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2026年4月17日金曜日

【連載】新現代評論研究:天狼つれづれ(9):「実作者の言葉」…「蘇山人」 米田恵子

  前回(8)で、「病雁」の読み方(「やむかり」か「びょうがん」か)についての誓子の考証を取り上げたが、漢字の読み方はいろいろである。山口誓子記念館と銘打っている以上、たまに読み方、振り仮名の付け方の問い合わせがくる。大概の読み方は句集や全集・著作物に載っているが、そうでない場合正直困ってしまう。しかし、神戸大学には奥の手がある。それは句帖を見ることである。句帖から読みを類推できる場合がある。でも、慎重の上に慎重を期すことは言うまでもない。

 ところで、「実作者の言葉」に「蘇山人」という美少年の名が『天狼』昭和24年4月号に出て来る(「(北大路)魯山人」と間違えないように)。誓子は、すでに昭和21年6月号の『文藝春秋』に「蘇山人」について書いている。どうして「蘇山人」について書こうと思ったのか、その理由は書いていないが、推測するに、その文中にあるのだが明治32年の蕪村忌の大きな写真を見たとあるので、これがきっかけではないかと思う。明治32年12月24日の写真である。これはネットでも見ることができる。中央に正岡子規が少し横を向いて座り、その後方に支那服で辮髪の、いかにも清国の留学生という少年が蘇山人である。

 『天狼』に出てきたのは、昭和23年8・9月号から始まった東京勢による「子規俳句研究」の(五)(昭和24年4月号)に「蝶飛ぶや」の例句の1つとして蘇山人に関係した句が挙げられている。その句は、子規が22歳でなくなった蘇山人を追悼した「蝶飛ぶや蘇山人の魂遊ぶらん」という句である。

 誓子はすでに蘇山人について昭和21年に書いているため、不十分だったところを補おうと、例の考証好きの性格が出てきたようだ。次の6月号、さらに7・8月号においては、川田順からの葉書きに、川田順が高等学校時代に小山内薫の家で蘇山人に会ったとあり、そこから尾崎紅葉が出てきたりと、調べは広がっていく。9月号では、蘇山人の句が載っているという俳句誌『小天地』を示した人がいて、蘇山人の10句が載っている。誓子はこの10句を「砂中の金の如く」と珍重した。ただし句がいいと言うのでなく得難いところを手に入れたと言う意味であるということであった。しかし、池上浩山人から手紙で、浩山人は蘇山人の俳句を百句ばかり見つけ、これを機会に伝記を書いてどこかに発表しようかと書いてあったという。誓子は「あつと驚いた。僅かに十粒の砂金を一つ一つ掌に載せて珍重してゐる私に、浩山人は百粒の砂金を手掴みにして示されたからである」と述べる。きっと、ああ先を越されたという気持ちであろう。

 そうして、11月号には、池上浩山人が『現代俳句』8月号に「清國の俳人蘇山人」を発表した。誓子は「貴重の文章であつた」「氏 (池上浩山人)が、蘇山人の遺句を百十句獲られたことは瞠目に値する」と再び褒める。ただ、負け惜しみというのは言い過ぎかもしれないが、蘇山人の出生地については不明な点があると述べる。

 そこで、誓子は『明治百人十句』(昭文堂、明治43年)を調べると、蘇山人も明治の百人中の一人に数えられ、写真と作品が載っていたと言う。その写真は明治32年の蕪村忌の写真よりもずっと美しかったと誓子は書く。今この『明治百人十句』を誓子は所蔵しているかと書庫を調べると、な、なんと、所蔵していた。その写真を見ると、美少年というよりきりりと引き締まった青年の顔であった。誓子の蔵書は、三重県鈴鹿市で昭和28年9月の台風による高潮の被害でほとんどの蔵書を流されたというが、意外に多くの書籍が苦楽園に運ばれていることが分かる。それだけ、伊勢湾岸に住んでいたときの蔵書も神戸大学にあるということだ。

 ここで、また、私は誓子の蔵書の豊かさと誓子のその考証精神に驚かされるのである。

2026年3月13日金曜日

【連載】新現代評論研究:『天狼』つれづれ 第8回:「実作者の言葉」…「病雁」の読みについて  米田恵子

  誓子の探索好き、考証好きは終わらない。『天狼』昭和23年7月号の誓子の「実作者の言葉」に「病雁」が出て来る。芭蕉の俳句「病雁の夜寒に落て旅寝かな」の「病雁」の読み方である。「ビョウガン」と読むか「ヤムカリ」と読むかである。「病雁」は、昭和23年7月号、8・9月号、10月号2回、11月号2回、昭和24年2・3月号2回、4月号2回の合計10回も出て来る。

 まず、初出の7月号では、斎藤茂吉が漢詩から繙き「ビョウガン」と読むという茂吉の結論を得た。また、「ビョウガン」と読むべしという数人の研究者もあげる。一方、もちろん「ヤムカリ」と読ませる学者もいることにふれる。しかし、誓子はどれも鑑賞的立場からの考察と述べ、決着をつけるには、文献的立場からの調べが必要だと説く。

 そこで、誓子は『猿蓑』『泊舟集』『去来抄』『芭蕉翁略傳』を見ていくが、読み方には触れていないと言う。読み方の手がかりはなかったようである。さらに『日本俳書体系』所載の『風俗文選』には、「ビョウガン」と読ませるように仕向けているかのようだとも書く。ただ、其角の『枯尾華』(芭蕉翁終焉記)に「病ム雁」とあり、これを踏まえて頴原退蔵は『枯尾花』に「病ム雁」と載っているから「ヤムカリ」と読むのが妥当としていると紹介する。

 そのほか、『天狼』の読者である若い理学士のI氏からの手紙には、学者のうちに「ヤムカリ」と読ませる学者もいるが、「ヤムガン」とも読めるという学者もいるという指摘があった。そこで、11月号からは、「雁」を「カリ」と読むか「ガン」と読むかの問題に及ぶ。俳人で薬学者の内藤吐天が江戸時代の俗語では「ガン」と読んでいたから「ヤムガン」が正しいというのを聞き、誓子は内藤吐天に手紙を書いて実際に確かめたことも書かれている。誓子の探求心に感服である。

 「病雁」の読み方は、さらに読者からも手紙をもらい、広がっていく。「病気の雁」が「ヤミカリ」、「病める雁」が「ヤムカリ」と誓子なりに考えたことを確かめるため、国文学者の鈴木太吉に聞き、「ヤミカリ」という読みも可能だという結論を得た。これではますます闇は深くなる。

 最後の昭和24年4月号では、「ヤム」か「ヤミ」か両方とも可能である例を、「刈」の読み方の「カリ」か「カル」をあげ紹介する。「カリ」は「刈上(カリアゲ)」「刈株(カリカブ)」「刈込(カリコミ)」である。「カル」は「刈萱(カルカヤ)」「苅人(カルヒト)」「刈藻(カルモ)」である。誓子は、言語学者のように実例を『古今集』(これは古写活字本で小林一三氏より贈答されたもの・現在も所蔵)を調べ用例を集めている。

 さらに、結論に行く前に、「病雁の夜寒に落て旅寝かな」の「夜寒」と「旅寝」の読みを問題とする。「夜寒」は「よさむ」、「旅寝」は「たびね」が正しいであろうが、その訓読みから「病雁」も「ヤムカリ」と読むわけではないことを言うために、誓子は『日本俳書体系』の「芭蕉全集索引」から、芭蕉は漢語の読み方を一句の中で訓読みか音読みかを揃えることはないということを突きとめ、最後に次のように言う。

 芭蕉は必ずしも訓を揃へたりはしなかつた。訓を揃へむとして「病雁」を訓読するのは個人的嗜欲に過ぎない。(誤解があつては困る。私は当初から「やむかり」説であつて、「びょうがん」説を援護するのではない。たゞ、嗜欲的方法によつて「やむかり」説を固めることを欲しないのである)

 結局、読み方の決め手になるようなことは出なかったのである。ただ、誓子は「ヤムカリ」派であるが、決して好みや思い付きではなく、言語学者顔負けの探求心で文献を調べた上での言であると言いたかったようだ。ちなみに、私は何も考えることなく「ビョウガン」と読んでいた。

2026年1月30日金曜日

【連載】新現代評論研究:『天狼』つれづれ 第7回:「実作者の言葉」…「頭燈」について 米田恵子

 『天狼』昭和23年6月号の誓子の「実作者の言葉」に「頭燈」が出て来る。『天狼』2月号の「寒き夜や汽車の頭燈罅走る」という句の「頭燈」に首をかしげる人がいる、つまり「頭燈」という言葉に前例がないのではないかということである。ここで、誓子の例の探索が始まる。誓子は、head lightの直訳として「頭燈」と用いたという。これは、すでに志賀直哉の小説「灰色の月」に「頭燈」が出ていると述べる。しかし、使い慣れている英和辞典にはhead lightで「前燈」という訳語が載っているため、「前燈」を使った「暖房車闇に前燈ぎらつかす」という句も作っているが、「寒き夜や」の句も「頭燈」よりも「前燈」の方が適切かもしれないが、実際に四日市市富田の駅の踏切で、まじかに見たD51型の機関車のhead lightを仰ぐようにして見たため、「頭燈」のほうがいいと思ったのである。

 誓子は、句ができた実景から「頭燈」という言葉を思いついたようであるが、中野重治の『汽車の罐焚き』(誓子文庫所蔵)という小説になら機関車用語が出ているだろうと丹念に読み返してみたが、これには残念ながらなかった。そこで、『機関車名称図解』(誓子文庫所蔵)を調べてみると「前照灯」と出ていたそうだ。これが正式名称であろう。しかし、誓子は書物の上の知識では満足できず、鉄道医官のM氏(このM氏の名は特定できなかった)に聞いてみた。M氏の結論としては「前燈」は「前照燈」が正しいということだそうだ。M氏の手紙には最後に誓子の問題になった「寒き夜や汽車の頭燈罅走る」の「頭燈」が浜松工機部でも問題になったそうだが、M氏は気に留めなかったということである。他にも用語の使い方に疑問を持った人たちがいたのである。しかし、言語芸術としての俳句の中で使われる言葉は詩語であり、作者の俳句を作ったその様子や感情が言葉となって表されるものである。だから、専門家から見たら言葉の使い方がおかしいかもしれないが、俳句としては立派に成り立っているのだから、それでいいではないかと思うが、誓子の探索好きというか考証好き終わらない。

 同じ号に続けて「頭燈 ふたたび」により、誓子は「気罐車」と「機関車」の書き分けについて述べる。誓子は、「機関車」は事務的で冷酷で素っ気ない述べ、せめて俳句では「汽罐車」を使いたいと「機関車の話」(毎日新聞昭和9年5月19日付)で述べた。「大阪駅構内」「寒夜駅頭」では「汽罐車」を使用し、「ワゴン・リイ」では「機関車」とした。「ワゴン・リイ」はアガサ・クリスティの小説に出て来るあのオリエント急行の客車である。誓子の区別は「汽罐車」の「汽罐(かま)」という字には古風な小柄な感じがあって、「ワゴン・リイ」を牽引するような、新しい形の黒くたくましいのは「機関車」という漢字が当てはまるということだ。

 「頭燈」は『天狼』(昭和23年10月号)に「頭燈 みたび」には、M氏は正式には「運輸技官」だそうであり、「前照燈」は列車の夜間における「前部標識」であり「尾燈」は夜間における「後部標識」が正式名称らしいということが書かれている。

 変にこだわるから、誓子はだんだん引くに引けなくなってしまっている。専門的には使用しない言葉でも、実際の感動を言葉にする俳句も言語芸術なのだから、そこで浮かんできた言葉は詩語なんだと突っぱねてもいいのではないかと私などは思ってしまう。容赦なく否定しないところが誓子の『天狼』に向き合う真面目な態度かもしれない。前例があるのかどうかを丁寧に調べ、文献では頼りないから実際に携わっている人に聞いてみる。

 誓子には鋭い読者が大勢いるため、その読者からの指摘もないがしろにしない。まだまだ、誓子の探索好きや考証好きは続いてゆく。


2025年12月26日金曜日

【新連載】新現代評論研究:天狼つれづれ(6)「実作者の言葉」…「遠星」  米田恵子

  『天狼』昭和23年1月号の「実作者の言葉」に「遠星」「遠星 ふたたび」という項目が2つ出て来る。「遠星」は、昭和22年6月に出版された句集の題名である。誓子は「星の遠いことは、もとより云ふまでもないことである。その中、とりわけ光微かなる星を、私は遠星と呼んだ。眼を凝らせば、いよいよ遠く見えるといふような星である」と述べる。

 句集『遠星』の出版について、その後記に「遠星の名は」野尻抱影との「訂交を記念する為のものである」と誓子は書いている。「訂交」は中国語で「交流」という意味であり、それは『星戀』の出版を意味する。句集『遠星』出版の前に、昭和21年6月に『星戀』が出版されているからだ。これは、戦前から誓子の星の俳句に興味をもっていた野尻抱影が、誓子に誓子の俳句に自分の随筆を載せた本を出版しないかと持ちかけたことから実現した。野尻抱影は、英文学者であるが、星に興味を持ち、星の異名を集めたりといった民俗学的な研究をしている学者でもある。今、戦争で人々の心は疲弊している。だからこそ、誓子の星の句と自分の随筆で人心を慰めたいと考えたのである。もちろん誓子は拒否する理由はなく、出版の運びとなる。意外と知られていない誓子と野尻抱影の『星戀』である。

 さらに「遠星」については、『天狼』昭和23年3月号に「遠星 みたび」として登場するが、1月号で「遠星」という語は自分の造語と断言していたが、『佩文韻府』と『啄木歌集』に「遠星」という語が出ているため、自分が作った言葉でないことを暗に伝えている。

 句集『遠星』は誓子が付けた題名であるが、では、結社「天狼」の命名は誰なのか。それが野尻抱影である。誓子は、句集を出したいが、どういう名にしたらいいかを野尻抱影に相談した。野尻抱影は「天狼」を提案した。しかし、妻の波津女が、「狼」という漢字から「こはい名前」と言ったため、句集名としては「天狼」ではなく、誓子は「遠星」を使った。しかし、「天狼」は昭和23年1月に創刊した俳句誌名つまり結社名とした。これには、波津女も賛成した。英語名はシリウスであるが、中国名の「天狼」、やはり、怖そうな名前である。私も波津女の気持ちはよくわかるが、「天狼」は誓子を象徴する結社名にはふさわしいかもしれない。冬に燦然と輝く一等星、シリウス、天狼である。

 ところで、話は変わるが、神戸大学にスターバックスができた。山口誓子記念館の隣の建物の2階に2024年10月に開店した。私のような世代の人間には、大学にカフェ?流行るの?採算が合うと見込んだから、出店したんだろうけれども、本当、大丈夫?職員には給湯設備があるし、先生たちもそれぞれの研究室にはコーヒーやお茶を入れられるようになっている。学生は?自販機なら100円少しで飲めるコーヒーに1000円近くもお金を使うだろうか、なんて勝手に考えていた。お客さんが入らなかったどうするんだろう、なんて心配もし、そこで、私にひらめいたことは、誓子の『星戀』である。10月と言えば、神戸大のスターバックスからの眺めは最高になる。夜景が本当にきれいで、神戸の夜景は100万ドルなんて言うが、それ以上の価値があると私は思っている。その夜景を背景に誓子の『星戀』の俳句とその自解を朗読するのはどうであろうか。集客にはならないかもしれないが、朗読後のコーヒーは格別だし、売り上げにも貢献できるというものだ。

 しかし、豈はからんや。スターバックスは流行っているようだ。いいことである。でも、「誓子俳句朗読の夕べ」はどうであろうか。


2025年10月10日金曜日

【新連載】新現代評論研究:『天狼』つれづれ 第5回:「実作者の言葉」…「書」  米田恵子

  『天狼』昭和23年3月号の「実作者の言葉」に「書」と題した随筆が載り、続けて「書 ふたたび」と出てくる。そして、5月号の「実作者の言葉」にも「書 みたび」、8・9月号に「書 よたび」と出てくる。

 誓子の書は、少し丸みを帯びた、細い字であるが、芯の強そうな書である。しかし、決して達筆とは言えず、書道をきちんと学んだというより、誰も真似のできない独自の書である。しかし、そこに至るまでには、いろいろと変遷が見られるのである。いきなり、「誓子流」が完成したのではない。むしろ、誓子ほど書の変化がみられる俳人はいないのではないだろうか。私は「誓子と書―「誓子流」の完成―」(『日本文化論年報』第14号、神戸大学大学院、2011年)において、いわゆる「誓子流」の完成までを、誓子の揮毫や署名の変化から5期に分けて考察した。

 学生時代の書が野風呂記念館(京都市)に保存されているが、書道を学んだとは決して言えない、素朴な楷書である。「素朴」と言ったが、晩年の書から想像できない書である。そこから、誓子は独自の「誓子流」を編み出していった。

 そんな誓子には「書」に関して転機が2つあると私は考える。

 1つ目の転機は波津女との結婚である。波津女は少女のときから、奈良高等師範学校の書道の教授に家に来てもらって、家中で習っていたのである。波津女の書は、誓子とは正反対で、流麗なくずしで「水茎の跡麗しく」と形容されるが、まさにその通りの書であり、誓子とは違い、終生その書は変わらなかった。その書道の教授の手本帖が残されているが、驚いたことにその書はまったく波津女の書と同じであった。波津女も真面目で几帳面な性格であったためか、お手本と寸分たがわぬ書であった。

 ところで、誓子は、良寛のような字を書きたいと目標にしていたが、波津女との結婚によって、誓子の書の先生は実際は波津女であった。ご遺族のお話によると、芭蕉などの江戸時代のものや短冊や色紙もくずしが分からない時は、誓子は波津女によく聞いていたそうである。草書のくずしも、波津女から学んだのである。だからかもしれないが、俳句の作品展で、波津女の清書を誓子の自筆だとした解説があり、これは誓子の自筆ではなく波津女の清書ですと何度か指摘したことがあった。夫婦とは、やはり似てくるものである。わたしなどは、ほほえましく思うところである。

 2つ目は、戦争中、誓子は結核の療養のため四日市市にいたが、空襲のため防空壕に避難するが、そこで誓子は一巻本の『草字彙』を持って入り、指で宙に草書を書いて練習したという。空襲時に何という悠長なことをしているのかと批難を受けそうであるが、誓子の気持ちは、いつ死ぬかわからない時だからこそ、自分を鍛えられるだけ鍛えよう、このままで死んでしまうと恥ずかしい思いをする、だからこそ、俳句と書を極めようとしたというのである。私なら死を覚悟したとき、何を思うだろうか。山口誓子のことは、まだまだ分からないことがあり、私には理解できないところもある。だからこそ、山口誓子を極めようと思うのだろうか。

 ところで、「実作者の言葉」の「書」では、まず、永田耕衣から揮毫するときの遅筆を指摘され、遅筆に関する先人の考えを知ろうとして『玄抄類摘』や中国の書籍から漢文を引用したり、「書 ふたたび」では、漢文の他に鬼貫、藤村を引用する。「書 みたび」では、『孫過庭書譜』の漢文をそのまま引用したが、その読みに誤りがあると読者から指摘を受け、「書 よたび」に、書き下し文を載せる。誓子も書いているのだが、漢文が分かる人は読むだろうが、ほとんどの人は読まないと。私も漢文そのままのところは読みとばしていた。

 それにしても、「実作者の言葉」には、丹念に調べる誓子が出てくるのであるが、負けず嫌いの性格がそうさせるのだろうと思う。

2025年8月22日金曜日

新現代評論研究:『天狼』つれづれ (4):創刊号「実作者の言葉」…「定型」「現実」/米田恵子

 『天狼』の「実作者の言葉」は、主宰である山口誓子の「言葉」である。昭和23年1月の創刊号から昭和25年12月まで続いて中断した。「実作者の言葉」の内容は多岐にわたる。随筆のようなものから、そのときどきに誓子が関心を持っていたこと、あるいは『天狼』に発表した俳句やもっと前に詠んだ俳句についての誓子の言い訳のようなものなどが掲載されている。

 例えば、創刊号には、「定型」という題で、一回では納得がいかなかったのか、同じ号に「定型 ふたたび」と書き、同じように「現実」という題で「現実 ふたたび」と繰り返す。

 「定型」では、『ロチの結婚』(1872年、フランス海軍士官としてタヒチを訪れ、島の女王の寵遇を得たピエール・ロチが書いた実際の体験のような小説)の挿話の引用である。タヒチの王女が小鳥を放つという場面で小鳥たちは戸を開いても出てこず、一羽一羽手で出して森に放したという。「定型 ふたたび」では、内田百閒の『新方丈記』から、飼っていた目白の餌やりをするとき、戸を開けていても目白は出て行かないという。目白は籠の外へ出ると生存競争に負けてしまうと知っているから出て行かないと内田百閒は書く。

 そもそも「定型」とは、俳句では五・七・五である。俳句を俳句たらしめている文学形式と言っていいだろう。誓子はただロチと内田百閒の文を引用するだけである。あとの解釈は、読者に任せられているのだろう。というわけではないが、私なりに解釈してみる。

 「第二芸術論」で俳句がレベルの低い芸術だとされ、さらに新しい俳句を模索する俳人でもある誓子は、自由律ではなく、江戸時代以来の「定型」にこだわる姿をタヒチの王女の小鳥や百閒の目白に見たのだろう。悪い意味にとれば、「定型」という籠から出て新しい俳句を求めればいい、求めたいがそこから抜け出せないという意味にとれる。一方、いい意味にとると、「俳句」は五・七・五「定型」が基本である。これは破ることはできない、これを守り抜くのだという意味にもとれる。誓子は、後者のほうであるが、敗戦により新しい時代を迎えたのだから、俳句も五・七・五という殻を破って新しい方向を目指してもいいのではないかという誓子の迷いともとれる。明確な答えを出していない「定型」「定型 ふたたび」である。

 次に「現実」「現実 ふたたび」についてふれる。「現実」では、ゲーテの「現実から詩の動機と材料を得なくてはならぬ。私の詩はすべて、現実に暗示され、現実を基礎としている。捏造した詩を私は尊敬しない」を引用し、誓子は「現実尊重」を言う。「現実 ふたたび」では、芭蕉の「俳諧の益は俗語を正す也。つねに物をおろそかにすべからず」(くろさうし)を引用して、ゲーテの言との共通性を見いだす。誓子によると、「正す」は、俗語を詩語の高さにまで高めることであり、これは言語だけでなく、詩の対象である現実についても言い得るとし、「つねに物をおろそかにすべからず」は「現実を大切にする」つまり「現実尊重」ということになる。ゲーテと芭蕉の言葉における共通性を見いだす誓子である。

 誓子の「現実尊重」という作句姿勢は、例えば、スポーツを詠んだ俳句において、誓子が実際に行ったスポーツの俳句しか作っていないことがいい例であろう。誓子が親しんだスポーツは、樺太でのスキー・スケートであり、樺太から転校してきた京都一中でのラグビーとの出合いである。スポーツに関してはこの3つのスポーツの俳句を作っていて、誓子は他のスポーツの俳句は作っていない。ただし、野球については、『天狼』の会員にも阪神ファンが多いと推察するが、ナイターを見に行ったり、高校野球のゲストとして甲子園に行ったりしているため、ナイターや甲子園球児の句を作っている。

 今回も、前々回「(2)『天狼』創刊号の「こほろぎ」」と同様創刊号の「実作者の言葉」について書いてみたが、月一回と継続して書くことの難しさを痛感する。よく雑誌などに毎月連載している作家がいるが、私にはできないと反省している。あせらないで、『天狼』と向き合っていきたいと思う。

2025年6月27日金曜日

【新連載】新現代評論研究:『天狼』つれづれ(3)『天狼』創刊に際し/米田恵子

  前回の「『天狼』創刊号の『こほろぎ』」で、主宰山口誓子の「実作者の言葉」は「昭和42年11月まで続く」と書いてしまったが、これは誤りであった。創刊号(昭和23年1月号)から昭和25年12月まで続き、その後一時中断し昭和31年2月号から復活する。これは、ちょうど、編集長が山口誓子から平畑静塔に移った時であり、静塔の配慮により復活したのである。

 とかく雑誌を出版するには、編集長を誰にするかは重要なことであろう。『天狼』の場合、編集長に西東三鬼がなることは、誓子の句帖の昭和22年6月15日に書かれているように、創刊の半年前には決まっていたようである。

  一、山口誓子氏顧問とす(作品並びに文章を書く)

  二、同人を限定し、その力作を選抜発表

  三、西東三鬼氏を編輯者とす 

 創刊に関して西東三鬼が動いたことは確かであり、出版社である養徳社との交渉、用紙の手配に関しては鈴木六林男との折衝など、関西と東京を往復しての活躍は、四日市市で静養している誓子にはできないことであり、三鬼の働きなしでは『天狼』は生まれなかったであろう。

 世間では待ち望まれていた誓子の『天狼』創刊であるが、実際には遅刊や、ついには合併号となる事態に陥っていた。一応、前月の「二十日印刷」その月の「一日発行」となっているが、実際は遅れたり、昭和23年8月と9月は合併号となってしまったりした。この危うい状態は、その後も続き昭和24年7月8月も合併号となってしまった。結局、これではいけないということで、昭和24年11月の編集後記には、三鬼と誓子の共同編輯となり、誓子が運転台に立ち、三鬼が車掌になって『天狼』を運営していくと述べている。しかし、ついに、昭和25年5月、『天狼』の発行所が養徳社から天狼俳句会に変わることを機に、編集も三鬼から誓子へと替わった。また、一般読者の投句も3句から5句へとなった。

 この編集長の交替について、誰も述べていないので、以下は私の推測となる。西東三鬼は、戦後すぐに新俳句人連盟(昭和21年)を結成したことなどから、人を集めたり何かを計画したりというようなことには長けていたと思われる。

 ここに誓子と鼓ヶ浦(当時住んでいた鈴鹿市)で昭和24年に写した写真がある。後ろに手をまわし直立不動に近い和服姿の誓子と、口髭に銀縁の眼鏡、三つ揃いのスーツを着こなし、右手に長めのフィルターパイプをつけた煙草を持ち、左手をズボンのポケットに入れ斜に立つ姿はダンディとしか言いようがない。そんな三鬼の性格は社交的で、おそらく誓子とは正反対と思われる。誓子は真面目で几帳面な性格である。雑誌の編集には、やはり真面目で几帳面な性格が向くのであろう。結局、他の同人たちも本業があり、比較的時間のあるのは療養中の誓子であるため、編集を担当せざるを得なくなったのだと推測する。

 しかし、誓子といえども、療養中であり、病状は順調に快方に向かっているとも断言できない状態なのである。お気づきの方もあると思うが、句帖に書かれている「一、山口誓子氏顧問とす」というメモに引っかかるのではないだろうか。昭和22年6月15日の句帖の同じ頁には、おそらく『天狼』創刊に際し、解決しておかなければならない6つの重要事項と思われるメモがある。それは順に書くと「健康のこと」「対馬馬醉木のこと」「編輯人のこと」「内部融和のこと」「時期のこと」「資金、用紙、印刷のこと」である。1番初めにあるのが「健康のこと」なのである。しかしこれ以外の項目は雑誌創刊に必須のことであろう。

 誓子は、『馬醉木』の同人であり、主宰の水原秋桜子に『天狼』創刊を理解してもらわねばならないであろうし、編集も大事な仕事である。創刊同人は、有季定型の誓子に対し、無季俳句も作っていた『京大俳句』の会員も多く、内部の統一もはからねばならないであろう。また、出版の時期と資金、用紙、印刷所のことなど(私などはこれが先決問題だと思うが)は出版に関しての当然の心配事であるが、誓子にとっては何よりも第一に気にかかることは「健康のこと」だったのである。西東三鬼や平畑静塔には「主宰に」と言われていただろうが、内心誓子は主宰として結社を背負っていくことに対し健康面で自信がなかったようである。だから、自嘲気味に(?)、少しふざけて(?)、ユーモアをこめて(?)、「山口誓子氏顧問とす」と書いたのではないかと私は推測する。

 いずれにしろ、『天狼』は山口誓子主宰で昭和23年1月創刊された。

2025年5月23日金曜日

新現代評論研究:『天狼』つれづれ 第2回:『天狼』創刊号の「こほろぎ」/米田恵子

 『天狼』は養徳社から昭和23年1月に出版された。「出発の言葉」にある「根源」が問題になり、同人たちが各々の見解を展開していく。結局、誓子自身は人それぞれに根源があるというようなことを言って、主宰として自分の「根源俳句」については明らかにしなかったように思われる。「思われる」としたのは、正直に言うと、私自身まだよくわかっていないためであり、いつかは自分なりの考えを持つことが出来たらと思う。

 今回は、『天狼』に掲載している「実作者の言葉」について述べてみたい。これは、毎号の『天狼』に載る誓子自身の言葉であり、昭和42年11月号まで続く。そこには、誓子の現時点での関心事や調べたことの詳細が載る。では、創刊号の「実作者の言葉」には、いったいどんなことを話題にしているのか、どんな俳句が紹介されているのかは、興味を持つところだと思う。

 誓子が一番初めに挙げたのは「こほろぎの無明に海のいなびかり」という句であった。

 誓子はいきなり「この句から私の衰退がはじまつたと云ふひとがある」から始める。概して、「実作者の言葉」には自分が書いた俳句や随筆の記述に対しての言い訳が多いように思うのは私だけではないだろう。まず、誓子は次のように自解する。

 暗夜で、庭にこほろぎが鳴いてゐた。ときどき、海にいなびかりが閃いて、海を照らし、庭を照らしした。そのひかりは一瞬、こほろぎを照らしたであろう。しかし、もとより眼の見えぬこほろぎの感知する筈もない。

 陸の空ならで、海の空に閃くいなびかりを、あはれと私は見たが、それにも増して、身をいなびかりに照らされつつ、それを感知せぬこほろぎを一層あはれと思はずにはゐられなかつた。こほろぎの、黒一色の世界にかかはりなく、いなびかりは又しても海のおもてをひらめかす。

 私はこれを句にしたのだが、わからない人も多い。

 最後に、「わからない人も多い」と誓子は歎く。この「わからない」理由の一つを誓子は「蟋蟀は眼が見えない」ということを人は知らないということに求めた。私ももちろん蟋蟀は眼が見えないということは知らなかった。誓子は、吉植庄亮の短歌「白露の光のなかの蟋蟀は眼に見ゆる何ものもなし」を引いて、蟋蟀の「眼が見えない」をすでに短歌にしている人がいる。吉植の短歌の前には斎藤茂吉の「ふりそそぐあまつひかりに眼の見えぬ黒き蛼(いとど)追いつめにけり」「畑ゆけばしんしんと光降りしきり黒き蟋蟀の目の見えぬところ」の句があり、蟋蟀は眼が見ないことは既に先人も詠っていることにより証明する。

 次に、掲句をさらにわかりにくくしているのは、「無明」という言葉ではないかと行きつく。誓子は蟋蟀の眼が見えないことを「明無し」と「無明」という仏語(仏教用語)で表したのである。「無明」を「仏語」ではなく「詩語」として使ったのだが、それがかえって読む人に誤解を与えたのではないかと考え、本来の「無明」の意味を調べ始める。誓子は『大蔵法数』『仏教字典』『宗鏡録』『大法炬経』『仏説決定義経』という辞典類をひもとき、漢文を1つ1つ載せているのである。いちいち調べるその執念に驚かされるが、この執念(言葉は悪いが「ひつこさ」)は後々の「実作者の言葉」にも見られる。

 こうして、「無明」の意味は、「明了スル所無シ」つまり「無知(知らないこと)」が元の意味であるため、わかりにくくしていることを悟る。ただ、誓子の弁明として、「眼が見えないこと」を仏語の「無明」を詩語として使ってもいいではないかということと、蟋蟀は眼が見えないというのは斎藤茂吉も詠っているのだという2つの弁解を述べて終わる。

  こほろぎの無明に海のいなびかり

 私は、この句から誓子の「衰退がはじまつた」とはけっして思わない。病を得て、療養のため四日市という海と山に恵まれた新しい環境で、新境地を開いたと言ってもいいのではないかと考える。

 最近この句の軸をネットオークションで手に入れ、今年(2025年)の秋の山口誓子特別展に展示する予定である。「誓子と戦争」というテーマであるが、転地療養に来ていた四日市の海辺の家で、しかも昭和17年、ちょうど太平洋戦争が始まり日本が泥沼にはまり込んでいくときに詠んだ句として紹介するつもりである。展示のためのキャプションには上記に書いたようなことまでは書けないので、書く機会を得て幸いである。

2025年4月11日金曜日

【新連載】新現代評論研究 『天狼』つれづれ(第1回):『天狼』と養徳社 神戸大学山口誓子記念館 米田恵子

  『天狼』は、昭和23(1948)年1月創刊の山口誓子主宰の俳句雑誌である。奈良の旅館日吉館で句会を開いていた西東三鬼、平畑静塔らが、戦時中橋本多佳子のもとに疎開させていた誓子の句集『激浪』の句稿を読み、誓子の並々ならぬ俳句への思いに感激し、新俳句雑誌の創刊を思い立ったのである。中心となったのは西東三鬼で、東京と関西をかけまわり発刊にいたった雑誌である。 

 ここまでは、知られていることだが、意外と知られていないのは『天狼』がどんな出版社からどのように発刊されたかである。

 『天狼』は天理市にある養徳社より出版された。これについてはよほどの誓子ファンでないと知らないかもしれない。養徳社は、『天狼』創刊当時の住所は奈良県丹波市町川原城で、今は天理市川原城町となっている。『天狼』が創刊された当時と変わりなく、養徳社は存続し、機関誌として『陽気』を出している。今は、主に天理教関係の出版をしているようである。

 このように、養徳社に関しては、知る人ぞ知るというぐらいにしか知られていないかもしれないが、私は平成13(2001)年開館の神戸大学山口誓子記念館に勤め、誓子の蔵書・資料・遺品の整理・管理の仕事をしているが、私は今から50年ほど前、言い換えれば山口誓子の仕事をする前から養徳社という出版社の名前を知っていた。若いころドイツ文学をかじっていたので、恩師であるリルケ研究者の高安国世の翻訳が、戦後まもない頃養徳社から出版されていたからである。リルケの『若き詩人への手紙』や『ミュゾットの手紙』、大山定一の『マルテの手記』などの翻訳が養徳社から出版されていたため、その名前を記憶していた。そして、『天狼』の出版社も養徳社であることを知り、驚いたり、少しご縁を感じたりして嬉しくなったものだった。 

 なぜ、京都大学の先生たちの訳書が、先生たちは天理教信者ではないし、天理の出版社から出ていたのは、正直不思議であった。しかし、山口誓子に関わるようになり、少し頭を働かせば、分かることであった。それは、第二次世界大戦の空襲で、大阪や東京は壊滅的な打撃を受けていた。印刷所も多くは焼けていた。しかし、天理は空襲もまぬかれ、紙もあったのだろう、だから、戦後数年の出版を養徳社が引き受けていたと考えられた。

 このたび、養徳社のHPを拝見すると、「営利にとらわれずに良書を発行し、わが國出版文化の発展に貢献する」という天理教2代真柱の構想のもとに、昭和19(1944)年10月14日に天理時報出版部を発展的解消して」新たに養徳社が設立されたということである。設立は昭和19年、まさに終戦の前年である。現在の養徳社社長の永尾教昭氏(前天理大学学長)のお話によると、戦争も拡大し、戦況も悪化するなかで、このままでは日本の良い文化も失われてしまうという危惧のもと、出版には欠かせない紙を、当時配給であったが、集め蓄えていったそうである。養徳社の設立の時には、谷崎潤一郎なども列席したそうである。

 この先見というのか、このままでは日本の文化がどうなるか分からないという危機感をいち早く持ち、どうしても日本の文化を守らなければならないという使命感とその意志に頭が下がる思いである。そのおかげで、リルケの翻訳や『天狼』が出版されたのである。山口誓子も救われたことだろうが、外国文学の研修者たちも感謝したのではないか。

 後年、養徳社に関して平畑静塔が次のような文を残している。


天理教の出版部であった養徳社が、当時監査では一番良心的な出版をして居り、実力資力のあったので、奈良方面の支持者の手で、「天狼」を引きうけてもらったが、創刊号は売切れた。(『創刊号物語』第2巻、俳人協会、邑書林、1998年)

 

 よくぞ、養徳社! 紙を蓄えていてくださった。ありがたいことだ。

 その後、『天狼』は、昭和25(1950)年、いつまでも養徳社の庇護のもとにあってはいけないということで、5月号に「發行所變更について」という小さな記事を載せ、発行所としての養徳社の名前は消える。翌6月号では巻頭のページに天狼俳句会と養徳社の連名で「御挨拶―発行所変更について―」という記事を掲載する。養徳社との円満な了解が成立し、経理の面でも引継ぎを完了したと記されている。

 『天狼』も創刊3年で養徳社から独立できたが、完全な自主経営は難しく、共同印刷社に発行経営を任せていたようだ。これが解消され、真の意味での自主経営が実現したのは、昭和35(1960)年3月、新発行所として、大阪市内伏見町の青山ビル(少彦名神社の北隣)に事務所を構えることができた。この青山ビルについても書き出すと長くなるので、今回はここまでにする。