2020年11月27日金曜日

第149号

   ※次回更新 12/11


俳句新空間第13号 刊行!

俳句四季11月号 「今月のハイライト 豈 創刊四十周年」!
【急告】「豈」忘年句会及び懇親会の延期

【読み切り】圧倒されっぱなしの俳人の覚悟と生きざま『秦夕美句集』(現代俳句文庫‐83) 豊里友行 》読む

【新企画・俳句評論講座】

・はじめに(趣意)
・連絡事項(当面の予定)
・質問と回答
・テクスト/批評 》目次を読む

【新連載・俳句の新展開】

句誌句会新時代(その一)・ネットプリント折本 千寿関屋 》読む
句誌句会新時代(その二)・夏雲システムの破壊力 千寿関屋 》読む
ネット句会の検討 》読む
俳句新空間・皐月句会開始 》読む
皐月句会デモ句会結果(2010年4月10日) 》読む
第1回皐月句会報(速報) 》読む
皐月句会メンバーについて 》読む
第2回皐月句会(6月)[速報] 》読む
第3回皐月句会(7月)[速報] 》読む
第4回皐月句会(8月)[速報] 》読む
第5回皐月句会(9月)[速報] 
》読む
第6回皐月句会(10月)[速報] 》読む

■平成俳句帖(毎金曜日更新) 》読む

令和二年秋興帖
第一(11/6)大井恒行・辻村麻乃・関根誠子・池田澄子
第二(11/13)杉山久子・曾根 毅・山本敏倖・渕上信子
第三(11/20)松下カロ・仙田洋子・神谷 波・ふけとしこ
第四(11/27)網野月を・竹岡一郎・木村オサム・堀本 吟


令和二年夏興帖
第一(8/7)仙田洋子・辻村麻乃・渕上信子
第二(8/14)青木百舌鳥・加藤知子・望月士郎
第三(8/21)神谷 波・杉山久子・曾根 毅・竹岡一郎
第四(8/28)山本敏倖・夏木久・松下カロ・小沢麻結
第五(9/4)木村オサム・林雅樹・小林かんな・岸本尚毅
第六(9/11)妹尾健太郎・椿屋実梛・井口時男・ふけとしこ
第七(9/18)真矢ひろみ・田中葉月・花尻万博・仲寒蟬
第八(9/25)なつはづき・渡邉美保・前北かおる・浜脇不如帰
第九(10/2)水岩 瞳・のどか・下坂速穂・岬光世
第十(10/9)依光正樹・依光陽子
第十一(10/16)松浦麗久・高橋美弥子・姫子松一樹・菊池洋勝
第十二(10/23)川嶋ぱんだ・中村猛虎
第十三(10/30)小野裕三・佐藤りえ・筑紫磐井
補遺(11/27)堀本 吟


■連載

【抜粋】〈俳句四季12月号〉俳壇観測215
令和に迎えた閉幕――鍵和田秞子の逝去・船団の散在
筑紫磐井 》読む

【連載通信】ほたる通信 Ⅲ (4) ふけとしこ 》読む

英国Haiku便り(16) 小野裕三 》読む

中村猛虎第一句集『紅の挽歌』を読みたい
4 無題/ほなが 穂心 》読む

篠崎央子第一句集『火の貌』を読みたい
3 恋と血と/吉田林檎 》読む

中西夕紀第四句集『くれなゐ』を読みたい
6 無題/北杜 青 》読む

眞矢ひろみ第一句集『箱庭の夜』を読みたい
6 人とこの世への恩愛に満ちた句集『箱庭の夜』について/神谷 波 》読む

なつはづき第一句集『ぴったりの箱』を読みたい
6 雪女三態―なつはづき句集「ぴったりの箱」鑑賞/岡村知昭 》読む

句集歌集逍遙 なかはられいこ『脱衣場のアリス』/佐藤りえ 》読む

ふけとしこ第5句集『眠たい羊』を読みたい
インデックスページ 》読む
9 ~生きる限りを~/髙橋白崔 》読む

『永劫の縄梯子』出発点としての零(2)
 救仁郷由美子 》読む

葉月第一句集『子音』を読みたい 
インデックスページ 》読む
8 パパともう一人のわたし/北川美美 》読む

麻乃第二句集『るん』を読みたい
インデックスページ 》読む
17 無意識の作品化、俳句のフレームを超えて/山野邉茂 》読む

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉜ のどか 》読む

渡邊美保第一句集『櫛買ひに』を読みたい 
インデックスページ 》読む
6 『櫛買ひに』を読む/山田すずめ 》読む

大井恒行の日々彼是 随時更新中! 》読む


■Recent entries

第5回攝津幸彦記念賞応募選考結果
※受賞作品は「豈」62号に掲載
特集・大本義幸追悼「俳句新空間全句集」 筑紫磐井編 》読む
「兜太と未来俳句のための研究フォーラム」アルバム
※壇上全体・会場風景写真を追加しました(2018/12/28)
【100号記念】特集『俳句帖五句選』

佐藤りえ句集『景色』を読みたい 
インデックスページ 》読む

眠兎第1句集『御意』を読みたい
インデックスページ 》読む

麒麟第2句集『鴨』を読みたい
インデックスページ 》読む

前衛から見た子規の覚書/筑紫磐井
インデックスページ 》読む

「WEP俳句通信」 抜粋記事 》見てみる

およそ日刊俳句新空間 》読む
…(今までの執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保 …
7月の執筆者 (渡邉美保

俳句新空間を読む 》読む
…(主な執筆者)小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子








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筑紫磐井著『女帝たちの万葉集』(角川学芸出版)

新元号「令和」の典拠となった『萬葉集』。その成立に貢献した斉明・持統・元明・元正の4人の女帝、「春山の〈萬〉花の艶と秋山の千〈葉〉の彩を競へ」の天智天皇の詔を受けた額田王等の秘話を満載する、俳人初めての万葉集研究。平成22年刊2,190円。お求めの際は、筆者までご連絡ください。 

【連載通信】ほたる通信 Ⅲ(4)ふけとしこ

   火
パピルスの戦ぎて冬のはじまりぬ
あんよは上手冬日が背中くすぐるよ
冬凪の海や手元に走らす火
落葉踏む落葉の下のものも踏む
小春日をスキンヘッドと隣り合ひ

   ・・・
 こんばんはだ! まだあったんだ!
 20センチ四方程の赤い木綿の古い布。幼い頃に着ていたワンピースの、おそらくスカートの部分。私はその服を「こんばんはの服」と呼んで大のお気に入りだったのだ。
 実家へ一泊して祖母の裁縫箱を探っていた時のことであった。祖母も母も亡くなって久しく、その裁縫箱も針や糸が必要な時に取り出すぐらいのものである。それでも、今まで何度も開けたことがあるのに、この端切れが入っていることに全く気付かなかった。畳んで重ねてあったからだろう。
 記憶を辿るのだが、今もってその生地でできた服を何故「こんばんはの服」と呼んでいたのかが分からないのである。
 人の顔のように見える柄だったか……しげしげ眺めてみても、そう見える所は全くない。
その服を着ている時に誰かが訪ねてきて「こんばんは」と挨拶があり、「こんばんは」と自分から言ったか促されて言ったかは不明だが、その挨拶の言葉と赤いワンピースとが自分の中でセットになってしまったのではないか、と考えてみる。
 「いい服着てるね」と言われれば「うん、こんばんはの服」と答えていたような記憶がかすかにある。「どうしてこんばんはの服?」との問いにはどう答えていたのだろうか。それは全く記憶にない。
 記憶というものの不思議さや面白さを思うことはままあること。家族や友人達と行動を共にしたはずのことにしても、一人一人の記憶のどこかがずれていたり、欠けていたりする。
今度実家へ行ったらあの赤い端切れを持って来よう。何にするという当てはないが、傍に置いておくのも悪くないなと思えるから。

(2020.11)

英国Haiku便り(16) 小野裕三


鈴木大拙の肉筆

 西洋人が俳句に触れる際に「禅」がよく言及される。ある種の安易なステレオタイプの日本観なのではとも思ったが、そうとばかりも言えない。禅を西洋世界に広く紹介した鈴木大拙も、俳句と禅の類似性を強調している。大拙は、芭蕉の有名な蛙の句も、芭蕉自身の禅問答から生まれたものだと指摘する。
 大拙は、カール・ユング、ジョン・ケージ、ジャクソン・ポロックなど名だたる西洋の思想家や芸術家に大きな影響を与え、晩年にはノーベル平和賞の候補にもなった。その大拙はロンドンにも滞在した。先日、僕はその大拙の肉筆原稿に触れる機会に恵まれた。大拙は、18世紀の神秘思想家エマニュエル・スウェデンボルグに傾倒し、その著書『天界と地獄』等を翻訳して日本で出版した。そのスウェデンボルグの資料を集めた施設がロンドンにあり、そこに大拙のその翻訳の原稿が保管されているのだ。
 「日本語がわかる人が来てくれて嬉しいなあ。何か気づいたことがあったら教えてよ」
 とイギリス人の職員に案内され、閲覧室みたいな部屋で半日ほど大拙の肉筆と向き合った。和紙に墨文字で書かれた原稿を、大拙はしつこいくらいに推敲していた。偉大な先人のその実直な「格闘」ぶりには心を打たれた。その字体は美しく、翻訳された日本語も時に「詩的」だと僕には感じられたが、それも大拙の「禅」への見方と繋がっている気がした。
 禅の世界は哲学的であるよりもむしろ詩的である、と大拙は語る。とするなら、彼が日本文学の中でもとりわけ注目した「詩」である俳句には、彼の思想にとって特別な意味がありそうだ。
 大拙は、俳句とは究極的に言えば、俳人たちが直感で「宇宙的無意識」を捉えることから生まれると考えた。いささか抽象的で神秘的ですらある言い方だが、ここで重要なのは、俳人たちが「直感」のレベルに留まり続ける点にあると思う。そこからさらに哲学的な思索を構築しようとはせず、よくもわるくも「直感」のレベルから動かない。それは確かに、西洋的な知のあり方とは違う形だと思える。
 このことは言い換えれば、俳句とは創作者が「物」(それも多くはささやかで日常的な)のレベルだけに集中できるようにする(あるいはそうすることを義務付ける)ひとつの芸術的なテクニックである、ということだと思う。俳句はその短さゆえに、「物」のレベルを決して離れない。ロジカルに構築された思想体系をそこから作り出そうとはしない。だがその「物」は直感に結びついており、それゆえに、より広大な何かにアプローチしうる。この逆説が俳句の面白さだと思うし、「禅」を深く学んだ大拙も、この俳句的真理に気づいていたのだ。

(『海原』2020年6月号より転載)

【抜粋】〈俳句四季12月号〉俳壇観測215  令和に迎えた閉幕――鍵和田秞子の逝去・船団の散在  筑紫磐井

 未来図終刊
 平成の末年というべき平成三十年には、「寒雷」「海程」「狩」が終刊し衝撃を与えた。加藤楸邨、金子兜太、鷹羽狩行の俳壇史に名前を残す作家たちが創刊した雑誌であるだけに、その衝撃度は大きかった。そしてまた令和時代が始まったばかりの令和二年には、また著名な雑誌として「未来図」「船団」が終刊した。
   (中略)
「船団」終刊
 坪内稔典代表の「船団」一二一号(令和元年六月)の後記で終刊が宣言され驚いた。その後「船団」は順調にというべきか、予告通り一二五号(令和二年六月)を以て終刊した。あと一冊会員名鑑や総目次を特集する増刊号が出るというが実質的には終わっている。
 しかし、その終刊の理由は分かりにくい。船団の会の活動を終え、会員は「散在」する、そして一二一号以降の一年間をかけて活動の仕方、自分の活動の拠点を模索するというのだ。坪内は、ある意味で船団は今絶好調なのだ、だからこそあえて完結したい、新しく見えてくる何かにわくわくしているという。しかしはたして船団の何人がわくわくしているのだろうか。
 約束通り一二五号の終刊号が出たが、この号のどこを見ても「散在」の姿かたちは浮かび上がらない。一二一号以降の一年間の模索は一般読者にはわからないのだ。あるいは水面下で会員たちの離合集散が図られているのかもしれないが、紙面では何も出てこない。
   *
 そもそも「散在」とは何なのか。軍事用語では、「散開」という言葉がある。ある攻撃地点に向かって各自ばらばらに行動し、攻撃点で集合することである。また、「復員」という言葉もある。これは、戦争に向けて物資・人材を集める「動員」に対立する用語で、動員した物資・人材をもとの状況に戻すこと、ふつうは戦争の勝利で行われるが、日本では昭和二十年に戦争に負けた時に起きた。いずれにしろあるミッションが想定されているわけだが、「散在」は目的が見えてこない。まるで、引上船に乗って帰ってきた復員兵のように見える。
 例えば直前四号の特集は、「今、風立つ――俳句の前景」「俳句史の先端」「俳句はどのような詩か」等であったが、「散在」の状況の中で語られてこそ意味がある特集となるのではないか。我々は今や歴史的に客観的な事実を知りたいのではなく何をしようということにこそ関心があるのだ。
 「散在」が出てくる理由は坪内の履歴によるのかもしれない。立命館時代に坪内が中心となって学生俳人による同人誌「日時計」を創刊、攝津幸彦、澤好摩がこれに参加した。「日時計」終刊後、澤らの「天敵」と大本義幸らの「黄金海岸」に分かれたが、「黄金海岸」には坪内、攝津らがいた。相変わらずの同士だったのだ。やがて「天敵」は「未定」に、「黄金海岸」は「豈」となったが、坪内だけは「現代俳句」という広い視点の雑誌を創刊し、やがて独自の「船団」を創刊した。こうした若い作家たちの離合集散を見ると、その状況はやはり「散開」に近かったと言えるかもしれない。しかし、今回の「船団」の示したものは「散開」とは違ったようだ。
 一二五号から作品を掲げる。

あんパンへ歩いているよ十二月 坪内稔典
あんパンと孤独があって窓は雪
牡丹雪あんパンだって寡黙だよ


※詳しくは「俳句四季」12月号をお読み下さい。

【中村猛虎第一句集『紅の挽歌』を読みたい】4 無題  ほなが 穂心

 中村猛虎氏  その名前からすると、熱烈な阪神ファンかな?
 氏の略歴を存じ上げなかった時期は、そうした俳号からの先入観さえあった。
 ロマネコンテ俳句ソシエテへの投句を拝見する機会が増え、言葉の選び方、取り合わせの妙に独特の世界観を持った方だと尊敬の念を抱いた次第である。
 猛虎氏の第一句集「紅の挽歌」が上梓され、小生宛に送られてきたのは、表紙がレールの断面図と表題の太く黒い漢字の間に、えんじ色の帯紙と同色の「の」の字を挟んだ印象的な装丁の本だった。期待に胸膨らませ本を開く前に、目に留まった帯紙の表紙側の一句は

 順々に草起きて蛇はこびゆく

 夏草の間を滑るように進む蛇であるが、見方を変えると、夏草が鞭毛運動で蛇を運んでいるように見える程、蛇とその周辺の静かな動きを見事に表現した句で、この句がここにある理由が良く分かった。
 このような句が内蔵されていると思うのが普通だが、予想は見事に外れた。
 「紅の挽歌」からは、「生」と「死」に正面から向き合うエネルギーと、同時に読み手を引き込む「生かされている」ことへの喘ぐような息苦しさも感じてしまう。帯紙の後面に記された自薦12句は氏の奥様への思い、上梓への思いだった。
 数多くの作品から上梓のための選句をされた訳だが、構成と句の配列に相当苦心されたのでしょう。見出しごとの句数も疲れない数でまとまっている。
   モノローグ~永いお別れ   24句
   遠い日の憧憬        52句
   家族の欠片         54句
   左手の記憶         56句
   さよならの残骸       46句
   前世の遺言         55句       合わせて 287句
は物語を成しているような感じさえするほどだ。
 猛虎氏より句集の評を依頼された時は正直困った。句会での選評は作者が判らないから、思ったまま言える訳だが、作者が分かった上での句評は、『忖度』と受け取られかねない。正直苦手なジャンルも交じっていた。
 一読目はモノローグの心の重さに引きずり込まれそうになり、感情が鑑賞力を奪いそうだった。氏はその為に上梓された訳ではあるが・・・。
 二読目は敢えて「遠い日の憧憬」から読み始めた。すると、氏の自然界への洞察力、生命に対する尊厳を感じることが出来、自然の営みの中で、自分も「死」に勇気をもって向き合えそうな気がしてきた。

  私が気に入った句、気になった句を、順に寸評を混ぜて20句記す。
  (順々に草起きて・・・は既評済みのためそれ以外)

  脊椎の中の空洞獺祭忌       季語「獺祭忌」は付き過ぎ?
  遺骨より白き骨壺冬の星      季語の斡旋が素晴らしい
  鏡台にウィッグ遺る暮の秋    「ウイッグ遺る」が全てを語る
  この空の蒼さはどうだ原爆忌   「長崎の鐘」の唱と反核への思い 
  どこまでが花野どこからが父親   自分への叱咤「ボーッとしてるな!」
  白菜の葉と葉の隙間不信感     広がった葉は切り落とされる
  朧夜の肩より生まれ出る胎児    何としてもと言う生への執着
  犬ふぐり母は呪文で傷治す     痛いの痛いの飛んで行け
  子の一歩父の一歩に春の泥     親子の情を感じさせる。生の躍動
  ハムスター回り続ける寒夜かな   生きる意味を問い続ける
  高射砲傾けている霜柱       反戦の小さな力をそこに見た
  夏シャツの少女の胸のチェ・ゲバラ Tシャツの柄に革命家?立体感!
  死に場所を探し続ける石鹸玉    シャボン玉の割れるのも「死」
  水紋の前へ前へと水馬       水馬の動きをしっかり観察
  寒紅やいつか死にたる赤子生む  いつかは死ぬ子?何時か死産する女?
  身のうちの澱みのなかより薄氷   心のもやもやが殺気となるかも
  傷口のゆっくり開く春の夕     治りかけているのに、また~
  空蝉の中の未熟児泣き続く     空蝉に例えた保育器の中の子の執着
  鬼灯を鳴らす子宮のない女     子の産めない身体になった女の心理
  ポケットに妻の骨あり春の虹    生かされている内は共に歩みたい!
                                    以上 

【中西夕紀第四句集『くれなゐ』を読みたい】6 無題  北杜 青

 中西先生のもとで俳句を学び、選を受け、吟行を共にさせていただき常に感じるのは、中西夕紀という俳人の表現に対する潔さです。擬人法、比喩表現を極力排し、辞書に掲載されていても省略語を安易に認めることはありません。技巧が出すぎることを嫌い、例えば、理が通らない組合せを原因、理由の助詞「ば」で強調して繋ぎ、面白みをだす詠み方がありますが、このような技巧を用いることはありませんし、選句の際は、「ば」を「て」に直すよう指導されます。現在の俳人のなかでも、俳句表現に対して最もストイックな考えを持たれているお一人だと信頼しています。
 吟行を重ねることで“俳句として詠むべき素材”を五感で捉えることを磨き、表現は、定型のリズムを大切に、言葉に負担を掛けないことにのみ注力しているように感じます。この表現に対する潔さは、俳句と対峙する際の中西先生の一貫した姿勢ですが、『くれなゐ』では、前句集の『朝涼』より更に構えたところが無くなり、俳句形式に対する十全の信頼から、その詠みぶりは清水が流れるように無垢なものになっています。「技巧的な句はすぐ飽きる」は中西先生の講評での口癖ですが、目を引く句ではなく、長く読み継がれる句をという矜持を感じました。

干潟から山を眺めて鳥の中

 場面のリフレインを感じる変わった詠み方の句ですが、下五に「鳥の中」を置いたことで、作者を始点として焦点がぐっと広がっていくのを感じます。広々と光り輝く干潟に、水鳥は、飛ぶものもあれば、地に遊ぶものもあり、包まれている作者の幸福感が伝わってきます。

船団の一艘に旗若布刈る

 大景の一点に焦点を絞り、調子の張った表現で詠み切ることで春寒の荒々しい若布刈の全景が見えてきます。旗を打つ風音、涛音や漁夫の声など、音が聞こえてくる句です。

橘の実を頂いて奈良にをり

 悠久の時を超えて平安京、紫宸殿の右近の橘の実が作者の掌に落ちてきたような感覚を抱きます。余白を残した詠みぶりが読者の想像を広げる句です。奈良に通い続けて自身の俳枕となっているからこその句だと感じます。

隙間より花の日差や籠堂

 籠堂に入って戸を閉ざすと板張りの隙間より幾筋も日の帯が差し込んできます。「花の日差」という省略の効いた表現から作者のいる薄暗い室内と満開の桜が日に揺れる野外との対比が鮮やかに見えてきます。

木の揺れの光のゆれの冬の鳥

 澄み切った冬の光彩が繊細に描かれています。句の立ち姿が美しく、視覚と音律を楽しめる句です。控え目なリフレインに、意味を超えた言葉の働きを感じます。

俎板の鯉の水吐く青葉かな

 包丁式での嘱目でしょうか。俎板の上ですでに動かなくなった鯉の口から不意に零れた僅かの水と生命観溢れる青葉との取合せに無常観と共に生きとし生けるものに対する慈しみを感じる句です。

日陰から見れば物見え一茶の忌

 忌日の句は、具体的な事柄で繋げるのではなく、その人に対する作者独自の深い思いに読み手が共感することによって成立するものだと思います。相続争いなど世俗にまみれながら俳諧で身を立てた、決して聖人ではなかった一茶の屈託に対する作者のやさしい眼差しを感じます。

木の中のわづかを速し寒の鳥

 冬日の中、葉を落とし切って鋼色に輝く樹々の梢を冬鳥がせわしなく渡っています。普段の景のなかに冬の季感を鋭敏に感じ取った句です。

 特に心に残った句について鑑賞させていただきましたが、読み返すほどに、また、違う句について鑑賞を書きたくなる奥ゆきのある句集だと感じています。
                                   以上

【篠崎央子第一句集『火の貌』を読みたい】3 恋と血と 吉田林檎

  集名を知った時、作者は「未来図」の系譜をただ継ぐのではなく全身全霊で背負っていく覚悟があるのではないかと感じた。中村草田男の「炎熱」、そして何より前年に刊行された鍵和田秞子の遺句集『火は禱り』の連想を免れることはできない。 “央子さんは、中村草田男、鍵和田秞子のいのちを詠み、俳句の可能性を探るという志をしっかりと継いでいよう”という角谷昌子氏の帯文(跋文抜粋)がその印象を決定的なものにしている。

 この句集は「恋」と「血」という二つの要素が随所に配されており、読み終えてやはり師系を形だけではなく魂からも継ぎつつあると確信した。「恋」や「血」といったパワーワードは安易に使うと作家の品位に関わることもあるが、一貫したテーマとして提示されるとむしろ説得力となるのも発見であった。なお、「あとがき」などには年代順に編んだとの明記がないが内容から推測して年代順であろうという前提のもとに記している。

 第一章のタイトルは「血族の村」。筆者が感じた「背負っていく覚悟」を持った生き方はこの村で形成されたものである。良くも悪くも「血族」「血統」が作者を支配していたことが窺える。

 血族の村しづかなり花胡瓜
 開墾の民の血を引く鶏頭花
 血統の細くなりゆく手鞠唄
 血の足らぬ日なり椿を見に行かむ


 「幼い頃より動植物が好きだった」(あとがきより)という作者が一族に流れる血を思う時、そこには草木がある。大地がある。「しづか」さを「花胡瓜」に感じ取り、「開墾」の遺伝子的記憶は「鶏頭花」に託されている。そして草木がないところに血統は「細くなりゆ」き、血が足りなければ椿で補充する(椿の句のみ第二章)。植物の赤い成分を吸い取って血に変えているようにも思える把握だが、そこに虚構的破綻がないのは全て確かな季語に裏打ちされているからだ。季語の中でも確実に映像を結ぶ植物である点に実感があり、説得力がある。

 熱い血の流れる作者は恋への傾倒も尋常ではなかったことが現れている。

 逃水や恋の悩みを聞くラジオ

 法師蟬恋のまじなひ唱へをり

 ばい独楽の弾けて恋の始まりぬ

 緋鯉ゆく恋の勝者とならむため

 職業は主婦なり猫の恋はばむ

 恋に恋する少女が恋の勝者となり結婚、主婦として猫の恋をはばむまでの道のりが綴られていることがわかるが、この合間にも〈猫じやらし振りて男をはぐらかす〉〈注連綯ひて男の愚痴を聞き流す〉〈違ふ神信ずる夫婦蚊遣焚く〉と、妻としての余裕が垣間見える。〈よそ者として草むらに花火待つ〉のように結婚の小さな屈託も感じられないわけではないが、血族から受け付いた血は強く生きる知恵に満ちている。

 筆者の主観ではあるが「恋」や「愛」にまつわる句と「血」や「血族」にまつわる句を抜き出してみたところ、いずれも34句だった。第一章はいずれも12句。第二章は恋の句が13句、血の句が7句。「未婚」から「恋の勝者」となり、恐らくは結婚するまでの時期のようである。作句の数からも血族より恋を優先する時期であったことが浮かび上がる。多くの人が通る道筋で、心の動きを素直に句にしてきた結果といえよう。
 第三章は恋の句が6句、血の句が4句。〈無花果を夫に食はせて深眠り〉があり、新婚生活の幸せを享受しながらも忙しい日々を過ごしていることが窺える。そして第四章は恋の句が3句、血の句が11句。全体の構成の中では第四章が118句と最も多くの句が収録されていてこの比率である。それは介護が必要な義理のご両親をお迎えした時期とも重なる。恋する娘が結婚を経て義理のご両親との暮らしを営んでいくなかで「血縁」への視点が増えたゆえであろう。

 以上家族と作者との関わりにおける句を綴ったが、作者自身の内面が浮かび上がる句にも触れておきたい。

 筆箱に人のペンあり夏の風邪
 なびくこといつしか忘れ枯尾花
 竜となるまで素麺をすすりけり
 化粧して人形となる月夜かな


 各章から1句ずつ挙げた。自分の筆箱に「人のペン」があることに違和感を持った作者。強い自我を感じさせる。その違和感が彼女を文学の道に導いたのであろう。文学に勤しんでいるある日、「なびくこと」を忘れた枯尾花に出会う。枯尾花ですらなびくことを忘れるのだ。ましてや人間だって、というメッセージを受け取ったに違いない。ありのままの自分で思い切り生きることにした作者は素麺をすするにも「竜となるまで」思い切りやってのける。自分らしく生きることで身につけた強さだ。その強さがあるからこそ化粧する違和感を「人形となる」ことで自分の中の辻褄を合わせる技を身につけることができた。読めば読むほど作者の強さを感じさせる。

 篠崎央子さんとは銀漢亭の句会で出会った。その頃は同じ時期に句集を出版することが予定されており、「同期だね」などと話していたが、その後進捗がなかったのでどうなったのだろう?と思っていたら鍵和田秞子さんの訃報が飛び込んできた。それが全ての事情を語っていた。一度話しただけなのにこの親近感はどこから来るのか少々不思議だったが、彼女の熱き血潮が私にまで伝わってきたためなのだとこの句集を読んで納得した。大学では『万葉集』を研究されていたとのことだが、彼女の句風には知識を駆使して表面をなぞるようなところがなく、魂の発露として俳句を必要としていることが感じられる。全身俳人ともいうべき央子さんの生き方を私は応援したい。

 炎熱や勝利の如き地の明るさ    草田男
 火は禱り阿蘇の末黒野はるけしや   秞子
 火の貌のにはとりの鳴く淑気かな   央子



吉田林檎(よしだりんご)1971年東京都出身。『知音』同人。
第3回星野立子新人賞/第5回青炎賞(知音新人賞)/
第16回日本詩歌句随筆評論大賞 俳句部門 奨励賞
俳人協会会員/句集『スカラ座』

【読み切り】圧倒されっぱなしの俳人の覚悟と生きざま『秦夕美句集』(現代俳句文庫‐83) 豊里友行

十六夜に夫を身籠りゐたるなり

 帯の俳句が妙に私の脳裏にこだまする。
 周辺の俳句を拾い読む。
 判読しながら秦夕美の生きるベクトルに圧倒されていく。
 「ふぶく夜を屍の十指ぬぐひけり」「寒紅をひくこのたびは喪主の座に」「雪原の果いつぽんの泪の木」「ただ生きよ風の岬のねこじゃらし」
 あるがままに詠み込んでいく秦夕美の俳句に私は、惹きこまれていた。

誰も叫ばぬこの夕虹の都かな
ゆつたりとほろぶ紋白蝶のくに


 「誰も叫ばぬ」「ゆつたりとほろぶ」の俳句にこの国を憂う俳人のアンテナが、時代を感受している。この俳人の中では、出色に見える俳句だが、私をきちんと丁寧に俳句に詠う力量は、社会へも実感を得た俳句として素晴らしい俳句を成している。

秦夕美と名のれば乱れとぶ螢

 気負いなく自己をあるがまま詠う。

苺つぶす無音の世界ひろごれり
霜柱十中八九未練なり
花のおく太古の魚を飼ひにけり
白南風に仮面の裏の起伏かな
ままごとのお客は猫と昼の月
今生の光あつめ雛の家

 この俳人の俳句をささえている丁寧な描写力は、観察眼と言い換えてもいい。
 よく視ている。
 よく聴いている。
 よく心に感受している。
 それは、とても素晴らしい感性の弦になっている。

 ただただ圧倒された女性俳人の感性の弦を軸に人生を奏でる気概。
 私は、俳句観賞するためにも、もっと人生を謳歌したい。
 人生の先輩俳人たちが、のたうち回りながららも獲得して人生を謳うことへの嫉妬を拭いきれない。
 しなやかに。
 たくましくも繊細に。
 力強く生きる。
 俳句の奥域を広げて、深めて、真実を捉えていく。
 そんな俳人たちに私は、これからも沢山たくさん精一杯のエールを贈りたい。
 この同時代に生きて俳句を切磋琢磨していくエールを私も確かに受け取っている。
 この俳人の情念を突き抜けた先を私は、もっと見てみたい。
 共鳴句を頂きます。

貝がらをあやすのつぺらぼうの母
残照の鰭もつ子宮(こっぼ)泳ぎけり
念々ころり寝棺・猫又・願ひ文
とろり疲れてやさしい闇に吊柿
七草にまじへ啜るは何の魂
回想の雨のぶらんこ揺れはじむ
月浴びてゐる「わたくし」といふ魔物
雁風呂やわが情欲のさざなみも
乱鶯や乳首の尖がりゆく思ひ
花ざくろ老いても陰のほのあかり
何処へと問ひ問はれゐる鳳仙花
そして誰もゐない夕日の芒原
沈黙も寒のきはみの紫紺かな
椿一輪おく胎内のがらんだう
朝の鵙もうここいらで転ばうか
海市あり別れて匂ふ男あり
王子の狐火ゆうらりと昭和果つ
恃(たの)むものなし月光の針を呑む
以後の世を歩きつかれて雪女郎
画鋲挿す癌病棟の夏の壁
理由なき反抗獅子座流星群
梧鼠(むささび)がとぶ霊域の大月夜
後の世は知らず思はずねこじやらし
やさしさはずるさに似たり雲の峰
暇なのでひまはり奈落へと運ぶ
花嵐お手々つないで鬼がくる

【なつはづき第一句集『ぴったりの箱』を読みたい】6 雪女三態―なつはづき句集「ぴったりの箱」鑑賞 岡村知昭

   雪女笑い転げたあと頭痛

 「もうやめてよ、笑い過ぎて頭が痛くなっちゃった」との声が響いてきそうな、一見ほほえましい景なのですが、この声の主は、何を隠そう雪女ご本人なのです。 
 言うまでもありませんが、雪女とは幻想の産物、脈々と積み重ねられてきたロマンチックの塊。同じ架空の存在でありながら、雪男が季語とされていないどころか、ヒトではなく獣扱いをされているのとは対照的です。男性目線が過ぎるのかもしれません。しかしこの一句に登場する雪女ときたら、大きな声を上げて笑い転げているのです。そしてついには「頭が痛い」と口にしてしまうのです。いったい何に対して、誰に対して笑い転げてしまったのかは、一切示されないまま、笑い転げている、頭痛に襲われている姿だけが鮮やかに、刃のような冬の空気の冷たさと合わせて、読者のもとへ届けられているのです。
 もちろん「雪女」で切れが発生していると捉え、この一句は私が、もしくは誰かが、雪女の話に笑い転げているのだ、と読み解くことはできます。その読みを取る場合には、積み重ねられた雪女へのロマンチックな幻想そのものを笑ってしまおうとしている、権威や伝統の圧力を恐れない、生き生きとしたひとりの人物の姿が、浮かび上がってくるでしょう。主人公が雪女本人であれ、「雪女=私」もしくは「雪女≠私」であれ、大きな笑いと鋭い痛みを自分の身体に併せ持ちながら、積み重ねられた幻想の縛りから解き放たれている誰かの姿が、この一句では鮮やかに描かれているのです。

 その町の匂いで暮れて雪女

 「その町の匂いで暮れて」との流れで、下五に何を持ってくるかは、なかなかに悩ましいところです。いま自分が住んでいる「その町」の「その」に、わずかながらではあっても、よそよそしさが感じられるので、季語として花を持ってきても、鳥をもってきても、雨風を持ってきても、誰かの忌日でも、それなりの落ち着きを一句にもたらしてくれそうです。しかし、下五に付けられたのは冬の幻の産物である「雪女」なのでした。
 この句においても、「雪女」で切れているかいないかは曖昧なので、「この句は『雪女』が、いま住んでいるこの町の匂いをまといながら、今日も日暮れを迎えていることへの想いにあふれている」と「自らを『雪女』に見立てて、この町の日暮れに思いを馳せている」のふたつに読みが分かれそうです。雪女本人か、「雪女=私」かのどちらかとなると、個人的には後者のほうの読みを取りたくなります。雪女の有無を超えて、「その町の匂いで暮れて」の上五中七は、いまの自分自身の心の揺れを十分捉えていると思われるからです。
 どちらの読みを取っても、この一句に描かれている日々の生活、現実の生活の中で抱えこんでいる寂しさは、一句の向こうにくっきりと広がっています。寂しさというぶれない軸を持つことで、一句は確かな形を手に入れています。そして、寂しさを抱え込んでいるからこそ、「その町」でこれからも生きる、生きていくのだとの意志は伝わってきます。今日も一日がんばった、明日もがんばろう、との決意が見えてくるのです。

 実印を作る雪女を辞める

 ついに決心はついたのです。「雪女を辞める」のです。雪女を辞めて、ヒトになると決めて、実行に移しているのです。まずは、実印を作るのです。実印ができあがったら印鑑証明を取りにいくのです。そのあと、金融機関に口座を開設し、不動産屋で新しい住居を見つけ、ヒトとしての新しい生活が始まるのです。
 もちろん、この一句における「雪女を辞める」は、自分にとっての大きな決心の見立てとなっているとの読みが、本来ならば適切なのかもしれません。決心と行動を「雪女」に託するのですから、かなりのものと思われます。故郷を離れるのか、大切な関係だった関係との決別なのか。どちらにしても悩みに悩み、決心はしたもののこれでいいのだろうかと思い悩み、それでも迷いを吹っ切って動きだしたのでしょう。なにしろ「雪女」だった過去(に込められた自分の過去)とは、相当重いものなのですから。
 「雪女を辞める」大変さを、この方はよく知っているはずです。雪女からヒトとなって、何とか社会に溶け込もうとしながら、過去を見破られて、ヒトを辞めて雪女に戻らざるを得なかった(もしかしたら雪女に戻ることもできず、彷徨える存在となってしまったかもしれない)先輩たちの悲劇を知らないわけはありません。たとえ知らなかったとしても、雪女を辞めようかどうしようかと悩んでいたときに、相談相手から「辞めるのはよしなさい。辞めた先輩たちがどうなったか知っているでしょう」とさんざん聞かされていたでしょうから、「辞めていいのだろうか」との不安は募って当然です。
 しかし、動きだしたのです。実印はできあがります。きっぱり「雪女を辞める」と宣言しています。もう雪女ではないとの自信にあふれています。自分自身の決断を、いまの行動を、そしてヒトとして生きるこれからを、積極的に肯定しています。雪女という縛りから解き放たれての新しい生活、新しい人生への希望と喜びにあふれています。それもそうでしょう、雪女ではないわたしとは、まぎれもないいまの自分自身。追い求めて、探し続けて、ようやく見つけ出した「ぴったり」の自分自身なのですから。

【眞矢ひろみ第一句集『箱庭の夜』を読みたい】 6  人とこの世への恩愛に満ちた句集『箱庭の夜』について 神谷 波 

  『箱庭の夜』は陰影に富んだ句集である。「闇」「鬼」「影翳陰」といった語が多用されていて、作者の心象風景がありありと描写されている。先に挙げた語が多用されるとたいていは俗で平板な句になりがちである。本句集の場合、そういう句も見られるが成功している句の方が多い。
   父ひとりリビングにゐる五月闇
   虫の闇病む子に火遊び教へませう
   炎天や一人ひとつの影に佇つ
   やさぐれるとは木蓮の翳のこと
   階段に魄の陰干し垂れてをり
   鬼の腕を濡らすひとすじ春の水
   夢にきて海馬に坐る春の鬼


 作者の本領は、人とこの世への恩愛に満ちた句に発揮されている。

   県道にミミズのたうつ電波の日

 電波に身悶えするミミズへの憐れみ。

   寄り道をして虫の音に沈みゐる


 柵から逃れ自身を取り戻す大切なひととき。

   父と子とコンビニ弁当初茜

 コンビニ弁当で祝う男二人だけの新年、寂しさを共有して。
 
   花透くや母胎の中のうすあかり

  「花透く」は、命のはじまりの神秘である「うすあかり」を実感させてくれる。

   浮き沈む豆腐のかけら冬銀河

 鍋の中で浮いたり沈んだりしている豆腐のかけらのなんといじらしいことか、「冬銀河」によっていじらしさがありあり。

   いちはつや人魚の匂ひする人と

 青紫色の花を咲かせるいちはつは群生するので海を連想させる、雨後であれば尚更。
 「いちはつ」の辺で、いつか海に戻ってしまうかもしれない「人魚の匂ひする人」とのかけがえのない時間。

 他には怖い句もある

   春の宵おひねりが飛ぶ空爆も
   義体にも微熱かむなぎ凍る夜は
   煮つめれば人魚は蒼く枯木立

 愉快な句も

   逆張りのミセスワタナベ明易し        

2020年11月13日金曜日

第148号

   ※次回更新 11/27


俳句新空間第13号 刊行!

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第十(10/9)依光正樹・依光陽子
第十一(10/16)松浦麗久・高橋美弥子・姫子松一樹・菊池洋勝
第十二(10/23)川嶋ぱんだ・中村猛虎
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■連載

眞矢ひろみ第一句集『箱庭の夜』を読みたい
5 青の印象/前北かおる 》読む

なつはづき第一句集『ぴったりの箱』を読みたい
5 指先から/木村リュウジ 》読む

篠崎央子第一句集『火の貌』を読みたい
2 縄文のビーナス/中村かりん 》読む

中村猛虎第一句集『紅の挽歌』を読みたい
3 中村猛虎句集『紅の挽歌』/栗林浩 》読む

中西夕紀第四句集『くれなゐ』を読みたい
5 『くれなゐ』賛歌/松下カロ 》読む

句集歌集逍遙 なかはられいこ『脱衣場のアリス』/佐藤りえ 》読む

【連載通信】ほたる通信 Ⅲ (3) ふけとしこ 》読む

英国Haiku便り(15) 小野裕三 》読む

【抜粋】〈俳句四季11月号〉俳壇観測214
大井恒行の時評ーー活字ばかりでなく、電脳でも俳壇は動く
筑紫磐井 》読む

ふけとしこ第5句集『眠たい羊』を読みたい
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9 ~生きる限りを~/髙橋白崔 》読む

『永劫の縄梯子』出発点としての零(2)
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葉月第一句集『子音』を読みたい 
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8 パパともう一人のわたし/北川美美 》読む

麻乃第二句集『るん』を読みたい
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17 無意識の作品化、俳句のフレームを超えて/山野邉茂 》読む

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉜ のどか 》読む

渡邊美保第一句集『櫛買ひに』を読みたい 
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6 『櫛買ひに』を読む/山田すずめ 》読む

大井恒行の日々彼是 随時更新中! 》読む


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7月の執筆者 (渡邉美保

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筑紫磐井著『女帝たちの万葉集』(角川学芸出版)

新元号「令和」の典拠となった『萬葉集』。その成立に貢献した斉明・持統・元明・元正の4人の女帝、「春山の〈萬〉花の艶と秋山の千〈葉〉の彩を競へ」の天智天皇の詔を受けた額田王等の秘話を満載する、俳人初めての万葉集研究。平成22年刊2,190円。お求めの際は、筆者までご連絡ください。

連載【眞矢ひろみ第一句集『箱庭の夜』を読みたい】5  青の印象 前北かおる

  眞矢ひろみさんの句集『箱庭の夜』を一読して、青色や青い空、青春時代が繰り返し詠われていることに注目しました。こうした作品には、タイトルの「箱庭」や「夜」という言葉と少し違った一面が見てとれます。寒色系のクールさを保ちながらも、開放的な世界が広がっているところに魅力を感じました。以下、いくつかの句を取り上げて鑑賞を試みます。

  蒼天をピアノに映し卒業す

 「卒業」が季題で春。グランドピアノの蓋に、窓の外の空が映っているのでしょう。不思議ですが、その音が聞こえてくるようには思われません。長い式典の途中、ふと周囲への意識が遮断され感慨に浸っていたのでしょうか。その時、視線の先にあったピアノに映っていた「蒼天」が目に焼き付けられたのです。静けさの中に明るい前途がはっきりと示されているようで頼もしいです。

  いっせいに命を囃す植田風

 「植田風」が季題で夏。植えたばかりの稲の苗が青々と風に吹かれている様を、このように詠ったのでしょう。もちろん、苗だけを「命」と言っているのではなくて、木々や鳥、虫そういった環境すべてを風が渡り「囃」していくのです。田植えの頃は、動物も植物も盛んに活動する時期にあたります。その生命の営みを、「いっせいに命を囃す」と力強く讃えています。

  磐座に載せるものなき涼しさよ

 「涼しさ」が季題で夏。この磐座は、上が平たくなっているのでしょう。森の中に祀られているものもありますが、これはどこか山の上とか見晴らしの良いところにあるように思われます。ひょっとすると、ここに神が降臨して座ったというような伝説でもあるのかもしれません。それはともかく、作者は、何を載せるでもなくただ岩として鎮座する姿に「涼しさ」を感じたのです。その上に何もない爽快感が率直に詠われていて、共感できました。

  意味に飽く少年少女夏の果

 「夏の果」が季題で夏。その日にやるべきこと、その年に避けて通れないイベントが次々やって来る、それが少年期です。常に何かに追われ、さしあたっての進路を選んでいくだけでも大変な忙しさです。同時に、それを行うことの意味、自分は何者かという問いにも向き合わなければなりません。追われながら立ち止まることを迫られれば、逃げたくなるのも無理のないことです。「少年少女」たちは、夏休み、真空状態におかれて、ふと全てを投げ出したくなったのでしょうか。考えてみれば、これは誰もが通ってきた道であり、身に覚えがないこともありません。「少年少女」とモデルをぼかしているのは、読者それぞれの封印した記憶をよみがえらせる仕掛けかもしれません。

連載【なつはづき第一句集『ぴったりの箱』を読みたい】5 指先から 木村リュウジ


     1

 はつなつや肺は小さな森であり はづき (P43)

  掲句はなつはづき『ぴったりの箱』(朔出版 2020年)の第2章「小さな森」の最初に置かれている。同時に、なつが2018年に第36回現代俳句新人賞(現・兜太現代俳句新人賞)を受賞した「からだ」の最初に置かれている句でもある。肺が小さな森であるという比喩は、はつなつという季語と合わさり、初夏の深呼吸の気持ち良さ、さらに言えば生の瑞々しさといったものを感じさせる。
 掲句や受賞作の「からだ」というタイトルからも伺えるように、『ぴったりの箱』には身体感覚がモチーフとなっている句が多い。例えば身体(からだ)のあるパーツが書かれている句を興味の赴くままにいくつか引用したい。

 右手から獣の匂い夏の闇 (P18)
 冬木立胸に逃げ込む風ひとつ (P64)
 春隣ぼんやり風を待つ頬杖 (P66)
 ふきのとう同じところにつく寝癖 (P66)
 天の川ひかがみ人知れず微熱 (P82)
 雨水とは光を待っている睫毛 (P124)


 一読して、句のなかの身体のパーツの幅広さとそこから広がる世界の大きさに驚く。
 1句目は、多くの人にとって(恐らく作者にとっても)利き手である右手に獣の匂いがすると気付いたことから夏の闇に吸い込まれてゆく。右手という何気ないパーツを普段は意識しないように、自分が動物の一種であることも普段は意識しない。しかし、獣の匂いはそのことを否応なしに意識させる。獣の匂いが具体的にどのような匂いなのか書かれてはいないが、その語感は重たい。そしてその語感と夏の闇という季語が合わさり、一句全体に憂鬱や不安感が広がっている。
 少し句が飛ぶが5句目は「ひかがみ人知れず微熱」という措辞にまず惹かれる。この措辞を私は「後ろ髪を引かれる」と同じような意味で、天の川を一緒に見上げている恋人から離れたくないという感情の比喩と捉えた。その他の解釈も可能だろうが、いずれにせよ恋に対して一途な人物の姿が想像出来る句だと思う。
 この他にも、2句目からはさびしさが、3句目からはアンニュイな気分が、4句目からはユーモラスな雰囲気が、6句目からは光という言葉に象徴される未来へのしずかな高鳴りが、それぞれの身体のパーツから伝わってくる。
 また直接的に身体という言葉が出てくる句には次のようなものがある。

 身体から風が離れて秋の蝶 (P23)
 水草生う身体に風をためる旅 (P37)
 額あじさいもうすぐ海になる身体 (P49)


 1句目からは作者の停滞感が伝わる。それはおだやかな春風に乗ることの叶わなくなった秋の蝶の姿に通じる。つまり「風が離れて」という措辞は、作者に向けられたものでもあり、秋の蝶に向けられたものでもあるのだ。
 2句目は1句目と対照的に、そうした停滞感から抜け出そうとする作者の姿が思い浮かぶ。そしてやはりその姿は春の青々とした水草に通じる。
 3句目の「海」は燦々と光の降り注ぐ海ではない。額あじさいのやや影を帯びた色合いが投影されたようなもの哀しい海である。その色合いからは作者の憂鬱な心象風景を感じる。
 先程から私が句の感想を述べる際「作者」という語を多用していることに抵抗を覚える読者もいらっしゃるかも知れない。現代の俳句の世界では「作者と作品は分けて考える」という意見があることも事実だからだ。
 しかし、結論から先に言えばこれらの句の身体はなつの身体でしかない。なつは、自分の身体感覚を作句のスタートとしてそこから離れない。例えば『ぴったりの箱』には次の句が収録されている。

 薔薇百本棄てて抱かれたい身体 (P44)

 薔薇という季語に、さらに言えばそれを棄てるという行為に象徴される情動は、俳句の表現としては直接的なものであり、敬遠されがちである。しかしあえてなつは「抱かれたい」とはっきり書いている。その姿に代わりはいないし、先に述べた作者と作品は分けて考えるという意見も掲句の前には意味をなさないと思う。

    2

 また『ぴったりの箱』の句は、その身体のパーツの具体性とは対照的に、周囲の風景が漠然としている。例えば先に引用した「ふきのとう同じところにつく寝癖」に於いてふきのとうの生えているのは実際の風景ではなくなつの心象風景である。また句の内容もふきのとうの生態よりも、寝癖から連想される幼さや可愛らしさといったイメージと、ふきのとうのイメージの重なりが書かれている。このように『ぴったりの箱』の句は季語が実景ではなく心象風景に多く託されているという特徴がある。季語の象徴性が強いとも言えるだろう。
 つまりなつは身体感覚を実景ではなく心象風景につなげ、それに季語を象徴的に合わせるという稀有な作句方法を取っているのだ。
 そして、こうしたなつにとっての身体感覚の重要性は句に孤独感を与える。私は、これまで引用したどの句のなかにも、なつは一人で存在しているように思う。「天の川ひかがみ人知れず微熱」については恋人どうしだと解釈したが、両者の心がすれ違っていることを考えるとその孤独感は一人でいるときよりむしろ強いのかも知れない。

    3

 そうした孤独をなつが強く感じ取っている身体のパーツが指先である。事実、『ぴったりの箱』で「指」の書かれている句は全部で9句あり、身体のパーツが書かれている句のなかで最も多い。ちなみに「背中」(7句)、「髪」(4句)がそれに続く。具体的にどのような「指」の句が収録されているのか引用する。

 桜二分ふと紙で切る指の腹 (P38)
 片恋や冬の金魚に指吸わせ (P60)
 鍵探す指あちこちに触れ桜 (P70)
 指先がふいに臆病ほおづき市 (P73)
 くすり指鵙がことさら鳴く夜の (P83)
 毛糸編む噓つく指はどの指か (P88)
 ぬばたまの髪梳く指の冴え返る (P94)
 花万朶小指で掻き乱す水面 (P125)
 カーラジオ合わせる指先の薄暑 (P129)


 最後の句からは薄暑という季語に託された夏への高鳴りを感じるが、その他の句からは一様に薄く水を敷いたようなさびしさを覚える。
 いきなり話は私事となってしまうが、なつの主催する「朱夏句会」に手話をモチーフとした句を投句したことがある。その句の合評のときになつは開口一番「私、手話が大好きなんです」と言った。そして、テレビに手話通訳士が出ていると思わず釘付けになってしまうこと等を話していた。私にとってそれは、単なる句会での一場面として終わるはずだった。
 しかし、『ぴったりの箱』に収録されたこれらの句を読んでその認識は変わった。恐らくなつは、手話という指先によって他者と通じ合うコミュニケーションの嬉しさと難しさにどこか自身の作句を重ねている。無論これは私の推測に過ぎない。しかし、これらの句の胸が痛むほどの繊細さを前に、推測と言えどどうしてもその思いを拭い切れない。
 また、これらの句の指は必ずしも向かう先をはっきりと示していない。むしろときに立ち止まり、ときには宙に浮いたままでもある。しかし、そうした指の動きが却って世界との向き合い方のあるべき姿を教えてくれているように思う。それは、自身にとって知らない人物や物事に接したとき、偏見や先入観等ではなく実際の感覚、すなわち、身体感覚によってそれらと少しずつ向き合う姿である。
 そして、その姿は句集のタイトルとして全体に通じている。

 ぴったりの箱が見つかる麦の秋 (P104)

 タイトルの由来となった掲句について、なつは「あとがき」で次のように述べている。

 この句集でわたしがすっぽり入る「ぴったりの箱」を見つけた気がします。ただし「今のところ」と付け加えておきます。ぴったりは心地よくもあるし、窮屈でもあります。この矛盾する感覚がとても大事。ぴったりを知らないと不安定だし、窮屈に思えなければ伸びしろはありません。いずれこの箱も窮屈で息苦しくなる日が来るのでしょう。手足をもっと伸ばしたい、動かしたい、そういう衝動が生まれて来るはずです。その時はまた、新しい「ぴったりの箱」を見つけるべく奮闘するつもりです。

 少し前から世間には「ありのまま」という言葉が氾濫している。まただいぶ前から「等身大」という言葉もやはり頻繁に耳にする。これらの言葉の内実に辿り着くことは容易いように思えて、非常に困難である。ひとには誰にも隠しておきたいこと、或いは必要以上に見せびらかしたいことがあるからだ。そして、そこに辿り着くまでにはいくつもの孤独を感じなければならないからだ。
 『ぴったりの箱』はそうした「ありのまま」の自分、「等身大」の自分に辿り着くことの難しさを越えて出来上がった句集である。初夏の明るい陽の降り注ぐなか「ぴったりの箱」を抱きかかえるなつの指先は力強く、やさしい。(文中敬称略)
 

【句集歌集逍遙】なかはられいこ『脱衣場のアリス』 佐藤りえ

 なかはられいこの第二句集『脱衣場のアリス』電子書籍版が「毎週web句会」内の川柳本アーカイブで公開された。
このページでは現在入手が困難となっている川柳句集、川柳誌が無料で公開されている。

『脱衣場のアリス』は筆者がほぼはじめてふれた川柳句集である。
この前年刊行された「現代川柳の精鋭たち」(北宋社)で筆者ははじめて現代川柳の諸相に相対し、多くの現代川柳作家が、巷間に目にするサラ川、企業の募集する○○川柳といったものとはまったく違った川柳を展開していることを知った。

前段で「ほぼはじめて」と断ったのは、『脱衣場のアリス』以前に一冊だけ川柳句集を読んでいたからである。それが時実新子『有夫恋』(1987年刊行)だった。句集のなかはら自身の経歴にもあるように、『有夫恋』をきっかけに川柳をはじめた女性たちが多数存在した。刊行当時中学生だった筆者は、刊行から数年を経た書店の店頭でこの本を目にした。ヒットは長く、新刊の期間をとうに過ぎても、『有夫恋』は書店に置かれていた。朝日新聞社から刊行された単行本のサブタイトルは「おっとあるおんなのこい」。既婚女性の恋情を激しく表現する句群である。

 包丁で指切るほどに逢いたいか

 力の限り男を屠る鐘を打つ

 手が好きでやがてすべてが好きになる

 愛咬やはるかはるかにさくら散る

 美しい眼だよ 悪事を知り尽くし

一読、こんなに感情をあらわにしてよいものか、と吃驚した。学校の授業で当時教わった短歌・俳句にも個人の感情が盛り込まれていないわけではないが、これほどまでに感情が句の中心に据えられ、措辞がほとんど感情のためにのみ扱われているような句というものは見たことがなかった。
強烈な印象を持ったが、当時の筆者にとってはそれは熱すぎる鉄のようなもので、扱いかねるものだった。

前置きが長くなった。そうして次にめぐりあったのが『脱衣場のアリス』である。この句集を読んで、『有夫恋』とはまたまったく違った衝撃を受けた。すなわち、こんなに自由に、こんなにいろいろなことが詠めるんだ、詠んでいいんだ、という衝撃である。

まず書名の『脱衣場のアリス』である。アリスがルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』のことを指し示しているのは言うまでもない。この書名はたんにアリスの意匠―少女であるとか、おとぎ話めいているとか、カラフルであるとか―を借りているのではなく、『不思議の国のアリス』自体が本来持っている反措定的、批判的、風刺的性格の側をむしろ纏っている。教条的なものを読むことをなかば強いられていた当時のこどもたちを、作者、大人と対等の読者として扱った、児童文学の嚆矢でもある「アリス」。言葉遊びやナンセンスをふんだんに用いて、楽しく、かつ既存の制度を鋭く批判する姿勢は…とこう書くと、これは川柳の紹介ではないか、という気さえしてくる。

 雪降れば一時完成するパズル

 白い雲見てるトイレの窓あけて

 ぼくたちは心理テストの中の樹だ

 鳩尾にこつんとあたる久米宏

 なんとなく生きればいいの窓の雪

 よろしくね これが廃船これが楡

 一度だけ使った闇をお返しします

 記録には飛べない鳥として残る

一句目、ジグソーパズルのことと読んだ。すべてのピースを嵌めても、接着しない限り、壊してしまえばパズルは永遠に未完成だ。組み上げただけのこれは「一時完成」なのだった。二句目、景色を眺めるのにもっともふさわしくないであろう「トイレの窓」から自由の象徴のような白い雲を見ている。この窓に比肩するものは独房の窓、といったところだろうか。三句目、心理試験の一環であるバウム・テストを想起した。被験者に真っ白な紙を渡し、1本の樹を描いてください、というもの。精神科医は描かれた絵から被験者の内面を読み解く。「ぼくたち」はそこに描かれた樹そのものなのだ、という。次元の錯乱が起きている。末尾の「飛べない鳥」は、ぱっと考えただけでもペンギンとかダチョウとか、さまざま思いつく。かれらには無情な「飛べない鳥」というカテゴリーが用意されている。その他大勢の鳥が飛べるから、である。鳥以外の何者かが飛べない鳥として(より不条理に)記録される、という読みも成立しそうだが、実在する飛べない鳥たちへの愛惜の念と受け止めた。本来その差異には優劣も善悪もない。

このように、なかはらの作品には批評的、先鋭的な点があるものの、平易な語の選択、斡旋によって構成された措辞がしかつめらしい先入観を抱かせず、読み下しながら「えっ?!」と相手を驚かし振り返らせる、入りのよさがある。そして描かれるものは微細で、微妙で、人に話すのをためらってしまうようなごく小さなひっかかりにまで及んでいる。喜怒哀楽のどれにも分類不能な、淡い輪郭の感触、きけば「ああ、それ!」と思い当たるけれど、説明するのが難しいこと。一瞬生じて、自分でも忘れてしまいそうなこと。

もうひとつなかはらの作品を読んでかなりびっくりしたのは、連作的な性格を帯びた川柳がある、ということだった。同じ定型である俳句と川柳は、その短さゆえに一句の独立性が高く、連作としてある範囲をさししめすことにどちらかといえば不向きな詩型である。そもそも俳句は時間の経過を追った日記的なものや、春夏秋冬の部立て、制作順による構成が句集のセオリーであるがため、一定の数の作品をまとめて、ある意図、価値を示すことは容易ではないし、試みられている数も少ない。

ここでは句集の「#2 いただいた箱はからっぽでした、おかあさん。」を読みたい。

 オッペルの象が出ていく春の家

 ただいまと帰る真夏の井戸の底

 足首をゆるくつないで眷属よ

 とうさんを撃たずに過ぎてゆく景色

 かあさんがなんども生き返る沼地

 遠くから人面魚が来るなぐさめに

 家族が眠る水底の景色みたい

 おとうとがいないか探る茶わん蒸し

 またママがぼくの毛布の端を踏む

なかはらの作品に限らず、川柳には接頭辞、接尾辞をもちいた語が頻出する。「おかあさま」「お葬式」「お隣」「父さん」といった具合に。

 節穴から覗くとお手本に見える  倉本朝世

 土下座した折れ線グラフのご両親  丸山進

 おふとんをかぶせて浅く埋めておく  八上桐子

これらは短歌、俳句ではまずお目にかからない語形だ。接頭辞、接尾辞には単に音感を整えるという効果以上のものがある。

世界大百科事典第二版(平凡社)の「接頭語」の解説には「接頭語をつけると、もとの単語は独立性を失い、連声(れんじよう)が行われることもあり、アクセントが変わることが多い。結合してできた語形、派生語は、まったく1個の単語として働き、その品詞性はもとの単語に従う。」とある。たとえば「母」を「おかあさま」と書くことにより、私の母、の「私の」を含む個人的な気配が消失し、総体的な「母」概念へとアクセスしてゆく道すじが見えてくる。韻文はおおむね個人の体験、感情、思考を出発点、契機として世界を切り取って見せるが、川柳の接頭辞、接尾辞を駆使した表現は、個人的な領域から、一気に概念の側まで手を突っ込んでみせる局面がある。「かあさん」「とうさん」も呼びかけの際にもちいる語形で、文章上ではくだけた印象と同時に他人行儀さが滲み出る表現である。これは文章が、ことわりがない限り書いた主体本人のことを語っていると見なす性格上、「かあさん」「とうさん」といった語りでは自己の内面で父と母が客体化している=内面化していないように見えるからである。

この連に出てくる「家」は水の中にあるのではないか?と思う。井戸の底、沼地、水底といった場所にまつわる語がひんぱんに用いられているからだ。水中なので、なぐさめに来るのも人ではなく人面魚なのだろう。

支配者オッペルの横暴に堪えかねた象が家をでていくところからはじまるこの連は、「家族」にからめとられ、水中で酸素不足に喘ぐようにもがく心情が多面的に綴られている、と読んだ。三句目、足首をつなぐといえば、奴隷の足枷がまっさきに思い浮かぶ。「ゆるくつないで」の表記、語感はギリギリとしめつけてくるような激烈な痛みを思わせはしないが、逃げられなさの表現としてみると、深く重いものがある。登場人物は「とうさん」「かあさん」「おとうと」の3名で、一句目の出ていってしまった「象」はおとうとのことなのではないか、と、茶わん蒸しをさぐる場面にさしかかって、そう思う。末尾の「毛布の端を踏む」は漫画「ピーナッツ」のライナスの毛布を想起させる。常に持ち歩く毛布がないとパニックになってしまう、チャーリーブラウンの親友ライナス。ママはそれを知っていながら毛布を踏みつけてしまうのだ。少し戻って五句目、「なんども生き返る沼地」も強烈な表現だ。かあさんを心の中で何度殺しても生き返ってしまう、ということだろうか。「沼地」がまた絶妙におそろしい。ネガティブな生命力、という言葉が成立するものかどうか、そうした不滅の母と足首がゆるくつながっているのかと思うと、絶望してしまいそうになる。

具体的な事件や憎しみといったことは登場しないこの連が、しかし連作的な性格を帯びている、と言えるのは、個々の句がさきに述べた総体的な概念へのアクセスを果たしているからだ。家族が複数の人間のまとまりである以上、誰か一人の意図通りに動くものでもなければ、解決しないものがあっても、解決しないままにうねうねとそのまとまりは継続していく。家族というものの「うねうね」を遠景、近景おりまぜて多面的にとらえたこの連は、読者の持つ「家族」概念と触れあい、ゆすぶるものだ。すぐれた作品というのは、読者の概念をうねうねと慰撫してくれるものなのだなと思った。

『脱衣場のアリス』は刊行から19年が経過している。今日の川柳の現状を、筆者はつぶさには眺めていないが、それでも多くの新しい書き手たちが、さらに新しい表現の可能性を模索して、賑々しくにぎわっているのが伝わってくる。今年は『金曜日の川柳』(樋口由紀子)『はじめまして現代川柳』(小池正博)という二冊のアンソロジー、鑑賞本も刊行された。かつての筆者のように、まったく未知の読者が扉を叩く、その扉がさらに現れた一年だった。

『脱衣場のアリス』は、そんな現代川柳の新しい時代の幕開けとなった一冊に違いない。今からでもぜんぜん遅くはない、未見の方はぜひ読んでみてください。筆者の拙い評文で混乱した読者は、巻末の「なかはられいこと川柳の現在」座談会を参照いただきたい。短歌と川柳の雄がざくざく語った、この項も今日貴重な資料といえよう。

以下、ほかに好きな作品を挙げます。

 えんぴつは書きたい鳥は生まれたい

 持っててと言われて持っているナイフ

 帝国の逆襲がある試着室

 ホチキスでぺちぺち綴じる波頭

 主義なんてないから船に乗るんだよ

 朝焼けのすかいらーくで気体になるの

 曲がりたい泣きたい中央分離帯

連載【中村猛虎第一句集『紅の挽歌』を読みたい】3 中村猛虎句集『紅の挽歌』 栗林浩

 俳人にしては勇ましい名前を持った方の第一句集である(俳句アトラス、令和二年五月九日刊行)。氏は姫路の俳句の会「亜流里」の代表。跋文は「海光」代表で俳句アトラスの林誠司氏。林氏が始めた句会で、初心のはずの中村氏が常勝であったとか。天賦の才がおありだったとか……。

  自選十二句は次の通り。

   葬りし人の布団を今日も敷く
   遺骨より白き骨壺冬の星
   少年の何処を切っても草いきれ
   この空の蒼さはどうだ原爆忌
   手鏡を通り抜けたる螢の火
   蛇衣を脱ぐ戦争へ行ってくる
   たましいを集めて春の深海魚
   三月十一日に繋がっている黒電話
   缶蹴りの鬼のままにて卒業す
   水撒けば人の形の終戦日
   心臓の少し壊死して葛湯吹く
   ポケットに妻の骨あり春の虹


 筆者の共感の句は次の通り。(*)印は選が重なったもの。こんなに数多く重なることは滅多にないことである。

013 痙攣の指を零れる秋の砂
017 遺骨より白き骨壺冬の星(*)
017 葬りし人の布団を今日も敷く(*)
018 新涼の死亡診断書に割り印
019 鏡台にウイッグ遺る暮の秋
019 極月や人焼く時の匂いして
025 少年の何処を切っても草いきれ(*)
026 手鏡を通り抜けたる螢の火(*)
028 羅の中より乳房取り出しぬ
030 どこまでが花野どこからが父親
032 右利きの案山子が圧倒的多数
034 斬られ役ずっと見ている秋の空
040 校長の訓示の最中焼芋屋
043 星に触れるために鯨は宙を舞う
044 雪ひとひらひとひら分の水となる
074 原爆忌絵の具混ぜれば黒になる
076 夏雲に押され床屋の客となる
097 夏シャツの少女の胸のチェ・ゲバラ
102 星涼し臓器は左右非対称
103 死にたての君に手向けの西瓜切る
108 桃を剥く背中にたくさんの釦
116 死に場所を探し続ける石鹸玉
130 身の内に活火山あり海鼠切る
131 人間の底に葛湯のようなもの
134 春炬燵脅迫状はカタカナで
143 春は曙女の中の不発弾
148 少年は夏の硝子でできている
158 女から紐の出ていて曼殊沙華


 『紅の挽歌』を戴いたとき、凄い名前の方がどんな句を詠まれるのか、興味津々であった。いつもの習慣で、自選句も、序文(この句集にはないが)も跋文も、あとがきも読まないで、先入観なしに17音のテキストを全部読む。そして驚いた。最初の十数頁の衝撃である。
 最愛の伴侶を若くして失くしておられる。闘病の過程がつぶさに詠まれている。変化する病状に、ある時は期待を膨らませ、ある時は彼女の激痛に心を失う。涙なくしては読めない。
 読んでから考えた。この衝撃的感動はどこから来るのであろうか? まえがきにこうあって、句が続くのだ。

   癌の激痛と闘う妻、医療麻薬でも痛みは治まらない
   「殺して」と口走る妻
   緩和ケアの医師も俺も絶望的に無力だ
   もちろん殺してもやれない
   
   ところが、9月、嘘のように痛みが引き、リハビリ室
   で歩く練習まで始めた
   やっぱり治るんだ(中略)

   だが、容態は急変
   わずか3週間で、動くことができなくなった
   最期は自宅で、と連れ帰った日の明け方、安心し
   たのか、天国に旅立ってしまった
   10月9日午前6時3分、享年55逝く


 並べらえた句はどれもが心を打った。まえがきはかくあるべきと言えるほどの効果を発揮している。筆者(=栗林)はここで、一度前書きを忘れて読み直すことにしてみた。その記憶を完全には払拭できないのだが、前書きがなくとも、俳句の力で迫って来る作品はどれであろうか、と読み返してみた。そして上記の約30句が立ち上がった。中から次の悲しみの6句をあげておこう。

013 痙攣の指を零れる秋の砂
017 遺骨より白き骨壺冬の星(*)
017 葬りし人の布団を今日も敷く(*)
018 新涼の死亡診断書に割り印
019 鏡台にウイッグ遺る暮の秋
019 極月や人焼く時の匂いして


013は、客観写生的な句。「秋の砂」のあはれ。018の「割り印」により立ち上がってくるリアリティ。019の「匂い」の持つ訴える力。前書きがあったせいもあろうが、無くても、一句独立の力が感じられた。

 これは筆者の勝手な論なのだが、俳句ほど写生に不向きな表現形式はない。短すぎるし、季語でもって古典的な香りづけがされるからである。喜びも悲しみも普遍化されてしまうからである。ひょっとすると中村猛虎氏は、この悲しみを、短歌か、詩か、別の表現軽視で書いた方が、独特な作品になったかも知れない、とふと思った。しかし、これは感動のあまりの、筆者の世迷言だったも知れない。

 さて、悲しさを超えて、あとの句を見てみよう。筆者の琴線にふれる句が沢山あるのである。それらは、前書きなしでも、17音のテキストだけで、俳句であるがゆえの、宜しさを伝えてくれるのである。上記の約30句から下記の7句を挙げよう。

028 羅の中より乳房取り出しぬ
030 どこまでが花野どこからが父親
043 星に触れるために鯨は宙を舞う
103 死にたての君に手向けの西瓜切る
108 桃を剥く背中にたくさんの釦
143 春は曙女の中の不発弾
158 女から紐の出ていて曼殊沙華


030は、残された自分は寡夫であると同時に「父親」でもある、という使命感。それとは裏腹な不安感。
028、108、158はエロチシズムを、しかも108と158は直截的でないが故、その奥に怪しげな、しかし、明るい艶を感じさせる。
043は、星に触れなんとして飛び上がる鯨に、ロマンチズムを、
103は、「死にたての」という措辞に籠めた臨場感を、愛惜を以て、
143では、女性性の不可解さを古典的な「春は曙」なる措辞を用いて、韜晦的に表現している。

 作者の多面的な力が発揮された、いかにも刺激的な句集でした。

【読み切り】「鷲掴みの現代諷詠」――句集『赫赫(かっかく)』渡辺誠一郎(深夜叢書)より 豊里友行

 東京を丸ごとたたく夕立かな

  俳句表現の醍醐味であるモノの本質を鷲掴みした的確な言葉たちが、どの句にも魂の弦をしっかりと張られている。
 あとがきに「佐藤鬼房生誕百年が過ぎ」とあるが、佐藤鬼房俳句の魂は、受け継がれ、ここに健在だ。
 
 底冷えや川の匂いの文学部
 桜より淋しき息が出てしまう
 魂を隠しきれない水着かな

 

 現代俳句の題材をストレートに感性の瑞々しさに俳句に現れること多々あり。
 「文学部」をこのように瑞々しい感性で捉えた俳句を私は、知らない。
 桜を淋しくさせてしまった時代を私たちは、また造り出しているのか。
 水着で隠すはずの身体からは、生命の躍動や魂さえも隠せないのだ。
 
 渡辺誠一郎さんの東日本大震災から九年の歳月は、並々ならぬ言葉との格闘でもあった。
 
瓦礫失せ一痕として冬の星

 瓦礫が片づけられて整備されても、ひとつの痕跡は心の闇を照らし出す冬の星であり続けるのかもしれない。
 
狐火もて見るやメルトダウンの闇

 狐火は、東日本大震災で亡くなられた死者への日々追悼の灯火を燈す渡辺さんの意志ではないか。
 
原子炉を遮るたとえば白障子

 原発事故の責任や対策を国は、放置し続け、ないがしろにされ続ける。
 死者の尊厳を生き残った渡辺さんたちは、つねに俳人として東日本大震災を詠い続ける意味は、忘却、忘れたくない一心なのかもしれない。
 
原子炉はキャベツのごとくそこにある

 日常のキャベツと一緒に共存し始めた原子炉とは何だろうか。
 渡辺誠一郎俳句の社会詠の鋭さは、この日本大震災との俳人としての格闘にある。
 
 渡辺さんの社会詠は、時代を焙り出す。
 それらは、徹底した真実への眼差し、観察力を日々、磨き続ける中から宿る。
 

小雀の一羽加わる濁世かな
国よりも先に生まれし田螺かな
ミサイルの空は窮屈梅筵
はつきりと見えぬものへと捕虫網
軍装を今だに解かぬいぼむしり

 
 家族や周囲への温かな眼差しにも顕著に秀句があった。
 
妹の鼻が低くて金魚玉
金柑を握りて友を補足せり
姉の住むやさしき町のリラの花
金柑を握りて友を補足せり

 
 風土を鷲掴みする表現力に脱帽である。
 
ぬばたまの闇包まんと熊の皮
命などみえては困る万愚節
心臓を欲しがる夜の菊人形
隠沼に魂映すなら花のころ
みちのくのどれも舌なき菊人形
百年の鴨居を揺らす昼の蜘蛛
じゃんがらの手足からまる夏柳
栄螺堂闇ごと捩る余寒かな
静止衛星直下熊の子眠るなり

 
 どの句にも詩魂の弦がしっかりと張られていて共鳴句を選ぶのに困るくらいだった。
 ますますの御健吟を祈りつつ私も現代俳句の弦を弾く者として魂の共振をいただいた。
 ありがとう。ありがとう。ありがとう。
 下記の共鳴句も頂きます。
 
春暁のますほの小貝賜りぬ
宿縁をたどれば夜の蟬の穴
まつさきにわが眼窩へと秋の風
消えぬなら枯野の沖へ風となり
瞳孔の拡がり見える冬の湖
眼力の一つに春の飛蚊症
心臓に貼りつくことも飛花落花
轟沈を知っているなら水水母
かなぶんに当たれば固き空気かな
木にのぼる猫のしっぽの小春かな
凍滝は全重量でありにけり
鯛焼きのどこかに熱き心の臓
着ぶくれて脳みそ小さくなりいたる

冬深し小さな朱肉見つからぬ
身のどこか置き忘れたる蒲団干す



連載【中西夕紀第四句集『くれなゐ』を読みたい】5 『くれなゐ』賛歌 松下カロ

  空耳に返事などして涼新た 中西夕紀

 風の中でなつかしい誰かが呼んでいるよう・・・。
 中西夕紀句集『くれなゐ』は、しずかな言葉ではじまります

  漢ゐて火を作りをる春磧
  火に対ふしづけさとあり秋の昼

 身辺、日常のつつましい行為がつくる火。それが、

  豆腐煮るうゐのおくやま来し鴨と
  こほろぎやまつ赤に焼ける鉄五寸

 古典モチーフ〈うゐのおくやま〉と出会い、さらに、はかないこおろぎの命と対比される烈火を経て、

  火を守る暗闇にをり露の中

 やがて、古来より守られた火種へと姿を変えてゆきました。それは、言葉の流れが、夕紀句を貫いて、普遍へ到達する過程と重なります。
 〈宇野千代を見習ひたし〉の詞書を持つ一句、

  恋数多して長生きの砧かな

 『おはん』などの作品で知名な宇野千代(1897~1996)は、恋に散文に、長い人生をチャレンジし続けた先駆的女性でした。さらに〈砧〉から想起されるのは、遥かに時を隔てた女性たち。

   砧の音、夜嵐、悲しみの虫の音。交じりて落つる露なみだ。
    ほろほろはらはらはらと、いづれ砧の音ならん  世阿弥 『砧』

 能の『砧』は、都へ上って長年帰らない夫を待つ妻の嘆きを描いた演目。秋の夜、布を和らげるために砧を打つ所作に悲しみがこもります。

 日本画の名作も浮かんできました。
 女流日本画家草分けのひとり、上村松園の『砧』は、元禄風俗の女性が、憂いを帯びた表情で、しろたえの布を前に立つ姿。彼女は、遠く離れた夫に思いをはせながらも、自分自身の内部を見つめるように佇んでいます。夕紀さんにとって〈砧〉とは、古今の女性と連帯するためのキイとなる言葉なのでしょう。

  鹿の声山よりすれば灯を消しぬ

 ここでも、読者は、百人一首の、

  奥山に紅葉ふみわけ鳴く鹿の声聞くときぞ秋はかなしき 猿丸太夫

妻恋の鹿に寄せる歌を思い出すことでしょう。声、山、灯。なにげない言葉を連ねた一句から、定家の時代にさかのぼる情感とエロスが立ちのぼります。 
     
 機転の効いた句、ものの本質を追う句、するどい句、やさしい句も満載です。

  ぶら下げて女遍路の荷沢山

遍路とはいえ、女性にはいろいろと荷物があって。

  かなぶんのまこと愛車にしたき色

 発光するみどり、スピードも出そうです。

  駅に買ふトマトにいまだ日のぬくみ
  採れたてのトマトは日差しの味。
  置く皿の影の二重に秋深し
  ふたつの影は、存在のうらおもてでしょうか。
  今にして母の豪胆緋のマント

 緋色、くれなゐにかがやいて、母の衣装は燃えています。

 生き方の選択と変化を問われる2020年、中西夕紀句集『くれなゐ』は、深い色と意志をたたえて、ここにあります。 

 日の入りし後のくれなゐ冬の山  中西夕紀

【新連載・俳句の新展開】第6回皐月句会(10月)[速報]


投句〆切  10/12 (月)
選句〆切  10/26 (月)

(5点句以上)
9点句
新生児室に足裏の並ぶ十三夜(中村猛虎)

【評】 上五部分を何度か読み直して字余りに読むことでリズムが心地よく整ってきた。情景もよりいっそう鮮やかになった。何かの縁で、何かの加減で予定日から前後にずれたりして同じ後の月に生を受けた者たち。その多くの足裏(あうら)を、明暗の明るい側のものと受け取れました。 ──妹尾健太郎
【評】 「新生児室」は文字通りに七音、「足裏」は「アウラ」と読めば七音(そのままに云うと八音)、結句が五音。・・・、字数があまってしまっても、この光景を発見したら見たとおりに描くしか無い。十五夜の満月にはすこし足りない姿の十三夜の月光に照らされて、それでいて、見事な完結感である。十三夜のしっとりした既成観念をこわすほどの、エネルギーを秘めた赤ちゃんの「足裏」、満月の夜には、このアウラは何人ぶんになっているのでしょう。また、どんな動きをみせているのでしょう。リアルかつ幻想的なたいへんたのしい光景です。 ──堀本吟

7点句
月光やかつては人魚だった泡(なつはづき)

6点句

吸物に浮く松茸をいつ食ふか(西村麒麟)
【評】 そこはかとなく永谷園的なところもまさに俳諧。句の後ろ側に「夜長」という季題をちらつかせているあたりは技。 ──依光陽子

鬼蔦を引いて柿とる女かな(岸本尚毅)

どうせならあの人に付く牛膝(水岩瞳)

【評】 心象のしずかに描き上げることによって、さらにしずかに何かを思う。 ──依光正樹

ありとある脚長くなる長夜かな(北川美美)
【評】 長すぎるのも大変な気がします。静かに困る感じが秋めいています。 ──佐藤りえ
【評】 あらゆるものの脚が長くなる、そんな長夜の気分の感覚が冴える。この場合の脚は、実景としての何かの脚であり、比喩とも、多義的にとも取れ詩的。──山本敏倖

5点句
猿酒や花のかんばせはや染まり(小沢麻結)

部屋中の月光たたみ鶴を折る(田中葉月)

【評】 なるほど、今夜眠った後、折鶴は月光にもどっているのかもしれない。明日の朝、寝る前と位置が変わっていないか確かめてみよう ──中村猛虎

(選評若干)
転職の決まらぬ夜のきりぎりす 3点 中村猛虎

【評】 秋の虫の鳴き声は、心を落ち着かせてくれるものが多いのですが、この「きりぎりす」の場合は心を逆撫でするような鳴き方をしますね。長き夜の奥へ奥へとしだいに追い詰められてゆくのでした。 ──望月士郎

秋寂ぶや音もなく海めくれゐて 4点 仙田洋子
【評】 音もなく海めくれゐて、の表現があまりにも美しい。小さく波が立っている様をめくれる、と表現された。そういう情景も、それを見ている作者の心情も解って来る句で、とても心惹かれました。 ──なつはづき

JFK忌後部座席の物をとる 4点 北川美美
【評】 リアルな俳句です。あの時、ジャクリーン夫人は後ろを向いて、ケネディ大統領の飛び散った頭の部分(脳)をかき集めていた~その映像をまざまざと思い出させてくれる俳句です。 ──水岩瞳

見回してわたしもいない芒原 3点 望月士郎
【評】 “そして誰もいなくなった”のでしょうか。 ──佐藤りえ

音もなき銀河衝突秋の昼 2点 仙田洋子
【評】 銀河の衝突という壮大な事象に想いを馳せていた。我に帰って「秋の昼」、空を仰いでみたい気持ちもなお感じられる。 ──青木百舌鳥

踊り場に集まる塵や月二重 3点 中山奈々
【評】 静けさの中で月の光に浮かぶ塵が美しく見えました。 ──小沢麻結

独酌の過去ばかり舐め虫集(すだ)く 1点 飯田冬眞
【評】 独酌は、過去の悔恨ばかり思い出す。恰も悔しさを舐めている感じがわかります。虫の声と秋の寂しさが伝わります。──松代忠博

ボクと言う老人と見る後の月 4点 松下カロ
【評】 老人の一人称もわたしを呼ぶ人称も「ボク」。ふたりのボクの後の月は例年よりさらに明るい。 ──中山奈々

月の出やいたるところに虫のひげ 3点 依光正樹
【評】 虫を出しつつ季語は「月の出」として月に重きを置いてあります。月光の射しそめることによって髭が、触角が、いたるところに見えるかと云えば無茶だとは思いますが文飾として賛成します。「虫滋し」といった心持を、共感覚的な手法と申しましょうか、聴覚を視覚描写へ変換したものと読むことができます。 ──平野山斗士
【評】 映像を思い浮かべるとちょっと不気味だが、見ようによっては美しい。出たばかりの月の光に照らされて何万本ものか細い虫の髭が光り、揺れている。鳴く虫の髭は馬追や鈴虫など長いものが多いから海底で揺れるウミユリのようだ。こういう光景に出合うと、この星は人類ではなく昆虫類のものだと実感するだろう。 ──仲寒蟬

ゴミ出して無人の街はさはやかに 1点 筑紫磐井
【評】 抑制的なものと季題の促進的な効果が印象に残った。 ──依光正樹

秋そっと自分の影を踏むあそび 3点 望月士郎
【評】 いただいておいて言うのも気が引けますが、「そっと」はなくてもいいかも。 ──仙田洋子

口笛の脆い音程木の実独楽 3点 なつはづき
【評】 木の実独楽も鳴っているか──千寿関屋

無月なり短波ラジオのノイズ愛で 2点 内村恭子
【評】 短波放送は国内放送もあるが、外国からの放送も交じることもある。日本語でないので意味は分からないが時々日本語放送にぶつかることもある。はるかむかし、文化大革命時代の北京放送を聞いたことがある。「紅灯記」「白毛女」等の革命現代京劇を聞いていると、天体望遠鏡で遠い宇宙を覗いているような気がしたものだ。 ──筑紫磐井

雀蛤となる冷凍パスタチンすれば 4点 真矢ひろみ
【評】 そういえば、出されたパスタの蛤は、コクがあって美味しかったけれど、雀だったんですね。 ──渕上信子

曼珠沙華俳句なにごとすくと立つ 1点 堀本吟
【評】 たかが俳句されど俳句...曼珠沙華の前で無になろうとしている作者の心意気が伝わってきます。 ──北川美美

精霊舟知らない人と乗り合はせ 3点 筑紫磐井
【評】 不景気なので精霊舟も乗り合いで…。 ──佐藤りえ

キーボード葡萄を剥きし爪黒く 1点 渕上信子
【評】葡萄を食べることとパソコンに向かうことの境がないような、気ままな暮らしぶりが思われます。わずらわしいこととは無縁な感じに憧れます。 ──前北かおる

コスモスの長距離電話濡れてくる 4点 松下カロ
【評】 コスモスは花や葉がいつも濡れている。長距離電話も長く話すと電話が息で湿ってくる。遙か遠くにいる人と結ぶ電波も濡れているのだろう。 ──篠崎央子

連載【篠崎央子第一句集『火の貌』を読みたい】2 縄文のビーナス  中村かりん

    縄文のビーナスに臍山眠る

 今年刊行された篠崎央子さんの句集『火の貌』の中の一句である。央子俳句を語ろうと思った時、真っ先に浮かんだのがこの「縄文のビーナス」の句である。縄文時代のでっぷりとした土偶の女をビーナスに見立てる事のできる央子さんの眼差しにまず脱帽した。またそこに臍を発見したことにより土偶の女性性が生々しく迫ってくるのである。どんな季語をつけてくるかと身構えていると「山眠る」とすとんと落とされる。大きな季語は土偶の眠っていた土、時間、空間をも内包し太古の時代へと思いを飛ばすことが出来るのである。
 さて、央子俳句といえば身体の軋みをダイレクトに伝える作品も多い。

   ぜんまいの開く背骨を鳴らしつつ
   血の足らぬ日なり椿を見に行かむ
   かはほりや鎖骨に闇の落ちてくる
   残雪や鱗を持たぬ身の渇き
   血の通ふまで烏瓜持ち歩く

 骨、血といった痛みを連想させる言葉の数々は、ともすれば痛々しい句となってしまう。しかしここでは上手く飛躍し幻想的な世界を幻視させてくれる道具となる。固く固く閉ぢふんわりと綿に包まれたぜんまいの渦の開く瞬間の音。献血をするかの如く椿を見て赤を足す。鎖骨には闇が溜まるのではなく落ちてくる。身が乾くのは鱗がないから。まるで昔は鱗を持っていたかのような馴染んだ表現である。そして烏瓜の句。あの真っ赤な烏瓜は持ち歩いている間に血が通ってしまうのではないか。そういったあり得ない恐れすらも美しく句として昇華してしまうのが央子俳句なのである。あの吟行の間、幼子の様に喜んで持ち歩いていらっしゃった烏瓜でそんな恐ろしいことを考えていたとは衝撃である。恐ろしくて今後も央子俳句から目が離せないのである。次回作までもう一度句集『火の貌』を読み返し、じっくり堪能してみたい。恐ろしい発見がまだまだあるに違いない。


中村かりん なかむらかりん
昭和四十四年 熊本県生まれ。
平成九年   「未来図」入会 
平成二十八年 未来図新人賞
平成二十九年 未来図同人
令和二年   『未来図』終刊と同時に俳号を「中村かりん」に。
       「稲俳句会」入会。同人。
句集『ドロップ缶』(中村ひろ子名義)にて第22回自費出版文化賞詩歌部門特別賞受賞。