ラベル NakanishiYuki(中西夕紀) の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル NakanishiYuki(中西夕紀) の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2026年1月30日金曜日

【連載】現代評論研究:第22回総論・「遷子を通して戦後俳句史を読む」座談会 仲寒蟬編

 (2012年01月06日)

9.遷子が当時の俳壇から受けた影響、逆に遷子が及ぼした影響について

 筑紫は特に開業医俳句について誰も遷子の先人となる人はおらず〈遷子は自らの良心に基づいて開業医俳句を開拓した〉と述べる。一方で〈遷子の句業を引き継いだ人もいなかったのではないか。35年後の今、わずかに5人の作家たちだけが自らの良心に基づいて遷子を発見したのかもしれない〉と言う。


 原、中西は無回答。


 深谷は晩年の角川源義とのやり取りからも分るように〈どちらかと言えば、自己に対する俳壇での評価など気にも留めず、俳壇とは距離を置いていた〉と述べる。逆に〈俳壇への影響もあまり大きなものとは言えず、今日まで余り鑑みられることがなかった〉と言う。


 は影響を受けた作家として水原秋桜子と石田波郷を挙げる。波郷については年下ながら尊敬の対象だったようだが俳句の上での影響は強くないと言いつつ〈境涯俳句を詠むという行き方は波郷から学んだのかもしれない〉と述べる。また〈『惜命』と遷子の闘病俳句との関係については今後の比較研究が必要だ〉と考える。

 飯田龍太について〈遷子に対する評価が意外に低いのには驚いた、同じように中央俳壇を遠く離れて自然の中の暮らしを詠む者同士もっと共感するところがあってもよいのではないかと思った、遷子の方は龍太に親しみを感じていた〉とコメントする。

 最後に遷子の俳句は同時代の人々に評価されなかったと締め括る。


9のまとめ

 回答者に共通していたのは遷子の前に遷子なく、遷子の後に遷子なしということ。理解者と言う意味でも同時代の、馬酔木の人達にすらあまり理解されていなかった。筑紫の言うように当時見過ごしてきたものが現代だからこそ見えてくるようになったのかもしれない。


(2012年01月13日)

10.あなた自身は遷子から何を学んだか?

 筑紫は次の2点を挙げる。

①戦後俳句史をどのように構築したら良いのかということ。既存の戦後俳句史に対する新しい戦後俳句史観、すなわち「社会的意識俳句」時代のあとに伝統俳句の時代が新生したという流れ。――ここで詳細を述べるのは適当ではないが、はしょっていえば〈角川源義などの前衛俳句・現代俳句協会と対立した政治的な「伝統派」の主張者に対し、この時期そうした政治的な動きから疎外されていた草間時彦・能村登四郎・飯田龍太などが実践していった伝統俳句の新しい運動(「新・伝統俳句」といえようか)〉が起こったと考えられるが、それは〈「社会的意識俳句」のそれを精神的・内面的に深化させたものであったといえるかも知れない〉と言う。

②我々が死ぬときは残るものは何か。視覚も薄れ、論理さえおぼつかなくなっても意味など失った「ことば」だけが残る。〈だから俳人は死ぬ最後まで言葉にこだわる、亡くなる人で最後まで活動できるのは俳人ばかりだ〉と述べ子規と遷子の最期に触れる。

 さらに〈こう言っておきながらも不思議なのは、風景俳句、生活詠、行軍俳句、開業医俳句、そして療養俳句を離れて遷子の作品は不思議な魅力をたたえている〉と述べる。

例として


雛の眼のいづこを見つつ流さるる


を挙げる。ユニークな画家である智内兄助(ちないきょうすけ)氏はこの句に触発され、作品「雛の眼のいづこをみつつ流さるる」を発表した(少し仮名遣いが違うが)。

 そこに描かれたおどろおどろしい少女の姿は、遷子の心の深淵をのぞきこむような不気味さをたたえている。さらにこの絵が坂東眞砂子のホラーノベルの傑作『死国』(四国高知のある村で起こる死者の怨念とよみがえりの物語)の表紙絵となっているのはさらに驚きだ。端正な遷子の像からは思い及ばない結末である。


 は〈いまだに捉えきれずに〉いると言う。


 中西は〈死の直前まで俳句を続ける精神力〉、〈自己の生き方の思想的部分を扱っていること、特に無宗教の身の処し方を描いているところ〉に感心し、真似はできないと述べる。


 深谷は遷子研究を始めて〈自分の想いを作品にしたいという気持ちが強くなった〉ことから〈自分の俳句の作り方が変わった〉と述べる。


 は遷子の冷徹な目が〈科学者と文学者という一見正反対の立場を結び付け〉、焦点がぶれることのない一貫性を以て医業と俳句の両方に接したと言う。その〈真摯に、ほとんど求道と言ってよいストイックさで対象に向かう姿勢は羨ましい程〉と述べる。〈学んだもの、自分も身につけたいものとしてこの「冷徹な目」を挙げたい〉と言う。


10のまとめ

 筑紫は戦後俳句史の構築に関する示唆、俳人として死んだ後に何を残すかということを学んだと言い作者の思いもよらぬ所で後世の人間がその作品からインスピレーションを得るという幸福もあると画家智内兄助の事例を紹介する。


 は遷子をまだ捉えきれない存在と感じている。


 中西は俳句を死に至るまで続ける精神力、無宗教の身の処し方に注目する。


 深谷は作者の思いを俳句に表現するという作句態度に共感する。


 は医療にも俳句にも同じ「冷徹な目」を持って臨んだ生き方を学びたいと述べる。


おわりに

 所属する俳句グループも住居や職場などの環境も全く異なる5人が遷子という一俳人を研究し、その作品と生き様に感動し、『相馬遷子―佐久の星』が生まれた。今回その5人が再び集い、「遷子を通して戦後俳句史を読む」という試みを行った。

 遷子を読み込んだ人達ばかりなので遷子俳句の特徴や魅力については各人の主張を持ちながら、全員が殊に医師としての生活を詠んだ句(医師俳句)と晩年の療養俳句についてもっと高く評価されてしかるべきと考えていた。

 戦後俳句史を読むというテーマに即して言えば、遷子は孤高の作家でありその俳句世界は独特であるとの認識が大勢を占めたが、一方で「社会性俳句」の潮流とは別の実生活に根を下ろした「社会的意識俳句」とでも呼ぶべき傾向の句(医師俳句も含まれる)を遷子が多く残したことは同時代、またその後の同傾向の俳句を見直すことにつながるとの見方もあった。

 この座談会が従来の戦後俳句史からほとんど抜け落ちていた相馬遷子という清澄な星を星図の中に位置付けるのに多少なりとも貢献できていればと思うばかりである。

(終了)

2026年1月16日金曜日

【連載】現代評論研究:第21回総論・「遷子を通して戦後俳句史を読む」座談会 仲寒蟬編

(2011年12月30日)

8.病気・死と遷子について。

 筑紫は〈これこそみなさんに聞いてみたい〉と言い、遷子の死についての反応を〈①応召を受けての戦場での死の対応、②病気となって最後は死を免れないと自覚した時の死への対応〉、の2点に分けて考える。

①このような死の危険は普遍的ではないとしつつ、死に対して臆病な遷子の言動を紹介する。「馬に乗っては行軍したが、敵弾が飛来すると、馬から降りるのが実に早かった。こわいのですね。気がつくともうまっさきに降りているのですよ」(堀口星眠聞き書き)「生来臆病な私にとっては、小銃弾の音さへもあまり有難くはありませんでした」(遷子の回想)。

②〈無神論者からすれば、次の世や神の国は存在しないのだから、死はあらゆる世界の崩壊である〉から〈この崩壊寸前の世界の最後の瞬間を、たった一人孤独に耐えてどう見るか〉が遷子だけでなく我々にとっても問題と言う。その意味で〈我々は、遷子の俳句を語っているつもりで、実は自分の死に臨む姿勢を考えているのである。「微塵」が美しいかどうかではなくて、美しい言葉を吐きたいと思った遷子の心理を考えてみたい〉と述べる。


 は突然に来る戦地での死と異なり、病気の場合は一歩一歩死に近づくので〈自分だけの孤独な心の揺れがあ〉ると述べる。〈病状に一喜一憂しつつ、その折の心情に正直な句が並ぶ中での「冬麗の微塵となりて去らんとす」は、意志のかたちを取った虚無なのか、それとも静かな覚悟か、今も分か〉らないと言う。原句「何も残さず」から「微塵となりて」への推敲については〈言葉によって心身の昇華を願った結果〉かと考える。


 中西は自身の病気(生来の胃弱、戦中戦後の肋膜炎、死に到った癌)という意味でも医師として毎日病気の人を治療していたという意味でも〈遷子にとっては病気は常に身の回りにあった〉と述べる。

 だからと言って病気と死に慣れるものではないが〈自身の死期は他人には言わなくても、分かっていた〉、だからこそ「冬麗の微塵となりて去らんとす」という辞世を用意できたと言う。

 〈死によってすべてなくなるという発想は、再生も輪廻もない、無宗教のものである。死を学ぶことを医師として良かれ悪しかれ患者を通して体験的にしていた〉と述べる。


 深谷は患者の病気や死を対象とした作品は医師俳句として結実し、自身の病気については晩年の闘病俳句となった、と言う。「冬麗の微塵となりて去らんとす」については〈文字通りの絶唱であり、まさに古武士の最期を見るような感すらする。あまりにも見事な人生の幕の引き方であり、最後までその美学(生き様)を貫徹した〉と述べる。


 は『山河』の闘病俳句を読めば諦めたり強がり言ったり煩悶したり、心が揺れ動いているがこれは人間として自然で、〈冬麗の微塵の句になってやっと覚悟が定まったかに見える〉と言う。ただ遷子は揺れ動く自分を冷静に見て「写生」しており〈患者や身内の病気・死に対しても自分のそれに対しても冷徹な姿勢はぶれることがない〉という意味で〈極めて科学者的な目を持った人であった〉と述べる。

 自分を「無宗教者」と決めつけ、信仰を持たず、「死は深き睡り」に過ぎないと考えていた遷子は死後故郷の自然と一体化すると思っていたのではないかと推測する。


8のまとめ

 遷子は生涯に少なくとも2度死に直面している。

 最初は応召されて戦地へ向かった時であるがこれに触れたのは筑紫と原のみであった。これに関しては誰もが経験するものとは少し異なり、ことに現在のような平和な日本ではあまりピンとこないものであろうが忘れてはなるまい。筑紫の紹介する死に対して臆病な遷子の言動は決して誰も笑えないものである。

 一方、癌を患ってから死に至るまで遷子が思い悩み、考えたことはほぼそのまま俳句として結実しており、それこそが我々の心を打った。この死を前にした時の揺れ動く気持ちは誠に人間的で原、仲がこの正直さに注目している。また病気自体は医師遷子の周りに常にあったものだが、中西はだからこそ自身の死を覚悟で来たと述べ、仲は患者や身内の病気・死に対しても自分のそれに対しても冷徹な姿勢はぶれることがなかったと強調する。

 死に対して無宗教者、無神論者であった遷子の虚無的な死生観についてはほぼ全員が触れている。筑紫はそこから我々のうちやはり無神論者である者が学ぶものが多くあると考える。

 また辞世と言われる「冬麗の微塵となりて去らんとす」を全員が挙げており、筑紫は美しい言葉を吐きたいと思った遷子の心理に注目、原は推敲の過程から言葉によって心身の昇華を願った思いを忖度、中西は患者から死のあり方を学んだ末の覚悟と言い、深谷は文字通りの絶唱で古武士の最期を見る感があると述べ、仲は故郷の自然と一体化する思想を読み取っている。


2025年12月26日金曜日

【連載】現代評論研究:第20回(戦後俳句史を読む)「遷子を通して戦後俳句史を読む」座談会⑦(仲寒蝉編集)

投稿日:2011年12月23日 


7.職業・仕事と遷子について。

 筑紫はまず教師、政治家、医師、灯台守などの職業は単なる生活費を得るための活動ではなく、〈倫理が先に存在し、社会がその種の職業人に敬意を持って処遇する〉ものであることを指摘。「恩給」という言葉を〈官吏は国家のために身命を賭して働くからその老後の蓄財もないわけで、そうした国家への忠誠に対して御恩として給付される〉と解説、公務を行う者には労働の対価としての給与(給料)は存在せず、〈高邁な無償のサービスに対して生命を維持するために国家から給されるもの(俸給)であった〉という昔の考え方と〈極めて合理的な労働原理の中間に遷子や同世代の人々が存在したことを忘れてはならない〉と述べる。


 原はもし遷子が地方の開業医でなく研究者の道に進んでいたら人間的な幅はかなり狭められていたと指摘し、地域医療従事者としての生活が否応なく他者との関わりをもたらし、遷子の意識に影響を及ぼしたと言う。このことは孤独が深まるということも含め〈人間を詠むと言う短絡的なことではなく、自然に対する態度にも反映されたのではない〉かと述べる。


 中西は馬酔木の職業俳句の特集に医師俳句が並んでいる中で遷子の句を見てバッハを思い出したと言う。〈同じ時代の作曲家の作品と一緒に演奏されると、バッハの曲がとてもチャーミングだった。これと同じで、医師本人のことばかりを詠っている医師俳句の中にあって、遷子の句が、患者との対応を詠い真に迫っていると思った〉と。遷子の医師俳句は〈時に厳しい見方も随所にあるが、患者の農民の様子を描いたからこそ〉登場する医師もとても生き生きと見える。〈患者との対人関係を描くことによって医師俳句が立体的に見えた〉と言う。


 深谷は〈遷子が地域医療の最前線に立って患者やその家族と接してきたことを抜きに、遷子俳句は語れない〉と述べ〈何よりも生と死のせめぎあいの切迫感を読む者に伝えてくれる〉と言う。その一方で〈東京の大学などに籍を置き、最先端医療の研究に従事したかったという思いは後年まで抱え続けていた〉のではないかと推測する。


 仲は職業や患者に対する遷子の態度、信条を次の5点にまとめた。


1)生真面目。俳句を読んでも「滑稽」や「笑い」からは程遠い。ペットや盆栽にも興味なく、仕事と俳句にひたすら打ち込む真面目人間。

2)優しさ、温かさ。遷子は手遅れの患者を叱ったり風邪の患者に金を払えば即他人と言ったりもしたが、根は患者思いの医師であった。彼が患者に優しかったのは自分自身や家族が病弱であったことと無関係ではなかろう。

3)人間嫌い。患者や人間が嫌いだったのではなく世俗の人間関係が鬱陶しかったのだろう。

4)正義感。常に弱者の立場に立とうとする姿勢。

<5)潔癖。生真面目と通じるが媚びる自分を許せないようなところがある。

2025年12月12日金曜日

【連載】現代評論研究:第19回総論・「遷子を通して戦後俳句史を読む」座談会⑥(仲寒蝉編集) 

2011年12月16日

出席者:筑紫磐井、原雅子、中西夕紀、深谷義紀、仲寒蝉(司会)


6.自然と遷子について述べよ。

 筑紫は〈遷子が俳句という芸術に足を踏み入れる動機となったのは、秋桜子に教えられた自然観照の美しい風景によるものであった〉と指摘。ただこうした自然観照は独創的である必要はなく〈あらゆる青年たちが共感したからこそ、馬酔木俳句はこれほど広く展開した〉と述べる。それを示す事項として馬酔木の最初の歳時記『現代俳句季語解』(昭和7年)の例句に作者名の記述がないことを挙げる。水原秋桜子によると「作者名を省いたのは、お互いの共有の芸術であるという親しみを持ちたいから」、つまり〈虚子が確立した日本的季題趣味に対して、水原秋桜子は西洋美術的な自然趣味を導入した〉がそれは個性以前の〈当時の若者共有の感覚であった〉ということになる。

 さらに〈こうした共有感覚が壊れ、個人個人の悩みが個性の下で語られるようになるには、人間探求派を待たねばならない〉と述べ、〈戦前の遷子の叙景俳句と、戦後の馬酔木高原派の俳句は本質において何も変わるところがなかった〉、〈皮肉に言えば、少しばかり、近江俊郎風の「山小屋の灯」的通俗性を加えたに過ぎない〉と言う。


 は〈遷子の風景句に興味を持ったのは、自然への対し方が、初期と晩年では違うように感じられたから〉、すなわち〈初期の外側から描かれた風景が、次第に内面と重なってきた―自己と一体化した―〉その変化の過程に惹かれたと言う。


 中西は〈師の秋桜子は美しい風景句を作る人であったから、遷子の出発点は美しい風景句であった〉と言う。医師俳句を作っている『雪嶺』時代も吟行はしていたはず、と推測する。〈窓を開けると山が見える佐久という美しい山国の環境〉にあって〈美しい反面、寒さの厳しさや、雪の恐ろしさを常に身近にしていたことだろう〉と自然の厳しさを知った人の「わが山河」であったことを強調する。


 深谷は〈馬酔木「高原派」の純粋自然賛歌とは作風は大いに異なる〉と指摘。〈自分が暮らす佐久の山々や風土に対する国誉め的な作品もあるのは、重い作風の作品が多い中にあってふと心が和ませられる〉と述べる。


 は〈八ヶ岳、浅間山といった山々は佐久移住前の『草枕』時代、『山国』の昭和30年代までは分け入ってゆくもの、それ以後は遠望するものとして詠まれる〉と言う。これら故郷の山や川は〈『雪嶺』の終り頃から『山河』時代になると「わが山河」と呼んで愛するものとなった〉と言う。

 また磐井氏の論文にあるように遷子の俳句に星が多く詠まれていることを挙げ、〈佐久の方言で「凍みる」と言われる冬の気温の低さ、そのせいで空気中から水分が希薄となり星が美しくも冴えわたって見える〉と述べる。

 しかし一方で〈一つ一つの植物や動物の名前を挙げて詠むことは多くなかった〉ことを指摘。〈盆栽が好きだった父親と違い「生き物飼はず花作らず」と自分を規定しているくらいだから、高原派と呼ばれる割には生物に対して冷たい。人間も含めた生物とウェットな関係を持つことが彼にとっては煩わしかったのではないか〉と述べる。


6のまとめ

 ほぼ全員が若い頃の遷子が「馬酔木」特に秋桜子の美しい風景を描く俳句の流れの上にあったこと、佐久の自然の厳しさに触れた後には外から見るだけでなく内面的なものの反映として自然を捉えるように変わって来たことを感じている。


 筑紫は秋桜子の自然観は個性のない〈当時の若者共有の感覚〉であって、戦後の「馬酔木」高原派の俳句もその延長線上に過ぎず、それが個性的な様相を呈するのは人間探求派以後であると俳句史を概観する。


 は遷子の性質として人間も含めた生物とウェットな関係を持つことを煩わしいと感ずる所があり、単に自然が好きで俳句に詠んでいたというのと異なる点を強調する。

2025年11月21日金曜日

【連載】現代評論研究:第18回総論・「遷子を通して戦後俳句史を読む」座談会⑤(仲寒蝉編集) 

 :20111209

出席者:筑紫磐井、原雅子、中西夕紀、深谷義紀、仲寒蝉(司会)

 

5.家族・家庭と遷子について述べよ。

筑紫は〈全く関心がない〉と言う。

は興味がないと言う。

中西は俳句から見る遷子は〈良き家庭人だった〉と言う。

 

百舌鳴くや妻子に秘する一事なし  (『山国』)

 に明治生まれの潔癖さを読み取り〈この句が遷子の全句の中にあって、家族への愛情表現の最たるもの〉であり〈句の調子としても、気骨ある遷子の高い精神を描いた他の作品と同列に並べられることができるもの〉と評価する。

 次に示すように『雪嶺』の息子を描いた句に親の本音を、娘の結婚の句には〈手放しで喜ぶ良き父の姿〉があり世の父親と変わらないと言う。

 かすむ野に子の落第をはや忘る

帰省子に北窓よりの風青し

秋の苑子を嫁がせし父歩む

 

 横道に逸れるが、その中で2句目の「青し」に注目する。『草枕』の「梅雨めくや人に真青き旅路あり」の〈「真青き」には将来への不安とともに、まっさらな手付かずの美しい未来を思わせるものがある〉と述べ、上の句の〈「風青し」にも青年の前途を祝福するものが含まれている〉と指摘する。それを踏まえて〈遷子の「青」に寄せる清澄な思いは生涯変わらなかったのではないか〉と言う。

 ただ華やぎを添えるものではあっても家族を描いた句は『雪嶺』では傍流。家族を描いたものでは『山河』の死の前後の父を描いたものが良かったと言う。

深谷は〈私的な要素であるため「戦後俳句史」を語るうえでは適さない部分かも知れない〉と断わりつつ〈敢えて言えば戦後の家庭像がありのままに描かれており、遷子の実直な人柄があらわれている〉と述べる。

は『雪嶺』には息子の反抗や受験、娘の結婚を詠んだ句があるが〈内容としては市井の優しい父親の域を出ていない〉と言う。また『山河』にある〈老いた父母を詠んだ句は淡々としており患者を見る目とほとんど変わるところがない〉が、〈母の句の幾つかは彼にとって母は永遠に若く気風のいい存在だったことを示している〉と述べる。

 

5のまとめ

 5人中2人が興味なしと回答している。回答のあった3人に共通していたのは、遷子はよき家庭人、よき父親であったということ。ただ家族を題材にした俳句については中西が『山国』の「百舌鳴くや妻子に秘する一事なし」を評価した他は遷子の句業の脇役的存在との認識であった。個々では中西が『山河』の死の前後の父を描いた句を、仲が母を描いた句を評価している。

 

2025年10月24日金曜日

【連載】現代評論研究:第17回総論・「遷子を通して戦後俳句史を読む」座談会 仲寒蟬編

(投稿日:2011年12月23日)

出席者:筑紫磐井、原雅子、中西夕紀、深谷義紀、仲寒蝉(司会)


4.戦後の生活と遷子について。

 筑紫は当初遷子のことを医師という恵まれた職業環境にあると思っていたが、医師である仲の話や(遷子によく似た)昭和30年代に開業した医師を父に持ったメンバーへのインタビューを総合して、当時の医師の生活は大変ったのではないかと述べる。

 遷子は野沢の旅館を買い取って開業したが、この頃の開業には〈親か連れ合いの一族の支援がない限り独力では不可能であった〉と考え、遷子にとっては父が人助けのために手に入れていた土地家作が役に立ち、〈兄弟共同で開業するというのは合理的な判断だった〉と言う。

 したがって『山国』『雪嶺』では〈魂の抜けたようにしか見えない父〉豊三だが、兄弟(富雄(遷子)、愛次郎)の進学、さらに開業の支援と一族に医師のいない中で家長としての重い責任を果たしたと評価する。

 遷子の親への依存や苦しい生活を表わす作品として次のようなものを挙げる。

 年逝くや四十にして親がかり   22年

 田舎医となりて糊口し冬に入る  23年

 正月も開業医われ金かぞふ    同

 自転車を北風に駆りつつ金ほしや 同

 暮遅き活計に今日も疲れつつ   同

 その上で〈これこそ、ホトトギスの花鳥諷詠とは全く異なる、アララギ的な短歌リアリズムの世界であった。「鶴」的な境涯俳句ではなく、生活リアリズムに出発する(それは今全く評価されていない戦場リアリズムに根を持つものであるが)ことにより、独自の遷子の開業医俳句が生まれた〉と述べる。遷子にとって最大の誤算だったのは、研究者の道を取らなかったことではなくて、病気のため病院を辞めて開業せざるを得なくなり、大学に戻れなくなったこと、と言う。

 さらに当時の開業医の生活を次のように描写する。

 〈(遷子と同様旅館を買い取ったため)入院施設のある小規模な医院は、施設の狭さから医院と家庭は隣接して、公私のない生活の部分もあった。旅館構造を改築したものなので、病院の諸施設と家庭が混ぜんとしていたはずであり、建物の中には家族の個室と病室、看護婦の居室も混じっていたのではないか(昭和30年代は通いの看護婦ではなくて、中学出の女性を看護学校に通わせ資格をとらせて、住み込みであったと思われる)。医師の妻は入院患者の食事を作り、また看護婦たちとガーゼや汚れたシーツを洗濯などもした。そのほかに、毎月の保険請求事務も医師とともに妻が手伝った。当時は手書きで、そろばんを使っていた。『雪嶺』の中に保険事務が溜まったという句があることからも、面倒な仕事が多かった。他のメンバーから開業医の妻の中には過労で肋膜を患った例も報告された。看護婦も、中学を卒業してからすぐ住み込みで働き、看護学校へ通わせてやり、一人前になって患者と結婚するというようなアットホームな例もあった。〉

 〈病院医師と開業医の違いは、患者と患者の家庭が一体となって関係してくる所にある。遷子の俳句の中で、病院勤めの時には見られなかった医師俳句が、戦後開業医の生活で顕著に表れるのもそうした理由である。また、往診をすれば、いやおうもなくその家の様子が見えることもあっただろう。〉


 は無回答。

 中西は終戦後5,6年の期間として次のように言う。

 戦中に肋膜炎を発病し、東大医学部からの派遣で函館の病院の内科医長の職に就くが故郷佐久での開業に踏み切ったことにより大学へは戻れなくなる。

百日紅学問日々に遠ざかる

故郷に住みて無名や梅雨の月

などの句には〈大学研究室を断念したことの悔いが燻っている〉と述べ〈戦争がなければ、肋膜炎にはならず、或いは大学に残れたかもしれないのである〉と指摘する。

 弟愛次郎を誘って開業した後も

四十にして町医老いけり七五三

裏返しせし外套も着馴れけり

という句が示すように〈開業はしたけれど、患者も貧困にあえぎ、治療費も稼げなかった時期なのではないだろうか〉と想像する。

 深谷は〈謂わば無一物で佐久に帰郷したわけであり、決して豊かとは言えないだろうが、それなりの生活(もちろん地域医療の最前線に立つ者として多忙ではあった筈だが)を過ごしていたのではないだろうか〉と述べ、さらに〈農村の貧しさがその作品に色濃く投影されているが、時期を下るにつれ高度経済成長の影響もみて取れる〉と言う。

 は〈句集を年代順に読んでいくと佐久という貧しい田舎の村が町となり市となって行く様子が分る〉と言う。『山国』『雪嶺』には社会性俳句の原動力ともなった貧しさを詠んだ句が散見され、当時の佐久地方で盛んだった養蚕に関する句、自転車で往診する句、スケート(恐らく田んぼに張った氷の上での下駄スケート)やストーブなど寒い地域の生活に関わる句など多くはないが当時の生活を窺わせる句に触れる。


4のまとめ

 筑紫は当時医院を開業すること自体が現在考えるよりずっと大変だったことを強調、遷子の父豊三の家長としての役割や開業間もなくの暮らしの困窮に触れた後、開業医としての生活が地域住民である患者の暮らしへの深い関わりを産み、往診などの医師俳句につながったことを述べる。

 中西はやはり開業間もなくの生活の大変さに触れ、大学での研究を諦めざるを得なかった悔いが尾を引いていたと考える。

 深谷と仲はそういった遷子一家を含む地域全体の貧困が高度経済成長とともになくなっていくことにも触れる。

2024年6月28日金曜日

【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり10 句集『くれなゐ』(中西夕紀・2020年刊・本阿弥書店)豊里友行

  その中西夕紀さんは、「都市」創刊主宰されている。

 俳誌「都市」で中西さんの日々の旺盛な俳句道の研鑽ぶりを目の当たりにする。

 特に私が共鳴句を選ぶというよりは、果実の断面の切り口を持って私なりの俳句鑑賞をしてみたい。

 それは優れた俳人の日々の精進を垣間見れば見るほど、どの俳句も良さがあって選びあぐねる。

 中西夕紀さんは、昭和55年、宮坂静生氏の指導のもと「岳」に参加して20年余在籍。宮坂氏の勧めで「鷹」に入会して藤田湘子氏に15年間師事。平成8年に「晨」に同人参加にて宇佐美魚目氏に師事。そして平成20年に「都市」創刊主宰されている。

 中西友紀さんの俳句造詣の深さは、この句集の随所に沢山の俳句を読み込んで沢山の俳句刺激を受けながら切磋琢磨してきたことがうかがえる。

 その中で新たな俳句の道を切り拓こうと人生を費やしていることが、ひしひしと伝わる。

 旺盛果敢な俳句の詠みっぷりは、沢山の秀句を成す。


ばらばらにゐてみんなゐる大花野


 花野へ花を愛でにいくのが常人ですが、俳人は人間模様までも愛でる。花の飛花落花の吹雪も見事ですが、花を愛でる人間模様のばらばらに蠢くユーモラスさを盛り込む。俯瞰したカメラの超広角な視界の魚眼レンズで見据えたような大花野の人間模様は愉快である。


魴鮄の多恨の顔に揚がりけり


 ホウボウは、カサゴ目ホウボウ科に属する魚類で風変わりな外見と動作が特徴の海水魚。美味な食用魚でもある。それを唐揚げにしたら多くの恨み辛みが魴鮄の顔に表出したと感受する。私たち命は、万物の沢山の死を喰らって生きている。このような美味しい魴鮄の唐揚げの顔にさまざまな諸行無常の現世をこの俳人は表出してみせている。


皿のもの透けて京なる端午かな


 皿に盛られた京料理は透けて見えるほどの料理職人の技があでやかで見応えもある。ここでの端午(たんご)は、五節句のひとつ。端午の節句のこと。菖蒲の節句とも呼ばれる。日本では端午の節句に男子の健やかな成長を祈願し各種の行事を行う風習があり、現在では新暦の5月5日に行う。国民の祝日「こどもの日」を指す。そんなめでたい日。この句集の俳句の中に詠まれている子への眼差しは、私にはちょっと厳し過ぎないいかなっと思えたりもしたが、これら子どもへの眼差しは子が親になり、孫にあたるくらいの子への視座だろう。眼に入れても痛くないくらいの子を厳しく見据えているようだ。そんな俳句模様には、中西さんのあたたかな人間ドラマを見るようだ。伝統というのは、生と死の中でこの世にしっかりと繋ぎとめる統べでもある。いにしえから伝わる形には、親は子の成長を季節の織り成す節目節目の節句に子の成長を祈願する。その伝統行事には、親が子の健やかな成長を、子が親に成長の過程を形にして示すことの意義がある。そんな大切な成長の過程を織り成す日々の俳句の中にふっと「強くあれっ」と厳しく育ててあげたい気持ちが解けてぱっと歓喜として表出して愛が開花する。


 「手話の子の手も笑ひをり花木槿」の木槿の読みは、むくげ。「海の日を車中に入れて帰省かな」「ひろげたる紙に数式蕗の薹」の蕗の薹の読みは、ふきのとう。「つきあぐる笑ひなるべし田の蛙」「暗がりを子のよろこべる月見かな」など他にも沢山たくさん中西夕紀の眼に入れても痛くない愛燦燦と降り注ぐ日々が俳句に織り成される。


もう誰のピアノでもなし薔薇の家


 誰にも訪れる死の足音を懸命に詠み込もうとしている中では、この句に私は共鳴した。こういう表現は、なかなか出てこない慧眼だろう。


 下記に共鳴句をいただきます。

 ありがとう。ありがとう。ありがとう。


青嵐鯉一刀に切られけり

かなぶんのまこと愛車にしたき色

曳航のヨットは色を畳みけり

笑ふ顔集まつてゐる五万米(ごまめ)かな

雪掻きに古看板を使ひをる

マスクして葬の遺影と瓜ふたつ

皺きちやな紙幣に兎買はれけり

干鱈しやぶりながら語れる開拓史

初乗のやはり眠つてしまひけり

万歳をしてをり陽炎の中に

鯖〆て平成も暮るるかな


2021年8月27日金曜日

【中西夕紀第四句集『くれなゐ』を読みたい】18 恋心、あるいは執着について  堀切克洋

 中西夕紀(1953-)は、2008年に「都市」を創刊。直後に刊行された句集『朝涼』(2011年)につぐ第4句集が『くれなゐ』である。「青嵐」「桐筥」「野守」「緑蔭」「墨書」「冬日」という6章から構成される。


1. 闇と空白

 これらの6章はそれぞれがほぼ均等の――順に60句、58句、58句、56句、54句、60句という――厚さをもっており、そのようなバランス感覚は、それぞれの章タイトルに付された言葉がすべて漢字二字の言葉であることとも照応しているようだ。ただし、うち漢語が占める割合は五割を少し割っている。そんなことを思って頁をめくっていたら、こんな句と出くわした。

  読初や仏教漢語飛ばしとばし

 ちょうど2011年に『仏教漢語50話』が岩波新書から出ているので、ひょっとするとこの本から着想を得ているのかもしれないが(そこで話題になっているのは「平等」「我慢」「睡眠」のような私たちにも馴染みのある「漢語」だ)、わたしたちの生きる社会ではますます漢語の地位は低下しているし、そもそも俳句は硬質な漢語よりもやわらかな和語を好む。しかし「飛ばしとばし」でもそうした難解な概念や思想にチャレンジしているところが俳句らしく、読初らしい。

  火涼し真言声に出してこそ  

 すでに第3句集『朝涼』に〈真言はわが胸中に梅白し〉が含まれているように、仏道に対する関心の強さは、この句集でもひとつの脈をなしている。護摩のの向こうに「真言」という漢語がもつ謎に満ちた深淵が控えている。本句集の秀句としては〈仏具屋に玩具も少しつばくらめ〉も挙げられよう。

 句集のなかに弔句が挿入されるのは、ある程度、年齢を重ねれば避けられないことである。しかし『くれなゐ』においては、この仏教的バックボーンがそれらに深みを与えているといえる。とくに、師である宇佐美魚目(1926-2018)には、帯文にもその名前が記されているとおり、たびたび前書となって言及されている。「魚目先生から毛筆の手紙」という前書のある〈読めるまで眺むる葉書雪あたり〉などのあとで、収められている弔句は以下の4句である。

  先生のペンは撓へり梅擬

  書の中の古人とならる花すすき

  無患子や死して冥しと空海は

  邯鄲や墨書千年ながらへむ

 第3句集『朝涼』の採られた表題句は、〈朝涼のまだ濡れてゐる墨書かな〉。何よりも宇佐美魚目は、書家であった。無患子の黒色は、(最澄にあてた手紙3通からなる)『風信帖』の縦長の字形を浮かばせながらも、「秘蔵宝論」の序論の最後を締め括るあのテクストへとわたしたちを送り返すことだろう。

  三界の狂人は狂わせることを知らず。

  四生の盲者は盲なることを識らず。

  生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、

  死に死に死に死んで死の終りに冥し。

 人間は闇から生まれ闇に還っていく。もちろん最初の闇とは、胎児だけしかみることのできない、あの闇のことである。しかも仏の教えによれば、闇から闇へ(生から死へ)の運動は、たえまなく反復されるという。眼前の「墨書」のくろぐろとした色はしだいに読み手を悠久の時間へと、そして作者と墨書を包み込む秋の夜の闇へと誘っていくようだ。

 さらにいえば、この作者の中心には、書物だけでなく葉書や染筆といった「テクスト」があるのかもしれない。

  空白の涼しき葉書頂きぬ(『さねさし』)

  いくたびも手紙は読まれ天の川(『朝涼』)

  読めるまで眺むる葉書雪あかり(『くれなゐ』)

 このように〈手紙〉という主題は、中西にとってたんなる「挨拶」ではなく、いくたびも読まれるべき、読解されるべきテクストであるということが見てとれる。それはまるで一句の読者が、繰り返しその句を反芻し、イメージを立ち上げては毀していくように、終わりのない作業なのだろう。ここには、闇とは対照的でありながら、しかし似てもいる〈空白〉という無が控えている。それは著者がベースとする和語の抽象性とも響きあっている。


2. 「一」への執着

 あらゆる句集がそうであるように、この句集に描かれる世界もまた、ふたつの闇のあいだの小さな〈空白〉にすぎない。もっといえば、人間が認識できる世界などちっぽけなもので、そのなかのもっともちっぽけなものに注目するのが、俳句と呼ばれる作業なのだろう。『くれなゐ』に収録されている半数を占めるのも、日常の〈空白〉の見落としてしまいそうな世界の輝きである。

  真ん中の一鉢抜いて買ふパセリ

  信号の青に誘はれ鯛焼屋

  蜜豆の豆を残して舞妓はん

  百物語唇なめる舌見えて

  切り株に坐れば斜め鳥帰る

 密教に息づく漢語的な世界とは対照的に、『くれなゐ』の足場となっているのはあくまでこのような、やわらかな日常詠である。日常のなかのちっぽけな特別な瞬間である。

 そのような点で、句集のなかに「一」という数字が頻出するのは、ひとつの特徴といえるだろう。他の句集の「一」の数は数えたことがないし、対象に焦点を合わせた句は最終的に「一」に収斂していくものであるから、これは何も本句集に独自な傾向とはいえないかもしれないが、ここに『くれなゐ』の「一」俳句を集めてみよう。

  船団の一艘に旗若布刈る

  真ん中の一鉢抜いて買ふパセリ

  花栗の一山揺する香なりけり

  青嵐鯉一刀に切られけり(以上「青嵐」)

  好色一代女と春のひと夜かな

  十聞いて欠伸がひとつ未草

  一生に一茶二万句三光鳥(以上「桐筥」)

  はこべらや一人遊びの独り言

  梅林の一本松に茶店あり

  ゴム長の一人加はり大試験

  短冊一葉冷し胡瓜の礼とせり

  飛び回る蝙蝠ひとつ小諸駅

  ねこじやらし一本抜いてまた明日

  同舟のひとり火鉢を抱へゐる

  鴨打の一羽一羽に触れ数ふ(以上「野守」)

  春障子ひと夜明ければ旅に慣れ

  星祭一本足で鳥眠り

  明けてゆく海に一点鷹飛べり

  笛一管一節切なり初稽古(以上「緑蔭」)

  一振りの太刀を受け取り舞始(以上「墨書」)

  かきつばた一重瞼の師をふたり

  鵜を起こし鵜匠の一日始まりぬ

  鵜匠去る一の荒鵜の籠さげて

  線刻の岩いちまいを滴れる

  蛇踏んで一日浮きたる身体かな

  鉄斎を一幅見せむ風邪ひくな

  一席を設けて雪見障子かな(以上「冬日」)

 約350句のうち27句というのは、やはり多いのではないか。もちろんこれは言葉の上の話で、「一」という数字が入っていなくても「一」を想像する句はいくらでもある。だが、わかりやすいように、ここでのコーパスはあくまで言葉としての「一/ひとつ」に絞って話を進めることにしよう。

 「一」というのは、俳句において、抽象=捨象するという機能をもつ。つまり、対象(=「図」)に焦点をあわせてクロースアップすることで、背景にあるもの一切を「地」へと後退させてしまうということだ。結果として、「まさにこの」という指示語と同等の機能をもつことになる。ただし、固有名詞となっている「好色一代女」や、他に二重しか選択肢のない「一重瞼」はこの限りではない。しかしそれを除けば、このようなカメラの比喩として論ずることの可能な「一」の俳句は、写生=描写を足場とする「近代」以降の俳句のオーソドックスな発想といえるだろう。

 

3. 「一」からの退却?

 対象が何であれ「一」としてものごとを捉えることは、何かを「分ける」ことであり、「分かる」ことである。だから「分かりやすい」句となる。もちろん「一」が入っていなくても、〈かなぶんのまこと愛車にしたき色〉のような一物仕立てのユーモアある句は、これからさまざまな人々に愛唱されるだろう。だが、そのような目で見てみると、『くれなゐ』の帯文に掲出された以下の句は、たんなるオクシモロンを超えて、別の色合いを秘めてくるようだ。

  ばらばらにゐてみんなゐる大花野

 この句もまたこれからさまざまな人々に愛される句となるだろう。だが、ここでは、それぞれが「一」でありながら「全」でもある――などといえば、たちまち哲学めいた話になってくる。いやいや、そんな難しい話ではない。わたしたちは誰もが個でありながら集団を構成しているのであり、つまるところ、本当の意味での「個」などにはなることはできない。「個」とはかりそめのフィクションであり、「個」を突き詰めようとすれば、それは社会や集団から白い目で見られることを覚悟しなければならないだろう。それは一種の独我論なのだ。

 もちろん、大花野が「社会」や「集団」などのメタファーであるなどといいたいわけではない。いま、読者のイメージには、「ばらばら」でありながら「みんな」でもあるような人間の姿が、広大な大花野とともに浮かんでいるはずだ。だが、ここにもし「大花野」がなかったとしたらどうだろう。ただの「ばらばら」である。「大花野」はここで「地」となって、そのなかからマティスの描く形象のような「人間」たちが浮かび上がってくる。「大花野」はまるで、マティスの原色の背景色のような働きを担っている。

 このような認識は、先の「一」的な、つまり対象を凝視して描写するというオーソドックスな句とは、やはりどこかちがっている。句集に収められた句は、一物で詠まれた写生的な句もであれば、イメージの重層性で詠まれた取り合わせの句もある。しかし、この「大花野」の句はそのどちらでもない。けっして像を結ばないというわけではないが、しかしもっと「ぼんやり」とした情景だ。「一」であり「全」であるというのは、ひとつの論理であって、観念である。かといって現実ではないかというと、現実にそういうことはある。いったい、ここで中西が描こうとしているものは何なのか。

 先の「一」の句にある種の臨場感がもたらされるのは、自己(読者)と対象(句の中のイメージ)が一対一で、差し向かいに、対面しているような錯覚が得られるからだ。そのときほかのものはすべて捨て去られる。いわばそれは恋のようなもので、ほかの一切が見えなくなるとき、唯一見えているものが輝きを放ち、特別な存在感を獲得する。その意味で中西は「恋」の人であり、じっさいに恋や色欲を主題にした句もある。

芸事の師は年下や春障子

花道に涼風たちて仁左衛門

アイヌ語で男根といふ春の山

緑蔭の男女のどれも恋に見ゆ

羽子板に欲し色悪の役どころ

 歌舞伎を愛好していることが察せられるが、色悪(いろあく)とは表面は二枚目であるが,女を裏切る悪人の役柄のことである。『東海道四谷怪談』であれば、民谷伊右衛(たみやいえもん)門がそれにあたるが、それが「欲し」というのは、あくまで自身が健全な恋しかしてこられなかったことを、多かれ少なかれ「罪」と思っているということだ。「アイヌ語で男根といふ」という措辞もまた、普段から色に溺れた生活をしていれば、あえて句にするようなことではない。クールな仁左衛門――これも悪役かもしれないが――に「恋」をするのも、芸事の師が「年下」であってそこからあらぬ妄想をするのも、作者の恋愛観が如実にあらわれている。

 このような中西の「恋愛体質」が、さきほどの「一」への執着とつながっているのだろう。だからこそ、どこか景物を遠くにおいて、〈ばらばらにゐてみんなゐる大花野〉と見やる作者の姿は、〈緑蔭の男女のどれも恋に見ゆ〉という句と同じ地平にある。つまり、一歩引いて「人間観察」をしているという目線がここにはある。


おわりに――執着ということ

 「われ」を詠む句が圧倒的多数を占める句集のなかで、このような句は貴重だが、逆にこういう句ばかりがあればいいという話ではない。おそらく、圧倒的な量の「恋するわれ」という一途な主体の句が並んでこそ、「人間観察」の、あるいは世を遠ざけているような句に、ある種の感慨が加味されるのだ。秀句として一句だけ取り上げてみても、その点は理解できないだろう。あくまで句集のなかに置いてこそ「読める」句というのがあり、それが「大花野」の句であり「緑蔭」の句なのである。

 一言でいえば、これらの句には「執着がない」。「われ」がほとんど消え入りそうになっている。おそらく、このような詠み方は、具体物とたえず向き合ってきた作者にとって、けっしてベースにあるものではないはずだ。近代的自我という俗念を振り払って、「ただある」世界を描くということ、そのような句はけっして多くはないが、句集を読んでいくうちに、少しずつ浮かび上がってくるようにも見える。

  干潟から山を眺めて鳥の中

  鹿の声山よりすれば灯を消しぬ

  隙間より花の日差や籠堂

  山椿かごぬけ鳥の夕べ群れ

 これらの句は、〈髪の根に汗光らせて思念せる〉というような人間のありようと対極にあるものだ。つまり、少なくとも何かをひとつだけ見つめ、「恋」をするようなモードとはちがっている。あまたある鉢のなかから、ひとつの鉢を選びとったり、夏の夕刻の小諸駅を飛び回る蝙蝠のなかから、一匹の蝙蝠を見つめたりする視線とは異なっている。そこに「われ」はいるが、しかしもっとパノラミックに、鷹揚な自然の運行に触れようとしている。だから執着は感じない。

 もっとも空海の教えでは、人間が煩悩をなくすことはできない。密教は、「執着上等!」である。とはいえ、欲に溺れることがあってはならない。自身をコントロールしなければならないのだ。『くれなゐ』は、その意味で理性の領域から踏み越えることのない句集だといえる。中西は、一歩踏み出すことを無意識下で欲望しながらも、現実には踏み出すことのない(少なくとも句集からそう思わざるをえない)良識的な作家だといえる。この常識性が、本句集の安定感を基礎づけているのだ。

  業深く生きて霜焼また痒し

さてこの句が、どこまで作者の本心であるか。少なくとも、読者には作者の「業」がどれほど深いものであるか、それほどうまく想像できない。席題でつくられた遊びの句のようにさえ、思われてしまうのは損なことかもしれない(句会で出たらわたしも採るとは思うけれど)。しかし、この句を句集のなかに置いてみたとき、あえて「業深く生きて」といえるほどの業はそれほど感じられないのも事実なのだ。だからこれも、内面的な吐露というより、むしろ無頼への「あこがれ」と解するほうが、至極自然かもしれない。

 末筆ながら、わたしが最も印象に残った句を引いて稿をしめくくることにしよう。以下の句がこれから人々に愛唱されることを願ってやまない。


   かなぶんのまこと愛車にしたき色

   百物語唇なめる舌見えて

  マスクして葬の遺影と瓜ふたつ

  皺くちやな紙幣に兎買はれけり

  緑蔭の男女のどれも恋に見ゆ

  春障子ひと夜明ければ旅に慣れ

  ばらばらにゐてみんなゐる大花野

   無患子や死して冥しと空海は(悼 宇佐美魚目先生)

  ころぶこと鳥にもありて冬の草

  さいいかを誰か出しをる暖房車

  鯖〆て平成の世も暮るるかな

  かきつばた一重瞼の師をふたり


(堀切克洋氏が管理人を務めるウェブサイト「セクト・ポクリット」2021年5月9日に公開された記事より転載)

2021年5月28日金曜日

【中西夕紀第四句集『くれなゐ』を読みたい】17 ゆとりの句集  永井詩

 私は作者のおしゃれで個性的で勢いのある第一句集「都市」が大好きである。

 そして、詩情に溢れた第3句集「朝涼」のファンである。

 だから、「くれなゐ」を読んだ時は、少し物足らなかった。しかし読むうちに作者の人生への自信をバックにした、色彩豊かな、ゆとりの句集だと分かった。

 リズムよく、自然体でわかりやすい句が多い。作者の句は、描写力があるので、すすっと読み進めることから、最初は安易な判断をしてしまったことに気付いた。

 藤田湘子に学んだあとで、写生力を学ぶために、宇佐美魚目のもとに通った努力の賜物であろう。

 そして、句集「都市」を再び読むとあんなに好きだったのに物足らないのだ。

 すでに著名な方々が句評をかいていらっしゃるので、私は「蛇」「猫」「蜂」の句を取り上げたい。

 作者は帯文にも「小さなものたちの命に寄りそう」と書いている。上記の蛇、猫,蜂は作者の好きなものである。巳年生まれであり、猫を飼い、そしてなぜか蜂好きである。しかし残念ながら、蜂の句はなかったが。


  口開けて蛇抜け出でし衣ならむ

まるで作者が蛇になり、脱皮の時の蛇の思いに心を寄せているようだ。


  穴惑見しも秘事とす湯殿山

 湯殿山の決まり事と穴惑いの出現を面白く絡めている。縁起がよさそうだ。


  青大将逃げも隠れもせぬ我と

 人を見れば姿を消すはずの蛇が、なぜか大勢の人が通る横で、じーとしていた。作者はそういう蛇に対峙しているのだ。


  山楝蛇木を移らむと空飛べり

 流石、蛇好き!なんと珍しいシーンに出会えたのだろう。飛ぶことのできる蛇をたたえているようだ。


  蛇踏んで1日浮きたる身体かな

 浮きたるが曲者である。作者の蛇好き極めたりである。


  読む文に猫の居座る冬日和

 やれやれと言いながら、猫に話しかけている作者が見える。読む文という柔らかな言葉や、季語によって猫への深い愛情を感じる。


  金魚屋の猫の名前の悪太郎

 いやー本当ですかと言いたくなる。お笑いみたいである。猫のおやつは屑金魚?


  捨猫に日数の汚れ月見草

 哀れである。日数の汚れとあるから生まれたてではないだろうが、きりきりと心の痛む作者がいる。


  枯れを来て猫も話があり気なり

 猪突猛進の犬と違って、猫は思慮深げだ。

 その猫が枯れから現れると何か摩訶不思議なことを言いだしそうである。

 

 以前は、作者の句のイメージは、どちらかというと、女性というより中性的な句柄だという気がしていた。その点「くれなゐ」は作者の女性である面が出ていると思う。だから、少し雅で綺麗すぎるところもある。次回は進化し続ける句の中に、時事俳句や尖がった句やドロドロとした句も見たいと思う。

2021年4月23日金曜日

【中西夕紀第四句集『くれなゐ』を読みたい】16 他者の光景~やさしさと共感力に支えられて  菅野れい

  まだまだ俳句初心者の域を出ない私が、『くれなゐ』という魅力的ではあるが初心者にとっては厳しく険しい山に、恐る恐る登ってみた。やはり道は険しかった。私などには到底語ることのできないような句の数々が聳え立っていた。それらについては、諸先生、諸先輩方の論を読ませていただきつつ、これからさらに勉強していきたいと思っている。

 ただ、読み進めていく中で、登山中、前から来た人に「こんにちは」と声を掛けられた時のような、ふっと心和む瞬間があった。それは、次に挙げるような〝他者の光景〟を詠んだ句に出会った時のことである。ここでは、それらの句について述べてみたい。

毛糸帽被りて才気消されけり

 ふだんは才気走って凛とした強気の人。それがある時、毛糸帽を被って現れた姿を見ると、なぜか少し老け込んで弱々しく見えた。おや、この人にもこんな面があったのか…と、小さな驚きとともに何とも言えない愛おしさまで感じてしまう。

蜜豆の豆を残して舞妓はん

 茶店か何かで偶然隣り合わせた舞妓さん。ふと見ると、蜜豆の豆だけきれいに食べ残されている。「あらあら、好き嫌いをして…。綺麗に着飾っていても、やっぱりまだ半人前の子どもなのねえ。」と、くすりと笑ってしまう。

はこべらや一人遊びの独り言

 相手がいないので、独り言を呟きながら一人遊びをしている子。遊びに夢中になっているからこそ出る独り言なのだろうが、なぜともなく切ない。誰に顧みられることもなく風に吹かれているぺんぺん草だけが話し相手なのだろうか?

吊革に立寝の人や遠花火

 帰宅時間帯の電車の中。ふと見ると、前に立っている人が吊革にぶら下がってウトウトしている。シャツの襟元は崩れ、上着には皺が寄っている。きっと昼間の勤めで疲れ切っているのだろう。どこかで賑やかに行われている花火大会などとは縁遠い、勤め人の悲哀…。

泡消えしビールの前のふたりかな

 ついだビールに手もつけないまま、泡が消えてしまうほどの時間が流れたのだろう、それも多分、重苦しい沈黙の時が…。この二人はどんな間柄なのだろう?二人の間に何があったのかしら?ついつい気にかかって、そっと見つめてしまう。

手話の子の手も笑ひをり花木槿

 誰と話しているのだろう。自分の耳が不自由なのか、それとも相手だろうか。いずれにしても、普通の会話よりもどかしく不便そうに思える手話。でも、この子は楽しそうにそれを操っている。手の、指の動きが、本人の笑顔同様、きらきら笑っているようだ。傍で咲き乱れている木槿の花も、まるで一緒に笑っているよう…。時としてマイナスイメージを纏ってしまうこともある〝手話〟を、こんな素敵なものにしているこの子に拍手。

ぶら下げて女遍路の荷沢山

 ふつうは、背に一つ腰に一つの荷姿で、手には杖一本だけのお遍路さん。ところがこの女遍路さんは、さらに手にもう一つ二つ荷物をぶら下げている。荷沢山は女の性(さが)。どこに行くにも、ついついあれこれと荷物が増えてしまう。遍路旅でさえ…。

彫物の皺む太腿踊りけり

 祭りで踊っている老人。尻端折りの裾から覗いている皺んだ太腿には、彫物の痕が見える。昔は威勢を誇っていたであろうそれも、今では皺の中で見る影もなく色褪せている。けっして平穏ではなかった来し方が偲ばれる、それでも踊り続ける老人に、「頑張ってきたんですね、お疲れ様でした」と声を掛けたくなる。

握る手を握り返さぬ受験の子

 試験会場に送り出す子の手を握りながら、「頑張ってね」とエールを送る。ところが、力強く握り返してくるはずの手は、力なく握られたまま…。余程緊張しているのか、不安のあまり心ここにあらずなのだろうか?心配が募る。何も言わず会場に向かう後ろ姿に、もう一度「頑張って」と呟く。

普段着の父母若し七五三

 七五三の光景。子どもは綺麗な晴れ着で着飾っているのに、付き添う両親は普段着。まだ年若く収入も少ない夫婦は、子の晴れ着を整えるのがやっとで、自分たちの装いにまで手が回らない。でもこの夫婦はそんなことはお構いなし、子どもの晴れ姿に満足しながら写メでも撮っているのだろう。若く健気な親心に乾杯。


 いずれの句も、それぞれの景を淡々と描写し、特に自分の思いを語っているわけではない。にもかかわらず、それぞれの句からは、作者の「どうしたのかしら…」と心配げに見つめる顔、「素敵ね!」と賛嘆する顔、「あらまあ…」と微苦笑する顔等々が浮かび上がってくる。そして読み手も、その場の景やそれによって呼び起こされる様々な思いを共有し追体験することができるのである。

 もちろんそうさせているのは、季語をはじめとする語句の巧みな選び方、それらの配置の妙、描写に当たっての思い切った省略、その他私などには思いも及ばぬほど多くの作句上のテクニックの力に相違ない。しかし、それ以上にこれらの句を成り立たせ支えているのは、他者のちょっとした仕草や様子、その小さな意外性にまで気づくことのできる力、そこからそれらの人々の思いや背景にまで思いを致し、そっと思いを寄せることのできる力=人としての優しさ、共感力なのではないかと思う。

 そんな優しさと共感力に支えられた句だからこそ、それらに出会った時、私の心もふっと和み、安らいだのだと思う。最初に書いたように、まだまだ勉強途中の私であるが、これらの句に励まされ背中を押してもらいながら、高き山『くれなゐ』をこれからもしっかりと読み込んでいきたい。


2021年4月9日金曜日

【中西夕紀第四句集『くれなゐ』を読みたい】15 「小さなものたち」への共感  吉川わる

 中西夕紀(敬称略。以下同じ)の第四句集『くれなゐ』の「あとがき」には「自分なりですが、句材を広げ、色々な詠い方を試みました。特に吟行では、小さなものたちの命を描きたいと思い、(後略)」とある。次のような句のことを言っているのであろう。

薄氷や滑つてゆきしあれは鳥

ころぶこと鳥にもありて冬の草

 「薄氷」を滑っていくのであるから、小鳥であろう。わざわざ「あれは鳥」と言っているのだから身のこなしが鳥らしくないのであり、意に反して滑ってしまったところを見たのだ。「ころぶこと」も鳥にすればちょっとした失態であろう。いずれも取り合わせの句だが、「薄氷」という季語には儚さ、「冬の草」には健気という情感があり、作者が鳥を慈しんでいるのがわかる。二句目などは、「鳥にも」とあるから自分自身を重ね合せてもいるのだろう。

空き箱に蓋見つからずちちろ虫

皺くちやな紙幣に兎買はれけり

 「ちちろ虫」をもらったのだろう、ちょうど良い大きさの空き箱があったのに蓋が見つからない。無造作に取り出した「皺くちやな紙幣」により兎は買われていった。この二句は一物仕立てと言ってよく、「小さなものたち」への思いがより直接的に出ている。第三句集『朝涼』からも引用してみる。

白魚の雪の匂ひを掬ひけり

玉虫に山の緑の走りけり

 それぞれ白と緑が印象的な句であるが、作者が「白魚」や「玉虫」に見ているのは前四句のような「小さなものたちの命」ではなく、「俳句はものに語らせる」という時の「もの」なのだと思われ、だからこそ、切れ味鋭い佳句となっている。『くれなゐ』にも色に着目した句があるので比較してみよう。なお、以下、句はすべて『くれなゐ』からの引用である。

かなぶんのまこと愛車にしたき色

 「玉虫」の句とは肌触りが違う。うちの嫁にしたいという感じなのであり、それは「かなぶん」を「もの」ではなく、近しい「他者」として認識しているからである。冒頭に引用した「あとがき」に気付いたのは、この稿をほぼ書き終えようとしている時だったのだが、確かに『朝涼』には小動物に焦点を当てた句は少なく、「かなぶん」のようなテイストの句はない。「句材を広げ、色々な詠い方を試みました」と言うが、『朝涼』から『くれなゐ』への変化はそれだけで説明はできないだろう。

寂しがる母もう居らず林檎の香

伯母も吾も子の無き同士青ふくべ

かきつばた一重瞼の師をふたり

人逝きてわれに残りし鷹の空

 『くれなゐ』は、両親、伯母、恩師など多くの人との別れが詠われており、哀惜の句集としての側面を持つ。別れが他者の存在に気付かせ、他者への共感が新たな俳句を生んだと考えることはできよう。だが、それは推測に過ぎず、また、重要なのは理由ではなく、変わったという事実なのだ。

青大将逃げも隠れもせぬ我と

殺すかもしれぬ毛虫を離れけり

きちかうや屈む少女に背の窪み

ぶらんこやたぶん失恋した少女

 他者の発見はまた自己を再発見するということであり、「青大将」や「毛虫」の句はその現れだろう。「少女」の二句はかつての自分を見ているのであり、それらはさらなる意識の変化をもたらす。

干潟から山を眺めて鳥の中

ばらばらにゐてみんなゐる大花野

 「私」(自己)と「あなた」(他者)から、「私たち」への変化であり、それは他者との共生を意味しよう。

 『くれなゐ』は、中西夕紀の意識の深化と、師から受け継いだ写生の技が融合することにより生まれた句集だと思う。

2021年3月26日金曜日

【中西夕紀第四句集『くれなゐ』を読みたい】14 対象の芯を詠む  山崎祐子

 「都市」主宰中西夕紀氏の第四句集。作品は年代別ではなく、テーマごとに六章に分けており、連山を踏破していくような感覚を覚えた。句集に納められた平成二十三年から令和元年までの間に、師である宇佐見魚目氏をはじめ、親しい方を見送っておられる。

  邯鄲や墨書千年ながらへむ

  本読むと大緑蔭へ行かれけり

 一句目、書家としても知られる宇佐見魚目氏は享年九十四、二句目の大庭紫逢氏は享年六十七。「都市」に「現代川柳考」を連載中の病死であった。お二人と面識がない者にも、心に響く作品である。   

  垂るる枝に離るる影や春の水

  混み合へる仏壇を閉ぢ夏布団

  店奥は昭和の暗さ花火買ふ

  かなぶんのまこと愛車にしたき色

  夕映の窪みに村や春の富士

  筆圧にペンみしみしと雲の峰

  百物語唇なめる舌見えて

 今、作者が見ている風景が、読み手の心で反芻されたとき、読み手の記憶を一気に引き出す。俳句にはそんな力があるのかもしれない。ノスタルジーとは違う力強さは、写生が効いた実感が伴う句だからである。一句目の〈垂るる〉〈離るる〉の調べは、季語と響き合って豊かな世界を描く。後書きに「句材を広げ、色々な詠い方を試み」とあるように、句材の幅が広くて楽しい。第四句のメタリックな色は、車ではなく〈愛車〉とすることによって作者の姿が見える句になった。

  鴨撃ちの一羽一羽に触れ数ふ

  捨猫に日数の汚れ月見草

  ばらばらにゐてみんなゐる大花野

  灯に透けて海月も泡も生まれたて

  茶柱のやうに尺蠖立ち上がる

  梟の月磨ぐ声と聞きにけり

  万歳をしてをり陽炎の中に

  旅にゐて塩辛き肌終戦日

  日の没りし後のくれなゐ冬の山

 いずれも、対象の芯を見定めようとする詠み方だと思う。一句目、〈触れ〉を見逃さなかったことで、景がよく見えるばかりではなく、まだ温もりがある鴨の命と猟師、両方の重さを感じるのである。三句目、大勢がいるけれども何か隔絶された空間にいるような不安。〈大花野〉がどこからどこまで続くのかわからないような空間を想像させる。作者は、不思議な空間で花野の先を見つめている。八句目の〈塩辛き肌〉に、生きている実感と死者への哀悼を感じた。

 作者は吟行について「小さなものたちの命を描きたい」、旅吟について「その土地への思いを下敷きにして風景を描きたい」と記す。句集を閉じ、吟行に出かけたくなった。

(令和二年六月 本阿弥書店)


2021年3月12日金曜日

【中西夕紀第四句集『くれなゐ』を読みたい】13 時間の中を飛ぶ鳥  鈴木牛後

  中西夕紀句集「くれなゐ」(二〇二〇年/本阿弥書店)を読んだ。ここでは、本句集から句を引きながら、一句の中に流れる時間ということについてまず考えてみたい。
  干潟から山を眺めて鳥の中
 ひろびろとした干潟から遠くの山を眺めている。そして、周りにはたくさんの鳥がいるという景。眺めているのは山なのに、作者の関心はむしろ鳥の方にある。そのことは「鳥の中」という結句から明らかだ。たくさんの鳥が虫などを啄むために干潟に集まってきていて、その鳥たちと気配をひとつにして、作者は身じろぎもせずに干潟に立つ。干潟から山までの大きな空間と、鳥の気配に包まれた比較的長い時間を、一句の中にひろびろと描く構成となっている。
  戸を鎖せば谷の深きにけらつつき
 「鎖(さ)す」という表現からはぴったりと戸を閉めるイメージが受け取れる。家の中の音や気配が、外に出て戸を鎖した瞬間に、外の深い幽谷や啄木鳥の鋭い打刻音に変わるという、その変化が鮮やかだ。屋内の淀みから幽谷の澄んだ空気へ、テレビや生活の音から啄木鳥や風の音へ。この句の中にもそういった時間と空間が無駄なく表現されている。
  あをあをと雪の木賊の暮れにけり
 冬になっても枯れずに青さを保つ木賊。雪が降ってもその青さを失うことはなく、かえって雪があるからこそ、木賊の青が引き立っている。夕暮れになり、雪の白、木賊の青がともに闇へと近づいていく。掲句はそれが融け合う直前の、木賊に残る青さを言い留めている。時間とともにある色の移ろいが見える。
  霧に飛ぶ礫は鵟(ルビ:のすり)頭上へも
 霧の中から何かが飛び出してくる。初めは礫のようにも見えたのだが、近くへ来てそればノスリであることがわかった。ノスリという名前は、獲物を狩るために、樹上から急降下して地表すれすれを匍匐飛行することから来ているという。出現し、降下し、上昇し、霧へ消えるというノスリのダイナミックな飛行が読者の脳裏に映し出される。これも時間だ。
 俳句は瞬間を切り取るもの、という言い方がある。角川「俳句」の二〇一七年六月号の特集は「『瞬間』の切り取り方」というものであった。その総論で小川軽舟が取り上げているのは、《霜掃きし箒しばらくして倒る 能村登四郎》《手をつけて海のつめたき桜かな 岸本尚毅》《流れ行く大根の葉の早さかな 高浜虚子》《古池や蛙飛び込む水の音 芭蕉》などである。たしかにこれらは「瞬間」を切り取った句であるが、背景には時間の流れが確かにあって、どちらを重視するかは作り手だけではなく、読み手にも委ねられているように思う。ただ、小川の「瞬間論」は精緻に組み立てられていて、ここで紹介する紙幅と私の筆力がないのが残念ではある。
 さて、先に私が挙げた四句のうちの三句には、鳥、啄木鳥、鵟(ルビ:のすり)といった鳥が詠み込まれている。集中に鳥の句が格別多いということではないのだが、作者にはただ鳥を眺めるだけではない独特な把握を見ることができる。
  春光の野に飛ばさるる紙は鳥
 これは厳密には鳥の句ではないが、春の強い風に紙一枚が鳥のように飛んで行くという景。だれかが捨てたレシートのようなものかもしれないが、私は時代劇で見るような、巻くように畳まれた手紙を想像した。風に乗るたびに解けながら春の光を浴びて飛ぶ文。誰かに届くはずだったメッセージと鳥のイメージが重なり合う。
  鶴飛ぶや夢とは違ふ暗さもて
 鶴は亀と並んで長寿のシンボルとして知られる瑞鳥である。夢に出てきたときは光り輝いて見えたのだろう。しかし実際に見れば、それがナベヅルやマナヅルなら黒っぽくて大きな鳥でしかない。それでも鶴が群れている姿は人に感動を呼び起こすには十分であり、夢を越える現実の美しさがそこにはある。
  小鳥来る礎石の穴は水ためて
 これは純粋な写生句。いろいろ書いてきたが、このような写生句にも多くの佳句がある。この礎石は、おそらく遺跡のもので、柱を立てるために穴があけられていたものだ。そこに水が溜まっていて、小鳥がその水を飲むために集まってくる。「小鳥来る」という未来志向の季語と、過去の栄華の残滓である礎石との時間の対比が鮮やか。
 そのほかにもいろいろな句材を多彩に料理していて、その確かな手腕を感じた。
  漢ゐて火を作りをる春磧
  飛火野の小鹿は草の露まみれ
  鹿の声山よりすれば灯を消しぬ
  九蓋草野守の傘をささず来ぬ

などの古い物語を思わせる幻想的な句にも惹かれた。
 句集名は次の句から。
  日の没りし後のくれなゐ冬の山

2021年2月26日金曜日

【中西夕紀第四句集『くれなゐ』を読みたい】12 ~闊達と気品と~  田中聖羅

 第4句集『くれなゐ』は、第3句集『朝涼』から9年の月日の結晶である。その月日はまた、私が結社「都市」に入会てからの月日でもある。句集を手にし、余白が生かされた装丁が美しく、帯の一句が句集の奥行きを感じさせている。読みすすめて、「誰にも衒うことのない清々しさ」が第一印象だった。
 『くれなゐ』の句は、一見平明に感じることがあるが、ことさら難しい語彙や常套的言いまわしに与せず、自らの身を貫いた感覚をことばに結実させる結果からだろう。リズムも同様、実感に伴ったものだ。即物的であろうとするとき、その感覚をことばに置き換えるとき、その推敲は大変なものだろう。結果として自身の「今」を詠まれている。
 宇多喜代子著『戦後生まれの俳人たち』(2012年 毎日新聞社)の宇多氏の鑑賞に、

 玉虫に山の緑の走りけり     (第3句集『朝涼』)
 いくたびも手紙は読まれ天の川  (第3句集『朝涼』)

の二句を「巧みな技をさりげなく見せて景を大きくしている」との評価がある。その巧みさに加え、『くれなゐ』ではより対象物を自身に引き寄せ、恐れることなく心で踏み込んでいる。しかも猶、動きのある若々しさと新鮮さを失わない。宇多氏は、「戦後生まれの俳人たち」に、「新鮮な一句」と「俳句の未来」を期待した。夕紀は、この『くれなゐ』により闊達な、しかも気品のある一句、一句でその期待に応えている。

ばらばらにゐてみんなゐる大花野

 帯文に紹介されている一句である。「都市」での吟行句と思われるが、一読してそのリズムに取り込まれる。「みんなゐる」の「みんな」は、例えば句作に没頭する「都市」の仲間たちであろうか。主宰として自らが育ててきた「みんな」である。その充実感と幸せ感が伝わり、その吟行にいなかった私を悲しい気持ちにさせたほどである。「大花野」という舞台がよく、この期の代表句の一句になるかもしれない。

百物語唇なめる舌見えて

 現在では、さしずめ白石加代子演じる「百物語」の舞台であろう。躍動的に動く真っ赤な唇から吐き出される言葉・・・話の興に乗り益々話術も冴え唇をなめる、その瞬間を捉えた一句である。その舌までもが見える演者の形相そのものに集中し、妖怪話の怪奇さを表している

山襞を白狼走る吹雪かな

 一見、平明な句に思えるが、激しい句ではないか。旅吟であろう。「白狼伝説」のある地かもしれない。折からの吹雪の中に山襞を見つめ続け、ついにその詩魂が白狼の姿を引き寄せる。吹雪の激しさに対峙する俳人の心の激しさが真っ白な世界に舞い上がっている。
青大将逃げも隠れもせぬ我と
 吟行の最中、青大将と出会い「逃げも隠れもせぬ」と啖呵をきってみせているのである。どんな対象物でも、見て、触って対峙する覚悟でいる自身を詠んでおり、句作へ挑戦する思いと、ちょっぴりユーモアのある余裕が感じられる。

  宇佐美魚目先生宅へ
こほろぎや畳み重ねて明日の服  (第3句集『朝涼』)
春障子ひと夜明ければ旅に慣れ  (第4句集『くれなゐ』)

 「こほろぎや」は、泊まりがけとなる吟行参加をかかさなかったという若き日の一句である。志に向かい、いかに旅吟や吟行を大切にしてきたかが窺える。そして、その志を繋ぎ今も旅にいる。「春障子」は、そうした自身を客観視した余裕のある一句となっている。
日の没りし後のくれなゐ冬の山
 古都への旅吟を重ねて、冬の山を遠景に会心の一句を得る。日没のあとの余韻の残る日本の美しい光景である。夕紀は、この句にて「くれなゐ」を自身の色にした。夕紀の旅はまだまだ続く。今はもう次の一句へと心が騒いでいることだろう。

2021年2月12日金曜日

【中西夕紀第四句集『くれなゐ』を読みたい】11 五七五で描く西鶴の世界  加瀬みづき

 句集「くれなゐ」を読み返し、「くれなゐ」評の先行の方々が取り上げていない句と、夕紀の第一句集「都市」から「さねさし」、「朝涼」にもない句を探した。そうしたら、次の二句があった。

好色一代女と春のひと夜かな
西鶴の美女は胴長竹床几


 この西鶴を詠んだ二句で書こうと決めた。しかし、西鶴を読んだことがない。「好色一代女」(新潮社)、「好色一代男」(岩波文庫)、「好色一代男(吉行淳之介訳)」(中公文庫)をネットで取り寄せた。

好色一代女と春のひと夜かな

 一読したときは、恋多き女と春の一夜の儚き逢瀬を描いているのだと思った。
「好色一代女」を読む。一代女には名前がない。美貌で「官女」となり「十一歳の夏の初めより、わけもなく取り乱して」十三歳の時、「さる青侍」に通じ、「初通よりして、文章、
命取る程に、次第次第に書を越し」たのに焦がれて「身をまかせる」が、やがて、女は追放され、男は処刑される。
 現代からみると随分早熟だが、当時は、初潮を迎えるとすぐに女性の世界に入るのだろうか。
 まず、昔の恋が思いを文に託すことから始まることである。古代の相聞歌の時代から江戸の一代女まで。そういうやりとりをする女性は文才がなくてはならない。教養も重要である。句を作る者として、古典を深く読んでいない、近現代の俳人の作品も知らないことが多く、まだまだ勉強なんだと思った。
 話をもとに戻して、短くまとめると、一代女は若衆仕立ての舞子になり、以降遊里の太夫から下級の女郎まで身を落とし、その間にも様々な男性との関係があり、最後には夜発は色勤めの納めになり、六十五歳で尼になる。
 読んでいて、一代女の一生が、身にも心にもこたえた。女性の本性をえぐられるようだった。女性の深層を西鶴はよく描いたものだ。
 「都市」二〇二〇年十月号の「魚目の蝶の句」論で、夕紀は魚目の「エロス」の句を取り上げているが、この「好色一代女と春のひと夜かな」の句も、中西夕紀のエロスの句ではないかとおもう。
 そして、魚目の言葉として「ここに居る我々は詩に汚れているものだ」という一言がある。文字通り「好色一代女」の句は、西鶴の色欲に接して作品が一度汚れているような気がする。
 魚目が「女性を詠んできて、エロスに行きあたった」のが五十三歳から六歳の頃、夕紀が第四句集「くれなゐ」の作品を詠まれたのが、平成二十三年頃から令和元年の春までの、五十七歳から六十六歳まで、この間、夕紀も「魚目はエロスを夢幻として捉え、一つの恋を描ききり、完成させたのではなかったか」の世界に到達されたのだろうか。
 「好色一代女」を読み終わり、この「好色一代女と春のひと夜かな」の句は、女性の立場では、自分も好色一代女になり、自分語りをしている句ではないかと感じた。
 一代女は最後に、「これも懺悔に身の曇り晴れて、心の月清く、春の夜の慰みん、我、一代女なれば、何を隠して益なして、胸の蓬草開けて萎むまでの身の事、たとへ、流れて立てたればとて、心は濁りぬべきや」で終わる。二人の若者に一生を語り終え、心は平明に終わる。
 

西鶴の美女は胴長竹床几
 
 「西鶴の美女は胴長」の姿を求めて、何か江戸時代の女性の絵がないだろうかと、当時の浮世絵師、菱川師宣をネツトで調べると、井原西鶴の「好色一代男」の挿絵がちょうどのっていた。そこには、胴長の女性が描かれていた。
 「好色一代男」(岩波文庫)が届くと、本の表紙の絵が師宣の絵だった。本文を読むと、「人には見せぬところ」の段で、九歳の世之介は四阿屋(あづまや)に備えつけてある遠眼鏡を持ち出して屋根に登り、菖蒲湯を使っている中居(こまづかい)を盗み見している挿絵だった。
 西鶴の時代、美女の条件に「好色一代女」にも、「胴長常のより長く」とある。
 では、「竹床几」に腰掛けて美女と話ををするのは誰だろう。世之介のような色恋の酸いも甘いも噛分けた男性だろうか。恋の駆け引きか、しんみりした話か、たわいない世間話か、想像は幾重にも広がっていく。
 ちなみに、「好色一代男」の巻七「新町の夕暮嶋原の曙」に、吉行淳之介の現代語訳で、「昼は寝て、まず夜のうちのくたびれを取りのぞき、暮方から表に床几を据えさせて眺める九月十日の月、さすが都だけあって風情のすることだった」と、床几が出てくる風流な場面がある。

好色一代女と春のひと夜かな
西鶴の美女は胴長竹床几


 五七五の短い俳句の世界で、夕紀は西鶴の作品を表現した。後人に続く者として、果たしてこのような句が出来るようになるかわからない。
 最後に俳論を超えて文学論として西鶴を語っている、「好色一代女」(新潮社)の校注者村田穆氏の解説文を長いが引用させて頂く。「現実の貧も、その貧を巧みに利用して水脹れる狡猾な富も、西鶴の力でどう処理し得るものではない。西鶴のなし得ることは、その現実を徹底的に追及して、人の心に反省を求めることでしかない。ということは、文学の弱みではない。精神の面から人間を改変しようとするもの、人間を内部から改変することの意味深さを真に知るもの、しかも、自分の意見を読者という他者の自由な取捨にまかせるもの、その人を文学の士と呼ぶ。」
 これで私の「『くれなゐ』を読みたい。五七五で語る西鶴の世界」を終わります。

2021年1月29日金曜日

【中西夕紀第四句集『くれなゐ』を読みたい】10 句集『くれなゐ』を読む  大木満里

 中西先生第四句集『くれなゐ』を一読して、思い出すことがあった。
 二〇一二年四月、第三句集『朝涼』上梓時の「都市」誌上会員座談会においての最後に、今後の先生の句の進化についての話題に移った時に、ある会員が「俳諧味のある句を、次回の句集では作って頂きたいな、と思います。これからは、生真面目ではなくて、少しゆとりのある句を読んでみたらと思います。」と発言していた。 
 確かに、この卒直な意見は、一つの方向性を示していると思い、私は共感して読んだ。俳諧味とは、軽みのある句と思ったのである。
 今回上梓された『くれなゐ』には、中西先生の、句境の幅の広がりを感じる。
 句は決して難しくはない。定型と季語を信じる姿勢は、未だ同じである。 
 しかし今回の句集では、対象を気負いなく平明な言葉でつかみ取り、軽やかさを感じる句が目につく。
 中西先生の作句を楽しんでいるような余裕が、読み手にも伝わり、引き込こんいくのではないだろうか。


声の人ひよいと顔出す古簾
 声が聞こえた。そこにひよいと古簾から顔を出した人がいる。古簾だと、ご老人かはたまたおかみさんか。ひよいとの措辞に、軽妙味が醸しだされている。

信号の青に誘はれ鯛焼屋
 誘はれとはうまくいったものである。鯛焼屋の看板を見つけて、青信号を
いまだとばかりに鯛焼を買いに走った。見慣れた景ではあるが、おかしみが
ある。

男伊達此方を向いて涼みなせい
 歌舞伎の一場面に、見立ててしまう。お目当ての贔屓役者に向かって、台詞もどきによびかけてみたいのである。軽妙洒脱、そこが楽しい。

不貞寝せし太夫もをりし屏風かな。
 不義理な客への怒りか、太夫同士の意地の張り合いか諍いがあったのかもしれない。一句の視覚的効果。切り口が巧みである。


手話の子の手も笑ひをり花木槿
 やさしい眼差しである。子の笑顔から、手話する手に視点を当てたのであ
る。白い木槿の花が可憐である。    

つぶやきにひらめきありし衣被
 都市同人、故井上田鶴さんへの追悼句である。心に沁みる。静かな方では
あったが、確かにひらめきを感ずる句を作られた方だった。季語がいい。

皺くちやな紙幣に兎買はれけり
 ほろ苦い、胸に迫る句である。恐らく風体を構わない男性であろう。無造
作に差し出すしわくちゃな紙幣、白い無垢なる兎。ここにさまざまな連想が
うかぶ。

高枝の小綬鶏来いよこいよ恋
 言葉の配合にひかれる。来いよこいよ恋、と調べが跳躍。視点が小綬鶏から恋へと移る。句の発想と構成の力が心地よい。

ばらばらにゐてみんなゐる大花野
 一人一人がさまざまな考えをもって点在しながらもそれぞれを認め合って
いる。広い彩りに充ちた世界である。
 こんな結社でありたいという、中西先生の願いと思い、最後の句とした。

2021年1月8日金曜日

【中西夕紀第四句集『くれなゐ』を読みたい】9 句集「くれなゐ」を読んで  桜木七海

 中西先生のもとで勉強を始めて早や十二年の歳月が過ぎた。今回の「くれない」は先生が満を持して出された意欲的な句集だと思います。テーマ別の章立てがそれを物語っているのですから。「青嵐」では季節ごとに色が見え「桐筥」の発想には柔軟さが伴い「野守」「緑陰」の旅吟にあっても人生を凝視する姿勢を感じます。「墨書」における鎮魂の圧巻、思い入れの激しさをしみじみと感じ、最終章「冬日」の平明さ、穏やかさ。各章を貫いているのは先生の現在の立ち位置の確かさではないだろうか。冷静に対照に真向かう真摯な眼からは、きっぱりとした一句が生み出され続けることでしょう。そして季語。季語が一句の中で自然体で使われ、それが一句をより引き立てているというとらえ方の上手さ。その詩心に惹かれます。そういえば先生は、季語の選び方によって作者の度量が分かるということを、句会で度々口にされるのです。
 10月30日の松野苑子さんの文章が忘れられません。傾向の異なる二人の師から学んだ夕紀俳句が、これからも深く耕され、二つの土壌が芳醇な実りをもたらすだろうという言葉に深い感銘を受けました。これこそが「くれない」の真髄であり自信ではないかと思っております。
 好きな句を5句選びました。

 花びらの水くぐらせて魚捌く

 「花びらの水」のひとことで魚屋の店先に置かれた水桶のきらめきが見えてきます。大きな桜の木があるのでしょう。花吹雪が店の中にも入ってきます・一枚のがっしりした俎板で魚をさばく主の鮮やかな手の動き。花びらの浮いた水をさっと流す。捌いているのはきっと黒鯛。

 逢ふよりも文に認め西行忌

 芭蕉は西行を崇拝し、その500回忌にあたる元禄二年に奥の細道の旅へ出立
したと言われています。厖大な西行の和歌を思う時「文に認め」が納得できるし何よりも便箋に文字を書く日常でいたい。

 桐筥に涼しく納め藩政誌

 江戸時代の大名の領地、藩。そのまつりごとを記録したのが藩政誌。例えば戊辰戦争の時には東北の諸藩が結んだ反維新政府同盟の記録や領民の一揆もあっただろう。「桐筥」に「涼しく」納まったことで、その後の安泰の様子にホッとする。

 「序の舞」といふ絵に戻り涼みけり

 序の舞といえば勿論、上村松園の不朽の名作。能の仕舞のひとつ序の舞を舞う女性を描いています。凛とした表情や姿勢からは松園が理想とした「女性の姿」を描ききっていると言われています。晴れやかな大振袖がくれなゐ色なのに、その凛とした緊張感が涼しさを運んでくるのです。

 日の没りし後のくれなゐ冬の山

 松園の画像が残っています。誰に媚びることのない立ち姿。句集最後の一句にこめられた先生の深い想いが感じられることを幸せに思います。

2021年1月1日金曜日

中西夕紀第四句集『くれなゐ』を読みたい インデックス


1 句集『くれなゐ』   馬場龍吉  》読む
2 句集『くれなゐ』を読む   涼野海音  》読む
3 「くれなゐ」の夕紀   柳生正名  》読む
4 『くれなゐ』を読む   松野苑子  》読む
5 『くれなゐ』賛歌   松下カロ  》読む
6 無題   北杜 青  》読む
7 射程の長さ   山中多美子  》読む
8 大鍋に牛乳の沸いている景とは・・・。   嵯峨根鈴子  》読む
9 句集「くれなゐ」を読んで   桜木七海  》読む
10 句集『くれなゐ』を読む   大木満里  》読む
11 五七五で描く西鶴の世界   加瀬みづき  》読む
12 ~闊達と気品と~   田中聖羅  》読む
13 時間の中を飛ぶ鳥   鈴木牛後  》読む
14 対象の芯を詠む   山崎祐子  》読む
15 「小さなものたち」への共感   吉川わる  》読む
16 他者の光景~やさしさと共感力に支えられて   菅野れい  》読む
17 ゆとりの句集   永井詩  》読む
18 恋心、あるいは執着について   堀切克洋  》読む


2020年12月25日金曜日

【中西夕紀第四句集『くれなゐ』を読みたい】8 大鍋に牛乳の沸いている景とは・・・。 嵯峨根鈴子

 大鍋に牛乳沸ける虚子忌かな

 大鍋に牛乳を沸かしているのは、「札幌 北の虚子忌俳句大会」の会場とありますが、私には何となく高濱家であっても構わないように思えました。底知れないエネルギーを放ち続ける大虚子の忌日に牛乳を沸かしているのです。しかも大鍋でです。虚子忌がとても新鮮に感じられます。何度か読み返している中に、やはり虚子忌として異彩を放つ一句だと思えました。筑紫磐井氏の「もりソバのおつゆが足りぬ高濱家」がついつい脳裏に浮かんできたりもします。

 中西夕紀さんは、第二句集『さねさし』では「写生ということを考え直してみよう」、そして第三句集『朝涼』では「よく見て、心に焼き付けてから、現実のものを遮断して心の中で昇華したものを描きたい」とあとがきにしたためておられます。第四句集『くれなゐ』では「挑戦。・・・自らも見えぬ明日の俳句を求めつづける」と大きく一歩踏み出す決意を表しておられます。さらに挑戦された句を見てみましょう。

蛇踏んで一日浮きたる身体かな

 私は蛇を踏んだ経験はありませんが、川上弘美の『蛇を踏む』をふまえた一句なんでしょうか。母にすり替わっていつの間にか浸透してくる蛇は、さしずめ新型コロナの不条理な感染のようでもあり、身の置き所もありません。
   
百物語唇なめる舌見えて

 唇を舐める語り手は白石加代子かも知れません。真っ赤な口紅に見え隠れする舌はてらてらと妖怪じみてきました。いよいよクライマックスの百話に近づいて行きます。

男客のそりと座り夏芝居

 舞台上での男客の所作のようでもあり、例えば銀座「卯波」に現れる「いの一番の隅の客」のようでもあります。「のそり」が上手いなぁ。

恋数多して長生きの砧かな

 宇野千代と砧とは、遠くて近い絶妙の距離感です。辺境に送られた兵士の妻が夜ごと打つ砧の音と華やかな恋多き老女の取り合わせが絶妙です。

 写生のじっくりと目を据えた佳句、長年培ってきた感覚の冴えた句も見られます。

垂るる枝に離るる影や春の水

 草田男の「冬の水一枝の影も欺かず」の春バージョンです。冬の水との違いがくっきりしています。春の水がより余情を誘います。

日陰から見れば物見え一茶の忌

 説明でなく一茶の忌が言い得ています。

豆腐煮るうゐのおくやま来し鴨と

 豆腐を煮る日常と、季節の移り行く鴨の渡りが地球的視野にまで広がります。「うゐのおくやま来し」で時間的にも奥行が生まれました。
 

店奥は昭和の暗さ花火買ふ

 これは昭和でなければならない暗さです。火付の悪い花火です。

金魚百屑と書かれて泳ぎをり

 写生の目が効いてます。屑がせつないですが、屑は強いのです。

 吟行にも励まれたようです。出羽三山神社での句です。

新酒酌む奥の暗きがわが寝所

穴惑見しも秘事とす湯殿山

 ぐっと踏み込んだ自己表現のようにも見えるのが「わが寝所」でしょう。

 『くれなゐ』には切り取った写生の画面から、解き放たれたような夕紀さんの心の中が垣間見えるような気がします。魚目先生が逝かれ、お若い句友を亡くされ、その上伯母上様まで亡くされたことは、おおきなショックであり、やはり俳句に表れるものなのでしょう。ランダムに好きな句を挙げさせていただきます。
 

こほろぎやまつ赤に焼ける鉄五寸
終戦日空に濃き雨うすき雨
旅にゐて塩辛き肌終戦日
先生のペンは撓へり梅擬
群青の山並越えよ半仙戯
鮎釣の見えざる足が石摑む
読めるまで眺むる葉書雪あかり
鵜を起こし鵜匠の一日始まりぬ
鵜篝の舟の人消す煙かな
今もふたり窓に守宮の登りゆく
鉄斎を一幅見せむ風邪ひくな
水揺れの冬日に酔うてゐたりけり


 最後に以下の二句で筆を擱きたいと思います。

日の没りし後のくれなゐ冬の山

 魚目師の教えとしての、「後ろを向く」と言う作り方を踏襲したように思えます。日没の後の闇の現物から目を離し、後ろを向いて心に広がるものを待って得たのが雪山でもなく、枯山でもなく「くれなゐの冬の山」だったのではないかと思えるのです。
 
ばらばらにゐてみんなゐる大花野

 みんないる大花野だけれど、ここでの眼目は「ばらばらにいて」だろう。一人一人が自由に自分の中の歓び悲しみ怒りを俳句にしてきた大花野は、ますますの広がりを見せることでしょう。
   

2020年12月11日金曜日

【中西夕紀第四句集『くれなゐ』を読みたい 】7 射程の長さ  山中多美子

  中西夕紀さんは、挑戦の人だ。何事にも果敢に挑んでゆく。平成17年に師である宇佐美魚目が傘寿を迎えるにあたり、魚目門下の主だった面々で『宇佐美魚目傘寿記念文集』の刊行を企画した。その発案者が中西夕紀さんである。全国の高名な俳人に論文、随筆、作品鑑賞の執筆依頼をし、私ども門弟も励まされて文集作りに取り組んだ。斯くして立派な『宇佐美魚目傘寿記念文集』が出来上がった。
 その記念文集で、夕紀さんは「見えないものを見る」と題した魚目論を展開した。芸術の真の目的は「自分との出会い」であると記している。あれ以来、本当の自分に出会う旅を、見えないものを見る旅を続けているのだ。
 第四句集『くれなゐ』は、素直に自分を見つめ、胸奥に分け入り詠まれた魂の書である。平成10年頃から夕紀さんは、魚目先生ご指導の吟行会、指月会に東京から泊りがけで参加し研鑽を積んだ。師の懐深く飛び込んで、俳句の神髄を極めようと必死であった。大きな存在にひるむことなく堂々と立ち向かってゆくその姿に圧倒された。
 平成20年には結社「都市」を創刊して、新たな俳句の時空を求めて船出した。句集『くれなゐ』は俳句と格闘する歩みそのものである。

  日の没りし後のくれなゐ冬の山
 
 山々を染めて今まさに沈もうとしている冬の日。薄墨を流したような夕闇が迫る中、くれないが静かに流れる。闇に包まれる間際のくれないは、夕空を荘厳して切ないほどだ。懐かしい人たちとの惜別の色、くれない。師魚目や、盟友大庭紫逢氏やご親族との断ち切れぬ思いが滲みだしている。自然の絶頂に心を通わせる見事な一瞬をとらえた。

  逢はぬ間に逢へなくなりぬ桐の花

 「魚目先生の思い出」と前書のある四句のうちの一句。師魚目の佇まいといい、格調高い作品世界といい、そこには桐の花のような風情がある。名古屋に住まいがあった先生に今一度逢いたいと願いつつも、いつの間にか時が経ち逢う機会を逸してしまったという悔いのような思いが出ている。いつの頃だったか、夕紀さんに誘われて魚目先生のご自宅をお訪ねしたことがある。尊敬する先生の前に立つと、縮こまってしまう私であったが、夕紀さんは臆せず、俳句の奥義のあれこれを、納得できるまで質問していた。そんな夕紀さんの大胆さを羨ましく思ったものだ。

  髪の根に汗光らせて思念せる

 髪の根に汗が滲むほど、あれこれ考える。考えごとをする時は、どうしても髪に手がゆく。髪は女性の象徴のようなもの。襟足に汗を光らせながら思考錯誤する真剣さが滑稽でもある。

  筆圧にペンみしみしと雲の峰
 
 原稿を執筆中なのだろう。万年筆のペン先がみしみしと音を立てている。ときどき顔を上げてみると、空には真っ白な入道雲が育っている。ほっと一息ついてから、またペンを走らせる、そんな何でもない日常にも大きな詩空間が広がっているのだ。原稿用紙につぎつぎと文字が生まれる喜びが「みしみし」である。
 夕紀さんの俳句には、長い射程がある。遠いまなざしで俳句空間を組み立てる。以前、夕紀さんから「師の作品に近づきすぎて作品が似てしまってはいけない」と聞いたことがある。いかにして師の作品と離れられるか、越えられるかを真剣に考えているのを知り、驚いたことを覚えている。独自性を大切にして、自分の俳句を目指しているのだ。

  義仲を育てし谷の雪煙
 
 句集『くれなゐ』の魅力は多彩な俳句群にある。歴史的なものから、現代的なものまで
幅がひろい。平安時代末期の悲運の武将、木曾義仲を育てた木曾谷を雪けむりが走る。まるで義仲の悲運を晴らすかのように、走る雪けむり。平安時代の舞台に一気に引き戻されるようだ。俳聖、松尾芭蕉も愛したという木曾義仲は、近江の義仲寺で芭蕉とともに眠る。無常迅速という運命の儚さが真っ白い木曾谷に重なる。
  
  蘆の中蘆笛鳴らせ無為鳴らせ

 子供たちの遊びといえば、昔は草花を摘んだり、草笛や蘆笛など自然の中のものが多かった。田や畑で泥んこになりながら日暮れまで遊んだ。自然が友達だったのである。でもこの作品は子供のころの懐かしさを誘う作品ではない。夕紀さんの生きる姿勢が表れている作品だと思う。「無為鳴らせ」とは難しい言葉だけれども、想像するにどんな時も自然体でいようと、自身に言い聞かせているように感じる。きっぱりとした姿勢、真っ直ぐな姿勢が表れている。
 
  かなぶんのまこと愛車にしたき色

 またなんとユニークな。ぴかぴか光るかなぶんのような愛車。車はしばしば女性に喩えられるが、まさかかなぶんとは。緑の葉の上にいるかなぶんの身軽さ。身軽ではあるが、繊細でしかも頑丈なかなぶんの翅はまさに高級車仕様。使い慣れた車は恋人のようなもの。かなぶんの翅に童話の国の扉がひらく。
                                      
  ばらばらにゐてみんなゐる大花野
 
 集中白眉の作品である。爽やかな花の香、草の香がする中にいる人たちは、みな心の通った同志なのだろう。俳句をともに学んでいる人たち、かつて俳句を通じて親交のあった人たち、いやそればかりではなく、縁のあった人たちの気配のようなものが、そこここに漂う。姿かたちは見えなくとも、この花野のどこかにいるような懐かしさ、親しさ…。出会いの一つ一つが健気な日常に繋がっていることを実感しているのだろう。深いところにある気持を、きちんとした形で表す。それこそが夕紀俳句の醍醐味。
 射程距離の長さが捉えた「ばらばらにゐてみんなゐる」花野である。