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2022年7月15日金曜日

【句集評】鶫または増殖する鏡像 赤野四羽句集「ホフリ」を読む《後編》  竹岡一郎

Ⅱ 屠り、それが導く死


 休憩終りました。皆さん、英気を蓄えた事でしょうから、最も対峙しなければならない話題、即ち死について語りましょう。


本当は死んでいるのと聞く冬日


 これは相手が告白しているんでしょうか。それとも相手に聞いているんでしょうか。そして相手の告白なら、それは比喩でしょうか、それとも本当に死んでいるんでしょうか。

 死んだ人と話しているんでしょ。生きてる人と変わんない姿で、街中で会う事があるんだ。普通に喫茶店に入り、普通にコーヒー飲んで呑気に話して、普通に金払って、一緒に店を出た。別れ際に、何か言われた、それともあたしが言ったんだろうか、「本当は」って。会う三日前に死んでた友達の話。「冬日」は寂しいんだ。だから、冬日は死んだ人には優しい。

 それだけなら単なる怪談ですが、死者はそういう現れ方をするだけではありません。良く注意して見れば普段に居ます。街行く人々の顔に、多くの顔が重なって見える。時には電柱にも壁にも見える。俺は多くの声を聴く。人声の中に、風の中に、雨音の中に、無音の闇の中に。この世ならざる、と言うには、あたしは確信が持てない。生きた体を持つ誰かの魂から飛んで来た顔や声かもしれないから。そして僕の体感では、殆どの人の魂は、実は数多の死者や生者の思念の断片が、さざれ石が巌となるように、欲望や執念という接着剤でくっつき合って成り立っている。

 わたくしは、ゴッホの後期の絵を見るたびに叫んでいる声が聞こえるのだ。あの黄色は、能う限りの高さで叫んでいる声だ。あの青は、音の世界を旋回しながら巡っている声だ。だが、それにだんだん低い唸り声が混じってくる。死に近づくほどに、唸り声は鮮やかな黒となる。

 ゴッホはなぜ耳を切り落としたのだろうね。この世ならざるものが見えたのなら目を抉っても良かっただろうに。耳を落としたのは本当に友人のせいか。耳を片方落としてみて、しかし鼓膜がある限り声は聞こえると諦めて、もう一つの耳は残したのではないか。止む事のない声を、色として観たのではないか。


ゴッホの耳液に浸れり葛(くず)の花


 ゴッホが耳を切り落としたのは激情の産物だが、液に浸すのは保存する為だろう。画家の激情を保存している。普通の人に狂気と映っても、本人から見ればこの上なく正気だ。そのような勢いが通常の状態であり、それを制限されるのは檻に囚われる苦痛だ。

 ゴッホの眼が何を見ていたかは、遺された絵から知る事が出来る。耳が何を聞いていたかは知る事が出来ない。或いは遠い未来に、耳に遺された情報を解析し、ゴッホが何をどう聞いていたか、知る事が出来るかも知れない。その為に液に浸している。その耳の保存している情報は、生前のゴッホが聞いていたものか、ゴッホの死後も耳が独自に聞いていたものか。

 下五に麦畑を置かずに葛の花を置いたのは、耳がもはや麦畑から離れており、麦畑以外の何かでなければならないからか。では、なぜ葛の花なのか。日本人である作者に親しいからか、葛の花は奔放に繁茂する葛の絶頂だからか。作者が、豊饒なる狂気を地に見たく思った時に、葛原に乱れ咲く花を思ったからだろうか。


豚積みの豚の肢体や花の冷え

焼き蒸され積まれ人体 寒緋桃(かんひとう)

豚ならぬものと蛤(はまぐり)煮て食う日

船底に牛の脂の凝(こご)る冬凪

九相図に隠れた蛸を酢で〆(しめ)る


 こういう句、大嫌い。豚とか牛とか蛸とか蛤とか言ってるけど、これみんな人間でしょう。サディズムでしょう。カニバリズムでしょう。二句目の「人体」で全部バレてるよね。食べたり食べられたりしてる弱肉強食の世界を肯定してるだけでしょう。こんなこと詠っていいんですか。面白がって良いんですか。

 そういう惨たらしさから目を背けて、世界の諸相が詠えるか。色々理屈つけたって、現実はこういうものじゃないか。現実の写生をしているんじゃないか。豚が豚らしく積まれている、花冷えの下に冷えてゆく。それが実は人体でもある。真っ赤な肉が真っ赤な火に焼かれて蒸されて、それが寒緋桃のように見える。豚ならぬものはつまり人間だ、同志だ。同志でないものは豚だ。蛤のように押し黙るものを無理矢理口を開かせて、判るか、戦場では馴染みの景だ。凪のしんとした船底に固まっている脂は牛のでも良いが人のでも良い。人と言う代わりに牛と言ったんだろう。喰われるものに変わりはない。蛸を酢で〆るのは腐らせないためだ。九相を成して腐ってゆく人体から掬い上げられる蛸に似た臓器とは何だ。あるいは臓器の中に入っていたものか。人間は進化の過程を忠実に辿って人間になるんだってな。そういう事を無視するのは、起こってしまった惨たらしさを軽んじることにならないか。

 気持ち悪くてウンザリするから止めてもらえませんか。そうやってあなた個人の怨みを剝き出しにするの、みっともないですよ。

 じゃあ、神話はみんなみっともないか。どこの国の神話だって、惨たらしさに満ちているじゃないか。何もない処から或る体系が生れるに当たっては、必ず惨たらしさが全開になるんだよ。惨たらしさを詠うって事は、始まりを詠う事、神話を詠う事だ。喰われる者は食われ、死すべきものは死んで、それから体系が始まる。あんたも、こんな惨たらしさの積み重ねから生まれて来たんだよ。

 僕には、これらの句が一種の露悪だと見えるんだ。この露悪の陰で、作者自身は瞼を閉じられずに沈黙を強いられるんじゃないか。昔、アラン・レネの「夜と霧」という映画を見たよ。ナチの強制収容所の惨状を記録した映画で、僕はたった30分くらいのその映画を観た後、しばらく動けなかった。今でも覚えている。笊の上にキャベツみたいに積まれた首の群、渦巻いて広がっている髪の山。記憶は絶えず捻じ曲がるから、僕は僕の耐えられる程度に映像を歪めているかもしれない。ああいう惨たらしさを撮る意味を繰り返し考えた。そして、これらの句は、人間の惨たらしさを、暗喩によって意識に刻み込む試みじゃないかな。暗喩は咒となり得るから。

 人間は、自己防衛のために惨たらしさを楽しむ事さえできる。誰だって追い詰められれば、そうなる。人間の霊性は簡単に無くなる。今でも、何処でも、圧倒的な権力の前では無くなる。ナチ以前も以後も、いつでも。人間は起こってしまった惨たらしさを、直ぐに忘れたがる。

 僕はあの映画を二度と観たくない。だが、まだ観ていないなら生涯に一度は観るべきだ。映像でも現実でも二度と見たくないと思い知るために、観るべきだ。言葉は映像よりも、ずっと再現性が少ない。再現性の少なさが幸いするのは、惨たらしさを記憶に刻む場合かも。俳句は最も孤独な詩だ。字数が最も少ないから。季語を差し引いた分、字数が更に僅かになるから。その短さによって豊饒となる孤独の中で、語り継ぐ事が出来れば、その記憶は最も鋭くなるはずだ。概念語をできるだけ避けて、平らかに、静かに、景をくっきり立てて、動かない語で、他の語とはどうしても交換できない語で、刻んでゆく。難しいけど、理想だけど。

 映画「夜と霧」が取り上げられたなら、ここでわたくしが付け加えたいのは、この映画は1956年に輸入されようとして東京税関で差し止められたことだ。理由は「あまりに残酷で風俗公安を害す」。日本で上映されたのは1961年、検閲から上映までに五年掛かった。検閲にそういう一面がある事は覚えておいた方が良い。


黒煙に花を描いた無数の腕


 この句は解釈が難しい。だから、私はただひたすら、懐かしい、とだけ言って終らせることも考えましたが、やはり覚束無くも語りましょう。「無数の腕」とは、その時々の時代の惨たらしさに為すがままにされている人々でしょう。如何なる権力も持ち得ない人々、或いは権力を失った、或いは権力を持ちながらも深い淵に落ちていった人々。黒煙を最大の人災、即ち戦争と取れば判り易い。けれども、そう言い切って終らせるわけにもいかない気がします。なぜなら、花、とあるからです。「黒煙」とは、戦争よりもっと広く、人間の悪業、悪しきカルマン、悪しき方向へと運命を導く潜在的形成力ではないでしょうか。この句を読んで真っ先に思うのは、丸木位里・丸木俊の絵です。丸木夫妻は「原爆の図」で有名ですが、松谷みよ子の「日本の伝説」に描かれた数多の挿絵を、私はふるさとのように眺めて育ちました。もういつの時代かもわからない惨たらしさと諦めの中で伝えられてきた民話を、懐かしい寂しい地獄、沢山の私が分裂して生まれ育った地獄と、どうしても重ねて思い出します。「黒煙に花を描いた」という表現は、丸木夫妻の絵には良く似合う。そして丸木夫妻の絵筆はいつも、数知れぬ時代の無数の腕が支えていたと思うのです。他人の傷を自分の傷のように、一方で自分の傷を他人の傷のように受け止める事は可能でしょうか。更に言えば、この世の悪を自分の悪として認識し、紅の蓮華を歩むように贖罪を歩む事は可能でしょうか。


肉をみる肉 塩辛き不死を擬(もど)く


 中々に凄まじい句だ。「塩辛き不死」とは、塩漬けのものが腐らない、の意と取った。先に「肉」とあるから、これは塩漬けの肉だろう。死んでいるが、腐らないので、不死のように見える。それを「擬く」と詠んだ。不死に擬態しているのは肉自身の意志だ。そんな意志を持とうとするのは、人間だけだ。「みる」は「見る」であり、「観る」だろう。先ず肉の塩に縮んだ姿を見、次に肉の意志を観る。

 中島敦の「弟子」って小説、知ってる? 孔子の弟子の子路が、多勢に無勢で斬り殺されて、その後、醢(かい)って刑、ししびしお、とも言うけど、死後、塩漬けにされて晒される。それを知った孔子は一生、塩漬けの肉を食わなかったんだって。だから、あたしは「肉をみる肉」を「人をみる人」と読んだ。


吉報も訃報も河原の石で来る


 変に実感ある。河原は狭間にあるから? 人の世と人外の世、此の世と彼の世の狭間に、境界線みたいに川が流れ、境界線をぼかすように河原がある。向こうでは既に起こってるのに、こちらではまだ起こっていない時もあるんだ。もちろん逆も。だから河原の石は運命を告げに来る。「石」は「意志」とも読めるかな。何の意志かというと、各々の魂に潜んで運命を形作る力の意志。神の意志と誤認されやすいけど。


遠景と門に口無きもの並ぶ


 こういう句怖い。なんかわけわかんない。只ひたすら怖い。膝から力が抜けていく感じ。何で怖いんだろうねえ。

 何にも具体的な物が出てないからじゃないか。遠景もはっきりしないし、門もどんなものか描かれてないし。「口無きもの」って何だよ。者でも物でもない、「もの」では想像しようがないよ。

 わたくしには良くわかる。何にもはっきりしない、只びょうびょうとした遠景の中に門が立っている。そこに入ると、もう引き返せない。だから、逃亡するものもいる。口無きものは食べ物を、何よりも言葉を、既に奪われているから、口が必要なくなって消えてしまっている。者か物かわからないのは、そもそも本人たちが分からないからだ。思念が即ち現実である世界では、必要無いものは直ちに無くなる。見る事を忘れれば目も、聞く事を忘れれば耳も無くなる。灰色か黒か、そういう色無きぼんやりとした固まりは者なのか、物なのか、そういうものが門へ、そして地平の彼方まで、蜿蜒と並んでいる。これは死後の景の写生で、わたくしもまた「もの」と呼ばれて来た。


わたくし忌(き)梯子(はしご)をおりて恋人と


 これは幻想だ。死後が上昇となるのは、余程の稀な場合だけで、わたくしはそれを殆ど見た事が無い。未来の自分の忌をそんな風に観たい気持ちはわかるが、梯子は一旦上ったら二度と下りられない。そもそも梯子がある事が稀だ。死後、恋人と過ごす事があり得ると思うのか。果てしない暗冥の中で、自分が誰だったかさえ判らなくなるというのに。

 幻想で良いじゃないですか。そう思ってないと生きていけませんし、死ぬ事も出来ませんよ。死によって一切が分断される、それが事実だとしても、そうでないように望み、祈って、人は何万年も過ごしてきたんです。これは下五が鍵なんですよ。恋人以外のどんな人間関係も、この句にとっては弱い。「恋人と」で初めて成立する句なんです。なぜって、「死を超える恋」と信じるのが、心中の定番でしょう? こんな風に言われてみたい。忌日の前に予め梯子を立てていて欲しい。そして梯子を上って来るんじゃなくて、梯子を下りて来て欲しい。安心させて欲しい。


新しい廃墟で皆と歌留多(かるた)する


 歌留多は新年の季語で、では、「新しい」の中に「新年」の意があるのか。新年の廃墟、と読むなら、新年が既に廃墟でしかない、という絶望感を読む事も出来る。もう新しいものなど何も出て来ない、全ては廃墟だ、という諦観か。

 新しい廃墟って、この前まで廃墟じゃなかったって所。この前まで威張っていたものが、やっと滅びてくれて、そこで皆でトランプでも百人一首でもなく、歌留多する。江戸歌留多でも上方歌留多でも良いけど、とにかく西洋の物でもキリスト教文明圏の物でも公家の物でもない、歌留多ってあたしたちの地から生まれて繁茂するもの。それで目出度いじゃない。あたしたちはよみがえる。


善い人を照らし蛍の誇るかな


 僕たちはこの句、好きなんです。また幻想だと言われるかもしれないけど、蛍にも誇らせて下さいよ。この世には善良な人も沢山いて、蛍はそういう人々を照らすために飛ぶ。小さな灯はそういう人々を見出すのが嬉しく誇らしい。蛍は死者の魂とも読めますよね。暗冥にさまようばかりが死者じゃない。生きている人を、冥(かげ)の働きで支えている死者達もいると思うんです。


あなたが屠(ほふ)りなさい鶫(つぐみ)の血の為に


 僕はこの句全然分からないんだけど、自覚の在り方を示しているような気がする。生きるために殺す、それを認めろというような。

 鶫がわたしなんだよ。わたしの為に、生きて体を流れている血の為に、屠れ。

 やはり鶫を食うんじゃないか。焼くと美味い。自分で食うものは自分で屠れと。全ての暴力、殺戮は自分が責めを負い消化せよと。

 鶫の語源を調べればよい。夏至の頃には鳴かなくなるなら、「口を噤む」が転じて鶫となったという説がある。声無きものの意ではないかな。屠られるものは声を、言葉を奪われる。黙って眼を見開いたまま殺される。いつか自分たちの神が復讐してくれることを期して何十年も、何百年でも待つ。神は復讐してくれない。では、誰が復讐するのか。復讐は常に行われ絶える事が無い。無数の復讐によって文明は積み上げられてきたと、わたくしは知っている。

 一句中の「屠り」と「鶫」が韻を踏んでいる事に注目する。僕は「屠り」も「鶫」も同じ事象の別の側面を示しているような気がする。実証は出来ないけれど、それは詩の側面ではないかな。或る面からは「屠り」、或る面からは「鶫」と見えるもの、それが詩であると言いたいのか。

 この句が多分、この句集の核で、けれども書く行為は無意識の海溝から浮かび上がって来るから、作者本人にもはっきり解析できないはずだ。俺にもこの句はわからない。わからないが、咒みたいに、理由なく力強く命じてる。

 寺は、つぼさか。かさぎ。ほふりん。枕草子にあれど、ホフリと法輪重ぬれば、嵯峨法輪寺の虚空蔵、生き変わり死に変わり屠り屠らるる果てなさ儚さ打ち砕く法輪の智慧を下され、放下僧、されど血刀。

 句集あとがきに《「屠るもの」「屠られるもの」の関係を通奏低音としています。》とあります。他の句から句集題名を取る事だって出来た筈です。しかし、そうはなりませんでした。この句を中心に、複雑に反射し合う鏡像関係が広がってゆきます。駄句があり、佳句があり、問題句があります。マイナスのものもプラスのものも、調和を目指してもがき、曼荼羅の中に収まろうとして果たせません。誰が調停者の役を果たし書くのでしょう、誰が統合して読み得るのでしょう。


逆さまの畳の夢の縁(ふち)を踏む


 この奇妙な句みたく、句集全体が、破綻した夢なのかも。畳に表と裏はあるけど、何をどうすれば畳は逆さまとなるのかな。縁を踏んで畳の夢を破ったの? それとも踏んで夢の破れを押さえたの? でも、ともかくも踏んでしまった作者は遁れられないよね。何から? 美しい花から? 黒煙の現実から?

 逆夢ってあるよね。夢と逆の事が現実に起きる。それと「畳の縁を踏む」という無作法さが組み合わさっていると読んだけど。じゃあ、現実では作法通りってことかな。何の作法だろうね。詩の? 文法の? この二つは対立する?


たった一人の言語へ白と黄の蝶渦巻く


 皆さん、覚えておいでですか。私は先にこう書きました。「言語は事象の、運命の本質には決して辿り着けない。」けれども、この句を一つの宣言と捉えても良いのではないでしょうか。白と黄に明るく渦巻く無数の魂、成立を目指す独自の言語、独自の死、独自の屠りの上に成り立つ独自の生。逆さまの夢でしょうか。いや、意外とまともに立っているのかもしれません


「ホフリ」論 引用句一覧とページ数

あなたが屠(ほふ)りなさい鶫(つぐみ)の血の為に   90p

古書店へ辿(たど)りつけずに秋の暮   80p

夕時雨よく光る眼の奥の鈴   91p

冬の粥(かゆ)旧き家には音多し   93p

簪(かんざし)を濡らし来世へ踊り明く   78p

ぽすとあぽかりぷす桜で飲んでます   42p   

人類終活みな柿の木にのぼる   25p

さざれ石巌(いわお)と為(な)らずタピオカに   57p

葦原の野火に焼かれる烏(からす)かな   99p

ゆれる世へ枯菊砕けつつ香る   94p

樹皮撫でて病んだ桜の柔らかさ   48p

神代の獣のあゆみ蘖(ひこば)ゆる   100p

狼の悲しい寺に微睡(まどろ)む夜   98p

蛇の芽の芽吹いてほら一面の蛇   73p

光る葉は饐(す)えて夜行の蛇を誘う   119p

蜘蛛は巣を全て感じて安らいだ   14p

冬蜘蛛の愛に机のうえ狭し   98p

ほうき星苦しみを引きちぎりたい   27p

冬池の底の音無く孕(はら)みたる   36p

本当は死んでいるのと聞く冬日   34p

ゴッホの耳液に浸れり葛(くず)の花   79p

豚積みの豚の肢体や花の冷え   45p

焼き蒸され積まれ人体 寒緋桃(かんひとう)   73p

豚ならぬものと蛤(はまぐり)煮て食う日   49p

船底に牛の脂の凝(こご)る冬凪   95p

九相図に隠れた蛸を酢で〆(しめ)る   123p

黒煙に花を描いた無数の腕   111p

肉をみる肉 塩辛き不死を擬(もど)く   76p

吉報も訃報も河原の石で来る   69p

遠景と門に口無きもの並ぶ   59p

わたくし忌(き)梯子(はしご)をおりて恋人と   57p

新しい廃墟で皆と歌留多(かるた)する   99p

善い人を照らし蛍の誇るかな   113p

逆さまの畳の夢の縁(ふち)を踏む   64p

たった一人の言語へ白と黄の蝶渦巻く   107p

2022年7月1日金曜日

鶫または増殖する鏡像 赤野四羽句集「ホフリ」を読む《前編》   竹岡一郎

 筑紫磐井さんから依頼が来て、赤野四羽さんがご自分の句集「ホフリ」の評を書いて欲しいという事なので書きます。句集の題になったのは次の句でしょう。


あなたが屠(ほふ)りなさい鶫(つぐみ)の血の為に


 何だか美しい句です。とつぜん意味不明の事を言いますが、この句は初恋というものの本質を良く捉えている。私が評論を書く時も、いつもこんな風に、初恋のように書いてきました。良い句は胸に刺さります。それは理屈ではない。理屈ではない処に何とか理屈をつけてゆくのが、残念なことに私の評し方です。けれども私はいつでも愛を以て解析してゆく。私自身を腑分けするように。でも、掲句に関しては、まだ鶫の羽毛を撫でただけです。腑分けは論の後半にて。


 私の中には沢山の人が居て、今語っている私は調停者です。けれども、調停者の立場を以て評論を書くことに、少し疲れてしまった。多分、どれだけ書いても、私の評論は恋には届かないから、意味がない。それなら調停を止め、統合する事を止めて解き放ってしまっても良いのではないか。私の中で絶えず争って手を挙げている彼ら彼女らに、好きに発言させても良いのではないか。もしかしたら私が、彼ら彼女らにとって障害となっているのかもしれない。


 「ホフリ」を読んでみましたが、非常に振幅が激しい。どう読んでも駄句としか思えないものから歳時記に載せても良いんじゃないかと思われる佳句まで。その落差が激し過ぎる。その間に美しく整っていて、解釈述べる必要もない句もあります。いわゆる伝統俳句です。次に挙げてみます。


古書店へ辿(たど)りつけずに秋の暮


 古書店には秋の暮が良く似合います。辿り着けないのですから、どんな本があるのか遂に分からない。長年探していた本、或いは見た事のない美しい本が片隅に積まれているかもしれない。


夕時雨よく光る眼の奥の鈴


 「鈴を張ったような目」という言い方があります。くりくりとつぶらな目の形容ですが、夕時雨の中でも良く輝くほど生気に満ちた目です。「眼にて語る」と言いますが、その声無き声は鈴を振るようなのでしょう。


冬の粥(かゆ)旧き家には音多し


 冬の粥は有難い。まるで古き良きふるさとの家のように有難く、そんな家の中で時々、柱や梁の軋む音がするのです。


簪(かんざし)を濡らし来世へ踊り明く


 これは歳時記に載せても良いような句で、簪は汗に、或いは涙に、或いは小雨に濡れるのか。踊りは盆の頃の季語ですから、やはり先祖や故人と縁がある。踊りが彼の世へ、或いは自分の来世へと繋がってゆく。最後の「明く」が良いです。来世に希望がある。


 少し述べてみましたが、私の解釈など邪魔かも知れず、只黙って味わえば良い句です。最初に、伝統俳句の立場からどうしても掬いたい句を掬ってみました。


 という事は、次から騒乱の段です。赤野四羽さん、私なんぞに評論頼んだ時点で、気の毒ですが覚悟決めるべきです。既に各人、喋りたくてうずうずしている。でも、私も時々出てくるかも。以上、前口上となります。


Ⅰ 神話或いは正義との闘争


ぽすとあぽかりぷす桜で飲んでます   


 平仮名にすると絶望から遁れられると思うのか。昔、ヨハネの黙示録を繰り返し読んだ。どうしようもない絶望感があった。それは今や現実化してきている。黙示録以降を言うなら、自らの死を直視せよ。桜で飲んでいる場合か。そんな呑気なことしているのは日本人の君だけだ。黙示録を舐めている。

 

 平仮名だから絶望感が薄れるんじゃないですか。ポストアポカリプスって、黙示録後の世界でしょ。今の世界が滅びたって、一日くらい花見させてくださいよ。あたしにどうしろって言うんですか。ミサイルが降ってこようが隕石おっこちてこようが、花見でもする他ないじゃないですか。桜の木の下には死体が埋まってる、って聞いたことあるけど、桜を見てるって事は、日本では、死を受け入れてるんですよ。黙示録なんて、あたし日本人だし、二度と帰らないけど実家には仏壇あるし、関係ないんです。関係ないのに巻き込まれて死ななきゃいけないんなら、他にもう肴も無いし、桜だけ肴にして飲むしかないじゃないですか。


 人類終活みな柿の木にのぼる


 終活、とか最近よく言うが、この言葉、大嫌いだ。そんなに簡単に省略して良いのか。ましてや人類という大きな括りに、こんな省略語を掲げて良いのか。人類の終焉という切迫した事柄を軽く見過ぎてないか。いつ第三次世界大戦が起こるかもしれない、この状況下に。そして柿の木が動く。何の木でも良いと思う。人類という言葉の中に「みな」は入っているから、「みな」は無駄。


 終活がダメなら、コンビニもパソコンもスマホも使っちゃダメだね。日常生活でコンビニとかパソコンとかスマホとか言わないのか。俳句は日常の詩、って誰か言ったよね。人類の終わりだって、生きている個人にとっては日常生活の延長じゃないか。だから「人類」の後に「終活」って、軽い言葉使うんだろ。柿の木は僕たちの日常には昔から懐かしい木で、そこに例えば木守柿が一つだけ残っていたら寂しいじゃないか。そこに登るんだよ。「みな」が無駄だって言うけど、これは僕の周りの、僕が知ってるみんなだろ。人類の中の、僕という詰まんない個人の周りのみんなだよ。

 

 「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」を踏まえているのかな。鐘の音は、祇園精舎の鐘と結びついて、諸行無常、盛者必衰の理をあらわしてるのかも。そうすると平家物語も踏まえているのかも。盛者は、この場合、他の生物と比較した時の人類。


さざれ石巌(いわお)と為(な)らずタピオカに


 国歌への安直な批判だ。実際のさざれ石を見ていたら、こんなふざけた発想は出ない。さざれ石とはもっと異様なものだ。炭酸カルシウムや水酸化鉄によって小石の隙間が埋められて巌を形成する。これは国に例えれば、民が集まって一つの国家となる目出度さなのだ。それをタピオカと揶揄するとは。


 私も幾つかさざれ石見ましたよ。乾いたタピオカの集まりだな、って、正直そう思いました。その炭酸カルシウムだか水酸化鉄って、私たちの現実では何に当たるんですか。絆、って奴? そんなの信じたことないし、上から絆を押し付けられても、おろおろしちゃうだけ。みんなで頑張って一つの目標に向かって、巌になって、じゃあ、巌から外れた小石はやっぱり駄目なんですかね。駄目なんでしょうね。駄目なら駄目なりに、タピオカ! とか、おどけてみせても、やっぱり、ふざけるな! とか言われるんですかね。じゃあ、私は、タピオカは、何処に行けばいいんですか。


葦原の野火に焼かれる烏(からす)かな

ゆれる世へ枯菊砕けつつ香る

樹皮撫でて病んだ桜の柔らかさ


 美しい景だ。写生と読めばよいのか、それとも出来るだけ綺麗に詠んだ皮肉と読めばよいのか、迷う。烏を八咫烏(やたがらす)と読めば、あとは菊、桜と、暗喩は明らかで、そういえば、枯菊を詠んだだけで、不敬だと特高に捕まった俳人がいた。かつて枯菊は、立派な検閲対象だったのだ。問題は作者が何処に立っているか。あらゆる検閲を拒む側か、検閲の種類によっては服(まつろ)う側か。天津神に追われた地祇の側に立っているのか、それとも天津神と地祇を共に無きものにし、見渡す限りの均一化を図る側、天津神と地祇の確執を巧みに利用し、分断を煽り、最後にはさざれ石を平たく均し固めるように、コールタールを掛けて、さざれ石をアスファルト化してしまうように、何にもかも真っ平らに、見通し良くしようとする側に、期せずして立ってしまうのか。


神代の獣のあゆみ蘖(ひこば)ゆる

狼の悲しい寺に微睡(まどろ)む夜


 あたしは、作者が無邪気に地祇の側に立ってると、素直に信じたい。なぜなら、全て真っ平になった処には何もひこばえない。獣も生きられない。「悲しい寺」って、寺の有様が悲しいの? それとも、「大悲」の「悲」、抜苦のこと? 狼が悲しいから、寺は狼の心を映して悲しく見えるんじゃないかな。大神(オオカミ)、大いなる山の神は、なぜ悲しいんだろう。誰が天津神で、誰が国津神で、そして誰が弥生以前の地祇だったか。本当の処は、今ではもう分かんない。この数千年の間に色んな事実がごちゃ混ぜになって、その時々の偉いさん達に都合よく上塗りされ過ぎたから。狼は地祇であった頃の夢を見て悲しいんだよ。もしかしたら、作者が狼の夢を見て悲しいのかも。その場合、作者は狼に同調してるの。まつろわぬものの夢は、なぜ「社」ではなく「寺」で見るんだろう。社にまどろめば天津神、国津神、どこかに属さないといけないからかな。寺なら、ああ仏法無辺、空の通力に護られて、新たな自由を夢見る事が出来るかも。


蛇の芽の芽吹いてほら一面の蛇

光る葉は饐(す)えて夜行の蛇を誘う


 蛇の髭、という草はあるけれど、蛇の芽、って何だろう。蛇の目、という模様はありますね。同心円の模様の事です。蛇が植物のように生い茂ると読めば、一番納得のいく風景です。葉が饐えて光るなら、腐って燐が生じているとも読めますが、元々光る葉が饐える、醗酵している。これは饐えた匂いによって蛇を誘っているのでしょう。蛇は嗅覚が優れているからです。夜の中で光っている葉は、その光自体が醗酵であり、それが蛇を誘う。この葉がそもそも蛇ではないか。となると、蛇の芽も、丸い眼玉から生えて大きくなってゆく蛇の群、と素直に読んで良いと思います。


 なぜ蛇が植物と同一視されるのか。大地に根ざしているのか。地霊なるものが古代に、ハハ、とも呼ばれていた事。その自在な俊敏な動きを、或る時は蛇に喩え、或る時は狐に喩えた事、或いはアラハバキという名を想起しても良い。地に結びつくもの、地の力の結晶、本来は地に繁茂するもの。


 そして僕は狐だけど、わたしは記紀以前に追われたもの、羽羽(ハハ)で、俺は土蜘蛛である。いざとなれば、お前たちの吸う息吐く息に至るまで、見えない糸を張り巡らせることは出来る。わたくしは言葉の混沌が溢れ出そうとしている事を感じて安らぐ。


蜘蛛は巣を全て感じて安らいだ


 巣に掛かる全ての反応を蜘蛛は感じている。風や雨粒や吹かれてきて引っ掛かるゴミや、もちろん獲物の生の鼓動も。蜘蛛の喜びも欲望も苦痛も、蜘蛛の肢先から巣の震えとなって伝わる。自分が認知する世界の反応全てが安らぎとなる。下五、「安らいだ」と過去形になっている処が、蜘蛛の物語の大団円なのか。


 俺は逆に、下五の「安らいだ」が単に作者の希望に見えるんだかな。蜘蛛が安らぐわけなかろうが。絶えず飢えて隅々まで巣を感じているなら、蜘蛛が安らぐのは死んだときだけだろう。それとも蜘蛛の臨終の描写なのか?


 安らいだって良いでしょう? 蜘蛛の巣みたいな小さな範囲の生活を隅々まで整えるのが、どんなに安らぎになるか。この蜘蛛は絡新婦(じょろうぐも)だと思う。スタイリッシュで手足の長い人が、そんな風に安らいでいるのは、素敵じゃないですか。


 蜘蛛は巣を統合している。統合とは安らぎであると言って良いのか。現状ではとても安らぎと言えなくとも、絶えず全神経を目覚めさせて緊張していても、巣というアンテナを全て感じていられる事は、いつか安らぎに繋がるかもしれぬ。


冬蜘蛛の愛に机のうえ狭し


 この句は巣の無い蜘蛛なんだね。蠅取蜘蛛かな。それならぴょんぴょん跳ねて、いずれは机から落ちるんだよね。それとも足高蜘蛛? 足高蜘蛛なら、もっと机の上は狭いよね。あれに顔の上這われると参るよね。取り敢えず張るべき巣が無くて、領土の無い蜘蛛。自由だけど寂しい蜘蛛。だから愛に満ちている。籠る巣が無いから。あたしに言えるのは、ここまで。あとは土蜘蛛、語って。


 かつて見渡す限り山も谷も野も、俺の巣で、俺の領土で、俺の愛は涯が無かった。俺の愛は言葉を遙かに超え、言葉を書きつける机など、俺の脚先の毛一本にも足りない。冬もまた、俺の愛を凍らせる事は出来ず、吹雪は俺の全身を輝かせる。そもそも愛という言葉自体、その熱気は、俺のときどき吐く炎の一筋にも足りないはずだった。仰げば星が流れ、星の曳く光は、やはり俺の炎と同じく、細かく震えていた。


ほうき星苦しみを引きちぎりたい


 苦しみが、ほうき星にとっての尾として見えている。ほうき星が尾を引いて落ちてゆくのは、苦しみから逃れる為、苦しみを引きちぎりたいからだ、と言う。しかし苦しみは、ほうき星の身から出て、光として知覚される。苦しみが全て無くなるのは、ほうき星自体が燃え尽きる時だ。ほうき星は苦しみだけから出来ている。苦しみから、つまりは自分から逃れようとして、一瞬の軌跡を虚空に描く。


 言葉は苦しみです。全てを表現しようと、虚しい足掻きを続けるから。意思疎通は出来るようでいて、実は決して為されることはありません。言葉はどれだけ互いに重ねても、更なる上空で統合されることなどあり得ない。あり得るように見えるとすれば、それは単に平和の為に妥協し手打ちしただけです。各人の正義は永遠に争い合う。なぜなら、「正義」なる言葉は、怨念の復讐への欲望を、体よく言い換えただけだからです。言語は事象の、運命の本質には決して辿り着けない。では、調停とは、或る意味、暴力なのでしょうか。


 だからあたしは迸る。俺は刃向かう。僕は出来るだけ遠くに遁れる。わたくしはお前たちの世の外から瞼の無い目で見ている。調和は意図して為されるものではないから、調停者よ、お前は取り敢えず黙れ。統合を諦めろ。


冬池の底の音無く孕(はら)みたる


 私は彼らに聞かれぬよう、囁きで解釈します。池底は、胎として何かを孕んでいる。何かの死体でしょうか。死体が産む諸々でしょうか。根でしょうか。まだ意志としてしか存在しない蕾でしょうか。泥に覆われて見る事が出来ず、音が無いから推測が出来ません。冬は休息の季節です。外気よりも池底の泥の方が温かい。死と生の間はこんな感じかもしれません。では、一旦休憩に入ります。

2021年1月8日金曜日

【読み切り】加藤知子句集『たかざれき』鑑賞  竹本仰

  加藤知子さんを見る限り、句の中の作者像と実際に接した目の前の作者がこんなに食い違うことは稀であるとよく思う。句の中の顔と、日常の顔が、別人であると常々、そう思ってきた。なぜであるか?それは、俳句という表現手段が、彼女にとってどれだけ意義深いかということと無関係ではない。他の俳句作者のスタンスとは明らかに違うものを感じるのである。

 この第三句集について、私なりに三つのキーワードを感じた。それは、女、闘い、劇場である。一見語りがたいこの作家について、一応のコースを設け、その地図を順に追ってみたい。

1.加藤知子と女という性
 小生が或る通信句会で彼女と知り合ったころ、鈴木しづ子に傾倒していたと記憶する。その後、やや過激とも思える彼女の句に接しながら、その頃はまだ面識がなかったので、勝手にこんな顔だろうと想像していた。
 少女期をひきずった、どこか少し翳りと痛々しさがあると。

すみれ咲くカラシニコフの発情

 この句がその頃の第一印象として残った。ここへ来るか?という風に性的な表現が乱射されることがある。
 だが、少し注意して読んでいくと、性的な表現にはまったくといっていいほどエロティシズムがなく、むしろ、これは彼女が闘うための通行手形なのだと分かってきた。つまり、女性の性が無ければ何事も始まらないという出発地点をちゃんと見定めていたということなのである。
 高橋新吉の詩「断言はダダイスト」の一節を思う。

〈DADAは一切のもの出産し、分裂し、綜合する。DADAの背後には一切が陣取つてゐる。何者もDADAの味方たり得ない。DADAは女性であると同時に無性欲だ。だから生殖器を持つと同時に、凡ゆる武器を備へてゐる。〉
 

 加藤知子と性。抜きがたい言葉である。
 

2.闘い
 したがって、彼女の誠意は、この生=性への忠誠で、闘う、否、闘わねばならないということであった。
 石牟礼道子というしるべ、そこには憑依のような演じ手の文体があり、世界があった。水俣という宇宙から現代社会を見返している闘いの記録があった。
 

3.劇場
 そして、闘いは純潔する憑依、いわば観察者を抜け出した演じ手となり、その劇のクライマックスは、そこにキーワードを当てはめれば、抱きしめる、であると思う。

鵜を抱いてわたし整う骨の冴え

 傷んだ鵜の魂を抱きしめることによって一体化され自分を感じる、そんなカタルシスが成り立つ。究極にはこの詩人はここをめざしていると、筆者なりに思っている。

 加藤知子の出発点を想定してみると、

白桃の傷みはじめを旅はじめ

 青春という自覚、それは傷みはじめを感じてからだろうか。
 それがシャッフルすれば、

心中に似合う家あり大西日
稲光るたび人妻は魚となり
目隠し取ればここがさいはて衣被


と、こういう、たびたび、その青春回帰の願望が新たな現実と激突している句があり、独特の詩境をかたちづくる。

月光に袈裟斬りさるる目覚めかな
ちちははへ返す骨肉したたらす
金魚また死んで時計の逆回り


 死生観をうかがえば、こんなところか、日常の安定というものへの志向はさらさらなく、むしろ志士の奮闘の如き烈死をこそ想定せねばならない、このきまじめな生の姿とは何なのか。

脳の襞さわぐ鏡の間の万緑
ふらここを漕いで手放す家を焼く


 不思議な譬えになろうかと思うが、弘法大師空海に若き日、『三教指帰』なる青春の書がある。讃岐の一地方の豪族の倅として、官の立身出世の道を志すべく都の大学に入るものの、仏道に大きく方向転換し、多くの地縁血縁をうらぎることに至る、言わば出奔の所信表明のようなものであるが、平安時代当時としては類を見ない戯曲形式の構成を試みている。儒、道、仏という三教の区別はともかく、その生涯の大転換をうながすにふさわしい魂のゆえなきざわめきと揺れが、この作者の作句の衝動にも等しくうかがえるのである。
 また、俳句の世界であれば、高柳重信の

船焼き捨てし
船長は

泳ぐかな


の如き身振りだろうか。句境よりも苦境、つねにその苦境を基にした衝動こそが彼女の句をかたどってきた。

けしからんヌードのるーる天高く
おしろいを吸いつくす肌冬銀河
だんご虫丸まり人に恥骨あり


 一見挑発的に見えるかという性的表現も、作者にあっては星座愛好者が星を食卓上にあるごとく見るように、実は愛すべき日常性でありそれを全幅信頼する信念の如きものがあろうか。作句する材料や手段ではなく、むしろ目的地であり聖地をその日常の性の向こうに想定しているのである。

初旅や戦死者の歯をそろえむ
鷹鳩と化し生真面目な引きこもり
菊人形柩に入りてあたたかし


 ここでは死さえ抱きしめるものとして、一体化する対象である。
 もちろん、この作者の志向は次々と対象を変え、自身の存在感をたしかめようと格闘はつづく。だが、私はひとり、何をしているのだろうという自己の孤への問いはない。むしろ、問い続けることでつながりを探し続けているのである。

鎮まれば水の祭をクラムボン
抱き合い殴り合いけり鬼やんま


 水没した五木という或る原郷へ近づくのは、水没の向こうにある村とのつながりを欲するためである。

衣や姫や倭の工人の勃起せる
刈るほどに下萌えてゆく王墓かな
万緑の壺のそとなる人の声


 失われた古代国・伊都国に近寄り入っていく、もはやその国のキャスト、スタッフとなり、劇化してゆく、一見ミッシェル・ビュトールが小説『時間割』で見せた、理想を追うが故の時間の迷宮への旅、そんな手法を連想させる。
 そして、卑弥呼にはその性を問いかける。もちろん、卑弥呼であり、作者である共通の性へだが。

すかあとのなかは呪文を書く良夜

 こういう飛び込み型の問いのゆくえにあらわれるものとして、憑依と原郷、そして女性の性への接近と融合があったろう。
 そこへ石牟礼道子が示す「高漂浪(たかざれき)」、つまり「身体は現の世界にいるにもかかわらず、魂が抜けだしてどこかに行ってしまって、行方不明になる」体験に惹かれ、原郷回帰の思いを核として水俣病の運動と連動し、その芸術を深化させてゆく石牟礼道子の論を組み立てていくのは、実にむべなるかなの道行きだったという他はない。
 しかも、表題になっている常少女(とこおとめ)とは、万葉集の十市皇女の〈河上のいつ磐群に草むさず常にもがもな常処女にて〉から来る、言わば永遠の少女性のことであるが、この言葉そのものが筆者加藤知子自身の来し方の行為の姿に他ならない。
 実は石牟礼道子を論じながら、紛れもなく自身の文学という行為を語っており、石牟礼道子に加藤知子を演じさせているのである。この俳句と評論の表裏一体となったのが加藤知子なのであり、この評論が俳句の解説にもなっていることを心して読むのがよいと思える。

海に降る風花ならば抱きしめる

 ああ、石牟礼道子を抱きしめているなあと思う。
 ニーチェに「深淵を覗き込むものは、また深淵に覗き込まれる」の名言があった。
 だが、加藤さん、あなたの覗き込みたい深淵、まだ足りていないのでしょうね。
 あらためて、常少女の詩人・加藤知子の道行きのここからの再出発に注目している。

2020年11月27日金曜日

【読み切り】圧倒されっぱなしの俳人の覚悟と生きざま『秦夕美句集』(現代俳句文庫‐83) 豊里友行

十六夜に夫を身籠りゐたるなり

 帯の俳句が妙に私の脳裏にこだまする。
 周辺の俳句を拾い読む。
 判読しながら秦夕美の生きるベクトルに圧倒されていく。
 「ふぶく夜を屍の十指ぬぐひけり」「寒紅をひくこのたびは喪主の座に」「雪原の果いつぽんの泪の木」「ただ生きよ風の岬のねこじゃらし」
 あるがままに詠み込んでいく秦夕美の俳句に私は、惹きこまれていた。

誰も叫ばぬこの夕虹の都かな
ゆつたりとほろぶ紋白蝶のくに


 「誰も叫ばぬ」「ゆつたりとほろぶ」の俳句にこの国を憂う俳人のアンテナが、時代を感受している。この俳人の中では、出色に見える俳句だが、私をきちんと丁寧に俳句に詠う力量は、社会へも実感を得た俳句として素晴らしい俳句を成している。

秦夕美と名のれば乱れとぶ螢

 気負いなく自己をあるがまま詠う。

苺つぶす無音の世界ひろごれり
霜柱十中八九未練なり
花のおく太古の魚を飼ひにけり
白南風に仮面の裏の起伏かな
ままごとのお客は猫と昼の月
今生の光あつめ雛の家

 この俳人の俳句をささえている丁寧な描写力は、観察眼と言い換えてもいい。
 よく視ている。
 よく聴いている。
 よく心に感受している。
 それは、とても素晴らしい感性の弦になっている。

 ただただ圧倒された女性俳人の感性の弦を軸に人生を奏でる気概。
 私は、俳句観賞するためにも、もっと人生を謳歌したい。
 人生の先輩俳人たちが、のたうち回りながららも獲得して人生を謳うことへの嫉妬を拭いきれない。
 しなやかに。
 たくましくも繊細に。
 力強く生きる。
 俳句の奥域を広げて、深めて、真実を捉えていく。
 そんな俳人たちに私は、これからも沢山たくさん精一杯のエールを贈りたい。
 この同時代に生きて俳句を切磋琢磨していくエールを私も確かに受け取っている。
 この俳人の情念を突き抜けた先を私は、もっと見てみたい。
 共鳴句を頂きます。

貝がらをあやすのつぺらぼうの母
残照の鰭もつ子宮(こっぼ)泳ぎけり
念々ころり寝棺・猫又・願ひ文
とろり疲れてやさしい闇に吊柿
七草にまじへ啜るは何の魂
回想の雨のぶらんこ揺れはじむ
月浴びてゐる「わたくし」といふ魔物
雁風呂やわが情欲のさざなみも
乱鶯や乳首の尖がりゆく思ひ
花ざくろ老いても陰のほのあかり
何処へと問ひ問はれゐる鳳仙花
そして誰もゐない夕日の芒原
沈黙も寒のきはみの紫紺かな
椿一輪おく胎内のがらんだう
朝の鵙もうここいらで転ばうか
海市あり別れて匂ふ男あり
王子の狐火ゆうらりと昭和果つ
恃(たの)むものなし月光の針を呑む
以後の世を歩きつかれて雪女郎
画鋲挿す癌病棟の夏の壁
理由なき反抗獅子座流星群
梧鼠(むささび)がとぶ霊域の大月夜
後の世は知らず思はずねこじやらし
やさしさはずるさに似たり雲の峰
暇なのでひまはり奈落へと運ぶ
花嵐お手々つないで鬼がくる

2020年11月13日金曜日

【読み切り】「鷲掴みの現代諷詠」――句集『赫赫(かっかく)』渡辺誠一郎(深夜叢書)より 豊里友行

 東京を丸ごとたたく夕立かな

  俳句表現の醍醐味であるモノの本質を鷲掴みした的確な言葉たちが、どの句にも魂の弦をしっかりと張られている。
 あとがきに「佐藤鬼房生誕百年が過ぎ」とあるが、佐藤鬼房俳句の魂は、受け継がれ、ここに健在だ。
 
 底冷えや川の匂いの文学部
 桜より淋しき息が出てしまう
 魂を隠しきれない水着かな

 

 現代俳句の題材をストレートに感性の瑞々しさに俳句に現れること多々あり。
 「文学部」をこのように瑞々しい感性で捉えた俳句を私は、知らない。
 桜を淋しくさせてしまった時代を私たちは、また造り出しているのか。
 水着で隠すはずの身体からは、生命の躍動や魂さえも隠せないのだ。
 
 渡辺誠一郎さんの東日本大震災から九年の歳月は、並々ならぬ言葉との格闘でもあった。
 
瓦礫失せ一痕として冬の星

 瓦礫が片づけられて整備されても、ひとつの痕跡は心の闇を照らし出す冬の星であり続けるのかもしれない。
 
狐火もて見るやメルトダウンの闇

 狐火は、東日本大震災で亡くなられた死者への日々追悼の灯火を燈す渡辺さんの意志ではないか。
 
原子炉を遮るたとえば白障子

 原発事故の責任や対策を国は、放置し続け、ないがしろにされ続ける。
 死者の尊厳を生き残った渡辺さんたちは、つねに俳人として東日本大震災を詠い続ける意味は、忘却、忘れたくない一心なのかもしれない。
 
原子炉はキャベツのごとくそこにある

 日常のキャベツと一緒に共存し始めた原子炉とは何だろうか。
 渡辺誠一郎俳句の社会詠の鋭さは、この日本大震災との俳人としての格闘にある。
 
 渡辺さんの社会詠は、時代を焙り出す。
 それらは、徹底した真実への眼差し、観察力を日々、磨き続ける中から宿る。
 

小雀の一羽加わる濁世かな
国よりも先に生まれし田螺かな
ミサイルの空は窮屈梅筵
はつきりと見えぬものへと捕虫網
軍装を今だに解かぬいぼむしり

 
 家族や周囲への温かな眼差しにも顕著に秀句があった。
 
妹の鼻が低くて金魚玉
金柑を握りて友を補足せり
姉の住むやさしき町のリラの花
金柑を握りて友を補足せり

 
 風土を鷲掴みする表現力に脱帽である。
 
ぬばたまの闇包まんと熊の皮
命などみえては困る万愚節
心臓を欲しがる夜の菊人形
隠沼に魂映すなら花のころ
みちのくのどれも舌なき菊人形
百年の鴨居を揺らす昼の蜘蛛
じゃんがらの手足からまる夏柳
栄螺堂闇ごと捩る余寒かな
静止衛星直下熊の子眠るなり

 
 どの句にも詩魂の弦がしっかりと張られていて共鳴句を選ぶのに困るくらいだった。
 ますますの御健吟を祈りつつ私も現代俳句の弦を弾く者として魂の共振をいただいた。
 ありがとう。ありがとう。ありがとう。
 下記の共鳴句も頂きます。
 
春暁のますほの小貝賜りぬ
宿縁をたどれば夜の蟬の穴
まつさきにわが眼窩へと秋の風
消えぬなら枯野の沖へ風となり
瞳孔の拡がり見える冬の湖
眼力の一つに春の飛蚊症
心臓に貼りつくことも飛花落花
轟沈を知っているなら水水母
かなぶんに当たれば固き空気かな
木にのぼる猫のしっぽの小春かな
凍滝は全重量でありにけり
鯛焼きのどこかに熱き心の臓
着ぶくれて脳みそ小さくなりいたる

冬深し小さな朱肉見つからぬ
身のどこか置き忘れたる蒲団干す



2020年9月11日金曜日

【読み切り】圧倒されっぱなしの俳人の覚悟と生きざま 『秦夕美句集』(現代俳句文庫―83) 豊里友行

十六夜に夫を身籠りゐたるなり

帯の俳句が妙に私の脳裏にこだまする。
周辺の俳句を拾い読む。
判読しながら秦夕美の生きるベクトルに圧倒されていく。
「ふぶく夜を屍の十指ぬぐひけり」「寒紅をひくこのたびは喪主の座に」「雪原の果いつぽんの泪の木」「ただ生きよ風の岬のねこじゃらし」
あるがままに詠み込んでいく秦夕美の俳句に私は、惹きこまれていた。

誰も叫ばぬこの夕虹の都かな
ゆつたりとほろぶ紋白蝶のくに


「誰も叫ばぬ」「ゆつたりとほろぶ」の俳句にこの国を憂う俳人のアンテナが、時代を感受している。この俳人の中では、出色に見える俳句だが、私をきちんと丁寧に俳句に詠う力量は、社会へも実感を得た俳句として素晴らしい俳句を成している。

秦夕美と名のれば乱れとぶ螢
気負いなく自己をあるがまま詠う。
苺つぶす無音の世界ひろごれり
霜柱十中八九未練なり
花のおく太古の魚を飼ひにけり
白南風に仮面の裏の起伏かな
ままごとのお客は猫と昼の月
今生の光あつめ雛の家


この俳人の俳句をささえている丁寧な描写力は、観察眼と言い換えてもいい。
よく視ている。
よく聴いている。
よく心に感受している。
それは、とても素晴らしい感性の弦になっている。

ただただ圧倒された女性俳人の感性の弦を軸に人生を奏でる気概。
私は、俳句観賞するためにも、もっと人生を謳歌したい。
人生の先輩俳人たちが、のたうち回りながららも獲得して人生を謳うことへの嫉妬を拭いきれない。
しなやかに。
たくましくも繊細に。
力強く生きる。
俳句の奥域を広げて、深めて、真実を捉えていく。
そんな俳人たちに私は、これからも沢山たくさん精一杯のエールを贈りたい。
この同時代に生きて俳句を切磋琢磨していくエールを私も確かに受け取っている。
この俳人の情念を突き抜けた先を私は、もっと見てみたい。
共鳴句を頂きます。

貝がらをあやすのつぺらぼうの母
残照の鰭もつ子宮(こっぼ)泳ぎけり
念々ころり寝棺・猫又・願ひ文
とろり疲れてやさしい闇に吊柿
七草にまじへ啜るは何の魂
回想の雨のぶらんこ揺れはじむ
月浴びてゐる「わたくし」といふ魔物
雁風呂やわが情欲のさざなみも
乱鶯や乳首の尖がりゆく思ひ
花ざくろ老いても陰のほのあかり
何処へと問ひ問はれゐる鳳仙花
そして誰もゐない夕日の芒原
沈黙も寒のきはみの紫紺かな
椿一輪おく胎内のがらんだう
朝の鵙もうここいらで転ばうか

海市あり別れて匂ふ男あり
王子の狐火ゆうらりと昭和果つ
恃(たの)むものなし月光の針を呑む
以後の世を歩きつかれて雪女郎
画鋲挿す癌病棟の夏の壁
理由なき反抗獅子座流星群
梧鼠(むささび)がとぶ霊域の大月夜
後の世は知らず思はずねこじやらし
やさしさはずるさに似たり雲の峰
暇なのでひまはり奈落へと運ぶ
花嵐お手々つないで鬼がくる

2020年8月28日金曜日

■【読み切り】俳句日記の普段着で生きている ~句集『乱雑な部屋』(西村小市)~豊里友行

  句集『乱雑な部屋』(西村小市)に「だれもが句集を出版できるかたち」という謳い文句の小さなチラシが挟まれている。
 100年俳句計画とある。
 私は、冊子という外観からちょっと俳句観賞の力みが抜けて自由に読み込むことが出来た。
「あとがき」には、作者の飾り気のない素直な言葉が佇んでいた。

 六十五歳になるのを記念して句集をつくることにした。句を書き出し、季節ごとにまとめたが、それを見ていると句集をつくるのはおこがましいことのように思えてきた。でも、「ここまでしか到っていない」を「ここまでは来た」と考えることにした。一句でも気に入っていただける句がありますように。

春愁や学生服の光る袖


 春愁は春の物思いのこと。降り注ぐ日の光りは学生服の袖ボタンをきらりと光らせている。作者の観察眼も光る。

表札に残る父の名花曇り

 表札に残る父は、もう他界されているのだろう。花曇りは、桜の花の季節の終日曇るような天候を言葉に定着され季語として親しまれている。詠み手の心情は、花の咲き出すことからすっきりとしないが、そんなに暗くない。

人類に尾骶骨あり蝌蚪の紐

 蝌蚪(かと)の紐(ひも)とは、オタマジャクシの尾のこと。人類に尾骶骨なるものがあるようにだ。人類の進化は、蛙の成長過程よりも速く、速く、速く突き進むのだが、何処へ向かうのか。

もどらないことだつてあるふらここよ

 元に戻らない事だらけの世の中にブランコ(ふらここ)に思いを寄せる。

虫籠の胡瓜崩るる夜が明けて

虫籠の胡瓜が夜が明けると崩れていた。その時間の経過を思い描きたい。

いつだつて自分史書いてるなめくじり

 蛞蝓(なめくじり)は、ナメクジの別名。蛞蝓の形態は、筆のようにも見えてくる。いつだって自分史を書く覚悟がうかがえる。

翳りたるところに集ふ目高かな

 翳(かげ)に集う目高に託した人間心理が上手い。

砂埃つもりをりたる蟬の腹

 観察眼を磨く。たんたんとたんたんと。

きのこ飯妻が隠れて書く日記

 俳句日記は、とても素敵な時の宝物。きのこ飯が、なにやらユーモラスにも。隠れて妻が書く日記も、それを見ている旦那の俳句日記も、どちらが赤裸々かしら。

枝豆に見つめられてる夜がある

 枝豆に見つめられている夜、か。

月にだけ話したいことないですか

 そうですね。私は、月に向かって吠えたい、かな。

 いつからだろう。俳人たちの敷居の高さにのっかって句集が、選ばれた俳人たちの物になったのは。こんなに俳句を楽しく詠めるなら誰もが、句集を出版できるようになったらいいじゃないか。句集の呪縛とでもいいましょうか。西村小市さんの句集『乱雑な部屋』による俳句日記の日々を私は、とても良いことだと思う。なんと第六刷り。俳句が、普段着の俳句になることを切に願う。

2020年8月7日金曜日

【読み切り】「タナトスとエロス呑み込む貝は都市 ~九堂夜想句集『アラベスク』より~」 豊里友行

 九堂夜想さんの俳句の初見は、海程だった。
 私も当時、俳句の武者修行のため金子兜太先生の海程会員として俳句を切磋琢磨していた。
 あっという間に独自の作風で頭角を現していく印象を受けた。
 『セレクション俳人 プラス 新撰21』(邑書林)にて入集者は越智友亮、藤田哲史、山口優夢、佐藤文香、谷雄介、外山一機、神野紗希、中本真人、高柳克弘、村上鞆彦、冨田拓也、北大路翼、豊里友行、相子智恵、五十嵐義知、矢野玲奈、中村安伸、田中亜美、九堂夜想、関悦史、鴇田智哉。
 私も私自身を含めて若手俳人21人の鮮烈な登場に大いに刺激を受けた。
 その中でも北大路翼さんと九堂夜想さんの俳句には、衝撃的な俳句の視界の拡大に戦慄さえ覚えた。
 九堂夜想さん(1970年生まれ、「LOTUS」同人)の第1句集『アラベスク』(六花書林)を読み深めていくにつれ私の中で言葉にしがたい感情が芽生えていた。
 硬質な詩魂の原石が、マグマのようにぐわぁんぐわぁんと構築されていくことへのあせり、いらだちを同時代に生きる俳人として感じる。
 それは私の心の奥底に棲む俳句の鬼が抱いている嫉妬だったのだろう。

春深く剖かるるさえアラベスク

 冒頭の〈春深く剖(ひら)かるるさえアラベスク〉は、まるで手術台に立ちメスを踊らせる舞台かのように春を深く鮮やかに解体してみせるとアラベスクの世界が展開している。
 アラベスクとは、モスクの壁面装飾に通常見られるイスラム美術の一様式で、幾何学的文様(しばしば植物や動物の形をもととする)を反復して作られている。
 九堂夜想俳句のある種のマジックに魅了され、快楽の歓喜も悶絶の苦痛も鮮やかな世界観に誘われていく。

みずうみを奏でる断頭台なれや
母踊り来るやまなうらの離れより
燃えずの火濡れずの水をわたり馬
花という花からびゆく相聞(あえぎこえ)
月よみや水に憑かれて海という


 断頭台とは、死刑執行人が斬首刑を行う時に使用する木製の台である。その行為の戦慄とは裏腹にみずうみを奏でる断頭台への祈り。
  眼裏(まなうら)の離(はな)れより母が踊り来る記憶。
燃えない火も濡れない水をも馬がさっそうと渡る幻想的な世界観。
 「からびゆく」は、ねび行く(ねびゆく)として読み解くと次第に花の成長していくエロス。
 月光圏の水に魅せられ憑かれてしまう魔性を海と名づけよう。

みなみかぜ貝殻は都市築きつつ

 九堂夜想俳句の醍醐味は、AというモノをBという世界に異化する超リアリズムな俳句的錬金術とでもいうべき世界観の構築にある。
 貝は瞳のように柔らかに誕生しつつも堅い貝殻になってもなお都市を築きあげつづけるのだろうか。みなみかぜは、絶えることのない永久無窮の九堂夜想俳句の都市を築きあげ続けている。

死に顔へ海市はこばれゆく夜会(ソワレ)


 海市(かいし)とは、気温の相違により、地上や海面上の大気の密度が一定ではないときに、光の異常な屈折が原因で、遠方の景色が見えたり、船が逆さまに見えたりするなど、物が実際とは異なって見えるような現象のことである。死者の顔へと海市は、夜会(ソワレ)の宴に誘われる。
 九堂夜想俳句のエロスとタナトスへの誘いの絶頂の波に呑まれないように必死に抵抗しつつ、これからもジックリと読み解きながら私は私なりの俳句世界を切り拓き続けたい。

2020年6月26日金曜日

【読み切り】「青蛙まづは懺悔より頭垂れ」(池田澄子句集『此処』)  豊里友行

先ずは、私の懺悔から。
己の、この鈍感さを振り返る。
何かと池田澄子さんの俳句に、たびたび出会うたびに魅了されてきた。
Facebookでお友だちをしていただいているが、閲覧のみで中々、交流を持つほどの趣向の共通点は、なかった。
接点が欲しかった、というのが私の正直な気持ちだった。
大井恒行先生のブログ「日々彼是」で澄子さんの夫の池田龍夫著『時代観照ー福島・沖縄そして戦後70年へ』(社会評論社)が御紹介されているのを見て、これは、御縁だと私の早合点で、池田龍夫氏宛で辺野古の写真集を御贈りした・・・・。
句集『此処』を読み終えて愕然としている。
「後期」より。

 八歳の夏、かの戦争で父を奪われ、人は死ぬ、死は絶対であると知って以来、此の世の景の儚さを忘れることができない体質になったようだ。偶々人に生まれ多くの人に出会い、その先にある別れの怖ろしさに、一瞬の現象をも含め様々の出会いを深く意識し、別れを怖れる自分をも眺めながら生きてきたようだ。二〇〇一年に師が逝き同じ年に育ての父が、そして母、そして夫が逝った。逆縁は許さぬと夫々に申し付けてあるので、あとは自分の死だけである。
 自分の死は怖くない。


丁寧に生きるこの俳人を見習いたい。
私は、この俳人の覚悟など知るよしもなく此の世を右往左往しているのだろう。

あっ彼は此の世に居ないんだった葉ざくら

すみませんでした。
FBでのメッセージの写真集の返礼にも、私は、ドラム缶並みの鈍感さで気付かずにいた。

たいがいのことはひとごと秋の風
牡丹雪大人ですから黙ってます


たいがいの度を越して失礼していた昨日までの無神経な私にしょんぼりと反省しながら池田澄子俳句の心の機微の共鳴句をいただきます。
料理の俳句にも丁寧に生きる所作がうかがえる。

松過ぎの餃子の正しい包み方
心血の注ぎ疲れや千枚漬
湯に放つ刹那春菜のうれしそう
細切りの海苔を散らせばこぼれて春
啓蟄の稲荷寿司から紅生姜
わが死後の皿に汚れてパセリなど
ごーやーちゃんぷるーときどき人が泣く
雑煮用鶏を解凍しつつ寝る
饅頭に濃き焼印の端午かな
自ずから熟れて傷んで匂って桃
遠来の洋梨嗅いで供えて撮る
一月一日喪中の瓶詰のイクラ
切山椒いろとりどりや悲喜こもごも


私も池田澄子さんのように丁寧に生きて俳句を綴りたい。

よい風や人生の次は土筆がいい
桜さくら指輪は指に飽きたでしょ
きりたんぽいのちあるものさびしがり
決心はゆらぐし柚子は黄色さすし
ねぇあなた嗚呼どうしよう桜咲く
心配に濃淡のあり夕ざくら
次の世は雑木山にて芽吹きたし
偲ぶひと多くて困る青葉かな
生き了るときに春ならこの口紅


池田澄子さんの俳句魂は今なお、青葉である。
食が細いと俳句は呟いてったっけ。
食べて食べて俳句をもっともっともっと創造して欲しい。
これからも池田澄子さんには、長生きしてもらって池田澄子俳句に唸らせられつつ、私は私らしい俳句で丁寧に生きる姿勢を見習いたい。
ぜひ。句集『此処』(池田澄子)を御購入、御一読いただけると幸いです。

2020年6月12日金曜日

【読み切り】「輝ける日々の橋本喜夫俳句」(句集『潛伏期』より) 豊里友行

 帯文の俳句と中原道夫先生の読み解きにハッとする。

まだ融けぬ二人使(ふたりづかひ)の唇の雪

 二人使(ふたりづかひ)とは、何だろう。
 広辞苑によると第六版によると「死亡の通知にゆく人。二人が一組になって行く。」とある。
 私は、この言葉から共に生きている二人の唇を、連想して誤読していた。
 二人の掛け合いは、この唇から生まれる。
 その会話の言葉の一語一語は、シャボン玉みたいにキラキラと儚くも美しく宇宙(そら)を輝かす。
 だがこの俳句の上五には、「まだ融けぬ」があり、そして最後の「唇の雪」で、ふっと現実に引き戻される。
 唇に焦点を当てたクローズアップ手法。
 この句の世界は、死を告げるための二人の使者の唇の雪が、まだ融けずに刻々と未来の死へと歩んでいく。

やや寒し橋本喜夫妻由美子

 二人の会話(掛け合い)は、いうなれば花。
 花やかに風と戯れ、月や太陽の光を一身に浴びている二人の人生の惜別の使者がひたひたと忍び寄るようだ。
 降り注ぐ雪は、まばゆく世界を真っ白な未知の地球(ほし)の白いページへ誘う。
 宮沢賢治の妹への惜別の詩「永訣の朝」が、静寂に二人の会話を永遠にとどめたのを思い出す。
 体からしだいに熱と光を奪うはずの雪は、静かにめぐりめぐる日々の回想の翼を剥ぎ取り、読み手を白いページに佇ませる。

問診は相聞に似て百千鳥

 愛するってなんだろうっ。
 万葉集の相聞。
 相聞(そうもん)とは、互いに安否を問って消息を通じ合うという意味の言葉。
雑歌・挽歌とともに『万葉集』の三大部立を構成する要素の1つ。
 橋本喜夫さんの医師としての気遣い。
 俳句にもその真摯な姿勢が、終始、垣間見れる。

 共鳴句の中にも日々の日常が日記のように綴られている。
 観察眼が詩的表現の言葉に磨きをかけて光る。

天眼をとり落としたる雪達磨
さみしくて死ぬことのあり白兎
寒蜆かすかに動きたる銀河
青蜥蜴緑(アク)柱石(アマリン)の中に死す
美しき日本でありしころの羽子
ふらここの月夜に弦を垂らしけり
新聞に巻かれ新巻鮭しづか
放置自転車春光を放つなり
寒昴燈さねば家なきごとし


 あとがきで橋本さんの言葉が感謝しきれない感謝を綴る。

「今回第二句集を纏めるにあたり、自分の句を俯瞰的に読むと、なんでこんなに暗くて深刻な俳句が多いのだろうとすこし呆れてしまいます。ただ、この期間になんとか正常な精神状態で仕事をこなし、生きて来られたのも、俳句が生身の私の身代わりになって、慟哭してくれたお陰かもしれないと思うようになりました。そういう意味では俳句という文芸、そして俳句を通じて知り合った友人たちには、感謝しても感謝しきれません。」

 句集『潛伏期』の妻への橋本喜夫俳句は、まだ心の中でも融けずに二人の唇の雪があるのかもしれない。

春暁や運河のやうに眠るひと
海明や妻の口歌(くつうた)みな挽歌
着ぶくれて喪主はあたふたするものか
去年今年燃費の悪いひととゐる
病む妻に泪拭かるる明易し
食べられぬ妻に新米すすめたる
葱を切る女をけふの神とする


 新型コロナウイルスの感染拡大防止のため私も冬籠りをするようにウイルス籠り(ステイ・ホーム)の日々を過ごしてみて日々を丁寧に生きたいと思えた。
 句集『潛伏期』(橋本喜夫)の愛に触れて、この橋本喜夫俳句に忍び寄る死は、誰もが抱えている心の奥底に潜む二人の使者なのかもしれない。
 やはり1人者の私には、愛とは何なのか答えが解けないでいる。
 俳句のというか人生の先輩は、真摯に人生に向き合い、愛に向き合い、死に向き合う。
私には、二人使の句を誤読してしまうくらいに死は漠然としたものだった。
 誕生も死も私たちの出会う人間交差点で大切な人生の財産になる道程にある。
 人生は、いつも何かの潛伏期なのだろうか。
 それが死というものへの結末だとしても人類は、愛という果実を成しながらめぐりめぐる生きていく道を歩み続ける。
 この句集に流れている死への不安を乗り越えていくための道程は、やはり橋本喜夫俳句という生きざまだ。
 喜びも悲しみも共に生きてきた橋本喜夫さんの愛は、出逢うならば惜別までも俳句の果実と成す。
 橋本喜夫俳句に出会えて良かった。
 花のある俳句だけでなく落花の余韻まできちんと詠める愛は、輝ける日々が宿し、悩み苦しみ、そして喜びを噛み締めて成長してきた人間にしか見えない世界なのかもしれない。
 共鳴句をいただきます。

薔薇匂ふいつも何かの潛伏期
母泣かすことのたやすき花御堂
彗星の尾にゐるごとく涼むなり
菜虫とりNASAの研究費をけずる
かまいたち綺麗に縫って泣かれけり
春暁やいつか遺品となる眼鏡
告知して下さいますか春の月
父の日や代はりに犬が叱られる
春の夜の折鶴胸に置き飛ばず
こころとは顔のなきもの心太
藤椅子やどこへも行かぬことも旅
湯冷めして何やらレトルトの気分
口を出て毬歌われのものならず
リラ匂ふなかを黒衣の列すすむ
わが死後を廻りつづける扇風機
嫌われてしまへば無敵なるカンナ
螢烏賊ほどの肉欲ありにけり
手花火のこんな近くにゐてはるか
深雪晴こんなしづかに列車混む
人間に生き腐れある春炬燵
白酒やひとりの声を肴とす




2020年5月29日金曜日

【読み切り】「鷗寄る現代五感の豊漁なり」『楡の茂る頃とその前後』(藤田哲史) 豊里友行

 『新撰21』で御一緒した藤田哲史さんの丁寧に見る俳句の現代五感に顔を思わず赤らめたり、しんみりしたり。
 私は、藤田哲史さんの鷗(かもめ)の俳句が好きだ。
 共鳴句とコメントを。

冬鷗何の忘却も快く
 たいていの冬は生物の活動を停滞させるのだが、生きることの意味を感じるの大半は、一生懸命に生きる時は、この厳しい冬なのではないだろうかと私は思う。鷗たちは、一生懸命に漁の船が引き揚げる魚たちを狙って船に寄せて来る。まるで鷗は一生懸命という本能なのかとも。作者は、どんな忘却も快くあるがまま生きる冬鷗に魅せられる。

啓蟄や光が示す宙の雨

 フォトグラフは、光の画である。作者の光を言葉によって捉え直したのに瞠目。土中から這い出す虫たちの啓蟄に雨が太陽の光を纏い宇宙を成す。

蟷螂にコップ被せて閉ぢ込むる

 蟷螂(かまきり)にコップを被せて観察する。その発想と行動に人間の残忍さに勝る好奇心が面白い。

戯れに裸撮りあふ関係なり

 いーなっ。いーなっ。現代を己の五感で感受する。それもひとつのヒストリー。

朝曇シャワーカーテン貼りつく背
 いとしさが視覚スケッチできる俳人ってすごくないっ?!

卓上の梨が詩集に置き換わる
 生活のうつろいを俳句日記にする。大切な宝物です。

鯖雲が今日のさぼりの理由です

 そーなんだ。

夜明けまであとひとときの穭です
 ふーん。ちゃんと睡眠確保して欲しいが、こんな素敵な俳句ができるなら寝不足もいいね。

ファクシミリ刷られて落ちる猟期です
 言葉の狩人かな。

朴落葉一枚拾ふ会ひたいとき
 このセンスが私も欲しい。

躊躇無く人のマフラーして君は
 きゃっ。いーな。いーな。私も恋活しよっ。

マスカットほのかに種の見ゆるかな

 日常は発見の宝箱だ。

眩しさはわつと散らばる冬鷗
 万物に降り注ぐ太陽の光をはね返すほど白く懸命に躍動し飛翔する冬鷗が弾けて散らばる瞬間を言葉で永遠にとどめる俳人の現代五感をこれからも丁寧に生きて欲しい。

2015年5月1日金曜日

~水岩瞳第一句集『薔薇模様』を読む~  へとへと / 中田剛



 このたび水岩瞳さんの第一句集『薔薇模様』より、そのときどきの私の心に引っ掛かってきたいくつかの句について思ったことを、勝手気儘に句集評にならない半端な雑文で書いてみようと思う。

日本の中年へとへと鰯雲

 句集中まっさきに、この句に食いついた。「へとへと」が今の私の心身の状況
にずばりあたったから食いついた。「中年」というのは、広辞苑には「青年と老年の中間の年頃。四十歳前後の頃。壮年」と説明されている。「日本」の「中年」は、だいぶ前から現在に到るまで、つまりかつての高度経済成長期から停滞衰退期の今に到るまでずっと「へとへと」であり続けている。或る時期も、「二十四時間戦えますか」的にはやされて、うわべは空元気で「はつらつ」に見せかけていただけである。かつては例え、空元気でも元気に装えた。曲がりなりにも鼻先にニンジンがぶらさがっていたからである。今はニンジンも何もないまま、昔以上にただひたすら走れ走れとけしかけられている。「へとへと」どころか「へとへとボロボロ」である。ところで、この句はいろいろ差し替えがきく。「日本」と「中年」の箇所を入れ替えて想像して楽しむ。さまざまな国のさまざまな年代の人々の「へとへと」が想像されて面白い。私は、年寄りのとば口に立っているから、さしずめ「日本の老年へとへと鰯雲」か、あるいは「日本の初老へとへと鰯雲」だろう。「鰯雲」は動かない。「鰯」は生き腐れしやすい「人間」の「群れ」そのものである。

 実物の水岩瞳さんには、句会で一、二度お会いしている。しかし、水岩瞳さんの実体は何ほどもわかっていない。俳句とて、まるきりの虚構であってもよいわけだから、句集『薔薇模様』に水岩さんがそっくりそのまま映し出されているとは限らない。そっくりそのまま映し出されることはまず無いだろうが。それに、そもそも誰でも、自分の実体が何であるかはわからない。取りあえず水岩瞳さんの実体ニアイコール句集『薔薇模様』が映し出した水岩瞳さん、そう仮定して、ちらちら見える私の中の水岩瞳さんは桜餅が好きで,お芋も好きで、そうして夫婦仲がかなり良い。

父に似て吾も好きなり桜餅 
今日の佳きこと一つおまけの柏餅

 水岩さんのみならず、人にはそれぞれすこぶる好きなものがあり、それらに
大いに励まされることがある。大袈裟に言えば、生きる力をもらう。水岩さんの場合は「桜餅」な訳だ。他愛もないが大体にして、人はささやかな喜びを見つけて日々を生き継いでいるものであろう。

焼き芋を二つに割つて夫と昼 
サッカーの講師の御礼さつま芋

 この二句から想像するのだが、芋が好きなことと夫婦仲のよろしさは偶然交差する。好きな人と好きなものを分けて食べる楽しさが伝わってくる。水岩さんは、夫を愛しているのだと想像する。(このように書いて、顔から火が出るほど恥ずかしい)

とんとんとんと二階の夫に御慶かな 
冷奴われは絹ごし夫もめん 
涼風や夫の鼾をわれ許す

 夫と絡むと何か楽しそうである。

夏は夜さらなり明日はフルムーン

 この句は、うきうきわくわく感があまりにもあけすけである。私は、全く自分勝手にフルムーン旅行と解釈している。


【執筆者紹介】

  • 中田剛

「白芽」代表、「翔臨」「円座」同人
 句集『竟日』『珠樹』句文集『中田剛集』