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2018年11月23日金曜日

眠兎第1句集『御意』を読みたい 結び 『御意始末』とその広告 筑紫磐井


 BLOGと雑誌を組み合わせた時、こうした媒体誌でなければやれないことに挑戦してみたいと思った。その一つに〈壮大な句集特集〉がある。句集が刊行された時、俳壇特有の慣習で句集特集が行われるのが常だが、同人誌でも結社誌でも、せいぜい1人から数人の論者による批評でお茶を濁していることが多い。もちろん中には画期的な句集評もないわけではないが、一過性で終わっているものが多いような気もする。

 そこで「俳句新空間」では、執筆者数無制限、頁数無制約の句集評を載せる企画を行っている。このような企画の発端になったのは――厳密な句集評とは言えないが――〈赤い新撰・御中虫と西村麒麟〉がその始まりであった。〈曾根毅『花修』を読む〉54回から始まり、西村麒麟の句集評50回(①第一句集『鶉』を読む、②西村麒麟・北斗賞受賞作を読む、③第2句集『鴨』を読みたいの3部作)、〈眠兎第1句集『御意』を読みたい〉14回、〈麻乃第2句集『るん』を読みたい(現在連載中)〉と続いている。終了したものはアーカイブに搭載しているが、もっと広大な展開があってもいいはずだ。
 こうした特集に何の意味があるのか。一つは恵まれない句集著者(特に若い作家)に機会を与えることがある。俳句が読まれる機会というのは実はそう多くはない(高山れおなは、「俳句など誰も読んではいない」と宣言している)。そういう中で、特に一世一代の句集刊行にあたり、多くの人に読まれたいと思うのは無理からぬことだからだ。もう一つは、「量」は「質」を超えるのではないかという気がするからである。たった一人の優れた評論より、玉石混交であれ膨大な評論が存在することは、それなりの価値があると思うのだ。後世、平成の俳句を考えるときに巨大な句集評のビッグデータは何らかの参考になると思うのである。

 こんな期待に応えたのが、黄土眠兎編『御意始末』(明日の花舎発行、発売邑書林、定価税込463円+税、2018年11月16日刊)だ。BLOG俳句新空間を始め、様々な媒体に発表された『御意』評を掲載した。もちろん、「俳句新空間」以外の媒体もあるが、筆者も言っている通り「俳句新空間」が無ければ生まれなかった本である。こうした本に貢献できたことを喜びとする。
 余りにも当たり前のことだが、ここに掲げた執筆者は間違いなく『御意』を読んでいる。だから高山れおなの「俳句など誰も読んではいない」発言に対して、作者が行えるレジスタンスは、「俳句を何としても読ませる」戦術・戦略だ。作者ともども考えていきたい。

(BLOGでは、こうした「無限連載句集評」を今後も続けたいと思っている。若い作家で句集の準備をされている人は、発行人にご連絡いただきたい)

●黄土眠兎編『御意始末』

【執筆陣】
小川軽舟
藤原龍一郎 
栗原修二 
大丼さち子 
樫本由貴
川原風人
叶裕 
天宮風牙
仲田陽子
本多伸也
曾根毅
森本直樹
岡村知昭
久留島元 
三木基史
中山奈々
黒岩徳将
島田牙城
谷口智行

装画=柳本々々


『御意』覚え書き
平成三十年一月十七日 邑書林発行
著者、黄土眠兎の第一句集 全二百七十八句収録
本文は活版印刷
四六版変形(130×188mm)
上製継表紙、カバー・帯・飾扉付き
全百六十二頁 貼り奥付
限定五百部 番号入り
帯文を小川軽舟が執筆(本書所収)
また、帯の裏面に軽舟抄出の「集中十句」を掲載
著者による「あとがき」を付す
カバー装画は速水御舟「翆苔緑芝」四曲一雙の内左二曲 山種美術館蔵
造本は島田牙城
定価二千五百円プラス税

黄土眠兎 きづちみんと
千九百六十年兵庫県生まれ 武庫之荘在住
「鷹」同人「里」人 句集に「御意」がある

2018年10月12日金曜日

【新連載・黄土眠兎特集】眠兎第1句集『御意』を読みたい14 手札の中のモノ  黒岩徳将

雪柳水の流るる方に驛

 川沿いの駅を思う。流れはそこまで速くない。駅は多くの人生が浅く交差する場所だ。しかし空港や船着き場と比べるとせわしなく、どこか淡白でクールな印象を受ける。リクルートスーツを着こなせない就活生は、保育園帰りのかしましいママ友たちを見向きもしなかったりするだろう。この句はそんな駅を少しだけ遠くから望む。川の水はただただ流れに従っているだけで、川の中の石や魚を隠すこともない。そよそよときらめきながら吹かれる雪柳も、世界の他者には干渉しない。あるがままの風景を書きとることは、そのまま世界の肯定に繋がる。
 眠兎の句は口ずさみやすい。だから、市民生活の違和感の表出は韻律ではなく、物と物とのぶつかり合いによって達成される。

紙飛行機雛のまへを折り返す


 雛と紙飛行機という、並行に存在していた古いエンターテイメントが出会う。「過ぎる」ではなく、「折り返す」に構成の妙がある。雛の精神の気高さや、紙飛行機ごときでは近づけないのだという主人公のまなざしも背後にあるかもしれない。雛に速いものが通っても似合わないので紙飛行機のペラペラ感もあいまってきて楽しい。この句に比べると、隣の二句「雛の客箪笥をほめて帰りけり」「啓蟄や叩いてたたむ段ボール」はユーモアも連想も類型的である。

朝寝して鳥のことばが少しわかる
金魚田の金魚や泥に潜りたがる


 定型への意識を基本として、上六や下六のもたつきや逡巡を楽しむ。
 俳句らしく見える「パターン」も意識していそうだが、その意識は類型を免れるための意識である。「少し」は句集の中にこの句しかない。

Amazonも楽天も好き種物屋
菊人形肩より枯れてゆきにけり


 「好き」の口語の弾んでゆく感じも、文語のどっしりした構えも眠兎は好む。

うかうかとジャグジーにゐる春の暮
さばさばと茅の輪くぐりてゆきにけり
やすやすとまんぷく食堂に西日
たつぷりと落葉踏みたる影法師


 副詞で始まる句は四句あった。茅の輪の句と西日の句が、素材・季語に対して裏切りがあり、この裏切りが鋭くて爽快で心地よい。茅の輪の句は、ありがたがって茅の輪をくぐる人もいるだろうに、そうではない人に注目したところが俳句らしい。まんぷく食堂は三重県の近鉄宇治山田駅から徒歩一分の距離にあるB級グルメ「唐揚げ丼」で有名な店だが、そんなことを知らなくてもまんぷく食堂にさしかかるオレンジ色の光線が思い浮かぶ。ここで「夕焼」ではなく「西日」なのは、プラスではなくマイナスイメージも「まんぷく」に織り交ぜたかったのであろう。「西日」の方が「やすやすと」に響く。飽食の時代、エクスタシーである「食」を終えるときに立ち上がる感情は「太ることによる後悔」だけではなく、人間の業をも思わせる。

大聖堂までの原っぱ日脚伸ぶ
バレンタインデー軽量の傘ひらく
カッパ巻きしんこ巻春惜しみけり
峰雲や輓馬寄り来る診療所
出典者D冬空に本売りぬ
歳晩や尻ポケットのドル紙幣


ひと揺れに舟出でゆけり春の虹
丸洗ひされ猫の子は家猫に
雛の家綺麗にパンを焦がしけり
春風や開港を待つ滑走路


 即物的描写に徹した句と、機智・把握を開陳している句のバランスは六対四といったところだろうか。「モノ俳句は素材で勝負」「いや素材だけではだめだ。構成・何に詩を感じたかの提示が必要だ」という二つの価値観を行き来させている。


秋深しギリシャ数字の置時計

 つまり、手札がいろいろあるので飽きない。

2018年9月28日金曜日

【新連載・黄土眠兎特集】眠兎第1句集『御意』を読みたい13 敵 黄土眠兎句集『御意』を読む 中山奈々

 バイトの帰りにチョコアイスキャンデーを買う。店を出た瞬間に袋から出し、嚙み付く。しゃり。色も匂いもチョコレートなのだけど、濾していったら、どうせ水なんだろう。しゃり。あまりにはやく嚙りすぎて、アイスが悪態をつく頰を強張らせる。しゃり。寒い。まだ梅雨入り宣言はされていないが、雨上がりの冷ややかさが梅雨のようである。その寒さ血の気が引く。どこかに意識が飛んでいくようだ。目に映るのは、ちらほら咲きはじめた紫陽花。
 かつてシーボルトは、紫陽花を自国に持ち帰るときに妻の名前をつけた。淡い記憶の中の、儚い思い。はっきりしない色合いが紫陽花のよいところなのだ。桜にしてもそうだ。薄いピンクの、あるいは白の、咲いてはすぐに散ってしまう姿に世の儚さを馳せずにはいられない。
 なんてことは、全然考えたこともない。そんな現実主義にして実力主義のなかに生きた男がいる。
 場所は大坂の適塾。身分制度が確固なものとしてあった江戸時代において、実力主義の世界を展開する。蘭方医・緒方洪庵の塾だが、その講義内容は多岐に渡った。たった一冊の蘭和辞書「ヅーフ・ハルマ」を置いた通称・ヅーフ部屋の灯は絶えることがなかったという。切磋琢磨、といえば聞こえがいい。自分が、この横に座る男よりも上に上がらなければ、安眠も出来ない。そう、塾生の寝床の位置は成績で決まる。上位は部屋奥で堂々と眠ることができる。下位は部屋の入り口―階段に繋がる板の間―で、厠へ行く者たちに踏まれ、寝相が悪ければ、蒲田行進曲ばりに階段を転げ落ちる。〈天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず、といへり。〉しかし登っていくものも落ちていくものもあるわけである。

 櫻蘂降る適塾の虫籠窓     黄土眠兎

 桜の花弁のちりは潔いが、あとからゆったりと降る桜蘂。スローモーションのなかにも鋭さはある。適塾の柱には無数の刀傷がある。儚さを憂いている場合ではない。勉学への果敢さを見せていかなければ。そのあと花は葉に変わり、万緑のもとにたくさんの蟬をもって栄えるのである。
 蟬の命だって儚いって? 次の年も次の年も湧いて出てくるだろう。日本という大本がしっかりしていれば、蟬も安心して出てこれる。
 黄土眠兎句集『御意』にはお金の俳句が多いといわれる。掲句も見ようによったらお金なのだ。だって、適塾第十代塾長は誰であろう、一万円の肖像、福沢諭吉そのひとである。ちなみにわたしのGmailのアドレスは金が舞い込むかと思い、【tekijyukujyukutyou】としているが、金とは縁遠い。

 緑蔭によつてたかつて秘密基地

 政治は見えにくい。だから俳句をやっているひとたちのなかにも政治的なものがあってもはっきり見えない。それは緑蔭でやっているからか。目を凝らしたら見えるのか。しかし。飛蚊症激しいこの近眼には緑蔭よりも、遠くの山の緑がよいらしい。その山にはビッグフッドがいるかもしれない。その方が楽しい。仲間を作ることもいいが、ライバルを作ってみるのもいい。
敵。
敵。
敵。
 黄土眠兎は充分な敵である。

2018年8月25日土曜日

【新連載・黄土眠兎特集】眠兎第1句集『御意』を読みたい12 仲間たちへ  三木基史

御降や靑竹に汲む京の酒
鳥の巣や図面にはなき隱し部屋


  藤田湘子は一流志向だった。当然のごとく「鷹」は一流の俳句結社でなければならなかった。「鷹」の目指す一流の俳句結社とはどのようなものか。そのヒントを小川軽舟の言葉の中に求めた。すると、二つの手掛かりを見つけた。韻律として格調の高い作品を生み出す作者を育てる場であること、そして結社として幅広い許容力を持つことだ。

まだ熱き灰の上にも雪降れり
アマリリス御意とメールを返しおく
押し黙る子を抱きしめよ月今宵
大年の花屋は水を流しけり


 P.F.ドラッカーのマネジメント理論ではパラレルキャリアの重要性が説かれている。個人が特定の組織に過度に依存せず、組織外でも活動すること(パラレルキャリア)によって、そこで得た経験が個人の人生を豊かにし、結果的に主たる組織にも還元される効果があるのだとか。黄土眠兎にとって「里」というやんちゃな遊び場はパラレルキャリアそのもの。そんな彼女の存在は「鷹」の許容範囲を広げ、一流の結社たらしめることに僅かでも寄与しているのではないだろうか。

紙漉の男の名刺厚きかな
昨日より足跡多き結氷湖
オリーブの花咲く店のAランチ
蜘蛛の囲にかかつてばかりゐる人よ
わが影に西瓜の種を吐き捨てぬ


 著者はとても身近な仲間たちを読者と想定して「御意」をまとめている。師の選を追求して極めるほどの気負いは無さそうだ。俳句創作の心構えのひとつでもある「ものをよく見る姿勢」というよりも、小さなことが気になって(見つけて)しまう損な性格のように感じられた。これは気配りの延長。

髪洗ふ今日は根つから楽天家
大陸横断鉄道渾身の星月夜
あつぱれや古道具屋の熊の皮
でこぽんのでこぽん頭から剝きぬ


 句集前半の作品からどことなく漂う危うさは、後半に向けて力強く変化してゆく。紡ぎだす言葉は月曜日の朝の気だるさも金曜日の夜の解放感も内包しながら、定型の中で縦横無尽に飛び跳ねる楽しさを覚えた兎。どのような表現も、どのようなこだわりも受け入れてくれる仲間たちへの「御意」なのだ。その他の共鳴句も挙げておきたい。

初刷は十のニュースを以て足る
子の息を吸ふ窓ガラス冬満月
冬帽を被り棺の底なりき
紙飛行機雛のまへを折り返す
かごめかごめ櫻吹雪が人さらふ
菜の花が八百屋に咲いてしまいけり
丸洗ひされ猫の子は家猫に
夏兆す木工ボンド透明に
さばさばと芽の輪潜りてゆきにけり
くわりんの実まだ少年に拾はれず
船旅に地酒一本鬼貫忌
円窓に月を呼び込むための椅子


2018年8月10日金曜日

【新連載・黄土眠兎特集】眠兎第1句集『御意』を読みたい11  案外な 黄土眠兎句集『御意』を読む  久留島 元

 黄土眠兎の次のような句は、現代を颯爽と生きる快活な作者像を想像させ、読者に心地よい読後感を与える。

 香辛料多き俎始かな
 啓蟄や叩いてたたむ段ボール
 大陸のにほひの紙幣鳥渡る
 大陸横断鉄道渾身の星月夜
 コンビニのおでん水道水を足す


 ほかに、小川軽舟氏も集中十句として帯文にあげる「あつぱれや古道具屋の熊の皮」や、いささか理屈めいた句だが「結論は先に書くべし冬木の芽」「つきあつてやる食卓のばんぺいゆ」など、思い切りの良い文体は作者の美質のひとつ。それが現代的な生活実感と結びついたり、狭い日本を飛び出して「大陸」の風景に触れたりするとき、既知の季語大系からはみ出した世界が広がる。
 ところでこの作者、「立春の会費袋を回しゆく」「両替の紙幣に輪ゴム囀れり」など繰り返し金銭に言及する。計算にまつわる「ご破算に整ふ指や夕月夜」などもあって、経理関係に目配りする、細心な性格にみえる。しかし同時にややおおざっぱなところも感じられる。
 より正確には、おおざっぱな句のほうに魅力があるのではないか、と感じるのだ。上掲の句のほかに「丸洗ひされ猫の子は家猫に」も「たつぷりと落ち葉踏みたる影法師」も、細かな写生描写というより作者の実感とダイレクトに季節感をとりあわせ、その展開に魅力がある。突き詰めた緊張感より、つきぬけた開放感につながる句がいい。
 一方で「髪洗ふ今日は根つから楽天家」は季語の含意にとどまるし、「不老死の水に蓋あり青き踏む」の略語のように、やや雑な言葉遣いも目につく。言葉感覚には案外おおざっぱなところがあって、開放感と表裏の関係にあるのかとも想像する。
おそらく句集タイトルにもとられた

 アマリリス御意とメールを返しおく

にただようちょっと気取ったユーモア(で一句をものしてしまう茶目気と洒落気)も、多少のおおざっぱさを含んだ開放的な魅力の一部なのだろう。
その感覚とつながっているのか、作者には

 雪原に掘らんか忘れられし影
 わが影に西瓜の種を吐き捨てぬ


のようなぼんやりとした対象をとらえた不思議な句が散見される。
実は、私が集中もっとも印象的だったのは

  むささびの領に入りけりかの詐欺師

である。
 「むささびの領」というおおざっぱな空間把握から、現代的というか現実的というか「詐欺師」に結実させる意外性。私が読み取れなかっただけで案外単純な文脈があるのかもしれないが、上句で民話的な世界観を期待させられただけに、予想外のオチがついたという気がした。このあたりの抜け感、この作者の魅力ではないだろうか。


2018年7月27日金曜日

【新連載・黄土眠兎特集】眠兎第1句集『御意』を読みたい10 出会うべくして――『御意』を詞書から探る 岡村知昭

 「極めて個人的な印象です」との断り書きをした上で恥ずかしながらここに記すのだが、私にはいわゆる「詞書」が付けられた一句に対しての若干の苦手意識があるようなのである。特に大きな理由があって、というものではないのだが、強いて挙げるとしたら、一句の前の詞書の存在によって、読み手である自分が一句に対して向かい合おうとするときに、作者から「このように読んでください」との制限が課されてしまったかのように思い込んでしまっているから、なのかもしれない。もちろん、詞書の存在が一句により広がりを産み、その一句が一冊の句集のなかで他の一句との響き合いをもたらし、句集にさらなる広がりをもたらしてくれるということも重々わかってはいるので、この『御意』に収められた詞書付きの作品に対しても「一句に広がりをもたらしているか」「一冊に広がりをもたらしてくれるのか」との目線をもって向かい合っていきたいのである。なぜ、このようなことを長々と書いてしまうのかといえば、この『御意』においては、詞書の付いた作品が五句あるのだが、それぞれの作品に付けられた詞書の中身を見ていくと、この句集の全体へとつながるものが見えてくるような印象を受けるからなのである。

  優衣へ
 ふらここに立ちて冒険始まりぬ
  彩子へ
 断髪の少女夏野の扉を開く
  達哉へ
 小鳥來ぬ少年の棋譜読みたれば


 この三句に登場する「優衣」「彩子」「達哉」の三人、おそらくは子どもで、作者をはじめとした大人たちからの愛情をいっぱいに浴びていて、といった具合にひとまずは受け取るのだが、もし「優衣」「彩子」「達哉」の詞書がなかったら、この三人を子どもと受け取っただろうか、との気持ちにもなる。ぶらんこに立ち乗りする「優衣」をまぶしく見守っているのが友達であっても、棋譜を読んでいる「達哉」を見つめているのが別の少年である可能性だってないわけではない。
 しかし、作者はこの三句ではあくまでも、一句の詞書に三人の名前を付けることにこだわる姿勢を崩さない。それはこの三人に対して寄せる想いの深さの表れから来るものなのだろうが、誰かへの想いではなく「優衣」「彩子」「達哉」への想いであると確かに記しておかなければ成りたたない、との確信の固さも、それぞれの詞書からは浮かび上がってくる。そういえば、一読したときにはこの「優衣」「彩子」「達哉」の三人は作者の身内とか近所の誰か撮った身近にいる子供たち、と思い込んでいたのだが、この印象すらも、この三句に付けられた詞書からもたらしたものなのかもしれないのだ。いまここにいる愛おしい存在への想いの深さは、詞書を通じてよりはっきりと伝わってくるのである。

   阪神淡路大震災
  まだ熱き灰の上にも雪降れり
   父死す
  白木槿身のうちに星灯しけり


 この二句では、句に付けられたそれぞれの詞書が、自らが抱え込んでしまった死者への鎮魂や悲しみといった感情を、一句により深く刻み込む役割を担っている。
 「まだ熱き」の句では、もし詞書がなかったとしたら「阪神大震災」ではなく、東日本大震災を詠んだ一句としても通用したのかもしれない。「雪降れり」は東北の被災地に降った三月の雪になったのかもしれない。だが詞書が付されたことによって、自らが目の当たりにした「阪神大震災」への想いが、あの日「熱き灰」の一部となってしまったのかもしれない、との想いと、時が経つにつれて薄れてしまいそうになる記憶に対して抗おうとする気持ちをともなって、「阪神大震災」を詠んだ一句として読み手を導いてくる。
 一方、「白木槿」の句はこのあとの「風花や父の匂ひの牧師館」と合わせて、亡き父への想いにあふれた作品であるが、亡くなった父の身体が「星灯し」ている、と捉えたのは、これからはじまる父の不在という現実の大きさを、懸命に受け止めようとしているかのようである。身のうちに輝く星と、白木槿の白の取り合わせのまぶしさは、自らの悲しみの深さをより際立たせるために選び取ったのかもしれず、それを受け止めるには「父死す」の詞書はどうしても欠かせなかったのだろう。逆に「父の匂ひ」の句で詞書が付けられなかったのは「父」がはっきり登場するからだけではなく、父の死を受け止めた時間の経過を、自らの身のうちに感じ取ったからなのかもしれない。作者にとって「阪神大震災」の記憶をつなぎとめようとする姿勢と、父の死への溢れるばかりの哀しみとは、もうここにいない、もう会うことのない人たちへの哀しみと慈しみに満ちているのだ。
 一冊の句集に収められた詞書にこだわりすぎたかもしれない、という気持ちは正直あるのだが、しかし、こだわってみてきたからこそ見えてきた『御意』の側面は確かにある。いまここにいるいとけなき者への愛情、肉親や巨大災害の犠牲者といった、すでにこの世のものではなくなってしまった人たちへの哀しみ。このふたつの想いの底に流れているのは、いまここにある存在を慈しもうとする、ひとりの女性の姿ではないか、それこそが『御意』という句集なのではないか、という風に、この一冊を読めば読むほどに感じずにはいられなくなっているのが、只今の個人的な印象なのである。

  生前の指冷たかり紙漉女
  大寒の星の匂ひを嗅ぎにゆく
  銀行の金庫に育つ余寒かな
  朝寝して鳥のことばがすこしわかる
  カッパ卷きしんこ卷春惜しみけり
  アマリリス御意とメールを返しおく
  リアス式海岸に水打ちにけり
  蜘蛛の囲いにかかつてばかりゐる人よ
  一人唄ふ國歌はさびし稻光
  薄紅葉記念写真に鳩がゐる


 印象に残っている句をこうやって挙げてみると、どの作品もモノや人との出会いを喜び、「紙漉女」であれ、「リアス式海岸」であれ、対象に対しての慈しみの深さを感じずにはいられない。そして、作者にとっての喜ばしい出会いの数々をもたらしてくれたのは、まぎれもなく俳句との出会いである。俳句との出会い、俳句を通じての出会いによって生まれた、この『御意』という句集。詞書のある作品は五句なのだが、もしかしたら、どの作品においても、こんな隠れた詞書が付されているのかもしれないと思ってしまうのだ、「ここで出会えて、うれしい」。

2018年7月6日金曜日

【新連載・黄土眠兎特集】眠兎第1句集『御意』を読みたい9  北京ダックまでは前菜花氷  森本直樹


  北京ダックまでは前菜花氷

 一読して思わず笑ってしまった。北京ダックが出されるまでにいくつもの料理を食べた。そのなかに前菜ではない品も混じっていただろう。しかし、北京ダックが来るや、それらの品は過去のものになり、前菜と同じ扱いになってしまう。季語とも相まって、北京ダックから特別な物という感じが伝わってくる。そして北京ダックを、それこそ目を光らせながら、見詰める人物の姿や人柄も浮かびあがってくる。
 『御意』の中には、この句のように食べ物を詠んだ面白い句が幾つもある。

  啓蟄をさつとゆがきて畑のもの
  カッパ巻しんこ巻春惜しみけり
  朝涼や旅の終はりのハムエッグ


 新鮮な畑のものをさっとゆがいて、いただく。啓蟄との取り合わせが楽しく、地面からぽんぽんと山菜や野菜などが飛び出している姿も想像した。二句目は、安価な巻物の代表格と季語との取り合わせだが、噛みしめるたびに鳴る力強い音が春が終わってやってくる夏のイメージに繋がって面白い。三句目、旅館の朝食では、火を通しすぎてややぱさっとしたハムエッグが高確率で出てくる気がする。家でも簡単に作れるものなのに、なぜか印象に残ったのは旅の終わりの朝食だからか。
 食べ物の句ばかりを取り上げたが、他にも面白い句はたくさんある。

  魚が氷に上がりて貯金増えにけり

 おかしみがある句で好きだ。この増えた貯金も微々たるものかもしれない。しかし、いずれ氷が解けるように、気が付けば魚はどこかにいってしまうように、この貯金も消えて行ってしまうのかもしれない。

  金魚田の金魚や泥に潜りたがる


 水槽の中や祭りの出店で泳ぐ姿しか見たことがない人間にとっては非常に驚きのある句だった。吟行などで、実際にその姿を見なければ作れない力強さがある。

  リアス式海岸に水打ちにけり


 海辺での打ち水の景だろうがこう書かれると、神が波という形でリアス式海岸に打ち水をしているいようにも見えてくる。現実から、どこか、神話のような世界に飛躍する。

  くわりんの実まだ少年に拾はれず

 確かに、少年は落ちているものをよく拾いたがることを考える時、公園などに落ちるかりんの実にとって最も身近な人間は少年かもしれない。拾われないかりんの実に思いを寄せるときのかすかな孤独感が伝わってくる。
 観察の句が多いが、時に発見の力強さが見え、また、虚構の世界との繋がりも見え。一句一句の着地点が非常に多彩だと感じた。

  結論は先に書くべし冬木の芽


 『御意』という句集一冊を通して、書くこと。あるいは俳句を詠むということに一本の筋を通し続けようとする眠兎さんの姿が立ち上がってきた。

2018年6月22日金曜日

【新連載・黄土眠兎特集】眠兎第1句集『御意』を読みたい8 私の声が言葉の声であること  曾根 毅

比叡山には九十日間、不眠不休で念仏しながら歩き続ける行があるのだそうだ。
この念仏に祈願や感謝の思いはない。
意味のある念仏であれば、三日と唱えつづけられるものではないらしい。六十日を過ぎたころから、己という主体を失い、声を発してはいるものの、無為、無心、無我の沈黙が発する念仏になってくるのだという。
背景や私心によらず無心で対象物に向かうとき、俳句型式は特に普遍性をもってその機能を発揮するのではないかと考えている。

化身なるべし熊野路の初鴉
化身とは、衆生救済のため神仏が形を変えて、この世に現れること。救いを求める願望や希望の視点がある。しかし、ここでは表層的な意味の展開として読むよりも、神々しい何ものかが変化するときの力を感受したい。「化身なるべし」の語気は、上五に収まり切らず、七音に託された溢れるエネルギーとして迫ってくる。八咫烏や熊野に纏わる歴史や街道の奥行をもってそれは具現化され、初鴉の精気として昇華する。

初刷は十のニュースを以って足る

十のニュースがどのような内容なのかがわからない、といったところに捉まってしまうと、この句は味わいにくい。
初刷りにかかわる状況と時間変化、それを拡大して捉える視点。そこに込められた平穏への願いや憧れは、元日の静かな時の流れ、冷たい空気へと集約されてゆく。

子の息を吸ふ窓ガラス冬満月
母性愛といえば、親が持つ子に対する本能的な愛情。それは無償の愛で、子にとっても受け止めて十分幸せなものであると思いたい。しかし、そうだろうか。想いの勝る自己愛ということもあるだろう。窓ガラスを通して見る冬満月に、通じ得ないがそれを見守っていたいという想いが感じられる。しかし月の側から見れば、無償の愛も自己愛も、ほんの些細な角度の違いでしかないのかもしれない。

ものの芽の一つに卓のヒヤシンス

卓上のヒヤシンスが、屋外のものの芽と通じている瑞々しい生命感覚。

ひと驛を歩いて帰る櫻かな
仕事帰りなどを連想するが、桜が咲くころの一日の終わりの気分が、省略のうちに余すところなく表れている。

一日は案外長しつくづくし
ゆふぐれはもの刻む音夏深し
甘え鳴く鹿来てをりぬ膝頭

和歌や歴史のイメージを織り交ぜた、奥行きのある時間空間が静かに広がる。

幸運は静かに来るよ冬菫
枯山の音とは手折る枝のこと

二句とも優しい囁きとして響いてくるが、人に向けられたものでないような、人声でないような感じもある。
冬菫も枯山もどこか限定的でない場所、無との境界線上にあるのではないか。


2018年6月8日金曜日

【新連載・黄土眠兎特集】眠兎第1句集『御意』を読みたい7  重なる日常と不思議  本多伸也

 『御意』は不思議な句集だ。私たちが生きている世界と重なりながら日常とは別の様相を帯びる、信仰をはじめとする人知を超えたものが多く詠み込まれている。それは時には重く、時にはさらりと句にされ、読み手は翻弄されながらも、その不思議な世界へと足を踏み入れていくのである。

 御降や靑竹に汲む京の酒

 冒頭の一句である。酒が注がれているのは切ったばかりの青々とした竹。清冽な香りとともに喉に通せば、酒を生んだ水、竹を育んだ土の恩恵を感じる。それは京という土地の恩恵なのだ。長くこの国の都としてあったこの土地が感じさせる神秘は他のそれとは一線を画する。同じ雨であっても正月に降る雨が特別であるように。古来より神と人を結ぶものである酒、そして京という特別な場所。それを詠み込んだこの句が冒頭に置かれることによって読者は涼やかにして不思議な句の数々が待つ世界へと導かれるのである。巧みな舞台設定であり、その後の句の世界にも影響を与えている。

 朝寝して鳥のことばが少しわかる
 なまはげが説教されてゐたりけり


 朝寝と鳥語とは全く関係ない。しかし、この句はなんとなくそんなものかもしれないという気にさせる。
 いつもは説教(というより恫喝か)する立場のなまはげ。ここでは逆に説教されている。
 どちらもおかしみのある句だが、これらの句のおもしろさがすんなりと入ってくるのは、日本人の信仰が果たしている役割が大きいだろう。なまはげは言わずもがなだが、鳥語を解するといえば民話の「ききみみずきん」を思い出す。ききみみずきんは信心深い若者に観音様が与えたものであり、やはり信仰と関わりがある。

 目つむるだけの参拝夏衣
 六道詣自転車で乗り付けて


 出店なども出る祭。そぞろ歩いているだけでも楽しいものである。その雰囲気を楽しみに赴いていれば参拝は重要視されるものではないが、それでも無視はしない。軽いスタンスの中にも神仏への敬意はちゃんと感じられる。
 「乗り付けて」がおかしい六道詣。ちょっと大雑把でも先祖の霊はしっかり迎えに行く。
 どちらも特別信心深いわけではないが、さりとて信仰から離れてしまうわけでもない。現代らしさが好ましく詠み込まれている。

 かごめかごめ櫻吹雪が人さらふ
 十数え鬼となる子や落葉焚


 いずれも子どもの遊びが詠まれたものだが、この2句からは尋常ならざるものが迫ってくる。
 「かごめかごめ」の曲調は決して明るいものではない。詞も謎めいていて不気味さがある。そこに絶え間なく降ってくる桜花。美しいだけにそれは呪力を帯びる。人をさらっていってしまうほどに。
 次の句はかくれんぼか鬼ごっこだろうが、この子がなったのは遊びとしての「鬼」だけなのだろうかと、ふと思ってしまう雰囲気を持っている。焚火はどのような影を映しているのか。

 まだ熱き灰の上にも雪降れり

 表立って信仰などを掲げているわけではない。「まだ熱き灰」とは割り切ることのできぬ震災への思いも含んでいるであろう。様々なものを白く覆う雪が降っても、それは容易に隠れてしまうものではない。それでも、震災で傷ついたすべてのものが少しでも安らかであってほしいという祈りが感じられる。
 
 信仰は口つく祈草の花

 祈りといえば集の中で最も印象深かったこの句が浮かんでくる。普段は自分の信仰などを意識することはない。何かに祈ることも。そんな日本人は多いだろう。しかし、自分や近しい人が危機に見舞われたとき、そしてそこから救われたとき、祈りの言葉が口をつく。それこそ人知を超えた大いなるものへの畏敬の気持ちの表れであり、原初の信仰の姿ではないだろうか。春が来れば数多の草が花を咲かせるように、それは自然なことである。信仰とはそのように私たちの心の深い部分に寄り添い、意識せずとも自然に存在しているものなのかもしれない。

 『御意』の魅力はここまで挙げてきたような人知を超えた世界とつながるような句ばかりではない。日常の世界を詠み込んだ佳句も多く収録されている。

 啓蟄や叩いてたたむ段ボール
 丸洗ひされ猫の子は家猫に
 ゆふぐれはもの刻む音夏深し
 秋深しギリシャ数字の置時計

 これらの日常を詠んだ句と不思議な世界を詠んだ句が混ぜ合わされていることで、2つの世界がパラレルなものではなく、重なり合ったものであることを感じさせる。『御意』は不思議の世界へ我々を誘う力を持つ。そういえば異国の物語で少女が不思議の国に紛れ込んだのも「兎」を追いかけていってのことであった。

本多伸也     鷹会員

眠兎第1句集『御意』を読みたい インデックス



1 『御意』傍らの異界   大井さち子  》読む
2 つくることの愉しみ   樫本由貴  》読む
3 相克する作句姿勢~黄土眠兎第一句集『御意』~   川原風人  》読む
4 黄土眠兎はサムライである。   叶 裕  》読む
5 生活者の目線   天宮風牙  》読む
6 御意てっ!   仲田陽子  》読む
7 重なる日常と不思議   本多伸也  》読む
8 私の声が言葉の声であること   曾根 毅  》読む
9 北京ダックまでは前菜花氷   森本直樹  》読む
10 出会うべくして――『御意』を詞書から探る   岡村知昭  》読む
11 案外な  黄土眠兎句集『御意』を読む   久留島 元  》読む
12 仲間たちへ   三木基史  》読む
13 敵 黄土眠兎句集『御意』を読む   中山奈々  》読む
14 手札の中のモノ   黒岩徳将  》読む

2018年5月25日金曜日

【新連載・黄土眠兎特集】眠兎第1句集『御意』を読みたい6 御意てっ! 仲田陽子

 関西人の日常会話の中では漫才でいうところのボケとツッコミが存在する。分類するならば眠兎さんはツッコミの人で、うかうかしていると「そこ!突っ込むとこなっ!」とダメ出しされることが多々ある。
 そんな眠兎さんの処女句集のタイトルが『御意』。。。いきなり全力でボケてきた!と思った。
 「読んで面白い句集にしたい!」という意気込みは聞いていたし、速水御舟の装画に活版印刷のこだわりも、サービス精神旺盛な彼女のことであるから・・・と期待値は自と高まる。

 漫才の要素にはネタフリ、ボケ、ツッコミ、オチの分類ができる。一頁二句立て、見開き四句、章立てごと、句集全体へとバランスを保ちつつネタフリからオチまで構成されている。そしてツッコミどころの多い句、いわゆるボケの句に佳句が多かったように思う。

朝寝して鳥のことばが少しわかる

 この朝寝は一見とても気持ちがいい句だ。だけどどうだろう?何を言ってるのかがやたら理解できるとなると、うるさくってしかたない。鳥のことばは少しわかるくらいで調度いいのだ。いや、少しわかるともううるさいのだ。

アマリリス御意とメールを返しおく

 この句集タイトルはこの一句から。何度も「御意てっ!」と突っ込みたくなる。
LINEなどで既読だけではなんとなく愛想がないときの、承知した旨をスタンプで返すような軽さ。アマリリスの花の明るさに相手との関係性がうかがえる。

うかうかとジャグジーにゐる春の暮
カッパ巻しんこ巻春惜しみけり


 他人のうかうかを突っ込む眠兎さんが「うかうかとジャグジーに」浮いていたり「カッパ巻しんこ巻」の緑と黄色で春を惜しんでみたりとボケにボケをやんわりと重ねてくる。あかねさすの章の余韻の残し方がオチとして絶妙だ。

 『里』の句会でお会いするから、うっかり忘れそうになるけれど、眠兎さんは『鷹』に所属されている。
 さすが抒情の系譜に繋がるだけあって、抒情たっぷりな句も多く見られる。なのにここでも見開き四句でボケとツッコミを美しく成立させている。

円窓に月を呼び込むための椅子
大根が首だしてくる月夜かな
満月が地球を重くしてをりぬ
細波のとぎれし月の舟渡る


 小川軽舟氏の帯文に『トリックスターの野兎のように俊敏だ』と書かれているとおりネタフリからオチまでが実に軽妙だ。
 あと、お金の句をこんなに多く見る句集も珍しいのではないだろうか。

立春の会費袋を回しゆく
銀行の金庫に育つ余寒かな
魚は氷に上りて貯金増えにけり
両替の紙幣に輪ゴム囀れり
鈍色の硬貨の湿り終戦日
ご破算に整ふ指や夕月夜
大陸のにほひの紙幣鳥渡る
札束のかすかにぬくし秋の暮
歳晩や尻ポケットのドル紙幣


 これだけお金を詠んでいるのに守銭奴の臭いがしない。逆に直接お金が出てこない「ご破算に」の句が頭の中で算盤を弾いていて、関西的な腹黒さをかもし出ているという面白さも注目すべきところではないだろうか。

 とにかく、句集『御意』は素通りしてしまいそうな一見普通に見える句も実は軽くボケていたりする。突っ込みどころ満載な作品であるから、おおいにツッコミを入れながら読んでみてほしい。

2018年5月11日金曜日

【新連載・黄土眠兎特集】眠兎第1句集『御意』を読みたい5 生活者の目線   天宮風牙

 初めて所属誌以外に文章を書くということで過去分(西村麒麟特集)を覗いてみると執筆陣は僕でも名前を知っている著名俳人の方ばかり、しかも論客ばかりである。少々気後れしつつもどんなに頑張っても感想文の範疇でしか書けないことは自分がよく知っている。いや、寧ろ『御意』評、黄土眠兎論には論客よりも僕のような俳句愛好家のおっちゃんの感想こそが相応しいのだ。
 句会に出始めた頃、季語に対して「付き過ぎ」「離れ過ぎ」「付かず離れず」という選評に戸惑った。付くとか付かないは俳諧(連句)での前句と付句との関係に対して使う言葉である。俳句=発句(の発展形体)だと思っていた僕には発句とは眼前の現実との関係であり、一句を季語とそれ以外の措辞とに分けてその関係として読む習慣が無かったのだ。暫くして二句一章という俳句用語を知り、付合が長句短句一連で短歌として成立させるところを季語+12音の17音にしたような句だと知ることになる。付合は二句間で「転じ」がおこなわれていなければ付合とは言えないが、概ね季語+12音の俳句では良く言えば「季語+その季語の本意の具象化」だが「季語+その季語の本意の説明、言い換え」とも言える。俳諧の視点からすると発句とも平句とも言えない奇妙(俳)な句ということになる。しかし、季語+12音の俳句でも分離不可能な程に付き且つ見事に転じているものも稀にあるのだ。

 御降や青竹に汲む京の酒     黄土眠兎
 最後には噛みくだく飴日脚伸ぶ
 アマリリス御意とメールを返しおく
 菱形の臍を褒めらるすいつちよん
 末枯やペン持つ前に考へる


 掲げたらきりがない。黄土の二句一章の句はそのどれもが季語と季語以外の措辞と季語の本意とは異なる同じ「匂い」で強固に結びつき第三の意味を作り出している。それは、蕉風俳諧の「匂い付」の手法そのものである。黄土は匂い付を俳諧から学んだわけでは無く体感でできるのだろう。
 『里』誌で黄土の作品を読む度に季語の使い方の上手さに感心すると同時に匂いとしか言いようのないことに句評の書きづらさを感じてきた。匂い付を用いて作句できる俳人は特別な才の持ち主だと思っていたのだが、『里』誌、特に吟行句会の句会報の黄土の句を読み考えが変わってきた。それは、黄土の最大の魅力とも言える目線にあるのではないか。

 香辛料多き俎始かな         黄土眠兎
 菜の花が八百屋に咲いてしまひけり
 北京ダックまでは前菜花氷
 白桃の指の形のまま凹む
 あつぱれや古道具屋の熊の皮


 どの句も生活者の目線で「今」「此処」が描かれている。俳諧の発句が俳句となり新興俳句、前衛俳句を経て多様化してきたが、今、現代俳句として目にする8割くらいは17音ポエムと呼びたくなる作品も含み平句であると感じている。残り2割の内の殆どは形式こそ発句体ではあるが形骸化し(和歌としての)連歌の発句とも思える。又、前衛を志向する作品は単なる談林回帰であろう。貞門風の言葉遊びの句すらある。それでも蕪村ら天明俳諧を含む蕉風の系譜は生き残っているのだ。

 コンビニのおでん水道水を足す  黄土眠兎

 僕にとって俳句とは「詩」ではなく「現代を生きていることを伝える手段」である。正岡子規によると韻文はその民族の知的レベル、文明が発達する程に長くなるのだという。だとしたら17音の俳句が伝えるべきことはくだらなければくだらない程良い。
 「水道水を足す」たったこれだけの措辞で、これまで幾万と詠まれてきた句によって「おでん」が纏ってしまった昭和ノスタルジーや演歌的詩情が剥ぎ取られ、「コンビニのおでん」としての本情が露になっている。それは、食べ物は少しでも美味しく食べたいという生活者の目線であり、詩人から生活者が「おでん」を奪い返したとも言える。(『里』2018年4月号)
 貴族から庶民が詩歌を俳諧として奪い、知的エリートや詩人に奪われた俳句を再び生活者が奪い返したのだ。痛快である。
 俳句は眼前の風物(若しくは事象)と作者との関係であるならば生活者の目線により詠まれた句はより多くの共感を得ることができる。それは同時代人だけの共感ではない、

 オリーブの花咲く店のAランチ  黄土眠兎

 90年代のイタ飯ブーム以降オリーブの鉢を置く店が増えた。スパゲッティはパスタとなり喫茶店にも○○のパスタとメニューにある。「コンビニのおでん」句同様に韻文として子々孫々へ伝達され何百年後かに平成の風俗を垣間見ているかもしれない。
 俳句は百数十年前に西洋かぶれの田舎者のあんちゃんがその卓越した頭脳で俳諧の発句を近代文芸へと生まれ変わらせようとしたものである。それは「詠読分離」を目指したものでありテレビやイベントで「僕にも私にも俳句ができる。」と俳人の数を増やすことでは無かったと思う。これまでにも田中裕明、櫂未知子と俳人以外の読者を獲得できるチャンスは何度かあった。現在なら北大路翼、佐藤文香にその可能性があるように思える。そして、ここに黄土眠兎が加わるのではないか。その意味において冒頭で述べたように『御意』評、黄土眠兎論には論客よりも僕のような俳句愛好家のおっちゃんの感想こそが相応しいのだ。

天宮風牙 里・塵風

2018年4月27日金曜日

【新連載・黄土眠兎特集】眠兎第1句集『御意』を読みたい4 黄土眠兎はサムライである。  叶 裕

 黄土眠兎第一句集「御意」。絶滅寸前といわれる活版印刷に正字を奢るページからは正しく清潔な匂いがする。表紙画に速水御舟「翠苔緑芝屏風図」。この俳人の矜持は表紙からしてあきらかだ。そして手に感じる重さ。それはこの俳人の視座の質を表すものに他ならない。

まだ熱き灰の上にも雪降れり

 阪神淡路大震災から二十三年。長田付近の大火災は今も脳裏に焼き付いている。人間の狭小を、無力を嗤うように天災のあぎとは容赦無かった。心折れる罹災者の上に降り出す雪の純白のなんと残酷なことだろう。放心の先に見る六弁の白い結晶を俳人は今も忘れていない。

朝寝して鳥のことばが少しわかる

 人間の聴覚はよく出来ていて、脳でフィルタリングしている。音は音と認識して初めて存在するのだ。いつも慌ただしく過ぎてゆく平日朝の狂騒曲。そこに一拍の休符が入る。休日だろうか、それとも、、休符とは無音を意味しない。休符に鳴る音こそサウンドを決すると言ったのはマイルス・デイビスだったか。 「鳥のことばが少しわかる」悔しくなるじゃないか。 朝寝という休符に彼女は何を聴いたのだろう。それを問い詰めてみたくなった。

病葉や男の日暮さびしいか

 下五の「さびしいか」この問いに五十路のぼくは絶句する。
声が聞こえる。諦観滲む芯のある俳人の声だ。斧の一撃のように虚勢が割れる。ひでぇじゃねぇか。知ってるくせに、、と弱々しく返すしかない。まるで姉貴だ。全部知ってて言ってやがる。さびしかねえや、こうみえたって男だぜ。長男だぜ?と下を向いてついに嗚咽してしまう。
 この句集には迷いがない。俳人として生きることを選択した人の句集だ。まるで侍じゃないか。と独り言ちて「御意」というタイトルにようやく合点がいったのである。
彼女がどこに属しているかは問題ではない。研ぐのは常にひとりの時だ。

2018年4月6日金曜日

【新連載・黄土眠兎特集】眠兎第1句集『御意』を読みたい3 相克する作句姿勢~黄土眠兎第一句集『御意』~  川原風人

 黄土眠兎さんは私にとって、俳句の世界の扉を開いてくれた人物の一人である。眠兎さんが第一句集を上梓されたことを、先ずは心よりお祝い申し上げたい。

 さて、『御意』を読むなかで感じたのは相克する作句姿勢である。これは作者が作句における新たな境地を切り拓くうえで発生したものかもしれないが、「鷹」「里」と二つの場所で活躍する作者独自の境地ではないかと推察される。

    阪神淡路大震災
 まだ熱き灰の上にも雪降れり

 前書のとおりの震災詠である。この句によって提示される、震災跡に立つ作者の姿が句集全体を牽引しているように思う。しかし、句集末尾の年譜を見るに作者が俳句を始めたのは阪神淡路大震災から八年ほど経っている。つまり掲句は(おそらく)、復興していく街に立ち、記憶のなかの震災を詠んでいるのである。この景色には被災者としての作者の万感の思いが込められている。作句までのタイムラグは、作者が震災と向き合うために必要だった時間を想像させる。

 遠足の列に行きあふ爆心地

 遠足のこどもたちに出会い、自分の立つ場所が爆心地であるということがふと意識された、ということが大意であろう。前掲句同様ここに見られるのは年を経た対象を見る上での、作者のつめたい抒情である。生と死や現代と過去の対称はいかにも俳句的、と言ってしまえばそれまでなのであるが、本句集を貫くひとつの魅力であるのは確かである。

 冬帽を被り棺の底なりき
 草笛を皇子は聞かずや明日香川
    父死す
 白木槿身のうちに星灯しけり
 胸中に古き地図あり日向ぼこ

 これらの句も「いま在るもの」「過去に在ったもの」の対比という日本的無常観がテーマとなっている。作者の心のなかで、詩が発生した工房は同じ場所だったのではないだろうか。
 さて、句から見えてくるもうひとつの作句姿勢を紹介する。

 夏兆す木工ボンド透明に


 トリビアルな題材であるが、他に季感はあてはまらない。まぎれもなく夏の到来を告げる句であるように感じる。本句集には、このような小さな題材を丁寧に詠み込む、市井の人としての作者の姿が見えてくるのである。

 うかうかとジャグジーにゐる春の暮
 子規の忌の銀紙破れやすきかな
 鈴あれば鳴らす女や西鶴忌
 日に一度帰る家ありすいつちょん
 出展者D冬空に本売りぬ
 酒臭き夜警一人やクリスマス


 これらの句には都市生活者としての作者の生きる姿がありありと見えてくる。一句目などは仕事に追われる女性のひとときのやすらぎが表れているようで、眠兎さんを知る者からすると応援すらしたくなってくるのである。

 相克する二つの作句姿勢であるが、その二つが豊かな結合をしている一句を最後に紹介したい。

 ゆふぐれはもの刻む音夏深し

 断定的な言い方である。しかし、このように言われると納得させられてしまうところがある。この句に漂うノスタルジーは、俎板に野菜を刻む女性の後ろ姿の残像が、読者それぞれの脳裏に存在することを示している。夏の倦怠のなか、読者の思いは過去へ飛ばされ、俎板に物を刻む音だけが余韻として響くのである。

 作句経験の浅い私などは、自分の作風や方向性を考えることがある。まだ成熟しない自分の前に道が複数あるように錯覚してしまうのである。そんなとき、結社には師として主宰がおり、選を通じて私自身の進むべき方向を示してくれるように感じている。そういう意味では、眠兎さんは志願して二つの道を選び取った人であるように思う。進むことが簡単な道であるとは思わないが、本句集は眠兎さんのひとつの答えとして読者に提示されている。今後も自在な俳句を期待したい。

 川原 風人(かわはら ふうと)
鷹俳句会所属 1990年1月11日生 東京都出身

2018年3月23日金曜日

【新連載・黄土眠兎特集】眠兎第1句集『御意』を読みたい2 つくることの愉しみ 樫本由貴

   『御意』はまさしく座で育まれた句集だ。読むものを構えて待つような句はほとんどなく、読まれることを静かに待つおおらかさがある。

   早速句を見てゆく(句集内、使用してあるのは多く正字)。
   かろやかに詠まれる実感の喜び。

子の息を吸ふ窓ガラス冬満月
朝寝して鳥のことばが少しわかる
一日は案外長しつくづくし
うかうかとジャグジーにゐる春の暮


   家族との距離の近さ。一句目、「子の息を吸ふ」といわれれば、その甘い、子供独特の吐息が想起される。二句目、「朝寝」の贅沢さは言わずもがなだろう。「鳥」「ことば」「少し」「わかる」の表記、本当に「少しわかる」感じが伝わってきて、甘さがない。
気取らない句の成りも好ましい。三句目、「案外長しつくづくし」の音の楽しさ。四句目、「うかうかと」とあれば、自覚しながらもやめられない怠惰さを愉しんでいるのは明白だ。

   目に映るものはかろやかさだけではない。〈まだ熱き灰の上にも雪降れり〉の句のように、まなざしと表現は対象によってしっかりと切り替わる。

母に告ぐ櫻の芽吹きありしこと
目をつむるだけの参拝夏衣
頬杖をとくまでの黙風邪心地


   一句目、「芽吹きありしこと」の「ありし」、すでに見つけてあったそれを、母を連れ出し耳打ちする、その喜び。「告ぐ」という語がそれを支え、かつ、さくらそのものを見られない母が浮かび上がる。二句目、外から見ただけの句ではない。一通りの方法をとらない人のなかにある沈深を、作者はわかっている。三句目、これは繊細な実感だ。もう言うことは決まっているというのに、口を開くまでのだるさ、ためらいによって流れ出る憂いが「黙」にある。

   彼女の句は足と目で書かれているのが如実だ。だから収められている句そのものには温度差がある。この落差が、句を統べる。このようにまとまったことこそが、自然と彼女の座と、足と目への真摯さをうかがわせる。

   黄土眠兎がこの句集に込めたのはあとがきにあるとおり「読んでいただいて面白いものにしたいという思い」だ。これは師への思いや句友への思いに枝分かれしてこの句集を成している。そこに大仰な心構えも、何かへの挑戦の意志も心情も述べられてはおらず、ゆえに記念碑的な意味で編まれたとだけ、この上梓を捉える向きもあるだろう。一方でこの句集の制作の過程を知り、実物を手にして私が感じたのは、本を作る過程そのものの楽しみだ。これはとんでもなく尊いことだと思う。俳句を詠む、書くことには作家それぞれ貫く芯があり、そのあかしとして差し出される句集というものは、負うものが大きすぎて、私は時に苦しささえ感じることがある。しかしこの句集が前面に出すのは、作ることの楽しさだ。この句集の制作過程はFacebookで時折報告され、あと少しで出来となるころには「字が植えてあるだけでいい」と彼女は零されていた。投げやりのようなこの言葉も、一冊を作るために奔走したゆえに漏れる一息だと思うと感慨深い。こういうことが伝わる本というのは珍しいと思う。
   このような“裏側”を知っているうえで句集を語るのは評論にそぐわないかもしれないが、本を作る純粋な楽しみが句集を編む中にあることを、最後に記しておきたい。


2018年3月9日金曜日

【新連載・黄土眠兎特集】眠兎第1句集『御意』を読みたい1 『御意』傍らの異界  大井さち子

句集とは不思議なものだと思う。
一句一句それぞれ独立した世界を持ちつつ、まとめて一冊となり、
一つの名前を与えられる。
編集者である眠兎はそこに
「読んでいただいて面白いもの」という魔法のエッセンスを振りかけた。

冬帽を被り棺の底なりき
大寒の星の匂ひを嗅ぎにゆく


冬帽を被って棺に横たわるのは誰なのか。
棺の中を覗き込むように始まる一句の中に微妙な捻じれが生じ、
いつの間にか自分が棺の底にいる。
そして、同じページに並んだ句を読んで読者は昇天し大寒の星空に放たれる。
これは眠兎のトリックである。
棺を出て、星の匂いを嗅ぎに行こう。

十数へ鬼となる子や落葉焚

声を出してゆっくりと数えているうちに
一緒に遊んでいた仲間はそれぞれ散って行った。
目をあけるとそこは森閑とした異郷。
この子はかくれんぼの鬼となって十数えていたのではない。
数え終わり、鬼になったのだ。
眠兎の句はさらっと読むとそのまま読み進んでしまう。
しかしちょっとした仕掛けがあり、
違和感のような扉を開けると魅力的な異界が広がる。
そこに気づくと眠兎の句がぐんと面白くなる。
 
生前の指冷たかり紙漉女

和紙作りは寒い季節に適しているという。
沈もうとする楮の繊維を水に浮遊させるためにネリが必要なのだが
そのネリは水温が高いと切れやすい。
寒い冬は薄く上質なものができるようだ。

女は毎日紙を漉く。
それは紙を漉くという作業であると同時に水と語らう時間でもある。
そしてこのページにもオチの句が用意されている。

雪女腕疲れてしまひけり

句集にエンターテイメント性を持たせたい眠兎ならではの配置であり
遊び心であろう。
水に冷え切った指で暮らした女は死後、雪女となる。

さびしからずや南極の火消壺 

どういういきさつでこの火消壺は南極に置かれたのだろう。
実際に南極にあるのか私は知らない。
眠兎もおそらく知らないのではないか。
しかし彼女はその火消壺が南極にあるのだと感じている。
知らないが感じているのだ。
「さびしからずや」
遠く日本の地より思う。
「さびしからずや」
深く深く思う。
それはまるで酒と旅の歌人若山牧水のさびしさのように。

幾山河越えさり行かば寂しさの終えなむ国ぞ今日も旅ゆく 牧水
いざ行かむ行きてまだ見ぬ山を見むこのさびしさに君は耐ふるや 同


旅の果、今火消壺は南極にある。
そして眠兎はじーんじーんと火消壺を感じる。
 
鷹は抒情の系譜に繋がる結社である。
眠兎の抒情句も忘れてはならない。

ひと揺れに舟出でゆけり春の虹
円窓に月を呼び込むための椅子
雪来るか落葉松の照海の照


美しく豊饒な世界である。

(黄土眠兎第1句集『御意』の鑑賞特集が開始されます。)