言をする人が、宣言とは何かを説明しながら宣言するという手つきは、宣言が存在感を失ってしまった時代に見合った、的確な表現だったと思う。俳句について詳しいわけではないが、私は大いに趣旨に賛同する。時代ごとに指摘され、そのたびに指摘する人が誰かから権威的に叱られているが、かねてより受け継がれている事柄や形式をただ単に反復するだけの文化に未来はない。自分たちなりに魂を込めて、(先人を踏まえつつ)先人を裏切るような表現や提案をおこなえる文化が、その表現や提案のバリエーションの分だけ、文化の命脈を保つことができる。


 とはいえ、留保を一つ挟みたい。形式の攪乱は、定義上、攪乱される形式に寄りかかっている。破格が破格として読まれるのは、ルールが共有されているからだ。宣言が手がかりとして挙げる作例を思い出してほしい。比喩を否定したと評される金子兜太の句も、文法の見当たらない加藤郁乎の句も、読者が俳句のルールを前提としているから破壊的に見える。宣言が示す短律にしても、十七音という期待があるから短さが短さとして届くのであって、期待ごと捨ててしまえば、残るのは短い言葉であって短律とは必ずしも言えない。だから、攪乱することそれ自体が作風になり、様式として反復されはじめるとすれば、その振る舞いは何も動かすことができないだろう。個性的になろうとして、いかにも個性的にみられるような装いを反復する人を個性的だと思わないが、それと同じ程度につまらないことだ。(教科書通りの「個性的」な装いの人に微笑ましさというか、妙な頼もしさを感じるのと同じで、そういう周囲が見えていない勇み足は個人的には嫌いではないのだが。)

 宣言は連帯を求めない、と筑紫磐井は述べている。そうなのかもしれない。それでも、言葉はつながらなければならない。それはつまり、たとえ言葉や関心がすれ違っていたとしても、様々な行為者の判断の履歴が人々に共有されていなければならない、ということだ。各人が俳句という文化のために別々の賭けをしてもよいし、その賭けは多様であった方がよいと信じているが、その賭けが互いに競い合うアリーナを形成する必要があるのではないか。このブログ紙面(なんと呼べばいいのだろう)はその一つかもしれないが、宣言が期待する談論風発は、共有をどこまで残すかという設計の問題でもあるだろう。議論や対話の場を工夫しながら構築すること、その努力もまた怠ってはならないのではないか。俳句表現だけでなく、そちらを新しく工夫することもまた必要ではないか。


 最後に、別の提案をさせてほしい。私は学部時代に京大短歌という短歌サークルに入っていた。私は短歌に愛着があり、その可能性を感じていたのだが、同時に俳句への憧れを抱いていた。憧れの対象は、季語である。季語があり、歳時記が何種類もあって、それが一応の共有知識となっている。そういう制度を持たない短歌の視点から見ると、俳句の季語・歳時記という共通言語は、かなり魅力的に思える。誤解のないように言い添えると、これは規則への憧れではなく、共有のアリーナへの憧れである。歳時記は改訂される。季語の本意は動く。新しい季語が入り、気候の変化で季感はずれ、無季をどう扱うかで論争が起きる。季語は、内容の改訂と意味の再編に常に開かれたアリーナとして運用されている。そのアリーナのルールは曖昧で、その曖昧さの中に、季語という制度を新しく捉え直し、実験していくヒントがあるように思われる。

 だとすれば、宣言に応じる道はもう一つある。宣言は、過去の俳句が掬いきれなかったものに未来があると言った。その言い方を借りるなら、歳時記は、掬いきれなかったものを次の版で拾い直すために作られている。俳句の新しさを探すために季語を捨てる道もあるのかもしれないが、私は季語の機能や意味を再定義することを提案したい。

 バリー・スミスという哲学者が、文書や書類を一種の(言語)行為と捉えて、書類の扱われ方について次のように語っていた。「書類とは同一性を保ったまま時間を持ちこたえるものだ。署名され、副署され、保管され、登記され、閲覧され、譲渡され、複写され、批准され、無効化され、押印され、偽造され、隠され、紛失し、破棄される。」 1)まさにこのような形で歳時記の編纂や改定は行われている。それも複数の歳時記を通して。アリーナとしての季語や歳時記が、俳句にとってどんな意味や働きを持っているのか。それはどのようにズラすことが可能であり、どういう変化はどういう帰結につながるのか。その変更は誰にどう届くための変更なのか。考えるべきことは多い。英語化された俳句にとっての季語の意味や役割を実験的に提案するのも楽しそうだと個人的には思う。


 文化には、誰かの否定と裏切りが必要である。それは必ず誰かに権威的に叱られる。だが、裏切りが誰かに届き、肯定や否定、その他の反応を引き出せるのは、判断の履歴を共有できる場所があるときだけである。それは一つである必要はないし、複数の場が設計されていた方がよい。そうした場の設計と並行して、俳句という文化の中に様々なアリーナを発見し、その中で複数の実験を行っていくこと。私は特に季語と歳時記が形成するアリーナに面白みを感じるのだが、実際に俳句を作っている人たちがこの印象をどう受け取るのか、一人の俳句読者として応答を楽しみにしている。

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1)  Smith, Barry (2012). How to Do Things with Documents. Rivista di Estetica 50:179-198.

【谷川嘉浩(たにがわ・よしひろ) 京都市在住の哲学者。京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程修了。博士(人間・環境学)。現在、京都市立芸術大学美術学部デザイン科講師。著書に『増補改訂版 スマホ時代の哲学』(ディスカヴァー携書)、『鶴見俊輔の言葉と倫理——想像力、大衆文化、プラグマティズム』(人文書院)、『信仰と想像力の哲学——ジョン・デューイとアメリカ哲学の系譜』(勁草書房)、『人生のレールを外れる衝動のみつけかた』(ちくまプリマー新書)ほか。】

【未来俳句・短期連載/資料】未来俳句宣言関連

【広告】ウエップ俳句通信152号・特集〈筑紫磐井の〈新俳句宣言〉にたいして〉等  

 ウエップ俳句通信151 号に掲載された筑紫磐井「未来俳句宣言」に対し編集部から121名の俳人・評論家に意見を求めたところ、無回答6人、否58人、諾57人の回答が得られ、諾と回答した俳人・評論家の回答をそのまま掲載した。主要執筆者(「豈」関係)と回答した表題を掲げる。


●特集〈筑紫磐井の〈新俳句宣言〉にたいして〉

[主要執筆者と表題]

*池田澄子「俳句って何」 

*大井恒行「筑紫磐井の〈新俳句宣言〉についてーーあるいは「未来俳句宣言」ー」 

*五島高資「俳諧精神から見た「新俳句宣言」」 

*高山れおな「一番弟子が師匠の宣言をめぐって書いた模範回答、のようなもの」 

*森須蘭「実作者として」 

*山崎十生「新しい自由な俳句」 


●未来俳句宣言2(続編)    筑紫磐井

※ウエップ俳句通信153 号では「第二未来俳句宣言」(日本伝統俳句協会のための未来俳句宣言)を掲載。


【未来俳句宣言・BLOG「俳句新空間」関連文献】

〇未来俳句宣言についてーー高山れおなの読売文学賞受賞を祝して  筑紫磐井(2月13日)

〇未来俳句宣言についてーー高山れおなの読売文学賞受賞を祝して(続)  筑紫磐井(2月27日)

〇未来俳句宣言に寄せて――「短律」という武器、あるいは二重露光について 山根もなか(3月13日)

〇未来俳句への期待〜凝縮と非線形的時間  磯﨑寛也(詩人)(3月27日)

〇未来俳句は「未来」になり得るか?  山本幸生(作家)(4月17日)

〇山根もなか宛私信より(抜粋・編集) 樫村晴香(哲学者)(5月15日)

〇「自由律俳句の精神的自由」に関する宣言  煙陽(6月12日)

〇筑紫宣言における書簡  利岡龍之介(順天堂大学)(6月26日)

〇俳壇観測280 未来俳句論争ーー「俳句」7月号「合評鼎談」より 筑紫磐井(7月31日)

〇器はもう一つ増える——未来俳句宣言への応答  山根もなか(8月21日)

〇心身から考える未来俳句  横道誠(文学・当事者研究)(9月11日)

〇新俳句宣言:坪内稔典氏の反論の吟味 ―文学はどこまで短くなることが出来るのか― 筑紫磐井(9月11日)

〇共有のアリーナとしての季語・歳時記——未来俳句宣言への応答  谷川嘉浩(哲学者)(9月25日)


【参考】AI による新俳句宣言解説(8.18版)

概要                 

「新俳句宣言」(発表当初の名称は「未来俳句宣言」)は、俳人・評論家の筑紫磐井が発表した、これからの時代の新しい俳句のあり方を問う文芸上の提言です。現在の定型・有季中心の俳壇の閉塞感を打破し、短律や自由律などを含めた新しい表現の可能性と、芸術としての俳句の自立を求めて大きな論争を巻き起こしています。


背景と経緯

・2025年末の現代俳句協会の講座において、筑紫磐井が「20年後の未来の俳句」として極端な短律句を提示したことが発端

・角川『俳句』誌(2026年5月号)などで「未来俳句宣言」としての16句が発表される

・専門誌『WEP俳句通信』152号等で「筑紫磐井の〈新俳句宣言〉にたいして」という大特集が組まれ、多数の俳人が賛否の論考を寄せるなど現在進行形の俳壇論争となっている


主な論点

・短律・自由律の追求: 従来の五・七・五(5・7・5)の定型や有季にとらわれず、短い音数(短律など)の中に凝縮された詩の可能性を追求

・芸術としての自立: 季語や日常の情景報告に安住するのではなく、言葉の配置と緊張感によって詩・芸術としていかに独立し得るかの提示

・俳壇からの反応: 伝統的な定型リズム(素数律など)を重視する立場からの疑問や違和感、あるいは新たな前衛の旗印として捉える見方など、賛 否両論の活発な議論が交わされている


【新連載】新現代評論研究(第32回)各論:後藤よしみ、村山恭子

★ー3 高柳重信の新俳句詩法――「垂直の力学」として読み解く10 後藤よしみ

第2部

新俳句詩法の妥当性の検証 7


第4節 妥当性のまとめ

ーー高柳重信・全句業の発展構造と新俳句詩法の証明


はじめに

 これまで、高柳重信の全句集を時系列に沿って読み解いてきた。ここでは、それらを三つの段階にまとめ直し、

4原則(語彙の地質学、倒語法の再編、沈降の力学、深層の噴出)と

6モジュール(①身体・実存、②音韻・律動、③視覚・イメージ、④歴史・文脈、⑤主体・心理、⑥受容・読者)

がどのように生まれ、育ち、完成したかを整理する。

 この取りまとめには二つの目的がある。一つは、各段階が単なる「作風の変化」ではなく、前の段階の限界が次の段階の原動力になっているという因果の連鎖を示すことである。もう一つは、4原則と6モジュールという二つのシステムが、重信の全句業を通じて成熟してきたことを証明することである。


1 三段階の全体像

 重信の句業は、次の三つの段階として整理できる。

第一段階 生成期(初期) 

句集:

『前略十年』例句   金魚玉明日は歴史の試験かな

『蕗子』          船焼き捨てし

      船長は


      泳ぐかな


第二段階 形成期(中期) 

句集:『伯爵領』        遂に   

                           谷間に

                         見出だされたる

                         桃色花火

『罪囚植民地』     杭のごとく 

                       墓

                         たちならび

                         打ちこまれ

『蒙塵』          まなこ荒れ

                     たちまち

                     朝の

                 終りかな

『遠耳父母』      沈丁花


                       殺されてきて

                 母が佇つ闇


第三段階 完成・統合期(後期〜晩年) 

句集:

『山海集』        飛騨の

                      美し朝霧

                      朴葉焦がしの

                      みことかな

『山川蟬夫句集』  軍艦が軍艦を撃つ春の海

『日本海軍』     夜をこめて

                        哭く

                        言霊の

                  金剛よ

「日本海軍・補遺」 峯風

                         絶景

                         十六夜

                     秘曲・百済琴


2 各段階の要点と「なぜ次へ進んだか」

第一段階 生成期

 この時期、重信はまだ伝統的な一行の形式の中にいた。しかし、言葉の内側では、すでに「意味をそのまま伝えたくない」という力が沸き始めていた。

 4原則はまだはっきりとした形になっていない。語彙の衝突の萌芽がわずかに見られるだけで、倒語も多行も弱い。6モジュールも、視覚や身体の感覚が個人的な情念の中に未分化のまま混ざり合っている。

 しかし、この「未完成さ」こそが重要である。まだ完成していないからこそ、形成の歴史を証明する根拠になる。

 なぜ次へ進んだか——一行の形式では、語彙がどれだけ衝突しても、意味はすぐに流れて消えてしまう。衝突を止め、意味を深く沈めるための「壁」が必要になった。その答えが、多行形式という改行と空白の摂取であった。

第二段階 形成期

 この時期に多行形式の変革が本格的に動き出す。改行による「沈降の力学」が現れ、倒語法が強くなる。言葉は一語ずつ切り離されて落下し、意味の断層がより深くなる。

 しかし、各原則はまだバラバラに動いており、統合されていない。身体モジュールと歴史モジュールが強く突出するが、全モジュールが一句の中で同時に作動するには至っていない。

 この段階は三つの局面に分けて見ることができる。

 『伯爵領』では、一語一改行という細かい切断が行われ、崩壊が静止した映像ではなく「運動」として現れ始めた。

 『罪囚植民地』では、解体された言葉の破片に国家・戦争・制度が充填され、改行の空白が静かな沈降から打撃へと変わった。

 『遠耳父母』では、沈降の対象がさらに深い層——父母という血脈の記憶、生と死の境界——へと届いた。空白は沈黙装置から、現世と死者の世界をつなぐ霊道へと変質した。

なぜ次へ進んだか——多行を多様化するにすることで沈降は深まった。しかし、今度は行をつなぐ文法そのものが意味を固定する妨げになった。文法を削ること、つまり名詞だけで句を立てることが、次の一歩だった。

第三段階 完成・統合期

 この時期に4原則が一つにまとまる。語彙の衝突、倒語、沈降、深層の噴出が、一句の中で同時に働くようになる。6モジュールも、個別の補強材ではなく、同時に作動するよう機能している。

 この段階も三つの局面に分けられる。

 『山海集』と『日本海軍』では、「飛騨」「金剛」「松島」といった日本の地名・神話語彙・軍艦名が中心となり、一語の中に数千年の記憶が宿る。語彙の地質学は異質語の衝突から「古層の共鳴」へと完成し、垂直の力学が日本近代そのものへ突入した。

 「日本海軍・補遺」では、助詞も動詞も消え、名詞だけが空白の中に配置される。文法という「糊」が剥ぎ取られたことで、名詞という岩石がそのままの質量で垂直に落下する。内容と形式が一致した段階である。

 『山川蟬夫句集』では、多行形式が再び一行へ戻る。しかし、これは退却ではない。多行によって開発された垂直の重力が、一行という器に圧縮される。改行という外側の装置なしに深淵へ落下する後期段階の詩法である。


3 4原則と6モジュールの成熟表

4原則(垂直の力学)の成熟

原則 ➀生成期(初期) ➁形成期(中期) ➂完成統合期(後期〜晩年)


語彙の地質学

➀日常語と歴史語の微細な衝突が始まる(萌芽)

➁異質語彙が急増し、死・制度・血縁の語彙が沈殿する

➂地名・神話・軍艦名が重層化し、一語が日本史の地層になる


倒語法

➀感情を直接言い切らない最初の萌芽

➁因果が崩れ、主体・時間・心理が順に消えていく

➂文法そのものが解体され、意味生成が読者へ委ねられる


沈降の力学

➀一行の中に心理的落差はあるが、改行による沈降はない

➁一語一改行による垂直落下から、打撃・霊道へと深化する

➂文法消去による名詞の自由落下、一行への力の圧縮


深層の噴出

➀青春・孤独・喪失感という個人的な不安が滲む

➁死・身体・母・父という深層記憶が噴出し始める

➂国家・戦争・言霊・文明の哀歌が民族史的な深層から上昇する


6モジュール(水平の補強)の成熟

モジュール ➀生成期(初期) ➁形成期(中期) ➂完成統合期(後期〜晩年)


身体・実存

➀青春の不安として情念の中に混在する

➁傷・疲労・戦争身体として個別に強化される

➂肉体の痛みや砲撃の振動が読者に直接届く


音韻・律動

➀補助的な役割にとどまる

➁独自の韻律として個別に研ぎ澄まされる

➂音そのものが意味を超え、文明の残響として機能する


視覚・イメージ

➀個人的な情念に埋もれた映像

➁シュルレアリスム的映像が急増し、歴史幻視へ変わる

➂神話・戦艦・古代の光景が脳内で立体的に現出する


歴史・文脈

➀時代背景として遠くにある

➁制度・戦争・血縁の文脈として中心へ移動する

➂地名・記紀・帝国史が一語で全起動する


主体・心理

➀個人の感情が前面にある

➁主体が分裂し、誰が語るのかが曖昧になっていく

➂主体は消え、言語と土地だけが残る


受容・読者

➀比較的共有しやすい感覚として届く

➁読者が意味生成に参加し始める

➂読者が意味生成者となり、感通が行われる


4 総括——新俳句詩法は形成史を説明できるか

 結論として、説明可能である。

 重要なのは、この理論が後から無理やり当てはめたものではないことである。句集が進むごとに、4原則と6モジュールが段階的に生まれ、深まり、完成していくことが、実際の句の読解によって確認できる。理論が先にあるのではなく、重信の歩みそのものがこの新俳句詩法を描いている。

 この証明には二つの軸がある。

 一つ目は、句集ごとの時系列による検証である。重信がその時々の状況の中で詩法を変化させていった過程を、作品に即して実証した。これが「歴史的・実証的妥当性」の証明である。

 二つ目は、4原則・6モジュールというシステムごとの縦割りの検証である。時系列を一度解体してシステムの進化を見ることで、重信の実験が気まぐれな思いつきの連続ではなく、言葉の重力と感覚を駆動させるという一つの一貫したものだったことが明らかになる。これが「理論的・一貫性的妥当性」の証明である。

 この二つの軸——横糸(時系列)と縦糸(構造)——が交差したとき、重信の全句業は、新俳句詩法という一枚の織物として完成する。

 高柳重信が命を削って進んだ道は、奇をてらった前衛の実験ではなかった。それは、俳句というわずか十七音の器の中に、言葉の重力と感覚の全領域を詰め込むという、言葉の錬金術だった。新俳句詩法は、その全過程をある程度の部分において説明する理論である。そしてその証明によって、「一行か多行か」という表面的な形式論争に終止符を打ち、高柳重信を「俳句を言葉の深層の結晶へと変えた詩人」として正当に位置づけることができる。

次節では、高柳重信の新俳句詩法がどれほど独自性と有効性を保ち得ているかを検証したい。

(つづく)


★―7 藤木清子を読む 20/村山 恭子 


20 昭和12年 ⑦

夾竹桃外科医手術の手を洗ふ    京大俳句10月

 街路樹の緑化に使われる夾竹桃。夾竹桃の白や桃色の濃淡と外科医の手術着の白や水色の色の対比が鮮やかです。外科医が大きな手術を終えて手を洗っている様子は生々しく、その場所の窓から見える夾竹桃が乾燥した花々を揺らしています。

  季語=夾竹桃(夏)


征く人に港の夜雲かく美しく    同上

 出征する人へ港の夜は深く鎮まり、また夜空の雲が美しく心に染み入ります。「かく」により雲の美しさを強調し、広々とした夜空と「征く人」の心情が重なり合い、詩情を生み出しています。

  季語=無季


戦争の硬き街ゆき雨月なる     天の川11月、京大俳句12月

 戦争の緊張でこわばっている街を歩いています。「雨月」は中秋の名月が雨のために眺められないこと。「硬き」と「雨月」の質感の対比により、読む者の心へ哀愁や無常観をもたらします。

  季語=雨月(秋)


山の線規し夕べのひといそぐ    同上、同上

山の線親し夕べのひといそぐ    京大俳句12月

 「山の線」とは道路や鉄道か。夕方に家路を急ぐ人々の様子が浮かびます。一句目から規律正しい人波を、二句目から人々のざわめきを感じます。

     季語=無季


■「旗艦」消息欄に片山桃史出征の記事。(34号・10月)

【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり57 句集『春の柩』(杉山久子著、2007年2月刊、財団法人愛媛県文化振興財団)を再読する。

 この句集は、第二回芝不器男俳句新人賞受賞記念句集で巻末の言葉の花束「刊行に寄せて」(大石悦子)、「刊行に寄せて」(城戸朱理)、「老成と未成」(齋藤愼爾)、「黄金率」(対馬康子)「繊細さと逞しさと」(坪内稔典)の祝福の言葉の花束が贈られる。

 受賞作ということもあるが1句1句とても瑞々しい。

 それでは私なりの句集の俳句鑑賞をしてみよう。


なぐさめはいらぬ冷奴をおくれ

 冷奴(ひややっこ)とは、冷やした豆腐にネギや生姜、鰹節などの薬味を添え、醤油をかけて食べる日本の伝統的な豆腐料理のこと。その前の「なぐさめはいらぬ」で失恋の物語なのだろうかと想像をめぐらす。「冷奴をおくれ」と口語調の展開もいつだって胃袋はお腹が減るのよ。ぐーぐー腹が鳴る。俳句1句が小説以上に匹敵することがある。それは、省略された物語を鑑賞者自身が物語としてふくらませることのできる俳句文学の醍醐味である。


うぐひすに裁かれたくもある日かな

天国へゆけさう春のエレベーター

七人といはず敵ゐて鯨喰ふ

 鶯(うぐいす)の鳴き声は、時に我が身の心残りのあれを裁いてくれるのではないかと思う時もあるかもしれない。裁かれたくもあるそんな日の鶯の物語は、小説のひとつの作品にも負けない物語がある。そこを俳句鑑賞が丁寧に俳句を味わうことでやっと俳句作品と俳句鑑賞の対の貝に描かれた物語となる。

 ぐぃぃぃんと春のエレベーターの身体ごと昇天するような気持ち。わかります。はい。

 「男は敷居を跨げば七人の敵あり」という言葉を素養に置く。むしろ七人とは言わずとも多くの敵がいると周知している。そんな顔の皮も厚くふてぶてしくしくも鯨を食うよというキャラクターもまた俳句鑑賞のし甲斐があるだろう。


 下記の観察眼の効いた俳句にも非常に魅力を感じた。


嗅ぎあうてはなれて春の鹿ほそし

春光のかたまりとして猫ねむる

かゝげきて草の匂ひの螢籠

あるときは轟音充つる蟬の殻

夏蝶のひかりにはもう追ひつけぬ

船虫の影のしづかにあふれけり

かたまつてぬきさしならぬ曼珠沙華

紅葉焚くしんしんと静脈はあり

梟にほうとこたへて闇ふくらむ

食卓に雪の匂ひのエアメール


 春の鹿の嗅ぎ合って離れてのじゃれ合いの仕草とその足の細さから鹿の恋の機微を良く描かれている。

 春光の塊として猫が眠っていると捉える瑞々しい観察眼に脱帽。

 ランプをかざすように掲げる螢籠から草の匂いがする。五感フル稼働しながら少年の冒険物語が始まるようだ。

 蟬の殻は、ジョーロのように陽射しを溜め込んでいたり、戦闘機の轟音を溜め込んでいたりする。

 虫取り網を持って蝶を追いかけていたのだろうか。夏蝶のひかり。その塊として見てみるとまるで蜃気楼のように追いつけない心の距離感が見えてくる。

 船虫の「影」がしずかに溢れ出すというのがポイントだろう。影を浮き彫りにする炎帝(ここでは夏の太陽として)が焼き付けるように影を浮き立たせて溢れ出すと捉えた観察眼も観察を超えた詩眼だ。

 曼珠沙華の群落のいち塊を抜き差しならないと捉える。それは、擬人化された村人たちの抜き差しならない人間コミュニティーのようで物語性が膨らむ。

 紅葉を炊くその模様も観察眼と情感を込めることで葉脈の芯が静脈のようにも見えてくる。

 梟にほうと応えるように鳴きまねをしてみると闇が膨らみ、感受する詩性も慧眼。

 食卓に雪の匂いのエアメール。そのままと云えば、そうかもしれない。エアメール(航空郵便)とは、航空機を使って海外へ手紙やはがき、小型の荷物を送る国際郵便の手段。その遠方から届いた雪の匂いのする便箋が食卓に並ぶ。マルセル・プルーストの大作『失われた時を求めて』を彷彿とされる。この1句がそれほどの俳句物語を奏でる。

 その他の共鳴句もいただきます。ありがとう。ありがとう。ありがとう。


人入れて春の柩となりにけり

椿山けもののこゑをつゝむなり

ゆふぐれの背をはなびらに打たれをり

花びらやうなお骨となる日まで

螢火や体内の水あふれさう

いちはつや好きといはれて好きになる

どうしろといふの目高を二匹くれて

はてなはてなゆふべのからすうりの花

雲よりも白き犬ゐる海の家

さやさやと裸にふれてゐる裸

躰より去りゆく熱や合歓の花

彗星を待つ少年の洗ひ髪

ずぶぬれの向日葵けふを抱きしめよ

軍歌ふと秋の金魚にちかづきぬ

愛するといふふとどきや草の絮

抱卵の魚喰む音を後の月

言葉とどかず水鳥の脚赤し

狐火にひよんひよんついてゆきさうな

水仙のふるへを感知してゐるか

着ぶくれて会話に入りそびれたる

マフラーがお狐様をぐるぐる巻き

待春の猫を伸ばしてみたりもす


【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり8 杉山久子第四句集『栞』(2023年9月刊、朔出版)

https://sengohaiku.blogspot.com/2024/05/hanameguri008.html


【連載通信】ほたる通信 Ⅲ(74)  ふけとしこ

眠気

秋風を待つかさゆらぐ花手水

秋の日の天井扇より来る眠気

松籟や胡麻の香の菓子開くとき

零余子落つ暮がての火の透き通り

山遠し塩辛蜻蛉のこれは雌

        ・・・

 おじいさんは山へ柴刈りに

 おばあさんは川へ洗濯に

 昔話の世界だがたまに思い出す。川で洗って手で絞って、それを提げるか背負うかして家まで運ぶわけだろう。行く時はともかく帰りは重かっただろう。

 私は脱水した洗濯物をベランダまで運ぶ。脱水していても結構重い。洗濯ばあさんも大変だ~と思いながら干す。

 桃太郎のおばあさんは一体幾つだったのだろう。そもそも、おじいさん、おばあさんと呼ばれるのは何歳ぐらいからだったのだろう。

 人生五十年とか言われていた頃の話だろうかと思うが、桃から生まれた桃太郎が大きくなって鬼ヶ島へ鬼退治に出かけたのは幾つの時? 例えば十歳にしたって十年分は加齢しているわけだし……。

 黍団子を作って彼に持たせた時にはこのおばあさんはいったい幾つになっていたのだろうか。

 おとぎ話の世界を詮索しても仕方がないのだけれど、暇人は時々こんなことを考える。

 そういえば、かぐや姫を育てたのもおじいさんとおばあさん。一寸法師もそうだったはず。

 これは、父母がいないからではなくて、子供を授からなかった夫婦が老いて、という意味なのだろう。

 だから祖父母ではなくて、老いた夫婦という意味なのだ、きっと。

 年齢の話になるとよく引合いに出されるのが、

 ♪村の渡しの船頭さんは 今年六十のおじいさん~という童謡の歌詞。

この後は

 ♪年はとってもお舟を漕ぐときは~と続いていたように思うが。

 今年の敬老の日も過ぎた。百歳以上の人が何人で……とか例年通りに発表される。

 人生に定年はないから、寿命が尽きるまでは生きてゆかなければ仕方がないけれど、この先もまだその寿命というものは延びてゆくのだろうか?


 ところで、私は「村のワタシの船頭さんは」のこの歌詞を「私の船頭さん」だと長く思っていた。おじいさんと私とはとても仲が良かったのかな、と、呑気に考えていた。

(2026・9)

2026年9月11日金曜日

第275号

 次回更新 9/25


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【告知】攝津幸彦記念賞応募作品について

 本年度の第11回攝津幸彦記念賞(評論賞)は12編の応募作があった。応募者各位に深く感謝申し上げる。これらの作品については、「BLOG俳句新空間」で全編の紹介と選評を行った。以下それらの作品の表題と執筆者を紹介する。

 今後は最終選考を行い正賞を決めることとしている。正賞作品は「豈」69号に掲載される予定である。


1 「文人俳句の俳諧性―紅葉・鏡花を中心に―」  辻村栗栖 》読む

2 「今村俊三『鳩の頸』の再評価——あるいは俳句的遺産の発掘について」  横山航路 》読む

3 「面の問題について」  蒋草馬 》読む

4 「欠損の詩学―波多野爽波俳句の一解釈」  飯本真矢 》読む

5 「はまなすと未来」  野上翠葉 》読む

6「虚構の奥に立ち上がるもの―寺山修司、黒岩徳将の句におけるリアリティとは」  冨嶋桂晃 》読む

7 「平井照敏~詩と俳について」  馬場叶羽 》読む

8 「口語俳句の詩情について」   金光舞 》読む

9 「未来の俳句は、どこに宿るか」  山根もなか 》読む

10 「俳句の本質—時空を超えて語り継がれるもの—」  村山恭子 》読む

11 「西川徹郎の叙情―その初期の要求―」   田村転々 》読む

12 「新京大俳句創刊宣言」  原案者 蒋草馬 》読む


【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり56 五十嵐秀彦『無量』 豊里友行

 五十嵐秀彦句集『無量』(2013年、書肆アルス)を何度も読み返す。

 どの俳句からも五十嵐秀彦の北方俳句の味がする。

 選ぶ俳句の多さに内心の嬉しい悲鳴であった。


 黒田杏子先生による五十嵐秀彦第一句集『無量』に寄せてあたたかな賞賛がある。


 「日本中に句友を持ち、老若男女に愛されるゆたかな人間性と作家性」の持ち主である五十嵐秀彦の句集に序文を寄せる機会を得たことを、心から光栄に思う。」(黒田杏子)


 帯文の裏面の文も記しておきたい。


 「おお、しばれるわ」と、五十嵐さんは襟をたてながら小樽の街角へ紛れた。天に無言の銀河が冴えわたるばかり。「毛虫焼く記憶の器官ちりちりと」(銀河)繊細な少年時代の記憶に相違ない。今は、「一代の咎あれば言へ沙羅の花」(一代の咎)と禅問答のような境地に至るも、「魂ひとつ青野に還す血曼荼羅」(無神論)と凍土の闇をのぞかせる。毛細血管に包まれたような五十嵐秀彦の宇宙。さ迷ってもいいだろう。そう、「うららかに行方知れずとなりにけり」(鰐を飼ふ)だからだ。(吉田類)


 「刻降り積もる」(深谷雄大)においても俳句の五十嵐秀彦俳句鑑賞を丁寧に鑑賞されている。


「僅か十七音・十三字を以って、これだけのことが言える、俳句という詩形のリゴリズムを示す作である。」(深谷雄大)


 五十嵐秀彦氏による「あとがき」において「無量」について言及があるので記す。


 「無量」といえば仏教用語で「無限」というのとほぼ同じ意味のようですが、しかし私は特に仏教哲学に詳しいわけではありませんので、このふたつの句以上のものを知っているわけでも、言いたいわけでもありません。体の中から生まれてくる言葉たちをなんとか十七音に変換するだけで精一杯でした。一読してわかりにくい、イメージが彷徨うような句ばかりです。しかし、ああ、こんなにも私は「古代」と「現代」を往来したがっているのだ、こんなにも私は「この世」と「あの世」を往来したいのだ、今回そのことに気づかされたのであった。千年、二千年を遡っていくと、そこに未来があるのではないか。「この世」を見つめ続けると、そこに「あの世」の穴が見えるのではないか。言ってしまえば私の俳句はそんな具合に両界を往来しているように思うのでした。そして、言葉を使って何かを構築しようとするような句を作ってみたり、言葉それ自体を壊そうとしてみたり、なかなか定まらない十五年でありましたが、あえてそれはそのまま収載することとしました。


ひとひらは春の月面まで届く

 花のひとひらは、春の月面まで届きますよと解す。

 モノの本質を鷲掴みした俳句が随所に見受けられる。


うしろ手に菫隠してゐたりけり

 物語をうしろ手にクローズ・アップしたことで読み手に無量の物語を拡げている。


氷湖厚くみなぎるもののありけり

 氷湖の厚みより何かみなぎるものを感受する作者のあるがままの鷲掴み方は、ここで選びきれなかった全ての俳句にも感じた。


夕焚火やがて溶けゆく妻の餓ゑ

ほんたうのことは言はぬよ牡蠣啜る

折合ひのつかぬ暗部の四温光

約束のありかに芽吹くふきのたう

茄子漬の昨日に染まる箸の先

面倒なをとことをんな栗を剝く


 夕焼ける焚火の燻る中で妻の声にならない餓えも溶けてゆく。

 本当のことは言わないで牡蠣を啜り合う。

 人間にも自然にも折り合いの付かない暗部の四温光があるらしい。

 約束の在り処に芽吹く蕗の薹。

 茄子漬の「昨日」に染まるが効いた箸の先だ。

 面倒な男と女だけれどもその違いが豊かさなのかもしれない。

 早急に言葉に落とし込もうとするのは、野暮なもんだ。

 この日本列島のどの立ち位置に居てもそれぞれの折々の季節感や個々が感受するあるがままの生き様で詠めるように多様な豊かさを私は夢みてしまう。だから私たちは、もっともっともっと言葉にしがみついて生きていくのかもしれない。


共鳴句もいただきます。


うららかに行方知れずとなりにけり

クレヨンの青だけが無い大西日

夏の蝶地下水脈を知つてゐる

子の尾花われの尾花と歩みゆく

流星の砕けてふきのたうばかり

すがりつくいのちのかたち雪螢

豊饒の雪のほむらとなりにけり

白に白重ぬる雪の音を聴く

かなしみにふれんと雪の穴を掘る

なあ友よこの世だつて存外寒い

指切りをするたび失せし雪をんな

白シャツにくるむ鷗の屍かな

いたしかたなき夕凪をおくりけり


【新連載】新現代評論研究(第31回)各論:後藤よしみ、村山 恭子

 ★ー3高柳重信の新俳句詩法――「垂直の力学」として読み解く 9    後藤よしみ

第2部

新俳句詩法の妥当性の検証 6

後半:完成段階


3)『日本海軍』

この句集の位置づけ

 『日本海軍』は、高柳重信の新俳句詩法が完成段階へ到達した句集である。

 これまでの形成史を振り返ると、一本の明確な流れが見える。『前略十年』では個人的な実存の感情が萌芽し、『蕗子』『伯爵領』では形式の解体が進み、『罪囚植民地』では制度と死の質量が充填され、『遠耳父母』では血縁と神話の深層へ沈降し、『山海集』では日本の土地と古代語彙が核融合した。そして『日本海軍』では、それらすべてが「近代日本そのもの」へ向かって一挙に作動する。

 この句集の語彙は、「八島」「大兄」「長門」「松島」という日本国家のトポスと、「腹割いて」「杖下」という生々しい暴力の言霊が高密度で混合している。多行形式の空間は、戦死者の呪縛・国家の狂気・古代からの権力闘争という巨大な磁場によって、破裂寸前のまま固定された「立体の要塞」へと組織化されている。

 4原則はここでさらなる強度に達し、6モジュールも全方向へ展開する。「垂直の力学」が日本近代そのものへ突入した、この地点において、『前略十年』以来の全句業が一貫した形成史として完成する。

例句 

  夜をこめて

  哭く

  言霊の

  金剛よ  

【4原則の分析】

① 語彙の地質学

 この句の核心は「金剛」という一語にある。この言葉は、三つの異なる地層を同時に帯びている。

戦艦「金剛」 → 近代日本海軍の巨大な兵器・制度の象徴

仏教の「金剛」 → 最も硬く壊れないものを意味する仏教語

山岳信仰の「金剛」 → 山の霊性・土着的な神話の力

 一語の中に、制度・宗教・神話が同時に重なる。それが「言霊」という言葉と結びつくことで、戦艦という近代の兵器が、哭く霊へと変貌する。語彙の地質学は、この句において高密度な形で作動している。

② 倒語法

 「言霊の/金剛よ」という結合は、意味を固定させない。金剛が言霊なのか、言霊が金剛なのか——どちらとも読める。「戦争の犠牲への悲しみ」を直接語ることを拒み、哭く言霊という虚構の形に置き換える。センチメンタルな反戦の感情は徹底的に排除され、「近代日本という制度が内包する狂気」が、冷徹な構造として読者の前に突きつけられる。意味は宙吊りのままであるが、それによって逃げ場のない問いが生まれる。

③ 沈降の力学

 この句の四行を一行ずつ確認する。

夜をこめて ← 闇の時間の中に閉じ込められる

哭く ← 泣き声だけが垂直に落ちる

言霊の ← 声が霊的な存在へ変質する

金剛よ ← 戦艦の深海へ着地する

 各行の改行は、死の運命のカウントダウンとして機能している。「哭く」という一語だけの行が特に重要である。この短い一行が、意味を削ぎ落とした垂直の落下そのものを体現している。読む行為そのものが、泣き声の深みへ沈んでいく運動になる。

④ 深層の噴出

 この句から噴出するのは、「言葉そのものの慟哭」である。高度経済成長の中で日本人が忘却しようとしていた戦争の血、古代からの権力闘争の犠牲者——それらの「日本の歴史の暗黒の無意識」が、言霊となって多行の裂け目から噴出する。これは作者個人の悲しみではない。日本語という言語全体が、その底に積み重ねてきた死者たちの記憶が、声を上げている。

【6モジュールの分析】

 モジュールのこの句での働き  

①身体:「哭く」という言葉が、喉や胸から絞り出される肉体的苦痛として届く  

②音韻:「こ」「ご」という重低音の連打が、深海に沈む戦艦の重量感を生む  

③視覚:闇夜の海に沈む巨大戦艦という、暗く静かな映像が広がる  

④歴史:近代日本の海軍・太平洋戦争・国家の崩壊という歴史的事実が背景を覆う  

⑤心理:国家と自己が融合しながら同時に崩壊していく感覚  

⑥受容:反戦詩としても、日本語そのものへの挽歌としても読める

 この段階の6モジュールは、多行形式が作り出す垂直の落下運動に、鉄と血の物理的な質量を与える高圧の固定具として機能している。音韻モジュールが生む重低音の響きは、言葉をただの文字ではなく「物質」として脳内に届かせる。視覚・歴史・身体のモジュールが全方向へ展開し、「立体の詩学」が完全に作動している。

【まとめ:この句が示すもの】

 この句が示す重要なことは、一つの言葉が複数の地層を同時に震わせることで、「日本語の全歴史が一句の中で鳴り響く」という、新俳句詩法の完成形が実現していることである。

 「金剛」という一語は、戦艦でもあり、仏教語でもあり、山の霊でもある。「言霊」という言葉と結びつくことで、近代の兵器が死者の声へと変貌する。制度と神話と自然が一語の中で核融合する——これが語彙の地質学の到達点である。

また、「哭く」という一語だけの行が、この句全体の核心である。説明も修飾も一切ない。ただ「哭く」という動詞だけが、一行として空間に置かれる。この削ぎ落とされた言葉の孤独な存在感こそが、戦後日本が抱えてきた沈黙の重さを、もっとも雄弁に語っている。

 重信はこの句集において、日本という巨大な言語体そのものを、多行俳句の内部で解体し、沈降させ、再噴出させた。新俳句詩法は、その全過程を一貫して説明する理論である。


4)「日本海軍・補遺」

この句集の位置づけ

 「日本海軍・補遺」は、新俳句詩法が「完成後さらに純化された段階」を示す句群である。

 『日本海軍』では、歴史・国家・戦争という巨大な質量を持つ語彙が、多行形式の中で要塞化された。しかし「補遺」では、そこからさらに一段階進む。助詞も動詞も、言葉と言葉をつなぐ文法上の「糊」がすべて取り除かれ、名詞だけが空白の中に配置される。

なぜそのような形式を取るのか。答えは単純である。言葉が意味の糸でつながれているとき、読者はその糸を伝って意味を消費してしまう。しかし、糸が消えると名詞という「言葉の岩石」がそのままの質量で垂直に落下し、読者の脳に直撃する。これが「名詞による建築」である。

 変化はもう一点ある。読み方そのものが変わる。意味を読むのではなく、名詞と名詞の間の空白を、読者自身の感覚で埋めることが求められる。視覚・音韻・身体・歴史——6つのモジュールが個別にではなく、一瞬で同時にスパークする。これが「立体詩空間」の完成形である。

 形成史として整理すると、初期に感情が萌芽し、中期に形式が解体され、後期に歴史・神話の質量が充填された。そして「補遺」において、文法すら消去することで、言葉の純粋な核融合が起きる。これが新俳句詩法の最終到達点の一つである。

例句

  峯風

  絶景

  十六夜

  秘曲・百済琴

【4原則の分析】

① 語彙の地質学

 この句には、時代も文化も異なる四種類の言葉が同一空間に並べられている。

「峯風」 → 駆逐艦の名前であると同時に、山の頂を渡る自然の風

「十六夜」 → 古典和歌の世界・月の満ち欠けという時間の記憶

「百済琴」 → 古代朝鮮から日本へ伝わった弦楽器・渡来文化の古層

「秘曲」 → 芸能・呪術・失われた音楽

 軍事語彙・古典語彙・渡来文化の語彙・音楽の語彙が、説明なしに一つの空間へ投げ込まれる。これは「語彙の地質学」が最も高密度に達した形であり、日本・朝鮮・帝国という歴史の多層が一句の中で同時に震動する。

② 倒語法

 この句には「何がどうした」という文法的な主語も述語もない。しかし、だからこそ読者は語と語の間に自分で関係を生成し始める。

峯風が秘曲を運んでくる

十六夜が百済琴を照らしている

軍艦が古代の音楽へと変質していく

 意味は作者が語るのではなく、読者の内部で生まれる。これが倒語法の極限形態である。直言を拒むどころか、文法そのものを解体することで、意味の生成を完全に読者へ委ねている。

③ 沈降の力学

この句の四行を確認する。

峯風 ← 軍艦と自然が重なる

絶景 ← 視界が広く開かれる

十六夜 ← 月の時間へ引き込まれる

秘曲・百済琴 ← 古代の闇の底へ着地する

 一語ずつの切断が垂直の落下を作る。助詞がないため、各行の言葉はそれぞれの質量のまま下へ落ちる。読む行為そのものが、日本の歴史層を垂直にスクロールする体験になる。多行形式は「説明停止装置」として完全に機能しており、意味を止めることで沈降の速度が上がる。

④ 深層の噴出

 この句から最終的に立ち上がるのは、「滅びた文明の音が、軍艦の残響として夜に鳴っている」という感覚である。それは意味として理解されるのではなく、文明的な哀歌として身体に届く。百済琴という失われた楽器の音が、帝国の記憶と重なり、噴出する。これは作者の個人的な感情ではなく、日本語の底に眠っていた文明の記憶そのものの叫びである。

【6モジュールの分析】

 モジュールとこの句での働き  

①身体:百済琴の音が、説明を経ずに身体の内部へ直接響いてくる  

②音韻:「ぜ」「じゅ」「ひ」「きょく」という濁音の連なりが、古層の重量感と

暗さを生む。さらに「峯風(5)・絶景(4)・十六夜(5)・秘曲・百済琴

(4・5)」という形式の中に、五七五の崩れたリズムが幽霊のように潜ん

でいる  

③視覚:月光の下に浮かぶ軍艦という幽霊船のイメージが網膜に焼きつく  

④歴史:日本・朝鮮・帝国史が一句の中で交差する  

⑤心理:主体は完全に消え、語群だけが空間に浮遊する  

⑥受容:読む世代や立場によって「雅」「戦争」「植民地の記憶」など、届く響き

        がまったく異なる

 この段階の6モジュールは、同時に作動する。助詞がないからこそ、読者は行間を自分の感覚で埋めることを強制される。その瞬間に視覚・音韻・身体・歴史のモジュールが同時にスパークし、平坦な名詞の列が四次元の立体時空へと拡散する。

【まとめ:この句が示すもの】

 この句が示す重要なことは、文法を消去することが詩の破壊ではなく、詩の完成であるということである。

 助詞や動詞という「糊」が消えたとき、言葉はより自由になるのではなく、より重くなる。名詞という岩石が糸から解放されて、そのままの質量で垂直に落下する。「峯風」「十六夜」「百済琴」という言葉の岩石が、順番に積み重なるとき、軍事と古典と渡来文化という三つの歴史の地層が同時に崩落する。

 また、この句において重信が達成したのは、「日本海軍という制度の形式」を句の構造そのものに刻み込むことである。感情を許さず、冷徹で硬質な名詞の配列——これは海軍という国家の軍事システムの写し鏡である。内容だけでなく、形式そのものが意味を持つ。これが新俳句詩法の最終段階において実現した「内容と形式の完全な一致」である。

 初期の感情の萌芽から、中期の形式の解体、後期の質量の充填を経て、「補遺」における文法の消去へ——重信の全句業は一貫した必然の道筋として読むことができる。そして、この極限状態があるからこそ、後期の『山川蟬夫句集』における「一行への帰還」が、退却ではなくある種の統合として理解される。

(つづく)


★―7:藤木清子を読む19 / 村山 恭子 

19 昭和12年 ⑥


神戸山手街

青き窓日本のすだれ垂らせりき      京大俳句9月

 青き窓は洋館でしょう。夏の強い日差しを避け風を通すすだれがその窓にかかっています。「日本の」で竹や葦などの伝統的な素材を感じさせ、侘び寂びを表しています。また青い窓に垂れている様子に詩情をもたらします。

季語=すだれ(夏)


舗道灼けトーア・アパート花車に擬す   同上

 舗道が熱く焼けている夏。トーア・アパートの玄関や窓には花車のように花々があふれています。黒い舗道、夏の花ならではの鮮やかな色彩の対比が美しく、瑞々しい情景です。

季語=灼く(夏)


わがかげのまずし外人街区ゆく      同上

 我が影がまずしい。痩せ細り品格がないと嘆きながら、外人街区を行きます。外人街区

は豊かさの象徴で、まずしを一層際立たせています。

季語=無季


山手街

六月の山鬱然と背負へりき        天の川9月

 六月の草木がこんもりと茂っている山。勢いが盛んな様子とは裏腹に、気分がすぐれずふさぎこんでいる様子を背負っていると表現し、心の内を吐露しています。

季語=六月(夏)


日本に古り住み泰山木咲けり       同上

 日本に長く住んで来ました。米国から渡来した泰山木が大きな白い花を天に向かって広げています。古り住みと甘い芳香の瑞々しさが対比的です。

季語=泰山木の花(夏)


月涼しよきおもひ出をもたぬわれ     旗艦34号・10月

 昼の暑さが去り、夜空に輝く月の涼やかな情景。良い思い出を持たない私を卑下し、月を眺めながら過去を反芻しています。

季語=月涼し(夏)


幸福な人はつれなくうつくしき      同上

 幸福なひとはつれないけれど美しいと言っています。作者は幸福ではないと暗喩しますが、「つれなくうつくしき」の平仮名表記が優しく、読み終えた後に静寂が広がります。

季語=無季


きりぎりす昼が沈んでゆくおもひ    旗艦34号・10月、天の川10月

 体感で捉えた昼が沈んでゆく思い。きりぎりすは日常生活や人と密接に関りがあり、沈みゆく思いへの展開が巧みです。

季語=きりぎりす(秋)


冷房の窓の戸固きのぼる                      同上 

 冷房のかかっている窓が固く閉まっています。階段を登っていますが、そこには冷房が効いていないのでしょう。冷房の窓の内にいる人、階段を登る人。夏の暑さが読み取れます。

季語=冷房(夏)


少女の四肢ほそくかしこく冷房に     旗艦34号・10月 

 少女の細い四肢。かしこくから礼儀正しく揃えられている様子が伺えます。すらっと伸びた四肢は美しく、冷房の効いた室内でのますます涼しげな情景を表わしています。

季語=冷房(夏)


兵征けりしろき峰雲ゆるぎなく     旗艦34号・10月、天の川10月

 兵は征ってしまいました。白く大きな峰雲は力強く揺るぎない。出陣した兵は峰雲のように雄々しく気高い姿でした。兵の無事を願っています。

季語=峰雲(夏)


【連載】新現代評論研究:『天狼』つれづれ 第12回:「実作者の言葉」…「誓子の万葉揮毫歌碑」 米田恵子

 「天狼をよむ会」というのが2021年1月に発足し、現在も不定期ではあるが続いている。山口誓子記念館の私としては、本当に有意義な会になっている。戦後すぐの雑誌なので、まだまだ旧漢字や旧仮名遣いがあり、また、内容的にも何が書いてあるのか、正直言ってわからない評論があったりする。そんなとき、理解できた人の意見や説明を聞くと、ああそうかと納得できたりする。本当に貴重な会である。

 私は山口誓子記念館で誓子の資料や蔵書の管理・整理の仕事をしているが、たまに、誓子について問い合わせが来ることがある。完全に忘れていたことを思い出させてくれたりするが、それにしても誓子について知らないことが多い。しかし、速度は遅いけれど、ずっと謎だったことが解決することもある。今回は、「実作者の言葉」とは直接関係ないかもしれないが、何年も謎だったことが解決したということを紹介したい。

 『天狼』昭和26年4月号の「選後獨断」(誓子選の読者の投句欄「遠星集」の誓子の評)に述べられていることである。特選に入った八田木枯の句「夫婦となり空につめたき日が一つ」の評に、誓子は万葉集の「敷島の日本(やまと)の国に人二人ありとし念(おも)はば何か嗟(なげ)かむ」の和歌をあげている。八田木枯の句は、新婚の夫婦を詠んでいるが、誓子はこの「つめたき日」が「夫婦生活を規定し、夫婦の間の震撼たる雰囲気を傳へて来る。夫婦にはなったが、二人とも燃え立つこともなく、しづかで素っ気ない」と述べる。確かに、誓子と波津女の新婚時代からすると、考えられないような冷たさである。

 ところで、和歌のほうであるが、現在の解釈は、この国にあなたが二人いるのだと思えるなら、どうしてこれほど嘆くであろうか、という解釈のようである。しかし、以前は「人二人」を「私とあなた」ととり、「この国に私とあなたの二人しかいないと思えば、嘆くことなどあるはずがない」と「二人のために世界はあるの~」という熱い二人という解釈であったそうだ。だから、誓子もアツアツの二人と解釈し、新婚夫婦の冷たさはこの和歌と正反対だと述べる。(参考:『山の辺の歌碑をたずねて』犬養孝監修、タイムス、昭和48年)

 さて、和歌の解釈はおいて、この和歌は、誓子が揮毫した歌碑として、奈良の「山の辺の道」にある志(し)貴(き)御県座(みあがたにます)神社という小さな神社に建立されている。この神社は数仁天皇の磯城瑞籬宮(しきみづがきのみや)跡だそうである。誓子とこの神社とは関係がないようであるし、数仁天皇とこの和歌も関係がないようである。だから、なぜ誓子はこの和歌を揮毫したのか、ずっと疑問であった。当時の桜井市が桜井市長と桜井市出身の文芸評論家、保田與重郎氏を中心に心ある人々に記紀歌謡を楽しんでもらおうという意図から山の辺の道に有名な文人によって揮毫された歌碑を建立したということである。

 しかし、誓子はどうしてこの和歌を選んだのか、わからなかった。すでに揮毫の和歌は桜井市のほうで決まっていて書いたのかと想像するほかなかった。しかし、その和歌が『天狼』昭和26年4月号の「選後獨断」に載っていたのである。どうやらどんな和歌を揮毫するかは文人に任せられていたようだ。きっと、誓子もどんな和歌を選んだらいいか、悩んだことだろう。そこで、思い出したのが以前『天狼』に紹介した「磯城島の」和歌だったのだ。

 実に10年以上経ってやっとわかった。桜井市の担当者から言われるがままに揮毫したのではなく、以前興味を持っていたこの和歌を選び、揮毫したのである。長年の疑問が解けて嬉しくもあり、学芸員的な仕事もしている私にとって、ほっとしたものである。

 しかし、「天狼を読む会」の出席者の前でこのことを言うと、何が嬉しいの?という反応であった。俳句の揮毫ならまだしも歌碑の揮毫など、俳人や研究者には関心のないことであろうし、俳句や誓子に興味があっても、記紀歌謡には関心がないといえるかもしれない。八田木枯の夫婦の句のように「つめたき日が一つ」あることを感じてしまった。

【発行人補足】

 現在、山口誓子記念講演会として「誓子と三鬼」が開かれています。小林恭二氏『三鬼』(講談社)が話題となっています。ご参加ください。


【連載通信】ほたる通信 Ⅲ(73)  ふけとしこ

  ぶんぶん

猛暑とや酷暑とや掃除機をぶんぶん

ポップコーンに爆ぜぬ一粒秋暑し

重ね目を正せば紙に秋の影

ゆきあひの空や詐欺師のこゑの良き

鰭強し銀河の淵に棲む魚の

       ・・・

 フトモモを再び。

 ただし、今回のフトモモは「捕手の太腿」ではなく植物のフトモモのことである。漢字で書けば蒲桃。英名はrose apple。

 「フトモモ科よ」と説明すると、多くの人は「エーッ!」と言って笑い出す。これは「太腿」を連想してのことだと思う。私のアタマでも聞いた瞬間についこの漢字へ変換してしまうからとてもよく分かる。  

 フトモモと言われるとどんな物? となるが、蒲桃(ホトウ)とかローズアップルとか聞けば何となく食べられそう、美味しそう、と感じる。

 植物図鑑を見ているとフトモモ科という説明によく出合うのだが、私は長くフトモモ自体を知らなかった。

 図鑑やネットなどにその名が出てくる度に、どんな植物なのだろう? と思い、知りたいと思うようになった。

 ユーカリ・ブラシノキ・グアバ(バンジロウ)・ティーツリー・フェイジョア・ギンバイカ等々、フトモモ科に分類されている物は多い。そのどれもが樹形や樹高はさておき、草本ではなく木本である。

 更に共通するのは、その花である。ブラシノキ(牧野植物図鑑ではマキバブラシノキだったか)を思えば手っ取り早いが、とにかく、花の形を云々する前に長くて数の多い雄蕊が目立つのである。

 あやふやな記憶だが、どこかの植物園の温室で出合えた。それは大きな不愛想な木だった。花の時期ではなかったから、暗緑色の細長い葉ばかりが茂っていたのだが、これが、その本家本元のフトモモなのか……と見上げたのだった。

 後日落ち着いて調べてみたら、果樹の扱いになっていた。生食の他、ゼリーやジュース、ソースなどに加工されるのだという。そもそもは東南アジアやアメリカ、日本では沖縄などの熱帯地方で自生が見られ、栽培もされているとのことだ。加工品として出回っているのであれば、私も知らないままに口にしていたかも知れない。

 写真で見ると、赤くて艶のある綺麗な果実である。

 しかも芳香を放つという。そういうことならば、是非とも実のある時期に出合ってみたいものだ。

 仲間であるフェイジョアはよく知っている。花の特徴、例えるならば紅と白の絹の摘み細工のような美しさもあり、庭木にされていることも多い。

 実は熟れても灰緑色。楕円型で長径が4センチ程しかなく、目立つものでもないが、食べると何とも美味しい。とても爽やかな味である。

                               (2026・8)


【未来俳句・短期連載1】心身から考える未来俳句  横道誠

  吾輩は俳人ではない。名前はもうある。大阪で生まれ、京都で生きてることには見当がついている。文学研究者であり、自閉スペクトラム症など多くの問題の当事者である。「未来俳句宣言」と山根もなか氏の「未来俳句宣言に寄せて──「短律」という武器、あるいは二重露光にいて」を読んで、俳句の未来と同時に、俳句を受けとる吾輩の心身のことを思った。

 山根氏はあえて「身体」に焦点をあてている。そのほうが衝撃力は大きい。しかし吾輩は心身一元論者、あるいはむしろ心身一・五元論者なので、「心身」として考えたい。どんな形式ならどんな心身が息をしやすいのか、とはおもしろい問いだと考える。

 私事にわたるが、吾輩が海外でもっとも感動した場所のひとつとして、パリが挙げられる。凡庸な趣味だと非難されることは、甘んじて受けいれる。また以下の内容は、吾輩の『発達障害者が旅をすると世界はどう見えるのか──イスタンブールで青に溺れる』(文春文庫)のパリに関する記述と部分的に重なっていることをご寛恕いただきたい。

 ルーヴル美術館からコンコルド広場、シャンゼリゼ通り、エトワール凱旋門、さらに新凱旋門へと伸びる直線。エコール・ミリテール、シャン・ド・マルス、エッフェル塔、トロカデロへと伸びるもう一本の直線。それらを別の軸がつらぬく。

 建物が美しいだけではない。建物と建物の配列が美しい。

 自閉スペクトラム症者には、集めて並べることに強く惹かれる人が多い。吾輩も例外ではない。物を集め、書物を集め、知識を集め、経験を集めてきた。ひとつのものより、ものともののあいだに生まれる秩序を見つめてきた。パリはまさに、巨大な収集および配列として賞味にあたいした。

 以前、中学校の国語教科書のために十五句を選ぶならどうするか、と考える機会を持った。そのとき吾輩の脳裏にはパリが背景として展開した。


古池や蛙(かわず)飛びこむ水の音 松尾芭蕉

斧入れて香(か)におどろくや冬木立 与謝蕪村

をととひのへちまの水も取らざりき 正岡子規

赤い椿白い椿と落ちにけり 河東碧梧桐

分け入っても分け入っても青い山 種田山頭火

水枕ガバリと寒い海がある 西東三鬼

萬緑の中や吾子の歯生え初むる 中村草田男

炎天の遠き帆やわがこころの帆 山口誓子

草二本だけ生えてゐる 時間 富澤赤黄男

戦争が廊下の奥に立つてゐた 渡辺白泉

ゆるやかに着てひとと逢ふ蛍の夜 桂信子

彎曲し火傷し爆心地のマラソン 金子兜太

かぶとむし地球を損なわずに歩く 宇多喜代子

皿皿皿皿皿血皿皿皿皿 関悦史

起立礼着席青葉風過ぎた 神野紗希

 

 並びは俳人の生年順である。

 この十五句はいずれもそれ自体として、パリと何の関係も結んでいない。それでも吾輩には、十五句をとおして立ちあがる香気が、パリの美と等しいものに感じられた。

 芭蕉の水音は一点をうがつ。蕪村の斧は冬木立の内部から香をひらく。子規の句には、飲まれないままの水と戻らない時間が屹立する。碧梧桐の赤と白は、並んだまま落下する。山頭火は同じ言葉をつぶやきながら、深い山のなかへと進んでいく。

 そこから海、帆、歯、時間、戦争、蛍、爆心地、地球、血、青葉風へと広がる。

 五七五に収まる句もある。収まらない句もある。未来の俳句を考えるならば、もっと自由律は多いほうが良い選択だろうか。季語が句を支えることもあれば、語の反復、空白、漢字の形、散文的な長さ、命令のようなリズムが句を支えることもある。十五句は同じ器に入っていない。けれども並べるとひとつの街になる。

 短律に向かい、文法を削り、語と語の谷間を大きくする。富澤赤黄男の〈草二本だけ生えてゐる 時間〉では、空白が草と時間を隔て、つないでいる。この方向には強く惹かれる。他方で関悦史の〈皿皿皿皿皿血皿皿皿皿〉では、文字列が出来事と化す。神野紗希の〈起立礼着席青葉風過ぎた〉では、教室の規律を青葉風が一息に吹きとおる。

 形式はすでに音数だけのものではない。

 山根氏は、先ほど名指した文章で、定型を享受しにくい知覚を持つ者にとって、短律は己の知覚に合った新しい器になりうると述べている。吾輩はこの見方に賛同する。

 もちろん形式からの解放が、すべての心身にとって解放になるわけではない。しかし従来の形式が苦しい人はいる。定型の器に己の知覚を押しこめることで、呼吸しづらくなる人がいる。その一方で形式があるから安心して言葉を置ける人もいる。

 反復。順序。枠。数。

 吾輩のような自閉スペクトラム症者にとって、それらは拘束になることもあれば、不安定な世界を歩くための手すりになることもある。古い器を壊せば自由になる、と単純には言えない。器を集め、選べることから何かが始まる。

 五七五という器。

 自由律という器。

 短律という器。

 視覚による器。

 まだ名前のない器。

 心身が形式を生み、形式が心身を支える。その往復のなかに俳句がある。

 最後に吾輩の俳句を記しておこう。

 

地震かと貧乏ゆすりを友の言ふ 

俳句 春夏罰秋冬ついに五季 

青い海白い雲そして太陽そして


【横道誠(よこみち・まこと) 一九七九年、大阪市生まれ。京都府立大学文学部准教授、博士(文学)。専門は文学・当事者研究。著書に『みんな水の中』(医学書院)、『当事者対決! 心と体でケンカする』(頭木弘樹氏との共著、世界思想社)、『読書嫌いを覚醒させる至高のブックリスト』(ちくまプリマー新書)ほか多数。】

【未来俳句・短期連載2】新俳句宣言:坪内稔典氏の反論の吟味  ―文学はどこまで短くなることが出来るのか―  筑紫磐井

 ウエップ俳句152号で、「筑紫磐井の〈新俳句宣言〉にたいして」が特集された。ウエップ俳句15Ⅰ号で筑紫が執筆した「未来俳句宣言――俳句が芸術となるために」に対し、俳人121人に原稿依頼し、諾57、否58、無回答6であり、その回答諾者の発言をすべてまとめたものだ。回答諾の57人の内6割は否定的回答、4割が或る程度共感といったところか。


1.ウエップ俳句152号特集「筑紫磐井の〈新俳句宣言〉にたいして」特集

 そもそも、筑紫が「未来俳句宣言」を書いた理由を述べておきたい。今年度、現代俳句協会は会員が大幅な減少を示し、最盛期の9000人から4000人を切る状態となっている(これは他の2協会も同様な状況だ)。そうした中で会長・副会長を中心に改革委員会が設けられ近年にない真剣な議論が行われた。協会としては正しい判断だと思う。その中で、あるメンバーから、現俳協は「俳句自由」を理念にしているが、はたして減少している俳句人口の中で「俳句自由の理念」だけで俳人を呼び込めるかという疑問が出された。分かりやすく言えば「現代俳句協会の俳句はなにでもありです」で血が湧き肉が躍るだろうかという疑問なのだ。考えればこの問題は改革委員の一人一人が考えなければならず、一人一人が回答を提示すべきものだろう。そうした経緯から「未来俳句宣言」を書いたものだ。もちろん、上のアンケート結果から明らかなように、現俳協の内部でもこの宣言に反対している会員も多いが、談論風発が特色の現代俳句協会にあっては性急に何が正しいかの結論を出すことではなく、むしろ論議こそが活発化の源泉のはずである。その意味では現代俳句協会のなかのコップの中の嵐としての提言と考えていた。

 ウエップ俳句152号の特集で少し困ったのは、俳壇全体が未来俳句宣言に向かわねばならないか否かという反応を得たことだ。私の未来俳句宣言は、「現代俳句協会のための未来俳句宣言」(誤解を得ないように第一未来俳句宣言とも最近は言っている)であり、前衛俳句をピュアにした「我々は、過去に見たことのない風景を見たい」という姿勢を示す。しかし、俳句に対しては様々な考え方があり、現代俳句協会と対照的な日本伝統俳句協会は花鳥諷詠という理念を持っておりこれを醇化すれば別の未来俳句宣言が見える筈だ。ウエップ俳句153号では「第二未来俳句宣言」を執筆してみた。ここでは、「我々は、過去に見たことのない風景を見たい」ではなく、「如何に卓絶した本質的類想句を見出すか」が求められる。

 実は最後の俳句の協会である俳人協会にも未来俳句宣言が可能かを検討中である。うまくまとまれば俳人協会のための「第三未来俳句宣言」を提示してみたいが今のところなかなか難しい。なぜなら現代俳句協会の「前衛」、伝統俳句協会の「花鳥諷詠」に匹敵する俳人協会の理念がよく分からないからである。もしかして俳人協会に未来俳句宣言が不可能なら、俳人協会に未来はないということにもなりかねない。慎重に検討してみたい。


2.坪内稔典氏の批判

 この特集で坪内稔典氏は「盤井さん、なんだか変だよ。」を書かれているが、未来俳句宣言批判の中で問題を一番集約している意見と思えたのでこれを取り上げてみたい。批判者の論点がほぼ含まれると思うからである。

 その前に言っておくが、私の未来俳句宣言は2部構成となっている。「➀宣言に至る経緯」と「➁宣言集」である。

 「➀宣言に至る経緯」はなぜ個別の宣言が出されるかの背景説明であり、一種の総論であり、「俳句の歴史とは、子規の「新俳句」→新傾向→ホトトギス→新興俳句・人間探求派→社会性俳句→前衛俳句→閉塞の時代(前衛と伝統の固定化)であった。新しい時代の精神は常に前の時代の否定から生まれてきた。」という歴史認識と、「我々は、過去に見たことのない風景を見たい」という指針である。現代俳句協会の人々には、こうした歴史認識と方針を持ってほしいと考えている。ウエップ俳句152号の特集では現代俳句協会の人々はこの点について共感して頂いているようで安心している。

 「➁宣言集」は➀の経緯を踏まえてどれくらい刺激的で野心的な宣言が出るかのコンテストを募集している。❶【筑紫磐井の宣言】としたのは、もともと以下❷❸❹・・と続くことを期待しての提示である。一例としての私の宣言をあげてみたのであるが、袋だたきになることを覚悟している。しかし大事なのは現代俳句協会会員であれば、❶【筑紫磐井の宣言】に猛烈は反発した、別の❷❸❹が出て来るべきだろう。

     *

 坪内氏はまず次のように言う。


 「「新しい時代の精神は常に前の時代の否定から生まれてきた。」「我々は、過去に見たことのない風景を見たいのだ。」。俳句にかかわってのこうした筑紫盤井さんの発言に賛成です。」


 これは私の未来俳句宣言の内の「➀宣言に至る経緯」の部分についての評価である。坪内氏は現代俳句協会会員ではないが比較的近い立場にいた人であり、攝津幸彦、澤好摩と競い合い、その貢献に対して本年度の現代俳句大賞を受賞した先輩である。認識を共同していただけたことが分かり安心した。だが、


 「でも「ウェッブ」151号に出た「未来俳句宣言」には反対というか、勝手にどうぞ、という感想です。」


 これは私の未来俳句宣言の内の「②宣言集」――特に❶【筑紫磐井の宣言】についての評価である。


 「その理由はボクなりにはっきりしています。盤井さんが挙げている未来的な作品のほとんどに共感しないからです。「ある日快晴黒い真珠に比喩を磨き」(兜太)がいいですか。「麿、変?」(れおな)に感動しますか。

  藻ねむり

  そよ風、そよ死

  渾 煌く犠

 右は盤井さんの作品ですが、作品以前のメモとしかボクには見えません。一行が「四文字、ないし三文字で十分だ」という盤井さんの未来の俳句には賛同しません。」


 もちろん新しい俳句というのは、常に「勝手にどうぞ」というしかないのだ。虚子は、秋櫻子や人間探求派の俳句を「我等の俳句」ではないといって批判した。これは一種の「勝手にどうぞ」だろう。しかし一方で、虚子は「我等の俳句」ではないところで俳句が詠まれることを否定はしていない。富澤赤黄男の「蝶墜ちて大音響の結氷期」を「面白い処があるんぢゃないかといふ気もするね。草田男は理屈つぽい。『蝶墜ちて』は理屈がなくていゝね。」(拙著『虚子は戦後俳句をどう読んだか』参照)という。自らの制作原理と鑑賞原理は少しずれていた方がいいと思う。

 兜太やれおな、私の俳句等は認めれらないという多くの人もいることを否定しない。しかしそれは未来が解決すべき問題だと思う。

 問題は、そうした結論を出す評価基準についてはある程度客観的な議論をすることが可能と思う。れおなの「麿、変?」や私の「我と無」が作品以前のメモとしか見えないのであれば、およそあらゆる短律が価値が無いことになりかねない。

 れおなや筑紫の句が「作品以前のメモとしかボクには見えません」というなら、次の近現代の俳句はこの基準で評価すべきだろう。


咳をしてもひとり 尾崎放哉

月夜の葦が折れとる

分け入っても分け入っても青い山 種田山頭火

うしろすがたのしぐれてゆくか

陽へ病む 大橋裸木


 坪内基準でいえば「作品以前のメモとしかボクには見えません」と言わねばならないだろう。実は坪内氏は自由律俳句に対しては批判的だ(とはいえ『山頭火百句』を出したりしているのだが)。

 『モーロク俳句ますます盛ん』(岩波書店2009年)では近代俳句史として虚子から戦後までの俳句をわかりやすく解説してくれている。この中で自由律俳句も紹介しているのだが、かなり批判的だ。

 「定型句にない魅力を発揮したのは短律であった」と言いつつ、「放哉と山頭火という今日の人気俳人を生み出した自由律だが、実際はこのふたりのほかは、ほとんど忘れられている。」、「おそらく自由律は言葉の作品として自立することが困難になるだろう。」、「結局は定型による表現以上の魅力を引き出すことはできなかったのではないか。」という。最近の若い自由律作家住宅顕信の作品も放哉・山頭火の文体の模倣に過ぎない、という。

 もちろん、文学的評価を受けないでは作品は残らない。自由律の作品とてそうなのだが、それはいやになるほど存在する有季定型俳句もそうなのだ。放哉・山頭火以外すぐれた自由律作品がないというなら、自由律作品の中でなぜ放哉・山頭火だけが優れているのかも語らねばならない。なぜ、「定型句にない魅力を発揮したのは短律であった」にもかかわらずその可能性を探求してはいけないのだろうか。

 我々はいきあたりばっかりにしか名句と出会うことがないのだ。おそらく短律であれ、長律であれ、定型であれ、形式とは関係なく文学的名作があり得るということだと思う。短律も、長律も、定型も文学的な感興のきっかけにすぎず、その形式にのめり込めるということが大事だ。

 そもそも片言性が最もふさわしいのは短律にほかならないのではないか。「咳をしてもひとり」はまさに片言性そのものだ。坪内氏の片言性に私が共感を持っていたのもそうした理由だったかあらである。


3.坪内稔典氏のモーロク俳句宣言

 坪内氏の最近の過激な発言は『老いの俳句』(ウエップ2023年刊)でますます推し進められている。発端は、次の句である。


天の川わたるお多福豆一列 加藤楸邨


 坪内氏は「この句に私は電撃的と言ってよいくらいに感動したのである」と述べている。天の川にお多福豆一列とは、「常識を逸脱、或いは大きく超えている。これはモーロクして常識的脈絡を逸れたものの表現だ、と私は思った。」。片言俳句論から始まった稔典俳句からは、このモーロク俳句が導き出される必然性はある。私も共感するが、ただ私は、俳句における独自性として〈日本の詩学における西洋的論理主義の否定〉としてとらえなおしてみるべきだと思っている。「片言俳句論」は許容できるが、「モーロク俳句」はそのネーミングから誤っていると思われる。なぜならいわゆる坪内氏の「モーロク俳句」は年齢とは無関係に存在し得るからである。


あさきゆめみしはごまの花なのか    阿部完市

あるはんぶらつく移動祝日の晴ればれ  加藤郁乎

麿、変                高山れおな


 これを坪内氏なら「モーロク俳句」というのではないか。しかし彼らはモーロクしていない。まだ意欲満々で、意識的に反骨の塊で俳句を詠んでいるだけなのだ。

     *

 坪内氏の「モーロク俳句」を読むためには「坪内氏のモーロク俳句宣言」を想定した方がいいであろう。『老いの俳句』で坪内氏は次のように述べる。まさに「モーロク俳句宣言」である。


【坪内氏のモーロク俳句宣言】

「自分へ向かっての発言でもあるのだが、俳人、まして老人は、尋常はだめ、従順もだめ、古びてももちろんだめ。単純にいえば、ハチャメチャに言葉を使うべきなのだ。できるだろうか、そのような言葉使いが。権威とか気高い精神、あるいは悟りや諦念、そうしたものを破壊して乱雑や混迷や混沌の言葉に触れる。それができたら、もしかしたら老人も俳句を生かすかもしれない。


 ・できるだけ口語を使う。

 ・仮名遣いを現代仮名遣いにする。

 ・カタカナ語、流行語などを積極的に用いる。

 ・取り合わせで句を作る。


 これは私が自分に課している作り方。このような作り方を通して現在の流動する日本語

に触れたいのだが、実際はなかなか難しい。次はその試行の一句。

  この朱欒ギリシャの村の道端だ」


 このように述べている。「片言俳句論」以来論理は一貫している。しかし、その上で坪内氏は「お多福豆の句を何度も話題にしたが、モーロク俳句という見方は一向に広がらない。」「みなさん、大口を開いて笑うが、でも、笑うだけで終わってしまう。」「モーロク俳句の意義や可能性を言えば言うほど、仲間というか友達がいなくなるのだ。」と述べる。やはり過激な宣言者は常に寂しいのだ。

 このモーロク俳句宣言を私の宣言と比較してほしい。方向性はかなり違うが、言葉にこだわった宣言(ハチャメチャに言葉を使う)、年齢と関係のない宣言、俳壇からほとんど受け入れられず模倣者も現れないという点では非常によく似ている。


【筑紫磐井の未来俳句宣言】

「詩、とりわけ俳句は――

①一行があまりにも長い。四文字、ないし三文字で十分だ。文法は要らぬ、名詞・動詞だけで辛うじて伝達はできる。文語・詩語、誤字・誤用の駆使も一行を更に短くする。

②一行の中でたやすく(部分的)類想が発生する。だから全体の模倣だけでなく極微の模倣も否定せよ。 

③隣る二行は連想を結合する。行の谷間を極大にせよ、

④一行ですべてを述べ、全体の構想を断ち切ろう。偶然がいつか全体を語るはずだ。」


三、未来俳句宣言の最終の目的

  こう見れば、未来俳句宣言の最終目的が見える筈である。それは「文学はどこまで短くなることが出来るのか」である。ことは俳句をはるかに超えている。我々は、世界で最も短い詩(俳句・haiku)を通じて文学の根源にたどり着く入口に来ている。私たちが問うのは、極限まで短くなることにより文学は何を失うのか、何を獲得するのか、である。