2020年11月13日金曜日

【句集歌集逍遙】なかはられいこ『脱衣場のアリス』 佐藤りえ

 なかはられいこの第二句集『脱衣場のアリス』電子書籍版が「毎週web句会」内の川柳本アーカイブで公開された。
このページでは現在入手が困難となっている川柳句集、川柳誌が無料で公開されている。

『脱衣場のアリス』は筆者がほぼはじめてふれた川柳句集である。
この前年刊行された「現代川柳の精鋭たち」(北宋社)で筆者ははじめて現代川柳の諸相に相対し、多くの現代川柳作家が、巷間に目にするサラ川、企業の募集する○○川柳といったものとはまったく違った川柳を展開していることを知った。

前段で「ほぼはじめて」と断ったのは、『脱衣場のアリス』以前に一冊だけ川柳句集を読んでいたからである。それが時実新子『有夫恋』(1987年刊行)だった。句集のなかはら自身の経歴にもあるように、『有夫恋』をきっかけに川柳をはじめた女性たちが多数存在した。刊行当時中学生だった筆者は、刊行から数年を経た書店の店頭でこの本を目にした。ヒットは長く、新刊の期間をとうに過ぎても、『有夫恋』は書店に置かれていた。朝日新聞社から刊行された単行本のサブタイトルは「おっとあるおんなのこい」。既婚女性の恋情を激しく表現する句群である。

 包丁で指切るほどに逢いたいか

 力の限り男を屠る鐘を打つ

 手が好きでやがてすべてが好きになる

 愛咬やはるかはるかにさくら散る

 美しい眼だよ 悪事を知り尽くし

一読、こんなに感情をあらわにしてよいものか、と吃驚した。学校の授業で当時教わった短歌・俳句にも個人の感情が盛り込まれていないわけではないが、これほどまでに感情が句の中心に据えられ、措辞がほとんど感情のためにのみ扱われているような句というものは見たことがなかった。
強烈な印象を持ったが、当時の筆者にとってはそれは熱すぎる鉄のようなもので、扱いかねるものだった。

前置きが長くなった。そうして次にめぐりあったのが『脱衣場のアリス』である。この句集を読んで、『有夫恋』とはまたまったく違った衝撃を受けた。すなわち、こんなに自由に、こんなにいろいろなことが詠めるんだ、詠んでいいんだ、という衝撃である。

まず書名の『脱衣場のアリス』である。アリスがルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』のことを指し示しているのは言うまでもない。この書名はたんにアリスの意匠―少女であるとか、おとぎ話めいているとか、カラフルであるとか―を借りているのではなく、『不思議の国のアリス』自体が本来持っている反措定的、批判的、風刺的性格の側をむしろ纏っている。教条的なものを読むことをなかば強いられていた当時のこどもたちを、作者、大人と対等の読者として扱った、児童文学の嚆矢でもある「アリス」。言葉遊びやナンセンスをふんだんに用いて、楽しく、かつ既存の制度を鋭く批判する姿勢は…とこう書くと、これは川柳の紹介ではないか、という気さえしてくる。

 雪降れば一時完成するパズル

 白い雲見てるトイレの窓あけて

 ぼくたちは心理テストの中の樹だ

 鳩尾にこつんとあたる久米宏

 なんとなく生きればいいの窓の雪

 よろしくね これが廃船これが楡

 一度だけ使った闇をお返しします

 記録には飛べない鳥として残る

一句目、ジグソーパズルのことと読んだ。すべてのピースを嵌めても、接着しない限り、壊してしまえばパズルは永遠に未完成だ。組み上げただけのこれは「一時完成」なのだった。二句目、景色を眺めるのにもっともふさわしくないであろう「トイレの窓」から自由の象徴のような白い雲を見ている。この窓に比肩するものは独房の窓、といったところだろうか。三句目、心理試験の一環であるバウム・テストを想起した。被験者に真っ白な紙を渡し、1本の樹を描いてください、というもの。精神科医は描かれた絵から被験者の内面を読み解く。「ぼくたち」はそこに描かれた樹そのものなのだ、という。次元の錯乱が起きている。末尾の「飛べない鳥」は、ぱっと考えただけでもペンギンとかダチョウとか、さまざま思いつく。かれらには無情な「飛べない鳥」というカテゴリーが用意されている。その他大勢の鳥が飛べるから、である。鳥以外の何者かが飛べない鳥として(より不条理に)記録される、という読みも成立しそうだが、実在する飛べない鳥たちへの愛惜の念と受け止めた。本来その差異には優劣も善悪もない。

このように、なかはらの作品には批評的、先鋭的な点があるものの、平易な語の選択、斡旋によって構成された措辞がしかつめらしい先入観を抱かせず、読み下しながら「えっ?!」と相手を驚かし振り返らせる、入りのよさがある。そして描かれるものは微細で、微妙で、人に話すのをためらってしまうようなごく小さなひっかかりにまで及んでいる。喜怒哀楽のどれにも分類不能な、淡い輪郭の感触、きけば「ああ、それ!」と思い当たるけれど、説明するのが難しいこと。一瞬生じて、自分でも忘れてしまいそうなこと。

もうひとつなかはらの作品を読んでかなりびっくりしたのは、連作的な性格を帯びた川柳がある、ということだった。同じ定型である俳句と川柳は、その短さゆえに一句の独立性が高く、連作としてある範囲をさししめすことにどちらかといえば不向きな詩型である。そもそも俳句は時間の経過を追った日記的なものや、春夏秋冬の部立て、制作順による構成が句集のセオリーであるがため、一定の数の作品をまとめて、ある意図、価値を示すことは容易ではないし、試みられている数も少ない。

ここでは句集の「#2 いただいた箱はからっぽでした、おかあさん。」を読みたい。

 オッペルの象が出ていく春の家

 ただいまと帰る真夏の井戸の底

 足首をゆるくつないで眷属よ

 とうさんを撃たずに過ぎてゆく景色

 かあさんがなんども生き返る沼地

 遠くから人面魚が来るなぐさめに

 家族が眠る水底の景色みたい

 おとうとがいないか探る茶わん蒸し

 またママがぼくの毛布の端を踏む

なかはらの作品に限らず、川柳には接頭辞、接尾辞をもちいた語が頻出する。「おかあさま」「お葬式」「お隣」「父さん」といった具合に。

 節穴から覗くとお手本に見える  倉本朝世

 土下座した折れ線グラフのご両親  丸山進

 おふとんをかぶせて浅く埋めておく  八上桐子

これらは短歌、俳句ではまずお目にかからない語形だ。接頭辞、接尾辞には単に音感を整えるという効果以上のものがある。

世界大百科事典第二版(平凡社)の「接頭語」の解説には「接頭語をつけると、もとの単語は独立性を失い、連声(れんじよう)が行われることもあり、アクセントが変わることが多い。結合してできた語形、派生語は、まったく1個の単語として働き、その品詞性はもとの単語に従う。」とある。たとえば「母」を「おかあさま」と書くことにより、私の母、の「私の」を含む個人的な気配が消失し、総体的な「母」概念へとアクセスしてゆく道すじが見えてくる。韻文はおおむね個人の体験、感情、思考を出発点、契機として世界を切り取って見せるが、川柳の接頭辞、接尾辞を駆使した表現は、個人的な領域から、一気に概念の側まで手を突っ込んでみせる局面がある。「かあさん」「とうさん」も呼びかけの際にもちいる語形で、文章上ではくだけた印象と同時に他人行儀さが滲み出る表現である。これは文章が、ことわりがない限り書いた主体本人のことを語っていると見なす性格上、「かあさん」「とうさん」といった語りでは自己の内面で父と母が客体化している=内面化していないように見えるからである。

この連に出てくる「家」は水の中にあるのではないか?と思う。井戸の底、沼地、水底といった場所にまつわる語がひんぱんに用いられているからだ。水中なので、なぐさめに来るのも人ではなく人面魚なのだろう。

支配者オッペルの横暴に堪えかねた象が家をでていくところからはじまるこの連は、「家族」にからめとられ、水中で酸素不足に喘ぐようにもがく心情が多面的に綴られている、と読んだ。三句目、足首をつなぐといえば、奴隷の足枷がまっさきに思い浮かぶ。「ゆるくつないで」の表記、語感はギリギリとしめつけてくるような激烈な痛みを思わせはしないが、逃げられなさの表現としてみると、深く重いものがある。登場人物は「とうさん」「かあさん」「おとうと」の3名で、一句目の出ていってしまった「象」はおとうとのことなのではないか、と、茶わん蒸しをさぐる場面にさしかかって、そう思う。末尾の「毛布の端を踏む」は漫画「ピーナッツ」のライナスの毛布を想起させる。常に持ち歩く毛布がないとパニックになってしまう、チャーリーブラウンの親友ライナス。ママはそれを知っていながら毛布を踏みつけてしまうのだ。少し戻って五句目、「なんども生き返る沼地」も強烈な表現だ。かあさんを心の中で何度殺しても生き返ってしまう、ということだろうか。「沼地」がまた絶妙におそろしい。ネガティブな生命力、という言葉が成立するものかどうか、そうした不滅の母と足首がゆるくつながっているのかと思うと、絶望してしまいそうになる。

具体的な事件や憎しみといったことは登場しないこの連が、しかし連作的な性格を帯びている、と言えるのは、個々の句がさきに述べた総体的な概念へのアクセスを果たしているからだ。家族が複数の人間のまとまりである以上、誰か一人の意図通りに動くものでもなければ、解決しないものがあっても、解決しないままにうねうねとそのまとまりは継続していく。家族というものの「うねうね」を遠景、近景おりまぜて多面的にとらえたこの連は、読者の持つ「家族」概念と触れあい、ゆすぶるものだ。すぐれた作品というのは、読者の概念をうねうねと慰撫してくれるものなのだなと思った。

『脱衣場のアリス』は刊行から19年が経過している。今日の川柳の現状を、筆者はつぶさには眺めていないが、それでも多くの新しい書き手たちが、さらに新しい表現の可能性を模索して、賑々しくにぎわっているのが伝わってくる。今年は『金曜日の川柳』(樋口由紀子)『はじめまして現代川柳』(小池正博)という二冊のアンソロジー、鑑賞本も刊行された。かつての筆者のように、まったく未知の読者が扉を叩く、その扉がさらに現れた一年だった。

『脱衣場のアリス』は、そんな現代川柳の新しい時代の幕開けとなった一冊に違いない。今からでもぜんぜん遅くはない、未見の方はぜひ読んでみてください。筆者の拙い評文で混乱した読者は、巻末の「なかはられいこと川柳の現在」座談会を参照いただきたい。短歌と川柳の雄がざくざく語った、この項も今日貴重な資料といえよう。

以下、ほかに好きな作品を挙げます。

 えんぴつは書きたい鳥は生まれたい

 持っててと言われて持っているナイフ

 帝国の逆襲がある試着室

 ホチキスでぺちぺち綴じる波頭

 主義なんてないから船に乗るんだよ

 朝焼けのすかいらーくで気体になるの

 曲がりたい泣きたい中央分離帯

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