2022年7月15日金曜日

第187号

     次回更新 8/12

第45回現代俳句講座質疑(13) 》読む

【句集評】鶫または増殖する鏡像 赤野四羽句集「ホフリ」を読む《後編》 竹岡一郎 》読む

■令和俳句帖(毎金曜日更新) 》読む

令和四年花鳥篇
第一(7/15)仙田洋子・山本敏倖・坂間恒子・辻村麻乃

令和四年春興帖
第一(4/29)仙田洋子・仲寒蟬・坂間恒子
第二(5/6)なつはづき・山本敏倖・杉山久子
第三(5/13)花尻万博・望月士郎・網野月を・曾根毅
第四(5/20)瀬戸優理子・鷲津誠次・木村オサム
第五(5/27)早瀬恵子・岸本尚毅・小林かんな
第六(6/3)眞矢ひろみ・竹岡一郎・ふけとしこ
第七(6/10)ふけとしこ・前北かおる・松下カロ・渡邉美保
第八(6/17)堀本吟・高橋修宏・小沢麻結・浅沼 璞
第九(6/24)下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子
第十(7/1)佐藤りえ・筑紫磐井


■ 俳句評論講座  》目次を読む

■ 第25回皐月句会(5月)[速報] 》読む

■大井恒行の日々彼是 随時更新中! 》読む


豈64号 》刊行案内 
俳句新空間第16号 発行 》お求めは実業公報社まで 

■連載

【抜粋】〈俳句四季7月号〉俳壇観測234 松尾さんの思い出——東京四季出版の創業者の志

筑紫磐井 》読む

英国Haiku便り[in Japan](32) 小野裕三 》読む

句集歌集逍遙 ブックデザインから読み解く今日の歌集/佐藤りえ 》読む

澤田和弥論集成(第9回) 》読む

北川美美俳句全集20 》読む

【連載通信】ほたる通信 Ⅲ(23) ふけとしこ 》読む

中村猛虎第一句集『紅の挽歌』を読みたい インデックス
25 紅の蒙古斑/岡本 功 》読む

篠崎央子第一句集『火の貌』を読みたい インデックス
17 央子と魚/寺澤 始 》読む

中西夕紀第四句集『くれなゐ』を読みたい インデックス
18 恋心、あるいは執着について/堀切克洋 》読む

渡邊美保第一句集『櫛買ひに』を読みたい インデックス
7 『櫛買ひに』のこと/牛原秀治 》読む

なつはづき第一句集『ぴったりの箱』を読みたい インデックス
18 『ぴったりの箱』論/夏目るんり 》読む

ふけとしこ第5句集『眠たい羊』を読みたい インデックス
11 『眠たい羊』の笑い/小西昭夫 》読む

加藤知子第三句集『たかざれき』を読みたい
2 鑑賞 句集『たかざれき』/藤田踏青 》読む

眞矢ひろみ第一句集『箱庭の夜』を読みたい インデックス
11 鑑賞 眞矢ひろみ句集『箱庭の夜』/池谷洋美 》読む

『永劫の縄梯子』出発点としての零(3)俳句の無限連続 救仁郷由美子 》読む





■Recent entries
葉月第一句集『子音』を読みたい インデックス

佐藤りえ句集『景色』を読みたい インデックス

眠兎第1句集『御意』を読みたい インデックス

麒麟第2句集『鴨』を読みたい インデックス

麻乃第二句集『るん』を読みたい インデックス

前衛から見た子規の覚書/筑紫磐井 インデックス

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉜ のどか 》読む

およそ日刊俳句新空間 》読む
…(今までの執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保 …
7月の執筆者(渡邉美保)

俳句新空間を読む 》読む
…(主な執筆者)小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子




筑紫磐井著『女帝たちの万葉集』(角川学芸出版)

新元号「令和」の典拠となった『萬葉集』。その成立に貢献した斉明・持統・元明・元正の4人の女帝、「春山の〈萬〉花の艶と秋山の千〈葉〉の彩を競へ」の天智天皇の詔を受けた額田王等の秘話を満載する、俳人初めての万葉集研究。平成22年刊/2,190円。お求めの際は、筆者までご連絡ください。 

【抜粋】〈俳句四季7月号〉俳壇観測234 松尾さんの思い出——東京四季出版の創業者の志  筑紫磐井

 雑誌創刊者として

 東京四季出版の創業者であり、「俳句四季」を創刊した松尾正光さんが三月十二日に亡くなられた。松尾さんは、昭和二十二年四月東京生まれ、竹早高校では緒形拳と親しく、演劇同好会を二人で立ち上げた。緒形は知られるようにその後新国劇に進んだ。松尾さんは武者小路実篤に師事、「新しき村」の運動に参加し、その後多くの文化人と知り合い画廊(ギャラリー四季)を始めた。理想主義の人だったのだ。出版業に移った経緯はよく知らない。東京四季出版は昭和五四年三月に創業しているが、しばらくは、「四季出版」の名で詩歌・俳句の本を刊行していたようだ。当初は銀座に編集部があった。

 「俳句四季」は昭和五九年一月に創刊している。当時「俳句」(角川書店)「俳句研究」(高柳重信編集として有名だが、六一年からは角川系の富士見書房の刊行となる)と「俳句とエッセイ」(牧羊社)という総合誌があったが、「俳句四季」はここに割って入った形となる。この時本阿弥書店の「俳壇」も創刊(六月)されているのだが、競い合ってというよりは補完しあってといった方がいいようだ。創刊以来両誌は広告を載せあっている。角川俳句に対抗しあったというべきだ。

 「俳句四季」の特色は、「創作・紀行・情報・写真」「目で見る月刊俳句総合誌」をキャッチフレーズにしているように一貫してビジュアルな雑誌であった。例えば貴重な写真を満載した「俳人アルバム」(新潮社の『日本文学アルバム』シリーズをモデルにしたものだという)・「結社アルバム」の連載は現在となってみると、戦後の俳句風景を目の当たりに確認できる貴重な資料となって居る。

 併行して、「短歌四季」を創刊(平成元年。ただし残念ながら一六年に終刊している)、表紙には浅井慎平氏を七年から起用して現在まで続いている。一三年からは俳句四季大賞を始めている。俳人以外の方々に寄稿を依頼したのも特色であり、印象にあるのは詩人の宗左近氏で、『さあ現代俳句へ』『21世紀の俳句』長期連載を依頼した。宗氏が中句という新しい詩形式を提案したのもこうした理由であろう。

 当時の編集後記には〈蝸〉が署名されているが、これは松尾さんのペンネームだ。名前だけの発行人だけではなく編集にも参画していたのだ。記事の中には松尾さん自身が参加したものもある。「新・作家訪問」で、一三九名の俳人をインタビューしたもので、後に『戦後俳句を支えた100俳人』正続上下としてまとめている。


出版人として

 雑誌を少し離れて出版業として見ると、従来から行っていた単行本の句集に加えて、早くからシリーズを刊行した。「秀逸俳人叢書」「俊英俳句選集」「新鋭句集シリーズ」が初期のもので、特に「新鋭句集シリーズ」は若い世代を中心に構成されており、なかなか登場しがたかった新世代の発掘にも貢献した。当時、牧羊社が「処女句集シリーズ」を開始しており、好一対の企画であった。牧羊社のそれが若い人が出しやすいためにペーパーバックスの安価な句集であったのに対し、「新鋭句集シリーズ」はなかなか洒落た装丁でボリュームのある句集であった。私の第一句集も実はこのシリーズに声をかけられたものであった。

 やがて、東京四季出版独自の大企画が登場する。『処女句集全集』、『処女歌集全集』、『最初の出発』、『現代俳句文学アルバム』、『歳華悠悠』、『現代俳句鑑賞全集』、『21世紀現代短歌選集』、『平成俳人大全書』、『現代一〇〇名句集』と大冊のシリーズが登場する。

(中略)

 松尾さんには、前述した編集後記やインタビューに当たっての質問者としての言葉は多くあるが、本格的評論はあまり見ない。最後にその数少ない創刊時の言葉を眺め、我々への頂門の一針としよう(「松尾正光「空想的結社論」俳句昭和五九年一二月より)。松尾さんは、総合誌の発行人として当然結社を肯定している。ただその未来を見る目は厳しい。


 「伝統芸術が衰退のきざしにある今日の傾向の中で、俳句人口だけが増え続けている理由の一つに、俳句が師弟関係のうえに成り立っている文学であることがあげられるであろう。」

 「今日の俳句隆盛は、荒廃した戦後をたくましく生き抜いてきた猛烈主宰者の奮闘の成果だと思うのだが、俳句の質の向上は、これからの俳人の意識がどれほど深く、どれほど広く発展していくかにかかっていると思う。」

 「私は俳句が衰退して行くとしたら、主宰者が結社の運営をあやまったときだと考える。主宰者も会員も私利私欲に走って、全体の調和を忘れたとき、つまり結社の運営が乱れたとき、俳句離れがはじまる。」

 「師弟の関係と、師から教わる姿勢を持つ俳句の最後の挑戦が、これからはじまるのである。」

※詳しくは「俳句四季」7月号をお読み下さい

【句集評】鶫または増殖する鏡像 赤野四羽句集「ホフリ」を読む《後編》  竹岡一郎

Ⅱ 屠り、それが導く死


 休憩終りました。皆さん、英気を蓄えた事でしょうから、最も対峙しなければならない話題、即ち死について語りましょう。


本当は死んでいるのと聞く冬日


 これは相手が告白しているんでしょうか。それとも相手に聞いているんでしょうか。そして相手の告白なら、それは比喩でしょうか、それとも本当に死んでいるんでしょうか。

 死んだ人と話しているんでしょ。生きてる人と変わんない姿で、街中で会う事があるんだ。普通に喫茶店に入り、普通にコーヒー飲んで呑気に話して、普通に金払って、一緒に店を出た。別れ際に、何か言われた、それともあたしが言ったんだろうか、「本当は」って。会う三日前に死んでた友達の話。「冬日」は寂しいんだ。だから、冬日は死んだ人には優しい。

 それだけなら単なる怪談ですが、死者はそういう現れ方をするだけではありません。良く注意して見れば普段に居ます。街行く人々の顔に、多くの顔が重なって見える。時には電柱にも壁にも見える。俺は多くの声を聴く。人声の中に、風の中に、雨音の中に、無音の闇の中に。この世ならざる、と言うには、あたしは確信が持てない。生きた体を持つ誰かの魂から飛んで来た顔や声かもしれないから。そして僕の体感では、殆どの人の魂は、実は数多の死者や生者の思念の断片が、さざれ石が巌となるように、欲望や執念という接着剤でくっつき合って成り立っている。

 わたくしは、ゴッホの後期の絵を見るたびに叫んでいる声が聞こえるのだ。あの黄色は、能う限りの高さで叫んでいる声だ。あの青は、音の世界を旋回しながら巡っている声だ。だが、それにだんだん低い唸り声が混じってくる。死に近づくほどに、唸り声は鮮やかな黒となる。

 ゴッホはなぜ耳を切り落としたのだろうね。この世ならざるものが見えたのなら目を抉っても良かっただろうに。耳を落としたのは本当に友人のせいか。耳を片方落としてみて、しかし鼓膜がある限り声は聞こえると諦めて、もう一つの耳は残したのではないか。止む事のない声を、色として観たのではないか。


ゴッホの耳液に浸れり葛(くず)の花


 ゴッホが耳を切り落としたのは激情の産物だが、液に浸すのは保存する為だろう。画家の激情を保存している。普通の人に狂気と映っても、本人から見ればこの上なく正気だ。そのような勢いが通常の状態であり、それを制限されるのは檻に囚われる苦痛だ。

 ゴッホの眼が何を見ていたかは、遺された絵から知る事が出来る。耳が何を聞いていたかは知る事が出来ない。或いは遠い未来に、耳に遺された情報を解析し、ゴッホが何をどう聞いていたか、知る事が出来るかも知れない。その為に液に浸している。その耳の保存している情報は、生前のゴッホが聞いていたものか、ゴッホの死後も耳が独自に聞いていたものか。

 下五に麦畑を置かずに葛の花を置いたのは、耳がもはや麦畑から離れており、麦畑以外の何かでなければならないからか。では、なぜ葛の花なのか。日本人である作者に親しいからか、葛の花は奔放に繁茂する葛の絶頂だからか。作者が、豊饒なる狂気を地に見たく思った時に、葛原に乱れ咲く花を思ったからだろうか。


豚積みの豚の肢体や花の冷え

焼き蒸され積まれ人体 寒緋桃(かんひとう)

豚ならぬものと蛤(はまぐり)煮て食う日

船底に牛の脂の凝(こご)る冬凪

九相図に隠れた蛸を酢で〆(しめ)る


 こういう句、大嫌い。豚とか牛とか蛸とか蛤とか言ってるけど、これみんな人間でしょう。サディズムでしょう。カニバリズムでしょう。二句目の「人体」で全部バレてるよね。食べたり食べられたりしてる弱肉強食の世界を肯定してるだけでしょう。こんなこと詠っていいんですか。面白がって良いんですか。

 そういう惨たらしさから目を背けて、世界の諸相が詠えるか。色々理屈つけたって、現実はこういうものじゃないか。現実の写生をしているんじゃないか。豚が豚らしく積まれている、花冷えの下に冷えてゆく。それが実は人体でもある。真っ赤な肉が真っ赤な火に焼かれて蒸されて、それが寒緋桃のように見える。豚ならぬものはつまり人間だ、同志だ。同志でないものは豚だ。蛤のように押し黙るものを無理矢理口を開かせて、判るか、戦場では馴染みの景だ。凪のしんとした船底に固まっている脂は牛のでも良いが人のでも良い。人と言う代わりに牛と言ったんだろう。喰われるものに変わりはない。蛸を酢で〆るのは腐らせないためだ。九相を成して腐ってゆく人体から掬い上げられる蛸に似た臓器とは何だ。あるいは臓器の中に入っていたものか。人間は進化の過程を忠実に辿って人間になるんだってな。そういう事を無視するのは、起こってしまった惨たらしさを軽んじることにならないか。

 気持ち悪くてウンザリするから止めてもらえませんか。そうやってあなた個人の怨みを剝き出しにするの、みっともないですよ。

 じゃあ、神話はみんなみっともないか。どこの国の神話だって、惨たらしさに満ちているじゃないか。何もない処から或る体系が生れるに当たっては、必ず惨たらしさが全開になるんだよ。惨たらしさを詠うって事は、始まりを詠う事、神話を詠う事だ。喰われる者は食われ、死すべきものは死んで、それから体系が始まる。あんたも、こんな惨たらしさの積み重ねから生まれて来たんだよ。

 僕には、これらの句が一種の露悪だと見えるんだ。この露悪の陰で、作者自身は瞼を閉じられずに沈黙を強いられるんじゃないか。昔、アラン・レネの「夜と霧」という映画を見たよ。ナチの強制収容所の惨状を記録した映画で、僕はたった30分くらいのその映画を観た後、しばらく動けなかった。今でも覚えている。笊の上にキャベツみたいに積まれた首の群、渦巻いて広がっている髪の山。記憶は絶えず捻じ曲がるから、僕は僕の耐えられる程度に映像を歪めているかもしれない。ああいう惨たらしさを撮る意味を繰り返し考えた。そして、これらの句は、人間の惨たらしさを、暗喩によって意識に刻み込む試みじゃないかな。暗喩は咒となり得るから。

 人間は、自己防衛のために惨たらしさを楽しむ事さえできる。誰だって追い詰められれば、そうなる。人間の霊性は簡単に無くなる。今でも、何処でも、圧倒的な権力の前では無くなる。ナチ以前も以後も、いつでも。人間は起こってしまった惨たらしさを、直ぐに忘れたがる。

 僕はあの映画を二度と観たくない。だが、まだ観ていないなら生涯に一度は観るべきだ。映像でも現実でも二度と見たくないと思い知るために、観るべきだ。言葉は映像よりも、ずっと再現性が少ない。再現性の少なさが幸いするのは、惨たらしさを記憶に刻む場合かも。俳句は最も孤独な詩だ。字数が最も少ないから。季語を差し引いた分、字数が更に僅かになるから。その短さによって豊饒となる孤独の中で、語り継ぐ事が出来れば、その記憶は最も鋭くなるはずだ。概念語をできるだけ避けて、平らかに、静かに、景をくっきり立てて、動かない語で、他の語とはどうしても交換できない語で、刻んでゆく。難しいけど、理想だけど。

 映画「夜と霧」が取り上げられたなら、ここでわたくしが付け加えたいのは、この映画は1956年に輸入されようとして東京税関で差し止められたことだ。理由は「あまりに残酷で風俗公安を害す」。日本で上映されたのは1961年、検閲から上映までに五年掛かった。検閲にそういう一面がある事は覚えておいた方が良い。


黒煙に花を描いた無数の腕


 この句は解釈が難しい。だから、私はただひたすら、懐かしい、とだけ言って終らせることも考えましたが、やはり覚束無くも語りましょう。「無数の腕」とは、その時々の時代の惨たらしさに為すがままにされている人々でしょう。如何なる権力も持ち得ない人々、或いは権力を失った、或いは権力を持ちながらも深い淵に落ちていった人々。黒煙を最大の人災、即ち戦争と取れば判り易い。けれども、そう言い切って終らせるわけにもいかない気がします。なぜなら、花、とあるからです。「黒煙」とは、戦争よりもっと広く、人間の悪業、悪しきカルマン、悪しき方向へと運命を導く潜在的形成力ではないでしょうか。この句を読んで真っ先に思うのは、丸木位里・丸木俊の絵です。丸木夫妻は「原爆の図」で有名ですが、松谷みよ子の「日本の伝説」に描かれた数多の挿絵を、私はふるさとのように眺めて育ちました。もういつの時代かもわからない惨たらしさと諦めの中で伝えられてきた民話を、懐かしい寂しい地獄、沢山の私が分裂して生まれ育った地獄と、どうしても重ねて思い出します。「黒煙に花を描いた」という表現は、丸木夫妻の絵には良く似合う。そして丸木夫妻の絵筆はいつも、数知れぬ時代の無数の腕が支えていたと思うのです。他人の傷を自分の傷のように、一方で自分の傷を他人の傷のように受け止める事は可能でしょうか。更に言えば、この世の悪を自分の悪として認識し、紅の蓮華を歩むように贖罪を歩む事は可能でしょうか。


肉をみる肉 塩辛き不死を擬(もど)く


 中々に凄まじい句だ。「塩辛き不死」とは、塩漬けのものが腐らない、の意と取った。先に「肉」とあるから、これは塩漬けの肉だろう。死んでいるが、腐らないので、不死のように見える。それを「擬く」と詠んだ。不死に擬態しているのは肉自身の意志だ。そんな意志を持とうとするのは、人間だけだ。「みる」は「見る」であり、「観る」だろう。先ず肉の塩に縮んだ姿を見、次に肉の意志を観る。

 中島敦の「弟子」って小説、知ってる? 孔子の弟子の子路が、多勢に無勢で斬り殺されて、その後、醢(かい)って刑、ししびしお、とも言うけど、死後、塩漬けにされて晒される。それを知った孔子は一生、塩漬けの肉を食わなかったんだって。だから、あたしは「肉をみる肉」を「人をみる人」と読んだ。


吉報も訃報も河原の石で来る


 変に実感ある。河原は狭間にあるから? 人の世と人外の世、此の世と彼の世の狭間に、境界線みたいに川が流れ、境界線をぼかすように河原がある。向こうでは既に起こってるのに、こちらではまだ起こっていない時もあるんだ。もちろん逆も。だから河原の石は運命を告げに来る。「石」は「意志」とも読めるかな。何の意志かというと、各々の魂に潜んで運命を形作る力の意志。神の意志と誤認されやすいけど。


遠景と門に口無きもの並ぶ


 こういう句怖い。なんかわけわかんない。只ひたすら怖い。膝から力が抜けていく感じ。何で怖いんだろうねえ。

 何にも具体的な物が出てないからじゃないか。遠景もはっきりしないし、門もどんなものか描かれてないし。「口無きもの」って何だよ。者でも物でもない、「もの」では想像しようがないよ。

 わたくしには良くわかる。何にもはっきりしない、只びょうびょうとした遠景の中に門が立っている。そこに入ると、もう引き返せない。だから、逃亡するものもいる。口無きものは食べ物を、何よりも言葉を、既に奪われているから、口が必要なくなって消えてしまっている。者か物かわからないのは、そもそも本人たちが分からないからだ。思念が即ち現実である世界では、必要無いものは直ちに無くなる。見る事を忘れれば目も、聞く事を忘れれば耳も無くなる。灰色か黒か、そういう色無きぼんやりとした固まりは者なのか、物なのか、そういうものが門へ、そして地平の彼方まで、蜿蜒と並んでいる。これは死後の景の写生で、わたくしもまた「もの」と呼ばれて来た。


わたくし忌(き)梯子(はしご)をおりて恋人と


 これは幻想だ。死後が上昇となるのは、余程の稀な場合だけで、わたくしはそれを殆ど見た事が無い。未来の自分の忌をそんな風に観たい気持ちはわかるが、梯子は一旦上ったら二度と下りられない。そもそも梯子がある事が稀だ。死後、恋人と過ごす事があり得ると思うのか。果てしない暗冥の中で、自分が誰だったかさえ判らなくなるというのに。

 幻想で良いじゃないですか。そう思ってないと生きていけませんし、死ぬ事も出来ませんよ。死によって一切が分断される、それが事実だとしても、そうでないように望み、祈って、人は何万年も過ごしてきたんです。これは下五が鍵なんですよ。恋人以外のどんな人間関係も、この句にとっては弱い。「恋人と」で初めて成立する句なんです。なぜって、「死を超える恋」と信じるのが、心中の定番でしょう? こんな風に言われてみたい。忌日の前に予め梯子を立てていて欲しい。そして梯子を上って来るんじゃなくて、梯子を下りて来て欲しい。安心させて欲しい。


新しい廃墟で皆と歌留多(かるた)する


 歌留多は新年の季語で、では、「新しい」の中に「新年」の意があるのか。新年の廃墟、と読むなら、新年が既に廃墟でしかない、という絶望感を読む事も出来る。もう新しいものなど何も出て来ない、全ては廃墟だ、という諦観か。

 新しい廃墟って、この前まで廃墟じゃなかったって所。この前まで威張っていたものが、やっと滅びてくれて、そこで皆でトランプでも百人一首でもなく、歌留多する。江戸歌留多でも上方歌留多でも良いけど、とにかく西洋の物でもキリスト教文明圏の物でも公家の物でもない、歌留多ってあたしたちの地から生まれて繁茂するもの。それで目出度いじゃない。あたしたちはよみがえる。


善い人を照らし蛍の誇るかな


 僕たちはこの句、好きなんです。また幻想だと言われるかもしれないけど、蛍にも誇らせて下さいよ。この世には善良な人も沢山いて、蛍はそういう人々を照らすために飛ぶ。小さな灯はそういう人々を見出すのが嬉しく誇らしい。蛍は死者の魂とも読めますよね。暗冥にさまようばかりが死者じゃない。生きている人を、冥(かげ)の働きで支えている死者達もいると思うんです。


あなたが屠(ほふ)りなさい鶫(つぐみ)の血の為に


 僕はこの句全然分からないんだけど、自覚の在り方を示しているような気がする。生きるために殺す、それを認めろというような。

 鶫がわたしなんだよ。わたしの為に、生きて体を流れている血の為に、屠れ。

 やはり鶫を食うんじゃないか。焼くと美味い。自分で食うものは自分で屠れと。全ての暴力、殺戮は自分が責めを負い消化せよと。

 鶫の語源を調べればよい。夏至の頃には鳴かなくなるなら、「口を噤む」が転じて鶫となったという説がある。声無きものの意ではないかな。屠られるものは声を、言葉を奪われる。黙って眼を見開いたまま殺される。いつか自分たちの神が復讐してくれることを期して何十年も、何百年でも待つ。神は復讐してくれない。では、誰が復讐するのか。復讐は常に行われ絶える事が無い。無数の復讐によって文明は積み上げられてきたと、わたくしは知っている。

 一句中の「屠り」と「鶫」が韻を踏んでいる事に注目する。僕は「屠り」も「鶫」も同じ事象の別の側面を示しているような気がする。実証は出来ないけれど、それは詩の側面ではないかな。或る面からは「屠り」、或る面からは「鶫」と見えるもの、それが詩であると言いたいのか。

 この句が多分、この句集の核で、けれども書く行為は無意識の海溝から浮かび上がって来るから、作者本人にもはっきり解析できないはずだ。俺にもこの句はわからない。わからないが、咒みたいに、理由なく力強く命じてる。

 寺は、つぼさか。かさぎ。ほふりん。枕草子にあれど、ホフリと法輪重ぬれば、嵯峨法輪寺の虚空蔵、生き変わり死に変わり屠り屠らるる果てなさ儚さ打ち砕く法輪の智慧を下され、放下僧、されど血刀。

 句集あとがきに《「屠るもの」「屠られるもの」の関係を通奏低音としています。》とあります。他の句から句集題名を取る事だって出来た筈です。しかし、そうはなりませんでした。この句を中心に、複雑に反射し合う鏡像関係が広がってゆきます。駄句があり、佳句があり、問題句があります。マイナスのものもプラスのものも、調和を目指してもがき、曼荼羅の中に収まろうとして果たせません。誰が調停者の役を果たし書くのでしょう、誰が統合して読み得るのでしょう。


逆さまの畳の夢の縁(ふち)を踏む


 この奇妙な句みたく、句集全体が、破綻した夢なのかも。畳に表と裏はあるけど、何をどうすれば畳は逆さまとなるのかな。縁を踏んで畳の夢を破ったの? それとも踏んで夢の破れを押さえたの? でも、ともかくも踏んでしまった作者は遁れられないよね。何から? 美しい花から? 黒煙の現実から?

 逆夢ってあるよね。夢と逆の事が現実に起きる。それと「畳の縁を踏む」という無作法さが組み合わさっていると読んだけど。じゃあ、現実では作法通りってことかな。何の作法だろうね。詩の? 文法の? この二つは対立する?


たった一人の言語へ白と黄の蝶渦巻く


 皆さん、覚えておいでですか。私は先にこう書きました。「言語は事象の、運命の本質には決して辿り着けない。」けれども、この句を一つの宣言と捉えても良いのではないでしょうか。白と黄に明るく渦巻く無数の魂、成立を目指す独自の言語、独自の死、独自の屠りの上に成り立つ独自の生。逆さまの夢でしょうか。いや、意外とまともに立っているのかもしれません


「ホフリ」論 引用句一覧とページ数

あなたが屠(ほふ)りなさい鶫(つぐみ)の血の為に   90p

古書店へ辿(たど)りつけずに秋の暮   80p

夕時雨よく光る眼の奥の鈴   91p

冬の粥(かゆ)旧き家には音多し   93p

簪(かんざし)を濡らし来世へ踊り明く   78p

ぽすとあぽかりぷす桜で飲んでます   42p   

人類終活みな柿の木にのぼる   25p

さざれ石巌(いわお)と為(な)らずタピオカに   57p

葦原の野火に焼かれる烏(からす)かな   99p

ゆれる世へ枯菊砕けつつ香る   94p

樹皮撫でて病んだ桜の柔らかさ   48p

神代の獣のあゆみ蘖(ひこば)ゆる   100p

狼の悲しい寺に微睡(まどろ)む夜   98p

蛇の芽の芽吹いてほら一面の蛇   73p

光る葉は饐(す)えて夜行の蛇を誘う   119p

蜘蛛は巣を全て感じて安らいだ   14p

冬蜘蛛の愛に机のうえ狭し   98p

ほうき星苦しみを引きちぎりたい   27p

冬池の底の音無く孕(はら)みたる   36p

本当は死んでいるのと聞く冬日   34p

ゴッホの耳液に浸れり葛(くず)の花   79p

豚積みの豚の肢体や花の冷え   45p

焼き蒸され積まれ人体 寒緋桃(かんひとう)   73p

豚ならぬものと蛤(はまぐり)煮て食う日   49p

船底に牛の脂の凝(こご)る冬凪   95p

九相図に隠れた蛸を酢で〆(しめ)る   123p

黒煙に花を描いた無数の腕   111p

肉をみる肉 塩辛き不死を擬(もど)く   76p

吉報も訃報も河原の石で来る   69p

遠景と門に口無きもの並ぶ   59p

わたくし忌(き)梯子(はしご)をおりて恋人と   57p

新しい廃墟で皆と歌留多(かるた)する   99p

善い人を照らし蛍の誇るかな   113p

逆さまの畳の夢の縁(ふち)を踏む   64p

たった一人の言語へ白と黄の蝶渦巻く   107p

北川美美俳句全集20

 面119号「春の家」2016年5月


春の昼いびつな石にいる烏

大小の草履の並ぶ春の家

青草や犬繋ぎおく紐・クサリ

ちる桜昭和昭和とつぶやきぬ

まなざしは宙にありけり十九の春

金魚屋に金魚の水をもらいけり

水を蹴る足裏は白き平泳ぎ

白靴でピアノペダルを踏む男

見つめ合う男同士やアイスティ

あんみつや桐生に駅が三つあり


面120号「春の家」(2016年7月)


春の昼いびつな石にいる烏

大小の草履の並ぶ春の家

青春や犬繋ぎおく紐・クサリ

ちる桜昭和昭和とつぶやきぬ

まなざしは宙にありけり十九の春

金魚屋に金魚の水をもらいけり

水を蹴る足裏は白き平泳ぎ

白靴でピアノペダルを踏む男

見つめ合う男同士やアイスティ

あんみつや桐生に駅が三つある


面121号「不在」()


手は水を掬ひにゆきぬ麦の秋

しづかなるじやがいもの花日傾く

白日傘脚美しく迫りくる

欄干がくるぶし高や旱草

ゆふべと同じ秋茜かもしれぬ

すでにある脚立と籠や林檎の木

第三京浜より月離れゆく

旅客機の窓ごとに顔秋の暮

凩や狼祀る木の家に

雪原に人のかたちの窪みあり

鉛筆は兄の匂ひや春遅々と

梅一輪つめたくなりし塩むすび

菜の花の暮れて人来る空地かな

夜桜に背中を向けて座る席

走ることすなはち桜吹雪かな

青杉にわれ隠れてや誰もゐず

茄子の花に黒き管ある夕かな

夜店にて星を忘れてをりにけり

ハンカチの正方形となりしとき

夏の月うしろ歩きのさやうなら

英国Haiku便り[in Japan](32)  小野裕三


 
バルト、カルヴィーノ、ボルヘスの俳句観

 西洋の作家や思想家で、Haikuに興味を示した人は決して少なくない。日本に旅行してその印象記を残した人が、その中でHaikuに触れるケースも多い。

 有名なところでは、ロラン・バルトがそうだ。彼の『表徴の帝国』は、一冊全部が日本文化を論じたもので、Haikuにも幾度も触れる。彼の他の著作でも俳句は触れられ、『恋愛のディスクール・断章』のある章では、芭蕉の俳句を引用した後で、「私も作ってみよう」とばかりに、芭蕉に倣った自作のHaikuを披露する。

 この夏の朝に / 港は晴れて / 藤の花をつみに出た

 フランス語を解するイギリス人の友人はこの原句を読んで、「英語よりフランス語で読んだほうが、いい感じよ」と言っていた。『表徴の帝国』における彼の俳句論は、彼のいつものスタイルで人を煙に巻くようなことばかりだが、どこかなるほどとも思わせる。人は俳句の中に「根源をもたぬ繰り返し、原因のない出来事、人間のいない記憶、錨索を離れた言葉」を認識するのだ、という彼の指摘は感覚的には納得できる。

 イタリアでは、作家イタロ・カルヴィーノが日本旅行の印象を「時の形」というやや長いエッセイにまとめた(『砂のコレクション』所収)。日本庭園を見て、「庭は詩の挿絵として、また詩は庭の注釈として創られている」と考えた彼は、「もし日本語を知っていたら、この情景を三行十七音の詩で描けば事足りるだろう、俳句を一句詠むのに」と思い至る。だが結局、バルトと違って自作のHaikuを彼は作ることがなかった。そんな彼の遺作となった小説『パロマー』では、日本の京都が舞台のひとつとして登場する。

 アルゼンチンの作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスは、世界各地への旅行の印象を記した本『アトラス』の最終章で、日本の出雲への旅のことを物語風に描いた。出雲に集まった神々の一人が、「(人間たちは)剣や戦争の技術を思いついた。つい先頃は歴史の終焉となりかねない目に見えぬ武器を思いついた。そんな馬鹿げた事態が生じる前に、人間たちを滅ぼしてしまおう」と憂慮する。それに対して別の神は、「確かにその通りだ。彼らはあの恐ろしいものを思いつきました。しかし、十七音節という空間に収まるこんなものもある」と言い、十七音節のある言葉を唱える。するとそれを聞いた最年長の神はこう宣告するのだ。「人間たちを生き長らえさせよう」、と。「こうして、<俳句>のおかげで人類は救われた」との一文で、ボルヘスはこの本を締め括る。

 Haikuが人類の救済につながるとは壮大な話だが、少なからぬ西洋の作家たちがかくもHaikuに敬意を払うのは、Haikuを通して、人間の根源的な価値の何かに敬意を払っているようにも感じる。

※写真はKate Paulさん提供

(『海原』2022年3月号より転載)


【編集者予告】「俳壇8月号」に「haikuから見る俳句〜第二芸術論が照らすもの」という一文を掲載予定。

澤田和弥論集成(第9回)

 続・麦酒讃歌

澤田和弥 

 ビールは人生のいろいろな場面を演出する。喜怒哀楽、さまざまな思いや感情が託される。とはいえ、苦いビールよりもまずは旨さを楽しみたい。

  ビール注ぐ泡盛り上り溢れんと  高濱年尾

  生ビール泡流る見て愉快かな    同

 ビールにはやはり泡が大切である。学生時代によく通った居酒屋では泡の全くないビールを出してくれた。学生とは貧しいもの。泡の分までビールを注いでくださいというリクエストに応えて。勿論冷えている。泡をスプーンで捨て、飲み口いっぱいまで黄金色。そのやさしさが嬉しかった。しかしいつの間にかビールの「泡」にこだわりはじめた。驕りか。贅沢か。ジョッキやグラスを傾けたとき、まず唇に触れる泡の感触はやはり忘れがたい。コップを溢れんとする泡。ジョッキより溢れ、こぼれる泡。まさに愉快。そしてグイっと一口。うぐうぐと喉を流れるビール。なお愉快。

  片なびくビールの泡や秋の風  會津八一

 秋風にビールの泡がなびいている。なびくためには泡がコップから溢れていなければならない。注ぎたてである。居酒屋というよりも、庭に窓を開け放った自宅の居間を想像した。洋間ではなく和室。畳に座布団。縁側かもしれない。風が心地よい。さあ、泡消えぬうちに一口。同じような景でもう一句。

  注ぎぞめの麦酒音あり秋涼し  永井龍雄

 秋の涼しさが嬉しい。こちらは音に注目する。炭酸のシュワシュワという音。泡の弾けゆく音。音だけで旨そうだ。音を味わうためには静けさが必要。居酒屋よりも、こちらも自宅をイメージしたい。ひとり酒。深まりゆく秋がさらにビールを旨くする。

 ビールそのもので充分旨いのだが、飲む状況や雰囲気によっても味は左右される。

  大役を終えてビールの栓を抜く  星野椿

 パーティでの来賓挨拶。数々のお歴々を代表して。無事終了。席に戻ると喉はもうカラカラ。ほっと一息入れて、さて口中を潤わさん。栓を抜くシュポンという音が安堵の気持ちを深める。

  恋せしひと恋なきひととビール汲む  辻桃子

 ビールの酔いが話にさらなる花を咲かせる。どのような話か。かたい話ではつまらない。一番盛り上がるのは色恋のこと。ただしのろけ話は却下。「恋せしひと」はまだ成就せぬ片想いの段階。「へえ、ああいう人が好みなんだ」「告白しちゃいなさいよ」なんて言うのが楽しい。大体、片想いの段階と付き合って一ヶ月ぐらいの頃が、恋愛において一番幸せなときである。聞く方としては片想いの頃が一番盛り上がる。また「恋なきひと」に「好みは?」「それなら、いい人がいる」というのも楽しい。杯が進めば「明日、告白してくる」なんてことも。なにとぞ苦い恋はせぬように。

  一人置いて好きな人ゐるビールかな  安田畝風

 こちらも恋路のこと。飲み会で席についたら、偶然にもお目当ての人が隣の隣に。話しかけようとしたら、隣の人が反応してしまった。あなたじゃない。「席を替わってほしい」なんて露骨なことは言えない。そのうえ隣の人が興に乗りはじめてしまった。好きな人は反対隣と楽しそう。嗚呼、もどかしい。こんなビールはなんともほろ苦い。

  ビールほろ苦し女傑となりきれず  桂信子

 女傑という資格には酒豪という要素が要るのかもしれない。ビールをグイっと空けて呵呵大笑。上司も部下も誰も歯が立たない。この「ほろ苦し」はビールの苦さ、それも自分にとって苦手な苦さとともに、女傑になりきれぬ自分へのほろ苦さもあるだろう。女傑とすでに呼ばれている人にあと一歩及ばない。それがビールの苦さ、といったところか。

  かりそめの孤独は愉しビール酌む  杉本零

 ひとり酒。孤独である。でも本当は「かりそめ」。なんとなく初めての店に一人で入ってみた。常連らしき人々は女将と盛り上がっている。カウンターの隅で誰に話すともなく、ビール。帰れば家族が待っているし、馴染みの店もすぐ近く。でも今は独り。誰も自分のことを知らないし、自分も誰のことも知らない。孤独になりたいときは誰にでもある。即席孤独。そんな楽しみ方もビールと頒ち合いたい。

  ビール発泡言葉無縁の日なりけり  林翔

 「ビール発泡」により、ビールが奏でる心地よい音が聞こえてくる。旧友との久々の再会なのだろう。話すことはたくさんあるが、ビールを酌みかわすだけで、分かり合える。言葉にしなくとも会わなかった日々を互いに慰労できる。「友情」という言葉を深く強く感じる。

  ビール飲む友に山羊髭いつよりぞ  平賀扶人

 こちらも友と久々の再会。やはり手にはビール。友の顎には山羊のようなひげ。あれ?前に会ったときには生えていただろうか。どうしても思い出せない。まあ、よいではないか。今、友と楽しい時間を共有し、ビールも旨い。それで充分。

 ビールを酌みかわす。初対面という場合もあるが、気心の知れた仲だとさらに充実した時間を味わうことができる。先の二句が、たった十七音でそれを見事に表現している。しかしながら、こういう場合も。

  屋上に落ち目の人とビール飲む  内田美紗

 何もそこまで言わずとも。「屋上」とあるので、百貨店等が催すビヤガーデンだろう。相手は、美しい女性と二人きりという状況にご満悦。しかし女性の側では「落ち目の人」という評価。同じビールを飲みながら、それぞれの味は格段に違うことだろう。

  ビール缶握り潰せる汝を愛す  中西夕紀

 飲み干したビール缶を片手でグシャっと。ドラマの一場面にでもありそうな男前のしぐさ。そんなあなたを愛しているというダイレクトな表現。これが両手で潰すとさまにならない。やはり片手で一気に。ところで「ビール缶」というと空き缶を想像するが、「缶ビール」というと中身の入っているものが頭に浮かぶ。「グラス」も同様。「瓶」もまた然り。

  ビール瓶二つかち合ひ遠ざかる  細見綾子

 ではこれも空き瓶か。二つの空き瓶がかち合い、片づけられたということか。いや。この句に限っては中身の入っているものを想像したい。パーティの席上。グラスと瓶ビールを手にお酌回りをしていたら、同じくお酌回りをしている人とかち合った。挨拶は先ほどしたし。エヘヘと軽く会釈をしながら、それぞれ別方向へ遠ざかっていく。どちらの解釈がよかろうか。皆様に委ねたい。

  涼風の星よりぞ吹くビールかな  水原秋櫻子

 風がなんとも気持ちよい。ビールがさらに旨くなる。その風が夏の星々から吹いてくるとはなんともロマンティック。もうもうと煙の立ち込める焼鳥屋ではなく、高原の山荘をイメージしたい。いかにも旨そうだ。

  山上の空気に冷えしビール飲む  右城暮石

 これも全くもって旨そうだ。山小屋での一杯のビール。ほどよい冷えがなんとも爽快。冷やし方に何かこだわりがある訳ではないが、「山上の空気に冷え」たとなると、これは格別に旨そう。登山の疲れもゆったりと癒される。

 日本においてビールとは冷たいもの。ジョッキも冷やしてあるところが多い。まさにキンキン。猛暑や熱帯夜には誠に嬉しい。しかし冷え過ぎるのはよろしくないという御仁もいらっしゃるようで。

  冷えすぎてビールなさざり夕蛙  石川桂郎

  冷え過ぎしビールよ友の栄進よ  草間時彦

 「冷えすぎて」がビールの温度か気温かで捉え方がかなり変わるが、ここでは前者の方で。冷えすぎている。これではビールとなさない。私が飲みたいビールではない。こだわりか。わがままか。イライラする耳に遠くかた夕蛙の声。「冷え過ぎし」は明らかにビールのこと。「友の栄進」だ。祝わねば。しかし「冷え過ぎしビール」である。喜んでいない。間違いなくマイナスの感情を含んでいる。先を越された。入社年も年齢も一緒なのに。主人公もこのままでは「冷え過ぎ」になってしまう。チキショー。

 楽しくも哀しくも杯が進む。だんだん酔ってきた。笑い上戸に泣き上戸。人には千差万別の酔い方がある。

  この道にビール飲まさんと跼みけり  永田耕衣

 なぜ道に。よろめいてかがんだことへの言い訳か。それとも酔いの戯れか。突拍子のなさに驚く一句。ほんとになぜ?

  ビール園神神もかく屯せし  平畑静塔

 ビールを片手に語り、笑い、酔いゆくさまを神々の宴に喩えた。古代ギリシアか、日本か。大らかでゆったりとした景色が浮かぶ。ビール園の誰もが酒神であるかのように。そんなビールはやっぱり旨い。

  ビール工場からあふれさうな満月  能城檀

 工場に勤務しているというよりは、工場見学と考えたい。最後の試飲にも満足し、ちょうどよい心地。ふりかえると大型タンクなどの向こうに大きな満月。

 さらなる充実感。「あふれさうな」という言葉が満月の美しさを充分に表現するとともに「ビール工場」とも結びついて、思わず唾を飲む。満月を仰ぎながら、できたてのビールをもう二、三杯試飲させてほしいところだ。ビール工場の誘惑。

  生ビール天蓋汚れ切つたれど  行方克己

 中華料理屋か。「天蓋」と大仰な言い方ながら、それは汚れきっている。ただ「汚れ切つたれど」である。だけどね、と来る。だけど、何か。それはもう生ビールでしょう。生ビールが旨い!天井は汚れてるけどね、というところか。最初は汚れていると思っても、通っているうちにその汚れが店の味わいに変わってくる。学生時代によく行った居酒屋で、お世辞にもきれいとは言い難いところがあった。おばさんが一人でやっていた。手が回らなかったのか。しかしそこに行くといつもほっとした。掃除の行きとどいた店とは異なるあたたかさがあった。今も夢に出てくる。おばさんの笑い声とともに。

  夫逝きて麦酒冷やしてありしまゝ  副島いみ子

 突然亡くなったのか。夫のためにビールはまだ数本、冷蔵庫のなかに。片づけられない。夫の死が過去になってしまうかのようで。いつか飲むだろう。心の整理がついたら。今はまだ。

 笑いから涙まで。ビールは人生のいろいろな場面を演出する。

【句集歌集逍遙】ブックデザインから読み解く今日の歌集

 水上バス浅草行き」岡本真帆

持った感触が手になじみのよい本。ザラっとした紙質のカバーに、線画の装画と信号色の構成。ビリビリした線が特に好きなドローイングマニアとしては、この装画はたまらない。装丁・装画を手がける鈴木千佳子さんは亜紀書房の「言の葉の森」(チョン・スユン 吉川凪訳)も担当されている。和歌からイメージを広げた翻訳家のエッセイ、こちらもとてもよい装丁です。

本文の短歌が太ゴシックと太いかな書体の合成フォントで組まれている。漫画でよく使われる組み合わせだが、歌集ではかなり珍しいのではないか。漫画を読み慣れている人にとってはとても読みやすいに違いない。歌集のフォントとしては、だから太め—ウェイト重め—なんだけれど、あまりそういう印象を受けない。短歌の内容(日常の点景として、作りはわりとオーソドックスだと思う)、本体の紙色、紙質との組み合わせ、ページ2首組みの構成などが相まっているのだろう。

 卵かけごはんの世界から人が消えれば卵かけられごはん/岡本真帆

 平日の明るいうちからビール飲む ごらんよビール これが夏だよ

特筆すべきは装丁、造本の自由さだ。見返しにも短歌とイラストが配され、カバー裏は見出しで埋め尽くされ、帯にも短歌がタイルのように配されている。すみからすみまで「歌集」であろうとしている本。それがなぜだかうるさく感じない。簡潔だからだろうか。南伸坊デザインの椎名誠の本のような簡潔さだ。


柴犬二匹でサイクロン」大前粟生

なにかの粒子が光る赤のぶあつい特殊紙に青の箔押し。この色の組み合わせが既に規格外なのに、さらに見返しが蛍光イエロー、本文紙がかなり薄いコート紙。カバーなし。140ページ以上あるのに束(つか)がたいへん薄い。コート紙は普段カタログなどに使われるつるつるした紙で、単独の歌集の本文紙にこれを使用しているのは極めて稀なんじゃないだろうか(俵万智さんと浅井愼平さんの共著「とれたての短歌です」はフルカラーで写真もふんだんに使用されていたので確かコート紙だったと思うが)。

 お互いにワンパンし合う関係で倒れた場所を花園とせよ/大前粟生

 棺桶に詰められるならパフェに似た佇まいでと約束の夏

勢いのあるタイトルがとてもよい。短歌はわりと修辞がかっちりした、ことばの扱いに長けている人のつくったものだなという印象。本の佇まいと、言葉の強さと、内容の暴力性のかけあわせがなんだかすごい。


鬼と踊る」三田三郎

カバー上部が表紙のデザインで、カバーを剥ぐと続きみたいに表紙が現れる。北欧風な色彩と模様のみの表紙。シンプルなデザインにタイトルはあえての丸ゴシック(ただし、昨今流行中の明朝寄りの丸ゴシ—筑紫丸ゴシック、みたいな—である)の銀箔押し。人を食っているというか、正気なのか狂気なのか、といった作りである。

 あなたとは民事・刑事の双方で最高裁まで愛し合いたい/三田三郎

 生活を組み立てたいが手元にはおがくずみないなパーツしかない

本文書体はゴシック。目次をみているとハードボイルドの短編集か、と思えなくもないような、そうでもないような。かつて「とほほ」と表現されたような自虐的自省とマイルドな毒舌が交錯する、作風と書体が合っている。歌集にゴシック、もこの10年ほどの成果と思う。


たんぽるぽる」雪舟えま

短歌研究社の新しいラインナップ、短歌研究文庫の第一弾。親本は明るいタンポポ柄のカバーを取り外して広げると丸いテーブルクロス(?)ランチョンマット(?)状になるものだったが、その意匠を受け継ぎ、コンパクトなデザインに見事に落とし込んでいる。

 人類へある朝傘が降ってきてみんなとっても似合っているわ/雪舟えま

 ごはんって心で食べるものでしょう? 春風として助手席にのる

筆者は闘う女の子が嫌いではないが、女の子を闘わせがちなことについてはいつも苦い気持ちを抱いている。そこには無言でサクリファイスが求められている気がするからだ。雪舟えまの短歌は闘う意思、みたいなものが漲っている、なんだか応援されている気持ちになるのだが、「応援歌」というより「共闘」といった言葉が浮かぶ。一緒に闘いましょう、みたいな。本書のあとがきにもまさにそうした言葉が並んでいる。

短歌の文庫は歴史があり、既刊の短歌研究文庫、短歌新聞社、不識書院などからも多数の現代短歌歌集、選集が刊行されている。これらは一般的な「文庫」と同体裁のものである(ただし「文庫」に統一された規格があるわけではない。各社の文庫も微妙にサイズが違っている。今手元で実測したところ新潮文庫(152*106)小学館文庫(150*105)河出文庫(148*105)だった。)

この新しい短歌研究文庫は文庫と新書の中間ぐらいのサイズ(170*105)で、手になじみ、読みやすいサイズ感になっている(新書はだいたい173*110ぐらいなので、新書よりほんの少し小さめ)。

かつてネット上で発表されていた「地球の恋人たちの朝食(抄)」も併録されている。日記のような、詩のような、小説の断片のような文章のかずかずが、短歌とともに読めるようになったことも喜ばしい。作者の思考のエッセンスがよりなまな形で表れている。

文庫なのでページの制約もあるわけで、ページ4首組みのレイアウトになっているが、縦長の判型になることで天地の余白も適度にあり、心地よく読める。文庫の場合、ページあたりの収録歌数が多くなることもままあるが、読みやすさ・見やすさを保ってもらえるのはありがたいことだ。

これらカラフルな歌集たちが書店に居並ぶのを見て、とてもうれしい心持ちでいる。ますます手に取りたい書物、物体としての歌集が増えていくのを楽しみにしている。

2022年7月1日金曜日

第186号

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第四(5/20)瀬戸優理子・鷲津誠次・木村オサム
第五(5/27)早瀬恵子・岸本尚毅・小林かんな
第六(6/3)眞矢ひろみ・竹岡一郎・ふけとしこ
第七(6/10)ふけとしこ・前北かおる・松下カロ・渡邉美保
第八(6/17)堀本吟・高橋修宏・小沢麻結・浅沼 璞
第九(6/24)下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子
第十(7/1)佐藤りえ・筑紫磐井


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25 紅の蒙古斑/岡本 功 》読む

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17 央子と魚/寺澤 始 》読む

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7月の執筆者(渡邉美保)

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…(主な執筆者)小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子




筑紫磐井著『女帝たちの万葉集』(角川学芸出版)

新元号「令和」の典拠となった『萬葉集』。その成立に貢献した斉明・持統・元明・元正の4人の女帝、「春山の〈萬〉花の艶と秋山の千〈葉〉の彩を競へ」の天智天皇の詔を受けた額田王等の秘話を満載する、俳人初めての万葉集研究。平成22年刊/2,190円。お求めの際は、筆者までご連絡ください。 

鶫または増殖する鏡像 赤野四羽句集「ホフリ」を読む《前編》   竹岡一郎

 筑紫磐井さんから依頼が来て、赤野四羽さんがご自分の句集「ホフリ」の評を書いて欲しいという事なので書きます。句集の題になったのは次の句でしょう。


あなたが屠(ほふ)りなさい鶫(つぐみ)の血の為に


 何だか美しい句です。とつぜん意味不明の事を言いますが、この句は初恋というものの本質を良く捉えている。私が評論を書く時も、いつもこんな風に、初恋のように書いてきました。良い句は胸に刺さります。それは理屈ではない。理屈ではない処に何とか理屈をつけてゆくのが、残念なことに私の評し方です。けれども私はいつでも愛を以て解析してゆく。私自身を腑分けするように。でも、掲句に関しては、まだ鶫の羽毛を撫でただけです。腑分けは論の後半にて。


 私の中には沢山の人が居て、今語っている私は調停者です。けれども、調停者の立場を以て評論を書くことに、少し疲れてしまった。多分、どれだけ書いても、私の評論は恋には届かないから、意味がない。それなら調停を止め、統合する事を止めて解き放ってしまっても良いのではないか。私の中で絶えず争って手を挙げている彼ら彼女らに、好きに発言させても良いのではないか。もしかしたら私が、彼ら彼女らにとって障害となっているのかもしれない。


 「ホフリ」を読んでみましたが、非常に振幅が激しい。どう読んでも駄句としか思えないものから歳時記に載せても良いんじゃないかと思われる佳句まで。その落差が激し過ぎる。その間に美しく整っていて、解釈述べる必要もない句もあります。いわゆる伝統俳句です。次に挙げてみます。


古書店へ辿(たど)りつけずに秋の暮


 古書店には秋の暮が良く似合います。辿り着けないのですから、どんな本があるのか遂に分からない。長年探していた本、或いは見た事のない美しい本が片隅に積まれているかもしれない。


夕時雨よく光る眼の奥の鈴


 「鈴を張ったような目」という言い方があります。くりくりとつぶらな目の形容ですが、夕時雨の中でも良く輝くほど生気に満ちた目です。「眼にて語る」と言いますが、その声無き声は鈴を振るようなのでしょう。


冬の粥(かゆ)旧き家には音多し


 冬の粥は有難い。まるで古き良きふるさとの家のように有難く、そんな家の中で時々、柱や梁の軋む音がするのです。


簪(かんざし)を濡らし来世へ踊り明く


 これは歳時記に載せても良いような句で、簪は汗に、或いは涙に、或いは小雨に濡れるのか。踊りは盆の頃の季語ですから、やはり先祖や故人と縁がある。踊りが彼の世へ、或いは自分の来世へと繋がってゆく。最後の「明く」が良いです。来世に希望がある。


 少し述べてみましたが、私の解釈など邪魔かも知れず、只黙って味わえば良い句です。最初に、伝統俳句の立場からどうしても掬いたい句を掬ってみました。


 という事は、次から騒乱の段です。赤野四羽さん、私なんぞに評論頼んだ時点で、気の毒ですが覚悟決めるべきです。既に各人、喋りたくてうずうずしている。でも、私も時々出てくるかも。以上、前口上となります。


Ⅰ 神話或いは正義との闘争


ぽすとあぽかりぷす桜で飲んでます   


 平仮名にすると絶望から遁れられると思うのか。昔、ヨハネの黙示録を繰り返し読んだ。どうしようもない絶望感があった。それは今や現実化してきている。黙示録以降を言うなら、自らの死を直視せよ。桜で飲んでいる場合か。そんな呑気なことしているのは日本人の君だけだ。黙示録を舐めている。

 

 平仮名だから絶望感が薄れるんじゃないですか。ポストアポカリプスって、黙示録後の世界でしょ。今の世界が滅びたって、一日くらい花見させてくださいよ。あたしにどうしろって言うんですか。ミサイルが降ってこようが隕石おっこちてこようが、花見でもする他ないじゃないですか。桜の木の下には死体が埋まってる、って聞いたことあるけど、桜を見てるって事は、日本では、死を受け入れてるんですよ。黙示録なんて、あたし日本人だし、二度と帰らないけど実家には仏壇あるし、関係ないんです。関係ないのに巻き込まれて死ななきゃいけないんなら、他にもう肴も無いし、桜だけ肴にして飲むしかないじゃないですか。


 人類終活みな柿の木にのぼる


 終活、とか最近よく言うが、この言葉、大嫌いだ。そんなに簡単に省略して良いのか。ましてや人類という大きな括りに、こんな省略語を掲げて良いのか。人類の終焉という切迫した事柄を軽く見過ぎてないか。いつ第三次世界大戦が起こるかもしれない、この状況下に。そして柿の木が動く。何の木でも良いと思う。人類という言葉の中に「みな」は入っているから、「みな」は無駄。


 終活がダメなら、コンビニもパソコンもスマホも使っちゃダメだね。日常生活でコンビニとかパソコンとかスマホとか言わないのか。俳句は日常の詩、って誰か言ったよね。人類の終わりだって、生きている個人にとっては日常生活の延長じゃないか。だから「人類」の後に「終活」って、軽い言葉使うんだろ。柿の木は僕たちの日常には昔から懐かしい木で、そこに例えば木守柿が一つだけ残っていたら寂しいじゃないか。そこに登るんだよ。「みな」が無駄だって言うけど、これは僕の周りの、僕が知ってるみんなだろ。人類の中の、僕という詰まんない個人の周りのみんなだよ。

 

 「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」を踏まえているのかな。鐘の音は、祇園精舎の鐘と結びついて、諸行無常、盛者必衰の理をあらわしてるのかも。そうすると平家物語も踏まえているのかも。盛者は、この場合、他の生物と比較した時の人類。


さざれ石巌(いわお)と為(な)らずタピオカに


 国歌への安直な批判だ。実際のさざれ石を見ていたら、こんなふざけた発想は出ない。さざれ石とはもっと異様なものだ。炭酸カルシウムや水酸化鉄によって小石の隙間が埋められて巌を形成する。これは国に例えれば、民が集まって一つの国家となる目出度さなのだ。それをタピオカと揶揄するとは。


 私も幾つかさざれ石見ましたよ。乾いたタピオカの集まりだな、って、正直そう思いました。その炭酸カルシウムだか水酸化鉄って、私たちの現実では何に当たるんですか。絆、って奴? そんなの信じたことないし、上から絆を押し付けられても、おろおろしちゃうだけ。みんなで頑張って一つの目標に向かって、巌になって、じゃあ、巌から外れた小石はやっぱり駄目なんですかね。駄目なんでしょうね。駄目なら駄目なりに、タピオカ! とか、おどけてみせても、やっぱり、ふざけるな! とか言われるんですかね。じゃあ、私は、タピオカは、何処に行けばいいんですか。


葦原の野火に焼かれる烏(からす)かな

ゆれる世へ枯菊砕けつつ香る

樹皮撫でて病んだ桜の柔らかさ


 美しい景だ。写生と読めばよいのか、それとも出来るだけ綺麗に詠んだ皮肉と読めばよいのか、迷う。烏を八咫烏(やたがらす)と読めば、あとは菊、桜と、暗喩は明らかで、そういえば、枯菊を詠んだだけで、不敬だと特高に捕まった俳人がいた。かつて枯菊は、立派な検閲対象だったのだ。問題は作者が何処に立っているか。あらゆる検閲を拒む側か、検閲の種類によっては服(まつろ)う側か。天津神に追われた地祇の側に立っているのか、それとも天津神と地祇を共に無きものにし、見渡す限りの均一化を図る側、天津神と地祇の確執を巧みに利用し、分断を煽り、最後にはさざれ石を平たく均し固めるように、コールタールを掛けて、さざれ石をアスファルト化してしまうように、何にもかも真っ平らに、見通し良くしようとする側に、期せずして立ってしまうのか。


神代の獣のあゆみ蘖(ひこば)ゆる

狼の悲しい寺に微睡(まどろ)む夜


 あたしは、作者が無邪気に地祇の側に立ってると、素直に信じたい。なぜなら、全て真っ平になった処には何もひこばえない。獣も生きられない。「悲しい寺」って、寺の有様が悲しいの? それとも、「大悲」の「悲」、抜苦のこと? 狼が悲しいから、寺は狼の心を映して悲しく見えるんじゃないかな。大神(オオカミ)、大いなる山の神は、なぜ悲しいんだろう。誰が天津神で、誰が国津神で、そして誰が弥生以前の地祇だったか。本当の処は、今ではもう分かんない。この数千年の間に色んな事実がごちゃ混ぜになって、その時々の偉いさん達に都合よく上塗りされ過ぎたから。狼は地祇であった頃の夢を見て悲しいんだよ。もしかしたら、作者が狼の夢を見て悲しいのかも。その場合、作者は狼に同調してるの。まつろわぬものの夢は、なぜ「社」ではなく「寺」で見るんだろう。社にまどろめば天津神、国津神、どこかに属さないといけないからかな。寺なら、ああ仏法無辺、空の通力に護られて、新たな自由を夢見る事が出来るかも。


蛇の芽の芽吹いてほら一面の蛇

光る葉は饐(す)えて夜行の蛇を誘う


 蛇の髭、という草はあるけれど、蛇の芽、って何だろう。蛇の目、という模様はありますね。同心円の模様の事です。蛇が植物のように生い茂ると読めば、一番納得のいく風景です。葉が饐えて光るなら、腐って燐が生じているとも読めますが、元々光る葉が饐える、醗酵している。これは饐えた匂いによって蛇を誘っているのでしょう。蛇は嗅覚が優れているからです。夜の中で光っている葉は、その光自体が醗酵であり、それが蛇を誘う。この葉がそもそも蛇ではないか。となると、蛇の芽も、丸い眼玉から生えて大きくなってゆく蛇の群、と素直に読んで良いと思います。


 なぜ蛇が植物と同一視されるのか。大地に根ざしているのか。地霊なるものが古代に、ハハ、とも呼ばれていた事。その自在な俊敏な動きを、或る時は蛇に喩え、或る時は狐に喩えた事、或いはアラハバキという名を想起しても良い。地に結びつくもの、地の力の結晶、本来は地に繁茂するもの。


 そして僕は狐だけど、わたしは記紀以前に追われたもの、羽羽(ハハ)で、俺は土蜘蛛である。いざとなれば、お前たちの吸う息吐く息に至るまで、見えない糸を張り巡らせることは出来る。わたくしは言葉の混沌が溢れ出そうとしている事を感じて安らぐ。


蜘蛛は巣を全て感じて安らいだ


 巣に掛かる全ての反応を蜘蛛は感じている。風や雨粒や吹かれてきて引っ掛かるゴミや、もちろん獲物の生の鼓動も。蜘蛛の喜びも欲望も苦痛も、蜘蛛の肢先から巣の震えとなって伝わる。自分が認知する世界の反応全てが安らぎとなる。下五、「安らいだ」と過去形になっている処が、蜘蛛の物語の大団円なのか。


 俺は逆に、下五の「安らいだ」が単に作者の希望に見えるんだかな。蜘蛛が安らぐわけなかろうが。絶えず飢えて隅々まで巣を感じているなら、蜘蛛が安らぐのは死んだときだけだろう。それとも蜘蛛の臨終の描写なのか?


 安らいだって良いでしょう? 蜘蛛の巣みたいな小さな範囲の生活を隅々まで整えるのが、どんなに安らぎになるか。この蜘蛛は絡新婦(じょろうぐも)だと思う。スタイリッシュで手足の長い人が、そんな風に安らいでいるのは、素敵じゃないですか。


 蜘蛛は巣を統合している。統合とは安らぎであると言って良いのか。現状ではとても安らぎと言えなくとも、絶えず全神経を目覚めさせて緊張していても、巣というアンテナを全て感じていられる事は、いつか安らぎに繋がるかもしれぬ。


冬蜘蛛の愛に机のうえ狭し


 この句は巣の無い蜘蛛なんだね。蠅取蜘蛛かな。それならぴょんぴょん跳ねて、いずれは机から落ちるんだよね。それとも足高蜘蛛? 足高蜘蛛なら、もっと机の上は狭いよね。あれに顔の上這われると参るよね。取り敢えず張るべき巣が無くて、領土の無い蜘蛛。自由だけど寂しい蜘蛛。だから愛に満ちている。籠る巣が無いから。あたしに言えるのは、ここまで。あとは土蜘蛛、語って。


 かつて見渡す限り山も谷も野も、俺の巣で、俺の領土で、俺の愛は涯が無かった。俺の愛は言葉を遙かに超え、言葉を書きつける机など、俺の脚先の毛一本にも足りない。冬もまた、俺の愛を凍らせる事は出来ず、吹雪は俺の全身を輝かせる。そもそも愛という言葉自体、その熱気は、俺のときどき吐く炎の一筋にも足りないはずだった。仰げば星が流れ、星の曳く光は、やはり俺の炎と同じく、細かく震えていた。


ほうき星苦しみを引きちぎりたい


 苦しみが、ほうき星にとっての尾として見えている。ほうき星が尾を引いて落ちてゆくのは、苦しみから逃れる為、苦しみを引きちぎりたいからだ、と言う。しかし苦しみは、ほうき星の身から出て、光として知覚される。苦しみが全て無くなるのは、ほうき星自体が燃え尽きる時だ。ほうき星は苦しみだけから出来ている。苦しみから、つまりは自分から逃れようとして、一瞬の軌跡を虚空に描く。


 言葉は苦しみです。全てを表現しようと、虚しい足掻きを続けるから。意思疎通は出来るようでいて、実は決して為されることはありません。言葉はどれだけ互いに重ねても、更なる上空で統合されることなどあり得ない。あり得るように見えるとすれば、それは単に平和の為に妥協し手打ちしただけです。各人の正義は永遠に争い合う。なぜなら、「正義」なる言葉は、怨念の復讐への欲望を、体よく言い換えただけだからです。言語は事象の、運命の本質には決して辿り着けない。では、調停とは、或る意味、暴力なのでしょうか。


 だからあたしは迸る。俺は刃向かう。僕は出来るだけ遠くに遁れる。わたくしはお前たちの世の外から瞼の無い目で見ている。調和は意図して為されるものではないから、調停者よ、お前は取り敢えず黙れ。統合を諦めろ。


冬池の底の音無く孕(はら)みたる


 私は彼らに聞かれぬよう、囁きで解釈します。池底は、胎として何かを孕んでいる。何かの死体でしょうか。死体が産む諸々でしょうか。根でしょうか。まだ意志としてしか存在しない蕾でしょうか。泥に覆われて見る事が出来ず、音が無いから推測が出来ません。冬は休息の季節です。外気よりも池底の泥の方が温かい。死と生の間はこんな感じかもしれません。では、一旦休憩に入ります。

澤田和弥論集成(第8回) 

 澤田和弥は酒が好きである。およそ10編ほどのエッセイがある。私は澤田と酒席を一緒にした経験はないが、多くの交友は酒席で進んでいたというから、澤田の俳句の秘密と微妙にかかわっているかもしれない。そうした澤田の俳句の秘密を紹介したい。――筑紫磐井

 第1回の「麦酒讃歌」は「天為」に掲載したものであるが、転載して紹介したいと思う。 


麦酒讃歌(「天為」より転載)

                澤田和弥

 どうにもこうにも酒が好きである。 乾杯の二、三秒後には口中から喉へと流れゆく麦酒の心地よさ。脂ののった〆鯖の後を追うように流れるぬる燗のときめき。わいわいと昔話に興じながら流す酎ハイのさわやかさ。どれをとっても酒とは気持ちのよいもの。度さえ過ぎなければ、まさに人生の潤滑油、百薬の長である。たびたび度を過ぎてしまうことは、ここでは棚に上げておこう。

 ガラガラガラと引き戸を開けると「いらっしゃい」という女将の声。空席を探して、よいしょと。さてさて何にしようか。「とりあえずビール」。そう、ビールである。ビールは夏の季語であり、夏といえばなんといってもビール。しかしこの「とりあえず」は春夏秋冬新年変わらない。ビールは苦手という方もおられるが、私なんぞはまずはビールで喉と心を潤し、さて肴は、といきたい。なにせビールは

  ビール一本夢に飲み干し楽しみな  高濱年尾

というほどの代物だから。この句は「一本」とあるので瓶ビールだろう。内田百閒は旅に瓶ビールを持っていったそうだ。あの重い瓶ビールを。酒飲みとはかくありき。瓶ビールも勿論旨いのだが、まずはぐいっとジョッキを傾けたい。そうそう、生ビール。

  生きてゐる価値の一つに生ビール  河西みつる

 「生きてゐる価値」とはまた大袈裟なと思いつつ、一口目の旨さは確かに万金に値する。あの至福は「生きてゐる価値」に加えても遜色なかろう。病床で酒の飲めぬときは生ビールの最初の一口が何度も頭に浮かぶ。元気になったら、まずは酒場へ。心やすけく元気なときはぐいぐいと杯が進む。

  安堵とはこんなにビール飲めるとき  坊城中子

 「えっ!もうそんなに飲んだっけ?」というのは楽しんでいる証拠。酒は楽しく、気持ちよく。

 私は恥ずかしながらいまだ外国に行ったことがないが、こんなに旨そうな海外詠がある。

  黒ビール白夜の光すかし飲む  有馬朗人

  この国の出口は一つ麦酒飲む  対馬康子

 黒ビールに白夜の光を透かしながらとはなんともお洒落だ。酒を飲むときは酒だけではなく、その場の雰囲気にも酔いしれたい。「出口は一つ」とは空港が一つしかないということか。それとも陸路か。いずれにしても蒸し暑い国をイメージした。空港であれば、そこのちょっとしたカウンターで一杯。あまり冷えておらず、氷を入れたりして。ビールが旨いのは万国共通、日本だけのことではない。しかしながら海外ビールよりも日本のビールの方が好きなのは、性と言おうか、業と言おうか。

 ビールは一人でも旨いが、気の合う人と飲むのもまた格別。

  麦酒のむ椅子軋らせて詩の仲間  林田紀音夫

 詩は万物の根源、心の奥底を紡ぐもの。その仲間であるから気心の知れた仲。「椅子軋らせて」を詩論激しく戦わせているのか、それともゆるりとまったりと、と捉えるか。読み手に委ねられるところだが、いずれにしても満たされたひとときである。

  同郷といふだけの仲ビール干す  佐藤凌山

 東京などの大都市にいると「同郷」ということがなんとも心強い。大学時代に県人会に所属していた。それこそ「同郷といふだけの仲」である。よく飲んだ。とてもよく飲んだ。同郷の仲を「わざわざ東京に出てきてまで」と言う者もいたが、何を格好つけているのだろう。やはり嬉しいのだ。その嬉しさが末尾「干す」に集約されている。「飲む」のではない。「干す」。似た感覚に

  阿蘇人と阿蘇をたたへてビール抜く  上村占魚

という句がある。故郷を誉められることはなんとも嬉しい。「阿蘇人」は常連だろうか。それならば他の常連も巻き込めば、さらに楽しい。瓶ビールの王冠をシュポンと抜き、さて今宵のはじまりである。かしこまった席ではなく、大衆酒場の一景と考えたい。

  うそばかり言ふ男らとビール飲む  岡本眸

 男は虚栄心のかたまりである。勿論女性もそうである。しかしこの句が「女ら」であったならば、なんとも苦いビールである。男たちが酒の勢いで嘘やほらを並びたてる。だから楽しい。場も盛況。現実はつらい。せめて酒の席だけでも。「男ってバカね」というのは蔑みではなく、あたたかさ。それを包み込む酒場という器。

  ビール呑み先輩もまた貧しかりき  栗原米作

 こちらはさびしい。学生時代か、大部屋時代か。ビールを呑んで憂さ晴らしといきたいところだが、財布の中はお互いに……。しかし先輩は「おごる」と言う。安い金額ではない。財布を取り出しても「いいから、いいから」と。先輩とはそういう生き物である。下五の字余りが涙を誘う。

  人もわれもその夜さびしきビールかな  鈴木真砂女

 こちらもまた。はじめてこの句を目にしたとき、私は小料理屋の女将と常連の男一人をイメージした。登場人物はこの二人だけ。カウンター越しに男の愚痴。「他に客もいないし」と女将のグラスにビールを注ぐ。ちびちびと一口ずつ。しかしそれは作者「鈴木真砂女」のイメージに引っ張られ過ぎていたのかもしれない。今は、立ち飲み屋をイメージしている。カウンターの内も外も賑やかで大忙し。そのなかでひとりポツリとさびしく飲んでいると、隣にもう一人。常連だろうか。たびたび見る顔だ。ビールの表面ばかりを見つめ、飲み方もちびちびと。たまに漏れる小さなため息。自分と同じ人がもう一人。がやがやとした店内にふとしたエアスポット。だが、話しかけることはない。大人の礼儀というもの。私自身が「さびしき」人になってきているのか。そのようにこの句を読むようになった。生ビールではさびしくない。中瓶と片手におさまるビールグラス。そして飲み方はちびちび。このようなさびしさに滑稽を見出したのが次の句。

  誰もつぎくれざるビールひとり注ぐ  茨木和生

 大勢で飲んでいるときに手酌は不粋。しかし誰もついでくれない。仕方なく自ら。よくある光景であり、誰しも経験したことがあるだろう。これが一句になると、さびしいのだがなぜかうなづかずにはいられない共感と滑稽を思う。「ビール」ゆえにパーティ等でポツリとひとりになった感じが出ている。これが「冷酒」や「焼酎」では場面設定すら大きく変わってしまう。

 さびしくなってきた。ひとり酒は体に悪い。ぱっと明るく。

  ビール溢れ心あふるる言葉あり  林翔

 溢れるビールがなんとも旨そうだ。パーティか、送別会か。ビールとともに溢れる言葉がきらきらと輝いている。まさに黄金色。ビールの開放感が心地よい。この言葉、ぜひとも先述の先輩にもかけてほしい。

  遠近の灯りそめたるビールかな  久保田万太郎

 ビールを飲みはじめるのは終業後の夜、または宵の口であろう。上五中七の広く漫然とした景を下五がきゅっと締めている。締めつつも「かな」というやさしい切れ字が充実した心のゆとりと満足感を伝える。

 されども、格別に旨いのは昼。

  旅なれば昼のビールを許されよ  永田豊美

 昼、特に平日の昼にビールを飲むことは少なからず罪悪感を伴う。皆、仕事に学業に勤しんでいる時間帯。私だけいいのだろうか。うん。いいのだよ。この罪悪感と解放感がことのほか、ビールを旨くする。そのうえ旅中ともなれば旨さはさらに倍増。詠み上げるのではなく、語りかける文体がさらに憎らしい。許す反面、許したくない気持ちがどうしても拭えない。自分が飲む側であれば、このような気持ちは全く起こらないのだが。

 俳句の力か、ビールは飲む前から旨い。

  大声の酒屋のビール届きけり  太田順子

 「大声」がいい。元気いっぱいの酒屋がガタガタとケースに瓶ビールを鳴らしながら、届けてくれた。この句の中では一口もビールを飲んでいない。届いただけだ。しかしなんとも旨そうだ。これからキンキンに冷やし、食卓へ。王冠をコンコンと二、三度叩いてシュポっと。グラスに注がれる溢れんばかりの白と金。唇に触れた瞬間の泡のやわらかさ。さあ、一気に喉へ。ここまで書くのは読解過剰かもしれないが、この句を前にするとどうしてもそこまで頭の中が行ってしまう。つくづく、私は酒飲みだ。キンキンに冷えたビール。

 ビールを飲むときはその雰囲気にも酔いしれたいと先に書いた。ビールにはビヤホールやビヤガーデンという特別な場がある。ビヤガーデンは屋外という開放感があるが、ビールがすぐにぬるくなり、虫を追い払いながら飲まなければないないので、ビヤホールの方が好きだ。

  さまよへる湖に似てビヤホール  櫂未知子

 「さまよへる湖」と言えば楼蘭のロプノール湖。ロプノールとビヤホール。なるほど。確かに似ている。そして杯が進めば目の前はさまようかのようにゆらゆら。お手洗いに立とうものならば「あれ?席は」とさまよって、と書いてしまっては滑稽が過ぎるか。ただビヤホールという空間は、ロプノール湖のようにいつまでも浪漫に魅了される場であってほしい。

 昨今、発泡酒や第三のビールの登場により、ビールが贅沢品になりつつある。しかしながら、ビールは庶民、大衆のものでありたい。ともに喜びを分かち合い、さびしいときには肩に手をぽんと置いて隣にいてくれる存在。

  ビール酌む男ごころを灯に曝し  三橋鷹女

 心を曝すことなどなかなかできぬ、世知辛い世の中。ビールを酌めば。酒に逃げるのではない。喜びをさらなる喜びに、さびしさに救いを。一杯のビールが心に一灯をともす。ビールを知ることは、相棒を得ることに似ている。人は一人では生きられない。だから今日も私たちはビールが飲みたいのである。


  生きてゐる価値の一つに生ビール  河西みつる

【連載通信】ほたる通信 Ⅲ (23)  ふけとしこ

   実の青き

あさざの黄ががぶたの白夏つばめ

残りたる梅杖で指し傘で指し

昼顔や挙玉の柄の握り艶

夏雲やあの木この木と実の青き

父の忌が近し金魚の水替へて

・・・

 電話。

「ああ、またそのお話ですか」

「は? 今迄にもありましたか? どこからですか?」

「いえ、私はもう結構ですから」

詐欺とまでは言わないが、詐欺まがいの話なのである。三度目ともなると、こちらも馴れてくる。さっさと電話を切らせて頂いた。

最初は日光東照宮の何とか殿にあなたの作品を飾らせて頂きますので……ああだこうだ……。お断り申し上げた。「とても名誉なことなのですよ」と食い下がられたが、電話を切った。

しばらく経って今度は下鴨神社の○○殿だったか、○○の間だったかにあなたの作品を云々。名前も忘れたが、とても権威のある書家の先生がお書き下さってどうとか……。

「幾らか請求なさるのでしょ?」と聞くと十何万円だという。前回の話より高い。

最初の電話の主は私の句をどこで調べたのか知らないが、読み上げて「こんな素晴らしい俳句は何としても多くの人に見て頂いて云々」ところが漢字の読み方を間違っていた。何かの名簿を見て片っ端から電話を掛けているだけだろうから追及しても仕方がないが。

三度目というのはつい最近の事である。平安神宮が会場だという。

それで思い出したことがある。

三千院を訪れた時に、さる俳人の色紙が通路に一枚貼ってあるのを見かけたことがあった。その時は、このお寺と何かご縁がある人なのかな、と思って過ぎたが、もしかしたらこんな勧誘があってのことだったのかも知れない。

〇〇に載せてあげます。掲載料はウン万円です。という電話は昔からあるが、今までのところお断りしている。老化が進み判断が怪しくなって「あらあら嬉しいこと!」とならないようにしなければ……。

(2022・6)

北川美美俳句全集19 

117号「動かぬ象」2014年7月1日


春昼の観覧車より見る売地

たなびくは春山火事と白シーツ

アダムにも前妻はあり春の土

夏至の夕吐く息少し長くとる

夏来る動かぬ象に集まる子

紫黄忌の机上に置きし石ひとつ

伸びて寝る猫の喉元紫黄の忌

瓢箪の暗きを覗く鯰かな

水流れ行きつく穴や涼新た

水澄むや山本紫黄の小さき文字


面118号「噛み跡」2015年4月1日


雪解水樋の外側つたいけり

海の水少しまじりし蜆汁

西東忌音消している消防車

噛み跡は鮎の歯型や藻の盛り

赤と白遠泳の列沖へ出る

頭蓋とは蓋になる骨曼珠沙華

寄生木を狼も見し奥の山

廊下堅し夜寒の底のくらがりに

枯草の折れ曲がりつつそよぐかな

人といてさびしき時を輪投げかな


面119号「夜の水路」


文鎮は紙をとらえて立夏かな

七月の沼に空あり雲育つ

夏山やおとこの息とすれ違う

杖の柄で茱萸の赤いの引き寄せる

車窓まだ山中にあり昼寝覚

幽霊はだいたい女紫黄の忌

赤紫蘇に水染まりゆく母の留守

秋灯が点から線になつてゆく

紺屋まで夜の水路を秋の水

崩落の崖留めている枯木の根