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2020年4月10日金曜日

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉜  のどか 

シベリア抑留俳句および満州引揚げの俳句を読んで‐その2

(2)「戦争」を語り継ぐ、「平和への祈り」としての俳句
 21から26話の百瀬石涛子さんには、面談・手紙・電話でのインタビューにご協力いただいた。電話で武装解除の時期について尋ねると当時を思い出し涙ぐまれる場面もあり、戦争当時の記憶が現実のことのように呼び起こされ、辛い記憶の蓋を開けてしまったようで、申し訳なかった。
 26話のまとめにも書いたように、電話で何度か話す中では、不眠や悪夢のような症状はなかったというが、とにかく戦争を想い起こすことについて誰からも触れられたくない、回避したい気持ちばかりかであったという。
 シベリアという厳しい環境下で辛くも自分が生き残ったことへの贖罪の念や、このような回避傾向もストレスから自分を守る心の反応の表れと推察する。
 百瀬さんは抑留時代の自分の俳句について、厳しい評価をされ、抑留時代に俳句が支えになったかについては、語られない。70歳代ごろから生まれてきたシベリア抑留俳句を句集として編まれる過程は、先の戦争によって亡くなられた戦友への鎮魂と戦争を知らない若い世代へ「反戦」のメッセージを伝えたいという強い意志であり、自ら負った心の傷を抱えて「いまを大切に生き抜く」力となったと思われる。
 百瀬さんの句では、戦後約70年の時を経て結晶となった、“毛布欲し丸太の棚に俘虜遺体(寒極光)” “死者の衣を分配の列寒極光(寒極光)”のような人間のやるかたなく生きる様を洞察した句が生まれ、一方、晩年の句では、“俘虜に果つ我が身たりしを恵方巻”と生涯消えない俘虜としての記憶に苛まれながらも、行く末の幸せを願って食べる恵方巻に、自分のこれまでの生き方の受容を見て取ることができる。
 さて、井筒さんは、「満州追憶」として纏めたメモから俳句を詠み、加藤楸邨主宰の寒雷に投句をされ、主宰の選を受けた百句を、句集にして満州開拓犠牲者の三十三回忌の法要記念にされたことは、先に紹介したところである。
 主宰から認められた百句を集める三年の年月は、満州での暮らしや過酷な引揚げの足跡を一歩づつ残す、大変な過程であったと思う。
 井筒さんは、『生かされて生き万緑の中に老ゆ』の「はじめに」の中に、~自暴自棄になって行った大陸の花嫁。について、死線を超えて培った心の友を得ることができたことは、幸せである。と記されている。
 また、生涯学習として取り組まれた「写経」の中から体得したことについて、~不幸な生い立ちの人生に「いつどんな場合でも私は誰かに助けられている。その誰彼はみな御仏の化身だったのではないだろうか~と『生かされて生き万緑の中に老ゆ』16「川」において書かれている。
 これは、井筒さんか72歳頃の記述であり、その後も井筒さんは、老人福祉センター及び中国残留邦人支援活動語部や語部としての活動を続けておられる。
 しかし、80歳を迎えた井筒さんは、戦争の記憶を今のうちに書き残したいと、2001(平成13)年に『大陸の花嫁』を自費出版されている。
 2015(平成27)年に井筒さんは、永眠されていらっしゃるので、俳句が生きる支えになったかを確かめる術はないが、井筒さんの『大陸の花嫁』の巻末「戦争を語り継ぐために」の中で、新谷陽子(亜紀)さんはP.223に以下のように書かれている。
 さらに、母の「俳句人生」も幸いしたのでしょう。母は若い頃から、自分の思い出をうまく凝縮させて、俳句として昇華させることを心得ていました。どんな逆境においても、膨れ上がってくる自分の悲しさや苦しさ・怒りといったマイナス感情も、そのエキスだけを句の中に押し込めることで、抜け道を作り、気持ちを前にしゃんと向かせることができたのだと思います。 そして、日常的には娘の私や孫にまた語部として人々に戦争の愚かさを語り伝えることで、逆に生きる力を得てきたのかも知れません。
井筒さんの「平和への祈り」というブログの中で、娘(陽子)さんは、井筒さんの最晩年の“死も良しと死をうべなえる夜長かな(紀久枝)”を紹介し、波乱に満ちた前半生に比べ、後半生はとても穏やかで幸せに過ごされ、静かで安らかな旅立ちを迎えられたと述べている。
 また、百瀬さんと井筒さんの共通点として、同じ体験をした人々への鎮魂と、戦争を知らない世代に語り継ぎ平和への願いを広めることへの使命感がご自身の生きる力となったものと推察する。
 
 ほぼ1年に渡り、筆者のシベリア抑留俳句及び満州引揚げをたどる拙い文章の「俳句新空間」への掲載をお許しいただきました筑紫磐井先生、執筆にあたり取材にご協力いただいた、山田治男様、中島裕様、百瀬石涛子様、新谷亜紀(陽子)様、執筆にご理解頂きました小田保様ご遺族の小田照子様、白須朋子様、高木一郎様のご遺族高木哲郎様、取材による時代考証にご協力いただきました、戦場体験放映保存の会の田所智子様、この旅を一緒にしてくださり、励ましてくださった読者の皆様に深く感謝いたします。
 最後に、この文章を4年半のシベリア抑留生活を語らず60歳で他界した父への献辞といたします。

参考文献
句集『俘虜語り』百瀬石涛子著 花神社 平成29年4月20日
『生かされて生き万緑の中に老ゆ』1993(初)生涯学習研究社(NHK学園指定教材代理部)発行
「平和への祈り」井筒紀久枝 編集人 新谷陽子(亜紀)2019.8.23更新


2020年3月27日金曜日

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉛ のどか  

シベリア抑留俳句および満州引揚げの俳句を読んで‐その1

(1)過酷な境涯を俳句は支えたか

 ここではまず、シベリア抑留のような厳しく過酷な境遇において、俳句が生きる支えとなったかを確認して行きたい。
 これまで参考にしてきた『シベリヤ俘虜記』には、13名305句が収められている。そのうち随筆を添えている者は7名、俳句のみが紹介されている者は6名である。そしてシベリアの様子を伝える随筆のある7名の中から小田保さん、石丸信二さん、黒谷星音さん、庄子真青海さんと『続・シベリヤ俘虜記』からは、高木一郎さんの作品を取り上げた。
 小田保さん、石丸信二さん、黒谷星音さんは、酷寒の地に於いて個の営みの中で俳句を残し、庄子真青海さんと高木一郎さんは、個別に俳句を詠むばかりでなく句座としての人との繋がりの中で、俳句を詠む環境に恵まれたケースとして枠組みした。
 ただし、庄子真青海さんは、酷寒のシベリアに於いて、高木一郎さんは、欧露の将校集団の収容所(ラーゲリ)に於いてと環境の差がある。
 小田保さんの随筆には、ソ連侵攻時の占守島の戦いや、抑留生活での赤化教育とそれに派生する吊し上げ中心に書かれており、俳句との関連する箇所は見当たらない。あえて言うなら『シベリヤ俘虜記』P.36に~文字に飢えた者らに短歌会を指導しソ連政治将校に踏み込まれた~とあり、小田保さんにとって短歌の経験を生かして俳句を詠むことは、あまりにも日常であり、これをよりどころとしてシベリアの3年間を過ごすことができたのだと思われる。
 黒谷星音さんは、随筆の中で3年間にわたる苦難の抑留生活のなかで、新聞やノートの切れ端に俳句を書き綴ったと書いており、それは亡き戦友への鎮魂や俳句への執念ゆえであり、俳句は心の支えとなったとある。
 石丸信義さんは随筆で、出征後兵営で俳句を作り続け軍隊と言う抑圧された世界で、精神的自由と俳句的自由を持つことができた。大自然を脳裡に深く刻みこんでおきたい、再びと無いこの体験が、私の第2の原風景となることを思ったからであると、書いている。
 シベリア抑留の体験を、1回しか巡り合わない貴重な出来事として、肯定的に受け止め俳句を詠み続けることは、ビクトール・E・フランクルが『夜と霧』の中で言う、「避けられない運命と、それが引き起こすあらゆる苦しみを甘受する流儀には、きわめてきびしい状況でも、人生最後の瞬間においても生を意味深いものにする可能性が開かれている」ということに繋がり、生き延びるための糧になったと考える。
 句座の中で俳句を続ける環境にあった、庄子真青海さんの『シベリヤ俘虜記』の随筆の中には、シベリアでどのように俳句をしたのかについては記されていないが、『続・シベリヤ俘虜記』『カザック風土記 庄子真青海句集』には、月に1回の「若草句会」が開催されたとあり、草皆白影子とのノルマ作業を通じての信頼関係深く、引揚げ後の俳句の世界でもその関係は良好に保たれたとある。
 同じように句座での俳句の場に恵まれた、高木一郎さんは、欧露の左官級の将校が抑留された、ラーダ収容所、エラブカ収容所、ボンヂュカ収容所で、自主的に強制労働に従事している。司令部の高島直一が文化活動として呼びかけたのが俳句会であったと書いており、赤化教育で加熱したつるし上げにより、疑心暗鬼に陥るなか信頼できる人との関係を得ることができたとある。
 しかし、一方で逆境を生き抜くために俳句が支えとなったケースは、出征前から俳句のたしなみがあり、俳句の習熟を得ていたからだという見方もあろうが、収容所での文化活動をきっかけに俳句に親しみ、復員後に本格的に俳句を始めた者もある。
今回採り上げなかった、中央アジアウズベク共和国アングレンにて、運河・建築・炭鉱などの強制労働に従事した北島輝郎さんはの随筆には収容所の俳句短歌の集いの俳句募集のビラへ応募し俳句を始めとある。                         
 また、隈治人さんの場合、ダンボフのラーダ収容所での俳句との出会について、昭和21年の元旦を控えて、兵舎内で短歌・俳句・川柳の募集が行われた。と書かれている。
 極寒のシベリアの収容所や欧露の収容所の文化活動として、五・七・五の調べに自分の境涯や思いを託す俳句や短歌の有ったことは、日本人の幸いである。 
 重複する部分はあるが、『シベリヤ俘虜記』『続・シベリヤ俘虜記』を読み進めるなかで、シベリア抑留という想像を絶する環境において、俳句は、①厳しい環境の中死の恐怖を抱きながらの生活を支えた。②抑圧的な軍隊という環境に、精神的自由と俳句的自由を与えた。③厳しい環境の中で、それをたった1回しかない貴重な体験として受け止め能動的に生きる姿勢をもたらした。④座の文学としての横のつながりが、赤化教育やつるし上げにより陥りがちな疑心暗鬼から救い、仲間との信頼関係を回復する効果をもたらした。⑤栄養失調やシラミの媒介する発疹チフスなどで次々と死んでいった仲間への鎮魂としての俳句は、生き残ってしまったという贖罪の念からの救いとなった。以上のような点で、俳句は俳句を杖とする者の境涯を支えた。
                    つづく
参考文献
『シベリヤ俘虜記』小田保編 双弓舎 昭和60年4月Ⅰ日
『続・シベリヤ俘虜記』小田保編 双弓舎 平成元年8月15日
『ボルガ虜愁』高木一郎 (株)システム・プランニング 昭和53年9月1日
『カザック風土記』庄子真青海句集 卯辰山文庫 昭和51年4月15日


2020年3月13日金曜日

【俳句評論講座】評論執筆の質問と回答

 
いつもお世話になっております。
 (現在BLOG「俳句新空間」に連載中の)自分の原稿(「寒極光・虜囚の詠」)について、2点質問させてください。
 よろしくお願いいたします。

<質問>
①文章の前半にかなりのボリュームで、大東亜戦争の歴史や抑留体験者の体験談をとりあげていますが、このような形式で良いのか、他に良い整理の仕方があるか教えてください。

②歴史的資料の引用や句集の作者の体験談の引用もそのままをのせております。これについても、整理した書き方を教えてください。

大関博美(のどか)

【参考】
寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む(目次)

(○の数字は連載の通し番号、BLOGの「のどか」で検索すると逆順で表示)
https://sengohaiku.blogspot.com/search/label/寒極光・虜囚の詠

第1章
Ⅰ.はじめに ① 
Ⅱ.シベリア抑留への歴史 ② 
Ⅲ.シベリア抑留語り部の体験談    
(1)ソ連軍の侵攻 ③ 
(2)武装解除 ④ 
(3)ダモイ・トウキョウ ④
(4)シベリアへ ④
(5)収容所 ⑤ 
(6)極寒 ⑤
(7)食事と飢え ⑤
(8)身体検査と労働等級 ⑥ 
(9)伐採作業 ⑥
(10)自動車積載作業 ⑥
(11)埋葬 ⑥
(12)政治教育 ⑥
(13)引き上げ・帰還 ⑦ 
(14)シベリア抑留体験者の体験談をまとめて ⑧ 

第2章 シベリア抑留俳句を読む
Ⅰ.小田保さんの場合 ⑨~⑪        
Ⅱ.石丸信義さんの場合  ⑫~⑬ 
Ⅲ.黒谷星音さんの場合  ⑭ 
Ⅳ.庄子真青海さんの場合 ⑮~⑯
Ⅴ.高木一郎さんの場合 ⑰~⑳

第3章 戦後七〇年を経ての抑留俳句
Ⅵ.――百瀬石涛子さんの場合 ㉑~㉖

第4章 満州開拓と引き上げの俳句
Ⅶ.――井筒紀久枝さんの『大陸の花嫁』を読む ㉗~

第5章 シベリヤ抑留俳句・満州開拓と引き上げの俳句を読んで(未執筆)

【筑紫磐井の回答】
(1)大関さんの論文につては既に連載で30回に及んでおり、これだけの筆力のある人は多くないと思います。講座の初回で申し上げたように、論理的な評論である必要はあまりなく、「血沸き肉躍る」文章が評論では必要であると思います。これだけ長編の文章を書けると言うことは、作者の思い入れが強いことですから、「血沸き肉躍る」評論となる第一条件は満たしています。繰り返しになりますが、俳句と違って(?)論文の場合は継続する膨大なエネルギーが必要で、それに関しては申し分ないと思います。長い文章さえあれば、後は見直し・添削・書き直しの整理を繰り返せば一流の論文にすることは可能です。

(2)ちなみに、大関さんのテーマ(抑留・引揚者の俳句)に関しては、これらのテーマについて取りまとめた俳句評論として、手近なところでは、阿部誠文氏の単行本『ソ連抑留俳句』(第16回俳人協会評論賞受賞)『満州・中国俳壇』『朝鮮俳壇』『台湾俳句史』等、「俳句文学館紀要」所収の論文「キメラの国の俳句」(9号)「欧露抑留句集『大枯野』について」(10号)「朝日新聞に見る戦時中の俳句」(14号)等やそこに付された参考文献があるようですのでご覧になったらよいでしょう。大関さんは色々な文献を引用されていますが、それらを踏まえたうえで、「評論」としてどのようにまとめるかが分かると思います。論者それぞれ関心は違いますので、必ず読まなければならないわけでもなくそこから鉄則を導き出す必要もありませんが、まとめるにあたっての参考にはなると思います。この種のテーマを取り扱うための勘どころのようなものが見えてくると思います。

(3)以上は一般的なコメントですが、少し細かい点を申し上げます。
①問<文章の前半にかなりのボリュームで、大東亜戦争の歴史や抑留体験者の体験談をとりあげていますが、このような形式で良いのか、他に良い整理の仕方があるか教えてください。>
答:基本となる資料(聞き語りや回想録)は大事ですが、それが事実であるかどうかは吟味した方がいいと思います。話者は、思い違いをしたり、場合によってはうそをつく場合さえあります。いくつかの資料を併行して扱えば自ずと真実は浮かび上がるものですから、(2)で述べた関連資料もその意味で役に立ちます。たった一つの真実が面白いのではなく、あれやこれや論者が思い迷うプロセスも面白いと思います。私などは、たった一つの真実などあり得ないと思っています。

②問<歴史的資料の引用や句集の作者の体験談の引用もそのままをのせておりますこれについても、整理した書き方を教えてください。>
答1:まとめ方について申し上げます。30回にのぼる長編ですので切れ目が必要です。いくつかのパートにまとめて見て、ひと休止したところで言いたい小結論をまとめてみたらいかがでしょう。そこにまとまり切らないあふれ切った原資料部分はたぶん削除しても支障はないでしょう。それをすることによって文章そのものも引き締まると思います。そしてこうした小結論をまとめると、この論文の結論、大結論となるでしょう。
答2:大関さんの目次で言うならば、第1章(Ⅰ~Ⅲ)と第2章以下(特にⅥ、Ⅶ)の対比は興味深いと思います。第1章の歴史的事実、客観的事実はそれだけで研究書として価値があると思います。ただそのためには、①で述べたようにいくつかの資料を合わせて検証することが望ましいと思います。
 第2章以下はもう少し主観的感想が混じると思います。したがって、両方が相まってうまく融合すると傑作になる可能性はあります。
いずれにしろ、誰にでも書け得るものではない、大関さん固有のテーマが浮かび上がると思います。ご精進を期待します。

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉚  のどか

第4章 満州開拓と引揚げの俳句を読む
Ⅶ 井筒紀久枝さんの『大陸の花嫁』を読む(4)

*の箇所は、主に、(『大陸の花嫁』井筒紀久枝著 岩波現代文庫 2004 1.16)
を参考にした筆者文。

【チチハル収容所 11句から】            
  チチハルの真昼の馬糞ぶつけられ

 引揚げを待つチチハルの難民収容所での生活もすぐに帰国できる当てもなく、順番を待ちながら死んでゆく人がたくさんいた。生きる活路を見出すために、井筒さんは仕事を探した。『大陸の花嫁』P.82‐83から
 私は職を求め、食を求めてチチハルの街を歩いた。生活が豊そうな、満馬や驢馬が何頭も飼われているところを訪ねた。私は、清美を負うた腰に寝具の麻袋を巻きつけ、鍋にしている鉄兜をぶら下げていた。収容所に置いておけば盗まれるからだった。
 その異様な姿に、そこに雇われていた小孩(しょうはい)に馬糞をぶつけられた。
 「マアタイ、マアタイ、カイ、ゾウ(汚い、汚い、早く立ち去れ)」
    (略)
 開拓地にいたころ、移動苦力(クリー)の列から遅れ、衰えはてた中国人が、私の所へ飲み水を乞いに来た。私は、ぼろぼろの服を纏ったこの男が汚らしくて、コップ一杯の水も与えず追い返した。私は今、それにも劣る姿であった。(『大陸の花嫁』井筒紀久枝著 岩波現代文庫 2004 1.16)
 その異様な姿に、そこに雇われていた小孩(しょうはい)に馬糞をぶつけられた。 「マアタイ、マアタイ、カイ、ゾウ(汚い、汚い、早く立ち去れ)」    (略) 開拓地にいたころ、移動苦力(クリー)の列から遅れ、衰えはてた中国人が、私の所へ飲み水を乞いに来た。私は、ぼろぼろの服を纏ったこの男が汚らしくて、コップ一杯の水も与えず追い返した。私は今、それにも劣る姿であった。(『大陸の花嫁』井筒紀久枝著 岩波現代文庫 2004 1.16)
*ある日井筒さんは、収容所へやってきた八路兵(毛沢東支配の国民革命軍第八路軍の兵隊)の募集する縫製工に応募したが、縫製の仕事は与えられず、夜に仲間の女性が兵隊から襲われてしまい、なんとかチチハルの収容所に逃げ戻ったところ、これまで世話をしてくれたM氏が八路兵から口利きの金を受け取っていたことがわかった。(同じ日本人が、日本の女性を現地の人に売るということは、珍しいことではなく、当時の中国でも日本でも貧困家庭では、娘の身売りは、当たり前のように行われた時代である。)
 井筒さんは、辛くも逃げ出し、母子が住み込みで働けるところを探し、李家(小学校の校長をしている人)のもとで、乳母として雇われた。

【引揚げ3句から】
  ついに帰国防寒服は襤褸でもいい

 李家で、乳母として雇われている間も、時々許しを得て難民収容所へ出かけ
帰国の時を確認していた。そしてついに、 『大陸の花嫁』P.96から
 昭和21年8月28日、いよいよチチハルにいる私たちの引揚げの日が来た。 前日まで世話になっていた李家では、母子に食べさせてもらえるだけで、ありがたいと思っていた。ところが、李夫妻は45日間の給料として四百五十円くださったのである。その頃チチハルの通貨は、ソ連軍票だった。がその軍票はハルピン以南は通用しないということで、李婦人が寄せ集めてこられた満州紙幣であった。これは、くしゃくしゃであったが、お心のこもった紙幣だった。 私はそれを、着ているぼろ服の裏側へ大切に縫い付けた。   (『大陸の花嫁』井筒紀久枝著 岩波書店 2004.1.16)

【祖国7句から】
  われに祖国敗れても月のぼりくる

*その生い立ちから、悲しい思い出の故郷であるが、それでも帰る祖国があるという安堵感、船の中でみた月であろうか、それとも帰り着いた佐世保の月、生まれ故郷福井県の武生の月で有ったのだろうか、どこにいても月は等しく美しく光り、傷つき疲れた心と体を包んでくれるのである。
 こうして、帰り着いた故郷での暮らしは、決して平たんなものではなく、苦労して連れ帰った清美ちゃんは、2年半の生涯を終えた。
 井筒さんの前半生は、出生の不運と「大陸の花嫁」という国策・戦争・敗戦という大きな歴史の捻じれに巻き込まれ悲惨な日々であった。

【井筒紀久枝さんの作品を読んで】
 井筒さんの作品「大陸の花嫁」は、「満州移民政策」「大陸の花嫁」「ソ連の侵攻」「満州引揚げ」と一連の流れを網羅し当時の様子を良く伝えるものである。本稿では、井筒さんの体験の一部を紹介したにとどまるので、是非、井筒さんの作品を読んでいただけると嬉しい。
 さて、関東軍が首謀し国を挙げて、「満州開拓」「大陸の花嫁」が組織的に仕組まれていたこと、地方の貧困にあえぐ農村にあって経済的な自立を夢見て、開拓民としてまた開拓民の妻として、満州に渡り、ついには、「お国のため」と我慢と苦労の生活を捧げあげくには、「お国」から見捨てられ棄民となった人々の運命の過酷さに驚かされる。これが国策であったことに対してやり場のない怒りを覚える。
 井筒さんは、第1子清美さんと生きて故国の地を踏むことができたものの、引揚げ後清美さんを亡くし、抑留から帰った夫と夫の家族との確執に悩みながら、その生活に終止符をうつ。
 その後、新たな伴侶と二人の子どもに恵まれ、地道に家庭生活を営む一方で、語ることも苦しい体験を自分流に俳句に詠み、「満州追憶」としてメモを残された。
さかのぼると、俳句については紙漉き工場で仕事をしていた、19歳の頃に既に独学で俳句を新聞に投稿し、

  冷たさを確かめて紙漉き始む
  あかぎれの手をいたわりて紙を漉く


が新聞の文芸欄に掲載された。(『生かされて生き万緑の中に老ゆ~私の青春から~』生涯学習研究社 1993年)
 1968(昭和43)年には、宮中歌会始に入選されたという。 
 既に10代の青春時代に、自分の思いや体験を俳句に結晶し昇華して行くことを体得され、満州からの帰還後は、加藤楸邨主宰の「寒雷」に投句をし始め、昭和52年に百句になったので句集を作成された。この句集は、満州開拓犠牲 者33回忌の法要記念になさった。
 60歳の時に娘さんの陽子さんの勧めで、NHK学園の文章教室に入門し、平成5年NHK学園30周年記念自分史文学賞に応募し、72歳で大賞に選ばれたという。
 井筒さんの作品は、「満州追憶」として纏められたメモから、加藤楸邨の寒雷に投句をして、3年がかりでためたものである。叫びたくなるような凄惨で過酷な現状を、淡々と5・7・5のなかに、凝縮し飾らない表現のなかに、体験者だからこそ伝えられる真実がある。
 井筒さんは、俳句という表現により個人の感情の昇華にとどまらずこの悲しい体験を2度と繰り返さないため、語部の活動に渾身の力を注ぎ死の間際まで続けられた。そうした生き方を俳句は支えたと筆者は感じた。
 先の戦争から、74年の歳月が流れたが、世界中で国と国の戦争、少数民族や異教の民への侵略など、紛争の勝者による敗者への虐殺や略奪・強姦は、絶えることなく、より戦略的に構造化され行われている。74年前の出来事は、現代も巻き込まれる可能性のある脅威なのである。
 戦争の体験が風化せぬよう世に広く語り継ぎ、戦争による負債を埋め、より成熟した平和な世界が実現されるよう、私たち一人一人が史実を学び社会の在り方を考え、選択してゆく必要があると感じた。

参考文献
『大陸の花嫁』井筒紀久枝著 岩波書店 2004.1.16
『生かされて生き万緑の中に老ゆ』井筒紀久枝著 生涯学習研究社 1993年
『大陸の花嫁からの手紙』後藤和雄著 無明舎出版 2011.8.30
『満州女塾』杉山春著 新潮社 1996.5.30
『祖国よ「中国残留婦人」の半世紀』 小川津根子著 岩波新書 1995.4.20
『THE LAST GIRL-私を最後にするためにー』ナディア・ムラド著 吉
井智津翻訳 2018.11.30


2020年2月28日金曜日

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉙ のどか  

第4章 満州開拓と引揚げの俳句を読む
Ⅶ 井筒紀久枝さんの『大陸の花嫁』を読む(3)

*の箇所は、主に、(『大陸の花嫁』井筒紀久枝著 岩波現代文庫 2004 1.16)を参考にした筆者文。

【チチハル収容所11句から】
 凄惨で過酷な敗戦後の出来事に追われた、興亜開拓団に祖国へ帰る道筋を
示してくれる出会いがあった。そのことを『大陸の花嫁』P.65から引用する。
福岡県、大分県出身者で出来ていた興隆開拓団は、興亜よりも大きな団で男の人も大分残っていた。そして、九州男児の威力は、現地住民の奇襲を寄せつけなかった。しかし、公然と入ってくるソ連兵や中国兵には抵抗できず、略奪されるままだったのだから、食糧や物資が残っているはずはなかった。それなのに山本団長は、私たち興亜の生存者を受け入れてくださったのであった。(『大陸の花嫁』井筒紀久枝著 岩波現代文庫 2004 1.16)
悴む子抱き温めゐて飢えきざす
*満州の冬は、マイナス30度にもなるという。チチハルよりも200㎞も奥地である。悴んだ子を抱きしめ布団代わりの麻袋に丸まる。寒さと恐怖でまんじりともしない温まらぬ体を追い打ちするように、飢が襲う。
   
 つのる吹雪子の息ときどき確かむる
*極寒と栄養失調により子どもも大人も次々に死んでいった。
  吹雪で隙間風に雪まで吹き込んでくる夜には、栄養失調で弱り切った娘の息を確かめる。夜明けまで、娘の息の温もりを感じては何度も安堵するのである。

 このころの苦境について、『大陸の花嫁』のP.71にはこう書かれている。
 私は毎日、子どもを預けて作業に出ていたが、「よく泣く子だ」と嫌がられ始めた。私の留守の間に殺されては、と思った私は、一つぽつんと離れた藁で囲んだだけの風呂場へ、清美を押し込んで作業に出た。作業を終えて急いで行ってみると、入り口に吊るしてある筵にしがみついて眠っていた。その顔には、涙の乾いたあとが残っていた。疳にはお灸が効くと言われるまま、泣く子を押さえつけて、お灸もすえた。
 誰からも愛されずに育った私は、わが子は愛おしみ育てようと思いながら、きつい折檻をしているのだった。(『大陸の花嫁』井筒紀久枝著 岩波現代文庫 2004 1.16)
 誰からも愛されずに育った私は、わが子は愛おしみ育てようと思いながら、きつい折檻をしているのだった。(『大陸の花嫁』井筒紀久枝著 岩波現代文庫 2004 1.16)
オンドルのしんしん冷えて生きてをり
*オンドル(朝鮮の暖房設備)の火を絶やさぬように焚くだけの、羊草(やんそう)は無く、一晩で焚ける量は決まっていたのだろう。オンドルの竈の火も消えると床はしんしんと冷えて、とろとろと眠りかけたと思うと目が覚める。目が覚めることで自分が生きていることを改めて知るのである。

 厳冬期も終わりを告げ、1946(昭和21)年の春のことについて、P.72‐73にはこう書かれている。
 春になったらチチハルへ出よう。みんなの願いだった。一人の犠牲者も落伍者も出ないようにという団長の意図から、足の鍛錬が始められた。壕の内回りを4周すると、1里だということだった。夕方の点呼が終わると寝具(麻袋)を負い、ある程度の食料も持たなければならないということで煉瓦を一つ、腰に結わえて、今日は6周、明日は8周と、女と子どもが歩いた。近郷の現地住民は、壕を乗り越え土塁の上に顔を並べて、この異様な光景を嘲笑しながら見物していた。 5月13日朝、私たちは興隆開拓団をあとにした。病人には、みんなの金を出し合って大車(ダーチョ:馬車)を雇った。早く日本へ帰りたい、すこしでも故国へ近づきたい一心だった。(『大陸の花嫁』井筒紀久枝著 岩波現代文庫 2004.1.16)
こうして、井筒さんたち開拓団員は、200キロあまりを4日足らずで歩き一人の落伍者もなく、チチハルへ着いた。チチハルに着いたら、すぐにでも帰国できるものと思っていた。1946(昭和21)年5月に引揚げは始まったが、収容所には引揚げを待つ人が溢れ、順番が来るまでは、自分で生きなければならなかった。
 満蒙開拓団や満州に居住する邦人にたいする擁護や引揚げについての支援は、どのようになされたのだろうか。当時の国の判断が『引揚げ援護三十年の歩み』厚生省P.80第二節海外同胞の引揚げ」に以下のように記されている。
 外務省は在外公館あて昭和20年8月14日(ポツダム宣言受託日)付の「三か国宣言受託に関する訓電」をもって在外機関に対し、居留民はできる限り現地に定着せしめる方針を執るとともに、現地での居留民の生命、財産の保護については万全の措置を講ずるよう具体的施策を指示した。 (『引揚げ援護三十年の歩み』厚生省)※三か国宣言とは、イギリス首相、アメリカ合衆国大統領、中華人民共和国主席の名において日本に発せられたポツダム宣言のこと。
上記のように、日本政府外務省は満州へ居留民の定着を指示しているが、終戦に伴って発生した現地の混乱によって生活手段を喪失し、残留することがきわめめて危険、不安な状況になったことを理由に、その後引揚げ対策に転じる。しかし占領軍の日本進駐に伴い、引揚げは占領政策の一環として、GHQの管理下に行われることとなりそのことについては、以下のとおりである。
 アメリカと中国の話し合いにより日本人の引揚げが始まったのは終戦の翌年1946(昭和21)年5月。中国の葫芦島という島から日本の佐世保や長崎へピストン輸送がおこなわれました。(『満蒙開拓平和祈念館』満蒙開拓平和祈念館発行P.32)
 無造作に屍体(したい)が積まれては凍り
*終戦から約10か月を経て、やっと引揚げが開始される。
 戦後の過酷な混乱の中、満州に残された多くの婦人や子どもたちは、真冬はマイナス30度になる大陸に難民生活を送ることになる。
 『大陸の花嫁』の手記P.78には、以下のように書かれている。
 火種をくれた人が焚きながら倒れたと思うと、死んでいた。そばで寝ている人の呻き声が静かになったかと思うと、死んでいた。死人からシラミが移動し、ノミが跳び交い、人はやせ衰えて死に、シラミとノミが丸々と太りうようよ殖えていった。(『大陸の花嫁』井筒紀久枝著 岩波書店 2004.1.16)
その過酷さを知る手がかりとして、『祖国よ「中国残留婦人」の半世紀』小川津根子著P.151に、以下のように記されている。
 長い収容所生活では、死者が続出するのは当然と言える。しいて病名をつければ、多くの開拓史が書いているように、栄養失調、衰弱、下痢、赤痢、風邪、肺炎であり、また、「髪が白くなるほどだった」というシラミのせいで猛威をふるった発疹チフスなどであった。(『祖国よ「中国残留婦人」の半世紀』小川津根子著 岩波新書 1995.4.20)
また、その死者の多さは、以下のようであったという。
 ソ連侵攻時に開拓団に残っていたのは22万3千人でそのうち約8万人が亡くなり、うち7万人は病死であり-(略)と『満蒙開拓平和記念館』満蒙開拓平和記念館発行P.27に記されている。 
召集で、子どもを産んだばかりの女と妊娠中の女、乳児・幼児や高齢者ばかりとなった開拓団は、ソ連兵や地元民からの略奪や強姦に会い、泣く子は襲撃される原因になるからと殺される(自ら殺さなければならなかった)、僅かな食料と交換に中国人に売られた子どもたち(中国残留孤児)、出産を控え困り果てて、地元の中国人と結婚した婦人たち(中国残留婦人)、開拓団の生き残りをかけて、人身御供としてソ連兵に差し出された岐阜県黒川開拓団の娘たちの例など、一人一人に辛く悲しい引揚げ体験があったのだ。
 ほとんどの人が、敗戦と満州からの引揚げについて思い出したくない、語りたくない、語れないということは仕方のないことである。
 このような戦後の過酷な運命にあった満蒙開拓団の人々であるが、満州に先住した中国人をこのような行動に駆り立てた一面として、国策としての「満州農業移民20ヶ年百万戸送出計画」で、低価格で中国の農民の土地を買い上げ、移民団の小作人として雇い差別的な対応をしたことから、地元の人々の反発を買った点もあり、かつての加害者と被害者は入れ替わり、戦後の混乱を深めたのである。
(つづく)

参考文献
『大陸の花嫁』井筒紀久枝著 岩波書店 2004.1.16
『生かされて生き万緑の中に老ゆ』井筒紀久枝著 生涯学習研究社 1993年
『満蒙開拓平和祈念館』満蒙開拓平和祈念館作成資料
『祖国よ「中国残留婦人」の半世紀』小川津根子著 岩波新書1995年4月20日
「ソ連兵に性接待 帰国後はいわれなき差別 満蒙開拓団の女性たちが語り始めた悲劇」2019.3.13 http://times.abema.tv>posts

2020年2月7日金曜日

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉘ のどか

第4章 満州開拓と引揚げの俳句を読む
Ⅶ 井筒紀久枝さんの『大陸の花嫁』を読む(2)

*の箇所は、主に、(『大陸の花嫁』井筒紀久枝著 岩波現代文庫 2004 1.16)を参考にした筆者文。

【隊員応召後の開拓団集落 17句から】
雪の曠野よ生まるる子の父みな兵隊
*1944(昭和19)年2月末には、開拓団の若い男性たちに大量に、召集令状が届いたという。零下20度から30度となる酷寒の地には、妊娠した者、出産をしたばかりの母親と乳飲み子ばかりが残され、子どもたちの父親はみな兵隊になった。
 このころ、井筒さんもようやく悪阻(つわり)が治まり、授かった命の胎動を感じ始め、8月20日には、女児を難産で出産したという。

 『大陸の花嫁』の手記から、関東軍の兵力が南方戦線や本土決戦に備えて割かれる中、1944(昭和19)年2月末には、関東軍の予備的人材源であり満州開拓団の働き手である男性の多くが、召集されたことがうかがえる。
 その頃の日本の戦況については、1944(昭和19)年2月25日には、「決戦非常措置要綱」が閣議決定され、(国立国会図書館)、1944(昭和19)年3月7日には、「決戦非常措置要綱ニ基ク学徒動員実施要綱」が閣議決定されている。(国立国会図書館)
 1944(昭和19)年7月5日インパール作戦の中止。7月7日サイパン島の日本軍守備隊の玉砕。8月11日グアム島の日本軍守備隊の玉砕。11月24日ペリリュー島の日本軍守備隊玉砕。11月24日には、マリアナ諸島から出撃したB-29による東京初空襲と日本の戦局は悪化を辿っていく(『知識ゼロからの太平洋戦争入門』 半藤一利著 幻冬舎太平洋戦争関連年表P.204から)
 1945(昭和20)年5月8日ドイツが連合国に無条件降伏したころ、日本は米軍との沖縄戦が熾烈を極め、本土決戦も現実化しつつあった。このころ大本営は、関東軍に以下のような命令を下した。

 これに備えて5月30日、大本営は関東軍の完全な作戦態勢への切替を命令し、また『満鮮方面対ソ作戦計画要領』を与えたこれにもとづいて対ソ作戦準備を行うことを命令した。その内容は、「関東軍は京図線(新京‐図們)連京線(大連‐新京)以東の要域を確保して持久を策し大東亜戦争の遂行を有利ならしむべし」というものであった。もとよりこれは大本営の本土決戦に一環として考えられたもので、要するに全満の四分の三は放棄しても、通化を中心とする東辺道地帯にたてこもって、大持久戦によりソ連軍をここに釘付けにしろ、という命令だった。(『関東軍 在満陸軍の独走』 島田俊彦著 株式会社講談社P.26)

 また、『「大日本帝国」崩壊』加藤聖文著P.148‐149には、以下のように記されている。

 実は関東軍内部では、持久作戦へ転換した1か月後の1945年2月24日になって、「関東軍在満居留民処理計画」を策定、ソ連国境周辺の老幼婦女子の退避と青壮年男子の召集が方針とされていた。そして戦時態勢へ移行した5月以降、この計画の実施が検討されたが、大本営からこの計画に対して、現地民の動揺を招きソ連軍の侵攻を誘発する恐れがあると反対され計画は頓挫していた。(「満州国内在留邦人の引揚げについて」)
(『「大日本帝国」崩壊』加藤聖文著中央公論社2009.7.25)

 かくして、関東軍の作戦の本拠地が日本に近い満州朝鮮方面に変更されたことを、ソ連に察知されないよう極秘にされ、開拓移民たちはソ連・満州国境付近の奥地に、取り残されたのである。

【敗戦33句から】
帝国が唯のにほんに暑き日に
*満州帝国に移民で来た日本人の振る舞いは、現地住民を抑圧し苦しめていたと以下のように井筒さんは語っている。‐まさに驕る平家は久しからずの言葉の通り、ある日突然に「五族協和」「王道楽土」の大義名分の上に、打ち立てられた満州帝国は、一炊の夢のように壊滅したのである。‐
 この時のことは、井筒紀久枝著『大陸の花嫁』P.47に、次のように記されている。

 8月9日、ソ連との開戦が知らされた。そして、8月14日残っている男を総ざらえにして召集令が来た。私たちは、自分の夫が応召するときには涙を見せなかったが、そのときばかりはみんな大声をあげて泣きながら見送った。 翌15日夕、その人たちは、ぞろぞろ戻ってきた。(略) 拉呤(らは)までは行ったが汽車は動いておらず、街なかの様子がただごとではなかった、という。(略) 17日、「嬉しいニュースを知らせにきました。戦争は終わりました」本部の人が少しも嬉しそうではない沈痛な顔で、私たちの宿舎へ伝えにきた。(『大陸の花嫁』井筒紀久枝著 岩波現代文庫 2004 1.16)
 

俘虜われら飢ゑつつ稲の穂は刈れぬ
*戦争が終わったのは夏。八月の末には秋がやって来る北の大地の作物は
収穫期を迎え、稲は小金の穂を垂れている。
しかし既に敵地となっている田畑である。これまでの苦労を思うと、飢
えていながら収穫できないことは残念だが、ここは歯を食いしばって耐
えるしかない。

酷寒や男装しても子を負ふて 
*1945(昭和20)年8月25日に武装解除を受けたあと、ソ連兵と中国兵や地元の中国人による略奪が繰り返され、女性は強姦された。髪を剪って顔に竈の煤を塗りたくり、若い娘にも赤ん坊を背負わせて偽装をした。凍てる冬の夜、母親たちは襲撃を警戒して男装をし、僅かに残った農具を持って歩哨に立った。
 開拓団での強奪の様子について、『大陸の花嫁』P.57に井筒さんはこう綴っている。

 夜は現地住民が襲ってきた。
 私たちは、長い草刈り鎌や手製の槍を持って夜警に立った。(略)「ワアーッ」と襲ってくると、私は槍を投げ出し、子どもを預けているほうへ走った。子どもは一か所に集めて、老人や病人が見ていた。暗がりの中わが子を求めて負う。まだ母親が来ていない子は、抱いて逃げた。みんな同じ方向へ逃げた。それを目がけて弾丸が飛んできた。倒れる者、捕らわれる者、もうどうにでもなれと思うほかなかった。それでも私はいつもコウリャン畑へ逃げ込むことができた。清美は泣きもせず声も立てず、体を硬くして、私の背に顔をくっつけていた。   
(『大陸の花嫁』井筒紀久枝著 岩波現代文庫 2004 1.16)


蚤虱じわじわ飢ゑて死にし子よ
*食べ物を摂ることのできない母親の乳は、乳飲み子に十分な栄養を与えることはできなかった。親子ともにじわじわ衰弱し、この世の理不尽は、乳飲み子にも容赦ないのである。地面にじかに寝るため蚤や虱にたかられる。死んだ子からは、蚤も虱も逃げて他の人に寄生するのであ。

【現地脱出10句から】
行かねばならず枯野の墓へ乳そそぎ
*毎夜続く襲撃と略奪。長年かけて収穫できるようになった農地を棄て「根こそぎ召集」のため、数えるほどとなった男性たちについて、子どもたちを連れて脱出することとなる。子を亡くしても子を思うと乳が張ってくる。子の墓へ乳を搾り、涙に咽びながらこれまでの住処を去るのである。
開拓団の最後について、『大陸の花嫁』P.61に以下のように記されている。
  
 第9次興亜開拓団(福井県、昭和15年1月入植)、第1次興亜義勇隊開拓団(昭和13年、内原入所以来現地の訓練所を経て、昭和16年4月入植)の最後だった。(P.61)、昭和20年10月9日興亜開拓団は滅びた。(P.64)
(『大陸の花嫁』井筒紀久枝著 岩波現代文庫 2004 1.16)
(つづく)


参考文献
『大陸の花嫁』井筒紀久枝著 岩波書店 2004.1.16
『生かされて生き万緑の中に老ゆ』井筒紀久枝著 生涯学習研究社 1993年
『シベリア抑留‐未完の悲劇』栗原俊雄著:岩波新書 2016.2.5
「決戦非常措置要綱」(国立国会図書館:https://rnavi.ndl.go.jp/politics/entry/bib00540.php)
「決戦非常措置要綱ニ基ク学徒動員実施要綱」(国立国会図書館:https://rnavi.ndl.go.jp/politics/entry/bib00544.php)
『知識ゼロからの太平洋戦争入門』 半藤一利著 幻冬舎 2009.4.10
『満蒙開拓平和祈念館』満蒙開拓平和祈念館作成資料
『関東軍 在満陸軍の独走』島田俊彦著 講談社 2005.6.10
『大日本帝国崩壊』加藤聖文著 中央公論 2009.7.25


 

2020年1月24日金曜日

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉗ のどか

第4章 満州開拓と引揚げの俳句を読む
〈序〉
 シベリア抑留を体験された方たちが、武装解除を受けシベリアへ連れていかれる途中、地元民やソ連兵や八路軍等の強奪や強姦に会いながら逃げ惑う、満州開拓団の婦人と子ども達や高齢者に会いながらも、守ることが出来なかったことについて、無念の思いに耐えないと話されたことが心に残っている。
 このことからシベリア抑留についてだけを書くことは、片手落ちであり、「満洲からの引揚げ」についても取り上げなければならないと思った。
 そこで、第1章Ⅱシベリア抑留への歴史の中で、「満州建国」及び「満州開拓政策」について触れたところであるが、「満州開拓」と「大陸の花嫁」について、2019(令和元)年9月2日に、長野県阿智村にある「満蒙開拓平和記念館」で確認したことも踏まえ、お伝えするこことする。
 1931(昭和6)年の世界恐慌とあいまって、繭価の暴落や凶作により、当時の日本の農村は疲弊していた。
 「五族協和」「王道楽土」の満州国建設をうたい、家督や財産を継ぐことのできない農村の若者を対象に、“20町歩の地主になれる”を宣伝文句の国策として、1932~1933(昭和7~8)年、第1次武装移民団が満州に入植した後、移民を定住させるため花嫁を送りこむ「大陸の花嫁」が政策化された。
 このことについて、『満州女塾(まんしゅうじょじゅく)』 杉山春著 新潮社P28に、以下のように書かれている。
 
 昭和11年、2・26事件が起きると、政府内の軍部を押さえ込む力は一掃され、その後生まれた広田弘毅内閣は、満州移民を七大国策の一つとした。(略)5月11日、20カ年百万戸満州移民計画が関東軍により策定され、これに基づき、拓務省の予算案が議会を通過する。(略)          
 昭和12年これを受けて、第六次移民、5000人が満州へ送られた。
 移民には、未婚の男性が多く、以後、移民の花嫁の送り出しが全国規模で始まってゆく。
 その中心となったのが、満州移住協会である。昭和12年頃から、大日本連合女子青年団、大日本連合母の会、愛国婦人会などの婦人団体や、女教員会などに向けて、満州移民への積極的な関わりと「花嫁養成」への協力を求めていく。
 それに応える形で各地で花嫁訓練所が作られ、花嫁講習も開かれるようになっていた。(『満州女塾(まんしゅうじょじゅく)杉山春著 新潮社1996.5.30』
 昭和12年これを受けて、第六次移民、5000人が満州へ送られた。 移民には、未婚の男性が多く、以後、移民の花嫁の送り出しが全国規模で始まってゆく。 その中心となったのが、満州移住協会である。昭和12年頃から、大日本連合女子青年団、大日本連合母の会、愛国婦人会などの婦人団体や、女教員会などに向けて、満州移民への積極的な関わりと「花嫁養成」への協力を求めていく。 それに応える形で各地で花嫁訓練所が作られ、花嫁講習も開かれるようになっていた。(『満州女塾(まんしゅうじょじゅく)杉山春著 新潮社1996.5.30』

 このような社会の流れの中で、国策に応じ多くの女性たちが「大陸の花嫁」として満州に渡ったという。

Ⅶ 井筒紀久枝さんの『大陸の花嫁』を読む(1)

 井筒紀久枝さんもこの国策に運命を託した一人である。
 井筒さんは、越前和紙の里に生まれたが、不運な出生と幼少期から少女時代のつらい境遇から逃れるために福井県から「大陸の花嫁」に志願し満州へ渡ったという。
 そして、引揚げ後にその思い出を俳句にまとめ、「大陸の花嫁」としての苦難の生活を『望郷』『生かされて生き万緑の中に老ゆ』『大陸の花嫁』として発表し、ご自分の戦争体験を語り継ぐ活動をされ、2015(平成27)年享年94歳で永眠された。
 このたびは、井筒紀久枝さんの俳句の伝承をしておられる、ご遺族の新谷亜紀(陽子)さまの許可を平成31年2月に頂けたので、「第4章 満州開拓と引揚げの俳句を読む」において、井筒紀久枝著『大陸の花嫁』(岩波現代文庫)の満州引揚げの俳句を紹介して行きたい。
 *の箇所は、主に、(『大陸の花嫁』井筒紀久枝著 岩波現代文庫 2004 1.16)などを参考にした筆者文。

【開拓地10句から】
 昭和18年4月12日、井筒さんは満州に渡った。

解氷期野原動くや豚生まる 
*冬には氷や雪に閉ざされる北満の地も解氷期となり、暖かな光に野原も川も息づき開拓地の集落は、子豚の生まれた声が聞こえてくる。豚の妊娠期間は、3月3週3日と覚えるのだそうだが、厳冬期に妊娠した豚は、雪解けのころに出産したのだろう。1回に10頭ほどを出産するそうであるから、子ブタのキーキー鳴く声が開拓村のあちこちから聞こえてくるのである。
 満蒙開拓団の入植先の多くが、ソ連国境に近い黒竜江に沿った、小興安嶺、大興安嶺の裾野に広がる辺境の地に、関東軍兵士の補給庫の目的で配置されたのである。
 井筒さんが所属した福井県出身の第9次興亜開拓団と第1次興亜義勇隊開拓団の本部は、チチハルから200キロ奥地大興安嶺を西北に見る平原にあった。(『生かされて生き万緑の中に老ゆ』満州開拓団から参照)

放牧や桔梗芍薬いっせいに 
*広大な野原に放牧され、草を食む家畜たち、あたりは桔梗や芍薬の花が咲き乱れ、命がいっせいに輝きだす。暖かな日差しの中で色とりどりの花野に身も心も解放される至福の時がやってきた。

麦熟れて東西南北地平線

*いかにも雄大で神々しい。東西南北に広がる地平線まで続く麦畑は、黄金色に北満の大地を彩り、夕日の落ちる瞬間には、畑も山も全てが茜さす金色に輝くのである。
 現実の暮らしについては、自然の美しさとは別に厳しいものであったようである。井筒紀久枝著『大陸の花嫁』P.27には、次のような記述がある。

 最も困難を極めたのは、水汲みである。柳の枝で編んだ籠のようなものが、車井戸にぶら下げてあった。覗いても水面がみえないほどの深い井戸から、両手で重たい車を回して汲み上げる。手元へ汲み上げたころには水はこぼれてしまって、半分ほどになっていた。それを何回も汲み上げて、天秤棒で運ぶのである。故郷では、山から流れる水を何も考えずに使っていたが、ここでは一滴たりとも貴重な“水”であった。   (『大陸の花嫁』井筒紀久枝著 岩波現代文庫 2004 1.16)

 さて、現代の私たちの暮らしは、水道の蛇口をひねれば水ばかりかお湯まで苦労せずに使うことが出来る。トイレでは温水が尻を洗ってくれるのだ。一滴の水も貴重だという体験は、今の世にはなかなか実感出来ないことである。
(つづく)
参考文献
『大陸の花嫁』井筒紀久枝著 岩波書店 2004.1.16
『生かされて生き万緑の中に老ゆ』井筒紀久枝著 生涯学習研究社 1993年
『満州女塾』杉山春著 新潮社 1996.5.30
『満蒙開拓平和祈念館』満蒙開拓平和祈念館作成資料


2020年1月10日金曜日

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉖  のどか

第3章 戦後70年を経ての抑留俳句
Ⅵ 百瀬石涛子(せきとうし)さんの場合(6)

【百瀬石涛子著『俘虜語り』を読む】‐その4
*は、インタビューをもとにした、筆者文。

毛布欲し丸太の棚に俘虜遺体(寒極光)
*収容所のベッドは棚になっており、暖かい空気は上に上がるため棚の上のほうが暖かい。体力の消耗の激しい者は、暖かい上の段に寝ることになる。仲間もその死期を察しており、死ねば虱が逃げてゆく。死者の毛布が欲しいと心の声がささやくのである。

死者の衣を分配の列寒極光 (寒極光)
*死体を処理する前に衣類を脱がす。多分それは、誰かが独り占めするのではなく、平等に分配されたのだろう。それは、靴の修理に、物を入れる巾着にリュックの補修に、ある者は一切れのパンに変えた者もいただろう。三途の川で死者から衣を奪う奪衣婆(だつえば)さながらである。一見して此の世の地獄絵図とも映るのだが、生存の厳しさの中においては、仕方の無いことである。そうしながらも心はその記憶に苛まれるのである。

柩なき遺体凍土に寧所なく(寒極光)
*柩に入れてあげられず、十分な弔いも出来ない。凍土を掘って何体も一緒に埋められる遺体は、安寧の眠りを得る事は出来ない。

置き去りし遺骸の山や木の根明く(寒極光)
*雪解けが進み、遺骸を置き去りにした山にも木の根が明くころになると冬を越せなかった仲間を悼むのである。

レーニン主義壁新聞の長き夜(寒極光)
望郷やレーニン称え夏の夜(寒極光)
*この二句は、赤化教育(思想教育)を詠んでいる。抑留一年を過ぎた頃から、天皇を神として教えられた日本の兵隊を、ソ連の戦後復興の労働力として使役する他に、天皇制や資本主義に対する批判や社会主義的民主主義を教え込み、民主主義的軍紀の確立と軍国主義的分子との確固たる闘争の呼びかけが、壁新聞や日本新聞により広められた。中には、ソ連に協力すれば、早く帰国できると考え「アクチブ」として積極的に活動する者もあったという。帰還前に入る、ナホトカの赤化教育の機関では、成績が悪いと再びシベリアの奥地に逆送され労働をさせられると聞いていたものも多いという。石涛子さんもインタビューの中で、赤化教育の成績が良いと早く帰還できるという思い込みが広まっており、それによる密告が日常化していたと語っている。
※アクチブ:赤化教育を受けて、それを広めるために取り立てられた役目の人

木の根明く帰還(ダモイ)列車の時折に(寒極光)
*木の根の開く春になるとナホトカに向かうシベリア鉄道を望郷の思いを胸に見送った。

帰還(ダモイ)待ち若菜摘む掌の弾みけり(寒極光)
*この年の春は石涛子さんの名前も帰還者の名簿にあり。早春の野の草を摘む掌も殊更に弾んだのである。

帰還船待つ霧籠めのレーニン像 (寒極光)
*石涛子さんはナホトカで同じ名簿であった仲間と一緒の船で帰還できなかった。ナホトカに留め置かれ、重症の病人の看護を任されたためである。苦楽を共にした仲間と一緒の船で帰れず落胆した。次の帰還船を待つことの不安が「霧籠めの」に重なっているようである。

流氷来抑留の友置き去りに(寒極光)
*流氷の季節が来ると海明けである。日本に向う帰還船に乗れた自分の運命を喜ぶ一方で、帰還できない仲間へ思いを馳せるのである。

死者の声立夏の海にひしめけり(寒極光)
*望郷の思いに駆られながら死んでいった仲間の声や、船の中で死んで水葬された者の声が立夏の海にひしめいている。

海明けを知らぬ俘虜の死遺品なし(寒極光)
*このように帰還の日が来ることを知らずに死んでいった仲間の遺品の一つもないことに、ダモイと騙しながら略奪を重ねたソ連兵の身勝手な振る舞いに、怒りと悔しさが湧いてくるのである。

夏めけるナホトカに在り虜囚果つ(夏のペチカ) 
*夏を迎えるナホトカにやっと虜囚としての暮らしを終える事ができる安堵と感慨がわいてくるのである。

哭く風は虜囚の声か冬に入る(寒極光)
*故郷信州の冬も厳しい。哭く風はシベリアに死んだ虜囚の声にも聞こえるのである。

俘虜の名の生涯消えず雪を掻く(寒極光)
*戦後70年の歳月を経てなお俘虜の記憶は消える事が無い。雪掻きをするたびに、シベリヤ抑留の記憶はまざまざと甦るのである。

根深掘る自立に遠き九十歳(寒極光)
*家族のために菜園から葱を抜く、自立に遠いとはいえ家庭での役目を果たし、穏やかな日々を送る、90歳を迎えたのである。

俘虜に果つ我が身たりしを恵方巻(寒極光)
*生涯を俘虜の記憶に苛まれながら暮らす日々であるが、良きことを願って恵方巻を食べる。

若桜少年兵が今卒寿(寒極光)
*少年兵として志願した日から、抑留、帰還、日本の復興と経済成長に貢献した日々、家族を持ち子どもたちを一人前にした。抑留の記憶は走馬灯のように巡っているのである。そして卒寿を迎えた安堵が、いや戦争を体験した世代の使命が今を支えているのだ。

【百瀬石涛子さんの『俘虜語り』を読んで】
 シベリア抑留体験の話を伺う中で、石涛子さんは、関東軍の通信兵として従事する頃から俳句をされていたことについて、「戦争や抑留という過酷な体験の中で、俳句は心の支えになりましたか」と筆者が尋ねると、「いや、ならなかった。あのような境遇の中で詠んだ句には、詩は無いからね。」と静かに答えられた。
 先に読んできた『シベリヤ俘虜記』『続・シベリヤ俘虜記』で取り上げた5人の方と、違う意見を聞いたことが意外であり、石涛子さんの鑑賞文を書き終えるまで気になっていたので、筆者は平成31年4月、石涛子さんに1枚のアンケートを送った。
その内容は、俳句の価値について数字で表すとして、「俳句には価値が無かったを0点」とし、「俳句には非常に価値が有ったを10点」とするとご自分にとって俳句の価値は何点になりますかというものである。
 この質問に、「抑留中を0点」「2000年以降10点」と回答された。
 「抑留中を0点」の理由は、抑留中は終日生きる事のみに追われ、動物的感覚であったからと厳しい自己評価をしている。引揚げ後の生活では、レッドパージによる失業や生活に追われながら、安保闘争の参加や鎮魂と反戦・組合運動に参加する一方で、地区の句会へ参加した。このような活動を経て、2000年(75歳)頃から俳句の価値は10点の「非常にあった」となっている。このころから、石涛子さんの「シベリア抑留俳句」が結実し始めたのだと推察する。
 石涛子さんは、抑留という困難な境涯にあった日々も、奥様への介護生活に身をささげられている94歳の今も真摯な姿勢で過ごされている。
 そして、先立たれた仲間への「鎮魂」と戦争を知らない世代へ「反戦」を俳句により伝えたいと言う。
 そんな石涛子さんをやはり、「俳句」は、支えているのだと筆者は思う。
 石涛子さんに於かれましては、これからもご健勝に「鎮魂と反戦の俳句」をもって、「平和」への道筋を照らしていただきたいと願うのである。
 ※句集『俘虜語り』百瀬石涛子著 花神社 平成29年4月20日

2019年12月13日金曜日

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉕  のどか

第3章 戦後70年を経ての抑留俳句
Ⅵ 百瀬石涛子(せきとうし)さんの場合(5)
【百瀬石涛子著『俘虜語り』を読む】‐その3

*は、インタビューをもとにした、筆者文。

  黒パンへ寒灯染みる虜囚の地(ナホトカ)
*配給の黒パンを切るには、白樺の木で物差しを作ってあって、それで均等に切り分けたのだが、皆、棚になったベッドから見つめる目に刺されるようであった。

  虜囚われ春禽捉え生き延びし(夏のペチカ)
*捕らわれの身である自分。飢えに苦しみ、春の鳥を捉えて食い生き延びた。

  今日の糧とつこ虫食ひ草を摘み(寒極光)
*春には鳥を捕まえ、とつこ虫(カミキリムシの幼虫)や草を摘み食べることはまさに生きる糧となった。

  蟷螂のまなこ兵士のころの吾 (夏のペチカ)
*あの頃の目は、まるで獲物を狙う、蟷螂の眼そのもので有った。また、自分自身の飢えに突き動かされるように食べられそうな物を探した。

  俘虜飢ゑて自虐のこころけらつつき(寒極光)
*飢えは、一層気力を低下させ、憂鬱や絶望といった自虐的な心にさせた。虫を食べるために草木の根元を掘る姿は、けらつつきに投影されている。

  逝く虜友を羨ましと垂氷齧りをり (寒極光)

*飢えは自分自身の心を苛み抑うつ状態に追い込む、死に逝く友を羨ましいとさえ思い、その一方で垂氷を齧らせる。死を切望しながらも体は、生きようと懸命なのである。

  繰り返し語る帰還(ダモイ)や木の根明く (寒極光)
*。収容所は、シベリアの各地に散らばっており、情報源は時々ある収容所の人員の交代により他のラーゲリの様子を知ることの他は、「日本新聞」のみである。幾つかの野菜のかけらが入った粥(カーシャ)をゆっくり味わった後の雑談はいつも帰還のことになる。毎晩、毎晩同じ話をするうちに、木の根の明く春がまた巡ってくるのである。

  虜囚とはいつも望郷盆近し(寒極光)
*飢えと寒さと強制労働から早く解放されたい、一日も早く帰還を果たしたいという望郷の思いが募る毎日、先祖や親せきか集うお盆も近づいている。夏になれば帰還船が出るのではという期待が「盆近し」の中に込められている。

  収容所の夏はつかの間岳樺 (夏のペチカ)
*ウラン・ウデが暖かくなるのは5月中旬から9月の上旬、9月の中旬以降は、最低気温が氷点下の日が続く。収容所の夏は短い。

  収容所は夏のペチカを奢(おご)りとす(夏のペチカ)
*石涛子さんの居たウラン・ウデ地域は、夏場も5月・9月には3度~5度になることがある。そんな寒い日には、粗朶を燃やして、冷えた体と心を温める。細やかな楽しみなのである。

  遠郭公脱走兵を悼みけり(寒極光)
  脱走の俘虜の末思ふ白夜かな(寒極光)

*収容所は、鉄条網で囲われ四方には監視塔が置かれ、狙撃銃を持ったカマンジール(監視兵)が見張りをしている。脱走が見つかったときには射殺される。発熱のために飲み水が欲しく雪を取りに行く、収容所の近くの雪は取りつくされているので、仕方なく鉄条網に近い場所の雪を取りに行く、あるいは野草を取りに鉄条網に近づき、脱走とみなされると射殺される者もあった。運よく脱走出来ても、冬はマイナス30度にもなる酷寒の地。腹を空かせた狼の群れもいる。脱走が目的でも鉄条網に走るのは、絶望の果ての積極的な自殺ともいえる。遠くリフレインする郭公の声は、脱走者を悼むかのようであり、脱走者を狙撃した銃声の木魂とも聞こえる。誰もが俘虜の苦しみから逃れたく脱走することを思うのだろうが、その行く末を思えば我慢するしかないと自分を慰めたのである。

  渡り鳥羨しと見つめ俘虜の列 (寒極光)
*冬の近づく頃、鴨や白鳥、真鶴などはシベリアの広大な空を自由に飛び、冬には日本に渡ってゆく。作業に出かける前の点呼の列で、作業の合間の給食を待つ列で空を見上げながら、自由に飛べる渡り鳥を羨ましく眺めるのである。

  凍天やウオッカの匂う看視塔 (寒極光)
*ウラン・ウデ地域の冬の降水量は少なく、雨はひと月に1~2日位となる、空も凍てつく青さなのである。監視塔では、カマンジール(監視兵)がウオッカを煽って寒さをしのいでいる。

  深井戸は氷の渓や俘虜の列 (寒極光)
*深井戸とは、硬い岩盤を掘りぬいた井戸のことであるが、水脈を得るために谷底に作られたのだろうか、一日の飲み水を水筒に汲むために、氷った谷底へ俘虜の列が続いている。今の時代には、水道を捻れば水を汲むことができるが、厳しい作業に備えて点呼の前に飲み水を確保しなければならないのは大変な苦労であった。

  凍てし樹皮刻み煙草の日々なりし(寒極光)
*強制労働の対価として、月に一回はマホルカという刻み煙草が支給されたようだが、その量については、定かではない。空腹を紛らわすために、木の皮を刻んで煙草の代わりに吸って口さみしさを紛らわせた日々なのである。

  凍つる日の毛虱検査女医強気 (寒極光)
*収容所での身体検査は、三か月ごと位に有り、主に尻の肉をつまんでその戻り具合で、労働等級を決めるために行われたが、ケジラミの検査も行われたのであろう。人に取り付く虱は、アタマジラミ・コロモジラミ・ケジラミであり、ケジラミは陰毛に寄生するのである。当時ソ連では、ドイツ戦・関東軍との戦いにより多くの兵士を失い、男性が少なかったので、医師は女性が多かった。毛虱検査をする女医も強気にならなければならなかったろうし、裸になって女医の前に整列する側も心凍る思いだったのだ。

  懐郷の虜囚の尿は礫に凍つ (寒極光)
*冬を迎えると故郷への思いは一層つのる。「慮囚の尿は礫に凍つ」については、酷寒の地では小水をしたところから氷っていくのでそれを金槌でたたいて落とすなどという笑い話を筆者は子どもの頃に耳にしたが、実は小水が落ちたところから小石のように凍り付いてゆくのだという。

  冬来るや畚もて糞塊当番 (寒極光)
*冬の到来でのもう一つの悩みは、便所で鍾乳石のように氷り、尻を刺す糞尿である。労働階級三級になると軽作業に廻されるが、便所当番も仕事になる。足掛けの丸太を外し、十字鍬やシャベルで糞尿の鍾乳石を掘り起こし、畚(もっこ)で捨てに行く。凍っている時は良いが、外套についた塗沫がペチカの火で溶けると、臭いが厄介なのである。糞塊当番とは、石涛子さんの独特の表現なのか、当時のラーゲリではそう呼んでいたものか、大変な仕事の中に笑いを誘う表現である。  

  俘虜逝きて白夜の星を眩しめり (寒極光)
*昼間は作業を夜には食事を共にした仲間が死んだ、白夜の頃(夏至前後)、深夜の友の埋葬。黙祷を終え、白夜にかすかに瞬く星を目をほそめて見上げるのである。

  俘虜死すや骨立つ尻の寒からむ(寒極光)
*生活を共にする収容所(ラーゲリ)の仲間の死は、生の隣にある死を暗示する。裸にされた遺体の骨と皮だけの尻に、一層いたいたしく不憫な思いが湧いてくるのである。
(つづく)
句集『俘虜語り』百瀬石涛子著 花神社 平成29年4月20日

2019年11月29日金曜日

【連載】寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉔  のどか 

第3章 戦後70年を経ての抑留俳句

Ⅵ 百瀬石涛子(せきとうし)さんの場合(4)
【百瀬石涛子著『俘虜語り』を読む】‐その2

*は、インタビューをもとにした、筆者文。

2 蛇の眼窩・夏のペチカ
  存念の蛇の眼窩の深みどり(蛇の眼窩)
*章のタイトルとなっているこの句を読んで、はっとした。存念の蛇の眼窩とは、ただ普通に死んだ蛇の骸を見ているのではなく、死んで暫く経ち干からびた状態をみているのだ。眼窩とは、眼を収める窪みのことであるが、この句では、生気を失った眼と痩せて窪んだ眼窩を含めたものと感じた。石涛子さんの眼にはかつて帰還を待たず、栄養失調や感染症や寒さで先に逝った、戦友の落ち窪んだ眼窩ややつれた頬骨に重なるのである。

  吾亦紅むかし門閥言はれけり(蛇の眼窩)
*帰国後国鉄に就職し電車のバッテリーを保全する仕事をした。当時労働調整と言った赤狩り(レッドパージ)により、シベリア帰りを首にした。石涛子さんもシベリア帰りということで、25歳で首になった。この出来事は、本当に悔しかったと石涛子さんは語った。
 お国のためにいつも誠実に懸命に生きてきたのに、シベリア帰りであるということで、レッドパージの対象となり、国鉄を辞めざるをえなかった。吾亦紅の赤がレッドパージを象徴し、風に吹かれるのを見るたびに世間の無常を感じるのである。

  捕虜収容所(ラーゲリ)の歳月はるか鳥渡る(蛇の眼窩)
*今年もシベリアから鳥の渡る季節になった、歳月は過ぎれども捕虜収容所で過ごした日々は忘れない。

  鳥渡るシベリアにわれ死なざりし(夏のペチカ)
*鳥の渡ってくる、北の空を眺めるたびに、シベリアから生きて還ったことを思い、「われ死なざりし」の気持ちの中には、過酷な抑留生活のなかで生き残ってしまったという、罪悪感が秘められている。

3 ナホトカ・夏のペチカ・寒極光
  抑留の一歩となりし氷河渡河(寒極光)
*インタビューから、1945(昭和20)年8月、満州昌図、現在の中華人民共和国遼寧省で終戦を知らされ、武装解除を受けた。終戦の知らせを受け武装解除の準備をして、ソ連軍の来るのを待ったが、いつ頃ソ連軍が来たのかは覚えていないと言う。
 ソ連軍が来て私物接収をされソ連国境を流れる川が凍るのを待って、松花江・黒竜江を橇でソ連に渡った。未凍結の河に足を滑らせ死んで行った日本兵の死体を幾体も見ながら。中にはその遺体から衣類を剥ぐものもいた。まさに三途の川の辺に居る奪衣婆(だつえば)である。その時は、戦争が終わったのだから日本に帰れると思っていた。帰還(ダモイ)の言葉を信じていたのだ。

  収容所(ラーゲリ)の私物接収霏々と雪(寒極光)
*収容所では、71連発できる銃を持つソ連兵に腕時計などの私物を奪われた。バイカル湖は凍りつき、雪は霏々と降り続くのである。

  バイカルの凍湖さ走る雲の形(寒極光)
*十月に入るとロシア各地は、氷点下10度を下回り、バイカル湖も凍結し始め本格的な冬の到来である。空を行く雲も厚く次第に雪雲に変わる。

  伐採のノルマ完了眉氷る(寒極光)
*石涛子さんは、ウラノデ収容所で主に伐採の仕事をしたという。伐採の仕事は大地が凍結し材木の移動が容易になる冬に行われることが、多かったと言う。マイナス四十度のシベリアでは、水分すべてが凍り付く。ノルマが完了するころには、自分の吐く息に眉毛も凍り付いてしまうのである。

  寒林を伐採の俘虜声忘れ(寒極光)
*朝の点呼が終わると伐採の作業地まで、2~3キロメートルを徒歩で向かう、1日のノルマが終わるまでは、作業は終わらない。2人1組で切り倒した木の枝を払い、一本が何百キロもある木を何トンも運び台車に乗せる。作業が終わるころには誰も口を利くものは居なくなる。

  伐採のノルマの難き白夜の地(寒極光)
*ソ連はあらゆる作業にそれぞれのノルマを課した。基準をこなせば決められた量の食糧が支給され達成出来なければ、食料は減らされた。美しい白夜の日で有っても、ノルマが達成しなければ仕事は続く。終戦を迎えた年は20歳で、ロシア語を必死で覚えた。言葉を覚え現場監督と仲良くすることも仕事の一つだと考えた。スプラスカという成績表の点数を上げてもらうために。他の班が50点のところを常に75点の評価を貰い、羨ましがられた。与えられたノルマの成果が上がるように、常に心を砕いた。

  ノルマ果つ軍褌虱汗まみれ(寒極光)
*ノルマが終れば、褌ばかりか虱まで汗まみれだというのである。収容所に帰ってまずすることは虱とり。虱は、寒さで死ぬことは無く洋服の縫い目にびっしりと食い込み、白樺の木でこそげ捕るほどであった。

  捕り棄つる虱凍雪には死なず(寒極光)
*虱は発疹チフスを媒介する。衣類の縫い目に潜み、血を吸われると猛烈な痒みに襲われる。虱はマイナス40度を超える凍てた雪の上でも死ぬことはない。

  ペーチカに虱ぱらぱら焼き殺す(寒極光)
*虱は、ペチカで焼いても間に合わないくらいだったと。かゆみも眠りを妨げ精神的な消耗を増す原因にもなった。

  木の根開く異国の丘の生き競らべ(寒極光)
*「木の根開く」は、春になって立ち木の周りの雪がいち早く空き始める、雪国の春を告げる現象で、木の周りに土がのぞくと春が足早にやって来ることをいう、シベリアの地では、「木の根開く」季節がひとしお待たれたのである。
  収容所(ラーゲリ)での話は、もっぱら故郷の郷土料理や母の手料理の事で有った。そして、木の根の開く季節は、飢えをしのいで生き延びるため、腹をわずかながら満たせる季節となる。異国の丘で明日をも知れぬ自分の寿命との生き競らべである。
(つづく)
句集『俘虜語り』百瀬石涛子著 花神社 平成29年4月20日

2019年11月8日金曜日

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉓ のどか 

第3章 戦後70年を経ての抑留俳句
Ⅵ 百瀬石涛子(せきとうし)さんの場合(3)


【百瀬石涛子著『俘虜語り』を読む】‐その1
  シベリア抑留体験者の口は重いという。シベリア帰還者に向けられた「レッドパージ(連合国軍占領下、公務員や民間企業において日本共産党員とその支持者を解雇した赤狩り)によるばかりではなく、その体験があまりにも重く思い出すにつけ、苦しかった記憶の糸が解かれることにより、何度も追体験をしてその記憶にさいなまれるPTSDの状態になるからだ。
 PTSD(心的外傷後ストレス障害)とは、戦争・地震・津波・火災・交通事故などを経験したり、テロ・強盗殺人・レイプなどの犠牲者になるといったことをきっかけとして発症する。症状としては、悪夢やフラッシュバックによって外傷的出来事を再体験する。②外傷的出来事と関連した刺激を持続的に回避しようとするか反応性の鈍麻を示す、さらには感情が委縮し極度のうつ状態をきたしたり未来に対して展望をもつことができなくなる。③睡眠障害、易怒性、集中困難、過度の警戒心・驚愕反応・生理的反応など、覚醒の持続的な亢進を示す特徴が認められる。の3つの症状が中心となる(『心理学辞典』:有斐閣P.451)

 帰還後の石涛子さんに於いても例外ではなく、常に記憶はよみがえり気候の厳しい信州の冬を迎え、春を迎えるたびにその思いが、迫ってきたのだと察する。
八十歳を過ぎてようやく抑留体験は、俳句として結晶し姿を現し始めたという。石涛子さんは、令和元年で94歳となられる。
 ここでは、『俘虜語り』の中から、シベリア抑留体験に私たちを導く句を選び出して、読み進めて行きたいと思う。
*は、インタビューをもとにした、筆者文。

1 全裸の立木から                      
 『俘虜語り』では、作者の生きている今ここの出来事から、徐々に記憶が交錯するように呼び起こされ、再び今ここを生きる作者の句に帰って来るのである。

   虎杖の身丈を超ゆる子捨て谷(全裸の立木)
*虎杖(いたどり)は、スカンポのことである。筆者も子どもの頃には、スカンポをかじりながら学校から帰った思い出があるが、日本が貧しかった時代には、虎杖も食料とされた。人の身丈を超える虎杖の生い茂る谷には、子捨て伝説があるのだという。しかし、多感な年頃の石涛子さんは「獅子は我が子を千尋の谷に落とす」という諺を「子捨て谷」に重ね、戦争に志願して行くことで、子供時代の悲しい記憶を消すように自分に大きな試練を課そうとしたのである。

  子を間引くつたえありとよ燕去(い)ぬ(全裸の立木)
*1941(昭和16)年、人口政策確立要綱が閣議決定(『人口政策確立要綱の決定』 国立社会保障・人口問題研究所 1941~2年)され、産めよ殖やせよのスローガンのもと兵力・労働力の増強をめざし、多産家庭に対しては物資の優先配布や表彰が有ったという。物の無い苦しい時代、今のように当たり前に家族計画の知識があり、簡単に避妊ができた訳では無いのだ。つぎつぎと妊娠してしまう。石涛子さんの世代は、7~8人兄弟は当たり前。育てられなければ、生まれてきたばかりの子を殺す、妊婦が高いところから飛び降りることや冷たい川に浸かって子を堕胎する方法しかなかった。日本の各地に口減らしのための子捨て・子殺しは、潜在したのだ。

  少年の裸形眩しく蓮ひらく(全裸の立木)

 *17歳の石涛子さんは、日本軍の少年通信兵としての教育を受けたが、通常よりも半年早く、1943(昭和18)年に任地に赴いた。少年の裸形眩しくは、少年の日の石涛子さんであり、蓮ひらくは「お国のため身をささげる」という大志であり決意で有った。

  犬の死やぬくもりのこる草虱(全裸の立木)
*元気に野山を駆け回っていた、愛犬の突然の死。屍にはまだぬくもりが残り、草虱をつけている。死はいつも生の隣り合わせにあり、突然にやってくる。それは人間においても普遍の原理なのである。そして犬の死により、深い記憶の糸が解かれていく。

  飢ゑし日へ記憶つながる青胡桃(全裸の立木)
*青胡桃の実るころはシベリアの夏に記憶がつながっていくのである、抑留生活で飢えた兵士たちは、新緑の季節には草を摘み、木の根を掘り枯れた茸や木の根に住む虫をさがして食いつないだ。青胡桃の季節には、シベリアの飢えた日々に思いを馳せるのである。

  冬銀河いつも虜囚の夢をみて(全裸の立木)
*空気の澄んだ信州では、冬銀河が一層冴えて美くしい。しかし、冬を迎えるたびに思い出すのは、極寒のシベリアの事であり、夢に浮かんでくるのは、虜囚として過ごした過酷な日々の思い出なのである。

  暮れ方を風の重さの菜を間引く(全裸の立木)
*帰還後の暮らしでは、本業の傍らに農業をしたのかも知れない、あるいは勤めを辞めてから農業をしたのかもしれない。シベリア抑留を思い出すまい、語るまいと黙々と手を動かす。信州を吹く颪は、間引き菜にもその存在の重さを感じさせるのである。

  身に入むや眠り恐れし虜囚の地(全裸の立木)
*寒さが身に沁みる季節になると思い出す、眠ることに死の恐怖を感じたあの頃を。シベリアに抑留された1945(昭和20)年から1946(昭和21)年の冬に、重労働と酷寒と飢えによる栄養失調、虱などの不衛生による発疹チフスで、五万人近くの抑留者が死亡したという。食事をしている途中にも、眠っている間にも仲間が静に息を引き取っていく。眠気に襲われる瞬間は、死の恐怖を伴う。寒さが体に沁みる季節になると、あの死の恐怖が戻ってくる。   (つづく)

参考文献:句集『俘虜語り』百瀬石涛子著 花神社 平成29年4月20日
『人口政策確立要綱の決定』 国立社会保障・人口問題研究所 1941~2年 国立国会図書館ホームから

2019年10月25日金曜日

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉒  のどか

第3章 戦後70年を経ての抑留俳句
Ⅵ 百瀬石涛子(せきとうし)さんの場合(1)
【シベリア抑留体験(2018・5・2取材)】その2


 1945(昭和20)年、終戦の時は20歳だった。抑留生活でも作業班長の役目は継続された。ロシア語を覚えてロシアの現場監督と仲良くなるのも大切な仕事であった。スプラスカという成績表の点数の評価を上げてもらうために、酒や女のことで話を合わせた。自分の班は常に75点の評価を貰い、他の班長から羨ましがられた。ほかの班は皆50点位で有ったから。
 ノルマの作業が終わると虱とりをした。服の縫い目にびっしり詰まっているので、木の棒でこそいでつぶしたが、それでもすぐについてくるから、取っても無駄だった。
皆、栄養失調になった。食物は横流しされたので、常にみんな飢えていた。黒パンの分配では、白樺の秤を作って切るのだが、パンを切るときには棚になったベッドの上からの皆の眼差しが痛く感じた。
 春には、仕事中に木の根を掘って、茸を集めて食べた。
 その時の軍医さんは長野県の大町の出身で、毒の食べ物の情報を知らせてくれた。しかしその軍医さんも医務室に駆り出されて、凍傷になった人の切断の仕事に就いた。
 作業は、38度以上の熱があると休めたが皆、体温計をペチカで温めるから壊して、すぐにばれてしまった。
 トイレは、深さ2メートル以上掘り細い丸太を4~5本渡した物である。冬には用を足すところから凍り、それがだんだん積もって鍾乳石のようになるので、便所当番が壊してモッコを使って運ぶのだが、しぶきが服に着きペチカで蒸されてとても臭くなった。
 赤化教育の中で成績が良いと早く帰還できるという思い込みもあり、それによる妬みから密告が日常化していった。日本人同士の噂話は、最も警戒するところとなった。
 1947(昭和22)年頃から病人が日本へ帰還した。1948(昭和23)年からは健康な人も帰還できるようになった。1948(昭和23)年ごろ帰還の時が来た。日本に帰ったらダモイ指導者になると言われもしたが、乗船前に医務室の仕事を手伝うことになった。医務室には栄養失調でやせ衰えた人や浮腫んで顔がぱんぱんになった人の介護を手伝うことになったため他の人と一緒に帰ることが出来ず、一船遅れることになってしまった。
 帰還船の中で靴を片方盗まれてしまって困っていると、船長が船倉に保管されている靴の山に連れて行ってくれた。それは、船には乗れたが船の中で死んだ人たちの靴であった。船長の話では、船の上での仲間割れで日本海に投げ込まれた人の物も混じっていたという。
 1948(昭和23)年、8月興安丸で舞鶴港に着く。興安丸へ港から艀が迎えに来た。桟橋はゆらゆら揺れていた。舞鶴の援護局において、米軍の日系二世の兵士から、赤化教育を受けていることや戦争中の職名について調べられた。人によっては、東京で再調査を受ける人もいた。
 日本に帰ったらシベリアの事は、話してはならないと思っていた。
 帰国後、国鉄に就職し電車のバッテリーを保全する仕事をした。
しかし、当時労働調整と言った赤狩り(レッドパージ)により、シベリア帰りは首にされることが多く、石涛子さんも25歳で首になった。この出来事は、本当に悔しかったという。
 その時養母は、友人が運送会社を経営していると言い、そこへの再就職を勧めてくれた。
石涛子さんは養母について、とても人柄がよく尊敬していると話された。
トラックの運転免許を取るのは、戦地で車の運転をしてきたので問題は無かった。
 常に自分のことは、しゃべらないようにしてきたのだが、そこでも人の噂になったのか、労働組合を作らなければならないので、組合長をやって欲しいと頼まれてしまった。
 松本電鉄社長が、タクシーもするということでここでも昔のことを調べられていて、組合長をした。
 1960(昭和35)年、安保の時代。社会党系の組合だったので、デモ参加者の送迎をした。仕事が終わり、人数割り当ての指示があるとデモ参加者を乗せて東京に向かった。
 1960(昭和35)年6月15日、樺美智子さんが亡くなった時も、同年6月19日、岸伸介総理大臣が国会からヘリコプターで脱出した日も送迎のためにデモの会場に居た。子育てをしたこの時代は、シベリア抑留時代と同じように苦しかった。
 帰還後も石頭子の名前で俳句を続けてきたが、友人である中島畦雨さんの俳句会が浅間温泉で句会をした時に、相撲俳句で1等になった。この時に周囲から俳号を変えてはどうかと言われ、石涛子としてはどうかとなった。石涛子は、広辞苑を引くと中国の画人であると話される。
 初めは、「一時間だけだからね。」とおっしゃられていたが、二時間半に渡り、お話を伺い別れ際に、筆者が父のために詠んだ拙い句を読んでいただいた。すると石涛子さんから「この句に力を貰って、またこれからも抑留の俳句を詠もうと思うよ。」というお言葉を頂いた。
 そして、石涛子さんの句集「俘虜語り」にサインをお願いすると、少し照れながら「尚生きむ」の添え書きとサインをして頂いた。
 迎えに来た、娘さんに挨拶をすると同年代ということで、「もう1人、娘ができた。」と言っていただくことができた。
五月の塩尻駅の空は、雨を含み暮れかかっていた。
 (つづく)

2019年10月11日金曜日

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉑  のどか 

第3章 戦後70年を経ての抑留俳句
Ⅵ 百瀬石涛子(せきとうし)さんの場合(1)

【シベリア抑留体験(2018・5・2取材)】その1
 2016(平成28)年6月から、インターネットによる下調べを始め、長野県上田市にすむ一人の俳人の存命の可能性を信じ、その足跡をたどった。しかしその方は、ご存命ではあるが話をできる状況ではないことが、その記事の発行元への確認で明らかになった。
 遅きに失した感を覚え、シベリヤ抑留俳句を辿る道筋が絶たれた思いがした。
 そのとき、友人から紹介されたのが、長野県塩尻市に住む百瀬石涛子さんである。
 手紙を書き、電話を重ね、句集『俘虜語り』百瀬石涛子著 花神社を送っていただき、インタビューの約束を得る事ができた。
 2018(平成30)年5月2日、塩尻駅で迎えてくれた石涛子さんは、背筋がピンとしてとても若く見え、にこにことして一見して温和で誠実な印象であった。
 そのまま塩尻駅の喫茶店で石涛子さんからシベリア抑留の話を伺った。
 石涛子さんは、次のように語られた。
 石涛子さんは、1925(大正14)年生まれで、訳あって乳児期に東京の母の元から、父の実家のある松本の祖父母宅に引き取られ、その後養母のもとで成長したそうである。
 1942(昭和17)年。17歳で志願して、少年通信兵としての教育を受けたが、通常より半年早く、1943(昭和18)年に任地に赴くことになり下関へ、下関から釜山を経てソ連と満州の国境東寧地域石門子にて、関東軍国境守備隊の通信兵として、ソ連側を見張る役目等をした。
 次の日の作業を班長として班員に伝えるために、毎晩勉強していたが、夜九時が消灯時間で困っていたところ、時間を過ぎても電気のついている部屋があることに気づく。その部屋では、小隊長が月に2回俳句の会をしていた。そこでその会に参加し、いつも俳句を2句出したら、翌日の勉強をしていた。ある日の句会で、

 咲く萩の兵は偽装にひた走る 

という句で1等になったという。
その時、小隊長から俳号をそろそろ決めてはどうかという話があり、当時の任地の「石門子(せきもんし)」にしようかという話も出たが、その都市の地名を俳号にするなんて立派すぎるので「石頭子(せきとうし)」と名乗ることにした。
 1945年8月終戦を知らされ武装解除を受け私物接収をされ、ソ連との国境に流れる松花江・黒竜江が凍るのを待ち、橇でソ連に渡った。その時は、戦争が終わったのだから日本に帰れると思っていた。
インタビュー後のことであるが電話により、終戦の報せを受けた日や武装解除を受けた日について、筆者が確認すると、正確には覚えていないとのことであった。
凍った河をソ連に向かい渡る中で、凍結しきらない河に戦友が落ちても助ける事ができなかったこと、中には行き倒れている人から衣類をはぎ取る者もいたと、電話の向こうで涙ぐんでおられた。
 捕虜の生活をウラノデ(現在のブリヤート共和国・ウラン・ウデは、バイカル湖に近く、シベリア鉄道の経由地であり、モンゴル共和国経由で中華人民共和国に至る鉄道の分岐点)では、伐採の仕事を主にした。初めの日にみかんと馬鈴薯を食べたが、その後は黒パンとスープの日々が続いた。日本軍の基地から運んだ食料の中で味噌は、「日本人は糞を食べる」といって野晒しで捨て置かれていたため、夜中に「決死隊」と言って味噌を取りに行った。馬の餌を盗み飯盒で焚いて、味噌で味をつけて食べたが、皆が取りに行くので、あっという間に無くなった。見つかって銃殺される者もいた。
製粉工場や缶詰工場といった国営農場で働く日もあった。
 製粉工場では、氷嚢に粉を入れて持ち帰ったりしたが、次第に検査が厳しくなり、営倉(旧日本軍の下士官兵の懲罰施設)送りになる者もでた。
缶詰工場の屠畜場の手伝いでは、肉を口にすることが出来た。ベルトコンベヤーで運ばれた牛頭が真二つにされてスチームで蒸されたものは、食べ応えがあった。山羊肉も頭は、スープになって村民の給食になっていた。
 馬鈴薯の皮むきの手伝いでは、ソ連人は薯の皮を厚く剥くので、その皮を貰ってきて、何度も洗い、白樺のスプーンや杵で潰して、バケツの底に溜まった澱粉を取り餅のようにして食べた。塩が無いのが残念だった。各班交代で、週に1~2回缶詰工場や粉の工場に行った。

(つづく)

2019年9月27日金曜日

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~⑳ のどか

第2章‐シベリア抑留俳句を読む
Ⅴ 高木一郎(たかぎ いちろう)さんの場合(4)

【】の表題は、『ボルガ虜愁』で高木さん自身のつけた表題である。
以下*は、『続・シベリヤ俘虜記』『ボルガ虜愁』の随筆をもとにした筆者文。

【子は膝へ炭火美し妻も来よ】 ダモイ 
忍従の街を去りつつ踏む落葉 (ボルガ虜愁)
添え書き:22.10.8 エラブカからキズネルまで2泊3日。一夜は吹雪の中の野宿。一夜は教会堂。今度こそは本当のダモイと信じて。

*強制労働や飢えに耐えに耐えた街に別れを告げて、キズネルの駅に向って落葉の道を歩みだす。一夜は吹雪の中の野宿。一夜は教会堂に泊まりながら。来る時は、炎暑の中を水も飲めずに歩いた80キロの道のりを、今度は本当のダモイと信じ、枯葉を踏んで行くのである。

バイカルの凍魚ひさぎて寡婦といふ (ボルガ虜愁)
添え書き:琵琶湖の50倍と言われるバイカル湖・海と同じ波が打ち寄せていた。

*バイカル湖のあたりに停車した時、凍った魚を売り歩く女性がいた。聞けば寡婦だという、ソ連はドイツとの闘いで多くの若い男性を失っている。生きるためにソ連の民も必死なのである。

貨車揺れて揺れてシベリヤの大枯野(続・シベリヤ俘虜記)(ボルガ虜愁)

*虱磁石にいざなわれ西へ西へ運ばれたシベリア鉄道を今度は逆に走っている。シベリヤの大枯野をダモイと信じて、貨車に揺られるのである。
 
貨車揺るる隙間風にも耐へるべし (ボルガ虜愁)
添え書き:10.31ナホトカ(貨車輸送20日間)11.1ナホトカ第2分所 11.2第3分所 11.3 栄豊丸乗船 11.4出航

*貨車の隙間からシベリヤの大枯野を見ながら、揺られること20日間。今度こそダモイだという確信に、冷たい隙間風にも耐える力が湧いてくる。昭和22年10月31日やっと帰還の港ナホトカに着いた。帰還の仲間を満載した栄豊丸が11月4日日本に向かい出航した。11月6日船は函館に入港するが、引揚受入態勢の不備のために1週間船内生活をして、11月12日下船。11月15日函館出発。11月17日夜名古屋に着く。

子は膝へ炭火美し妻も来よ(続・シベリヤ俘虜記)(ボルガ虜愁)
添え書き:両親再会。20.8.12牡丹江駅で生別した妻子3人とも無事再会
二児連れて冬生き抜きて還りし妻  (ボルガ虜愁)
添え書き:妻子3人は21年5月 難民として奉天からコロ島を経由佐世保へ引揚げ

*名古屋で家族に再会した高木さん。二人のお嬢さんはすかさず座っている膝へ飛び込んだのであろう。それを少し離れてみている妻を近くに呼んで、四人で抱き合う。美しく温かい炭火の炎が静に揺れているのである。
 家族の生還を喜びながら、互いのこれまでの話を聞き、妻が二人の子どもを連れて無事に帰ってきたことをありがたいと思う高木さんである。

【高木一郎さんの作品を読んで】
 ナホトカの検査でメモを発見されたら、帰国取り消しでシベリアへ逆戻りと聞いて、かねてから収容所生活で詠んだ俳句と友の住所をすべて暗記しておいた。句帳はナホトカの浜辺で焚火に放り込んだ。と『続・シベリヤ俘虜記』P.113
に書かれている。『ボルガ虜愁』に収められた作品が、高木さんの暗記によって持ち帰ったもので有ることに驚きを覚える。
 高木さんの俳句は、抑留生活の辛さを詠う句の他に子どもを思う句、地元の子どもや娘さんの句、ペチカの火を守りながらの手作業の句、ラーゲリに咲く花の句と色合いが多彩なのである。辛い強制労働のさなかにも、空腹に野草を摘む道の辺にあっても、自分の葛藤から気持ちを遠く飛ばして俳句を考えている。そこには高木さんの広く物事を受け止めるこころの広さや優しさがあるのだ。
 高木さんは、「ボルガの仲間」の桜井徹郎(江夢)、高島直一(秋蝶)との対談の中で、「僕は例えば〝俳句は何のためにあるのか”ということに苦しんじゃってね。最後にこういうことをいわれたんです。〝お前つまらんことを考えるな。何のためでもいいじゃないか。俳句なんてものは滅亡するものだとか何とか彼らが言ったって、芸術至上主義というもので物を考えたらどうだ”というようなことをね。と書き、『ボルガ虜愁』のあとがきP.138には、「ラーゲリ生活の異常環境の中で、自分を失わずにすんだのは、俳句と句友のおかげであったと感謝している。」と書いている。
 シベリア抑留の境涯において、捕虜仲間が次々に逝くなかで死の恐怖と生きることへの欲望に苛まれ、俳句は何のためにあるのかという根本的なことに悩みつつ、心の中に湧いてくる思いや葛藤、人間関係の中の理不尽や悲しみなどを俳句としてゆくことでの洞察や心の成長の過程で、自己を励まし逆境に適応して生き延びる力(レジリエンス)を得たのだ。
 そして、月に1回開かれる句会で、打ち解けあう仲間を得たことは、苦難に心折れそうなとき、大きな力となったのである。
 高木一郎(一郎)さんと高島直一(秋蝶)さんが編集し、ラーダ、エラブカ、カザンで開かれた句会の俳句の仲間である、青井東平(東平洞)、古屋道雄(征雁)、堀川辰之助(辰之助)、加藤正銘(鹿笛子)、越智一嘉(鬼灯子)、桜井徹良(江夢)等、9名の作品を纏めた、「シベリア句集‐大枯野」が1998年8月15日、戦後47年目に発行されている。
 この句集は、第1部:終戦・入ソの旅、第2部:ラーダ収容所、第3部エラブカ収容所、第4部:カザンの巻、補遺:「新樹句会記」など、時系列にまた地域別に句会の内容がまとめられていることを書き添える。
 
参考文献
『続・シベリヤ俘虜記~抑留俳句選集~』小田保編 双弓舎 平成元年8月15日
『ボルガ虜愁』 高木一郎著(株)システム・プランニング 昭和53年9月1日
『関東軍壊滅す~ソ連極東軍の戦略秘録~』ソ連邦元帥マリノフスキー著 石黒寛訳 徳間書店 昭和43年4月20日

2019年9月13日金曜日

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~⑲  のどか

 第2章‐シベリア抑留俳句を読む
Ⅴ 高木一郎(たかぎ いちろう)さんの場合(3)


【】の表題は、『ボルガ虜愁』で高木さん自身のつけた表題である。
以下*は、『続・シベリヤ俘虜記』『ボルガ虜愁』の随筆をもとにした筆者文

【炎天を銃もて撲たれ追はれ行く】エラブカ収容所

     キズネルの街の朝顔濃紫(ボルガ慮愁)
添え書き:7.18ダモイということで貨車へまた騙されたことになり7.22 キズネル下車
  炎天を銃もて撲たれ追はれ行く(続・シベリヤ俘虜記)(ボルガ慮愁)
添え書き:キズネルよりエラブカまで80キロ、酷暑炎天下、三泊四日野宿。飲料水無く後に「死の行軍」という。
*1946(昭和21)年7月18日、ダモイと騙されて貨車に乗りキズネルで降ろされた。キズネルの街の朝顔が濃い紫色だったと言っているだけの句のようにみえるが、日本にもみた朝顔が遥か遠く離れたロシアの地キズネルにも咲いている。一時朝顔に心安らいだ気持ちも束の間、キズネルよりエラブカへ徒歩で3泊4日の移動をする。酷暑の中水も飲めない行軍である。
『続・シベリヤ俘虜記』P.112には、行軍の過酷さをこう書いている。

 たまり水でも飲もうとすれば、ソ兵が自動小銃をぶっ放して飲ませない。ラーゲル生活2年目で体力の弱った日本人がソ兵に銃でなぐられながら荒野を行く。

  エラブカは金盞花咲き山羊が跳ね(ボルガ慮愁)
*エラブカBラーゲルへ収容される。ラーゲリには花壇が作られており、金盞花の花が咲いていて、心を和ませてくれた。『続・シベリヤ俘虜記』P.112~113には、エラブカ収容所にはロシア正教の旧修道院、丸屋根に金色の十字架が立っていた。待遇はラーダよりも良くなって日本人の心も安定したようだとある。

  船ゆるく波紋に秋の雲くづれ (ボルガ慮愁)
*句からは港にゆっくり入って来る船の航跡から伝わる波紋に秋の雲がくづれていく。という写生句である。
 高木さんは、過酷な作業の合間に刻々と波紋に姿を変える雲に意識を飛ばしているのである。

【おろしやにわれ三十の年明けぬ】 ボンジュガ収容所

  
  秋雨に濡れしまま寝る夜がきぬ (続・シベリヤ俘虜記)(ボルガ虜愁)
添え書き:三交代のボルガ河荷役仲仕作業。3千トン級の船。労働過酷のため波止場で座り込みストをやったところ、民兵がおどろいてピストルをぶっ放した。
*9月は秋雨の季節。苦役作業ですっかり濡れそぼった衣類を乾かすこともで
きず眠らなければならない夜がくる。

  雪晴のボルガ青々雁渡る    (ボルガ虜愁)
*9月には雪の降るロシア。ボルガの空の青々と広い空を雁が群れをなして日本などの越冬地への渡りをみると日本への望郷の念は募るのである。いよいよ厳しい冬の到来である。

  紙衣着てボルガの風に対しけり (続・シベリヤ俘虜記)(ボルガ虜愁)
添え書き:セメント袋を拾ひ、首と腕の出る穴をつくりポンチョとする。
*秋風の身に沁みる季節、ボルガ川を渡る風は冷たい。高木さんはセメント袋首と腕の出る穴をあけてかぶり、風よけにして作業をした。

  合唱の窓の灯明るき大吹雪   (ボルガ慮愁)
添え書き:冬将軍と共に労働は減り歌声も出るようになった。
*冬の到来とともに強制労働は減り、吹雪の夜はペチカの周りに集まり、皆で歌を合唱するのである。

  ひとり焚く真白き部屋の壁ペチカ(ボルガ慮愁)
添え書き:医務室開設。渡辺医師と私に一室を与えられた。これまでは一般労働作業をしていた。
*新しく与えられた真白き部屋(医務室)の壁ペチカを今は独りで焚いている。これまでは、皆で仕事をしてきたのだが・・・

【いと巨き韃靼の月血の色の月】再びエラブカ

  雪晴の窓の日ざしに抜きし齲歯 (ボルガ虜愁)
添え書き:アンブラトリア歯科室勤務となる。(略)
*再びエラブカに戻ると、歯科室勤務となる。

  白夜しんかん妻ある如く帰り寝る (ボルガ虜愁)
添え書き:歯科室をロックして、居住棟へ。3階にある。2段収容。
*再び生業である歯科診療に就いた。診療が終わり、居住棟へもどる。作業場から疲れ果て泥のようになって、ラーゲリに戻っていった毎日に比べると、敗戦前の妻との日常を取り戻したかに感じるのである。

  心ふと子にあり白夜い寝がてに (ボルガ虜愁)
*なかなか寝付けない白夜の夜には、子どものことが心に浮かびまたさらに郷愁に寝付くことが、できないのである。

  うとまれて外寝の毛布ひろげけり(ボルガ虜愁)
添え書き:人とのわずらはしさをさけて戸外へ
*これは夏のころのことであろうか。歯科診療室で働くようになり、仲間との心の距離が開いてしまったのか、人間関係のわずらわしさに戸外で毛布を広げ眠ろうとしている高木さんの心の内には、複雑な思いがあったのだろう。   (つづく)

『続・シベリヤ俘虜記~抑留俳句選集~』小田保編 双弓舎 平成元年8月15日
『ボルガ虜愁』 高木一郎著 (株)システム・プランニング 昭和53年9月1日発行


2019年8月30日金曜日

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~⑱ のどか

 第2章‐シベリア抑留俳句を読む
Ⅴ 高木一郎(たかぎ いちろう)さんの場合(2)


【】の表題は、『ボルガ虜愁』で高木さん自身のつけた表題である。
以下*は、『続・シベリヤ俘虜記』『ボルガ虜愁』の随筆をもとにした筆者文。 
 また、作品中の「シベリヤ」の表記はそのままにした。

【短日の貨車シベリヤを西へ西へ】
  短日の貨車シベリヤを西へ西へ (ボルガ虜愁)
添え書き:シベリヤを過ぎウラルを越え、欧露ラーダまで貨車にのること27日間シラミが北を向くことを知って、しらみ磁石とした。

*ウラジオ・ストクから日本へダモイと称し貨車に乗せられた。旅の途中で虱が北へ向くことを発見し、ダモイと言いながら貨車はウラジオ・ストクとは反対の西へ向かっていることに気づいた。綏芬河のトンネルを出たらソ連領であり、貨車はシベリヤを過ぎウラルを越えて27日間、欧露ラーダに着いた。

  水筒の凍てふくらみし貨車の朝 (ボルガ虜愁)

*筆者の父は、抑留の記憶を「寒さが激しくなるに従い水筒の水が凍り膨張して破裂した」と話したことがあった。高木さんたちの貨車は秋に出発し、欧露を目指すある朝には、水筒が凍るほど寒くなっていた。

  オムスクの長き停車の寒かりき(続・シベリヤ俘虜記)(ボルガ虜愁)

添え書き:停車すれば線路の両側にならんでところかまわず脱糞するのが俘虜である。大便の上に鮮血がかかっているのが多い。「ぢ」疾患の多いことを、はじめてこの目でみた。
※オムスクはシベリアの一番西にあるノヴォシビルスクに次ぐ都市である。

*捕虜を満載した貨車は、シベリアの西にあるオムスクにて長く停車した。抑留体験談で登場した中島さんも貨車が止まるたびに外で脱糞をしたと語られていたが、車両の中には小便をする樽は置かれてあるが、大便をする設備は無いのである。何日も我慢してする便なのである。肛門が切れて出血もし、便秘や下痢や寒さで本当に皆困ったであろう。この事実は添え書きなくしては理解できない。停車時間には扉が開け放たれるのか、朔風は身に沁みるのである。

 【耳袋してラッパ吹くドイツ兵】ラーダ収容所
  月光に橇あと岐れ幾すぢも(続・シベリヤ俘虜記)(ボルガ虜愁)
添え書き:鉄条網の外側。月明かり雪明り。映画「白き処女地」を思い出す。

  橇曳ける灰色の瞳の婦かな(ボルガ虜愁)

添え書き:少量の生活物資をのせた小さな橇。現在の日本主婦の買い物袋にあたるのであろうか。

*11月30日ラーダ収容所に入った。ある月明かりの中に橇の跡が幾筋も残っているのが見える。あたり一面雪の世界に、生活物資を乗せて歩く婦人の姿を
見ている作者には、此処にも人の生業があることを知り、一時の安らぎを得たのではないだろうか。
  
  短日や写真袋を縫ひあげし(ボルガ虜愁)
添え書き:6×6板の家族の写真を入れる袋

  裘きて写り居る妻と子と (ボルガ虜愁)

*これも鑑賞を要しない句である。
 
  初夢は吾子の深爪また切りし (ボルガ虜愁)


*抑留して初めての正月。子どもの夢をみた、夢の中でも子どもの爪を深く切ってしまったところで目が覚めた。家族への思いは募るのである。

  耳袋してラッパ吹くドイツ兵(続・シベリヤ俘虜記)(ボルガ虜愁)

添え書き:独ソ戦の俘虜。有名な楽団員であったこのドイツ兵のトランペットの音色は素晴らしいものであった。点呼ラッパである。

*ラーダ収容所にはすでにドイツ、ハンガリー等、欧州軍の俘虜がいたと『続・シベリヤ俘虜記』のP.112にはある。シベリヤ抑留では、将校などの上位の階級の軍人は欧露へ抑留され、一般の兵士は主にシベリア・樺太などの酷寒の地での強制労働に従事した人々に分かれる。

  木の匙のかたち出来ゆくペチカの火(続・シベリヤ俘虜記)(ボルガ慮愁)

*夜の寒さをしのぐため、ペチカ当番は眠らず火の番をする。その時間の飢えを紛らせながら白樺の木で匙を削る。だんだん匙が姿を現す。僅かな粥を残さず掬い取るための命を繋ぐ匙である。
  
  笑い居る吾子の写真や榾の火に (ボルガ慮愁)


*厳冬の長い夜に、高木さんは子どもたちの写真の笑顔に心慰めるのである。

  一トンの凍芋の皮むかさるる(続・シベリヤ俘虜記)(ボルガ慮愁)


*句は「芋」とあるが添え書きには馬鈴薯の皮むき作業とある。泥付きのまま
凍った馬鈴薯の泥と皮を剥くのである。国営農場の作業であろうか、

  手のひらの野蒜は真珠の玉の如し(続・シベリヤ俘虜記)(ボルガ慮愁)
*野蒜は筆者も子どもの頃に祖母と良くとった。緑のところを短気に毟ってしまうと、野蒜の球根は土の中に残ってしまう。じっくりと指で掘り上げた球根は、真珠の玉のようである。
 
  春泥の壁新聞に顔ならぶ (ボルガ慮愁)

添え書き:俳句、短歌等を主にした初期の壁新聞。紙が無いので白樺の板に書き、白樺にぶら下げた。

*『続・シベリヤ俘虜記』P.112に司令部の高島直一が文化活動として呼びかた俳句の会があったと書かれている。すべての活字を奪われた俘虜たちは白樺の木に煤を溶かして書かれ掲示された壁新聞の俳句や短歌に心癒されたのである。(つづく)

『続・シベリヤ俘虜記~抑留俳句選集~』小田保編 双弓舎 平成元年8月15日
『ボルガ虜愁』 高木一郎著 (株)システム・プランニング 昭和53年9月1日発行

2019年8月16日金曜日

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~⑰ のどか

第2章‐シベリア抑留俳句を読む
 Ⅴ 高木一郎(たかぎ いちろう)さんの場合(1)


 高木一郎さんは、大正7年1月31日、名古屋市に生まれる。昭和15年、日本歯科医学専門学校卒業。昭和16年、陸軍歯科医、満州陸軍病院。昭和20年、日本敗戦によりソ連に抑留、欧露のラーダ・エラブカ収容所。昭和22年11月17日函館を経て名古屋に帰還。著書に『ボルガ虜愁』がある。
 『ボルガ虜愁』は、満州で生別した妻子と名古屋で再会するまでの、2年間のシベリア収容所生活で書き留めた約250句の俳句が中心となっている。
 筆者は、2019年1月13日に名古屋にある高木歯科医院を訪ね、ご遺族である高木哲郎様より、作品の使用について許可を頂くことができた。

【】の表題は、『ボルガ虜愁』で高木さん自身のつけた表題である。
以下*は、『続・シベリヤ俘虜記』『ボルガ虜愁』の随筆を基にした筆者文

『続・シベリヤ俘虜記』『ボルガ虜愁』から

【ソ連対日宣戦布告(満州国境侵攻)】

秋雨にとどろく砲声官舎街(ボルガ虜愁)
   添え書き:8月11日牡丹江三句
    市中大混乱。騒然として不安、「5分以内に家族を牡丹江停車駅へ」の指示あり。


*牡丹江は満州の資源開発の拠点で工業都市として、日本人開拓団が多く入植し、またソ連赤軍の防衛拠点として関東軍が基地をおいた場所である。
 日本で有れば、立秋過ぎの雨の日、牡丹江の中心地である官庁街に砲弾の音が轟き市内は大混乱となった。「5分以内に家族を牡丹江停車駅へ」の指示があった。
 高木さんは、この時のことを「日ソ開戦の日」として『ボルガ虜愁』P.19にこう記している。
「日ソ戦の日」 20.8.9、ソ連軍が満州東部国境を侵攻の情報を聞いた時、(対日宣戦布告の事は知らなかった)これは「ノモンハン」や「張鼓峰」のような局地戦であって、牡丹江は何の心配もないと思った。 数日後には、牡丹江が危ないと判断すべきであったかもしれぬが、その時はそう思わなかった。無理もない、数え28歳、若かったのだ。

 ここで牡丹江市侵攻について、『関東軍壊滅す』P210~211を要約して紹介する。

 牡丹江市内およびその東方と北東方で、第一赤旗軍と第五軍の各部隊は大激戦を展開した。(略)8月14日から15日にかけて、第一赤軍第26狙撃兵団の先遣支隊は、牡丹江市の北東入口で激戦に入った。(略)8月15日日本軍は反撃によって同兵団先遣部隊を牡丹江から撃退し、わが軍は牡丹江東岸、愛河駅の北方5キロの地区に退却した。(略)第1赤軍の兵力の一部が牡丹江西岸に進出したため、第5軍と共同行動をとって、3方面から同時に打撃を加え、同市を占領することが可能となった。

ちちろ闇子の顔をみるマッチの灯(続・シベリヤ俘虜記)(ボルガ虜愁)
   添え書き:混乱状態の牡丹江停車場のブリッジにて


 *砲弾の音や銃声の合間に、こうろぎ(ちちろ虫)が盛んに鳴く闇の中、牡丹江停車場は避難民でごった返していた。電灯の点かない駅のブリッジで子どもたちの顔をマッチの灯で照らして見た。再会の約束のない別れである。
  
秋雨の貨車に妻子を逃すべく(ボルガ虜愁)
   添え書き:これが牡丹江最後という避難列車。
        駅前のヤマトホテルから持てるだけの食料をもらって家族に渡す。ホテルの支配人の名前もどうして知り合いになったのかも忘れた。


無蓋車に群るる同胞秋の雨(ボルガ虜愁) 
   添え書き:満州の8月は秋雨である。
        小雨の中をハルピンへ向けて発車。


秋雨に婦女子ひしめく無蓋貨車(続・シベリヤ俘虜記)(ボルガ虜愁) 
   添え書き:出発時、行く手を暗示する如くすでに難民の様相である。雨具は無く、幼児は泣き、ぎっしりとつめこんだ貨車。


 *秋雨の降る、牡丹江停車場から、避難民をのせた最後の列車(無蓋車:貨車)は、ウラジオ・ストックへの東清鉄道の出るハルピンを目指したのである。
 句に添え書きがあるので鑑賞はいらないが、『関東軍壊滅す』P.213から牡丹江市のことについて補足する。

 牡丹江市は、重要な日本軍の防衛中心地であった。同市はハルピン方面を東方から守る形にあった。それは鉄道、自動車道路の大分岐点であり、満州の政治・行政の中心地でそこから四方面へ(林口―密林へ、綏芬河へ、寧安およびハルピンへ)鉄道が伸びている。

花野行きトラックに火を放ち去る(ボルガ虜愁)
 添え書き:8・12 夕刻、作戦命令により鏡泊湖そばの爾站陣地へトラックで向かう。
      8・13 朝、寧安、昼、東京城、夜、砂蘭鎮
      8・14 より徒歩露営

行けど行けど野の続くなり女郎花(ボルガ虜愁)
    添え書き:8・15 昼爾站到着 
         8・17 日ソ停戦協定成立の噂を聞く

    ※爾站(アルチャン)
    
敦化(とんか)遠し桔梗に野宿重ねけり(ボルガ虜愁)
    添え書き:停戦協定により、敦化まで100キロ徒歩後退する。
         山の中で背中に一人両手に二人の子を連れ空腹で
         ハダシの日本女性(開拓団であろう)に合う。乾
         パン一袋渡し、敦化の方向を教える。


芒野の屍のゲートルわれがまく(続・シベリヤ俘虜記)(ボルガ虜愁)
    添え書き:10.18掖河到着
         門馬某(在仙台)掖河より脱出して奉天にたどりつき
         私の家族に連絡をつける。この事実を日本へ帰国後妻から聞く。


 この時の状況について『関東軍壊滅す』P.214には、すこしでも日本軍の決死隊が地雷を抱いて戦車に飛び込み抗戦を続けるが、16日17時には牡丹江市は陥落。日本軍は、西方及び南西方へ退却したとある。

 *退却の行軍で、トラックをすて徒歩で爾站に着くものの、停戦協定により敦化まで100キロを徒歩で後退した。女郎花・桔梗の花の季節に野宿を重ねた。あたりの芒野に打ち捨てられた兵士の屍からゲートル(西洋式脚絆)を貰い、自分の足に巻き、再び歩くのである。
 このことについて、『続・シベリヤ俘虜記』P.111からも以下に補足する。


 8月15日の敗戦を知らず満州東部鏡泊湖近くの山中で、日ソ停戦 協定のうわさを聞いたのが8月17日の暑い日であった。畳2畳分の白旗を立てたソ連軍のジープがきた。(略)まさか日本の降伏と、その折衝のソ連軍使であるとは、いささかも考えなかった。敦化飛行場で武装解除され、ソ連軍の捕虜となった。沙河沿から掖河まで300キロ、野宿6泊7日で1500人が歩かされた。夜の気温は零下に下がる。

(つづく)

『続・シベリヤ俘虜記~抑留俳句選集~』小田保編 双弓舎 平成元年8月15日
『ボルガ虜愁』高木一郎著 (株)システム・プランニング 昭和53年9月1日発行
『関東軍壊滅す~ソ連極東軍の戦略秘録~』ソ連邦元帥マリノフスキー著 石黒寛訳 徳間書店 昭和43年4月20日


2019年7月26日金曜日

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~⑯  のどか 

第2章‐シベリア抑留俳句を読む
Ⅳ 庄子真青海(しょうじ まさみ)さんの場合(2)


以下*は、『シベリヤ俘虜記』『続・シベリヤ俘虜記』の作者随筆と庄子真青海さんの句集『カザック風土記』を参考にした筆者文。


  雪くるか明日恃む身の傷膿みゆく(シベリヤ俘虜記)
*シベリアの冬の訪れは早い。空はどんよりした雪雲に覆われてきた。明日へ命を繋ぐことがやっとの身である。「身の傷膿みゆく」は、具体的な体の傷(消耗)なのかもしれないが、ノルマのある冬の炭鉱の作業、死と隣り合わせの付きまとう不安、仲間に対する猜疑心いろいろな感情が膿んでいくことを詠んでいるのである。

  女唱寧し明日の斧研ぐ雪明り(シベリヤ俘虜記)
*どこからか女性の歌声か流れてくる。その声を聴きながらしばし安らぎ、明日の斧を雪明りで研ぐのである。シベリア抑留者の中に、日本やドイツの女性もいたようである。
2019.2.23付けの日本経済新聞に121人の日本人女性とドイツ人女性の抑留者名簿が、モスクワのロシア国立軍事公文書館に、残されている事を大阪大学の生田美智子名誉教授が発見したという記事が、載ったことに依っても明らかである。

   抑留句帳抄
  初蝶をとらえ放つも柵の内(シベリヤ俘虜記)
*この句は、復員直後にメモしたとある。
 厳しい冬が終わり、緑の芽吹く収容所(ラーゲリ)に初蝶をみた。手にとらえ愛おしむが、やがてその蝶を放つ。まだ羽柔らかい蝶は収容所(ラーゲリ)の柵を越えられない。力一杯羽ばたき柵を越えて自由になりたいけれども、越えられない自分を重ねるのである。

  生き下手な死臭払えり秋の風(続・シベリヤ俘虜記)
*生来ひ弱でノルマ作業に苦しむ自分。栄養失調により忍び寄る死臭を払うよう秋の風に吹かれるのである。

  立ちて死ぬ男にこぼれ雪の華(続・シベリヤ俘虜記)
*点呼の最中か、作業中なのか仲間が立ったまま息を引き取った。静かに倒れる刹那、体に積もった雪が散華のように散っているのであった。

  死もならぬ力がむしり塩にしん(続・シベリヤ俘虜記)
*厳しいノルマと重労働に体力も消耗し死を意識する毎日ではあるが、弱り切った肉体は生きたいと要求するように、塩にしんをむしり食うのである。
 「続・シベリヤ俘虜記」P.78には、昭和23年長きに渡った抑留生活の栄養失調が起因の「飢餓浮腫」の症状が激しくなり、急遽ソ連陸軍病院のベッドに送られたとある。投薬の殆どない状況で、白パンやミルク入りのカーシャ(粥)などの病院食で命をつなぎとめたとある。
 そんな日々の4月の初め、帰国名簿にその名前をあげられた。その日を「死なぬ」のごろ合わせで覚えている。

【庄子真青海さんの作品を読んで】
 庄子さんの句は、「シベリヤ俘虜記」に29句、「続・シベリヤ俘虜記」に16句が紹介されている。そのうちの6句が庄子真青海句集「カザック風土記」に,収められている。この中から随筆に合う句を選んで紹介をした。 
 庄子さんの作品の冒頭には、「戦争は残酷だ。諸君はそれをどんなにしても美化することはできない。」とW・Tシャーマンという人の言葉が掲げられている。(ウイリアム・テカセム・シャーマンはアメリカの軍人で作家)
 戦場整理や抑留生活を通じて、庄子さんの目に焼き付いた光景は、この言葉のとおりどんなにしても美化できない世界だったに違いない。
    日ソ無名戦死碑建設
  「生きて虜囚の」茜砕きて斧振う 
 この句は、目を覆うばかりの凄惨な現場の戦場整理に当たり、戦争の悲惨さを伝える一句である。平時は、人の命は地球よりも重いと言われるが、戦争の大義名分にあって人の命は、芥子粒ほどに小さくなってしまうのだ。

  昼寝覚め香煙硝煙いずれとなく
  借命や撃たれきらめく宙の鷹

 逃亡は、現実から逃れたいための衝動的な自殺に近い。
 自動小銃で撃たれなくても、厳寒の雪の原野で凍死してしまうからだ。
 しかしながら、人為的に自動小銃であっけなく奪われる戦友の命と撃たれた鷹の命が重なりあい、自分の命もやはり借りの命であると洞察している。
 厳しい境涯にあって命についての洞察に至るのは、それに寄り添う俳句の作用も一因であると筆者は考える。
 『カザック風土記 庄子真青海句集』卯辰山文庫のP.174~175には、無聊をかこつ抑留所に「若草会」というグループができて、ここで草皆白影子を知ることになる。とあり、『続・シベリヤ俘虜記』P.77には、「若草句会」について、夜七時過ぎに集まり、翌日の作業を考慮して9時には散会するという月1回の句会があったと書かれている。
 筆者は初め抑留俳句について、個人でコツコツ編まれた作品が殆どだと思っていたが、ラーゲリ内で句会の形で俳句が親しまれてきたことに驚きを感じた。
 普段はノルマに追われ、飢餓や死の恐怖に苛まれ、政治教育による密告や吊し上げにより猜疑心や人を妬むような人間関係の中にあり、俳句は作者の心を開放し支える存在である。これに加え俳句に親しむ仲間と月に1回会うことで、お互いの存在を確認し励ましあい、一時の時間を共有することは、辛い収容所生活を生き抜く大きな力となったのだと考える。
                      
参考文献
『シベリヤ俘虜記~抑留俳句選集~』小田保編 双弓舎 昭和60年4月1日
『続・シベリヤ俘虜記~抑留俳句選集~』小田保編 双弓舎 平成元年8月15日
『カザック風土記~庄子真青海句集』卯辰山文庫 昭和51年4月15日
W・Tシャーマンの言葉:名言集 №1856  http://www5f.biglobe.ne.jp/~kimmusic/nihongo-meigen.html


2019年7月12日金曜日

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~⑮  のどか

第2章‐シベリア抑留俳句を読む
Ⅳ 庄子真青海(しょうじ まさみ)さんの場合(1)
 庄子真青海さんは、大正15年5月17日、樺太大泊富内町に生まれる。本名庄子正視、会社役員。昭和20年6月末、樺太第88師団(通称要兵団)麾下(キカ)のこの年5月に再編成された歩兵第306連隊に現役兵として入営。程なく終戦のため樺太内路山中にて抑留の身となる。昭和23年5月樺太真岡港より函館港に帰還。※麾下(キカ)とは「ある人物の指揮下にある」の意味。

 以下*は、『シベリヤ俘虜記』『続・シベリヤ俘虜記』の作者随筆と庄子真青海さんの句集『カザック風土記』を参考にした筆者文。

『シベリヤ俘虜記』(望郷・抑留句抄)『続・シベリヤ俘虜記』『カザック風土記』から

   日ソ無名戦死碑建設
 「生きて虜囚の」茜砕きて斧振う(シベリヤ俘虜記)(カザック風土記)
*この句は、『シベリヤ俘虜記』に〝日ソ無名戦死碑建設”の前書きがあるが、庄子さんのカザック風土記には、前書きなしで載せられている。前書きなしでは、「生きて虜囚の辱めを受けず」の戦陣訓に呪縛され生き残ったことを恥と思いながら、夕焼けのなか強制労働をしていると解釈してしまう。
 一方、前書きのある句では、庄子さん自身も「生きて虜囚の・・・」の語句の重さに捕虜の身の複雑な思いを深くしながら、戦場整理と日ソ無名戦死碑建設に携わり、夕焼けに赤く染まる樺太の地に斧を振るい、戦に死んでいった人々の亡骸を埋め弔った事実が明らかになる。
 『続・シベリヤ俘虜記』の随筆には、樺太内路山中をさまよい、1945(昭和20)年8月23日に武装解除を受け、上敷香の旧日本軍の兵舎へたどり着いたとあり、そこでの出来事を庄子さんは、『続・シベリヤ俘虜記』P.73で以下のように書いている。

上敷香に凡そ3千人は終結させられたであろう日本軍将兵の大集団も
 9、10月にかけて将校集団がいずこかへ送られたあと、1千人単位の労働大隊の幾つかに編成替えされながら、北緯50度の旧ソ連地区を越え、ソ連領北樺太の第56狙撃師団の終結地になったというオノール・あるいはアレクサンドロフを経由、一部は沿海州に渡りシベリヤ各地の抑留地へ散ったという。この事実は復員後、戦友らの多くの証言によって知ったのであるが。
 そして最後まで残された私たち労働大隊も、激戦の場となった国境、古屯などの戦場整理に移動した後の11月末、それまで建立作業に従事していた「日ソ無名戦士の碑」の完成を待っていたように、新たなる苦役の地、泊岸炭鉱を目指し南下移動してゆく。
 9、10月にかけて将校集団がいずこかへ送られたあと、1千人単位の労働大隊の幾つかに編成替えされながら、北緯50度の旧ソ連地区を越え、ソ連領北樺太の第56狙撃師団の終結地になったというオノール・あるいはアレクサンドロフを経由、一部は沿海州に渡りシベリヤ各地の抑留地へ散ったという。この事実は復員後、戦友らの多くの証言によって知ったのであるが。 そして最後まで残された私たち労働大隊も、激戦の場となった国境、古屯などの戦場整理に移動した後の11月末、それまで建立作業に従事していた「日ソ無名戦士の碑」の完成を待っていたように、新たなる苦役の地、泊岸炭鉱を目指し南下移動してゆく。

   国立農場
 白夜耕す余力なき身に余力ため
*庄子さんが昭和51年4月15日に刊行した『カザック風土記 庄子真青海句集』卯辰山文庫のP.174~175には、無聊をかこつ抑留所に「若草会」というグループができて、ここで草皆白影子を知ることになる。草皆白影子こそは、真青海半生の無二の親友であって、ノーマル作業に苦しむ生来蒲柳の真青海を自分の作業グループに引き入れ、軽作業に回すなど庇護してくれたとある。
 さて、北極圏では夏至のころに白夜となる。日中にもノルマを課せられた上に、さらなる残業になったのか、ノルマが終わらず白夜のなかで、国営農場の畑を耕しているのか。蒲柳のとは「蒲柳の質」を省略したものか、体質がひ弱であった庄子さんは、もう力の残っていない体から絞り出すように力をためて一鍬一鍬耕すのであった。

 かさね臥し誰の骨鳴る結氷期(シベリヤ俘虜記)(カザック風土記)
*収容所(ラーゲリ)のベッドは蚕の棚のように段々に作られている。結氷期には、横向きに重なりあい、お互いの体温で温めあって眠る。寝返りにやせ細った四肢や骨盤を動かす音が聞こえてくる深夜である。

 昼寝覚め香煙硝煙いずれとなく(続・シベリヤ俘虜記)
*昼寝から覚めると焼香の線香の煙か火薬を爆発させた煙のいずれでも無い臭いがしているとあるが、誰にも機関銃の火薬の匂いであることは明白である。この煙を暗に香煙ということにより、誰かが死んだことを示している。この句の背景には、炭鉱の苦しい作業に耐えかねた仲間が、脱走を計ったが警備兵の機関銃に撃たれたエピソードがある。それについて、「続・シベリヤ俘虜記」P.75を紹介する。
 
 露天掘りで、炭層が露出するまでの厚さ2、3米から処によっては5、6米に及ぶ丘陵の剝土作業の辛さ。ことに冬将軍吹き荒れる12月から3月にかけて、石のような凍土の地表を発破をかけながらすすめてゆく。この発破をしかけるための穴掘り作業は修羅場である。沸らせた薬缶の湯を注ぎながら、長さ六尺ほどの鉄の棒を間断なく上下させては掘りすすめてゆく捕虜たち。日もすがら寒風荒ぶ丘陵に幾十人も点々と隔たりをおいての個の作業は、冬期でもあり、また冬期であるがために課せられるそれは、当然のように規定のノルマにはほど遠い。(略)
 そんな日々が続いた或日、この地獄の責苦に耐えかねてか、二人の捕虜仲間が深雪の中を腰まで埋めながら、白昼の脱走を計ったが,神は遂に二人に味方せず、山頂に据えられた警備兵の機関銃掃射の前に雪を鮮血に染めながら若い命を散らす事件が起きた。
 そんな日々が続いた或日、この地獄の責苦に耐えかねてか、二人の捕虜仲間が深雪の中を腰まで埋めながら、白昼の脱走を計ったが,神は遂に二人に味方せず、山頂に据えられた警備兵の機関銃掃射の前に雪を鮮血に染めながら若い命を散らす事件が起きた。

 借命や撃たれきらめく宙の鷹(シベリヤ俘虜記)(カザック風土記)
*警備兵の機関銃で撃たれきらきら光りを残しながら、落ちてくる鷹に、この世の命は借りの命であると洞察し、自分の運命に重ねるのである。
(つづく)

参考文献
『シベリヤ俘虜記~抑留俳句選集~』小田保編 双弓舎 昭和60年4月1日
『続・シベリヤ俘虜記~抑留俳句~』小田保編 双弓舎 平成元年8月15日
『カザック風土記~庄子真青海句集』卯辰山文庫 昭和51年4月15日


2019年6月28日金曜日

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~⑭  のどか

第2章‐シベリア抑留俳句を読む
Ⅲ 黒谷星音(くろたに せいおん)さんの場合

 黒谷星音(くろたに せいおん)さんは、大正10年11月1日島根県簸川群知井宮村(現出雲市知井宮町)に生まれる。本名野尻(旧姓)秀利。昭和16年浜田第21連隊補充隊入隊(現役16年徴集)、第1期検閲後衛生部(一兵隊)17年夏中支派遣藤6865部隊に転属渡支。終戦直前、満州四平街を経て転進、敗戦。入院下番十数名と共に在満飛行場設営大隊に編入、同年入ソ。爾来バイカル湖周辺にて伐採、造船所、機関車工場雑役。23年8月ナホトカより舞鶴へ帰還(信洋丸)。
(『シベリヤ俘虜記』小田保編 双弓舎 昭和64年4月Ⅰ日)

以下*は、『シベリヤ俘虜記』の作者の随筆を参考にした筆者文。

『シベリヤ俘虜記』北旅・シベリヤ句抄から
   敗戦武装解除二句
丸腰の身軽さ悲し秋風裡
銃捨てし身に朔北の風しみぬ

*銃を捨てた身の内に北国の風が一層しみ込んで来るのである。
武装解除を受けた時期は定かではないが、八月十五日を過ぎて秋風の吹く季節になり、終戦の報を受けた時の夏服に、北の大地の風がしみ込む。単に風がしみたばかりでなく、戦争の終わった安堵の中でこの先の運命への疑いや不安も入り混じっていたのであろう。

   黒竜江、入ソ
アムールの氷上を行き獣めく
*アムール河(黒竜江)の氷るのを待ち国境を歩いて渡る。「氷上を行き獣めく」とは、ダモイ・トウキョウと騙されて、銃床で撃たれながら歩いている日本兵がまるで狩られた獣のようだ。凍ったアムール河は、果てしなく続いているのである。

大豆焚きて虜囚列車の北を指す
*日本兵には、行先は告げられず列車は北へ向かっているようだ。炊事車で大豆が焚かれているのか、匂いが漂っている。
『シベリヤ俘虜記』P.72、1921年1月シベリヤ鉄道でバイカル湖畔に到着、艀でアンガラ河上流の中州レスジャンカの収容所に入るとある。

   バイカル収容所
わが入る柵作らむと氷土掘る
*一月の凍土に、自分たちを閉じ込める柵を作らなければならなかった。捕らわれの兵の殆どがそうであったように、

バイカルの一夜に凍てつ神話めく
*本格的な極寒の到来を知らせるように、一夜にして凍てついたバイカル湖を眺める。早朝の静寂と、アイスブルーに波まで凍り広がるバイカル湖はまさに神話の世界である。捕虜の境遇を一時忘れ、眼前の神々しい世界に魅了される。

極寒のバイカルの日輪(ひ)をむさぼりぬ
*日照時間の短い極寒、バイカル湖の天中に日輪をみた。神々しいい光を目に焼き付けるようにむさぼり見ている。このような境遇にあっても、お天道様は見守ってくれている。

死にし友の虱がわれを責むるかな
*抑留1年目の冬、作業大隊500人のうちの半数が亡くなり、残ったものは絶望の日々を送った。死期は、寄生する虱が一番良く知っている。死体からぞろぞろと虱が離れるからだ。生き残った者は、その虱に責め立てられているのである。

   凍土掘れず
墓穴掘らむと半日焚火して泣けり
*凍てた大地を半日焚火して、掘り続けても浅い穴しか掘れない。戦友を葬りながら、死の影は明日の自分に重なって来るのである。
 
棒のごとき屍なりし凍土盛る
*やせ細って棒のように凍り付いた屍を掘り返した土で埋め戻してゆく、墓標一つも立ててやれぬ無力さを噛みしめて。

冬銀河凍パンと死と持ち歩く
*凍り付いたパンを持ってようやく繋ぎ止めている命と裏腹に死の影はいつも付きまとう。冬銀河はやがて来るシベリヤの過酷な生と死がせめぎあう冬の訪れを知らせる。黒谷さんの作品の中で、秀句であると筆者は思う。

   汽関車工場
短日の炉火にひもじき槌振れり
*シベリア抑留というと、シベリア第2鉄道(バム鉄道)建設のための伐採作業が、頭に浮かぶ。工場で黒谷さんは、鉄道や汽関車部品を作る炉の火に照られながら、暑い鉄を叩く槌を振るう。槌の一振り一振りがひもじい腹に体に響くのである。
 
   シベリヤの地に三度正月を迎ふ
シベリヤの遅き初日をおろがみぬ
*シベリヤの苦しい抑留生活も三年を迎えての初日の出に合掌し祈りをささげ、一日も早い帰還を願うのである。

凍てつきし工場街(まち)あけぼのの汽笛なる
〈シベリヤ句集『北旅』(昭和54年刊)から〉
*黒谷さんの49句の最後にあるこの句、一見すると冬の句とも思えるが、「凍てつきし工場街」は、抑留生活の象徴として、「凍てつきし」と詠ったと筆者は感じる。抑留生活を送った工場の町の夜明け、帰還の港のあるナホトカに向かうシベリヤ鉄道に乗られたのだろう。暁の空になる警笛に胸に迫る喜びを感じる句である。黒谷さんは、昭和23年8月ナホトカより舞鶴へ帰還されている。

黒谷星音さんの作品を読んで
 *苦悩にみちたシベリヤでの俘虜生活。そこには全く人間を無視したソ連の非人道的な行為に加えて、極寒と飢餓に栄養失調と疾病、さらには強制労働とノルマの枷があった。
きびしい状況下にあって、日毎夜毎、たおれてゆく戦友を目前にしながら、遠い祖国の父母を想い。いつの日か判らない帰国の夢に、一縷の望みをつなぎながらも、現実に打ちのめされ、空しい歳月をおくった。

手記には、以下のように記されている。(シベリヤ俘虜記P.73)
  
 このような境遇の中で、僅かに隠し持った新聞のこま切れや、ノートの切れ端に折を見ては書きつづった句は、泣き戦友への鎮魂と、私の俳句への執念のしからしむところであり、少なくともこのことが、数々の苦難を乗り越えて、遂に帰還の夢を果たした私の心の支えとなったのは確かである。〈夕焼けし樹海に深き秋の貌〉、所内の句会で天位となったこの句も、今はなつかしく思いだされる。 いまでも夜半、シベリヤの悪夢に目覚めて、床上に愕然とすることがある。この深い心の傷は、私の生命のある限り続くであろう。

 黒谷さんの抑留生活を俳句が支えたことは、手記により明白である。
 黒谷さんの手記で注目するところは、「シベリヤの悪夢に目覚めて、床上に愕然とすることがある。心の傷は命のある限り続くことであろう。」という最後の二行である。過酷な抑留生活を生き延びたが、心的外傷後ストレス障害が残ったことが示唆される。
 シベリアの凍土に眠る戦友を慰霊し語り継ぐ営みの中で、黒谷さんの体験が昇華され、心癒されることを祈るのである。

『シベリヤ俘虜記~抑留俳句選集~』小田保編 双弓舎 昭和60年4月1日