2017年11月24日金曜日

第78号

●更新スケジュール(2017年12月8日)

今冬発行!!
冊子「俳句新空間」No.8 
※※※詳細は近日公開※※※

第4回攝津幸彦記念賞 》詳細
※※※発表は「豈」「俳句新空間」※※※

各賞発表プレスリリース
豈59号 第3回攝津幸彦記念賞 全受賞作品収録 購入は邑書林まで



平成二十九年 俳句帖毎金00:00更新予定) 
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平成二十九年 秋興帖

第五(11/24)大井恒行・小林かんな・網野月を
第四(11/17)杉山久子・真矢ひろみ・木村オサム
第三(11/10)松下カロ・坂間恒子・渡邉美保
第二(11/3)岸本尚毅・辻村麻乃・夏木久
第一(10/27)北川美美・仙田洋子・曾根 毅

【花鳥篇特別版】金原まさ子さん追善
北川美美

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【新連載】
前衛から見た子規の覚書  筑紫磐井 
(1)子規の死   》読む
(2)子規言行録・いかに子規は子規となったか①   》読む
(3)いかに子規は子規となったか②   》読む
(4)いかに子規は子規となったか③   》読む
(5)いかに子規は子規となったか④   》読む
(6)いかに子規は子規となったか⑤   》読む



●新シリーズその1
【西村麒麟特集】北斗賞受賞記念!
受賞作150句について多角的鑑賞を試みる企画
西村麒麟・北斗賞受賞作を読む インデックス  》読む
【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む0】 序にかえて …筑紫磐井
【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む1】 北斗賞150句 …大塚凱
【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む2】「喚起する俳人」…中西亮太
【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む3】 麒麟の目 …久留島元
【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む4】「屈折を求める」…宮﨑莉々香
【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む5】「思ひ出帖」…安里琉太
【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む6】きりん …松本てふこ
【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む7】西村麒麟「思ひ出帳」を読む …宮本佳世乃
【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む8】火花よりも柿の葉寿司を開きたし
        ―北斗賞受賞作「思ひ出帳」評 …青木亮人
【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む9】見えてくること、走らされること …田島健一
【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む10】天地併呑 …橋本直
【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む11】西村麒麟を私は知らない …原英
【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む12】金沢のこと菊のこと …福田若之  
【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む13】「結び」及び「最強の1句」 …筑紫磐井  》読む


●新シリーズその2
【平成俳壇アンケート】
間もなく終焉を迎える平成俳句について考える企画
【平成俳壇アンケート 回答1】 筑紫磐井 …》読む
【平成俳壇アンケート 回答2・3】 島田牙城・北川美美 …》読む
【平成俳壇アンケート 回答4・5】 大井恒行・小野裕三》読む
【平成俳壇アンケート 回答6・7・8】 花尻万博・松下カロ・仲寒蟬》読む
【平成俳壇アンケート 回答9・10・11】 高橋修宏・山本敏倖・中山奈々》読む
【平成俳壇アンケート 回答12】 堀本吟》読む
【平成俳壇アンケート 回答13】 五島高資》読む
【平成俳壇アンケート 回答14】 浅沼 璞》読む
【平成俳壇アンケート 回答15】 小沢麻結》読む
【平成俳壇アンケート 回答16】 西村麒麟》読む


【抜粋】
<「俳句四季」12月号> 
俳壇観測179/戦争を思う ――虚子は戦争をどう見ていたか 団塊の世代は戦争をどう見るか
筑紫磐井 》読む


  • 「俳誌要覧2016」「俳句四季」 の抜粋記事  》見てみる



【広告】
月刊「俳句界」12月号特集「あなたが選ぶ平成の名句」(仮)  》読む


<WEP俳句通信>




およそ日刊俳句空間  》読む
    …(今までの執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々 … 
    • 11月の執筆者 (柳本々々・渡邉美保) 

      俳句空間」を読む  》読む   
      …(主な執筆者)小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子
       好評‼大井恒行の日々彼是  》読む 




      あとがき(筑紫磐井)  》読む



      冊子「俳句新空間 No.7 」発売中!
      No.7より邑書林にて取扱開始いたしました。
      桜色のNo.7


      筑紫磐井 新刊『季語は生きている』発売中!

      実業広報社






      題字 金子兜太

      • 存在者 金子兜太
      • 黒田杏子=編著
      • 特別CD付 
      • 書籍詳細はこちら (藤原書店)
      第5章 昭和を俳句と共に生きてきた
       青春の兜太――「成層圏」の師と仲間たち  坂本宮尾
       兜太の社会性  筑紫磐井

      【抜粋】〈「俳句四季」12月号〉俳壇観測179/戦争を思う ――虚子は戦争をどう見ていたか 団塊の世代は戦争をどう見るか  筑紫磐井



       一二月は七六回目の開戦記念日となる。これにちなんだ記事を紹介したい。
      (中略)
      ●第二回姥捨俳句大賞
       毎年、信州さらしな・おばすて観月祭が千曲市で一ヶ月にわたり開かれる。そのメインイベントとして姥捨俳句大賞の公開選考会が開かれる。今年は九月一六日に第二回の大賞選考会が開かれた。昨年の第一回は杉山久子と久保純夫(67)の二人で争われ、杉山が大賞を獲得した。今年は、岡田耕治、折勝家鴨、倉田明彦、関悦史、中村安伸、山口昭男の六名が候補に上がり、結果的に岡田(香天代表。63)『日脚』と倉田(梟所属。70)『青羊歯』が争って倉田が選ばれた。著名な免疫学者多田富雄について研究者となり、現在は長崎市で医師を勤める。団塊の世代の作家だったということでしばらく話題になったようだ。
       いま、若い俳人を対象とした、田中裕明賞や北斗賞などの賞がふえてきているが、こと姥捨俳句大賞はその名にちなんだわけでもないだろうが、比較的高齢作家が候補になることが多い。定年後から俳句を始めて、その第一句集を出した作家たちにとって十分間に合う賞となっている。
       だから、その他の賞と比べて受賞作品は特徴的なものが多い。今回の倉田の受賞句集『青羊歯』では次の句に注目した。

         松代大本営
       地下壕に抽象の国梅雨の闇


      松代は太平洋戦争で本土決戦の時に大本営を移す深い地下壕が用意されていた。そこに、国民不在の権力機構としての「抽象の国」が存在し、深い梅雨の闇が拡がっているというのだ。これこそ、若手ではなく、七〇代の年齢がなければ詠めない俳句であった。かつそれは現代の政治への投影も見える。
      定年になって俳句を始めた世代――団塊以降の世代にとって、人生はまだ不満が残るものがある。とすれば、彼らにとって残る人生で詠むべきは「花鳥諷詠」ではなく、毎年劣化する社会に対する憤りの「社会性俳句」ではないか。そんな句集に注目していきたい(ちなみに、姥捨俳句大賞の選者は小澤實・筑紫磐井・仲寒蟬である)。

      ※詳しくは「俳句四季」11月号をご覧ください。

      ※「里」11月号「俳句雑誌管見 43回 生々しい観念ー倉田明彦ー」で堀下翔がこの句集を取り上げ、「地下壕」の句を丁寧に鑑賞している。また東京新聞、11月18日夕刊で佐藤文香も取り上げている。参照されたい。

      【新連載】前衛から見た子規の覚書(2)いかに子規は子規となったか⑤/筑紫磐井



      ●【松山を去る/民権の風】
      このような風雅な隠者のような生活を羨望していた子規が一転して東京遊学をしようとする事情は、当時の松山の政情にあったようである。元もと松山藩は明治維新にあたり、周囲の土佐藩、大洲藩が官軍についたのに引き替え、幕府を支持したため朝敵として松山城の接収(土佐藩預かり)や、藩主の蟄居、賠償金の支払いなど過酷な条件を押し付けられた。その後、久松勝成は藩政改革を行い近代化に努めた。特に、官費により学生を各地に送り人材育成を図っていた。
      こうした中で明治14年国会開設の詔勅が発せられ、自由民権運動が各地に波及した。松山も例外ではなかった。当時の県令は土佐出身の岩村高俊であったが彼も自由民権に熱心で、折しも、福沢門下の俊才草間時福(俳人中川四明の弟、草間時彦の祖父)を松山中学校の校長に招聘し、草間は民権思想の宣伝に奔走した。岩村は、日刊新聞である「海南新聞」を草間を主筆として創刊している。このような風土の中で、松山では盛んに政談演説会が行われ、明治15年以降子規たちも県会の傍聴や演説会に出かけたりしていたのである。
      松山中学校でも演説は盛んであったが政論は禁止されていた。こんな中で、子規は「自由何(いづ)くにかある」「天将に黒塊(国会)を現はさんとす」などの演説をし、草間の後任の校長から叱責を受けている。こうした中学校に対する失望と、東京での活動の自由への希望が合わさり、東京遊学を望んだものであろう。

        五月 故有りて諸生とともに松山中学校を退く 賦して以て懐を述ぶる
      松山中学 只 虚名
      地 良師少なく 熟に従ってか聴かん
      道を言ふに 何ぞ須ひん 章句を講ずるを
      人を染むること 敢て丹青にも若かず
      牛と喚び馬と呼びて 世 応に毀るべし
      今は是に 昨は非にして 吾独り醒めたり
      忽ち悟る 天真は万象に存するを
      起ちて蛛網を披いて 蜻蜓を救はん

      このため東京にいた伯父の加藤拓川に上京の希望を伝える。拓川は中退してまでの上京をたしなめたが、子規は終に明治16年5月には松山中学を中退してしまい、拓川は自らがフランスへ旅立つこともあり最終的にはこの甥に了解を与えた。子規はわずか二日で準備を整え、6月10日に松山を出発する。
      子規のこのような焦燥には、当時松山中学校から多くの友人たちが、民権派の草間が明治12年に松山中学校長を辞めたあと、2年の間に半数が県外に遊学していたことにも原因があった。子規の友人でもすでに三並良が明治15年夏に上京し、子規と前後して柳原極堂、太田正躬、森知之、藤野古白らも東京へやってきていた。そういう時代だったのである。
      こうして、神戸を経て、6月14日横浜に上陸、鉄道で新橋に到着する。いかにも子規らしいのは、この旅行を後日「東海紀行」としてまとめていることだ。記録せずに入られない子規がはっきりそこにあった。

      ●【東京で/予科時代】
      東京で学生時代を始めた子規は、友人や親戚の家、下宿を転々としながら、まず明治16年10月に共立学校に入学する。子規にとって幸運が重なった。明治17年3月久松家が行っていた常磐舎給費生となり補助を受けられることなったのだ。毎月7円の給費は大きかった。さらに9月、試しに受けた大学予備門(のちに第1高等中学校予科となる)に思いがけず合格する。
      大学予備門(第1高等中学校)予科時代の4年間(予備門は予科3年、本科2年であるが、予科で1年落第し4年かかっている)は、想像されるほどに子規は生産的ではない。次の本科時代とくらべると特にそうした印象は否めない(たとえば「筆まかせ」に残っている文章の編数が22年以降は顕著に増加していることからも検証できる)。しかし、従来の漢詩と漢文・雑文を中心としていた活動がさまざまな新領域に拡大したこと、そして従来の活動を再編し直す機会を与えられたことは、次の本科時代への架け橋となっていたと思われる。

      元もと当時の学生は試験以外は自由勝手な生活をしていたから、学業以外の趣味の多かった子規には幸運だった(それでも明治18年の学年試験には落第している)。そうした中で、和歌と俳句への接近を深める。
      和歌は明治15年頃から作り始めていたが(稿本「竹乃里歌」は明治15年の作品から始まっている)、明治18年の夏初めての帰省の折、松山の桂園派の歌人井手真棹を尋ね、質問をし、添削を受けた。この年には俳句も初めて作っている(稿本「寒山落木」は明治18年の作品から始まっている)。
      明治20年夏に2回目の帰省で、柳原極堂ともに三津浜の大原其戎を尋ね、その後其戎の主宰する「真砂の志良辺(まさごのしらべ)」に俳句を発表し始める。約3年間にわたってこの雑誌に俳句を発表し続けるのである。
      この他に、日本に入ってきたばかりのベースボールに熱中したこともよく知られている。

      2017年11月10日金曜日

      第77号

      ●更新スケジュール(2017年11月24日)

      今冬発行!!
      冊子「俳句新空間」No.8 
      ※※※詳細は近日公開※※※

      第4回攝津幸彦記念賞 》詳細
      ※※※発表は「豈」「俳句新空間」※※※

      各賞発表プレスリリース
      豈59号 第3回攝津幸彦記念賞 全受賞作品収録 購入は邑書林まで



      平成二十九年 俳句帖毎金00:00更新予定) 
      》読む

      平成二十九年 秋興帖

      第三(11/10)松下カロ・坂間恒子・渡邉美保
      第二(11/3)岸本尚毅・辻村麻乃・夏木久
      第一(10/27)北川美美・仙田洋子・曾根 毅

      【花鳥篇特別版】金原まさ子さん追善
      北川美美

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      平成二十九年 夏興帖
      第八(10/20)北川美美・山本敏倖・佐藤りえ・筑紫磐井・網野月を・池田澄子
      第七(10/13)田中葉月・近江文代・飯田冬眞・中村猛虎・小沢麻結・水岩 瞳
      第六(10/6)岬光世・依光正樹・依光陽子・大井恒行・早瀬恵子・林雅樹
      第五(9/29)木村オサム・青木百舌鳥・小野裕三・小林かんな・神谷 波・下坂速穂
      第四(9/22)渡邉美保・渕上信子・五島高資・坂間恒子・前北かおる・辻村麻乃
      第三(9/15)椿屋実梛・浅沼 璞・堀本吟・岸本尚毅・石童庵・高橋比呂子
      第二(9/8)夏木久・網野月を・花尻万博・ふけとしこ・曾根 毅・加藤知子
      第一(9/1)仙田洋子・杉山久子・仲寒蟬・望月士郎・内村恭子・松下カロ


      【新連載】
      前衛から見た子規の覚書  筑紫磐井 
      (1)子規の死   》読む
      (2)子規言行録・いかに子規は子規となったか①   》読む
      (3)いかに子規は子規となったか②   》読む
      (4)いかに子規は子規となったか③   》読む
      (5)いかに子規は子規となったか④   》読む



      ●新シリーズその1
      【西村麒麟特集】北斗賞受賞記念!
      受賞作150句について多角的鑑賞を試みる企画
      西村麒麟・北斗賞受賞作を読む インデックス  》読む
      【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む0】 序にかえて …筑紫磐井
      【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む1】 北斗賞150句 …大塚凱
      【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む2】「喚起する俳人」…中西亮太
      【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む3】 麒麟の目 …久留島元
      【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む4】「屈折を求める」…宮﨑莉々香
      【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む5】「思ひ出帖」…安里琉太
      【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む6】きりん …松本てふこ
      【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む7】西村麒麟「思ひ出帳」を読む …宮本佳世乃
      【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む8】火花よりも柿の葉寿司を開きたし
              ―北斗賞受賞作「思ひ出帳」評 …青木亮人
      【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む9】見えてくること、走らされること …田島健一
      【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む10】天地併呑 …橋本直
      【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む11】西村麒麟を私は知らない …原英
      【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む12】金沢のこと菊のこと …福田若之  
      【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む13】「結び」及び「最強の1句」 …筑紫磐井  》読む


      ●新シリーズその2
      【平成俳壇アンケート】
      間もなく終焉を迎える平成俳句について考える企画
      【平成俳壇アンケート 回答1】 筑紫磐井 …》読む
      【平成俳壇アンケート 回答2・3】 島田牙城・北川美美 …》読む
      【平成俳壇アンケート 回答4・5】 大井恒行・小野裕三》読む
      【平成俳壇アンケート 回答6・7・8】 花尻万博・松下カロ・仲寒蟬》読む
      【平成俳壇アンケート 回答9・10・11】 高橋修宏・山本敏倖・中山奈々》読む
      【平成俳壇アンケート 回答12】 堀本吟》読む
      【平成俳壇アンケート 回答13】 五島高資》読む
      【平成俳壇アンケート 回答14】 浅沼 璞》読む
      【平成俳壇アンケート 回答15】 小沢麻結》読む
      【平成俳壇アンケート 回答16】 西村麒麟》読む


      【抜粋】
      <「俳句四季」11月号> 
      俳壇観測178/二十四節気が世界遺産になった!――「俳句」に先がけて「二十四節気」が無形文化遺産に登録
      筑紫磐井 》読む


      • 「俳誌要覧2016」「俳句四季」 の抜粋記事  》見てみる



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      <WEP俳句通信>




      およそ日刊俳句空間  》読む
        …(今までの執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々 … 
        • 11月の執筆者 (柳本々々・渡邉美保) 

          俳句空間」を読む  》読む   
          …(主な執筆者)小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子
           好評‼大井恒行の日々彼是  》読む 




          あとがき(筑紫磐井)  》読む



          冊子「俳句新空間 No.7 」発売中!
          No.7より邑書林にて取扱開始いたしました。
          桜色のNo.7


          筑紫磐井 新刊『季語は生きている』発売中!

          実業広報社






          題字 金子兜太

          • 存在者 金子兜太
          • 黒田杏子=編著
          • 特別CD付 
          • 書籍詳細はこちら (藤原書店)
          第5章 昭和を俳句と共に生きてきた
           青春の兜太――「成層圏」の師と仲間たち  坂本宮尾
           兜太の社会性  筑紫磐井

          【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む13】「結び」及び「最強の1句」/筑紫磐井



           西村麒麟特集を2回編集したことになる。第1回目は『鶉』。第2回目は今回の150句。恐らく近いうちに第3回目の特集をやるかもしれない。私がこうした企画を設定した理由は、結社で恵まれない作家を救済したいと言うことにある。
           もちろん結社に入らない人もいる。結社でなく仲間たちとの同人雑誌をやっている人もいる。それらは当人たちが覚悟の上だし、案外そういう人には多くの仲間がいる。しかし結社に入りながら西村のようにこれだけ恵まれない人は珍しい。もちろん結社で干されているのは自業自得かもしれない。しかし結社にかかわって、それなりに立派な成果を挙げ(多くの若手が渇望する田中裕明賞、北斗賞を受賞し)、なお結社で評価されないという人は珍しい環境にあるとしか言えないだろう。そして、そうした結社に居続けるというのも健気である。
              *
           ただ特集を企画して気づいたことがある。西村は、何のポストも権威もないのに、特に若い作家たちの中心にいるらしい。第1回目も、第2回目も、西村が自分で執筆者を打診し、決定し、原稿を貰っている。私は、企画しただけで何の編集もしていないのである。こうした編集企画力は将来間違いなく役に立つのではないか。
          (私は現在、BLOGで「前衛から見た子規」という連載を行っているが、実は子規という人物は小学校時代から雑誌の編集を行っていた。それが中学、高校、大学と続き、最後は、日本新聞社の「小日本」という新聞編集を行うところまで繋がっている。雀百まで踊り忘れず、というが、子規はジャーナリストとなるために生まれてきた人物である。その数あるジャーナリズムの中で、俳句というジャンルが選ばれたのである。)
           当然西村が集めた記事は、彼を中心とした同世代が多い。私のような年配者は殆どいないであろう。そして思うのは、この若い世代の文章が、多彩ではあるものの一つの特色を持っているように思うのである。変わった西村麒麟特集だから、まず、「西村麒麟を論じた特集」を論ずるところから初めてみようか。

           それらは、誠に緻密で西村麒麟という世界――今回で言えば、西村の150句の世界を縦横に分析し、完結した評論としているところである。だから西村麒麟を科学的?に分析しているように見える。その意味では、社会学的な評論といえるかもしれない。しばしば、西村が固執しているテーマや季題が収集され、比較されている。
           ところで、手法が違うと言ってしまえばそれまでだが、例えば、「豈」59号で第3回攝津幸彦記念書を受賞した生駒大祐について私は選後評を書いているのだが、その核心は、30句の中で、

           新潟に近くて雪の群馬かな

          を究極の1句として掲げ、これを論じていることにある。他にいい作品があるとか、他の作家と比べてどう優れているかではなくて、生駒の作品からたった一句を選んで鑑賞をしているのである。
           考えてみると私の最初の評論集は飯田龍太を論じた『飯田龍太の彼方へ』(深夜叢書社刊)であるが、ここでは世の常の龍太論のように万遍なく龍太を論じたのではなくて、龍太のたった一句、

           一月の川一月の谷の中

          だけを論じて200頁を費やしている。どうもこれが私のやり方であるようだ。
           しかし私は案外これが正統的だと思っている。どんな作家であれ、生涯に詠んだ数千句がすべてのこるわけではない(全集を作るのと評価は別である)。どんな作家であれ、常時人から語られるのは十句ぐらいしかないのではないか。いや、生涯にたった一句が残ればよいのかもしれない。後は、参考として引用される句であろう(須賀田某を悼んだ「生涯にまはり灯籠の句一つ」という素十の句があった。山本健吉は「思いだされない名句というものが何の意味があろう」と、余りにも常識的な、しかし意外に深遠な言葉を残している)。とすれば、評論の一つの意義は、究極の1句を見出すこと、そしてそれが究極である理由を後世に残るように語ることであろうと思っている。
               *
           そういう考え方で、西村の150句「思ひ出帳」を読むと、それらは10句ぐらいに集約され、そしてさらに次の1句に落ちつくように思うのである。

           金魚死後だらだらとある暑さかな

           もちろん究極の一句を探すという同じ方針を採っても、選者によって、全然別の句を選ぶことになる。それが当然だと思う。しかし、この一句を据えて西村を眺めることによって、私の見る西村の姿は急に引き締まる。全体、西村は巧みではあるが、ふざけた句が多い。私が、第1句集を「虚子に一ミリ近づいた男」と表したのはそうした謂いである(この言葉は、西村のキャッチフレーズになるかと期待していたがちっとも流行らなかった)。それが、突然深読みされることにより、別種の俳句、別種の俳人のような相貌をおびてくる。
           元々俳句などは不完全な詩型だから、そのときどき、例えば20代と60代では読み方が全然違ってくる。朝と夜と、疲れたときと休息の取れたときと、ひどいときは食前と食後で好悪は変わってくる。従って、一群の作品も、その中心に置く句によって全体印象はかなり変わってくる。

           まず、この句は、2017年1月発表の自選10句にも選ばれていない。これで安心した。西村は自分の究極の1句を見ぬ抜く目がまだないことになるからだ。 3人の選者の中岡毅雄、田中亜美、立村霜衣のうちこの句を選んだのは立村霜衣だけだった。だが立村が選んだ理由は私と違うようだから、ほぼ私の独断といってよいだろう。
           分り易いのは、比較的多くの論者が評価していた「八月のどんどん過ぎる夏休み」だ(これは自選10句にも入っている)。人気の一句といって良いだろう。決して悪い句ではないが、私が『鶉』評で書いたように飯田龍太の影を負っているようだ。現代作家、特に西村のような作家が飯田龍太の影響を受けることはあまり意外性のない話だ。
          「金魚死後」の句はそれがない。いや人の知的創造活動に完全な影響のないはずがないとすれば、辛うじて影響があるとすればもっと根源的なもの――例えば人間探求派に近いものではないかと思う。西村と人間探求派――これは意外だ。しかし、この句にふざけた匂いが見えない理由もそこにある。かつ、そう見た瞬間、日頃のへらへらとした西村の笑顔に隠された本音が見えるように思うのである。
          「金魚死後だらだらとある暑さ」はほとんど散文のようであるが、それの持つ思想が、逆に韻律を形成している。そうか、これが西村麒麟であるのだ。
           かつて、一度だけ真面目な顔で話されたことがある(生涯にわたって真面目な顔をされたのはこの時だけだったような気がする)。私や高山れおなが企画した『新撰21』やその続編シリーズで、西村は一度も登場したことがなかった。未だ我々の視野に届かなかった(申し訳ないが「古志」は余り読んでいなかった)のだが、シリーズが回を重ねるたびに置いてきぼりになる焦燥感が生まれたという。これは私たちに対する非難であったかもしれない。しかし一方で、『新撰21』ごとき連中に置いてきぼりを食う作家ではないという自負がにじみ出ていた。それ以来、やや馬鹿にしたような言い方をしつつも、西村を尊敬している。だから西村は永遠に俳句を止めないであろう。またこれだけ干され続けても「古志」を止めないであろう。西村が師事すると言っている長谷川櫂が少しだけ(ほんの少しだけであるが)羨ましくはある。
           つまらない事ながら一言添えれば、北斗賞の選考で西村は誰にも一位に推されていない。選者は3人別々の作家を推している。つまり平均点で西村は受賞したのだ。受賞こそしたがこれは西村にはやや傷つく事実だと思う。しかし気にする必要はない、受賞選評で3人の感想を読むと、どう考えても他の作家に比べて圧倒的に激賞されている。つまり、1位になった瞬間に突然深読みされ、1位にふさわしい作家に見えてくるのである。これは、上述した私の理論が成り立つことを証明するようで、いささか鼻が高い。
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           直接関係無いことだが、西村を論じた論についても最後に述べておきたい。ある雑誌の編集者から、現代の若手は同世代の評価を気にし、上の世代の評価には無関心だといわれた。例えば指導者の評価より、同世代の評価に深く傷つくのだそうだ。なるほどもっともと感じた。とすれば私の評など、西村には不要かも知れない。西村麒麟が選んで既に掲載した十二人の評論で十分であるかもしれない。とすれば、書いたものの、役に立たないかもしれない上の世代の評価を、蛇足を承知で加えた事になりかねない。しかし若い世代の時代性にずっぽりはまった評価よりは、五十年後に西村が古稀を迎えたときに本当に納得するのはどちらの論であるかは、必ずしも今即断はできないと思うのである。


          【新連載】前衛から見た子規の覚書(5)いかに子規は子規となったか④/筑紫磐井



          ●【松山中学入学と漢詩】
          明治13年には小学校を卒業して、松山中学校(後の松山東高校)に入学する。子規は、新しく、一年ほど景浦政儀、のち明治13年に漢詩塾千舟学舎を興したばかりの漢学者河東静谿(坤)に詩を学ぶ。興味深いことに、静谿の息子たちには、鍛(黄塔と号し、母方の竹村氏を嗣ぐ)、銓(可全と号す)、秉五郎(碧梧桐と号す)がいたが、彼らはその後の子規と深い縁を持つに至った。
          河東静谿の指導を受ける仲間でただちに同親会温知社が組織されたが、子規はこの仲間を「五友」と呼んだ(竹村鍛(静谿の子)、三並良(子規の母八重の従兄弟)、太田正躬、森(安長)知之、そして正岡子規の五人である)。ただ、静谿の塾には、子規の言う五友の他にも、子規の人生に深い関わりを持つ五百木良三(飄亭)、寒川陽光(鼠骨)、柳原正之(極堂)らも学んでいた。千舟学舎はその後の子規の活動の出発点であった。
          子規はここでも回覧雑誌を刊行するが、小学校時代とは違って漢詩文を内容としている。回覧雑誌としては、「五友雑誌:5」「五友詩文:10」「莫逆詩文(→近世雅懐詩文→近世雅感詩文と改称):全10集」や、同親会温知社の五友の範囲を広げた明新学舎のメンバーによる「明新社会稿」などが作成されたようである。
          この同親会温知社の活動は、子規の若き日の文学活動の基本をなしたもののようであり、詩会を行いその記録を「同親会温知社吟稿」(「同親吟会詩鈔」「秀頴詩鈔」(明治13年)、「吟稿」(14~5年)、「詩稿」(15~16年)、「莫逆詩集」(明治13~4年)としてまとめている。子規は、同親会温知社では香雲の名で発表している。【毎週金曜、年間100回】

          この回覧雑誌や「同親会温知社吟稿」からも分かるように、幼い頃から子規の記録癖・収集癖・保存僻は徹底したものがあった。雑誌とは別に自分の文集も編んでおり、「自笑文草1」は明治15年に編まれた文集だが、その内容は明治11~12年の勝山小学校在学中の作文27編(教師の評語つき)をまとめたものである。「文稿1及び3」は、明治14~16年の松山中学在学中の中学校の作文と明新舎(前述の河東静谿の詩塾の若手グループ)会稿(添削評点付き)をまとめたものである。こうした子規の徹底した記録癖・収集癖・保存僻は、大学時代にますます磨きがかかり、やがて早くも二〇代で「俳句分類」や「俳家全集」などを完成させるに至っている。このような膨大な事実記録に基づいた確信がなければ、子規の巨大な事業を進めることは出来なかったであろう。

          ●【記録癖・収集癖・保存僻とその他の趣味】
          すこし後の事業となるが、子規の記録・収集・保存活動がいかにすさまじかったかを「俳句分類」で眺めてみたい。「俳句分類」とは明治24年頃から子規が開始した、史上空前の主題別俳句選集編纂事業である。日本の俳句、室町時代の宗祇から始まり、幕末の月並宗匠たちにまで至る膨大な作品を分類するもので、10年以上にわたる作業で分量は65冊(活版印刷によるアルス版でも12巻)にのぼり、収録句数約10万句となっている。分類としては、俳句を四季雑に分類し、更に四季の各題に分類するもの(甲号と呼んだ)が最も多く、そのほか四季の事物以外の事物や句調の分類も含んでいた。後述する「獺祭書屋俳話」以下の著作の基礎となるデータベースであったと言えばある程度その事業の概略を言うことになるだろうか。
          さらにこの「俳句分類」と平行してそこで集められた句を活用して、主要俳人の古人句集である「俳家全集」(133名収録)を編み、また一俳人の秀句二〇句を選んだ「一家二十句」(初稿本150名、再稿本593名)まで編んでいる。あるいはそれら作家や句集を理解するための「俳諧系統」「俳書年表」「日本人物過去帳」なども編纂しているのであるから驚異的である。
          直接俳句や短歌には関係ないがこれに類したデータベースとしては、「評語集録」は詩文・絵画・人物の漢語による評語を列記したもので、子規の得意とした漢詩評や人物評で活用されたようである。
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          その他の趣味では、絵画がある。明治11年には森(安長)知之から『画道独稽古』を借りて筆写、画の稽古に熱中した。五友の仲間と出会ってからは仲間で書画会を作ってもいる。子規最晩年の「仰臥漫録」時代には爆発したように絵を描き、収集をしているが、その契機は小学校時代の経験に胚胎しているのであろう。前述の回覧雑誌のカットなどを子規自身が書いたりもしており、絵画熱が本格化するのはずっと先であるが、こうした挿絵などへの利用は継続して続いた。
          また、明治15年に最初の和歌を作って以来子規はなくなるまで短歌を作っており、これらは歌稿「竹乃里歌」に記録されている。これに対して、俳句の創作は意外に遅く、子規の句稿「寒山落木」には大学予備門(後の一高)時代の明治18年頃の句が載るのが最初である。俳句を作り始めたころには、すでに和歌に関しては、帰省に際し松山の桂園派歌人井出真棹に和歌の添削を受けており、子規の熱中度には差があったようである。おそらく、言志の文学である漢詩に最も近いのは和歌であり、幕末以来の志士の伝統は漢詩・和歌であった。政治的関心の強かった(当時自由民権運動は松山でも盛んであった)子規にとっては、漢詩の次は和歌という道程はごく自然なものであったようである。