2015年8月21日金曜日

評論・批評・時評とは何か?――堀下、筑紫そして・・・」その10 / 筑紫磐井

25.筑紫磐井から堀下翔へ(堀下翔←筑紫磐井)
the letter rom Bansei Tsukushi to Kakeru Horishita 


●花尻万博「鬼」について

今回、堀下さんの前回の文章を受けるに当たって、『新撰21』『超新撰21』と『俳コレ』のどこで切るかなかなか難しいと思いました。世代的には連続しているけれど、やはり理念が違う選集となっているからです。これはつい最近出た『関西俳句なう』を並べるとますます難しさが浮かび上がります。前回堀下さんが「間に合わなかった世代」(時期的に間に合わなかった世代(堀下翔グループ)と入れなかった世代(西村麒麟グループ)になるわけですが)としてあげられた名前で『関西俳句なう』に掲げられた26名と重なるのは、黒岩徳将さん、山本たくやさんの二人のようで、堀下リストにあげられていなかった人が圧倒的に多いようです(堀下リストは大学生が多いですから当然かもしれませんが)。それにしても、『関西俳句なう』は『俳コレ』以上に、『新撰21』『超新撰21』と理念を異にしているようです。「東京がなんぼのもんじゃ」という愉快なコピーよりは、「船団」という結社を母体として生まれたという本質に基づいているということが大きいと思います(東京の「群青」はこう言うことを企画しそうにもないように思います。たぶん「関西がなんぼのもんじゃ」などとは思ってもいないからです)。そんなこともあり、堀下さんを受けて今回は『関西俳句なう』の若手たちを取り上げてみたいと思いました。ただ、ここにちょっとした不都合があって、今回掲載するのが適切でない事情があり、次回に回すことにして、その前に別の作品を紹介しようと思います。

   *    *

「詩客」の新連載「俳句自由詩協同企画」で<俳人には書けない詩人の1行詩  俳人の定型意識を超越する句>と言う企画を始めました。俳人でも読める「詩」、詩人でも批評できる「俳句」であれば、ある程度共同企画としては意味のあるものになるのではないかと考えたからです(これは私が考えたのであって、代表の森川氏は必ずしもその考えに同調はしていないようです)。ちょうどその時、タイミング良く、第2回攝津幸彦記念賞を花尻万博氏が受賞したので、その第1回を依頼しました。花尻曰く「無茶ぶり」で依頼された、という事でしたが、よくその期待にこたえてくれました。ブログで読むのとは少し違って読めるだろうと思い、今回「俳句新空間」第4号にその作品を転載しました。ご覧下さい。BLOGの主役が若い世代であれば、雑誌の主役は年配の世代でしょう。従って年配者が今回初めて花尻作品を読むことになるので、若い世代以上に年配者にはショックではないかと思います。むしろ拒絶反応が先立つに違いありません。一連の作品評を詩人・俳人にしてもらったところ、詩人は俳人以上に否定的な評が目立ちました。当然予想できることです。「俳句新空間」第4号では作品を転載にあたり少しコメントを書きましたが、余り十分な意を尽くせなかったので、このBLOGで少し補足してみたいと思います。

ただ予想が狂ったのが、このBLOG掲載時には雑誌が出ている筈だったのですが、実は雑誌が1~2週間遅れてしまいそうなのです。従って、読者は解説を先に読んで、後からテクストを見ることになるかもしれません(冊子を読まないで、「詩客」を見ていただいても結構です)。小さいことを気にしなければ、8月中に、テクストと解説が出るので、編集顧問としてはいいのではないかと思っていますが、こんなところが、やや、「豈」的ないい加減さかもしれません。

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テクストを見れば分かりますが、1連10句で5連からなっています。1連は、短律の9句と、前書きの付いた1句(これは正確に五七五となっている)で成り立ちます。各連は、ほとんどが4文字以上10文字以下の短律で成り立っています。ただその前書きが<街に鬼><旧都に鬼><虹に鬼><炭に鬼><花に鬼>という鬼尽くしの前書きです。共に短いので、前書きなのか作品なのかわかりません。とりあえず前書きとしておきましょう。作品が50句と示されているから、前書きを1句と数えてしまうと55句になってしまうからです。しかしいざとなったら、これは単なる計算間違いと言えばいいでしょう(笑)。

一連の中もややこしいです。ルビがあふれていますが、3種類に分類されます。

①本当のルビ:間(あひ)・夜(よ)・市(いち)・舐(ねぶ)り・生米(きごめ)・洗魚(あらひ) 
②アイロニカルなルビ:霊区(まち)・旧都(とうきょう)・寒霞(おに)・鬼(かみ)・室(ひと) 
③ルビか否かわからないもの:虎落笛(こゑする)・沈黙(こゑする)・南北(こゑする)・水鳴り(こゑする)・神楽ふ(こゑする)


さて、ここで根本的な問題。前書きとは何でしょう。前書きが作品に対して自立し始めると、付属的な前書きではなく、独立した作品となります。作品となれば、前書きが作品をしのぐことだとてあるでしょう。作品を凌ぐ前書き、なかなかシュールです。このような企画は、すでに高山れおなの『俳諧曽我』で実験されています。

閑話休題。さて、この構成の中で本質的な問題が幾つかあるようです。まず、前書き。恐るべきは前書きが作品を凌駕することがあります。例えば前書きとは違いますが、書名にも似た事情があります。マルクスの「資本論」は表題だけでも立派な文学作品です、この表題が時代を作り出したのですから。少なくとも、月並みな「経済学批判」とは文学的な価値が違います(似た名称でも「純粋理性批判」はやや文学的な香りがあります。多分、題名のユニークさがあるからでしょう)。世の中には署名は立派だが、中身はない方がいい本もたくさんあるようです。

だから<街に鬼><旧都に鬼><虹に鬼><炭に鬼><花に鬼>の前書きも、作品と違う価値を持っているのです。

次に、「ルビ」とは何でしょう。単なる読み方を示しているだけなのでしょうか。間(あひ)・夜(よ)・市(いち)はそうでしょう。霊区(まち)・旧都(とうきょう)・寒霞(おに)は明らかに読み以上のものを示しています。虎落笛(こゑする)・沈黙(こゑする)・南北(こゑする)はルビであること自身を拒絶しているようです。「虎落笛(こゑする)」は虎落笛(もがりぶえ)、こゑするが並走する音となっているというべきではないでしょうか。

おまけに、各連には「街」「旧都」「虹」「炭」「花」が少しづつイメージとして先導しています。顕在化しているものもあれば潜在化しているものもあります。しかし無縁ではないようです。

こうした構造をいじくるためのテクストが、花尻万博の「鬼」だったのです。こんな作品は確かに先例がないようです。

   *     *

ではいったい、この作品は何を言いたかったのでしょうか。これは何も感性に訴えるものではないようです。50句の俳句の最低限の要素を列挙したということなのです。問題は、例えば4文字で出来ている1章にあと13文字加えれば俳句となるのかどうかということです。おそらく、どんなに文字を加えても、月並み以上の俳句が生まれることはあるまいと思います。


鴨 南北(こゑする)
小火と蛾
比喩、花か

これらの句は、一見未完成のように見えます。しかし何を付け加えれば、完成した俳句となるというのでしょう。これ以上の俳句が生まれようがあるのでしょうか。花尻が読者に出しているのは、鑑賞などではなく、そうした再構成をやれるものならやってみよという挑発であり、禅宗の師家の公案のようなものなのだとえいえるでしょう。もちろん回答は難解難透でも構いません。回答に意味があるわけではないからです。

これを逆転させてみましょう。芭蕉の有名な句を種田山頭火は1節づつ削って行ってみました。そして結局何も残らないことに気づきます。俳句の本質は沈黙にある、と言っているように見えます。


古池や蛙とびこむ水の音
   ・・・蛙とびこむ水の音
   ・・・・・・・・水の音
   ・・・・・・・・・・音

 これを花尻は逆転させてみたのです。「音」から出発させて、「古池や蛙とびこむ水の音」へたどりつく道筋を花尻は示してみよ、と言っているのです。他の詩や短歌では決してできない構造分析を繰り返す、こんなことを考えつくのは、こんな設問を出した出題者と回答者花尻でなければできない技でしょう。




詩客 俳句自由詩合同企画
鬼  花尻万博 (2015/01/31掲載)


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