2021年10月15日金曜日

【篠崎央子第一句集『火の貌』を読みたい】17 央子と魚  寺澤 始

 篠崎央子さんとは「未来図」終刊以降も「磁石」でご一緒させていただいている。央子さんの句には、彼女でなければ詠むことのできない独特の世界がある。『火の貌』跋文の「いのちの血脈」で角谷昌子さんが指摘しておられるように、央子さんの句の根底には、日本文化に深く根差した土着の共同体意識のようなものが脈々と流れており、「血族」や「血脈」に対する関心が強い。〈開墾の民の血を引く鶏頭花〉などが、その代表的な例で、この〈鶏頭花〉の存在感の大きさといったらない。開墾以降の民の血を積み上げた末に咲いた鶏頭花なのだ。さらに『万葉集』に深い関心を寄せ、研究してきたという央子さんの句は、どこか郷土常陸の風土や自然を感じさせる。まるで東歌を連想させる何とも言えない懐かしさがある。それでいて古典の世界に向かうかといえば、そうでもなく、斬新な句材や取り合わせに果敢に挑んでいく新しさがあり、一緒に句会をしたり吟行に行ったりするたびに驚かされるのである。

 央子さんご自身が「あとがき」で、「幼い頃より動植物が好きだった」と書いておられるが、央子さんの句には生き物を詠んだ句が実に多い。央子さんは、魚釣りが好きだという。吟行で御一緒した際に、少女時代、川で鮠や虹鱒などを釣ったという話を聞いたことがある。そんなことを思い出しながら句集を読んでいくと、魚をモチーフにした句が多いことに気付いた。魚以外にも動物を詠んだ魅力的な句が多いが(〈火の貌のにはとりの鳴く淑気かな〉の句もしかり)、今回は、魚の句に注目して読んでいこうと思う。

   紅葉鮒雨の濃くなり淡くなり

 〈紅葉鮒〉という何とも美しい秋の季語に雨の濃淡を重ねた。雨が濃くなったり淡くなったり、湖の風景はまるで水彩画のようだ。湖の光景が雨や霧を伴いながら、時に遠景を覗かせる。琵琶湖の源五郎鮒には、鮒に恋文を偲ばせたという堅田の漁師、源五郎の伝説があるが、央子さんの句集のうちにこの句が置かれると、ふとそんな伝説を思い起こしてしまう。この雨は姫を恋う源五郎の涙か。

   極月の地球の果ての魚を食ふ

 〈地球の果ての魚〉という表現が何とも壮大だ。今やノルウェーのサーモンであったり、鯖であったり、はたまたモーリタニアの蛸であったりと、食卓には世界の至るところから海産物が届く。それらは冷凍され空輸されてくるのだろうが、冷凍技術の進化も甚だしく、とてもおいしくいただける。〈極月〉は年の極まる十二月。アメ横あたりで、鮮魚を売り買いするような賑わいも想像される。〈地球の果て〉の魚を食べて、地球はやがて新しい年を迎える。そして、こんな句もある。

   初桜くちびる薄き魚を焼く

   年の瀬や目付きの悪しき魚を提げ

 〈初桜〉の句の前で、はたしてこれは何という魚だろうかと考えてしまった。鯵だろうか?あるいは姫鱒?公魚?…いずれにしてもこの二句に共通する面白さは、やはり、草田男俳句の伝統を継ぐ、人間探究派的といったらよいのか、ここに描かれた魚には、まるで人間を見るような視点があるのだ。〈くちびる薄き〉という表現からは、どこかしら薄幸そうな女性の姿が浮かび上がる。何か愛情に恵まれなかったかのような。〈初桜〉という季語がさらにはかなさを、そして美しさを醸し出す。はかなげな運命、そう『源氏物語』でいう「夕顔」のような女をこの句から連想するのだ。先の〈紅葉鮒〉の句にしてもそうだが、土着の伝説であったり、古典文学の世界であったり、そういった世界への広がりを感じさせるところが、央子俳句の魅力でもある。

 次の〈年の瀬や〉の句にしても面白い。〈目付きの悪しき魚〉とは?〈提げ〉というのだからある程度大きな、悪食な肉食魚ではないだろうか。何となく悪い目付きにギョっと睨まれているようで少したじろいだ。しかし、多くの小魚を捕食し尽くしてきたであろう悪しき目付きの魚が、今度は自分の腹に入る。季節は、年の瀬、そんな魚を食べて、また季節は、世界は循環するのだ。この魚も次に生まれる時には目付きのよき魚に生まれてくるかもしれない。唇の薄い魚も、目付きの悪い魚も、そこに業を持った人間の象徴のようなものを感じる。また、それらを包み込むような大きな視点で詠んでいる点も魅力的だ。次の句もその流れで鑑賞すると面白い。

   生ゴミの魚と目の合ふ夜寒かな

 もしかしたら〈目付きの悪しき魚〉のその後の姿なのかもしれない。〈生ゴミ〉となりつつも、そこに命ありしものとの交感があり、魚に見られてぞっとするような感覚を生き生きと詠んでいる。ゴミを単に無機質なものと見ていない。

   回遊魚は海の歯車十二月

 水族館の大きな水槽の前で、回遊する魚を見て思いついた句であろうか。〈海の歯車〉といったところが面白いく斬新な発想だ。鰯のような小さな回遊魚から鮪のような大きな回遊魚まで、広大な海を循環し、食ったり食われたりすることで命は巡っていく。〈十二月〉という季語がやはり、新たな年の循環を連想させる。また、魚の句ではないが、〈東京の空を重しと鳥帰る〉などもやはりそんなことを連想させる句だ。

   緋鯉ゆく恋の勝者とならむため

   身請け待つごと朱を灯し冬の鯉

 最も身近な緋鯉と錦鯉の句。緋鯉の悠々と泳ぐ姿は恋の勝者のように堂々としている。また、〈朱を灯〉す冬の鯉は、美しい着物を羽織った一女性の物語を連想させる。後者の句の前には、〈着ぶくれて遊女になつてみたき夜〉が置かれている。央子俳句にはある種のストーリー性があり、それが句に広がりを与えている。〈伊勢海老の謀叛を起こしさうな髭〉などもその一つであろう。

   海鼠腸やどろりとうねる海のあり

   浅蜊汁星の触れ合ふ音立てて

 〈海鼠腸〉〈浅蜊〉という小さな素材を詠みながらも、イメージは大きな海、大きな空にまで広がる。〈海鼠腸〉に〈どろりとうねる海〉を感じ、カチカチ触れ合う味噌汁の〈浅蜊〉を〈星の触れ合ふ音〉に見立てている。なんと壮大でロマンチックなことか。 

   緋目高をひそやかに飼ひ川の町

   福寿草金魚の墓に群れてをり

 小さな生き物との暮らし。そしてやがて訪れるその死。〈福寿草〉は、その小さな命への畏敬であり、死せるものへのささやかな哀悼である。

   鮎跳ぬる血より濃き香を放ちては

   死ぬ前に教へよ鰻罠の場所

 最も央子さんらしいキーワード「血」、そして「土着性」を存分に感じさせる句である。〈血より濃き香〉という表現が、非常に印象的で力強い。日本の清流に脈々と命を繋いできたその鮎の血と、さらにその生を生々しく実感させるその香。古来「西瓜の匂いのよう」とも言われる鮎のその強い香りが嗅覚を刺激する。脈々と受け継がれてきた血族の血と文化の香とをこれからも保ち続けよと言っているかのようである。そして、それはまさに草田男・秞子という俳句の血脈を受け継ぎながらも、独自の個性を放とうとする央子俳句の本質でもある。〈死ぬ前には鰻罠の場所〉を教えよと。血脈的なもの、土着的なものの伝統を色濃く受け継ぎながらも、央子さんの俳句は、新たな濃き香りを、これからも放ち続けることだろう。


プロフィール
・寺澤 始(てらさわ はじめ) 1970年東京都生まれ。静岡県に育つ。
・所属結社 「磁石」
・俳句歴 2001年「未来図」入会。2016年「未来図新人賞」受賞。2017年「未来図」同人。
     2020年「未来図」終刊につき、「磁石」創刊同人。
・句集 『夜汽車』(2020年 第16回日本詩歌句随筆評論大賞俳句部門「俳句四季賞」受賞)

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