2026年2月27日金曜日

【連載】現代評論研究:第24回各論―テーマ:「魚」を読む・その他― 藤田踏青、飯田冬眞、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、北川美美、深谷義紀

(2012年05月04日/11日/18日)

●―1:藤田踏青【近木圭之介】、

 魚を競る銀河魚臭を発す   注①

 テーマに添った句を探してみたが、数は少なかった。

 さて掲句であるが昭和53年の作であり、夜明け前の下関あたりの漁港の風景とみるのが妥当であろう。そして宇宙の生と死を象徴する銀河が発する魚臭もその超越的存在としての神意でもあり、スケールの大きな句柄となっている。渡辺白泉に「ふつつかな魚のまちがひそらを泳ぎ」という句があるが、イロニーの有無と生死への言及の有無との差異が、大空、銀河への対峙の仕方の差異となっている。

 また「魚」そのものを詠んだ詩も下記の1篇があるのみであった。


 <魚と思想>   昭和27年作   注②

 罐詰の魚には頭がない

 脚ばかりを揃えて並んでいる

 身うごきも出来やしない

 窓のない部屋は真黒だし

 思想は海に忘れて来た

 だから罐詰の魚には頭が無い


 この詩が発表された昭和27年までには、昭和23年に帝銀事件、昭和24年に下山事件・三鷹事件・松川事件が起り、昭和25年には朝鮮戦争が始まり、昭和27年には皇居前広場にてメーデー流血事件が起る等、当時の世相には不穏な気配が漂っていた。その閉塞状況が「罐詰」の状態であり、それ等を前に国民はただ黙って見つめているしかなかったのであろう。この詩の「魚」を「人間」に置き換えればそのような状況が把握されるのではないか。思想とは体系的にまとめられたものであるが故に、揃えて並んでいる脚が示すものは思想の喪失という不気味な重層感を伴なってくる。またこの詩から小林多喜二の「蟹工船」も想起されるのではないであろうか。過酷な蟹工船の中の未組織労働者の姿もそこに垣間見られる。

 他の「魚」に関連した句(既掲出句を含む)を掲げておこう。

 漁夫の手に濃い夜があるランプ     昭和30年  注①

 漁村で酒と蟹を食べ自殺論聞きながら  昭和53年   々

  戦後、不当に設定された李承晩ライン(注③)によって、日本海西部から日本漁船が締め出され、強引に拿捕されたりしていた。その様な状況を把握して前句を読めば、自ずからその「濃い夜」の奥深い何とも言えない哀しさと、チラチラと点る「ランプ」の儚さが伝わってくる。また後句は先にも取り上げたもの(第4回テーマ「死」)だが、何故か当時の漁村の風景やそこに生きる人達にはある種の冥さが感じられ、一抹の不安というか、哀しさが漂っていたように思われる。そして又漁村にはいつもと変わらぬ生活が巡ってくるだけの日々が・・・。それを圭之介は次の様な詩で捉えている。


 <漁村にて>   昭和28年作   注②

 朝になると黄色い太陽のまわりに

 魚のうろこがあった

 夜が来ると

 乾しひろげた網の目の中に 星がたくさんあった

 立ち並んだ家々の封建性が岬を突き出して波浪をさけている


今は昔ではあるが。


注① 「ケイノスケ句抄」  層雲社  昭和61年刊

注② 「近木圭之介詩抄」  私家版  昭和60年刊

注③ 李承晩ライン:昭和27年に韓国の李承晩によって一方的に、済州島付近から対馬海峡にわたる漁場での日本漁船の操業が禁止された。しかし昭和40年に日韓漁業協定の成立とともに撤廃された。


●―2:土肥あき子【稲垣きくの】、【テーマ:流転】赤坂時代(戦後編) 

 春雷や焼け残りたる土蔵に住み   『榧の実』

 土蔵には「くら」のルビが付く。赤坂福吉町には、年譜上では昭和14年(1939)から昭和34年(1959)の20年間居住していることとなっているが、戦争中は疎開し、戦後は焼失した家屋を再建するまでの間、弟家族の暮らす鵠沼に身を寄せもし、気に入りの場所さえ安住を思うにまかせることはできなかった。体調を崩したきくのは半年余り築地の病院に入院するが、看護婦と一緒に銭湯へ行ったり、買い物や歌舞伎にも出かけられる心安い場所だった。再建中の家も、病院からたびたび赤坂へと見に通っていたようだ。

 入院中のエッセイによると「焼跡へ小っぽけな家を建てた」とあるのは、きくの流の謙遜がいわせた言葉だが、のちに借家として貸し出したこの家を作家の瀬戸内寂聴が借りる前提で見に行った折りの記述が残されている。

 「大きな石垣の積まれた見るからに豪壮な邸宅の構えで、私は高い石垣の前に立っただけで、怖れをなし、とても私の住める家ではないと思った。(中略)平屋の邸宅は見るからに上品な数寄屋造りだったが、雨戸が建て廻してあるせいか、陰気な感じがした」(『孤高の人』瀬戸内寂聴)

 広大な敷地のなかに自宅と離れを建て、離れには満州から引き揚げてきた末弟一家を住まわせた。彼らが引越したのち、離れを母屋に移築したかたちで、ロシア文学者の湯浅芳子との同居がある。先に引いた『孤高の人』は、寂聴が書いた湯浅の評伝である。本書に登場するきくのは、湯浅から聞いた話しとして「女優だったが芸が下手」「男爵の囲われ者」「句集も二冊出たし、俳人協会賞ももらったのよ、でも、まあ、そこまでだった」と散々な書かれようだ。寂聴自身が実際に軽井沢できくのに会った印象も「曖昧な表情、身体のこなしに倦怠感が滲み、メランコリックな雰囲気」と決して好意的ではない。

 水泳が得意で、颯爽としたスキー姿が写真に残されているきくのが、いつのまにか「曖昧でメランコリック」な女性へと入れ替わってしまった。誰の口にものぼっていたのだろう「囲われ者」という言葉が、きくのを徐々に人嫌いにさせていったのだろうか。

 昭和32年(1957)には「さるひとの」の前書がある

 でで虫やどこまでひとのへそまがり

 昭和33年(1958)には「にくきひとの」の前書がある

 言ひ捨ててぷいと出てゆくみぞれかな

 そして、昭和34年(1959)には

 ショールしかとこの思慕そだててはならず

 愛に翻弄され、恋にときめく奔放なつぶやきにだけは、いつまでも溌剌と刺激的なきくのの横顔を見せ続ける。


●―4:飯田冬眞【齋藤玄】

 裂く鯉の目には涅槃の見ゆる筈

 昭和52年作。第5句集『雁道』(*1)所収。

 齋藤玄の晩年の三句集(『狩眼』『雁道』『無畔』)から魚の句を見つけるのはたやすい。そしてあることに気が付く。「なぜ、こんなにも鯉の句が多いのか」と。『狩眼』17句、『雁道』24句、『無畔』5句。数字を並べてみてもあまり意味はない。

 曠野より遠へ行きたき春の鯉   昭和47年作 『狩眼』

 〈春の鯉〉に自己を仮託しているのはあきらか。病床にある玄は、春の野原に遊ぶことを夢想した。池の中を泳ぐ鯉もまた、自分と同じく池の外に出ることを希求しているにちがいないと把握した。そして〈曠野より遠へ〉という空間的な範囲を示したうえで〈行きたき〉という心情をダイレクトにぶつけることで、〈春の鯉〉の閉塞感と作者の鬱勃とした心情が重なりあって、リアリティが増してゆく。こうした対象への観念的同化は齋藤玄の俳句のひとつの特徴でもある。

 寒鯉に見ゆれ光の棒に見ゆれ   昭和50年作 『狩眼』

 動かぬが修羅となるなり寒の鯉   昭和50年作 『狩眼』

 寒鯉の腹中にてもさざなみす   昭和50年作 『狩眼』

 対象を観念的に把握しているとはいえ、基底部にあるのは、対象を凝視する確かなる眼であることは疑いようがない。

 たとえば、一句目、動きのない寒鯉を見ているうちに、それが〈光の棒〉なのか〈寒鯉〉なのか、判然としなくなる。その感覚のゆらぎを〈見ゆれ〉のリフレインによって表現しているのだが、ここにも凝視のちからを読み取ることができるだろう。

 二句目、水底に魚体を沈めてじっと動かない〈寒の鯉〉を見て、そこに〈寒の鯉〉の動かないことへの執念を読み取ってしまうところが、さきほど指摘した「観念的同化」にほかならない。感覚器官を通して対象の特徴を概念的にとらえたあと、心象内で対象と自己とが同化してしまう。それを観念的同化と名付けてみた。〈寒の鯉〉もほんとうは動き回りたいのだ、しかし、動かないことに決めたから何が何でも動かない。そうだ、寒鯉は今、水と戦っているのだ。そうに違いない。動かないように水と争っているのだ。その観念的把握が、〈動かぬが修羅となるなり〉という措辞に結実して一句を構成していく。

 三句目の〈腹中にても〉がまさしく観念的把握であり、眼前にあるのは〈寒鯉〉と〈さざなみ〉でしかない。〈寒鯉〉の静と〈さざなみ〉の動を結び付けているのは、玄の心中で混ざり合い、つかみ出してきた造型のためのことば〈腹中にても〉にすぎない。そこがこの句の生命線である。水面に起きた〈さざなみ〉が水中の〈寒鯉〉にまで及び、動かない鯉の腹中に入って通り抜けてゆくまでを写生したものである。見えてはいないものを見えているように描くこと。虚実の間にひそむ真実をことばのちからでとらえようとする齋藤玄の意思のようなものが、この句からもうかがえるだろう。

 鯉喰つて目のあそびゆく冬の山   昭和50年作 『雁道』

 声持たぬ涅槃の鯉と遊びけり    昭和51年作 『雁道』

 ひるがへる遊戯を尽す秋の鯉    昭和51年作 『雁道』

 鯉と遊びをモチーフにした三句をあげてみた。

 一句目の不思議なおかしみは〈鯉喰つて〉の俗っぽさと〈冬の山〉の神々しいまでの静けさが同列に扱われている点にある。〈目のあそびゆく〉に作者の心象がよく表れている。ここで喰われているのは、筒切りにした鯉の切身を赤味噌汁でじっくり煮込んだ「鯉こく」だろうか。あつあつの鯉こくをすすりながら〈冬の山〉に目を泳がせてしまったことを鯉に言い訳しているような気分が伝わってきて楽しい。人は皆、他の生き物を喰うことでしか生きられない。この世に生きるものの哀しみのひとつである。避けて通れない哀しみであれば、生き切るしかしょうがないのである。根源的な哀しみをおかしみに包んであらわすのが俳諧のひとつの道筋でもある。二句目、三句目は、そうした玄の考えが〈声持たぬ〉、〈遊戯を尽くす〉ににじみ出ている。

 裂く鯉の目には涅槃の見ゆる筈    昭和52年作 『雁道』

 人の口腹を満たすために鯉は裂かれている。もちろん鯉の目に〈涅槃の見ゆる筈〉などない。涅槃自体が人間の生み出した観念だからだ。だが、涅槃の日に鯉を裂くという殺生を犯すことを誰がとがめられよう。誰人もとがめようがない。しかし、罪の意識は人の心に残る。だからこその〈涅槃〉なのではないか。人に裂かれて喰われていく鯉の姿に人の命を慈しみ自ら身を投げ出した仏の姿を見出したおかしみ。そして、裂かれる鯉に仏の姿を見出さざるを得ない哀しみが、この句にはある。明らかに嘘であるにもかかわらず、〈涅槃の見ゆる筈〉の〈筈〉という肉声のことばがあることで、一句にリアリティが生まれている。それが肉声であるがゆえに、読者を「そんなばかな」という観念世界から「そうかもしれない」という虚の中の実へと軽みに包み込んでいく心地よさを持つ。

 「詩は肉声であること」と書いた齋藤玄の達成を示す一句といえるだろう。


*1  第5句集『雁道』 昭和54年永田書房刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載 


●―8:岡村知昭【青玄系の作家】

 木星号墜落す鯖焼きをれば   日野晏子

 掲出の一句に登場する「木星号」とは1952年(昭和27)4月9日に発生したいわゆる「もく星号墜落事故」のことを指している。出発してすぐに消息を絶った羽田発福岡行の日本航空の旅客機「もく星号」(当時はノースウェスト航空の委託運航)は、懸命な捜索も空しく、翌日に伊豆大島の三原山の山腹で墜落しているのが見つかり、乗客・乗員37人全員の死亡が確認された。事故の原因は現在に至るまでわかっていない。当時の日本では例のない旅客機事故により多くの犠牲者を出したこともさることながら、「もく星号」事故では捜索の過程においてほとんど手がかりがつかめなかったために未確認情報が錯綜し、その結果「海上に不時着」「乗客・乗員全員の生存を確認」との誤報が流れたり、九州の地方紙では亡くなった乗客に「生存者」としてのコメントを創作するなどの混乱が相次いだという(ここまでウィキペディアの記述を参照)。

 おそらく自宅のラジオを通じて大惨事の一報とその後の未確認情報の錯綜による混乱ぶりを耳にしていたであろう作者であるから、もしかしたら「乗客・乗員全員無事」の誤報を聞いてひとたびは安堵したのかもしれないし、墜落した機体が発生されて「乗客・乗員全員死亡」が確認されたとの一報には安堵から一転した最悪の結末に気の沈む思いにとらわれたのかもしれない。気の沈む思いにふけるなかにあって、ラジオは墜落事故の続報を伝え、犠牲となった乗客・乗員たちの名前を次々と読み上げてゆく。練炭コンロの上で脂の乗った鯖のバチバチと焼ける、いつもと変わらない日常の光景に響く音が、なぜかいつも以上に大きく聞こえているように思えるのは、「生存」と「死亡」の間に振り回されながら、最悪の結末を迎えてしまったやりきれなさからのものなのだろうか。整理のつかない気持ちを表すかのように、この1句で作者はただ「木星号墜落す」と鯖を自分がいま焼いているという行為とを取り合わせることのみに徹し、決して自分の感情を露わにはしていない、いや露わにはできなかったというほうが正しいのかもしれない。その間も鯖は脂をしたたらせながら焦げてゆく。この鯖を食べるであろう病床の夫もきっと大惨事に心痛めているのかもしれないが、夫婦にとってはあまりにもかけ離れた場所で事態は刻々と動いているのが、どうにもやるせなさを感じさせ、かえって1句に自分の想いを書くことを思いとどまらせたのかもしれない。

 ラヂオ啾々と濁流に人溺る    日野草城

 泣く母の声届く霜置く船に

 静臥時のラヂオ職業案内を

 妻の作品に続いては、夫である草城の最後の句集となった『銀』からラジオから伝えられる世相をモチーフに詠んだ作品を引いてみた。こちらも余分な感情の露出はできうる限り避けて、起こったニュースの核心をそのままに掴み取るような作風でまとめている。1句目は「北九州南近畿水禍相次ぐ」との前書きが付く。「人溺る」の結句にラジオの前と現場との距離感を感じさせはするが、水害のニュースを読み上げるアナウンサーの声と大きな被害をもたらす濁流の響きとを微妙に重ね合わせることで、現在進行形の水害の臨場感だけでなく、刻々と伝わるニュースに昂ぶりと恐れを抱え込んだ自分の心情も表している。2句目はこちらも「帰る興安丸」との前書き付き、引揚船「興安丸」の舞鶴港への到着を伝えるニュースからのものであろう。「泣く母」と「霜置く船」の取り合わせはシベリア抑留を背景にした有名な「岸壁の母」のエピソードにつながる面と持ち合わせているのが興味深い。3句目は「職業案内」、今でいうところの求人情報がラジオで放送されていたというところが当時の雰囲気を伝えているが、ラジオから流れる求人に耳を傾ける「静臥」を余儀なくされている自分の姿への、さまざまな思いも病と闘う身体中を駆けめぐっているのだろう。もちろん全身全霊を傾けて自分の看護に取り組んでくれる妻への感謝も大きいはずだ。看護する妻と看護される夫、ふたりの明け暮れにとって、ラジオの存在は確かに大きかったのである。病床の草城にはラジオで楽しんだ音楽に関しての作品も多いが、これはまた別の機会に。

 最後に。「もく星号」事故で亡くなった乗客のひとりだった漫談家の大辻司郎、墜落地点の伊豆大島から遠く離れた九州の地方紙に「無事生存」のコメントを創作されてしまったこのベテラン芸人は、戦前の西東三鬼に「サアカス」連作で次のように詠まれている。

 大辻司郎象の芸当見て笑ふ    西東三鬼

 戦前に新興俳句の旗手だった西東三鬼にサーカス見物を楽しんでいる様子を1句に詠まれ、戦後は自分が亡くなるきっかけとなってしまった航空機事故を、新興俳句のもう一方の旗手だった日野草城の妻である晏子によって詠まれたというのは、何かしら因縁めいたものを感じずにはいられないのだが、戦前戦後と自分が俳句のモチーフとして取り上げられていたのを芸人大辻司郎、果たして気づいていたのかどうか。


●―9:しなだしん【上田五千石】、

 鱒の陣冬の清水を聴くごとし

 第二句集『森林』所収。昭和四十八年作。

 この句の自註には〈富士永明寺に岸風三楼を招いて句会。泉水の鱒の群れは整然としずまりかえって、なにかを聴聞しているようであった〉とある。

 「永明寺」は、富士市にある曹洞宗の名刹で、富士山の湧水があるようだ。掲出句は、永明寺、富士市泉水辺りを吟行した中での作だろう。

     ◆

 自註にある岸風三楼は、明治四十三年岡山県生まれ。富安風生門で私の先師に当たる。

 五千石は著書『俳句 1983-1994』(*1)の第一稿の「一月 戦後俳句の見直し」の中で 

岸風三楼の遺句集『往来以後』(角川書店)など、まさに「戦後」の証言といっていい内容で昭和二十二年から昭和五十七年六月の「六月の夢の怖しや白づくし」「泰山木仰ぐ躬を寄せ過ぎゐたる」に終わる氏の第二句集。質量とも読みごたえがある。

 きりん草咲けども焦土かくし得ず (昭22)

 甘藷かつぐ未婚の腰のたしかさよ (昭32)

 水中花明日あるために美しく (昭42)

 魂迎ふ不死男仏をはじめとし (昭52) 

任意に抽いても時代が滲透している。風三楼作品の検証もまた忘れられまい。

と、頁を割いている。

     ◆

 さて、掲出句の「鱒」はサケ目サケ科の、「マス」あるいは「~マス」という名のついた種類の俗称。この句での「鱒」はいわゆる虹鱒のことを指しているように思われる。湧水に棲みついたものだろうか。真冬の静かな湧水にじっと動かない鱒の群れは、儚いが美しい姿をしていたに違いない。

 この句の制作年、昭和四十八年は、『畦(通信)』の第一号発行の年。さまざまな俳人との交流が深まっていた頃だったのだろう。風三楼を招いた句会もその一環で、楽しく緊張感のあるものであったと想像する。

     ◆

 ちなみに『俳句 1983-1994』は昭和五十八年から平成六年までの俳句時評で、主として読売・朝日・共同通信系の新聞に執筆したものを編んだものである。


*1) 『俳句 1983-1994』11994年邑書林刊


●―10:筑紫磐井【楠本憲吉】、【テーマ:妻と女の間】

 余寒原稿あと二時間で妻起きる

 昭和63年『方壺集』より。

 あまりにも楠本憲吉の軽薄さを述べすぎた。他の「戦後俳句を読む」ではこれほど主人公の悪口を書いている例はないであろう。それは、憲吉がそう読める俳句を書いているからであるが、逆にそうした読みが可能であることを本人も覚悟しているせいもあるであろう。小悪人ぶったスタイルを、本人も肯定しているのである。

 しかしそうした句ばかりが並んでいると、時折、そうした演技の向こうに見える憲吉の素顔も見つけることが出来そうだ。

 掲出の句など、夫は夫、妻は妻で全く別の生活をしているように見えながら、夫は妻の起き出す時間を知っているのである。最低限の関心を持っていることが伺える。それがどうしたといえるかも知れないが、憲吉にしては珍しいことであるのは間違いない。

 ほうれん草炒めつつ妻の古き唄

 昭和43年『孤客』より。

 妻が知っているのは古い唄だと言うことに作者が関心を持ち心が動かされること自体、ちょっと今まで見てきた憲吉とは違う思いがして違和感を感じるのである。今まで見てきたというのは、

 寒厨(かんぐりや)暗いシャンソン歌うな妻

 惜春や妻の寝息のアンダンテ

 終い湯の妻のハミング挽歌のごと

のような派手さのあふれた句のことである。

 そしてその時感じる違和感は決して嫌なものではない。かえって、こんな心境にほんの僅かでもなれることにほっとする感じを抱く。

 正直言って、楠本憲吉は嘘つきである。四六時中嘘をついている、俳句は上手に嘘をつくことだからそれは決して非難されることではない。しかし、こと男女関係や人間関係を俳句に持ち込んで嘘をついていると、日常生活と文芸の間の揺らぎが、人格的な嘘つきに見えてしまうことがある。憲吉はそれに近い。しかし、そうした嘘つきが洩らす僅かな溜息や眼差しを見逃してはならない。


●―12:北川美美【三橋敏雄】【テーマ:『眞神』を誤読する】38.39.40.41.

38. うぶすなの藁がちの香よ疲れ勃つ

 「ガチ」という言葉が2000年後半から20-30代世代で使われるようになったようだ。「本気/本当」の意味だが、現在ではそれを飛び越えて「超」や「激」と同様の「程度が激しい、出来がいい」という意味合いも持っている。接頭語として使う。しかし、収録作家の年代が30-40代だからか『超新撰』は「ガチ新撰」とは呼ばれていないようだ。接尾語としての「がち」。「勝ち(がち)」であれば、「その傾向が目立つようになるさま」(『三省堂古語辞典』)ということ。

 産土神(うぶすながみ、うぶしなのかみ、うぶのかみ)は生まれた土地を領有、守護する神。あるいは本貫(先祖の発祥地)に祀られている神。

 では、「うぶすな(産土神)の藁がちの香」とは、私たちの祖先が土地に根付いて生きてきた証のような香り、家畜糞とともに藁などの副資材を混合した堆肥の匂いの中から藁の香りに傾いて薫ってくるということを想像する。いわゆる土の第一印象の香り、トップノートが「藁がち」であるという中でトランス状態となり「疲れ勃つ」。肉体を酷使した男、田園の男、再びミレーの『種まく人』である。伽羅、栴檀などの源氏物語の王朝の香りとは異なる農耕民族の香りである。

 そして「疲れ勃つ」っている作者敏雄の目線はあまりに遠い。自己の姿でありながら醒めすぎる目で望遠していると思える。別の「われ」を観察しているように映ってくる。

 33句目から38句目までの句を配列順に記す。

 行雁や港港に大地ありき

 捨乳や戦死ざかりの男たち

 然(さ)る春の藁人形と木の火筒(ほづつ)

 正午過ぎなほ鶯をきく男

 共色の青山草に放(ひ)る子種

 うぶすなの藁がちの香よ疲れ勃つ

 ただ寡黙に生きることに従い、流されて港へ行き、死にゆく男達を葬り、呪術ともなる道具を回顧し、耳の奥にいつまでも鶯の声がし、野に出て肉体が性的に反応し、脳裏に蘇るさまざまな出来事が反転しているネガフィルムのように、われの中で螺旋を描いている。全ては事実でありながらもうそれは過去という夢に変わったのか。全ては何も無かったということに等しい。ただ、ここにわれが生きるというだけの現在の生という命があるのみである。出会った人も、見たものも、聴いたことも全てはまぼろしだったのではないか。事実と事実の間、瞬間と瞬間の間にただわれがいたというだけなのだろうか。

 産土神に導かれるように自分の肉体は興奮し、子種を放出する健康な肉体を持つ。われは孤独な塵でありミトコンドリアと同じ生命体をただ老いていくだけなのである。そして命ある以上、いつかは死ぬのである。今ある個の命を生きている、ただの「われ」が存在することが感じ取れる。


39. 真綿ぐるみのほぞの緒や燃えてなし

 桐の箱に入った臍の緒を母から渡された。確かに真綿にくるまっていた。ミイラのような臍の緒がただそこにあった。生体から水がなくなると繊維質だけになる。母と自分を結ぶものであった証、己が人の腹から生れて来たという証である。しかし母と己の関係は今は別の人間として別の時間を生き、生まれたときから別のことを考えている。いつから自分は自分というひとりの人間であることに目覚めたのだろうか。真綿で大切にくるまれたように赤ん坊は祝福され大切な宝のように育てられる。このミイラのような臍の緒がなくなったとしても何の影響もない。戸籍も年金番号も電話番号も今まで通りである。自分が死んだらこの桐の箱は誰が始末しなければならない。燃えてしまえばなくなって何もなかったかのようだ。母と自分がこの管で結ばれていたという事実も過去もなかったことと思うこともできる。

 措辞「燃えてなし」ということは、今まではあったものが存在して今、ここにないこと。けれど関係とは目に見えないものである。管は切られてなくなって、それでも縁は切れないもの、母子以外の縁もそうなのだろうか。


40. 夕より白き捨蚕を飼ひにける

 「捨乳(すてぢち)」が出てきたが、ここでは「捨蚕(すてご)」である。病気あるいは発育不良の蚕は、野原や川に捨てられる。「捨蚕」と「捨て子」同じ響きであることがどこまでも悲しい。蚕は家畜化された昆虫であり野生に生息しない。またカイコは、野生回帰能力を完全に失った唯一の家畜化動物として知られ、人間による管理なしでは生育することができない。人の手により育てられる蚕は人間の赤子のようでもある。

 生きながら捨てられているものを飼う。臍の緒が燃えてなくなり、捨て子となったわれのように。生きているものはいつか死ぬ。生きているものだけがこの世にいる。今、生きているものは、この作者と蚕だけのような錯覚にも陥る。他に生きているものはいないのか、という問いでもあるように。

 「夕より~飼いにける」という時間経過は何なのだろう。夕べから現在までの時間経過が妙な想像をも働かせる。正確に時制を考えると、夕から現在まで捨蚕を飼い続けているということだが、ではこの先をどうするのかは、何も言っていない。捨蚕を飼うことがはたして慣れない人にできるのか。蚕は野生回帰能力のない動物であり、蚕を桑の葉にとまらせても、ほぼ一昼夜のうちに捕食されるか、地面に落ち、全滅してしまう。幼虫は腹脚が退化しているため樹木に自力で付着し続けることができず、風が吹いたりすると容易に落下してしまうからだ。加えて病気あるいは、発育不良の捨蚕である。

 過去から現在進行形で捨蚕を飼っていることがわかるが、この先おそらく長くは生きていられない命であることが伝わってくる。


41. あまたたび絹繭あまた死にゆけり

 真綿、捨蚕の次は、絹繭である。敏雄の生れた八王子は絹織物の産地として名高い。蚕の一生はわずか57日ほどで幼虫は桑の葉だけを食べつづけ4回の脱皮を繰り返す。やがて蚕は1,500mほどの糸をおよそ2昼夜吐きつづけ、頭を8字形またはS字形にふりながら、美しい一粒の繭をつくりあげる。蚕は繭の中でサナギとなり、蛾になって繭殻を破って飛び立つ。蛾になる前に殺蛹し、かたちのよい正繭が絹となる。これが「絹繭」ということになる。それが死んでいく状態とは、繭玉の数だけ殺蛹が何度も繰り返えされることを詠んでいるのだと解釈する。

 蚕の養蚕は中国で発生し5000年以上の歴史がある。日本では『古事記』『日本書記』にも登場する。幼虫が吐き出したもので生糸ができるということはまさしく不思議な発見だ。絹繭になる蛹は死ぬことが決定づけられることになる。 

知らず、生まれ死ぬる人、何方(いづかた)より来たりて何方(いづかた)へか去る(『方丈記』)

 「死にゆけり」という直接的な命の終りを詠うことにより命の行く末を正視しているといえよう。前句「夕より白き捨蚕を飼ひにける」の「飼いにける」と同様、「けり」が過去を抱えた形をとっている。過去も沢山の絹繭が死んでいったが、今も沢山の死んでいく・・・過去を抱えた死であることがわかる。前句の「生」と掲句の「死」の配列であるともに二句にわたり「けり」を使用し、生きていることも死ぬことも過去から現在、そしてその先へ繋がる普遍なき輪廻であることを言わんとしていると読みたい。


42.父母や青杉の幹かくれあふ

 「隠れあふ」というのは、青杉が重なり合い、青杉が青杉に隠れているということなのか。杉の木と木の間に父と母の幻影をみたというのだろうか。

 ルネ・マグリットの絵画『白紙委任状』(原題- Le Blanc-Seing )を思い浮かべる。まさしく敏雄の俳句の投影のようである。

「目に見えるものはいつも別の見えるものを隠している」

「馬上の女性は木を隠し、木は馬上の女性を隠す。しかし私たちの思考は見えるものと見えないものの両方があることを知覚している。思考を目に見えるものにするために私は絵を利用する」-ルネ・マグリット

 見えているようで見えていない世界、思考が螺旋のようになっていく敏雄の俳句。思考は17文字の中から広がり読者の脳裏に絵を描きだす。

 父母。42句目にして同時に出て来る父と母。われよりはるか遠いところにいる。そして見えるような見えないような。われの中にあるチチハハ。

 ちーちーはーはー。杉林の中で遭難したような気になる。新緑の山に足を踏み入れると杉の香りに誘われて自分のルーツがそこにあるようだ。村はすでに消えた。眞神の山の杉の木は青くそして昏く、奈落という死の淵がいつもその脇にある。鳥の声がする。


43.きなくさき蛾を野霞へ追い落す

 2012年3月某日。快晴。

 それは北関東、狼信仰の名残りある山。狼の狛犬、カラス天狗を確かめたく車を走らせた。途中には庚申塚や道祖神が山の懐のように路肩から手を伸ばすと届く位置にあった。川の流れる音だけがする。民家が幾つかあり茶畑の手入れをしている人が不思議そうに車を見送っていた。山道は意外にも奥の奥まで舗装され、「熊出没」の立て看板を幾つも通り過ぎた。この先に民家が無いという印のようにとうとう舗装が途切れた。ところどころに落石が散乱する道に突入し、山側には伐採された杉の木がばらばらに横たわり崩れてきそうだった。突然とうっそうとした杉林が道幅を暗くしている。右は谷。奈落は深く明るく落ちて行くにはあまりに晴れていた。その時点で町に引き戻ろうと足をすくめ出直すことにした。あの時、蛾を見なかったことが幸いしたのだろうか。

     ◆

 「きなくさき」という措辞により、物騒なことが起こりそうな気配をもつ蛾である。

 日本では、古来、蝶と蛾の区別はなく、かつては、かはひらこ、ひひる、ひむしなどと大和言葉で呼ばれていた。蝶と蛾の区別は、英語圏の博物学の導入によ”butterfly”と”moth”の分類法が日本語に導入されたらしいことに依るらしい。蛾類学会の生物学上の分類は、昼間の環境に特化して飛翔力の鋭敏な一群を蝶と呼び、それ以外のものを蛾と呼んでいる。

 蝶や蛾は、蛹(さなぎ)から飛び出してくるので、人間の体から抜け出る霊魂と同じように考え、あの世(常世)とこの世(現世)を行き来する吉と不吉との両面から意識されていた。「日本書紀」には虫神として祭られ「常世(とこよ)の神」と表現されている。蛾は特に嫌われ者という扱いではない。

 この句で意識するのは、「常世」そして、追い落とすという措辞から「奈落」の世界が考えられる。40句目の「夕より白き捨蚕を飼ひにける」41句目の「あまたたび絹繭あまた死にゆけり」の繋がりを考えると、養蚕の神として「おしら様」と崇められもする蚕が、今度は、蛾となって野霞の奈落へ追いやられ、嫌われもの扱いのように読める。小さな共同体の中のいじめのようにも思える。いわゆる村社会である。

 馴染みの人々も老いて死に、かつての家族は都会へ移り住み、村から人が消え廃屋となった家々が残る。どこか時間が止ったような世界は、時間軸のない常世の世界という映り方。再び、阿部公房の『砂の女』の世界へ入ったような、主人公の男も昆虫採集の途中で穴に落ちた。人は、時間軸のない世界へ興味をもつ。

 この句の常世と思える世界は、奈落なのである。時間軸のない奈落。

 39句目「真綿ぐるみのほぞの緒や燃えてなし」から時間軸が停まったような句が多くなる。

 しばらく、読者はその停滞した時空を読者は浮遊していく。


44. 箸の木や伐り倒されて横たはる

 「横たはる」と言っているだけで何も主張していない句。しかし読者は何故か、その先に眼をむける。それは書かれていないものを読もうとする俳句だからだろうか。

 「伐り倒されて」の受動する措辞。倒されるのは箸の意志ではなく、人の意志がそこにあるということだろう。そして「横たはる」という人を想像させる擬人化に近い表現からだろう。殺されて横たわっている箸の木という生き物。死者が横たわるように描かれているのではないかと読む。

 掲句が収録された『眞神』上梓の時代は「エコロジー」という言葉が定着していない時代である。「箸の木」は消費されるために倒される。『眞神』上梓の頃にインドネシアで日本の割り箸の木となる木が伐採されて山が枯れている写真をみた。おそらくその頃から箸をとりまく環境問題が論議されてきたのだと振り返る。現在『眞神』上梓から38年経過した。箸の木の伐採が本当に環境破壊を引き起こしているのかどうかは、論議が繰り広げられる難しい問題となっている。


割り箸から見た環境問題

 日本に箸が入ってきたのは、弥生時代の末期。その当時の箸は、「折箸」という、細く削った一本の竹をピンセットのように折り曲げた形であり、一般人の用途ではなく、神様が使う神器、または天皇だけが使うことを許されたものだった。7世紀の初め、中国での箸の使用について遣隋使から報告を受けた聖徳太子が朝廷の人々に箸の食事作法を習わせ日本での食事に箸を使う風習が始まったらしい。「古事記」にも箸が登場する。敏雄の生れ育った八王子・高尾山の飯盛杉は地面に刺された箸が根付いて大木や神木になったとする箸立伝説が残っている。

 切り倒され横たわっている箸の木を想像し、お箸の国について考える。いただきますとごちそうさまが言えることに感謝し、箸をもつ指先から箸の木たちの魂を感じ取りたいと思う句だ。


45. さかしまにとまる蝉なし天動く

 確かに蝉は逆様には留まらない。コペルニクスは、地球が動くとし、敏雄は天が動くと詠んだ。

 ここで俳句の躍動を感じるのは、「なし」といって「動く」となることだろう。このような当たり前の事実に基づく句が好きだ。事実は動かない。けれど、天が動くのである。このような技を身に着けたい。「俳道」という言葉があるのならば、その道に精進したい。

 ここでの天動というのはピタと木にとまった蝉を中心に天が動いていく風景が見えてくる。天動説(全ての天体が地球の周りを公転しているとする説)の意味に少し近いようなことも考えるけれど、それはジコチューの世のことも言っているのかとも推察したりする。

 「さかしまにとまる蝉」がもしあったとしたら、どうなっているのだろうか。そしたら、「地」が動くのかもしれない。確かに「地」が動いたら、「ビックリハウス」(遊園地にあるアトラクション)になるのかもしれない。そんなことを考える句。地動説(地球が動いている、という学説。)は確かに正しいが、さかしまにとまる蝉は、間違えていると脳が考える。

 事実は動かないのである。それは江戸俳諧を身に着けた敏雄ならではの俳技だ。

 今迄の鑑賞句を振り返り、三橋敏雄は秀才にして多作。ありとあらゆる方法、全く意外な取り合わせに遭遇するばかりだ。

 江戸に花咲き、今も生き残る俳句、現代の俳句として引き継いだ三橋敏雄の功績が賞されることに同意する。


46. 油屋にむかしの油買ひにゆく

 油を買いにゆく、それも「むかしの油」。

 「むかし」とは「油屋」という名称が日常にあった江戸の頃を想像する。

 江戸の風情を買にいく。

 油のリフレインの中に人との繋がりが潜む。

 江戸のむかし、油は行商人が売りに来た。

 そう「油を売る」とは「油売ってんじゃねぇ。」と言われるように「無駄話をして時間を潰し、仕事を怠けること」の意味を持つ。熊さん八っつぁんの江戸情緒、江戸しぐさ(江戸の商人哲学)が伺える。「油売る」のその意味は、「風が吹けば桶屋が儲かる」ほどのかけ離れた因果関係はないが江戸の人の営みが見えてくる。

 髪の油、行灯油は当時、粘性が高く、柄杓を使って桶から客の器に移すにも雫が途切れず時間がかかる。商人が、婦女を相手に長々と世間話をしながら、油を売っていたところからその意味に転じ「油を売る」といわれるようになった。

 あえて「油屋」が示すことは、すなわち、ゆっくりとした時間を共有していることである。人と人とのコミュニケーションが成立していた時代。「ありがとウサギ/まほうのことばで/たのしい仲間が/ポポポポ~ン」という歌詞が繰り返し流れた2011年のあの時も時間の共有であるが、地球の大きさも時間の長さも当時と微妙な差があるとしても、流れる物事の早さが異なる。その感覚が「むかし」という言葉に因り引き出されているのではないか。それを敢て「買ひにゆく」ことにある。

 読者を個々の郷愁に連れ出そうとする『眞神』の時空がそこにある。


47. みぎききのひだりてやすし人さらひ

 利き手は何をするにもまず先に出る。

 利き手の握力は強い。握力の弱い利き手ではない手で、危険と思うことができない。

 人は誰でも弱い部分を持つ。「人さらひ」という鬼畜のような存在がふと見せる人間の穏やかさとしての「やすし」。そこに「人さらひ」の人となりがみえてくる。

 左、右を示す表現は多義である。「人」を除く表記がひらがなであることも人のやさしさに対する配慮であると思える。

 下五の「人さらひ」の取り合わせが読者の想像力を働かせる。けれど、ヒトサライが右利きであることなど、誘拐に遭遇して気が付くのだろうか。それは、ヒトサライを観察してそこにコミュニケーションが生まれなければ利き手などわからないだろう。「わたしを奪って・・・!!」と懇願されて仕方なくヒトサライになった男狼だろうか。それもひらがなが醸し出す淫靡なマジックだ。

 人について考える、人の手について考える。その手には温度があるということだろう。


●―13:深谷義紀成田千空の句

 鯉ほどの唐黍をもぎ故郷なり

 今回のテーマは「魚」である。そのため千空の句集をめくり、魚を対象とした作品を読んでみたが、これと思える作品に出会えなかった。というのも、ずっと頭の中に掲出句が鎮座していて、この句と比較すると「魚」そのものを対象とした、どの作品も物足りない思いがしたからである。というわけで今回は、ストライクゾーンから外れていくチェンジアップ気味に、この句を採り上げてみたい。

 掲出句は第3句集『天門』所収の作品である。津軽の唐黍(玉蜀黍。津軽ではその実の色(黄色)から“きみ“と呼ばれる)といえば「嶽(だけ)きみ」が名高い。千空がいつも眺めていた岩木山の南麓、嶽高原で採れる玉蜀黍だが、小ぶりの品種であることから、この作品の対象となったものではなく、千空が詠んだのはもっと一般的な玉蜀黍だったと思われる。

 さて玉蜀黍と鯉。両者に共通点は乏しく、直喩としてはかなり斬新だ。もいだばかりの玉蜀黍を胸に抱えた時、不意に千空の脳裏にそんなイメージが浮かんだのであろう。少なくとも書斎で作れる句ではない。そうしたイメージが浮かぶほどの量感を持った玉蜀黍であり、抱え込んだ両腕の中で暴れ出しそうなほどの野趣を感じたということだろう。

 そして、下五に投げ込まれた「故郷なり」という措辞。ふるさと自慢というよりも、思わず口をついて出た作者の実感だろう。その意味で、津軽に生まれ、生涯その土地に執した千空ならではの作品だと思うし、飾り気のない詠みぶりもかつて師草田男が「素手で対象を捕まえたような」と評したこの作者らしい作品だと思う。