2016年8月26日金曜日

第49号 

平成28年熊本地震の影響により被災された皆さまに、お見舞い申し上げます。
被災地の一日も早い復興を、お祈り申し上げます。
*****
-豈創刊35周年記念-  第3回攝津幸彦記念賞発表
各賞発表プレスリリース  募集詳細
※受賞作品及び佳作は、「豈」第59号に、作品及び選評を含め発表予定

●更新スケジュール第50号9月9日 9月16日・第49号9月30日


平成二十八年 俳句帖毎金00:00更新予定) 
》読む




(9/9更新)合併夏・秋興帖網野月を・小林苑を
池田澄子・夏木久


(9/3更新)追補関根誠子・飯田冬眞
(8/26更新)第十二渕上信子・筑紫磐井・北川美美
(8/19更新)第十一西村麒麟・竹岡一郎
小林かんな・小林苑を
(8/12更新) 第十花尻万博・水岩瞳
佐藤りえ・真矢ひろみ
(8/5更新)第九もてきまり・堀本 吟
浅沼 璞・林雅樹
(7/29更新)第八坂間恒子・下坂速穂・岬光世
依光正樹・依光陽子
(7/22更新) 第七堺谷真人・中西夕紀・仙田洋子
五島高資・渡邉美保
(7/15更新) 第六望月士郎・内村恭子・木村オサム
ふけとしこ・仲寒蟬
(7/8更新) 第五小野裕三・小沢麻結・網野月を
青木百舌鳥・山本敏倖
(6/30更新) 第四陽 美保子・曾根 毅・前北かおる
(6/24更新)第三とこうわらび・ななかまど・川嶋健佑
(6/17更新)第二杉山久子・神谷波
(6/10更新)第一石童庵・夏木久・中村猛虎

卒業帖 …坂間恒子



            【エッセイ】  中山奈々とどのように出会ったか  
            … 筑紫磐井 》読む


            【抜粋】 俳句四季・俳壇観測164回/平成二九年の俳句界
            中山奈々を読みつつ明治・昭和・平成の三つの時代の俳句を考える… 筑紫磐井 》読む
            • 「俳誌要覧2016」「俳句四季」 の抜粋記事  》見てみる



            <抜粋「WEP俳句通信」>

            「WEP俳句通信」 抜粋記事 》見てみる



            【エッセイ】

            2016こもろ・日盛俳句祭参加記 (前半)  
            …北川美美 》読む 

            • (継続掲載) 「里」2月号 島田牙城「波多野爽波の矜持」を読んで・・・筑紫磐井 》読む

            • 【書簡】 評論、批評、時評とは何か?/字余論/芸術から俳句へ   》こちらから


            およそ日刊俳句空間  》読む
              …(今までの執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々 … 
              •  8月の執筆者 (柳本々々、…and more. ) 
               

                俳句空間」を読む  》読む   
                ・・・(主な執筆者) 小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子
                 好評‼大井恒行の日々彼是  》読む 


                【鑑賞・時評・エッセイ】

                【短詩時評 24首目】
                幼年期の終わりに-『スロー・リバー』を読む-
                … 川合大祐×柳本々々    》読む




                  【アーカイブコーナー】

                  • 西村麒麟第一句集『鶉』を読む  》読む



                      あとがき  読む


                      【PR】


                      • 第1回姨捨俳句大賞発足

                      ――俳句新空間の筑紫磐井、仲寒蟬が選考委員に 》詳細




                      冊子「俳句新空間」第6号 2016.09 発行予定‼


                      俳誌要覧




                      特集:「金子兜太という表現者」
                      執筆:安西篤、池田澄子、岸本直毅、田中亜美、筑紫磐井
                      、対馬康子、冨田拓也、西池冬扇、坊城俊樹、柳生正名、
                      連載:三橋敏雄 「眞神」考 北川美美


                      特集:「突撃する<ナニコレ俳句>の旗手」
                      執筆:岸本尚毅、奥坂まや、筑紫磐井、大井恒行、坊城俊樹、宮崎斗士
                        


                      特集:筑紫磐井著-戦後俳句の探求-<辞の詩学と詞の詩学>」を読んで」
                      執筆:関悦史、田中亜美、井上康明、仁平勝、高柳克弘

                      筑紫磐井著!-戦後俳句の探求
                      <辞の詩学と詞の詩学>

                      お求めは(株)ウエップ あるいはAmazonにて。

                      第49号 あとがき。



                      秋暑し。皆さまお元気でお過ごしですか。

                      8月ももう終わってしまいますね‼ と隔週なので当然なんですが、兎に角、いろいろ事が進まないまま時間が過ぎてゆきます。

                      いや、この暑さ厳しい。

                      台風がまた上陸するという予報ですのでどうぞお気を付けください。

                      さて、今号、筑紫相談役による中山奈々特集、サブタイトル(仮称)「奈々ちゃん祭!」のようになっております。 そういえば、中山奈々さんの自筆年表に<その間、越智友亮より情報を得る>という箇所がありましたが、その越智友亮さんは、当時中学生?だったとか伺いました。 

                      (その【しばかぶれ】の在庫は全く無いと伺っています。俳句文学館、国会図書館などに寄贈されたのか確認しておきましょう。)

                      柳本さんの短詩時評は対談形式のもので常にものの見方を多方面から責めることができる方だと感心しております。おっと、裏・週刊俳句の今日の川柳・樋口由紀子さんの回が同じく川合大祐さんの句です! 合わせてご覧くださいませ。

                      北川は、こもろ・日盛俳句祭のことを日記風に…。 もう「第8回」なんですね!歴史あるイベントになりつつあります。内容的には更に充実という印象でした。スタッフ、参加者ともにリピーターが兎に角多いイベントです。(もちろん、はじめての方も不安なく参加できます。小諸虚子記念館の皆様と地元の皆様がサポートしてくださいます。)

                      表には書けませんでしたが、暑さのあまりにギャグを一発。 
                      こもろ・日盛俳句祭の本井英先生に敬意を表し、、 
                      夏潮で夏しよう!! 

                      (ってもう秋ですけれどね…)
                      … もうそんなフレーズは夏潮の皆さんの間では創立当初から飛び交っているかもしれません。 あしからず…です。

                      このクダラナイかもしれないダジャレですが、このワタクシのダジャレ、実は、CMに採用されたんじゃないかと勝手に思ったことがあります。 HISという旅行会社のCMに夏木マリさんが出演された時のもので・・・ 

                      夏木マリで夏決まり!! 
                      (「夏潮で夏しよう‼」と何ら変わりなく…)
                      …というもの。

                      CM制作にあたって連絡も頂かなく、ダジャレ好きな方に「ダジャレに著作権ってあると思う?」と質問してみたところ、「それってさぁ、その程度ってことだよね、誰でも考えられるフレーズってことだよねぇ。」となだめられました。 (そうかなぁ。)

                      このセリフは後に句会で、「これって、誰って言えないけど常套句よねぇ、」と指摘を受ける予言だったということに気が付くことに…。  


                      と、もう秋なんですが、とどめの暑さにちょっと参っております。


                      冊子「俳句新空間」第6号、準備中です。
                      豈も秋には発刊となるでしょう。

                      次は、9月になりますが、またどうぞ「俳句新空間」にお立寄りくださいませ。

                      (北川美美記)

                      2016こもろ日盛俳句祭参加記 前半 / 北川美美



                      今年2016も恒例の「こもろ・日盛俳句祭」に参加した。

                      今年の実施日は、2016年7月29日、30日、31日と昨年よりも暦上では5-6 日ほど早いことになるが、例年に比べると今年の参加日の暑さは気のせいか昨年よりも穏やかに感じた。実際の真夏日は一週後だったため行動しやすかったのは確かだったようだ。刺さるような痛い日差しがやはりこの俳句祭には合っている。ともあれイベントは無事終了し盛況だった。




                      ***

                      少々、日記風に個人的観点にて…。

                      ●2016年 7月30日(土曜日)   晴  小諸・気温 最高32度 最低22度


                      私が参加したのは、30日シンポジウムからの二日間。小諸到着は11時頃だった。昨年は、句会場の慶興寺に向かいながら、行けども行けども迷ってしまい、どうしても辿りつけなく、ベルウィンの総合受付に戻り、道案内をしていただいたなどの事があり、大汗に更に大汗をかいての投句となったため少々早く出発。

                      しかし、車中で流していたDVDが気になってしまい、佐久平パーキングエリアにて映画のラスト20分くらいを集中して観てからの到着…なんとも句会に臨む心得としては不謹慎極まりないところで虚子先生にお詫び申し上げる次第だ。

                      さて、会場に到着すると、佐久が本拠地(現在は神戸が発行所)の「里」の世話役されている森泉理文さんと受付で会う。せっかくなので、吟行と称し、一緒に小諸動物園に行くことに。小諸城址に隣接する動物園だ。

                      昨年、刊行された、高柳克弘さんの『寒林』のどなたかの推薦句と自選句に下記があった、というのが理由としてあった。


                      日盛や動物園は死を見せず  高柳克弘 『寒林』


                      確か、こもろ・日盛俳句祭で投句されたのではという記憶がある。


                      動物園に行ってみると、なるほど、となる。 


                      ライオンの雌が一頭、端居しているような姿で静かに鎮座していたが、どうもパートナーだった雄が他界したようなのだ。村上春樹がこのライオンに会いに来るとかで、(檻にそう書いてあった)、残る雌ライオンも小説に出て来たりするらしい。

                      歩きながら理文さんに「一日目はどうだった?」 などと感想を求めたところ、一日目の「講演会」が非常に面白く、今迄知らなかった子規の一面やら、踏み込んだ話が聴けて、有意義だったという感想だった。 


                      一日目は下記の講演が組まれていたのだ。

                      「講演会」(7/29)
                      講師 久保田 淳 先生
                      演台「子規を読む-句集と歌集を中心に-」

                      寝たきりの子規なので想像の句が多いんじゃないか、と例句をあげての話や、当時の遊郭の話などがあったとかで…明治の風俗の話も絡め学者先生からそういうお話を伺うというのは、さらに子規に興味が湧いて来る。「子規は脊椎カリエスとどう向き合ったのか」と思いながら…、心身ともに健康だったと思える子規がどう病と向き合ったのか…かつての大河ドラマの『坂の上の雲』の子規役だった俳優・香川照之の姿を思い出しながら理文さんの話を聞いていた。

                      講演は拝聴できなかったが、理文さんの話を伺ってなんとなく子規の隠れ話に興味が湧いてきた。


                      7月29日 講演 久保田 淳 先生


                      帰ってからクプラス(第2号は子規特集)を読み直すと高山れおなさんの「根岸の一夜」は子規の性欲云々に思いを巡らせる内容だ。碧梧桐の回顧談『子規の回想』が妙に生々しく熱帯夜に迫る。…と久保田淳先生の講演を聞けなかった分、クプラスを読むというカラクリになった。



                      動物園にいるポニーや羊をじっーと見つめていても句は出来ず、少々飽きて、小諸城址から富士山が一望できる(その日は見えず)ところで一休みする。と、どうも、前に座ってらっしゃる方は、青木百舌鳥さんらしい。 あれ?と声をかけてみるとやはり百舌鳥さん。今年も写真班でスタッフとして参加されていて、しばし歓談。小諸には頻繁にいらしているようだ。 茶屋で「冷やし飴」なるドリンクで喉を潤す。 百舌鳥さんは、午後は山城館句会だということだった。

                      7月30日 山城館句会 (撮影:青木百舌鳥)


                      さらに、城址を歩いていて、小屋らしきも展示室を覗いてみると、<木の火筒>を発見し感動。 戦国時代に使用されたものがそのまま展示されているのか、レプリカなのかは確認できなかったが、三回火薬を発射させるともう使用できないという説明が書かれていた。薬玉を入れる火薬筒も傍にあった。というのも三橋敏雄句に<然る春の藁人形と木の火筒>があり、目に留まったという次第だ。朝、佐久平PAで油を売っていたように観ていた映画『逆噴射家族』はマンザラ不易ではなかったのだと自分に言い聞かせる。(火筒→逆噴射という連想のカラクリ。)


                      逆噴射したら怖いですね…木の火筒
                      然る春の藁人形と木の火筒 三橋敏雄 『眞神』



                      7月29日 慶興寺句会場


                      さて、句会。今年も慶興寺を選んだ。 今年は、迷わず到着でき、本堂が会場となっていた。スタッフは高田正子さん、藤本美和子さん、小林貴子さんが担当された。夏潮の柳沢木菟さん、柳沢晶子さんご夫妻、御厨早苗さんが同会場で、「あらー!」と顔を合わせ再会を喜ぶ。今年は、夏潮の皆様にお会いするために、何か湘南らしいものを身に着けて行きたい、と思い、油壷シーボニア近くにあるWATTS のバックを持って行ったのだが…。(と、説明をしたのだが、何? ワッツ? と通じなくショック。夏潮の御用達かと思っていた。)

                      慶興寺本堂には虚子先生が小諸を離れる時に送別句会を開いたところのようで、虚子先生を囲み11人(確か)の本堂前での記念写真が飾ってあった。

                      黒蝶の何の誇りも無く飛びぬ 虚子  『続・小諸百句』より 
                      夏蝶の簾に当り飛び去りぬ 
                      秋晴の名残の小諸杖ついて 

                      ※小諸百句・続小諸百句は 市立小諸高濱虚子記念館にてお取り扱い中 詳しくは》こちら

                      高田正子さん、藤本美和子さんは、午前中に真楽寺を訪れたようだ。神秘的な沼がある。

                      さて句会。いくつかの句をご紹介しておこう。

                      (7月29日 慶興寺句会)


                      (※お名前の表記が不確実な可能性があります。)

                      汗の玉命しづかにつなぎつつ 高田正子
                      龍神を待つ山清水あふれしめ 
                      軽鳬の子に水面やさしくなりにけり  
                      涼風や水鏡へと身をかがめ 小林貴子
                      汗引くや小諸の風に他ならず  
                      水中の日向日蔭も土用中 藤本美和子 
                      水輪ただ広ごるのみの泉かな 松枝まりこ
                      けふ何か生まれ逝きたる泉かな  
                      汗乾ききつて蕎麦屋に辿りつく 小玉和子
                      川底の赤錆色や夏落葉 
                      本堂の西側葭簀立て掛けて  
                      店番が昼寝している骨董屋  和田桃
                      向日葵は日を追ひ我は信濃行き 
                      塔浮かせ山百合の香の傾れをり 小倉京香 
                      汗拭ふ村一番の子沢山 塩川正 
                      薄暗き隧道を抜け蝉時雨 御厨早苗 
                      老鶯の小諸ここよと鳴きくれし 中村みきこ
                      朝涼や外階段の湯屋遠く 柳沢晶子  
                      首垂れて顎で交わる汗の玉 北川美美



                      北川が特選に選んだのは、藤本美和子さんの「水中の」の句。もちろん光の陰影の様子が目に浮かんだのだが、縦書きの句を拝見したときに一行のデザインが幾何学的に目に入ってきた。また水、中、日、向、蔭、用、 言葉同士の不思議な引力があると思える句だった。



                      句会後は、本会場のベルウィンに戻り、シンポジウム会場に向かう。

                      (つづく)


                      ***
                      ●7月29日(金曜日)  記念募集句   藤本美和子選

                      特選 
                      虚子庵の午後蠅の声あるばかり  本井 英 
                      入選 
                      雨あがりの虹追ひかけて小海線  塩川 正 
                      通散湯苦し崩るる雲の峰  野中 威 
                      蚊を打つて一つ年取る心地かな 久保千恵子 
                      乙女なる駅名過ぎて朝涼し  藤田恵里 
                      手紙読むための机や白木槿  中村恵理子 
                      何の鳥の一声山を涼しくす  大矢知順子 
                      嘆息のたび熱帯魚裏返る   仲 寒蝉 
                      川筋に鳥の集まる炎暑かな 窪田英治 
                      吊り鐘人参揺るるは鐘を鳴らすとき  荒井民子


                       1日目 スタッフの先生方
                      (撮影:青木百舌鳥)




                      【短詩時評 第25惑星】川合大祐×柳本々々 幼年期の終わりに-『スロー・リバー』を読む-


                      【1、わたしは言った。「わたしの名前は、S・F(センリュウ・フィクション)」】


                         ぐびゃら岳じゅじゅべき壁にびゅびゅ挑む  川合大祐
                          (『スロー・リバー』あざみエージェント、2016年)

                        照明をつけるのは、開けた場所に足を踏み出すのに似ていた。「わたしの名前は」風に向かって、海に流れてゆく川に向かって、わたしは言った。「フランシス・ロリエン・ヴァン・デ・エスト。わたしはここに住んでいる」
                        これから一生、わたしは川のほとりで暮らしていこう。ちゃんと人の目に見えるところで。
                         (ニコラ・グリフィス、幹遙子訳『スロー・リバー』ハヤカワ文庫、1998年)

                      柳本々々(以下、柳) こんばんは、やぎもともともとです。先日、川合大祐さんの川柳句集『スロー・リバー』(あざみエージェント、2016年)が出版されました。この句集は読んでみるとわかるんですが、テーマがさまざまに仕掛けられていて、読むひとによってそのつど異なる面を取り出せる句集になっているんじゃないかと思うんですね。でもそれでいてひとつの句集を貫く通奏低音があるようにも思う。そこで今回は川合大祐さんをゲストにお招きして今回の句集のいくつかのテーマや句集をめぐる大きな枠組みをお話してみようと思います。川合さん、よろしくお願いします。

                      川合大祐(以下、川) よろしくお願いします。


                       まずこの句集のタイトルの『スロー・リバー』なんですが、これはニコラ・グリフィスのSF小説『スロー・リバー』からそのまま取られているんですよね。で、この句集は章立ても全部SF小説のタイトルから取られている。記号が主な第一章の章タイトル「猫のゆりかご」はカート・ヴォネガットJrから、サブカルチャーが主な第二章タイトル「まだ人間じゃない」はフィリップ・K・ディックから、最後の第三章タイトル「幼年期の終わり」はアーサー・C・クラークから。

                      あのう、『スロー・リバー』って決してメジャーなSF小説ではないと思うんですよ。むしろ『幼年期の終わり』や『猫のゆりかご』の方が有名なんじゃないかなとは思うんですが。でも川合さんはこのSF小説を句集のタイトルにとられた。これはどういう理由があるんでしょうか。

                       そうなんですよね。割とマイナーな方です。単純に、響きが良かった(笑)。川柳の「川」と、自分が川合だから、っていう単純な理由です。

                       なるほど。まずそういう形式的な理由があった。それでもこの小説の枠組みと句集の内容が呼応するところとかってあるんですか。ちなみにグリフィスの『スロー・リバー』の解説で評論家の小谷真理さんがこの小説の「どのジャンルにもフィットしない、のびのびとした自由闊達さ」を指摘されていて、ちょっとこの句集のジャンルの混淆した感じに似ているなと思ったんですが。

                       強引にこじつけると、主人公の成長物語なんですね。僕も、陳腐な言い方ですが、少しは川柳を通して成長できたかな、って思ったので。まあ、してないんですが。

                       たしかにこの句集っていろいろなものが吸収されてひとつのかたちにまとまっている気がするんですよね。方向性がひとつというよりは、幾層か束ねられてそれがあるひとつの地点にまとめられているというか。ちょっと「川」みたいな感じではあるけれど。

                       たぶん、それ、僕がほどほど広くて、ごく浅いアンテナを張っているからかも。広く浅くでもなく、どちらかといえば狭い(笑)。

                       章タイトルもすべてSF小説からとられているんですよね。このSF的枠組みがこの句集との関わりにおいて大きかった感じでしょうか。

                       SFが書きたかったんですね。青春時代SFばっかり読んでたから。もっとさかのぼれば、藤子不二雄で育ちましたし。

                       もともとSFの志向性があったんですね。

                       で、SFって、型はないようなあるようなじゃないですか。その辺、川柳と似てるのかなって。

                       うん、箱庭というか設定的なものの違いはあるけれど、じぶんで拡張していくことができるジャンルかもしれませんね。なんていうか、なにを出されても、うーん、SFかも、とか、うーん、川柳かも、っていう、ジャンルの伸縮力の強さみたいなのはありますよね、どちらも。

                       で、どちらも外から見ると誤解されやすいという。川柳と言えばサラ川? とか、SFと言えば光線銃打ってんでしょ? みたいな。

                       光線銃ね(笑)。誤解も共通点としてあると。でもたぶん川柳とSFっていうと、えっ川柳とSFが似てるの? って思うひともいるとおもうんだけれど(ちなみに川柳とSFの類似については小津夜景さんが指摘されていました)、川合さんの川柳観としてはそういうところがあるというわけですよね。

                       そうですね。SFのSは川柳のS。川柳・フィクションかもしれない。

                       ああそれはいいですね。川柳フィクションのSF。


                      【2、ボコノンは言った。「あなたは誰かの素数です」】


                         中八がそんなに憎いかさあ殺せ  川合大祐

                        ボコノンは言う。「今日わたしはブルガリアの文部大臣になる。明日わたしはトロイのヘレンになるだろう」彼の言わんとするところは、水晶のように明晰である。わたしたちはみんな、自分自身でなければならない ということだ。 
                         (カート・ヴォネガット・ジュニア、伊藤典夫訳『猫のゆりかご』ハヤカワ文庫、1979年)

                       でも「川柳はフィクションでいい」って思えたのは割と最近だった気がします。

                       あ、そうなんですか。けっこう無意識の縛りが大きいジャンルでもあるのかな。

                       数年前まで、情念むき出し、どろどろの私小説ぽいのしか書いてなかったような気がします。「中八」の句は割と例外的です。

                       「中八がそんなに憎いかさあ殺せ」の句でじゃあなにか少しじぶんのなかの違った部分に気が付いたりしたっていうのもあるんでしょうか。あの句は丸山進さんがご自身のブログ『あほうどり』でとりあげておられるのをみて、それでわたしも知ったんですよ。

                      あの句は私小説的にも読めるし、メタ言語としても読めますよね。「中八」と言いながら、実際に八音の「中八」の句をつくる。でもそれが川柳として機能して実際殺意が起きるなら、「中八」でも機能してしまっていることになる。なにかそういうぐるぐるしたクレタ人の嘘的パラドックスの状況。そういうふうに、言葉が言葉を志向している。私小説をつきぬけたところに思いがけなくメタ言語がでてきたのかな。

                       矛盾したことを言うようですが川柳を始めた時、「自己消滅」ってものにもの凄く惹かれていたんです。ウロボロスじゃないけど、自分で自分を喰って消える、みたいな。だからそういう意味での私小説は指向していたかもしれませんね。ただ、その方法論がわからなかった。教えてくれる人もいなかったし。それで、ラテンアメリカ系のメタ的なものを導入したのが、あの句だったと思います。ただ、あんなに評価されるとは思わなかったんです。

                      私小説って、実はメタなんですよね。そのことに気付いたのが「川柳スープレックス」に参加したり、もともとさんのブログを読んだりし始めてから、なのかな。あ、違った。まず、短歌に浮気したんですよ。穂村弘さんや笹公人さんを読んで、「短歌って、ここまでできるんだ、いいなあ」って。

                       短歌の迂回ですね。私小説のモードがメタフィクションにつながるって太宰治みたいだけれど。

                       でも、川柳でも、結構できることに気付いてしまった。

                       ああなるほど。でもそれは短歌をとおしてきづいたんですね。中八が悪いかっていっても殺されなかったってことでもあるのかな。象徴的には。

                       だって笑いますよ。短歌に行ったら、飯島章友さんがいて、「川柳やってるんですか?」ですから。

                       みてるひとはみていたってことでもあるんですね。あとそういう川合さんにとってコミュニティができたってのも大きいんですね。なんていうかな、コミュニティって議論の場になるから、意見がかわせますよね。そうすると、また新しい価値観が承認されたりする。ああ、ありなのかもなっておもえる。わたしも始発は飯島さんの存在がとても大きいんですが。

                       飯島さんが作ったコミュニティで、本当変わりました。もちろん、本来所属していた「川柳の仲間 旬」がなければ、比喩でなく、生きてなかったですね。

                       生の力は「旬」に、〈外〉への力は飯島さんがもっていたってことですね。

                      ただその「中八」の句に強く反応した方がいたってことは事実ではあるんですよね。そうすると川合さんにあっここらへんに〈外〉はあるのかとそういう言語に対する意識みたいなのがでてくるとか。
                      「中八」と言えば私ちょっとおもったんですが、この句集って数への意識がおおいんですね。

                       ああ、数は確かに。

                       たとえば、

                         五・七・五きみも誰かの素数です  川合大祐
                       
                         ソシュール忌五は1であり七は2で  〃

                      こういう数への意識ってメタフィクション的な感性とも並行している気がするし、SF的な気もします。SFっていうのは、たえず数の観測というか距離や人間の数、エネルギーの数値などへの偏愛でもあるような気がするから。雑駁だけれど。ただ萩尾望都の『11人いる!』はそうかな。SFと数のかんけい。クラークの『2001年宇宙の旅』とか。『2010年宇宙の旅』『2061年宇宙の旅』『3001年終局への旅』と数字が変化する。

                       SFは数の文学ですよね。円城塔さんなんかもそうですよね。

                       ああほんとそうですね。そうか数の文学なのか。村上春樹の数の偏愛もその意味でSF的側面があるのかもしれませんね。そうすると定型っていう音数律もSF文学的なのかもしれない(笑)

                       575ってもの自体が、数に呪縛されている印象というか。

                       うんそうですね、数へのたえざる意識ですよね。定型が喚起するのは。

                       川柳も数の文学だと思うんですよ。数に呪われた文芸。そもそも、17音っていうのが、頭がおかしい(笑)。

                       数への執着なんですよね。偏愛というか。

                         山一つ増えてもたぶんわからない  川合大祐

                      この句は中八とちょっと似てますね。

                       山一つはね、伊那谷に住んでるとそんな感じなんですよ。

                       長野を数でとらえたわけですよね。しかも「中八」みたいに《ちょっと》増える。「忌日」というタームもこの句集に多いんだけど、たとえば、

                         瓶詰の天国ならぶ忌忌忌忌忌  川合大祐

                      やっぱり忌が増えますよね(笑)。忌が数になってしまう(笑)。夢野久作がモチーフになってる句だと思うんだけど。

                       あれは、なんで忌忌忌忌忌だったんだろう。無意識の領域ですね。

                       基本的にこの句集では数が増えるんでしょうかね。

                         攻めて来る一万人のゴレンジャー  川合大祐
                         「「「「「「「「蚊」」」」」」」」  〃
                         たとえば三十一文字の定型をこれは川柳ですと言い張る  〃

                      一万人のゴレンジャー増殖とか記号も増えるでしょ。あと文字数も。31文字になったり「「「「「「とか。ふえてますね(笑)。第一章はこんなふうな独特な記号の使われ方がする句が多いんだけれど。

                       数と言えば、この句集の三部構成って言うのは、横溝正史的かもしれない。三人殺されるみたいな。『犬神家の一族』にしても『獄門島』にしても、三回殺人事件が起こるわけですよね。この3、が子供のころから染みついているのかもしれない。あと、5・7・5って三部構成だし。

                       3って童話や昔話でもマジックナンバーですね

                       動的な数ですね。3人いれば政治が生まれる。

                       欲望の力学ともいえますよね。3人いれば欲望が転移するから。漱石『こころ』とか。

                       そもそも、川柳って欲望が転移するプロセスなんじゃないかと。好きな言葉じゃないんだけれど、「穿ち」ありますよね。あれって、自他の欲望に線を引く/混然とさせる行為なんじゃないかと。自分のまなざしと他者の眼差しが交錯する地点というか。

                       はあ、なるほど。穿ちってふだん見えないポイントをつくことなので他者の視線を先取りしているところはありますね。ですからそこに欲望の線が走ることはあるような気がする。つまり、穿つってことは、他者の欲望を先取りして、こうなんだろ、こうみてほしいんだよなを組織化する行為かもしれないその意味では相手の欲望が転移してるわけですよね。その意味ではある意味、ちょっと病的もであるかもしれない。

                       でもたぶん、一般の川柳の穿ちって、自分を「穿って」ない。そこに苛ついてた時期もあります。だからさあ殺せとか言ったんでしょうね。

                      【3、イアン・ベストが言った。「ムーミンの下顎骨だ」】


                         そうこれはムーミンですね下顎骨  川合大祐

                        「今日はすばらしい日だ」イアン・ベストが言った。
                        「ああ」エド・ガントロはうなずいた。「あらゆる無力なる者のために、崇高な、そして効果的な一撃が加えられた大事な日だ。 “それは生きているんだ” と言ってやれたんだ」
                       
                         (フィリップ・K・ディック、浅倉久志訳「まだ人間じゃない」『まだ人間じゃない』ハヤカワ文庫、2008年)
                       「殺せ」で思い出したんですが、川合さんの句集の第二章ではサブカルチャーがふんだんに羅列的に引用されますが、わりとみんな瀕死ですね。

                         この列は島耕作の社葬だな  川合大祐 
                         東京の初夏にブローティガン 生きよ  〃 
                         日本の戦争としてガンタンク  〃 
                         ニーチェからクウガに至る一世紀  〃

                      ムーミンの下顎骨とか、島耕作の社葬。だいたいみんな瀕死な感じをうけます。日本の戦争としてガンタンクも、ガンタンクが古びた旧式の遺物のような感触をうける。

                       死にかけてますね(笑)。ていうか死んでるか(笑)。何でだろう。「死にたくないな」って強く思ってるからかも。ガンタンクは死にますからね(笑)

                       たしかにガンタンクに乗りたくないなってのはあるかもしれない。接近戦されたらおわりだっていう。こんなモビルスーツに乗りたくないよっていう。ただ戦争っていうのはガンタンクに乗ることなのかもしれませんね。だからなんていうかな、サブカルチャーがいきいきしてないんですよねこれは。なんだろう。ふつうサブカルチャーを愛おしんだり、愛でたりするような気がするけれど。せっかく取り入れるなら。「ニーチェからクウガ」の句も仮面ライダーを哲学的系譜におきながらも、ニーチェの永劫回帰が一世紀という有限の時間にとじこめられてしまう気がする。ここにかえって〈いきいきさせないサブカルチャー〉の新鮮さみたいなものがあるような気がする。ある意味では共有できそうな記憶をあえて共有しないともいうのかな。

                       どっちかというと、サブカルって「死」なんですよ。僕の中では。昔、テレビって「死ぬ」ものだったんですよ。ビデオとか、もちろんYouTubeとかない時代。

                       二度とみられない感覚ですか。

                       ですね。再放送が奇蹟的な「復活」だったというか。

                       二度とみられないっていうことはほんとうにキャラクターが死ぬ感じか。

                       だから現在のサブカルの「死ななさ」に違和感ありますね。

                       あそうか、もしかしたらそういうメディアの〈進化〉とゾンビが流行りはじめたのは理由があるのかもしれませんね。メディアが発達すると〈死なないキャラクター〉が繁殖する。だからこの句集に「退化」ってことばが入ってくるのは興味深い。

                         ジャイアンに退化するのはのび太たち  川合大祐

                       そういや、ゾンビ句はひとつもないですね。

                       ゾンビはいないですね。まあでもゾンビは「さあ殺せ」とはいわないから。「さあ殺せ」といえるひとは、死んだらおわりだと思えるひとだけですよね。

                       たしかに(笑)


                      【4、人類の最後の一人は答えた。「祈っているよ、」】


                         だから、ねえ、祈っているよ、それだけだ、  川合大祐

                        記憶にとっては、未来も過去も同一のものだ。だから人類は、いまから何千年も前、不安と恐怖のもやの奥にオーヴァーロードの歪んだイメージを目撃したのだろう。
                        「ああ、やっとわかりました」人類の最後の一人は答えた。 
                         (クラーク、池田真紀子訳『幼年期の終わり』、光文社古典新訳文庫、2007年

                       ゾンビの話が出ましたが、ちょっと第三章の話をすると、そういう意味では「東京の肉」の句はゾンビ的なんですかね。花くまゆうさくさんの『東京ゾンビ』というマンガもあるけれど。

                         東京の人はまさしく肉である  川合大祐
                      でもそういう句でもないような気もするなあ。

                       あれはゾンビではないですね。

                       たとえば、

                         凄絶な死に方をするビフィズス菌  川合大祐

                      「ビフィズス菌」が「凄絶」に「死」ぬ一方で「東京の人」には死が与えられない感じがする。「肉」には死がたぶんない。「肉」ってふしぎな言い方ですね。痛み/傷みとかもないし。それにこの句がふしぎなのが、さいしょに「人」っていってるんですよね。そこからつないでいく。ある意味で、「人」であり「肉」なんです。そういう分化そのもの。「脊髄のある水母」のようなものなのかなあそう考えると。

                         例外はある脊髄のある水母  川合大祐

                       「肉」は、諸星大二郎『孔子暗黒伝』に出てくる肉のかたまりですね。今思いついたけど。

                       諸星大二郎さんのひとや肉の描き方って独特だけれどどういうかんじなんでしょうか。

                       肉が肉として機能しない絵ですね。少なくとも、まったく美味しそうではない。

                       「肉」の句って諸星句って思うとなんかちょっとわかる気がしますね。なんだろう、風刺でも批判でもなくて。意味のない肉というか。

                       そのへん、死への欲動と、矛盾しない形で生への欲望がありますね。実は二億年後ののび太の句も、諸星大二郎『暗黒神話』がベースだったりします。

                         二億年後の夕焼けに立つのび太  川合大祐

                       諸星大二郎マンガは意味がありげで基本的になにもないのが魅力なんじゃないかと思うときがあって。諸星大二郎さん、ボルヘスすきそうだから、じゃあ「フシギな短詩」の川合大祐さんの回ののび太解釈はあれでもよかったのかな(笑)。諸星大二郎とのび太ってちょっと結びつかないところがおもしろいですね。のび太が生死に対してどう思っているかはいつも興味があるかな。ああいう多様な時間軸が導入されてしまった人間の死生観って。

                       のび太の人生って、確かにどこにあるのかわかりませんよね。初めから、ジャイ子と結婚して不幸になるか、しずちゃんと幸せになるのか、人生が分裂している。しかもパラレルワールドに落とし込まれるわけでもない。

                       ちょっと今回の話のまとめというか、この句集のまとめに入ると、記号の第一章があって、サブカルの第二章がある。第三章はなんでしょう。でもお話をうかがっているとどこかで第一章と第二章がひそかなかたちで転移されてるのが第三章ともいえるのかもしれませんね。さっきの話じゃないけれど。3という数字が出てきたときに欲望が転移する。でもそこに〈外〉も生まれてくる。

                       第三章は、やっとはじまった人生ですかね。うあ、青春出版社文庫みたいなこと言ってるよ。

                       ああそれで三章のタイトルが「幼年期の終わり」なんですね。

                       この歳で(笑)。

                       だからこの句集の最後の句は「だから、ねえ、祈っているよ、それだけだ、」って読点で最後おわっているのかな。

                       それはおそらく無意識の選択だったけど、正解ですね。藤岡弘、みたいな。

                       ただ「幼年期の終り」って人類が新しいモードへ移行することだから、歳は関係ないですよね。オールドタイプがニュータイプになるというか。意識の問題かな。その意味で、意識と無意識のあわいにある読点でおわったのはきょうみぶかい。藤岡弘、さんももしかしたらSF的な存在なのかもしれない。

                       おわってないんですね。自分の中で。今気付いたけど。

                       考えてみると、読点は〈移行〉そのものですからね。

                       どこへ移行するのか、という点で、川の流れで、リバーなのかもしれない。自分にとって、『スロー・リバー』のタイトル、やっぱり、必然だったかもしれないです。

                       たえざる移行、ですよね。その意味では「ゆく川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず」の鴨長明も「きみは同じ川には二度入れない」のヘラクレイトスも『リバーズ・エッジ』の岡崎京子もいるかもしれない。川は比喩としてはたくましいですよね。生死を包含する。

                      それではいつまでも循環しつづける川(リバー)としてのタイトルに戻ってきたところで終わりにしたいと思います。ありがとうございました。

                       ありがとうございました。


                      【川合大祐さんのプロフィール】

                      • 1974年長野県生まれ。2001年より「川柳の仲間 旬」に所属。ブログ「川柳スープレックス」共同執筆。

                      【川合大祐さんの自選句五句】


                      だからこの句のメタファーに気付いてよ 
                      れびしいと云う感情がれびしくて 
                      ロボットに神は死んだか問うのび太 
                      聖痕のない豆腐だな信じない 
                      連想で賽の河原に辿り着く


                      俳壇観測164回/平成二九年の俳句界 ――中山奈々を読みつつ明治・昭和・平成の三つの時代の俳句を考える / 筑紫磐井



                      (前略)

                      ○平成二九年の俳句界

                      以上眺めたように(筆者注:正岡子規「明治二九年の俳句界」・角川書店「俳句」31年4月号特集「戦後新人自選五十人集」)、明治・昭和の二つの長い時代の俳句の世界を典型的に示す評論や選集があった。そして、それらは、今日我々が近代俳句史・現代俳句史といっているものを先導している。それが、二九年とか三〇年とかの、割合近い数字で現われたのは不思議な気がするが、やはり時代の精神はそれぐらい時間を経過しないと見えてこないのかも知れない。こうした偶然を考え合わせると、我々はそろそろ近未来の俳句を予言してもよいのかも知れない。恐らく一、二年の間に果たさないといけないのだろう。どこかの商業誌で是非企画して貰いたいものである。  

                        
                       さて、明治二九年、昭和三〇年の俳句界を眺めてみるといずれもそれは新人の登場と一致していることに気づく(人間探求派・新興俳句が入っていないではないかという批判はご容赦いただきたい。そうそううまく揃うものばかりではないからだ)。とすれば、「平成二九年の俳句界」には当然、新人が登場してよいはずである。果たして、この表題で新人は登場するのであろうか。

                         *      *

                       こんなことを考えているうち「俳句文学館」七月号で中山奈々が右の問題に関係しそうな「若手俳人の提言」という諧謔めいた記事を書いていた。諧謔めいた部分は除いても論旨ははっきりしている。中山は「若手が必要とされることは光栄である。しかしそう思われる方は、じっさいどれだけ若手を知っておられるだろう」と挑発的である。そして返す刀で、「期待される若手の皆さんに質問である。自分と同じ世代を除いた俳人を、どれだけ知っているだろうか」という(知っていることの証拠に俳句まであげてみろというのだ)。若手問題を論じていながら、若手も、若手を期待する側も、お互い無関心なのではないかという趣旨であろう、この問題の中核をもっとも的確に指摘している論だと思った。若手にも中山のような人がいることは心強い。

                       しかしあえて反論させて貰えば、若手が知っている俳人という問いの答に間違いなくあがってくる中村草田男や石田波郷は、一度でも若手として登場したことがあったのか疑問だ。若手以前に「中村草田男」や「石田波郷」として存在してしまっていたのではないか、若手を経て草田男や波郷となったわけではないように思う。中山は諧謔の中で、「中山奈々を入れ忘れた方は不勉強」というのだが、若手俳人中山奈々などと言われているようでは、「平成29年の俳句界」にはまだまだ登場できない。登場した瞬間に、若手俳人などという形容詞は消えて、「中山奈々」として独り立ちして貰いたいものである。批判しているように見えるかも知れないが、恐らく中山の後半の論旨とそれ程違うことはないと思う。


                      付記:以上にあげた明治・昭和は新人と言っても三〇代であった事を忘れてはならない。平成の新人と言われている人も既に三〇代に突入している、それ程残された時間があるわけではないのである(中山も三〇歳を超えた)。



                      ※詳しくは「俳句四季」6月号をお読み下さい。







                      2016年8月12日金曜日

                      第48号 

                      平成28年熊本地震の影響により被災された皆さまに、お見舞い申し上げます。
                      被災地の一日も早い復興を、お祈り申し上げます。
                      *****
                      -豈創刊35周年記念-  第3回攝津幸彦記念賞発表
                      各賞発表プレスリリース  募集詳細
                      ※受賞作品及び佳作は、「豈」第59号に、作品及び選評を含め発表予定

                      ●更新スケジュール第49号8月26日・第50号9月9日・第49号9月30日


                      平成二十八年 俳句帖毎金00:00更新予定) 
                      》読む

                      (8/19更新)花鳥篇 第十一西村麒麟・竹岡一郎
                      小林かんな・小林苑を

                      (8/12更新) 第十花尻万博・水岩瞳
                      佐藤りえ・真矢ひろみ
                      (8/5更新)第九もてきまり・堀本 吟
                      浅沼 璞・林雅樹
                      (7/29更新)第八坂間恒子・下坂速穂・岬光世
                      依光正樹・依光陽子
                      (7/22更新) 第七堺谷真人・中西夕紀・仙田洋子
                      五島高資・渡邉美保
                      (7/15更新) 第六望月士郎・内村恭子・木村オサム
                      ふけとしこ・仲寒蟬
                      (7/8更新) 第五小野裕三・小沢麻結・網野月を
                      青木百舌鳥・山本敏倖
                      (6/30更新) 第四陽 美保子・曾根 毅・前北かおる
                      (6/24更新)第三とこうわらび・ななかまど・川嶋健佑
                      (6/17更新)第二杉山久子・神谷波
                      (6/10更新)第一石童庵・夏木久・中村猛虎

                      卒業帖 …坂間恒子
                                【抜粋広告・対談・書簡・エッセイ】


                                <抜粋「俳句四季」>


                                前号の記事の追加
                                • 8月号【俳壇観測 連載163回】


                                社会性をめぐる若世代(続)―北大路翼と椿屋実梛を対比して


                                • 7月号【俳壇観測 連載162回】


                                 関悦史の独自性―――震災・社会性をめぐる若い世代

                                 


                                … 筑紫磐井  7・8月号を抜粋  》読む



                                • 「俳誌要覧2016」「俳句四季」 の抜粋記事  》見てみる



                                <抜粋「WEP俳句通信」>




                                「WEP俳句通信」 抜粋記事 》見てみる








                                • (継続掲載)エッセイ 「文学」・文学部がなくなったあと …筑紫磐井 》読む
                                • (継続掲載) 「里」2月号 島田牙城「波多野爽波の矜持」を読んで・・・筑紫磐井 》読む

                                • 【書簡】 評論、批評、時評とは何か?/字余論/芸術から俳句へ   》こちらから


                                およそ日刊俳句空間  》読む
                                  …(今までの執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々 … 
                                  •  7月の執筆者 (柳本々々、…and more. ) 
                                   

                                    俳句空間」を読む  》読む   
                                    ・・・(主な執筆者) 小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子

                                     好評‼大井恒行の日々彼是  》読む 




                                    【鑑賞・時評・エッセイ】

                                    【短詩時評 24首目】
                                    瀬戸夏子に〈出会う〉こと
                                    -『ユリイカ あたらしい短歌、ここにあります』から想を得て-  
                                    … 柳本々々    》読む






                                      【アーカイブコーナー】

                                      • 西村麒麟第一句集『鶉』を読む  》読む



                                          あとがき  読む


                                          【PR】


                                          • 第1回姨捨俳句大賞発足

                                          ――俳句新空間の筑紫磐井、仲寒蟬が選考委員に 》詳細




                                          冊子「俳句新空間」第6号 2016.09 発行予定‼


                                          俳誌要覧




                                          特集:「金子兜太という表現者」
                                          執筆:安西篤、池田澄子、岸本直毅、田中亜美、筑紫磐井
                                          、対馬康子、冨田拓也、西池冬扇、坊城俊樹、柳生正名、
                                          連載:三橋敏雄 「眞神」考 北川美美


                                          特集:「突撃する<ナニコレ俳句>の旗手」
                                          執筆:岸本尚毅、奥坂まや、筑紫磐井、大井恒行、坊城俊樹、宮崎斗士
                                            


                                          特集:筑紫磐井著-戦後俳句の探求-<辞の詩学と詞の詩学>」を読んで」
                                          執筆:関悦史、田中亜美、井上康明、仁平勝、高柳克弘

                                          筑紫磐井著!-戦後俳句の探求
                                          <辞の詩学と詞の詩学>

                                          お求めは(株)ウエップ あるいはAmazonにて。

                                          48号 あとがき



                                          俳句帖では、季節がずれずれになってきていますが、花鳥篇その十に。9月からは、合併として夏興帖・秋興帖を公開していきます。

                                          俳句四季の<俳壇観測>の若い世代篇抜粋をさらに今号もしつこく掲載いたします。
                                          どうぞしつこくお読みいただき、さらにもっと!と思われる方は是非、「俳句四季」をお買い求めくださるようお薦めいたします。





                                          短詩時評では柳本々々さんが、ユリイカの短歌特集について触れていらっしゃいます。また、<およそ日刊・俳句新空間>においても柳本さんの<フシギな短詩>が好評連載継続中! 8月はさらに奮発で、週2回更新です。じっくりお楽しみくださいませ。






                                          作品では、<詩客>において、竹岡一郎さんの 「蛭の履歴」が掲載されています。
                                          》読む 

                                          イベントとして、小諸・日盛俳句祭りが終わりました。レポートは追加で掲載いたします!(書かねば… 汗)
                                          追加記事の可能性もありますので、随時、俳句新空間をチェックしてくださいね! チェキラ! ←久々使ってみた。懐かしい。


                                          また冊子・俳句新空間No.6 を編集中です。9月発行予定です。


                                          北川美美

                                          【抜粋「俳句四季」7・8月号】 <俳壇観測162回 関悦史の独自性―――震災・社会性をめぐる若い世代> <俳壇観測163回 社会性をめぐる若世代(続)―北大路翼と椿屋実梛を対比して> 筑紫磐井

                                          【抜粋「俳句四季」7・8月号】



                                          (前号の記事だけではよく分らないかもしれないので追加しておく)。



                                          ■俳壇観測162回/関悦史の独自性―――震災・社会性をめぐる若い世代 

                                          筑紫磐井



                                          ●関悦史

                                          ・・・「オルガン」メンバーのひとり田島健一は「俳誌要覧2016」の鼎談で「(現代詩だと和合亮一、短歌だと斉藤斉藤とあげた上で)俳句の世界だと関悦史さんを中心にそういった機運が出てきてもいいんじゃないか」と述べているからだ。照井翠、御中虫、高野ムツオとは差別化して、同世代の関悦史の独自の活動には注目しているようだ。
                                          ちなみに、関は第一句集『六十億本の回転する曲がった棒』で、

                                          地下道を布団ひきずる男かな 
                                          祖母がベッドに這ひあがらんともがき深夜 
                                            WTCビル崩壊
                                          かの《至高》見てゐしときの虫の声 

                                          人類に空爆のある雑煮かな 

                                          激震中ラジオが「明日は暖か」と 

                                          セシウムもその辺にゐる花見かな

                                          等を詠んでいるが、昭和三〇年代の社会性俳句を脱却した、現代の社会性(ホームレス、介護、テロ、戦争、震災、原発事故)を詠む。と言うより関の周辺の出来事として詠まざるを得ないのである。関はこれらの状況に「無関心」ではない。
                                          こうした関の関心をたどると、例えば(「オルガン」のライバル雑誌となる「クプラス」で同行している)高山れおなとか、さらには(関のデビュー評論となった作家論の作家)攝津幸彦などの周辺環境があることに気づく。

                                          げんぱつ は おとな の あそび ぜんゑい も   高山れおな 
                                          国家よりワタクシ大事さくらんぼ        攝津幸彦

                                          関も含めて、彼らは社会に関心がある。しかし決してそれらについて直接「語り」はしない。斜視的であり、懐疑的であり、俳諧的である。というよりは、作者自身が解釈を語らず、多義的であるが故に何を言っているかわからない俳句なのである。毀誉褒貶は鑑賞者が勝手に行っているだけなのだ。社会的な関心にかかわる俳句以外にも、およそ彼らはことごとく既存の俳句に異を立てることを自らの俳句のレゾンデートルとしているようである(「オルガン」で批判された御中虫にもそうした傾向がある)。だからこんな作品がある。


                                          皿皿皿皿皿血皿皿皿皿    関悦史 
                                          麿、変?          高山れおな 
                                          太古よりああ背後よりレエン・コオト   攝津幸彦

                                          こうした無方法の方法の中では、社会性も何もあったものではない。ただ社会的な事件がこの無方法の中を通過して行く。決して反戦・反原発・反前衛でもないし、震災対応に対する憤りでもない。鑑賞者が勝手に過剰な鑑賞を施すだけなのである。



                                          ■俳壇観測163回/社会性をめぐる若世代(続) ――北大路翼と椿屋実梛を対比して   筑紫磐井

                                          ●北大路翼『天使の涎』(二〇一五年四月邑書林刊)

                                          毎年意欲的な句集を顕彰している田中裕明賞が、今年は北大路翼の『天使の涎』に決まった。昭和五三年生まれの三八歳。歌舞伎町の風俗を素材とした、猥褻きわまりない作品集だ。内容については、「俳句四季」一〇月号の「名句集を探る」で紹介される予定なので詳しくは説明しないが、例句を上げなければ理解できないだろうから一部を紹介する。

                                          ただ、「名句集を探る」で取り上げられた句、またこの座談会以外での批評を含めて多くの俳人が取り上げた句を集めると、それだけで『天使の涎』のイメージが出来上がるかといえば、決してそんなことはない。評者が取り上げた作品は、俳句として確かに立派に成り立っているだろうが、むしろ『天使の涎』の最もインパクトのある句は多くの評者の絶対に取り上げない句の方にある。

                                          ちんぽこにシャワーをあてるほど暇だ 
                                          たまきんがのびきつてゐる扇風機 
                                          天高し穴兄弟と棒姉妹 
                                          OH!チンコと原爆を落とした国の人 
                                          コンドームつけない人とビーチバレー

                                          このような作品に眉を顰める人も多いと思うが、正岡子規の新俳句も、河東碧梧桐の新傾向も、日野草城の都ホテル俳句も、中村草田男の人間探求派も、西東三鬼の戦火想望俳句も、社会性俳句や前衛俳句も、眉を顰められていたことを思えばそれだけで否定することはできない。多くの評者が取り上げた以外の句の価値――かつそれが『天使の涎』の本質なのだが――を考える必要がある。

                                          実は北大路が最初にデビューしたのは『新鮮21』という選集であり、この中で「貧困と男根」と題してより過激なエロス――自分が寝た女達二〇人の名前と性格やベッドでの性癖を列挙するという露悪的な群作を発表した(『天使の涎』には残念だが収録されていない)。同じ選集に、上品な高柳克弘や神野紗希、佐藤文香と並ぶことでひときわその異常さが印象付けられたのだ。(もちろんほとんどがフィクションなのだが)一種のヒール(悪役)の役割を自ら負ったのが北大路であり、今回の句集は出るべくして出たのかも知れない。ただ、今回の二〇〇〇句の作品の破壊力が、「貧困と男根」一〇〇句に比べてより強いかどうかは難しいところである。





                                          【短詩時評 24首目】瀬戸夏子に〈出会う〉こと-『ユリイカ あたらしい短歌、ここにあります』から想を得て-  柳本々々



                                            しかし、〈歌の分からなさ〉は、一つの価値となっている面がある。…おそらく瀬戸(夏子)は、「分かってほしくない」ということを全力で伝えようとしている。…そうした「分からなさへの希求」が、…歌のバックボーンになっているのではないか。
                                           
                                              (吉川宏志「比較の詩型 そして比較できないもの」『ユリイカ』2016年8月号)

                                            どの連作でも瀬戸(夏子)さんがやろうとしていることは結局「短歌史との対話」、あるいはそれが困難によって成立しないさまを読者に提示することではないのか、と思われてくる。そしてその「短歌史との対話(の困難)」を読者に提示するその身ぶり自体がまたさらに作者と読者とのあいだの「対話(の困難)」でもある。 
                                              (吉田隼人「瀬戸夏子歌集『そのなかに心臓をつくって住みなさい』について 短歌同人誌「町」&「率」同人より」)

                                            短歌は「座の文芸」だと言われることもあるけれど、仮に短歌をそう呼ぶならそれは「強固な読みの共同体」のことを現時点では指すのではないかと思う。読みの恣意性は極端なまでに嫌われ、統一した(させようとする)読みのなかからそれぞれの価値観をぶつけあわせる、そして「精密で強固な読み」の「共同体」に加入するために短歌史(アララギ中心史観)の勉強を義務づけられる(ムードがあからさまに存在する)。
                                              
                                           
                                          (瀬戸夏子「ヒエラルキーが存在するなら/としても」『川柳カード』12号・2016年7月)

                                            ただ鑑賞しているという事が何となく頼りなく不安になって来て、何か確とした意見が欲しくなる、そういう時に人は一番注意しなければならない 
                                          (小林秀雄「文章鑑賞の精神と方法」『小林秀雄全作品 第5集 「罪と罰」について』新潮社、2003年)


                                          今月『ユリイカ 特集 あたらしい短歌、ここにあります』2016年8月号が発売されました。そのなかの「比較の詩型」という論考で吉川宏志さんがこんなふうに書かれています。


                                            短歌は、つねに比較を誘う形式である。
                                              (吉川宏志「比較の詩型」前掲)

                                          吉川さんが例示したのは、栗木京子さんの『うたあわせの悦び』における「小さな涙」を比較した二首です。


                                             雪のうちに春は来にけり鶯のこほれる涙今やとくらむ  藤原高子


                                             ほんとうにおれのもんかよ冷蔵庫の卵置き場に落ちる涙は  穂村弘


                                          たとえばこの二首が時空を超えて「涙」において共振しあうように「まったく時代が異なる作品であるにもかかわらず、ある一点において響き合うということが、短歌ではしばしばある」。それは「慣習的に容易(たやす)く行われ」ることでもあり「ある意味で乱暴なこと」でもあるけれど、「好むと好まざるとにかかわらず、短歌は、古い歌と比較されることで歴史性を強く帯びる詩型である」と。

                                          このことはこういうふうにも言えるんじゃないかと思います。短歌は〈鑑賞のひとつのスタイル〉として〈比較思考〉に基づいた形式に則りやすいと。そしてその〈比較〉の鑑賞によってどんなに孤立した歌でもある歌とある歌をつなぐことによる〈歴史性〉を付与することで〈理解〉のきっかけをつかむことができるんじゃないかと。

                                          わたしがここでふっと思い返したのは、今回の『ユリイカ』にも参加されている瀬戸夏子さんの短歌でした。『桜前線開架宣言』において山田航さんは瀬戸さんの短歌を評してこんなふうに述べていました。

                                            瀬戸夏子は間違いなく現代短歌のなかでも特に重要な歌人のひとりなのだが、論じるのがきわめて難しい。なぜなら、「一首単位で表記する」という短歌の原則を打ち破るスタイルを取っているため、歌が引用しづらいからだ。 
                                            (山田航「瀬戸夏子」『桜前線開架宣言』左右社、2015年)

                                          ここで山田さんは自由詩のなかにバラバラに埋め込まれた瀬戸さんの短歌を例示として取り上げるのですが、結論を先に言ってしまうと瀬戸さんの短歌の〈難しさ〉は先に述べたような〈比較思考〉が返り討ちにあるところから起こっているのではないかと思ったんです。もし短歌にとって〈比較思考〉がどれだけ難しい歌であろうともその短歌を〈理解〉するためのひとつの鍵になるなら、瀬戸さんの短歌はまずその〈比較思考〉を否定するところから始まったのではないかと。

                                          今回の『ユリイカ』には瀬戸夏子さんの連作「解散主義」が掲載されているのでそこから引用してみましょう。


                                            菫色のサインは日露の娘と初恋の比喩、そう、どちらかといえば僕だ  瀬戸夏子


                                            その一生のやわらかな金切り声、月の真ん中で赤から緑に変わる信号  〃


                                            片方だけの靴下 熊が夏の太平洋でうたっていることの確かめかた  〃


                                            全身全霊が花の二の舞になるだろう君じゃなくても僕じゃなくてね  〃


                                          〈解釈〉するのではなくてできるだけなにか構造的に近づいていけないかと思いながらこれらの歌をみてみるとあるひとつの〈構造〉に気づきます。それはこの連作タイトルが「解散主義」と「解散」とあるように、どこかあらかじめ「解散」し終わった地点から詠まれていることです。「そう、どちらかといえば僕だ」という「どちらか」からの〈もうひとり〉の暗示、「その一生」の「その」の暗示、「片方だけの靴下」、「君じゃなくても僕じゃなくてね」の「君」でも「朴」でもない「解散主義」。


                                          なにかがまず決定的に〈不在〉な地点からこれら歌は詠み出されているように思うんです。だからもし解釈しようと近づいていくと、「どちらかといえば」や「その」「片方だけの」「君じゃなくても僕じゃなくてね」で詰まってしまう。


                                          冒頭の吉川さんの〈比較思考〉の話につなげるとこんなふうにも言える。瀬戸さんの短歌がもし〈比較思考〉形式で理解しがたいものがあるならば、それはすでに瀬戸さんの短歌に〈不在〉のかたちをとって〈比較思考〉形式が《内在的に》埋め込まれているからだと。だから「その一生」の「その」は語り手にはすでに見えているはずです。それは《内在的前提》としてあるから。「その」を指示するなにかを語り手は知っている。そしてその「その」との《比較》においてこの歌は出発している。でもわたしたちにはその「その」はわからない。「その」が提示されないことによって内在化された〈比較思考〉にわたしたち読者は気づくんだけれども、それが結局〈不発〉に終わるように瀬戸さんの短歌は構造的につくられているのではないか。


                                          実はこんなことを思ったのは少し理由があるんです。瀬戸夏子さんの第一歌集に『そのなかに心臓をつくって住みなさい』(2012年)があります。その歌集には「瀬戸夏子歌集『そのなかに心臓をつくって住みなさい』について 短歌同人誌「町」&「率」同人より」という小冊子も栞としてついているんですが、その末尾に歌集の「誤植訂正」がついているんです。

                                            P42
                                            × 「しましまの 花柄の 養生している みんな大好きみんな死ね」
                                            ○「しましまの 花柄の すべる 不思議に いく みんな大好きみんな死ね」
                                           
                                              (「瀬戸夏子歌集『そのなかに心臓をつくって住みなさい』について 短歌同人誌「町」&「率」同人より」)

                                          わたしはこの「誤植訂正」にこの歌集のヒントのようなものがあるのではないかと思ったんです。読者はこの「誤植訂正」を読んでも、〈なに〉が「誤植」されたのか、「訂正」されたことで〈なに〉が変わったのかはっきりとわからない。「養生している」が「すべる 不思議に いく」に「訂正」されることでどんなことが変わるのかつかめない。でも著者にははっきりとしたある前提なりコードなりがあって、それは「誤植訂正」としてはっきりと〈修正〉されるべきものだったんです。つまり〈比較思考〉はこの「誤植訂正」からも語り手にはっきりと内在しているのがわかる。ただそれが読者には取り出せない。そういうかたちとしてあるものなんです。

                                          まとめてみると、〈比較思考〉というのはそもそも鑑賞者にとっての歌への〈理解〉の態度の話です。たとえば穂村さんの歌を藤原高子と「涙」を通して「比較」することで新たな穂村さんの/高子の歌の側面が見えてくる。でも瀬戸さんの歌はそうした鑑賞者のスタイルを歌の構造そのものによって〈棚上げ〉にしようとするものではないか。そのことによって〈鑑賞者のスタイル〉そのものが〈一時的・偶有的〉な歴史的制度そのものであると言っているのではないかとも思うんです。大きく言ってみれば。

                                          鑑賞しようとすること、読もうとすること、理解しようとすることそのものが〈そのまま〉歴史性として開示されてしまう。それが瀬戸夏子の短歌に〈出会う〉ということなのではないかと思ったんです。

                                          「そのなかに心臓をつくって住みなさい」。「その」という任意な歴史的存在であっても、解釈することの困難さの「なかに」、わたしなりの「心臓」を「つくって住み」込まなければならないということ。そういうあなたとわたしが共有できない歴史的存在であることを引き受けること(「心臓」は共有できない!)。それが瀬戸夏子に〈出会う〉ということなのではないか。

                                             ついさっきのことなのに 花丸をつける 命をあげる どんな曲だと考えて  瀬戸夏子

                                            (「イッツ・ア・スモール・ワールド」『そのなかに心臓をつくって住みなさい』2012年)


                                            短歌とは比較の詩型である、と私は書いた。しかし、どうしても比較できないものが、一首のなかに澱のように残る。それは死であり、死を帯びている生である。それはいくら「うたげ」が続いていても、消え去ることがないものであった。  
                                           (吉川宏志「比較の詩型 そして比較できないもの」前掲)






                                          西村麒麟第一句集『鶉』を読む  アーカイブ



                                          【西村麒麟第一句集『鶉』を読む1】 2014年2月7日
                                          『鶉』序文 筑紫磐井   》読む 

                                          【西村麒麟『鶉』を読む2】 2014年2月7日
                                          金平糖 相沢文子 》読む 

                                          【西村麒麟『鶉』を読む3】  2014年2月14日
                                          心地よい句集 樋口由紀子 》読む

                                          【西村麒麟『鶉』を読む4】 2014年2月14日
                                          印影の青き麒麟 五十嵐義知  》読む

                                          【西村麒麟『鶉』を読む5】 2014年2月21日
                                          肯うこと ―西村麒麟第一句集『鶉』読後評― 澤田和弥  》読む

                                          【西村麒麟『鶉』を読む6】 2014年2月21日
                                          (一句鑑賞) 鶴と亀 田中亜美 》読む

                                          【西村麒麟『鶉』を読む7】 2014年2月28日
                                          西村麒麟句集『鶉』評 矢野玲奈 》読む

                                          【西村麒麟『鶉』を読む8】 2014年2月28日
                                          へうたんの国は、ありません 久留島元  》読む


                                          【西村麒麟『鶉』を読む9】 2014年3月7日
                                          ラプンツェル塔から降りる(『鶉』感想) 石川美南  》読む

                                          【西村麒麟『鶉』を読む10】 2014年3月7日
                                          麒麟と瓢箪    関悦史 》読む

                                          【西村麒麟『鶉』を読む11】 2014年3月14日
                                          脱力する幸せ 鈴木牛後 》読む

                                          【西村麒麟『鶉』を読む12】 2014年3月14日
                                          「男の子」のマジック・タッチ 佐藤りえ 》読む

                                          【西村麒麟『鶉』を読む13】 2014年3月21日
                                          鶉と麒麟さん 鳥居真里子 》読む

                                          【西村麒麟『鶉』を読む14】 2014年3月21日
                                          西村麒麟句集『鶉』評 堀田季何 》読む

                                          【西村麒麟『鶉』を読む15】 2014年3月28日
                                          『鶉』にみる麒麟スタイル 北川美美 》読む

                                          【西村麒麟『鶉』を読む16】 2014年3月28日
                                          理想郷と原風景 冨田拓也 》読む

                                          【西村麒麟『鶉』を読む17】 2014年4月4日
                                          無題 村上鞆彦 》読む

                                          【西村麒麟『鶉』を読む18】 2014年4月4日
                                          七句プラス1 佐藤弓生 》読む

                                          【西村麒麟『鶉』を読む19】 2014年4月11日
                                          鎧のへうたん 阪西敦子 》読む

                                          【西村麒麟『鶉』を読む20】 2014年4月11日
                                          へうたんの外に出てみれば 近江文代 》読む

                                          【西村麒麟『鶉』を読む21】 2014年4月25日
                                          「鶉」感想 太田うさぎ 》読む

                                          【西村麒麟『鶉』を読む22】 2014年5月2日
                                          短歌・川柳との比較 飯島章友 》読む

                                          【西村麒麟『鶉』を読む23】 2014年5月16日
                                          『鶉』二十句について 西村麒麟 》読む

                                          【西村麒麟『鶉』を読む24】 2014年5月30日
                                          俳句的自意識 しなだしん 》読む

                                          【西村麒麟『鶉』を読む25】 2014年6月13日
                                          幽霊飴 中山奈々 》読む








                                          西村麒麟第一句集 『鶉』(私家版)



                                          ※ 『鶉』は、2016年現在入手不可となっております。 



                                          ※ 西村麒麟句集『鶉』は、ふらんす堂主催 第五回田中裕明賞(2014年)を受賞 し、ふらんす堂通信141号に全句が掲載されました。ふらんす堂通信の在庫確認、お問合せは、ふらんす堂まで直接お願いいたします。



                                          • ふらんす堂オンラインショップ ふらんす堂通信141号 》読む 



                                          • 田中裕明賞について  》読む