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2013年11月22日金曜日

細見綾子の句【テーマ:細見綾子 武蔵野歳時記の世界】/栗山 心


【夫の薔薇】

 細見綾子の庭には、数株の薔薇があった。富山の人より送られ、寒風の時期に苗を埋めたものが、5月に咲き、その後は、様々な色合いのものが秋も冬も咲き誇っていたという。
深き息せむ夜の粗ら壁に薔薇さして 

夜雨はげし薔薇近づけて食事する (昭和32年 『和語』)
最初の夫と死別した綾子が再婚したのは、昭和22年、40歳の時である。夫は俳人の沢木欣一。

「戦争から帰って来てから一年あまり、北国の金沢市へこもつたまゝ黙つてしまつた彼が、突然身を起すやうに求めて来たものに、私は、ひかれて行つたのだった」「私は彼と結婚することにしました。(略)私は限りなく揺れて行かうと思ひます」 (『私の歳時記』所収「雪嶺」)

十ニ歳年下の沢木は、復員後の昭和21年、同人誌「風」を創刊し、俳壇の注目を集めていた、才気活発な若者だった。綾子は悩み抜きながら、結婚を決意。その後、俳句に「社会性」を打ち出した「風」は、「社会性俳句運動」の中心となる。綾子は、「風」の指導者として一翼を担いながらも、自らの俳句を生涯貫き通している。

そんな沢木の日常は、同業であり、主宰であることからか、綾子の随筆に描かれることはあまり多くはない。その中で、印象に残るエピソードは、薔薇の世話をする夫の姿である。

男が挿す冬薔薇一本づつ離れ (昭和37年 『和語』)
「夫も薔薇の世話だけはよくしてくれた。鋏を持ち出して花をきるのは、いつも夫である。伊賀焼の花瓶に花をさす。長さ短さを考えず、ただ切って来て、すぽっとさしただけの花が、この伊賀焼によく似合った。私がさした花よりも夫がたださした花のほうがおもしろかった」(『武蔵野歳時記』所収「薔薇」)
「『これは嫉妬かもしれない。』とも思った。そう思えるほど、夫の挿した薔薇は、どのようにも、新鮮味を持っていた」(『随筆集 花の色』所収「薔薇」)
綾子の第二句集『冬薔薇』は、昭和27年、長男が誕生した金沢の地で編まれた。同句集で第二回茅舎賞を受賞。第一句集『桃は八重』刊行後の昭和17年から、結婚前年の昭和21年の句までが収録されている。

凛とした気高さ美しさを持つ冬薔薇を、夫婦でありながら、独立した存在であった二人は、愛して止まなかったのではないだろか。

冬薔薇の日の金色を分かちくるゝ (昭和21年『冬薔薇』)


2013年5月31日金曜日

細見綾子の句~「細見綾子 武蔵野歳時記の世界」/栗山 心

【父の山茶花、母の牡丹】

わが家の牡丹

牡丹と知りて紋白蝶とまる 
牡丹の咲きし日数を指折りて 
牡丹十日母にものいひ過ごしたり

細見綾子は、明治四十年(一九○七年)、兵庫県氷上郡芦田村に生まれた。父・細見喜市は、農業、芦田村村長などを務めた、素封家であったようだ。武蔵野の綾子の家の庭の中央にある牡丹は、この郷里・丹波の生家の裏庭にあった古株を移したもの。四、五歳のころ写した写真に、この牡丹も写っており、綾子はその写真を撮った時のことを覚えていて、それが自分の記憶の始まりだという。

芦田小学校卒業後、兵庫県立柏原女学校に入学。入学を期に、寄宿舎生活を送り、翌年父が病没。牡丹は、その後に出会う悲運の人生を知らず、父母の元で幸せに暮らした少女時代を象徴しているかのようだ。

綾子の師・松瀬青々は、「むらぎもの心牡丹に似たるかな」という句を詠み、綾子は「わけのわからない心というものを、牡丹に似ているのではないかという作者の感慨は言い得ざるものを言い得ている」と評している。

「牡丹の花はこの上ない豊かさともに、他のものには見られない寂しさをあわせ持っている。むしろ寂しさが後に残る。」と、『武蔵野歳時記』に記した綾子。平成六年に、夫の沢木欣一監修の元に、綾子の米寿記念に出版された『綾子俳句歳時記』によると、牡丹を詠んだ句は百七句にも及ぶ。四月二十三日の母の忌日を詠んだ句も多く、牡丹の蕾を鑑真和上の写真と仏壇に供え、亡き母を偲んでいる。母に関しての文章はあまり多くはないが、京都に生まれ、機を織るのが好きで、家族の絣や縞の着物を織っていた。創意工夫を凝らし日々の生活を楽しんだ人のようであり、後年の綾子の印象に通じている。

   父の忌 
父の忌をあやまたずして白山茶花 
山茶花が咲きて日数のみづみづし 
山茶花の全身の花夕日まみれ 
山茶花咲く二夜ばかりは月夜にて 
ポストへの径吾が径に山茶花散る 
山茶花は咲く花よりも散つてゐる 
掃き寄せる凍てて散りたる山茶花を 

綾子の庭の山茶花は、昭和三十一年、武蔵野に越した際に、丹波から、父の育てた百年の古木をトラックで運んできたもので、当時は「山茶花が箱根越えをした」と、語り草になっていたらしいが、昭和六十三年に枯れている。その後、丹波から一緒に持ってきた苗木が育ち、父の命日の十一月一日頃に咲き始めるという。

父が亡くなった時、綾子は十三歳。「早くも別れたせいか、私は父について何ひとつ暗い記憶を持っていない」という綾子の父の思い出は、「百人一首のかるた取りの読み手をしてもらった」「(珠算が苦手な綾子のために)ノートにたくさん練習問題を作成して毎日練習させた」と、たわいもない。異性である父から距離を置くようになる思春期の入口で、家を出て、父と死別した綾子は、一生父恋いの思いを持ち続けていたのだろう。

牡丹と山茶花は、「自分はかなしむことだけを知ってゐるやうに思ふ」と、後に書いた綾子が、まだかなしむことを知らなかった時代の象徴である。


2013年4月5日金曜日

細見綾子の句【テーマ:細見綾子 武蔵野歳時記の世界】/栗山 心 

  
武蔵野市境南町。昨年春、細見綾子が晩年暮した場所に立った。新しい小体な住宅の並ぶ一角、広い敷地には、樹木が生い茂り、邸宅は廃屋となって長い時間が経っているようで、人の気配は無い。片隅には、ゴミなのか物置なのか、雑多なものが打ち捨てられている。これが、綾子の俳句や随筆で「庭の眺め」として何度も描かれた、美しかった庭なのか。

綾子の故郷・丹波より運んできた牡丹、山茶花、富山の知人より送られ夫婦で丹精したという薔薇、

蕗の薹喰べる空気を汚さずに

と詠み、愛して止まなかった蕗の薹、池のほとりに咲いていたという曼珠沙華、三月三十一日の誕生日に自ら切り取って花束にして祝った、という春蘭など、様々にエピソードと共に綾子の庭は存在するはずであった。愕然とする思いで往年の庭の姿を想像してみるが、上手くいかず、苦い思いを噛みしめた。我が家からバス一本で行ける近距離にありながら、その後この場所を訪れることが出来ずにいる。

細見綾子は、明治四十年(一九○七年)、兵庫県氷上郡芦田村に生まれた。大卒後結婚するが、すぐに夫と母を亡くし、父はすでに他界している中、本人も肋膜炎に罹り、若き日を療養生活で送ることになる。医師の紹介で俳人・松瀬青々と出会い、句作を開始。「野の花にまじるさびしさ吾亦紅」で「倦鳥」に初入選した時は二十三歳であった。

四十歳で、俳人の沢木欣一と再婚。金沢から、武蔵野市境南町と移り住み、「風」の運営に関わった。しかし「風」が「社会性俳句運動」の中心となった時代にも、自らの俳句を貫き通した俳人である。

故郷・丹波、師・青々の愛した大阪、新婚時代を送り一子を得た金沢、句作に通った奈良や、日本の各地。綾子の過ごした時間が、武蔵野のこの庭に集約されているのではないか。綾子は庭を見つめながら、生きてきた時間を見つめていたのであろう。

「今一番何が関心があるかと問わればそれは時間だと答えるであろう」と、句集『伎芸天』のあとがきで書いた綾子の「時間」が、この庭に凝縮されている。次回からは、この「庭の眺め」を中心に、細見綾子の俳句を読んでいきたいと思っている。