俳句に限らず、日本文化については、それを大きく賞賛する者がいる一方で、何かしらの物足りなさを感じ続けている日本人も常に存在してきた。
すなわち日本文化の諸々の所産が持つ高度な凝縮性や美意識、極限まで研ぎ澄まされた感性という点で、それは世界に比類のないものであろうし、私自身それらの中に自己の可能性を探ろうとした時期すらある(結局はその方向は諦めてしまったのだが詳細は省く)
俳句については、『凝縮性』や『極限まで研ぎ澄まされた感性』という点で、日本文化の最良の部分を最も端的に表現した芸術分野であると言えるかもしれない。その一方で、『知性的』な重層性、重量感というものが圧倒的に『薄い』と感じられる。
確かに従来の俳句は、徹底的に「余計な」ものを削ぎ落とし、これ以上ないというくらいに突き詰めた表現となっているだろうが、それによって「感性的」な余韻やある種の広大な「宇宙感覚」のようなものすら詰め込むことができたとしても、それが「知性」を刺激することはない。少なくとも私自身はそう感じたことはない。
これは俳句のみならず、その他の日本文化全般に言えることで、いかに素晴らしいと感じたとしても、それによって「知的な興奮」というものが喚起されないのである。
もちろん「知性」といってもいろんな捉え方があるし、「日本には日本の知性がある」というのはその通りなのだが、いわゆる「西洋近代的知性」というものを受け入れてから既に百数十年が経った今日、それの持つ「知的な重層性」というものに匹敵するものを作りたい(更にはそれを超えたところに到達したい)と思う人が増えてきたとしても決しておかしなこととは言えないだろう(もちろん従来の「伝統的」枠組みの中で創作を続けることに価値を見出す人というのがいてもいいし、そのこと自体決して間違ったことではないが、それはそれでこの件とは全然別な話であろう)
この宣言文で提案されている『未来俳句』というものについて言えば、文字数を極度に削った結果として従来の俳句の『非知性』的性格というものが増幅されるというよりは、むしろ逆にそれによって『知性的な濃度』がはるかに増大しているように感じられる。一言でいえば、従来の俳句にはなかったある種の『知的興奮』が得られるのだ。
私は自らも創作者であり、かつてはかなり長大なフィクションを書いていたが、今ではそれを踏まえた上で、俳句ではないけれども、「一行で世界をひっくり返す」という方向の「一行小説」の創作を試みているところである。
宣言文の中で例示されていたいくつかのサンプルの『俳句』を見させていただいたが、私が自分の創作において目指しているものと方向が完全に同じとまでは言えないまでも、問題意識はオーバーラップする部分を感じることができた。
思うに、この「未来俳句」というのは、あらゆるもの(さらには世界そのもの)の意味(イメージ)をいわば精神の加速器のようなものの中で高速度で衝突させて一種の核融合を起こし、微小なところで全く新しい原子を作り出す、というような試みであるとも言えるだろう。
ただ、それがすぐに壊れてしまうような不安定な原子なのか、それとも知的な刺激、更には「衝撃」を与え得る、永続性のある「作品」となり得るのか、ということは、作者の側において、直感的にせよ、その融合の「構造」についての深い把握がなされているかどうか、という点に依存するのだと思う。
つまり、一つの作品の中の言葉というのが表面において「響き合う」ことは禁じられているとしても、作者の中のより奥深い「知性的」構造の中においては何かしら「繋がっている」ようなものであるべきだ、ということである。そうでないと、ただ無関係な言葉を並立させただけの、単に読者を困惑させるだけのものに終わってしまうだろう。文法構造の無視あるいは破壊というのも、それよりも高次の構造把握があって初めて成立し得るものである。
ただ、まさにこのような文化としての「知的構造」の薄さ(あるいは粗さ)というものが日本文化の特徴である、ということであるとするならば、果たして個々の作者においてそのような「強度の構造」を作り出すことが可能なのかどうか、ということが「問題」となってくるだろう。単にどこかの「哲学知識」などを借用してきたとしても、見える人にはすぐに見抜かれてしまう。
結局のところ、日本においてこのような「運動」が成立するかどうかというのは、「未来俳句」という形態に耐えられるだけの「構造」がそれぞれの作者個人の中において(強度な形で)創り出せるか、ということにかかっており、そういうことがそもそもこの国において可能であるのかどうか、ということも含めて、個人的にも大いに興味のあるところである。「未来俳句」の今後の推移を注目していきたい。
なお、共感はするが連帯はしない、という『宣言』の姿勢にはシンパシーを感じる。創作者はそれぞれが一つの宇宙であり、他の宇宙と何らかの形で同期することはあっても、互いにその一部を分かち合うことはないし、しようとしてもできない。また、それができないということ自体が、それぞれの創作者が持つ構造の『強度』を証明するものにほかならないのである。