2020年11月27日金曜日

【中西夕紀第四句集『くれなゐ』を読みたい】6 無題  北杜 青

 中西先生のもとで俳句を学び、選を受け、吟行を共にさせていただき常に感じるのは、中西夕紀という俳人の表現に対する潔さです。擬人法、比喩表現を極力排し、辞書に掲載されていても省略語を安易に認めることはありません。技巧が出すぎることを嫌い、例えば、理が通らない組合せを原因、理由の助詞「ば」で強調して繋ぎ、面白みをだす詠み方がありますが、このような技巧を用いることはありませんし、選句の際は、「ば」を「て」に直すよう指導されます。現在の俳人のなかでも、俳句表現に対して最もストイックな考えを持たれているお一人だと信頼しています。
 吟行を重ねることで“俳句として詠むべき素材”を五感で捉えることを磨き、表現は、定型のリズムを大切に、言葉に負担を掛けないことにのみ注力しているように感じます。この表現に対する潔さは、俳句と対峙する際の中西先生の一貫した姿勢ですが、『くれなゐ』では、前句集の『朝涼』より更に構えたところが無くなり、俳句形式に対する十全の信頼から、その詠みぶりは清水が流れるように無垢なものになっています。「技巧的な句はすぐ飽きる」は中西先生の講評での口癖ですが、目を引く句ではなく、長く読み継がれる句をという矜持を感じました。

干潟から山を眺めて鳥の中

 場面のリフレインを感じる変わった詠み方の句ですが、下五に「鳥の中」を置いたことで、作者を始点として焦点がぐっと広がっていくのを感じます。広々と光り輝く干潟に、水鳥は、飛ぶものもあれば、地に遊ぶものもあり、包まれている作者の幸福感が伝わってきます。

船団の一艘に旗若布刈る

 大景の一点に焦点を絞り、調子の張った表現で詠み切ることで春寒の荒々しい若布刈の全景が見えてきます。旗を打つ風音、涛音や漁夫の声など、音が聞こえてくる句です。

橘の実を頂いて奈良にをり

 悠久の時を超えて平安京、紫宸殿の右近の橘の実が作者の掌に落ちてきたような感覚を抱きます。余白を残した詠みぶりが読者の想像を広げる句です。奈良に通い続けて自身の俳枕となっているからこその句だと感じます。

隙間より花の日差や籠堂

 籠堂に入って戸を閉ざすと板張りの隙間より幾筋も日の帯が差し込んできます。「花の日差」という省略の効いた表現から作者のいる薄暗い室内と満開の桜が日に揺れる野外との対比が鮮やかに見えてきます。

木の揺れの光のゆれの冬の鳥

 澄み切った冬の光彩が繊細に描かれています。句の立ち姿が美しく、視覚と音律を楽しめる句です。控え目なリフレインに、意味を超えた言葉の働きを感じます。

俎板の鯉の水吐く青葉かな

 包丁式での嘱目でしょうか。俎板の上ですでに動かなくなった鯉の口から不意に零れた僅かの水と生命観溢れる青葉との取合せに無常観と共に生きとし生けるものに対する慈しみを感じる句です。

日陰から見れば物見え一茶の忌

 忌日の句は、具体的な事柄で繋げるのではなく、その人に対する作者独自の深い思いに読み手が共感することによって成立するものだと思います。相続争いなど世俗にまみれながら俳諧で身を立てた、決して聖人ではなかった一茶の屈託に対する作者のやさしい眼差しを感じます。

木の中のわづかを速し寒の鳥

 冬日の中、葉を落とし切って鋼色に輝く樹々の梢を冬鳥がせわしなく渡っています。普段の景のなかに冬の季感を鋭敏に感じ取った句です。

 特に心に残った句について鑑賞させていただきましたが、読み返すほどに、また、違う句について鑑賞を書きたくなる奥ゆきのある句集だと感じています。
                                   以上

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