◆月鉾に大きな夜の降りて来る (松原市)西田鏡子
大串章の選である。評には「第一句。夜になると月鉾が明るくかがやく。「大きな夜」が祇園会の歴史を感じさせる。」と記されている。月鉾は三十余の山鉾の中でも最大のものであり、「大きな夜」が肯けるところである。神話世界には伊弉諾尊が左目を洗って天照大神を、右目を洗って月読尊を生んだとされていて、夜を支配する月読尊を祀ることから「月鉾」と称される。将に月鉾には「夜の降りて来る」訳だ。上五から中七、座五とその句意は誰もが納得のいくものであり、否定のしようが無い。それだけに幾分、叙事的な散文の気味があるのだが、「夜の」の「の」が掲句を俳句にしている。
◆昼寝覚たたみの上に帰還せり (大阪府島本町)池田壽夫
大串章の選である。評には「第二句。戦地の夢を見ていたのか。「たたみの上に帰還」が安堵感を示す。」と記されている。評のように帰還したところが「たたみの上」である事柄が俳なのであるが、シリアスな事を茶化すよりも、逆に安らかな事をシリアスに見直す方が難しいだろう。特に戦争の句は。著名な句に三橋敏雄の「戦争と疊の上の團扇かな」があり、どうしても比べてしまう。
◆夏草や兵士一人の小さき墓 (町田市)佐藤隆市
大串章の選である。兵士=戦争と墓、夏草の取合せは古より普遍のものであるらしい。盆に墓参へ行くと今でも兵位将位の肩書が刻まれた墓石を見付けることがある。毎年のように夏草に覆われながら、朽ちるまで墓石はそうして何時までもあるのだ。その「小さき墓」が「兵士一人の」であることは、墓石に刻まれた文字からわかるのだが、掲句の場合作者自身がその兵士の誰であるかを知る人であるように思える。
◆カタカナの軍事郵便虫干す (堺市)吉田敦子
稲畑汀子選である。出征兵士の死亡通知であろう。七十年余の歳月を経て大事に保管されているのである。
その七十七(朝日俳壇平成27年7月27日から)
◆膝小僧象の頭に似て涼し (京都市)奥田まゆみ
長谷川櫂の選である。「膝小僧」と「象の頭」を相互に比喩しているのである。掲句は「に」の働きから「膝小僧」を形容しているような叙法がとられているが、相互にベクトルが働いているようである。視覚的な見た目の様子が「似て」いるだけではなくて、座五の「涼し」が共通項として決めつけられている。大気にさらされているような体の部位であるだけに、「涼し」は妙な共通性を表現している。両者は「似て」いるから「涼し」いのか?「涼し」くしていることが「似て」いる点なのだろうか。
◆天道虫地球離るる決意せり (岐阜県笠松町)日比野和美
長谷川櫂の選である。出来るものならば地球を離脱してみたい、と考えているのは作者ばかりではないだろう。上五にはその代表者として「天道虫」が提示されている。掲句の場合、「天道虫」の漢字による表記も効果があるようだ。
◆稲津や押入れ中に母が居る (河内長野市)西森正治
大串章の選である。評には「第三句。母は押入れの隅々まできちんと整理し、色色な物を大事に仕舞っていた。」と記されている。一瞬の稲妻の明るさの中に「押入れ中に母が居る」のを発見したのだろう。フラッシュ的な眼前の事実に詩的というよりも事件性を醸し出しているようだ。稲妻ゆえに押入れに隠れようとしたのか?稲妻とは何ら関係なく押入れの中を片づけていたのか?判然としないが、押入れに体半分を入れているお母様の後姿を想像した。
その七十八(朝日俳壇平成27年8月3日から)
◆福島に梅雨の雨除染の如く (長岡京市)寺嶋三郎
金子兜太の選である。「朝日俳壇」だけではなく、選者は東日本大震災関係の作品と福島原発事故関係の作品を積極的に後押ししているように思う。原発事故の後、「福島」という地名が本来意味している理想の将来像を思う時に、筆者には何とも皮肉に響いてしまうのだ。「除染の如く」ではなくて、除染になってくれればと思う。
中七の「梅雨の雨」は季題「梅雨」を時期を示す表現としてるわけだが、雨そのものを表現することもあるのでその場合は重複表現の様にも考えられる。
◆海の日や洋上にある子を思ふ (三木市)酒井霞甫
大串章の選である。八月の第三月曜日は祝日「海の日」である。今年は二十日であった。掲句は、作者が子を思う意になっている。乗組員として洋上にあるのか?船客としてであろうか?「海の日」であり「洋上に」であり親が子を思う心であり、実に巧い取合せの様で関係があるようにも思うのだが、そこには必然は無いだろう。それだけに作者の実際の心の在り様を的確に表現している。
他に「海の日」の季題で、長谷川櫂選の「海の日や灯台守の在りし日々」(敦賀市/村中聖火)がある。こちらの場合は若干、「海の日」と「灯台守の在りし日々」を思う作者の心の取合せに関係性を感じてしまう。
◆自恃の目の蝿虎でありにけり (大阪市)大川隆夫
稲畑汀子の選である。評には「二句目。蝿虎に狙われ、忽ち捕らえられる小さな獲物。自恃の目を持つとは妙。」と記されている。「蝿虎」への一種のエールのように読める。掲句の主人公と副主人公は、クモであり蝿である。両者ともネガティブなイメージを有する小動物だ。それだけに「自恃の目」というのは、評で言う「妙」以上の思い入れがあるだろう。
登頂回望その七十九(朝日俳壇平成27年8月10日から)
◆ふるさとの闇が育てし踊りかな (小田原市)丸山典雄
長谷川櫂の選である。評には「二席。夜の闇あってこその盆踊り。闇に根が生えているような。」と記されている。世界宗教的な理による論理化の無い原始的な宗教観が盆踊りには存在しているかのようである。多神教的な、且つデュオニソス的な祭祀は掲句の云う通り「闇が育て」たのである。其処には人間の生の感情が横たわっている。
◆虫干やいつまで匂ふガリ版誌 (大阪市)今井文雄
長谷川櫂の選である。わら半紙とガリ版のインクの匂い(臭い)が懐かしい。虫干しの度に、鉄筆で切った蝋紙で印刷製作した同人誌の匂いがその頃の作者自身を取り戻す契機になっている。虫干ししながらいつまでも大切にして欲しい。
◆パチンコは吾が青春の積乱雲 (松戸市)大谷昌弘
大串章の選である。評には「第二句。飛び散るパチンコ玉。正に積乱雲である。パチンコに夢中だった頃が懐かしい。」と記されている。どうやら八月は人生を回顧するチャンスを与えてくれる月であるらしい。「積乱雲」が「パチンコ」を思い出させるのか?「パチンコ」が「積乱雲」を髣髴とさせるのか?
評の中で言う懐かしいのは、作者のことを思ってのことか?評者の回顧であるのか?
◆何もかもこの汗引いてからのこと (新潟市)岩田桂
稲畑汀子選である。実感であろう。読者も共感している。連体詞「この」があればこそ、時間と場所が特定されていることがよく解る句になっている。
◇俳壇の隣には西村麒麟著のコラム「七十年目の夏」がある。八田木枯の句作を取り上げている。中の「戦友にばつたりとあふ蝉の穴」「生者より死者暑がりぬ原爆忌」などを拝読すると、木枯の文体が戦争を表現するために構成せれていることに気付く。人間的な了解事項が無効である時に言葉もその遠近法を失ってしまうのかも知れない。
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