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2017年8月4日金曜日

【抜粋】〈「俳句通信WEP」97号〉 新しい詩学のはじまり(8)――伝統的社会性俳句①総論  筑紫磐井



(前略)
伝統的社会性俳句作品
「前衛対伝統」の対峙は、本来ならばお互いが高め合うという創造的要素がありえたにもかかわらず、現実には不幸な結論に導かれているようである。その理由はまたいずれ改めて述べることにしたい。ただそれを前提にする場合、実は《社会性俳句時代》とはこうした「伝統俳句」対「社会性俳句」の二項対立的な図式はなく、一応俳句作家たちの間で共通の批評言語が成立していたことに注意したい。論争はもちろんあったが、――「前衛対伝統」論争のように使っている批評言語や基本的価値観が異なるという論争とは異なり――牧歌的な批評が成り立つ古き佳き、懐かしい時代であった。
 さてそれを検証するためには資料が必要である。➊(「風」同人らの)の社会性俳句と違い、➋の伝統的俳句作家の社会性俳句は間違いなくあったが上述のような理由でそれを列記することはなかなか難しい。唯一それを見ることが出来るのが、角川書店の「俳句」二十九年十一月号の楠本憲吉・松崎鉄之介・森澄雄編「揺れる日本ー戦後俳句二千句集ー」である。当時の主に俳句雑誌に掲載された社会性俳句(厳密にいえば風俗俳句などを含むが、しかし社会性俳句と風俗俳句の差は難しい)二千句が十の大項目、四百の小項目で分類されたデータベースなのである。勿論この選集に対する批判は山ほど出ている。しかし、私が確認したい事実をまがりなりにも検証できる唯一の資料である。戦後俳句史に業績を残した赤城さかえもこの資料に対して決して否定的ではないようだ。むしろこの資料を批判する多くの人たちは、戦後俳句史に予断をもった人たちが多いようである。資料を読む前からこの資料を読むに値しないと主張するのである。
 ここではすべてをあげることが出来ないので、社会性をよく代表すると思われる項目から伝統的俳句作家の作品を選んでみた。終戦から始まり、引き揚げ、講和、新たな戦争(朝鮮戦争)、社会の変容と日本の基地化といった戦後の社会的ドラマが、伝統俳句作家により詠まれたのである。

[終戦]
戦争終りただ雷鳴の日なりけり 来し方行方 22 中村草田男
寸前や法師蝉ふゆるばかりなり    雨覆 22 石田波郷
忍べとのらす御声のくらし蟬しぐれ 亜浪句集 29 臼田亜浪
二日月神州せまくなりにけり 俳句研究 21・9 渡辺水巴
[引揚げ]
露寒や引揚げてより何殖えし 俳句 28・12 千代田葛彦
[帰還]
葱煮るや還りて夢は継ぎがたし      雪櫟 森澄雄
[帰還者]
落花はげし戦後北京に在りし女に 浜 28・6 野沢節子
[未還者]
夜なべして還らぬ夫のこと言はず ホトトギス 23・3 佐藤裸人
蟬を聞く戦傷にても子が還らば 曲水 28・6 鈴木頑石
[遺骨ー遺影ー遺品]
遺骨戻る炎天高く高く鳶    浜 22・10 齋藤春楓
秋果盛る灯にさだまりて遺影はや 百戸の谿 22 飯田龍太
遺骨軽し萌ゆるものなく野に佇てり 石楠 26・7 滝南窓
[独立]
向日葵立つ吾等独立全からず 浜 27・11 松崎鉄之介
[朝鮮動乱ーー戦火]
戦火避くるすべもがな蝶鉄路越す 浜 25・9 田中灯京 
嶺輝く七月砲火絶えぬ世か   浜 25・9 金子無患子
蝉鳴くやすでに好戦めく新聞   浜 25・9 細見三郎 
いくさやめよ炎天にまた貨車見送る 浜 25・10 杉本寛
膝さむし戦火忌むこと切なるを 石楠 26・4 大川苞夢  
戦長し玩具なほ児に吹く麦笛   浜 29・4 渡辺篁
[平和]
銀河全し世界血を見ずなりて一年 浜 21・11 森田林泉
兵役の無き民となり卒業す ホトトギス 22・7 広瀬河太郎
梨花とおしいさかふこともふたたびなく 浜 25・6 野沢節子
いくさなきをねがひつかへす夜の餅 青水輪 26 大野林火
雛の眼はいくさする世を見てをらず 石楠 26・5~6 川本臥風
菱餅の五彩円かな世はいつ来む 浜 27・7 大嶽禾耕
[孤児]
戦災の孤児とおぼしく焚火せる ホトトギス 21・4 太田歳時
孤児は異人の靴磨きつつ春が来る 曲水 24・3 池上放天
[混血児]
混血児(あいのこ)と話してをれば流れ星 万緑 22・1 岡田海市
桐咲いて混血の子のいつ移りし 浜 28・5 大野林火
[女性解放]
をんならに夏官能の詩多し  曲水 26・7 田中了司
[血を売る]
いくたびか血を売りて我卒業す ホトトギス 26・5 深山幽谷
[内灘]
青野へだて内灘はただ光る砂丘  浜 29・7 大野林火
[基地]
我が恋ふる冬嶺紺青に基地の涯 曲水 28・3 青木よしを
羽蟻たつ基地さかんなりいくさあるな 曲水 29・4 佐藤文六


 俳句として結晶度が高いかといえばそんなことはないし、社会性俳句としても不十分だと思うが、間違いなくいえることは伝統的俳句作家がこうした膨大な社会性俳句をつくってきたことだ。確かに、俳句作家として貪欲に素材を選んだ挙げ句、戦争素材と出会ったということもあるかも知れないが、それでもなにがしか作家の良心が働いていたはずである。そこにこそ、伝統的俳句作家の社会性俳句の価値があると思われる。
 直後の「俳句」一二月号で、戦後派俳人がこの特集に対し座談会を行っている。その中で、「社会性ということに対して俳句は不適格な文芸ではないか」と言う沢木欣一に対し、むしろ森澄雄がそれを否定している。「僕はさういふ結論は出したくないんだ。例へば花鳥諷詠にしろ、長い歴史を経て鍛錬されてゐるわけなんだ。花鳥諷詠だけならば、その技術は相当なところまで行つてゐるんだ。しかし社会を対象にするといふことはいままでやつてこなかつたわけでせう。さういふ点では技術的に貧困なわけだ。だから急に結論は出せないと思ふんだ」「これを基礎にして、もつといい俳句が出きるんぢやないかと思ふんだ」。

※詳しくは「俳句通信WEP」97号をお読み下さい。


2016年12月23日金曜日

<抜粋「俳句通信WEP」95号>  新しい詩学のはじまり(6)――社会性俳句の形成①/伝統俳句の開始 筑紫磐井



伝統俳句ブーム

 戦後俳句史において兜太と双璧として語られるのは、飯田龍太や森澄雄であろう。兜太が「前衛」であれば、龍太や澄雄は「伝統」の代表となる。しかしそれだけでは、兜太対龍太とは、「前衛」対「伝統」の代名詞で終わってしまう。もちろん、単純で図式的な戦後俳句史が読み説かれても悪くはないが、俳句に深みを与えるのは新しい歴史の見方だ。そしてもうすこし新しい戦後俳句史を作ろうとするなら、新しい切り口を幾つか考えて、試行錯誤してみることが必要だ。

 もう一つは、兜太は造型俳句論により新しい詩学を考察した。これは現在に至るまで大きな功績として俳句史に残っている。しかし、兜太と対峙しようとした俳句理論が――特に伝統俳句に影響を及ぼした俳句理論が――いったい何であったのかはよく分からない。

兜太と当時最も激しく対立したのは中村草田男であるが、草田男の主張が根本のところで兜太と全く異種・対立したかと言えば、そんなことはない。草田男と兜太はあるところまで同根であり、俳句を見るまなざしは同じである。対立したのは世代対立にすぎなかった。その証拠に、現在俳句の主流を占めていると言われる伝統俳句において、草田男の影響は極めて薄い。草田男があったために、現在の伝統俳句が守られたなどと言うことは全くないのである。

 これに対して、龍太や澄雄はよほど現代の伝統の源流と言うことができる(この際高浜虚子はしばらくおいておく)。しかし、龍太や澄雄には独白的な感想は多いものの、兜太と対比できる俳句理論は生み出していない。そうしたものがなくても伝統は復活できたという考え方もあるかもしれないが、やはり詩としての主張のないジャンルは衰退するしかないであろう。

 私は以前から、兜太に対峙するのは、実作において龍太や澄雄であったものの、理論的な対立は草間時彦や能村登四郎であったろうと主張している。拙著『伝統の探求』において述べたことと重複するがここに述べてみよう。龍太や澄雄の実作を、時彦や登四郎が理論的に裏打ちすることによって、伝統の起死回生は図られたのであろうと思っている。もちろん、理論と実践が軌を一つにしているわけではない。問題は、理論も実践も、同一の危機意識を持って進んでいたということなのである。

 前衛俳句ブームから十年ほどたった一九七〇年前後(つまり俳人協会の法人化と前後して)、突然、俳句にとって伝統は必須のものだという論調の論文が出始める。一九七〇年に草間時彦が書いた評論「伝統の黄昏」(「俳句」昭和四十五年四月)がその一つである。さらにその直後、能村登四郎が書いた「伝統の流れの端に立って」(同昭和四十五年十二月)が出てきて、この二本の評論によって、伝統が肯定的評価を受ける潮流が生まれる。当時の商業誌(特に「俳句研究」)は、一九七〇年から五年ほどの間に「俳句の伝統」(昭和46年5月「俳句研究」)「俳句の伝統と現代」(昭和46年8月「俳句研究」)「伝統俳句の系譜」(昭和47年7月「俳句研究」)「俳句伝統の終末」(昭和50年4月「俳句研究」)などの特集を毎年のように組んでいる。一方の角川書店「俳句」は伝統に関するさらに根源的な文化に関する座談会などが行われていた。
      *
評論と併せて作品にも顕著な傾向が見られた。新興俳句出版社の牧羊社は(恐らく戦後俳句史上初めての戦後派作家の画期的なシリーズ)「現代俳句十五人集」を刊行しはじめ話題となった(昭和四十三年)。これらと併行するように角川書店の「俳句」では、毎号一作家ごとの大特集シリーズ「現代の作家シリーズ」(昭和四十三年)「現代の風狂シリーズ」(昭和四十六年)をはじめる。ほとんど俳句部門の受賞者のいなかった読売文学賞【注】も昭和四十三年以後、飯田龍太、野沢節子、森澄雄と受賞が続く(いずれも牧羊社「現代俳句十五人集」の句集が対象となった)。さらに角川書店は大企画「現代俳句大系」十二巻を上梓する(昭和四十七年~四十八年)が、そこからは有季定型以外の俳句は除外されていた。これらを総覧すればわかるように金子兜太を除けば、登場した俳句作家の大半は伝統俳句作家であったのである。意図的であると否とを問わず、前衛俳句ブームの後、十年たってから伝統俳句ブームというものが発生してきた訳である。そうした中で、ひとり、兜太のみが孤軍奮闘しているように、当時俳句を始めたばかりの私には見えたのである。
【注】それまで短歌部門受賞者がが八人もいたのに対し、俳句部門はわずか三人だった。読売文学賞では短歌と俳句では顕著な差別があったのである。


(以下略)



※詳しくは「俳句通信WEP」95号をお読み下さい。