※サブタイトルを <I thank you ありがとうあなた> とした (2018.11.15)
100号。
BLOG俳句新空間としてスタートした2014年10月17日に筑紫さんの<創刊について>掲載があり初心に戻ることが出来ありがたい。この日の俳句時評に外山一機さんと堀下翔さんの名前があり、現在は休載が続いているが俳句時評の筆者の皆さまの名前が躍動感をもって蘇ってきた。
思い起こすと、時評欄は、「詩客」当時の高山れおなさん選出のメンバーに声を掛け、承諾してくださったのが外山一機さんと湊圭史さんだった。
現在、外山一機といえば、“時評”というイメージがある。社会的事象あるいは事件と現行の俳句を結びつけ、創作の根底にある時代背景を記録する視線は今も変わらない。群馬県出身と伺っているので、上毛新聞記者から作家に転向した横山秀夫が少しタブる。俳句社会小説…が生まれてくるのか否か…。あくまで個人的妄想。
湊さんの時評にはトレンディ情報が盛り込まれ、将棋の電脳戦や英語俳句の回などが思い出される。ふと英語俳句からオノヨーコの人気詩集「grapefruits」を書棚から出してみて読み直す機会が持てた。オノヨーコの詩は俳句の音律が元になっているのかも、と気が付く。オノヨーコの80年代個展「踏絵」のときに作品に書が含まれ、それに関連して御本人が学習院時代に俳句を詠んだということを話されていた。私の中での湊さんはオタク感とオシャレ感の狭間をさわやかにゆくウィットに富んだ筆者像がある。
時評とは、筆者と読者のチャンネルが一致する時、面白いのだと思う。そのツボは狙ってハマるわけでもなくハマる。俳句や川柳の人の文章は、物を見るその視点が面白いのだろう。まぁいわゆる変な視点なのだろう…。
湊さんの後任をしばらく探していたところ、邑書林の島田牙城さんから高校生で書ける青年がいるという情報を頂き、連絡をとってみたのが、旭川から上京する前の堀下翔さんだった。高校生とどう接してよいのか緊張したことを思い出す。いろいろなやり取りの後、書いてみたい、という前向きな回答をいただき、大学生の俳句時評がはじまった。
堀下さんが大学一年生になった直後の2014年4月25日が初掲載だった。その後、堀下さんは石田波郷俳句賞の新人賞を受賞され、狛江にお祝いに出向きそこで初めて堀下さんと挨拶し、会場にいたたくさんの参加者は、現在”若手俳人”とテレビでお見かけしたりする。堀下さんは現在、大学を卒業されて研究課程にすすまれているようだ。
堀下さんが時評を書く二あたり質問をした先輩に外山一機さんと松本てふ子さんがいらしたらしい(とお二人に伺った)。時評師弟関係ともいえ素直に質問できる純心な素質が堀下さんにはあるのだろう。時評には堀下さんの洞察眼ともいえるスナイパーさとそれにともなう研究心が伺える。特に文法を踏まえた読みは信頼が持て、末は俳文学者なのか…と堀下さんの創成期に当時評欄で活躍していただいたことが読者の皆様の記憶の中に残るといいなと思う。ご本人所属の同人誌「里」での俳句時評は一冊にまとまるらしい。おめでとうございます。
そして、外山さんの後に、登場していただいたのが柳本々々さんだ。柳本さんは兎に角、文章が淀みなく湧き出てくる。ツイッターを通してあるいは葉書などに絵を描かれて送ってくださったりする。柳本さんの文体あるいは絵からなのか、私の中では、文章を読み始めると水森亜土的なわくわく楽しい世界が広がる。柳本さんは、ご自身が命名された<短詩時評>、そして<およそ日刊俳句新空間>を場として気に入っていただけたようで、それはもう沢山書いて頂きました。いまでも楽しく拝見しています。
俳句が俎板に乗る”評”…という目で読まれる時評ゆえに書き手に緊張が伴う。
執筆者の皆様のご尽力に感謝申し上げます。
そしてたまに俳句新空間を思い出していただけるとありがたいです。
※各執筆者の名前でタグ検索するとその執筆者の記事が読めます。
2018年10月26日金曜日
2017年7月7日金曜日
【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む6】きりん 松本てふこ
一緒にいる時は真面目な話をするよりも、楽しくふざけながら酒を飲んでいることが多い友達の西村麒麟から、彼の作品に関して熱い文章を書いてくれと頼まれた。
西村麒麟は「スピカ」での「きりんのへや」、もしくは代表句から、酒を愛しのんべんだらりと暮らす隠者のようなイメージを俳壇で持たれているように思う。それは決して間違いではない。だがしかしそうした面はあくまで彼の一面でしかない。
彼と酒を飲んでいて、時々俳句の話になる。自分がつまらないと思う俳句や俳人の話題になると彼は、急に冷え冷えとした眼になる。口調も一気に冷たくなる。なんとまあ、分かりやすい。私はそういう時の彼の眼が正直ちょっと怖い。だがそこで妙に怯えるのも格好悪いので、何も気にしていませんよという顔で変わらず酒を飲むことにしている。
筑紫磐井は麒麟を「若くして老成、誰とでもつきあえるがしかし結構シニカル、自分を主張しないが独自の個性、という不思議な作家」と『俳句年鑑』で評していた。「思ひ出帳」150句を読むと確かにそうだな、と彼の言葉に納得する部分もあればそうでもない部分もある。そういうことをつらつらと書いていこうと思う。
踊子の妻が流れて行きにけり
夏蝶と遊ぶや妻とその母と
麒麟の詠む妻の句はいい。たぶん、妻を詠む彼のまなざしがいいのだと思う。
私は世の中の詩歌の中で夫が妻を、妻が夫を詠む際に多くみられる、過剰にべたついたりもたれ合ったり、何かを期待する姿勢を情愛と勘違いして陶酔している態度が非常に嫌いなのだが、麒麟の句にはそういう態度がさほど見られない。
なんというか、何か美味しいものが目の前にあれば分け合って食べ、美しいものが現れれば共に眺め、妻にそれ以上のことを求めていないのだ。
毎日の暮らしの中では何かを期待せざるを得ないからこそ、せめて詩歌の世界では、配偶者には何も期待せずにただ共に在りたい。
夏蝶の句を〈妻とその母と遊ぶや夏の蝶〉と試しに変えてみたら夏蝶も妻もその母も、存在感が一気に平板になり凡庸な句になって非常に面白かった。
少し待つ秋の日傘を預かりて
この句にも妻らしき、近しい異性の気配が濃厚だ。一番使われる季節である夏でも、春日傘でもない、秋の日傘を預かっているというところに、預けたものと預けられたもの、ふたりの歳月がにじむ。人によっては手持ち無沙汰としか思えない時間を麒麟は、「少し」というありふれた言葉を使ってなんとも豊かに詠む。
向き合つてけふの食事や小鳥来る
目が回るほどに大きな黄菊かな
呉れるなら猫の写真と冷の酒
麒麟の句を読んでいて不安になることがあまりない。なんとも平和なのだ。今日の食事を向かい合ってとる一家(お、ここにも分け合う存在としての妻の気配)、「目が回るほど大きい」なんていう比喩の大いなるバカバカしさ、猫の写真と冷酒って何やら昔の文士気取りではないか、などなど。そういえば、麒麟は昔のものが好きである。
俊成は好きな翁や夕焚火
何かへの好き嫌いを語る時、麒麟は「僕は(それが)好き」と「は」に割と力を込めて言う。この句の「は」にも、その強さの片鱗がある。愛をシンプルに語ることの伸びやかさと、夕暮れ時の焚火の優しい炎。
梨食うて夜空を広く思ひけり
梨の句でこういう視点の句はあまりないように思う。すずしい食感が夜空を押し広げていくような、彼の句では珍しいファンタジックな発想が楽しい。
…とまあ、好きな句についてまずは語ってみたが、この「思ひ出帳」150句に対して疑問点もある。大塚凱も指摘していたが、同一単語のリフレインの句が多く見られ、句群そのものをやや単調に見せている。大塚が指摘していない句にもリフレインを使用したものがあり、いくらなんでもちょっと多いなあと思う。表現の引き出しが少ない作家ではないはずだが、やや提出を焦ったのかなとも邪推してしまう。
あと、「こういう句を面白いと思うの?残念だな、ちょっとビールでも飲みながらゆっくり話し合おうか?」という気持ちになる句もあった。
初恋の人が来てゐる初詣
「ありふれたノスタルジーをちょっとずらすのが西村麒麟なんじゃないのか!! これじゃまんまベッタベタド直球ノスタルジーじゃないか!!! コラー!!!!」という気分になった。
そういえば、何句か金魚にまつわる句があり、妻の句と同じくらいあるな、と印象に残った。恋愛めいた感情の揺らぎと喪失感が句群にアクセントをもたらしていて、ちょっとにやにやしてしまった。
妻留守の半日ほどや金魚玉
秋の金魚秋の目高とゐたりけり
少しづつ人を愛する金魚かな
墓石は金魚の墓に重からん
金魚死後だらだらとある暑さかな
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