鈴木大拙の肉筆
西洋人が俳句に触れる際に「禅」がよく言及される。ある種の安易なステレオタイプの日本観なのではとも思ったが、そうとばかりも言えない。禅を西洋世界に広く紹介した鈴木大拙も、俳句と禅の類似性を強調している。大拙は、芭蕉の有名な蛙の句も、芭蕉自身の禅問答から生まれたものだと指摘する。
大拙は、カール・ユング、ジョン・ケージ、ジャクソン・ポロックなど名だたる西洋の思想家や芸術家に大きな影響を与え、晩年にはノーベル平和賞の候補にもなった。その大拙はロンドンにも滞在した。先日、僕はその大拙の肉筆原稿に触れる機会に恵まれた。大拙は、18世紀の神秘思想家エマニュエル・スウェデンボルグに傾倒し、その著書『天界と地獄』等を翻訳して日本で出版した。そのスウェデンボルグの資料を集めた施設がロンドンにあり、そこに大拙のその翻訳の原稿が保管されているのだ。
「日本語がわかる人が来てくれて嬉しいなあ。何か気づいたことがあったら教えてよ」
とイギリス人の職員に案内され、閲覧室みたいな部屋で半日ほど大拙の肉筆と向き合った。和紙に墨文字で書かれた原稿を、大拙はしつこいくらいに推敲していた。偉大な先人のその実直な「格闘」ぶりには心を打たれた。その字体は美しく、翻訳された日本語も時に「詩的」だと僕には感じられたが、それも大拙の「禅」への見方と繋がっている気がした。
禅の世界は哲学的であるよりもむしろ詩的である、と大拙は語る。とするなら、彼が日本文学の中でもとりわけ注目した「詩」である俳句には、彼の思想にとって特別な意味がありそうだ。
大拙は、俳句とは究極的に言えば、俳人たちが直感で「宇宙的無意識」を捉えることから生まれると考えた。いささか抽象的で神秘的ですらある言い方だが、ここで重要なのは、俳人たちが「直感」のレベルに留まり続ける点にあると思う。そこからさらに哲学的な思索を構築しようとはせず、よくもわるくも「直感」のレベルから動かない。それは確かに、西洋的な知のあり方とは違う形だと思える。
このことは言い換えれば、俳句とは創作者が「物」(それも多くはささやかで日常的な)のレベルだけに集中できるようにする(あるいはそうすることを義務付ける)ひとつの芸術的なテクニックである、ということだと思う。俳句はその短さゆえに、「物」のレベルを決して離れない。ロジカルに構築された思想体系をそこから作り出そうとはしない。だがその「物」は直感に結びついており、それゆえに、より広大な何かにアプローチしうる。この逆説が俳句の面白さだと思うし、「禅」を深く学んだ大拙も、この俳句的真理に気づいていたのだ。
0 件のコメント:
コメントを投稿