2013年5月31日金曜日

第22号 2013年5月31日発行


【俳句作品】


  • 平成二十五年 花鳥篇 第四


……山崎祐子,三宅やよい,池田瑠那,
          松尾清隆、小早川忠義、北川美美  ≫読む




           第三  ≫読む

……内田麻衣子,吉村毬子,中山奈々,太田うさぎ,藤田るりこ,
    堀田季何,小林千史,仲寒蝉,堀本 吟,筑紫磐井  


           第二 ≫読む

……中西夕紀,前北かおる,関悦史,田代夏緒,小野裕三,三木基史,
網野月を,林雅樹,堀本裕樹,下坂速穂,依光正樹,依光陽子,
      小沢麻結,飯田冬眞,茅根知子,佐川盟子,月野ぽぽな,小久保佳世子


           第一  ≫読む
…池田澄子,福永法弘,曾根 毅,もてきまり,小林かんな,杉山久子
 ,内村恭子,藤田踏青,しなだしん,原雅子,後藤貴子,関根誠子,
     仙田洋子,羽村 美和子,早瀬恵子,陽 美保子,西村麒麟   

  • 花鳥篇論……筑紫磐井   ≫読む

    • 現代風狂帖(10句)


         隣合ふ  岬 光世   ≫読む


         新樹光  田代夏緒   ≫読む



      【戦後俳句を読む】
      • 細見綾子の句~「細見綾子 武蔵野歳時記の世界」……栗山 心   ≫読む
      • 戦後俳句とはいかなる時空だったのか?【テーマ―書き留める、ということ】……堀本吟   ≫読む

      【現代俳句を読む】

      • 俳句時評 第89回~僕たちの断罪ー大沼正明句集『異執』~
             ……外山一機 ≫読む new!!


      • 3.11東日本大震災と地貌季語  
      ……筑紫磐井   ≫読む new!!

      • 「俳句空間」という名称についてあれこれ……大井恒行 ≫読む

      • 最新版!:日本気象協会「季節のことば37?選」……筑紫磐井 ≫読む
      • 「歳旦帖」を読む~貫く棒の如きもの~
      •                  ……中山奈々  ≫読む

      【編集後記】
      あとがき   ≫読む


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      • 募集!! 第2回  攝津幸彦記念賞 ≫読む

        • 第5回「こもろ・日盛俳句祭」のご案内(現時点の概略)≫読む
        ~俳句の林間学校「こもろ・日盛俳句祭」へのお誘い~

           ……本井 英 ≫読む







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        第22号 (2013.05.31)あとがき

        北川美美

        5月の終わりと同時に梅雨入となりました。

        作品は、岬光世さんと田代夏緒さんの女性陣です。【戦後俳句を読む】に新執筆者として栗山心さんの細見綾子論がスタートしました。栗山さんも女性です。堀本吟さんも女性です。五月を締めくくる、6月のスタートにふさわしく女性執筆者揃いになりました。

        好評の俳句時評は外山一機さんです。

        時評の女性執筆者というのは、あまり聞かないし、見ないような気がしますが、私が知らないだけでしょうか。男尊女卑の歴史があるとは伺っているのですが。ジェンダー問題はどの世界でもあることですが、作品の上では、自由に創作したいものです。


        筑紫磐井

        ○日本気象協会「季節のことば36選」が発表になったが、あまり反響のないのは少しさびしいものである。「岳」の35周年記念大会の折りに本井英氏と会ったら、この件である提案をされた。かなりシニカルな提案であり、私が言ってもおかしくはないが、本井さんの提案としてはふさわしくないような気がした。少し皆さんにご相談したいと思う。

        ○このところ80代の方の逝去が立て続く。星野麦丘人氏が20日に亡くなられた。88歳である。鶴の正統派の星野さんと私は縁がなさそうに思われるが、実は花神社のシリーズ『星野麦丘人』の解説を私が書いているのである。律儀な方で、今もって丁寧に年賀状を送っていただいている。今年の年賀状は私のが先に届いたせいか、「賀正 入院のため挨拶が遅れ失礼いたしました(1月6日)」とあった。果たしていったんは退院されたのであろうか。

        ○栗山心さんの連載がいよいよ始まった。あれほど生前人気のあった細見綾子だが、結社「風」の消滅とともにそれを語る人が極端にいなくなる。本来語るべきであった人を語り始めるのであるから、いい人選である。何も結社に入ることを否定するのではないが、結社に入ったため広い視野を失うというのはいかがなものかという気がする。結社に入りながら探求する人を探すのこそ、結社に入った甲斐があろうというものだ。






        【俳句時評】僕たちの断罪-大沼正明句集『異執』 /外山一機 

        大沼正明が句集『異執』(ふらんす堂)を上梓した。『大沼正明句集』(海程新社、昭和六一)以来、三〇年近くの歳月を経ての第二句集である。かつて夏石番矢は大沼について「暗喩主義的作風は、現代人の精神内奥の屈折や空洞やきしみを反映して、錯綜のはての異形を呈する。季に関しては無拘束であり、リズムは千変万化に近い変化を示す」(『超早わかり現代俳句マニュアル』立風書房、平成八)と評したが、僕たちはずいぶん長いあいだ大沼正明の名を忘れてはいなかっただろうか。

          寧の生家はあの解放大路(ジエファンダールゥ)の暗(あん)帰りぬ 
          鱈の白子を菊と呼ぶ地で金策せり 
          小さな天の尻餅のような文鎮ください 
          右眼のハングルの恨(ハン)とときどき酌めり 
          ザリガニ尺もて祖国嫌度は脛から測る 
          夕べ馬車載せ重くて戻れぬ津波ありき 
          鮮と発して北を思ほゆ飢えや軍や

        『未定』を経て現在は『DA俳句』に所属する大沼であるが、その出立において大沼は『海程』に拠って活動していた。大沼が『海程』に同人として名を連ねることになるのは昭和四六年のことだが、同年海程新人賞の準賞を受賞してもいる。このときの大沼の句はたとえば次のようなものだった。

        手淫す工員その白濁が苦痛の河口
         
        運送暮らしの俺に黄の雨後品川過ぐ 
        僕ら妻なし激論果つればバルドー欲る
        このときの大沼は自らと他者について、それを「僕ら」という名で呼ぶことのできる場所にいた。準賞受賞時の感想で大沼は自らの句を「俳句以前の俳句でしかなかった」と韜晦しつつ、次のように書いている。

        あまりに恵まれた、東京例会、櫂の会、この金貨あふれる宝島のごときところで、僕は、いざ大泥棒になろう。そして、その光り輝くものを、より多く奪ってやろう。(『海程』昭和四六・六)

         大沼の言葉は驚くほど晴朗で意欲に満ちている。こうした明るさは、しかし、大沼に特有のものではなかったはずである。喜多唯志は『大沼正明句集』の解説を次のように書くことから始めている。

        俳句は老人の趣味、浮世離れの五七五、と思っていた私が、ふとした機会に金子兜
        太氏の『今日の俳句』(光文社刊カッパブックス)に触れ、その新鮮さに驚いたのは、
        学園紛争などで騒然としていた一九六〇年代後半であった。

         喜多はこのように自らの出自を明らかにしたうえで大沼について「同じころ仙台にいた大沼正明も、『今日の俳句』に心を揺さぶられた一人である」と記したのであった。「僕ら」と呼ぶことのできるような彼らの連帯感は、彼らの方法論の類似として表れているところがある。大沼が準賞を受賞した年に同賞の正賞を射止めたのは鈴木秀治と宇田蓋牛であったが、彼らの作品を見てみよう。

        火薬車眼をむく僻遠風樹の青岬              鈴木秀治 
        寂光硬山(ぼた)へ喇叭を流し羊肉売り              同 
        揺れ椅子少女に父氷海の北帰航                 同 
        石も爺もはげしく生殖半漁村                宇田蓋牛
        処刑部落わら積む高さに日暮れあり              同 
        流星の我らつぶやく鉄打つ日                   同 

        彼らにとって他者を詠うことがまさしく自らを詠うことであったとすれば、いわば「僕ら」の表現をいかに行うかということは、彼らにとって切実な問題であったにちがいない。しかし、初期の作品「生霊死霊の野末やむむむむ陰陽石」にすでに見られるように、大沼はそうした場所にとどまっているわけでもなく、また大沼が自らの書き方を手にするまでの道程は決して単純なものではなかった。

          阿部完市氏の『絵本の空』、森田緑郎氏の『花冠』は私が殊に憧れる句集である。前者の言語純化への突き詰め、後者の言外への広がりの鮮やかさは追随を許さぬスタイルを産み出した。時折私は初夏よりそれらを抜き取り、充実した世界に遊ぶ。あわよくば吸収したいとも願う。(略) 
          谷佳紀氏の海程賞受賞前後の作品は一目を置くに値する。血湧き肉踊る世界にしばし圧倒されたことは否めない。(「五反田をさまよいながら」『海程』昭和五二・一一)

        大沼は一方で彼らについて「言語主義への傾き」があることを批判してもいるが、俳句形式に対して決して手際がいいとは思われない大沼の流儀を思うとき、その若き日に大沼がこのように書いていたことは注目に値する。

        白く激しく罠鳴る空にあづける自分        阿部完市『絵本の空』 
        私の島ではればれ燃える洗濯屋          同 
        白髪を刈るヒロシマのまぶしい空         森田緑郎『花冠』 
        花冠の無傷で刈られ祝祭来る           同 
        静かに部屋小鳥が入るような冷え         谷佳紀(『海程』昭和五一・六) 
        わが家の宙の草原誕生音             同



        ここでの彼らの方法は、いわば他者に対して「僕」を優位に措定しつつ、「僕」の内実を他者に提示することで他者の内実へと働きかけていくような-換言すれば、「僕」を書くことで「僕ら」を書いていくようなものではなかったか。大沼は先の文章で「俺の書き方」への執着を語り、また『異執』において旧満州生まれの最年少引揚者としての自らを探っていくような句を見せてもいるが、自らを他へと開示していくときの大沼の方法は、まずは同時代の多くの作家との出会いのなかで育まれたものであったろう。その意味で、「大沼正明」とは前衛俳句運動のなしえた最後の成果であったのかもしれない。

        ところで、大沼は次のようにも書いている。

        その場、その場限りの抒情などもうどうでもいいのだ。でないと……私も十年後、温
        厚さのみ取り柄のあの多くの中堅俳人の類に属しているのだろうか。(前掲「五反田を
        さまよいながら」)

        それから三〇年以上がたったが、大沼はいまだ温厚さとは無縁の場所にいる。大沼が、その初期からこうした姿勢を崩すことをやめないのはなぜだろうか。江里昭彦はそれを「生き延びるため」であると指摘した。

         大沼の姿勢が一貫しているのは、彼の思考と感覚とが、独自のリズムでもって世界を捉えようとするとき、確かな手応えと快感を覚えるからだ-私はこう信じてきた。だが、『異執』を読むと、大沼は状況がもたらすかなり厳しい風圧のなかに置かれているらしい。そこで、いまはこう付け加えるべきではないかと思うようになった。-『異執』の尋常でない文体は、すなわち思考と感覚とがつくりだす尋常でないリズムは、かかる風圧に耐え、それをちょっとでも押し戻すために、欠かせない防御の武器として、大沼の手に残されているのではないか、と。
        生き延びるために、ただ生き延びるために、必要とされる文体が、そして俳句が、ここにある。(「ただ、生き延びるために」『異執』栞)


         江里が「欠かせない防御の武器として、大沼の手に残されている」というとき、決して後退戦ではないところで戦い続けてきた大沼を忘れてきた僕たちの姿勢こそが本当は問われているのだということに気がつく。生き延びるための「文体」を背負い続けるのは恐ろしいことだ。だから僕たちの目の前にはそのようなものを背負わなくともすむ方法がいくらでも用意されている。そして僕たちはきっと江里のように大沼を読むことができなかったし、そのような僕たちのありようを肯定する論理こそ、実は僕たちにとっての生き延びるための選択であったのかもしれないとも思う。いってしまえば「大沼正明」を排除してきたからこそ僕たちは心地よく生きられたのだ。

        しかしながら僕はこのような生きかたを-正しいとは思わないけれど-間違っているとも思えない。俳句形式に抱かれて無自覚に安眠を貪ることと、俳句形式と自覚的に対峙することとは、本当はどちらも生きるための必死の行為である点において同じくらいに尊いのではなかったか。大沼がかつて危惧したような「温厚さのみ取り柄のあの多くの中堅俳人」を否定することは、その対極にある「大沼正明」を否定することとどこかで繋がっている。両者を対立するものとしてみるのではなく、同じものとしてみること。困難なやりかたで生き延びることを選んだ「大沼正明」を見てしまった後で僕たちができることは第二の「大沼正明」を志すことでもなければ「温厚さのみ取り柄のあの多くの中堅俳人」になることでもあるまい。むしろその両者を肯定しつつ否定するような、追い風と向かい風がないまぜになった奇妙な風圧のなかに立ち続けることではないだろうか。



         

        【俳句作品】 新樹光 / 田代夏緒

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           新樹光  田代夏緒

        浅草や真昼の麦酒てふ切迫

        ふたりして大吉を引く若緑

        総身に入墨永代橋の夏

        白服の眩しすぎます旧街道

        斬首の場いま果物屋若葉風

        青嵐のなかに近藤勇なほ

        夏帽を吹き飛ばされて閻魔堂

        えごの散る卒塔婆の鳴る遊女の碑

        一里塚とは新樹光生むところ

        万緑のしんがり首のなき地蔵



        【略歴】

        • 田代夏緒(たしろ・なつお)

        1967年 群馬県生まれ
        1999年 作句開始
        2003年 水内慶太氏に師事
        2012年 「月の匣」新人賞受賞

        「月の匣」同人。俳句協会会員。


        3・11東日本大震災と地貌季語 / 筑紫磐井


        「岳」の35周年記念大会が5月25日に軽井沢で開かれ、記念講演とパネルディスカッションが行われた。記念講演は柳田邦男氏による「言葉と生きなおす力」、パネルディスカッションは柳田邦男、宇多喜代子、小島ゆかり(歌人)、いせひでこ(絵本作家)、宮坂静生氏による「3・11以後」というテーマで行われた。

        「岳」は地貌季語を唱えている運動でよく知られている。地貌季語とは地域の生活の中に根ざしている、まだ季語として登録されていない言葉といえばよいであろうか。「木の根あく」とか「桜隠し」とかが見出された地貌季語といえばよいであろうか。「木の根あく」等はそろそろ一般化しつつある。地貌季語という名称を用いないでも、地域の時代が叫ばれている今日、中央志向ではない季語を発掘しようという試みは無駄ではないだろう。

        従って、今回のパネルディスカッションではそうした方向へ向ってゆくのかと思っていたが、3・11東日本大震災から始まり、各パネラーの生と死にかかわる体験の話になっていった。それは重い話で傾聴に値する話題ではあったが、私が漠然と期待した地震と季語との話には到らなかった。

        帰路こんなことを考えてみた。今から、68年前に広島、長崎に投下された原爆の落下直前の町並み図を復元しようとする運動というものを聞いたことがある。被爆者の冥福を祈るだけでなく、どこに誰が住んでいたか、そこにどのような生活があったかを知ることは今生きている者たちが出来る死者たちへのせめてもの供養かも知れない。生きていた証拠を死者たちはもう残せないのだから生きている者たちが復元すべきなのだ。

        ところで3・11東日本大震災に際して、被災地いわき市に実家を持つ民俗研究家の山崎祐子さん(歳旦帖等の常連作家)が被災地の喪失した家々での生活・風習の聞き取りをしていると聞いたことがある。単なる民俗学の研究だけではなくて、そこに暮らしていた生活を復元出来るのは今だという思いなのではないかと思われる。

        そうしたことを考えると地貌季語、地方季語も、被災地にあっては特別な意味を持つことに気付かされる。季語は普通自然の景物であるから震災の復旧が終った後には、また春や夏がめぐって来るように、不易の営みを見せるように思うかも知れない。しかし、地貌季語を見てみると、必ずしもそうした季語ばかりでなく、共同体の中で培われてきた行事などもある、それらは共同体が離散・崩壊することにより二度と復元することは出来ないかも知れないのだ。そういう危惧も含めて、地貌季語に関心を持っている人たちには東北の季語の収集に関心を持ってもらってもよいかも知れない。

        確かに季語とは民俗学に近いところもある。それは事実の世界ではなく、伝承の世界であるからだ。蚯蚓が鳴くのは事実ではなくて伝承の中でこそ可能なのだ。それを、蚯蚓は鳴かないと事実で押し切ってもしょうがない。気象協会が新しい二十四節気を提案しようとしたのは、二十四節気を事実の世界と思い誤ってしまったせいなのであろう。

        細見綾子の句~「細見綾子 武蔵野歳時記の世界」/栗山 心

        【父の山茶花、母の牡丹】

        わが家の牡丹

        牡丹と知りて紋白蝶とまる 
        牡丹の咲きし日数を指折りて 
        牡丹十日母にものいひ過ごしたり

        細見綾子は、明治四十年(一九○七年)、兵庫県氷上郡芦田村に生まれた。父・細見喜市は、農業、芦田村村長などを務めた、素封家であったようだ。武蔵野の綾子の家の庭の中央にある牡丹は、この郷里・丹波の生家の裏庭にあった古株を移したもの。四、五歳のころ写した写真に、この牡丹も写っており、綾子はその写真を撮った時のことを覚えていて、それが自分の記憶の始まりだという。

        芦田小学校卒業後、兵庫県立柏原女学校に入学。入学を期に、寄宿舎生活を送り、翌年父が病没。牡丹は、その後に出会う悲運の人生を知らず、父母の元で幸せに暮らした少女時代を象徴しているかのようだ。

        綾子の師・松瀬青々は、「むらぎもの心牡丹に似たるかな」という句を詠み、綾子は「わけのわからない心というものを、牡丹に似ているのではないかという作者の感慨は言い得ざるものを言い得ている」と評している。

        「牡丹の花はこの上ない豊かさともに、他のものには見られない寂しさをあわせ持っている。むしろ寂しさが後に残る。」と、『武蔵野歳時記』に記した綾子。平成六年に、夫の沢木欣一監修の元に、綾子の米寿記念に出版された『綾子俳句歳時記』によると、牡丹を詠んだ句は百七句にも及ぶ。四月二十三日の母の忌日を詠んだ句も多く、牡丹の蕾を鑑真和上の写真と仏壇に供え、亡き母を偲んでいる。母に関しての文章はあまり多くはないが、京都に生まれ、機を織るのが好きで、家族の絣や縞の着物を織っていた。創意工夫を凝らし日々の生活を楽しんだ人のようであり、後年の綾子の印象に通じている。

           父の忌 
        父の忌をあやまたずして白山茶花 
        山茶花が咲きて日数のみづみづし 
        山茶花の全身の花夕日まみれ 
        山茶花咲く二夜ばかりは月夜にて 
        ポストへの径吾が径に山茶花散る 
        山茶花は咲く花よりも散つてゐる 
        掃き寄せる凍てて散りたる山茶花を 

        綾子の庭の山茶花は、昭和三十一年、武蔵野に越した際に、丹波から、父の育てた百年の古木をトラックで運んできたもので、当時は「山茶花が箱根越えをした」と、語り草になっていたらしいが、昭和六十三年に枯れている。その後、丹波から一緒に持ってきた苗木が育ち、父の命日の十一月一日頃に咲き始めるという。

        父が亡くなった時、綾子は十三歳。「早くも別れたせいか、私は父について何ひとつ暗い記憶を持っていない」という綾子の父の思い出は、「百人一首のかるた取りの読み手をしてもらった」「(珠算が苦手な綾子のために)ノートにたくさん練習問題を作成して毎日練習させた」と、たわいもない。異性である父から距離を置くようになる思春期の入口で、家を出て、父と死別した綾子は、一生父恋いの思いを持ち続けていたのだろう。

        牡丹と山茶花は、「自分はかなしむことだけを知ってゐるやうに思ふ」と、後に書いた綾子が、まだかなしむことを知らなかった時代の象徴である。


        戦後俳句とはいかなる時空だったのか?【テーマ―書き留める、ということ】/堀本 吟


        【十五】津田清子の発見-秋元不死男の《古さと短さ》、また―句集『瘤』のことなど。

        1)

        先回、天狼第三周年記念の秋元不死男の講演を紹介した。

        引き続き、平畑靜塔、永田耕衣、西東三鬼らの説の解説を続けながら、《遠星集》の津田清子の句や山口誓子の《選後獨斷》をみてゆくつもりだが、実はこの読破の途中にひとつの課題が湧いてきた。初期「天狼」を席巻したこの「根源俳句論争」なるものは、一体なんだろう、という疑問である。戦後俳句を見る上ではこの有名な論争を看過できない。赤城さかえ『戦後俳句論争史』(一九六八年・俳句研究社)にもこの詳細な研究があることは承知だが、自分の目で幾分なりともその論議が立ち上がる頃の臨場的気分を得たくなった。それで、その成り行きをしらべてみたくなった。ただし、それには別の項目を立てなければならない。

        昭和二十六年十月の彼らの講演は、既に天狼内では出てきている各氏の根源論の中間総括やおさらいみたいなものである。秋元不死男に触れてもうすこしそのことを書いておきたい。

        2)

        例えば、秋元不死男の《古さと短さ》という講演内容は、じつは「天狼」第三巻第十一號
        (昭和二十五年十一月号)の《俳句の前途》というエッセイのそこに直接触れてくる問題意識だ。

        秋元は、明治二十五年に書かれた正岡子規の『獺祭書屋俳話』の《俳句の前途》という小文についての感想を述べながら、俳句の短さ(子規に言わせれば「区劃の狭隘」)についての反省をしている。この「区劃の狭隘」たることによって、「俳句は已に盡きたり」と子規はいう。少なくとも、明治時代が終わるまでに俳句は滅ぶのだ、という。これは有名な文章で、筆者も一度ならず読んだことである、おおむね筆者はこの言葉を一種の反語として受け止めていた。現実がそう動いていないが、滅びの兆候は多々感じられるからだ。秋元もそのように受けているが、彼は、正岡子規が俳句に対して幾分冷ややかに書いていることにも触れてもっと踏み込んでゆき、そこからあるべき俳句の姿を浮き上がらせようとしている。

        見やうによれば、これは第二藝術論のはしりであつた。しかし、文學(散文)と詩の本質を混同しつつ、俳人の文學的責任に於て、俳句の衰弱を診斷してゐない桑原説とは大いに異る。子規の場合は―これは彼れ自ら説明していないけれど、―文學と詩(ここでは小説と俳句)の本質的な区別といふものを、小説家になるを欲せずといふ決意によつて知り、更に重要なことは表現を通して知り、又、俳句の終末近きことを「罪其人に在りとは言へ」、と一應俳人の文學的責任に問題の場を残してゐることなどによつても察知されるのである。
                           秋元不死男《俳句の前途》「天狼」第三巻第十一號)

        と、桑原の大雑把な俳句への理解を批判しながら、批評や小説のように膨大な言葉や、センテンスや材料を駆使できる散文世界に対して、たった十七文字で何が言えるか、という現代につづく俳句の大テーマを改めて、持ち出す。

        敗戦後の日本文学では、戦争協力をめぐって文学者の戦争責任が追求されており、その戦後的な特殊性に照らしてみると、子規を持ち出すのはかなり我田引水という気もしないではないが、「天狼」創刊の目的の一つに、桑原武夫の《「第二芸術」論》への反駁、自衛という目的があったのはそのとおりである、とともに、正岡子規を読みながら、明治の自然主義小説流行の中で正岡子規が「俳句の短さ」という欠点を深刻に受け止めていた、という事実の指摘は鋭い。「第二藝術論のはしり」とはよう言い得たものである。

        十七音といふ限られた狹まい世界のありやうを眞に知るのでなければ、それを知ることによつて、俳句が自らの生き得る力を知ることにならなければ、俳句の命運は盡きるのだ、と(註・子規は)云つたのである。」さらに、

        それは、文學俳句を含めた多くの観念俳句に対する警告でもあつた」(秋元不死男、同文中)
        と結ぶ。「文學俳句」というのは中村草田男に対する批判であるのだが、小説という世界に対抗して、俳句で小説や物語世界を書くようなことは、無効であることを言っている。まあ、そのへんは草田男の詩的感覚やイデアリズムの方法がもっと検討されねばならないが、ともかく戦時下の弾圧をくぐってきた秋元不死男は、戦後表現の自由が認められ、弾圧する敵がいなくなったその時に、改めて自分がひきうけた詩型の短さを痛感している。且つ新興俳句が追求した新しさの内実を、伝統意識の不在ないしは貧弱さとして反省しているのである。秋元に限らす、天狼では子規、茂吉への関心や研究がしきりに行われている。

        この「根源探求の俳句」という議論が、俳句史上の成果があったとかなかったとかは、もちろん問題ではあるが、「天狼」の創刊時から昭和二十九年、三十年頃まで、このカテゴリーのもとに、俳句の特性について、盛んに語られているということは、ジャンルの内側にかかる切実な反省があったからでもある。戦前戦時下の新興俳句の挫折は、この短い古い詩形を引き受ける表現者としての姿勢を問う作業を自らに強いることとなった。

        秋元不死男句集『瘤』が刊行され、「天狼」第三巻第七號(昭和二十五年七月號)には、その書評が載っている。(鈴木重喜《二人居るオヤジ》)。十二月號には平畑靜塔《”瘤 ”の切り株》、という書評がみかけられる。いずれも力作である。これらが現在においても重要な文章であると思えるのは、戦前、戦時下(「土上」「京大俳句」)から投獄を経て、戦後(「天狼」「氷海」)昭和二十六年の時期までの、作家自身の多彩な才能とか、境涯の熾烈さは一応別にして、表現上の転機について関心が集約されている。昭和十五年以前は積極的に連作や無季俳句を推進していた秋元が、戦後「天狼」の大会で、俳句が宿命として傳統をになった短い詩であるこことを、納得するべきだ、と強調するに至る。

        「街」「木靴」に於て、それが東京三の本道であるかの如き連作俳句の一連が、この句集には跡形もなく消えて、昭和十五年以来、「無季俳句」を揚棄し、「俳句の場」を強調し、自由律俳句を排除してきたオヤジの戦後作品には、その「場」に執着する余り、人間を祕めては只管俳句的骨格の可能性を実践してゐるような句が多くあつたのは否めない事実である。 
            (鈴木重喜《二人居るオヤジ―句集「瘤」について―)(天狼第四巻七號)

        3)

        平畑靜塔は、秋元不死男句集「瘤」については,衆人の評価する「獄中俳句」より「極外俳句」に惹かれる、という。秋元に「天狼」の「根源俳句精神」の無いことが欠点であるし、肉体性や暗黒性がなく、知的すぎる、とかまあ友情に満ちた辛口批評の最後に、しかし靜塔がいうには、


        誰もが云ふやうに、「瘤」の前書句の心にくさである。

        たまたま親を難ずることのあれば 
           父ゆ受けし一羅さへなし蚤の跡  

         「天狼に加はる」 
           師を持つや冬まで落ちぬ柘榴の実


        これらの前書句は、現代俳句では一寸類のない完全俳句であらう。「瘤」成熟度は前書句によると云つても過言ではない程、成熟そのものである。/(略)。

           (堀本註、本文三句中一句省略。また実際の表記では文の行頭や、句の引用の場合は一字下げ。)

        更に、靜塔はこれは不死男の成長ではなく、「傳統への解消だといわれても成長は成長だ」、と変わったほめ方をする。虚子の前書句の巧さと比べてみると、「進歩のない成熟であるか否かがはっきりするだらう/(略)/新興俳句がこゝまで成長したと云ふことを示すひとつのいい例が「瘤」の前書句によつて示されてゐる。

               (平畑靜塔《瘤の切株》「天狼」第四巻第十二號)

        要するに、この句は、秋元不死男個人の才能ということではなく、傳統の形式の力が書かせたものだ、というのである。この指摘は、少なくとも戦前の「京大俳句」史上の句集評にはでてこなかった視点である。単純に先祖返りであったり、転向であるとは言えない、相当深刻な反省が、誓子にも靜塔にも不死男にもあったと考えられる。しかも、ホトトギス虚子流ではない伝統回帰、それを求めていたのである。


        秋元不死男については、ここはこれで一應終わるが、問題はやはり「根源論」の諸相をもっと正しく理解すべきであるということだ。とくに秋元不死男は、堀内小花の一元俳句とか、や永田耕衣のような「東洋的無」というような求心的な観念論には入り込まない、即主義の人だから、俳句の方向は西東三鬼に近い。「根源」という理解もさまざまなのである。(この稿了)

         

        【俳句作品】   隣合ふ / 岬 光世


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         隣合ふ     岬 光世


        学生の街を五月の足取りで

        暮れなづむ紫陽花の青かさねつつ

        大人物の隣住まひや枇杷青く

        牡丹の家督をつなぎいたるなり

        海芋咲く野のざわめきを遠ざけて

        黒南風に乗り上げてをる舳先かな

        円柱の毛虫一匹背を伸ばし

        まどろみの覚めてテントに星間近

        せせらぎの嶺をあふぐや蜘蛛の糸

        雲の往くその先先の夏野かな



        【略歴】

        • 岬光世(みさき・みつよ)
        1959年生まれ。平成十四年「クンツァイト」入会。平成二十一年「翡翠」入会

        2013年5月24日金曜日

        第21号 2013年5月24日発行


        【俳句作品】


        • 平成二十五年 花鳥篇 第四


        ……山崎祐子,三宅やよい,池田瑠那   ≫読む




                   第三  ≫読む

        ……内田麻衣子,吉村毬子,中山奈々,太田うさぎ,藤田るりこ,
            堀田季何,小林千史,仲寒蝉,堀本 吟,筑紫磐井  


                   第二 ≫読む

        ……中西夕紀,前北かおる,関悦史,田代夏緒,小野裕三,三木基史,
        網野月を,林雅樹,堀本裕樹,下坂速穂,依光正樹,依光陽子,
              小沢麻結,飯田冬眞,茅根知子,佐川盟子,月野ぽぽな,小久保佳世子


                   第一  ≫読む
        …池田澄子,福永法弘,曾根 毅,もてきまり,小林かんな,杉山久子
         ,内村恭子,藤田踏青,しなだしん,原雅子,後藤貴子,関根誠子,
             仙田洋子,羽村 美和子,早瀬恵子,陽 美保子,西村麒麟   

        • 花鳥篇論……筑紫磐井   ≫読む

          • 現代風狂帖(10句)


               寛大  依光正樹   ≫読む


               その春の日の  山田耕司   ≫読む



            【戦後俳句を読む】
            • 中村苑子の句【テーマ:水妖詞館ーあの世とこの世の近代女性精神詩】…吉村毬子   ≫読む


              戦後俳句とはいかなる時空だったのか?【テーマ―書き留める、ということ】……堀本吟   ≫読む


            【現代俳句を読む】
            • 「歳旦帖」を読む~貫く棒の如きもの~
            •                  ……中山奈々  ≫読む


            • 俳句時評 第88回~酸素の薄さ―現代川柳の言葉~

            •                 ……湊圭史   ≫読む 



            • 句集・俳誌・BLOG渉猟(7)~週刊俳句~……筑紫磐井 ≫読む

            • 「俳句空間」という名称についてあれこれ……大井恒行 ≫読む

            • 最新版!:日本気象協会「季節のことば37?選」……筑紫磐井 ≫読む

            【編集後記】
            あとがき   ≫読む


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              【俳句作品】 その春の日の / 山田耕司


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                 その春の日の   山田耕司


              仙人掌をかかげゆかまし大霞

              夜ざくらや錆びては赤く赤永く

              塩少々ふらるる骨も花見山

              瓢箪をわが子とおもふ鯰かな

              輪投げの輪かぶりて春を惜しむなり

              一球に天地あるべし夏蜜柑

              桃の木のふりしてをるに咲きにけり

              春の日のその春の日の母を吸ふ

              脱がせあふ服は迷彩ほととぎす

              蛇は脱げ君は句集を出したまへ



              【略歴】


              • 山田耕司(やまだ・こうじ)

              1967年生。俳句同人誌「円錐」同人。句集『大風呂敷』 共著『ハイク・イン・ドローイング』『超新撰21』『子規に学ぶ俳句365日』        ブログ大風呂敷出版局だより http://pub.ooburoshiki.com

              平成二十五年 花鳥篇  第四

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                 山崎祐子(「りいの」「絵空」同人)
              カチカチ山の遅桜見にゆかれしよ
              桜蘂降つて谷底赤くする
              みどりの夜マイクロシーベルトの呪文


                 三宅やよい
              ワイシャツの父が舟漕ぐこどもの日
              式服の母がしとめる油虫
              ところてんのような女に横恋慕


                 池田瑠那(「澤」同人)
              初花の蕊の黄金【くがね】を愛【お】しむべし
              珈琲豆あらく挽きたり朝桜
              ポタージュの缶に刃立つる桜かな



                 松尾清隆
              移植即満開となる桜かな
              つばくろや線路をまたぐ歩道橋
              両岸に舟だまりある桜時



                 小早川忠義 (「童子」会員)
              蓋のなき冷蔵庫越し影ありき
              揚羽蝶お釣り欲しがる手にも見え
              雲行きに早々しまふ氷旗


                 北川美美(「豈」「面」同人)
              白牡丹奥にひそめる丹の色
              垂れてくる南無阿弥陀仏と藤の花
              さざなみのかがやけるとき鳥の恋
              うつつ無しいよいよ花鳥になるか




              【俳句作品】 寛大 / 依光正樹

              ※クリックすると画像が大きくなります。


                寛大     依光正樹

              風鈴や替はりのものがもうひとつ

              夕立や幽けき廊下ゆくところ

              眠りたるあとのもろもろ金魚かな

              女中ひとり付けて歩める泉かな

              うしろより婆が来るなり余り苗

              どの弁当もかがやいて植田かな

              夏葱の照りはじめたる雨あがり

              葉桜にいつも面白さうな犬

              手にとりて廻して眺め夏の花

              かき氷お腹が痛くても喰へる

              【略歴】

              • 依光正樹(よりみつ・まさき)
              1962年千葉県生まれ。「クンツァイト」主宰、「屋根」会員。

              第21号 (2013.05.24.)あとがき


              北川美美

              先週から通常使用のPCインターネット機能が働かず、右往左往。今号、予備のPCにて更新しましたが一動作が遅く気絶しそうです。修理と同時に予備PCの新規購入をあわせて検討中。新しい猿又同様、新しいPCが欲しいところです。

              5月になり1日200アクセスを超えるようになりました。各項目ともアクセスが伸びています。PC環境を整え、気を引き締めて参りたいと思います。

              金原まさ子さんのエッセイ『あら、もう102歳』(草思社)を読みました。おそらく口述編集と思いますが金原さんのお人柄が伝わってくるような優雅な気持ちになりました。その中で金原さんの経験を通しての結社について表現されている箇所があります。

              俳句の世界は「結社」を中心に動いています。 
              (中略)
              わたしが三十年以上在籍した「草苑」という結社の主宰、桂信子さんは、俳句史に名前の残る俳人です。 
              そして、たいへんにマジメな方でした。 
              (中略) 
                 一足す一は大きな一よ雲の峯 
              という句を書いたら、桂さんがわたしの句を打ち消すように、一足す一を二にします、という内容の句を書かれたことがあります。 
              ああ、お気持ちにかなわなかったか、と思いましたけれど。 
              それでも、結社の横浜支部長という役職なども務め、「草苑」と桂先生には最後まで忠勤を尽くしました。

              金原さんは、桂信子の結社「草苑」の創立同人であると同時に、「鷹」に別名で投句し、賞候補にもなられたことがおありになるとか。破門されていたかもしれないと吐露され、後になって桂信子先生に「ごめんなさい」と手紙をさしあげたところ「知っていましたよ」というお返事を頂いたと続きます。そして

              桂先生は、九年前に九十歳で亡くなり、「草苑」は、どなたも継承せずに解散。たいへんきれいな幕引きでした。

              と、桂信子さんの生き様すらも伝わってきました。

              句集『遊戯の家』『カルナヴァル』は一夜にしてはならず、長い道のりがあったことを思い、また俳句をおやりになる方は同様、「上達したい!」という強い気持ちがおありになることを実感しました。

              加えて、結社の縛りというのがよくわかりました。私も俳句を始めて間もないころに、ある結社の勉強句会に参加していました。主に70代の女性が多く、連帯感、協調性を大事にし、女学校の雰囲気が強かったように思います。それはそれで楽しいのですが、自分らしさというのを求める人にとって、その連帯感は時に窮屈になるかもという印象がありました。

              現在、金原さんが表現されるような結社には所属したくないと考える人は多いと思えます。それなので、角川俳句賞などの賞応募が盛んなのかもしれません。認めてほしいので俳句をやるのか、名声が欲しくて俳句をやるのか、動機はさまざまでも、基本は、俳句をやる方はほとんど「上達したい!」と思い、上達度を確かめたいという気持ちで応募する人が多いのではないかと思っています。

              5月は各賞の締め切りです。30句なり50句なりが並ぶのは壮観ですが実力もあらわになり応募することは、よい修練だと思っています。確かに受賞される方の作品は力がある。

              だんだんこの後記が長くなり筑紫相談役のスペースをぐいぐいと押しているような気になってきました。「『眞神』を誤読する」に戻るための構想思案中です。









              筑紫磐井

              ○俳句の時評を重ねて書くことになった。「戦後俳句を読む」は別にして、「現代俳句を読む」の項目と編集後記は一種の現代俳句時評のようなものだから、だんだん書きづらくなってくる。北川編集長のように洒落たエッセイ風にかければよいのだが、すぐ論争になってしまうので、風趣がないこと夥しい。

              ○5月の連休中に、虚子の旧居を確認するために鎌倉へ行った。これまでいろいろ虚子のことを書かせて貰ったのでお参りのつもりで出かけたのである。行った日が連休のピークにあたり、江ノ電はすし詰めの行列で乗り切れないほど混んでしまっていたので鎌倉駅から歩くことにした。それ程遠くはなく、ちょうど鎌倉散策にほどよい距離なのでお奨めしたい。笹目のバス停の手前で細道に入り、江ノ電の踏切に向けて歩いてゆく途中の閑静な一画である。江ノ電の踏切に面しており敷地には小さな句碑と案内板が残っている。

              俳人、特にホトトギスの人にとっては、寿福寺ー虚子旧居として恰好のツアーコースになっているらしい(ゆっくり見て回っても一時間とかからない)。ただ、虚子の没後、無関係の人に売り払われてしまい、鎌倉で最も有名であるべき人の家が塀越しに覗くしかないのは残念なことである。

              虚子は大正6年にこの地に家を構えたと言う(その前からこの近くで転々としたらしい)が、もしそれ以来改築していないのならすでに百年近くたったことになるはずだ。今や文化財となってもよいのだが、それも現在の所有者が望まないなら叶わない話だ。

              屋敷を見つけて記念写真をとっていると、細い道を隔てた向いの家をたくさんの若い女性たちが写真を取っていた。「鎌倉彫わや」と看板が下がっている。ここは人気女優の剛力彩芽が出演した「ビブリア古書堂の事件手帖」というドラマのロケ地でとして使われたと言うことで、私が背を向けて虚子旧居の写真を取っていると怪訝な顔で睨みつけられた。虚子はなくなった後でも騒がせなのだとおかしかった。

              虚子の文学館や記念館はたくさんあるが、これほど虚子の生活に直接かかわった旧跡はない、まさに今虚子が勝手口からくぐって出てもおかしくないし、現に虚子は五十年前にくぐって出たのであろう。何か格別御利益がありそうである。



              ※画像をクリックするとおおきくなります。

              ※昭和62年5月開催「高浜虚子展」図録(鎌倉文学館)

              戦後俳句とはいかなる時空だったのか?【テーマ―書き留める、ということ】/堀本 吟

              【十四】津田清子の発見-靜塔の根源俳句観(天狼三周年記念大会講演記録から)

              1)

              この講演記録のみで各自の俳句思想を決めてしまうことはできないが、「天狼」創刊の際の「出發の言葉」で、「根源」という表現を使って以来。天狼誌上で様々の「根源」の認識が追求された。
              「現下の俳句雑誌に/欠くるところを「天狼」に備へしめようと思ふ。」という、「酷烈なる俳句精神」「鬱然たる俳壇的権威」が何によって支えられているのだろうか?

              それは、「作品を以て実現せられねばならない。」ことである。

              つづいて誓子がいうには、「詩友の多くは。俳句のきびしさ、俳句の深まりが、何を根源とし、以下にして現るゝかを体得した。」と、昭和二十三年一月號の「天狼」誌にかかかげられた。

              が「根源」の具体的な事柄は、誓子の文からは、あまりはっきりしたイメージとしては書かれない。だが、なにか完全な理論体系があるかのように周囲にインパクトを与えたもののようである。

              しかし、これが、俳句表現の本質論であるならば、子規の「写生」、虚子の「花鳥諷詠」、戦後の赤尾兜子のいった「第三イメージ」よりももっとわかりにくいことを誓子は云っている。さすがに、山口誓子も、「作品を以て実現」とはいうものの、そのまま直ぐに「根源俳句」という実 体化した言い方はしていない。この三周年記念大会の講演でも周到に、「根源探求の俳句」という表現をつかっている。

              俳句を俳句たらしめている根拠に「根源」という言葉を当てたとしても、、あとは同人や読者(遠星集新人作者)に、考えさせているのである。以来、「天狼」には。賛成反対を含めて多くの論考がのせられている。大体昭和三〇年頃までには、この議論の目処がつくようだが、私が今読んでいる昭和二十六年の三周年記記念大会の主だった創刊同人の挨拶や講演が、その一応の中間的なまとめのように受けとられる。

              2)

               根源探求の俳句 山口誓子の講演

              先回、【十三】ここに山口誓子の要約を引用した。要点は,箇条書きにしてみると、次のように分けられる。http://sengohaiku.blogspot.jp/2013/05/tsudakiyoko3.html

              (1)「天狼」は一つの文学運動であります。
              (2)私達はこの運動によつて俳句の秩序を整へ、新たな権威を確立しようとしてをります。
              (3)私達は、根源探求の俳句を示し、その理論を確立しなければなりません。
              (4)一般作者は、それによつて自己を開拓し、自己を進出して貰ひたいのであります。
              (5)それ等の為に、「天狼」全体が強く、固く、結束することが必要であります。
              (4)で言われていることは、「遠星集」という形になってあらわれている。
              (5)については、今のところ私の問題意識にはない。

              (1)と(3)が中心に語られる。「天狼」は文学運動であるから、理論がなければならない。と山口誓子は、強調し。その理論の核心に「根源探求の俳句」が現実の作品としてあるはずだ、(しかし、それが「根源」を示した俳句だということ自体は、誰がそう決めるのだろう。)

              山口誓子が言う「根源探求」とは、講演の中での言葉を使えば、
              「生命の根源を追求する」、(作品で実現、ということ、第二芸術への反対もあるはず)。

              「非人間的なものではなく人間を入れたもの」、(「ホトゝギスの立場である「客観写生」 にたいして言われている。)

              「深まって進む俳句」、(戦前の新興俳句が「拡がって進む」ものであるに対して)
              ということになる。

              いわば本質論の形をとっているが、今までの支配的な考え方へのアンチテーゼとしては、インパクトがある。状況に入りこみ、で新しい俳句を求める心に響いたのかもしれない。

              3)

               《古さと短さ》 秋元不死男の「根源」認識

              つぎに、挨拶講演した秋元不死男も、根源、について自説を展開した。

              俳人を信用するとはどういうことか、という導入。

              (略)/私は俳人を信用する場合、彼が若し俳句の古さと短さ、と云うことについて、どこまで知つてゐるかどうか確かめる。



              俳句が短く古い形式の文学である、という認識。

              俳句が十七音の定形詩であること。/十七音を三十音にしたり、五十音、百音に延ばすことはできない。/始末に終えないくらい、我々を困らす形式です。

              俳句詩形のデメリットとして、

              日常の「表現形式としては、適当なものとは云えない」。リズムでは、「詩としてのリズムも貧弱」。で、「余程の決心をしていなかつたら、俳句に文学表現のすべてを賭けることは出来ないのであります。」
              さらに、俳句の古さはまだあり「傳統を無視できない」。

              曰く

              ・「十七音はその最大な輿件」。
              ・「私達は俳句発生以来の祖先の俳句の血と云うものを身体の中に感じている。」
              ・俳句がそう云う文学的宿命を持つていることを否定出来ないのだ

              これを承認する事が大切だ、という。



              自由詩や散文精神と比較して俳句の特徴を言う時には、

              ・歴史を持たない自由詩では、「詩の新しい形式の発見はあり得ますが、俳句ではそういう事は出来ません。ただ、抵抗があるだけです。」というあたり、自由詩の認識は少しあやふやと思える。抵抗とは忍耐であり、これは大変困難なことであり、向つてくる者に対する「持ち堪え」だからです。力がなければ敗けてしまうのであります。

              ・散文文学の多角的な文学方法の盛な今の時代の中にあつて、しやべりたく無いと云う短詩精神に生き抜かうと云う文学的決意は、これは大変な抵抗でしよう。と指摘した上で。


              簡單に云えば、短詩精神の問題です。短詩精神に生きると云うことは、俳句でなければ為し得ない、という仕事をする事なので、俳句で一個の文学的宇宙を創造する、と云う事に外なりません。文学の断片や、他の芸術の俳句的翻訳ではいけないと云う事であります。これは、短さの中で、俳人が俳人的人間形成を行つて行く事、その事だと思います。



              で、秋元不死男のもっとも大事な主張は、「一元」とか「單一」とか、そう云う短詩型精神を知ること、これが根源探求の俳句」の真髄となるのだろう。


              この短詩型精神は、俳句誕生のときと共に古く、しかし日々新しい生命です。

              十七音を傳承として観念する人々は、たゞ、十七音を宿命的な俳句の形や姿としてしか受取らないから、俳句を生命的に知ることはできません。こう云う人々にとつて、俳句に於ける古さも新しさも問題ではないのであります。

               私達が俳句を古い文学だと思わなければ、俳句が出来ないと云う理由は、実に傳統として生かすことが大切だと思うからであります。

              次にのべるには、「傳統と傅承」について違いを言う。

              ・「傳統は」、流れつゞく「心」であり「精神」だと思います。 
              ・「伝承は」、傳達される「形象」。「姿」であり「形」である。

              十七音を傳統と観念することは、十七音の心や精神を知る事なので、十七音と云う音形式そのものをその外側で知る事ではない。十七音といふ形象についての主体的な把握、これが傳統を知ると云ふ事だと思います。(註、堀本・下線傍線の部分、きょうきのまま、「云う」は「いう」。「云ふ」と混乱。) 
              内容と形式を伝統と伝承の概念にあてはめて説明しているのであろうが、「俳句を生命的に知る」といういいかたは、「根源探求」という内容への手がかりとなるだろう。


              十七音を傳承として観念する人々は、たゞ、十七音を宿命的な俳句の形や姿としてしか受取らないから、俳句を生命的に知ることはできません。こう云う人々にとつて、俳句に於ける古さも新しさも問題ではないのであります。


               私達が俳句を古い文学だと思わなければ、俳句が出来ないと云う理由は、実に傳統として生かすことが大切だと思うからであります。


              秋元不死男の結びは、最初の「信用」のところにもどる。俳人の発行する約束手形(信用)・・・
              ・自己(おのれ)と云う事。


              ・愛情と云う事、
              ・言葉と云う事、
              ・古さ云う事、
              ・短さと云う事、
              もし、この五つの項目の何かが書き落としてある手形は、信用して受取つてはならぬと私は考えて居ります。p―13-
              秋元不死男は、古さと短さの形と姿に、俳句の「根源」をみているのである。
              彼は、また「傳統」と「傅承」の違いをかなり詳しく述べ、伝承という外形的なものだけを受け入れるのはよくない。

              私達が俳句を古い文学だと思わなければ、俳句が出来ないと云う理由は、実に傳統として生かすことが大切だと思うからであります。

              というあたりには、新興俳句の近代的性格が、それ自体「古さ」への回帰であることをしめす。「古い」という認識が俳句をあたらしくする、という逆説の響く語り口。ここが面白かった。(この稿了)。

              中村苑子の句【テーマ:水妖詞館ーあの世とこの世の近代女性精神詩】15.16./吉村毬子

              15 喪の衣の裏はあけぼの噴きあげて

              墨色の喪の衣は、生者が纏うものである。死者は、白装束に包まれる。

              生者である者の墨色の喪の衣の裏が、「あけぼの」を噴き上げるのだと詠う。「あけぼの」は、薄っすらと仄仄と、空が明けてゆく様であるが、その「あけぼの」が喪の衣の裏で「噴き上げて」という事態は、尋常ではない。白装束へ送るその詩の色彩。喪の衣の表の墨色と裏のあけぼのの朱色が織りなすその色は、死者の白い衣へ滲み出していくことだろう。淡く濃く、死者と生者を結び付けながら・・・。
              新しく生まれ変わるという意味をも持つ「あけぼの」は、死者の新たな始まり、そして、両者の遠い遥かな未来を詠っているのだろうか。

              死を扱った句で、このような作品は記憶にない。死者と生者との距離を隔てない独特な表記である。生と死という、人が与えられた究極な対比を同一線上に置き並べ、その線を苑子流に綾取りの如く交差させる。それもまたひとつの輪廻の形であろう。

              此の句を目にした当初の二十代の頃は、死者の死を秘かに願っていた生者の側の視点からの句と思い込み、作品とは言へ、誰にも聞くことができなかった。しかし、幾度も読み返す過程で、死者への新たな始まりへの礼賛の句ではないかと思うようになった。

              次句もまた、死を自己の中で咀嚼していこうとする段階の始まりであろう。


              16 祭笛のさなか死にゆく沼明かり

              「祭笛」の響く雅な華やかさの中、死んでいく者がいる。祭りの喧騒に送られる死とは、如何なるものか。例えば、桜舞い散る季節でのひとつの死の在り方として、美しさに憧れる様もある。祭りが賑やかなほど、その死の静かさを増していく。

              「沼明かり」を下五に据えた締め方は、「祭」と「沼」の対比に寄り、双方がその語の存在を印象深くさせている。「沼」ではなく、「沼明かり」である。仄かに灯るその明かりは、死者を招く標なのか、死者の魂であるのか・・・。夜の闇の中で突き抜ける笛の音が沼の辺まで届き、湿りを伴う地や虚空が沼とともに葬歌を奏でる。

              前句もそうであるように、黒という闇-死-を思わせるものと仄かな明るさの朱-生-を対比させて一句を成している。が、特筆すべき点は、死に対する仄かな-生-が再生、蘇生を感受させるものであるということである。前句の「喪の衣の裏」に、見る見ると染め上げられてゆく「あけぼの」の「朱」、掲句の沼の底から湧いてくる「明かり」は、生身魂、魂魄かも知れない。そして、闇の中の黒と仄かな朱との配合が醸し出す色彩も、その蘇生感を彷彿とさせているのである。

              17 来し方や袋の中も枯れ果てて

              何の「袋」であろう。そして、「来し方」とは、とても永い時間大切な何かをしまっておいたものなのか。
              己を容れた、己が包まれていた歳月という名の「袋」とも言える。「袋の中」には、かつての理想に燃えた己がいた。苦境に喘ぐ日々もあった。悲哀に泣いた日もあった。が、「袋」は、「生」の象徴であった。しかし、今、その「袋の中も枯れ果てて」と呟く。

              切れ字{や}を使用しているが、一句一章の内容であり、{や}は切れと共に感慨、嘆息の{や}でもあろう。

              虚しさの果ての諦念観が此の一句に込められている。「生」が始まった瞬間より、「死」も始まるのだが、この停滞した「生」は、「死」へも到達することはなく、ふらふらと彷徨っているだけである。

              前の二句の、蘇生をも思わせる鮮やかなまでの「死」の提示からすれば、燻るばかりのかたちのない「生」である。人は、永年の生を得ると、このような一刻も必ず訪れるのだろう。

              今回の見開き二頁終わりの四句目に至っては、更に「生」を嘆いているようである。


              18 天地水明あきあきしたる峠の木

              「天地水明」は、「天地神明」からの発想か・・・。

              「天地神明」は、天地の神々への感謝や誓いに表される言葉であるが、「天地水明」、それは、日月の光に水澄む美しき日本の天地のことであろう。それもまた、自然の神々のもたらす生命の源であろう。
              しかしながら、その後に続く中七、下五の「あきあきしたる峠の木」は、投げやりなまでの表記である。「天地水明」の透明、且つ、平和な安定感に浸りながら、頂点の峠に立つ木がその状態を拒むように、嘆いているようにも伺えてしまうのであるが・・・。

              登り坂の頂点に立つ木、それは下り坂の始まりの木でもある。峠の木は、登り坂を克服した後に、必ず訪れる下り坂を降りて行くものを、繰り返し迎え、見送ることにあきあきしたと言っているのか・・・。
              「峠の木」は、苑子自身であろうか。もしくは、「峠の木」を幾度も眺めた、過去の昇り降りにもうほとほと疲れ、愛想をつかしたということなのかも知れない。

              真髄は、「天地水明」と叫ぶ切れである。「天地水明」に本心を語っているのだ。自身を育み、慈しんでくれた「天地水明」だからこそ、訴え、誓えることができるのである。「天地神明」から「天地水明」と表記し、「神」を「水」と同様に呼んだその叫びは、「水」に対する畏敬の念が溢れている。天地を流れる水から、有り余る恩恵を授かり、自身もその水と一体化するように昇り降りし、流れてきたのである。此の句は、「水」は、苑子の「神」なのだと言い放ち、その「水」に本音を漏らしているような気がしてならない。

              「水妖詩館」という句集名の第一章、{遠景}にふさわしい一句である。



              【執筆者紹介】

              • 吉村毬子(よしむら・まりこ)

              1962年生まれ。神奈川県出身。
              1990年、中村苑子に師事。(2001年没まで)
              1999年、「未定」同人
              2004年、「LOTUS」創刊同人
              2009年、「未定」辞退
              現代俳句協会会員

              2013年5月17日金曜日

              第20号 2013年5月17日発行

              【俳句作品】
            • 平成二十五年 花鳥篇 第三 ≫読む

            •       ……内田麻衣子,吉村毬子,中山奈々太田うさぎ藤田るりこ
                       堀田季何小林千史仲寒蝉堀本 吟筑紫磐井 
                        
                         
               
               
                      第二   ≫読む

                     ……中西夕紀,前北かおる,関悦史,田代夏緒,小野裕三,三木基史,
                    網野月を,林雅樹,堀本裕樹,下坂速穂,依光正樹,依光陽子,
                          小沢麻結,飯田冬眞,茅根知子,佐川盟子,月野ぽぽな,小久保佳世

                          第一   ≫読む

                         ……池田澄子,福永法弘,曾根 毅,もてきまり,小林かんな,杉山久子,
                         内村恭子,藤田踏青,しなだしん,原雅子,後藤貴子,関根誠子,
                     仙田洋子,羽村 美和子,早瀬恵子,陽美保子,西村麒麟                  
                      

               


              • 花鳥篇論……筑紫磐井   ≫読む

                • 現代風狂帖(10句)

                     無辺際   依光陽子  ≫読む  

                    


                  【戦後俳句を読む】
                  • 稲垣きくの【テーマ:流転】渋谷区千駄ヶ谷・宮廷マンション時代(2
                            ……土肥あき子   ≫読む

                  • 上田五千石の句【テーマ:白】
                             ……しなだしん  ≫読む


                  【現代俳句を読む】

                  • 「歳旦帖」を読む~貫く棒の如きもの~
                                   ……中山奈々  ≫読む
                  • 俳句時評 第88回~酸素の薄さ―現代川柳の言葉~
                                  ……湊圭史   ≫読む 



                  • 句集・俳誌・BLOG渉猟(7)~週刊俳句~……筑紫磐井 ≫読む

                  • 「俳句空間」という名称についてあれこれ……大井恒行 ≫読む

                  • 最新版!:日本気象協会「季節のことば37?選」……筑紫磐井 ≫読む

                   
                  【編集後記】
                  あとがき   ≫読む


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