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2016年5月27日金曜日

【書簡】  評論、批評、時評とは何か?、 字余論、 芸術から俳句へ


収納しておきます。 (とりあえず)

  •  字余りを通じて、日本の中心で俳句を叫ぶ中西夕紀×筑紫磐井  掲載は、こちら 
  •  評論・批評・時評とは何か?…堀下翔×筑紫磐井 掲載はこちら
  • 芸術から俳句へ 仮屋賢一×筑紫磐井  掲載は、こちら

2016年2月19日金曜日

評論・批評・時評とは何か?――堀下、筑紫そして・・・その14…筑紫磐井



筑紫:

①山頭火的手法

話が花尻氏から離れて行きますが、ご質問の前半について言えば、私は、山頭火の言葉の処理の仕方に興味を持ったという方が適切でしょう。その意味では、「沈黙」でも、「音」でも、余り変わりはないと思っています。

正直に言えば、注目したかったのは、「古池や」を切り、「蛙」を切り、「とびこむ」を切り、「水の」を切ることであり、「音」が残るかどうかはあまり関心がありませんでした。この方式でやれば「音」が消えてもおかしくはないかもしれません(「沈黙」の一歩手前が「音」ですから)。これは私の創造だと思います。ちょっと屁理屈めいて聞こえるかもしれませんが、正直、山頭火の結論が正しいとは思っていないからなのです。

そもそも、山頭火が「音」の句と言ったとして、あるいは私が理解した「沈黙」と言っても、芭蕉自身がそれらに納得するとも思えません。両方とも、それぞれが描く芭蕉のイメージに合わせた仮説に過ぎませんから。

私が思うのに、山頭火が、芭蕉の句(古池や蛙とびこむ水の音)を「音」の句と言ったとしても、偶然この句を取りあげたから音の句になったようにも思えますが、別の句を取り上げれば、また別の「?」の句になるわけです。例えば、


白扇やあるかなきかの水の色  長谷川櫂

長谷川櫂氏の最新句集『沖縄』(2015年9月16日青磁社刊)の一句ですが、なかなかいい句です。この句の分析を山頭火の処理方式でやることは不可能ではないと思います。


白扇やあるかなきかの水の色 
―――あるかなきかの水の色 
――――――――――水の色 
――――――――――――色

その結果は、「色」となるわけです。もちろん、作者が言ってもいないことを演繹するのはおかしいという批判もあるでしょうが、成り立たない論理ではないからです。そして、こちらの方が少しましだと思うのは、山頭火に、

――――――――――音

という句はありませんが、「色」には、歴とした、


いろ   青木此君楼

という句があるからです。これはすでに前回述べていますね(「BLOG俳句新空間」2015年9月18日「評論・批評・時評とは何か?――堀下、筑紫そして・・・その12」筑紫磐井、11月27日「字余りを通じて、日本の中心で俳句を叫ぶ(その1)」中西夕紀・筑紫磐井)。

だから花尻万博氏の句を取りあげて言いたかった点は、何かが残ったというよりは、山頭火と逆のプロセスでありますが、追加削除を繰り返すことによる俳句の分析法があり、自由律という考え方さえ許容すれば、その過程で生まれる作品の価値を無視できないということなのです。


②消費的傾向

『関西俳句なう』について、「消費的」と言う批評が余り批判を受けなかったのは幸いでした。どうも的確に表現できているかどうか分からなかったからです。まあ、ただ、堀下さんとの対談ではしばらくこの言葉を使っておくことにしましょう。問題があればまた新しい言葉を考えます。

問題は、「消費的傾向」と対比した「自己規律的表現」が判らないと指摘されています。これも適切かどうかはありますが頭の中にはこんな考えがあります。これは現状と言うよりは、比喩的ではありますが過去の例から見て頂くと多少意味するところも分かるでしょうか。

昔、内藤鳴雪と言う俳人がいました。松山藩士で子規が東京の松山藩の寮に在籍したときの寮監を勤めていたのです、当然子規よりはるかに年上ですが、その後子規に俳句入門し高弟として遇されました。古風な作家で、句会で俳句に「武者一騎」と入れると必ず取ってくれたということを水原秋桜子が語っています。

これほどはっきりはしていませんが、能村登四郎も言葉の偏りがあり、特に「白地」などという季語は、自ら好んで使うだけでなく、登四郎が主宰をしていた「沖」の句会や雑詠で頻繁に登場していました。作った若い会員が、白地を着たり、知っていたとも思えないのですが、盛んに登場していました。

単に作者の言葉の趣味が、結社に乗り移っただけのようにも思いますが、結社と言う共同体が存在することによって生まれる独特の表現であると思っています。これを「規律的表現」と考えました。結社によりけりですが、求心力の強い、つまり優れた作家が主宰する結社ではこうした「規律的表現」が発達します。規律的表現を習得して行くことが俳句修行の一つになって行くことさえあります。「沖」や「鷹」ではそうした傾向が強かったのではないかと一方的に思っていますが、案外俳句結社全体に共通していることかもしれません。

規律的表現は結社に由来するものですが、これを是とし、俳句全般の方法論として深める場合、「自己規律的表現」となって行くと思います。結社を超越して、作家自身がある理念や価値判断のもとで求心力を持って作品を発展させる際の特徴です。その特徴は、排他的表現となることであり、むしろ求道的な傾向を帯びてきます。言っておきますが、これは傾向と言うより態度だといった方が正しいかもしれません。

こうなってくると、「自己規律的表現」は「消費的傾向」と明らかに違ったものとなってくるように思います。私が、前の論で言ったのはこんなことでした。

私は戦後生まれ作家の多くは、「自己規律的表現」を持っていたか、そこを通過した作家ではないかと言う気がしているのです。もちろん、様々ですからこれに当てはまらない作家もたくさんいます。しかし、私の同世代を見るとこうした人たちがたくさんいて(隣で私と対談している中西夕紀さんなどもそうで)、私自身もある時期は、「自己規律的」であったことは間違いないと思います。

これに対して、『関西俳句なう』はこうした「自己規律的」な感じをあまり受けませんでした。あるいは、旧世代の「自己規律」とは別種の新しい「自己規律」を持っているのかもしれませんが、それならばそれで比較対照するのに有効な材料だと思います。

私は、「自己規律的表現」の由来するものは、結社と言う存在ではないか(結社にいる人が必ずしもすべて自己規律的になり、そうでないとならないというわけではありませんが)と言う気がするので、それはそれで社会学的にも面白い現象だと思います。

余計なことを言いますが、私と対談している堀下さん自身は、どちらかと言えば新世代でありながら「自己規律的」なのではないかと思っていますが、ご本人がそうでないと言われればそれはそれで再考致します。

     *

話を展開するために一言言うと、「時代の空気感」はいいですね。「クプラス」の座談会よりはるかに本質をついている言葉だと思います。社会性俳句は社会性俳句時代の「時代の空気感」、前衛俳句時代は前衛俳句時代の「時代の空気感」、龍太や澄雄により復活し始めた伝統俳句復活の時代はその時代の「時代の空気感」があったと思います。それは、読まれた作品の内容や意味とは少し違うものであると思います。私が俳句を始めたころの意識は、龍太、草間時彦、能村登四郎などが匂わせた「時代の空気感」を感じ、その結果、「沖」という結社に入ってみたのですが、3人は共通の「時代の空気感」を漂わせていたように思います。

よく喫茶店でボーっとしていることがありますが、頭の後ろで、いろいろな会話が飛び交っています。若い男女が長い話の中で少しとげとげしくなり、女性が「キライ!」と言ったりします。これは決して「I hate you!」ではないと思います。「好きなのに・・・」という一種の空気感が漂っていることを感じないと状況は理解できません。だからこそ、仲良く喫茶店を出て行くのです。残された私も、少し幸福感に包まれています。

これが何なのかは難しいところがありますが、空気感は論理ではないだろうと思います。ある単語への関心、論理矛盾や韜晦、ナンセンスさまざまなものがないまぜになっています。こうしたものを感じ取ることが、とりわけ消費的傾向の鑑賞には必要に思えます。

関西俳句なうで注目した人に手嶋まりやがいますが、

炎天に傾くボトルシップかな
春コート着て淋しいと誰に言おう
白椿人は静かに会釈をし

などには、私は他の作家に比べて「時代の空気感」を強く感じてしまったものです。ただ堀下さんの論を読んでいると、これは私が感じた「時代の空気感」であって――例えば私が30年以上前に龍太や登四郎、時彦に感じた時代の空気感であって――現代の「時代の空気感」ではないのかな、等と迷ってきます。ご意見をいただければありがたいです。



2015年12月25日金曜日

評論・批評・時評とは何か?――堀下、筑紫そして・・・その13…堀下翔



堀下:

ちょっと間が空いてしまったので、前回までの話を確認してみますが、まず花尻万博氏の「鬼」50句についてのことがありました。

柊や 街
祀られ鬼
言の間虎落笛する

といった、定型を大きく外れた50句に対して、僕はこれが詩型融合の作品に似ていることを指摘し、また、そのことが、行間の緊張がきわめて弱く、一行の独立性をあやうくしているのではないか、という印象を述べました。

いっぽう磐井さんは、これを〈自由律〉と〈連作〉という二つの視点で説明されました。形式を突き詰めた結果の産物なのではなく、世界最短の詩を確立させたい、という作家意識がもたらしたのがこの『鬼』であること。〈連作〉は、必ずしも作者がはじめに構成したとおりには読者のもとに届いていない、すなわち、不定形なものであること。この二点が、おおまかな磐井さんのお話でした。後者の話をもっと具体的に思い出してみますと、誓子の例が出てきました。句集に5句の連作として収録されている「蟲界變」が、「ホトトギス」初出時には、虚子選を経た4句であった、というくだりです。〈五句を限度とするホトトギスの雑詠欄に投吟する場合には、その規約に基づいて、一聯数句の連作俳句を、一聯五句の連作俳句に構成し直さねばならない〉という誓子の発言は、まさに、連作に行間の緊張が必ずしも求められないことの証左ですね。誓子はこの問題を、一句の完成度で解決しようとしていて、結局この課題は、古今、『鬼』に至るまでの多くの作品が、結局クリアしきれていない部分だと思いますが、さておき、行間の緊張と一句の独立性とは、決して必要条件として結ばれているものではない、ということが分かりました。ありがとうございます。

それから、山頭火の文章、ようやっと確認しました。『其中日記』昭和13年10月4日の記事ですね。以下の引用は『山頭火全集』第9巻(春陽堂書店/1987)より。

よい句はよい人からのみ生れる(よい人とは必ずしも道徳的人物を意味しない)、人間として磨かれ練られてゐなければならない。

作りつゝ味はひつゝ、――制作と鑑賞とは両翼の如し。

句は飽くまで推敲すべし、一句に拘泥するは非。

古池や蛙とびこむ水の音
―――蛙とびこむ水の音
――――――――水の音
――――――――――音

芭蕉翁は聴覚型の詩人、音の世界

なにせ日記なので断片的だし、文脈も判然としていないのですが、この日の日記が、引用部分の前からずっと、「よい句」とは何かということについて雑然とメモしている点から判断して、まず芭蕉の〈古池や蛙とびこむ水の音〉が「よい句」であり、そのよさの中核が「音」にある、ということを山頭火は言っているのでしょう。同じ放浪の詩人として芭蕉に心を寄せていた山頭火が、「よい句」のことを考えていたときに不意に思い出した句が〈古池や蛙とびこむ水の音〉だったのは、いかにもなるほど、の感があります。

磐井さんはこの山頭火の日記の記事を読まれ、古池の句に山頭火が見出したのは〈俳句の本質は沈黙にある〉ということだったとお考えになったようですが、ほんとうに山頭火はこの句に何も残っていないと思ったのでしょうか。むしろ、〈古池や蛙とびこむ水の音〉を何度も何度も洗い出してみて最後に残った〈音〉という言葉の存在感を山頭火は大切にしたいと思ったのではないでしょうか。

この〈音〉と花尻万博の〈小火と蛾〉とが、導き出される手順こそ逆であれ、作者にとって同質の言葉であるのには、異論はありません。言葉を足し、再構成して、〈小火と蛾〉が十七音の俳句になったとしても、その詩情の中核にあるのは依然として〈小火と蛾〉でしょう。でも、その前後の二つの句が、どうしてまったく同じ作品でしょうか。〈音〉はたしかに〈古池や蛙とびこむ水の音〉の中核でしょうが、けっして〈古池や蛙とびこむ水の音〉と同じ句であるわけはありません。〈音〉に凝縮された作者の手ごたえを、〈古池や蛙とびこむ水の音〉に展開、再構成する作業こそが必要です。花尻万博「鬼」に覚える一行のおぼつかなさは、そういった作業を経ていない点にあると思います。そして、その作業は、作者自身の手になされるべきものでしょう。書くことの責任が作家にはありますから。

もう一つ、『関西俳句なう』の話もしていましたね。

磐井さんはここに収録された26名の作家を〈消費的傾向を維持しながら、多義的に見ると自己規律的表現も実現している〉と特徴づけられていました。自己規律的表現、というのが具体的にどういうことなのか、もう少し説明していただきたいのですが、もう一方、消費的であるというのは、僕も、ひしひしと、そして悲痛に感じていた部分です。収められた作家は、半分が「船団」所属であることを抜きにすれば、ほかは「樫」「いつき組」「火星」「晨」「草蔵」「花組」「百鳥」「運河」「狩」「円虹」と多様で、伝統俳句に身を置いている場合も多いのです。それぞれが違う場所で書きながら、ある種のトーンの統一をもって、耐久性のない書き方をしているので、これが時代の空気感なのか、と思わざるを得ません。

耐久性がない、ということの内実もいろいろあって、意味に偏重していたり、句のすがたが似通っていたり、などがそれですが、そのうちの一つに、一句の消費性が、着想の段階から見られる、ということがあるのではないでしょうか。

たとえば、この句などを見てみますと、その成り立ちが既存の時代性の消費にあるというのが分かります。

この声も山寺宏一かき氷 黒岩徳将 
夏休み終わる!象に踏まれに行こう! 山本たくや 
不揃いのビー玉背の順にして、夏。 舩井春奈

黒岩の句は、声優の山寺宏一(1961-)が、業界のオールラウンダーとしてしばしば取り沙汰されることをうたった句です。山寺といえば1990年代以降、多様な声を演じ分けられる人気声優として、アニメ・洋画を問わず同時代の声優の中で突出した出演本数をほこる人物です。この人を傑士と思わせる伝説めいたエピソードがファンの間ではしばしば語られています。同じ作品の中で複数の役が山寺ひとりに割り振られ、まったく違う声質で演じきったといったものがそれです。有名なところでは、リメイク版『ヤッターマン』(日本テレビ/2008放送)において、ナレーションのほか、何種類もいるメカキャラクターを一人で担当したエピソードなどが語り草になっています。だから〈この声も山寺宏一〉というフレーズを聞くと、アニメファンは大喜びなんです。でも、この句が読者に与える喜びは、詩情というよりも、お笑いの「あるある」ネタですよね。すでに流布している、世代に共有のノリを定型に当てはめている。時代を消費することで一句がなっています。

山本の句だって同じだと思うんです。〈象〉と〈踏む〉といえばサンスター文具が1960年代に放送していた「象が踏んでも壊れない」という筆入のテレビCMがすぐに想起されます。もちろんこれだけでそのCMに結び付けるのは乱暴ですが、この句はさらに〈夏休み〉と取り合わされているので、いよいよ夏という季節の少年性が、筆入のイメージを喚起するでしょう。1988年生まれの山本が過ごした1990-2000年代という時代において、ノスタルジーの対象になったのは、ちょうど彼の親世代にあたる世代にとっての幼少・少年時代ですから、山本の時代のテレビには、ひどく画質のわるい往時のテレビCMが、なつかしの、などと冠されてふたたび映し出されていました。仮にこの句がそのCMを出発点にしていなかったとしても、山本が俳句を書いている時代にあって、〈象〉と〈踏む〉と〈夏休み〉とが癒着した文化的土壌が成立している、というのは言い過ぎでしょうか。この句が〈行こう!〉という勧誘の形で終わっていることも、〈象に踏まれ〉ることの意味性が、この句の書き手と受け取り手との間に共有されていることの暗示である気がしてなりません。とかく、この山本の句を読んでも、分かりすぎてしまう、という印象を受けます。

舩井の句も、もっと説明が難しいのですが、やはり「不揃い」「ビー玉」「背の順」という語彙が「夏」の青春性を基軸に、それぞれ既存の結びつきを以て一句に組み込まれているのではないでしょうか。この句を、ビー玉を並べることの無為性から青春のけだるさを感じるといった、言葉通りの受け取り方をするとして、でもこの情感は、二十一世紀の俳句が書く以前に、J-POPや、テレビCMや、テレビドラマなどで、いくたびも比喩的に挿入されてきたものなのではないか。たとえば、このある種陳腐な情感をういういしく扱おうとするときに、〈不揃い〉なんて言葉を使ってしまったら、どうしたって『ふぞろいの林檎たち』(TBS/1983放送)のタイトルが頭をもたげるし、さらには、このドラマが典型化した結果、『男女7人夏物語』(TBS/1986放送)といった青春群像劇が多作され、それが1990年代の〈月9〉的世界観(『東京ラブストーリー』(フジテレビ/1991放送)etc…)をバックボーンにする恋愛至上主義へと繋がっていく時代の空気感なども思われ、〈不揃いのビー玉背の順にして、夏。〉という句じたいが、そういった空気感に回収されてゆくのではないか、と、そう思うのです。

三句とも、うまく説明できそうな句を恣意的に選んだきらいはありますが、説明し尽くせるかどうかに限らず、『関西俳句なう』には、このような世代が共有する既存の情感を俳句という詩形において再生するという書き方が通底している、それが僕の感想です。

2015年10月2日金曜日

2015年9月18日金曜日

評論・批評・時評とは何か?――堀下、筑紫そして・・・その12…筑紫磐井



筑紫:この作品(「鬼」)は私が花尻氏に依頼したものですが、花尻氏に依頼した趣旨は、詩(自由詩と言う形式)と定型詩である短歌・俳句は違うものであるという既成概念を、むしろ混乱させることを期待したものです。同時連載した他の2人(小津、竹岡氏)には、花尻氏の後行作品であることもありこうした依頼はしませんでした。花尻氏の作品を見た上で、その評価も兼ねてお二人の独自の主張がにじみ出た作品が発表されるだろうと思ったからです。

ちなみに、「鬼」は、表題の「俳人の定型意識を超越する句」と、文末の《五十句》の言葉から、辛うじて五十句の独立した俳句であることを示すだろうと思っていますが、これらも作者の韜晦した表記と考えればあやふやとなります。その意味で「これは何なのだろうか」と言う森川発言は至極まともな質問のように見えますが、実は俳句と言う定型詩が繁栄を続ける特殊な日本と言う共同体で生まれる疑問であって、普遍的な疑問であるとは思いません。

日本の詩には、自由詩と定型詩があって、定型詩には短歌(五七五七七形式)と俳句(五七五形式)があり、さらに俳句と似たものに川柳と自由律俳句があるという町内見取り図が我々の頭にはあります。しかし、それが絶対的に正しいというわけでもありません。よく言われる「俳句は詩である」という言葉が真実であるなら、こんなこまごまとした見取り図は不要なわけで、言葉としてのみ評価すればよいわけです。

    *

読み方が判らないといわれます。それはもっともです。たぶんこんな読み方があると思われます。


①50行全体で1つの作品と見る。長編詩であり、長編小説である。「融合」でしょうか。
②かつての連作と言う形式で、1行は1句であるが、なお全体として1つの作品として鑑賞すべきもの。
③それぞればらばらの1句(1作品)である。

作者の意図は、前述の理由で③であると推測はできますが、しかし①と誤解される③、②と誤解される③であることを楽しんでいるかもしれません。作者はもはや一つの意思を伝えるわけではなく、むしろこんな当惑・誤解を期待すると言ってもよいでしょう。

     *

わたしは「鬼」は内容を鑑賞する作品である以上に、詩とは何か、俳句とは何かを問題提起するテクストであると考えています。例えば、「行間の緊張も弱い」と言われていますけれど、伝統俳句も連句も「緊張の弱い」のが特徴です。現代詩の行間の認識(強弱)とは異なる文芸原理はいくらでもあるのです。

(花尻氏には申し訳ないが、伝統作家の期待するような)優れた作品美しい作品を依頼したのではない、驚かしてほしいということ――まさに「鬼的」な作品を期待していたわけです。おそらくそれは感性で受け取らず、知的に受け止められることによって目的が達せられるのでしょう。

あるいは、確かに、「鬼」はテーマ性に拠りすぎているようにも見えます。全体のテーマが鬼だし、50句の中に頻繁に鬼と鬼を連想する素材もしきりに出てきます。依頼した私も、独立性が強い方がいいと考えていましたが、しかし、全体としてどのような戦略をとるかはこんな独断的な活動をする以上、比較する同行者もいないわけで、やったもの勝ちの世界ではないかと思います。

再度言っておきますが美しく調和のとれた作品を期待しているのではなくて、俳句は何であるかを深く考えさせてくれる作品なのです。詩的に十分満足する作品が必要であれば、花尻氏につぐ2番手、3番手の作家が挑戦してみればよいことです。その意味で、花尻作品ははっきりした目的をもっていたと思っています。

     *

花尻作品を読むに当たってのキーワードを二つ挙げてみます。

①自由律
花尻作品には、寄り添う二つの軸があると思われます。一つは、575の定型を極端に離れていること、言ってみれば自由律俳句であるのですが、自由律作家がある限り花尻氏の試みはそれほど革命的ではありません。私が言っているのは、山頭火、方哉などを言っているのではなく、

 陽に病む 大橋裸木
のような作品です。先日、船団のシンポジウムに参加し、坪内、仁平氏と語りあいましたが、坪内氏の話では、青木此君楼には次のような作品があるそうです。

 いろ   青木此君楼
世界最短とはこの作品のことを言うのでしょう。裸木や此君楼には、形式を突き詰めていった末の美意識と言うよりは、世界最短の詩としてのジャンルを確立させたいという意識が強かったのではないかと思われます。

これが作品としてどのように評価されるかは別として、私はこう言う意識(ジャンル意識)はぎらぎらとしていいと思います。それこそ、文学はとは何か、という問題意識を刺激してくれるからです。


②連作

もう一つの軸は連作です。その前に言っておけば、我々は「連作」と言う枠組みを安易に秋桜子や誓子、新興俳句の枠組みの中で考えてしまいすぎているようです。しかし連作と言う考え方はいろいろな歴史を負っているはずです。正岡子規は、俳句において連作を提案していませんが、短歌において連作を実施しています。複数の作品を詠むことを「複合作品」と仮りに呼べば、俳句における当初の「複合作品」は公表を期待していない句会における「一題10句」がそれに相当するでしょう。出された10句の内から数句が選ばれて子規の正式の作品として公表され、認知され、批評するのです。作者によって10句から絞り込まれます。

一方、短歌における「複合作品」は、歌会を経ないで10首の作品がそのまま公表され、認知され、批評されるののです。読者は絞り込んでも作者は絞り込みません。

子規は俳句と短歌でこの二つの「複合作品」を使い分けています。

  塀低き田舎の家や葉鶏頭 
  鶏頭に車引入るゝごみや哉 
  鶏頭の花にとまりしばつたかな 
  朝顔の枯れし垣根や葉鶏頭 
  葉鶏頭(かまつか)の錦を照す夕日哉 
  鶏頭や二度の野分に恙なし 
  萩刈て鶏頭の庭となりにけり 
  誰か植えしともなき路次の鶏頭や 
  鶏頭の十四五本もありぬべし

明治33年9月9日、根岸にある正岡子規の家に弟子たちが集まり、句会を行います。この運座は「一題十句」で行われ(当時の句会は99%題詠でした。雑詠の句会の記録はほとんどありません)、この時は「鶏頭」の題で、三十分ほどの間に各人は十句を詠みあげました(子規に九句しかないのは時間が足りなく一句不足で時間切れとなってしまったせいでしょう)。

この句会のことは現在では殆ど忘れられていますが、この句会で披露された一句(鶏頭の十四五本もありぬべし)が子規一代を代表する名句となったと言われます。だから、「一題十句」は子規が俳句というジャンルでもっともよく使った「複合作品」の形式であることになります(ちなみに「一題十句」は蕪村の句作を参考にして子規たちが作り出した明治のオリジナルな様式と考えられます)。

ところで、子規は、明治31年ころより従来の「句会」を発展させて「歌会」を開催しました。だから歌会のモデルとなったのは句会であり、題詠(季題に限られません)によって実施しました。ところが歌人たちは、研究が進むに従い、歌と俳句はその詩型が異なるだけでなく、性格も根本から異なり、趣味も一致しないことに気づき、十首歌から連作を創りだしたのです。

子規自身の連作短歌が最初に試みられたのが明治33年です。俳句「一題十句」と短歌の連作が異なるのは、俳句の一題十句は句会に投稿されるのが十句であり、全句公表を前提としていなかった(その一部を公表されることはあった)わけですが、連作はすべて公表したことにあります。次の「複合作品」は子規の有名な作品を含みますが、「日本」に34年に全歌公表された十首です。

  瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり 
  瓶にさす藤の花ぶさ一房はかさねし書の上に垂れたり 
  藤なみの花をし見れば奈良のみかど京のみかどの昔こひしも 
  藤なみの花をし見れば紫の絵の具取り出で写さんと思ふ 
  藤なみの花の紫絵にかかばこき紫にかくべかりけり 
  瓶にさす藤の花ぶさ花垂れて病の牀に春暮れんとす 
  去年の春亀戸に藤を見しことを今藤を見て思ひいでつも 
  くれなゐの牡丹の花にさきだちて藤の紫咲きいでにけり 
  この藤は早く咲きたり亀井戸の藤咲かまくは十日まり後 
  八入折の酒にひたせばしをれたる藤なみの花よみがへり咲く

題詠と連作の関係は、新興俳句時代にも手がかりを残しています。

昭和4年4月の東大俳句会の兼題は「行春」でしたが、この時、水原秋桜子は、次の句を出しています。

  行春やほのぼののこる浄土の図 
  行春の光背のみぞ照り給ふ

そしてこの句が、昭和の金字塔とされる『葛飾』の巻尾を飾る連作「古き芸術を詠む」となるのです。

  金色の仏ぞおはす蕨かな 
  行春やほのぼののこる浄土の図 
  行春のただ照り給ふ厨子の中 
  とある門くづれて居るに馬酔木かな

当時最も革新的であった連作俳句が、実は「行春」という古い兼題の題詠で詠まれた作品であったのです。

山口誓子も、句集で、「蟲界變」と名付けた連作を発表しています。

蟷螂の蜂を待つなる社殿かな 
蟷螂の鋏ゆるめず蜂を食む○ 
蜂舐る舌やすめずに蟷螂(いぼむしり)○ 
かりかりと蟷螂蜂の貌を食む○ 
蟷螂が曳きずる翅の襤褸かな○

しかしこれは、実は昭和7年にホトトギス雑詠で巻頭を得た句でした。「かりかり」の句は決して自然の忠実な描写ではなく、蟷螂という題なくしては生まれない題詠作品であったのです。また、連作の構成と選の関係についても、誓子はこんなことを言っています。


「五句を限度とするホトトギスの雑詠欄に投吟する場合には、その規約に基づいて、一聯数句の連作俳句を、一聯五句の連作俳句に構成し直さねばならない。連作俳句が、相互に、緊密に、腕を組んでいるスクラムは、必ずしも絶対のものではない。(ラグビーのスクラムが、セヴン式にもなり、エイト式にもなるのと同断である。)/このことは、制度上寔に遺憾であるが、已むを得ないことである。」

「「五句中一句だけを削られる」ということは、その作者が未熟であった為に然るのであって、それは作者が当然負うべき譴責である。/然しながら、そのことはただちに連作俳句そのものの受けた致命傷ではない。それは単に連作俳句に於ける「個」の蒙った致命傷であるに過ぎない。/脆弱な「個」の上に、構成された連作俳句がたちどころに崩壊することは何等不思議な現象ではない。/私は連作俳句が「全」としてそっくりそのまま認められんことを理想とする。/ところが、その理想が常に必ずしも、容易くかなえられないのは、単なる雑詠の五句が、五句とも入選することの困難であることからしても、凡そ察知せらるることである。/問題は一に「個」の完成に繋ってゐる。」

重ねて言いますが、どんな理屈を誓子がつけようと、「蟲界變」は当初連作5句であった(あるいはもっと多かったかもしれません)ものが、虚子によって削除された(○印が虚子選で残った句です)ことによって雑詠巻頭として広く知られ、ついに「かりかりと蟷螂蜂の貌を食む」の1句として後世に立つことになった、一種の奇形の作品であったということができるでしょう。

つまり、我々が連作と思っているものは、時々刻々変化している、必ずしも形のない「複合作品」であったのです。

花尻作品はこんなことを考えさせてくれるいいヒントであったのです。


【補注1】

力点が俳句は何であるかを考えると言う方に移ってしまったので、あたかもそちらばかりに花尻作品の目的があるような主張になってしまい、花尻氏には不満かもしれません。ただ、これは

鴨 南北(こゑする)
比喩、花か

をどのように添削するかを基準に考えてみるといいと思います。添削のしようがなければ、この句に関しては「究極」と言うよりしょうがないのだと思います。

【補注2】

前号の山頭火の「古池」メモは『其中日記』昭和13年10月にあります。なくなる2年前のことです。

2015年9月4日金曜日

評論・批評・時評とは何か?――堀下、筑紫そして・・・その11 …筑紫磐井と堀下翔



堀下:『関西俳句なう』(本阿弥書店/2015)については僕も思う所がたくさんあるのでぜひお話ししたいです。再読して磐井さんからの次のお手紙を待っておきます。それから前回掲出の堀下リストについてですが、あれは「俳コレ」の最年少小野あらた(1993年生)を基準にしてそれに間に合わなかった人間を数えたもので、黒岩徳将(1990年生)山本たくや(1988年生)の名前は「ふらここ」の大学卒業メンバーとして参考程度に挙げていますが、リストに入っているというものではありません。そのあたりは先に申し上げておきます。あのリストは要するに、自分たちはアンソロジーに入りようがなかったというもどかしさを抱えている世代を列挙したものです。「新撰」シリーズを読んで育ち、かつ、もし企画さえあれば自分だって入ったんだ、というくすぶった思いを胸に秘めているのがこの世代でしょう。自分がそうですから。

さて花尻万博「鬼」の話に移りましょう。はじめこの「俳人には書けない詩人の1行詩 俳人の定型意識を超越する句」という企画を目にしたとき、僕がまず感じたのは、これもまた“詩型の越境”の作品だろうか、ということでした。

「現代詩手帖」が「詩型の越境――新しい時代の詩のために」という特集を組んで現代詩、短歌、俳句の三詩形にスポットを当てたのは2013年9月号のことです。この特集を読むと「詩型の越境」の問題がいかに混迷を極めているかがよく分かります。この号では「詩型の越境」が二つの意味で用いられているのです。作品を発表している作家を見てみましょう。

高橋睦郎(融合)
中家菜津子(融合)
渡辺松男(短歌)
横山未来子(短歌)
斉藤斎藤(短歌)
兵庫ユカ(短歌)
永井祐(短歌)
安井浩司(俳句)
竹中宏(俳句)
高山れおな(俳句)
御中虫(俳句)
福田若之(俳句)

「融合」というのはいわゆる詩歌トライアスロンなどと呼ばれるもので、現代詩、短歌、俳句を1作品の中に織り込みます。それに対して他の10人はそれぞれの本領の詩型で新作を書き下ろしています。各詩型のなかで高く革新的な表現レベルで書いている作家を集めたということでしょう。そうした作品が現代詩に接近するということは往々にしてあることで、この場合はそれをして「詩型の越境」と言っています。異なる「詩型の越境」が同居しているのです。もっとも、短歌や俳句の一行が現代詩に接近しているのだとしたら、「融合」とそれ以外を分かつことにさほどの意味はなくなるのかもしれませんが、現実には三詩型の読者を余さず満足させる「融合」の書き手はまだほとんど現われていません。

2013年ごろはシンポジウムも開かれたりして特にこの話題が活発に取り沙汰されていた時期です。そのご若干の沈静化に向かっていますが、「現代詩手帖」の特集にも掲載されていた若手の中家菜津子が、このときの融合作品を収めた『うずく、まる』(書肆侃侃房/新鋭短歌シリーズ23/2015)という歌集を出すなど、ここを目指す作家はいまもこつこつと書いています。そこへ「俳人には書けない詩人の1行詩 俳人の定型意識を超越する句」という企画が出てきたわけです。

「鬼」を読んだとき、僕はうかつにも、これを詩型融合の作品だと錯覚してしまいました。その理由はいくつかあります。一つ目には、一句があまりにも短律である、ということ。一連目を見てみましょう(書いてみて思ったのですが、この句群を思わずも「連」と呼ばざるを得ない事態もまた、「鬼」が詩型融合の作品とよく似ていることを示唆していますね)。

柊や 街
祀られ鬼
言の間虎落笛する
鬼と災ふ
出口 街の川
鬼の衣冷た
塔婆、ビル日向
鉄の霊区まち
鬼 八方向交差点
街に鬼
吾の手か手袋の中動き出す

まさかこれが短律の作品だとは知らないのです。花尻万博が俳句作家であるという前提で読み始めると、僕はこれを575のリズムでどうにか読もうと試行錯誤することになります。一行目の〈柊や 街〉というのは、上五に当るわけです。ヒイラギヤマチ、というのは七音ですが、ふつうの俳句もこれくらいの字余りは日常茶飯のことですから気になりません。そうすると、二行目の〈祀られ鬼〉が中七になるのかなと見当をつけます。ただしこれは字足らずです。とすればもしかしたら一行目の〈柊や 街〉の〈街〉は中七のほうで読むのかと考えます。そうすれば一字アケの効果も見えやすい。三行目の〈言の間虎落笛する〉が破調の甚だしい下五です。僕はこの三行を〈柊や 街/祀られ鬼/言の間虎落笛する〉という多行俳句だと思ったのです。そして、それぞれの俳句と俳句との間に行アケがなく、どこからどこまでが一句なのか分からない作りが、この「鬼」という作品の狙いなのだ、と。一句一句が有機的に結びつくことによって、新しい一句が無数に生れ、最終的には最初の一行と最後の一行はひとつの作品に内包されてしまう。その姿かたちは現代詩です。はじめこれを「詩型の越境」だと錯覚したというのはこのことです。

読み進めていくうちに、どうもおかしい、どうやらこれは一行で一句らしいと気が付きましたが、読者がこれを多行俳句であり融合作品であると思ってしまうのは無理のないことではないでしょうか。理由は他にもあります。森川雅美さんが指摘している点です。森川さんは7/12の「詩客」に「「定型」とはますます分からなくなってくる」と題して本企画から生まれた作品についての見解を述べています。「鬼」についての記述は以下の通りです。

これは何なのだろうか。少しきつい言い方だが、どこが途切れかもわからずだらだらと続き、しかも行間の緊張も弱い。俳人が見ればまた違うのだろうが、正直なところ「あくまで定型を外れた」としか私には読めない。

行間の緊張が弱い。これこそ「鬼」についてのもっとも適切な指摘ではないでしょうか。〈鬼〉〈街〉〈虎〉〈旧都〉〈虹〉といったモチーフの反復は一句の独立性を危うくさせています。かつ、それらのモチーフどうしもまた、微妙に接点を持っています。荒俣宏や小野不由美の小説に出てきそうな、と言ったらすこし乱暴ですが、いずれも前時代の都市を伝奇的に彩る単語です。全行を通読したら何らかの物語が生まれてしまうのではないでしょうか。

また、〈こゑする〉というルビが執拗に繰り返されることも、一行どうしを結び付けてしまう要因です。

かつて新興俳句運動の初期において「連作」が問題になったときと同様に、一句(「一行」と呼んだ方が僕の立場からすれば正確ですが)の独立性が低いという指摘を、ここではしなければならないと思います。

ですから、「鬼」の一句一句に、正直なところ僕はいまいちノりきれていませんでした。

そのうえで、磐井さんの展開する読みには、うなずけるところがたくさんあります。ことに、

「音」から出発させて、「古池や蛙とびこむ水の音」へたどりつく道筋を花尻は示してみよ、と言っているのです。

の指摘にはなるほどと思いました。話に出てきた山頭火の文章と比較して考えてみる必要がありそうです。自分で確認してみたいので、山頭火の出典をご教示いただけると嬉しいです。


筑紫:原稿がそれぞれギリギリに届いたり、でき上ったりするものですから、話題がうまくかみ合わなくなり、今回の堀下さんの花尻作品についてのご返事は次回以降になるかと思います(実際、この文章は上に書かれている堀下さんの文章の前に書かれ、その後堀下さんの文章が届いたものですから最低限の手直しをしているわけです)。

一方、前回取り上げたいと申し上げた『関西俳句なう』については、実は「俳句四季」9月号に少し書いてみているのでこれをご覧いただきたいと思います。当月の全文を引くのは出版元に対して気が引くので、出版元の了解を得て前半だけを引用することにしました。或る程度私の感想がうかがえるかと思います。続きがあるのですが、話がつながれば続きも転載してみたいと思います。
なお、雑誌の転載なので、である調になって、読みづらいかもしれませんがお許しください。堀下さんの語りたいという『関西俳句なう』についてお話を聞ければ幸いです。

俳壇観測/ポスト『新撰21』世代の動向
――『関西俳句なう』が掘り出したもの・見逃しているもの(前)

『新撰21』(二〇〇九年十二月・邑書林)が出てから六年経ち、その後『超新撰21』(二〇一〇年十二月・邑書林)『俳コレ』(二〇一一年十二月・邑書林)とつづき、俳壇に新世代ブームが起きた。これを受けて『関西俳句なう』(二〇一五年三月・本阿弥書店)が刊行された。帯には「東京がなんぼのもんじゃ」とあるのが愉快だ。これらのシリーズにはそれぞれに特色がある。『新撰21』は前衛・伝統を超えて新しい時代を作る二十代・三十代の自選句、『超新撰21』は三十代・四十代の自選句、『俳コレ』は世代を融合させて他薦で百句がまとめられた。『関西俳句なう』は、前三者が関東に偏っていたという批判から関西だけで二六人を揃えたが、半数は「船団」所属という構図であった。
何を選ぼうと選考基準に対しては批判が起こる。すべては結果が証明すると考えておきたい。

    *     *

それでは、「船団」に敬意を表して、まず「船団」の十三人の句を紹介しよう。数字は年齢である。

粉雪が女言葉のように舞い  加納綾子26
春霞こだまですらも飛ばす駅 二木千里26
ヤドカリのように引っ越しする元彼
犯人は死んだ蛙の大合唱  山本たくや27
麦青む時間にそっと電話して 山本皓平28
カーナビの指示は直進夏つばめ 藤田亜未30
コンビニに新作の菓子春の雪
目の前に生えているのが曼珠沙華 久留島元31
若葉嵐落書きの中にわたくし 舩井春奈35
黄落の風船もらう子の多さ  藤田俊35
本屋に向かう少し汗ばんでいる 河野祐子36
さみどりの朝サイダーのはじける日
嘘なんて百万回の稲光    中谷仁美36
初雪やオランウータン嫁入りす 工藤恵41
何時までも山椒魚を見る女  塩見恵介44
この国に何にもしない俺の汗
さっきまでのキスの相手は秋の人 朝倉晴美46

「船団」以外の作家の方からも若い世代の句も紹介しておく。

木の実降る狐の面の子等の背に 黒岩徳将25
さくらんぼ咎あるごとく変声期 羽田大佑27
地球温まっているか蠅生る  若狭昭宏30
旧家とは大きいばかり目借時 山澤香奈32
鐘涼し城は星型にして未完  森川大和33
子雀のもうゐぬ風のポプラかな 涼野海音34
あたたかや人去ればまたひとりなる
人波に逆らひて行く暑さかな 杉田菜穂35

選んだのは私の恣意であるが若干の基準がある。実はそれぞれの作家の、ここで選んだ以外の作品を見ると、この世代には消費(consumption)という傾向性が強くにじんでいるような気がするのだ。瞬間の自己に忠実であるが、しかし時間の中で消えて行ってしまう自己でもある。こうした傾向は『新撰21』にも見られたが、『関西俳句なう』は一層顕著である。これに対し多分戦後生まれ世代には、克己・修業という要素が存在した。一貫してある世界を構築しようとする意志である。恣意を打ち消す自己否定である。そこが彼らと違うのだ。

 しかし、それだけでは新世代を否定することにしかならない。幸い短詩型には「多義性」という特徴がある。同じ句がAともBとも見える曖昧さである。例えば、兜太や太穂の前衛的な句を、虚子が褒めていることすらある。これは季語さえ入っていれば、前衛俳句も客観写生や花鳥諷詠の軸で評価できるという俳句の特徴であるのだ。『関西俳句なう』は消費的傾向を維持しながら、多義的に見ると自己規律的表現も実現している。そうした例として右の句を掲げてみたのだ。これが新しい俳句の姿かも知れない。









■第3回攝津幸彦記念賞(「豈」創刊35周年記念)募集‼! 

第3回目の攝津幸彦記念賞を次の要領で募集しています。

内容 未発表作品30句(川柳・自由律・多行も可)
締切 平成27年10月末日
送り先 183-0052 東京都府中市新町2-9-40 大井恒行 宛
応募 郵便に限り、封筒に「攝津幸彦記念賞応募」と記し、原稿には、氏名、年齢、住所、電話番号を明記。(原稿の返却はしません)。

選考委員は、関悦史、筑紫磐井、大井恒行となっていますが、「豈」も若返りの季節を迎えており、関委員に大部分の選考審査をお願いする予定です。予選から始まり、本選作業、選考経緯の執筆まで依頼する予定で、筑紫、大井は助言役に回る予定です。その意味では、攝津幸彦記念賞(関悦史賞)と考えて頂いてもよいでしょう。若い世代の応募を期待するものです。
 『新撰21』世代を対象とする俳句賞は今までいくつかありましたが、『新撰21』世代が選考の主役を務める俳句賞は初めてのものであろうと思っています。『新撰21』世代も早くも背後から後続世代に追われる時期となって来たのです。

第7回石田波郷新人賞が2015年7月31日で締め切りとなったので、残る3ヶ月間で是非頑張ってください。

2015年8月21日金曜日

評論・批評・時評とは何か?――堀下、筑紫そして・・・」その10 / 筑紫磐井

25.筑紫磐井から堀下翔へ(堀下翔←筑紫磐井)
the letter rom Bansei Tsukushi to Kakeru Horishita 


●花尻万博「鬼」について

今回、堀下さんの前回の文章を受けるに当たって、『新撰21』『超新撰21』と『俳コレ』のどこで切るかなかなか難しいと思いました。世代的には連続しているけれど、やはり理念が違う選集となっているからです。これはつい最近出た『関西俳句なう』を並べるとますます難しさが浮かび上がります。前回堀下さんが「間に合わなかった世代」(時期的に間に合わなかった世代(堀下翔グループ)と入れなかった世代(西村麒麟グループ)になるわけですが)としてあげられた名前で『関西俳句なう』に掲げられた26名と重なるのは、黒岩徳将さん、山本たくやさんの二人のようで、堀下リストにあげられていなかった人が圧倒的に多いようです(堀下リストは大学生が多いですから当然かもしれませんが)。それにしても、『関西俳句なう』は『俳コレ』以上に、『新撰21』『超新撰21』と理念を異にしているようです。「東京がなんぼのもんじゃ」という愉快なコピーよりは、「船団」という結社を母体として生まれたという本質に基づいているということが大きいと思います(東京の「群青」はこう言うことを企画しそうにもないように思います。たぶん「関西がなんぼのもんじゃ」などとは思ってもいないからです)。そんなこともあり、堀下さんを受けて今回は『関西俳句なう』の若手たちを取り上げてみたいと思いました。ただ、ここにちょっとした不都合があって、今回掲載するのが適切でない事情があり、次回に回すことにして、その前に別の作品を紹介しようと思います。

   *    *

「詩客」の新連載「俳句自由詩協同企画」で<俳人には書けない詩人の1行詩  俳人の定型意識を超越する句>と言う企画を始めました。俳人でも読める「詩」、詩人でも批評できる「俳句」であれば、ある程度共同企画としては意味のあるものになるのではないかと考えたからです(これは私が考えたのであって、代表の森川氏は必ずしもその考えに同調はしていないようです)。ちょうどその時、タイミング良く、第2回攝津幸彦記念賞を花尻万博氏が受賞したので、その第1回を依頼しました。花尻曰く「無茶ぶり」で依頼された、という事でしたが、よくその期待にこたえてくれました。ブログで読むのとは少し違って読めるだろうと思い、今回「俳句新空間」第4号にその作品を転載しました。ご覧下さい。BLOGの主役が若い世代であれば、雑誌の主役は年配の世代でしょう。従って年配者が今回初めて花尻作品を読むことになるので、若い世代以上に年配者にはショックではないかと思います。むしろ拒絶反応が先立つに違いありません。一連の作品評を詩人・俳人にしてもらったところ、詩人は俳人以上に否定的な評が目立ちました。当然予想できることです。「俳句新空間」第4号では作品を転載にあたり少しコメントを書きましたが、余り十分な意を尽くせなかったので、このBLOGで少し補足してみたいと思います。

ただ予想が狂ったのが、このBLOG掲載時には雑誌が出ている筈だったのですが、実は雑誌が1~2週間遅れてしまいそうなのです。従って、読者は解説を先に読んで、後からテクストを見ることになるかもしれません(冊子を読まないで、「詩客」を見ていただいても結構です)。小さいことを気にしなければ、8月中に、テクストと解説が出るので、編集顧問としてはいいのではないかと思っていますが、こんなところが、やや、「豈」的ないい加減さかもしれません。

    *     *

テクストを見れば分かりますが、1連10句で5連からなっています。1連は、短律の9句と、前書きの付いた1句(これは正確に五七五となっている)で成り立ちます。各連は、ほとんどが4文字以上10文字以下の短律で成り立っています。ただその前書きが<街に鬼><旧都に鬼><虹に鬼><炭に鬼><花に鬼>という鬼尽くしの前書きです。共に短いので、前書きなのか作品なのかわかりません。とりあえず前書きとしておきましょう。作品が50句と示されているから、前書きを1句と数えてしまうと55句になってしまうからです。しかしいざとなったら、これは単なる計算間違いと言えばいいでしょう(笑)。

一連の中もややこしいです。ルビがあふれていますが、3種類に分類されます。

①本当のルビ:間(あひ)・夜(よ)・市(いち)・舐(ねぶ)り・生米(きごめ)・洗魚(あらひ) 
②アイロニカルなルビ:霊区(まち)・旧都(とうきょう)・寒霞(おに)・鬼(かみ)・室(ひと) 
③ルビか否かわからないもの:虎落笛(こゑする)・沈黙(こゑする)・南北(こゑする)・水鳴り(こゑする)・神楽ふ(こゑする)


さて、ここで根本的な問題。前書きとは何でしょう。前書きが作品に対して自立し始めると、付属的な前書きではなく、独立した作品となります。作品となれば、前書きが作品をしのぐことだとてあるでしょう。作品を凌ぐ前書き、なかなかシュールです。このような企画は、すでに高山れおなの『俳諧曽我』で実験されています。

閑話休題。さて、この構成の中で本質的な問題が幾つかあるようです。まず、前書き。恐るべきは前書きが作品を凌駕することがあります。例えば前書きとは違いますが、書名にも似た事情があります。マルクスの「資本論」は表題だけでも立派な文学作品です、この表題が時代を作り出したのですから。少なくとも、月並みな「経済学批判」とは文学的な価値が違います(似た名称でも「純粋理性批判」はやや文学的な香りがあります。多分、題名のユニークさがあるからでしょう)。世の中には署名は立派だが、中身はない方がいい本もたくさんあるようです。

だから<街に鬼><旧都に鬼><虹に鬼><炭に鬼><花に鬼>の前書きも、作品と違う価値を持っているのです。

次に、「ルビ」とは何でしょう。単なる読み方を示しているだけなのでしょうか。間(あひ)・夜(よ)・市(いち)はそうでしょう。霊区(まち)・旧都(とうきょう)・寒霞(おに)は明らかに読み以上のものを示しています。虎落笛(こゑする)・沈黙(こゑする)・南北(こゑする)はルビであること自身を拒絶しているようです。「虎落笛(こゑする)」は虎落笛(もがりぶえ)、こゑするが並走する音となっているというべきではないでしょうか。

おまけに、各連には「街」「旧都」「虹」「炭」「花」が少しづつイメージとして先導しています。顕在化しているものもあれば潜在化しているものもあります。しかし無縁ではないようです。

こうした構造をいじくるためのテクストが、花尻万博の「鬼」だったのです。こんな作品は確かに先例がないようです。

   *     *

ではいったい、この作品は何を言いたかったのでしょうか。これは何も感性に訴えるものではないようです。50句の俳句の最低限の要素を列挙したということなのです。問題は、例えば4文字で出来ている1章にあと13文字加えれば俳句となるのかどうかということです。おそらく、どんなに文字を加えても、月並み以上の俳句が生まれることはあるまいと思います。


鴨 南北(こゑする)
小火と蛾
比喩、花か

これらの句は、一見未完成のように見えます。しかし何を付け加えれば、完成した俳句となるというのでしょう。これ以上の俳句が生まれようがあるのでしょうか。花尻が読者に出しているのは、鑑賞などではなく、そうした再構成をやれるものならやってみよという挑発であり、禅宗の師家の公案のようなものなのだとえいえるでしょう。もちろん回答は難解難透でも構いません。回答に意味があるわけではないからです。

これを逆転させてみましょう。芭蕉の有名な句を種田山頭火は1節づつ削って行ってみました。そして結局何も残らないことに気づきます。俳句の本質は沈黙にある、と言っているように見えます。


古池や蛙とびこむ水の音
   ・・・蛙とびこむ水の音
   ・・・・・・・・水の音
   ・・・・・・・・・・音

 これを花尻は逆転させてみたのです。「音」から出発させて、「古池や蛙とびこむ水の音」へたどりつく道筋を花尻は示してみよ、と言っているのです。他の詩や短歌では決してできない構造分析を繰り返す、こんなことを考えつくのは、こんな設問を出した出題者と回答者花尻でなければできない技でしょう。




詩客 俳句自由詩合同企画
鬼  花尻万博 (2015/01/31掲載)


2015年8月7日金曜日

【再開】「評論・批評・時評とは何か?――堀下、筑紫そして・・・」その9  /  堀下翔 

24.堀下翔から筑紫磐井へ(筑紫磐井←堀下翔)
the Letter from Kakeru Horishita to Bansei Tsukushi 


ご無沙汰しております。堀下です。

唐突に福田さんにバトンタッチした形になりましたが、今回から復帰ということでよろしくお願いします。千本ノック式に話題を変えているうちに出たのがバルトの話題でしたが、その後福田さんが私信で前々回の内容をご教示くださり、無責任を知りつつ転載をお願いしたのがご登場の経緯です。

その後私信の転載にとどまらず、磐井さんとの数回のやり取りがあったわけですが、実はそんなことになっているとは知りませんでしたので驚きました。

と、以上は読んでくださっている方向けの挨拶ですが――。

本編の内容を番外編で分析する形でお二人が話し尽くされたところですから加えるべきところは思いつきません。「むしろ創作に当たっての理論は一種の「気合い」であると思っています」と磐井さんがお書きになっていたのはなるほどその通りかもしれないなと思います。

前回の最後を引き受けると『新撰21』周辺の世代論になりますか。『新撰』入集メンバーでは北大路翼、村上鞆彦、矢野玲奈が第1句集、鴇田智哉、佐藤文香が第2句集を出したところでたしかに『新撰』以後の展開をまとめて論ずることが可能な時期かもしれません。「第1世代の神野紗希・佐藤文香世代から第2世代の西村麒麟・堀下翔世代」とのことで、神野紗希と西村麒麟は同い年ですから年代の区切りではなく入集したかどうかですね。入らなかった同世代の落胆は想像に難くありません。いっぽうで僕はといえば、俳句を始めたのは2012年の春ですから、『新撰21』(2009)はおろか『俳コレ』(2011)にも間に合っていません。そう、『超俳コレ』でもあれば絶対に入ってやるぞ、といったところです。

せっかくなので間に合わなかった世代を挙げておきましょう。自分の名前しか出ていないのはちょっとこっぱずかしいですから。『新撰21』の最年少が越智友亮(1991年生)、『俳コレ』の最年少は小野あらた(1993年生)です。小野さんは今年から社会人なので、その下、ちょうどいま大学にいる世代がそれに当たります。活動時期としては入集可能だった世代とは違って、こちらは時期的に入りようがなかった世代ですから、リストアップは簡単です。

安里琉太(1994生)
今泉礼奈(1994生)

あたりはすでに念願の総合誌デビューを果たしています。安里は「銀化」「群青」、今泉は長らく無所属でしたがついに今年度になって「南風」に入りました。

関西の大学生はだいたい「ふらここ」に入っています。学生を中心に若いのが集まっている俳句集団です。かなりの人間がいるようですが、作品集がないのでいったい誰がいるのかよく分かりません。僕はことあるごとにふらここ関係者に「どんな人がどんなものを書いているのか知りたいから作品集を出してくれ」と言っていますが出る気配はありません。もちろんこれはふらここに限らずどのサークルにも言えるのですが、ふらここの場合は作品集を出せば関西の学生をかなり見渡せるので、みんな喜ぶと思います。現状、メンツを把握できるのは1年前に「週刊俳句」がふらここプロデュース号をやったときの執筆者一覧(http://weekly-haiku.blogspot.jp/2014/04/366.html)ですが、参加していない人間もいるらしく、不完全です。

間に合わなかった世代の名前を挙げます。結社・同人誌に所属している学生も何人かいます。

二人して打ち上げ花火見てた写真 川嶋ぱんだ(1993年生・「船団」)「俳句新空間」(平成二十六年夏興帖・第五)2014.9.26
山笑ふせーのであける恋みくじ 山下舞子(1994年生)「週刊俳句」2014.4.27
小憩に外す軍手や鳥帰る 森直樹(1994年生・「鷹」「鷹」2014.5
恋という仮説どんぐり転がりぬ 安岡麻佑1995年生)「週刊俳句」2014.4.27
手繋げば手の甲寒し藍の花 小鳥遊栄樹(1995年生・「若太陽」「里」「群青」)『海を捨つる』(私家版句集)2015
思うほど眼球軟らかく春雷 沙汰柳蛮辞郎(1995年生)「俳句新空間」(平成二十六年花鳥篇・第七)2014.7.11
ふらここや後ろが冬で前が春 大池莉奈(1995年生)「石田波郷俳句大会第6回作品集」2014
みづうみの底に日当たる涼しさよ 浅津大雅(1996年生)「俳句新空間」(平成二十六年夏興帖・第七)2014.10.10
かたづけて舞台小さし花のなか 辻本鷹之(1996年生・「銀化」)「銀化」2015.5
釣り上げし鱸は銃の重さかな 下楠絵里(1997年生)「WHAT Vol.3」2015

ふらここの面々はこのブログによく出ていますね。ブログで読めてありがたいです。ちなみに大学卒業組では中山奈々、ローストビーフ、山本たくや、木田智美、野住朋可、黒岩徳将、仮屋賢一などがいます。立ち上げたのは黒岩徳将で、いまは仮屋賢一が代表をしています。

関東の方に目を移します。関東はあちこちの大学に学生俳句会があります。だいたいインカレサークルになっていますから、どこへ行っても似たような顔ぶれの観はあります。実動しているか微妙な大学も含んでいますが、東大、早稲田、慶応、立教、ICU、明治、筑波あたりが学生句会を開いています。早稲田の俳句研究会はここ何年か定期的に作品集を出していますが、他のところは特に出していないようです。もちろん、大学俳句会ではないところに通っている人、句会に出ていない人もいます。またパラパラと名前を挙げてみたいと思います。

綿虫や何人もゐて寝しづまる 今泉礼奈(1994年生・「南風」)「俳句」2015.1
最果てに風売る店や昼寝の国 平井湊(1994年生・「群青」)「群青」2014.9
花ぐもり鯉やはらかく衝突す 高瀬早紀(1994年生)「週刊俳句」2014.12.7
冬厨明かりが灯るまでの二秒 副島亜樹(1994年生・「群青」)「群青」2014.3
復活祭家族写真は残すべし 大藤聖菜(1994生)「星果てる光Ⅱ」2014
冬うららどこにでもある諏訪神社 青木ともじ(1994年生・「群青」)「群青」2015.3
紫陽花や指紋を遺す触りかた 島津雅子(1994年生)twitter
泣き声が白梅よりもずっと先 葛城蓮士(1994年生)「俳句ポスト365」2015.1.22
名月や銀の波立つ山の湖 赤石昇太郎(1994年生)「早大俳研第十集」2014
夕映となるぎりぎりをスキー跳ぶ 東影喜子(1995年生・「群青」)「早大俳研第十集」2014
柚子風呂の君には柚子の集まりぬ 玉城涼(1995年生・「群青」)「群青」2015.3
大陸へ向かふ飛行機夏兆す 兼信沙也加(1995年生)「週刊俳句」2014.12.7
紙風船しわを増やさぬやう受くる 林楓(1995年生)「早大俳研第十集」2014
柄のみで決むるパンツや春隣 魔王(1995年生・「いつき組」)ブログ「烏と魔王の夏休み」2015.8.2
エンドロールのはやさで降つてゐる雪よ 大塚凱1995年生「群青」)「群青」2015.3
誰もゐない楽しき家や冬の鵙 杉山葵(1995年生)「俳句ポスト365」2014.11.6
名を知らぬ名曲にふれ風薫る 谷村康太(1995年生)「早大俳研第十集」2014
五円では叶わぬ願い秋の暮 町田佳奈子(1996年生)「早大俳研第十集」2014
声透明桜吹雪の向かうから 永山智郎(1997年生・「群青」)「俳句」2015.1
風船に父の息ありもてあそび 坂入菜月(1996年生)twitter
量子力学袋の中に玉虫ゐ 青本瑞季(1996年生・「里」「群青」)「里」2015.6
雨の学祭花をつけない木ばかり太い 青本柚紀(1996年生・「里」「群青」)「週刊俳句」2015.7.26
うららかやかがみこむ足の折れているところなど 宮崎玲奈(1996年生・「円錐」「群青」「蝶」)「群青」2015.6

それ以外の地方で書いている人を挙げたいと思います。

芹の根を離れぬみづの昏さかな 安里琉太(1994年生・「銀化」「群青」・沖縄)「銀化」2015.1
天才の生まれる朝へ田水張る 工藤玲音(1994年生・「樹氷」・宮城)「学生俳句チャンピオン決定戦2015」NHK(しこく8)2015.6.5放送
つばくらの影落ちにけり母子手帳 樫本由貴(1994年生・広島)広島大学俳句サークル・H2Oブログ2015.7.6
夏シャツや天守見上げて風の吹く 崇徳(1994年生・広島)広島大学俳句サークルH2Oブログ2015.5.19
滝に触るるやうにフライパン洗ふ 宗政みつき(1994年生・愛媛)「星果てる光Ⅱ」2014
黄昏や菜の花の波堆し 田中枢(1995年生・「itak」・北海道)「現代俳句」2014.10
空へ宇宙へ「ひまわり」は飛ぶ雲の峰 羽倉紫羽(1995年生・愛媛)「俳句王国がゆく」NHKEテレ2015.6.21放送
はつ夏のみづを怖るる子猿かな 小川朱棕(1996年生・愛媛)愛大俳句研究会twitter
少年の声の実れる踊りかな 福岡日向子(1996年生・愛媛)「俳句王国がゆく」NHKEテレ2015.6.21放送
鳥はみづになる春の月のめざめ 脇々(1996年生・愛媛)「WHAT Vol.3」2015
風薫る写生の画用紙のましろ 初号機(1996年生・愛媛)愛大俳句研究会twitter

以上40人強をざーっと並べてみました。だいたいが俳句甲子園出身者です。高校を卒業したあとも句会に出ている人は他にもいますが、引用できる句が見つからない場合は外しています。それに僕の知らないところで書いている人は大勢いるでしょう。漏れた人はごめんなさい。

それにしても大学1~4年でこれだけ書き手がいるのは自分の世代ながら安心します。全員が全員作家意識を持っているわけではないのは百も承知です。僕は「学生俳人」という言い方が好きなのでよく使いますが、自分は俳人ではないからその呼び方はイヤ、という人もいます(たんに俳句を書く人をそう表現しただけですが……)。それでも身近にこんなに同じことをしている人がいるのは心強いです。とくにいまはSNSが発達していて遠方の書き手ともすぐ連絡が取れますから。

そういうわけで、こんな人たちが新撰以後世代の最年少に当る、という話です。僕は同世代の俳句がとても好きですから、思わずこういうリストを作ってしまいました。面白い句がたくさんあるので、機会があればもっと紹介したいくらいです。オッ、スゴイゾッと思わされる同世代の新作が、いつか決定的な俳句史の一句になることすら夢想しないでもないのです(もっともこの場合の「同世代」にはもう少し年齢の幅もあるのですが)。〈ひるがほのほとりによべの渚あり〉を波郷が詠んだのもまた十代であったことを思うとき、それはあながち大げさすぎる思いではないでしょう。

さて、間に合わなかった世代を見てみたところで、今度は入れなかった世代を見ていきたいところです。どういう形にすればいいのか迷っていますが、すこし作家論のように話していければ面白いのかなと考えています。磐井さんは西村麒麟の名前を出していましたね。僕は他に、生駒大祐あたりの名前も気になります。

あ、それから、本稿は「新撰」以後の話でありながら、勝手にそれを「俳コレ」以後と同一視して書いてしまいました。前回、〈残念ながら同じ趣旨の『新撰21 パート3』は出ませんでしたが(世代を限定し、自選する、ギラギラとした選集というコンセプトのシリーズは後続しなかったということです)〉(磐井)という発言が出ていたので、それを無視する形になってしまってすみません。もちろん、自選・他選の違いは作家にとって切実なものでしょうが、今回は「アンソロジーに入れなかった」の視点で考えてみました。他薦なら入るもんか、という作家もいるでしょうが、それでもいい、入りたいという作家(そして入れなかった作家)も多いでしょう。特に最年少層にはどうしても俳句甲子園出身という共通点がありますから。その熱意は上記引用の「ギラギラ」と同質だと思います。この「新撰」「俳コレ」の区別についても、お話ししたいです。

2015年7月24日金曜日

澤田和弥の過去と未来  /筑紫磐井

未見の人であったが気になっていたのは澤田和弥氏であった。『超新撰21』の時から候補にはあがっていたが、結果的に見送ってしまっていた人である。特にその後、句集『革命前夜』を上梓され、いい意味でもそうでない意味でも、『新撰21』の影響があった人ではないかと思っている。

『新撰21』等に入らなかったことについて西村麒麟氏から、『新撰21』がこれだけたくさんの新人(42人。小論執筆者まで入れれば80人。さらに『俳コレ』まで登場した)を発掘してしまうと、このシリーズに入らなかったことそれ自身が逆の差別をされてしまったような気になる、と企画者の一人に対する注文とも不満ともつかぬ発言をしたことがある。これは澤田氏にとっても同じ思いであったかもしれない。

逆に言えば、入らなかった御中虫、西村麒麟、最近の例でいえば堀下翔などは、すでに『新撰21』(例えば神野紗希、佐藤文香)を超越してしまった世代といえるのではないかと勝手に思っている。『新撰21』といえども企画者3人の独断と偏見に満ちた選考で上がった名前であるから、これら3人の枠組みの中でしつらえられている。御中虫、西村麒麟、堀下翔はこうした企画者に反発して自分たちの枠組みで自分たちの登場の場を確保したのだ。

以前、俳句甲子園に苦言を呈したのは、もちろん若い高校生たちが俳句に関心を持ってゆくのはありがたいが、彼らは、俳句甲子園企画者のルールに従い、枠組みの中で競っているのであって、自分たち独自のルールを作り上げたわけではない。以前の高校生は――つまり寺山修司などは、自分たちで同人雑誌を創刊し、全国の高校生を結集し、中村草田男などと交渉して俳句大会を開催していった。そうした活動と俳句甲子園とはずいぶん違うのだということである。もちろんどちらがいい悪いとは言わない、より多くの高校生俳人を結集させるには俳句甲子園方式はかなりいい手法かもしれないが、寺山流ではないのは間違いない。

『新撰21』から外れた動きを眺めるために、今回【アーカイブコーナー】で、御中虫、西村麒麟の活動を掲げてみた。これは明らかに「上から目線」を完全には排除できなかった(他の俳人たちに比べれば余程努力したつもりだったのだが、完全には排除出来ないのだ)『新撰21』に対する、反『新撰21』の活動であったと思っている。いや、ほどほどに妥協し、揶揄しながら自分たちの主張を断固として貫徹している。『新撰21』が存在しなくても自分たちの存在は明らかになっていると思っている人達であろう。

澤田は『新撰21』の影響を受けつつ、やはり独自の世界を模索し続けたようである。実に様々な媒体に挑戦している。私の関係するところでは、「豈」「俳句新空間」に登場しているし、その行く先は茫漠としていた。若い人らしい行方のなさだ。

澤田は自らも寺山修司への傾倒を語り、句集にもその痕跡を残したが、しかし作品として寺山の傾向が強かったとはあまり感じられなかった。むしろ早稲田大学を通して、寺山の系譜を確認し続けたといった方がよいかもしれない。彼のライフワークになると思われたのは(悲しいことにわずか4回で中断してしまったが)、遠藤若狭男の主宰する「若狭」に連載し続けた寺山修司研究(「俳句実験室 寺山修司」)だ。これが完成していたら、寺山と澤田の関係はもっと濃密に見えたかもしれない。

本人が存命している時の句集『革命前夜』と、亡くなってしまったあと読む句集『革命前夜』は少し趣が違っている。前者が今まで書かれた句集評の大半なのだが、後者を「俳句四季」10月号の座談会で取り上げ試みる予定であるが(齋藤愼爾、堀本祐樹、角谷昌子と座談)、妙に物悲しいものに思える(既に『革命前夜』は版元で売り切れ絶版となっている由)。有馬朗人氏の、「『革命前夜』をひっさげて俳句にそしてより広く詩歌文学に新風を引き起こしてくれることを心より期待し、かつ祈」るという、わずか2年前の序文がどうしようもない違和感を醸し出す。なぜなら今日のこの状況を誰も知らないからだ。私は当初、こんな句を選んだがそれは未来のある人の句としての鑑賞だ。

佐保姫は二軒隣の眼鏡の子
黄落や千変万化して故郷
冬の夜の玉座のごとき女医の椅子

実は死の予告のような句を選んでしまった。詳細は「俳句四季」10月号を見て頂きたい。だからここでは、『革命前夜』後の作品を掲げて締めくくりたい。澤田和弥の未来がどうあったか(亡くなっても作者としてはまだ未来があるのだ。後世の読者がどう評価するかは我々の思惑を越えているのだから)、考えてみたい。御冥福をお祈りする。

人間に涙のかたち日記買ふ   「若狭」より
菜の花のひかりは雨となりにけり
春夕焼文藝上の死は早し   「週刊俳句」角川俳句賞落選句より
復職はしますが春の夢ですが
女見る目なしさくらは咲けばよし


2015年6月26日金曜日

「評論・批評・時評とは何か?――番外編」その2/福田若之・筑紫磐井



【福田】
まず、「現代文学(?)に関する教養とは思いますが、教科書的に、現代の文学の理解としてこれを習わなければ文学論が成り立たないというものではない(大体どこの文学論?と聞いて見たくなりますが)と感じましたが如何でしょうか」というご質問から。

「作者の死」は教養である――このことだけでも、「作者の死」が学問としての文学にとって相当に有意義なものであることには、疑いの余地がないように感じられます。学問としての文学は、その全体が、ある意味では教養に他ならないとさえ言えるからです。逆に、およそ教養でありうるようなものはどんなものでも、文学に含まれうるのではないでしょうか。とはいえ、その中で「作者の死」が飛びぬけて重要なのか、といわれると、確かに難しいところではあります。理論としては、たとえばジェラール・ジュネットの物語論などを理解することのほうが、文学研究にはよほど役立つ気もしないではありません。ただ、いずれにせよ、60年代から70年代にかけての文学研究における思想的展開が今日の研究をかなり直接に基礎づけていることは確かです。そして、「作者の死」ほど、その変動を端的に示してくれている文章も珍しいと思います(「作者の死」を除けてしまうと、この変動のさわりを理解するために、分厚くて難しい本を何冊も読まなければいけなくなると思います)。こうした理由から、たとえば大学で文学に取り組むとしたら、「作者の死」を早い段階で学ぶことにはやはり意味があるのではないかと思います。

少なくとも、僕の実体験として、高校までの国語科の教育と大学での文学研究の違いを乗り越える上で「作者の死」を知ることが助けになったことは確かです。書いた人間の意図を尊重する国語的な読解は、コミュニケーション能力を養うという意味では重要なものに違いありませんが、それだけでは文学は窮屈なものになってしまいます。「作者の死」はその突破口を与えてくれるのではないでしょうか。

次に、「バルトがそうしたテクストで想定しているのは、文学作品なのか(そもそもその文学も何なのか)、ゴッホやチャイコフスキーが出てくるとすると(それでもまだ芸術、美術という理念的なものがまとわってくるような気がしますが)もっと幅が広いものか、さらに(日本の多くの文芸評論家が忌避する)浪曲や雑俳、などが入るのか(当然入っているように思いますが)などについて、何かヒントになる発言はあるでしょうか」というご質問にお答えしたいと思います。

ゴッホやチャイコフスキーの名前がどのように出されているか提示しておく必要がありそうですね。バルトは以下のように書いています――「批評は依然として、ほとんど常に、ボードレールの作品、それはすなわち人間ボードレールの挫折である、とか、ヴァン・ゴッホの作品、それはすなわち彼の狂気である、とか、チャイコフスキーの作品、それはすなわち彼の悪趣味である、とか言うことにある」。これらの語りはそのどれもが作者に作品の起源を求める批評の紋切り型であって、バルトはそれを問題にしているわけです。

これらがいわゆる「芸術」に限られたもののように見えるというのは、正しいと思います。ただし、それには理由があります。バルトが、確固たる「芸術」しかそもそも相手にしない態度の批評、はっきり言えばスノビズムに陥った批評をこそ、ここで問題にしているからなのです。

バルトは、浪曲についてはもしかすると日本映画の芸道物などを通して知っていたかもしれませんが、雑俳についてはまず知らなかっただろうと思います。したがって、その意味では、おそらくそれは「想定」されていません。ですが、「作者の死」で問題になっている二つの重要な概念は、それらをも包括するものに違いありません。二つの概念というのは、先日お送りした文章にもすでに登場している「エクリチュール」と「テクスト」です。これらの概念は実際にはどこまでも掘り下げても切りがないような代物ですが、いまはごく簡単にいきましょう。

まず、エクリチュールécritureについて。これはフランス語で一般に「書くこと」および「書かれたもの」を指す言葉です。少なくとも「作者の死」のなかでは、この言葉がそれ以上のことを意味しているようには思われません。ただし、それに含まれる範囲は最大限広くとっておく必要があります。たとえば、演劇における登場人物のもろもろの言動は、台本を読むにせよ上演されるのを観るにせよ、すなわち、文字として読むにせよ演技として観るにせよ、エクリチュールです(「作者の死」の文中で、演劇は、さまざまな登場人物の言動が観客の側で捉えられるということをモデルに、エクリチュールと読者のかかわりを説明するために出てきます)。チャイコフスキーの音楽にしても、楽譜があるのですから、そこにはエクリチュールが見出されるに違いありません。こうなってくるともう、ゴッホの絵画も、捉えようによってはエクリチュールではないでしょうか。

お二人の文脈に沿わせるために、ここで、バルトが「文学la littérature(これからはエクリチュールl'écritureと言うほうがよいだろう)」と書いていることに触れておくのがよさそうです。ここで提案されているのは、文学という捉え方からエクリチュールという捉え方への移行です。エクリチュールという表現がバルトにとってより好ましく思われたのは、それが動的な生成(ただし創造というほど神秘的ではない)のイメージを孕んでいるからだと考えられます。しかし、それだけではなく、かつて「文学」と呼ばれながら芸術の中に囲い込まれていた領域が、この言葉の置き換えによって、既存のイデオロギーを取り払われつつ拡張されます(ただちに別のイデオロギーが生じることには注意しなければなりませんが)。おそらく、かつてはlittérature(綴ること、綴られたもの)とécriture(書くこと、書かれたもの)のあいだには大きな違いなどなかったと思うのですが、前者の言葉があまりにもいろいろなものを背負いすぎてしまったため、この呼び換えには意味があります。

エクリチュールがこうした概念であることを踏まえて、テクストtexteについての説明に移りたいと思います。この場合、テクストという言葉が表わすのは、多様なエクリチュールによって構成される広がりのことです。バルトはその意味を込めて、テクストとは「引用の織物」であるとします(僕が「作者の死」を「引用の織物」であるとしたのも、バルトのこの言葉を借りてのことです)。ご想像の通り、極めて包括的な概念です。狭義の文学にこだわることがばかばかしくなってきそうなほどです。

したがって、文学をどう定義するかということからして問題です。俳句は文学か、と問うとき、その文学というのはそもそも何のことなのでしょうか。バルトが後に『文学の記号学』でそうしたように「文学」という語によって言葉を媒体としたエクリチュールやテクストの全域を射程に収めることにするならば、そして、俳句もまた広い意味での書き物の一種であると捉えるならば、それは文学だというほうが妥当でしょう。したがって、浪曲や雑俳についても同様です。しかしながら、文学というものをもっと狭く、仮にファイン・アートの言語部門とでも規定するなら、おそらくその限りではありません。

拝読したかぎり、お二人の議論が問題にしているのは、さしあたりこの狭義の文学だとお見受けしました。ただし、俳句は文学かという問いは実際には表面上のものにすぎず、むしろ、俳句をファイン・アートの言語部門としての文学にあてがわれてきた物差しで測ることの是非こそが改めて問われているように思われます。おそらく、堀下君は、俳句にあえてそうした物差しをあてがうことで、新しい俳句の見方や価値が生成されることに期待しているのではないかと思います。それに対して、磐井さんは、あえてそうした物差しをあてがわないことで、今日ではかえって新しくなってさえいる俳句の見方や価値が再発見されることのほうにより強く期待しているのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。ちなみに僕はといえば、俳句に文学の物差しをあてがうことは、逆にその物差し自体を俳句によって更新することにつながるのではないかと考えています。目盛りがついているほうばかりが物差しであるとは限りません。こうした考えについて、ご意見をいただけたら幸いです。

ロラン・バルトと僕の関わりについて、ひとつ思うことがあります。ロラン・バルトについて書くということは、結局のところ、ロラン・バルトではない自らを引き受けるということにほかならないだろうということです。驚くべきことですが、ロラン・バルトにとってさえ、いくらかそうだった節があります。ロラン・バルトの書いた『彼自身によるロラン・バルト』の原題は、直訳すれば『ロラン・バルトによるロラン・バルト』です。語り手としてのロラン・バルトは、語られる対象としてのロラン・バルトと同一性を保ちながらも、同時にいくらか遊離しているのです。さらにバルトは「バルトの三乗」という文章で、全くの他人であるかのように『彼自身によるロラン・バルト』について語っています。こうしたバルトの文章は自句自解の問題にも通じるものだといえそうです。

【筑紫】

1.文学

●興味深い整理をありがとうございます。堀下さんと私の考え方の調停をしていただいたようでありがたいです、また読者のためにも分かりやすい解説となっていると思います。

●しかし、指摘されているように、私も堀下さんも「狭義の文学」を「文学」としていることに違いはないようです。その意味では二人に用語の齟齬はないのは幸いでした。それがいいのか悪いのかはまた改めて考えることにしてその前提で話を進めましょう。

違うのは堀下さんが狭義の文学から逸脱しないという行動原理を述べているらしいことに対して、私が狭義の文学から逸脱するという行動原理を持っていることでしょう。

この点をさておけば、狭義の文学こそが明治以降の俳句を引っ張って来たことは間違いないと思います。独断と偏見に満ちていたからこそ力を持って来たのです。子規による俳句の新生はこの独断がなければ生まれなかったと言えるでしょう。そのことは、守旧派の虚子も言っています。

ただ、それが余りに正論になって俳句の実態に合わなくなった時に部分停止をかけるのが「文学ではない」という主張だろうと思っています。だから、ボーダーから1センチはみ出せばよい、それが俳句だといいたいわけです。俳句が広義の文学だと主張しているわけではありません。

だからしばらく堀下さんとの議論は、文学は「狭義の文学」であることを前提として、俳句はこの狭義の文学うちに収まるべきか、はみだすかを議論してみたいと思います。

2.効用論

●この場合の文学論は真正の科学としてより効用論で見た方がいいと思っています。私の第一の目的は、「文学」(狭義の文学)を持って俳句の価値が裁断されるのを拒否することです。吾々の周辺には具体的な、文学による俳句の裁断が満ちていますから、それから俳句を防衛することといえましょう。例えば、「第二芸術の」桑原武夫もそうであったろうし、現在「俳句表現史」の名称で戦後多様に展開された俳句をたった一つの基準で評価しようとしている動き(「俳句表現史派の人々」ということにしようと思います)もそうでしょう。俳句は様々な可能性があるにもかかわらず、「文学」という観点からそれを否定する動きには反発したいと思います。

第二の目的は、現在自分のおかれた環境にあって、新しい、あるいは自分に必要な俳句の道筋を示すことです。かつて、昭和30年代に金子兜太が「造型俳句論」で行おうとしたこと(新しい俳句史観を示し、新興俳句や中村草田男の流れの先にある「主体的傾向」を推し進めようとしたこと)もこの新しい場を示すためだったと思います。誤解を受けやすいのですが、兜太は「造型俳句論」で特に在来の俳句を否定はしていません。不足しているものがあると言っているのです。ただそれを乱暴に言ったにすぎません。

もっとも、第一と第二は同じことの裏表を言っているにすぎないかもしれません。

●前衛俳句の時代のあとにやってきた、伝統の時代、結社の時代は反文学(狭義の)の時代でした。現象的に見れば(狭義の)文学敗残の時代であったということができます。それがいい環境でないと考えることは至極まっとうな考え方だと思います。私も共感します。しかしそれを是正するにあたり、桑原武夫や俳句表現史派の人々のように、これは文学(狭義の)ではないという主張を下してもしょうがないのではないかと思います。

●当時、金子兜太は「熱い情熱」でその道筋を示しました。しかし、私は現代においてはむしろ「冷たい情熱」こそが必要なのではないかと思っています。「冷たい情熱」とはいろいろな思いをこめていっているのですが、新しい俳句の一つの属性とはなり得そうな気がしています。


3.堀下作品と評論

しがみつく   堀下翔  
熊ん蜂二匹や花を同じうす 
亀の鳴く八方に水ありにけり 
一面に蝌蚪をりすべて見失ふ 
ある葉桜の立つてゐる日蔭かな 
黒揚羽とほくに見えて奥に消ゆ 
よく蛇行するひまはりの小道かな 
となり合ふカンナ互ひの影かくす 
濡れてをる石榴やあれはさつきの雨

これは、第6回石田波郷俳句大会新人賞(平成26年10月)を受賞した堀下さんの作品です。後に選考結果を見て岸本尚毅が一位に推したのは頷けました。岸本氏が選をした句の半分は私も選んでいるから、彼がどういう意識であったかは解る気がします。私の選んだ句で言えば、1行の中にどこか軽いギャップが存在し、それが心地よい違和感を与えてくれます。言ってみれば、路面電車に乗ってごと、ごと、ごとと揺られる快感といえましょうか。それが微妙な助詞や助動詞の駆使により生まれており、それ自身固有のリズムとなって読者に作品全体の共鳴を与えるのでしょう。今回の新人賞候補の中の他の作品と比べても圧巻であることは間違いありません。

不都合があって、表彰式に行けなかった私に代わって参加してくれた北川美美さんが「ちょっとかないませんよ」といって作品集を送ってくれたのですが、読んでみて確かにその気持ちはよく分かるところでした。

私はどこで書いたのか忘れてしまいましたが、若い世代もすでに第1世代の神野紗希・佐藤文香世代から第2世代の西村麒麟・堀下翔世代に移行しており、大きく変わっているのではないかという気がしていると述べました(本当は第0世代で関悦史がいる筈ですが)。その意味では、西村麒麟・堀下翔などは既に『新撰21』を超えている作家たちではないかと思います。『新撰21』を編んだ時に、高山れおなは「若手の先頭集団を総浚えにしてインパクトのある本を作ることに主眼を置いていた」といっていましたが、私ははたしてそうかな?早晩『新撰21』は乗り越えられる対象になるのではないかと思っていました。だからこそ続編の『超新撰21』が必要であったと考えたのです、決して『新撰21』は単独では完結しないのですから。残念ながら同じ趣旨の『新撰21 パート3』は出ませんでしたが(世代を限定し、自選する、ギラギラとした選集というコンセプトのシリーズは後続しなかったということです)、みなの意識は常にそういうものがあるという考えに向いたのではないかと思います。当時『新撰21』『超新撰21』にも選ばれず、多くの若手は鬱屈した思いであったと西村麒麟は私に語っていましたが、そうした思いがあったからこそ『新撰21』を乗り越える作家も生まれたのではないかと思ったのです。

堀下作品に対する感想はこれくらいにしておきましょう。問題は作品と堀下さんの俳句に対する考え方の関係です。これらの作品はどう見ても堀下さんの言う「(狭義の)文学」というより、その1センチ外側にある作品ではないかと思えます。短いコメントですが、岸本尚毅もその点に共感して選んでいるように思われます。決して「(狭義の)文学」にへばりついていてはこんな作品が生まれるわけはないはずです。

これは決して、堀下さんの言っている言葉と作品の矛盾をあげつらって批判しているわけではありません。作家は理論で作品を作ることはできません。すぐれた作品のあとから、後追いで理論が生まれて来るものでしょう。では堀下さんの俳句文学論が間違っているのかと言えば、むしろ創作に当たっての理論は一種の「気合い」であると思っています。「俳句は文学である」という気合いがなくては作品に魂は籠らないでしょう。子規や虚子もそうでした。兜太が俳句造型論をわめいたのもそうした理由でありました。堀下さんが「俳句は文学である」といって、(私からすれば実は文学の1センチ外側で)作品を生み出してもらうことは非常に結構だと思います。それは矛盾ではないのですから。

ただ止めてほしいのは、桑原武夫や「俳句表現史」を主張する人々のように、これは文学(狭義の)ではないという教条主義的な主張から、さまざまな作り方のある俳句に偏狭な差別を導入してはほしくないと言うことなのです。堀下さんの場合はそういう心配はないと思いますが、少なくともそうした人々に便乗されることは十分注意すべきでしょう。差別に荷担することになるからです。かつて、小野裕三氏が「前衛は死んだ」と言うことを言っていました、気持ちはよく解るもののその発言は政治的に利用されやすいことは心配でした(じじつ、俳人協会の一部有志は、無季俳句は「俳句のようなもの」であり、厳密には「俳句」とは言えないから教科書には採用しないようにと教科書会社に申し入れを行っています。もちろん無季と前衛は違うものですが、無季俳句を排斥する過程で「もはや前衛は過去のものだ」という利用のされ方はありそうです)。「冷たい情熱」というのはそういう意味合いも含まれていると思ってください。情熱は必要です。

4.教養

●余計なことを一言。教養という言葉で思い出すのは、角川書店で数年前新しい俳句講座を企画した時のことです。俳文学に関する広範な講座、それも研究者から実作者までを対象としたものを作りたいという相談を受けて、宮脇真彦、谷地快一、片山由美子の3人と1年間にわたり企画の議論を繰り返し、テーマ、執筆担当を決めました。戦前の改造社の10巻シリーズ以来戦後しばらくまでこうした講座はよく出たものでした。懐かしい活字文化の時代の産物であったといえるでしょう。今の出版状況から見ると、角川のそれは、現在にまで至る最後のそうした企画となったのではなかったかと思います。こうしてすべてがゆっくりと、しかし順調に進んだ後、問題はこの講座の名称をどうするかになりました。幾つか案が出、私はふと中学時代に読んだ筑摩書房の『教養全集』を思い出して『俳句教養講座』と提案したのですが、他の三人から猛烈な反対を受けました。特に大学人からすると、戦後の大学改革の中で出来た教養部・教養学部のイメージからして教養は全くネガティブなものでしかなかったかと思いました。私自身固執するものではありませんでしたが、最後に、議論した候補をあげて角川学芸出版の社長の判断を仰いだところ『俳句教養講座』に決まってしまったのには驚きました。これは角川書店としても――私と同様――「教養」という郷愁ある言葉にまだ一抹、ジャーナリスティックな価値を認めていたためであろうと思います、しかしその後はそれも消えてしまっていることでしょう。だから私なりに考えるともっと中性的な言葉で、例えば<俳句「中級」講座>が内容からしてよかったのかもしれないと思っています。今回、「教養」という言葉を使ってから、こんなことを思い出して苦笑いしています。参考までに教養講座の内容を。

『俳句教養講座第1巻――俳句を作る方法・読む方法――』平成21年11月刊
『俳句教養講座第2巻――俳句の詩学・美学――』同上
『俳句教養講座第3巻――俳句の広がり――』同上

ちなみに、『俳句教養講座』を使って俳句が上達したという人の例をまだ一人も知りません。



2015年6月12日金曜日

「評論・批評・時評とは何か?――番外編」/福田若之・筑紫磐井



今回、堀下―筑紫の対談「評論・批評・時評とは何か?」で少し置き去りにした話題を、新しい参加者に語ってもらいました。ページを1~2か月前に戻って見直してみてください(「その6」参照)。

そもそもの発端は、堀下発言「(文学の研究にあっては)まず最初に教えられるのは「作者の死」」であり「ロラン・バルトが1960年代末にこれを宣言して以来、文学研究に作者の伝記的事実は不要である、というのは常識的な言説になっている」、しかしバルトの説は「日本の俳句の世界ではまったく浸透していない」ようだ、ついては「(バルトの理論の)世界での受容度はバルトフォロワーの福田若之なら分かるんじゃないか」から始まります。

以後、それはすっ飛ばして「俳句は文学か」という、虚子、波郷、健吉以来の御定まりの議論のコースが始まりますが、迷路に入る前に、ここで遅ればせながら堀下氏が勧めた「バルトフォロワーの福田若之」に聞いて見ようという企画をご協力により本当に実現することにしました。まずは、ゆっくりと読んでみてください。 (筑紫)



福田若之から筑紫磐井
the Letter from Wakayuki Fukuda to Bansei Tsukushi 

1.バルトフォロワー?

・・・堀下君は僕のことを「バルトフォロワー」だと紹介してくれていましたが、この呼称はとりあえず返上しておきたく思います。「フォロワー」という言葉をどう捉えるかによるのかもしれませんが、僕は自分のことを「バルトフォロワー」だとは思えません。一方では、上手く説明することができないのですが、この語自体に、バルトの著作を読むことにあまり似つかわしくないニュアンスがまとわり付いているように感じられます。他方では、多くの人がバルトのテクストを読み、それらについて語っているなかで、僕がこのレッテルの代表のように振舞うことなど、とてもできないと感じます。とにかく、この語は、堀下君によって、たしかに僕のことを指し示して書かれたのかもしれないけれど、僕には、そのようなものとして立ち現れる僕のことを自分自身だと思えないということです。少なくとも、ここから先は、そういう人間の書いたものとして読んでいただきたいと思います。

2.「作者の死」の受容

さて、「作者の死」について、堀下君のほうでは、「バルトの理論がどれほど実際的に普及しているのか」、「世界での受容度」が知りたい、という話でしたね。日本や欧米での受容についてならまだしも、たとえば、日本を除くアジアやアフリカなどでの受容となるとほとんど全く知らないというのが正直なところです。

とりあえず、バルトの「作者の死」を純粋に理論として受け取っている研究者がいちばん多いのはおそらくアメリカではないかと思います。アメリカでは、ほかにも、構造主義からポスト構造主義あたりのフランスの現代思想が、もっぱら理論として受容されてきました。やはり、思想の主流は道具主義的なのでしょう(ただし、もちろん、多くの例外があります。バルトについては、たとえばスーザン・ソンタグのいくつかの文章)。この道具主義的な受容のもとでは、「作者の死」は、しばしば、フーコーの「作者とは何か?」と対になって語られます。

ヨーロッパに目を移すと、「作者の死」を含むバルトの思想全般について、けっこう批判的な声も聞こえます。イギリスやフランスで活動したブラジル生まれの思想家、J.G.メルキオールの『現代フランス思想とは何か――レヴィ=ストロース、バルト、デリダへの批判的アプローチ』(原題:From Prague to Paris : A Critique of Structuralist and Post-structuralist Thought)などはなかなか痛烈なものです。また、ユルグ・アルトヴェーグとアウレル・シュミット(彼ら自身はバルトのもろもろの著作を好意的に見ていますが)の『グラウンド・ゼロ 現代思想の震源地』の、序やロラン・バルトを扱った一章などを読むと、少なくともある時期まで、(おそらく西)ドイツでは、バルトを含むフランスの構造主義以降の思想の動向が、決して大勢ではなかったとしても、かなり強烈な批判にさらされていたことが伺えます。

一方で、せっかくですからちょっと色物を紹介しておくと、イギリスの作家、マルカム・ブラドベリの『超哲学者マンソンジュ氏』(原題:My Strange Quest for Mensonge)という小説などは、なんと「作者の死」を実践的に取り入れた試みといえます。あくまでもフィクション、というか、むしろ、よく出来た(ただし幾分ペダンチックな)冗談という感じですから、この小説で「作者の死」を理解しようとするのは難があるように感じますが、ある程度の予備知識さえあればなかなか笑える読み物だとは思うので、興味があればぜひ。

では、フランスではどうか。ここがいちばん肝心なのですが、フランスの人が書いたもののなかでは、バルトは理論家というよりも批評家、作家、もの書きなどとして語られることが多いように見受けられます。文学研究の(そして文学的実践の)分野では「作者の死」もよく知られているには違いないですが、おそらく、それはバルトの最も重要な仕事とは考えられていません。

日本でも大きく取り沙汰された時期はあったと伝え聞きますが、どのように受けとったかは人によってまちまちのようです。蓮實重彦『物語批判序説』では、フローベール『紋切型辞典』とのかかわりから、「作者の死」を「作者は死んだ」という紋切型のテーゼへ単純に変換して取り扱ってしまうことに対する批判が繰り広げられています(中でも、「作者の死」を読んだ(あるいは読まなかった)人たちは「作者が死んだ(のか?)」と騒いだけれど、当のバルトは「作者の死」で、決して「作者は死んだ」と手放しで断言したりはしていないという旨の指摘は、とても重要であるように思います)。

こうしてみると、「ロラン・バルトが1960年代末にこれを宣言して以来、文学研究に作者の伝記的事実は不要である、というのは常識的な言説になっているのだ」というのは、ひとまずアメリカを中心とした道具主義的な受容についての指摘だと言えそうです。

3.「作者の死」よりも前に 

ですが、ここで、「作者の死」を「文学研究に作者の伝記的事実は不要である」というようなことの宣言として把握すること自体を、考え直してみる必要があると思います。

まず、全体の印象から言えば、そもそも、「作者の死」の文章には、教条的な宣言というよりは状況の記述という感じが強く見受けられます。すなわち、文学的なスローガンというよりは、当時の状況を歴史的な流れの上に位置づける試みとして読むほうが自然であるように思います。それによってバルトは過去の営為と現在の状況の両方に対してひとつの説明を加えているという風に読めます。

さらに言えば、実は、そもそもバルトの「作者の死」よりもずっと前から、「文学研究に作者の伝記的事実は不要である」というようなことはすでにあからさまに言われています。

たとえば、プルーストの『失われた時を求めて』の執筆は、もともと、「サント=ブーヴに反論する」という批評の草稿からはじまりました。このサント=ブーヴという批評家は、サロンで出会う作家たちの人柄をよく知ることが、その作品を批評する上で重要なことだと考えていました。プルーストは、そこに噛み付こうとしていたのです。それがもとになった『失われた時を求めて』は、書かれたことがすべてであるような小説です。そこでは、書物はもはや作者の人生による説明を必要としません。書かれた物語が書物それ自体を説明するための人生そのものになっているからです。バルトは、かなり若い頃からプルーストの愛読者で、それは彼の仕事の随所に現れています。「作者の死」でも、作者が作品の起源であるというあり方に揺さぶりをかけた作家として、マラルメやヴァレリーと並んで彼の名前が出てきます。

さらに重要なのが、サルトルの『文学とは何か』です。この本なしにはバルトの最初の単行本である『零度のエクリチュール』が書かれることはなかっただろうというくらい、バルトを知る上でも重要な本です。バルトが彼にとっての日本について書いた『記号の国』も、そのタイトルが『文学とは何か』の一節に由来しています。『文学とは何か』は、書くことをめぐる哲学的な考察ですが、それによれば、作品の意味を生み出すのは読者であって、作者ではありません。サルトルの考えでは、読むことには自由があってしかるべきなのです。

ここまでで、もし「作者の死」を「文学研究に作者の伝記的事実は不要である」というようなことの宣言だと見なすなら、その主張は決して「作者の死」に独自のものではないということを、バルト自身の伝記的事実を手がかりにしつつ、しかしながら伝記的事実それ自体を彼が書いたものの根本的な原因とみなすことなしに、こんなふうに(極めて大ざっぱにですが)示すことができたということを確認しておきたいと思います。

たしかに、このことだけでは、バルトの「作者の死」を「文学研究に作者の伝記的事実は不要である」というようなことの再三にわたる宣言のひとつとみなす議論と必ずしも矛盾しません。バルトが、すでに繰りかえされてきた主張を繰りかえすことで、オリジナリティと切り離されたテクストの書き手の仕草を実演し、まさに作者という概念を死に至らしめているというなら、それはそれで一貫性のある読みかもしれないからです。

4.テクストの起源批判

ですが、僕は「作者の死」がどうもそういう文章ではないような気がしています。バルトが「作者の死」を発表したのは1968年です。その前の1967年に、フランスでは思想史上の大きな事件がありました。デリダが『グラマトロジーについて』、『声と現象』、『エクリチュールと差異』の三冊を出版したのがこの年です。これによって、たとえば、ソシュール以来の記号学・言語学が大きく揺さぶられることになります。デリダの批判はさまざまな領域に及んでいますが、僕の理解する限り、これらの著作の中で、デリダは、それ以上遡ることのできない絶対的な起源というものを認めないという一貫した立場をとっています。とりわけ、「差延」や「代補」などの重要な概念はデリダのこの立場と関っているといえるでしょう。そして、「作者の死」には、それにかかわる「起源origine」や「痕跡trace」などのデリダ的な語彙が頻出しています。

デリダによる批判は、『文学とは何か』にも決定的な打撃をあたえるものです。サルトルの議論では、作品の創造を完成させるのは読者であるとしても、結局、作者が作品の起源になってしまっているように読めます。作品を書くのは作者であって、それによって作者は読者に対してメッセージ(それはサルトルに言わせれば作家自身の魂です)を送ります。それを図にすると、次のように表わすことができるはずです。作品は、方向を持った線分です。

   作者―《作品》→読者

でも、デリダのような考えを認めると、もうそんなことは言っていられません。

――――《テクスト》→読者

こんなふうに、テクストというのは、あえて図で示すとすれば、終点はあるけど始点のはっきりしない半直線のようなものとして理解されるようになるでしょう。起源は見えません。

以上に照らし合わせると、「エクリチュールはあらゆる声、あらゆる起源の解体である」とし、さらにまた「テクストの統一はその起源にではなく、その宛て先にある」とする「作者の死」は、たとえば、サルトルをデリダ以後のために書き換えたもの、あるいは、ずらしたものとして読むことができるのではないでしょうか。すなわち、『文学とは何か』に見られるような読者論を『グラマトロジーについて』に見られるような起源批判に沿わせたものとして読めるのではないでしょうか。「作者の死」にはサルトルの名もデリダの名も直接には出てきませんが、彼らは、彼らの用いた言葉によって(考えようによっては、名を記されるよりもずっと直接に)このテクストに刻印されています(もっとも、サルトルやデリダにしても、彼らの用いた言葉をどこかから借り受けていたに違いないのですが)。言ってみれば、「作者の死」とは、そういう「引用の織物」なのではないでしょうか。

そう読むと、もはや「作者の死」の主題は伝記的事実の取り扱いなどではなく、書くことと読むことの究極的な起源の不在であるということになります。したがって、この読みにおいては「作者の死」を「文学研究に作者の伝記的事実は不要である」というようなことの宣言だとみなすことはできません。実際、「作者の死」には、直接そのように書かれた箇所はありません。そもそも、話題は必ずしも文学に限定されてはいません(そこにはヴァン・ゴッホやチャイコフスキーの名さえ出てきていますし、重要なところで演劇についての記述がみられます)。すなわち、そうした把握自体が、「作者は死んだ」というのと同様、多かれ少なかれ読みの産物なのです。

テクストは、たしかに作者の伝記的事実や彼を取り巻いた歴史・社会などと合わせて読むことができますし、ときにはそれが必要とされる場合もあります(まさしく「作者の死」の中にそうした読みの具体例がいくつも示されています)。作者の伝記的事実、さらに作者を取り巻いた歴史・社会などもまた、テクストだからです。しかしながら、逆に言えば、それらもまたテクストに過ぎない以上、別のテクストの起源すなわち原因ないし本意とみなすことはできません。「作者の死」では、もろもろの固有名詞が、まさしくその点で慎重に取り扱われているように読めます。たとえば、バルトは『失われた時を求めて』の登場人物シャルリュスと実在の人物モンテスキューとの関わりについて、「シャルリュスがモンテスキューに似せてあるのではなくて、モンテスキューが、その逸話的、歴史的な現実の中で、シャルリュスの、副次的な、派生した断片にすぎないのだ」と言及しています。伝記的事実を抜きにはこのように両者を結びつけることはできないはずですから、ここでバルトがプルーストの伝記的事実を参照しているのは明らかです。しかし、バルトは、まさしくその参照によってプルーストの伝記的事実を『失われた時を求めて』の起源としてしまうような考えから外れてみせています。バルトがここで、「逸話的anecdotique」「歴史的histrique」という形容によって、僕らの語りうる「現実」もまた一種のテクストに過ぎないことを示唆している点には注意を払う必要があるでしょう。伝記的事実を参照しながら、このように書くことができるのです。

したがって、「作者の死」を次のように読み返すことができるはずです――バルト自身がしているように、必要なときには作者の伝記的事実や作者を取り巻いた歴史・社会なども呼び出すことができるし、(「必要」であるというなら、当然のことながら)しなければならないが、今日ではそれはテクストの起源を解き明かすことにはならない。なぜなら、テクストにはそもそも真の起源などないと考えられるようになったからだ、と。

こうなると、「作者の死」はそれほど特別なことを言っているわけではなさそうです。実際、そう特別なことを言っているのではないのだと思います。すごく慎重に、バルトは彼自身が正しいと考えることだけを書いたのではないでしょうか。


筑紫磐井から福田若之
the Letter from Bansei Tsukushi to Wakayuki Fukuda 

ありがとうございます。

堀下さん~福田さんの私信を、無理をいって掲載させていただきました。

とうとつに始まり、とうとつに消えた感じのある「バルト論」にうってつけの方に参入してもらえたと思います(私が福田さんの名前に始めてであったのは、「週刊俳句」の長大なバルト論であったように思いますので正にうってつけでしょう)。しかし参加して頂いた早々で申し訳ありませんが、かといってもともとバルト研究会として始まった連載ではないので、これをはじめから読んでいる読者はいささか戸惑いがちのこともあると思いますので、読者に変わって少し質問させてもらいます。このコラムが本来の流れにうまく戻るように、さらに少しご協力いただければありがたいです。

お話を伺うと、前半(2.)の丁寧な各国の受容についての料理と、後半(3.と4.)の福田さんのユニークな解釈(ユニークというと失礼でしょうか)で、「作者の死」が浮かび上がってくるように感じられました。ありがとうございます。現代文学(?)に関する教養とは思いますが、教科書的に、現代の文学の理解としてこれを習わなければ文学論が成り立たないというものではない(大体どこの文学論?と聞いて見たくなりますが)と感じましたが如何でしょうか。

ついでに素朴な質問をさせてもらえれば、バルトがそうしたテクストで想定しているのは、文学作品なのか(そもそもその文学も何なのか)、ゴッホやチャイコフスキーが出てくるとすると(それでもまだ芸術、美術という理念的なものがまとわってくるような気がしますが)もっと幅が広いものか、さらに(日本の多くの文芸評論家が忌避する)浪曲や雑俳、などが入るのか(当然入っているように思いますが)などについて、何かヒントになる発言はあるでしょうか。

実はバルトを置いてきぼりにしてすでに走っているこのコラムの議論は、「作者の死」よりも、俳句は文学である、文学であるべきである、という考え方の当否の方に移りつつあるのでこんなことを聞かせて頂いたものです。


以下は質問ではなくて感想ですが、つなぎのように書かれている1.も実は興味深いものです。何気ないように見えますが、この文章でも解るように、バルトフォロワーなるものは永遠にバルトから抜け出せないものでしょうが、福田さんは何もバルトに命を捧げたわけではなくて、来たるべき福田若之の完成のためにバルトと伴走しているだけだと思います。福田さんの独自の道は、いずれバルトから分岐するのでしょうが、それがいつかは解りません。私は、3.及び4.(特に4.)は既にバルトから少し離れているのではないかという気もします(ユニークといったのは皮肉ではなくてそういう意味です)。確かにバルトの解釈として正しそうには思えますが、ここまでバルト自身が考えていたのかどうか、門外漢である私には解りません。少なくとも、世のつね言う「バルトフォロワー」とは違っていそうですね。

「作者の死」に話を戻すと、「群青」で堀下翔さんが私の近著『我が時代』の鑑賞をしてくれていました(第6号)。実に興味深い鑑賞ですが、そこに書かれている筑紫磐井は私にとって初対面でした。

実は、この前の号に大塚凱さんが岸本尚毅の近著『小』の鑑賞をしており(第5号)、至極納得させられましたが、それでも多分ほんものの岸本尚毅と違う岸本尚毅ではないかという気がしなくもありません。

実は近刊の「ウエップ」86号(6月刊行予定。これがアップされる頃は、既に出てしまっているかも知れません)で岸本と筑紫が自らを語る特集をしています。そこでは、『小』『我が時代』の見かけ上の起源(あるいは既に死んでいる作者)である岸本尚毅・筑紫磐井が自らを語っているわけです。作者が生きているか死んでいるかをこれらによって比較・検証するのも一興かもしれません。

いささか駄弁が多くなりましたが先ずこんな質問をさせていただきます。


福田若之から筑紫磐井
the Letter from Wakayuki Fukuda to Bansei Tsukushi 


まず、磐井さんからのご質問に答える前に、自分の文章の取りこぼしを二点だけ、ここで補っておくことをお許しいただきたく思います。そもそも僕は情報提供のために呼ばれたわけですし、出来る限りそれにお答えしておきたいのです。よろしければお付き合いください。読み飛ばしていただいても構いません。

1. まず、「作者の死」の日本での広まりについて、補足しておきます。僕のほうで見落としがなければ、1975年10月の『エピステーメー』誌の創刊号に掲載された篠田浩一郎訳が公刊された初めての日本語訳です。ただし、このときには、タイトルが「作者の死」ではなく「作者の不在」と意訳されています。おそらく、当時はまだ、「作者の死」と訳せば具体的な作者の伝記的な死の取り扱いについての議論だと誤解されるような時代だったために、このような訳が選ばれたのでしょう。なお、今日一般に流通している花輪光訳の「作者の死」が収められた評論集『物語の構造分析』の出版は、さらに4年後の1979年の11月のことです。翻訳によって文章の全容が一般に知られるまでにこれだけのタイムラグがあったことは、日本での受容のあり方を語る上でまず最初に触れておくべきことでした。

2. それからもうひとつ。書き手としてのバルトの経歴からも「作者の死」を位置づけることができるということは、やはり触れておくべきだったと思います。彼が1963年に出版した『ラシーヌ論』が巻き起こした論争が「作者の死」につながるものだったことは否めません。バルトはこの『ラシーヌ論』のなかで、おおざっぱに言えば、ラシーヌの書いた戯曲を現代においてどう読むことができるかということを書きました。すると、レーモン・ピカールを筆頭とする人たち――この人たちは、やはりおおざっぱに言えば、ラシーヌをラシーヌの生きた時代に即して読もうとする人たちです――が、バルトに強い批難を浴びせました。冷静に眺めれば、それぞれの立場はそれぞれに意義があって、ほとんど競合するところがありません。ですから、ピカールたちがバルトに横槍を入れる必要はなかったと思うのですが、あまりにも違う考え方を受け入れがたかったのでしょう。バルトにしてみれば不当なバッシングにあってつらいというのが本音だったのだと思います、1966年の『批評と真実』では、新批評を批判する旧批評にいささか困惑しながら、旧批評側の排他的な振る舞いがさまざまなイデオロギーに縛られていることを指摘しました。バルトの主張するところでは、旧批評の問題点は、自分たちが縛られているイデオロギーに無自覚なことです(決して、イデオロギーに縛られていることそれ自体を批難しているのではありません。バルトは、自身の著作を含めてあらゆる批評はイデオロギーから逃れられないと考えています)。旧批評は自分たちがイデオロギーに縛られていることに無自覚だから、自分たちと違う考え方に不寛容になってしまうのだということです。旧批評を縛っているそうしたイデオロギーのなかには、後に「作者の死」で批判されたような考え、作者を作品の起源や造物主の類と見なす考えも含まれています。ラシーヌが書いたものを読むには現実の作者ラシーヌに従わなければならない、と彼らが考えていることは明らかです。バルトは、ラシーヌが書いたものに基づいて作品に今日的な意義を与え、ラシーヌを更新するという立場をとったわけですが、それによって旧批評の営為を否定することはけっしてありませんでした。自分の立場が限定されたイデオロギーに基づくものでしかないことを分かっていたからです。「作者の死」をバルトの経歴の中で位置づけるなら、こうした流れから出てきたものとして捉えることもできます。

……さて、長くなりましたが、ここからはいただいた質問に僕なりにお答えしたいと思います。


(お話は長くなりますので、ここで休憩。続きは次回をご覧ください)

【筑紫往復書簡ゲスト紹介】

  • 福田若之 ふくだ・わかゆき;

1991年東京生まれ。「群青」、「ku+」に参加。共著『俳コレ』。マイナビブックス「ことばのかたち」 にて、「塔は崩れ去った」掲載中(更新終了)。





2015年5月1日金曜日

「評論・批評・時評とは何か?――堀下、筑紫そして・・・」その8  /  筑紫磐井・堀下翔



22.堀下翔から筑紫磐井へ(筑紫磐井←堀下翔)
the Letter from Kakeru Horishita to Bansei Tsukushi 

俳句は文学か、という話になりましたね。僕の短い人生でもガキから大人までが折に触れて議論を戦わせていたりあるいは持論を展開していたりしている印象があります。俳句は遊びだ、とか、俳句は庶民のものであって「学」ではない、とか、そういったあたりの話はよく聞くところで、それは少し精神論めいているような気もしないではないのですが、とにかく俳句は文学ではないという言説は根強い。第二芸術論を俟つまでもなく、です。

たしかに〈文学〉の概念は文明開化で流入したものですから、俳句に限らずおよそ全ての古典は文学としては書かれていません。その点、自らに文学意識を課した明治以後の作家とは区別する必要があります。〈文学〉の誕生とともに国民的歌謡「としての」万葉集、国民的長編小説「としての」源氏物語、国民的英雄譚「としての」平家物語がここに改めて成立していっただけであり、それらは〈文学〉として書かれていったものではない。そういう意味で俳句を文学ではないと言ってしまうことはできるでしょう。がしかし万葉集は、源氏は、平家は、文学ではないのでしょうか。明治以後百年以上を費やしてそれらを文学として捉えていった行為はすべて無駄だったのでしょうか。そうではないのは明白 だと僕は思います。言い換えればそれは文学という方法で個々の作品を読む行為のことであって、源氏にせよ俳句にせよ、それは文学として書かれていない、と言って切り捨てるのはお門違いの感があります。その枠組みの中にあって、バルトの発想をこれに用いるのが適切かどうか、という話があるのみではないかな、と。尤も以上は全て直感的な発言ですが。

いくつかテクストに関して質問がありましたが、回答は少し先延ばしにします。〈「テクスト」には作者は不要であり、編集者こそが不可欠だからです〉が特にそうなのですが、いまひとつ呑み込めないところがあって、ちょっとそれは違うんじゃないの、とは思っているのですが、いましばらく整理してからお返事したいと思います。

それにしても(と時間稼ぎをしますが)、やや意外なのは俳句は文学ではないと言った同じ人が俳句は詩であると考えておられるところです。俳句は文学か、という設問とごく似た場所にあるのが俳句は詩か、の問いだと思います。俳句は詩ではない、という人ともよく会います。僕は上と同じ理屈で、俳句の言葉を詩として捉えることにはそれなりの意味があると思っていますが、日常お世話になっている島田牙城などはことあるごとに俳句は詩ではないと書くので、そこだけは相いれません。この一派には詩という言葉を現代詩と同一視しているようなところが往々にしてあったりもして(前衛俳句に対して「現代詩の一行のような」といった評をするのは常套手段でしょう)、そういった意味ではたしか に別物ではあるのですが、音楽的な、喚起的な言葉を詩と呼ぶとき、そこには俳句もあるように思うのです。これもまた僕のカンです。お伺いしたいのは、磐井さんはどうして俳句を詩だと思われるのか、という点です。


23.筑紫磐井から堀下翔へ(堀下翔←筑紫磐井)
the letter rom Bansei Tsukushi to Kakeru Horishita 

1.俳句は文学ではない

(1)「俳句は文学でない」派は、全く俳句は文学でないとは言っていません。我々は、現代に息する以上、俳句も文学であるという見解の影響を受けてしまっています。「俳句は文学でない」派は、乱暴にいえば、俳句は50%ぐらいは文学であるが、文学となっていない50%ぐらいがあると考える人々です。「俳句は文学である」派が余りに横暴であるから、少しそれをオーバーに言っているのです。これくらい言わないと、「俳句は文学である」派は反省しないからです。石田波郷も、高濱虚子も、山本健吉もここでいう趣旨とそうは違っていないと思います。

一方、「俳句は文学である」派は、俳句は100%文学であると信じている人々です。逆にいえば、俳句に文学でない要素は全くないと考えているような人々です。その意味では教条主義的な発想が強いといえます。例えば、花鳥諷詠俳句をこれらの人々は、文学ではない、近代以前の抹殺すべき俳句だと考えます。これは間違っているということを主張するために、「俳句は文学でない」派に与しているにすぎません。

こんな心をこめて私は次のような句を詠んだことがあります。なかなか好評でした。


  俳諧はほとんど言葉すこし虚子 磐井

(2)議論を進めて、御質問の「万葉集は、源氏は、平家は、文学ではないのでしょうか。明治以後百年以上を費やしてそれらを文学として捉えていった行為はすべて無駄だったのでしょうか。」は全く異議がありません。当然のことです。ただこれは裏返して「「(万葉集、源氏、平家について)明治以前1100年以上を費やしてそれらを文学でないものとして捉えていった行為」も尊重すべきでしょう。近代100年の歴史を尊重して、近代以前1100年の歴史を無視するのは筋違いです。

俳句は文学でない」派は上にのべたように折衷派――日和見派なので両方の見解を受け入れることが可能ですが、「俳句は文学である」派は寛容性が無いために上のようなダブルスタンダードの受け入れは不可能ではないかと思います。

ついでながら、文学として受容されていない万葉集、源氏、平家、あるいは俳句、短歌などが、文学としてすべて受け入れられたわけではありません。それはジャンルによる厳しい選別が行われているのです。近代による、「近代以前」の圧殺です。あまり適切な例とは言えませんがその破壊力がすさまじかった例として、また身内破壊の例として、明治の国家神道(神の道を近代に昇華させたもの)をあげましょう。国家神道は、日本全国の村々の神社を多く破壊していきました(県によっては90%の神社が破壊され、二度と復元できなかったといいます。(驚くことに異教徒やGHQでなく)明治政府そのものがある意味で最大の神社の破壊者であったのです。これまた余談になりますが破壊したその理由は、国家が奉納しないといけない幣料を節約するための行政改革であったといいます。誠に合理的な判断で即座に納得してしまいました)のと通う恐ろしさがあります。例えば「俳句」は確かに文学として受け入れられていただいたようです(ここではわざわざ敬語を使ってみます)。「川柳」はやや微妙なところがあります(私ではなく「俳句は文学である」派の受容態度です)。「雑俳」は、たぶん世間一般、また「俳句は文学である」派では文学として受容されていないと思われます。そう、文学として垣根を立てる以上このようになることは避けられないでしょう。私は、「俳句は文学でない」派なので、何ら垣根を立てず、現在残る「文芸塔」冠句、岐阜狂俳、「自由塔」狂俳、土佐テニハ、肥後狂句、薩摩狂句など、地方地方の芳醇なる雑俳文化を文学でないと言って否定する態度はとりたくないと思っています。

最後に言えば、「俳句は文学でない」派は謙虚ですから、以上のように文学か文学でないかを裁断することに関心を持ちません(「俳句は文学である」派は厳しく裁断するから、その意味で桑原武夫と何ら変わらないでしょう)。私に関心があるのは、なぜ文学でない要素が俳句に入っているのか、文学でない言語芸術(これもまたややこしい用語ですが)が他にないのか、文学でない要素はどのような豊かさを持っているのかであり、それを確認したいと思うだけなのです。


2.俳句は詩である

(1)俳句は文学でないといいながらなぜ、俳句が詩であると言うのか。


上述の「俳句は文学である」派批判で私が取ったのは、論争の簡略化です。長くくどい文章を費やさないでも一言で納得できる理窟を採用したのです。「俳句」―――少なくとも芭蕉の俳句(これも俳諧と言わなければなりませんが)が文学であるかどうについて消耗な論争するよりも前に、(近代以前の俳人の代表である)芭蕉は「文学」という言葉を使ったことはなく、芭蕉の頭の中に俳句は「文学」であるという思想は存在していなかったと、形式的に整理する方が手っ取り早いからです。

もちろん、文学の内実が実は芭蕉の中に存在していたことはあり得るのですが、それは「芭蕉の文学」と簡単に言ってしまうのではなく、様々なジャンルとの関係で緻密な議論をしなければなりません、もちろんこれは有益ですが、そう簡単に結論は出ないように思われます。また、そうして明らかになる文学は、あなたの今考える文学、私の文学、未来の読者の文学とも少しずれているかもしれません、それはまだ学問的に究明されていない領域であるような気がします。間違いなく、夏目漱石の父親の「文学」とは違います。

      *

同じ論法を、「伝統」という概念を使って、芭蕉は伝統という言葉を使ったことはなく、芭蕉の頭の中に俳句は伝統であるという思想は存在していなかったと、言ったのが、堀切―筑紫の論争における私の主張です。文学よりは領域が限定されているだけに、芭蕉の伝統、子規の伝統、虚子の伝統と比較する議論が多少進んでいるように思います。

このような、前処理論争として考えてみると、「芭蕉は「詩」という言葉を使ったことはなく、芭蕉の頭の中に俳句は「詩」であるという思想は存在していなかった」と、直ちには、――つまり形式的にいえないことは明らかです。芭蕉の時代に明らかに「詩」はあったからです。いや、芭蕉は盛んに「詩」を論じているからです。だから「俳句は詩である」という命題は(「俳句は文学である」という命題ほどアナクロニズムではなく)ただちに間違っているわけではないと思います。

(2)ただ賢明な堀下さんには言わずもがなですが、「俳句は詩である」とは、「俳句は現代詩であると言ってはいないことです。これからいろいろな、議論をすることになるので滑稽な論法も多少使わなければならず、ナンセンスを承知でいえば(実はナンセンスの中にも本質は存在する可能性があるのですが)「俳句は詩である」とは、「俳句は漢詩である」に近似しています。あきれる前に少し聞いてください。

「詩」とは明治初年は明らかに「漢詩」を指していました。我々が思う詩は、「新体詩」と呼ばれていたようですがそれさえ確定的ではありません、まだ呼称は揺れていたようです。明治中期に、漢詩を「漢詩」というようになり、新体詩を「詩」と呼ぶようになりました。帝国大学図書館の関係者たちが、広義の「詩の本」を分類するとき、図書分類を「新体詩」・「詩(漢詩)」→「詩(新体詩)」・「漢詩」に切り替えていったようなのです。文部省の帝国図書館(現国会図書館)より、帝国大学図書館の方が先んじているようですが、これは帝国大学教授たちが編んだ『新体詩抄』の影響があったかもしれません。なお言っておきますが、これらは私が途中までしか研究していないので確定的な答えではありません。ややいい加減な話であるが、まあ少なくともこんな経路で詩の由来を調べる必要があるということだけを納得して頂ければ結構です。

従って芭蕉の頭の中にある詩は、明治初年の「詩(漢詩)」「新体詩」との対立構図の中で理解できるということです。もちろん芭蕉の時代には「新体詩」が存在していないのはいうまでもありませんから、「漢詩」のようなものです。

(3)更に「詩」の場合は複雑な要因が存在しています。歴史の長い詩だけに、「文学」という用語にはない困難が存在しているのです。

①前回、私の初学の教科書が『文心彫龍』だといいましたが、『文心彫龍』やそれと兄弟関係にある『文選』をみれば詩の周辺には、騒、楽府、賦、頌、讃、銘、箴、誄、哀、碑、墓誌、行状、弔問、祭文から経、緯まであることが分かります。「詩」(「詩経」作品と考えてよいでしょう)といったからと言って「騒」「楽府」を除外することは絶対におかしいはずです。ということは、詩の周辺がどこまでであるのか、古代も現在も、わからないのです。とりあえず「詩」といいましたが、その意味することろは『文心彫龍』レベルの「詩の周辺」、分かりやすく言えば「詩のようなもの」ということなのです。

②さらに日本の例で照らしても、明治の新体詩を考えれば、古い詩とどれだけ隔絶があるのかは判然としません。『新体詩抄』(明治15年)は明らかに定型詩です。様々な韻律を用いながらも口語自由詩ではありません。「グレー氏墳上感懐の詩」を見てみます。

山々かすみいりあひの 
 鐘はなりつつ野の牛は 
徐々に歩み帰り行く 
 耕す人もうちつかれ 
やうやく去りて余ほとり 
たそがれ時に残りけり 
(下略)

これらが俳句と兄弟関係にあるということは、和歌、和讃(今様)等との関係を踏まえて実感としておかしくはないでしょう。定型詩の形式から言えば、少なくともここに掲げた詩は「和讃」と全く変わるところはないからです。

だから日本語の実態に即していえば、私の言った「俳句は詩である」は「俳句は詩のようなものである」なのですが、さらにいえば「俳句は詩(うた)のようなものである」といった方が正確かもしれません。

これは新体詩と歌・歌謡の関係ですが、更に言えば、前述のように明らかに対立関係にあるはずの漢詩と新体詩の関係を見ても、両者の関係が途切れてしまうものでもありません。新体詩の最も初期の傑作落合直文「孝女白菊の歌」(明治21~22年)が『新体詩抄』の編者のひとりである井上哲治郎の漢詩作品(これらの関係は頭がおかしくなりそうです!)「孝女白菊詩」(明治17年)の完全なる翻案であることはよく知られています。ある段階においては、漢詩を読み下し文にさえすれば新体詩が生まれることもあり得たのです。

    *

ここでは余計なことですが、ある時期に、新体詩と現代自由詩との一種の革命的な断絶関係が生まれたのです。(新体詩から現代詩への過渡については、「現代詩手帖」2004年8月号<伊良子清白とその時代>筑紫磐井「伊良子清白と口語」で私の仮説を論じておきました)。こういうものこそ文学研究ではやるべき課題だと思います。

③従って私が、「俳句は詩である」といってもよいのではないかという漠然とした感じは、正確にいえば「俳句は詩のようなもの(「騒」「楽府」「新体詩」を含む)である」ということになるかもしれません。少なくとも、「俳句は現代詩である」は誤りです。舌足らずであったのでそのような誤解を受けたかも知れないので訂正しておく、少なくとも、「現時点において」俳句は現代詩であるとは、私は言っていないのです。

(4)というようなことをいくら延々と言ってもしょうがないので、結論としては「俳句は50%ぐらいは文学であるが、文学となっていない50%ぐらいがある」といっておけば貴兄と議論する場ができるのではないかと思います。花鳥諷詠は文学となっていない50%かもしれません。しかし立派な、「文学ではないかもしれない」(もはや、あまり議論する意味がないのであるが)俳句です。

俳句は文学である」から派生する問題やその解答は、常識で想定できる範囲にありそうです。従って、俳句研究者には余り知的好奇心を呼び起こしてくれません。少なくとも、私の場合がそうです。しかし、「俳句は文学ではない」から生まれる諸課題・現象は「俳句は文学である」に馴染んだ頭からは想像もできない驚きを沢山生み出してくれます。私が、「俳句は文学ではない」から導き出したディテールを細々と説明すると、多くの人は、あまりの非常識に絶句します、しかしだからといってそれを正面から否定する論理を持てないようです。それは部分的な真理だからです。もちろん人を驚かせることが楽しいというだけではない、一番大事なのは、そこから、どうやら俳句の固有性が見えてくるようなのです。俳句は詩ではない、俳句は短歌ではない、なぜなのか。これが「俳句は文学ではない」発想を私が勧める所以なのです。共感していただければありがたいです。



2015年4月3日金曜日

「評論・批評・時評とは何か?――堀下、筑紫そして・・・」その7 / 筑紫磐井・堀下翔


21.筑紫磐井から堀下翔へ(堀下翔←筑紫磐井)


the letter rom Bansei Tsukushi to Kakeru Horishita,Yuki 

筑紫:何も文学論に無理に当てはめる必要はないでしょう。なぜなら我々が扱っている575という作品は文学【注】であるかどうかは解らないからです。

大学で体系的に文学を学ぶ堀下さんなどと違って、私の詩学入門は『歌経標式』や『文心彫龍』等の極めていい加減な本ですが、それだけに自分なりの考え方をまとめるにはいい教科書でした。いい加減はいい加減なりに核心を突きます。その根底思想は、文学などはなく、ジャンルが先にあるというものです。

明治初年に西欧から導入した「文学」という概念を、それを遡ること三~四百年の俳句ないし俳諧に適用するのはどことなくおかしいようです。明治二十年代に帝国大学に入学した夏目漱石に、が大学に入って何をするのか、と聞いたので、漱石が「文学(ご承知の通り漱石は英文学専攻です)だ」と得意げに答えると、父親が「何、軍学?」と答えたという有名な話があります。これは父親が迂闊なのではなくて、父親のような人間ばかりがいる、ちょっと前まで江戸と呼ばれていた東京で、「文学」と言って通じると思っていた漱石の方が迂闊なのでした。

このような時代混乱・時代錯誤は、最近俳文学者の堀切実氏と論争して浮き彫りになっているところです。私が、俳句で「伝統」ということばが生まれたのは(子規以前にはなく)せいぜい虚子からであり、それを遡って芭蕉にまで「伝統」を使うのはおかしい、それなら「正風」「道統」というのがいいところではないか、といったのに対し、堀切氏が岩波の「文学」で堂々と反論されたことがあります。もちろん、堀切氏が間違っているとする論拠は、私の『戦後俳句の探求』をご覧になればよくお分かりの通りです。こと程左様に「文学」「伝統」などの言葉が怪しげであることは知らねばならないでしょう。

『定型詩学の原理』で指摘しておいたのですが、「文学」が今日の意味で用いられたのはそう古いことではなく、フランスの『百科全書』、カントの批判哲学、ヘーゲルの芸術論においても「文学」はまだ登場しません(これらにおいても偶然かも知れませんが、『文心彫龍』同様言葉の芸術の前にジャンルがあると述べているように解釈しました)。この時代以前は、文学はまだ「文字」の意味に近いものであったようです。「文学」に代わって芸術論でいわゆる文学作品の考察の際盛んに論じられたのは、実は「詩」でした。アリストテレスの『詩学』以来の伝統のあるこの概念に立って、俳句は詩であるか、と問うことは意味があると思いますが、俳句は文学であるかはあまり適切な質問とは言えないと思います(その割には最近、詩は滅亡したと詩人自身が言っているようですが。これは皮肉)。

だから我々は「文学」から解放されて、「定型詩」を考えるべきでしょう。ご質問の、<日本の俳句の世界ではまったく浸透していない>というのは事実でしょうが、そもそも浸透すべき環境にあるのかどうかは、上の理由からよく考えてみるべきでしょう。「俳句は文学ではない」(波郷)、「俳句は無名がいい」(龍太)「滑稽・挨拶・即興」(健吉)は俳人の血肉になっている思想だからです。

         *

その時見えてくるのは「テクスト」です。これはバルトの指摘する前から自明の理なのです。万葉集が文学であるか、詩であるかを論ずる以前に「万葉集」というテクストは存在しているからです。こうしたテクスト論は、バルトのテクスト論と同じと言うべきか、全然別と言うべきか、むしろお伺いしたいと思います。

      ◆      ◆

次に作者がいるかどうかと言えば、定型詩学では、「作者」は存在せず、「編集者」が存在するというのが鉄則です。「テクスト」には作者は不要であり、編集者こそが不可欠だからです。だから、バルトが言う「作者の死」は余り意味がなく(存在しないものは死にようがないからです)、「作者の不在」こそが普遍的真理ということになります。こうした作者論も、バルトの作者論と同じと言うべきか、全然別と言うべきか、お伺いしたいと思います。

         *

『万葉集』で多分間違いないのは、大伴家持という編集者がいたことであり、しかし額田王という作者は存在しなかったかも知れません。額田王はまだしも、有間皇子大津皇子は間違いなく(歌人としては)存在しなかった、古代人の感傷の対象にすぎないといえます。こういう人が、こういう状況にあれば、こういう歌を詠むであろうという願望にすぎません。編集者の意図した作品の焦点が作者なのです。時には、編集者と作者は一致するかも知れませんが(大伴家持。それでも作者の全貌を見せてはいない)、あるいはしないかも知れません、また編集者が観念で創り出した作者(有間皇子や大津皇子)もいるわけです。

もちろん、堀下さんが話題とされた相馬遷子ともなると、近現代の作家ですから余程「文学」の「作者」に近くなりますが、それでも定型詩である以上、句集や馬酔木投稿欄というテクストを通してみているわけで、編集者の一面をやはり残していると思います。遷子は自己演出しているのです。

これに対して批評家が出来ることは、作者の生身を探求することではなく、テクストを通して合理的解釈を作ることです。それが批評であると思います。ただ、相馬遷子のように埋もれた作家になると、世間は遷子のテクストを作ることにすら怠慢であり、個々の批評家自身が埋もれたテクストを探索するという余計な作業をする必要があります。なぜなら、相馬遷子全集ですら不完全きわまりなく、相馬遷子の全貌を浮かび上がらせるものではないからです。これは、我々の研究書『相馬遷子 佐久の星』を読めばよく分かる通りです。だから「調べる」とは、テクスト周辺作業に過ぎません。しかし貴重な作業ではあります。相馬遷子がどのようにして生まれたか、どの様に成長したか、どのように絶望したかを知りたくて調べたといいましたが、何も遷子その人、そのものを科学的に知ろうとするわけではなく、そうした論拠となる作品(テクスト)を追求したというべきであったかもしれません。なにせ、遷子が馬酔木で初めて詠んだ俳句は、我々の『相馬遷子 佐久の星』が出るまで誰も知らなかったのですから。俳句の場合テクストとは、1句である場合もあるでしょうが、テクスト群である可能性もあります。人によって読むべきテクストが確定していない、その状況で批評するのです。不確定なテクストの解釈は、文学論とも、バルト流のテクスト論とも違うかもしれません。
その意味で、我々の行う俳句の批評とは想像であり、壮大な創造でもあります。無から有を作る作業であるといえます。


【注】「文学」とこともなく言いましたが、そもそも「文学」はどこに存在しているのでしょうか。日本文学、アメリカ文学、フランス文学、中国文学に共通する「文学」は果たして存在しているのでしょうか。「世界文学」という概念が、唱えられたようですが、これも新しいものです。

少なくともこのコラムにもっともみじかな定型詩で見れば、日本の定型詩、アメリカの定型詩、フランスの定型詩、中国の定型詩と並べた時の、共通項である「定型詩」は存在しません。個々の定型詩が存在するばかりなのです。

更に言ってしまえば、日本の定型詩は、日本語の文法[辞]と日本語の辞書(単語体系)[詞]からできており、それ以上のものでもそれ以下のものでもありません。

拙著『戦後俳句の探求』で日本の定型詩から「辞の詩学」を摘出しましたが、これは助詞・助動詞の詩学であり、これが日本の詩歌の大きな特色をなしているという主張です。これが他の定型詩との関係でも、特に日本の詩歌と中国の詩歌の根本的な違いを生みます。なぜなら中国語に助詞・助動詞は存在せず(極めて乱暴な言い方で正確ではありませんが、輪郭を理解するために一応こう言っておきましょう)、中国の定型詩に「辞の詩学」はないからです(もちろん別の詩学が存在するとは想像されます)。


かくとだにえやはいぶきのさしも草さしも知らじな燃ゆる思ひを


このような言語原理の詩歌は中国では生まれません。典型的な「辞の詩学」の定型詩だからです。





2015年3月20日金曜日

「評論・批評・時評とは何か?――堀下、筑紫そして・・・」その6 / 筑紫磐井・堀下翔


20.堀下翔から筑紫磐井へ(筑紫磐井←堀下翔)
the Letter from Kakeru Horishita to Bansei Tsukushi .


磐井さんの「詩学」のお話が出てきました。これまでのやりとりの中で聞いておかないといけないと思ったことがこの「詩学」についてです。

僕は先年大学に入ったばかりで、文学の勉強をしているのですが、そこでまず最初に教えられるのは「作者の死」なんです。ロラン・バルトが1960年代末にこれを宣言して以来、文学研究に作者の伝記的事実は不要である、というのは常識的な言説になっているのだ、と。

バルトの理論がどれほど実際的に普及しているのかは不勉強にしてピンときていません。世界での受容度はバルトフォロワーの福田若之なら分かるんじゃないかと思うので今度会ったら聞いてみます。ただ日本の俳句の世界ではまったく浸透していないのは見ればわかります。もちろん「俳句史」となれば伝記的事実の前後関係が織りなすものですから話は違ってきますが、一句一句に関してさえ作者の伝記的事実に関わって解釈されている。遷子の例をこれまで振り返ってきましたが、あの方法はまさに「作者の死」の裏側にあるものだと思われます。それが遅れていると言いたいのではありません。遷子がどのような場所で俳句を書いていたのか、それに思いを馳せることで感ぜられてくる、きわめて身体 的なインスピレーションはあると思います。また、「俳句史」が、つまり歴史的関係が、一句を生み出すことがあるという点も事実だと思います。一番簡単に言えば、この師匠についたから、こういう句を作った、ということです。バルトはその原因と結果から結果だけを取り出そうとしたわけですが、どのような文脈から一句が生じたのかを考えることがまったく無価値だとは僕は思いません。

遷子の例は「作者の死」とは異なった方法論だったわけですが、一方で、進化論的な俳句史に懐疑的だという磐井さんの、たとえば〈虚子・波郷に代表される伝統派と、草田男・兜太の反伝統派の2軸で俳句史を読んでもいいのではないか〉といった把握の仕方は、ダイナミックで、伝記的な俳句史から離れたところで展開されています。独自の史観から独自の把握が得られる、というのが磐井さんの考えていらっしゃることのようですが、その「史観」は、伝記的な事実の前後関係で生じるものではありませんから、ある意味では、バルトのテクスト論と近いのかもしれない、という印象を受けました。

と、いったことを磐井さんとのやりとりの中で考えていたわけです。磐井さんご自身は、西洋的なテクスト論について、どのような付き合いをしようとお考えなのか、気になるところです。


2015年3月6日金曜日

「評論・批評・時評とは何か?――堀下、筑紫そして・・・」その5/筑紫磐井・堀下翔


18.堀下翔から筑紫磐井へ(筑紫磐井←堀下翔)


the Letter from Kakeru Horishita to Bansei Tsukushi .


論争が「評論を誰かが読んでいる」ことのネガティブな証拠であればこそ、なのですね。よく分かりました。論争に変わる何かがあればそれでよい。その何かを考えるのはひとまず置いて、BLOGの批評の話になったので、そちらのことをもう少し聞いておきたいと思います。少し話が離れてしまうかもしれませんが。

このところ短詩界隈で俄かに人気の沸騰している柳本々々が、ブログにこんなことを書いています。

わたしは毎日バックナンバー(堀下註――週刊俳句の)を読み進めているのですが(そのあいだに『週刊俳句』はわたしをおいて未来にどんどんすすんでいくのですが)、週刊なのにこんなにも長く続けておられるのがすごいなあと率直におもうのです。わたしが図書館で閉館まで毎日本を読んでいたときも、寝込んでなにもせずにつっぷしていたときも、ふらふらとチョコレートをかたてに夜の街を遊び回っていたときも、終電のおわってしまった駅の階段ですやすやしていたときも、『週刊俳句』はずっとそしらぬ顔で続いていたのだなあとおもうと、ほんとうにすごいことだって素直におもうんです。(『あとがき全集。』2015/02/18 21:07更新分〈【お知らせ】「夢八夜 第三夜 本屋で鮫じゃんか」『アパートメント』〉)

柳本々々がこのような形で記した「週刊俳句」を読む気分というのが僕にもよく分かるんです。電車の中だとか、本を読むほどでもないけれど時間のあるときだとか、そういうときに週刊俳句に限らずBLOGの批評をさかのぼっては読んでいます。読んでも読んでも読み終わらない。こと僕の場合、作句開始の2012年以前にまったくそれらを読んでいないことも大きいのですが、すでにして巨大化しつつある過去の評論に圧倒されます。その時々の勉強会や書籍に色々な人が言及していて、自分はそれを過去のものとして読み、楽しむ。まさしく「アクセス」という感じです。

BLOG批評の醍醐味はこんなところにある気がしないでもないのです。その時々において何が話されていたか、という点が空気感としてある。時評的文章に限りません。このところ週刊俳句は八田木枯今井杏太郎をよく取り上げています。もちろん運営者とその人との関係性はあるにせよ、記事になればそれがきっかけで読者も増えるでしょうから、あとからこれらの記事を読んだ人は「ああこの時期には木枯や杏太郎が読まれていたんだな」ということを感じるわけです。

このたとえを挿入する必要があるかは自分でも疑問ですが、思いついたので言えば、BOOKOFFの品ぞろえを思い出します。BOOKOFF台頭の時代の子なものですから、小学校のころから本を読みたくなったらここに通いました。それで、さいきん気が付いたのですが、わずか数年のうちにどの店舗でも品ぞろえががらっと変わっているんです。僕が中学校にいた2000年代後半、BOOKOFFにはかんべむさし豊田有恒、横田順彌が置いてありました。ところがここ数年の間にこういった作家はほとんど並ばなくなってしまった(ように思われる)。新しい本ばかりが並ぶようになったわけではなく、同じ時期の本であっても相変わらず出ている作家はいるのです。売られなくなった、並べられなくなった、残らなくなった、いずれのプロセスを経たのかは知りません。ただその時代時代において、新刊でなくとも読まれない作家/読まれる作家がいるのだとBOOKOFFで学びました。

誰が読まれているのか、という時代の空気感をとどめる役割をいまBLOG批評はになっているのではないか、と思います。総合誌も、結社誌も、そういうものはになえるし、あるいはになっていた時期もあるのは承知ですが、BLOG媒体のアクセス性はそれらを凌駕しているように思われました。

と、評論とは何か、という話からはそれてしまいましたが、そんなことを思いました。


19.筑紫磐井から堀下翔へ(堀下翔←筑紫磐井)


the letter rom Bansei Tsukushi to Kakeru Horishita,Yuki 

時代の空気というものはなかなか見定めがたいものがあります。ちょっと前のことですが(堀下さんが俳句を始める以前のことでしょうが)、週刊俳句等で「サバービア(郊外住宅地)な俳句」が提唱されちょっと話題になったことがあります。榮猿丸氏が発端ではなかったかと思います。何か時代をつかんでいるように思われたのですが、それがどのように定着したのか、あるいは猿丸俳句などを論じるときに、これはどのような痕跡を残したのかは分からなくなっているように思えます。多少の論争もあったように思いますから、その意味で「読まれた」ことは間違いないと思います。ただ、時代に対する感度が大事だということは言うまでもありませんが、もう一つどのように定着するかということも不可欠のように思います。定着するかしないかは、それぞれの作家が持っている人生観、まあそれが大げさであれば、ある文学や言葉に対する体系とどう呼応するかではないかという気がします。

以前堀下さんが言っていた(連載⑥)「人間探究派」、あれが定着するための条件を、あの時代の精神の体系で考えてみる必要があると思うのです。

    *

それよりなにより、このところ色々取り紛れて、BLOGはもとより余り俳句雑誌を読む時間もなかったのですが、たまたま「俳句」3月号関さん(編集部注:関悦史)が拙著『戦後俳句の探求』を紹介してくれているのを読みました。拙著そのものというよりは、私と川名大氏との違いを指摘して、川名氏は近代文学の立場にたった「俳句表現史」、筑紫は近代文学的価値評価とは必ずしもかかわらない「詩学」の立場に立つと紹介しているのが面白かったです(ついでながら川名は、90年代の近代文学の終わりとともに取り上げるべき新作句を見失う、と書いています)。成程そう言う面もあるかも知れませんが、俳句史を書く以上前提となる詩学があるべきでしょうし、抽象化された詩学にはその背景に具体的な俳句史観が存在しているでしょうから、そう厳密に切り分けるわけにはいかないかもしれません。

川名氏がいかなる詩学を持っているかは自ら語るべきでしょうが、私の場合は、金子兜太の史観をかなり下敷きにしていることは言ってよいかも知れません。「造型俳句」論で兜太は、俳句史では諷詠的傾向と表現的傾向の対立があったと見ています。諷詠的傾向に「花鳥諷詠」(虚子)「人生諷詠」(波郷)があり、表現的傾向に「象徴的傾向」(楸邨・草田男「主体的傾向」(誓子、赤黄男、三鬼らの新興俳句)があったと見るのです。以前から素朴に思っていた感想、戦前の新興俳句と人間探究派(ある時期からの波郷は除きますが)の本質はそれほど変わらないのではないか、戦後の草田男兜太は実は瓜二つではないか、の答えが、これによりぴったりとした回答を得られることになったように思いました。言ってしまえば、虚子・波郷に代表される伝統派と、草田男・兜太の反伝統派の2軸で俳句史を読んでもいいのではないか。その根拠を「造型俳句」論は与えてくれたのです。兜太にすれば、新しい俳句は常に反伝統派から生まれ、かつ、一層新しくなるためには前の反伝統派を乗り越えなければならないから「造型俳句」を唱えた、と見るのが妥当でしょう。ですから兜太は、独自の史観に基づいて、自分の居場所を定めたことになります。

しかし、言っておくべき事は、この立場に立つ以上、それぞれの詩学が他の詩学を否定する根拠はありません。花鳥諷詠の詩学は、造型俳句の兜太の詩学(兜太の場合は『短詩型文学論』で集約されたと見てよいかも知れません)を否定するものではありません。逆もまた然り。勝敗は詩学ではなく、その詩学で生まれた作品が決めるものであろうと思います。ですから、進化論的な一本調子の俳句表現史について私はかなり懐疑的です。花鳥諷詠はダメだといいつつも、ある日、ある一句によって、花鳥諷詠が傑出した理論になる可能性を秘めていることもあると思います(もちろん可能性だけです)。実は豪放磊落に見える兜太にも案外こうした謙虚さがあるように思うのです。

堀下さんの最初の連載④で俳句史に関する話題があったので、ふと思い出して、書いてみたくなりました。私の場合は、なかなか同じテーマでやりとりするタイプではないので話題が飛びますが今回はこんなことでお答えしておきます。








2015年2月20日金曜日

「評論・批評・時評とは何か?――堀下、筑紫そして・・・」 その4/筑紫磐井・堀下翔



16.堀下翔から筑紫磐井・中西夕紀へ(筑紫磐井・中西夕紀←堀下翔)
the Letter from Kakeru Horishita to Bansei Tsukushi , Yuki Nakanishi.

断定の評論と疑問の評論。その二つを挙げて磐井さんは断定の評論の方がより評論としてはよい、と思っていらっしゃるわけですね。その理由は論争が不毛になるかどうかだ、と。

評論はあっても論争が進まない」とのことで、もしかしたら僕がまさに論争なき時代の人間だからかもしれませんが、現在において、論争が繰り広げられることによってすぐれた評論が生まれるシーンというのはあまり鮮明にイメージできません。このブログや「週刊俳句」といったウェブ媒体、あるいはTwitter上で多少のやり取りがあるのを見たことはありますが、論争とはそんなものではなく、俳壇全体に熱気を送り込み、後々まで思い出されるようなもの、という語感がありますがいかがでしょう。草城、草田男、犀星といった作家が評論を書きまくった「ミヤコホテル論争」などがその代表格だと思いますが、まさに「論陣を張る」という大がかりな表現がぴったりとくる思想を、雑誌の上でぶつけ、ぶつけられた方は反論を書き、雑誌はそれを載せる、そういったものを論争という言葉からイメージします。磐井さんは、そのような応酬あってこその評論だとお考えなのでしょうか。



17.筑紫磐井から堀下翔・中西夕紀へ(堀下翔・中西夕紀←筑紫磐井)
the letter rom Bansei Tsukushi to Kakeru Horishita,Yuki Nakanishi

論争があるかないかが価値があるというより、論争のあるなしで価値が浮き彫りになるということだろうと思います。

BLOG俳句新空間で「―俳句空間―豈weeklyを再読する」を始めています。初回では、「豈weekly」の第0号(創刊準備号)に載った創刊のことば、「俳句など誰も読んではいない」(高山れおな)を掲げておきました。評論・批評中心とした「豈weekly」がどのように立ち上がったか、当時の若い人たち(堀下さんからすれば全然若いとは見えない筈ですが)が、どのように考えていたかは参考になると思いますが、実はこれと裏腹に、当時私は、「評論など誰も読んではいない」のではないかという思いが消えませんでした。正確にいえば、①評論など誰も読んではいない、②読んだとしてもしばらくすれば、溢れる日常の多忙さの中で忘れ去られそんな評論があったことさえ忘れてしまうのではないか、という不信です。

たった今出ている冊子版「俳句新空間」第3号ではこの点について少し触れた批評を書いています。この対談が更新されているころにはお手元に「俳句新空間」第3号が届いているのではないかと思いますので併せてご覧ください。BLOGと冊子の存在意義にかかわる問題にまで話を拡大していますので焦点がぼけているかもしれませんが。

それはそれとして論争があるということは、「評論を誰かが読んでいる」ことのネガティブな証拠であり、また論争を通じて「評論が記憶に残ってゆく」ことの可能性に期待するものです。

2007年から開始された「週刊俳句」(これはもっぱら作品評が多かったと思います)、2008年から開始された「豈weekly」(その後の、「俳句樹」「詩客」「BLOG俳句空間」「BLOG俳句新空間」を含めます)が長い時間を持ち始めたことは否めません。しかし「歴史」というのはやや憚ります。
多少とも歴史に値するのは、『新撰21』『超新撰21』『俳コレ』ぐらいでしょうか。これもBLOGの本来の批評力からいえば、バイプロダクトです。手前味噌になりますが中西さんらと編んだ『相馬遷子 佐久の星』は一応評論・鑑賞のていをなしていると思いますが、これも本となって初めて批評されるものとなりました。

いつの間にか、雑誌の批評とBLOGの批評に話題が転じてしまいましたが、しかしこれに評論集となった評論を加えると、雑誌もBLOGも批評としての危うさが判ってくると思います。あるいは、BLOGや雑誌に掲載された批評を、単行本の評論集とすることの難しさも分かります。雑誌に掲載した時評を評論集にまとめた経験は一度ありますが、その際にはすべてを再構成する意志力が必要であるように思います。BLOGや雑誌の時評は評論集の評論たり得ないかもしれない、と時折反省してみることが必要であるように思います。もちろん、時評に現れた批評家の個性以外のものが、評論集の評論に突如現れることもないのは確かですが。

話を戻せば、BLOGの批評から論争が生まれていないのは確かだと思います。もはやそんなものは必要ないのだという答えもありますが、論争さえない所に、如何なる記憶・歴史があったのか、と考え直してみたいと思います。論争に価値があるとは思いません(社会性俳句論争、前衛俳句論争)。しかし、論争さえない社会が住みよいとも思えません。論争に変わる何かが欲しいところです。

   *    *

長くなったのでここらでいったん打ち切りますが、断定の評論疑問の評論のどちらがいい悪いではなくて、読者がどのように向かい合うかで、断定と疑問になってしまう、ということです。これは入口の議論です。入口さえ通過すれば、断定も疑問も両方の評論家の文体の差に落ち着くでしょう。それはそれで自由にやった方がいいと思います。ただ入り口で、疑問しか出ていない反論はたぶん次に続くことは少ないと思います。今回の堀下さんのように直截的に「磐井さんは、そのような応酬あってこその評論だとお考えなのでしょうか」(これは明らかに疑問形ですが、その背後にムラムラとした堀下さんの反骨・反発が見えてくるようです)と聞かれた方が、話の継ぎようもあるというものです。

2015年2月6日金曜日

評論新春特大号! 「評論・批評・時評とは何か?――堀下、筑紫そして・・・」その3

13.堀下翔から筑紫磐井・中西夕紀へ(筑紫磐井・中西夕紀←堀下翔)
the Letter from Kakeru Horishita to Bansei Tsukushi , Yuki Nakanishi.


なるほど。大事なところを見落としていたようです。評論を書くために調べたのではなく、相馬遷子がどのような人物であったかを知りたくて調べた。遷子その人への興味が、評論を書く行為以前にあったからこそ、調べるということにこだわった話になるのですね。また少し話が戻ってしまいますが、『俳句界』(2014.11)の俳句評論作家アンケートの、「評論を書くきっかけは?」という質問への答え方に各作家間でスタートラインのずれがあったことを思い出します。たとえば田島和生が「新興俳句運動の旗頭とされた俳誌「京大俳句」(昭和八年-十五年)が太平洋戦争開戦前夜、治安維持法容疑で弾圧されたのを知り、もっと知りたく思った」と答えているのは、遷子研究の動機とよく似ています。そのことを知るために調べる、という発想です。いっぽうで今泉康弘の「小森陽一の講義を聞いたこと。批評とは、作品を既存の見方とは違ったものとして示してみせることだ、という教えに刺激された。及び、落語研究者であった亡き中込重明に身近に接して、「調べること」の楽しさを教えられたこと」という答えは、評論を書くこと自体にモチベーションがあることを示しています。

この二つのモチベーションが並立することは矛盾していません。磐井さんの「正義感」というモチベーションはこれらの重なったところにあるものだと思います。

話に戻ります。「評論の本領」という言葉が出てきました。一人の作家を統合する世界観を浮き彫りにすることが評論の本領であり、それは遷子であれば「がどのようにして生まれたか、どの様に成長したか、どのように絶望したか」を調べることによって見えてくる……磐井さんのお話はそのように理解したのですがいかがでしょう。そのうえで意外だったのは、作家その人の世界観を浮き彫りにすることと、一句にまつわる周辺事情を調べることを、磐井さんが全く区別していることです。一句の理解は、一句だけの事実によってなされるのではなく、一人の作家から生み出されたという文脈を踏まえてこそ、成立しているのですね。

実を言えば「調べることの重要さと不要さがある」という言葉にずいぶん悩みました。上の二点の区別にピンとくるまでに時間がかかったからです。


14.中西夕紀から堀下翔・筑紫磐井へ(堀下、筑紫←中西)
the letter from Yuki Nakanishi to Kakeru Horishita, Bansei Tsukushi



堀下さん佐久に行かれたのですね。遷子のことが話し易くなりました。お正月に行かれたとなると、正にこの句の世界に近い空をご覧になったことと思います。

寒星の眞只中にいま息す    相馬遷子

作家を離れて作品はないのですが、事実関係という側面からではない、作品それ自体からのアプローチの仕方があるのではないかと思ったのです。それはこの句が語っている、静謐感や、与えられている環境の中で充分に役割を果たしている充足感を感じ取ったこと、そこから同じような作句傾向の句を探って行くことをしてみたらどうだろうと思ったのです。評論中の作品の鑑賞は一切の情を絡めてはいけないのでしょうか。磐井さんの文章を読んでいますと、論者の感じた作品から受け取れる情感を極力抑えて書かれているように思われます。しかし、この句などは情に訴えて書くと何か広がるのではないかと思いました。

詩論がそれ自体詩であるという堀下さんの発見は面白いですね。わたしが書きたいと思った感情論的評論は、多分エッセイなのでしょうね。多くの俳句の評論も俳句的なのかも知れません。読者もいい意味での俳句の臭みを評論に感じながら読んでいるのではないでしょうか。俳人同士でないとわからないような論点や言葉が臭みとなってあるように感じられます。

磐井さんの文章では評論の本領を書かれているところをもう少し詳しくお聞きしたいと思いました。一人の作者の作品の全体を統合した世界観が見えてくるときがある。おそらくそれが評論の本領ではないかと書かれています。評論の本領についてもう少し例をあげてお願いできませんでしょうか。


15.筑紫磐井から堀下翔・中西夕紀へ(堀下翔・中西夕紀←筑紫磐井)
the letter rom Bansei Tsukushi to Kakeru Horishita,Yuki Nakanishi



評論の本領等というたいそうな言葉を使ってしまいましたが、そんな大それた事をいうつもりではなかったのです。一句を調べることに関心があるかと言われれば正直言ってそうしたことに関心がありません。ただ一句の世界観につながるディテールは、調べてみないといけないことです。その上で、世界観につながらないディテールは捨て去ります。その意味では私は評論に関心がないのですから評論家ではないかも知れません。しかしそうした評論家でない事が口惜しいかといえばちっとも口惜しくありません。

*    *

話が少し硬直しているようなので、恐縮ですが一寸ここで全く話を変えてみます。もちろん評論の本領と全く無関係の話ではありません。


評論には二種類あるように思います。
断定の評論疑問の評論です。

疑問の評論は疑問形で結ぶ命題からなり、断定の評論はそれ以外といえます。だから後者は、肯定形、否定形があるし、時には疑問形を使っていますが実は断定の内容を持つ反語もレトリックとしてはあるだろうと思います。

なぜこんな分類をするかと言えば、断定の評論は論者の主張があるから論争が成り立ちますが、疑問の評論は論者の主張が見えにくくしばしば論争が不毛になる可能性があるからです。

例えば、「これは正しい俳句のあり方だろうか」。これが正しい俳句のあり方ではないと言っていませんから、正統な反論が行われれば撤回するという留保が入っているかもしれません。しかし一方で、正しい俳句のあり方についての論者の主張は何も現れていません。

文脈にもよることなのですが、例えばAが虚子論の中でこうした言葉を使えば、客観写生や花鳥諷詠を批判しているように見えますから、相手のBは客観写生や花鳥諷詠を擁護する論をはるかも知れません。しかし、じっさいのところ、Aは客観写生や花鳥諷詠を否定する明言はないわけですから、「これは正しい俳句のあり方だろうか」に触発されて、B自身が自分の内部に客観写生や花鳥諷詠擁護の命題を立て、自らそれの吟味を始めてしまうことになります。つまり独り相撲の策略に陥っているのです。傷つくのは反駁した人ばかりです、「これは正しい俳句のあり方だろうか」と言った人物は高みから見物しているだけなのです。最近こうした論がふえているような気がします。私は以前、これは評論家の単なる文体問題かと思ってきましたが、どうもそうではないようなのです。評論はあっても論争が進まない理由はこんなところにあるのかも知れないと思います。


評論の本領とは直接関係ないかも知れませんが、何のための評論かを理解しないと評論の本領も見えてこない気がする、という点では根っこはつながっていると思います。