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2026年2月27日金曜日

【連載】現代評論研究:第24回各論―テーマ:「魚」を読む・その他― 藤田踏青、飯田冬眞、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、北川美美、深谷義紀

(2012年05月04日/11日/18日)

●―1:藤田踏青【近木圭之介】、

 魚を競る銀河魚臭を発す   注①

 テーマに添った句を探してみたが、数は少なかった。

 さて掲句であるが昭和53年の作であり、夜明け前の下関あたりの漁港の風景とみるのが妥当であろう。そして宇宙の生と死を象徴する銀河が発する魚臭もその超越的存在としての神意でもあり、スケールの大きな句柄となっている。渡辺白泉に「ふつつかな魚のまちがひそらを泳ぎ」という句があるが、イロニーの有無と生死への言及の有無との差異が、大空、銀河への対峙の仕方の差異となっている。

 また「魚」そのものを詠んだ詩も下記の1篇があるのみであった。


 <魚と思想>   昭和27年作   注②

 罐詰の魚には頭がない

 脚ばかりを揃えて並んでいる

 身うごきも出来やしない

 窓のない部屋は真黒だし

 思想は海に忘れて来た

 だから罐詰の魚には頭が無い


 この詩が発表された昭和27年までには、昭和23年に帝銀事件、昭和24年に下山事件・三鷹事件・松川事件が起り、昭和25年には朝鮮戦争が始まり、昭和27年には皇居前広場にてメーデー流血事件が起る等、当時の世相には不穏な気配が漂っていた。その閉塞状況が「罐詰」の状態であり、それ等を前に国民はただ黙って見つめているしかなかったのであろう。この詩の「魚」を「人間」に置き換えればそのような状況が把握されるのではないか。思想とは体系的にまとめられたものであるが故に、揃えて並んでいる脚が示すものは思想の喪失という不気味な重層感を伴なってくる。またこの詩から小林多喜二の「蟹工船」も想起されるのではないであろうか。過酷な蟹工船の中の未組織労働者の姿もそこに垣間見られる。

 他の「魚」に関連した句(既掲出句を含む)を掲げておこう。

 漁夫の手に濃い夜があるランプ     昭和30年  注①

 漁村で酒と蟹を食べ自殺論聞きながら  昭和53年   々

  戦後、不当に設定された李承晩ライン(注③)によって、日本海西部から日本漁船が締め出され、強引に拿捕されたりしていた。その様な状況を把握して前句を読めば、自ずからその「濃い夜」の奥深い何とも言えない哀しさと、チラチラと点る「ランプ」の儚さが伝わってくる。また後句は先にも取り上げたもの(第4回テーマ「死」)だが、何故か当時の漁村の風景やそこに生きる人達にはある種の冥さが感じられ、一抹の不安というか、哀しさが漂っていたように思われる。そして又漁村にはいつもと変わらぬ生活が巡ってくるだけの日々が・・・。それを圭之介は次の様な詩で捉えている。


 <漁村にて>   昭和28年作   注②

 朝になると黄色い太陽のまわりに

 魚のうろこがあった

 夜が来ると

 乾しひろげた網の目の中に 星がたくさんあった

 立ち並んだ家々の封建性が岬を突き出して波浪をさけている


今は昔ではあるが。


注① 「ケイノスケ句抄」  層雲社  昭和61年刊

注② 「近木圭之介詩抄」  私家版  昭和60年刊

注③ 李承晩ライン:昭和27年に韓国の李承晩によって一方的に、済州島付近から対馬海峡にわたる漁場での日本漁船の操業が禁止された。しかし昭和40年に日韓漁業協定の成立とともに撤廃された。


●―2:土肥あき子【稲垣きくの】、【テーマ:流転】赤坂時代(戦後編) 

 春雷や焼け残りたる土蔵に住み   『榧の実』

 土蔵には「くら」のルビが付く。赤坂福吉町には、年譜上では昭和14年(1939)から昭和34年(1959)の20年間居住していることとなっているが、戦争中は疎開し、戦後は焼失した家屋を再建するまでの間、弟家族の暮らす鵠沼に身を寄せもし、気に入りの場所さえ安住を思うにまかせることはできなかった。体調を崩したきくのは半年余り築地の病院に入院するが、看護婦と一緒に銭湯へ行ったり、買い物や歌舞伎にも出かけられる心安い場所だった。再建中の家も、病院からたびたび赤坂へと見に通っていたようだ。

 入院中のエッセイによると「焼跡へ小っぽけな家を建てた」とあるのは、きくの流の謙遜がいわせた言葉だが、のちに借家として貸し出したこの家を作家の瀬戸内寂聴が借りる前提で見に行った折りの記述が残されている。

 「大きな石垣の積まれた見るからに豪壮な邸宅の構えで、私は高い石垣の前に立っただけで、怖れをなし、とても私の住める家ではないと思った。(中略)平屋の邸宅は見るからに上品な数寄屋造りだったが、雨戸が建て廻してあるせいか、陰気な感じがした」(『孤高の人』瀬戸内寂聴)

 広大な敷地のなかに自宅と離れを建て、離れには満州から引き揚げてきた末弟一家を住まわせた。彼らが引越したのち、離れを母屋に移築したかたちで、ロシア文学者の湯浅芳子との同居がある。先に引いた『孤高の人』は、寂聴が書いた湯浅の評伝である。本書に登場するきくのは、湯浅から聞いた話しとして「女優だったが芸が下手」「男爵の囲われ者」「句集も二冊出たし、俳人協会賞ももらったのよ、でも、まあ、そこまでだった」と散々な書かれようだ。寂聴自身が実際に軽井沢できくのに会った印象も「曖昧な表情、身体のこなしに倦怠感が滲み、メランコリックな雰囲気」と決して好意的ではない。

 水泳が得意で、颯爽としたスキー姿が写真に残されているきくのが、いつのまにか「曖昧でメランコリック」な女性へと入れ替わってしまった。誰の口にものぼっていたのだろう「囲われ者」という言葉が、きくのを徐々に人嫌いにさせていったのだろうか。

 昭和32年(1957)には「さるひとの」の前書がある

 でで虫やどこまでひとのへそまがり

 昭和33年(1958)には「にくきひとの」の前書がある

 言ひ捨ててぷいと出てゆくみぞれかな

 そして、昭和34年(1959)には

 ショールしかとこの思慕そだててはならず

 愛に翻弄され、恋にときめく奔放なつぶやきにだけは、いつまでも溌剌と刺激的なきくのの横顔を見せ続ける。


●―4:飯田冬眞【齋藤玄】

 裂く鯉の目には涅槃の見ゆる筈

 昭和52年作。第5句集『雁道』(*1)所収。

 齋藤玄の晩年の三句集(『狩眼』『雁道』『無畔』)から魚の句を見つけるのはたやすい。そしてあることに気が付く。「なぜ、こんなにも鯉の句が多いのか」と。『狩眼』17句、『雁道』24句、『無畔』5句。数字を並べてみてもあまり意味はない。

 曠野より遠へ行きたき春の鯉   昭和47年作 『狩眼』

 〈春の鯉〉に自己を仮託しているのはあきらか。病床にある玄は、春の野原に遊ぶことを夢想した。池の中を泳ぐ鯉もまた、自分と同じく池の外に出ることを希求しているにちがいないと把握した。そして〈曠野より遠へ〉という空間的な範囲を示したうえで〈行きたき〉という心情をダイレクトにぶつけることで、〈春の鯉〉の閉塞感と作者の鬱勃とした心情が重なりあって、リアリティが増してゆく。こうした対象への観念的同化は齋藤玄の俳句のひとつの特徴でもある。

 寒鯉に見ゆれ光の棒に見ゆれ   昭和50年作 『狩眼』

 動かぬが修羅となるなり寒の鯉   昭和50年作 『狩眼』

 寒鯉の腹中にてもさざなみす   昭和50年作 『狩眼』

 対象を観念的に把握しているとはいえ、基底部にあるのは、対象を凝視する確かなる眼であることは疑いようがない。

 たとえば、一句目、動きのない寒鯉を見ているうちに、それが〈光の棒〉なのか〈寒鯉〉なのか、判然としなくなる。その感覚のゆらぎを〈見ゆれ〉のリフレインによって表現しているのだが、ここにも凝視のちからを読み取ることができるだろう。

 二句目、水底に魚体を沈めてじっと動かない〈寒の鯉〉を見て、そこに〈寒の鯉〉の動かないことへの執念を読み取ってしまうところが、さきほど指摘した「観念的同化」にほかならない。感覚器官を通して対象の特徴を概念的にとらえたあと、心象内で対象と自己とが同化してしまう。それを観念的同化と名付けてみた。〈寒の鯉〉もほんとうは動き回りたいのだ、しかし、動かないことに決めたから何が何でも動かない。そうだ、寒鯉は今、水と戦っているのだ。そうに違いない。動かないように水と争っているのだ。その観念的把握が、〈動かぬが修羅となるなり〉という措辞に結実して一句を構成していく。

 三句目の〈腹中にても〉がまさしく観念的把握であり、眼前にあるのは〈寒鯉〉と〈さざなみ〉でしかない。〈寒鯉〉の静と〈さざなみ〉の動を結び付けているのは、玄の心中で混ざり合い、つかみ出してきた造型のためのことば〈腹中にても〉にすぎない。そこがこの句の生命線である。水面に起きた〈さざなみ〉が水中の〈寒鯉〉にまで及び、動かない鯉の腹中に入って通り抜けてゆくまでを写生したものである。見えてはいないものを見えているように描くこと。虚実の間にひそむ真実をことばのちからでとらえようとする齋藤玄の意思のようなものが、この句からもうかがえるだろう。

 鯉喰つて目のあそびゆく冬の山   昭和50年作 『雁道』

 声持たぬ涅槃の鯉と遊びけり    昭和51年作 『雁道』

 ひるがへる遊戯を尽す秋の鯉    昭和51年作 『雁道』

 鯉と遊びをモチーフにした三句をあげてみた。

 一句目の不思議なおかしみは〈鯉喰つて〉の俗っぽさと〈冬の山〉の神々しいまでの静けさが同列に扱われている点にある。〈目のあそびゆく〉に作者の心象がよく表れている。ここで喰われているのは、筒切りにした鯉の切身を赤味噌汁でじっくり煮込んだ「鯉こく」だろうか。あつあつの鯉こくをすすりながら〈冬の山〉に目を泳がせてしまったことを鯉に言い訳しているような気分が伝わってきて楽しい。人は皆、他の生き物を喰うことでしか生きられない。この世に生きるものの哀しみのひとつである。避けて通れない哀しみであれば、生き切るしかしょうがないのである。根源的な哀しみをおかしみに包んであらわすのが俳諧のひとつの道筋でもある。二句目、三句目は、そうした玄の考えが〈声持たぬ〉、〈遊戯を尽くす〉ににじみ出ている。

 裂く鯉の目には涅槃の見ゆる筈    昭和52年作 『雁道』

 人の口腹を満たすために鯉は裂かれている。もちろん鯉の目に〈涅槃の見ゆる筈〉などない。涅槃自体が人間の生み出した観念だからだ。だが、涅槃の日に鯉を裂くという殺生を犯すことを誰がとがめられよう。誰人もとがめようがない。しかし、罪の意識は人の心に残る。だからこその〈涅槃〉なのではないか。人に裂かれて喰われていく鯉の姿に人の命を慈しみ自ら身を投げ出した仏の姿を見出したおかしみ。そして、裂かれる鯉に仏の姿を見出さざるを得ない哀しみが、この句にはある。明らかに嘘であるにもかかわらず、〈涅槃の見ゆる筈〉の〈筈〉という肉声のことばがあることで、一句にリアリティが生まれている。それが肉声であるがゆえに、読者を「そんなばかな」という観念世界から「そうかもしれない」という虚の中の実へと軽みに包み込んでいく心地よさを持つ。

 「詩は肉声であること」と書いた齋藤玄の達成を示す一句といえるだろう。


*1  第5句集『雁道』 昭和54年永田書房刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載 


●―8:岡村知昭【青玄系の作家】

 木星号墜落す鯖焼きをれば   日野晏子

 掲出の一句に登場する「木星号」とは1952年(昭和27)4月9日に発生したいわゆる「もく星号墜落事故」のことを指している。出発してすぐに消息を絶った羽田発福岡行の日本航空の旅客機「もく星号」(当時はノースウェスト航空の委託運航)は、懸命な捜索も空しく、翌日に伊豆大島の三原山の山腹で墜落しているのが見つかり、乗客・乗員37人全員の死亡が確認された。事故の原因は現在に至るまでわかっていない。当時の日本では例のない旅客機事故により多くの犠牲者を出したこともさることながら、「もく星号」事故では捜索の過程においてほとんど手がかりがつかめなかったために未確認情報が錯綜し、その結果「海上に不時着」「乗客・乗員全員の生存を確認」との誤報が流れたり、九州の地方紙では亡くなった乗客に「生存者」としてのコメントを創作するなどの混乱が相次いだという(ここまでウィキペディアの記述を参照)。

 おそらく自宅のラジオを通じて大惨事の一報とその後の未確認情報の錯綜による混乱ぶりを耳にしていたであろう作者であるから、もしかしたら「乗客・乗員全員無事」の誤報を聞いてひとたびは安堵したのかもしれないし、墜落した機体が発生されて「乗客・乗員全員死亡」が確認されたとの一報には安堵から一転した最悪の結末に気の沈む思いにとらわれたのかもしれない。気の沈む思いにふけるなかにあって、ラジオは墜落事故の続報を伝え、犠牲となった乗客・乗員たちの名前を次々と読み上げてゆく。練炭コンロの上で脂の乗った鯖のバチバチと焼ける、いつもと変わらない日常の光景に響く音が、なぜかいつも以上に大きく聞こえているように思えるのは、「生存」と「死亡」の間に振り回されながら、最悪の結末を迎えてしまったやりきれなさからのものなのだろうか。整理のつかない気持ちを表すかのように、この1句で作者はただ「木星号墜落す」と鯖を自分がいま焼いているという行為とを取り合わせることのみに徹し、決して自分の感情を露わにはしていない、いや露わにはできなかったというほうが正しいのかもしれない。その間も鯖は脂をしたたらせながら焦げてゆく。この鯖を食べるであろう病床の夫もきっと大惨事に心痛めているのかもしれないが、夫婦にとってはあまりにもかけ離れた場所で事態は刻々と動いているのが、どうにもやるせなさを感じさせ、かえって1句に自分の想いを書くことを思いとどまらせたのかもしれない。

 ラヂオ啾々と濁流に人溺る    日野草城

 泣く母の声届く霜置く船に

 静臥時のラヂオ職業案内を

 妻の作品に続いては、夫である草城の最後の句集となった『銀』からラジオから伝えられる世相をモチーフに詠んだ作品を引いてみた。こちらも余分な感情の露出はできうる限り避けて、起こったニュースの核心をそのままに掴み取るような作風でまとめている。1句目は「北九州南近畿水禍相次ぐ」との前書きが付く。「人溺る」の結句にラジオの前と現場との距離感を感じさせはするが、水害のニュースを読み上げるアナウンサーの声と大きな被害をもたらす濁流の響きとを微妙に重ね合わせることで、現在進行形の水害の臨場感だけでなく、刻々と伝わるニュースに昂ぶりと恐れを抱え込んだ自分の心情も表している。2句目はこちらも「帰る興安丸」との前書き付き、引揚船「興安丸」の舞鶴港への到着を伝えるニュースからのものであろう。「泣く母」と「霜置く船」の取り合わせはシベリア抑留を背景にした有名な「岸壁の母」のエピソードにつながる面と持ち合わせているのが興味深い。3句目は「職業案内」、今でいうところの求人情報がラジオで放送されていたというところが当時の雰囲気を伝えているが、ラジオから流れる求人に耳を傾ける「静臥」を余儀なくされている自分の姿への、さまざまな思いも病と闘う身体中を駆けめぐっているのだろう。もちろん全身全霊を傾けて自分の看護に取り組んでくれる妻への感謝も大きいはずだ。看護する妻と看護される夫、ふたりの明け暮れにとって、ラジオの存在は確かに大きかったのである。病床の草城にはラジオで楽しんだ音楽に関しての作品も多いが、これはまた別の機会に。

 最後に。「もく星号」事故で亡くなった乗客のひとりだった漫談家の大辻司郎、墜落地点の伊豆大島から遠く離れた九州の地方紙に「無事生存」のコメントを創作されてしまったこのベテラン芸人は、戦前の西東三鬼に「サアカス」連作で次のように詠まれている。

 大辻司郎象の芸当見て笑ふ    西東三鬼

 戦前に新興俳句の旗手だった西東三鬼にサーカス見物を楽しんでいる様子を1句に詠まれ、戦後は自分が亡くなるきっかけとなってしまった航空機事故を、新興俳句のもう一方の旗手だった日野草城の妻である晏子によって詠まれたというのは、何かしら因縁めいたものを感じずにはいられないのだが、戦前戦後と自分が俳句のモチーフとして取り上げられていたのを芸人大辻司郎、果たして気づいていたのかどうか。


●―9:しなだしん【上田五千石】、

 鱒の陣冬の清水を聴くごとし

 第二句集『森林』所収。昭和四十八年作。

 この句の自註には〈富士永明寺に岸風三楼を招いて句会。泉水の鱒の群れは整然としずまりかえって、なにかを聴聞しているようであった〉とある。

 「永明寺」は、富士市にある曹洞宗の名刹で、富士山の湧水があるようだ。掲出句は、永明寺、富士市泉水辺りを吟行した中での作だろう。

     ◆

 自註にある岸風三楼は、明治四十三年岡山県生まれ。富安風生門で私の先師に当たる。

 五千石は著書『俳句 1983-1994』(*1)の第一稿の「一月 戦後俳句の見直し」の中で 

岸風三楼の遺句集『往来以後』(角川書店)など、まさに「戦後」の証言といっていい内容で昭和二十二年から昭和五十七年六月の「六月の夢の怖しや白づくし」「泰山木仰ぐ躬を寄せ過ぎゐたる」に終わる氏の第二句集。質量とも読みごたえがある。

 きりん草咲けども焦土かくし得ず (昭22)

 甘藷かつぐ未婚の腰のたしかさよ (昭32)

 水中花明日あるために美しく (昭42)

 魂迎ふ不死男仏をはじめとし (昭52) 

任意に抽いても時代が滲透している。風三楼作品の検証もまた忘れられまい。

と、頁を割いている。

     ◆

 さて、掲出句の「鱒」はサケ目サケ科の、「マス」あるいは「~マス」という名のついた種類の俗称。この句での「鱒」はいわゆる虹鱒のことを指しているように思われる。湧水に棲みついたものだろうか。真冬の静かな湧水にじっと動かない鱒の群れは、儚いが美しい姿をしていたに違いない。

 この句の制作年、昭和四十八年は、『畦(通信)』の第一号発行の年。さまざまな俳人との交流が深まっていた頃だったのだろう。風三楼を招いた句会もその一環で、楽しく緊張感のあるものであったと想像する。

     ◆

 ちなみに『俳句 1983-1994』は昭和五十八年から平成六年までの俳句時評で、主として読売・朝日・共同通信系の新聞に執筆したものを編んだものである。


*1) 『俳句 1983-1994』11994年邑書林刊


●―10:筑紫磐井【楠本憲吉】、【テーマ:妻と女の間】

 余寒原稿あと二時間で妻起きる

 昭和63年『方壺集』より。

 あまりにも楠本憲吉の軽薄さを述べすぎた。他の「戦後俳句を読む」ではこれほど主人公の悪口を書いている例はないであろう。それは、憲吉がそう読める俳句を書いているからであるが、逆にそうした読みが可能であることを本人も覚悟しているせいもあるであろう。小悪人ぶったスタイルを、本人も肯定しているのである。

 しかしそうした句ばかりが並んでいると、時折、そうした演技の向こうに見える憲吉の素顔も見つけることが出来そうだ。

 掲出の句など、夫は夫、妻は妻で全く別の生活をしているように見えながら、夫は妻の起き出す時間を知っているのである。最低限の関心を持っていることが伺える。それがどうしたといえるかも知れないが、憲吉にしては珍しいことであるのは間違いない。

 ほうれん草炒めつつ妻の古き唄

 昭和43年『孤客』より。

 妻が知っているのは古い唄だと言うことに作者が関心を持ち心が動かされること自体、ちょっと今まで見てきた憲吉とは違う思いがして違和感を感じるのである。今まで見てきたというのは、

 寒厨(かんぐりや)暗いシャンソン歌うな妻

 惜春や妻の寝息のアンダンテ

 終い湯の妻のハミング挽歌のごと

のような派手さのあふれた句のことである。

 そしてその時感じる違和感は決して嫌なものではない。かえって、こんな心境にほんの僅かでもなれることにほっとする感じを抱く。

 正直言って、楠本憲吉は嘘つきである。四六時中嘘をついている、俳句は上手に嘘をつくことだからそれは決して非難されることではない。しかし、こと男女関係や人間関係を俳句に持ち込んで嘘をついていると、日常生活と文芸の間の揺らぎが、人格的な嘘つきに見えてしまうことがある。憲吉はそれに近い。しかし、そうした嘘つきが洩らす僅かな溜息や眼差しを見逃してはならない。


●―12:北川美美【三橋敏雄】【テーマ:『眞神』を誤読する】38.39.40.41.

38. うぶすなの藁がちの香よ疲れ勃つ

 「ガチ」という言葉が2000年後半から20-30代世代で使われるようになったようだ。「本気/本当」の意味だが、現在ではそれを飛び越えて「超」や「激」と同様の「程度が激しい、出来がいい」という意味合いも持っている。接頭語として使う。しかし、収録作家の年代が30-40代だからか『超新撰』は「ガチ新撰」とは呼ばれていないようだ。接尾語としての「がち」。「勝ち(がち)」であれば、「その傾向が目立つようになるさま」(『三省堂古語辞典』)ということ。

 産土神(うぶすながみ、うぶしなのかみ、うぶのかみ)は生まれた土地を領有、守護する神。あるいは本貫(先祖の発祥地)に祀られている神。

 では、「うぶすな(産土神)の藁がちの香」とは、私たちの祖先が土地に根付いて生きてきた証のような香り、家畜糞とともに藁などの副資材を混合した堆肥の匂いの中から藁の香りに傾いて薫ってくるということを想像する。いわゆる土の第一印象の香り、トップノートが「藁がち」であるという中でトランス状態となり「疲れ勃つ」。肉体を酷使した男、田園の男、再びミレーの『種まく人』である。伽羅、栴檀などの源氏物語の王朝の香りとは異なる農耕民族の香りである。

 そして「疲れ勃つ」っている作者敏雄の目線はあまりに遠い。自己の姿でありながら醒めすぎる目で望遠していると思える。別の「われ」を観察しているように映ってくる。

 33句目から38句目までの句を配列順に記す。

 行雁や港港に大地ありき

 捨乳や戦死ざかりの男たち

 然(さ)る春の藁人形と木の火筒(ほづつ)

 正午過ぎなほ鶯をきく男

 共色の青山草に放(ひ)る子種

 うぶすなの藁がちの香よ疲れ勃つ

 ただ寡黙に生きることに従い、流されて港へ行き、死にゆく男達を葬り、呪術ともなる道具を回顧し、耳の奥にいつまでも鶯の声がし、野に出て肉体が性的に反応し、脳裏に蘇るさまざまな出来事が反転しているネガフィルムのように、われの中で螺旋を描いている。全ては事実でありながらもうそれは過去という夢に変わったのか。全ては何も無かったということに等しい。ただ、ここにわれが生きるというだけの現在の生という命があるのみである。出会った人も、見たものも、聴いたことも全てはまぼろしだったのではないか。事実と事実の間、瞬間と瞬間の間にただわれがいたというだけなのだろうか。

 産土神に導かれるように自分の肉体は興奮し、子種を放出する健康な肉体を持つ。われは孤独な塵でありミトコンドリアと同じ生命体をただ老いていくだけなのである。そして命ある以上、いつかは死ぬのである。今ある個の命を生きている、ただの「われ」が存在することが感じ取れる。


39. 真綿ぐるみのほぞの緒や燃えてなし

 桐の箱に入った臍の緒を母から渡された。確かに真綿にくるまっていた。ミイラのような臍の緒がただそこにあった。生体から水がなくなると繊維質だけになる。母と自分を結ぶものであった証、己が人の腹から生れて来たという証である。しかし母と己の関係は今は別の人間として別の時間を生き、生まれたときから別のことを考えている。いつから自分は自分というひとりの人間であることに目覚めたのだろうか。真綿で大切にくるまれたように赤ん坊は祝福され大切な宝のように育てられる。このミイラのような臍の緒がなくなったとしても何の影響もない。戸籍も年金番号も電話番号も今まで通りである。自分が死んだらこの桐の箱は誰が始末しなければならない。燃えてしまえばなくなって何もなかったかのようだ。母と自分がこの管で結ばれていたという事実も過去もなかったことと思うこともできる。

 措辞「燃えてなし」ということは、今まではあったものが存在して今、ここにないこと。けれど関係とは目に見えないものである。管は切られてなくなって、それでも縁は切れないもの、母子以外の縁もそうなのだろうか。


40. 夕より白き捨蚕を飼ひにける

 「捨乳(すてぢち)」が出てきたが、ここでは「捨蚕(すてご)」である。病気あるいは発育不良の蚕は、野原や川に捨てられる。「捨蚕」と「捨て子」同じ響きであることがどこまでも悲しい。蚕は家畜化された昆虫であり野生に生息しない。またカイコは、野生回帰能力を完全に失った唯一の家畜化動物として知られ、人間による管理なしでは生育することができない。人の手により育てられる蚕は人間の赤子のようでもある。

 生きながら捨てられているものを飼う。臍の緒が燃えてなくなり、捨て子となったわれのように。生きているものはいつか死ぬ。生きているものだけがこの世にいる。今、生きているものは、この作者と蚕だけのような錯覚にも陥る。他に生きているものはいないのか、という問いでもあるように。

 「夕より~飼いにける」という時間経過は何なのだろう。夕べから現在までの時間経過が妙な想像をも働かせる。正確に時制を考えると、夕から現在まで捨蚕を飼い続けているということだが、ではこの先をどうするのかは、何も言っていない。捨蚕を飼うことがはたして慣れない人にできるのか。蚕は野生回帰能力のない動物であり、蚕を桑の葉にとまらせても、ほぼ一昼夜のうちに捕食されるか、地面に落ち、全滅してしまう。幼虫は腹脚が退化しているため樹木に自力で付着し続けることができず、風が吹いたりすると容易に落下してしまうからだ。加えて病気あるいは、発育不良の捨蚕である。

 過去から現在進行形で捨蚕を飼っていることがわかるが、この先おそらく長くは生きていられない命であることが伝わってくる。


41. あまたたび絹繭あまた死にゆけり

 真綿、捨蚕の次は、絹繭である。敏雄の生れた八王子は絹織物の産地として名高い。蚕の一生はわずか57日ほどで幼虫は桑の葉だけを食べつづけ4回の脱皮を繰り返す。やがて蚕は1,500mほどの糸をおよそ2昼夜吐きつづけ、頭を8字形またはS字形にふりながら、美しい一粒の繭をつくりあげる。蚕は繭の中でサナギとなり、蛾になって繭殻を破って飛び立つ。蛾になる前に殺蛹し、かたちのよい正繭が絹となる。これが「絹繭」ということになる。それが死んでいく状態とは、繭玉の数だけ殺蛹が何度も繰り返えされることを詠んでいるのだと解釈する。

 蚕の養蚕は中国で発生し5000年以上の歴史がある。日本では『古事記』『日本書記』にも登場する。幼虫が吐き出したもので生糸ができるということはまさしく不思議な発見だ。絹繭になる蛹は死ぬことが決定づけられることになる。 

知らず、生まれ死ぬる人、何方(いづかた)より来たりて何方(いづかた)へか去る(『方丈記』)

 「死にゆけり」という直接的な命の終りを詠うことにより命の行く末を正視しているといえよう。前句「夕より白き捨蚕を飼ひにける」の「飼いにける」と同様、「けり」が過去を抱えた形をとっている。過去も沢山の絹繭が死んでいったが、今も沢山の死んでいく・・・過去を抱えた死であることがわかる。前句の「生」と掲句の「死」の配列であるともに二句にわたり「けり」を使用し、生きていることも死ぬことも過去から現在、そしてその先へ繋がる普遍なき輪廻であることを言わんとしていると読みたい。


42.父母や青杉の幹かくれあふ

 「隠れあふ」というのは、青杉が重なり合い、青杉が青杉に隠れているということなのか。杉の木と木の間に父と母の幻影をみたというのだろうか。

 ルネ・マグリットの絵画『白紙委任状』(原題- Le Blanc-Seing )を思い浮かべる。まさしく敏雄の俳句の投影のようである。

「目に見えるものはいつも別の見えるものを隠している」

「馬上の女性は木を隠し、木は馬上の女性を隠す。しかし私たちの思考は見えるものと見えないものの両方があることを知覚している。思考を目に見えるものにするために私は絵を利用する」-ルネ・マグリット

 見えているようで見えていない世界、思考が螺旋のようになっていく敏雄の俳句。思考は17文字の中から広がり読者の脳裏に絵を描きだす。

 父母。42句目にして同時に出て来る父と母。われよりはるか遠いところにいる。そして見えるような見えないような。われの中にあるチチハハ。

 ちーちーはーはー。杉林の中で遭難したような気になる。新緑の山に足を踏み入れると杉の香りに誘われて自分のルーツがそこにあるようだ。村はすでに消えた。眞神の山の杉の木は青くそして昏く、奈落という死の淵がいつもその脇にある。鳥の声がする。


43.きなくさき蛾を野霞へ追い落す

 2012年3月某日。快晴。

 それは北関東、狼信仰の名残りある山。狼の狛犬、カラス天狗を確かめたく車を走らせた。途中には庚申塚や道祖神が山の懐のように路肩から手を伸ばすと届く位置にあった。川の流れる音だけがする。民家が幾つかあり茶畑の手入れをしている人が不思議そうに車を見送っていた。山道は意外にも奥の奥まで舗装され、「熊出没」の立て看板を幾つも通り過ぎた。この先に民家が無いという印のようにとうとう舗装が途切れた。ところどころに落石が散乱する道に突入し、山側には伐採された杉の木がばらばらに横たわり崩れてきそうだった。突然とうっそうとした杉林が道幅を暗くしている。右は谷。奈落は深く明るく落ちて行くにはあまりに晴れていた。その時点で町に引き戻ろうと足をすくめ出直すことにした。あの時、蛾を見なかったことが幸いしたのだろうか。

     ◆

 「きなくさき」という措辞により、物騒なことが起こりそうな気配をもつ蛾である。

 日本では、古来、蝶と蛾の区別はなく、かつては、かはひらこ、ひひる、ひむしなどと大和言葉で呼ばれていた。蝶と蛾の区別は、英語圏の博物学の導入によ”butterfly”と”moth”の分類法が日本語に導入されたらしいことに依るらしい。蛾類学会の生物学上の分類は、昼間の環境に特化して飛翔力の鋭敏な一群を蝶と呼び、それ以外のものを蛾と呼んでいる。

 蝶や蛾は、蛹(さなぎ)から飛び出してくるので、人間の体から抜け出る霊魂と同じように考え、あの世(常世)とこの世(現世)を行き来する吉と不吉との両面から意識されていた。「日本書紀」には虫神として祭られ「常世(とこよ)の神」と表現されている。蛾は特に嫌われ者という扱いではない。

 この句で意識するのは、「常世」そして、追い落とすという措辞から「奈落」の世界が考えられる。40句目の「夕より白き捨蚕を飼ひにける」41句目の「あまたたび絹繭あまた死にゆけり」の繋がりを考えると、養蚕の神として「おしら様」と崇められもする蚕が、今度は、蛾となって野霞の奈落へ追いやられ、嫌われもの扱いのように読める。小さな共同体の中のいじめのようにも思える。いわゆる村社会である。

 馴染みの人々も老いて死に、かつての家族は都会へ移り住み、村から人が消え廃屋となった家々が残る。どこか時間が止ったような世界は、時間軸のない常世の世界という映り方。再び、阿部公房の『砂の女』の世界へ入ったような、主人公の男も昆虫採集の途中で穴に落ちた。人は、時間軸のない世界へ興味をもつ。

 この句の常世と思える世界は、奈落なのである。時間軸のない奈落。

 39句目「真綿ぐるみのほぞの緒や燃えてなし」から時間軸が停まったような句が多くなる。

 しばらく、読者はその停滞した時空を読者は浮遊していく。


44. 箸の木や伐り倒されて横たはる

 「横たはる」と言っているだけで何も主張していない句。しかし読者は何故か、その先に眼をむける。それは書かれていないものを読もうとする俳句だからだろうか。

 「伐り倒されて」の受動する措辞。倒されるのは箸の意志ではなく、人の意志がそこにあるということだろう。そして「横たはる」という人を想像させる擬人化に近い表現からだろう。殺されて横たわっている箸の木という生き物。死者が横たわるように描かれているのではないかと読む。

 掲句が収録された『眞神』上梓の時代は「エコロジー」という言葉が定着していない時代である。「箸の木」は消費されるために倒される。『眞神』上梓の頃にインドネシアで日本の割り箸の木となる木が伐採されて山が枯れている写真をみた。おそらくその頃から箸をとりまく環境問題が論議されてきたのだと振り返る。現在『眞神』上梓から38年経過した。箸の木の伐採が本当に環境破壊を引き起こしているのかどうかは、論議が繰り広げられる難しい問題となっている。


割り箸から見た環境問題

 日本に箸が入ってきたのは、弥生時代の末期。その当時の箸は、「折箸」という、細く削った一本の竹をピンセットのように折り曲げた形であり、一般人の用途ではなく、神様が使う神器、または天皇だけが使うことを許されたものだった。7世紀の初め、中国での箸の使用について遣隋使から報告を受けた聖徳太子が朝廷の人々に箸の食事作法を習わせ日本での食事に箸を使う風習が始まったらしい。「古事記」にも箸が登場する。敏雄の生れ育った八王子・高尾山の飯盛杉は地面に刺された箸が根付いて大木や神木になったとする箸立伝説が残っている。

 切り倒され横たわっている箸の木を想像し、お箸の国について考える。いただきますとごちそうさまが言えることに感謝し、箸をもつ指先から箸の木たちの魂を感じ取りたいと思う句だ。


45. さかしまにとまる蝉なし天動く

 確かに蝉は逆様には留まらない。コペルニクスは、地球が動くとし、敏雄は天が動くと詠んだ。

 ここで俳句の躍動を感じるのは、「なし」といって「動く」となることだろう。このような当たり前の事実に基づく句が好きだ。事実は動かない。けれど、天が動くのである。このような技を身に着けたい。「俳道」という言葉があるのならば、その道に精進したい。

 ここでの天動というのはピタと木にとまった蝉を中心に天が動いていく風景が見えてくる。天動説(全ての天体が地球の周りを公転しているとする説)の意味に少し近いようなことも考えるけれど、それはジコチューの世のことも言っているのかとも推察したりする。

 「さかしまにとまる蝉」がもしあったとしたら、どうなっているのだろうか。そしたら、「地」が動くのかもしれない。確かに「地」が動いたら、「ビックリハウス」(遊園地にあるアトラクション)になるのかもしれない。そんなことを考える句。地動説(地球が動いている、という学説。)は確かに正しいが、さかしまにとまる蝉は、間違えていると脳が考える。

 事実は動かないのである。それは江戸俳諧を身に着けた敏雄ならではの俳技だ。

 今迄の鑑賞句を振り返り、三橋敏雄は秀才にして多作。ありとあらゆる方法、全く意外な取り合わせに遭遇するばかりだ。

 江戸に花咲き、今も生き残る俳句、現代の俳句として引き継いだ三橋敏雄の功績が賞されることに同意する。


46. 油屋にむかしの油買ひにゆく

 油を買いにゆく、それも「むかしの油」。

 「むかし」とは「油屋」という名称が日常にあった江戸の頃を想像する。

 江戸の風情を買にいく。

 油のリフレインの中に人との繋がりが潜む。

 江戸のむかし、油は行商人が売りに来た。

 そう「油を売る」とは「油売ってんじゃねぇ。」と言われるように「無駄話をして時間を潰し、仕事を怠けること」の意味を持つ。熊さん八っつぁんの江戸情緒、江戸しぐさ(江戸の商人哲学)が伺える。「油売る」のその意味は、「風が吹けば桶屋が儲かる」ほどのかけ離れた因果関係はないが江戸の人の営みが見えてくる。

 髪の油、行灯油は当時、粘性が高く、柄杓を使って桶から客の器に移すにも雫が途切れず時間がかかる。商人が、婦女を相手に長々と世間話をしながら、油を売っていたところからその意味に転じ「油を売る」といわれるようになった。

 あえて「油屋」が示すことは、すなわち、ゆっくりとした時間を共有していることである。人と人とのコミュニケーションが成立していた時代。「ありがとウサギ/まほうのことばで/たのしい仲間が/ポポポポ~ン」という歌詞が繰り返し流れた2011年のあの時も時間の共有であるが、地球の大きさも時間の長さも当時と微妙な差があるとしても、流れる物事の早さが異なる。その感覚が「むかし」という言葉に因り引き出されているのではないか。それを敢て「買ひにゆく」ことにある。

 読者を個々の郷愁に連れ出そうとする『眞神』の時空がそこにある。


47. みぎききのひだりてやすし人さらひ

 利き手は何をするにもまず先に出る。

 利き手の握力は強い。握力の弱い利き手ではない手で、危険と思うことができない。

 人は誰でも弱い部分を持つ。「人さらひ」という鬼畜のような存在がふと見せる人間の穏やかさとしての「やすし」。そこに「人さらひ」の人となりがみえてくる。

 左、右を示す表現は多義である。「人」を除く表記がひらがなであることも人のやさしさに対する配慮であると思える。

 下五の「人さらひ」の取り合わせが読者の想像力を働かせる。けれど、ヒトサライが右利きであることなど、誘拐に遭遇して気が付くのだろうか。それは、ヒトサライを観察してそこにコミュニケーションが生まれなければ利き手などわからないだろう。「わたしを奪って・・・!!」と懇願されて仕方なくヒトサライになった男狼だろうか。それもひらがなが醸し出す淫靡なマジックだ。

 人について考える、人の手について考える。その手には温度があるということだろう。


●―13:深谷義紀成田千空の句

 鯉ほどの唐黍をもぎ故郷なり

 今回のテーマは「魚」である。そのため千空の句集をめくり、魚を対象とした作品を読んでみたが、これと思える作品に出会えなかった。というのも、ずっと頭の中に掲出句が鎮座していて、この句と比較すると「魚」そのものを対象とした、どの作品も物足りない思いがしたからである。というわけで今回は、ストライクゾーンから外れていくチェンジアップ気味に、この句を採り上げてみたい。

 掲出句は第3句集『天門』所収の作品である。津軽の唐黍(玉蜀黍。津軽ではその実の色(黄色)から“きみ“と呼ばれる)といえば「嶽(だけ)きみ」が名高い。千空がいつも眺めていた岩木山の南麓、嶽高原で採れる玉蜀黍だが、小ぶりの品種であることから、この作品の対象となったものではなく、千空が詠んだのはもっと一般的な玉蜀黍だったと思われる。

 さて玉蜀黍と鯉。両者に共通点は乏しく、直喩としてはかなり斬新だ。もいだばかりの玉蜀黍を胸に抱えた時、不意に千空の脳裏にそんなイメージが浮かんだのであろう。少なくとも書斎で作れる句ではない。そうしたイメージが浮かぶほどの量感を持った玉蜀黍であり、抱え込んだ両腕の中で暴れ出しそうなほどの野趣を感じたということだろう。

 そして、下五に投げ込まれた「故郷なり」という措辞。ふるさと自慢というよりも、思わず口をついて出た作者の実感だろう。その意味で、津軽に生まれ、生涯その土地に執した千空ならではの作品だと思うし、飾り気のない詠みぶりもかつて師草田男が「素手で対象を捕まえたような」と評したこの作者らしい作品だと思う。


2026年2月13日金曜日

【連載】現代評論研究:第23回各論―テーマ:「獣」を読む・その他― 藤田踏青、北村虻曳、飯田冬眞、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、北川美美、深谷義紀

(2012年04月13日・2012年04月20日・2012年04月27日)

●―1:藤田踏青【近木圭之介】、ー「獣」を読むー 

 月烈烈断水ノ街。犬帰ル

 掲句は平成7年の阪神淡路大震災の折に詠まれた作品である(注①)。圭之介は山口県在住であったので、この句はテレビなどの映像からイメージしたものと考えられる。その時、私も被災していたので、当時の1月の寒空下の様子は体感的に受容できる。電気、ガス、水道など全てが止まってしまった街、それを皓皓というよりは烈烈とまるで身体を刻み込むような月の光として表現。そんな月下を帰巣本能であろう、トボトボと帰って行く犬の後ろ姿が目に浮かぶ。そして犬の姿に何故か人間の姿が重なって見えてくるから不思議である。句表現としては全て漢字とカタカナ表記であり、それがこの過酷な情景を推し出すと共に、句中の句点によって分断された光景と意識さへをも窺わせている。

 この時、圭之介が所属していた俳誌「層雲自由律」の平成七年の震災特集では、掲句と共に次の様な句が掲載されていた。


 「父この下です」写真にペットボトル水   小川未加   注①

 燃え尽きたダリの夜が明ける       藤田踏青    同

 首相の眉毛ほど救援のびず尚余震     古市群青子   同

 無事か無事か無事か無事だったか     中條恵行    同

 なぜだなぜだと問い糾す炎の夜      伊藤完吾    同


 特に前三作は被災者自身の句であり、後二作は無情への限りない問いかけのようでもあり、昨年の東北大震災へと思いを致すものがある。


 月に野犬化する黒い一匹の周辺    昭和41年作    注②

 夢でしかない獣が己にいて。今も   平成18年作


 「獣」にはその実体と共に、人間の「獣性」というものとも考える事ができよう。前句の黒い一匹は単純に野犬と見る事も出来るが、「周辺」という社会、環境などの対比から野犬化した一個の人間の姿と見る事もできよう。その強調された黒の輪郭線はルオーのようなフォーヴィズムをも想起させてくるようである。また後句は明らかに心理的な獣性を示しており、圭之介が当時94歳にしてなお獣性を秘めていたとは驚きであり、鋭い自画像となっている。


 かげ 黒猫となる    昭和39年作    注②

 猫 月光の幅を跳躍する   同        同


 「犬」とあれば当然「猫」も登場する。これらの句の場合の猫は、かげや月光と対峙される事によってその存在自体が強調されると共に、その存在の限界点、範囲指定のようなものを提示しているとも言えよう。そして当然それは自己と背中合わせの存在のようでもあり、転移した存在とも言えようか。


   <パレットナイフ18>抜         注③

 Ⅴ わたしは野良猫 港町のいっぴき

   影さえ与えられない駄目な野良猫(ノラ)

   いいですか向こうでは太陽が一つ素敵だ


 この詩でも野良猫は自己であるが故に太陽から遠ざけられ、影さえ与えられていない存在である。愚直な思考の方向性の中で情緒は引き裂かれ、変転し、何処へ流れ出ていくのであろう。


注① 「層雲自由律90年作品史」 層雲自由律の会  平成16年刊

注② 「ケイノスケ句抄」  層雲社  昭和61年刊

注③ 「近木圭之介詩画集」 層雲自由律の会  平成17年刊


●―2:土肥あき子【稲垣きくの】、(欠稿)

●―3:北村虻曳短詩として読む俳句【テーマ:死の風景】

 あの世から物干し竿が降りてくる   石部明 バックストローク 31 2010

 詩客に書き始めて数回、私用と非力で中断していたが、親しんできたテーマについて触れていないので少し述べておきたい。

 Wilson Bryan Key著・植島啓司訳・リブロポート「メディア・セックス」という本がある。広告は潜在意識への働きかけに手を尽くすという、フロイトの理論やサブリミナルという語と共に知られるようになった事柄をとても興味深い例を挙げて示している。隠されていながら露骨な表現の例示に驚くが、話は性にとどまらない。たとえば、ビートルズの「アビー・ロード」のジャケットにはポール・マッカートニーだけが死装束で登場していること、ジョニー・ウォーカーのラベルにはDEDの文字や斬首の図を読み取るなど、役に立つと言うより読み物として大変面白い。激辛から始まって、ニコチンと警告たっぷりのタバコ、70度を越えるスピリッツ、絶叫する暇も与えず首をねじ切るジェットコースター。ものそのものも、死のイメージは新奇を好む人種の無意識を惹きつけ離さない。古来、危険あるいは死も商品売り込みに際して有力なテーマとなってきた。

 コピーの時代以後、広告としばしば比較された俳句においても、簡潔にして強烈な死というもののイメージは重要である。商品のためではなく表現そのものとして。しかし戦前の句にはどちらかといえば、死には生活臭が漂っていたように思う。

 だが「第3回戦後俳句史を読む」で採りあげた

 雪積むを見てゐる甕のゆめうつつ  齋藤玄 1975

 まくなぎとなりて山河を浮上せる  齋藤玄 1978

では実生活は完全に昇華され、悲痛な聖性を帯びている。もっとパセティックに詠むと、

 黄泉に来てまだ髪梳くは寂しけれ  中村苑子 水妖詞館 1975

 遠き母より灰神楽立ち木魂発つ  中村苑子 水妖詞館 1975

など、場面は演劇空間のようになり死は自己愛的・恍惚的なものとなる。これらはいずれも寂しさや、怖れと言った否定性に逆に価値をあたえている。もう少し醒めた読み方なら

 死ににゆく猫に真青の薄原  加藤楸邨 まぼろしの鹿 1968

 いつよりか遠見の父が立つ水際  中村苑子 水妖詞館 1975

など。暗示的には

 てふてふや水に浮きたる語彙一つ  河原枇杷男 流灌頂 1975

 この下の句では、水に墜ちた蝶がほどけることと、語彙・文字の繋がりが分解出来ることへの連想が働き、死の俳句に留めず別の観念の世界へ導く仕掛けも重要である。

こうして見ていると、死の幻を詠む俳句は1975年(昭和50年)前後に現れている。60年代に起こり70年代隆盛を極めた暗黒舞踏・演劇をはじめとする反リアリズム的な文化の流れの影響を受けていると考えられる。

 俳句にかくも豊穣な死のイメージが噴出した時代はこの70年代を置いてないであろう。他の分野では、リアリズムを越えて死あるいはそれに近い光景を採りあげたものは、古来数多くある。特に、詩の萩原朔太郎「月に吠える」、小説は内田百閒の「冥土」、絵画で朔太郎と共同制作した田中恭吉などが活躍した大正期が目立つ。大正は後世、大正デモクラシー、大正ロマンなどと称され、モダニズム、ダダイズム、アナキズムが花咲き、社会運動に加えて文化人のスキャンダル・自死などが注目された。死のイメージの豊かさは自由の爛熟と比例するのであろうか。

 しかし、嗜好の傾向は時代だけで決まるものではなく、人の資質が決定的であることは言うまでもない。若い頃、先輩に君はなぜ怖い本や不気味な本を読むのだと、本当に不思議そうに聞かれたことがある。ご本人はよくシャンソン風の「お菓子の好きなパリ娘」を口ずさんでいた。私にはその方が不思議であった。chansonを聞かず、段ボールを楽器とするFlying Lizards、苦渋と屈折に満ちた声を上げるPILなどnew wave rockを聞くのはなぜか?頭脳にエンドルフィンを生じさせるものには個人差があるとしか言いようがない。

 ところで死に対してはまた一つの処し方がある。

 家蠅の一つ感動倒れしぬ  永田耕衣 人生 1988

 空溝に黄金の蝶写り行く  永田耕衣 泥ん 1992

 これと死とどういう関係があると言うのか。私には水草や汚泥の乾いた溝が、蝶の羽の反照に映え、明かり暗がる光景、浄土あるいは冥土である。裏木戸を押すと浄土であり、死は生と合体している。耕衣は歳と共にあらゆるものに親和力をまし、涅槃に入っていったのではないだろうか。

 最後に専業俳人ではなく戦後人でもない、死の俳句の一人の先駆者を思い出しておこう。葛飾北斎の辞世とされる有名な句である。

 人魂で行く気散じや夏野原  葛飾北斎 1849

 強がりとあてどなさが日本人伝統の心意気である。機知は基角ばりとしても身についており、洒脱な死生は江戸の俳人の域を超えている。なお、現代ドイツで北斎に心酔しているのは、エロスと死の手に負えぬ画狂老人Horst Janssenで、たとえば「永い旅」、ガラスの花瓶に挿されたチューリップの絵である。完全に枯れて花びらを下に散らし、腐った葉はガラスにへばりついて乾いているといった体、悽愴なチューリップにこそ安らぎがある。


●―4:飯田冬眞【齋藤玄】、ー「獣」を読むー 

 吹かれゐて美猫となりぬ花薄

 昭和51年作。第5句集『雁道』(*1)所収。

 後半生の3句集から「獣」の句を抜こうと読みはじめたが、ほとんどない。だが、驚いたのは、『雁道』の獣の句はすべて「猫」だったこと。齋藤玄は北海道の俳人である。郷土を代表するヒグマあるいはキタキツネなど「北の大地」を感じさせる獣を詠んでいないはずはない!そんな勝手な思い込みのもと、第一句集から読み直してみた。

 敗れたる馬の瞳の稚なけれ   昭和14年作 『舎木』

 競馬場ながき夕を汗し離る   昭和14年作 『舎木』

 兵馬(くう)を嬰児に花の風展き   昭和15年作 『舎木』

 兵馬征く光に凛凛(りり)とみごもりぬ   昭和15年作 『舎木』

 花ぐもり馬きて馬の影つくれり   昭和15年作 『舎木』

 ごらんのとおり、期待は裏切られた。作句時期の昭和14、15年の玄は、まだ、齋藤三樹雄を名乗っており、「京大俳句」および「天香」へ投稿していた頃にあたる。その頃の獣たちは、みな「馬」だった。昭和15年に玄(三樹雄)は郷里の函館で、北海道における新興俳句運動の「指導的機関建設の埋石」(「壺」創刊号発刊の言葉)になることを念願して、俳誌「壺」を創刊している。処女句集『舎木』の馬の句はどれも、モダニズムの色が濃く表れており若々しい。

 一、二句目には「函館競馬場」の前詞。俳句を初めて三年目の若書きの句だが、作者の立ち位置が見えてきて好感が持てる。ことに三句目、四句目の「兵馬」を読み込んだ作品は、馬も人間と同様に扱われていた戦時下の生活のひとこまが描かれており、興味深い。軍隊に徴用されて空路で運ばれる馬が〈嬰児に花の風〉をひろげていると詠んだ三句目は、作者の視線の柔軟さと優しさが伝わってきて心地よい。四句目の戦争に行く馬が光を放ち人間の女を身ごもらせたというとらえ方は斬新だと思う。死にゆく命が種を超えて人の胎内に宿るというのは、どこか原始仏教的な味わいがある。人も馬も同じいのちのかけらで、死はその一過程に過ぎないという晩年の玄の死生観の萌芽を感じさせる。

 地吹雪や倒るる馬は眠る馬    昭和47年作 『狩眼』

 牛叱る声に帆下ろす声おぼろ    昭和47年作 『狩眼』

 口に乗る春歌や旱の狐立つ    昭和47年作 『狩眼』

 一転して、後半生の句。一句目の〈地吹雪や〉は石川桂郎と厳寒の網走を旅行した折のもの。〈倒るる馬は眠る馬〉は、現在でもどこかの句会に出てきそうなフレーズ。戦後俳句の文体の一典型かもしれない。「○○や××する△△は◇◇する△△」今度、使ってみよう。二句目の〈牛叱る〉の句は船で牛を搬送する港での光景だろうか。この声はどちらも人間の声であるが、対象の違いによって、音に高低差があることをとらえており、聴覚で茫洋とした〈おぼろ〉の季節を描こうとしたものか。三句目には「芦別市旭丘野鳥園」の前詞。旱天の狐の緩慢な動作を見て、思わず春の歌が口からこぼれ出したということだろうが、口ずさむ作者の心象が読者に伝わらず、難解。

 雪仔細犬猫とても十字切る   昭和50年作 『狩眼』

 牡丹の紅の強情猫そよぐ    昭和50年作 『雁道』

 年つまる人の口から猫の声    昭和50年作 『雁道』

 大寒のたましひ光る猫通す    昭和53年作 『雁道』

 どこか、ユーモラスで、軽みを感じさせる句が並んだ。対象が「猫」のせいもあるかもしれない。一句目の〈十字切る〉とは、犬猫が交互に前脚で顔を撫でるしぐさをとらえたものだろう。そこに不穏なものを嗅ぎ取るか、愛くるしさを見てとるかは読者の心象にゆだねられている。三句目の〈人の口から猫の声〉からは年末の多忙な日常が透けて見えてくる。私も仕事が忙しくなるとカンボジアの五輪選手になった猫ひろしではないが、思わず「にゃあ~」という声を漏らしてしまうことがあって、周囲から薄気味悪がられている。

 こうして見てくると、戦後の日本人にとって、最も身近な「獣」は「猫」と「犬」のように思えてくる。現在刊行されている俳句総合誌でも「犬句」「猫句」は毎号のように見かけるし、(俳句に)「詠まれた猫」という能天気な連載も好評なのだそうだ。

 戦前の「馬」の句とくらべてみると玄の「猫」の句からは、人間に使役されるような悲哀や束縛とは無縁で自由な空気が感じられる。それでいて人間の生活圏内に何気ない顔をして存在する獣。役に立っているのか、いないのか、よくわからない存在。なついてみたり、そっぽを向いてみたりする気まぐれな生き物。なんだか俳人みたいだ。人といっしょに畑を耕し、戦争に行って戦友になってくれた牛馬も尊い獣だが、猫の存在も等価に思える。

 吹かれゐて美猫となりぬ花薄    昭和51年作 『雁道』

 そこで、掲出句をみていこう。

 風になびく尾花を見つめているうちに、尾花が、白毛のあるいは銀毛のふさふさとした猫の姿に変わっていったという幻視の句。尾花の穂が猫の尾に見えるのは当たり前のような気がするが、数千のかわいらしい猫がきれいな尾を揺らしながら小さく鳴いている姿を想像したら、これはこれでかなり壮観だろうと思う。猫好きにはたまらない絵だ。ちょっとエロティックですらある。

 作者の心象が仮託されやすい獣として、戦後俳句に猫が独自の地位を確保したことを論証してみたいが、論旨から外れるので次の機会に譲ることにしよう。


*1  第5句集『雁道』 昭和54年永田書房刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載 


●―5:堺谷真人【堀葦男】

●―8:岡村知昭【青玄系の作家】、「獣」を読む ― 

 わが愛語猫に通ぜず霜解くる    日野晏子

 猫は夫人の膝の上で小さく喉を鳴らしながら、おとなしく夫人の愛撫を受けている。頭からはじまり顔から喉、そして腹回りから足、尻尾に至るまで夫人の手は柔らかく猫の毛並みを撫で回している。そして夫人の手が猫の全身をくまなく動く間には、「ほんとうにお前はかわいいねえ」「よしよし」何度も繰り返される夫人からの感嘆が、もうひとつの愛撫として全身にくまなく注がれている。だがここが猫の猫たる所以なのか、夫人が言葉と態度のすべてを駆使して猫に注ぎ込む愛情に対して、膝の上の猫の態度ときたら喜びをあらわにするわけではなく、されど愛情をうっとうしく感じて逃げ出すというのでもなく、相も変わらず膝の上でゴロゴロ喉を鳴らしているばかり。夫人としても猫というのはそのようなものとわかってはいるけれど、だけど少しぐらいは喜びを見せてくれたっていいんじゃないの、との思いはどうしてもこみあげてくる。たかが猫されど猫、おまえはどうせわかってくれないのねえ、などと愚痴を思わず口にしたくなるのも、霜が解けていよいよ春の訪れが身近に感じられてきた頃だからなのだろうか。

 ここまで書いてきてなんなのだが、この一句について「そのようなことなら題材としてありがちではないか」との声が聞こえてきそうなのは致し方なく思っている。ならば境涯詠の枠に収めて、夫である日野草城を世話を一身に引き受けている日常を背景にして「愛語」を深読みしてしまうというのも、読みとしては可能かもしれないが、あまり「草城の妻」にとらわれ過ぎるのもよろしくはないだろう。ということで、ここは「日野晏子遺句集」に登場するそのほかの猫の句を見て置こう。

 猫のせて膝あたたかき十三夜

 座るより猫の四つ児が膝慕ふ

 猫の子に膝とられ窮屈に縫ふ

 まんじゅさげ真白き猫の子を抱いて

 引用したこれらの猫の句においては、猫に真向かう人物の姿もまたきちんと描かれているのが何とも興味深いところである。膝の上の猫の温もりをしみじみと感じながら秋の夜長を過ごす様子、自分が座ろうとしたとたんに膝の上にちょこんと載ってきて当たり前のように座り込む猫の自分を「慕ふ」ことへの喜び、「窮屈に縫ふ」と言いながら膝の上の猫の子を可愛がらずにはいられない自分の姿、それぞれに自分と猫の関係が成立してなければこのような楽しげな作品とはなりえないだろうことは十分にうかがえる、夫人たる晏子からの「愛語」はこのとき間違いなく猫に伝わっているはず、との確信に満ちている。「まんじゅさげ」の句においてもそれは変わらない。「まんじゅさげ」の紅は「真白き猫の子」の白をさらに引き立てるために用意されており、いま両腕で抱きかかえる白い子猫の可愛らしさを褒め称えたくてやまない自分の想いを、「愛語」を用いずに表現できている。もちろん白い子猫には自分の気持ちは伝わっているはず、との確信は揺らがない。このように「夫人と猫」の関係を見てきたとき、ならばなぜ冒頭の一句であのような意味深な書き方を、と思ってしまいそうになるのだが、やはりここは思わず口を突いて出てしまった言葉を一句へ持ち込んだ、と見るのが適当なのかもしれない。猫との時間が大切なものであるからこそ、自分の感情の微妙な部分に突き当たるというのもありえるのかもしれないから。

猫の子を妻溺愛すわれ病めば    日野草城(句集「人生の午後」より)

 夫である草城も亡くなった飼い猫への追悼句を作っているほど猫を可愛がっていたのだが、この一句では猫を可愛がる妻の姿に、どこか微妙なシニカルさを与えている。それは「病めば」すなわち「自分が病気になってしまったから妻はそれこそ『猫可愛がり』するようになった」と妻の献身的な介護を必要とする夫の目線がもたらすものだろう。草城もまたこの一句を通じて、自分の中に潜む妻への感情の微妙な部分と出会ってしまっていたのかもしれない。なるほど、猫とはなかなかに油断ならない生物であることが、この夫妻の様子を見ていても大いにうかがい知れるところである。


●―9:しなだしん【上田五千石】、―「獣」を読む― 

 シリウスの青眼ひたと薬喰   五千石

 第二句集『森林』所収。昭和五十年作。

 自註には〈十枚山麓の宿は猪や鹿を喰わせる。炉端で鍋を囲んでの熱燗、身内の野性がよみがえる〉とある。

 この句には今回のテーマの「獣」が表出しているわけではないが、「薬喰」から十分に獣が感じられるだろう。ましてや掲出句は「シリウス」が見える、山深い宿の一夜である。自註にある通り、炉端での薬喰は、まさに野性味がある。

     ◆

 自註にある、十枚山とは山梨県南巨摩郡南部町と静岡県静岡市葵区にまたがる山で、標高は1719m。

 同じ十枚山での作と思われるのが〈昼ともる寒の裸燈に村老くる〉〈冬菜二三行抹消の詩句に似て〉〈山小屋の骨正月を湯気ごもり〉で、三句目の「山小屋の」句について自註に〈骨正月とは二十日正月。正月料理の残りを骨にして平らげる火〉と記している。

 続いて、同時かどうか微妙だが〈冬を力耕霊山のほとりにて〉があり、自註では〈霊山は七面山〉と記している。十枚山からは七面山が望めると聞く。

 さらに続いて〈長氷柱杖とし突かば聖だつ〉があり、以前取り上げた〈剥落の氷衣の中に瀧自身〉につながってゆく。

 これらは第十回「夏の句」でも触れたが、五千石がスランプに陥り、盛んに山歩きをしていた時期である。

 この一連の山の句は、句集『森林』の収録順から、昭和五十年の一月の制作と思われる。場所や標高から言って雪が降ることはないと思うが、冬山には危険が潜んでいるような気がする。だが、それだけに一人を感じ、自身に向き合える時間なのかもしれない。

     ◆

 さて、青眼とは、訪れた人を歓迎する気持ちを表す目つき。シリウスを眼に見立てて、自分を歓迎してくれていると、五千石は感じたのかもしれない。

 ちなみに「青眼の構え」というのがある。「青眼の構え」とは剣術の基本的な構えのひとつ。流派によって微妙に違うようだが、中段の構えの一種のようで、一般に中段の構えは、切っ先を相手の喉もとのあたりに向ける構えのことだが、これをやや斜め上に少し上げて、相手の眉間から左目のあたりに切っ先を向けるのが、青眼の構えらしい。

 掲出句の「ひた」という言葉からそんな武道の構えのことを考えたりもした。


●―10:筑紫磐井【楠本憲吉】、【テーマ:妻と女の間】 

 さくらんぼかたみに摘まみ失語夫婦

 まさに倦怠期の絶頂にある夫婦である。かたみとは互いにであり、盛ってあるサクランボを交互に一粒づつ摘み食するのだが、その間沈黙が流れる。実に長い沈黙である。語るべき言葉を持ち合わせないのだ、それくらい夫婦の間で時間が経ってしまっている。

 男女の間と言葉の関係は、3つの時期があるという。初期は饒舌に語り合っていた二人が突然黙りあう段階、中期は言葉がもどかしくも伝わらなくなる段階、終期は何をしゃべったらよいか、お互いに言葉を探し合う段階だという。だから大概の歌謡曲は、この3つの段階を歌い上げるのだという。そうした最終段階に入った夫婦をこの句は描いている。

 しかし最終段階に入ったからと言って夫婦の生活が終了してしまうわけではない。永遠に近い長い時間をかけてこの失語の状態が続いていくこともある。この生活を破綻させて、新しい状況を作ることに二人が意欲を持つかどうか、そんなことをするエネルギーがあるかどうか、その先に希望に満ちた新しい生活が待っているかどうか、経験もない無知な若い時代ならともかくも、10年も20年もの時間の経過は、情熱を持つ対象などあるはずもないことを知ってしまうかもしれない。


 冬苺いまさら夫婦とは愛とはなど

 サクランボが冬苺に化けているが、露骨に言えばこうしたことであろう。いまさら、なのである。これは人生の普遍の原理といえなくもなさそうだが、不思議なのは、憲吉の場合あっという間にこうした状況になっていることである。結婚直後からこうした雰囲気を漂わせている。だからこれは時間の経過がこうした感情を生みだしているのではなく、持って生まれた性分であり、憲吉の本質なのである。これらの句を読んで若い人たちも愛情に絶望すべきではない、ただ憲吉のような人物を選ばない賢明な分別を持つべきである。そしてこうした感情からそろそろ卒業しかかっている我々の世代は、十分おもしろがってよいのである。人生の機微に触れている、と無責任に言いながら。


●―12:北川美美【三橋敏雄】【テーマ:『眞神』を誤読する】

 26.  己が尾を見てもどる鯉寒に入る

 実景写生句にみえるが、果たしてそうだろうか。

 小寒(1月6日頃)から節分(立春の前日)までを「寒(かん。寒中・寒の内とも)」と言い、小寒以降を「寒の入り」「寒に入る」という。冬場の鯉は動きが鈍いはず。集団で池の底のようにじっとしていることが多い。しかし、尾をみて戻る体がやわらかそうな鯉が描かれている。「己が尾」という措辞が集団から外れ自己顕示欲の強い鯉に思える。戻ったのは仲間のところだろうか。

 体がやわらかい鯉は、大きくならない鯉らしい。大きな鯉をよい鯉とするならば、いわゆる落ちこぼれ、またはアウトローな鯉である。

 「登竜門」あるいは「鯉幟(こいのぼり)」の所以のある鯉は、鯉が滝を昇るという逸話である。一旦滝をみつめながら、滝を登らず、川底に戻る鯉もいる。滝を登らない鯉は、鯉幟になれない、これも落ちこぼれ的な鯉かもしれない。

 落ちこぼれも鯉であり、本当は、池底にいる鯉こそが底力のある鯉ということもある。人間世界に置き換えて読んでしまうのは、やはり「己」という文字の誘惑だろう。「個」を重視する意味にとれる。

 「もどる」と「入る」の動詞が同時使用されている。四句前の「蛇捕の脇みちに入る頭かな」の「入る」も頭をよぎる。

 もどるも別の道なりき。


27.  玉霰ふたつならびにふゆるなり

 前句の「寒に入る」の小寒の次は冬になった句である。

 「ふゆる」というのは「冬」の古語。「増える」が転じて「冬」になっている。それも「魂(たま)が増える」という説があるようだ。敏雄の言葉に対する厳選はどの角度から検証してもゆるぎない。それを直観的に駆使できる天性に磨きがかかった秀才といわれる所以だろう。「霰」は春の可能性もある。春なのに「冬」に逆戻り。前句の鯉がUターンする句からそう思えてくる。

 「ならんでふゆる」とは雅である。助詞の「に」にその巧妙さがある。

 玉霰ふたつならびてふゆるなり

 玉霰ふたつならびにふゆるなり

を比較してみる。

並んでからそして冬になったなぁ

並びながら冬になったなぁ

というニュアンスの違いが感じられる。「に」に比重がかかる句に思える。

 また「玉霰ふたつ/ならびにふゆるなり」と切れの位置をずらしてみる。「並びに」という接続使用があるのは「A及びB並びにC」という法的表現があるが、「並びに冬るなり!」と俄然強くなってくる。あらゆる試行し読み方の違いを味わう。

 一句で何度でも美味しい。

 ひきつづき『眞神』を読むなり。


28.  春山を越えて土減る故郷かな

 春の山を越えて辿りついた故郷の土は減っていた。「故郷」という言葉に読者それぞれの郷愁が思い描かれる。

 「土減る」の措辞が心の減りようを表しているように読める。「成功をおさめたものが到達できる春なれど、置き去りにした自分の原点があったものだな。」

 やわらかさを感じる自然界の「土」という物質層が減っていく。土が減ったということで考えられるということはなんだろうか。


「除染地域のため除染土として土表面3cmを削った」

「宅地造成で土の表土面積が減った」

「アダムを土で作ったため土が減った(旧約聖書)」

「土偶を作ったため土が減った」

「金の発掘のために土を採掘した」

「三匹の子豚の1匹が土の家をつくったので土が減った」


 コンテナの中で植物が育つからといって土が減るということはないらしい。土が減るというのは人的なことが加わり起こることではないか。やはり心の磨り減りだろう。

 五行(木・火・土・金・水)相生では、木は燃えて火になり、火が燃えたあとには灰(=土)が生じ、土が集まって山となった場所からは鉱物(金)が産出し、金は腐食して水に帰り、水は木を生長させる。

 春山の「山」は土が集まった場所であり、そこには山の営み、四季を通しての山の姿がある。山を巨大な土の塊としてとらえてみると、人が棲みつく里は、山からの土がその昔火山灰として流れ込み、やわらかくそしてあたたかく人を迎え、人の営みがあった。

 掲句の「故郷」は、帰り処のない心のさまよい、春の憂いを表しているように思える。


29.  雹噛んで臼歯なほ在り故郷かな

 前句を受けて「故郷かな」がつづく。掲句の「故郷」は唐突でありながら、「故郷」という言葉に抱く人々の郷愁を再び呼び覚ます。

 気象学上で「雹(ひょう)」は5㎜以上、「霰(あられ)」は5㎜以下で区別される。よって雹は激しい自然状況下であることを想像させる。それは、「故郷」の自然環境が厳しいことを含蓄するだろう。雨がふれば槍(やり)のように激しく叩きつけ、雪が降れば猛烈な吹雪となり、夏の太陽は痛く刺すほどに照り付ける。人にはそれぞれの故郷、自己の原点がある。自然の中で人の営みがあり、家族が生まれ、里の暮らしがある。

 そして「臼歯」は犬歯よりも奥にある歯のことで、人間は犬歯も臼歯も平均的に発達している。「臼歯なほ在り」の措辞から考えると「犬歯だけでなく臼歯がまだある」という意味にもなろう。肉食動物的、攻撃的な野心だけでなくゆったりとした草食動物の守りの体制を感じる解釈が考えられる。ライオン(ネコ科)やオオカミ(イヌ科)などの肉食動物の歯は、犬歯が発達し、一旦口の中に入れた肉はあまり噛まずに飲み込む。牙というのは犬歯が発達したものだ。

 「蛇捕のわき道に入る頭かな」の項の蛇脳に同じく、「臼歯なほ在り」は、人間が狼のような鋭利な狼脳をも兼ね備える能力を暗喩しているように思えてくる。「絶滅のかの狼を連れ歩く」の句が登場するのはまだまだ先だが、狼の存在をすでにここで掲示している、というのは考えすぎでもないのかもしれない。

 故郷とはゆっくりとすり潰して呑み込むもの、その感覚を理解するものだけがこの句を味わえばよいだろう。 五木寛之の『青春の門』の中で主人公・信介が筑豊を去る時に養母タエの遺骨を噛む場面が思い出される。骨は「カリカリと爽やかに」砕けた。掲句から思い出される場面である。

 「故郷かな」の同じ下五句がつづいた。

 五木寛之もそうだが、「故郷」を背負った作家として寺山修司が挙げられるだろう。

 わが夏帽どこまで転べども故郷   寺山修司

 寺山修司が俳句に熱中していたのは昭和28年頃なので、『眞神』が上梓される20年程前ということになるが、修司は中学の頃より三鬼、そして三鬼指導の同人誌『断崖』に傾倒し俳句が出発点であることが知られている。敏雄の句を意識したいたことも確かだ。

修司の句に「母」「父」「故郷」が多く登場し、それぞれが呪物的存在を示し、『眞神』登場物との共通点も多い。修司は亡くなる直前まで、敏雄と交流があった。俳句に戻りたい想いを募らせ、三橋敏雄、齋藤慎爾らと同人誌『雷帝』を構想し誌名が決まったその十日後に修司は昇天している。

 『眞神』上梓の後に修司は没している(1983年)が、「雹噛んで」の句が五木寛之、寺山修司をはじめとする「故郷を葬るものたち」への鎮魂と言えるだろう。


30.   寄港地をいくつ去るべしセロリ抱き

 船上従事者としての敏雄の視線が伺える句が4句つづく。

 敏雄は戦後、運輸省の練習船事務局長の職に就いていた。幾つもの港に寄ったことだろう。そして数えきれない港を去ったことだろう。

 セロリは戦後の食卓で西洋料理が一般化してから普及しはじめた。戦後の日本ではまだ目新しかったころのセロリを寄港地で見たというように受け取れる。

 敏雄が清酒「八海山」が好みだったということをよく紫黄から聞いたが、外航生活が長いとはいえ、食べ物、料理の句に遭遇しない。食べることが精一杯だった世代でもある。食を礼賛することは、敏雄の趣味ではなかったようだ。

 セロリを抱く。「抱き」の自動詞からセロリを抱いているのは敏雄自身と読める。港に訪れた地元の行商からセロリを買い、甲板から離れていく港の船着場を眺めているように思える。戦前の新興俳句の表現ならば「セルリー」だったかもしれない。戦後の西洋という意味で「セロリ」という表記なのか。山崎まさよし作詞作曲『セロリ』があるくらいなので苦手な食物として挙げる人も多いだろう。女性との苦い思い出を「セロリ」に掛けているのかもしれない。

 大阪のガスビル食堂のコース料理につく生セロリは、昭和8年創業当時から続く名物らしい。当時の大阪ガス会長片岡直方は、「本物の西洋料理にセルリー(セロリ)は欠かせない」と種子をカリフォルニアから取り寄せ、栽培したそうだ。秋山徳蔵氏(昭和天皇の料理番)も、その著書『味の散歩』(産経新聞出版局/三樹書房1993年再刊)の中で、ガスビル食堂の生セロリを絶賛している。

 やはり「セロリ」は西洋を意識的に表現するものとして捉えるべきだろう。

 腿高きグレコは女白き雷   『まぼろしの鱶』

 グレコが西洋の女性であればセロリも手足が長い西洋の女性のこととも思える。「セロリ」は碇泊中の女性を示す「隠語」という見方もできるが、敏雄の抱く西洋というものが「セロリ」だったのだろう。

 「去るべし」の措辞は、推量・意志・当然・適当・命令・可能と多義であるが、作者自身の一人称と読み、「いくつもの寄港地を去るべきである」という意に読める。やはりセロリを抱いているのは作者本人と解釈する。

 新興俳句の特徴でもあった、モダニズムの表現は、敏雄の中で当初より厳選されている。

例えば、

 少年ありピカソの靑のなかに病む   『靑の中』

この句の「ピカソ」と掲句の「セロリ」の捉え方は何ら変わっていない。「セロリ」に抱(いだ)くわれわれのモダニズム、西洋への憧れ、ピアスとしての「セロリ」が、俳句の中で如何に融合するのか、それを当初より敏雄は理解していたとしか言いようがない。

 敏雄は、俳句として「セロリを抱(だ)いた」ことになるのだろう。


31.  日にいちど入る日は沈み信天翁

「戦後俳句を読む」テーマ:私の戦後感銘句3句をご参照ください。

 日にいちど入る日は沈み信天翁

 人は一生を通じて、「こころ」という不思議な作用に左右される。時代、環境に翻弄されながら「こころ」を持つ「人」として成長していく。経過する時の中で肉体、脳が老いていく。記憶の中にとどめたくない事象に遭遇し、年齢とともに「こころ」が磨り減っていく。それでも日(陽)は昇り、日(陽)は沈み、一日が展開する。生きる者に、朝が来て、昼が来て、夜がくる。そして、春が来て、夏が来て、秋が来て冬になり一年が終わる。人も動物も植物も営みを繰り返えす

 掲句は、三橋敏雄 句集『眞神』(ま(・)かみ ※注)31句目に収められている。昭和44年、敏雄49歳の時の作である

 『眞神』には全体を通し不思議な時間軸が流れる。浮遊した時の中で、身体的といえる言葉を通しタイムスリップしたような世界に引き込まれていく。現代詩とも、絵画とも、映像とも共通する、それまでになかった17文字の世界が展開し、次の句へと連鎖するような錯覚をし、不思議な迷宮を体験する。『眞神』は生生流転の人間世界、自然界を背景にしている

 上五中七のたった十二音節「日にいちど入る日は沈み」において、地球の自転を潜ませ日没から日昇までの時間経過を暗示している。繰り返しながら、日々失っていく何か。「日」という陽に対し、「沈む」という陰。全滅の危機に瀕する「信天翁」(あほうどり)の、「天」を「信」ずる「翁」という表記。使徒のような鳥が重く沈む日(陽)をみている。鳥からの視点が感じられる。読者が鳥になったような錯覚を起こす。読者は、自分の人生や時代を思いつつ、ただこの句を前に自分を投げ入れるのではないだろうか

 アメリカの「失われた世代」(ロスト・ジェネレーション)とは、ヘミングウェイやフィッツジェラルドの小説家に代表されるような20代に第一次世界大戦中に遭遇し、従来の価値観に懐疑的になった世代をいう。『日はまた昇る』(原題:The Sun Also Rises)は、ヘミングウェイの出世作として有名だ。その序文に記された言葉を引く

傳道之書(アーネスト・ヘミングウェイ『日はまた昇る』谷口陸男訳

「世は去さり世は来きたる地は永久とこしなへに長存たもつなり 日は出いで日は入いりまたその出いでし處に喘あえぎゆくなり(略)」

 上記の言葉は、旧約聖書 第一章であるが、これには省略されている冒頭箇所がある。「ダビデの子、エルサレムの王である伝道者の言葉。伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である。日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか。

 これを掲句に結びつけると、神の使徒「信天翁」は、いっさいの空にいる自由な阿呆(あほう)。崇高でありユニーク。『眞神』には所々にシャーマン的な存在が登場するが、注意しなければならないのは、『眞神』は物語ではない。俳句集である。読者が慣れ親しんできた言葉を使用しながら、俳句形式の中で読者を別の世界へ連れて行く三橋の冷静で巧みな術がある

 戦争という体験は、三橋に多くを語らせず、しずかに、海から陸をみるという視点をもたせた。大人は泣き叫ばず日常を淡々と生活できる。大人は考えることができる。大人は時間を操作できる。掲句は、大人であること、人生の時間について改めて想いをめぐらす一句である

※注)『眞神』の読み方は、様々あるようだが、筆者は「ま(・)かみ」と読む。]


32.   帆をあげて優しく使ふ帆縫針

 帆船の美しさに心酔する。「順風に帆を上げる」という諺がある。追い風のときに帆をあげて出帆する。万事好都合にいくことをいうが、日本の帆船の数奇な歴史に改めて「帆をあげて」という措辞が希望の言葉として読み取れ、胸を打たれる。

 敏雄は昭和21年より同47年まで帆船練習船「日本丸」「海王丸」ほかに事務長として歴乗した。どちらも戦争という数奇な運命を辿った帆船である。現在「日本丸」はみなとみならい21に展示保存、「海王丸」は富山新港海王丸パークに一般公開されている。どちらの帆船も太平洋を中心に訓練航海に従事していたが、太平洋戦争が激化した1943年(昭和18年)に帆装が取り外され、石炭などの輸送任務に従事した。戦後は海外在留邦人の復員船として引揚者を輸送。帆装が再取付けされたのは、1952年(昭和27年)であった。数奇な運命を辿った二隻に再び帆が取付けられたということは敏雄のみならず国民にとって感慨ひとしおであったことだろう。

 満州北部の佳木(ジャムス)という地で19歳の医学生として終戦を迎え、抑留14か月後の昭和20年10月に引揚船(病院船)にて帰国した五味誠氏(満州国立佳木医科大学第4期生、現・馬込医院医院長)に話を伺った。

「僕は、新京駅から多くの患者たちに付添い、コロ島から引揚船に乗った。米国貸与のリバティ型貨物船だった。引揚者の患者が蚕の寝床のように板状に釣られて横たわっていた。医学生として船中で患者に付添うことが目的だった。蔓延していた結核、発疹チフスの患者たちだ。助からない患者を看取り、水葬するため遺体を海に沈めなければならなかった。辛かった。一学年下の同郷の友人が結核であったため、彼を故郷に連れて帰るという大目的があったが、1週間船に揺られ、さらに博多港の検疫所で1週間。彼は日本の地を踏む事なく息絶えた。あの引揚船でのさまざまな光景は、今もはっきりと憶えている。しかし、思い出すのは嫌だ。いつまでも辛い想いで忘れることはない。」

 すでに敗戦後67年が経過してようとしている。壮絶な人の死を見てきた人の心は癒えることがない。敏雄と同世代、生きていくことが精一杯だった人々の底力を感じる。

 あえて「やさしく使ふ」と表現しているが、帆縫針を帆を縫うために「やさしく使ふ」のであれば、敏雄の心の中に刻まれた人の死を一針一針鎮魂しているように思えるのだ。

 敏雄の辿った多くの航路、昭和の歴史考えながら掲句をみると心が熱くなる。本当は「やさしく」なれない状況だったのだろう。

【図解】針のサンプル(広島県針工業協同組合)

https://www.aeras.jp/hari/kind/allkind1.html


33.   行雁や港港に大地ありき

 雁の股旅物語。港港に女あり。渡る世間に未練はねぇ。山本紫黄の十八番だった「名月 赤城山」の歌詞(作詞:矢島寵児/歌:東海林太郎)には、「渡る雁がね」と入っている。やはりマドロスも股旅である。港も大地も女性を思わせる。

 雁が港にやってくる。そこには、母なる大地が出迎える。命を育む大地があるからこそ、雁は命をつなぎ翼を休ませることができる。大地の恵みを受け取りながら、鋭気を養い、生きながらえて再び目的の地へ向けて北上するのである。

 戦後、敏雄が海に逃れていた昭和30年代、日本人船員黄金時代でもあった。船乗りの給与は陸地の平均給与の約3倍といわれる時代であり、当時のドラマやアニメのパパ役は大抵が豪華客船の船長かパイロットという設定。海外航路に従事することは当時の憧れの職業であった。1ドル360円、為替が固定相場だった時代である。

 現在は外国人就労者が8割になり、海運国である筈の日本にとっては、深刻な問題でもある。当時の寄港停泊は1週間が当たり前だったらしく、その時間を利用して敏雄は神戸の三鬼館を尋ねたりしている。長期航路の敏雄を三鬼との三鬼門の仲間(大高弘達・葩瑠子、大高敏子・淑子姉妹、山口澄子、山本紫黄)が横浜港に迎え、事務長私室にてオールドパーの封を切り、その後、新橋で宴という私上でも華やかなパーサー時代であったと想像する。

「まだ国際航海は許されていない頃であった。凡そ近海を廻り尽くすうち数年で日本中に知らぬ港はなくなった。港々は荒れていた。沖から見る日本列島は美しかったが、常に波浪に隠れ易く、あわれであった。時に復員船に仕立てられ、中国大陸や台湾にも幾度か在来した。朝鮮戦争では、米軍命令で彼の国の難民輸送にも当たらされた。句材には事欠かぬ筈であったが、志衰え、占領下激動するあらゆる社会現象に対しても、敢えて興味を持とうとはしなかった。幸い私の乗っていた船は航海練習船であったから、航海そのものが目的で、行方には、特に目的地はなかった。全く私は海に逃れていたのである。」

『まぼろしの鱶』後記

 「大地ありき」とは、「大地がはじめからあった」「大地がもともとあった」という意味になる。港、船、車が「愛しい人」というニュアンスを含め女性名詞として表現されることがあるが、「大地」も愛しい人である。

 大地の愛しい人を期待した旅の絵葉書が敏雄から紫黄へ届く。絵葉書は、南の島の女性が大らかに椰子の実のジュースを飲みほしている写真だ。

「途中ジョンストン島で核爆発(*1)のオレンジ色の余光を1000マイルはなれたところから望見したほか何も見ることなくタヒチに着きました。地上最後の楽園の呼称もいまは地に落ち単なる観光地の様相です。(中略)シコウのためにようやくこのエハガキを入手したので早速送ります。日本が地上最後の楽園かも知れません。オッパイに関する限り」

『弦』23号より(2008.10.1 遠山陽子刊)

絵葉書の文面から港港の字面がオッパイに見えてきた。


34. 捨乳や戦死ざかりの男たち

 「チチ」である「捨乳(「すてぢち」…と読むと推測)」。

 前回鑑賞句「行雁や港港に大地ありき」の「港港」の字面がオッパイに見えてきたのはそう間違ってはいない。ハワイで生まれたココナッツ酒のカクテル「チチ」は、「粋な」という意味を持つらしいが、「すてぢち」にはお国のために死ぬことが美徳だった時代に対するシニカルな嘆きが感じられる。

 「戦死ざかり」の「さかり」の用法は肯定的な事象に対して使われ、物事が一番勢いのよい状態にあること、盛んな時期のことである。しかし「戦死」に「さかり」を組み合わせ、さながら「戦死」が男ざかりの祭のようだ。「戦死ざかり」という「戦死」に花の季節があったかのようだ。死にゆく男たちへ白く濁った酒のように乳を振り撒いているようである。それも「捨乳」。やぶれかぶれの「捨て鉢」と掛けているのか、とんでもない句に思える。

 「戦死」という死の祭りということから考えて、今までの『眞神』鑑賞句から生死に対する祭のイメージがある関連句を拾ってみる。

 母ぐるみ胎児多しや擬砲音(4句目)

 晩鴉撒きちらす父なる杭ひとつ(6句目)

 上記に母、父をよみつつ、胎児に響く「擬砲音」、空にばら撒かれる「晩鴉」が祭祀の音響、映像として浮かんでくる。

 『眞神』には忘れられた日本の風習、つまりは日本の風土に根差す民俗学的視点で鑑賞することもできるのだが、それは敏雄が読者とのある一つ約束事、季語に替わるものとして、読者との同認識の結果にすぎない。例えば掲句でいえば、どこか郷愁の「祭」である。

 本来の「祭」は、超自然的存在への様式化された行為である。祈願、感謝、謝罪、崇敬、帰依、服従の意思を伝え、意義を確認するために行われた。日常と深く関わっていた。村という共同体の中での儀式、儀礼として機能していた。「ハレとケ」のハレの部分である。死ぬことは、超自然的存在への帰依なのである。だから乳をふるまうのだ。それも捨乳で。

 「戦死」は軍人が戦争や戦闘により死亡すること。婉曲表現として第二次世界大戦終結まで、仏教用語の「散華」が、また戦死者を美化して「英霊」とも呼んだ。ここに敏雄が、直接的な、「戦死」を選んだことには、「戦死」=国家の為に死ぬということに対しての痛烈な疑問が込められていると受け取る。

 そして戦死という無惨な死の祭は、タイトルにもなっている句、

 草荒す眞神の祭絶えてなし

へと繋がっていくようだ。

 生まれることも死ぬことも選べないということを改めて考える。人の生死は自然の中に必然のようにある。だが戦死は必然とは違う。死んでいった男たちを残されたものが忘れない限り人は生き続ける。敏雄の戦後そのものだったのだろう。

 どこか自暴自棄の、残されたものの暴力的な心理を感じる。

 『望郷―山口晃展』(2012.02.11-05.13 銀座・メゾンエルメス)に於いて「正しい、しかし間違えている/2012」という床の傾いた部屋様の作品があった。

「通常私たちは、建物の垂直軸と重力方向が等しい環境に居る訳ですが、この二つがズレると目眩や、甚だしい場合は転倒を引きおこします。これは経験による体力維持が、知覚に依る体力維持を阻害する為におこるもので、経験上の正しさが不適合につながった訳です。ー山口晃」

 わたしたちの経験、知識の何が正しいかなど当てにならないときがある。掲句は、読者の経験上の「俳句」とのズレを敢て生じさせているのだろうか。不思議な魅力がある。


35. ()る春の藁人形と木の火筒(ほづつ)

 犬神と眞神。はじめて『眞神』の存在を知ったとき、どこかおどろおどろしいタイトル名は死国のイメージがあり『犬神家の一族』(横溝正史)を彷彿した。『犬神家・・・』も昭和の傑作であるし、村、復員兵、戦争、言い伝え、血族、などの共通項目は多い。

 藁人形が「菊人形」である方がより近いけれど、掲句は特に『犬神家・・・』のイメージに近い。鉄砲を意味する「木の火筒」は猿蔵(犬神家の下男)が護衛のために持っていてもおかしくない。犬神佐清(すけきよ)、青沼静馬がビルマ出征前の軍事訓練ということも考えられるし、藁人形が佐清と静馬の運命を入れ替えた呪術のものとして登場していることも想像できる。

 犬神と眞神・・・確かに一文字違い。犬神から点をとって大神(オオカミ)、山の神聖な神であるオオカミとなる。「大口眞神」のオオカミである。『犬神家の一族』はオオカミを意識しての犬神という姓なのだろうか。

 作者の手を離れた後の作品は読者に懸ってくる。

 「然る春の」が、漠然としすぎている。それが尚更、「藁人形」と「木の火筒」に物語を与えているように思える。


36. 正午過ぎなほ鶯をきく男


 戦後俳句を読む (7 – 1)―「音」を読む―  三橋敏雄の句をご参照ください。


 正午過ぎなほ鶯をきく男

 掲句、至る所で鶯が鳴いている光景が浮かぶ。けれど、この男、鶯を本当に聞いているのであろうか。「正午過ぎなほ」これは、小原庄助さんを兼ね備えつつマニアックでマイペースな男である。午前中からずっと鶯の声を聞き、午後になってもまだ聞いている。「きく」と書いてあるが、この男、実は「聞いていない」と解釈する。それは、「なほ」からくるもので、尋常ではないことを想わせ、想像力が働く。男に焦点を当て、この男が別の事、言うなれば人生について思い巡らしていると想像する。往々にして三橋作品から音が聞こえない気がする。

 凩や耳の中なる石の粒 (*1)  『しだらでん』

 梟や男はキャーと叫ばざる

 すさまじい凩の音よりも耳に入った石粒が気になる。男はキャーと叫ばない。やはり筆者に「音」は聞こえてこない。白泉は、「玉音を理解せし者前に出よ」「マンボでも何でも踊れ豊の秋」「オルガンが響く地上に猫を懲す」「鶯や製茶會社のホッチキス」などの音から起因する句、それも一拍ずれているような音が聞こえる気がするが、敏雄の「音」は消えている。極め付けなのは、下記の句。

 長濤を以て音なし夏の海  『長濤』

 映画の中でミュートをかけたように意図的に数秒間「音」が消え、映像だけが流れる効果に似ている。敏雄は、唯一、音楽が苦手だったようだ。「やはり」と思ってしまう。それが俳句の上で効果となっている。「音」を読者に届けるのではなく「言葉」による音の想起を促している。ひとつの物音も俳句を通し読者に想像させる力を持つのである。欲しいのは言葉、そして俳句ということか。

 「鶯をきく男」、ウィスキーグラスを片手にただ遠く流れた時間そして人生を想っている気がしてならない。

 李白の詩がある。


 『春日醉起言志(春日 酔より起きて志を言ふ)』(*2)

 處世若大夢  世に()ること 大夢の若し

 胡爲勞其生  胡爲(なんすれ)ぞ 其の生を勞する

 所以終日醉  所以(ゆゑ)に終日醉ひ

 頽然臥前楹  頽然として前楹に臥す

 覺來眄庭前  覺め來りて庭前を(なが)むれば

 一鳥花間鳴  一鳥 花間に鳴く

 借問此何時  借問す (いま)は何の時ぞと

 春風語流鶯  春風 流鶯に語る

 感之欲歎息  之に感じて歎息せんと欲し

 對酒還自傾  酒に對して()た自ずから傾く

 浩歌待明月  浩歌して明月を待ち

 曲盡已忘情  曲尽きて已に情を忘る


 「鶯をきく男」の句は李白の詩そのものである。マーラー(*3)はこの李白の詩を原作とし連作歌曲『大地の歌(Das Lied von der Erde)』を1902年48歳のとき作曲している(*4)。そして敏雄は、1969 (昭和44)年49歳のときに掲句を得た。俳句形式となった17音は読者の脳波に変換され響き渡るのである。李白をもとにマーラー、敏雄と古典は永遠に人を酔わせ新たな名作を生む力がある。

 敏雄は、永い船上勤務で、ひとり、遠く陸を想う時間を過ごしたであろう。「なほ鶯をきく男」はやはり酒を呑みながら世をながめている男であったか。鶯の鳴声(「なお鳴く鶯」すなわち「老鶯」であろう)は、敏雄の中で静かに消されている気がする。


*1)ちなみに白泉に「木枯や目より取出す石の粒」がある。

*2)李白(701-762年)『李白詩選』(松浦知久訳/岩波文庫)

*3)マーラー(Gustav Mahler, 1860 – 1911)

*4) 1986年サントリー・ローヤルのCM

http://www.youtube.com/watch?v=NSlVsnMbZ48)に『大地の歌Mov. 3』(http://www.youtube.com/watch?v=lb9KnrrvDc8)が使われた。)


37. 共色の青山草に()る子種

 「青山草」とは、東京・青山墓地あたりに生えている草、青山・草月会館の隣りの高橋是清公園に生えている草、青山という地に生えている草ということも考えられるが、「青/山草」という切り方で青い山草と読むのがよろしいように思う。山草とは山に生えている草、あるいは裏白(ウラジロ)というシダ科植物の別名である。このウラジロが名前からして妙な雰囲気である。そもそもウラジロとは、正月飾りに使うもので、注連縄、ミカンの下に垂れ下げるのはウラジロと決まっている。その由来は、「裏が白い=共に白髪が生えるまで」という意味だという。そこに子種を放出する。これは、日野草城『ミヤコホテル』に対抗する解釈ができてしまう。いいのだろうか。

 驚くことに、後の敏雄夫人の句に

 帯どめと同色の草春の園  庄野孝子 (「断崖」昭和36年6月号)

があることを発見した。似ている。巨匠、大いに初学の子女の句と似ている。 いいのだろうか。

 労働者の句とも読める。ミレーの『種まく人』のように大地に放出する力強い労働する男の姿。「放る」というだけでとても力強いのだが、それを「共色の青山草」として、「萌え」な柔らかい雰囲気にするところなど、本来、バーのコースターの裏にでも書いてポケットに忍ばせるような句だという気がするのだが、『眞神』に収録されているのだ。

 チチハハへのセレモニーだけでなく、野を駆けて放出し、老いていく敏雄がいる。それが次回の句である。


★―13深谷義紀【成田千空】― 「獣」を読む ―  

 雄の馬のかぐろき股間わらび萌ゆ

 今回のテーマは「獣」である。しかしながら千空の句集をめくっても、獣を真正面から捉えた作品はほとんど見当たらない。

 例えば、獣たちの代表的行為である「冬眠」の作例でも、

 遠山とまだ冬眠の猿田彦   『白光』

といった詠みぶりであり、リアルな獣の姿からはおよそ程遠い。

 けれども、もう少し広く「動物」(但し虫・鳥・魚などを除く)という視点で眺めてみると、次のような作品が目に付く。

 耕牛の底びかりして戻りくる    『地霊』

 秋風の羊ごつごつ闘へる      『人日』

 三尺は跳ぶ闘鶏の始めかな     『人日』

 いずれも農耕のため、趣味のために飼われている動物たちである(2句目は小岩井農場での吟行句)。千空にとっては、野生の動物たちよりもこれらの動物たちの方がずっと親しみ易い対象だったのだろう。

 なかでも着目したのは掲出句である。第4句集『白光』所収。千空らしい骨太で、剛直な詠みぶりである。作品の焦点は、生殖器が存在する牡馬の股間に当てられているが、野卑な印象は全くなく、感じるのは原始的な生命力である。それを支えているのは、下五の「わらび萌ゆ」だろう。

 話がやや脇道に逸れるが、この句を読んで想起したのは、青森出身の版画家棟方志巧の作品だった。共通するのは、おおらかな生命賛歌となっていることだ。

 結局、獣という言葉に込められた野性や凶暴性は千空の作品世界に発見することは難しく、むしろ動物たちが人間の傍で懸命に生きている、その姿にこそ感動を覚えていたのだろう。


2026年1月30日金曜日

【連載】現代評論研究:第22回各論―テーマ:「幼」を読む・その他― 藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、しなだしん、筑紫磐井、北川美美、深谷義紀 

(投稿日:2012年03月23日)

●―1:藤田踏青【近木圭之介】

 ひかり再び閉じ 少年よぎる   平成10年作

 今回のテーマ「幼」の「幺」とは糸の上半分の形であり、糸は絲の半分、幺は糸の更に半分で、細く小さい意であり、それに添えられた「力」は弱く小さい意を示している。それ故、満ち足りない意を含む「少年」もその範疇に入ると考えた。

 この句の「ひかり」とはいったい何を指しているのであろうか。単なる光であるのか、又は希望や光明であるのか。「少年」とは対象であるのか、または作者の内なる存在であるのか。それは作者の視点、立ち位置に関わるのであるが、「再び閉じ」とあるので希望と内なる存在としての少年と考えると、この句の時間の幅が拡がってくると思われる。特にこの句の前後には次の句が置かれている事もその理由となる。

 列島悪の構図 体の穴みな怒り噴く   平成10年作

 ひと夏すぎ 隅の埋まらぬ図残し    々

 社会悪、それへの憤り、自己への不満の残滓、そして失われた希望。それらを全てひっくるめた総称として、かつての「少年」が一瞬心の中をよぎったのではないであろうか。またその「ひかり」には少年が内に秘めたナイフの凶のようなものも含んでいるようだ。それを想起させるのが次の句と詩である。

 銃持った少年青い夏へ引き金を引く   昭和16年作  注①


パレットナイフ 2 抜    注②

Ⅲ 少年は性の倒錯を宿し数年経た 

  どこにも通り抜ける道を持たずに 

  ――いらだちのサラダ私に青い 

Ⅳ 刃のごとく窓に映る河 

  内なる凶 

  沈黙と溶暗


 これらの詩、句を読んでいたらいつしか稲垣足穂の「少年愛の美学」を思い浮べていた。足穂はA感覚(アヌス)の主導性とV感覚(ヴァギナ)、P感覚(ペニス)の補助的存在を指摘する事によって、性の倒錯を包含した少年への感覚を謳いあげていた。

 「V」とは水増ししたAであって、女性とは「万人向きの少年」を云い、V感覚とは「実用化されたA感覚」に他ならない。   (稲垣足穂)

 ここには同性愛とはまた違った「少年」という両性具有的な存在を見ろ事が出来るのだが。掲句の少年もそういった作者の奥底に秘められたデジャビュの様な存在ではなかったのではなかろうか。


注①「ケイノスケ句抄」  層雲社     昭和61年刊

注②「近木圭之介詩画集」 層雲自由律の会 平成17年刊


●―2:土肥あき子【稲垣きくの】、【テーマ:流転】赤坂時代(戦中編) 

 新しき婢が気に入らず春の風邪

 昭和16年(1941)の俳句手帳より2月24日、女主人もすっかり堂に入った暮らしぶりがうかがえる句である。きくのは「春蘭」昭和13年3月号のエッセイでも女中難を嘆いている。戦前の家庭では、家族が多いこともあり、住み込みの女中がいるのは特別ではないとはいえ、その多くは10代の地方から出てきた少女であることを思うと、茶の湯に通じ、都会暮らしの煤煙で足の裏がざらつくことをなにより嫌う潔癖なきくのを満足させるのは至難であったかと思われる。

 句会に吟行にと熱心に続けていた「春蘭」は、昭和15年(1940)戦争のため6月号で廃刊し、10月には東京在住の岡田八千代などとともに、大場白水郎を選者に「縷紅」を創刊する。

 「ホトトギス」虚子選を叶え、「縷紅」にも投句を続け、きくの調を勢力的に模索するなか、昭和16年(1941)1月から昭和17年(1942)4月までが記された俳句手帳には6月1日、大連へと旅立つとある。旅吟は機上から始まり、大連、特急アジア、奉天、北陵、ハルピンと、異国を詠みつくす勢いで手帳に書き記している。この旅行を終え、俳句手帳のきくの作品は数も質も高まりを見せる。

 昭和17年(1942)には生涯のライバルとなる鈴木真砂女と初対面し、翌年には「縷紅」幹事として名を連ね、投句先には赤坂福吉町の住所が記された。

 夏蝶のあるひは低く草の中 「縷紅」昭和17年8月号

 羅やまたその癖の腕まくり   〃

 額の花の上にも道のあるらしく 「縷紅」昭和18年8月号

 俳句への情熱が年ごとに高まるきくのであるが、昭和19年(1944)、用紙の入手困難となり「縷紅」は休刊となる。

 東京では昭和19年(1944)に学童疎開が始まり、日本の敗色も深まりつつあったが、福吉町の屋敷のなかできくのは割合のんきに構え、疎開についても鷹揚だった。しかし、昭和20年(1945)3月10日以降のある事件によって、疎開の覚悟を決めた。それは、隣の黒田邸の森から早朝夥しい数の鴉の群れが一斉に下町方面へと飛び立ち、夕方また一斉に戻ってくる光景を不思議に思っていたところ、大空襲に襲われた下町へ餌をあさりにいくと知り、その餌となっているもののおぞましさに居ても立ってもいられなくなったのだ。

 4月にきくのは信州の小諸から6キロほど入った平原という浅間山麓の農村へ疎開する。農家の一隅にある離れを借りていたということだが、この間の俳句はどこを探しても出てこない。随筆集『古日傘』で一編だけ疎開時代の思い出を書いた文章があり、所用で隣村への一里あまりの道すがら、雑木紅葉が見事であったとあるから、いたって気楽な生活を送っていたかと思われる。

 赤坂福吉町の家は昭和20年(1945)5月25日の東京大空襲であっけなく焼失した。


●―4:飯田冬眞【齋藤玄】

 みどりごをつつみに来るよかげろふは

 昭和50年作。第5句集『雁道』(*1)所収。

 「男」の項でも少し触れたのだが、昭和25年を境に斎藤玄は子供の句を作らなくなった。そして、昭和28年には、主宰誌である「壺」の結社活動から離れ、俳句を作ること自体を中断してしまうのである。その原因として玄本人は結社の同人たちが作句精進を怠り、互いに足の引っ張り合いや陰口をたたきあう浅ましさに嫌気がさしたことをあげている(*2)が、それは建前に過ぎないだろう。もちろん、昭和20年の終戦直後に「壺」誌を復刊、文字通り家財をなげうって俳句の革新に精魂をこめ、結社制度の改革にも心血を注いできた玄にとってみれば、新しい俳句を作ることもよりも結社内の地位と権力を得ることに明け暮れる弟子たちに幻滅したのは事実だろう。しかし、昭和26年に北海道銀行に入行し、主宰誌の発行所であった函館の自宅を引き払ったのは、すくなからず、経済的な理由もあったに違いない。その遠因と思われるのが、小児麻痺となった長男の治療費を稼ぎ、家計を支える父親の役割を果すためではなかったかと仮説を述べた。

 齋藤玄の長男は昭和21年に生まれたらしい。語尾を濁すのは、玄は最初の妻節子との間に二女一男を儲けており、長女や次女誕生の際にはそれぞれ前書付きでその喜びの句を連作として残しているのだが、長男誕生の際にはそれらしい前書は見当たらないからだ。句の内容から推察できるのは次の一句だけである。

 俳諧に霰飛び散り長子得し 昭和21年作 『玄』

 作句時の昭和21年は俳句史に残る大事件が起こった年である。上五中七の〈俳諧に霰飛び散り〉は、おそらく桑原武夫が昭和21年に雑誌『世界』の9月号に発表した「第二芸術」論を受けて、俳壇が受けた衝撃を象徴的に把握した表現だと思われる。そこに下五〈長子得し〉をつけたのは、齋藤玄一流のエスプリに思われてならない。この〈長子得し〉は字義通りに長男が生まれたという意味だろうが、桑原の論に激烈に反論した中村草田男の代表句〈蟾蜍長子家去る由もなし〉の「長子」を俳味として響かせているようにも思う。俳人たちが大騒ぎしている一方で、自身は長男を得たということを俳風仕立てにしただけのもので、感情は抑制されている。長男を得た喜びを読み取ることはできない。

 落雲雀子は雑草にもつれを    昭和25年作 『玄』

 麻痺の子の矢車夜半を鳴り出づる   昭和25年作 『玄』

 梅天や麻痺の子持ちしわが惨事  昭和25年作 『玄』

 麻痺の子を眠りに落す木下闇  昭和25年作 『玄』

 麻痺の子の行水あはれ水多し  昭和25年作 『玄』

 一句目は昭和25年に発表された「麻痺童子 わが長男左膊小児麻痺にて不随 十三句」の冒頭の句。〈落雲雀〉が空から垂直に降下するさまと雑草に足をとられて転ぶ幼子の姿をうまく重ね合わせており、長男を取り巻く家族の人生が急降下してゆくことまでも暗示させている。

 二句目は自註の記述から見て行くことにする。 

四歳の長男が小児麻痺で左膊を不随にした。不治と聞き悲しみは深く、男の節句が来ても僕は悶々とした。夜の矢車の音にいっそう悲しみは深い。(*2)

 この自註の記述によって、ようやく昭和25年当時の長男の年齢が判明し、生年が昭和21年であることがわかる。全句集の年譜にも長男のことはいっさい記述がない。〈矢車〉は鯉のぼりの竿の先端に取り付けられた矢の形をした輻(や)を放射状に取り付けたもの。端午の節句を迎えても不治の病に取りつかれた長男の将来のことを思うと悶々として喜べなかったという玄の深い悲しみが〈矢車夜半を鳴り出づる〉ににじみ出ている。矢車のカラカラという音が長男の宿命の重さを感じさせて切ない。深い哀感が伝わってくる。

 三句目は、玄にしては珍しく自己の内面を吐露した句。しかも〈わが惨事〉などという自己憐憫にまみれた言辞は抑制もなく、子を慈しむ気持ちの片鱗すら見えず、詩として成立していない。

 四句目は障害を持った子を介護する苦労がしのばれる句。〈木下闇〉の涼しさで〈麻痺の子〉のあどけない寝顔が見えてきて救われる。

 五句目は〈あはれ〉に父親になりきれていない作者の独善性が露骨に表われており不快である。幼子が不如意なからだで行水にはしゃいでいるならば、なぜ一緒に裸になって幼子を抱きしめて水まみれになれないのか。

 みどりごをつつみに来るよかげろふは

 そして25年間詠むことのなかった子供の句である掲句を見てゆくことにする。

 飯田龍太はこの句について次のように誤読する。 

眺める側のよろこびが不安を上廻つて微笑にかわり、そのこころをかげろう包む。それなら対象に自他の区別をつける必要はあるまい。(*4)

 みどりごを眺めていた玄の心中に龍太が言うような「不安を上廻」る「よろこび」など、ほんとうに湧き上がっていたのだろうか。〈かげろふ〉に包まれる〈みどりご〉に麻痺童子の長男の姿を幻視したからこそ、「かげろうが魔女の手のように思えて、しきりに不安だった」(*5)と記したのではないか。幸せは一瞬に過ぎず、苦痛は永続する。玄は長男の人生を通して、その苦さを知り尽くしていたはずだ。

 幸せなものを見ても過去の経験に引きずられて不安に取り込まれてしまう人間の愚かさを描いた句であると私は思う。


*1  第5句集『雁道』 昭和54年永田書房刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載 

*2  齋藤玄年譜 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載 

*3、5  自註現代俳句シリーズ・第二期16『斎藤玄集』 昭和53年 俳人協会刊

*4  飯田龍太 『雁道』の秀句 『俳句』昭和55年6月号所収 角川書店刊


●―5:堺谷真人【堀葦男】

 鉄のけものら橋ゆすり過ぎ酢を抱く子

 『機械』(1980年)所収の句。

 『機械』は第一句集『火づくり』に続く第二句集。1962年夏から1967年秋に至る約5年間の作品から444句を収録している。「機械」「太陽」「渦潮」「蝶宇宙」「母」「赤道草原」「修羅」「水辺」という8章構成の劈頭に置かれた「機械」のこの句およびその前後の作品には、「海程」草創期の葦男俳句の特徴がよく出ている。すなわち大阪から神戸にかけての工場、倉庫、港湾、建設現場などに取材したとおぼしき、産業俳句ともいうべき作品群がそれである。当時の葦男作品は重量感に富むメタリックな形象に満ち、行間には高度経済成長を牽引した様々な機械たちの稼動音や軋みが通奏低音のように鳴り響いているのだ。

 燃える冬霧機械ぞくぞく被覆脱ぎ

 機械焦げるにおい夕空薔薇を溶かし

 ルビーにまさる夜の起重機の灯を動かす

 重い上げ潮 動くものみな装甲され

 さて、本稿冒頭の句である。

 積荷を満載したトラックや建設用重機が陸続として渡る橋。可載重量ぎりぎりの荷重を受けて揺れる橋梁。ふと視線を移すと、騒音と土埃が立ちこめる橋のたもとには、お遣いの帰りなのであろう、酢の壜を抱いて立つ子どもの姿があった。

 荒々しい車列の傍らにぽつんと点描された子どもは一見、寄るべなく痛々しい。しかし、彼もしくは彼女は単に無力な、庇護すべき弱者なのであろうか。否、そうではあるまい。酢の入った壜を両の手にしかと抱く子どもは、れっきとした家事労働の一翼の担い手なのであり、「酢を抱く」という構えはその子の責任感の表れに他ならないからである。

 そういえば、赤塚不二夫の代表作「天才バカボン」にこんなギャグがあった。ママから豆腐を買って来るよう頼まれたパパが用件を忘れないよう「トーフー、トーフー、トーフー・・・」と口ずさみながら道を急ぐ。が、いつしか逆転して「フートー、フートー、・・・」となり、最後は文具店に飛び込んで「封筒ください!」と叫ぶのである。

 恐らくこのギャグの背景にあるのは「お遣いという役割を通じて社会化してゆく子ども」という一種の成長モデルである。幼児は大人や年長者の庇護を片務的に必要とする存在であり、原則的にお遣いを任されることはない。一方、幼児期を脱した子どもはお遣いを頼まれるようになる。いや、初めてお遣いを頼まれたときに人は幼児期を卒業するのだともいえよう。年齢や体格、IQ検査で測られる精神年齢などはなるほど子どもの成長のメルクマールとして重要であるが、親や年長者の側が子どもに何を任せるかという観点も実は同じくらい重要なのである。

 橋のたもとの「酢を抱く子」は無事に家に帰り着いたであろうか。


●―8:岡村知昭【青玄系の作家】(欠稿)


●―9:しなだしん【上田五千石】

 涅槃会や誰が乗り捨ての茜雲   五千石

 第四句集『琥珀』所収。昭和五十八年作。

 五千石はこの句の制作年で五十歳。中年も終りの時期で、俳句の面でも成熟期にあたり、今回のテーマ「幼」とは無縁にも思える。

     ◆

 この句の季語である「涅槃会」は、釈迦入滅の忌日の陰暦2月15日に行う法会。寺によっては月遅れの3月15日に行なわれているところもある。だが実は、釈尊が入滅した月日は実際には不明で、2月15日は中国で決められた日付であるようだ。

 掲出句は一見美しい茜雲の句で、詩情もあるように感じる。読者によっては渋い句、と感じる向きもあるだろう。「誰が乗り捨ての」は、季語の「涅槃会」から釈迦を思い浮かべるかもしれない。ひいては亡くなった人をイメージする人もいるだろう。

     ◆

 ところで、掲出句には“もの”として認識できるのは「雲」と、空間としての「涅槃会」である。物質的な“もの”はない。ものに拠らない詩は、どこか幼さがあるように思う。

 だが、この句の幼さはそれだけではない。「乗り捨ての」の部分だけに着目してみると、「乗り捨て」ということは、乗っていた誰かが去った、ということになる。掲出に幼さを感じるのはこの「雲に乗る」という発想かもしれない。この発想は古典的なもので、雲に乗る、というのは男がずっと持ち続ける詩心とも言えるのではないだろうか。

 そういう意味でも季語である「涅槃絵」が、単なる古典的な男の詩に陥るのを防ぐ役割を果たしている。

     ◆

 娘の日差子氏によれば「俳句をやると幸せになれるよ」が五千石の口癖だったという。俳句を信じていた五千石であろう。母に全幅の信頼を寄せる子のように、俳句を信じる。「信じること」はどこか無邪気だ。幼さは大の男にも、男の作る詩にも潜んでいる。


●―10:筑紫磐井【楠本憲吉】、【テーマ:妻と女の間】 

 鳴らすコップが妻の弔鐘虹這う窓

 逆さに伏せたコップと鐘---コップに触れる響きと鐘の音、特に弔鐘という限り悲しい音色であるはずだが、むしろその配合を楽しんでいる節がある。「弔鐘」は憲吉自得のことばであろう。

 くりやごと(台所の仕事)が家庭の平安の象徴であるとすれば、楠本家におけるそれは、夫婦の間の修羅により地獄と化している日常の一齣である。妻にとっては日々の浮気の絶えない夫を持って、黒いベールを纏った未亡人の心境であったろう。虹すら、蜈蚣のように窓硝子に貼り付いている(昔、虹は貝の一種の吐く気だと思われていたからさほど間違っているわけではないが)。

 けしからぬのは、ことの責任はすべて夫にあるのにもかかわらず、苦々しく思いながら楽しんでいる点である。明るいリズムでこんなに詠まれたらたまったものではない。

 そこで無言の妻に戴冠カンツォーネ

 これもかなり妻を侮った句。妻が無言となるには理由があるのだが、---そしてそれは夫の行為に帰責するのだが、そうした反省はない。「戴冠」とは「乾杯」に通じる趣がある。だから「お前さんは女王様だよ」と言わんばかり。カンツォーネはイタリアの歌曲であるが、そうした小芝居の背景に朗々と歌われるのにふさわしい俗曲だ。

 このような倫理的欠陥があるにも関わらず、リズミカルな詠みぶりは魅力的である。どんな困難があろうと、積極的、肯定的な態度で望めるところが憲吉の持ち味であろう。必ずしも575にこだわらず、特に上5に字余りを盛んに用い、日常のディテールをゴタゴタと盛りこむ。にもかかわらず独自のリズム感があるから不快ではない。「そこで」などという詩歌の冒頭にはあり得ない言葉を盛りこんで憲吉の世界に導入する。お前は何ものだ、と言いたいが、きっと俺は本物だ、と答えるにちがいない。

 憲吉の句を読むには憲吉になりきらないといけない。共感しないといけない。そして憲吉になりきると---心地よい。ちょっとしたピカレスクロマンであり、誉められたことではない。誉められないが止められない。これが憲吉の秘密である。


●―12:北川美美【三橋敏雄】【テーマ:『眞神』を誤読する】⑱―㉕

⑱顔古き夏ゆふぐれの人さらひ

 「人攫い(ヒトサライ)」という言葉を聞かなくなって久しい。「ヒトサライが来る」と言われていた頃、それは本当のモノノケであると信じていた。それは誘拐犯でもあり、鬼のような形相で私を抱え、別の世界(恐らく黄泉)へ連れて行くのだと思っていた。そうでなくても暗闇と夜のトイレ(御手水、御不浄という方がふさわしい)が怖くて仕方がなかった。その怖さが最高潮になるのは、自宅までの商店街から路地50メートルほどの夜道だ。外灯付の電柱が3本あるが、いまだに心細い灯りである。路地の入口に御稲荷様と庚申塔を備えた機織工場がある。夕方になると小柄で健脚な男性が袈裟と頭巾を着装し太鼓を鳴らながら足早にやってくる。今から思うとそれは日蓮宗(あるいは新宗教)の唱題行脚修行だったようだが、それは別世界の入口でもあった。ソロバン塾の帰りにその闇を通らねばならない。目を固く閉じたまま、ひた走る、ただただ怖くて走る。ヒトサライという神隠し、モノノケが本当に出ると信じていた。

 最近になり、シャッター街となった通りから同じ路地を日没後に歩いた。庚申塔は今もあるが、機屋の工場からは何の音も聞こえず、道沿いの子沢山だった牛乳屋さんも顔なじみだったファスナー職人のおじさんも亡くなり、空地になっている土地もある。向こうから外套着の男性らしき人が歩いてくる。街燈の下ですれ違っているのに顔だけが見えない。姿は見えるが、本当に顔だけが何も見えないのだ。暗がりでは人の顔が見えない。都心では考えられない光景だった。この道にはやはりモノノケが潜んでいると改めて確信した。

 「ヒトサライ」について調べてみると、人が忽然と消えるような事象を「神隠し」と片付けていたが、戦後、身代金請求や誘拐報道が生々しくテレビ放送されるようになり、具体的に「ヒトサライ」という表現が定着していったという説があるようだ。過疎地域の子供、若者は船乗りや鉱山労働者、農奴、売春婦などに実際に身売りされたという事実もあり、いわゆる人柱といわれた社会問題があった。平成になり一気に表面化した深刻な「ヒトサライ」は、1970年頃から80年頃にかけての北朝鮮による日本人拉致多発だろう。今も未解決問題であることが報道されている。実際に「新潟の海に行くと、ヒトサライに逢う。」と本当に言われていた。モノノケは本当に私たちの生活の中に実在し、『眞神』が生まれた時代には恐ろしい事件が多発していた。そして現代にもある「ヒトサライ」は、社会の暗闇のような恐ろしい事件であることが多い。

 人が忽然と姿を消すことは、敏雄の中にある、自分自身のリセット願望とともに敏雄自身の何かの消失からきている言葉なのかもしれない。

 ここでキーワードとなるのは「顔古き」という措辞である。顔が古いというのは「年老いている」という意味合いと「顔なじみである」という解釈があるかと思う。幼少経験から解釈すると、「顔古き」は「顔なじみ、知っている人」ということかと解釈できるのだが。「顔新しき」としてみると、「ヒトサライのくせに新顔じゃないか」と攫われる側が想うということになる。

 掲句を見ていると、彼の世にいる牛乳屋のおじさん、ファフナー作りのおじさん、そして日蓮修行僧が蘇る。今も暗い路地を通ると、そういうおじさんたちが、今、どこか別の異界へ連れていこうとする姿をふと想像する。怖さの中にどこかファンタジーがある。

 『眞神』には当時の事実に裏付けされた事象がありながら、時代に読みづがれてきた神話、童話の世界がある。逆に神話、童話は、歴史の事実を元に語り継がれてきたことであることにも気が付くのである。


⑲鬼やんま長途のはじめ日当れり

 前句の「ゆふぐれ」から「鬼やんま」へと句が移る。トンボである。

 大方の読者が「負われて(背負われて)見たのはいつの日か」と想像するのが容易いだろう。ヤンマは、大形のトンボの総称で、羽の美しい意で「笑羽(エバ)」からとする説、四枚ある羽が重なっていることから「八重羽(ヤエバ)」が転じた説などの諸説がある。「鬼」がついて「鬼やんま」。巨大トンボの別称だが、鬼のような厳めしい顔つきが特徴であり、黒と黄色の段だら模様を、鬼が履いているトラのパンツに見立てたことに由来している。

 三句切れとなっているが、中七の措辞「長途のはじめ」とはなんだろうか。「長途」とは長旅、遠路のことであるが、明治時代にはじまった修学旅行は、「長途遠足」なんていっていたらしい。「鬼やんま」の生体を調べてみると、成虫になるまでの期間が約5年。まさに長旅である。旅のはじまりが、めでたいような、祝福されているような感じだろうか。鬼やんまは、共食いまでもするような肉食(ガ、ハエ、アブ、ハチなどを空中で捕食)であることも、練習船の事務局長として数えきれない長旅を経験した敏雄の船内の経験をふと想像してしまう。

 さてここからが本筋の深読みの世界だ。「途」から「冥途の世界」という連想もあるだろう。三途の川の入口に「鬼やんま」が出迎えているのである。冥途には流れの速度が異なる三つの瀬があり、生前の業(ごう)によって「善人は橋」「軽罪の者は浅瀬」「重罪の者は流れの速い深み」を渡ると考えられており、「三瀬川」と呼ばれている。そこに肉食の鬼やんまが日に当たる石にしがみついている光景は、ありえる世界だ。

 だいたいタイトルが『眞神』というのが、『里見八犬伝』のような大スペクタクル伝奇をも思わせる。けれど、敏雄はそれを俳句という最短の文芸に収め、総句数130句でまとめている。加えてこれは小説でも連載でもなく、句集というのが畏れ入るのである。

 「空想の世界を詠む」ことは俳句の禁じ手であるといわれている。『眞神』は、事実に基づいた景を見せながら人の心にある異世界を引き出すという手法が見える。


⑳蒼白き蝉の子を掘りあてにける

 「鬼やんま」の虎の子パンツ柄から一気に「蒼白き蝉の子」へと生のあわいを感じさせる。

 蝉の穴の句(7句目)から実際に、蝉穴の幼虫そのものを掘り当てたのである。

 数年を地中で過ごした蝉の幼虫はこの世の風景をまだ知らない、蒼白い、無垢な命である。まるで、男子が赤子をはじめて抱き、生命の尊さ驚いたかのようだ。下五の措辞「掘り当てにける」から、井戸を掘り当てたように、幸運な出来事だったのである。

 この句以降(21句目~24句目)の言葉に「動き」「運動」がある句が配列される。

 蒼白き蝉の子を掘りあてにける (掘る)

 草刈に杉苗刈られ薫るなり (刈る)

 蛇捕の脇みちに入る頭かな (入る)

 蒼然と晩夏のひばりあがりけり (あがる)

参考までに、蝉の子(幼虫)が Youtube で見られる。


㉑  草刈に杉苗刈られ薫るなり

 すがすがしい句。

 「刈る」のリフレインと「ka」音(「草刈」「刈られ」「薫る」)が韻を踏んでいる。古い句にみえながら、「刈る」という行為、字面が殺伐とした荒涼感をもたらしている気がする。

 「刈られ」ているのだから作者が刈ったのではなく、草刈作業で誰かが刈った草が山になり、その草山を通り過ぎた光景を思い浮かべる。杉苗と言っているので街中ではなく、多少なりとも山が控えている地域だろう。アレルゲンの要素が沢山ともいえる草山だけれど、掲句をみているだけでマイナスイオンの山の香りとともにストレスから解放された気持ちになる。春から夏にかけての漂う山の香りというのは、杉の香りなのかもしれない。山に囲まれた八王子に暮らした敏雄ならではの郷愁をも感じられる。

 『眞神』の中にはリフレイン、言葉の重なりがある句が多い。以下『眞神』のリフレインの句を挙げてみる。

 鉄を食ふ鉄バクテリア鉄の中

 蝉の穴蟻の穴よりしづかなる

 雪国に雪よみがへり急ぎ降る

 針を灼く裸火久し久しの夏

 帆をあげて優しく使ふ帆縫針

 行雁や港港に天地ありき

 油屋にむかしの油買ひにゆく

 山ちかく山の雹降る石の音

 海ながれ流れて海のあめんぼう

 水の江に催す水子逆映り

 思ひ負けの秋や秋やと石の川

 130句中で10句。リフレイン(重畳法)の句は詩情を高め、リズムを強める効果があるが、理屈っぽさ、滑稽さ、しつこさに陥り、俳句という短詩型の中でのリスクも大きい。『眞神』ではリスクのある手法が多く収録されているのも確かだ。

 以下はリフレイン句として引用される歴代の代表句。

 春の海終日(ひねもす)のたりのたりかな   蕪村

 梅の花あかいは赤いあかいはの   惟然

 露の世は露の世ながらさりながら   一茶

 下々も下々下々の下国の涼しさよ   一茶

 山又山山桜又山桜     波野青畝

 ちるさくら海あおければ海へちる   高屋窓秋

 いなびかり北よりすれば北を見る   橋本多佳子

 一月の川一月の谷の中   飯田龍太

 西国の畦曼珠沙華曼珠沙華  森澄雄

 飯田龍太の「一月の」の句は1969年制作となっていたので、『眞神』よりも数年早いことになる。

 『眞神』の中のリフレイン句は、使用する動詞、形容詞に意外性があり型に則しながら無駄がない。また、『眞神』の収録句は、三鬼没後の制作句が多く含まれると思えるが、そこには、新興俳句にみられるコスモポリタン的な詩情とは異なる、俳句形式の中での詩性の型を追及しようとする姿勢も、リフレイン句が多く含まれる要因であったのではないだろうか。俳句の型を超えた交流(吉岡実、高橋睦郎など)が始まるのは『眞神』発表以降頻繁になる。他詩型が敏雄に気づき始めたのである。

 掲句は、リフレインの中で、さりげない日常を詠っている。なんでもないこと、当たり前の日常であることが、とても高貴で豊かなことであることに気付かせてくれる句である。


㉒  蛇捕の脇みちに入る頭かな

 伝統俳句的である。確実に「俳句」形式だが、句意がいまひとつわからない。何故「蛇捕」が出て来るのか、なぜ脇道に「頭」が入ってしまうのか。俳句の致命的な短さから、想像の世界へ引きずり込まれる。畦道で車が脱輪し、さらに車体の頭を畑に入れてしまったような思いがする。

 ことわざの「蛇の道は蛇(じゃのみちはへび)」の由来は、「蛇の通る道は小蛇がよく知っている」という説と、「蛇の通る道は他の蛇もよくわかる」という説がある。いずれも同類のすることは同類の者が一番よく知っているということ。蛇捕は蛇の通る道ならばわかるが蛇が通らない道、人の道はわからない。だから道に頭を突っ込んでわけがわからなくなってしまう。というような人生訓のようにも思えてしまうのだが・・・。

 飛んで脳の話。人間の脳の一番根っこには、ヘビの脳(脳幹)といわれる動物の機能中枢がある。爬虫類、鳥類と同じ機能と考えられ、食べる、呼吸をする、排泄をするなど、生きていく上で大切なことを指示する脳。その上に、ネコの脳(大脳辺縁系)と呼ばれる部分があり、喜んだり、怒ったり、悲しんだりといった感情を出す。さらに上に、ヒトの脳(大脳新皮質)が覆うようにある。ヒトの脳(大脳新皮質)は、覚えたり、考えたり、話したりする部分で不完全な部分。生後どのような情報をインプットするかによって、その精度が決められるとされている。ヘビの脳(脳幹)は、動物が生存を続けるのに不可欠な脳であり、自己防衛本能や快感・美意識などの司令塔。すなわち人間は蛇の行動と同じ能力をも備わっているということだ。

 蛇脳を持つ人間である蛇捕が、蛇の通らない脇道(蛇以外は通る)に入ったとき、熊とか、鴨とか、ペンギンに遭遇したとして蛇脳ではなく、ヒトの脳で考えてしまい、熊、鴨、ペンギンの立ち話に頭を突っ込んでしまい、熊は熊の、鴨は鴨の、ペンギンはペンギンの苦しみを知る。しかし、話を聞いてばかりでは、蛇はおろか、何の獲物も得られなかった・・・。蛇捕のプライドが最短で蛇を捕獲することならば滑稽なことである。しかし、そういう「脇みち」も 悪くない一日だ。

 別訳で、精神分析の始祖であるフロイトは夢分析において、ヘビを男根の象徴であるとした。これに対してユングは、男性の夢に登場するヘビは女性であると説いた。蛇捕が蛇を捕獲しにいって、脇道で性的対象を物色して男根を突っ込んでいる姿とも思える。敏雄句は色事的解釈がされることが多い。それは、俳句が大人の遊びであり、面白いと思えるところでもある。

 蛇といえば、タロットカードである。『三橋敏雄俳句かるた』(ナムーラミチヨ画/書肆まひまひ)をようやく購入した(在庫わずか)。あいにく、掲句の蛇捕の句は絵札、読み札に入っていないが、次は蛇捕の句を入れて『眞神タロットカード』をナムーラさんと構想してみたい。その日を占う眞神カード。 脇みちに頭を突っ込むのも悪くないのだ。

 素頭のわれは秀才夏霞   敏雄『靑の中』

 素頭の句から約30年を経て敏雄は脇みちに頭を突っ込んだのだろうか。大人はあえて脇道に頭を入れる時があるのだ。


㉓  蒼然と晩夏のひばりあがりけり

 「ひばり」は、留鳥で、春の繁殖期に空高く鳴く。「ひばり」は繁殖期以外は地上に生活する習性がある。掲句の季節は晩夏。草むらに溶け込み、隠れて地上生活をする「ひばり」が「蒼然と」あがる。荒涼感がただよい、万葉の春の歌とは別のもの悲しさを想う句である。

 ポイントとなる措辞、「蒼然と」というのは、色として蒼いという意味。そして暮れ方を表現する場合に使用される例がある。「蒼然として死人に等しき我面色/舞姫(鴎外)」「蒼然として暮れ行く街の方/あめりか物語(荷風)」などの文学的使用例がある。夏の終りの疲れとともに、青みがかった空にあがる「ひばり」の姿は、命の小さな点を示唆しているように感じる。

 21句目~24句目の言葉に「動き」「運動」がある句の配列について触れたが、それらの句にはどれも「命」が宿る。点のような命が言葉をもって動き出す。

 『眞神』収録順にその動きを記号で示してみたい。

鬼やんま長途のはじめ日当れり 

――― 冥途かもしれない長途という長い道の端に停まる「鬼やんま」という棒状の命。(→)


蒼白き蝉の子を掘りあてにける 

――― 土に開いた蝉の穴を垂直方向に下に指を伸ばし蒼い命がそこにある。(↓)


草刈に杉苗刈られ薫るなり

――― 垂直に伸びる草という生命を水平に刈る。(↑→)


蛇捕の脇みちに入る頭かな 

――― 脇みちは、正道よりも曲がりくねり距離があるように思える。蛇行する命を追いかける蛇捕。(~~~)


蒼然と晩夏のひばりあがりけり

――― 地上からひばりという迷彩のようにして生きる命が上へあがる(↑)


 敏雄の句は俳句であることは間違いなく、さらに、あらゆる角度から検証にも成り立つ確固たる「純粋俳句」であることを実感する。

 西東三鬼門として敏雄と同門である白石哲氏が去る二月二十七日鬼籍に入られた(享年87歳)。カルチャーセンターという当時新しい分野(産経学園と聞いている)に高柳重信、三橋敏雄を講師として招き、美作時代の阿部青鞋との交流、津山出身の三鬼の墓守、「西東三鬼賞」の創設、三鬼の顕彰にご尽力された。敏雄も三鬼賞の選者として参加していた。白石氏はおそらく三鬼門を名乗る最後の方かと思う。幾度となくやりとりをしたが、「三橋敏雄を超える俳人は今後も出てこないだろう」と敏雄の名前が真っ先に出ていた。敏雄が三鬼門であるならば、弟子は師の教えを受け継ぎ発展させることが使命とされるが、敏雄は、純粋に俳句を追い求めることに翻弄した。上記の句をみてあらためて痛感するばかりだ。

 三鬼門として敏雄と親交のあった白石哲氏のご冥福を心からお祈り申し上げる。


㉔   霧しづく体内暗く赤くして

 確かに内視鏡で見たことのある体の中は赤くて暗い。けれども、ここではあえて、「して」という表現である。「暗く」「赤く」しているのだ。

 前句「蒼然と晩夏のひばりあがりけり」からの繋がりをみてみると、蒼然という「ぼんやり」と暗くなっていくような夕暮が想像できるが、それが掲句により「どっぷり」と暗く、そして夕焼の赤がもっともっと「赤々」としてくる。グラデーションが濃くなっていくイメージだ。

 戦後の敏雄句のイメージには「赤」がつきまとう。

 敏雄句の「赤」について、戦後俳句を読む(第6回の1)テーマ:「色」参照。

 少年ありピカソの靑の中に病む 『靑の中』

を詠んだ敏雄が、戦後とともに赤にこだわっていく。

 掲句で気になるのは、「胎内」とは書いていなく「体内」である。この句では、霧のような小さな命の粒となった我の胎内巡りのように見える。しかし「体内」となれば、その読みは、いくつかの別の見方がでてくる。

 暗く赤くなる。もしそれが作者敏雄自身のことであれば、体の中が充血する、ということでもある。『眞神』冒頭では鬼が赤くなった。暗く赤くなったのは怒っているあるいは興奮しているからだろうか。そして体内が赤く充血したために霧がしづいた、という読みであれば、精子を放出したとも読めてくる。

 敏雄の表現として、「赤い」のではなく「赤く」なるのが特徴である。

 鬼赤く戦争はまだつづくなり   『眞神』

 霧しづく體内暗く赤くして

 産みどめの母より赤く流れ出む

 またの夜を東京赤く赤くなる   『鷓鴣』

 父、母がいて自分という命をもらう。生まれたことも死ぬことも選ぶことはできない。自分はただ霧がしづくような小さな命であり、体内を暗く赤くしながら生きる物体なのである、というようにも思える。

 グラデーションが濃くなっていくように戦後の昭和がどす黒い赤になっていき、霧というものが油のように思えてくるのである。


㉕   生みの母を揉む長あそび長夜かな

 母から生れた命が成長し「母を揉む」という「長あそび」をしている長夜である。

 あえて「生みの母」としている。乳母、あるいは継母ではない、直系の母である。「長あそび」をするのであれば、やわらかいからこそ揉むのだろうか。「生みの母」はやわらかい、乳母、継母ではなく、「生みの母」だからこそできる「長あそび」。何もかも許してもらえる夜長なのだ。女ではややこしくなり「長あそび」ができない、いや、「生みの母」としながら、あえて女のことなのかもしれない。敏雄句にとっての女性はすべて母なる体をもつ聖母のような存在であったのかもしれない。

 『眞神』の中の母とは何であろうか。

 母ぐるみ胎児多しや擬砲音

 生みの母を揉む長あそび長夜かな

 母を捨て犢鼻褌(たふさぎ)つよくやはらかき

 産みどめの母より赤く流れ出む

 秋色や母のみならず前を解く

 ははそはの母に歯はなく桃の花

 大正の母者は傾ぐ片手桶

 夏百夜はだけて白き母の恩

 母を女性としてとらえた句、正しくは、女性を母として捉えているという方が的確かもしれない。母の句に対しての考察はまだ時間がかかりそうだ。

 ようやく『眞神』村に春が来た。敏雄句と真剣に向き合って1年になる。振りだし戻っているような気がしないでもない。狼信仰のある『眞神』山(仮称)。登山道の入口にある神社の宮司は水没した村の学校に住んだ校長家族の長男にあたる。烏天狗を参拝し改めて『眞神』考を続けよう。


●―13: 深谷義紀 【成田千空】

 をのこ子の小さきあぐら年新た

 句集「地霊」所収。

 この句について、千空は自ら次のように語っている。

 「当時の田舎の正月は旧正月で、新暦では二月に入ってからですから、立春も近く、新しい年は即ち春、という気分がありました。戦後の乏しい食生活でも、正月だけは膳にあふれるほどの食べものがつくられて、祝いました。濁り酒も豊かで、有難く楽しい一日でした。(中略)戦後のすこやかな情景です。親類の男の幼な子が囲炉裏の横座にすわって、あぐらをかいていました。いかにもたのしくめでたく、新しい年を迎える焦点となりました。」(「俳句は歓びの文学」(角川学芸出版)より)

 終戦後間もない時期の、津軽の旧正月の光景が、余すところなく描かれている。雪深い青森の農村生活はただでさえ厳しく、加えて戦後の混乱がまだ収まりきらない時分である。日常はギリギリの暮らしを余儀なくされていた筈だ。しかし(旧)正月は特別である。文字通りハレの祭事を寿ぐ気分が横溢している。集った親類縁者たちの明るい笑い声が聞こえてくるようである。余談になるが、「濁り酒も豊か」と書いたところは、いかにも酒を好んだ千空らしいと思い、微笑を禁じえなかった(ちなみに青森では自家用に濁り酒、即ちどぶろくを作ることが盛んに行われた)。

 話が脇道に逸れた。掲出句に戻ろう。句の対象は親類の幼児である。その子のあどけなさと大人びた仕草の胡坐座りというギャップが千空の目を引いたのである。上記において千空はそこに旧正月の一層のめでたさを感得したと述べているが、それだけではなく、その子が生き抜いていくであろう未来、或いは少しずつ確かなものになりつつあった戦後復興への期待もその背景にあるように思えてならない。だからこそ、正月のめでたさもひとしおなのである。


2026年1月16日金曜日

【連載】現代評論研究:第21回各論―テーマ:「老」を読む・その他― 藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、岡村知昭(今回欠稿)、しなだしん、筑紫磐井、北川美美、深谷義紀

(2012年3月2日・9日)

●―1:近木圭之介の句―「老」を読むー/藤田踏青

失イツクシ。蝶残ル

 平成6年の「層雲自由律2000年句集」(注①)所収の作品である。この年には圭之介は82歳になっており、既に老境に入っている。失ったものは何か、自己の人生に於けるものか、現存在としての眼前の状況か、それともこの世界そのものへの洞察か。色々と想像できるが、そこにはハイデッガーの「現存在」の存在構造としての時間性を認める事ができる。掲句の真ん中に置かれた句読点は、上句の時間性と下句の現存在を示すものであると共に、時間という一般的には「過去・現在・未来」という不可逆的方向性を持つという認識への切断をも意味していると考える。残った蝶は現存在であると共に未来をも示唆しており、更に失われた過去へも回帰してゆくものであるから。つまり、ハイデッガーの述べている「根源的な時間とはそれ自体で存在するものではなく、現在から過去や未来を開示して時間というものを生み出す働きのようなものである。また現在もそれ自体で生起するのではなく、『死へ臨む存在』としての我々が行動する(あるいはしない)時に立ち現われるものである。」(注②)という事に通じるものがある。その時間性に関する句をあげてみよう。

 日付けのない暦背負って逃亡しようか   平成1年作   注③

 月炎える 私未来図どうあろうと     平成3年作   注③

 ひとり神の方を見ていたが 暗くなった  平成14年作

 過去の破片に 居場所はなかった     平成16年作

 取除くことは ここ数日の一行      平成17年作

 そこに過去・現在・未来が均質的に続いてはいない。そして晩年に至る程、過去から遠ざかろうとすることも「老」に対応する方法論の一つかもしれない。それは「死へ臨む存在」への傾斜とそれによって作り出された空間へと集約されてゆくようだ。

 生の裏に球体の小さな翳り   平成13年作

 宙(そら) 一滴        平成16年作

 ひとつ椅子に残る 存在    平成16年作

 これら個としての存在論的なあり方と地球、宇宙という存在的なあり方との対比に無時間性も視る事ができよう。さらにこの様な思いは下記の詩の中で既に用意されてもいた。


「三秒あれば」抜       昭和27年作  注④

三秒あれば

コップの水を土に捨て

中に宇宙を入れることも

出来る


 この詩はまさしく後年の句「宙 一滴」と対をなすものであろう。

 最後に平成21年に97歳で没するまでの最晩年の句を掲げてみよう。

 指先 一つの生 美もありそう      (94歳)  平成18年作

 己れの記憶の中で笑った         (94歳)  平成18年作

 己れは己れへ消えるため 風むきえらぶ  (95歳)  平成19年作

 おのれの風よ。今の笑いも昔のものよ   (95歳)  平成19年作

 ここに存在的なあり方ではない、存在論的なあり方が提示されているようにも思えるのだが。


注①「層雲自由律2000年句集」 合同句集 層雲自由律の会  平成12年刊

注②「存在と時間」 マルテイン・ハイデッガー  岩波文庫、ちくま学芸文庫

注③「層雲自由律90年作品史」 層雲自由律の会  平成16年刊

注④「近木圭之介詩抄」 私家版  昭和60年刊


●―2:稲垣きくのの句【テーマ:流転】赤坂時代(戦前編)/土肥あき子

 引越して手勝手違ふ炭をつぐ 「春蘭」昭和14年2月号

 掲句は昭和14年にA氏がきくのに与えた赤坂福吉町への転居の折りのものである。川が流れ、橋が掛かっていたという800坪の広さもさることながら、裏は九条家、東隣は黒田侯爵家という立地からもその財力がうかがわれる。

 福吉町の地名の由来は、江戸時代このあたりは福岡藩黒田家、人吉藩相良家、結城藩水野家の屋敷があり、明治5年(1872)三藩邸を合併して一町とし、福岡藩の福、人吉藩の吉をとって「赤坂福吉町」が誕生した。当時、「福」と「吉」の文字が連なる縁起の良い町名ということで人々の間で評判になったといわれ、黒田侯爵家、九条家、一条家という大邸宅を抱えた土地となる。

 南側の飲食店街では、きくのが引越す6年前の昭和8年(1933)2月、小林多喜二が芸妓屋で仲間を待っていたところを、特高に踏み込まれ20分に渡って逃げ回った路地がある。

 一方、きくのが居を構えた北側は、大きな屋敷が点在する閑静な土地で、晩年きくのは当地を「緑地帯でまことによい環境だったので私は終焉の地を卜したつもりでいた」(『古日傘』「騒音地獄」)と振り返る。

 「春蘭」同号には

 開け違へはたと屏風につき當る

 これは慣れない屋敷のなかで、うっかりこちらから開けてしまうと屏風の裏に出てしまうという、ちらっと舌を出すようなあどけない失敗や、隣家の威風堂々たる借景と思われる

 お隣の雪吊が化粧部屋の外

なども並ぶ。


 当時の写真を見ると、暖炉の洋間ではカウチで優雅にくつろぎ、見事な床の間のある和室では火鉢に凭れるきくのがいる。その顔は幸せと喜びに輝いているが、しかし、一般の新居撮影と異なる点は、その広すぎるほどの家のなかのどこでも、きくのがひとりで写っていることだろう。

 掲句の「手勝手違ふ」とは、幸せが基調になる違いであることは間違いない。兄姉弟の6人兄弟と両親という家族で暮らしていた頃の暮らしや、折り合いが悪かった姑と同居していた元夫との生活を比較すべくもないが、炭を継ぐという俯く仕草のなかにふと孤独の影もよぎるのだ。


●―4:齋藤玄の句– 「老」を読む -/飯田冬眞

 冬の日と余生の息とさしちがふ

 昭和52年作。第5句集『雁道』(*1)所収。

 個人差はあるのだろうが、男性にとって「老い」を実感するのは、容姿というよりも肉体の機能の衰えによるものが大きいのかもしれない。たとえば、それまで難なく上っていた駅の階段が途中で息を継がなければ上れなくなったり、それまで軽々と持ち上げていた鞄が急に重く感じたりすることが、男に「老い」を自覚させる契機になるようだ。そうした機能面の衰えを自覚した後に鏡などで筋肉の落ちた自身の肉体を視覚的に突きつけられたとき、ようやく「老い」は内面にまで浸透してゆく。

 流氷を待ち風邪人となりゆけり  昭和47年作

 老体を氷湖の道がつきぬける   昭和47年作

 しんしんと肉の老いゆく稲光   昭和47年作

 この年、齋藤玄は58歳。一、二句目は、石川桂郎とともに厳寒の網走を旅した折のもの。氷点下の白銀世界の中で〈風邪人〉となりながら流氷を待った男たちは、ようやく自身の肉体に「老い」が近づいていることを悟ったに違いない。だが、氷の上を走り来る風の冷たさを受け止めている〈老体〉はまだ感覚的なもので、視覚化されてはいない。

 三句目は同年の秋の句。処女作以降六千句の句業を千六百句余りにまとめた第三句集『玄』を刊行した後の作。稲光の閃光に映し出された自身の肉体を目の当たりにしたとき、静かに進行している肉体の衰えを自覚したようだ。

 枯るる森重ね重なりものわすれ   昭和48年作

 若いうちから物忘れの多い人はいるだろうが、玄の場合は若年期より和洋の詩文を諳んじていたというから記憶力にかけてはかなり自信があったようだ。さりげない句ではあるのだが、〈枯るる森〉と〈ものわすれ〉の取り合わせに、そこはかとない「老い」の自覚を嗅ぎ取ることができる。

 八ツ手散るままに晩年なしくづし   昭和49年作

 残る生(よ)へ一枝走らせ枯芙蓉   昭和49年作

 「老い」の意識が内面に浸透し尽すと次には「晩年」意識が首をもたげてくるようだ。八ツ手の花の散りざまから自身の晩年が〈なしくづし〉に進攻している哀しみが表れている。この年、胆のう炎を患い初めて入院生活を経験し、「晩年」および「残生」の意識が心中に深く刻み込まれてゆく。この年、60歳。

 残る生(よ)のおほよそ見ゆる鰯雲    昭和50年作

 晩年の不意に親しや秋の暮   昭和50年作

 晩年へ来ては出でゆく秋の暮   昭和50年作

 病床の石川桂郎を見舞う直前の作。「晩年」および「残生」の意識は、清澄な精神性とともにある種の「余裕」を玄にもたらしたことがわかる。それは自身の残生が〈おほよそ見ゆる〉ことができたためかもしれない。開き直りといっては悪いが、天の配剤なのだという自覚が芽生えてきたからこそ、老いの時間が〈不意に親し〉くなるのだろう。そうした〈晩年〉に対する余裕とは、自意識の放下によってもたらされたものかもしれない。それは〈鰯雲〉や〈秋の暮〉といった自身の力の及ばない時候や天文の季語に身を寄り添わせているところからも推察できる。

 齢(よわい)抱くごとく熟柿をすすりけり   昭和50年作

 晩年の過ぎゐる枯野ふりむくな   昭和50年作

 いまのいま余生に加ふ焚火跡    昭和51年作

 昭和50年11月に30年余の刎頚の友であった石川桂郎に、51年1月に相馬遷子の長逝に相次いで遭い、「晩年」意識は「軽み」の姿を帯びてゆく。〈齢抱くごと〉の比喩が〈熟柿をすする〉作者のありようを内面とともに的確に描いており、微笑を誘う。少しでも力の加減を誤れば、〈熟柿〉は見る影もなく崩れ、甘い臭気とともに無残な果肉を周辺に撒き散らす。「老い」とはまさにそのようなものなのだろう。

 冬の日と余生の息とさしちがふ   昭和52年作

 「晩年」意識は畏友たちとの長逝という訣別を経て、「余生」へと変化してゆく。掲句は前立腺手術の入院生活から解放されて、しばしの安息を味わっていた頃の句。冬のある日、自らが吐いた白い息が自分の顔を包んだのだろう。玄の住む北国でなくとも冬の日常風景としてはごく当たり前のことである。それを〈余生の息とさしちがふ〉としたところが、非凡である。〈さしちがふ〉の措辞に齋藤玄という俳人のもつ「あらがう生」をかいま見た思いがした。

 「老い」の意識とは、精神から肉体の変化を経て、ふたたび精神へと戻ってゆくものであることが、玄の「老い」を詠んだ俳句の語彙の変遷をたどることで理解することができるだろう。「晩年」「残生」「余生」とは決して受身のことばではなく、〈さしちがふ〉ほどの覚悟が心の底に潜んでいることを忘れてはならない。


*1 第5句集『雁道』 昭和54年永田書房刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載


●―5:堀葦男の句– 「老」を読む -/堺谷真人

 夏樹揺れ少女に老いの日の翳り

 『機械』(1980年)所収の句。

 鬱蒼と茂る夏の樹々。風に揺れ、葉ずれの音を散じている。緑蔭にたたずむ一人の少女は、降り注ぐ木洩れ日の中で溢れんばかりの若さに輝いている。が、ふとした瞬間、何気ない表情の中に作者は数十年後の彼女の衰老を先取りして見てしまったのだ。錯覚か、妄想か。見てはならぬものを窃視したかのように擬議する作者。しかし、数瞬の後、眼前で屈託なく笑う彼女はもう元の少女にもどっている。

 不思議な俳句である。作者は現存する少女を詠みながら、少女の可能態としての老女を詠んでいる。若さと生命力の絶頂を顕示する存在を前にして、却ってその対極にある老年に思いを馳せている。赤い三角形を見てから視線を白紙上に転ずると、残像として淡い緑の三角形が浮かび上がる。ちょうど赤がその補色である緑を吸い寄せるように、若さが老いを想起させるのである。

 ところで、葦男が自らの老いを意識したのはいつの頃からであったろう。金子兜太はある文章(*1)の中で「葦男には老成観がなかった」と至極簡単に総括しているが、これはあくまでも作句態度における話である。一方、作品に即して老いの徴候をみてゆくとき、我々は葦男が自身の加齢現象に向けた率直なリアリズムの視線に気づくであろう。

 父もかく老う浴槽の波顎に受け   『機械』

 花辛夷わが歯いくつか亡びつつ   『山姿水情』

 霞む山に浮かぶ黒点わが眼の斑(ふ)   同

 皺っ腹さむざむしょせん風羅坊   『過客』

 これやこの痩脛皺腹初風呂に   同

 還暦前後から70代半ばにかけての作品である。特に、一句目、四句目、五句目がいずれも入浴シーンであることは注目してよい。葦男は見ることを重んじた作家であり、一糸まとわぬ自己の肉体の老化からも目をそらさなかったのだ。

 それでは、自身の肉体的老化には十分に自覚的であった葦男は、精神的な老いについてはどのように感じていたのでろうか。残念ながら、筆者はこの疑問を解く鍵をまだ手にしていない。ただ、年譜(*2)に見える次のような項目から、おぼろげに見えてくる情景というものがある。


   1986年11月  神戸一中三十五回生、古稀祝賀会

   1987年 8月  東大経十六年会

   1988年 6月  東大経十六年会

   1991年 4月  神戸一中三十五回生総会の旅・弁天島

   1993年 2月  六高会


 古稀の賀を境にして、葦男は学生時代の級友との交流が次第に密になってゆく。それぞれの職業人としての責務から解放された旧友同士で酌み交わす酒の味は格別であったに違いない。ともに青春を謳歌した者は、数十年の時空を一瞬に超越して語りあうことができる。

 外見はたとえ白頭翁、禿頭翁となっていても、彼らは互いの中に今もなお白皙の書生や日焼けしたアスリートが歴々として存するのを見ているのだ。

 樫の芽や書生という語いまも好き   『過客』

 かつて少女に「老いの日の翳り」を幻視した葦男が、ここでは逆に老年の中の青春を余すところなく享受している。肉体の老化を通過して再び炙り出されてきた青春性こそ葦男にとっての真実であった。彼に精神の老いを感じている暇などなかったのである。

 1993年2月8日、旧制六高の同期会で俳句の話をして帰宅した葦男は、翌2月9日の朝、入浴中に腰背部に激痛を訴えて入院、2ヵ月半後に不帰の客となった。入院直後の句は重病人である自己の状況を端的に詠んでいる。が、そこに悲嘆や不安といった要素は希薄である。新しい体験をむしろ好奇のまなざしでとらえ、表現する精神の快活さと柔軟さを葦男は最後まで失わなかった。

 浅春ベッド管と数字に取りまかれ   『過客』

 漂客に点滴隣の寺に春の句座   同


(*1)「一粒」第29号「樫の年輪」2004年3月

(*2)『朝空』「堀葦男年譜」1984年/「一粒」第1号「堀葦男年譜」1997年3月


●―8:青玄系の作家の句/岡村知昭【21,22は休み】


●―9:上田五千石の句―「老」を読む― /しなだしん

 冬銀河青春容赦なく流れ   五千石

 第一句集『田園』所収。昭和三十五年作。

 「老」とはいつから始まるものだろうか。

 この句の制作年で、五千石は二十七歳。普通に考えて老いを感じるにはまだまだ早い。しかし私がはじめて老いまたは老けを感じたのは、二十七のころだったような覚えがある。それを老いというのは少し大げさだろうか。体力の衰えや体調の変化を、察知したとき、それを老いの兆しとして感じたのかもしれない。それはまさしく「青春」の終焉を感じ取った瞬間ともいえる。そんな理由から私の中で「青春の終り」と「老いのはじまり」は近しい感覚がある。

 五千石もこの頃、そんな感慨をいただいていたのだろうか。

     ◆

 掲出句と同じ「青春」を詠んだ句に、昭和四十年作の「青春のいつかな過ぎて氷水」があり、この句の自註(*1)には〈二児の父となっては、青春をとどめようもない〉とある。また昭和三十七年にも「冬夕焼わが青春の余白尽く」を作っており、「青春」への追憶が濃く滲んでいる。なおこの「冬夕焼」の句は『田園』には収録されておらず、補遺として『上田五千石全句集』に収められている。

     ◆

 掲出句。「渋民村」と表題の付いた四句のうちの三句目。

 自註には〈私は「銀河ステーション」から夜の軽便鉄道に乗った。これが「銀河鉄道」とは知らなかった。「青春」という駅を、いま通過する〉と記している。

 渋民村は「しぶたみむら」と読み、岩手県岩手郡にある村で、現在は盛岡市に属している。石川啄木のふるさととしても知られる。

 また自註にある「軽便鉄道」は岩手軽便鉄道、現在の釜石線のこと。宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』のモデルと言われており、自註はそこのこと指している。

 時は冬。寒々しい夜、銀河鉄道に揺られて車窓から雪景色を見るとき、過ぎゆく青春を実感したのだろうか。それは銀河鉄道というシチュエーション、そのセンチメンタリズムが少ながらず影響しているのかもしれない。

 ちなみに同時作は以下の三句。

 雪の渋民いまも詩人を白眼視

 星夜出て反骨教師雪つかむ

 寒昴死後に詩名を顕すも


*1 『上田五千石句集』自註現代俳句シリーズⅠ期(15)」 俳人協会刊


●―10:楠本憲吉の句/筑紫磐井

 墓地抜ける生色少女のふくらはぎ

 昭和38年『孤客』、と自句自解にはあるが、全集本の『孤客』にはない。いつの段階で最終句集原稿から消えたものやら。もとより無季俳句。

 何となく楠本憲吉のからみつくような嫌らしい視線を感じるが、まさにその通りである。憲吉が慶応義塾大学の講師を務めていたとき、慶大俳句会のメンバーを連れて鎌倉近代美術館へ吟行に行った。その時長谷寺を抜けて行く教え子の女子大生の若々しいふくらはぎが目にとまってこの句が出来たという。

 自句自解には、この1年、池田弥三郎の推挽で慶応義塾大学の講師となったと言うが、年譜では講師を務めたのは昭和40年とある。何が本当なのか憲吉についてはさっぱり分からない。本当は調べて書くべきなのだが、そんな調査をする価値があるとも思えないので矛盾した資料そのままに書いておく。

 それでも、38年に講師だったらしいことは、翌39年、この女子大生(筑紫出身)を詠んだこんな句があるから間違いなさそうだ。

 春一番筑紫乙女は幻めく

 講師の期間は1年だったらしいから翌年はもう教え子としての関係は途切れているが、憲吉としてはこの女子学生に相当未練があったらしい。憲吉先生、41歳の男盛り。その前年、長男が同じ慶応義塾中等部に入学しているというのに!

 嫌らしい視線といえば、こんな視線の句もある。

 スリットがこぼす脚線ころもがえ

 昭和61年『方壺集』より。ちょっと目のやり場に困るような句だ。そもそも「スリット」という言葉が何故出てきたかというと、憲吉の句会の袋回して「スリット」という題がでて最初のスリットの句を詠んだという。とんでもない句会だ、スリットなんて題を出す句会がどこにあるだろう!憲吉はそれ以来病みつきになり、盛んにスリットの句を詠み始めたらしい。しかし、この句、その中ではスリットの本意をよく詠んでいる秀作である。王道を行くスリットの句であろうか。


●―12:三橋敏雄の句【テーマ:『眞神』を誤読する】/北川美美

⑩ 渡り鳥目二つ飛んでおびただし

 渡り鳥の目だけが飛んでくるようなスピード感ある凄まじい光景がただ浮かぶ。渡り鳥は命をかけて飛ぶのである。その臨場感が伝わってくる。世界中に散らばる渡り鳥たちが、同じ地をめざし、どんな経験を積み重ねているか。克明に映像化した『WATARIDORI』(原題: Le Peuple Migrateur/2001 監督:ジャックペラン)は、生きるためだけに鳥たちが北に向かっていく姿だけを収めた壮大な映像である。彼らの繁殖が生まれ故郷の北極でしか行われないことは自然界の神秘的な法則である。

 敏雄に鳥の句は多い。『眞神』では、晩鴉(6句目)、渡り鳥(10句目)、信天翁(32句目)、発つ鳥(72句目)ひばり(82句目)、飛ぶ鳥(97句目)などが散りばめられている。『創世記』のノアの箱舟では、洪水の40日後にノアは水が引いたのかを確かめるため、はじめに鴉を手放す。『眞神』が鴉からの登場していることは偶然かもしれないが感慨深い。

 船上生活の永い敏雄は沢山の鳥たちをみてきたことだろう。『眞神』の中の鳥たちは天界の使者のような八咫烏(やたがらす)の役目とも思えてくるのだ。八咫烏になりえる実在の鳥が敏雄の審美眼により選び抜かれ配置されているように思えるのだ。

 『眞神』というタイトルから日本の神話、山岳信仰、陰陽道などを連想することができるが、それは無季句をより効果的にするためのトリックのように感じられ、八咫烏は実在しない上にそのイメージがあまりにも付きすぎているため『眞神』の中では排除されているのだろう。昇天した敏雄自身が八咫烏のような気がするのである。

 無季句を追求する敏雄にとり、鳥は、読者を異世界に連れて行くことのできる橋渡しである。掲句は無季句でありながら散文になることも感情を込めることもなく表現されている。命を賭けた鳥たちがただただ北に向かっていく姿だけが詠われている。人間は太古より鳥になることを夢見ていた。


⑪ 家枯れて北へ傾ぐを如何にせむ

 陰陽道では、「北」について引いてみると、黒(色)、冬(季節)、羽(五音)、皮膚(五感)とでる。前掲句⑩の渡り鳥と⑪の羽のキーワードが一致。巧妙な句配列である。真北から西に6度ほど傾いているのが磁北になる。『眞神』であるならば磁北のことだろう。

 南の日照時間が多くなればその方位の家の老朽化が進み確かに北側に傾くというのは確かに頷ける。

 下五の「如何にせむ」は『古今集』ですでに使用されており「名取河せぜの埋木あらはれば如何にせむとかあひみそめけむ 読人不知」などがある。途方に暮れる嘆きの様子が雅やかに映る。現在、ビジネス文書あるいは国会中継で「いかがなものか」という台詞に遭遇するが、これには批判的意向が大いに含まれており、『古今集』の頃の「如何にせむ」とは使い方が変化している。掲句の「如何にせむ」にも少なからず批判的意志が含まれているとみる。

 というのは、ここで登場する「家」は、『眞神』の中でひとつのテーマとなり昭和30-40年代の日本の社会の底辺をも描いているように思えるからだ。「家」から広がる家族そして村社会が背景に潜む。

 写真集『筑豊のこどもたち』(1959土門拳)、映画『砂の女』(1963 原作:安部公房、監督:勅使河原宏)は『眞神』の世界をイメージするに恰好の資料と個人的に思う。特に、阿部公房と『眞神』の世界観には、前衛性を保ちながら、マクロの視点で人間の存在を観察し、アナキズムの匂いがある点に於いても共通項が多い。この人間の業を言葉に置き換えようとする作者の枯渇は戦争体験を通して戦後という時代を生きた人の心の渦のように感じるのである。

 『眞神』には思想的なものは何も含まれていない。一句一句に言葉によるシャーマンが隠れているだけなのだ。しかしながら家の老朽化の影に家族の不在も匂わせる掲句は社会的な日本の風景をも暗喩していると感じる。そういう村へ読者を連れて行く『眞神』の旅を楽しめばよいのだ。

『眞神』(1973年上梓)の発刊周辺の日本、世界の激動を一部挙げておく。


1972年

 日本陸軍兵 横井庄一 グアム島で発見

 連合赤軍・浅間山荘事件

 佐藤栄作退任 田中角栄就任

 ウォーターゲイト事件

 川端康成自殺

 大阪・千日デパート火災

1973年

 ベトナム戦争終結

 日本赤軍によるドバイ日航機ハイジャック事件

 金大中事件


⑫ 雪国に雪よみがへり急ぎ降る

 2011-2012年の冬は厳しかった。この氷河時代の前触れのような気象は雪国の老朽化した家々に例年の倍以上の雪を降り積もらせた。積雪に押しつぶされそうになりながら家の中でひっそりと暮らす独居老人がニュースに映されていた。けれどそこに暮らす老人の顔は決して苦悩に満ちてはいない。人間という業を生きるということを映像から垣間見た気がした。

 「よみがへり」とは、このような雪国という神話のような世界を示す地域に降る積雪のことなのだろう。雪国という名称に降る豪雪という自然の猛威。「急ぎ降る」という措辞に雪に埋もれながら孤独に年老いていく人の姿が隠れているように読める。


⑬ 冬帽や若き戦場埋もれたり

 日本陸軍の冬帽子に「椀帽」というものがある。フェルト製のお椀型になっているもので星のマークがついている。またソ連軍が被る耳アテ付の毛皮帽を満州北部に渡った筆者の父の19歳の写真からも確認することもできる。

 この句の「戦場」が満州を意識しているのかは定かではないが、極寒の地に散った青年は確かに多い。敏雄にとり戦争句を詠みつづけることは戦友への鎮魂であった。「埋もれたり」という下五により、嘆き、落胆、人を埋葬すること、雪に埋もれてしまうことを想像し、戦争が人々の記憶の彼方に埋もれてしまうという危惧をも感じる。

 若き兵その身香し戰の前 『弾道』

 支那兵が銃を構へて来り泣く 〃

 戦火想望俳句と全く異なる戦後の戦争俳句を詠むことを敏雄は『眞神』で確立したのである。敏雄の戦争詠は20年のスパンで変貌していく。


⑭ 針を灼く裸火久し久しの夏

 夏の句である。けれど郷愁の夏を詠んだ句と読む。

 「灼く」「裸火」「夏」、更に「針」まで登場し灼熱地獄の拷問を連想する言葉たちである。

突然の措辞「久し久し」が痛々しいまでにやさしく感じられる。言葉による飴と鞭である。

 囲いの無い火が「裸火(はだかび)」である。「裸火厳禁」という札はよく見かけたが、「はだかび」という読みに気が付くと、妙に艶めかしい。火(ひ)が裸(はだか)という捉え方がさすが源氏物語の時代の妖艶さに感心しきりである。「裸火」の場景をランプの囲いガラスを外して針を焼いている船内と想像した。敏雄が船内のランプの火で針を焼いているのである。

 「久し久し」と懐かしんでいる様子が伝わるが、子供の頃、母が傍で針を焼いていた記憶を言っていると読める。母親が敏雄の為に針を灼いて消毒をしている姿。それを今、自分が火を見つめながら針を灼いている。燃えている火をみつめると様々なことを想う人間の心理状態をよく観察している。

 掲句は大人になった作者が母親(あるいは乳母、養母など)を女という対象として捉え郷愁の中で優しい気持ちになっている感覚になる。しかし、掲句は何もそのようなことを書いていない、言っていないのだ。


⑮ 夏蜜柑双涙かわくばかりなる

 「反対の言葉を置いてみる。」掲句から山本紫黄との会話を思い出した。紫黄に書いた俳句(らしきもの)を見ていただくと、右手にぐい飲みを持ったまま無言で数分過ごし、ぽつりぽつりと言葉をこぼしていく。あまり俳句の話を自分からしなかったが、時に実作の極意らしきことを語る時は遠慮がちに「と三橋さんがよく言っていた。」と必ず付け加えていた。

 涙は流れるものであるが、ここでは乾いている。「涙」という言葉から感じるものは、「悲しい」「滲みる」「流れる」「しょっぱい」などであるが、それが「乾く」とどうなるのか。「乾く」とは、「心」「荒野」「砂漠」・・・と言葉の連鎖が不思議な感覚を産む。下五の「ばかりなる」の措辞が絶妙である。「乾く」までは考えたとしても「ばかりなる」がどうすれば降りて来るだろうか。何度もこの句を唱えて凝視していると、反語を使用した、

 鶏たちにカンナは見えぬかもしれぬ   渡邊白泉

がその先にみえる。

 涙が乾くという表現により、逆に涙が流れ続け、心があらわになり、悲しみがどこまでも続いているような感覚が生まれる。夏蜜柑が心のかたちのように、すぐそこに置かれているように思えてくる。敏雄のことを「三橋さん、三橋さん」と嬉しそうに思い出していた紫黄が妙に懐かしい。会いたいのに会えないのは辛い。双涙かわくばかりなる。


⑯ 著たきりの死装束や汗は急き

 人の死亡が確認されてから全ての人体機能が停止するまでには時差があり、それまでに痛みに苦しんだ表情がやわらかくなったり、掲句のように汗をかくということは考えられることだ。通夜の席で、ご遺体が微笑んでいるようだ、亡骸が一番美しい顔だったということに遭遇することは多々ある。その美しさを前に、すでに魂がこの世に無く、亡骸そのものが仏になったということを実感するのである。

 「著たきり」の措辞がややこしいのだが、遺体を送る側が見たご遺体の様子という見方と、死んだ人が俳句を詠んでいるという見方と二種類読めることにある。「昨日と同じ服で汗臭くて参ったな」と故人が汗をかいたことを自覚しているというように読めるのである。ここでは、後者の故人目線として視点を浄土へ飛ばしたということを考えてみたい。

 『眞神』では、作者の位置があちこちへ飛ぶのだが、視点を彼の世に飛ばして、下界を見るという一種のトリックにも思えるのだ。読者の視点を転換させるということが考えられる。

 「死装束」は、ご遺体を棺に納める際に故人に施されるもので、仏式では、故人の浄土での旅路にふさわし巡礼者の支度をさせるのが習わし。映画『おくりびと』での納棺の儀式で本木雅弘が死者に着せている装束である。

 この死者目線が昨今記憶にあるものは、新井満日本語訳の「千の風になって」(原題〝Do not stand at my grave and weep“直訳:私のお墓で佇み泣かないで)の視点がそうだ。死者が「泣かないでください」と残された人を慰めている視点と同じなのだ。

 「著たきり」の措辞により、霊的視点の読み方を選択したのは、霊的な存在が主人公となる「能」の世界の「夢幻能」と共通するジャンルが『眞神』と共通するからである。「夢幻能」は旅の僧など(ワキ)が名所旧跡を訪れると、ある人物(前シテ)があらわれて、その土地にまつわる物語をする。前シテは、中入りの後、亡霊、神や草木の精など、本来の霊的な姿を明示しながら登場し(後シテ)、クライマックスに舞を舞う。

 能は、シテが演じる役柄によって「神(しん)、男(なん)、女(にょ)、狂(きょう)、鬼(き)」の5つのジャンルに分けられる。これに「鳥」が入ってくると、なんとも『眞神』の登場物に似ていることになる。今まで何度観ても眠くなっていた能が『眞神』に共通項があると思うと、俄然、興味が湧いてくるのも不思議なものだ。能の番組は「序」「破」「急」の流れで仕立てていることから「急ぐ」というこのキーワードも後シテの役割のようにも思える。

 「能」は「幽玄の美」と言われているが、敏雄は世阿弥の「幽玄」に戻って『眞神』を構成したというのも考えられることだ。

 さらに「汗は急き」の「急」の文字使用が『眞神』に3句もある。

 火の気なくあそぶ花あり急ぐ秋   8句目

 雪国に雪よみがへり急ぎ降る   12句目

 著たきりの死装束や汗は急き   16句目

 3句ずつ離して「急」を使用した句を配置している。暗号解き、ミステリーツアーのようになってきた。能の話に戻るが、能の番組は「序」「破」「急」の流れで仕立てている。「急」は五番目の切能にあたり、シテは「鬼」となる。このことから「急ぐ」というこのキーワードが能の番組と関係しているようにも思える。

 かつて、高柳重信は『蒙塵』の構想を中村苑子への書簡で明かしている。もしも『眞神』構想メモが、発見されれば、戦後俳句の遺産ともいえるのではないだろうか。

 また「著たきり」と「汗は急き」の検証として、「死装束」に他の言葉を馬鹿馬鹿しく置き換えてみる。

 著たきりの揃いの浴衣や汗は急き

 著たきりのめ組の法被や汗は急き

 著たきりの海水パンツや汗は急き

 著たきりの越中褌汗は急き

 他人が汗をかいているのか、自分が汗をかいているのかという点でいうと、やはり、自分が汗をかいているということがわかる。「汗は急き」が汗をかいた本人が実感する生理現象ということもあり、やはり死者が汗をかいているという見方の方が『眞神』らしいのかと思う。

 更にこの句から読み取れるのは、納棺されることのないご遺体が汗をかいていると想像するのである。死ぬ瞬間に汗をかくのは苦しかろう。「死に水をとる」とは臨終の際の死者を生き返らせたいと願う儀式である。この句の死者の死に水ととるのは、わたしたち読者と思えてくる。


⑰眉間みな霞のごとし夏の空

 「眉間みな霞のごとし」がわからない。

 再度、能を確立した世阿弥の世界を考えてみる。

 世阿弥は舞台における芸の魅力を自然の花に例えて心と技の両面から探求した。花とは観客がおもしろい、めずらしいと感じる心のこと。自然の花はそれ自体が美しいものであるが、その美しさの意味を舞台の芸として具体的に再現しようとしても、それを観るすべての観客が美しいと感じるわけではない。そこで世阿弥は、舞台の芸を種として観客の想像力に働きかけることで、ひとりひとりの観客が心の中にそれぞれの美しい花を咲かせる方法を工夫する。夢幻能はそのための様式として確立されたものなのである。

 読者の想像に働きかけること、それを敏雄は実践したのだろうか。

 「眉間」は表情がでるところである。そして顔面の急所である。記号的な読みとして、急所を調べてみると、眉間(烏兎)・鼻の下(人中)・下顎の前面(下昆)・こめかみ(霞)・、耳の下(露霞)、みぞおち(鳩尾、水月)等がある。これは武術でいう部位の呼称だが、広辞苑をはじめとする辞書にはどこにも出ていない。烏兎が日月を表すことから、眉間が襲われると、太陽と月が一気にでてくるような攪乱を起すという意味ではないかという説がある。記号的逆読みで掲句をみると、「月日の経過は早くこめかみが痛くなる思いで、夏の空はギラギラしていて眩しい限りだ。」と、わかった気になる。

 さて、「霞」を眉間とするならば、眉間で思い出されるのは、筆者世代では、劇画『愛と誠』(原作・梶原一騎)の主人公の早乙女愛と太賀誠が赤い糸で結ばれた蓼科高原スキー場での事故である。愛が誠の眉間に大きな傷を負わせる。早乙女愛を一途に愛する男・岩清水弘も懐かしい。花園高校というネーミングがまた想像を掻き立て、初めて新宿の花園神社を知ったときは、その中に『愛と誠』の学園が存在するのかと思った。

 そうとんでもないことを考えると、太賀誠の眉間の傷も過去のことであり、過去に操られ人生を翻弄するのは、霞のようなことであると思えてきた。何度も思うのだが、敏雄の句には人生のリセット願望を示すような句に遭遇すること多々なのである。

 秘すれば花。『眞神』は、残像の花を咲かせる。


●―13:成田千空の句– 「老」を読む -/深谷義紀

 小春日の雀となりて遊びたし

 平成17年作。句集「十方吟」所収。

 この句集は千空の6番目の、そして生前最後の句集であるが、この句集について千空自身は次のように語っていたと言う。

 「あの句集はちょっと優しく、柔らかになりすぎてねえ。私としてはもう一冊、なんとか骨のある、水位の上った、口あたりはよくなくても喰いたりる作品で飛翔したいんですよ。(中略)私の到達点をそこに持ってゆきたい。『十方吟』を通過した最後の句集をねえ」(角川書店「俳句」追悼大特―成田千空の生涯と仕事― 黒田杏子『太宰 志功 寺山そして成田千空』より)

 確かにこの句集の作品は、それまでの千空らしい骨太さがやや後退し、どちらかと言えば穏やかな詠み振りの作品が目立つ。しかし、見方を変えれば、懐の深さを示し、自在あるいは闊達な制作スタンスにシフトしたとも言えよう。この辺りの事情を、千空自身はこの句集のあとがきで次のように述べている。

 「ここ十数年NHK青森、弘前文化センター俳句教室、BAR俳句教室等、月に八回の俳句教室を担当して、私自身の作風に幾らかの変化を自覚した時期の作品といっていいように思う。」

 この「作風の変化」について、別の場でもう少し具体的に語っている。

 「俳句教室ではみんな職業が違うんです。(中略)私も影響を受けてますよ。(中略)農業を五十年、六十年とやっている方の人生体験。そういう人から聞く話はおもしろいですね。(中略)自分の世界を自分のことばでどうとらえるか。しかし、俳句の骨法はちゃんと学びながら、そういう方向へもっていきますので、カルチャーは私自身、張り合いがありますし、勉強になるんです。」(角川選書「証言・昭和の俳句」より)

 この句集には、こうした句境を象徴したような作品もある。

 八十の路八方に稲穂かな   『十方吟』

 死去の直前まで、千空は「俳句は沸くように出来る」と語っていたと言う。まさに、昨日までの自分を壊し、新しい俳句作家として生まれ変わっていく。そんな作業が楽しくて仕方ないといった様子が窺える。過去の実績に囚われることなく、新しい可能性をひたむきに探っていく。そんな向日性が、晩年に至るまで千空のバックボーンであり続けていたように思う。

 この「十方吟」を越えた句集を編みたかったという千空だが、残念ながらその思いは叶わなかった。千空自身も心残りであったろうし、千空ファンの一人として、千空が最後にどのような作品世界に辿り着いたのか、千空の言う「到達点」を是非とも見たかったという思いは強い。

 さて掲出句に戻ろう。一見すると、穏やかな老境を淡々と詠んだ作品とも見えるが、ここでは少し違った見方を提示してみたい。

 千空の生涯は、ある意味、恐ろしく「大器晩成」型だったと言える。もちろん32歳にして萬緑賞を受賞するなど、早くから結社内では注目される作家であったが、その人柄からか、あるいは津軽の地を決して離れようとしなかったからなのか、長い間全国的注目を浴びることは稀だったと思う。ところが、77歳にして第4句集「白光」で蛇笏賞を受賞した辺りから様相がガラリと変わってくる。その3年後には第5句集「忘年」で日本詩歌文学賞を受賞(80歳)、また平成17年には読売新聞俳壇選者にも就任する(84歳)。80歳前後にして注目度が急上昇し、句業が一気に花開いた感がある。それはそれで喜ぶべきことなのだろうが、はたして千空自身はどう思っていたのだろうか。掲出句は、まさにその当時詠まれたものである。穏やかな老境とは程遠い、びっしりと詰まったスケジュール。「こんな筈じゃなかった」という千空の嘆きの呟きが聞こえてきたような気がする、と言ったら穿ち過ぎだろうか。

2025年12月26日金曜日

【連載】現代評論研究: 第20回各論―テーマ:「女」を読む その他―  藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、北川美美、深谷義紀

(投稿日:2012年02月10日)

★―1近木圭乃介の句 / 藤田踏青

 灯 中に神のような夜の女もあろう

 昭和28年の「ケイノスケ句抄」(注①)所収の作品である。そこに圭乃介が生活していた門司や下関の港の裏通りにポッと灯がともる情景を思い浮かべる。この場合の「神」とは、自然界の万物を擬人化した存在としてのアニミズム的な発想のものではなく、現実世界そのものとして受け入れる汎神論的なものとして受け取れば「夜の女」への思いも自然と頷かれるであろう。そこでは人知を超える必要はなく、ただその女の精神的な無垢だけを見つめていれば良いのかもしれない。「灯」のあとの一字空白は灯から夜の女そのものへの視点の移動と、「灯」そのものの中にその女が浮かび上がるような効果をもたらせている。「灯」と「夜の女」とは必然的に補完関係にあるかの如くに。尚、この作品は次掲の作品と連作の形で発表されている。

 近く笑う夜の女 離れる   昭和28年作  注①

 からだ売る青い石ゆびに       々

 コップ二つの等しい液体       々

 これ等の句により夜の女が娼婦であることが解るが、圭乃介の眼差しはそれに優しく注がれており、立ち位置も同じである。その事を次の句が示してもいる。

 虹茫と 女くらい肩していた          昭和54年作  注① 

 かわいいもの手垢のない単語よっぱらい女   昭和60年作  注①

 歌謡曲ではないけれど港に酒と女はつきもののようであるが、圭之介は昭和30年に上記の句の流れに沿った次のような詩を発表している。


「女」   注②

女の背の部分が

海のようにつめたくなる

汽船は寒流をのがれ 乳房を迂回し

胸の大きなうねりに咆哮する

なまあたたかい汐風に

へんぽんとひるがえる旗

青い海ばらに一すじ

女の黒髪がなびいている


 この詩はコクトーの詩(注③)にも影響されたのであろうか。海を見つめている女の後姿に哀愁が漂っている。


注①「ケイノスケ句抄」  層雲社  昭和61年刊

注②「近木圭乃介詩抄」  私家版  昭和60年刊

注③ J・コクトー


「レア」  『寄港地』より(堀口大學・訳)

珊瑚のように

はだかのレアは

ベッドの上に腰かけて

カーテンあげて眺めます

港が海をせきとめる

帆ばしらの櫛で


★―2稲垣きくのの句【テーマ:流転】麹町永田町〜芝公園/土肥あき子

 今までテーマに沿って俳句を見つけては背景を探ってきたが、準備期間も含め約一年で関連した書物や思いがけない出会いから当初不明だったいくつかが判明したりもしている。

 また、きくのの著作権継承者でもある姪の野口さん(仮名)よりお借りしているものに、きくのの六冊のアルバムがある。アルバムは多くのページを残して新しくされたり、手書きの書き込みにきくのの素顔を見つけることができたり、写り込んでいる風景に当時の生活や文化が見え、それなりの心境の変化も映し出されている。

 時系列で当時の流行や時事なども並記しながら、きくのの人生を追ってみたいと思い、今後のテーマを「流転」とした。神奈川県厚木の船宿に生まれたきくのの一生は、点々と安住の岸辺を探し尋ねるような転居の連続であった。


本題【テーマ:流転】麹町永田町〜芝公園

 引越の荷のてつぺんの菊の鉢

 稲垣きくの、明治39年(1906)7月26日神奈川県厚木市生まれ。本名野口キクノ。稲垣家の四男だった父(佐市)が同じ相模川で船宿を経営していた野口家の養子となる。長男、次男、長女、きくの、三男、四男の6人兄弟。大正3年(1914)横浜西部に転居するも、大正12年(1923)の関東大震災で住居喪失のため父の実家座間へ移る。この年より東京神田の正則英語学校タイプ科で学び、卒業後横浜銀行勤務。同時に同志座募集を新聞で知り、応募。父母の反対を押し切り、ただ一人の理解者であった姉の家から同志座の旗上げ公演に参加。大正14年(1925)、同志座座員、宮島文雄と結婚。昭和3年(1928)離婚し、野口姓に復籍する。

 以上が俳句と接する前の稲垣きくのの略歴である。

 そして、きくのの人生にとって最大の影響を及ぼすことになる財界人A氏との出会いがある。出会いの一切はベールに覆われているが、A氏の影はきくののエッセイ集『古日傘』の「さくらんぼ」のなかで東京・大阪間の初旅客飛行に搭乗したという箇所に注目した。

 日本の本格的なエアライン誕生は、政府と財界の協力で昭和3年(1928)「日本航空輸送」が設立され、8月27日、東京・大阪間で初の有料旅客貨物空中輸送を開始した。初飛行を控えた東京朝日新聞には連日「大阪東京間は秀麗富岳を中心とする東海道の絶景、東京仙台間も松島の美風景あり、汽車に比して四倍迅速なる上に、地上には見難き佳景大観を領しつつ、愉快に往復しうる幸福は確かに我が旅客飛行の誇りである。室内は安楽イス、便所の設備あり、自動車よりも遙かに広くかつ美麗である。是非この空中最新設備を利用されんことを切望する。」という広告が大きく掲載され、川崎ドニエ式メルクール型旅客機の定期運行に自信をみなぎらせている。

 当時大卒初任給が50円という時代に、東京・大阪間は30円、同時就航した東京・大連間は145円である。同年きくのは、弟の婚礼のために大連へも当機を利用している。離婚直後、蒲田撮影所へ入所早々の22歳の女優が気軽に使える手段ではないだろう。

 その後、きくのは麹町永田町に引越したが、車関係の会社が近隣にあり試験をする騒音でやりきれなかったので、芝公園へ転居する。しかし、こちらも電車通りに沿いで自動車やバスの行き交う騒々しさに悩まされたという。掲句はこのどちらかの折りの作品であると思われる。我が名を持つ花が、新天地へと向かって揺れている。「てつぺん」の象徴する誇らしさと不安定なゆらぎに、微妙な女心が投影される。

 昭和42年(1967)俳人協会賞受賞の折りの本人の手による略歴では、俳句は昭和11年(1936)大場白水郎主宰「春蘭」をたまたま購読したことから始めた、とある。この「たまたま」に、「事情は一切省きますが、結論としてはこうなのです」というきくの的表現を感じる。掲句は初出とは別に「春蘭」昭和14年(1939)1月号の「春蘭主要作家を語る」(春蘭同人伊藤鴎二)にも引かれる作品である。

 門松につながれもする小犬かな

 夏帯の波うつてゆく急ぎ足

に並び、伊藤の文章は「句会へ余り顔を見せず、俳人の交遊もさして多いとは思えない。俳壇的雰囲気から遠ざかってあれほどの佳句を投じているのは感心する。特質として句が快楽的、観照が純粋」と続く。

 この時期のきくのには、俳句はまだそれほど大きな存在ではなかったのかもしれない。

 そして次第に俳句の十七音は、多くを語らぬきくのの代弁者となってこの世に送り出されていくのである。


★―4齋藤玄の句/飯田冬眞

 母死してえのころ草に劣るなり

 昭和23年作。第3句集『玄』(*1)所収。

 男にとって最も身近でありながら、もっとも遠い女。それが「母」ではないだろうか。亡くなった母を恋い慕い、長いあごひげが胸元に届くようになるまで泣き喚いていたというスサノオの故事を持ち出すまでもなく、また、亡き母の面影を浮かべる義母と情を交わし、子供まで産ませてしまった光源氏のように「母恋」は日本文学の底流をなす重要なモチーフといえるだろう。

 掲句は、そうした亡き母を恋い慕う狂おしいほどの激情を露ほども感じさせない。取り乱すことで精神の安定が保たれることもある。だが、玄はそうした安全弁を安易に用いない。むしろ非情と思えるほど、徹底的に対象を描写してゆく。肉親の死を眼前にしているにもかかわらず、だ。

 それは掲句の同時発表句(「壺」昭和23年9・10月号掲載)からも感じ取れる。

 母死すとき夏露のごときを目に湛ふ

 棺に母ありて蜩森にありき

 涼しきか悶絶の母陰隆(たか)し

 母親の臨終の姿が克明に描写されており、息を呑む。いまだかつて、悶絶してのけぞる母親の陰が盛り上がるほどたかいことを詠んだ作家がいただろうか?〈涼しきか〉の上五が常軌を逸している。

 母を死なする風鈴を吊りにけり

 悶絶の母を刺す蚤数あらず

 瀕死の母が一息の息暑へ灑(そそ)ぐ

 母逝くか否か自問の雲の峰

 これは掲句の前号(「壺」昭和23年8月号)に掲載された句の一部で、ここでも母親の死を凝視している玄の姿が認められる。悶絶する母親を眼前にしながら、その体に蚤がたかっていることに誹味を見いだせるものだろうか。だが、ここでも玄はリアリズムを貫き通している。

 作品と同時に「KSANA」と題した短文も掲載されており、そのなかで玄は臨終間近の母親への想いとそれを見舞う人たちの欺瞞を書き連ねている。

一夜、私は母を抱え最後の訣別を済ました。私は母の如く、母は子たる私の如く、暗黙の中の恍惚たる数分であった。母の生涯の光芒はこの瞬間に集注したと私は信じた。私は哭するといふことの如何に素直なる心のはたらきであるかを知つた。私の真を知る唯一の魂との訣別を終えて、もう絶対に泣かぬと決めた。

 玄にとっての母親とは、自身の魂の真実を知る唯一の存在であったことがわかる。「私は哭するといふことの如何に素直なる心のはたらきであるかを知つた。」の一文に玄の深い悲しみが滲み出ている。その母親との訣別を済ませたあとの玄は、感情に溺れることを自身に禁じたのだ。

 だからこその徹底的な描写であったのだ。齋藤玄という作家の死生観を形成するのに多大な影響を与えたのは、この母親との訣別の一夜であったのだろうと推察する。

 わが母を見舞ひ、わが母を看とることを人徳の如く考へて振る舞ふ人達を私は憤怒と嫌悪のまなざしで見つめた。糞ヒューマニズムの片鱗は隠してもわかる。当人自ら気がつかなくとも私は見透した。

 危篤状態の母の前で、「いい人」を演じて悦に入る人間の欺瞞性を糾弾する玄がここにいる。この欺瞞性に対抗する手段として玄はリアルな母の死を描こうとしたのではないか。

 掲句の鑑賞に戻ろう。

 〈えのころ草〉はねこじゃらしの名で、ありふれてはいるが、親しみやすい雑草として、秋風にゆれながら道端や空き地に群生する植物である。優しげで頼りなく、どこか滑稽な風姿さえ持つ。そうした〈えのころ草〉と母の死という重く悲しい事件を対比させ、〈劣るなり〉と断定した意図は何であったのだろうか。そこには自己の悲しみを投げ出すことで他者に共感を求める姿勢は微塵も感じられない。

 しかし、この断定はある意味、戦後の日本人の死に対する考え方を反映しているととらえることもできるだろう。死んでしまえば、どんなに愛した母親でも眼前にある〈えのころ草〉ほどの価値すらなくなってしまう。それは、死後の救済を売り物にする戦後宗教への批判のようにもみえる。あるいは既存の「死んだらみんな仏様になる」という素朴な死霊観に対する問題提起ととれなくもない。

 おそらく、先の短文のように「母を看とることを人徳の如く考へて振る舞ふ人達」に代表される人間の根源的な卑しさを〈劣るなり〉で表現したのだろう。

 それが、齋藤玄にとって、「私の真を知る唯一の魂」の持ち主である母という永遠の女性との訣別の辞でもあったのだ。


*1 第3句集『玄』 昭和54年永田書房刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載


★―5堀葦男の句/堺谷真人

 夕さくら照るや少女のまた暴投

 遺句集『過客』(1996年)所収の句。

 葦男作品の中で女性を表す語彙は多様だ。第一句集『火づくり』から『機械』『山姿水情』と順に拾ってゆくと、妹(いも)、妻、母、少女、主婦、女、酌婦、老婆、女給仕、女児、老女、幼女、婆、美女、山姥、遊君、女性(にょしょう)など女の一生の諸相が含まれている。(山姥はちょっと違うが・・・)また、パンプス、鮮衣、夏手袋など換喩(メトニミー)で女性を表現したり、睫毛、垂れ髪、黒乳房、くちびるの朱など身体的特徴をもって女性を示唆する作例もある。これらの語彙のうち、『火づくり』の第1章「風の章」に特徴的に見られるのが「妹」という言葉だ。

 あの汽車に乗れば妹がり麦そよぐ

 桔梗(きちかう)に妹の眸(め)澄めり雨を来て

 妹が髪つゆけしいまは別れなむ

 妹もいま空見てあらむ頭巾つけ

 1944年6月、葦男は網野冨美子と婚約する。その前後の作とおぼしきこれらの「妹」からは、俳句以前に若き葦男がなじんでいた短歌的リリシズムの余響を聞きとることができる。

 『万葉集』に頻出する古語を採用したのは、婚約期間の昂揚感を文学的に昇華したいとの

気持ちが働いたためであろうか。葦男ら大正世代の男女にとって自由恋愛はまだ少数派であった。今日の我々からすると物事の順序が転倒して見えるが、婚約のあとから恋愛感情が芽生え、結婚に向けてこれをはぐくんでゆくという流れは、そう珍しくなかったのかもしれない。上記作品は制作年代からいえば「戦後俳句」ではない。が、戦後日本を担った大正世代の男女のありようを示唆する好個の作例である。

 背負ふ鉄帽がつと触れ合ひ少女なり

 これも『火づくり』「風の章」所収の句。葦男の句集収録作品における「少女」の初出である。戦時下の実景。人ごみの中、恐らくは防空壕か列車のような狭い場所であろう。背負ったヘルメット同士ががつりとぶつかる。反射的に振り返り、「失礼」と言おうとした作者の前にいたのは一人の少女であった。

 戦時下の少女は、樹下で読書にいそしんだり、夢見がちに窓の外を眺める存在ではない。バケツリレーや竹槍の操練に汗を流し、麦藁帽の代わりに鉄帽をかぶる少女なのである。

 近現代の総力戦にあっては、非戦闘員たる銃後の女性も軍需工場などの生産現場に立ち、それまで男性中心だった職種に進出する。総力戦と女性の社会進出には正の相関性があるのだ。その意味で、1940年代前半は日本女性の集合的ジェンダーが目覚しい変容を遂げた時期に当たる。静から動、柔から剛へと変身する非常時の女性たち。鉄帽を背負った少女はそのような時代相の鮮やかな点描である。

 前置きが長くなったが、冒頭の句にもどる。ソフトボールのピッチャーであろうか。満開の夕桜を背景に最悪のタイミングで暴投する少女。しかも1回目ではない。逸れたボールはあらぬ方に転がり、走者は次々とホームインする。守備チームの歎息が聞こえて来そうな場面であるにもかかわらず、読後感はからりと明るい。少女の自由闊達さ、有り余るエネルギーが紙背から照射されているからである。

 この句が作られたのは、1989年頃。平成バブルのさなかである。1986年4月の男女雇用機会均等法施行後、狂熱的な好況といういわば経済の総力戦の時代を迎え、空前の売り手市場となった雇用情勢のもと、総合職採用の女性が大挙して企業社会に飛び込んできた。1940年代前半と同様、女性の社会進出が一気に加速した時期である。葦男の句集収録作品において「少女」を詠んだ最後の句となった本作品もまた、いみじくも女性の社会進出の時代の所産であった。


★―8青玄系作家の句/岡村知昭

 いつからの癖 あなたの胸で爪噛むのは   黒原ます子

 彼女は戸惑っている、そして自分自身が嫌でたまらなくなってしまいそうである、なにしろ恋人の抱擁のまっただなかにあるにも関わらず、なぜか「爪噛む」自分なのである。彼に対する感情がどうこうというわけではないはずなのに、恋人からの抱擁を真正面から受け止めることができない自分なのである。肝心のときになぜ、との思いが彼女の心に重くのしかかるなか、そんな彼女の感情を知ってか知らずか、恋人からの抱擁はさらに強く、熱さを帯びてくるものとなる。それとともに彼女はさらに強く「爪噛む」自分に出会ってしまい、自己嫌悪に爪も心も荒れ模様というところであろうか。しかし彼女のそんな堂々巡りにどこかいじらしさとかわいらしさも感じ取れてしまうのは、彼女が「爪噛む」のは恋人との関係においての自分自身のありようへの不満がもたらすものであるのを、本人が一番わかっているからだ。かつてジュディ・オングが歌った「魅せられて」(作詞は阿木耀子)には「好きな男の腕の中でも違う男の夢を見る」という一節があったのだが、この句の「好きな男の腕の中」にいる彼女には、いまやそんな余裕すらないのである。

 掲出句は1965年(昭和40)11月号に掲載。現在『俳句現代派秀句』(1996年1月 沖積舎)に収められている伊丹三樹彦の選評を以下に引いてみる。

 これは又、大胆なベッドシーンの接写ではないか。といっても、猥らな感じはさらさらなく、あるのは愛する相手(男)の胸の中でするおのが行為をいぶかしむ作者(女)の大人っぽい感傷であり、情感なのである。(中略)

 「おのが行為をいぶかしむ」女性像の居場所を、三樹彦は「ベッドシーン」に設定し、そこから鑑賞を進めてゆく。この設定の仕方のほうがよほど大胆ではないだろうかというのは置いて、この読みを進めることによって狙っているのは、女性像をより裸身に近い形で鮮明にすること、さらには彼女の行為を通して男女間の物語への想像力をより読者に対して喚起してゆくことの2点にある。その狙いがどこまで達せられたかはさておき、このときの評者の脳裏にはまぎれもなく、日野草城の「ミヤコホテル」の句の数々がよぎっていたであろうことは想像に難くない。「ミヤコホテル」の3句目から5句目、新婚の妻と迎える「ベッドシーン」は次のように展開してゆく、自分の行為そのものに対して、決していぶかしむことのないままに。

 枕辺の春の灯は妻が消しぬ     日野草城

 をみなとはかゝるものかも春の闇

 薔薇匂ふはじめての夜のしらみつゝ


 その上で掲出句に戻ってみると、「をみなとはかゝるものかも」とクライマックスを巧みにぼかしながら想像力を強く喚気させるのとは対照的に、クライマックスを過ぎた気だるさは確かに感じられる部分はある。だが、より具体的な鑑賞を進めようとするあまり、彼女の心象をどこかで取りこぼしてしまわっていないだろうかとの危惧もまたある。掲出句はどこかで「をみなとはかゝるものかも」との男性の期待に「大人っぽい感傷であり、情感」をもって応えていながら、一方においては抱擁のまっただなかにありながらまとまりのつかない苛立ちに心揺さぶられる姿を描くことで「をみなとはかゝるものかも」との視線に対する疑問を読者に対して突きつけてくる。彼女はいつでもどこでも、恋人の抱擁にただ喜んでいるだけの「かゝるものかも」ではないことを描く作者の目線は、どこか恋人の抱擁のまっただなかで「爪噛む」彼女の苛立ちのようにも見えてしまうのである。

 最後に別の一句(「夜の渚で ひろった あなたの冷たい耳」)の評の一節を引いてみたい、どうやら作者の「わたしは『かゝるもの』では決してありません」との声に、決して気づいていなかったわけではなさそうなのがわかる評である。

 この種の俳句では、いうまでもなく草城に秀れた先業があるが、ます子の仕事は、より主体的であり、より具象的であるところに、やはり戦後を濃厚に感じさせてくれる。


★―9上田五千石の句 / しなだしん

 柚子湯出て慈母観音のごとく立つ   五千石

 第一句集『田園』所収。昭和三十六年作。

 男性作者の女性を対象にした句というのは基本的には「恋の句」となるのが一般的だろうか。

 女性が詠む恋の句は、情念的であったり、傷心的であったり、あるいは女性の身体を詠うことで恋心をあらわし、一般的にも受け入れやすく、秀句として残る作品も多い。

 一方、男性が詠む恋の句は生すぎるのか、どこか嫌味に受取られるのか、市民権を得られていないようだ。だが森澄雄や鷹羽狩行の「妻恋い」や蜜月俳句のように、妻を詠んだ句は語り継がれる作品も多くあり、一線を画す。その違いは単純だが「恋」と「愛」の違いということになろうか。

     ◆

 掲出句も、妻を詠んだ句である。

 厳密に言えば「母」である妻の母性と、その母性をたたえる妻の姿にはっとし、さらに愛を深くした句、といえるかもしれない。

 この句の年、五千石は28歳。同年9月23日、長女日差子が生まれている。

 この句について、自註(*1)に〈母は私をみごもったとき、狩野芳崖描く「慈母観音」の写真版を掲げて、胎教としたという。これは眼前の柚子母子〉と記している。

 また著書 『俳句に大事な五つのこと 五千石俳句入門』(*2)の「自作を語る」の中では、その狩野芳崖の慈母観音がなんとなく脳裏に焼き付いてしまった、と書き、〈ある日ある時のでない、昭和三十六年十二月の冬至の夜の母子入浴後の姿〉として〈眼前に、私の「慈悲観音」像となって再現された〉と記す。

 慈母観音の絵を胎教に、というのも面白い話だが、それが五千石に伝えられ、五千石もそれをずっと覚えていた、というのも何だかすごい。

     ◆

 この句は「柚子湯」が効いたのかもポイントだが、「柚子湯」といえば「風邪を引かない」ということからも子への親の愛情を感じることもできるし、柚子湯のころの寒さを考えれば、風呂上がりの体からは湯気が立ち上っていたことは想像に難くない。

 慈悲観音は菩薩であり、その像は赤子を抱いた姿のものも少なくない。この句の観音である五千石の妻、霞の腕には生後三ヵ月ほどの長女日差子がしっかりと抱かれていたのだろう。

 湯気は「柚子」色のイメージを纏い、まるで後光がさすようだという感覚も頷ける。


*1 『上田五千石句集』自註現代俳句シリーズⅠ期(15)」 俳人協会刊

*2 『俳句に大事な五つのこと 五千石俳句入門』平成21年11月20日 角川グループパブリッシング刊


★―10楠本憲吉の句【テーマ:妻と女の間】/筑紫磐井

 妻よわが死後読めわが貴種流離譚

『楠本憲吉集』より。

 貴種流離譚とは高貴な身分の者が、親たちにはぐれて数奇な境遇をたどり、悲哀を舐めて再び高貴な身分に戻るという伝承類型であり、日本であれば源義経や塩冶判官などの物語をいうことになる。

 一言で言えば、まことに気障で嫌みな俳句である。自らを貴種ととらえ、いくつか職場を転々とした経験を流離と詠んでいるのだが、傲慢きわまりないというべきだ。おまけにそのシチュエーションを、自らが妻に語る場面としているのだからやりきれない。おそらく妻は「また言ってんのね」とせせら笑っているにちがいないが、憲吉はそうした凍り付くような心理状況を全くカットして得々と語るのである。「死後読め」というのは生前には評価されないという言い訳を含んでいるのであろう。女性の方がしたたかであり、そんな未練な男のことなどさっさと忘れてしまうということは気がつきもしない、妻は綿々と自分の回想に耽ってくれると思うお馬鹿な男なのである。

 もちろん憲吉はある意味で貴種であった。職業・俳句も流離であったことは間違いない。楠本家系図と、憲吉年表を見ればそれは証明してくれる。この句なかりせば、私も「戦後俳句を読む」で憲吉を書くに当たって貴種流離という言葉を不用意に使ってしまうかも知れない、そうした状況は確かにあったのである。ただ残念ながら憲吉のこの句を知ってしまった以上、あらゆる評論家にこの言葉は禁忌となる。憲吉の言葉を真に受けてしまってように思われて、評論家の沽券にかかわるからである。

 俳句については別に語る機会があると思うが、職場については自らこんな風に語っている。田中千代学園短期大学教授に就任し、殊勝にも「ここで老ゆべし女子大学の青き踏む」と詠んだが、14年間つとめた挙げ句田中千代学長から解雇を言い渡された。理由は、休講が多いのと教授会に出席しないこと。全く自業自得である。

 というわけで、この句は憲吉の数ある句の中でも愛唱に値する名句である。私個人としても、憲吉を知るために後世にぜひ残ってほしい。


★―12三橋敏雄の句【テーマ:『眞神』を誤読する】⑥⑦/ 北川美美

⑥ 晩鴉撒きちらす父なる杭ひとつ

 骨太な男の匂いがする句である。

「ばんあまきちらすちちなるくいひとつ」

 こうすると、「ちち」がかわいいヌードになり、鎧が外されたようにみえてくる。しかしひらがなにしたからと言って意味は降りて来ない。まずは親近感を持ち声にしてみる。何度も復唱する。再び凝視してみる。

 通常であれば、上から素直に主格を探し句意をかみしめるだろう。しかし、この句は隠れた助詞の読み方により主格が覆される。後半の「父なる杭ひとつ」を主格とし「晩鴉を撒き散らす」という読みを推奨したい。「撒き散らす」は空一面にカラスが飛び交っている様子、ヒッチコックの映画『鳥』のようなサイコサスペンスである。赤赤とした空にけたたましく飛ぶ黒いカラス。父であろう杭が、大地の男根そのもの、あるいは人柱のように打込まれている。社会のために枯渇して死んだ男の碑かもしれない。その上をカラスが祭のように飛び交うのである。

 「晩鴉(ばんあ)」という言葉に漢語からくる瀟洒で知的な響きがある(*1)。それに対して「撒き散らす」は乱暴と言えば乱暴な負の印象である。鴉は、腐肉食や黒い羽毛が死を連想させることから、様々な物語における悪魔や魔女の化身のように言い伝えられ、悪や不吉の象徴として描かれることが多い。しかし、その逆に神話・伝承では、世界各地で「太陽の使い」や「神の使い」として崇められてきた鳥でもある。ここでは「晩鴉」を神の化身と捉えたい。まるで祭であるかのように鴉が鳴き叫ぶその異様な景は、家を、国を、社会を支えてきた孤独な男である父への「挽歌(ばんか)」と掛詞になっていなくもない。『男たちの挽歌』(1986年香港・チョウユンファ主演)はハードボイルド映画だけれど、『眞神』は俳句のハードボイルドである。烏(からす)を撒き散らすのではなく敢て「晩鴉」を撒き散らしたことにその緊張感が生まれているのだろう。

 母に続く、父の登場である。

 再び高柳重信の『遠耳父母』より父の句を引く。


沖に

父あり

日に一度

沖に日は落ち


 重信の父は沖に遠い。敏雄の父は大地に根付き生活臭、家族臭がある。そして『眞神』の中の母は女、父は男として位置を示してくる。重信、敏雄の両者が父母を題材にした句を意識的に発表していることに互いの影響力を大いに感じ、それぞれの精神的内部を垣間見る像として浮かび上がってくるようだ。『眞神』の中の父、母の句のプロローグである。

 そして助詞を省いた敏雄の句に、「言葉」の力を信じようとする厳格な姿勢が伺える。散文的な内容、句意よりも言葉。雰囲気ではなく言葉。欲しいのは言葉。言葉がもたらす響き、陰影、情念、知性、過去、未来・・・言葉の力を改めて推し進め句意を排除しているようでもある。『眞神』が難しいと思うのは、この助詞の省略、切れをどう読むかにより読者の品格すらも疑われる怖さも秘めるからだ。言葉が一句の中で回転し、無言に立ち上がり器械体操のように動きだす。読者自身が着地点を定めるしかない。それが昭和48年発刊以来『眞神』はいまだ人気の句集である所以だろう。

 「晩鴉撒きちらす」を司祭のように飛び交う鴉たちの光景と思うと、上掲句は『眞神』のタイトルとなった、#55句目の「草荒す眞神の祭絶えてなし」と呼応するように思えてきた。『現代俳句全集 四』(立風書房)に収録された『眞神』ではこの#6「晩鴉撒きちらす」を冒頭句に配置換えしている。改めて#55句目で再検証したい。


*1)「晩鴉(ばんあ)」は夕暮れに鳴きながら巣に戻るカラスである。戴復古の詩に「煙草茫茫帶晩鴉」の一文がある。「遠くの霞んだ草むらは、ぼうっとして果てしなく、夕暮れに鳴きながら巣に戻るカラスの姿が長く列になって続いている。」というものである。「晩鴉」は、人に例えるならば晩年、季節ならば秋だろうか。


⑦ 蝉の穴蟻の穴よりしづかなる

 七句目にして俳句で見慣れた言葉に出くわし懐かしくもあり安心もする。穴のリフレインとともに蝉と蟻の季重ねは、逆に古典的ともいえよう。

 確かに蝉の穴は蟻の穴よりも静かである。蝉は地上にでるまでに数年を費やし、自力で土を掻き除けて地上にでる。蝉の穴は蟻の穴よりも深く暗く大きい。「よりしづかなる」とう表現により、「意外にも蝉の穴の方が静かではないか」という驚きとも読み取れる。また闇である穴を比較し涅槃の選択をしているようにも読める。

 蝉の幼虫における地下生活は3-17年(アブラゼミは6年)に達し、短命どころか昆虫類でも上位に入る寿命の長さをもつ恐るべき小動物である。蝉の地中での生活実態はまだ明らかになっていないことが多いらしい。穴を詠みつつ命の時間を暗示している点は見落とせないだろう。充分にアフォリズム的な深読みを読者それぞれが楽しめる。

 深読みをしてみよう。イソップ童話の「アリとキリギリス」の結末はさまざま改変がされ続けているらしいが最も有名なのは、ウォルト・ディズニーの短編映画で、アリが食糧を分けてあげる代わりにキリギリスがバイオリンを演奏するというもの。地中海南欧沿岸のギリシアで編纂された原話では本来「アリとセミ」である。冬まで生きられないセミがクライマックスで食糧を懇願する矛盾はあるが、掲句に重ねるならば、地中に出たセミから物乞いされたアリが、「永年地中にいたセミが穴からやっと出て行ったが、静かであると同時に物寂しい」とアリ自身が思っているという見方も考えられなくもない。

 蟻の穴は迷路のように複雑で沢山の同胞がうごめいている。『蟻の兵隊』(2006年/監督:池谷薫)というドキュメンタリー映画の中で日本軍残留を強いられ蟻のようにただ黙々と戦ったという証言が脳裏をよぎる。蝉の穴は大きく暗く深く、まもなく、あるいはすでに命が消えているかもしれない。涅槃として考えるならばどちらがよいのだろうか。両者とも過酷な涅槃の穴である。

 上梓から39年目の『眞神』の地中で過ごした蝉の幼虫は今年もしずかに地上に這出てしずかな穴を残すのである。


⑧ 火の気なくあそぶ花あり急ぐ秋

 複雑な句である。

 火の気、花、秋が、「なく」「あそぶ」「あり」「急ぐ」で繋がっている。ジグソーパズルのようだ。一句の中の動詞、形容詞の多用は新興俳句、ことに戦火想望俳句に多くみられる。

 射ち来る弾道見えずとも低し 『弾道』

 そらを射ち野砲砲身あとずさる  〃

 ⑧にみる動詞、形容詞の多用は、「新興俳句は壊滅した」(渡邊白泉全句集・帯文)と言い切る敏雄の帰るところのない修練なのだろう。動詞の多用による散文化を拒む敏雄独自の創作の視点がみられる。そして「季」について考えるつづける吐露のようにも思える。

 「火の気なく」と言えば、火がない、あるいは人がいない様子。「あそぶ花あり」とは、はっきりとした目的をもたない花の動作、あるいは、華やかな女性の様子等が想像でき多義である。「急ぐ秋」は、足早に秋が過ぎゆくとともに人生の残りの時間を考えているようにも読める。

 ここでは「あそぶ」と「急ぐ」、「花」と「秋」が対極になっているのが面白い。意味よりも、技法的試みがこの句には見られる。⑦⑧⑨に関しては、言葉の繋がり、遊び、一句中の言葉の配置、句集中の配置に目が行く。


⑨ こぼれ飯乾きて米や痛き秋

 ⑧の「急ぐ秋」につづき「痛き秋」である。身近な言葉で先人たちが多く詠んだ「秋」という壮大な詩歌の季の原点に還っていることに気が付いた。『古今集』の時代には、秋を時間とともに物が移ろう悲しい季節と感じていた。「急ぐ秋」「痛き秋」は、詩歌が生まれた頃の秋を現代に通じる季として言い換えているように思えるのである。

 「こぼれ飯乾きて米や」は、確かにありえる風景である上に、上五中七の12音で水分が抜ける時間経過を示し、且つ古俳句の趣がある。下五に「痛き秋」を持ってくることにより、さらに敏雄独自の風格が出たのだと思う。

 「痛き秋」が米が刺さって痛いのか、痛切な心情を言っているのかは、はっきりと理解できない。しかしながら「痛き」という響きがすでに人の心に刺さってくるような、視覚からもジンジンくるような感覚はわかる。

 また「こぼれ飯」とは、当然、食事中、配膳中にこぼれた飯のことだろう。確かに「飯をこぼす」「食事をこぼす」という。「飯」ではなく「米」をこぼす句は過去に作例がある。「立春の米こぼれをり葛西橋 石田波郷」は、葛西橋に闇米の検問所があった様子の句らしい。さらに「こぼれ米」について甲乙つけがたい下記例句があった(@日めくり詩歌 高山れおな風)。

 逆立つは屍の黄金虫こぼれ米   山本紫黄

 尼たちの菫摘みけんこぼれ米   桜井梅室

 「米」をことさら大切にする国民性だからこそ「こぼれ米」が効く。ならば敏雄の「こぼれ飯」もそれと同じ効果がある。「こぼれた飯が乾いて炊飯前の米になった、痛い秋だな」という以外多分何も言っていないのである。

 ⑦⑧⑨は俳句の軽みを思いながら読み進めることができる。その中で特に⑨は秀句として取り上げられることが多い。古俳句の趣と「痛き」による感覚表現が時代をクロスオーバーしているからだろう。


★―13成田千空の句/深谷義紀

 荷一つの夜店をひらく女かな

 今回のテーマは「女」である。正直に告白すれば難渋した。前回述べたように、千空作品の中で、「男」の姿は明確な輪郭をもって立ち上がってくる。北の大地で懸命に生きた農夫たちである。それに対し、「女」を描いた作品がいまひとつ脳裏に浮かんで来ないのである。

 千空作品で取り上げられた女性といえば、まずもって母ナカと妻市子夫人であるが、彼女たちはむしろ「家族」という範疇で捉えるべき存在であろう。また、義母や伯母を詠んだ作品もあるが、これらも親類縁者という位置付けで考えるべきである。

 一方、第8回(テーマ:肉体その他)で取り上げた、

 虫送る生身の潤び女たち   『白光』

の句や、

 雪やぶは女体の丸さ奥津軽   『白光』

などは「女」という性を取り上げて印象深い作品ではあるが、著しく象徴性が高い。

 一時は、「具体的女性像が描かれていないのが千空作品の特徴だ」と結論付けて、半ば居直ろうかとも思いかけたが、句集をもう一度読み返し、あらためて「女」の句を拾ってみた。以下に幾つか記してみよう。

 一つのカテゴリーは、前回の農夫の鏡写しのような農婦の句である。

 腰太き南部日盛農婦かな   『天門』

 新米を大きく握る農婦かな    『忘年』

 もう一つのカテゴリーは、千空がある時期深く傾倒した太宰治関連の、

 美しき白服の人園子なり   『忘年』

 太宰忌や雨に花咲く女傘   『忘年』

などである。ちなみに、一句目の「園子」は太宰の娘、津島園子である。

 だが、どちらのカテゴリーの句も、「女」をテーマとした千空の代表作というには何か物足りない気がした。

 あきらめかけた頃、目に止まったのが掲出句である。

 第3句集「天門」所収。

 奇を衒った叙法もなく、句意は平明。だが、一読後鮮やかに一つの景が目に浮かぶ。少し蓮っ葉な感じの女でもいいだろう。何しろ女一人で夜店を切り盛りし、生き抜いてきたのだから。上五の「荷一つの」という措辞が、その女の今の姿を活写し、さらにはそれまでの人生を暗示するようである。

 千空の眼差しは、慈愛に満ちたというより、むしろ淡々とそうした女性の姿を捉えている。しかし、決して突き放してはいない。淡々と詠むことで、かえってそうした女の姿あるいは人生を己に引き寄せているような印象がある。千空らしい「女」の詠み方だと感じた。