第3章 戦後70年を経ての抑留俳句
Ⅵ 百瀬石涛子(せきとうし)さんの場合(6)
【百瀬石涛子著『俘虜語り』を読む】‐その4
*は、インタビューをもとにした、筆者文。
毛布欲し丸太の棚に俘虜遺体(寒極光)
*収容所のベッドは棚になっており、暖かい空気は上に上がるため棚の上のほうが暖かい。体力の消耗の激しい者は、暖かい上の段に寝ることになる。仲間もその死期を察しており、死ねば虱が逃げてゆく。死者の毛布が欲しいと心の声がささやくのである。
死者の衣を分配の列寒極光 (寒極光)
*死体を処理する前に衣類を脱がす。多分それは、誰かが独り占めするのではなく、平等に分配されたのだろう。それは、靴の修理に、物を入れる巾着にリュックの補修に、ある者は一切れのパンに変えた者もいただろう。三途の川で死者から衣を奪う奪衣婆(だつえば)さながらである。一見して此の世の地獄絵図とも映るのだが、生存の厳しさの中においては、仕方の無いことである。そうしながらも心はその記憶に苛まれるのである。
柩なき遺体凍土に寧所なく(寒極光)
*柩に入れてあげられず、十分な弔いも出来ない。凍土を掘って何体も一緒に埋められる遺体は、安寧の眠りを得る事は出来ない。
置き去りし遺骸の山や木の根明く(寒極光)
*雪解けが進み、遺骸を置き去りにした山にも木の根が明くころになると冬を越せなかった仲間を悼むのである。
レーニン主義壁新聞の長き夜(寒極光)
望郷やレーニン称え夏の夜(寒極光)
*この二句は、赤化教育(思想教育)を詠んでいる。抑留一年を過ぎた頃から、天皇を神として教えられた日本の兵隊を、ソ連の戦後復興の労働力として使役する他に、天皇制や資本主義に対する批判や社会主義的民主主義を教え込み、民主主義的軍紀の確立と軍国主義的分子との確固たる闘争の呼びかけが、壁新聞や日本新聞により広められた。中には、ソ連に協力すれば、早く帰国できると考え「アクチブ」として積極的に活動する者もあったという。帰還前に入る、ナホトカの赤化教育の機関では、成績が悪いと再びシベリアの奥地に逆送され労働をさせられると聞いていたものも多いという。石涛子さんもインタビューの中で、赤化教育の成績が良いと早く帰還できるという思い込みが広まっており、それによる密告が日常化していたと語っている。
※アクチブ:赤化教育を受けて、それを広めるために取り立てられた役目の人
木の根明く帰還(ダモイ)列車の時折に(寒極光)
*木の根の開く春になるとナホトカに向かうシベリア鉄道を望郷の思いを胸に見送った。
帰還(ダモイ)待ち若菜摘む掌の弾みけり(寒極光)
*この年の春は石涛子さんの名前も帰還者の名簿にあり。早春の野の草を摘む掌も殊更に弾んだのである。
帰還船待つ霧籠めのレーニン像 (寒極光)
*石涛子さんはナホトカで同じ名簿であった仲間と一緒の船で帰還できなかった。ナホトカに留め置かれ、重症の病人の看護を任されたためである。苦楽を共にした仲間と一緒の船で帰れず落胆した。次の帰還船を待つことの不安が「霧籠めの」に重なっているようである。
流氷来抑留の友置き去りに(寒極光)
*流氷の季節が来ると海明けである。日本に向う帰還船に乗れた自分の運命を喜ぶ一方で、帰還できない仲間へ思いを馳せるのである。
死者の声立夏の海にひしめけり(寒極光)
*望郷の思いに駆られながら死んでいった仲間の声や、船の中で死んで水葬された者の声が立夏の海にひしめいている。
海明けを知らぬ俘虜の死遺品なし(寒極光)
*このように帰還の日が来ることを知らずに死んでいった仲間の遺品の一つもないことに、ダモイと騙しながら略奪を重ねたソ連兵の身勝手な振る舞いに、怒りと悔しさが湧いてくるのである。
夏めけるナホトカに在り虜囚果つ(夏のペチカ)
*夏を迎えるナホトカにやっと虜囚としての暮らしを終える事ができる安堵と感慨がわいてくるのである。
哭く風は虜囚の声か冬に入る(寒極光)
*故郷信州の冬も厳しい。哭く風はシベリアに死んだ虜囚の声にも聞こえるのである。
俘虜の名の生涯消えず雪を掻く(寒極光)
*戦後70年の歳月を経てなお俘虜の記憶は消える事が無い。雪掻きをするたびに、シベリヤ抑留の記憶はまざまざと甦るのである。
根深掘る自立に遠き九十歳(寒極光)
*家族のために菜園から葱を抜く、自立に遠いとはいえ家庭での役目を果たし、穏やかな日々を送る、90歳を迎えたのである。
俘虜に果つ我が身たりしを恵方巻(寒極光)
*生涯を俘虜の記憶に苛まれながら暮らす日々であるが、良きことを願って恵方巻を食べる。
若桜少年兵が今卒寿(寒極光)
*少年兵として志願した日から、抑留、帰還、日本の復興と経済成長に貢献した日々、家族を持ち子どもたちを一人前にした。抑留の記憶は走馬灯のように巡っているのである。そして卒寿を迎えた安堵が、いや戦争を体験した世代の使命が今を支えているのだ。
【百瀬石涛子さんの『俘虜語り』を読んで】
シベリア抑留体験の話を伺う中で、石涛子さんは、関東軍の通信兵として従事する頃から俳句をされていたことについて、「戦争や抑留という過酷な体験の中で、俳句は心の支えになりましたか」と筆者が尋ねると、「いや、ならなかった。あのような境遇の中で詠んだ句には、詩は無いからね。」と静かに答えられた。
先に読んできた『シベリヤ俘虜記』『続・シベリヤ俘虜記』で取り上げた5人の方と、違う意見を聞いたことが意外であり、石涛子さんの鑑賞文を書き終えるまで気になっていたので、筆者は平成31年4月、石涛子さんに1枚のアンケートを送った。
その内容は、俳句の価値について数字で表すとして、「俳句には価値が無かったを0点」とし、「俳句には非常に価値が有ったを10点」とするとご自分にとって俳句の価値は何点になりますかというものである。
この質問に、「抑留中を0点」「2000年以降10点」と回答された。
「抑留中を0点」の理由は、抑留中は終日生きる事のみに追われ、動物的感覚であったからと厳しい自己評価をしている。引揚げ後の生活では、レッドパージによる失業や生活に追われながら、安保闘争の参加や鎮魂と反戦・組合運動に参加する一方で、地区の句会へ参加した。このような活動を経て、2000年(75歳)頃から俳句の価値は10点の「非常にあった」となっている。このころから、石涛子さんの「シベリア抑留俳句」が結実し始めたのだと推察する。
石涛子さんは、抑留という困難な境涯にあった日々も、奥様への介護生活に身をささげられている94歳の今も真摯な姿勢で過ごされている。
そして、先立たれた仲間への「鎮魂」と戦争を知らない世代へ「反戦」を俳句により伝えたいと言う。
そんな石涛子さんをやはり、「俳句」は、支えているのだと筆者は思う。
石涛子さんに於かれましては、これからもご健勝に「鎮魂と反戦の俳句」をもって、「平和」への道筋を照らしていただきたいと願うのである。
※句集『俘虜語り』百瀬石涛子著 花神社 平成29年4月20日
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