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2018年12月28日金曜日

【最終回】思い出すことなど(4)「BLOG俳句空間―戦後俳句を読むー」の創刊 (吉村毬子と小津夜景の記憶)/ 北川美美



現在の俳句新空間の前身「BLOG俳句空間―戦後俳句を読むー」は2013年1月に静かに創刊した。

「詩客」からの引き続きの形で<戦後俳句を読む>を中心にサイトを構築していくイメージでスタートした。作品掲載については考えていなかったということに近く、新年刊行に合わせて新年の句を募集してみようということで筑紫さん企画で<歳旦帖>を掲載。<戦後俳句を読む>の執筆者メンバーや筑紫・北川の呼び掛けで句を募り新年の巻物としてふさわしい雅やかな雰囲気になった。

歳旦帖以外の個人作品を掲載するにあたっては、管理・運営の面で長続きしないのでは、という懸念があり筑紫さんは乗る気ではなかった。刊行記念として当初作品依頼を北川が行ったが(「風狂帖」として句帖にそろえる名称)、やはり筑紫さんの予想通り依頼を続けるには困難が多く頓挫してしまった。ご寄稿いただいた方々にはお礼申し上げる。

ブログはその後、<歳旦帖>を主力作品として継続し、それを紙媒体としたい、という筑紫さんの構想を実行に移した。紙媒体は2013年創刊から5年間が経過し、2018年12月にて10号を迎えた(年二回刊行・購入の場合は邑書林へ)。60名近い参加者の作品集なので自分の作品が目立たないのは嫌だ、と参加を断られるケースもあるのだが(公募はしていない)それはそれなりに、紙媒体にすると多くの作品の中でも際立つ作品、魅かれる作品というのがあり、見る側としては、紙媒体になってからこそ新しい風景が見いだせる刊行物であると思う。 

ブログ(「BLOG俳句空間―戦後俳句を読むー」)が10号を迎えた頃、筑紫さんが俳人協会評論賞(『伝統の探求〈題詠文学論〉』, ウエップ)を受賞され2013年3月5日に授賞式に参加した。筑紫さんの短期句会「題詠句会」のメンバー有志の協力に加え本井英さん、西村麒麟さんの参加もあり二次会として新宿・サムライにて行われた。 

記念句会 
サムライでの様子

そのサムライの会場に参加したのが吉村毬子さん(2017年7月19日没)だ。吉村さんは、北川がすでに開始していた連載「三橋敏雄『真神』を誤読する」に影響され、自分も中村苑子論を書いてみたいと思った、とおっしゃっていた。

中村苑子から直接指導を受けた直弟子で、晩年の苑子がとても気にかけていた逸材だったようだ(福田葉子さん談)。 サムライ以降吉村さんからお便りを頂くようになった。

昨年2017年の吉村さんの訃報から一年以上過ぎ、改めて彼女の作品を再読してみると、詩に憑りつかれ、詩に翻弄され、自ら魑魅魍魎の世界に引き込まれていった感がある。

中村苑子論は掲載の回を重ねていくうち、吉村さん本人から訂正の電話が入るようになり「どうしても電話でなければならない。」と少しずつ狂的になっていった。メール入稿が前提のウェブマガジンなのだが、吉村さんの事情で御自身でテキスト原稿が作成できず、LOTUSはじめ吉村さんをサポートする方々により入稿が成立していた。

彼女自身の入稿はひとりでは出来なかったのだが、彼女はその間に第一句集『手毬唄』を刊行し、鑑賞の執筆依頼を各方面に依頼し、ブログに掲載してほしいと彼女の要望に逐次筑紫さんが対応していた。いうなれば、現在当ブログの句集鑑賞のシリーズは吉村毬子セルフプロデュースがはじまりだったのではないか。大井さんのブログに吉村毬子孤独死、という訃報記事があったのだが、多くの方のサポートを得られた彼女は、決して俳句の面では孤独ではなかったように思う。なので俳句においてはこれからも作品は死なないだろう。

留鳥も移民の耳も芒原 吉村毬子 
『手毬唄』以降 Lotus 2017年発表 



吉村さんの作品傾向は、昭和50年代くらいの情念的ものが漂っていた気がする。考えると、9月28日に急逝した渚ようこ(歌手)もはじまりはポップスだったが次第に情念的な歌に傾倒していった。大本義幸さん(2018年10月18日没)の生前のお手紙に「渚と友達ならばリクエストしてほしいことがある」というのだ。<背徳の昼メロ「雨に咲く花」>を渚にカバーしてほしいと書いてあった。それを渚に告げることも虚しく渚までも天空の人になってしまった。 なにか突然に昭和も平成も一気に幕を下ろした感がある。吉村さん、大本さん、そして友人の渚の逝去を悼む。2018年のこの師走に淋しい感情が込み上げてくる。

死者たちは悲しみを残し、当然、水を打ったように静かだ。時にこの世に佇み、言の葉が水に浮かんでは消える呪術めいたもののように思えてくる。


※吉村毬子さん第一句集『手毬唄』(2014年文学の森)版元で購入可能。(文学の森にて2017年電話確認)。またLOTUS38号では吉村さん追悼特集号が組まれている。情報元:同人誌LOTUSのブログ 

※大井さんブログでの吉村毬子記事
吉村毬子「水底のものらに抱かれ流し雛」(「LOTUS」第38号より)吉村毬子 「手毬唄」についての記事 

***
吉村毬子さんと同時期に、小津夜景さんとのやりとりがあった。
小津さんは、2016年に第一句集を刊行され、田中裕明賞を受賞。そして今年2018年には漢詩エッセイの書籍が刊行となり、現在俳句総合誌はもちろん新聞、雑誌などで活躍中である。この二人、明暗がこのサイトで分かれたような印象すらある。

小津さんは2014年に豈が募集した攝津幸彦記念賞受賞において準賞を受賞された。賞の主催である豈が年一回ペースの発行のため、当ブログで受賞者の紹介を先行することになり、正賞、準賞の受賞者全員に連絡をとったことがはじまりだった。受賞者の中でとても積極的だったのが当初より小津さんだった。最初にいただいた返信は「作品でお世話になりたい。」とご自身のビジョンを明確に持っていた印象がある。なので関さんなどがいわれてるふわふわした感じということとは少し異なる。

小津さんは、プロフィール(作者紹介として私の担当記事は記載している)に「無所属」と記されていて、それに纏わるエピソードが思い出される。小津さんはすでに活動の場としていた週刊俳句にて「フランス在住の小津さん」と紹介されていた。

受賞作を先行でブログにて紹介しようとプロフィールをお伺いしたところ(応募時には氏名、年齢、住所、電話番号をお伺いしている。)、小津さんが「無所属」、もうお一人が空欄 という回答だったため質問をしてみた。「慣習的には、生年や出生地、在住地などを書かれる方が多いですが、ご回答のままでよろしいですか。」といま振り返ると野暮な質問をした。もうお一人の方は受賞されたもののご自身のご事情からご自分のことは語りたくないようだった。小津さんからの返信は「他人が言うのは構わないですがフランス在住ということを自分から言うつもりはありません。経歴に住んでいるところを書かなければいけないのでしょうか?」と作家としてのスタイルがすでにあり、妙な言い方になるが、プロっぽい印象があった(俳句はだいたい素人なのか、といわれると実も蓋もないが)。なので、「小津夜景」という筆名以前になんらかの執筆活動されていたのか…、という想像が働かざる負えなかった。もしくは、フランス在住も筆名もすべて架空なのかもという想像も働いた。

住んでいる場所や背景なんて本当はどうでもよくて作品が第一なのだ。しかし俳句は短すぎるので見知らぬ作者はまず背景を知りたくなる。句集を後ろから開くような経験が読者の皆様にもあるのではないだろうか。なので自己紹介として作家のある背景としてのことを書くことが慣習となっているのではないかと思う。小津さんの第一句集に「フランス在住」ということはどこにも記されていなかった。しかし読者やメディアの小津さんへの興味は「フランス在住」ということが強調されていった。

では、小津さんがご自身でフランスと言わないのであればこちらが言うべきなのだろうか、と小津さんの連載が数回始まった頃、面白くもない「ニース風サラダ」の作り方を「あとがき」に書き、お茶を濁したことがある。それを書いた後、ニースは魚介類がもちろんイケるだろうね、と想像し、マルセイユにある魚介スープ専門店chez FonFonとかいうレストランを日本のテレビ番組のレポートで見たことを思い出した。テルミドールのスープだった。2011年に10年ぶりの渡英でのテルミドールスープが忘れられず、テレビで見たchez FonFonの一皿がとてつもなく美味しそうで、そのためだけにソビエトから来たひとりの金髪女性が映っていた。そこで日本で似たスープの缶詰はないのかと探してみたところ阿寒湖のザリガニのスープを探し当て阿寒湖漁業組合に発注した。ザリガニが日本ではテルミドールの代物として扱われていることを欧米人は貧しく思えるのだろうか。どうだザリガニだ、となんだか誇らしかった。

ニース風サラダがどんなものなのかを「あとがき」に書いたのは2014年4月25日のなので、ザリガニスープの缶詰は4年間未開封のままだ。しかし、何故か有効期限が過ぎても捨てられない。多分それは缶詰のテルミドールの絵(それは確かにザリガニが描かれているのだが)と缶全体のデザインが気に入ったのだ。未開封のままシュールストレミングになっているかもしれない。

…とフランス、といってもこれは食だが、時に饒舌になるのはフランスというお国柄が原因なんだろうか。フランスはある意味、人を興奮させるところがある。


現在の小津さんはフランス在住ということをご自身で書かれているようだ。フランスが小津さんの代名詞になっている印象がある。異国で日本語を書くことは大変なのではと思うのだが、塩野七生、岸恵子、石井好子という前例もあり、俳句をきっかけに文化人として活躍される予感もある。

当ブログで小津さんが連載をされた頃から5年以上経過した。

吉村毬子と小津夜景、<戦後俳句を読む>誌上ではクロスしていたことになるが、明暗を分けるこの二人、吉村さんの作品が増えることは当然ありえない。小津さんはこれからも多くの読者を驚かしていくのだろう。

「BLOG俳句空間―戦後俳句を読むー」は、2014年9月に終刊し、翌10月から「BLOG俳句新空間」という名称となった。「BLOG俳句新空間」という名称でのサイトが100号を迎え100号記念だということになる。

この連載は100号に関する長い長い前書であり且つあとがきである。


100号記念として連載にしてほしい、という筑紫さんの依頼により当初1回で終わるはずが(4)までお付き合いいただいた。8年間を思い出しつつ、考えることは多かった。


読者の皆様、参加された皆様、ご協力賜った皆様に感謝いたします。
ありがとうございました。

(了)






2018年12月7日金曜日

思い出すことなど(3)「詩客」のあたり / 北川美美


「詩客」は、2011年4月に創刊された。

現代詩・短歌・俳句(川柳含む)の総合サイトだが、「詩型の垣根は超えられるか」ということを確かスローガンに掲げていた。
※詩客サイト参照(

私自身は「詩客」で<戦後俳句を読む>という18人の筆者として連載が始まるという初々しい気持ちだったのだが筆者の中には被災のために連載継続が実質的に困難になり連載を降りた方もいらした。

現在も当サイトと連携し「詩客」は続いているが、2011年4月創刊の「詩客」約1年の記憶を辿ってみたい。創刊時「詩客」では高山さんの「<日めくり詩歌>俳句篇」が人気を博した。深夜に数回分届く完全な原稿が印象に残る。

人気サイトだった清水哲男さんの「増殖する歳時記」に次ぐ日替わり記事に、誰の句が取り上げられるのかと期待が集まった。右句・左句で勝敗の軍配をあげるのは【歌合せ】の歴史があるが、選句眼を持つ高山さんならではの企画だが、季題や型など各回のテーマは俳句という詩型を考えるに重要なキーになった。2017年刊行の山田耕司さん句集『不純』中に<山田耕司VS山田耕司>というコーナーがあったが、詩客での日めくり詩歌を思い出した。


詩客での俳句作品依頼も高山さんが担当した。時に高橋龍などのネットと無縁の俳句評論の翁のような作品も掲載されバラエティに富んでいた。当初より、筑紫・高山両氏は俳句作品掲載に関しては積極的ではなかったが、どうしても作品は欠かせないという森川氏におされた雰囲気だった。作品は「週刊俳句」という老舗に譲りたいという考えだったようだ。

俳句時評の執筆者の健筆ぶりも印象深い。 外山一機、山田耕司、松本てふ子、湊圭史、中村安伸、冨田拓也、どの筆者も奮闘していただいた。 高山さんの人選だった。時評だけではなくいろいろな筆者がこぞって書いてくださった。「高山さんに依頼されるとどうしてもぎゃふんと言わせたくて頑張るんですよね」とおっしゃっていた方がいらした。論客に論客が集まる。

更に、御中虫さんの評論が人気を博した。そのやりとりについて、筑紫さんがスピカに記録を挙げている。 筑紫さん経由で伝わる御中虫さんの雰囲気は、気遣いのあるとても常識的な方だとういう印象があった。 

詩客はサイト運営とともにシンポジウムを重視する傾向があった。シンポジウムを開くことも譲れないという森川氏の意向があったが、森川氏の構想に無償協力することに、私自身がストレスになりはじめていた。

詩客内にて開始した<戦後俳句を読む>は、今までにない書き手による今までにない戦後俳句、ということが筑紫さんの企画で、当初は本当に18人もいたのだ。私の<三橋敏雄『眞神』を誤読する>もここがはじまりだ。その18人の中で、唯一、計画にそって連載完了されたのは、土肥あき子さんの<稲垣きくの論>だった。
※詩客 土肥あき子 稲垣きくの論 》参照


「詩客」が1年を経過しない間にそれぞれの分野(詩・短歌・俳句)の記事量が多くなり、サイト管理を担っていた詩人のイタヅカマコトさんが抜け、北川ひとりになったことが引き金となり、負担が大きすぎ詩型の越境が恨めくなっていった。実行委員はたくさん集まったが誰もサイト管理を無償でやります、という人はいなかった。

それを機に筑紫さんの提案にて各詩歌の分野別にサイトを立ち上げ、それをひとつにまとめたらどうだろうか、と交渉してくださり、実現したのが、現在のサイトの原型、「BLOG俳句空間―戦後俳句を読むー」という形で2013年1月にスタートした。






2018年11月23日金曜日

思い出すことなど(2) 2011年のこと / 北川美美

※前回の「思い出すことなど」は(1)とし、副題を「I thank youありがとうあなた」としました。「思い出すことなど」は連載として少し続きます。


*****


私が当サイト(BLOG俳句新空間)、同時に当冊子(俳句新空間)の運営に関わったのは、俳句現場の当事者として自己の俳句継続意志を励ます動機になれば…ということに拠っていた。おそらくそれは同人誌のように、自分の居場所であり続けた。

結社離れや同人誌離れが話題になり、さらに俳句各協会の会員離れに拍車がかかっているようだが、それは俳句界隈のことだけでなく、コミュニケーションツールは大躍進をしているのに世の中全体の人とのつながりが平成の30年間を経て希薄になった…と言えるような気がしている。人は孤独であっても心の拠り処を必要とするものではないのかと思う。

創作は孤の作業ながら作品発表を行うことは自己の立ち位置を示すことになる…例えば、SNSや個人サイトを利用してもそれは可能だろう。それが各人の拠り所になる。俳句にまつわる組織が今後どうなるのかわからないが、世間に向ける発信ツールは今後も必要とされるだろうという確信はある。

さて、私がサイトに関わるようになったのは、「詩客」創刊の2011年4月以降。その2か月前の2011年2月に松山を訪れていたところ(吟行が目的)、昼食をとるため店に並んでいたところに筑紫さんから連絡が入った。「詩と短歌と俳句のサイトが出来るのでそこに参加しませんか」と。(松山到着の翌日の夕食は松山イベント組と合同宴会で、御名前のわかる方としてイベント運営として佐藤文香さんはじめ、関悦史さん、橋本直さん、岡田一実さんなどが参加されていた。)

その「詩客」実行委員人選については、いつかの豈に高山れおなさんが書いていたが、筑紫・高山両氏が豈なのでもうひとり豈でいいだろうということで豈新規参加の北川に声がかかったらしい。筑紫・高山両氏は豈weeklyに続くサイトの落着き先を探していたようだ。すでに「俳句樹」というサイトを立ち上げていたはずだが、継続するには困難だったようだ。『新撰』の反響に手応えを感じた筑紫・高山両氏、特に筑紫氏は何かをスピーディに発信、行動に移せるのはインターネットメディアだと思ったのだろう。

豈weekly 創刊ー2008年8月
『新撰21』(邑書林)発刊ー2010年1月
『超新撰21』ー2011年1月


※参照『超新撰21』の応募規定
・2010年1月1日現在50歳未満(U―50すなわち1960(昭和35)年1月1日以降生まれの方)
・2000年12月31日までに主要俳句賞受賞歴がなく、
・同じく2000年12月31日までに個人句集上梓のない俳人

引用:俳句樹 

私は『超新撰21』の公募枠に応募した。
公募1枠は収録時に23歳の【種田スガル】さんが選ばれた。

日曜の朝にこじあけた唇 まだ迷いの渦中   種田スガル 
『超新撰21』(2010年12月)


現在、豈weekly 創刊からは10年が過ぎたのだが、週刊俳句、俳句樹における『新撰21』『超新撰21』の特集や回顧録をみていると、俳句に長く関わっている筑紫・高山両氏における相当な俳句的事件だったと受け取れる。その後の第三の波はあったのだろうか、それとも今がその真っ最中なのか。

****

詩客発足の前年2010年12月、豈忘年会に於いて筑紫氏から「評論を書いてみませんか?具体的には三橋敏雄論。今までに書いていない人が書いたら面白いと思って。」というお誘いがあった。豈Weeklyのウェブ上共同執筆『相馬遷子ー佐久の星』の書籍化に倣い、ウェブ上での戦後俳句の展開、今までにない戦後俳句を見渡すというという構想だったらしい。

「詩客」での戦後俳句を読むのスタート 
「BLOG俳句空間ー戦後俳句を読む準備号」 



「詩客」準備段階の2011年3月11日14時46分11秒に、東日本大震災が起きた。


この大災害により確実に詩歌の何かが変わるという確信のようなものが実行委員会の各メンバーに感じられた。

しかし、それが何を示すのかが当時の私には実際わからなかった。「何かが変わる」脅威というのは、詩歌にとどまらず文芸、芸術一般、そして世の中の全てが変わる、不安を抱いていたように思う。

311の発生直前に週刊俳句からの初めての原稿依頼【3月の週俳を読む】を書くことになっていた。震災後に書くことになったのだが、それでまえがきに言葉について書いた。(

災害直後に筆を執るということに対して、何か恐々としていたことを思い出す。さまざまなニュース映像や、情報が頭から離れない時だったが、書く、という行為や態度について考えたことが記憶に残る。よい経験だった。そして何が変わっていくのかを言葉やその態度にフォーカスしたいと思っていたことを思い出す。

震災発生時、私は北関東の実家にて三橋敏雄の句集『しだらでん』をテキストにするため打ち込んでいた。「しだらでん」は、震動雷電の意があるので何か因果がありと思いたくなる。震度7の激震となった地元は、倒壊した家、屋根瓦が崩落した家々が多数あり、未だ崩れたままの家屋も散見する状況だ。今となっては震災が影響しているのか元々なのか何の理由かがわからない経年劣化となっている。一昨年から、無人の建物は取り壊され空地が目立つようになった。


災害はそれ以後の平常が失われることに困難がある。。実際の経験、計画停電や原発の影響などが思い当たる。私が地元で経験した計画停電とその頃の東京の街は、どこか昭和天皇崩御時に勤務先のビル窓のブラインドを下すように指示されたことに似ていた。

北関東の計画停電は午後六時に一斉に電源が落ち2時間の暗闇が続いた。計画停電実施の地方の現状を友人に知らせようと蝋燭の灯りの写真を送ったところ、蝋燭の火にぼんやりと映り込む背景が怪しすぎると歓ばれた。電気の無い暮らしをしたことは無いが、その頃の文化を思い、二時間のタイムトラベルを味わうことは不思議な経験でもあった。暗闇で行われる夜咄茶事などがあるが、「不謹慎」が世相でもあったため現代から電気の無い暗闇は苦痛の何ものでもなかった。

私が東京にいないことを知らない友人からメールが来、都内の中学に通う息子の非常時の帰宅場所として学校に登録させてもらえないか、という内容だったがすでに東京の部屋にはあまり滞在しなくなり役に立てなかった。 震災当日のその子の状況を伺ったところ、東京駅で一夜を過ごし、翌日幕張の自宅に翌日自力で帰ったと聞いた。東京に暮らす友人たちや元同僚たちは徒歩で帰れない人は、みな会社に泊まったらしい。

生きていると本当にさまざまことを経験する。

震災後に何が起きているのかよくわからないのでニュースをよく見た。


なんとなく煽られている気にもなった。句会にも行った。吟行も予定通り行われた。


句会では、ニュースでの枝野官房長官の受け応えが話題になっていた。普段は政治に全く関係ない雰囲気のご婦人が「ニュースを見ながらテレビに向かって毎日『ふざけるな』っていっちゃうのよね」とおっしゃっていたことが記憶に残っている。

枝野元官房長官と記者のやりとり見ていたら、句会での講評を聞いている気分になり、句会と政治記者会見が何かダブって思えた。後に、高山さんが以下の句を出していて、感心した。世間は人をこんな風に人を見ている。枝野さんは震災当時毎日テレビで拝見したため今も政治家である枝野さんをTVで拝見するたびに不謹慎とおもいつつも高山さんの句が蘇る。世の中が不謹慎な態度を戒める傾向にあったので、本当はだれも思ったりしている口に出すと不謹慎なことを高山さん流に書いたのだろう。

しろく て ぷよぷよ えだのゆきを も たかやまれおな も    高山れおな

(「詩客」日めくり詩歌 

311の直後に原子力発電所の被害があった。
震災直後の句会にて桑原三郎さん(「犀」発行人・昭和4年生)が以下の句を投句された。

福島第一原子力発電所2号機よりけむり  桑原三郎

(「テレビ揺れ福島第一原子力発電所2号機よりけむり」として『東日本大震災句集 わたしの一句』(宮城県俳句協会)に収録)


上記の作者名を句会で明かした後にその句会に初参加の方から「この句に詩があるのですか?ここにいらっしゃる先生方がこの句に対して詩があるのかないのかをどう思われているのかを知りたい。」と挑発的な質問があった。「詩があるとか、そういうことが問題ではなくて、句の内容が事実である、ということが怖いと思う。原子力発電所から煙が出ることこはあってはならない大変なことよ。」と池田澄子さんがおっしゃっていた。 

長谷川櫂さんが短歌で震災を作品にされたり、高野ムツオさんや照井翠さんが震災の作品発表をする以前のことだった。

****
 
政治と俳句は繋がらないと思っていたものが、政治が影響して言葉が変わっていくのか、世の中が突然にスピードを上げて変わってゆく気がして、それが、どう変わるのか、としばらくは政治に興味をもった。 震災から被災、復興に問題はうつり、除染作業や瓦礫の問題が地元ではクローズアップされていた。実際に被災地の瓦礫受入れをする説明会と放射能についての説明会を公民館に聞きに行ったりもした。

以下は瓦礫受入れ説明会の様子。

ほぼ反対派を制圧する説明会だと事前にわかっていた節があり、会場全体にシークレットサービスのように市の職員が配置され重々しい雰囲気があった。市長の説明前、環境庁の青年から国としての説明がはじまった。

環境庁の青年は、公務員というイメージよりもやや長髪で研究者タイプ。鴇田智哉さんに似ていた。「この人も哲学専攻だったんだろうか。俳句などしないよね…」なと関係ないこと想像をしている間に、淀みのない、そしてわかり易すい説明が終わった。会場は、そんな流暢な説明で納得しない!という反対派がなんとなくしびれを切らし…。

市長の質疑応答になると怒号が飛び交った。二十代から四十代に見える若者、特に印象的だったのは子供を連れた若い母親たちの怒りの抗議。100人収容できればよい会場の8割が埋まっている印象だった。反対派の机を叩くなど興奮した行為があり、怒号を浴び、押し倒されそうになり髪が乱れた市長の姿は、ひたすら耐えているように見えた。怯えている人を脅しているような状況に、市長ご本人の見解や意見が見えてこない。平行線の対立的説明会となったため、閉会前に帰宅。その時も句会でのご婦人同様「ふざけるな」という言葉が飛び交っていたことを思い出す。


震災のあたり、ありのままの事実が多く詠まれた。

例えば、御中虫さんの『関揺れる』(2012年4月邑書林/茨城県土浦市で被災された関悦史さんのツイッターでのつぶやきを元に作句されている。)

モデルになった関悦史さんの震災詠も印象に残る。第一句集『60億本の回転する曲がった棒』(2011年11月邑書林)収録「うるはしき日々」より。

激震中ラジオが「明日は暖か」と 関悦史 
「母子手帳持参の方、水お頒けします」 〃

※参照【松岡正剛の千夜千冊】(


筑紫さんは、震災時の行動記録を句集に掲載した。(『我が時代』2004-2013/実業広報社)。


私は震災を機に東京の住居を引き払うことにした。
2011年7月だった。

七階より洗濯機出てゆく水無月尽    北川美美




(続)


2018年10月26日金曜日

【100号記念】思い出すことなど(1) I thank youありがとうあなた   北川美美

※サブタイトルを <I thank you ありがとうあなた> とした (2018.11.15)

100号。 

BLOG俳句新空間としてスタートした2014年10月17日に筑紫さんの<創刊について>掲載があり初心に戻ることが出来ありがたい。この日の俳句時評に外山一機さんと堀下翔さんの名前があり、現在は休載が続いているが俳句時評の筆者の皆さまの名前が躍動感をもって蘇ってきた。

思い起こすと、時評欄は、「詩客」当時の高山れおなさん選出のメンバーに声を掛け、承諾してくださったのが外山一機さんと湊圭史さんだった。

現在、外山一機といえば、“時評”というイメージがある。社会的事象あるいは事件と現行の俳句を結びつけ、創作の根底にある時代背景を記録する視線は今も変わらない。群馬県出身と伺っているので、上毛新聞記者から作家に転向した横山秀夫が少しタブる。俳句社会小説…が生まれてくるのか否か…。あくまで個人的妄想。

湊さんの時評にはトレンディ情報が盛り込まれ、将棋の電脳戦や英語俳句の回などが思い出される。ふと英語俳句からオノヨーコの人気詩集「grapefruits」を書棚から出してみて読み直す機会が持てた。オノヨーコの詩は俳句の音律が元になっているのかも、と気が付く。オノヨーコの80年代個展「踏絵」のときに作品に書が含まれ、それに関連して御本人が学習院時代に俳句を詠んだということを話されていた。私の中での湊さんはオタク感とオシャレ感の狭間をさわやかにゆくウィットに富んだ筆者像がある。

時評とは、筆者と読者のチャンネルが一致する時、面白いのだと思う。そのツボは狙ってハマるわけでもなくハマる。俳句や川柳の人の文章は、物を見るその視点が面白いのだろう。まぁいわゆる変な視点なのだろう…。

湊さんの後任をしばらく探していたところ、邑書林の島田牙城さんから高校生で書ける青年がいるという情報を頂き、連絡をとってみたのが、旭川から上京する前の堀下翔さんだった。高校生とどう接してよいのか緊張したことを思い出す。いろいろなやり取りの後、書いてみたい、という前向きな回答をいただき、大学生の俳句時評がはじまった。

堀下さんが大学一年生になった直後の2014年4月25日が初掲載だった。その後、堀下さんは石田波郷俳句賞の新人賞を受賞され、狛江にお祝いに出向きそこで初めて堀下さんと挨拶し、会場にいたたくさんの参加者は、現在”若手俳人”とテレビでお見かけしたりする。堀下さんは現在、大学を卒業されて研究課程にすすまれているようだ。

堀下さんが時評を書く二あたり質問をした先輩に外山一機さんと松本てふ子さんがいらしたらしい(とお二人に伺った)。時評師弟関係ともいえ素直に質問できる純心な素質が堀下さんにはあるのだろう。時評には堀下さんの洞察眼ともいえるスナイパーさとそれにともなう研究心が伺える。特に文法を踏まえた読みは信頼が持て、末は俳文学者なのか…と堀下さんの創成期に当時評欄で活躍していただいたことが読者の皆様の記憶の中に残るといいなと思う。ご本人所属の同人誌「里」での俳句時評は一冊にまとまるらしい。おめでとうございます。

そして、外山さんの後に、登場していただいたのが柳本々々さんだ。柳本さんは兎に角、文章が淀みなく湧き出てくる。ツイッターを通してあるいは葉書などに絵を描かれて送ってくださったりする。柳本さんの文体あるいは絵からなのか、私の中では、文章を読み始めると水森亜土的なわくわく楽しい世界が広がる。柳本さんは、ご自身が命名された<短詩時評>、そして<およそ日刊俳句新空間>を場として気に入っていただけたようで、それはもう沢山書いて頂きました。いまでも楽しく拝見しています。

俳句が俎板に乗る”評”…という目で読まれる時評ゆえに書き手に緊張が伴う。

執筆者の皆様のご尽力に感謝申し上げます。
そしてたまに俳句新空間を思い出していただけるとありがたいです。

※各執筆者の名前でタグ検索するとその執筆者の記事が読めます。