ラベル 『櫛買ひに』を読みたい の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 『櫛買ひに』を読みたい の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2021年8月13日金曜日

【渡邊美保第一句集『櫛買ひに』を読みたい】7 『櫛買ひに』のこと  牛原秀治

  ・風花や島の突端まで歩く

  ・蓬来や海ひろびろと明けきたる

 自選第一句集、『櫛買ひに』の初句と最終句である。

 渡邉美保氏の句作は、「うみ」を詠むことから始まり、その二十年は、「海」を詠むことで中締めを迎えたと言っていい。

 誰でも、その表現のかたちは別にして、アドレサンスを、自分の原風景を「うたう」ことから、意識的に言葉を紡ぎ始める。

 氏の原風景は天草の「海」だったから、それを詠うことから句作が始まったのは自然なことだった。

 最初の章「ポインセチア」には、初句から始まって、みずみずしい感性で(「あとがき」によればこれの句作がなされたのは六十代!である)、「うみ」を詠った句が選ばれている。

  ・潮風のふきつさらしに藪椿

  ・雛あられ食うべ波音聞いてゐる

 そして「海」の句、

  ・早春の海の匂いのハンバーガー

  ・明易の海を見てゐる帰郷かな

 けれど、この二句で「海」の句は封印されるのである、勿論、選から外された句の中には「海」を詠んだ句がたくさんあったはずである、しかしこの章には取られなかった。

 二番目の章「アンモナイト」にも、化石のように大事な記憶としてしまい込まれた「うみ」の香りがする句はあるものの、「海」の句は無い。

  ・鳥たちに波くつがへる彼岸かな

  ・足裏の砂崩れゆく盆の波

 林誠司氏に「初挑戦で受賞した。 これは驚くべきことではないか。」と書かしめた「俳壇賞」の対象となった三十句からなる三番目の章「けむり茸」にも、当然のごとく「海」の句は無い。

 断念すること、それも自分が最も愛おしいと思うものを断ち切ることによってしか、ひとは成熟することはできない、表現の世界においては、より厳しくそのことが問われる、だからそんな、人の推量をはるかに越えた苦しい句作の試みの中から生み出されたであろうこの章の句には、硬質な響き、冷冽な美しさがある。

  ・骨貝の棘美しく九月来る

  ・冬ざるるもの青鷺の飾り羽

  ・薄氷にひび老木に刀傷

 自身の俳句世界の成熟を確かめ得たのだろうか、氏は四番目の章「夕凪」で、父との、天草との交歓を詠い、「うみ」を詠う、封印は解かれたのである。

  ・白さるすべり浮桟橋に父を待つ

  ・天草行きフェリー発着所のざぼん

 以前よりもっと自由に「海」が詠われる。

  ・海風に影の明るき石蕗の花

  ・短日の川にひとすぢ海の色

  ・ぽつぺんやちちははの海凪わたる

 第六番目の章「櫛買ひに」。

  ・海鳴りや布団の中にある昔

  ・海鳴りの暗きへ鬼をやらひけり

 ここでは、「海」が映像ではなく、「海鳴り」の音として詠われている、氏のなかで「海」の存在は薄らいだということだろうか、けれど、僕たちは、映像から音を感じるよりもっと、音のほうから様々な映像を喚起されるのではないか、「うみ」への思いは、より深まり、強くなっている、そんなふうにも思える。

 そして最終章「炭酸水」の最終句は、冒頭に既に引用した、

  ・蓬来や海ひろびろと明けきたる

 「うみ」と「海」をめぐって『櫛買ひに』の世界を、僕なりに、ずいぶん自分勝手に読んできた、でも書き足りないことがもう少し残っている。

 ふけとしこ氏が「序」で、「身辺些事を掬い上げ、細やかに景を詠んでいたところへ、ファンタジックな要素が入ってくるようになった。幻想というか、虚の要素を取り込むというか、物語性というか、世界を拡げてきた・・・。」と書かれている、ことについてである。

これまで触れなかった唯一の章「うかうかと」の三十一句すべてに、僕は点を入れたいのである、「あとがき」で渡邉氏は書いている、「なんでもないことにはっとする瞬間。普段、何気なく見ている景色の中(あるいは心の中)にある小さな変化や違和感、不思議を見つけていきたいと思っています」。

 氏の俳句世界の真骨頂はここにある、と僕は考えている、「ファンタジックな要素、幻想、虚の要素、物語性」、これらすべては、「平凡な日常生活を繰り返す日々」の中にあるので、それ以外のどこにもない、と氏は熟知している、そして、そんなことは俳句を始めたときに分かっていたことなのだ。

 僕がこの句集を読み進めながら、最初に立ち止まった句が「ポインセチア」のなかにある。

  ・朝より毛虫あやめて水打って

二千二十一年七月三十日 

2020年2月29日土曜日

渡邊美保第一句集『櫛買ひに』を読みたい インデックス


1 「櫛」に纏わるこもごも   嵯峨根鈴子  》読む
2 俳句における静かな飛翔〜〜   一門彰子  》読む
3 句集『櫛買ひに』を読む   石井 冴  》読む
4 「櫛」はかの世に売っているか   西田唯士  》読む
5 『櫛買ひに』渡邉美保第一句集より   玉記 玉  》読む
6 『櫛買ひに』を読む   山田すずめ  》読む
7 『櫛買ひに』のこと   牛原秀治  》読む



2019年6月28日金曜日

【渡邊美保第一句集『櫛買ひに』を読みたい】6 『櫛買ひに』を読む  山田すずめ

 読書中から句のバリエーションの豊かさに驚かされた。
例えば、「五平餅の醤油の匂ひ町薄暑」のようにノスタルジーを掻き立てられる句があり、「柿むいて明日はちやんとするつもり」のようにのほほんとした気分になれる句がある。
「金色の指輪の沈む金魚鉢」のように、好奇心を刺激される句、「コップからまつすぐ伸びて葱の青」のような爽快な句……。句ごとに様々な感情を刺激された。
 特に気になった句の感想を以下に書く。

  喪の家に米研ぎゐたり凌霄花

 一人がいなくなり、以前より静かな家。だから米を研ぐ音がよく響く。研ぎ音が、静かさと一人の不在をより実感させる。家の周囲に生命力を強く示す凌霄花。家の活気が花に吸い取られてそうで、怖い。

  次の間に男雛女雛の気配かな

 雛の濃厚な存在感が表現されている。音も姿もない。でも、雛が次の間にいることが実感できる気がしてしまうというのは大いに共感できる。
 単なる雛ではなく「男雛女雛」であることで、二体が話をしているところまで想像できてしまう。男雛と女雛、恋人同士の二体は声を潜めて何を話しているのか。この句も怖い。

  不機嫌な父に蹤きゆく青田波

 不機嫌だからきっと父は無言で、主人公も無言だろう。青田波の音が、二人が無言であることをより強調している。行く先に何があるのか。懐かしく、また物語や事件を感じさせる句。

  おなかまんまる生まれ来る子も柿好きに

 大好きな句! まんまるなおなかにいる胎児が「柿好きに」なるというのだから、主人公は「胎児が無事生まれ、健やかに成長する」と信じているのだろう。「子供が成長した時の世の中は、柿が無事に食べられるほどに平和」だとも。あどけない言葉遣いの中に、胎児の未来への祈りと確信が感じられる。

  虎落笛夜は裏山の迫りくる

 裏山は移動しない。しないのだけれど、虎落笛の音が聞こえる夜の闇の中では、移動しても不思議ではない気がする。妄想なのだが、共感できてしまう。

  そのころは六人家族西瓜切る

「そのころは」だから、今は六人家族ではないのだろう。六人よりも少ない家族である気がする。主人公の事情は分からないが、独立、結婚、出産、死別……様々な理由で家族の数が変わりうることを想い、少ししんみりした。
「西瓜切る」は、「そのころ」と「今」、両方に掛かっているのだろう。大人数で騒がしかったそのころ、主人公は西瓜を切った。そして六人家族ではなくなった今も、西瓜を切る。過去と現在が、西瓜を切る動作やその際の手応えで結びついている。

 さて、この句集には見るたびに笑ってしまう句がいくつかある。その内三句を以下に取り上げる。

  龍淵に潜む卵の特売日

 龍淵に潜むは壮大な季語だ。季節に合わせ、龍は大きく世界を移動する。けれど、今の主人公にとって大事なのは卵の特売日。落差がおかしい。

  円陣を組む九人と蟻二匹

 野球だろうか。円陣を組み掛け声をあげ、士気を高めている九人。そこに蟻が入り込んでくる。「空気読めよ、いや、蟻だから無理か」……と思わず突っ込んでしまった。
「龍淵に~」の句は「自然の流れに関わらず、生活に奔走する人間のおかしさ」が詠まれていたが、この句は「人間の必死さに関わらず、自然が動いている」ことで、おかしみが生まれている。

  九人のはずが十人ところてん

 上五中七までは、恐ろしげな雰囲気と緊張感があるはずだが、下五「ところてん」のために、句全体におかしみを感じる。不条理なことも「ところてんだから仕方ないな」と笑って許してしまえそう。

2019年6月14日金曜日

【渡邊美保第一句集『櫛買ひに』を読みたい】⑤ 『櫛買ひに』渡邉美保第一句集より 玉記 玉

 渡邉美保さんの第一句集『櫛買ひに』を読み終えた夜、美保さんのことを思った。句会で鑑賞を述べられる美保さん、雑談をしながら一緒に歩く時の美保さん、一緒に何か食べたりする時の美保さんの顔が思い浮かんだ。美保さんに笑窪があったかどうか?ふとしたときに、美保さんの笑窪を見た気がしてきた。今読んだ『櫛買ひに』の作品たちに笑窪があったからだろうか。陽だまりの中でふわりと笑窪を見たようだった。

  日記買ふついでにニッキ飴を買ふ (うかうかと)

と音でしゃれてみたり、

  耳栓にしやうか殻付き落花生 (櫛買ひに)

殻付きの落花生を耳栓にしてみようとは・・・子供のような無邪気な遊び心につられて嬉しくなってしまう。

  サーカス一行箱庭に到着す (炭酸水)

 サーカスの一団が町に着いて荷を下ろしテントを張ったりしはじめたときその町は途端に箱庭となった。サーカスはおもちゃのような明るさで一帯は箱庭の賑わいとなった。明るく軽やかな美保さんの一面をも垣間見るようだ。
 さて、美保さんに真顔の時だってあるだろう。

  喪の家に米研ぎゐたり凌霄花  (ポインセチア)

 日常の中の、あるワンシーンである。喪の悲しみの家に米を研いでいる様子が描かれている。血が混じったような色の花が連なってよじ登るように咲く凌霄花に、粘り強い生命を感じる。生き残っている者は相変わらず米を研ぎ、また次の日を迎える。

  薄氷にひび老木に刀傷  (けむり茸)

 薄氷は温度や刺激などでひびがはいり自然に溶けていくだろう。老木には刀傷を見た。これは確実に人為である。人間が生きていくとき、自然の一部となりながら何かを壊して生きている悲しみともいえる。

  建国記念日馬の前脚後脚  (櫛買ひに)

 馬の状態を言わず、「前脚後脚」と抑えて表現されていることにより、建国記念日との関係の想像が広がる。馬は農耕もして、国土を踏む。戦を蔵しているともいう。訴えの詩であると思う。

  龍淵に潜む卵の特売日  (櫛買ひに)

 龍は想像上の生き物であるが、卵生であるとしよう。龍が淵に潜むかもしれない深くて蒼い静謐は神秘である。しかし、作者は自分自身が生きるための「卵の特売日」という現実を携えている。神秘の龍と特売という現実を卵が介在するという諧謔味がある。

  妹に泣かれし記憶鳳仙花       (アンモナイト)
  なんとなく拗ねてゐる母着ぶくれて  (アンモナイト)
  ぽつぺんやちちははの海凪ぎわたる  (夕凪)
  月の出や母在るやうに魚を煮て    (櫛買ひに)
  椿の実末つ子と今絶交中       (櫛買ひに)


など家族の屈折や撓みを感じながら、温かさの貫いた家族を感じることができる。この温度感も他の作品の持ち味となっている。
 また、美保さんの身に浸みこんでいる海辺に触れた句も多くみられた。

  五月来る帽子の箱の中に貝  (アンモナイト)

 帽子の箱は色もデザインもエレガントである。何かを入れてみたいが、入れにくいものである。私はそのいびつに憧れさえしたものだ。それはなんとなく置いておくしかない。・・・そうか、拾った貝を入れて世界の海と話をしよう。小さな笑窪のような貝も入れて!

2019年5月24日金曜日

【渡邊美保第一句集『櫛買ひに』を読みたい】④「櫛」はかの世に売っているか  西田唯士


   烏瓜灯しかの世へ櫛買ひに     渡邉美保

 渡邉さんから句集を戴き、何回も精読した。どれも完成度の高い、勉強させてもらえる二九一句であった。その中から感銘の一句を選ぶとすれば、作者自身が句集名とされている掲句となった。作者もあとがきに此の句に対する思い入れに触れておられるので、僕の鑑賞とは相容れないかもしれないけれど、そこは読者に与えられた解釈の自由と勝手に決めて楽しませて頂いた。
 「櫛・笄・簪」等は、昔の女性の結った髪と共に、「女の命」としてあった。親しい人、好きな男性からの贈り物とされたり、何かの身の証として映画の小道具に登場したりすることも常套である。この句、現在にはちょっとそぐわないことを作者も心得た上での作ではないか?調髪にしか使わない櫛は、かの世に売っているか、また、それを買いに行くか。
 僕はこの句を読んだとき、すぐに、夏目漱石の小説「夢十夜」を思い出した。あれは人の思いの不安を助長し、誰にでもある魔性の一部をかき立てながら、どん底までは落とさない恐怖心を抱かせる連続小説であったように思う。
 人は時に「解らない」事を解らないままに受け入れざるを得ない、因果な時間の経過を強いられる。それを是認した上での、夢の世界、死の世界へのあこがれとしてこの句を読みたいものである。
 「かの世」から此の世を見れば、さてどのようなことになっているのか。烏瓜を灯すという上五から、そんな思いも立ち上がってくる。目の前で売られている「櫛」は、あるいは残してきた大事な何かの象徴であるかも知れない。色々な思いが錯綜してくる、不思議な一句である。

2019年5月10日金曜日

【渡邉美保第一句集『櫛買ひに』を読みたい】③ 句集『櫛買ひに』を読む  石井 冴

 渡邉美保さんと句会や吟行を共にするようになってまだ二年である。いや、もう二年になるというべきか。今回、第一句集『櫛買ひに』を上梓されて、一気に美保さんとの距離が近くなった気がする。ふだんの美保さんは大勢の中に紛れて自分からは前に出ない控えめなひとだが、句会での発言は正確な言葉を選んで的確な鑑賞をされる。自選された二九一句を読み込んでいくと、物静かな美保さんの雰囲気と少し違い、俳句の中に美保さん独自のしなやかな精神の動きを感じる事が出来た。私はその都度、共感の動機をおぼえる。

   列を抜けきつねのぼたん摘んで来る
   がまずみの落葉に美しき虫の穴
   蚊母樹のすさびやすくてみそさざい


 吟行でめずらしい植物に出会うと〈野の草にはちゃんと名前がある〉と生真面目な表情でやさしく解説してくれる。眼に止った景色をていねいに過不足なく描写する力は見事である。

   鰭多き化石の魚や冴返る
   みどりさすアンモナイトの眠る壁
   青嵐ひとり遊びの双眼鏡
   たいくつなものに日時計秋高し
   骨貝の棘美しく九月来る


 美保さんと同年代の私もこれらの句群に同じ興味を持つ。たとえば、この日時計は現役で時を刻んでいるのだろうか、私には廃墟に残された動かない時計のような気がしてくる。時間の概念を理解するのは難しい。哲学や物理学はともかく俳句ではこのように時の経過を表現できる。

   ほがらかに枯れはじめたる箒草
   薪積む十一月の明るさに


 集中に〈明るい〉の措辞が何度かでてくる。冷静沈着な美保さんであるが、きっと本質は明朗快活なんだろうと気付かされた。帚木紅葉は時期が来ると、ある日突然に現われ明るい気持ちにさせる。冬に備えて薪が積まれてある景にはなるほど十一月の明るさと匂いが漂ってくる。

   ぽつぺんやちちははの海凪わたる
   一陽来復阿蘇より届く晩白柚


 略歴によると熊本県天草市うまれとのこと。ぽっぺんや晩白柚とモノの力を借りて故郷の情緒を程よく抑制している。因みに晩白柚はザボン位の大きさで味もザボンに似た柑橘類だと美保さんに教えてもらった。

   すかんぽの中のすつぱき空気かな
   寄居虫の殻を出たがる脚ばかり
   みすゞの碑落葉溜りで日溜りで
   冬ざるるもの青鷺の飾り羽
   さくらんぼもの言ふ口を見てをりぬ


 これらの表現方法は短詩型十七音の言葉をさらに削ぎ落して、感じ取った核の部分だけで成立させている。それは焦点を鮮明にして切り取っているからで、逆に言えば一句を読むとそこから沈んでいた情景がわっと広がりを持ち始める。そして寄居虫、すかんぽに見る穏やかで新鮮な諧謔、さくらんぼの句における主語を読み手に委ねる自在さなどが光る。

   きのふ鷺けふ少年の立つ水辺
   烏瓜灯しかの世へ櫛買ひに
   仰ぐ樹の百年後をゆきばんば
   サーカス一行箱庭に到着す


 香天に参加後は虚実の虚の世界に目を向ける俳句が多く目に止まり、時空間を往来する物語に読み手を心地よく誘ってくれる。

   秋出水鴨横向きに流さるる
   コップから真直ぐ伸びて葱の青


 何でもない風物に深化の目を養い、渡邉美保さんは美保ワールドを展開していかれることでしょう。

2019年4月26日金曜日

【渡邉美保第一句集『櫛買ひに』を読みたい】② 俳句における静かな飛翔〜〜 一門彰子

 渡邉美保さんとは月に1度句会でお会いする。私はたいてい彼女の斜め前辺りに着席するものだから、当然ながら彼女がよく見える。句会での彼女は大変お行儀がよい。退屈な表情を見たことがない。句稿を熱心に読み、静かな声で意見を述べられる。ところが、そんな彼女にして、思いも掛けない「静かでない俳句」が飛び出すから面白い。そのような俳句を、ここで探ってゆきたいのである。

  けむり茸踏んで花野のど真ん中

 けむり茸は熟すと頂端の小孔から煙のように胞子を吹き出す。それが煙茸の自然界における営みであるにも関わらず、作者は煙茸を見つけたとたん、多分、煙茸を見つけたことが余程嬉しかったのであろう、わざわざ意識的に煙茸を踏ん付けた。当然ながら煙茸からは胞子が煙のように噴出したのである。その行為が人知れず花野の片隅でのことならばそれはそれでよい。よくあることだ。しかし揚句には、「花野のど真ん中」とある。そこが曲者で、この句の大いに面白いところだ。ど真ん中だったからこそ踏ん付けた。人間心理が働いている。人間の心に潜む「暗とも、明とも」を十分に知っている作者である。しかし、その煙に、作者が浦島太郎にならなくて、ああ、よかった。「けむり」のひらがな表記がしっかり生きている。因みに、第29回俳壇賞30句中の一句である。

 ががんぼに言ひ寄られけり夜のトイレ
 
 夜のトイレでががんぼに出会った作者。夜のトイレにががんぼが居てもなんら珍しいことではないのだが、作者にはそれが意外の出来事であった。なぜならば、驚くなかれ、ががんぼが作者に言い寄ったのである。言い寄るとは普通、求愛することに他ならない。ががんぼが作者の何処かに止まりに来たのであろう。それを直ちに求愛されたと表現する作者は、求愛したががんぼと同様、非常に飛んでいる。この句は、ががんぼとの夏の一夜の恋を書きとめた「恋の日誌」である。これほどあっけらかんとして幸せな俳句が他にあるだろうか。

 日記買ふついでにニッキ飴を買ふ

 「来年の日記を買ったついでにニッキ飴を買ったのよ」と言われて、「それがどうした?」と言ってはいけない。相手は俳人なのである。「おもしろい、来年はきっと良い年になりそう」と応じるべし。揚句には来年へ向っての明るい展望がひらけているのである。この句の楽し気なリズムがそれを証明している。句集『櫛買ひに』には佳句秀句がずらりと並んでいる。この一句、その中にあっては、さらりと読み流されがちな句かもしれない。しかし、よくよく作者の声を聞こう。作者はたった17音の中で、又17音であるからこそ効果的であるのだが、伸びやかにリズムと遊び、跳ねているのである。飛んで、飛んで、飛んで、17音の恩恵を我が物にしているのだ。
 
 白粉花の種とつてより片頭痛

 この句も日記買ふついでにニッキ飴を買ふと同様、さらりと読み流されがちな句かもしれない。が、ここでも作者の声を聞こう。作者は白粉花の種をとったから片頭痛が起こったのだと言っている。では、その時、白粉花の種をとらなかったら片頭痛は起きなかったのだろうか。そう、片頭痛は起きなかったのである。と、作者は言っている。悪いのは白粉花なのである……。不思議な責任の転嫁ではあるが、そこが人間の心理を突いているのだ。そうしてこの転嫁、日常的によくある事なのだ。作者のペン先は鋭い。

 建国記念日馬の前脚後脚

 『櫛買ひに』中、最も大胆な句であろうか。人間には前脚後脚と言えるものはなく、覚束無くも2本の足で歩きつつ、考えつつ暮している。と思えば、馬の前脚と後脚の計4脚の頼もしさには一寸した憧れを抱く。その上に美しいとくれば猶更である。建国記念日、作者は馬の逞しい疾走を見たのであろうか。その美しさは他に類を見ない、と思ったか。その「美」こそが建国の精神である、と思ったか。大胆な発想でありながら、実に的を得ているのだ。その発想に尻込みせずに一句に認め、句集に収められた潔さに私は感動する。

 柿剥いて明日はちやんとするつもり

この句の神経の太さに喝采する。神経の太さと、こまやかさを兼ね備えた魅力的な作者が居る。

 烏瓜灯しかの世へ櫛買ひに
  
 句集の題名は揚句に因む。彼女の回りに居る誰しもが、好きな句として1票を投じる完成度の高い句である。句意は一読して容易に理解出来る。読後、烏瓜の赤色が眼に沁みる。その明かりを心の灯火としてかの世へ櫛を買いに……。果して誰が…亡き人への鎮魂の詩とも受け取れるであろう。その人はかの世へ一寸櫛を買いに行っているだけ、待っていれば直にこの世へ帰って来るはずなのだ…しかし、この読みはあまりにも淋しい。…作者自身がかの世まで出掛けて櫛を買いに行って来た。そして何事もなくその櫛で夜の髪を梳いている。それも澄ました顔をして。かの世はすぐそこにあり、この世は今ここにある。それ程遠い距離でもない。この世、かの世、という重いテーマを重くれになることなく、軽やかなフットワークで書き上げた1句である。美保さんは、何にこだわることもなく自由に詩の世界を行き来する、又それを表現し得る技量を持った俳人である。
 
 『櫛買ひに』は作者自選の句集である故に、一読者としては親しみ易く、又作者への興味深い面を多く発見出来たように思える。

2019年4月12日金曜日

〔新連載〕渡邉美保第一句集『櫛買ひに』を読みたい① 「櫛」に纏わるこもごも 嵯峨根鈴子

 烏瓜灯しかの世へ櫛買ひに      渡邉美保
  
 句集名となった一句である。烏瓜を灯して死後の世界へ櫛を買いに行くと言うのだ。櫛を買うと言う瑣末な日常の行為でありながら、何か時代がかったドラマの一場にも思えるのはなぜだろう。まず「烏瓜灯し」は異界への入り口であり、すんなりと読者は異界に運ばれてしまう。「櫛」とは、艶やかな烏瓜の実の色で女性の若さの象徴としてシンポリックに描かれている。果たして櫛は手に出来たのだろうか。
 ここで、中村苑子の「春の日やあの世この世と馬車を駆り」を思い浮かべた。「春の日や」とおおらかでゆったりとした春の一日が一句全体を覆っている。馬車だと言うにもかかわらず、まるで四輪駆動車の動きのようにスピード感にあふれていて現代的だ。あの世もこの世も作者にとっては同じ春の一日と言うことなのだろう。もう一句、中村苑子の「黄泉に来てまだ髪梳くは寂しけれ」に登場していただこう。髪を梳くとは女の性と若さを強く意識させる行為である。黄泉に来てさえまだ髪を梳くとは、女を捨てきれないことを寂しいと言いながら、情念を突き放したかのような一種の諦観と安らぎが読み取れる。これらの句をふまえての渡邉美保の「櫛」なのではないかと思えた。

 さて、渡邉美保さんの俳句の原風景は天草の自然と生活にあるようだ。初期の作品は、俳句という手段を手にした喜びと瑞々しさにあふれている。

 風花や島の突端まで歩く
 土に釘つきさす遊び桃の花
 えごの花水面に鯉の口動く
 明易の海を見てゐる帰郷かな
 朝涼や草色の糞落とす馬
 山積みの二百十日のバナナかな
 島の端に鉄屑の山十三夜
 金柑に山羊繋ぎある日向かな
 足裏の砂崩れゆく盆の波


 普段何気なく目にしているものたちとの新しい切り口による新鮮な出会いは、静かな波動となって美保さんを満たしていったことだろう。俳句の原形として天草の島とその生活実感が揺らぎなくある、手触り感のある句群である。これだけでも俳句の恩寵に与ったと言えるのではなかろうか。しかし、そこからどれだけ離れられるかというのが、筆者の場合は常に立ちはだかるものとしてあるのだが。美保さんはどうなんだろう。

 目合はさぬ母の横顔十三夜
 なんとなく拗ねてゐる母着ぶくれて


 「目合わさぬ母」と「十三夜」という日本独特のシックな美意識の季語、この取り合わせの落差が面白い。「なんとなく拗ねている母」は「着ぶくれて」ますます膨らんで不機嫌さが募ってゆきそうだ。筆者の場合、母を詠むには少々勇気がいる。特に母娘の間柄というものは、どんなに幸せ親子に見えてもどこか屈折したものが溜まっているものだと思う。母と娘の接触は清く淡白にとはいかないのだ。

 痒さうな鶏頭の種とつてやる
 けむり茸踏んで花野のど真ん中
 穴惑ひ武具甲冑は蔵の中
 鰭酒や身内に虫を養うて
 山火迅しあとさきになる人のこゑ
 すかんぽの中のすつぱき空気かな
 山羊小屋の昼は眠たし踊子草
 拾ひたる昼の蛍を裏返す


 「けむり茸」の章は、第二十九回俳壇賞受賞作品らしく完成度の高い句が並ぶ。それでいて、作者の気負いもあまりなく自然体が心地よい。

 島ふたつ並んでをりぬあをさ汁
 寄居虫の殻を出たがる脚ばかり
 きのふ鷺けふ少年の立つ水辺
 花びらの中に目覚めしなめくぢり
 島老いて寒風に波突つ走る


 島ふたつを前にしての「あをさ汁」が、意外なようで無理なく味わえる。「寄居虫」の気持ちは作者の気持ちに通じるものだ。「鷺」と「少年」、無意識の同類であり悦楽の感さえある。花びらの中に目覚めた「なめくぢり」とはなんというエロスの発散だろう。 「島老いて」の措辞にはハットさせられた。寒風の天草に思いを馳せ、その未来を想うところに「島老いて」があるのだろう。写生の焦点を自身の内面にも当ててみることで句に奥行が生まれ陰影が濃くなってくる。
    
 サーカス一行箱庭に到着す

 最近のサーカスは、ミラクルイリュージョンサーカス(木下大サーカス)とか言われてエンタテイメント化されているようだが、ここでのサーカス一行はやはりあのウラサビシイ曲馬団の一座でなくてはならない。やっと到着したのが箱庭だったとは。それからテントを張って荷をほどき、猛獣の世話もはじまる。その裏では煮炊きの用意も始まって箱庭はさぞかしぎゅうぎゅう詰めでぎやかなことだろう。すべてがミニチュアで創作されてゆく世界であり、ウラサビシイながらも人の温もりと安寧さえを感じられるのはなぜだろう。これこそ箱庭療法と言えるものなのかもしれない。

 ワルナスビの棘いきいきと半夏雨
 うかうかと泣いてバナナの斑のふえて
    龍淵に潜む卵の特売日
 絵屏風の裏にふくろふ飼ひ馴らす
 ふくろふを啼かせ異類婚姻譚
 海鳴りや布団の中にある昔
 うつぼかづらに誘はれてゐる花の昼
 陽炎や女は太き尾を隠し
 揺れてゐる芥子から順に切られけり
 内部より波の音して浦島草
 明易の蟇掛軸に戻りたる
 かたつむり琵琶湖一周してきたる


 おそらくこれらの句あたりに、原風景を遠く離れた、解き明かせない美保さんの体臭のようなものが潜んでいるのではなかろうか。筆者は提示されたわずか十七文字丸ごと取り込み、再構築したものを再び作者に差し出して見せたいと思う。作者の描きたかったものとの差異にも興味が湧く。

 結社に学び、俳句雑誌の賞を得て俳句の完成度が増してゆく一方、ことばは奥深く探られだし、虚実皮膜の両刃に立ち合い、現世から異界へと自在に遊ぶことを覚え、この世に起こりうるあらゆる不思議や魔が事に背を向けず、矯めつ眇めつ見定め、味わう覚悟を持ちつつある一人の俳人の、二十年の軌跡を見極めることができる一冊であろう。編年体で編まれた句集のよろしさが発揮された自選の第一句集である。