兜太と龍太
戦後俳壇を代表する金子兜太と飯田龍太はともに二月を命日としている。二人の命日は、わずか五日違い。生没年を比較すると、
[兜太]大正八年九月二三日~平成三〇年二月二〇日(九八歳)
[龍太]大正九年七月一〇日~平成一九年二月二五日(八六歳)
となる。一年違いで誕生――一年違いと言っても実は七月から九月の間は同齢であるから同世代であるのだ。このため、昨年九月秩父の皆野町で兜太百年祭が執り行われ、入れ替わって本年は龍太百年祭と言うことになるのだろう。
兜太の出身は秩父の皆野町、龍太は甲斐の境川村という鄙びた地であり、父親は、それぞれ金子伊昔紅(元春・医師)、飯田蛇笏(武治・地主)という地域の名士たちであった。東京のインテリたちとは少し違う経歴であることもふたり共通している。戦後二人は戦後派世代の代表と目された。もちろん、兜太が社会性俳句・前衛俳句と戦後俳句を牽引したのに対し、龍太は伝統派の総帥の立場に身を置いた。しかし、それぞれ単独で考えるよりは、いろいろな偶然によって二人を対にして考えた方が興味深いと思う。
そのようなこともあり、俳人協会の俳句文学館で「よみがえる俳人たち――忌日特集」の展示が毎月俳人の顔触れを替えて行われているのだが、二月は私が企画担当をすることになったので兜太と龍太を取り上げることにした。俳人協会の俳句文学館で、協会員でない兜太と龍太を取り上げることはなかなかよいことだと思う。二月にかかわる戦後俳人はいろいろいるが対となる二人としてはこの顔触れ以外にはぴったりとした俳人はいないだろうと思うからだ。俳句文学館に足を向けられる人は二月の一ヶ月間は展示が続くから見ていただきたい。
さらに、藤原書店から出されている「兜太 TOTA」の第四号(三月刊行予定)では「兜太と龍太」をテーマに編集を進めている。単独ではともかく、兜太・龍太合同特集で関係者の発言や回想が同時に行われることはあまり例がないことではないかと思う。
二人の時代
(中略)
①昭和二八年以後(その青春)
一点に絞って考えてみる。昭和二八年は戦後俳壇の分岐点に当たる年だ。発足したばかりの現代俳句協会が、初めて戦後生まれを受け入れた年なのだ、この時入会した兜太三四歳、龍太三三歳と脂が乗りきっていた時期だ。
この直後、二九年龍太『百戸の谿』、三〇年兜太『少年』と第一句集を刊行している。そしてできた早々の現代俳句協会賞を、三一年に兜太が第五回を、三二年に龍太が第六回を受賞している。
三七年は現代俳句協会が分裂し、俳人協会が発足した戦後俳壇の第二の分岐点となる年だが、この年、兜太は同人誌「海程」を創刊、龍太は蛇笏の「雲母」を承継するのだ。
②平成時代(その晩年)
平成二年から俳壇は「結社の時代」という卑俗化の時代に突入する。それは実に熾烈な文化大革命であった。
その最中、龍太は、俳句界の態様の変貌に自ら責任を感じて蛇笏以来七七年続いた「雲母」を平成四年に終刊するに至る。これは衝撃をもって俳壇で迎えられた。その後僅か二年で「結社の時代」は終焉するからだ。
一方、兜太は昭和六三年から「俳句研究」誌上で龍太・澄雄・兜太の長期連載座談会、平成二年から「俳句」で岡井隆と前衛の時代をめぐる長期連載対談を行う。誰も兜太に「結社の時代」の旗頭となることを期待していなかったから、実に軽やかに「結社の時代」を遊泳したことになる。その後、平成後半は「兜太の時代」が出現したのだ。これも見事な二人の晩年の行き方であった。
もちろんこれは私の一面的な見方に過ぎないが、しかしそうした時代感を生み出す魅力を二人は持っていたのである。
曼珠沙華どれも腹出し秩父の子 兜太
彎曲し火傷し爆心地のマラソン
おおかみに螢が一つ付いていた
大寒の一戸もかくれなき故郷 龍太
どの子にも涼しく風の吹く日かな
一月の川一月の谷の中
【参考文献】
①筑紫著『飯田龍太の彼方へ』(平成六年/深夜叢書社刊)
②筑紫著『戦後俳句の探求ー兜太・龍太・狩行の彼方へー』(平成二七年/ウエップ刊)
※詳しくは「俳句四季」2月号をお読み下さい。
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