2023年7月28日金曜日

第208号

            次回更新 8/25


救仁郷由美子追悼⑫《最終回》  筑紫磐井 》読む


■令和俳句帖(毎金曜日更新) 》読む

令和五年花鳥篇
第一(7/14)五島高資・杉山久子・神谷波・ふけとしこ
第二(7/21)山本敏倖・小林かんな・仲寒蟬
第三(7/28)辻村麻乃・竹岡一郎・早瀬恵子・木村オサム



令和五年春興帖
第一(6/9)仙田洋子・大井恒行
第二(6/16)杉山久子・小野裕三・神谷 波・ふけとしこ
第三(6/30)山本敏倖・小林かんな・浜脇不如帰・仲寒蟬
第四(7/7)辻村麻乃・竹岡一郎・早瀬恵子・木村オサム

■ 俳句評論講座  》目次を読む

■ 第35回皐月句会(4月)[速報] 》読む

■大井恒行の日々彼是 随時更新中!※URL変更 》読む

俳句新空間第17号 発行※NEW!  》お求めは実業公報社まで 

■連載

【渡部有紀子句集『山羊の乳』を読みたい】⑧ 「山羊の乳」鑑賞 久世裕子 》読む

【連載通信】ほたる通信 Ⅲ(36) ふけとしこ 》読む

【連載】大関博美『極限状況を刻む俳句 ソ連抑留者・満州引揚げ者の証言に学ぶ』を読む② 》読む

句集歌集逍遙 岡田由季句集『中くらゐの町』/佐藤りえ 》読む

【抜粋】〈俳句四季6月号〉俳壇観測245 黒田杏子 ——俳句に命をかけ、一心不乱に走り回りついに斃れた人

筑紫磐井 》読む

英国Haiku便り[in Japan](38) 小野裕三 》読む

【豊里友行句集『母よ』を読みたい】② 豊里友行句集『母よ』書評 石原昌光 》読む

北川美美俳句全集32 》読む

澤田和弥論集成(第16回) 》読む



■Recent entries

中村猛虎第一句集『紅の挽歌』を読みたい インデックス

篠崎央子第一句集『火の貌』を読みたい インデックス

中西夕紀第四句集『くれなゐ』を読みたい インデックス

渡邊美保第一句集『櫛買ひに』を読みたい インデックス

なつはづき第一句集『ぴったりの箱』を読みたい インデックス

ふけとしこ第5句集『眠たい羊』を読みたい インデックス

加藤知子第三句集『たかざれき』を読みたい

眞矢ひろみ第一句集『箱庭の夜』を読みたい インデックス

葉月第一句集『子音』を読みたい インデックス

佐藤りえ句集『景色』を読みたい インデックス

眠兎第1句集『御意』を読みたい インデックス

麒麟第2句集『鴨』を読みたい インデックス

麻乃第二句集『るん』を読みたい インデックス

前衛から見た子規の覚書/筑紫磐井 インデックス

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉜ のどか 》読む

およそ日刊俳句新空間 》読む
…(今までの執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保 …
5月の執筆者(渡邉美保)

俳句新空間を読む 》読む
…(主な執筆者)小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子




筑紫磐井著『女帝たちの万葉集』(角川学芸出版)

新元号「令和」の典拠となった『萬葉集』。その成立に貢献した斉明・持統・元明・元正の4人の女帝、「春山の〈萬〉花の艶と秋山の千〈葉〉の彩を競へ」の天智天皇の詔を受けた額田王等の秘話を満載する、俳人初めての万葉集研究。平成22年刊/2,190円。お求めの際は、筆者までご連絡ください。 

【渡部有紀子句集『山羊の乳』を読みたい】⑧ 「山羊の乳」鑑賞  久世裕子

   有馬朗人先生は「天為」十八号で、「どこか新しいことは、自然科学の研究の最低条件であるが、文芸の世界でも同じである」と書かれている。また「天為」二十号で、「見たり聞いたりする角度を、少し変えてみることは、新しいものに触れる一つの方法である」とも書かれている。

 有紀子さんの「山羊の乳」には、その「新しさ」を感じる句の数々が並ぶ。そして、それらの、十七音にきっぱりと収まる省略の効いた句姿に憧れを感じた。その中から三句を取り上げて私なりの鑑賞をしてみようと思う。


惜春の粉糖すこし食みこぼす 

     

 ガトーショコラだろうか。雪のようにかけられていた粉砂糖がテーブルクロスあるいは衣服に、わずかながらこぼれ散らばり落ちる。暑い季節へ進むにつれさっぱりした軽い味わいを好むようになるもの。その前にと楽しんだ、濃厚な味わいの重めのケーキと、そこからひっそりこぼれ散る繊細な粉砂糖との対比。友人との楽しいティータイムの語らいの華やかな賑やかさと、粉砂糖の白くはかない静けさとの対比。粉砂糖がとにかくせつない。

 この句の十七音のうち十一音が静かな無声子音から始まる(セ・キ・シュ・フ・ト・ス・コ・シ・ハ・コ・ス)。さらにその十一音のうち七音は息を漏らす無声摩擦子音から始まる(セ・シュ・フ・ス・シ・ハ・ス)。「惜春」「粉糖」等の言葉の選択で、まるで溜息のような調べとなっていることにも注目した。


花の種採るほろほろと児の言葉  

      

 花の種を手に受けて採り慈しむように、まだ覚束ないながら懸命に話す子の言葉を聞き洩らすことのないよう大事に受けとめ、その思いを汲み取っている様子が浮かぶ句だ。「ほろほろと」の表現で、句集の表紙の花々が頭に浮かんだ。表紙の雰囲気が有紀子さんによく合っていて素敵で「スカビオサ、かな?」と、ひとしきり眺めた後だったからだろう。小さく飛ばされていくような種が、成長しやがて花が咲くように、まだ弱く断片的な言葉たちは、そのうち文となりしっかりと思いが伝えられるようになっていく。今はその過程、とゆったり見守る温かいまなざしが見え、たおやかな花々の優しい色合いが心に広がった。 


口笛に澄みゆく眼夏の果      


 眼が次第に澄んでゆくほどに口笛を響かせている。それ程に口笛を吹きたくなる時とはどのような時だろう。普段の生活で、知り合いが口笛を長く吹いているところに出くわすことが無い。口笛は、人目に付く場所ではあまり吹き続けないのではないだろうか。

人が口笛を吹き続けたくなる時とは(それが生業では無い場合)

夕暮れ時など哀愁そそる時間帯

遠くまで見渡せる視界の広い場所

辺りに自分たちの他に人がおらず万が一見られてもそれが知り合いでは無い旅先

という三つの条件を満たし、且つ心がすっきりと洗われた時ではないかと考えた。

 さて、口笛を吹いているのはご本人かあるいは隣にいるお子さんか。夏の終わりのせつなさ、旅情、遥かなる美しい景色とそれに対峙する人間の孤独や決意までもが、定型十七音で見事に表されていると感じた。


 そしてまた、数々の句に、有紀子さんの「他者を思いやる心」を感じるが、私もその恩恵を受けている一人である。昨年、天為若手句会というリモート句会を立ち上げられ、地方の同世代のメンバーが共に俳句を学べるよう尽力下さっている。私にとって、地元の句会とはまた違う、たくさんの刺激と学びがあり、緊張しながらも待ち遠しい時間となっている。この場をお借りして改めて感謝の気持ちを表したい。

 有紀子さん、いつもありがとうございます!

(「天為」2023年6月号より転載の上、加筆修正)


プロフィール
久世 裕子(くぜ ひろこ)
富山県富山市在住
昭和四八年生

「天為」・「花苑」会員

救仁郷由美子追悼⑫(最終回)  筑紫磐井

 ●LOTUS 30号(2015年4月)

   葎生

鳥族の巫覡恋しき摘草や

山立娘連(いのししれん)多塔物塔へ突撃す

六十年後桃の老木乙女()

独神(ひとりがみ)出であちらにも出で心うらら

葉桜の木の間漂う宇宙母顔

幼年(おさなどし)摘むは路傍の野襤褸菊

唐門の囲いの巾より娑羅の花

母は月父は娑羅樹と御喋り児

唐門前修羅の脇ゆくごんぎつね

三角地一くわ一くわと土返す

夏旅の七人村へと葛折り

雲海の(たなごころ)這い水子神

山ん中悶絶僻地常無念

飛龍とて未完の神ぞ弦の月

相俟って星糞峠諸同(ほしくそとうげもろかえ)

降る雪や眼ることなき山毛欅林

窓秋氏詩神力すらはにかむや

木の家の詩人の記憶花譜となる

枯蓮の水底(わざ)に満ち満ちて

修羅に添う異境の旅の夏木立

巨樹樹透黒き蛇迫う黒つぐみ

闇に()れ石女明日は婚姻す

山又山産婆走りに山姥よ

鬼門角追われ払われ乞食女(こつじきめ)

天ん邪鬼の水の神様救い求る

門前のずり這う赤子掬い上げ

共喰ぞ悪喰ともどもなる地獄

弔いの摺り足ずるっと秋時雨

北の地震(なえ)洪水南の志都歌や

男鹿の海祈る両手(もろて)の白雲よ


●LOTUS 38号(2018年4月)

   吉村鞠子追悼句

雲白きときどき連なり墓処の空



●BLOG「大井恒行の日日彼是」(2022年4月16日)

安井浩司へ 俳句無の時々(1)水仙(4・16)

救仁郷由美子から、安井浩司死去の直前、エッセイの原稿をブログに載せてくれるか、という声掛けがあり、あろうことか、ほぼ同時に、安井浩司の訃報がもたらされた。安井浩司『自選句抄 友へ』の救仁郷由美子によるエッセイの連載は、とびとびながら、残る3句となっていたが、自身、文章は、もう無理みたい、書けない・・・。俳句なら、少しは書けそう、と言ってきたので、『自選句抄 友へ』の代替えということにもならないが、句ができたら、その都度公開することにした。諸兄姉、お許しあれ。


   厠から育む月日(げつじつ)如月仏の縁      由美子

   水仙と三度(みたび)別れの媼おり

   侵入者夜音(やおん)立て来るやって来る 



●BLOG「大井恒行の日日彼是」(2022年4月22日)

安井浩司へ 俳句無の時々②  


 文学における俳句形式のαとωは、幾たびの試練を経てなお永遠に問われよ(『句篇』ー終わりなり、わが始めなりー安井浩司・帯文より)

 ギリシャ語の最初の文字がアルファ、終わりがオメガであることから、最初から最後までを意味するが始原へと辿り返すならば、終わりなり始めなりと俳句形式を問う。


  オメガアルファの春雲形(うんけい)蛇間に陽光(ひかり)射し

【連載】大関博美『極限状況を刻む俳句 ソ連抑留者・満州引揚げ者の証言に学ぶ』を読む➁

「極限状況を刻む俳句」を刻む  杉山久子


 「戦闘が終わっても戦争は終わらない」(山本章子)

 かつて投下された爆弾の不発弾の山の上に腹ばいになって生活しているようなものだと沖縄の日常を指摘する「沖縄季評」の一文が、大関氏の著書を読んで直後の私の心中に重く響いている。


 本書では、まずソ連抑留に至る経緯を日清・日露戦争戦争に遡って解説されており、個人の人生が大局に翻弄される状況を見渡すことになる。

続くソ連抑留者の体験談と抑留俳句は、その奥に語られなかった多くを含むであろうことを踏まえながら、刻むように詠まれた十七音からお一人お一人の叫びを聞く思いで読んだ。

 声のなき絶唱のあと投降す     小田保

 俘虜死んで置いた眼鏡に故国(くに)凍る  〃

 日本人打つ日本人暗し日本海     〃

 肉体的精神的に苛烈を極める状況の中で、仲間同士の「密告」「つるし上げ」といった更なる精神的極限へと追い詰められる。


 秋夜覚むや吾が句脳裡に刻み溜む  石丸信義

 棒のごとき屍なりし凍土盛る    黒谷星音

 初蝶をとらえ放つも柵の内     庄子真青海

 初夢は吾子の深爪また切りし    高木一郎

 汗の眼を据ゑて被告の席に耐ふ   長谷川宇一

 としつきを黒パンに生き燕飛ぶ   川島炬士

 むかれたるまま 蛙 俘虜の手をのがる  鎌田翠山

 生々しい臨場感を伴う鎌田翠山氏の句には、生死の拮抗する瞬間が描かれており、それは過酷な体験をされた人々の生をつかみ取ってこられた一瞬一瞬にも重なる思いがする。 

 鎌田氏のように、シベリアだけでなく欧露の砂漠での捕虜体験や、これまであまり目にすることのなかった女性の俳句(満蒙引き揚げ)を取り上げていることも本書のきめ細やかなところであろうか。

 行かねばならず枯野の墓へ乳そそぎ   井筒紀久枝

 子等埋めし丘ことごとく凍て果つる   天川悦子


 シベリア抑留の過酷な体験を生き延びた父を持つ著者の、今伝えなければという強い切迫感に貫かれた本書では、俳句や句座の存在が当時、そしてその後の人生にどのように働いたかを作者の証言を踏まえての考察がなされている。更には震災詠や現在も終わらないロシアによるウクライナ侵攻などの極限状況においても川島炬士の語る「暗黒の中に一縷の光明こそは俳句であった。」のように、俳句が心の支えとなっている例を挙げつつ紹介する。そこには筆者の平和を希求する強い祈りが込められている。


 戦後がいつの間にか戦前へとすり替わってしまうのではないかという危惧も漂う現在、多くの人にこの極限状況に刻まれた俳句と証言を目にして欲しい。


【句集歌集逍遙】岡田由季句集『中くらゐの町』/佐藤りえ

 岡田由季第二句集「中くらゐの町」は、まずそのタイトルからちょっと驚かされる。「中くらゐの町」。大都市でも、郊外、田舎でもない。「中くらゐ」は規模のことであるけれど、評価のようにも取れる。大きすぎず、小さすぎもせず、中くらい。


 中くらゐの町の大きな秋祭


 その、中くらいの町でも、大きな秋祭りを催すのである。大きな、とは、たとえば町中のひとが集まっているでのはないか、あるいは市外のひとも同じくらいいるのでは?などと、普段感じている規模を超えていることの把握に見える。「大きな秋祭」によって「中くらゐの町」のほどよさがにじみ出て、「中くらゐの町」によって「大きな秋祭」が大きいんだろうな、と思わせる、上下の句で相互作用があるようで、なんだか面白い。

 NHKBSの「にっぽん縦断 こころ旅」を見ていると、日本中に似通った風景があるんだなあ、とつくづく感じる。視聴者からの手紙で指定された目的地へ、火野正平が自転車を漕いで移動するさまを見守るこの番組は、観光案内も、地誌の説明もほとんどない。火野とスタッフが一列縦隊になって進む町並みを、淡々と映して見せる。畑の中の一本道を抜けて小さな小川にかかる橋を渡る。三叉路の細道に入り、路地を抜けると大きな銀杏の立つ稲荷社がある。目的地は大都市ばかりでもなく、民家もあまりないような辺鄙な場所ばかりでもない。映し出されるのはたいがい「中くらいの町」だ。

 写生が十四五本の鶏頭を詠む時、流れゆく大根の葉を詠む時、それがカメラのファインダーなら、標準レンズか、きもち広角気味のレンズで覗いたぐらいの叙景であるだろう。「中くらゐの町」を直に眼前に見るには、見晴台に上がらなければならない。「中くらゐの町」はそうやって眺められたものではなく、そこで過ごした時間の蓄積と肌感によって導かれた「客観」なのだと思う。


 物流の激しくありぬ朧の夜


 ここにも、目には見えないけれど確かにあるものが詠まれている。朧夜、夥しいトラックが物流倉庫を出入りする。「物流」という言葉は物的流動の略語で、生産者から消費者へ生産物を引き渡すことを指していたのが、現在は宅配便やB2Bの倉庫間移動など、配送そのものを指す言葉として捉えられるように変化しつつある。通信販売の多様化、近年のコロナ禍にともなう取引の増加に伴い、話題にのぼることが増えた言葉でもある。九十九神のひしめく島国の隅々へ、トラックが行き交うさまは、式神の伝令を引き合いに出してもいいんじゃないかと、個人的にはそう思う。


 嬉しさの長持ちしたり桜餅


 長持ちする嬉しさ、というものがある。パッと喜び、走り回って誰彼構わず告げたい、というのではなく、あとから思いだし、じんわりありがたく感じるようなもの。桜餅のあえかな感じが、その「嬉しさ」の喜ばしさをほのかに彩っている。


 矢絣の方が妹冬紅葉

 橙の記憶が餅につたはりぬ

 表のみ焚火にあたる男たち

 駅舎にて見せあつてゐる茸かな

 冬の山良書並べしやうにあり


「矢絣の—」の句は谷崎潤一郎「細雪」のような世界を思い描いた。矢絣といえば銘仙の柄だろうか、おきゃんな妹の方が、モダンな着物を身につけているのである。「橙の記憶—」は、橙が蜜柑山の記憶を餅に伝えている、と牧歌的に読むのもいいし、何故鏡餅のてっぺんに橙が置かれているのか、誰もが忘れかけているその仕儀を、橙そのものが餅に伝承している、と捉えるのも楽しい。「表のみ—」「駅舎にて—」「冬の山—」の三句はいずれも季題が良く内面化され、情景がありありと浮かぶ一場面が提示されている。「良書並べしやうに」は景観の見事さが作る言葉ではない。冬山のよさと良書のよさが結びついたときに生まれる措辞である。AIではこうはいかない。


 新しき案山子は犬に吠えられて

 裸木となりても鳥を匿へり

 海に出て川成就する秋の声


 新しい案山子は見慣れぬものとして犬に吠えられ、すっかり葉を落とした樹木はそれでも鳥を匿っている。川の水が海に到ることを「成就」と捉える。こうした見方はアニミズムのようにも見えるが、少し違った視点だと思う。案山子や裸木、川について、それぞれを独自の存在としてみているものの、擬人的に、また霊魂を持つ存在として描いているわけではない。それぞれが「役割」を持っているのだ、我々が思いも寄らぬようなかたちで。「裸木」という、あくまで人間の把握する状態を示すものにも役割があるのだ、とカウンターを浴びせているのではないか。


 内側に座ってみたき夜店かな


 祭りの縁日か、花火大会でもいい。夜店は買う楽しみ、眺める楽しみもありながら、その内側にいて、楽しむ人々を、その場そのものを見てみたい、という願いが描かれている。この大外から俯瞰する感覚、さらに外側から眺めたいという距離感こそが、作者の持つ冷静な視座そのものではないか。叙景と言葉、表現への拘りが掛け合わされた、独自の心地良さがここにはある。


 春寒しくしやくしやに揉む犬の顔

 秋の日や牛牽くやうに犬を牽き

 月の夜のきれいな骨のはづしかた

 青梅雨の麻雀卓の女たち

 切符の穴林檎の傷とともに旅

 観梅へ誘ふ切手の組み合はせ


岡田由季句集『中くらゐの町』(amazon kindle)


【連載通信】ほたる通信 Ⅲ(36)  ふけとしこ

 立葵

立葵路地も酒場も古りにけり

須磨寺や蜻蛉の翅の音も聞き

平家琵琶ビビンと響き青葉闇

仁王門脇病葉の吹き溜り

石柱へ映る青葉も柴犬も


・・・

 やってみたいことがあった。馬鹿げた話ではあるが。

 「ハムをねえ、1本食べてしまったんだよ。」と義弟が言った。1人で留守居中、ボンレスハムを丸齧りしたのだと言う。

  「小説を読んでたんだけど、何か食べたくなってね、お中元できたヤツがあってさ、切るのも面倒だし、本も面白かったから、ついつい齧りながら読んでたのよ。気が付いたら全部食べてしまっててさ、後で奥さんに叱られちゃって」

 いくら詰合せの物で小振りだったとはいえ、同じ味が続くと飽きるのではないかしら。よくもまあ……。

 この話を聞いてからというもの、思い出す度にやってみたくなったのだ。いつか、いつか……と思っている内に数年が経ち、さらに数年が経ち、彼は膵臓癌であっけなく逝ってしまい、私は歳をとってしまい、もうハムを丸齧りする元気は無くなってしまったのである。

 数年前になるが、亡くなる前の11月下旬に彼ら夫婦と我々と一緒に旅をした。その時はとても元気で健啖そのものであった。

 そんな彼が12月になって突然食欲が無くなった。

 膵臓癌だと分かったが、自身はもう何もしないと言い、緩和ケアのみを希望した。脳外科が専門だったにしても、多くの症例は見ていただろうし、癌の進行などもよく解っていたということだろう。

 そして年が明け、2月初めに亡くなった。本当に早かった。

 闘病期間が短いというのは、身体が衰える間もなく命が尽きるわけだから、痩せることもなく、表情も特に変わることなく終われることになる。

 癌を患い入退院を繰返し、最終的には扁平上皮癌で逝った義父が「人間、死ぬと分かっていても、人手も金もかかるもんだな。もう面倒だ」と言っていたが、義弟の場合は、入院費も少なく……ということにもなる。「どう?真似てみてよ」との声が聞こえそうだ。

 遺された書籍類の中には料理本も沢山あった。自分でもよく台所に籠っていたが、塩分にはとても敏感だった。わが夫は高血圧にも拘わらず、美味しければいいという無頓着ぶりだから、食卓での塩や醤油などの使い方には、実にうるさく注意をしてくれていた。

 それにしても、ハムはかなり塩味が濃い。後でさぞかし喉が渇いたのではなかっただろうか。  

(2023・7)

2023年7月14日金曜日

第207号

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救仁郷由美子追悼⑪  筑紫磐井 》読む

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■令和俳句帖(毎金曜日更新) 》読む

令和五年花鳥篇
第一(7/14)五島高資・杉山久子・神谷波・ふけとしこ


令和五年春興帖
第一(6/9)仙田洋子・大井恒行
第二(6/16)杉山久子・小野裕三・神谷 波・ふけとしこ
第三(6/30)山本敏倖・小林かんな・浜脇不如帰・仲寒蟬
第四(7/7)辻村麻乃・竹岡一郎・早瀬恵子・木村オサム

令和五年歳旦帖
第一(3/31)仙田洋子・仲寒蟬・杉山久子
第二(4/7)神谷波・竹岡一郎・堀本吟
第三(4/14)辻村麻乃・松下カロ
第四(4/21)山本敏倖・大井恒行・田中葉月・なつはづき
第五(4/28)中村猛虎・浅沼 璞・曾根 毅・望月士郎
第六(5/12)木村オサム
第七(5/19)ふけとしこ・岸本尚毅・渡邉美保・青木百舌鳥・眞矢ひろみ
第八(5/26)林雅樹・水岩 瞳・下坂速穂・岬光世
第九(6/3)依光正樹・依光陽子・佐藤りえ
補遺(6/16)筑紫磐井・鷲津誠次


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5月の執筆者(渡邉美保)

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…(主な執筆者)小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子




筑紫磐井著『女帝たちの万葉集』(角川学芸出版)

新元号「令和」の典拠となった『萬葉集』。その成立に貢献した斉明・持統・元明・元正の4人の女帝、「春山の〈萬〉花の艶と秋山の千〈葉〉の彩を競へ」の天智天皇の詔を受けた額田王等の秘話を満載する、俳人初めての万葉集研究。平成22年刊/2,190円。お求めの際は、筆者までご連絡ください。 

【抜粋】〈俳句四季6月号〉俳壇観測245 黒田杏子 ——俳句に命をかけ、一心不乱に走り回りついに斃れた人  筑紫磐井

  この3月、黒田杏子(12日)、齋藤慎爾(28日)という型破れのプロデューサを我々は失うことになった。齋藤慎爾については前号で述べたので黒田杏子に触れておこう。


「証言・昭和の俳句」

 黒田杏子が活躍し始めるのは、角川書店の秋山実編集長がキャンペーンを張った「結社の時代」後、海野謙四郎が就任し長期の編集長を務める。この時の中心企画が、①黒田杏子によるインタビュー「証言・昭和の俳句」、②中堅作家による「12の現代俳人論」、③櫂未知子・島田牙城によるインタビュー「第一句集を語る」であった。作家を中心とした、歴史的視点からの、以前の角川「俳句」らしい正統的な特集であった。

 特に「証言・昭和の俳句」はインパクトが大きく、好評とともに、この企画に対する不満が編集長に寄せられたこともあったと黒田から聞いたことがある。この企画は、もちろん「俳句」の編集長の発案もあったであろうが、黒田杏子の提案、人選が決定的であった。黒田杏子は、「この企画が俳句で実現されなくても、何人かの俳人に自力でインタビューし、独力で本にしたい」と述べているから、この本は角川の本であると共に、黒田の本でもあった。そして実際20年後に自ら新しい出版社を見つけ、さらに若い世代による解説記事を付して万全を期したことにより、まぎれもなく黒田杏子だけによる『増補新装版 証言・昭和の俳句』となったのだ。今回、黒田の追悼記事を眺めてみると、みな「証言・昭和の俳句」を掲げている。黒田を代表する著書であったことが実感される。

 これを踏まえて振り返ってみると、この数年黒田杏子は、金子兜太を語り、瀬戸内寂聴を語り、ドナルド・キーンを語り、獅子奮迅の活躍をしているが、言ってみればそれは博報堂の部長の延長にある活動かもしれない。出版業界がいまや沈滞している中で、志ある個人が奮闘するしか俳句の活性化は難しいのかもしれない。

 そうした中で最も長い企画は金子兜太の交流による。『金子兜太養生訓』『存在者 金子兜太』『語る 兜太』等兜太の著書をまとめるほか、兜太が主宰誌「海程」を終刊させたあと活躍の場として兜太を顧問とした季刊雑誌「兜太TOTA」を藤原書店から刊行する。直前の兜太の逝去のため4号しか続かなかったが、物故同人を編集委員にいただく雑誌は、寺山修司の俳句雑誌「雷帝」以来の企画であり、兜太のうずもれていた記録や記憶有を呼び覚まさせた意味で大きい意義を持った。


『語りたい兜太 伝えたい兜太』

 亡くなる直前の黒田杏子の活躍を眺めておこう。「証言・昭和の俳句」に倣い、兜太評伝式インタビューともいうべき『語りたい兜太 伝えたい兜太――13人の証言』(董振華編・令和4年12月コールサック社刊)が刊行される。「証言・昭和の俳句」が聞き手役とプロデューサが半ばした事業であったのに対し、プロデュース力をいかんなく発揮したものであった。「証言・昭和の俳句」が13人の戦後活躍した作家を黒田杏子が一人でインタビューしたのに対し、この本は、金子兜太を13人の作家たちが語るのである(董振華のインタビューに対し)。そしてその構成から人選までを黒田杏子が助言している。

 「証言・昭和の俳句」が戦後俳句を13人の作家に語らせているのに対し、『語りたい兜太 伝えたい兜太』は戦後俳句を具現化する金子兜太を13の切り口から描こうとしたものである。「証言・昭和の俳句」が錯綜した証言であふれているが、『語りたい兜太 伝えたい兜太』も同じ兜太を語りながらこれほど多様であるということに驚かされるのである。しかしそうした矛盾を含めて、これが戦後俳句であり、また金子兜太なのであった。

 従って、このインタビュー集では、兜太の関係から、父伊昔紅を語り(橋本栄治)、草田男・千空を語り(横沢放川)、皆子を語り(安西篤)、大峯あきらとの対決を語り(宮坂静生)、現代俳句協会の発信・若返りを語り(宇多喜代子)、マーケティングを語り(中村和弘)、「おーいお茶」を語り(いとうせいこう)、朝日文庫を語り(関悦史)、俳句甲子園を語り(神野紗希)、「海程」創刊を語り(酒井弘司)、「兜太 TOTA」を語り(井口時男)、中国との関係を語る(董振華)一方で、こうした兜太の直接の関係以外にそれぞれの語り手の内面を話す。兜太との対話は、それぞれの語り手の内面と兜太との触発によって生まれてくることがよくわかる。

(中略)

 黒田杏子の最後の仕事は、3月11日の「飯田龍太を語る会」での「「山蘆」三代の恵み」の講演であった。翌日12日、宿で食事の後に脳出血を発症し、13日入院した甲府の病院で亡くなった。実は私はその直前に黒田氏から電話を受け、龍太と兜太に関する座談会を開くことに決めたので参加してほしいということであった。結局この取材のためにわざわざ山蘆を訪れたのではないか。いかにも俳句に命をかけ、一心不乱に走り回った結果ついに斃れた人であった。ご冥福を祈りたい。

【渡部有紀子句集『山羊の乳』を読みたい】⑦『山羊の乳』を鑑賞して  星野麻子

  有紀子さんと初めてお会いしたのは、マンハッタン句会という超結社句会でのこと。初めて有紀子さんの選評を聞いた時、選評の的確さ、明確さに驚き、更にユーモアを交えつつ、分かりやすいながらも高潔な語り口に、「こんな凄い人もいるのか」と年下ながら、ほのかな憧れを抱いた。

 今回、句集「山羊の乳」を鑑賞し、先ず装丁の美しさに心奪われた。カバーの淡い紫の色、タイトルと作者名を囲む花の繊細さ。全てに有紀子さんの美意識が現れていて、表紙をみただけで姿勢を正してしまう、そんな句集だと感じた。


  メドゥーサの憤怒のごとく髪洗ふ

  花の夜の解きたる帯に熱すこし

  夜濯ぎの絞りきれざる丈のもの


 どの句も有紀子さんを想像しながら鑑賞した。

一句目、メドゥーサの憤怒とは、何があったのか?穏やかな有紀子さんの激しい一面をみたようでドキドキした。

二句目、何とも艶やかな一句。一句目とは違うドキドキを感じた。

三句目、具体的な物の名は述べず、読者に想像させる。丁寧な暮しぶりが描かれている。


  夢に色なくて墨絵の宝船

  移されて金魚吐きたる泡一つ

  栞紐ひとすぢ青き余寒かな

  はつなつの帆船白のほか知らず

  軽軽と大蛇運ばれ里祭


 以上、特に好きな五句。読んでなるほどと思うと同時に、自分でも見たこと、体験したことであっても、こんな風に詠むことが出来ない。才能があるとは、こういうことなのかと納得がいった。


  永き日の逆さに覗く児の奥歯

  子が星を一つづつ塗り降誕祭

  二階より既に水着の子が来る

  月蝕を蜜柑二つで説明す 

  長き夜の耳繕へるテディベア


 お子さんのことを詠まれた句。どの句も温かい目線。

 この中で四句目の「月蝕を」の句の季語「蜜柑」の使い方に感動を覚えた。お子さんに月蝕を説明するのに、手近な蜜柑で説明する。きっと父親では、こういう発想はしない。手に取るものも、林檎でも、ましてやバナナでもない。蜜柑の季語が動かない。上手いと唸ってしまう。


  朝焼や桶の底打つ山羊の乳


 句集のタイトルにもなっている一句。朝焼の美しさ、山羊の乳が桶の底を打つ音、清々しい牧場の空気。この句を一読した時に、猛烈にこの句を体験したくなり、早朝の牧場に足を運んだ。有紀子さんの清廉さが詰まったような一句。視覚、聴覚、嗅覚、皮膚感覚。あらゆる感覚を一句の中におさめている。素晴らしい句というのは、人を掻き立てるのだと感じた。

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【執筆者プロフィール】
星野麻子
1971年 東京生まれ
2019年 香雨入会
2022年 香雨賞受賞、香雨同人

芸術論の出来?  竹岡一郎

1.

芸術論の出来をアウシュビッツの林檎が隔つ

 櫻井天上火


  「芸術論の出来」とは何だろう。先ず詩作があり、その積み上げられた詩作の遠い延長線上に、いつの間にか副産物として論が出来るなら良い。先ず書かねば明日を、いや今日を生きられないという切迫した思いがあり、そして書く。そこには芸術論も方法論も無い。

 「暴力の核」から、つまり己が深奥の地獄から、或いは暴虐さの中に未だ昏睡している神性から、詩は飽和して湧きのぼり立ちあがる。そこに傲慢さが介入する余地などはない筈だ。それ以前に正義や理想が介入する余地も無い筈だ。つまり「()」が入る余地はない筈だ。例えば餓え例えば凍え例えば果てしない殴打例えば惨たらしいトラウマから生き残るための詩作の衝動があるばかりだ。

 これに対比するものとして、ナチスの「退廃芸術展」が挙げられよう。エルンスト、クレー、カンディンスキー、シャガール、多くの優れた芸術家の絵画が、退廃の刻印の下に展覧され、絵画の横には嘲笑の文句が書かれ、晒された挙句に焼かれた。芸術に対する傲慢さが極まった結果だ。

 外山一機の評論を思い出す。かつて外山が数多の評論中で繰り返し「傲慢さ」という語を使い、あらゆる種類の傲慢さに用心深く目を配っていたのは、こういう意味でもあったか。外山の様々な評論を読むたび、何処に「傲慢さ」という言葉が使われているか、彼が何を以て「傲慢さ」と観ずるか、そこに一番注意していた。

 なぜなら傲慢さこそが陥穽であり、傲慢さが一定限度を超えた時、詩には一瞬にして鬆が入る。鬆は密かに詩を侵蝕し、詩を構成する語はいずれ交換可能の緩さに堕す。事に依ると一行の存続さえ危うくなる。そして私は、鬆の入ってしまった詩については論ずることが出来ない。

 若きヒトラーは、ウィーン美術アカデミーの第一次選考は突破しているから、客観的に正当な評価は受けている。二度受験して二度とも落ちた理由は「肖像画が少なかった(又は未提出)」と言われている。自信家だったヒトラーは、不合格に納得がいかず、アカデミーに直談判、もちろん不合格が覆る訳はない。(同じ頃、合格したのがエゴン・シーレだ。)

 その時の「屈辱」が(ヒトラーが勝手に「屈辱」と思い込んだだけだが)、後の「退廃芸術展」という傲慢極まる反撃と他者の芸術への軽蔑に繋がり、ウィーン美術アカデミーも徹底的な弾圧を受けた。(エゴン・シーレの絵も無論「退廃芸術」扱いされた。)

 己が正義を決して疑わず、内省も自己批判も惻隠の情も無い、自分のプライドだけが後生大事な、そういう者に大衆が権威を与えると、芸術はどれほど凄まじい被害をこうむるかという例である。

 「芸術は自分の信じるものでなければ堕落、腐敗、退廃である」とする糾弾が、「退廃芸術展」だった。炬火の振りをして焚書坑儒を望む者達は、芸術それ自体よりも、己が名誉や理想や正義の方が、要するに己が傲慢さを保持し続ける事の方が、(他者の、芸術における尊厳をどれほど貶めようが)遥かに大事なのだ。

 落ちている林檎を拾うだけで罪とされた強制収容所の事例を聞いた事がある。では、あらゆる糾弾はアウシュビッツに通じる危険を孕むのか。いや、これは正確ではない。傲慢さから生じる狭量なる正義や理想は、アウシュビッツへと通じるのか、と言うべきだろう。

 アドルノの「アウシュビッツのあとで詩を書くことは野蛮である」という有名な言葉を思う。掲句は、「芸術論」という精神の高みにまで洗練された領域にしてなお、「効率的な大量殺人」という西洋文明の極北にして野蛮の極致(それは必ず正義と理想の主張を伴い、逆に惻隠の情は欠如している)に包含されてしまう、その危険を、「アウシュビッツ」という比喩によって表わしたものか。

 (いや、アドルノの言葉を、私自身はそんなに手放しに肯定してはいけない。)


 アウシュビッツに対応して、ヒトラーの演説、如何に効果的に観客を煽動するかという演出がある。幾つものスポットライトを空に向けて光の柱を演出したのはナチスが初めという。現在でもロックコンサートには良く使われている。簡単で且つ非常に効果が高い演出だからだ。人を感情的に煽るには効果が高いのであって、人の理性に対しては勿論マイナスに働く。そしてあらゆる怨念は感情に乗るのであり、理性に乗るのではない。人を感情的に煽るとは、即ち人から怨念を引き出す事、怨念に(表に出ても容認されるような)正当な理由を与える事だ。

 (更に演出次第では、演説を全て語る必要すらない。或る単語を言う。スポットライトと大音響を挟む。又新たなフレーズを叫ぶ。又スポットライトと音楽。演説は、観客の想像力によって完成する。各々の観客が勝手に補完し有難く妄想した演説は、観客が演説の暗部を解釈し理解しようとすればするほど、呪詛を観客に喰い込ませる。観客は自らの思考を以て、呪詛を作り出し、自縛される。そして呪詛というものは例外なく、作った者へ、いつか必ず返る。此の場合は、演出者が観客を巻き込んで作る呪詛と言えるだろう。)

 (同じような効果の例として、80年代の大学の立看板を思い出す。新左翼の生き残りが大事にしていたその看板は、あちこち剝落していて、全体としては何が書いてあるか分からない。しかし妙な懐かしさがあった。彼らの果たせなかった呪詛の懐かしさ、過去の栄光を見つめている懐かしさだ。その懐かしさは、演出の効果に過ぎないのだが。)

 (バブル時代とは、その実体よりも相当誇大な泡だったのだが、その泡の儚さは、もしかしたら60年代の革命の夢の儚さを或る部分で受け継いだのかもしれない。そんなことを考えさせる看板が、バブル時代の片隅に崩れつつ置かれている、その哀れさが感慨深かった。)

 (しかし私は看板それ自体よりも、看板に陶酔している彼の方に、むしろ興味が湧いた。その立看板は、既に呪詛の力を失くした抜け殻であり、その抜け殻を保存している彼は抜け殻と同化して、或る廃墟と化しているようだった。しかし、廃墟自体は自らが廃墟だとは気付かない。気付かないからこそ、くずおれながら未だに建っている。更地にもならず、従って新規巻き直しも出来ない。)

 (だが、その抜け殻の呪詛は、廃墟が壁や土台だけは保っているように、呪詛としての外形だけは保っていて、未だに何処かに伝播し、廃墟の増殖をそそのかしているのかもしれない。抜け殻としての呪詛は、己が正義への偏執と、その結果として惻隠の情の欠如を伴って、70年代のあさま山荘事件や連続企業爆破事件として顕現した後も、更に数多の通り魔事件として噴出しているのかもしれない。71年に早逝した高橋和巳が、せめて後十年生きて、更なる発言を築き続けていたら、もしかしたら新左翼過激派の暴走は無かったかもしれないと、「わが解体」を読みながら夢想する事がある。)

 ヒトラーの演説は、言語による勝負ではなく、視覚と聴覚を刺激する演出だ。詩人がそれをやったらおしまいである。なぜなら、詩人は一行に命を懸ける。明瞭なる一行が詩人の勝負である。俳人、歌人なら、この意味が良く判る筈だ。演出をするのは、観客を高揚させる舞台監督でなければ、例えば人を煽ってナンボの活動家であって、一行を地道に積み重ねてゆく詩人ではない。文学とは演出効果ではないし、煽動でもない。自分の正義や理想を傲慢に振りかざすための便利な道具でもない。そこを弁えているかどうかが、文学者と煽動者の最大の違いだろう。


2.

芸術論の出来をアウシュビッツの林檎が隔つ

 櫻井天上火


 掲句には「林檎」の語が置かれる。創世記に登場する禁断の果実、人間から「原罪」を引き出した物だ。(実際に林檎であるかどうかは定かでない。無花果の説もあり、葡萄の説もある。しかし、欧米と日本では林檎と見做すのが一般的であるようだ。)

 この「原罪」とは全てのトラウマの(原因ではなく)結果と結び付いて(結果の理由付けとして)立ち上がるものだろうが、トラウマに強迫される者がなぜ書き続けるのか。取り敢えず今日を生きのびる為だろう。何としても生きのびなければならない。そういう者にとっては、詩作とは、そのサバイバルを支える衝動の結晶だ。今、衝動と言った。これを広義の「怨念」と言い換えても良い。

 私が初めてパウル・ツェランの詩を読んだのはもう40年近く前、まだ学生の頃で、その頃勉強したドイツ語も殆ど何も覚えていない。

「ドイツ語もやつたが株式会社と金という言葉しか覚えていない」(西脇順三郎「最終講義」)

 詩集「豊饒の女神」の此の箇所ばかり浮かんでくる始末だ。だが、ツェランの詩で未だに思い出す箇所がある。


あなたがまだそうであるものが、

ななめに身をおこす。

あなたは高度を

得る。

(パウル・ツェラン「迫る光」飯吉光夫訳、思潮社、1984年)


原詩は

was du noch bist,legt sich schräg.

du gewinnst

Höhe.

 (Shurkamp Verlag版,1971年)


逐語訳してしまうと

was du noch bist,legt sich schräg.

(何か)(あなたが未だ居る),(斜めに横たわっている)

du gewinnst

(あなたが獲得する)

Höhe.

(高さ)


 ツェランの詩で難しいのは、例えば

legt sich schräg.

をどう訳せばよいのかという処だ。

legen sich(横たわる、〈勢いが〉衰える、〈嵐・風が〉静まる、〈霧が〉覆う、〈心配事が〉のしかかる)

schräg(斜めの、傾斜した、対角線の、筋交いの)

 legenがlegtに変化するのは三人称単数か二人称複数の時であり、du(あなた)という二人称単数の場合はlegstになる筈で、となるとlegt sich schräg.「斜めに傾いて横たわる」ものを、複数のあなた(ihr)または彼(er)か彼女(sie)あるいは物と化したそれ(es)と読んでしまう。

 wasは英語のwhatに当たる関係代名詞だから、もっと単純に「あなたが未だに居るところの何か」「あなたが未だにそう在るところのもの」が「傾いて横たわる」と読んで良いのかもしれない。しかし、あなたから派生する「数多のあなた方」つまり「収容所の彼、彼女、そして物と化した死体」が、どうしても脳裏に浮かんで来てしまう。legen sichの別の意味として「覆う」「のしかかる」「衰える」「静まる」を想起すれば猶更である。

 「一人のあなたが未だに在る処である何か」が即ち「斜めに傾ぎつつ横たわり静かに衰えている者達」と重なり、「あなた」は「その者達」をいわば放射し、同時に「その者達」の収斂の結果として「あなた」がいる。

 生きのびた自分とは筋交いに在る死者達、或いは斜めに倒れかかりながら苦しんでいるとしか脳裏には浮かばない者達、収容所における時間が未だ終わっていないツェランの絶望と、それを超えようとする「あなた」、同胞の斃れかかる斜めの姿勢がそのままあなたの斜めに起き上がる姿勢に置き換えられて、あなたという存在は人間を指しているのか、それとも私たちを収容所から救わなかった神を指しているのか、あなたは(私がこいねがうように)勝利と共に高さを獲得する。

 収容所の沈黙から「あなたが獲得する高さ」に至るまでの、この恐るべき広がり或いは距離を三行の中に含んでいて、これは恐らく意訳しか出来ない。飯吉光夫の訳は意訳の要素を多分に含んでいると思うが、ツェランの生きている限りは叶わないであろう希みを、日本語しか分からない読者に何とかして伝えたいと願うなら、このような意訳しか方法が無いだろうと思う。

 訳詩と原詩の全編及び逐語訳を挙げておく。


この出立も

解きはなたれる。


光冠(コロナ)とともにうたう

船首の巻き揚げ機(ウインチ)の歌声。


夜明けの舵が語りかけることば ―

ちぎられてめざめたままの

あなたの静脈は

縺れをとかれる、

 

あなたがまだそうであるものが、

ななめに身をおこす。

あなたは高度を

得る。

(パウル・ツェラン「迫る光」28-29p、飯吉光夫訳、思潮社、1984年)



FREIGEGEBEN auch dieser

(解放された)(~もまた)(この)

Start.

(≪英語の≫出発)


Bugradgesang mit

(船首 車輪 歌) (~と一緒に)

Corona.

(≪英語の≫光冠)


Das Dämmerruder spricht an,

(薄明  舵)(話す)

deine wach-

(あなたの)(目覚めている)

gerissene Vene

(引き裂かれた)(静脈)

knotet sich aus,

(ほどく)


was du noch bist,legt sich schräg.

(何か)(あなたが未だ居る),(斜めに横たわっている)

du gewinnst

(あなたが獲得する)

Höhe.

(高さ)

(Paul Celan,Lichitzwang,17p,Shurkamp Verlag,1971)


 冒頭のfreigegeben(〈奴隷などを〉自由の身にする、解放する;〈捕虜を〉釈放する、の過去分詞形)から想起されるのは、収容所からの解放のありさまであり、それを出航に喩えていると読んだ。全体に光輝に満ちており、だからこそlegt sich schräg.を「ななめに身をおこす。」と訳す必要があったのだと思う。身を起こすと観たのは、ツェランの希求に訳者が寄り添った結果であろう。

 この出立は、収容所内で亡くなった死者達のものだ、と思う。そのようにツェランは書いたのではないか。なぜなら、生き残った者は解放に際して、このような光は持ち得ない筈だ。只ひたすらの放心があるばかりではないか。息をしている、周囲の広がりをただ見ている、それが精一杯ではないか。声も出ない、涙も出ない。涙は二度と出ないかもしれぬ。


3.

芸術論の出来をアウシュビッツの林檎が隔つ

                     櫻井天上火


 掲句においては「芸術論」に対峙して「アウシュビッツ」と置いている。だが、ユダヤ人ではなく日本人である者は「広島」「長崎」「シベリア抑留」の語は使い得ても、「アウシュビッツ」の語は使い得るだろうか。つまり、掲句で用いられる「アウシュビッツ」は正確には「アウシュビッツ的なるもの」であり、実際のアウシュビッツでもビルケナウでもない。

 だから、この「アウシュビッツ」を他のあらゆる惨劇に、更に、無数の個人的なアウシュビッツに言い換えても良いのだろうか。実に乱暴な言い方になるが、例えばネグレクトに言い換えても良いのか。なぜなら幼児にとっては、ネグレクトは極私的なアウシュビッツだ。

 ネグレクトと言えば、私が知る身近な例では真っ先に関悦史が浮かぶ。彼はなぜ書き続けるのか。心がネグレクトのトラウマから生きのびる為だろう。

 関悦史がその第一句集の中でツェランについて詠った句を思い出す。ツェランが最期、セーヌ川に入水した事を踏まえた句だ。


流れゆくツェランの靴の黒ゆたけし    関悦史


 「ゆたけし」が皮肉である。その黒が寂しいとか悔しいとか悲しいとか惨いとか言ってしまえば、そこで詩は終わりだ、というよりは、「ゆたけし」と肯定しなければ生きてゆけない関悦史の心情、それは痩せ我慢と言ってしまうにはあまりに切実だ。


多くの死苦の引掻傷(エクリチュール)のある夏天      関悦史


 「引掻傷」に「エクリチュール」とルビをつけたのが関悦史の内省のあり方と観た。このエクリチュールを、社会的な「書き言葉」と個人の「文体」の間にあるもの、「個人の内面と外界の現実との軋轢の結果であるもの」、更に「その軋轢から生じる生きざま、そして運命に対する姿勢」と解釈する時、掲句の「引掻傷」とは、国家でも政府でも社会でもない一個人、歴史の繰り返す悲惨さに対して徹底的に無力でしかない一個人が、その希求を天に刻もうとする痕跡か。

 エクリチュールである引掻傷を特定するフレーズは、「多くの死苦の」だ。自らの経験から生じる惻隠の情を以て、他者の多くの死苦に思いを馳せる。(そうしてこそ、経験は初めて真の経験となろう。)それら他者の死苦が、僅かに引掻傷としてでも、天に残れ、と希む作者である。夏天は容赦なく炎えているから、引掻傷は忽ち燃え尽きるだろう事も、作者は経験から了解している。自らの怨念を、文学によって凝視し、曝し、夏天の濾過を受け入れる覚悟、と掲句を読む。

 怨念を直視する処から、地獄がその引力はそのままに内実は光と化す奇蹟が、いや、必ずあるとは言えない、奇蹟とは殆ど無いものだから。だが、怨念を他者に向けず、代わりにエクリチュールを以て、怨念それ自体を夏天の光と化すための、言い換えれば、怨念が高度(Höhe)を得るための苦闘。

 サバイバーは、時に自己乖離し、時に自嘲し、時に自傷し、時に自らの心さえも自分とは関わりない物のように物象化しなければ、生きてゆけない。あらゆる希死念慮に抗して、何が何でも生き残る事。

 アウシュビッツとネグレクトを同等に論ずるのは、アウシュビッツをあまりに矮小化していると思うだろうか。もしもそう思うのならば、逆に、ネグレクトをあまりにも矮小化しているのだ。魂の危機という点において、それは同等である。詩人が寄り添うべきは最大公約数的な悲劇にではない。あくまでも、独りの個人的な悲劇であり、ツェランの詩を読んで先ず思いを馳せるのは、アウシュビッツという外界の膨大な悲劇ではなく、その中から生き残って来たツェランという一個人の内面の絶望である。そこに先ず寄り添わねば、どれだけアウシュビッツ批判をしたところで、それは政治家あるいは社会活動家の最大公約数的な批判だ。

 (独りの死にゆく者の目の光、その光が徐々に失われてゆくその過程を、反芻する記憶の中で凝視し続け、時間を捲き戻そうといつまでも試みる事、それが生き残った者の僅かに書き得る誠実さであるならば。)

 (死にゆく者が抱く、いつか自分たちの神が復讐を遂げてくれるという希み、そしてその死後の怨念を、ナチスが如何に無化しようとしたか。収容所における、死者を物として徹底的に再利用しようとする冒瀆は、ナチスが死者達の怨念から全力で目を逸らそうとした結果ではないか。だが、死者の怨念を無化する事など、どれほど発達した科学力にも出来はしない。)

 そして詩人であるならば、用心し忌避すべきは、最大公約数的な見方ではないか。なぜなら、それは「個人を、一つの群に括って糾弾する事」へと直ぐに繋がるから、ヒトラーの例を挙げれば、民族浄化というおぞましさへと直結するからだ。だからこそ、ツェランの詩は極めて個人的であり、いかなる政治性からも能う限り遠く離れている。ツェランの詩に悉く「題」というものがない理由も、そこにあるのではないか。


「超弩級の軍艦が溺死者の(ひたい)にふれて砕け散らない限り、正義について語っても無駄である。」(ツェラン『逆光(1949)』、「パウル・ツェラン詩論集」26p、飯吉光夫訳、静地社、1986年)


 ツェランの此の言葉を、私は何十年も考えている。詩が、(それがサバイバーの書くものであればあるほど)、正義について語れない理由であり、糾弾者の資格を持ち得た筈のツェランが、糾弾の代わりに詩を選んだ理由でもあろう。

 正直に言おう。アドルノの「アウシュビッツのあとで詩を書くことは野蛮である」、この言葉について解説したものをどれだけ読んでも、私はアドルノの意味するところが分からない。アドルノは「アウシュヴィッツ以降、文化はすべてごみ屑となった」とも言っている。「詩を書くこと」「文化はすべて」、この最大公約数的な言い切り方は、煽動的な演出であるとさえ感じる。

 アウシュビッツ以降ドイツ語で詩を書き続けたツェランの前で、アドルノは此の言葉を言い得るのか。慣れ親しんだ言語で、それがナチスの用いた言語であっても、その言語を用いて詩を書き続けること以外に生き残る術がないツェランの前で、「詩作が野蛮だ」と言い得るのだろうか。「文化の発達が、虐殺に関わる効率と表裏一体になっている」という言訳は、「詩作が野蛮である」と断罪する理由にはならない。アドルノの乱暴とも思える言い切りに、どうしてもある種の傲慢さを、そして言訳と取り繕いを嗅いでしまう。

 だが、アドルノの此の言葉は、どうやら一人歩きしてしまった感が否めないとも思う。アドルノはもっと大雑把な意味で言っただけなのかもしれない。アドルノの言う「詩」は、現在われわれが認識するような意味ではなく、もっと安穏なるもの、その極北さえも戦前のシュルレアリストのそれであるようなものを指していたのかもしれない。アドルノの言葉に対して好意的に解釈すればそうなる。

 だが、現在我々が、いや、我々などという誤魔化しの連帯を思わせる人称はもういい。サバイバーである私が認識する詩は、もっと切迫した、映像でも音楽でも舞台でも表現できない事、直ぐに散り散りに破れてしまう言葉を、何とか形ある一行に固めて、白紙の中にでも紛れてしまう一滴の叫びを、掬い上げようと試みるもの。

 置き棄てられた物体としての己、例えば飢えと寒さの美しい雪の上で果てしなく撲られている最中、脳裏のレコードに針を落とせば、忽ち心は田園交響曲と化して月夜の高みを漂い、遥か地上の惨めな無抵抗な少年の肉体、もはや物体に等しいそれを冷酷に計測しつつ、音楽が果てればその肉塊に否応なく戻される時を密かに怯えて、だがその肉体自身もいずれ暴力を潜在させ、如何なる正義も理想も画餅としか認識しなくなる。従って如何なる糾弾にも興味が持てなくなる。なぜなら胸底に真に望むのは正義でも理想でも糾弾でもない、直截な復讐であり、その復讐の血泥への希求を如何に滅ぼし切るか、それがサバイバーの日々の課題だからだ。

 だが、単に生きのびる為だけではない、光を得る為、孤独の只中でいつか、死者の救済の為には不可欠な高度を得る為に、地上の復讐を諦め切るまで先延ばし続け解析し解体し続ける事、「復讐するは天にあり」の戒めを、日々、心の皮膚に刃物で、ケロイドと化すまで刻み続ける事、それは即ち地上における己が実体を失くす事であり、死者と、そして神との対話を続ける事でもある。神はともかく、死者達が対話のために昼夜集まって来る、その重量に耐え続ける日々。

 地上に生きのびた者が、地上の幸福を、心のどこかで絶えず思い切る、その矛盾を神に対して曝す事こそが詩であると、仮に詩をそういう暴露、自らの血と内臓と骨すなわち、地獄にある筈の無い光、を曝す事であると定義したなら、詩作とは野蛮の領域など遙かに超えて自らの「暴力の核」との、削られゆく鎬の火花だ。

 確かに、詩作とは野蛮などという言葉では生ぬるい。今日をそして明日を生き残り続けようとする衝動、林檎としての原罪意識、その交合から生じる詩作は。

 (関悦史が私の句について評した言葉を思い出す。曰く、「御霊信仰だ」。私は一寸笑った。関悦史の評言が身も蓋も無く或る的を突いたから、思わず自嘲したのだ。だが、御霊信仰のもう一歩先に行きたい、と本当はいつも願っている。御霊が祟り神ではなく、誠の正神にまで高まってゆく、その過程を目撃し続けたい。)


神でないものが祈りを聞きにけり   櫻井天上火


 この句は神というものに対する絶望というよりは、祈りという行為に対する絶望であろう。その気持ちはわかる。だが、それでも私は毎日祈っている。なぜなら、私はまだ(概念ではなく実在としての)光を、如実には知らない。そして知りたいと思わぬ日は無いからだ。


 この句の対極にあるのが

天使は斥力を凝視するひたすらのくれなゐ  櫻井天上火

であり、この句については週刊俳句5月28日号に於いて既に書いたので、もう書かない。


 この二つの句の間に有るのが、

昇らないその七をどこに隠すのか  櫻井天上火

であろう。

 「すべてを常に七と三とのめでたい数で所有していた高貴な一族が、その紋章である星の光芒の十六の数に負けて、遂に亡び去った遠い昔の遺跡」(リルケ「マルテの手記」252p、岩波文庫、望月市恵訳)の七、ド・ボオの一族の七である。


7は今ひらくか波の糸つらなる   鴇田智哉

 かつて鴇田智哉の「凧と円柱」を論じた時に、私は次のように書いた。


 《「7」、即ち聖性が「今」、即ち、過去でも未来でもない一点の状態で「ひらく」、つまり溶け広がり、啓示される。同時に、「波の糸つらなる」という認識が顕われる。全ては「波動でもあり粒子のつながった状態である糸でもあるもの」が連なっている、と認識されている。ここに作者が可能な限り正しく世界を認識しようとした一つの結果を見出すのだ。》


 この句を得た時、鴇田は或る神性を垣間見たのだ、と今では思う。

 鴇田の句と天上火の句とで明らかに違うのは、算用数字か漢字かという事だ。漢字の七ならば、欧米における7ではない。日本の七、少なくとも漢字圏における七だ。

 仮に七を聖性の七だとすれば、「昇らない七」とは、未だ錬成されていない状態の七ではないかと思う。天上火においては、己が裡なる聖性は、純化した顕現を未だ起こさない、と感じているのだろう。そして「どこに隠すのか」と、七の居場所を定めあぐねている。

 (日本には「七代祟る」や「七人みさき」などの不吉な七がある一方で、「七倶胝仏母」「過去七仏」「無財の七施」等の究極の聖性の言葉がある。)

 七は六とは違い、不安定でありながらも強い数であるから、矛盾を含むのではあるまいか。聖性と魔性、恵みと呪い、そういう表裏一体のもの、対極にあるものが表裏一体であるのは、一神教ではなく多神教である東洋の特徴だろう。


 私は冒頭の掲句をすっかリ置き去りにしてしまっただろうか。


芸術論の出来をアウシュビッツの林檎が隔つ


 この林檎が出来不出来を隔て選択する、という意味ではあるまい。一方に出来不出来を云々される芸術論がある。もう一方に芸術論など考える余地が無い切迫した詩がある。その間を隔てるのが「アウシュビッツの林檎」と解釈する。罪の果実、智慧の果実、アウシュビッツにおいては切迫した餓えと、ナチスが無辜の民たちへ不当に刻印した罪と関わるもの、だが林檎自体はどんな煽動も糾弾もしない。

》週刊俳句 Haiku Weekly: 竹岡一郎 天上火という始点 櫻井天上火を読む(23/5/28)

【連載】大関博美『極限状況を刻む俳句 ソ連抑留者・満州引揚げ者の証言に学ぶ』を読む➀

  BLOG「俳句新空間」での長大な連載をもとに、大関博美『極限状況を刻む俳句』(コールサック社)が刊行されたところから、本BLOGで何人かの方に解説・感想をお願いした。折しも、終戦記念日を控えて、タイムリーな本となっているように思う。戦争とは何かを今一度考えてみたい。

 第1回は鈴木比佐雄氏。コールサック社代表、詩集、詩論集、評論集など多数。最新評論集は『沖縄・福島・東北の先駆的構想力 ―詩的反復力Ⅵ(2016―2022)』。


 解説 ソ連抑留者の極限状況を後世に伝えることは可能か

大関博美『極限状況を刻む俳句 ソ連抑留者・満州引揚げ者の証言に学ぶ』

                 鈴木比佐雄


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 本書『極限状況を刻む俳句 ソ連抑留者・満州引揚げ者の証言に学ぶ』を執筆した大関博美氏にとって、ソ連抑留者であった父は子供の頃から大きな謎であった。その謎を聞いてみたいと願っていたところ、六十二歳で亡くなってしまった。父の背負っていた極限状況の一端でも認識し、父の重荷を娘として理解したいという胸に秘めていた課題を直接聞く機会を、大関氏は失ってしまった。しかしその代わりに、まだ存命中の父母の世代のソ連抑留者・満州引揚げ者たちに取材を試みその人物像と接し、その著書を読むことによって、最もアジア・太平洋戦争で傷ついた世代の思いに肉薄し、その証言を後世に残すことを構想した。そのことに一途に邁進しようとする純粋さ、熱い志を私は草稿・構成案を拝読し感じ取った。

 大関博美氏は一九五九年に千葉県袖ケ浦市に生まれ、今は隣接する市原市に暮らす現役の看護師であり、俳句結社「春燈(しゅんとう)」に所属する俳人だ。数年程前に、コールサック社が刊行した東北の俳人の照井(てるい)(みどり)氏と永瀬十悟(ながせとおご)氏の句集やエッセイ集について、大関氏から問い合わせがあり、その際に本書の出版についても相談があった。早速その下書き的な草稿を送って頂いて拝読したところ、まだ修正・加筆が必要な個所が多くあったが、誰よりもソ連抑留者・満州引揚げ者の悲劇の歴史について俳句を通して解き明かし、その教訓を後世に伝えていきたいという強いモチベーションを感受することができた。

 私は現在の文芸誌「コールサック」(石炭袋)を一九八七年に刊行したが、その創刊号に詩を寄稿してくれた詩人に、シベリア帰りの鳴海(なるみ)英吉(えいきち)氏がいた。鳴海氏はソ連抑留者であり、抑留体験を一〇八篇の詩に綴った詩集『ナホトカ集結地にて』で壺井繁治賞を受賞した詩人で、日蓮宗不受不施派の研究者でもあり、そのソ連抑留体験や民衆の不屈の精神について亡くなる間際まで執筆し続けていた。鳴海氏は亡くなる二〇〇〇年まで十三年間も欠かさず寄稿し「コールサック」の文学運動を支援してくれ、私にとって父のような詩人であった。「コールサック」が出るたびに、自宅の千葉県酒々井(しすい)町まで出かけて作品を論じ合う交流を続けていた。その際には中国戦線での出来事や鳴海氏が抑留された「ツダゴウ収容所では零下三十度の冬に鉄道敷設作業などによって千人以上の戦友たちが五百人も病死・餓死をした」という、凄まじい体験談を聞かせてもらった。またその冬を越えるとロシア人との人間的な交流もあったことを知らされ、ノモンハン事件で孫を失くした老婆のことを記した名作も残している。私は鳴海英吉氏が二〇〇〇年に亡くなった後に『鳴海英吉全集』を企画・編集し、多くの鳴海氏を愛する人びとのご支援で刊行することができて少し役目を果たすことができた。大関氏と同様に私も父が六十歳半ばで亡くなり、中国戦線の戦争体験を聞く機会を逸してしまった。そのこともあり大関氏が父上から聞けなかったことを、まだ健在な抑留者・引揚げ者から取材し、その著書から学び一冊の書籍にまとめたいという志は、称賛に値する。実際に行動に移して本書の原稿を最後まで執筆し推敲をやり遂げたことは、敬愛する亡き父との無言の対話がなせる粘り強い意志力だったろう。


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 本書は序章「父の語り得ぬソ連(シベリア)抑留体験」、第一章「日清・日露戦争からアジア・太平洋戦争の歴史を踏まえて」、第二章「ソ連(シベリア)抑留者の体験談」、第三章 「ソ連(シベリア)抑留俳句を読む」、第四章「戦後七十年を経てのソ連(シベリア)抑留俳句」、第五章「満蒙引揚げの俳句を読む」、「全章のまとめとして」から構成されていている。全体を通して大関氏の父母の世代の苦難の経験をした体験者への深い畏敬の念が根底にあり、その想いが重たい口を開かせて貴重な証言を引き出していったと考えられる。また「ソ連抑留者・満州引揚げ者たちの極限状況を俳句で後世に伝えることは可能か」という大関氏の問い掛けが根底にある。戦争の悲劇が戦後も続き、元兵士たちを劣悪な環境で危険な労働に駆り出し死に至らしめ、幸運にも帰国した抑留者たちも生涯にわたって収容所体験がトラウマとなり心身を苦しめた。そんな大関氏の父のようなソ連抑留者や満州引揚げ者たちが身をもって示した平和の尊さを、本書にまとめたいと願ったのだろう。

 序章「父の語り得ぬソ連(シベリア)抑留体験」は本の成立過程を率直に語っていて、その中で紹介されている左記の俳句は、大関氏が父という存在者の内面に次第に肉薄していく道筋を指し示しているかのようだ。


シベリアの父を語らぬ防寒帽

抑留兵の子である私鳳仙花

三尺寝父の背の傷ただ黙す


 なぜ「防寒帽」を父は大切に保存していたのか。なぜ「抑留兵」と父は呼ばれたのか。どうして働き者の父の背に深い傷が刻まれているのか。その答えを大関氏は探求していく宿命を持っていると感じさせてくれる。


 第一章「日清・日露戦争からアジア・太平洋戦争の歴史を踏まえて」では、アジア・太平洋戦争の前に、日本が遅れた帝国主義国家になった日清戦争・日露戦争とは何であったのか、そのことが結果としてアジア・太平洋戦争を引き起こしてしまったのであり、その発端となった一八九四年の日清戦争からの歴史を問うている。その章立ては次のようになっている。「一 はじめに」、「二 日清戦争から日露戦争へ」、「三 日露戦争」、「四 日露戦争から満州事変へ」、「五 第一次世界大戦へ」、「六 ソ連(シベリア)への出兵―七年戦争への道」、「七 満州事変から満州建国まで」、「八 日本の国際連盟の脱退」、「九 満蒙開拓と昭和の防人」、「十 大陸の花嫁について」、「十一 日中戦争への道」、「十二 ノモンハン事件(戦争)から第二次世界大戦・太平洋戦争へ」、「十三 第一章のおわりに」。このように大関氏は、五十八頁を割いて世界史的な観点で日本とソ連・ロシアとの悲劇的な半世紀わたる歴史を辿っていく。その歴史観は特に加藤陽子氏の『それでも日本人は「戦争」を選んだ』を参考にしている。その加藤氏の世界史的歴史観である《「日清戦争」がイギリスとロシアという帝国主義国家の代理戦争になっていたと世界史的な解釈をする》こと、また《日露戦争がドイツ・フランスとイギリス・アメリカの帝国主義時代の代理戦争であったこと》だという解釈を大関氏は参考にして、清国の領土を奪い国家予算の何倍もの賠償金を課していく帝国主義戦争に日本が積極的に加担していく危うい存立基盤を浮き彫りにしている。そのことが結果として大きな禍根を残し、悲劇の結末を迎えていくことを暗示していくかのようだ。一部の保守政治家たちなどが日清・日露戦争は正しかったと主張する言説のレベルは、歴史とは多様な解釈が可能であることは許容できるが、今後の歴史を創り出していく観点からは、大きな過ちを繰り返す歴史を美化する危ういナショナリズムを絶対化する歴史認識だろう。それ故に大関氏は日清・日露戦争の他国の領土を奪い取るなどの勝利感覚が、その後のアジア・太平洋戦争に三百万人以上の日本人の戦死者とソ連抑留者・満州引揚げ者などを生み出した悲劇の要因であるという、痛切な歴史認識を再確認するためにこの第一章から始めたのだろう。


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 第二章「ソ連(シベリア)抑留者の体験談」では、山田治男(やまだはるお)中島裕(なかじまゆたか)の二人から大関氏は直接取材をして、ソ連との戦闘、降伏後の経緯、シベリアの収容所での出来事、抑留者の尊厳などを記し、また日本兵を強制労働させるソ連の国際法違反を伝えている。

 第三章 「ソ連(シベリア)抑留俳句を読む」では、小田保(おだたもつ)石丸信義(いしまるのぶよし)黒谷星音(くろたにせいおん)庄子真青海(しょうじまさみ)高木一郎(たかぎいちろう)長谷川宇一(はせがわういち)川島炬士(かわしまきょし)鎌田翠山(かまたすいざん)の八名の経歴や俳句を紹介している。その中で八名が特に生存の危機に直面した壮絶な体験の中で心身に刻んだ俳句と、その句への大関氏の評言を引用する。

俘虜死んで置いた眼鏡に故国凍る  小田保

 眠っている間に死んだのだろうか、枕元に置かれた眼鏡は霜で凍り付いている。それはまるで、夢に見る故郷まで凍らせてしまっているようである。同じ部隊で戦い、厳冬の夜は故郷の雑煮のこと、牡丹餅のことなどを語り合った仲間である。

秋夜覚むや吾が句脳裡に刻み溜む  石丸信義

 ソ連側は、抑留中の真実を漏らすまいとしてか、抑留者の結束を恐れてか、全ての文書やメモさえも没収した。文書やメモを持っているのが見つかると、帰還が遅れるという噂もあった。句帳を没収されてからの秋の夜長、目が覚めるとひたすら自分の句を暗唱し、脳裡に刻み込んだのである。

死にし友の虱がわれを責むるかな  黒谷星音

 抑留一年目の冬、作業大隊五〇〇名のうちの半数が亡くなり二〇〇名余となり、残った者は絶望の日々を送った。死期は、寄生する虱が一番良く知っている。死体からぞろぞろと虱が離れるからだ。生き残った者は、その虱に責め立てられているのである。

死もならぬ力がむしり塩にしん  庄子真青海

 厳しいノルマと重労働に体力も消耗し、死を意識する毎日ではあるが、弱り切った肉体は生きたいと要求するように、塩にしんをむしり食うのである。

炎天を銃もて撲たれ追はれ行く  高木一郎

 一九四六年七月一日、ダモイと騙され貨車に乗りキズネルで降ろされた。日本にもみた朝顔が遥か遠く離れたロシアの地キズネルにも咲いている。/ひとしきり朝顔に心安らいだのもつかの間、キズネルよりエラブカへ徒歩で三泊四日の移動をする。酷暑の中、水も飲めない行軍である。

汗の眼を据えて被告の席に耐ふ  長谷川宇一

 《「冷然受刑」(昭和二十四年六月から八月)/八月になると私は予審に呼び出された。私の罪名は、「資本主義援助」というソ連国家反逆罪だそうだ。/(略)向かって右側の裁判官が立って読み上げた。(略)「第五十八条第四項の資本主義援助」で求刑二十五年というのである。(略)ソ連の将校が何か言うことはないかというから、「第三国人である私のソ連外でしたことで罪に問われるのは、徹頭徹尾不承知であったと記録をしておいて貰いたい。」と言った。》(長谷川宇一の手記より)

生くべきものは生くべきままに蓼の花  川島炬士

 《ハバロフスクの監獄生活で毎日三十分くらい監房からひき出されて、檻の中の熊のように絶望の心を抱いて、とぼとぼと重い足どりで歩いた十坪に足らぬ板塀で取り囲まれた散歩場の片隅の日陰にひそやかに咲いていた蓼の花を見いだしたときの私の悟りでもあり、生への復帰の叫びでもありました。この句一つで私の俳句の道に入った報いは十分だと思っております。(略)暗黒のなかに一縷の光明こそは俳句であった。》(長谷川宇一の手記より)

母に逢うまでは死なず 夏の砂漠暮る  鎌田翠山

 三日目に半病人になって、倒れているところをカザック人の猟師に救われ、三日間看病を受け、七日ぶりに収容所に帰り、皆の叱責と三日間の営倉と七日分のノルマの強要で済んだ。もしも猟師が見つけてくれなければ砂漠で死んでいたし、脱走とみなされても死が待っていた。(略)もうろうとする意識の中で、鎌田氏は生き抜いたのである。


 これらの八名の俳句は、まさに「極限状況を刻む俳句」としか言うことができない、極度に緊迫し生死を賭けた場で生まれた俳句だろう。大関氏は抑留兵たちの重たい思いに対して、父もそれに近い思いを抱いたかもしれないと逆に親近感を抱いて、可能な限り聞き入ったのかも知れない。


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 第四章「戦後七十年を経てのソ連(シベリア)抑留俳句」では、長野県塩尻市に暮らす百瀬(ももせ)石涛子(せきとうし)に取材し、そのシベリア抑留体験の証言や句集『俘虜語り』について詳しく紹介している。その中から二句と大関氏の評言を引用する。

逝く虜友(とも)を羨ましと垂氷齧りをり  百瀬石涛子

  飢えは自分自身の心を苛み、抑鬱状態に追い込む、逝く友を羨ましいとさえ思い、その一方で垂氷を齧らせる。死を切望しながらも、体は生きようと懸命であった。

渡り鳥羨しと見つめ俘虜の列  百瀬石涛子

冬の近づく頃、鴨や白鳥、鶴などはシベリアの広大な空を自由に飛び、冬には日本に渡ってゆく。作業に出かける前の点呼の列で、作業の合間の給食を待つ列で空を見上げながら、自由に飛べる渡り鳥を羨ましく眺めるのだった。


 第四章の百瀬石涛子氏について大関氏は、「八十歳を過ぎてようやく抑留体験は、俳句として結晶し姿を現し始めた」と言っている。それほど言語化するには膨大な時間を必要とした百瀬氏にとって俳句との出会いは素晴らしいものとなったのだ。


 第五章「満蒙引揚げの俳句を読む」では、井筒紀久枝(いづつきくえ)『大陸の花嫁』と天川悦子(あまかわえつこ)句文集『遠きふるさと』を紹介している。その中から各一句と大関氏の評言をそれぞれ引用する。

酷寒や男装しても子を負ふて  井筒紀久枝

 一九四五年八月二十五日に武装解除を受けて以来、ソ連兵と中国兵や地元の中国人による略奪が繰り返され、ソ連兵により女性は性的暴行受けた。髪を剪って顔に竈の煤を塗りたくり、若い娘にも赤ん坊を背負わせて偽装をした。凍てる冬の夜、母親たちは襲撃を警戒して男装をし、銃は持ち去られているので、わずかな農具を持って歩哨に立ったという。

子等埋めし丘べに精霊とんぼ飛ぶ  天川悦子

 八月に避難指示が出て、足止めされた鎮南浦では、暴漢たちによる暴力もあり、収容所が港の倉庫に移った。九月になると、鎮南浦にもソ連軍が進駐した。ソ連軍の中でも、一番凶暴な「いれずみ部隊」だったという。難民はソ連軍による強奪や性的暴力にみまわれた。九月末にはソ連兵は引き上げて行ったが、入れ違いに飢餓が襲ってきたとあり、この時のことを悦子本人に電話で確かめると、「鎮南浦は十月になると雪が降り始め零下二〇度にもなるところなの」と教えてくれた。避難民は飢えと寒さに襲われたのである。


 「日ソ中立条約」が破棄されてソ連が進攻する混乱の中で関東軍が武装解除された。大関氏はその後に満州に残された満州開拓民家族の井筒紀久枝氏、天川悦子氏などの女性が詠んだ俳句を紹介し読み取り、二人の人生を辿っていく。それはソ連抑留者の俳句を読み取る作業と同様に価値あることで、後世に残すべきことだと考えているのだ。その意味でサブタイトル「ソ連抑留者・満州引揚げ者の証言に学ぶ」という姿勢によって、本書の構成が出来上がっていったのだろう。略奪と性的暴行などの壮絶な体験を俳句と散文で伝えた二人の言葉は、戦争が終わっても続いていく民衆の悲劇を語り掛けてくると大関氏は語ろうとしているのかも知れない。

 最後に「全章のまとめとして」の中から大関氏が本書をまとめながら感じ取り考えていたことを記している箇所を引用したい。


 極限状況の今ここを支える俳句の働きは、抑留詠(戦争詠)・引揚げ詠・震災詠など、特殊な境涯にあっても、病や介護の境遇にあっても、毎日の暮らしにおいても、現実の出来事の証言となり、遭遇した出来事の認知の書き換えやストレス緩衝効果や孤独の環境の中で承認されることにより、安心感や仲間との信頼関係を回復する、失われた命への鎮魂による自他救済などの働きがあった。

 自他救済について、少し違う角度で考えると、本書で取り上げた方々は、危機的状況九死に一生を得た体験を持つ。この体験は思考の混乱を呼び、喪失感や自責の念を抱かせるが、一方で生かされた命の一瞬一瞬を、大切に使おうとする思いは、前向きに生きようとする力を生み、積極的な句作、平和の尊さを語り継ごうとする活動などの動機となる。俳句は悲しみや悔しさ、怒り、嘆き、優しさといった感情を伝える器であり、受け取った人に共感を呼び起こし心の癒しを与える。そして俳句を詠んだ人と読む人を、互いに支える杖(伴走者・燈火)となり、難局を切り開き、未来へつなげる働きをするのだと私は考えた。そして、これは特別な人のことでなく、俳句を支えとして境涯を生き抜く決意をした人に、共通にもたらされる働きであると思う。


 大関氏は読み取ってきた「抑留詠(戦争詠)・引揚げ詠・震災詠など、特殊な境涯」である極限状況の俳句を創作し読解し共有することは、「ストレス緩衝効果や孤独の環境の中で承認されることにより、安心感や仲間との信頼関係を回復する、失われた命への鎮魂による自他救済などの働きがあった」とその効用を結論づけている。大関氏が看護師で他者を癒すことを職業としていることもあり、俳句・散文などの表現行為が、存在の危機を感ずる人びとにとって生きることの原点に立ち還る有力な方法であることを再認識したのだろう。きっと大関氏の父の存在もこれらの俳句・散文の中に立ち現れて、父との無言の対話は継続されてきたに違いない。

 ところで、二〇二二年二月にロシアがウクライナを侵略し、同年の七月の時点で米国国務長官は六〇万~一六〇万人のウクライナ人がロシア国内に強制移住をさせられていると発表している。その数が正しいかどうかは定かではないが、そのような恐るべき「戦争犯罪」が拡大し現在も繰り返されてウクライナ人の苦悩が続いている。その強制移住や強奪という点では類似するソ連抑留者・満州引揚げの当事者たちの「極限状況」を、俳句・散文を通して伝える大関氏の試みを多くの人びとに読んでもらいたいと願っている。


救仁郷由美子追悼⑪  筑紫磐井

●LOTUS16号(2010年4月)

日昇り日没す

日入る(おく)黄泉戸喫を食む妻よ

草に触れ山々谷河足裏よ眼

秋空の天使と遊ぶ水子神

風音や堅胎帰還す木漏れ日に

気味悪き赤子や婆か葉で隠す

名付けし名悪魔は我が子座す仏陀

雷神の怒り注ぐ森悲しき雨音

鬼っ子や逃げ一目散にすすきが原

鬼っ子兄は追われ良われて骨直立

もうおっおっおた孤児の歌声谷上る

山呼ぶも岩塞ぐは蛇の道

夢や(なれ)現われまするか野茨よ

全部耕衣要素分解笑い鯰

妻ひとり救えぬなんぞ野菊原

友の死や拾いつづける落椿

ゆらりゆらりはいとの足元花十字

祭は集い顔作りつつ異邦びと

反抗し犯行閃光夏季の海

我皆々嫌って死んだ「永山則夫」

病者嫌者並んだ肩と鐘の盲

泥に座す皮膚くずれる于握れと手

十六()飢餓の希望の即身仏

彼の地の鬼とんぶりひとつ舌にのせ

太陽が染める砂塵や爆撃の村

貧しさも飢えに至らぬ虎落笛

山遠き労働の夕足裏あり

 若勇者へ三句

遼立国(リョウリツコク)花木々風と鳥の歌

瑠璃鳥来開く窓より白き花

春曙光越え行く峰に飛龍在り