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2021年5月28日金曜日

【なつはづき第一句集『ぴったりの箱』を読みたい】18 『ぴったりの箱』論  夏目るんり

 ぴったりの箱が見つかる麦の秋 (p104)

 句集全体を貫いているのは、作者自身の身体への思いである。ときに愛おしくときに疎ましいからだ。「ぴったり」と言えるようになるまで、現実の身体と自認の身体との間にあるズレを見つめ句にした。

薔薇百本棄てて抱かれたい身体(p44)

少女にも母にもなれずただの夏至(p49)

骨盤が目覚めて三月の体(p96)

リストカットにて朧夜のあらわれる(p126)

 順番はともあれこれらの作品は作者が作者自身の身体を受け入れる道程であったように思われる。ことばを道具として現実を見るることで現実が変わり、その現実が自認を変え、現実の見方を変える。この果てしない循環の結果、あるべき身体と現実の身体との折り合いがついて「今のところ」「ぴったり」の居場所を見つけたのだ。

 なつの句からは身体に封じ込めらた身体への強い思いが、更に言えば愛着だけではなくその思いのもろさやねじれが根底に読み取れる。意外なことに自己肯定的な句はほとんど見当たらないのである。なぜ作者がこれほどまでに思い通りにならないものとして身体を感じ取ったのか。あるべき身体と今ある身体とのずれに敏感になったのか。それは作者の女性性に基づくものなのだろうと推測はするが、それが生理的なものなのか社会的なものなのか、その答えが語られることはない。たとえ「リストカット」を詠んだとしても、あくまでも日常のことばでさらりと詠まれる一連の句は読者ののぞき見的憶測を軽やかに拒絶する。思いの深さは言葉の重みとは必ずしも一致しないのだ。内心がどうであれ、なつの中で何かが融合し昇華し「ぴったり」という感覚にたどり着いた。その過程で数々の秀句が生まれたに違いない。

 だが、と筆者は思う。なつにとって他者とは、外界とはどういうものなのだろう。

 結論から言えば、なつにとっての外界とは本質的に個性のない存在である。外界との関わりや他者との関係性を前提とする「愛」はなつの「箱」の外側であり、少なくともこの句集のテーマではない。

留守電にカナリアの声秋北斗(p24)

アスパラガス愛にわたしだけの目盛り(p70)

日向ぼこ世界を愛せない鳩と(p87)

照準はいつもわたしに百合開く(p105)

檸檬切る初めから愛なんてない(p141)

 ここで興味深いのは身体の句と並んで恋の句が多いことだ。恋を真っ正面から詠むのは大人にとってこそばゆいものだ。だがなつが詠む恋は自己完結的であり、そこにいくばくかのリアリティーはあるにせよ現実や恋人との関係性、背景、生々しい身体性を切り落とした「絵に描いた」恋である。従ってそれはしばしば失恋とセットである。

 自分が自分ではなくなること。それは恋の本質でもあろうが、作者の身体へのアンビバレントな感情を思うとき、恋という言葉の甘さとは裏腹になつにとっての恋は現実と自認の隙間を詠むための読者への、いや作者自身への仕掛けなのだろうと思わざるを得ない。

花粉症恋なら恋で割り切れる(p13)

靴音を揃えて聖樹までふたり(p36)

片恋や冬の金魚に指吸わせ(p60)

ミモザ揺れ結末思い出せぬ恋(p68)

五月来る君をすとんと呼び捨てに(p71)

合鍵を捨てるレタスの噛み心地(p100)

喉滑る生牡蠣のよう失恋は(p119)

 とはいえ作者は自己の世界に安住しているわけではない。それはおずおずと伸ばされる「手」や「指」の句から読み解くことができる。手や指は外の世界に触れるための最も鋭敏な触覚器だからだ。なつの視線の先には外の世界が確かにある。

鍵探す指あちこちに触れ桜(p70)

指先がふいに臆病ほおずき市(p73)

てのひらは毎朝生まれ変わる蝶(p124)

花万朶小指で掻き乱す水面(p125)

 現実の身体を受け入れる道順を手に入れたなつ。それは同時に身体を取り巻く多種多様な矛盾する外界をも受容することに他ならない。飛び立つための準備は整った。

夕花野ことば何処へも飛び立てず(p79)

 こう詠んだなつがぴったりの箱から出てどうやって外界に向き合っていくのか。あるいは箱をどのように変容させていくのか。なつの長年のファンとしてはこれからがますます楽しみである。

2021年5月14日金曜日

【なつはづき第一句集『ぴったりの箱』を読みたい】17 「なつはづきワンダーランド」巡り ―句集『ぴったりの箱』の世界―  武馬久仁裕

 なつはづき句集『ぴったりの箱』から上の24句を選び、心ゆくままに、「なつはづきワンダーランド」を巡りました。なつはづきの見事な言葉さばき(レトリック、言葉の綾)から姿を現した、驚きの世界をご一緒にお楽しみください。

句集最初の句です。

  いぬふぐり聖書のような雲ひとつ   

いぬふぐりという言葉とかわいらしい花から来る軽いエロスを、聖書と釣り合わせるという軽妙な言葉の世界があります。

 聖書は、もちろん禁欲的な世界を象徴しています。その聖書と釣り合わせるために、「聖書のような雲ひとつ」とつないで、それを実現しています。一句の聖書は、雲でできていますから、軽くて柔らかな聖書です。

 また、「いぬふぐり」は、上五に来ていますので、本当は小さいのですが、句では大きく見えます。これも「いぬふぐり」が、無理なく「聖書のような雲ひとつ」という大きなものと釣り合っている理由の一つです。

 なつはづきの言葉さばきの素晴らしさが巻頭から現れています。

 かわいいいぬの次の句は象です。  

 象の背に揺られ春まで辿り着く   

 象の背に揺られ京まで辿り着く

ではありません。これが、この句のいのちです。地上の地理的な距離ではなく、春までと時間的な距離にひねったところが面白いです。もう一つ、

 象の背に揺られ冬まで辿り着く

ではないところにも注目してください。この句の象の背に揺られ旅する人は、寒く厳しい冬を耐え、やっとのことで花々が咲き匂う春まで辿り着いたのです。喜びもひとしおでしょう。また、

 馬の背に揺られ冬まで辿り着く

でもありません。馬の背では、低すぎるのです。世界を見渡すためには。

 花散る中、白い象に乗って人々を助けに現れる普賢菩薩に似ていなくもないですが、「辿り着く」ですから、違うでしょう。

 春は、のどかさと悲しさの入り混じった季節でもあります。

  菜の花やこの先にある分かれ道  

 見渡す限り黄色の菜の花。それは、今、春ののどかな平和な平凡な美しさをたたえて咲いています。しかし、その菜の花の中の径を行けば、その先には、分かれ道があるというのです。あたりまえの幸福の先の、愛する人との再び会うことのない別れを暗示した余韻のある句です。

 黄砂降る日も、余韻のある句です。

  約束は確かこの駅黄砂降る  

 来るはずの人の来ない駅には、遠いところからやってくる黄色い砂が降るだけ。黄色くかすむ世界には、むなしさだけが漂っています。プラットホームに打ち捨てられた黄色い砂にまみれた「約束」という文字が見えてくる一句です。

 黄砂のあとは、世界が清く明るくなり、遠くまで見渡すことができる節気。希望に満ちた清明の句です。

  清明や自転車隅々まで磨く  

 清明とは、二十四節気の一つで、春分の次です。春のそんな節気に自転車を隅々まで磨くという。自転車はもちろん世界の隅々まで行くためのもの。遠く見渡す限りピカピカの世界の果てまで、自転車をピカピカに磨き行こうとしているのです。もちろん、ピカピカに磨かれて自転車は、透き通るように美しく明るくなります。清明のように。

   *

 なつはづきワンダーランドでは、なぜか恋は、喪失感にあふれています。

  身体から風が離れて秋の蝶   

 和泉式部の歌を思い出しました。

  物思へば沢の蛍もわが身よりあくがれ出づる魂(たま)かとぞ見る   和泉式部

 「愛しい人を思いわずらえば、沢で光る蛍も私の身体からさまよい出た魂かと見えるのです」といった歌です。もう一つ、池田澄子の

  体からこころこぼれて花は葉に   池田澄子

です。

 明らかに、これらの表現の伝統のもとにある句でしょう。

 さて、秋の蝶の句ですが、二つの出現の連続によってできています。

 まず、「身体から風が離れて」です。身体から風が離れて、現れるのです。これが無理なく行なわれるのは、「からだからかぜが」のか(が)音の連続です。この音の連続によって、読者は自然に、身体から風が分離し、現れることに納得します。

 次の出現は「風が離れて秋の蝶」です。身体から離れた風から秋の蝶が現れるのです。これは、秋になり元気がなくなった蝶がひらひらと風に乗って現れたと読めますので、すなおに納得できます。

 これを全体として読みますと、身体から静かに離れて吹いた風が秋の蝶になって現われ出たということになります。内なるさびしさが秋の蝶として形を与えられた句です。

 さびしさの出所がはっきり書かれた句もあります。片恋です。

  片恋や冬の金魚に指吸わせ   

  片恋や挿絵のような咳ひとつ  

  冬浅し聞かずに入れる角砂糖  

 このいじらしい行為をさせる男は、どこのどなたでしょう。といっても、この片恋もなつはづきワンダーランドでの出来事ですが。

  *

 めずらしく政治を思いました。

  寂しいチェコ語十一月の森に入る  

 寂しいチェコ語と言われると寂しくなります。チェコの寂しい歴史が思い出されるからです。プラハの春です。その寂しい歴史を背負ったチェコ語が寂しい響きを残して冬の始まる混じりけのない十一月の寂しい森に消えて行くのです。十一月革命とは一体なんだったのでしょうか。冒頭の「寂しい」が全句を覆っています。

   *

 なつはづきワンダーランドは、狐火や鬼火が行き交う世界です。

  狐火が集まるクリームシチューの日  

 狐火がクリームシチューを好きだなんて知りませんでした。一体このクリームシチューを作る人はどんな人なんでしょうね。若い人が好きな魔女でしょうか。いや、きっと男を数えきれないほど泣かせてきたとても魅力的な女性に違いありません。

 青白い炎の向うに未練がましい狐の顔をした成仏しきれない男が見えます。男達は未練がましく狐火となってクリームシチューの日に集まってパーティをするのです。

 では、なぜクリームシチューなのでしょう。それはあのねっとりした白いクリームシチューは、男にとってとても官能的なのです。官能的な食感に加え、食べればのどが火傷する快感がなんといえないのかもしれません。狐火なのに。

 だから、新しい恋人の出現に、狐火たちは消えてゆくのです。

  君に電話狐火ひとつずつ消える  

 狐火の仲間に鬼火がいます。これも死者の魂が炎となって燃えているものですが、狐火より怨念がこもっていそうで怖い感じがします。

  鬼灯やまだ濡れている人の声  

 この句、鬼火の句じゃなくて鬼灯(ほおずき)の句じゃない? といわれそうですが、いえいえそうではありません。死者の霊を迎える朱の鬼灯(ほうずき)の向うに文字通り死者の情念がこもった炎である鬼灯(きとう)が燃えています。鬼灯とは鬼火のことです。

 「鬼灯やまだ濡れている」で、雨が降ったあとまだ乾ききらないで濡れたまま死者の霊を迎える鬼灯(ほおずき)と、濡れたまま燃えている死者の魂、鬼灯(きとう)のいる世界のすざまじさを思ってください。

 そして「まだ濡れている人の声」で、この世の人の声は、未練がましく、いよいよ艶っぽくなります。この世とあの世の交歓の句です。怖いですね。

 このように鬼灯を「ほおずき」と「きとう」の二つのイメージを重ね合わせて読むと、鬼灯の句がより怖くなります。

  階段の青鬼灯を濡らすなよ      岡本亜蘇

  うすものの如き鬼灯ともりけり    阿波野青畝

  うたたねの唇にある鬼灯かな     三橋鷹女

 怖かったですね。次の近松の句も怖いです。

  近松忌まだ生温いナイフの柄  

 近松死して三百年、なおも心中物の熱気が冷めやらぬ今日、ここ五七五の世界にも生温かい脇差ならぬナイフの柄があります。心中をして間もないナイフの柄です。近松忌とナイフを生温いという動詞で統一し五七五の世界を作ったのは見事です。

 心中と言えば、近松忌の句を読んだあとで、この句を読むのはどうでしょう。

  黄落や明日はと言いかけて止める  

 「明日は」のあとは、もちろん、「一緒に死んでもらえますか。」でしょう。黄泉へ行く黄落の中で生を止めるのです。

   *

 「生温い」に見られるように、ひとつ前の近松忌の句もそうですが、なつはづきの句は、官能的です。官能的とは、エロスを含めてですが、身体感覚的だということです。

 その傑作が、次の句でしょう。

  リストカットにて朧夜のあらわれる  

 自傷行為の果てに現れる甘美な官能的な世界です。朧夜と名付けられた希薄なまでに美しい世界です。一歩死の甘美さに近づいています。

  銃口という(くろがね)の夏めきぬ  

 銃口という(くろがね)が夏めくとは、なんという官能的な句でしょう。この句の中の(くろがね)のなんとなまめかしいことでしょう。銃口という鉄から恐怖とともになまめかしい汗の匂いがしてきます。素晴らしい句です。

 美と死を体現する雪女もこのワンダーランドに登場します。

  雪女ホテルの壁の薄い夜  

 官能的です。美と死の化身、雪女の気配が、ホテルの部屋の四方の薄い壁からひやひやと感じられる夜は、夜そのものが薄い希薄な存在となるのです。では、なぜ夜が薄い希薄な存在となるのでしょう。もちろん、夜が、震い付きたいほど美しい雪女に恐怖したからです。

    *  

 同じ雰囲気をもった句がこちらです。

  初氷心療内科の青いドア  

 まず目に入るのは、「氷心」という文字です。初氷は、氷心を出現させるための現代の枕詞でしょうか。しかも初ものは、初雪を待つまでもなく、けがれのないものです。無垢な初氷のような凍った心の持ち主が、今、心療内科の青いドアを開けて凍った心の内部に入って行こうとしています。どこまでも青い憂鬱な世界へ。

 ワンダーランドには接骨院もあります。

  永き日よ接骨院の名は「バンビ」  

 この句の味噌は、「バンビ」というカタカナです。このカタカナが、一句にリアリティ、真実味を与えています。バンビは小鹿、飛び跳ねるもの。この「バンビ」も飛び跳ねるもののはずです。しかし、上に接骨院という言葉がありますから、カタカナのバラバラ感と相まってカタカナの「バンビ」は、骨そのものです。そして、骨のバンビは哀れにも柵の中なのです。

 柵がどこにあるのかって? あるでしょう。「」が。まさに、そんな世界が、ぼーとした春のある日にずーとあるのです。なんという造形感覚の持ち主でしょう? なつはづきは!

 そういえば、永き日にらくらく柵を越えて行ったにはとりがいました。

  永き日のにはとり柵を越えにけり  芝不器男

 柵を越えて、にはとりは何処へ行ったのでしょうか。

 ちょうどそのころ、このワンダーランドから、消えたものがあります。私は、これは本当はにはとりではないかと疑っています。

  運動会朝から鳩をみていない  

   *

 いよいよ、ワンダーランド巡りも終わりです。素晴らしい句にしっかり触れて、外の世界にもどりましょう。

  ふと触れる肘ひんやりと原爆忌  

 得体のしれないものに肘は偶然触れました。そのとき、肘は、確かにひんやりと感じたのです。すぐそこには、ひんやりと原爆がありました。原爆忌を身体でとらえた貴重な句です。

   *

  香水瓶時効はわたしから告げる  

 擬人法の句として読んでみましょう。この方が断然面白いので。

一段高い所に置かれた(上五にあります)香水瓶が、ある日突然、御託宣をのたもうたのです。「時効はわたしから告げる」と。

 「わたし」とは言うまでもなく香水瓶です。恋人と会う時にいつも肌にふりかけられ、彼女を荘厳(しょうごん)する(美しく尊く飾る)香水の大元、香水瓶がおっしゃるのです。

時効とは、何かお分かりですね。元彼との浮き名がなかったことにすることです。それは、瓶の中の香水が改めて彼女の次の人生、即ち、次の恋を荘厳する時です。

  *

 ワンダーランド最後の句です。

  パセリ大盛りまっさらな猜疑心  

 パセリだけが真(ま)っ白な大皿(さら)に大盛りになった光景は普通ではありません。その「パセリ大盛り」で、普通でない世界に読者を引き入れます。

 普通でない世界では、大盛りなったパセリは、まっさらなけがれのない猜疑心そのものなのです。ざわざわと大きく盛られた、生き生きした鮮やかな緑色が、まっさらな猜疑心そのものとなって読者に迫ります。そのけがれのない猜疑心をいだくことに、人間らしさがあります。獣編犭と靑からなる猜という字がリアルです。

 パセリを身体的、官能的に捉えることに成功した句です。

 上下感を持つ縦書をうまく使い、新緑でパセリというカタカナ語を染めただけの鷹羽狩行の

  摩天楼より新緑がパセリほど   鷹羽狩行

に飽き足らない方には、お勧めの句です。


 鷹羽狩行の摩天楼の句まで来たところで、今回の私のなつはづきワンダーランド巡りは、おしまいです。いささか歩き疲れました。  

 ではまた、次回お会いしましょう。


2021年4月23日金曜日

【なつはづき第一句集『ぴったりの箱』を読みたい】16 「ぴったりの箱」に詰まっているもの  瀬間陽子

  俳句と作者との「距離」が近い。見たもの、在るもの、だけでなく、自分の身体で感じたものを貪欲に表現しているから。生々しくてスリリングでどきどきする。だけど湿っぽくはない。俳句形式に忠実であるところと、作者自身の個性、さらに言えば力量に依るのだろう。

 なつはづきさんの個性の一つとして、片仮名の使用が効果的という点がある。片仮名特有の響きがリズムを作り出し、音にも文字にも余裕をもたらす。そこで生まれる「渇き」によって、俳句のなかの作者自身の気持ちが薄まり、読者は過剰な胸やけを起こさずに済む。


ティンパニーどんどん熊ん蜂が来る

チンアナゴみな西を向く神無月

イリオモテヤマネコ梅雨の月匂う

カナリアや踏絵に美しき光沢

キーンと夜ツキノワグマが振り返る


 次に、身体の感覚。痛覚、聴覚、触覚等々、総動員して詠む。肉体の全てを使って詠む。肌、歯、肺、読者は急にその存在を意識させられ、同時に作者の身に起こったであろう出来事を追体験する羽目になる。十七音を読むだけで、こんなにも不穏な(とあえて言いたい)胸の高鳴りを感じさせてもらえるとは。


夏あざみ二度確かめるこの痛み

右手から獣の匂い夏の闇

花疲れ鳴りっぱなしのファの鍵盤

はつなつや肺は小さな森であり

片恋や冬の金魚に指吸わせ

合鍵を捨てるレタスの嚙み心地


 なつはづきさんとは、よく句会をご一緒する。特に気になるはづき俳句、それは何と言っても恋の句だ。俳句をするなら、とにかく恋を詠まないと。なつはづきさんも、きっとそう思っているに違いない(ご本人に確かめたわけではないけれど)。ただし、恋は単なる記号である。音程や、水着や、ミモザや、キリンとくっついて。記号として詠まれる恋は、本来の切実さとは一旦切り離され、逆に作者と読者をぐんと近づけてくれる。その結果、なつはづきさんは自分の思いを読者に無事届けているというわけだ。


音程のぐらぐらの恋夏帽子

さっきまで恋をしていた水着脱ぐ

ミモザ揺れ結末思い出せぬ恋

梅雨曇りキリンのような恋人と


 とは言うものの、思いを届けるためには、丁寧で、真摯でなければならない。なつはづきさんは、詠んで、詠んで、詠みながら、いつもとても丁寧だ。そんなふうに詠まれた言葉が、この句集「ぴったりの箱」にはぎゅうぎゅうに詰まっている。よけいな飾りもひけらかしも一切ない。でも、みっちり思いの詰まった箱。温かくて豊潤な、重みや感触や匂いが、心のなかに、てのひらに、いつまでも残る。


いぬふぐり聖書のような雲ひとつ

やわらかい言葉から病む濃紫陽花

梅真白母をフルネームで呼ぶ日

少女にも母にもなれずただの夏至

水たまりは後ろ姿であり葉月

思い出に光が足りぬ石蕗の花

ふきのとう同じところにつく寝癖

前髪と前髪触れて木の実降る

綿棒で闇をくすぐる春隣


2021年4月9日金曜日

【なつはづき第一句集『ぴったりの箱』を読みたい】15 等身大のわたし  津久井紀代

  はづきさんの「ぴったりの箱」の中はぎゅうぎゅう詰めではない。まだ多少の余裕がある。しかし箱の四隅の陵は正しくしっかりとしている。はづきさんのその「ぴったりの箱」の中には一枚一枚丁寧にたたまれた来し方が詰まっている。「等身大のわたし」なのである。

 「等身大のわたし」を紐解いていくと、まづ虚子の伝統俳句の真逆にいることがわかる。


 いぬふぐり聖書のような雲ひとつ

 象の背に揺られ春まで辿り着く


 はづき俳句の季語には季語性がないのである。「犬ふぐり」と「聖書のような雲」との余白に注目すべきだ。「聖書のような雲」は身体感覚が捉えた実景であろう。一方「いぬふぐり」とは関係性はないのである。二つを関係づけているものとして、余白が重要な役割を果たしている。つまり「いぬふぐり」は、はづき自身であることだ。そこには等身大としての「はづき」が存在するのである。「いぬふぐり」を紐解いてゆくと、道端に人知れず咲いている小さな花、まるでお星さまのようだ。見上げると雲が一つ。「聖書のような雲」だと捉えたのである。はづきの感性が捉えた「聖書のような雲」なのである。

 「春」があたかも象の背に揺られてくるような錯覚を覚える。「春」という言葉を象徴的に捉えた一句となっている。この不思議な象徴性もはづきさんを支配し得ているのである。


 約束は確かこの駅黄砂降る

 春の水まずはくすくす笑いから

 花粉症恋なら恋で割り切れる

 春雷やカレー粉入れるには早い

 清明や自転車隅々まで磨く

 夏木立儀式のように降り向いて


 はづき俳句の特徴にまづ素材の新しさを挙げねばならない。従来にない言葉が生き生きと描かれている。俳句独特の湿潤性からは遠いところにある。あかるくからっとしていることにも注目しなければならない。従来の俳句の常識をくつがえし、俳壇にあたらしい風を起こしたのである。

 「約束は確かこの駅」から「黄砂降る」への表現の斬新さに注目すべきであろう。「春の水」を「くすくす笑う」という新しい感覚でとらえている。「花粉症」のもやもや感、なにか割り切れぬ感覚を恋に発想を転換したところは注目すべき点である。「春雷」から「カレー粉」への発想の転換、日常の行為を詩に転換することにおいて稀有な存在であろう。


 身体から風が離れて秋の蝶

 からすうり鍵かからなくなった胸

 晩秋の木々一本はフランスパン

 音のない思い出あまた毛糸編む

 鯛焼の芯冷め切っている重さ

 はつなつや肺は小さな森であり


 はづきさんほど身体感覚に優れている俳人はいないであろう。五感をふるに使って、「秋の蝶」や「からすうり」をなんなく「胸」のなかに引き入れてしまうのである。「晩秋の木々一本一本はすでにはづきの胸のなかでフランスパンとして立っているのである。夜更けて毛糸を編んでいる。思い出には確かに音はない。鯛焼きの芯の冷めきった重さは身体が覚えている過去の内面であろう。肺が小さな森であるという感覚は新鮮だ。


 豚まんの身ぐるみ剥がす酷暑かな

 夏雲や振る手は明日にはみ出して

 夏帽を足して完璧な青空

 図書館は鯨を待っている呼吸

 狐火や絵本に見たくないページ

 思い出をいくら積み上げても案山子

  

  はづきさんは人生を等身大で生きている人だ。つまり人の痛み、もののあわれに敏感であるのだ。身ぐるみ剝がされている豚まん、明日にはみ出した手不気味な手、夏帽を足してはじめて完璧な空になるのだ。図書館に充満する息苦しい空気、絵本の中に見たくない狐火もある。思い出をいくら積み上げても案山子は案山子でしかあり得ないのである。ここには生きていることへの虚無感が描かれている。


 荒星やことば活字になり窮屈

 まだ脱げる言葉があって寒卵

 綿棒で闇をくすぐる春隣

 

  はづきさんにとって、ぴったりの箱の中に活字を閉じ込めるにはあまりにも窮屈なのだ。まだまだこれからも、新しい言葉を等身大で紡いでいくことの出来る人だと思う。
 小さな綿棒で大きな闇をくすぐりながら。

2021年3月26日金曜日

【なつはづき第一句集『ぴったりの箱』を読みたい 】14 魂の箱を探して  篠崎央子

 なつはづきさんと初めてお会いしたのは、2019年の「豈」の忘年句会の時だった。第5回攝津幸彦記念賞準賞をご受賞されたはづきさんは、お洒落な出で立ちで颯爽と現れた。華やかでありながらどこかクールな横顔を持つはづきさんは、お話してみるととっても気さくな方であった。

 2020年の夏、はづきさんと同じような時期に句集を出したこともあり、手紙の行き来があった。はづきさんの句集と手紙を拝見し、心の通じ合える方と出会えたかもしれないと胸が震えた。私が独身の頃に出会っていたら、きっと恋の相談をしながら毎晩飲み歩いたであろう。そのような経緯から、BLOG俳句新空間にて、はづきさんに私の句集『火の貌』の句集評の執筆をお願いした。大変な力作で、はづきさんの文章を読んで、ファンとなり『ぴったりの箱』を購入された方もいらした。私の句集も注文が増えた。心より御礼申し上げたい。

  薔薇百本棄てて抱かれたい身体

 何かを求めている身体の空白を幻想的なまでに高めた一句。句集全体に横たわる空虚なることの美しさがこの一句に集約されているのではないかと思う。誰かと触れ合うことで人は自分の存在を認識する。薔薇百本よりも価値のある絶対的存在の誰かにより身体が空白となっているのだ。

  ぴったりの箱が見つかる麦の秋

 猫が自分の身体に収まる箱を探して入るように、人はみな自分の箱を探しているのだということに気付かされる。金色の「麦の秋」が豊穣のエジプトを思わせ、箱は柩のよう。人は最後は箱に収まるのだ。句集の表紙の絵が切なく映える一句である。

 身体的表現が魅力の句集だが、それを大きく支えているのがストレートな恋の句である。

  花粉症恋なら恋で割り切れる

  音程のぐらぐらの恋夏帽子

  悪気なき木の実の落ちる初デート

  幻の鮫と寝相の悪い君

 目鼻を腫らし泣いているような花粉症の症状と恋。夏帽子も音程もぐらぐらで思い通りにはいかない。タイミング悪く落ちる木の実、寝相の悪い君。恋には付きもの滑稽さが明るく詠まれている。

  靴音を揃えて聖樹までふたり

  前髪と前髪触れて木の実降る

  黄落や明日はと言いかけて止める

  逢えない日闘魚は青を震わせて

 恋をしているがゆえの発見もある。目的の聖樹まで無言で歩く二人の揃った足音。触れ合う前髪に降る木の実。明日逢う約束を切り出せない黄落の街角。逢えぬ日の闘魚の青。季節の一秒一秒が恋とともに描かれてゆく。

  香水瓶時効はわたしから告げる

  君に電話狐火ひとつずつ消える

  ミモザ揺れ結末思い出せぬ恋

  思い出は嘘のかたまり葡萄吸う

 女性の恋はどこか残酷な一面を持つ。それは、繊細であるがゆえに得た強さでもある。恋人が好きだった香水が色褪せた時、恋の時効を自ら告げる。それは、自分の匂いが相手から消えてしまったことを察したからであろう。青白い情念の狐火がひとつずつ消えてしまうような電話。ミモザの花霞のように有耶無耶に終わった恋。相手は未練あったりして。そして恋する女は嘘を言う。葡萄が甘酸っぱい。

  夏あざみ二度確かめるこの痛み

  リストカットにて朧夜のあらわれる

  片恋や冬の金魚に指吸わせ

  塗り薬の円を広げて秋惜しむ

 恋によって生まれた身体の空白と苦しみを確かめるように、自身の身体に痛みを与える。それは、自身の存在を自身で確認するための行為なのだ。あざみの棘に指を刺し、二度も確かめる。リストカットしてもおぼろげな自分。冬の金魚の尖った口の感触によって埋める孤独。塗り薬の刺激を肌に広げて過ぎゆく秋を追いかける。

  ヒヤシンス小さじ二分の一悪意

  近松忌まだ生温いナイフの柄

  蟻の群れわたしは羽根を捥ぐ係

  造花という造花を焼いて冬支度

 一方でサディスティックな一面も。悪意も生温いナイフも怖いけれど切ない。羽根を捥いだり、造花を焼いたり・・・。自分を実感するために、時にはサドとなり、時にはマゾになる。身体に痛みを与え、他者を傷つけても埋められない孤独。それは、恋という狂おしい病魔であり、満たされないからこそ〈詩〉は生まれる。

  身体から風が離れて秋の蝶

 魂が自分という身体の箱に収まらず、風となり秋の蝶となり浮遊しているような一句。身体と魂が一致しないという繊細なところを詩に昇華し、箱を探す旅は続いてゆく。

  綿棒で闇をくすぐる春隣

 自分の耳の闇に綿棒を入れる。くすぐったいという感覚により浮遊する魂が身体の闇に共鳴する。魂を収める身体という箱が見えてきた。

あとがきには、

この句集でわたしがすっぽり入る「ぴったりの箱」を見つけた気がします。ただし「今のところ」と付け加えておきます。

とのこと。

  殴り書きのような抱擁花梯梧

 真っ赤な梯梧の花のような乱暴だけれども情熱的な抱擁もあった。抱かれたがっていた身体がこの句集によって満たされたのだ。

 最後に、文章に収まり切らなかった好きな句をあげたい。箱がいくつあっても足りない句集であった。

  夏の月静脈灰色にめぐる

  からすうり鍵かからなくなった胸

  鯛焼の芯冷め切っている重さ

  水草生う身体に風をためる旅

  昭和の日魚拓なまなましき鱗

  手のひらに火照り女滝に触れてより

  額あじさいもうすぐ海になる身体

  春の雲素顔ひとつに決められぬ

  夏あざみ父を許すという課題

  天の川ひかがみ人知れず微熱

  実印を作る雪女を辞める

  冬の幅に収まる抱き枕とわたし

  今日を生き今日のかたちのマスク取る

 はづきファンは今も増え続けている。箱に収まりきれなかった句を鑑賞する読者とともにぴったりの箱はこれからも製造され続けるに違いない。


篠崎央子(しのざきひさこ)「磁石」同人
昭和50年、茨城県生まれ。東京在住。平成14年、「未来図」入会。平成17年、朝日俳句新人賞奨励賞受賞。令和3年、「未来図」終刊により後継誌「磁石」創刊同人。令和3年、句集『火の貌』にて俳人協会新人賞受賞。同年、星野立子新人賞受賞。句集『火の貌』共著『超新撰21』

2021年3月12日金曜日

【なつはづき第一句集『ぴったりの箱』を読みたい】13 無題  夏木 久

  サイモンとガーファンクルの「明日に架ける橋」という楽曲の中に「Sail on silver girl. Sail on by.…」という歌詞が出てくる。なぜかこれを聞いた遥か昔から気になったパートなのだ。歌詞のサビパートの「Troubled Water…」はどんな困難に…、などと意訳されているが、このパートはほとんど銀色の少女という直訳しかない…。「銀色の少女」って何?ある舞台裏話では、作者のP・サイモンの奥さんに白髪を見つけた折のジョークらしい…?、てなことも…、それくらい想像できるが…、いまだに不明なのだ。
 初っ端から逸れた。句集へ戻る。先ず一読、正直上手い。「連衆」誌の谷口愼也師評にもあったが、「例えばこれらは季語との取り合わせに特段の無理はない。作者の身体にすっぽり収まっていて心地よい」「ここには新鮮な感覚と共に、反骨的な意思あるいは虚無感さえも覗かせている」…。短いスペースに端的に纏め評されている。
 自作を日記アルバムのようなものでない句集にまとめ上げ、一巻のドラマに仕立てる、ここですでに作者は第一句集にしてこの術を心得ているのだ。当然だ、それなりの組織の新人賞など簡単には手に入らないもの、余人の認めた正しく才能なのだ、と色々を想像してしまう。
 テクストも無駄なく明快明瞭、比喩や表記表現、情景状況の切り取りからの表現世界への展開…飛躍…、取り入る余地は全くない。ただ無理のない心地よい鑑賞を強いられる。それでは一文もものにできないではないか…。そこで幾つかのキーワードから物語りを紐解いてゆくことにした。

・「少女」から「雪女」、そして辞める…。
  少女期や夜の鯖雲ばかり見て
  雪女笑い転げたあと頭痛
  少女期の果ててメロンのひと掬い
  その町の匂いで暮れて雪女
  実印を作る雪女を辞める
  少女たち横一線に夏兆す
  雪女ホテルの壁の薄い夜

 ここだ。何故か「少女」に魅かれたらしい…。そこで前出の歌詞が何度も頭を過ぎった…、らしい。しかし少女は何時か雪女に、…そして辞めた、もう辞めていたんだ。
最後の少女にはたちが付き、作者は眺めているようだし、最後の雪女も銀色の風を残し、作者から離れてしまったように描かれている。物語は何気もなく、変貌してしまっていたのか、さり気無く背をを向けたように…。

・目に映らぬ数多の色…
  卒業歌水たまりぽっかりと青
  夏の月静脈灰色にめぐる
  巻き髪を水でほどいて緑の夜
  賢治忌や更地になって空の青
  白い部屋林檎ひとくち分の旅
  初氷心療内科の青いドア
  逢えない日闘魚は青を震わせて

 次に色彩語に目を奪われた。色付きの季語や言葉もあったが、色だけを表記した句を掲げてみた。しかし思った通り銀色はない、季語や色付き語を含めても青が多い(句集の表紙も…)。略歴から作者の年齢は推測できるが、銀色にはまだ遠いのかも、いや「雪女」に喩として取り込まれてしまっているのかも…、しれない。
ここでふと思う、そうこれらの色は目に映った色でなく、彼女の心象内の色彩なのだ、と。映像的には、よくCMなどである全体はmonoにして一色だけに色彩を付け誇張するような方法…、のように見えてきた。
 ぴったりの箱の中は闇なのだろうか…、記憶や想像を弄りながら色を探している…。色を探している「少女」と色を捨て去った「雪女」が彷徨っている、ようだ。
 確か万葉集の解説にあったと思うが、日本人(万葉時代)の色彩認識の基本は、形容詞表現のある白・黒・赤・青のたった4色から始まった、らしい。
  冬怒濤少ない色で生きてゆく
 そう決めてしまうには早すぎる…気がする、が、この句は句会で一句を見る折と、句集にある時では全く違った印象を持つ。作者の広角な感性に気づかされる、思いがする。
  白兎黒兎いて夜の嵩
 箱の外の夜の嵩に暫し圧倒されているのだろうか。一句が他の句を補足も説明もしているわけではないだろうが、物語を進展させ期待させ綴じてゆく。ここから多彩を感じさせる作者の力技を感じてしまうのだ。

・音楽は再現芸術といわれるが…
 音楽好きから言えば、モーツァルトの分り易く奇麗なスコアを見て、そのドラマを描き演奏を聞かずとも理解できる、ともなれば申し分ないが、そうは行かない…。演奏者が再現するから感動が沸き上がる、当然だ。
 であれば言葉を使うところのものは…どうなる。文芸は神の代弁(神の語の再現)から始まった、恐らく。そして何時しかそれは、死者の代弁へと移ろう、これも恐らく。柿本人麻呂も観阿弥世阿弥もシェイクスピアもそれをした、らしい。ただし今の私には、代弁者とは、作者・話者・役者(演者)或いは読者なのか…、判らない、と言っておこう。
 最短詩であるが故、分かりにくく?また死者の代弁者たろうとしても、それはドキュメントとなりえない、と思う。
 そんな思いを走らせていると、表紙裏の幾つかのイラストの箱から、数句が蘇ってきた。
  薔薇百本棄てて抱かれたい身体
  手のひらに火照り女滝に触れてより
  額あじさいもうすぐ海になる身体
  少女にも母にもなれずただの夏至
  小春日のあくび小さな翼かな

 絡み合う数多のエピソードから、一つのドラマが待っていたかのように浮上する、読者の期待に応えて。
 当然俳句は一句屹立。しかし短詩ゆえにキーワード的テクストからの紐解き…、がある。この句集の表紙裏や裏表紙裏のイラストに描かれた多くの箱たちにも思いが籠っているのだろうか…。テクストが読者に移れば別のものだ、絶対に。それを作者が企もうが、否であろうが…。
 しかし一つのドラマはほどなく解けて
  かなかなや痣は気付いてより痛む
  図書館は鯨を待っている呼吸
  雨水とは光を待っている睫毛
  夜の水は喉にくっきり終戦忌
  憲法九条蟹の大皿来るまでは

 「少女」も「雪女」も箱の外のことが気にかかって来たらしく、綾取りの別の綾を模索し始めるよう景色替えしてゆく、当然ながら。

・喪失と再生
 既に「ぴったりの箱」からの再生、言葉の再生は企て始められている。
  ぴったりの箱が見つかる麦の秋
  荒星やことば活字になり窮屈

 箱に触れる身体のあちらこちらはすでに窮屈を訴え、窮屈な身体は闇を擽り始め、闇を脱ぎ去るために新たな言葉を探し始める。
  まだ脱げる言葉があって寒卵
  綿棒で闇をくすぐる春隣

 当然、読者も脱皮を心待ちにし始めているのだ。

・クラインの壺…
 体を身体と記してからだと読ませ、体に纏わる語、とくに顔が多く記されてゆく。彼女はぴったりの箱に入った振りをしている…、その棺めいた箱から喪失したものを再生すべく、新たな色彩を模索し始めている。
 メビウスの輪の立体版にクラインの壺というのがある。これは内と外の認識の結論の曖昧さを問うている。窮屈な箱が次々とより大きな箱になってゆき、ついに気付く…、いや彼女はすでに気付いているのでは…、この空間を包む宇宙までの箱に。ここまで言い切ると現状、身も蓋もないが…。

・まだある幾つもの旅…
(森)の散策…
  寂しいチェコ語十一月の森に入る
  森はふとひかがみ濡らし楸邨忌
  はつなつや肺は小さな森であり

(危険な匂い…)を感じ取る
  蟻地獄母を見上げている少年
  近松忌まだ生温いナイフの柄
  蟻の群れわたしは羽を捥ぐ係
  地獄絵の中に書き込む秋風鈴
  秋暑し扉の軽き懺悔室
  やわらかい言葉から病む濃紫陽花
  夜の底をまさぐるように兎罠
  リストカットにて朧夜のあらわれる

 予見、予言のようなマスクの句もあったかと、作者は目に見えたものをすぐには再現しない。素直に謙虚に見続け、心象に落とし込み再現を試みるが、まだ再現を惜しみ、まだ距離を置いているかのように、再現して行く…。そんな技を術を既に会得している、そんな感じを持ちつつ、短い旅をいったん終えることにする。

 これは拙い私の鑑賞です。見事に作者と話者と演者が神出鬼没に現れ去ってゆく、物語に嵌まりました。
 一句屹立とはいえ、句会で好評だった句を並べたてられたような句集では…、数百句でもって一巻を編む以上、鑑賞させて頂かなくては、と思う。
 この句集は鑑賞にも干渉にも観照にも応える句集かと、
思い、今始まったばかりのなつはづきさんの今後の航海を楽しみにします、銀色の何かを感じさせるまで。
 詩(俳句)作に足を踏み入れたなら…、解けゆく前の遥か手前の言葉を…、永遠に枯れることはない言葉を…探し始める、死ぬまで…、です。
 次が愉しみです。

(了)

2021年2月26日金曜日

【なつはづき第一句集『ぴったりの箱』を読みたい】12 自分を「更新」する俳句  瀬戸優理子

  著者を思わせるスレンダーなショートカットの女性が、自身の姿形にジャストサイズの箱の中に納まっている。そんなイラストが描かれた句集『ぴったりの箱』の表紙は、なかなかにインパクトがある。

 女性は、笑っても、泣いても、安らいでも、不安そうでもない。表情と言える表情はないのだけれど、これから「魂」を入れて動き出しますよ、とでもいうような準備万端な視線を読者に向けている。

 「あとがき」で触れているように、なつさんは、「俳句で自分自身の『寸法』を確かめる作業」を続けているという。そして、この第一句集で自身が(今のところ)ぴったりとおさまる寸法の箱を見つけた、と。

 俳句十七音も、「箱」と一緒だ。言葉を盛り込み過ぎても、スカスカすぎても、おさまりが悪い。伝わらない。「箱」に過不足なく収まることで、いわゆる佳句となる(と思われている)。

 ただ、句集を通読すればわかるが、なつさんが目指しているのは、そういう俳句ではない。誰かが、「なつはづきの俳句」という「箱」を開けてくれた時、その中にぴったりおさまった「私」がきらきらした瞳で「あなた」を見つめ返す。あるいは、真剣な眼差しで訴えかける。もしくは、あえて視線を逸らす。そんなサプライズを仕掛けたいというチャーミングな野望が見え隠れする。その野望実現のために、大きすぎず、小さすぎず、その都度「ぴったりの箱」を見つける作業が必要だったのだろう。

 自身の寸法がわからない中での確認作業は、時に体当たりである。

夏あざみ二度確かめるこの痛み
春の雲素顔ひとつに決められぬ
毛糸編む嘘つく指はどの指か
紺セーター着ていい人のふりをする


 驚くほどストレートな自己表出に、一瞬たじろぐ。一句目、「痛み」とわかっていながら、二度もその感覚を味わいに行って自身に刻む自傷行為。これが自傷しながら自身を愛するという逆説的ナルシシズムでないことは、上記に挙げた他の3句や句集後半に配置された「リストカットにて朧夜のあらわれる」でよくわかる。闇の底に沈むのではなく、朧夜があらわれるまで目を凝らす凛とした視線。

 2句目の「素顔」をひとつに決められないことへの居心地の悪さ。3句目の気づかずに「嘘」をついているかもしれないと自問する内省。4句目の「いい人のふり」をしてしまう自身へのちょっとした罪悪感。自分を起点として世界と関わり合う時に「不誠実」を犯しているのではないかという、うしろめたさに付きまとわれているかのようだ。しかし、そんな自分から目を逸らさない態度は「誠実さ」でもあると、読者である私には感じられる。

 「春の雲」「毛糸編む」「紺セーター」。季語と心情を配合させるシンプルな詠み方だが、ネガティブに傾こうとする心情から一歩進んだ「明るい抜け道」を予感させる飛躍のさせ方が、なつ流の「寸法」を確かめる作業の成果だろう。

 ストレートな感情を隠さない一方で、なつさんは含羞の人でもある。

君に電話狐火ひとつずつ消える
泣くときはいつも横顔リラの花
夢二の忌冗談まばたきで返す
無花果やアルトの音域で生きて


 猜疑心をゆっくり消していくためにかける何気ないふりの電話、涙がこぼれるのを見せまいと横を向く所作、冗談を言う相手に咄嗟にどう反応していいかわからなくなる戸惑い、本当はもっと声を張れるのに敢えて「アルトの音域」に留まる奥ゆかしさ。心を揺らしつつも、客観的な視点で自身を捉え直し、十七音に表現する。寸法を再確認するための真摯な作業を繰り返す。

 あちこちに身体の一部をぶつけて傷をつくり、時に慎重に縮こまり、膝を抱えて静かに涙し、もう大丈夫と再びそろそろと立ち上がる。そうして見つけた、自身をとりまく世界と自分との「心地よい距離感」。自然体にのびのびと言葉が躍動していると感じさせる次のような句群が眩しい。

はつなつや肺は小さな森であり
ゲルニカや水中花にも来る明日
図書館は鯨を待っている呼吸
沈黙の明るく置かれ晩白柚

 
 いずれも、身体性と直観の冴えが発揮され、「虚」と「実」の相互往来が自在な魅力的な句である。

 さて、体当たりで営んできた自分自身の寸法を確認する作業も、最後は少し余裕の表情を見せ始める。

綿棒で闇をくすぐる春隣

 句集の末尾に置かれた句である。「少女期や夜の鯖雲ばかり見て」と、なすすべもなく佇んでいたのは、はるか遠い昔。少女は大人になり、「俳句」という世界と対峙するための強い味方を得ている。

 にもかかわらず、である。ちょっとした「闇」を前にすると、まだ少しの弱気が襲うのだ。と同時に、その弱気を笑う茶目っ気もある。掲句、「くすぐる」の措辞になつはづきらしさが炸裂していて、こちらもニヤリとしてしまう。なんてったって「春隣」。しかも、耳の中に広がる小さな柔らかな「闇」である。くすぐるようにかき混ぜているうちに、いつしか「ほう」と甘いため息が漏れてきそうだ。

 心の微妙な「揺れ」に敏感であることが、彼女の作句への原動力であり、ぴったりの寸法を更新していくエネルギーともなるのだろう。次の「ぴったり」を見つけにいく旅のプロセスを、今後の作品で垣間見るが楽しみである。

2021年2月12日金曜日

【なつはづき第一句集『ぴったりの箱』を読みたい】11 なつはづき第一句集『ぴったりの箱』の触感  杉美春

 爽やかなロイヤルブルーの表紙に個性的な句集名とイラストが印象的。帯や本体の薔薇色のイラストもシンクロしていてまことに美しい。句集『ぴったりの箱』には、現在進行形のなつはづきさんがまさにぴったりと詰まっている。
 各章のタイトルにも工夫があるが、I章の「ファの鍵盤」には特に心を惹かれた。ドでもミでもソでもない、ちょっと不協和音を思わせるファの音が、本句集の序奏にふさわしい。宮崎斗士氏の跋によれば、「まず強く印象に残るのはなつさん独特の「身体感覚」である。・・・身体というものの機微をしっかりと見据え、その上で神羅万象を自らの身体という器で汲まんとする俳句作家としての姿勢。」であるという。この身体感覚、とりわけ「皮膚感覚」、五感のなかでも「触覚」に秀でた表現こそが、なつはづきさんの持ち味と言えないだろうか。そして感覚の飛躍、独自な取り合わせの妙、これもなつはづき俳句の特色だろう。

いぬふぐり聖書のような雲ひとつ
 いぬふぐりから目を空に浮かぶ雲へと転じている。「聖書のような」が清潔感のある白い雲と、聖書の時代から今現在への時間の流れも感じさせる。

象の背に揺られ春まで辿り着く
 若冲の描く白い象を連想させる。ゆるやかな白象の背にまたがり、ゆるゆると春へ運ばれる、そんな風景が目に浮かぶ。

春の水まずはくすくす笑いから
 「春の水」と「くすくす笑い」がぴったり。夏の水ならもっと豪快な笑い、秋の水なら、冬の水なら、と読み手が共鳴しつつ想像を膨らませる余地がある。

ヒヤシンス小さじ二分の一悪意
蟻地獄母を見上げている少年

 「悪意」や「蟻地獄」が本来美しいはずの「ヒヤシンス」や「母」との関係に罅を入れてみせる。

修正液ぼこぼこ八月十五日
 理屈を言わず、説明もせず、ただ「修正液」で八月十五日を表現した佳句。

チンアナゴみな西を向く神無月
花疲れ鳴りっぱなしのファの鍵盤

 この二句も取り合わせが個性的。確かにチンアナゴは同じ方向を向いている、それを西、神無月、と発展させたところが素晴らしい。「鳴りっぱなしのファの鍵盤」が花疲れの気分や身体感覚とよく響き合っている。この発想は非凡である。

はつなつや肺は小さな森であり
 初夏の空気感、それを思い切り吸い込んだ時の身体感覚を、「肺は小さな森」で過不足なく表現している。

殴り書きのような抱擁花梯梧
 インパクトのある喩えが見事。「殴り書き」「花梯梧」で、抱き合う二人の激情がストレートに伝わってくる。しかも表現が平凡ではない。

月白や鏡の中で待つ返事
 さらっとした表現の中に抒情が感じられるのは、季語の力だろうか。「鏡の中で待つ」という表現が、作者の行為や位置、二人の関係性を物語っている。

鍵探す指あちこちに触れ桜
指先がふいに臆病ほおずき市

 この二句の「指」の持つ感覚と思いも印象に残る。「あちこちに触れ」「ふいに臆病」という措辞も共感を呼ぶ。

夏あざみ父を許すという課題
 娘と父親の関係の複雑さ。慕う気持ちと許しがたく思う気持ちの共存。ある時は思慕に傾き、ある時は怒りに傾く。「夏あざみ」の花の美しさととげとげしさ、逞しさ、激しさがよく合っている。「父を許すという課題」をぜひ仕上げてほしい。

霜夜かな拾えぬ猫の声を背に
永田町子猫いっぴき分の影

 猫も、拾えない私も、せつない。「霜夜」だからなおさら。「いっぴき分の影」ではかなさが伝わってくる。永田町という地名も効いている。

冬怒濤少ない色で生きてゆく
 「少ない色」とは、余分なものをそぎ落とした、ぎりぎりの私自身ということだろう。冬怒濤の厳しさと美しさ。作者の潔さと覚悟が感じられる。

ぴったりの箱が見つかる麦の秋
平泳ぎなのかな麻酔醒めてゆく

 意外な取り合わせで、身体感覚をするどく切り取っている。術後の目覚めは、たしかに「平泳ぎ」のようだ。

思い出のそこだけが夜鮫が来る
 兜太の俳句「梅咲いて庭中に青鮫が来ている」を連想させる。「思い出のそこだけが夜」という表現が読み手の想像をかきたてる。誰にもあるかもしれない負の思い出なのか。暗い海底から音もなく浮上してくる鮫の恐ろしさと美しさを思う。

背中からひとは乾いて大花野
 大花野の美しいだけではない寂寥感。水からあがれば(羊水を離れれば)、あるいは大花野に立てば、ひとは背中から乾いていく。死まで連想させる皮膚感覚の鋭い句である。

荒星やことば活字になり窮屈
 活字になった「ことば」とは、すでに書かれた作品であり詩情である。活字になった途端に「窮屈」に感じられるのは、作者がもうその先へ行き、新しい「ぴったりの箱」を探しているからだ。ヤドカリが一回り大きな新しい貝殻を探すように、蛇が脱皮を繰り返すように、なつはづきは一歩先へ一歩先へと踏み出し、俳句の新しい地平を切り開いていく。作句に苦悶しつつ、苦悶する自分を笑いつつ、日々「ぴったり」感を更新していく、そんな作者から今後も目を離せない。

2021年1月29日金曜日

【なつはづき第一句集『ぴったりの箱』を読みたい】10 疎外の美を俳句で捉える 山科誠

 はつなつや肺は小さな森であり

 この句の魅力は、比喩の巧さ(だけ)ではない。たとえ比喩だとしても、「森」の文字を見れば我々は森を思う。初夏の静かな森にひとりたたずんでいる、そんな景が頭に浮かぶ。この景の美しさをまずは素直に、文字どおりに鑑賞することが大切だ。
 そして次に、句が「であり」で終わっていることに我々は気付く。つまりこの句はなにかを言いかけている途中なのだ。「肺は小さな森であり……」この続きはなんだろうか? もちろん「森は大きな肺である」だ。森の中にぽつんと立っている自分の、呼吸している身体の中で肺は森となっている。そして同時に、いま自分のまわりに広がっている森が、その肺なのだ。
 自分の体の中に森がある。その森の中に自分がいる。そんな無限の入れ子構造を内包している点こそがこの句の魅力である。

 なつはづきの句集『ぴったりの箱』には、肉体の持つ官能性を繊細にすくいとる句が多く収録されている。これらはいっけん日常や、等身大のリアルを詠んでいるようにも感じられる。しかし句集をめくっていくと、収められている句たちは「日常」や「等身大」をときに逸脱し、超越している。

身体から風が離れて秋の蝶

 この句では身体ではなく、身体から離れた風の方こそが重視されている。秋風も秋の蝶も身体の外にあり、残された身体はむしろ抜け殻のようだ。

蟻の群れわたしは羽を捥ぐ係

 ここでも、自分(わたし)がどこにいるのかが曖昧になっている。蟻の群れを高みから観察していたはずの「わたし」が、いつの間にか蟻に混ざって蝶の屍体から羽を捥いでいる。ちょうど、自分の内部にあった肺がいつの間にか自分の外部(森)になっていたように。
これらの句において描かれている身体感覚は奇妙だ。共通しているのは、自分の肉体が自分でなくなっていくような疎外感である。
 身体だけでなく心も同様だ。

ひょんの笛心入れ忘れた手紙

 自分の心が、まるで一個の物体のようによそよそしく見えてくる。「心入れ忘れた」が文字どおり、物体としての心(臓)を封筒に入れ忘れたかのように感じられる。なぜだろうか。季語「ひょんの笛」があるからだ。ひょんの笛の形は心臓を彷彿とさせ、また「ひょん」という音は鼓動を思わせるからである。

 自分から「自分」という意識が遠のいていく、そんな静かな実感を『ぴったりの箱』は描いている。自分の身体も心も不如意になり、他人のように感じられることがある。その瞬間を俳句で捉えている。

2021年1月8日金曜日

【なつはづき第一句集『ぴったりの箱』を読みたい】9 句集紹介『ぴったりの箱』なつはづき  川崎果連

  遠藤周作の作品で映画化されたものは大体見たが、私がいちばん好きなのは潜伏キリシタンへの弾圧を題材にした『沈黙』。そして登場人物で私にとってもっとも魅力的なのが「裏切り者」の象徴のような存在、「キチジロー」である。どうも他人のような気がしない。(笑)

 カナリアや踏絵に美しき光沢

 作者の眼差しの深さが伝わってくる。踏み絵を踏んだ「キチジロー」が重なり強い共感を覚えた。「光沢」には鳥肌。恐ろしい人だ。(笑)
 
 日向ぼこ世界を愛せない鳩と

 梅雨寒や戦争反対最後尾

 憲法九条蟹の大皿来るまでは


 人は自分の「生」を肯定しながら生きていく。それはとりもなおさずこの「世界」を肯定することでもある。しかし、「世界の現状」が「自分の生の肯定」と矛盾するとき、あるいは衝突するとき、人はどちらかを否定しなければならなくなる。全部か一部か。いずれにしても、そのことを明確に言語として発信したり行動で示したりすることは簡単なことではない。その境目に立ったことのある人間は、作者の思いが痛いほど理解できる。3句とも季語に新しい生命とエネルギーが吹き込まれている。梅雨寒の句の「最後尾」がたまらん。(笑)

 暇そうな有刺鉄線みどりの日

  草取や聖地メッカに背を向ける


 みんな何かにすがりたがる。理由は簡単。その方が楽だと思うからである。しかし、実際は何かにすがって生きていくのも結構しんどいのではないだろうか。
 かのニーチェは『ツァラトゥストラ』の中で、「神は死んだ」と書いた。「神の加護によって幸福がもたらされる」という考え方でずっと生きていると、自分自身についての価値観もしくは肯定感が希薄となり、人間は残りかすのような存在になってしまうので、人間としてもっと自分の力を信じるべきだ―というような意味なのだろう。句からは「日常のなりわい」の重さがひしひしと伝わってくる。

 少女にも母にもなれずただの夏至

 婚期かな前歯隠している兎

 実印を作る雪女を辞める


 こういう世界を「ニヒリズム」などという言葉で片付けることには反対である。まあ、一言で言えば、「視座」なのだ。俳句でもつくろうかという人が、誰でも思いつくようなことを書き並べて作品でございますなどとうそぶいていることがあるが、そういうレベルとはまったくちがう。さらに言えば、こういう句は「文学少女のなれの果て」(笑)が詠みたがる世界に隣接している。しかし、そのようでいてそのようでないところに作者ならではの「視座」がある。「技術」だけでは到達できない峰だと思う。

 春の雲素顔ひとつに決められぬ
 
 ぴったりの箱が見つかる麦の秋


 はじめの句と2句目はどういう関係なのだろう。なかなか興味深い。「箱」でふと思ったのだが、私が最後に入る箱は多分他人がつくる。(笑) せめてぴったりの箱にしてほしい。 (笑)
 とにかくこの句集、どこへ行っても、相変わらず「優等生の絵日記」のような俳句が幅をきかせている現状に、一石を投じる硬派の句集である。読み応えがある。観念論との距離感も清々しい。

(自由俳句誌「祭演」61号より転載)

2021年1月1日金曜日

なつはづき第一句集『ぴったりの箱』を読みたい インデックス


1 『ぴったりの箱』を読む   赤野四羽  》読む
2 ぴったり感―『ぴったりの箱』を読む   小松敦  》読む
3 愛すべき雪女—私を超えて「私」へ   柏柳明子  》読む
4 箱を開けてみたい   金子 敦  》読む
5 指先から   木村リュウジ  》読む
6 雪女三態―なつはづき句集「ぴったりの箱」鑑賞   岡村知昭  》読む
7 ときめき   辻村麻乃  》読む
8 『ぴったりの箱』を読む   小林貴子  》読む
9 句集紹介『ぴったりの箱』なつはづき   川崎果連  》読む
10 疎外の美を俳句で捉える   山科誠  》読む
11 なつはづき第一句集『ぴったりの箱』の触感     杉美春  》読む
12 自分を「更新」する俳句   瀬戸優理子  》読む
13 無題   夏木 久  》読む
14 魂の箱を探して   篠崎央子  》読む
15 等身大のわたし   津久井紀代  》読む
16 「ぴったりの箱」に詰まっているもの   瀬間陽子  》読む
17 「なつはづきワンダーランド」巡り ―句集『ぴったりの箱』の世界―   武馬久仁裕  》読む
18 『ぴったりの箱』論   夏目るんり  》読む


2020年12月25日金曜日

【なつはづき第一句集『ぴったりの箱』を読みたい】8 『ぴったりの箱』を読む  小林貴子

  1968年静岡県生れ。2018年現代俳句新人賞、19年攝津幸彦記念賞準賞を受賞し、活躍盛りを迎えられた。

 ぴったりの箱が見つかる麦の秋
 涙痕のざらざらとして白鳥座


 句集名となった一句目。物体にぴったりする箱が見つかった時の嬉しさは格別。二句目とも、下五が効いている。

 縁日のひよこに戻りたい三日月
 アスパラガス愛にわたしだけの目盛り


 ヒヨコがピヨピヨ歩いているうちに形を変え、色はそのまま三日月になってしまったとは、アニメーション化してみたい。二句目、私も目盛りが人とは異なるなと納得。

 手術着がすうすう台風直撃中
 ぺちぺちと歩くペンギン梅雨明ける
 塗り薬の円を広げて秋惜しむ


 納得以上に、こういう感覚は私も覚えていたので、私が作りたかったと思い、ほれぼれと作者に嫉妬してしまう。

 森はふとひかがみ濡らし楸邨忌
 荒星やことば活字になり窮屈


 言葉が活字になって窮屈とは、楸邨も諾うだろう。しかし、なつはづきさんの俳句の言葉は、活字になっても伸び伸びしている。今の作者に俳句がぴったりの箱だから。

(「岳」2020年12月号より転載。転載にあたり、漢数字を算用数字に書き換えました。)

2020年12月11日金曜日

【なつはづき第一句集『ぴったりの箱』を読みたい】7 ときめき  辻村麻乃

   鰡飛んで一瞬恋になる揺らぎ

 人には心が動く一瞬がある。どきんとして全身に血が巡る。その動きは恋であったり、偶然の一致やリンクに気づいた感動であったりする。
 最近は、恋よりも素晴らしい作品に出会った時の感動や連綿と続く伝統や遺伝の確かな歩み、物理的な距離感を飛び越えて相手の心に寄り添えた時など違う時にときめく。
 なつさんの俳句にはそんなときめきを感じる。
自身の発見を自信を持って十七音にし、即他者に知らしめるという俳句の多い中で、異質な純粋さを感じるのだ。
 そして、自分の心が動いた瞬間を捉え反芻しながら、これでいいのだろうかと一旦心の箪笥にしまうような奥ゆかしさがある。
 それは、幼少期に形成された性格とその後に受けた様々な影響から成り立つ。
 人は大人になっても、幼少期の家族との関係がずっと影響する。なつさんの句集の中のご家族との関係や育った環境を感じさせる句。 

  天狼星わずかに傾ぐ父の椅子
  蚊遣火やあの日の玄関へ帰る
  夜に飲む水の甘さよ藍浴衣
  星の夜や結うには少し早い髪
  古絨毯家族そろっていた凹み


  社会の中で働けば、時に攻撃的な気持ちになったり、憂鬱になったりする。

  ティンパニーどんどん熊ん蜂が来る
  日向ぼこ世界を愛せない鳩と
  黒鍵に躓いている冬の蜂
  雁渡し退職の日のハイヒール
  今日を生き今日のかたちのマスク取る


 その日々を刻むような句の数々も、その一瞬を切り取る事である一人の歩んだモノクロームな写真集のような美しい光と影となる。

  ぴったりの箱が見つかる麦の秋

 あ、これだと直感的にわかった時の感動が麦の秋という一面が金色の実りの穂の秋と撮り合わされている。更に毎日を一生懸命に生きていくことで、もしかしたら違う箱が欲しくなるかもしれない。

 集中、一番惹かれたのはこの句である。

  はつなつや肺は小さな森であり

 肺の画像を見ると肺胞が森のようになっているのがわかる。その事を初夏の心地良い深呼吸によって気付かれた作者の言葉は宝箱に納められ、そこから森へと蝶のように帰って行くのだ。
  その宝箱を開くのは、この句集を紐解く読者なのである。

2020年11月27日金曜日

【なつはづき第一句集『ぴったりの箱』を読みたい】6 雪女三態―なつはづき句集「ぴったりの箱」鑑賞 岡村知昭

   雪女笑い転げたあと頭痛

 「もうやめてよ、笑い過ぎて頭が痛くなっちゃった」との声が響いてきそうな、一見ほほえましい景なのですが、この声の主は、何を隠そう雪女ご本人なのです。 
 言うまでもありませんが、雪女とは幻想の産物、脈々と積み重ねられてきたロマンチックの塊。同じ架空の存在でありながら、雪男が季語とされていないどころか、ヒトではなく獣扱いをされているのとは対照的です。男性目線が過ぎるのかもしれません。しかしこの一句に登場する雪女ときたら、大きな声を上げて笑い転げているのです。そしてついには「頭が痛い」と口にしてしまうのです。いったい何に対して、誰に対して笑い転げてしまったのかは、一切示されないまま、笑い転げている、頭痛に襲われている姿だけが鮮やかに、刃のような冬の空気の冷たさと合わせて、読者のもとへ届けられているのです。
 もちろん「雪女」で切れが発生していると捉え、この一句は私が、もしくは誰かが、雪女の話に笑い転げているのだ、と読み解くことはできます。その読みを取る場合には、積み重ねられた雪女へのロマンチックな幻想そのものを笑ってしまおうとしている、権威や伝統の圧力を恐れない、生き生きとしたひとりの人物の姿が、浮かび上がってくるでしょう。主人公が雪女本人であれ、「雪女=私」もしくは「雪女≠私」であれ、大きな笑いと鋭い痛みを自分の身体に併せ持ちながら、積み重ねられた幻想の縛りから解き放たれている誰かの姿が、この一句では鮮やかに描かれているのです。

 その町の匂いで暮れて雪女

 「その町の匂いで暮れて」との流れで、下五に何を持ってくるかは、なかなかに悩ましいところです。いま自分が住んでいる「その町」の「その」に、わずかながらではあっても、よそよそしさが感じられるので、季語として花を持ってきても、鳥をもってきても、雨風を持ってきても、誰かの忌日でも、それなりの落ち着きを一句にもたらしてくれそうです。しかし、下五に付けられたのは冬の幻の産物である「雪女」なのでした。
 この句においても、「雪女」で切れているかいないかは曖昧なので、「この句は『雪女』が、いま住んでいるこの町の匂いをまといながら、今日も日暮れを迎えていることへの想いにあふれている」と「自らを『雪女』に見立てて、この町の日暮れに思いを馳せている」のふたつに読みが分かれそうです。雪女本人か、「雪女=私」かのどちらかとなると、個人的には後者のほうの読みを取りたくなります。雪女の有無を超えて、「その町の匂いで暮れて」の上五中七は、いまの自分自身の心の揺れを十分捉えていると思われるからです。
 どちらの読みを取っても、この一句に描かれている日々の生活、現実の生活の中で抱えこんでいる寂しさは、一句の向こうにくっきりと広がっています。寂しさというぶれない軸を持つことで、一句は確かな形を手に入れています。そして、寂しさを抱え込んでいるからこそ、「その町」でこれからも生きる、生きていくのだとの意志は伝わってきます。今日も一日がんばった、明日もがんばろう、との決意が見えてくるのです。

 実印を作る雪女を辞める

 ついに決心はついたのです。「雪女を辞める」のです。雪女を辞めて、ヒトになると決めて、実行に移しているのです。まずは、実印を作るのです。実印ができあがったら印鑑証明を取りにいくのです。そのあと、金融機関に口座を開設し、不動産屋で新しい住居を見つけ、ヒトとしての新しい生活が始まるのです。
 もちろん、この一句における「雪女を辞める」は、自分にとっての大きな決心の見立てとなっているとの読みが、本来ならば適切なのかもしれません。決心と行動を「雪女」に託するのですから、かなりのものと思われます。故郷を離れるのか、大切な関係だった関係との決別なのか。どちらにしても悩みに悩み、決心はしたもののこれでいいのだろうかと思い悩み、それでも迷いを吹っ切って動きだしたのでしょう。なにしろ「雪女」だった過去(に込められた自分の過去)とは、相当重いものなのですから。
 「雪女を辞める」大変さを、この方はよく知っているはずです。雪女からヒトとなって、何とか社会に溶け込もうとしながら、過去を見破られて、ヒトを辞めて雪女に戻らざるを得なかった(もしかしたら雪女に戻ることもできず、彷徨える存在となってしまったかもしれない)先輩たちの悲劇を知らないわけはありません。たとえ知らなかったとしても、雪女を辞めようかどうしようかと悩んでいたときに、相談相手から「辞めるのはよしなさい。辞めた先輩たちがどうなったか知っているでしょう」とさんざん聞かされていたでしょうから、「辞めていいのだろうか」との不安は募って当然です。
 しかし、動きだしたのです。実印はできあがります。きっぱり「雪女を辞める」と宣言しています。もう雪女ではないとの自信にあふれています。自分自身の決断を、いまの行動を、そしてヒトとして生きるこれからを、積極的に肯定しています。雪女という縛りから解き放たれての新しい生活、新しい人生への希望と喜びにあふれています。それもそうでしょう、雪女ではないわたしとは、まぎれもないいまの自分自身。追い求めて、探し続けて、ようやく見つけ出した「ぴったり」の自分自身なのですから。

2020年11月13日金曜日

連載【なつはづき第一句集『ぴったりの箱』を読みたい】5 指先から 木村リュウジ


     1

 はつなつや肺は小さな森であり はづき (P43)

  掲句はなつはづき『ぴったりの箱』(朔出版 2020年)の第2章「小さな森」の最初に置かれている。同時に、なつが2018年に第36回現代俳句新人賞(現・兜太現代俳句新人賞)を受賞した「からだ」の最初に置かれている句でもある。肺が小さな森であるという比喩は、はつなつという季語と合わさり、初夏の深呼吸の気持ち良さ、さらに言えば生の瑞々しさといったものを感じさせる。
 掲句や受賞作の「からだ」というタイトルからも伺えるように、『ぴったりの箱』には身体感覚がモチーフとなっている句が多い。例えば身体(からだ)のあるパーツが書かれている句を興味の赴くままにいくつか引用したい。

 右手から獣の匂い夏の闇 (P18)
 冬木立胸に逃げ込む風ひとつ (P64)
 春隣ぼんやり風を待つ頬杖 (P66)
 ふきのとう同じところにつく寝癖 (P66)
 天の川ひかがみ人知れず微熱 (P82)
 雨水とは光を待っている睫毛 (P124)


 一読して、句のなかの身体のパーツの幅広さとそこから広がる世界の大きさに驚く。
 1句目は、多くの人にとって(恐らく作者にとっても)利き手である右手に獣の匂いがすると気付いたことから夏の闇に吸い込まれてゆく。右手という何気ないパーツを普段は意識しないように、自分が動物の一種であることも普段は意識しない。しかし、獣の匂いはそのことを否応なしに意識させる。獣の匂いが具体的にどのような匂いなのか書かれてはいないが、その語感は重たい。そしてその語感と夏の闇という季語が合わさり、一句全体に憂鬱や不安感が広がっている。
 少し句が飛ぶが5句目は「ひかがみ人知れず微熱」という措辞にまず惹かれる。この措辞を私は「後ろ髪を引かれる」と同じような意味で、天の川を一緒に見上げている恋人から離れたくないという感情の比喩と捉えた。その他の解釈も可能だろうが、いずれにせよ恋に対して一途な人物の姿が想像出来る句だと思う。
 この他にも、2句目からはさびしさが、3句目からはアンニュイな気分が、4句目からはユーモラスな雰囲気が、6句目からは光という言葉に象徴される未来へのしずかな高鳴りが、それぞれの身体のパーツから伝わってくる。
 また直接的に身体という言葉が出てくる句には次のようなものがある。

 身体から風が離れて秋の蝶 (P23)
 水草生う身体に風をためる旅 (P37)
 額あじさいもうすぐ海になる身体 (P49)


 1句目からは作者の停滞感が伝わる。それはおだやかな春風に乗ることの叶わなくなった秋の蝶の姿に通じる。つまり「風が離れて」という措辞は、作者に向けられたものでもあり、秋の蝶に向けられたものでもあるのだ。
 2句目は1句目と対照的に、そうした停滞感から抜け出そうとする作者の姿が思い浮かぶ。そしてやはりその姿は春の青々とした水草に通じる。
 3句目の「海」は燦々と光の降り注ぐ海ではない。額あじさいのやや影を帯びた色合いが投影されたようなもの哀しい海である。その色合いからは作者の憂鬱な心象風景を感じる。
 先程から私が句の感想を述べる際「作者」という語を多用していることに抵抗を覚える読者もいらっしゃるかも知れない。現代の俳句の世界では「作者と作品は分けて考える」という意見があることも事実だからだ。
 しかし、結論から先に言えばこれらの句の身体はなつの身体でしかない。なつは、自分の身体感覚を作句のスタートとしてそこから離れない。例えば『ぴったりの箱』には次の句が収録されている。

 薔薇百本棄てて抱かれたい身体 (P44)

 薔薇という季語に、さらに言えばそれを棄てるという行為に象徴される情動は、俳句の表現としては直接的なものであり、敬遠されがちである。しかしあえてなつは「抱かれたい」とはっきり書いている。その姿に代わりはいないし、先に述べた作者と作品は分けて考えるという意見も掲句の前には意味をなさないと思う。

    2

 また『ぴったりの箱』の句は、その身体のパーツの具体性とは対照的に、周囲の風景が漠然としている。例えば先に引用した「ふきのとう同じところにつく寝癖」に於いてふきのとうの生えているのは実際の風景ではなくなつの心象風景である。また句の内容もふきのとうの生態よりも、寝癖から連想される幼さや可愛らしさといったイメージと、ふきのとうのイメージの重なりが書かれている。このように『ぴったりの箱』の句は季語が実景ではなく心象風景に多く託されているという特徴がある。季語の象徴性が強いとも言えるだろう。
 つまりなつは身体感覚を実景ではなく心象風景につなげ、それに季語を象徴的に合わせるという稀有な作句方法を取っているのだ。
 そして、こうしたなつにとっての身体感覚の重要性は句に孤独感を与える。私は、これまで引用したどの句のなかにも、なつは一人で存在しているように思う。「天の川ひかがみ人知れず微熱」については恋人どうしだと解釈したが、両者の心がすれ違っていることを考えるとその孤独感は一人でいるときよりむしろ強いのかも知れない。

    3

 そうした孤独をなつが強く感じ取っている身体のパーツが指先である。事実、『ぴったりの箱』で「指」の書かれている句は全部で9句あり、身体のパーツが書かれている句のなかで最も多い。ちなみに「背中」(7句)、「髪」(4句)がそれに続く。具体的にどのような「指」の句が収録されているのか引用する。

 桜二分ふと紙で切る指の腹 (P38)
 片恋や冬の金魚に指吸わせ (P60)
 鍵探す指あちこちに触れ桜 (P70)
 指先がふいに臆病ほおづき市 (P73)
 くすり指鵙がことさら鳴く夜の (P83)
 毛糸編む噓つく指はどの指か (P88)
 ぬばたまの髪梳く指の冴え返る (P94)
 花万朶小指で掻き乱す水面 (P125)
 カーラジオ合わせる指先の薄暑 (P129)


 最後の句からは薄暑という季語に託された夏への高鳴りを感じるが、その他の句からは一様に薄く水を敷いたようなさびしさを覚える。
 いきなり話は私事となってしまうが、なつの主催する「朱夏句会」に手話をモチーフとした句を投句したことがある。その句の合評のときになつは開口一番「私、手話が大好きなんです」と言った。そして、テレビに手話通訳士が出ていると思わず釘付けになってしまうこと等を話していた。私にとってそれは、単なる句会での一場面として終わるはずだった。
 しかし、『ぴったりの箱』に収録されたこれらの句を読んでその認識は変わった。恐らくなつは、手話という指先によって他者と通じ合うコミュニケーションの嬉しさと難しさにどこか自身の作句を重ねている。無論これは私の推測に過ぎない。しかし、これらの句の胸が痛むほどの繊細さを前に、推測と言えどどうしてもその思いを拭い切れない。
 また、これらの句の指は必ずしも向かう先をはっきりと示していない。むしろときに立ち止まり、ときには宙に浮いたままでもある。しかし、そうした指の動きが却って世界との向き合い方のあるべき姿を教えてくれているように思う。それは、自身にとって知らない人物や物事に接したとき、偏見や先入観等ではなく実際の感覚、すなわち、身体感覚によってそれらと少しずつ向き合う姿である。
 そして、その姿は句集のタイトルとして全体に通じている。

 ぴったりの箱が見つかる麦の秋 (P104)

 タイトルの由来となった掲句について、なつは「あとがき」で次のように述べている。

 この句集でわたしがすっぽり入る「ぴったりの箱」を見つけた気がします。ただし「今のところ」と付け加えておきます。ぴったりは心地よくもあるし、窮屈でもあります。この矛盾する感覚がとても大事。ぴったりを知らないと不安定だし、窮屈に思えなければ伸びしろはありません。いずれこの箱も窮屈で息苦しくなる日が来るのでしょう。手足をもっと伸ばしたい、動かしたい、そういう衝動が生まれて来るはずです。その時はまた、新しい「ぴったりの箱」を見つけるべく奮闘するつもりです。

 少し前から世間には「ありのまま」という言葉が氾濫している。まただいぶ前から「等身大」という言葉もやはり頻繁に耳にする。これらの言葉の内実に辿り着くことは容易いように思えて、非常に困難である。ひとには誰にも隠しておきたいこと、或いは必要以上に見せびらかしたいことがあるからだ。そして、そこに辿り着くまでにはいくつもの孤独を感じなければならないからだ。
 『ぴったりの箱』はそうした「ありのまま」の自分、「等身大」の自分に辿り着くことの難しさを越えて出来上がった句集である。初夏の明るい陽の降り注ぐなか「ぴったりの箱」を抱きかかえるなつの指先は力強く、やさしい。(文中敬称略)
 

2020年10月30日金曜日

【なつはづき第一句集『ぴったりの箱』を読みたい 】4 箱を開けてみたい  金子 敦

  なつはづきさんは、2018年に第36回現代俳句新人賞、2019年に第五回攝津幸彦記念賞準賞を受賞された新進気鋭の俳人である。そして、2020年に第一句集『ぴったりの箱』を上梓された。

 『ぴったりの箱』というタイトルがとても魅力的だ。帯文にも書かれているように、自分がその箱を開けるのか、それとも、自分がその箱に入るのか。その違いだけでもイメージが異なってくる。その他にも、色々な解釈が出来る素敵なタイトルだ。

 拝読してまず感じたのは「独特の身体感覚」である。視覚や聴覚ではなく、触覚を大切にするのは珍しいと思う。収録されている句には、身体の部位を示す言葉がとても多く使われている。部位ごとに分けて紹介したい。

 根底となる言葉は、もちろん「身体」だろう。「体」も含めると五句。

身体から風が離れて秋の蝶
水草生う身体に風をためる旅
薔薇百本棄てて抱かれたい身体
額あじさいもうすぐ海になる身体
骨盤が目覚めて三月の体


 一句目、身体に風が吹いてくるのではなく、身体から風が離れてゆくという逆転の発想。二句目、「風をためる旅」とは一体どんな旅なのだろうかとイメージが膨らむ。三句目、
薔薇百本は単なる飾りに過ぎない。そんなものは捨ててありのままの自分で素直に抱かれたいというピュアな気持ち。四句目、初夏から本格的な夏になる季節感。五句目、三月は年度末の時期。骨盤が目覚めて新しい年度が始まるのだ。

 そして、身体の部位では「指」が最も多く九句ある。やはり、指先から伝わる感触によって創作意欲が湧いてくるのだと思われる。その中からの三句。

片恋や冬の金魚に指吸わせ
毛糸編む嘘つく指はどの指か
花万朶小指で掻き乱す水面


 一句目、単なる夏の金魚ではなく、冬の金魚である点がリアル。二句目、嘘をつく指はどの指だろう・・・。薬指のような気がする。三句目、水面を掻き乱すのなら普通は人差指だと思うが、小指であるところが繊細。

 「顔」から三句。

端っこの捲れる笑顔シクラメン
春の雲素顔ひとつに決められぬ
虫時雨この横顔で会いに行く


 一句目、「捲れる」のだから、本心からの笑顔ではないような気がする。シクラメンという季語が絶妙。二句目、素顔は確かに一つでは無い。多くの共感を呼ぶ句。三句目、「この横顔」という言葉から強い信念のようなものが感じられる。

 「髪」から二句。

星の夜や結うには少し早い髪
洗い髪夜を転がり落ちる音


 一句目、「結うには少し早い髪」というのは「あなたと親しくなるのは少し早い」という意味を含んでいるような気がする。二句目、
「夜を転がり落ちる音」という措辞が斬新。
 その他の、身体の部位からの秀句を三句。

てのひらは毎朝生まれ変わる蝶
はつなつや肺は小さな森であり
夏空やぐいと上腕二頭筋


 一句目、下五の「蝶」への展開が鮮やか。二句目、「小さな森」が確かな説得力を持っている。三句目、「ぐいと」というオノマトペが効果的。力強い上腕二頭筋が見えてくる。

 これらの独特的な身体感覚を持つ作者は、その感覚に更に磨きをかけて、今後も活躍されるに違いない。なつはづきワールドの更なる発展に目が離せないのは、決して僕一人だけではない筈である。

2020年10月16日金曜日

【なつはづき第一句集『ぴったりの箱』を読みたい】3 愛すべき雪女—私を超えて「私」へ 柏柳明子

 ●ぴったりのもの、ぴったりではないもの
 なべての本にとって題名はその本の「顔」ともいうべき大切な象徴だろう。読者がこの本を手に取り、実際に開いてくれるかどうか。そのためには、己の世界を端的に表し、読者をページの中に誘う魅力的なフレージングが必要だ。これに対し、なつはづきは『ぴったりの箱』という題名を選んだ。

ぴったりの箱が見つかる麦の秋

 上記の句から採られた題名は、平易ながら不思議なイメージ喚起力に満ちている。
「ぴったり」の「箱」。それは何なのか。その箱の中には何があるのか。
 「箱」というとプレゼントなどの容れ物というポジティブな実体から、「閉じ込める」というネガティブにも近いエゴまでさまざまな形態やイメージが思い浮かぶ。
 また、「ぴったり」という言葉。「ぴったり」と題名で形容しながら、本句集を読み進めると不格好、不完全、欠落、空白といった要素や世界観を持つ句といくつも出会う。どちらかというと「ぴったり」とは逆の概念の句のほうが多いくらいだ。
 この作家にとっての「ぴったり」とは何なのか。「ぴったり」と言いながら、実は逆の概念「ぴったりではないもの」を自身の詩の世界の基軸として詠んでいるのではないか。そして、そこにこそ俳句作家・なつはづきの特性の一つが潜んでいるとはいえまいか。

からすうり鍵かからなくなった胸
宝石箱に小さき鏡野分来る
白い部屋林檎ひとくち分の旅
ひょんの笛心入れ忘れた手紙


 「鍵かからなくなった胸」と開放的な表現を一見用いながら、胸という「容れ物(箱)」はどこか不安定な動悸と呼吸を繰り返しているのだろう。それは「からすうり」という季語からも象徴的だ。
 「宝石箱」の鏡は人生の新章を呼び込むかのように、無意識のうちに野分という予感を待っている。
 「白い部屋」という空白。酸味の残る味の行き先はいずこへ。
 「手紙」という平面すら感情がこもれば、それは容れ物という概念になりうる。しかし、そこには最初から心がない。ひょんの笛の行きどころのない響きが読者の胸を掠めていく。

 一方、表題句を含めた「ぴったり」な句も存在する。

啓蟄や身の丈に合う旅鞄
冬の幅に収まる抱き枕とわたし
今日を生き今日のかたちのマスク取る


 「啓蟄や」はオーソドックスな二句一章のかたちが生きた、自然体の佳句。
 ここでは季語に中七「身の丈に合う」が「旅鞄」と組み合わされることで、のびのびと生活と人生の一シーンを寿いでいる。
 『冬の幅に収まる』は意表を突く導入から、冬の寒さの中の安らかな眠りが春を待つ祈りのようにも見えてくる。
 COVID-19の蔓延により装着が日常化された「マスク」。自分の一部にもなりつつあるマスクをぴったりとつけて今日を生きることは、今日を無事に終える(生ききる)ことでもある。その繰り返しが明日も可能かは誰にもわからない、そういった不安も行間に覗かせながら。

 なつはづきという作家とその俳句作品には、いつもどこか「自分はこれでいいのか」「自分の場所はここなのか」という視線や迷いがある。その「欠けた想い」が俳句という形を借りることにより、表現として昇華され時とともに成熟していったのだろう。その結実が本句集であり、一つの到達点として選んだのが『ぴったりの箱』という題名ともいえるのかもしれない。

 上記のアプローチ以外にも、本句集にはこの作家に特徴的な志向がいくつかある。
多くの人が指摘する「身体感覚」についてはここでは触れず、「恋」と「雪女」に絞って述べたい。

●「変」という字の上半分、下半分
 「移りゆく心」という1980年代の歌がある。歌い手は小林麻美、作詞は松任谷由実。
 「変わるという字の上半分は恋、下半分は愛」要約するとそんな歌詞なのだが、なつはづきの描く恋愛句も絶えず揺れる心を雫にも似た純度で定型の裡に言い留めている。

音程のぐらぐらの恋夏帽子
靴音を揃えて聖樹まで二人
薔薇百本棄てて抱かれたい身体
殴り書きのような抱擁花梯梧
アスパラガス愛にわたしだけの目盛り
合鍵を捨てるレタスの嚙み心地
あなたのことば十薬が暮れ残る
檸檬切る初めから愛なんてない


 時に不器用なほどストレート。しかし、同時に隠し持つ突き放した視線。
 恋愛をしている時の攫われるような感情と時間の豊潤さ、その反面自分の暗部を見せつけられる瞬間の絶望感。十七音の中にぶつけられた措辞が季語と化学反応を起こして、一句の裡で感情は生々しい変化を遂げていく。そして、「変わる心」を詠った作品の中に、上述の「ぴったりのもの」「ぴったりではないもの」を探し求める作品世界との共通点があることに気づく。
 今は好きでも明日はどう移るかわからない感情。だからこそ、なつの恋愛句は切実でリアルな輝きを放っている。

●はづき、ときどき雪女
 筆者にとって、なつはづきの作品の中で特に印象的な一句は下記である。

実印を作る雪女を辞める

 怖いような悲しいような、でも可笑しいような。
 言葉では説明できないユニークさ。感性の飛びの素晴らしさ。
 俳句作家・なつはづきの真骨頂の一句といえよう。

 掲句以外にも、なつは以下の「雪女」の句を『ぴったりの箱』に収載している。

雪女笑い転げたあと頭痛
その町の匂いで暮れて雪女
雪女ホテルの壁の薄い夜


 どの作家にも意識的、無意識的にかかわらず拘泥して使用する季語があると思う。
なつはづきの場合は、「雪女」がその一つとして挙げられるだろう。
 一体、彼女にとっての「雪女」とは何なのか。
 ある時はフィクションの存在に仮託して恋を詠い、ある時はこの世とあの世の間で遊ぶためのアバター的な役割を果たす存在なのだろうか。

 現実のなつはづきは成熟した大人の女性として、日常生活を営んでいる。
 しかし、彼女の裡のあやかしのような異界がときどき雪女に化けて、俳句作品としてこの世に忽然と姿を現すのかもしれない。

 自分ではない自分。ここではないどこか。
 私が私でいられる場所、心。

 本句集は、常に揺れつつも「自分が自分であるための、ぴったりの箱」を俳句という世界で探し続けた作家・なつはづきの現在の境地といえよう。
 微細な違和感をも敏感に感じ取る感性。それゆえに捉えうる世界。
今後もその感性を始点に、なつはづきは時にこの世から片足をはみ出し、片目で幻視を続けながら「私を詠みつつ私を超えた」彼女独自の俳句世界を紡ぎ続けていくのだろう。


2020年9月25日金曜日

【なつはづき第一句集『ぴったりの箱』を読みたい】2 ぴったり感―『ぴったりの箱』を読む  小松敦

 〈わたしがすっぽり入る「ぴったりの箱」を見つけた気がします〉と作者はあとがきで言っている。ふと思う。読者にとってはどうなのだろう。読者にとってのぴったり感について思いを巡らせながら、『ぴったりの箱』を鑑賞してみたい。

  カリフラワーいつもの猫がきて休日
  ふきのとう同じところにつく寝癖
  鍵探す指あちこちに触れ桜
  少女たち横一線に夏兆す
  夏空やぐいと上腕二頭筋
  ぴったりの箱が見つかる麦の秋


 例えば上のような句については、季語と一連なりのエピソードから構成されていて、筆者にも同じような経験があるからすっと光景が浮かび、季語のイメージとあいまって心地よい。ミラクルでもロマンでもないけれども、少しだけ気持ちの動いた日常の断片に季語が付け合わされて、十七音の箱にぴったりと収められている。作者の素敵なセンスオブワンダーを感じる。一句に、作者と読者の世界が重なり響きあい、気持ちがふわりとするところに俳句の悦びがあるのだと改めて気づかされる。
 もちろん、中には一読して響かない、ぴったり感を感じない句もある。そりゃそうだ。作者と読者とは違う人生を生きており、経験も記憶も違うのだから、全部重なり響きあうはずがない。

  その町の匂いで暮れて雪女

 町それぞれの匂いがある。暮れ方の夕餉の匂いやストーブの匂い、繁華街の埃っぽい匂いかもしれない。ここまでは筆者の記憶が揺さぶられて、ちょっとノスタルジックな気分。ところが、雪女とくる。雪の女ではなく雪女。雪女のイメージは、筆者にとっては冬の妖怪であり、上五中七と響かない。筆者が感じていたリアルな気分がとたんに嘘っぽい戯れの漫画に変貌してしまう。でも、作者やほかの読者にとっては好ましく響き、ぴたっとくるのかもしれない。そういうものだと思う。それでいい。ちなみに〈雪女笑い転げたあと頭痛〉はあらかじめ戯画的に面白がればいいと思った。

  からすうり鍵かからなくなった胸
  月白や鏡の中で待つ返事


 筆者の胸に鍵はついてないし、鏡の中で返事を待ったこともないけれども、それぞれの言葉が喚起するイメージは繋がりあい、たとえフィクションであろうともリアルな気持ち、生生しい質感を筆者の中に作り出す。烏瓜の鮮やかで丸くつややかな密封感が、鍵がかからず誰でも入ってきてしまう、潜めておきたい気持ちに侵入されてしまうやるせなさを際立てている。鏡の中にいるもうひとりの自分の期待感を客観視する気持ちには、月白の醒めた美しさと共に明暗のあわいにある一抹の不安が漂う。

  身体から風が離れて秋の蝶
  水草生う身体に風をためる旅


 離れたり溜まったりする風。句意はファンタジーであっても、筆者にとってはリアルだ。日頃から五感で感じとっている=身体が覚えている風の記憶が、秋蝶や水草の質感と交わり、軽やかな浮遊感と天人合一の安心感をつくりだす。
 一句の中の言葉の一つ一つが読者の記憶を呼び覚まし繋がりあってリアルな気分を作り出した時には、その句を好ましく思い、ぴったり感を感じる。そうでなければ、それまでのことだ。作者と読者のぴったり感。お互いの世界が重なり響きあうリアリティ。それはこの句集のいたるところにちりばめられた恋の成就かもしれない。

 

2020年9月11日金曜日

〔新連載〕【なつはづき第一句集『ぴったりの箱』を読みたい】1 『ぴったりの箱』を読む  赤野四羽

 なつはづきさんの第一句集、『ぴったりの箱』を拝読しました。なつさんは第36回現代俳句新人賞受賞、「豈」に参加、「朱夏句会」代表もされています。タイトルの『ぴったりの箱』は集中の一句『ぴったりの箱が見つかる麦の秋』より。
 一読では何かを片付けるのにちょうどいい入れ物があった、かのように読めますが、表紙の「箱」のイラストをみるとポップでありながら、安部公房的なニュアンスをも見て取れます。まずは共鳴句を二十句挙げてみます。

 からすうり鍵かからなくなった胸
 桜二分ふと紙で切る指の腹
 夜に飲む水の甘さよ藍浴衣
 蟻の群れわたしは羽根を捥ぐ係
 少女期の果ててメロンのひと掬い
 地に刺さる喪服の群れよ油照り
 ゲルニカや水中花にも来る明日
 立秋や猫背のような手紙来る
 中古屋に天使の羽がある良夜
 鶺鴒やひだまりがまず午後になる
 日向ぼこ世界を愛せない鳩と
 実印を作る雪女を辞める
 幻の鮫と寝相の悪い君
 春鹿の顔して単語帳捲る
 穴馬がおーーーーっと茅花流しかな
 昨日から革命中のなめくじり
 かなかなや痣は気付いてより痛む
 図書館は鯨を待っている呼吸
 福島やプールを叩く硬き雨
 白兎黒兎いて夜の嵩


 句集末には俳人、宮崎斗士の跋文が収められています。ここで宮崎は「身体感覚」「からだ」をはづき俳句のキーワードとして挙げており、揚句をみても的確な指摘だと思います。
ただ一口に身体感覚といってもいろいろあり、例えば金子兜太の「いきもの感覚」もそうですし、「21世紀俳句パースペクティブ」では阿部完市俳句の身体性として韻律を挙げる議論がされていました。
 はづき俳句における身体性とはなにか。本句集について私が感じたのは、「痛み」「喪失感」「居場所」ということです。
 単に身体の語彙を使う、また肉体を描写するということではなく、心象あるいは喩としての身体、痛みや喪失感を感じる主体としての身体、置き所や居場所を探し求める自己としての身体、なつはづき俳句における身体性とはこのような表現手法として成立しているように思います。

 この身体性に関しては多くの論者が触れるところだと思いますので、それ以外の引き出しをあけて見ましょう。

 ゲルニカや水中花にも来る明日
 ここでの水中花は謎を含んでいます。多くの場合、水中花は生と死の境界、どちらかといえば死に近い存在として表れますが、ここではその水中花に明日が来る。ゲルニカでの圧倒的な破壊との対比か、死者も死者として存在することの喩でしょうか。

 白兎黒兎いて夜の嵩
 どちらかといえば、昼より夜に近づく性向があるようにみえます。モノクロームに深まる夜の世界に、やはり色彩のない白兎と黒兎。しかしここにはむしろ安らぎがあるようです。同じく
 夜に飲む水の甘さよ藍浴衣
もまた夜の甘さを洒脱に描いています。

 穴馬がおーーーーっと茅花流しかな
 静謐な世界だけではありません。競走馬の熱狂的な一場面、風になびく鬣と柔らかな茅花流しの映像的交感。寺山修司も競馬に凝っていたそうですが、こういった祝祭空間の表現にもまだまだ可能性があるのではないでしょうか。

  新宿で毎月行われているなつさん主催の朱夏句会。現在は新型コロナのため主にネット開催になっています。私もちょくちょく参加させて頂いていますが、超結社の自由な句会です。無季も有季も破調もOK。多彩な俳句表現にご関心ある方はぜひどうぞ。