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2026年9月11日金曜日

【未来俳句・短期連載1】心身から考える未来俳句  横道誠

  吾輩は俳人ではない。名前はもうある。大阪で生まれ、京都で生きてることには見当がついている。文学研究者であり、自閉スペクトラム症など多くの問題の当事者である。「未来俳句宣言」と山根もなか氏の「未来俳句宣言に寄せて──「短律」という武器、あるいは二重露光にいて」を読んで、俳句の未来と同時に、俳句を受けとる吾輩の心身のことを思った。

 山根氏はあえて「身体」に焦点をあてている。そのほうが衝撃力は大きい。しかし吾輩は心身一元論者、あるいはむしろ心身一・五元論者なので、「心身」として考えたい。どんな形式ならどんな心身が息をしやすいのか、とはおもしろい問いだと考える。

 私事にわたるが、吾輩が海外でもっとも感動した場所のひとつとして、パリが挙げられる。凡庸な趣味だと非難されることは、甘んじて受けいれる。また以下の内容は、吾輩の『発達障害者が旅をすると世界はどう見えるのか──イスタンブールで青に溺れる』(文春文庫)のパリに関する記述と部分的に重なっていることをご寛恕いただきたい。

 ルーヴル美術館からコンコルド広場、シャンゼリゼ通り、エトワール凱旋門、さらに新凱旋門へと伸びる直線。エコール・ミリテール、シャン・ド・マルス、エッフェル塔、トロカデロへと伸びるもう一本の直線。それらを別の軸がつらぬく。

 建物が美しいだけではない。建物と建物の配列が美しい。

 自閉スペクトラム症者には、集めて並べることに強く惹かれる人が多い。吾輩も例外ではない。物を集め、書物を集め、知識を集め、経験を集めてきた。ひとつのものより、ものともののあいだに生まれる秩序を見つめてきた。パリはまさに、巨大な収集および配列として賞味にあたいした。

 以前、中学校の国語教科書のために十五句を選ぶならどうするか、と考える機会を持った。そのとき吾輩の脳裏にはパリが背景として展開した。


古池や蛙(かわず)飛びこむ水の音 松尾芭蕉

斧入れて香(か)におどろくや冬木立 与謝蕪村

をととひのへちまの水も取らざりき 正岡子規

赤い椿白い椿と落ちにけり 河東碧梧桐

分け入っても分け入っても青い山 種田山頭火

水枕ガバリと寒い海がある 西東三鬼

萬緑の中や吾子の歯生え初むる 中村草田男

炎天の遠き帆やわがこころの帆 山口誓子

草二本だけ生えてゐる 時間 富澤赤黄男

戦争が廊下の奥に立つてゐた 渡辺白泉

ゆるやかに着てひとと逢ふ蛍の夜 桂信子

彎曲し火傷し爆心地のマラソン 金子兜太

かぶとむし地球を損なわずに歩く 宇多喜代子

皿皿皿皿皿血皿皿皿皿 関悦史

起立礼着席青葉風過ぎた 神野紗希

 

 並びは俳人の生年順である。

 この十五句はいずれもそれ自体として、パリと何の関係も結んでいない。それでも吾輩には、十五句をとおして立ちあがる香気が、パリの美と等しいものに感じられた。

 芭蕉の水音は一点をうがつ。蕪村の斧は冬木立の内部から香をひらく。子規の句には、飲まれないままの水と戻らない時間が屹立する。碧梧桐の赤と白は、並んだまま落下する。山頭火は同じ言葉をつぶやきながら、深い山のなかへと進んでいく。

 そこから海、帆、歯、時間、戦争、蛍、爆心地、地球、血、青葉風へと広がる。

 五七五に収まる句もある。収まらない句もある。未来の俳句を考えるならば、もっと自由律は多いほうが良い選択だろうか。季語が句を支えることもあれば、語の反復、空白、漢字の形、散文的な長さ、命令のようなリズムが句を支えることもある。十五句は同じ器に入っていない。けれども並べるとひとつの街になる。

 短律に向かい、文法を削り、語と語の谷間を大きくする。富澤赤黄男の〈草二本だけ生えてゐる 時間〉では、空白が草と時間を隔て、つないでいる。この方向には強く惹かれる。他方で関悦史の〈皿皿皿皿皿血皿皿皿皿〉では、文字列が出来事と化す。神野紗希の〈起立礼着席青葉風過ぎた〉では、教室の規律を青葉風が一息に吹きとおる。

 形式はすでに音数だけのものではない。

 山根氏は、先ほど名指した文章で、定型を享受しにくい知覚を持つ者にとって、短律は己の知覚に合った新しい器になりうると述べている。吾輩はこの見方に賛同する。

 もちろん形式からの解放が、すべての心身にとって解放になるわけではない。しかし従来の形式が苦しい人はいる。定型の器に己の知覚を押しこめることで、呼吸しづらくなる人がいる。その一方で形式があるから安心して言葉を置ける人もいる。

 反復。順序。枠。数。

 吾輩のような自閉スペクトラム症者にとって、それらは拘束になることもあれば、不安定な世界を歩くための手すりになることもある。古い器を壊せば自由になる、と単純には言えない。器を集め、選べることから何かが始まる。

 五七五という器。

 自由律という器。

 短律という器。

 視覚による器。

 まだ名前のない器。

 心身が形式を生み、形式が心身を支える。その往復のなかに俳句がある。

 最後に吾輩の俳句を記しておこう。

 

地震かと貧乏ゆすりを友の言ふ 

俳句 春夏罰秋冬ついに五季 

青い海白い雲そして太陽そして


【横道誠(よこみち・まこと) 一九七九年、大阪市生まれ。京都府立大学文学部准教授、博士(文学)。専門は文学・当事者研究。著書に『みんな水の中』(医学書院)、『当事者対決! 心と体でケンカする』(頭木弘樹氏との共著、世界思想社)、『読書嫌いを覚醒させる至高のブックリスト』(ちくまプリマー新書)ほか多数。】

【未来俳句・短期連載2】新俳句宣言:坪内稔典氏の反論の吟味  ―文学はどこまで短くなることが出来るのか―  筑紫磐井

 ウエップ俳句152号で、「筑紫磐井の〈新俳句宣言〉にたいして」が特集された。ウエップ俳句15Ⅰ号で筑紫が執筆した「未来俳句宣言――俳句が芸術となるために」に対し、俳人121人に原稿依頼し、諾57、否58、無回答6であり、その回答諾者の発言をすべてまとめたものだ。回答諾の57人の内6割は否定的回答、4割が或る程度共感といったところか。


1.ウエップ俳句152号特集「筑紫磐井の〈新俳句宣言〉にたいして」特集

 そもそも、筑紫が「未来俳句宣言」を書いた理由を述べておきたい。今年度、現代俳句協会は会員が大幅な減少を示し、最盛期の9000人から4000人を切る状態となっている(これは他の2協会も同様な状況だ)。そうした中で会長・副会長を中心に改革委員会が設けられ近年にない真剣な議論が行われた。協会としては正しい判断だと思う。その中で、あるメンバーから、現俳協は「俳句自由」を理念にしているが、はたして減少している俳句人口の中で「俳句自由の理念」だけで俳人を呼び込めるかという疑問が出された。分かりやすく言えば「現代俳句協会の俳句はなにでもありです」で血が湧き肉が躍るだろうかという疑問なのだ。考えればこの問題は改革委員の一人一人が考えなければならず、一人一人が回答を提示すべきものだろう。そうした経緯から「未来俳句宣言」を書いたものだ。もちろん、上のアンケート結果から明らかなように、現俳協の内部でもこの宣言に反対している会員も多いが、談論風発が特色の現代俳句協会にあっては性急に何が正しいかの結論を出すことではなく、むしろ論議こそが活発化の源泉のはずである。その意味では現代俳句協会のなかのコップの中の嵐としての提言と考えていた。

 ウエップ俳句152号の特集で少し困ったのは、俳壇全体が未来俳句宣言に向かわねばならないか否かという反応を得たことだ。私の未来俳句宣言は、「現代俳句協会のための未来俳句宣言」(誤解を得ないように第一未来俳句宣言とも最近は言っている)であり、前衛俳句をピュアにした「我々は、過去に見たことのない風景を見たい」という姿勢を示す。しかし、俳句に対しては様々な考え方があり、現代俳句協会と対照的な日本伝統俳句協会は花鳥諷詠という理念を持っておりこれを醇化すれば別の未来俳句宣言が見える筈だ。ウエップ俳句153号では「第二未来俳句宣言」を執筆してみた。ここでは、「我々は、過去に見たことのない風景を見たい」ではなく、「如何に卓絶した本質的類想句を見出すか」が求められる。

 実は最後の俳句の協会である俳人協会にも未来俳句宣言が可能かを検討中である。うまくまとまれば俳人協会のための「第三未来俳句宣言」を提示してみたいが今のところなかなか難しい。なぜなら現代俳句協会の「前衛」、伝統俳句協会の「花鳥諷詠」に匹敵する俳人協会の理念がよく分からないからである。もしかして俳人協会に未来俳句宣言が不可能なら、俳人協会に未来はないということにもなりかねない。慎重に検討してみたい。


2.坪内稔典氏の批判

 この特集で坪内稔典氏は「盤井さん、なんだか変だよ。」を書かれているが、未来俳句宣言批判の中で問題を一番集約している意見と思えたのでこれを取り上げてみたい。批判者の論点がほぼ含まれると思うからである。

 その前に言っておくが、私の未来俳句宣言は2部構成となっている。「➀宣言に至る経緯」と「➁宣言集」である。

 「➀宣言に至る経緯」はなぜ個別の宣言が出されるかの背景説明であり、一種の総論であり、「俳句の歴史とは、子規の「新俳句」→新傾向→ホトトギス→新興俳句・人間探求派→社会性俳句→前衛俳句→閉塞の時代(前衛と伝統の固定化)であった。新しい時代の精神は常に前の時代の否定から生まれてきた。」という歴史認識と、「我々は、過去に見たことのない風景を見たい」という指針である。現代俳句協会の人々には、こうした歴史認識と方針を持ってほしいと考えている。ウエップ俳句152号の特集では現代俳句協会の人々はこの点について共感して頂いているようで安心している。

 「➁宣言集」は➀の経緯を踏まえてどれくらい刺激的で野心的な宣言が出るかのコンテストを募集している。❶【筑紫磐井の宣言】としたのは、もともと以下❷❸❹・・と続くことを期待しての提示である。一例としての私の宣言をあげてみたのであるが、袋だたきになることを覚悟している。しかし大事なのは現代俳句協会会員であれば、❶【筑紫磐井の宣言】に猛烈は反発した、別の❷❸❹が出て来るべきだろう。

     *

 坪内氏はまず次のように言う。


 「「新しい時代の精神は常に前の時代の否定から生まれてきた。」「我々は、過去に見たことのない風景を見たいのだ。」。俳句にかかわってのこうした筑紫盤井さんの発言に賛成です。」


 これは私の未来俳句宣言の内の「➀宣言に至る経緯」の部分についての評価である。坪内氏は現代俳句協会会員ではないが比較的近い立場にいた人であり、攝津幸彦、澤好摩と競い合い、その貢献に対して本年度の現代俳句大賞を受賞した先輩である。認識を共同していただけたことが分かり安心した。だが、


 でも「ウェッブ」151号に出た「未来俳句宣言」には反対というか、勝手にどうぞ、という感想です。」


 これは私の未来俳句宣言の内の「②宣言集」――特に❶【筑紫磐井の宣言】についての評価である。


 「その理由はボクなりにはっきりしています。盤井さんが挙げている未来的な作品のほとんどに共感しないからです。「ある日快晴黒い真珠に比喩を磨き」(兜太)がいいですか。「麿、変?」(れおな)に感動しますか。

  藻ねむり

  そよ風、そよ死

  渾 煌く犠

 右は盤井さんの作品ですが、作品以前のメモとしかボクには見えません。一行が「四文字、ないし三文字で十分だ」という盤井さんの未来の俳句には賛同しません。」


 もちろん新しい俳句というのは、常に「勝手にどうぞ」というしかないのだ。虚子は、秋櫻子や人間探求派の俳句を「我等の俳句」ではないといって批判した。これは一種の「勝手にどうぞ」だろう。しかし一方で、虚子は「我等の俳句」ではないところで俳句が詠まれることを否定はしていない。富澤赤黄男の「蝶墜ちて大音響の結氷期」を「面白い処があるんぢゃないかといふ気もするね。草田男は理屈つぽい。『蝶墜ちて』は理屈がなくていゝね。」(拙著『虚子は戦後俳句をどう読んだか』参照)という。自らの制作原理と鑑賞原理は少しずれていた方がいいと思う。

 兜太やれおな、私の俳句等は認めれらないという多くの人もいることを否定しない。しかしそれは未来が解決すべき問題だと思う。

 問題は、そうした結論を出す評価基準についてはある程度客観的な議論をすることが可能と思う。れおなの「麿、変?」や私の「我と無」が作品以前のメモとしか見えないのであれば、およそあらゆる短律が価値が無いことになりかねない。

 れおなや筑紫の句が「作品以前のメモとしかボクには見えません」というなら、次の近現代の俳句はこの基準で評価すべきだろう。


咳をしてもひとり 尾崎放哉

月夜の葦が折れとる

分け入っても分け入っても青い山 種田山頭火

うしろすがたのしぐれてゆくか

陽へ病む 大橋裸木


 坪内基準でいえば「作品以前のメモとしかボクには見えません」と言わねばならないだろう。実は坪内氏は自由律俳句に対しては批判的だ(とはいえ『山頭火百句』を出したりしているのだが)。

 『モーロク俳句ますます盛ん』(岩波書店2009年)では近代俳句史として虚子から戦後までの俳句をわかりやすく解説してくれている。この中で自由律俳句も紹介しているのだが、かなり批判的だ。

 「定型句にない魅力を発揮したのは短律であった」と言いつつ、「放哉と山頭火という今日の人気俳人を生み出した自由律だが、実際はこのふたりのほかは、ほとんど忘れられている。」、「おそらく自由律は言葉の作品として自立することが困難になるだろう。」、「結局は定型による表現以上の魅力を引き出すことはできなかったのではないか。」という。最近の若い自由律作家住宅顕信の作品も放哉・山頭火の文体の模倣に過ぎない、という。

 もちろん、文学的評価を受けないでは作品は残らない。自由律の作品とてそうなのだが、それはいやになるほど存在する有季定型俳句もそうなのだ。放哉・山頭火以外すぐれた自由律作品がないというなら、自由律作品の中でなぜ放哉・山頭火だけが優れているのかも語らねばならない。なぜ、「定型句にない魅力を発揮したのは短律であった」にもかかわらずその可能性を探求してはいけないのだろうか。

 我々はいきあたりばっかりにしか名句と出会うことがないのだ。おそらく短律であれ、長律であれ、定型であれ、形式とは関係なく文学的名作があり得るということだと思う。短律も、長律も、定型も文学的な感興のきっかけにすぎず、その形式にのめり込めるということが大事だ。

 そもそも片言性が最もふさわしいのは短律にほかならないのではないか。「咳をしてもひとり」はまさに片言性そのものだ。坪内氏の片言性に私が共感を持っていたのもそうした理由だったかあらである。


3.坪内稔典氏のモーロク俳句宣言

 坪内氏の最近の過激な発言は『老いの俳句』(ウエップ2023年刊)でますます推し進められている。発端は、次の句である。


天の川わたるお多福豆一列 加藤楸邨


 坪内氏は「この句に私は電撃的と言ってよいくらいに感動したのである」と述べている。天の川にお多福豆一列とは、「常識を逸脱、或いは大きく超えている。これはモーロクして常識的脈絡を逸れたものの表現だ、と私は思った。」。片言俳句論から始まった稔典俳句からは、このモーロク俳句が導き出される必然性はある。私も共感するが、ただ私は、俳句における独自性として〈日本の詩学における西洋的論理主義の否定〉としてとらえなおしてみるべきだと思っている。「片言俳句論」は許容できるが、「モーロク俳句」はそのネーミングから誤っていると思われる。なぜならいわゆる坪内氏の「モーロク俳句」は年齢とは無関係に存在し得るからである。


あさきゆめみしはごまの花なのか    阿部完市

あるはんぶらつく移動祝日の晴ればれ  加藤郁乎

麿、変                高山れおな


 これを坪内氏なら「モーロク俳句」というのではないか。しかし彼らはモーロクしていない。まだ意欲満々で、意識的に反骨の塊で俳句を詠んでいるだけなのだ。

     *

 坪内氏の「モーロク俳句」を読むためには「坪内氏のモーロク俳句宣言」を想定した方がいいであろう。『老いの俳句』で坪内氏は次のように述べる。まさに「モーロク俳句宣言」である。


【坪内氏のモーロク俳句宣言】

「自分へ向かっての発言でもあるのだが、俳人、まして老人は、尋常はだめ、従順もだめ、古びてももちろんだめ。単純にいえば、ハチャメチャに言葉を使うべきなのだ。できるだろうか、そのような言葉使いが。権威とか気高い精神、あるいは悟りや諦念、そうしたものを破壊して乱雑や混迷や混沌の言葉に触れる。それができたら、もしかしたら老人も俳句を生かすかもしれない。


 ・できるだけ口語を使う。

 ・仮名遣いを現代仮名遣いにする。

 ・カタカナ語、流行語などを積極的に用いる。

 ・取り合わせで句を作る。


 これは私が自分に課している作り方。このような作り方を通して現在の流動する日本語

に触れたいのだが、実際はなかなか難しい。次はその試行の一句。

  この朱欒ギリシャの村の道端だ」


 このように述べている。「片言俳句論」以来論理は一貫している。しかし、その上で坪内氏は「お多福豆の句を何度も話題にしたが、モーロク俳句という見方は一向に広がらない。」「みなさん、大口を開いて笑うが、でも、笑うだけで終わってしまう。」「モーロク俳句の意義や可能性を言えば言うほど、仲間というか友達がいなくなるのだ。」と述べる。やはり過激な宣言者は常に寂しいのだ。

 このモーロク俳句宣言を私の宣言と比較してほしい。方向性はかなり違うが、言葉にこだわった宣言(ハチャメチャに言葉を使う)、年齢と関係のない宣言、俳壇からほとんど受け入れられず模倣者も現れないという点では非常によく似ている。


【筑紫磐井の未来俳句宣言】

「詩、とりわけ俳句は――

①一行があまりにも長い。四文字、ないし三文字で十分だ。文法は要らぬ、名詞・動詞だけで辛うじて伝達はできる。文語・詩語、誤字・誤用の駆使も一行を更に短くする。

②一行の中でたやすく(部分的)類想が発生する。だから全体の模倣だけでなく極微の模倣も否定せよ。 

③隣る二行は連想を結合する。行の谷間を極大にせよ、

④一行ですべてを述べ、全体の構想を断ち切ろう。偶然がいつか全体を語るはずだ。」


三、未来俳句宣言の最終の目的

  こう見れば、未来俳句宣言の最終目的が見える筈である。それは「文学はどこまで短くなることが出来るのか」である。ことは俳句をはるかに超えている。我々は、世界で最も短い詩(俳句・haiku)を通じて文学の根源にたどり着く入口に来ている。私たちが問うのは、極限まで短くなることにより文学は何を失うのか、何を獲得するのか、である。

2026年8月21日金曜日

【未来俳句・短期連載】器はもう一つ増える——未来俳句宣言への応答  山根もなか

 自由律の実作者として、私は長く一つの問いを抱えてきた。器を脱いだ俳句は、どうすれば成り立つのか。だが筑紫磐井氏の宣言を読み、問いの立て方そのものを改める必要を感じた。問うべきは、脱いだ先に何が残るかではない。その器はそもそも誰の身体に合わせて作られたのか、である。

 『WEP俳句通信』一五二号の特集では、賛成五十七、反対五十八と票が拮抗した。私はここに一票を足すつもりはない。定型か否かという軸に対して、別の軸を差し込みたい。誰にとっての定型か、という軸である。

 あらかじめ断っておく。当事者研究とは当事者が自ら語る方法であり、外部から形式を割り当てる身振りは、この方法が最も警戒してきたものだ。だから本稿は、誰かに短律を勧めるために書かれるのではない。短律という形式の条件を記述したとき、そこに当事者研究の記述と構造的な相似が現れる——そう述べるに留める。


一 季語という構成的体制

 綾屋紗月は、文化人類学者ジーン・レイヴの「構成的体制」という語を用いて、自己感の問題を論じている。構成的体制とは、道具・建築物・言語・規範・制度の総称であり、モノの世界に秩序を与えるだけでなく、個々人の知覚・運動パターンに秩序を与え、その共有を可能にするものだ。多数派はこれを享受している。だが少数派はそこにあてはまらない。ゆえに少数派は、自分たちの知覚・運動体験に合った新たな構成的体制を立ち上げる必要にせまられる——それが当事者研究だと綾屋は書く。

 季語と定型は、まさにこの意味での構成的体制である。

 季語の本意とは、共同体が数百年かけて結晶させた知覚の秩序にほかならない。「木枯」と置いた瞬間、まだ書かれていない背景が立ち上がる。読者はそこに冬を、乾いた光を、人の心細さを見る。これは共有を可能にする装置として驚くべき精度をもつ。

 國分功一郎はドゥルーズの他者論を読み解いて、他者とは「知覚領域の構造」であると述べている。他者がいてこそ対象には裏側があり、死角があり、余白がある。他者がいなければ、意識とその対象はもはや一つでしかない。

 季語はこの意味で、俳句における他者である。それは作者が見ていない部分を保証し、周辺的な世界を組織する。定型十七音とは、その他者を借用するための器なのだ。

 問題は、この借用が万人に等しく可能かどうかである。


二 出来事に先立って主語はない

 國分は続けて、自我とはア・プリオリに存在する基体ではなく、知覚領域の構造がもたらす効果であると指摘する。さらに『中動態の世界』では、ドゥルーズがライプニッツを読み替えた場面を追って、出来事に先立って主語=主体は存在しない、と論じている。罪人であるアダムは、「罪を犯す」という動詞が名指す出来事の周辺で、その効果として発生する。

 この順序を俳句に持ち込むと、定型の構図が見えてくる。定型は、まず詠む主体を立て、その主体が世界を切り取るという順序を要求する。切れとは主体が下す判断であり、季語の斡旋とは主体が行う選択である。定型とは、主体を先に置く形式なのだ。

 短律はこの順序を反転させる。

 筑紫氏の作品を見る。「藻ねむり」「稲漬き」「道泥づ」「風うそ哭け」。ここには主語がない。時制もない。人称もない。これは欠落ではなく、出来事の側から言葉が発生している状態である。

 ここで正確を期しておきたい。ドゥルーズが礼賛したのは動詞そのものではなく、動詞の不定法であった。國分は、動詞が名詞に先行するという命題は不正確だと明言している。名詞と動詞はもともと未分化であり、不定法とは人称も現在形も態の多様性ももたない、その未分化な水準の形態なのだ。

 短律とは、名詞を捨てて動詞へ向かう形式ではない。名詞と動詞が分かれる前の水準へ降りる形式である。「藻ねむり」は名詞でも動詞でもない。だからこそ、そこには誰の眼差しも先行していない。

 筑紫氏は宣言でこう書いた。文法は要らぬ、名詞・動詞だけで辛うじて伝達はできる、と。これは俳句史の内側から導かれた設計だが、行き着いた場所は言語の基層である。


三 当事者研究が示すもの

 綾屋の記述に、次のような場面がある。何かをしようとしたとき、特に好みというわけでもない他者の表情や動きが、選択肢として勝手に思い浮かぶ。「これがオススメですよ」と言われている気がする。しかしそれを追い払っても、自己像はからっぽで、煙が漂うようにもやもやしている、と。

 私はこの記述を、当事者の困難の説明としてではなく、定型が作者に対して行う要求の比喩として読んだ。断っておくが、これは私の読み替えであり、綾屋の記述をそのまま作句体験に適用することはできない。

 そのうえで言えば、季語を斡旋するとき、俳人にもこれに似たことが起きている。「木枯」を置けば本意という他者像が推奨されてくる。熟練とはその推奨を使いこなす技術であり、多くの場合それは豊かさとして働く。だが推奨が身体に合わない者にとって、定型で詠むこととは、他人の自己感を借りて詠むことになりかねない。

 私の周囲には、発達障害の診断を受けた作り手が数人いる。傾向として、十七音より短い句を出すことが多い。これは論拠ではない。検証されるべき仮説の発生源として提出する。

 重要なのは、これを福祉の話にしないことだ。短律が当事者に向くとすれば、それは当事者に優しいからではない。既存の構成的体制を享受しにくい者が、自分たちの知覚に合った新たな構成的体制を立ち上げる——その一つの帰結が短律である、というだけのことだ。これは温情の問題ではなく、形式の条件の問題である。

 同じことは国外の作り手についても言える。季語の本意は日本の風土と共同体の記憶に根ざしており、それを共有しない言語圏では、季語は借用できない他者である。世界各地でHAIKUが短くなっていく傾向は、怠慢でも誤解でもない。構成的体制を共有しない場所では、別の器が立ち上がる。筑紫氏が、二十年後には英語や中国語で末期の句を書いているかもしれないと記すとき、その予感はここに接続する。


四 器はもう一つ増えるだけである

 ここで最も強調したいことを書く。

 新しい俳句は定型を奪わない。

 季語と定型は、共有を可能にする装置として比類のない精度をもつ達成である。それを享受できる者から取り上げる理由は何もない。宣言が要求しているのは廃止ではなく、器がもう一つ増えることだ。

 俳句は平和の文学だと言われる。だがその平和が、同じ構成的体制を享受できる者たちの間でのみ成り立つのであれば、それは限定された平和である。定型では拾えない感覚をもつ者が現代にはいる。国外にもいる。彼らを拾える器が並び立っていることを、私は平和の文学と呼びたい。

 筑紫氏は書いている。宣言しても、我々は連帯しない、個々の作家であるからだ、しかし共感はしたいと思う、と。

 奇妙なことに、これは当事者研究が到達した地点と同じ構造をしている。綾屋は、当事者研究によって「自分の軸」が生まれたことで、逆説的に、はじめて他者と適度な距離を保てるようになったと書く。バスケットボールのピボットのように、片足が他者へ踏み出しても、もう片方の足が軸として残っている。そして自らの表現が他者の言葉に感染して生まれ、その表現がまた誰かに感染していく、と。全体ではなく部分にフォーカスする特徴があるからこそ、それが可能になった、とも。

 全体ではなく部分に向かうこと。連帯ではなく軸をもつこと。共感ではなく感染すること。短律の詩学は、ここで思いがけない仲間を得ている。


五 入口と完成度

 最後に、肯定はするが優遇はしない、という一線を引いておく。

 短律の入口は、たしかに広い。季語の制約がなく、音数の要求もない。だが入口の広さと、そこから先の難度は別の問題である。むしろ短律は定型以上に難しい。定型が引き受けてくれていた奥行きの生成を、作者が一語で背負わねばならないからだ。四文字の失敗は、十七音の失敗より容赦なく露呈する。

 福祉の発表の場や、それに準ずる部門があってよいと私は考える。だがそれは評価基準を緩めるためではなく、器を増やすためである。作品として立つかどうかは、どの器で書かれたかによらず、同じ厳しさで問われるべきだ。優遇は、結局その形式を二流の位置に固定してしまう。

 過去に見たことのない風景を見たい、と筑紫氏は書いた。私の宣言はこうだ。

 私たちが見ていない風景は、私たちと同じ知覚をもたない者の側にある。

 短律とは、その風景が入ってくるために、もう一つ用意された器である。


〔註〕綾屋紗月「当事者研究と自己感」(石原孝二編『当事者研究の研究』医学書院、二〇一三年)。構成的体制の概念はジーン・レイヴに由来し、綾屋は大村敬一(二〇〇二年)を参照している。國分功一郎『ドゥルーズの哲学原理』(岩波現代全書、二〇一三年)第Ⅱ章、および『中動態の世界』(医学書院、二〇一七年)第七章。なお哲学と当事者研究の架橋は、國分・熊谷晋一郎による講義および共同研究においてすでに試みられている(東京大学「学術フロンティア講義」二〇二〇年度第一三回、東大OCW公開)。

2026年7月31日金曜日

【短期連載】俳壇観測280 未来俳句論争ーー「俳句」7月号「合評鼎談」より  筑紫磐井

  未来俳句については6月刊の「ウエップ俳句通信」152号で特集<筑紫磐井の〈新俳句宣言〉にたいして>で、私の「未来俳句宣言」とこれに対する57名の反響を取り上げていただいた。ただこれは「宣言」に対する理論的な反響であって、具体的な未来俳句への批判は少なかった。有季定型にたいして、無季や自由律、短律の俳句にこそ未来があるのかという論争であった。

 ちなみに、この特集と前後した角川「俳句」5月号で「未来俳句宣言」と題した16句を掲載し、これにたいして同7月号で「合評鼎談」(能村研三、恩田侑布子、小野あらた)が行なわれた。未来俳句宣言に対する批判でなく、未来俳句宣言に基づく作品の批評だから「ウエップ俳句通信」152号とは違う生々しい批判もあった。未来俳句論争としてはまずこちらがあった方が分かり易いと思うので取り上げてみたい。


●能村研三

 未来俳句の本質をつく批判ではないが、未来俳句の拒絶に現われる多くの定型的な批判が含まれているので取り上げてみたい。ただその前に、この作品で能村氏が取り上げた1句は特殊な環境におかれていたので少し補足を加えたい。


 ユネスコは神の饗宴


 実はこれ以前からユネスコの文化遺産登録に対し私は少し異見を持っている。ユネスコの世界遺産登録を提唱した有馬朗人氏と長いお付き合いがあり、有馬氏のユネスコの世界遺産登録を提唱した理由が誤解されて伝わっているためである。有馬氏は、ユネスコに登録されるであろう俳句は有季定型の伝統俳句だけではなく、無季俳句、自由律俳句を含めるものであることを提案し、ユネスコ登録協議会の発起人大会でその点を明言し、他の3協会の会長(宮坂、鷹羽、稲畑)の了解を得て、協議会の発足を進めたのである。発足後は有馬氏は協議会会長に就任し、この方向で精力的にユネスコ登録に向けて尽力された。

 ところが有馬氏の没後、協議会や、他の協会ではユネスコ登録は有季定型俳句でなければできない、無季俳句、自由律俳句は含まれないという主張が盛んにされるようになり、公文書にも現れ始めた。現代俳句協会ですらそうした考え方を持つ人がふえてきた(もちろん現代俳句協会内のそうした人々は、だからこそネスコ登録をすべきではないと言うのだが)。

 有馬氏と長年のつきあいのある私としては、有馬氏の名誉回復を果たすため、古い文書や記録を発掘し、有馬氏がユネスコ登録するための俳句は無季俳句、自由律俳句を含めると大会で発言していることを確認し、これを文書にして現在の4協会・1協議会の会長(高野・片山・井上・高野・能村)を訪問しこれを文書で確認し公表することにした(国際俳句協会機関誌HIAに掲載済み)。これは歴史的事実である。だからこれをもって私の仕事は完了し、ユネスコ登録には中立的な立場にいるのだが、どうもその時の経緯から私はユネスコ登録反対論者と思われているようだ。そんなことはないのだが。

 ただこんな文脈で、掲出の句を読んでみるとよい。能村研三氏はこのように言う。


 「「神の饗宴」という表現はとても強い比喩的な言い方で、ユネスコの活動や存在に対して、何か違和感や皮肉、或は批判的な感情をこめた言い方なのでしょう。たとえば、世界遺産が観光開発で「お祭り騒ぎ」になってしまうことへの違和感、国際機関の意思決定が現場感覚から遠いように見えるもどかしさは詠んだものでしょうか。」


 俳句には様々な解釈があるから、それを否定するものではない。しかしだからといってこれを正しいとする証明はなかなかに難しい。

 未来俳句(その原型に当たる前衛俳句)は、作者が自句自解をしてはならないという鉄則を持つ。作者に許されるのは宣言だけである。作者に解釈権はないのだ。もちろん他者がかってな解釈をする自由はあるが、それは他人の暴言である。読者は、自句自解で真実を探究しようと言うのではなく、他者の荒唐無稽な解釈鑑賞を無責任に楽しむのである。

 ただ自句自解の否定は、面白い現象を生む。自句自解を否定されるから、鑑賞者は自己責任において解説しなければならない。作者の声は、鑑賞者によってしか聞くことができない。こうした無限定な解釈は、作者を語っているように見えながら、実は評者自身を語ってしまう。「ユネスコの活動や存在に対して、何か違和感や皮肉、或は批判的な感情をこめた言い方なのでしょう。たとえば、世界遺産が観光開発でお祭り騒ぎになってしまうことへの違和感、国際機関の意思決定が現場感覚から遠いように見えるもどかしさは詠んだものでしょうか。」は決して作者の解釈ではない。世の中の反ユネスコ登録論者を忖度して、能村研三氏がひきづり出した解釈なのだ。しかし、協議会会長としては余り認めてはいけない発言のように思われる。

 このように、未来俳句は社会性俳句と違ってメッセージ性はない。そこに如何なる主張も持たない。鑑賞者がどのよう受け取るかだけが問題なのだ。未来俳句は何も語らない、鑑賞者だけがメッセージを生み出し、妄想し、そして暴走してゆくのだ。

    *

 以上は未来俳句に対する副次的な問題だ。本質的問題は能村氏の上記の発言の前後に語られている。


 「昔同じ結社で一緒に机を並べていた仲間です。作品16句と書いてあるけれど、これ作品なのかな?申し訳ないけど。16行ならまだ分るんですが。・・(ユネスコ登録に関する発言)・・後はもうコメントできません!(笑)」


 能村氏は、未来俳句(特にそれにおいて特徴的な短律)は作品(俳句)であることに疑問があることを提示している。もちろんそういう見方を否定するものではない。しかし基準は公平一律であるべきだ。掲出した作品が俳句でないというならば、「風の明暗をたどる 山頭火」「鉄鉢の中へも霰 山頭火」「咳をしてもひとり 放哉」「墓のうらに廻る 放哉」「うごけば、寒い 夢道」「陽へ病む 裸木」も俳句ではないといわなければならない。そしてこれらは俳句でないというならば、今までの近現代俳句史を破壊する(その上で新しい近現代俳句史を創造する)覚悟がなければならない。そうした野心的主張を展開する人にこそ許される発言であろう。能村氏には是非そうした創造的破壊を進めて欲しい。閉塞的な俳壇を打開するもう一つの道でもある(ただ私には、山頭火や放哉がいない俳句の世界はひどく惨めな文学世界であるように思う。これは間違いなく「国際俳句」を長く提唱してきた有馬朗人氏が明言していたことで、世界に通じる俳人は、日本には芭蕉と山頭火しかいないと述べていた)。


●小野あらた


「この作品すごいですよね。


 原稿料は字数を以てせず


もしかしたら言い訳かなと思った一句です(笑)。この作品は文字数が少ないので。自己言及もこの一連らしいと思いました。」


 新進気鋭の若手作家がこのような作品に感心してもいいのかなと思ったが、その勇気に感謝しておく。あるいは、俳句総合誌にこのような句を掲載させることを揶揄しているのかも知れない。未来俳句の作者が何を考えているのか分らないように、未来俳句の評者も本当のところ何を考えているかはよく分からないのである。

 ただ、取り上げられた句は、一連16句の中で唯一大半の俳人に意味の分る句だと思う。異議があるとすれば、何故こんなことを俳句で詠まねばならないのかという点だけであろう。他の一連15句は殆ど短律で解釈困難であるから、この句は15句の解説と言うことができるだろう。もしかしたら前書きとか、脚注にしてもいいぐらいの無意味な、非芸術的なフレーズである。小野氏が「自己言及」といっているのはこうした趣旨であろう。カッコよく言えば、「俳句とは何か」を問いかけているということになるかも知れない。もちろん例によって未来俳句は答を与えてくれない。強いて言えば、虚子に「明易や花鳥諷詠南無阿弥陀」と言う句があるがこれと同様というか、何が違うのかはよくわからないと思ってもらえれば十分だ。

 ただ虚子の句と違ってこの句が圧倒的にすぐれているのは、俳句の「打算的計算」ができる点だ(それ以外の点は虚子の句に圧倒的に劣るかも知れない)。この「未来俳句宣言」16句と同時に「俳句」5月号に発表されたすぐれた作家たちの16句は同じ原稿料が払われているから、1字あたりのパフォーマンスは短律ばかりの「未来俳句宣言」16句が圧倒的に有利である。小説や評論は原稿用紙(400字詰め)枚数で支払われるはずだから、俳句や短歌だけはこの不合理な句数・歌数で縛られていることに気付かせてくれる。かといってこの「打算的計算」がどれほど文学的価値があるかといえば全くないのである。未来俳句はこうした非常識な現実を露呈させる。未来俳句において必要なのは長谷川櫂氏や小川軽舟氏が唱える「俳句的生活」ではない、「俳句的思想」である。俳人以外のまっとうな人々が決して言わない、或は忖度して言えない真理を、言い間違いのような顔をしてぽろっと語ってしまうのである。だから未来俳句は、芭蕉の言う夏炉冬扇なのである。


●恩田侑布子

「自分の16句の短律は未来俳句なんだということは、大方の俳人がやっている俳句は古臭いと言いたいのでしょうか。自分こそ未来俳句なんだという宣言。・・・」


 作品そのものよりは作品のよって立つ未来俳句ないし未来俳句宣言を推測しているようである。作者が言及していない未来俳句宣言を評者が作り出すという意味では上に述べてきた例に通う。この作品では、未来俳句宣言は題名だけで出てきて、その内容はどのようなものかは一切説明していいない。ここでも、作者は未来俳句宣言を説明しない、評者はそれぞれが推測する未来俳句宣言に基づいて批評すると言うことでよいと思う。ただ調べていただければ分ることなので興味が向かれたらご覧頂きたいと思うが、「未来俳句宣言」の眼目は、「我々は過去に見たことのない風景を見たいのだ」なのであって、他者を否定しているわけではない。しかしこれは作品本位の批評ではない。これはしばらくおいておくこととしよう。


「俳句で言えば自由律、それも短律という範疇に入るのでしょうか。でも短律の俳句というのは、本当は575定型よりもさらに一段と困難で難しいもので、詩の弾丸を込めなければ一句として成立しないですよね。この中に1行づつに詩の弾丸が込められていると思う方がいらっしゃるでしょうか。」

 「「未来俳句宣言」だから、現代の短律だぞ、どうだ!ということで。私たちに自分のきらびやかな才能を問うた作品と言うことなんでしょうが、短律というのは575より遙かに難しく、詩の弾丸がなければ成立しえない。例えば山頭火の「鉄鉢の中へも霰」、尾崎放哉の「墓のうらに廻る」、橋本夢道の「うごけば、寒い」。これはみんなどれも言葉遊びなんかじゃ全くないですよ。反対なんですよ。命がけの言葉ですよ短律は。大橋裸木の「陽へ病む」もそうだと思いますが。言葉の俳句とか、頭の俳句とは対極にあるものだからこそ成り立っているんですね。575の定型を脱ぎ捨てた短律という俳句の異形の形式には、575定型にはない凄まじいポエジーの郷土があるんです。それがなかったら、そもそも短律俳句は自律できない。単なる一行の言葉の切れ端になってしまうのでははいでしょうか。」

「もっと真面目にやっている人はいて、これは完全に遊び、ただの言葉遊び。凄い皮肉なシニカルな笑みを浮かべたような。真心とか、鬼貫が言った、まことの俳諧とは逆ですね。」

「全体16句を見渡すと言語操作ですよね。言語操作に徹して、斜に構えています。」 


 言語感覚に鋭い俳人だけに批評で使われている言葉は鋭い。例えば、「詩の弾丸が込められている」かなどは是非使いたくなる評言である。問題はこれをどう組合わせるかであろう。

 「未来俳句宣言」16句、あるいは短律俳句が「詩の弾丸が込められている」と問いかけるのは適切であるが、現在新聞や雑誌で量産されている575定型俳句にも「詩の弾丸が込められている」か問われるべきだろう。有季定型俳句だから「詩の弾丸が込められて」いなくてよいと言うことにはならない。少なくとも未来俳句は、「過去に見たことのない風景を見たい」といっている以上、それが成功しているかどうかは別として「詩の弾丸を込め」ることを期待しているのは間違いないだろう。しかし575定型俳句の人たちからは、寡聞にして「詩の弾丸を込め」たいという声を余り聞いたことがない。575定型俳句の人たちより、未来俳句、短律俳句の人達の方が多少とも真面目であると思っている。もちろん、成功しているかどうかは別である。

 その次は、「命がけの言葉」、「真心」、「まことの俳諧」と対比される、「言葉の俳句」、「頭の俳句」、「言葉遊び」、「言語操作」である。もちろん後者が未来俳句に属するものと思われる。これは1句の鑑賞であるから、評者の主観でそのように評価することは差し支えないし、概ねあっていると思う。しかし、「命がけの言葉」はすぐれていて、「言葉遊び」は劣っているという価値観は必ずしも正しいかどうかは分らない。かつて岡本眸は、私の俳句を評して現代俳句は言葉遊びの時代に入ったと言ったことがある。多分、加藤郁乎、攝津幸彦、高山れおなもその傾向だと思うし、(そういうことに批判もあろうが)鷹羽狩行もそうした傾向を持つと思う。恩田氏が高く評価した自由律俳句作家の作品は境涯俳句に近いかも知れない。確かに真面目である。これは拡大すれば、草田男、楸邨、波郷の人間探求派に繋がる。確かに過去古典として残る名作はこうして生まれて来たかも知れないが、現代俳句、未来の俳句がこうした価値観でのみ律されるべきかと言えばそうだとばかりは言えないと思う。非常に言いすぎになるが、現代の俳句、未来の俳句は不真面目でなければならないと思う。それが俳句、俳諧性の本質だからである。

 作者が語らないから困ってしまう一例をあげてみよう。


 美は改造にあり


 瀬戸内寂聴の『美は乱調にあり』は大杉栄と伊藤野枝を描いた小説であり、大杉栄は戦前の雑誌「改造」に連載をしていたので恩田氏は「書名をミックスしただけでありまして、パロディにもなっていないと、申し上げにくいけど申し上げてしまいます。」と述べている。「改造」が社会主義系の雑誌であり、大杉栄も特高の弾圧で拷問死したから、そういう歴史を読みとったのだろう。知識はそう言う道筋を描くが、その上でパロディにもなっていないと断言するする。そうした意図で作ったとしたら仰る通りだ。

 ところで、私の周辺の知り合いで俳句に全く関心のない者に聞いてみると、この句は「美容整形」を描いただけのもので、意味は間違いようがないという。ただなぜ現代の俳句で美容整形を詠むのか意味が全然分らない、と言われた。馬鹿にしているのか、時代批判なのか、作者自身が馬鹿なのか。それとも俳句の深い本質を探求しようとしているのか。

 未来俳句は自ら解釈を語らないから、批評も読む読者に任されている。


 群青の日章旗


 「この句だけは唯一成り立っているかな?恐ろしいファシズムだけれど。「群青の日章旗」は単なる反対言葉や付きすぎとは言えないんじゃないですか。日章旗が群青であるわけない。日章旗は白に赤じゃないですか鮮烈な。その上に「群青の」とかけたのは・・・(「うみゆかば」の歌をあげて)・・・大勢の若者たちが日章旗のもとに送られて、天皇陛下万歳と言って、群青の青い海の藻屑となっていったという幻想はここから立ち上がるけれど、非常に恐ろしいファシズムの匂いがするなと思いました。だけど俳句としては成り立つと思いましたね。客観的に。」


 16句のうちの1句だけを俳句として成り立つと言っていただけたのはありがたい。矢張り作品はよき鑑賞者を求めるものだ。

2026年7月17日金曜日

【広告】ウエップ俳句通信152号・特集〈筑紫磐井の〈新俳句宣言〉にたいして〉  

 ウエップ俳句通信151 号に掲載された筑紫磐井「未来俳句宣言」に対し編集部から121名の俳人・評論家に意見を求めたところ、無回答6人、否58人、諾57人の回答が得られ、諾と回答した俳人・評論家の回答をそのまま掲載した。主要執筆者と回答した表題を掲げる。


●特集〈筑紫磐井の〈新俳句宣言〉にたいして〉

[主要執筆者と表題]

青木亮人 「三度の変革の後に」 

秋尾敏 「俳句はポップー〈新俳句宣言〉に思うー」 

池田澄子 「俳句って何」 

稲畑廣太郎 「筑紫磐井の〈新俳句宣言〉に対して」 

井上泰至 「未来への遺産」 

今瀬一博 「考える機会に」 

大石雄鬼 「塊根植物と俳句」

大井恒行 「筑紫磐井の〈新俳句宣言〉についてーあるいは「未来俳句宣言」ー」 

奥坂まや 「新しい風景の伝統」 

角谷昌子 「呼び水の効果はあるか」 

加藤かな文 「未来の古典」 

河内静魚 「筑紫磐井の〈新俳句宣言〉にたいして 志というもの」 

川名大 「ボタンの掛け違え」 

如月真菜 「否定はしない」 

岸本尚毅 「〈新俳句宣言〉へのコメント」 

栗林浩 「筑紫磐井〈新俳句宣言〉に対して」 

後藤章 「未来俳句宣言と量子論的世界認識」 

五島高資 「俳諧精神から見た〈新俳句宣言〉」 

小林貴子 「筑紫磐井の新俳句宣言〉にたいして伝統的前衛宣言」

下坂速穂 「定型を思うこころに」 

高山れおな 「一番弟子が師匠の宣言をめぐって書いた模範回答、のようなもの」 

田中亜美 「筑紫磐井氏の〈新俳句宣言〉に対して」 

津久井紀代 「過去に見たことのない風景 筑紫磐井〈新俳句宣言〉を読む」 

対馬康子 「松山宣言の先へーー筑紫磐井氏の使命」

辻村麻乃 「筑紫磐井氏の〈新俳句宣言〉を踏まえて」 

坪内稔典 「盤井さん、なんだか変だよ。」

鴇田智哉 「いやです」 

富田正吉 「新しいキーワードを求めて」 

外山一機 「形式が思い出す」 

仲寒蟬 「古いものこそ新しい」 

仲村青彦 「俳句ーー詠みの根源」 

中村和弘 「見えない未来より見える明日を!」 

中本真人 「筑紫磐井氏「未来俳句宣言」を読む」 

中山世一 「新俳句宣言について」 

名取里美 「寸感」 

行方克 己「わが絶対語感」 

西池冬扇 「「未来俳句宣言」に寄せた囈語 寓話「醜いアヒルの子」外譚」

橋本栄治 「広く認知される宣言でありたい」 

波戸岡旭 「革新ということ」 

廣瀬悦哉 「俳句は定型の詩」 

細谷喨々 「ご返事」 

堀田季何 「宣言は後から来る」 

宮崎斗士 「「敵」としての矜持」 

望月周 「戦争び」 

本井英 「三百三十三年」 

森須蘭 「実作者として」 

柳生正名 「映像と音像の両立としての俳句=筑紫氏「未来俳句宣言」をめぐって=」 

山崎十生 「新しい自由な俳句」 

渡辺誠一郎 「〈新俳句宣言〉に寄せて」 


●新しい詩学のはじまり〈番外編〉・未来俳句宣言2

  ーー1999年「松山宣言」を受け継いで  筑紫磐井

 山根もなか、磯﨑寛也(詩人)、山本幸生(作家)、マブソン青眼、林桂、栗林浩の意見と、有馬朗人・金子兜太・宗左近らによる1999年「松山宣言」(Matsuyama Declaration)、2000年の第1回正岡子規国際俳句大賞を受賞したフランスの詩人イヴ・ボヌフォワの講演を紹介。

2026年6月26日金曜日

【短期連載】筑紫宣言における書簡  利岡龍之介

<序文>

 医学や量子力学をはじめとする科学において、新規性とは既存理論の更新として不可避に要請されるものである。しかし同様に、文学もまた固定された形式ではなく、言語という差異的体系の上に成立する以上、歴史的変遷の中で再編され続ける構造を持つ。すなわち、伝統とは単なる保存ではなく、再解釈と変形の連続である。

 このとき問題となるのは、変化の是非そのものではなく、いかなる条件のもとで当該形式が自己同一性を維持し得るのかという点である。とりわけ俳句においては、形式的制約、記号的機能、そして読者共同体における共有可能性といった複数の条件が交差する。そのため、単なる形式の逸脱が直ちに新たな俳句の成立を意味するとは限らない。

以 上を踏まえ、本稿では筑紫宣言を契機として提起された「俳句の再定義」の問題を検討し、俳句が俳句であり続けるための成立条件がどのように保持、あるいは解体されているのかを分析する。


<俳句の成立条件>

 俳句とは何かという問いに対して、単一の定義を与えることは困難である。なぜなら俳句は歴史的変遷の中で形式的・意味的・制度的に変容してきた複合的な文学形式だからである。したがって本稿では、俳句の成立条件を三つの層に分けて整理する。

(1)形式的条件

 第一に、俳句は伝統的に五・七・五の音数律、季語、切れといった形式的要素によって特徴づけられてきた。これらは俳句を他の詩形式から区別する重要な指標である。

 しかしながら、近代以降の俳句においては自由律俳句の展開に見られるように、音数律は必ずしも絶対的条件ではなくなっている。したがって形式は必要条件の一部ではあるが、それ自体が俳句の本質を尽くすものではない。

(2)記号論的条件

 第二に、俳句は極度に圧縮された言語表現を通じて意味を生成する記号的構造を持つ。すなわち、限られた語数の中で多義的な解釈可能性を生み出す点にその本質がある。

 言語は差異によって成立する体系である以上(フェルディナン・ド・ソシュール)、俳句もまた語と語の関係性によって意味を構築する。このとき重要なのは、解釈が無限に拡散するのではなく、一定の範囲で共有可能であることである。解釈の開放性は認められるが、それは無制約ではない(ウンベルト・エーコ)。

 したがって俳句は、「意味が生成されうる構造」と「その意味が他者と共有されうる範囲」を同時に保持する必要がある。

(3)制度的条件

 第三に、俳句は読者共同体および文学制度の中で認識されることによって成立する。すなわち、ある表現が俳句であるか否かは、個人の意図だけで決定されるものではなく、歴史的・社会的文脈に依存する。

 俳句は単なる言語表現ではなく、一定の文化的規範と読解慣習を前提とする文学形式であると指摘されている(加藤周一)。この意味で、俳句の成立には共同体による承認が不可欠である。

 以上より、俳句とは単なる形式的特徴に還元されるものではなく、

形式・意味生成・制度という三層の条件が重なり合うことで成立する文学形式であるといえる。

 したがって、これらの条件のいずれかを大きく逸脱する場合、その表現は俳句としての同一性を維持できない可能性がある。


<筑紫宣言における論駁とその根拠について>

 筑紫氏の宣言は、『伝統はルールではなく、過去の作品及び文化的財産であり、過去の形式で表現できなかったものの「未来」がある。既存の俳句ではなく、新しい俳句を生み出す姿勢を持つ。未来の作品としてのありかたは作家各人が提案すべきものである。』として、“前衛的俳句の形式からの脱却“と”自由律俳句への可能性“を宣言として見出している。ここでの争点は変遷の歴史を辿ってきた俳句が、文化的コンテクストを背景にどう変わっていくべきかが重要である。


1. 「一行があまりにも長い。四文字、ないし三文字で十分だ。

 文法は要らぬ、名詞・動詞だけで辛うじて伝達はできる。

 文語・詩語、誤字・誤用の駆使も一行を更に短くする。」の反論について

 この主張は、言語を情報伝達の最小単位へと還元する立場である。しかし俳句における言語は単なる情報伝達ではなく、関係性の中で意味を生成する構造体である。言語は差異と連関によって成立する以上、極端な短文化は語と語の関係を断絶させ、結果として意味生成の回路そのものを縮退させる(一般言語学講義)。また文法の排除は曖昧性の増大ではなく、むしろ解釈可能性の消失に直結する。したがってこの操作は俳句の凝縮ではなく、意味構造の崩壊に近い。


2. 「一行の中でたやすく(部分的)類想が発生する。

 だから全体の模倣だけでなく極微の模倣も否定せよ。」の反論について

 この主張は独創性の極限化を志向するが、そもそも言語表現は既存の語彙と慣習の上に成立する。完全な非類似は理論上不可能であり、仮に達成されたとしても、それは解読不能な記号列に過ぎない。芸術における新規性は既存形式との差異として現れるのであり、差異の基盤が消失すれば新規性そのものも定義できない(芸術の起源)。したがって「模倣の完全否定」は、創造の条件ではなく、創造の否定条件となる。


3. 「隣る二行は連想を結合する。

 行の谷間を極大にせよ、隣人は背くべきである。」の反論について

 俳句における「切れ」は断絶であると同時に、潜在的な連関の生成装置である。すなわち、意味は行間の緊張関係から立ち上がる。しかし宣言のように連関そのものを否定した場合、各行は互いに独立した断片となり、全体としての意味構造を形成しなくなる。これは切れの強化ではなく、構造の解体である。結果として作品は多義的になるのではなく、単に無関係な要素の集合へと退化する。


4. 「一行ですべてを述べ、全体の構想を断ち切ろう。

 偶然がいつか全体を語るはずだ。」の反論について

 この命題は最も本質的な問題を含む。すなわち、意味生成を意図や構造ではなく偶然に委ねる立場である。しかし偶然は再現性を持たず、したがって評価可能性を持たない。これは科学における因果推論が偶然のみでは成立しないのと同様である。意味が偶然に依存する場合、それは共有可能な解釈対象とはならない。さらに、解釈は開かれているが無限ではない(開かれた作品)。偶然への全面的依存は、この「有限な開放性」を逸脱し、最終的に意味の不在へと至る。したがってこの主張は、俳句の拡張ではなく、作品概念そのものの解体を意味する。

 以上の各命題を統合すると、この宣言が目指しているのは単なる形式の自由化ではない。むしろ言語的連関の解体、差異体系の不安定化、共有可能性の消失を同時に引き起こす構造を持っている。しかし俳句は、形式・記号・制度の三層によって成立する文学形式である以上、そのいずれかを過度に解体することは許容されない。とりわけ本宣言は、これら三条件を同時に不安定化させる点で、俳句の革新ではなく、俳句というジャンルの自己同一性を消滅させる方向に作用する。


<俳句と我々の意志そして根源について>

 俳句とは単なる定型詩ではなく、言語によって世界を把握しようとする人間の根源的な営為の一形式である。すなわち俳句は、外界の事象を言語へと圧縮し、その最小単位において意味と感覚を同時に成立させる試みである。

 このとき重要なのは、俳句が外界の再現ではなく、主体の知覚と世界との接触面において生成される構造であるという点である。ここにおいて我々の意志とは、単なる表現欲求ではなく、世界をいかに分節し、いかに意味として提示するかという選択の総体である。


順天堂大学医学部データサイエンス講座

博士一年 利岡龍之介