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2024年2月9日金曜日

【 祝 第38回俳人協会評論賞受賞!】 大関博美著『極限状況を刻む俳句――ソ連抑留者・満州引揚げ者の証言に学ぶ』

 2018~2020年にのどかの筆名でBLOG「俳句新空間」に連載した「寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む」を新たに書き改めた著書。ソ連(シベリア)抑留、満州引揚げについて知ることができる体験談や俳句作品を紹介。その背景にある1984年の日清戦争から1945年の満州国崩壊までの歴史も概説する。ウクライナ侵攻を進めるソ連の動向に関心のある現代の人々にも見過ごすことのできない本だ。

 BLOG「俳句新空間」での長大な連載をもとに、大関博美『極限状況を刻む俳句』(コールサック社)が刊行されたところから、本BLOGで何人かの方に解説・感想をお願いした。

 本書が、令和6年1月の俳人協会賞の選考において評論賞を受賞したのは何よりも喜ばしい。俳人協会評論賞受賞というタイムリーな本となったことから、過去の記事を再編集してもう一度本書を読み直す手がかりとして見たい。

 【帯】

果たして現代は戦後であるのか?

――氷河期で言えば、間氷期に過ぎないのではないか?

戦争の実相はまだ明らかでない。

極限まで圧縮された俳句と言う表現に描かれる極限の敗戦下の状況

――我々はここから考え始めたい。(俳人・評論家 筑紫磐井)


著者:大関 博美/略歴:千葉県袖ケ浦市生まれ。俳人。俳句結社「春燈」所属。俳人協会会員。看護師。

価格 ¥2,200(本体¥2,000)コールサック社(2023/07発売) 発売日 ‏ : ‎ 2023/6/13


【目次】

序章 父の語り得ぬソ連(シベリア)抑留体験

第1章 日清・日露戦争からアジア・太平洋戦争の歴史を踏まえて

第2章 ソ連(シベリア)抑留者の体験談―――山田治男・中島裕

第3章 ソ連(シベリア)抑留俳句を読む―――小田保・石丸信義・黒谷星音・庄司真青海・高木一郎・長谷川宇一・川島炬士・鎌田翆山

第4章 戦後70年を経てのソ連(シベリア)抑留俳句―――百瀬石涛子

第5章 満蒙引揚げの俳句を読む―――井筒紀久枝・天川悦子

全章のまとめとして

解説 鈴木比佐雄


【解説】

  ソ連抑留者の極限状況を後世に伝えることは可能か

大関博美『極限状況を刻む俳句 ソ連抑留者・満州引揚げ者の証言に学ぶ』

                                  鈴木比佐雄

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 本書『極限状況を刻む俳句 ソ連抑留者・満州引揚げ者の証言に学ぶ』を執筆した大関博美氏にとって、ソ連抑留者であった父は子供の頃から大きな謎であった。その謎を聞いてみたいと願っていたところ、六十二歳で亡くなってしまった。父の背負っていた極限状況の一端でも認識し、父の重荷を娘として理解したいという胸に秘めていた課題を直接聞く機会を、大関氏は失ってしまった。しかしその代わりに、まだ存命中の父母の世代のソ連抑留者・満州引揚げ者たちに取材を試みその人物像と接し、その著書を読むことによって、最もアジア・太平洋戦争で傷ついた世代の思いに肉薄し、その証言を後世に残すことを構想した。そのことに一途に邁進しようとする純粋さ、熱い志を私は草稿・構成案を拝読し感じ取った。


 大関博美氏は一九五九年に千葉県袖ケ浦市に生まれ、今は隣接する市原市に暮らす現役の看護師であり、俳句結社「春燈」に所属する俳人だ。数年程前に、コールサック社が刊行した東北の俳人の照井翠氏と永瀬十悟氏の句集やエッセイ集について、大関氏から問い合わせがあり、その際に本書の出版についても相談があった。早速その下書き的な草稿を送って頂いて拝読したところ、まだ修正・加筆が必要な個所が多くあったが、誰よりもソ連抑留者・満州引揚げ者の悲劇の歴史について俳句を通して解き明かし、その教訓を後世に伝えていきたいという強いモチベーションを感受することができた。


 私は現在の文芸誌「コールサック」(石炭袋)を一九八七年に刊行したが、その創刊号に詩を寄稿してくれた詩人に、シベリア帰りの鳴海なるみ英吉えいきち氏がいた。鳴海氏はソ連抑留者であり、抑留体験を一〇八篇の詩に綴った詩集『ナホトカ集結地にて』で壺井繁治賞を受賞した詩人で、日蓮宗不受不施派の研究者でもあり、そのソ連抑留体験や民衆の不屈の精神について亡くなる間際まで執筆し続けていた。鳴海氏は亡くなる二〇〇〇年まで十三年間も欠かさず寄稿し「コールサック」の文学運動を支援してくれ、私にとって父のような詩人であった。「コールサック」が出るたびに、自宅の千葉県酒々井しすい町まで出かけて作品を論じ合う交流を続けていた。その際には中国戦線での出来事や鳴海氏が抑留された「ツダゴウ収容所では零下三十度の冬に鉄道敷設作業などによって千人以上の戦友たちが五百人も病死・餓死をした」という、凄まじい体験談を聞かせてもらった。またその冬を越えるとロシア人との人間的な交流もあったことを知らされ、ノモンハン事件で孫を失くした老婆のことを記した名作も残している。私は鳴海英吉氏が二〇〇〇年に亡くなった後に『鳴海英吉全集』を企画・編集し、多くの鳴海氏を愛する人びとのご支援で刊行することができて少し役目を果たすことができた。大関氏と同様に私も父が六十歳半ばで亡くなり、中国戦線の戦争体験を聞く機会を逸してしまった。そのこともあり大関氏が父上から聞けなかったことを、まだ健在な抑留者・引揚げ者から取材し、その著書から学び一冊の書籍にまとめたいという志は、称賛に値する。実際に行動に移して本書の原稿を最後まで執筆し推敲をやり遂げたことは、敬愛する亡き父との無言の対話がなせる粘り強い意志力だったろう。

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 本書は序章「父の語り得ぬソ連(シベリア)抑留体験」、第一章「日清・日露戦争からアジア・太平洋戦争の歴史を踏まえて」、第二章「ソ連(シベリア)抑留者の体験談」、第三章 「ソ連(シベリア)抑留俳句を読む」、第四章「戦後七十年を経てのソ連(シベリア)抑留俳句」、第五章「満蒙引揚げの俳句を読む」、「全章のまとめとして」から構成されていている。全体を通して大関氏の父母の世代の苦難の経験をした体験者への深い畏敬の念が根底にあり、その想いが重たい口を開かせて貴重な証言を引き出していったと考えられる。また「ソ連抑留者・満州引揚げ者たちの極限状況を俳句で後世に伝えることは可能か」という大関氏の問い掛けが根底にある。戦争の悲劇が戦後も続き、元兵士たちを劣悪な環境で危険な労働に駆り出し死に至らしめ、幸運にも帰国した抑留者たちも生涯にわたって収容所体験がトラウマとなり心身を苦しめた。そんな大関氏の父のようなソ連抑留者や満州引揚げ者たちが身をもって示した平和の尊さを、本書にまとめたいと願ったのだろう。


 序章「父の語り得ぬソ連(シベリア)抑留体験」は本の成立過程を率直に語っていて、その中で紹介されている左記の俳句は、大関氏が父という存在者の内面に次第に肉薄していく道筋を指し示しているかのようだ。


シベリアの父を語らぬ防寒帽

抑留兵の子である私鳳仙花

三尺寝父の背の傷ただ黙す


 なぜ「防寒帽」を父は大切に保存していたのか。なぜ「抑留兵」と父は呼ばれたのか。どうして働き者の父の背に深い傷が刻まれているのか。その答えを大関氏は探求していく宿命を持っていると感じさせてくれる。


 第一章「日清・日露戦争からアジア・太平洋戦争の歴史を踏まえて」では、アジア・太平洋戦争の前に、日本が遅れた帝国主義国家になった日清戦争・日露戦争とは何であったのか、そのことが結果としてアジア・太平洋戦争を引き起こしてしまったのであり、その発端となった一八九四年の日清戦争からの歴史を問うている。その章立ては次のようになっている。「一 はじめに」、「二 日清戦争から日露戦争へ」、「三 日露戦争」、「四 日露戦争から満州事変へ」、「五 第一次世界大戦へ」、「六 ソ連(シベリア)への出兵―七年戦争への道」、「七 満州事変から満州建国まで」、「八 日本の国際連盟の脱退」、「九 満蒙開拓と昭和の防人」、「十 大陸の花嫁について」、「十一 日中戦争への道」、「十二 ノモンハン事件(戦争)から第二次世界大戦・太平洋戦争へ」、「十三 第一章のおわりに」。このように大関氏は、五十八頁を割いて世界史的な観点で日本とソ連・ロシアとの悲劇的な半世紀わたる歴史を辿っていく。その歴史観は特に加藤陽子氏の『それでも日本人は「戦争」を選んだ』を参考にしている。その加藤氏の世界史的歴史観である《「日清戦争」がイギリスとロシアという帝国主義国家の代理戦争になっていたと世界史的な解釈をする》こと、また《日露戦争がドイツ・フランスとイギリス・アメリカの帝国主義時代の代理戦争であったこと》だという解釈を大関氏は参考にして、清国の領土を奪い国家予算の何倍もの賠償金を課していく帝国主義戦争に日本が積極的に加担していく危うい存立基盤を浮き彫りにしている。そのことが結果として大きな禍根を残し、悲劇の結末を迎えていくことを暗示していくかのようだ。一部の保守政治家たちなどが日清・日露戦争は正しかったと主張する言説のレベルは、歴史とは多様な解釈が可能であることは許容できるが、今後の歴史を創り出していく観点からは、大きな過ちを繰り返す歴史を美化する危ういナショナリズムを絶対化する歴史認識だろう。それ故に大関氏は日清・日露戦争の他国の領土を奪い取るなどの勝利感覚が、その後のアジア・太平洋戦争に三百万人以上の日本人の戦死者とソ連抑留者・満州引揚げ者などを生み出した悲劇の要因であるという、痛切な歴史認識を再確認するためにこの第一章から始めたのだろう。

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 第二章「ソ連(シベリア)抑留者の体験談」では、山田治男やまだはるお、中島裕なかじまゆたかの二人から大関氏は直接取材をして、ソ連との戦闘、降伏後の経緯、シベリアの収容所での出来事、抑留者の尊厳などを記し、また日本兵を強制労働させるソ連の国際法違反を伝えている。


 第三章 「ソ連(シベリア)抑留俳句を読む」では、小田保おだたもつ、石丸信義いしまるのぶよし、黒谷星音くろたにせいおん、庄子真青海しょうじまさみ、高木一郎たかぎいちろう、長谷川宇一はせがわういち、川島炬士かわしまきょし、鎌田翠山かまたすいざんの八名の経歴や俳句を紹介している。その中で八名が特に生存の危機に直面した壮絶な体験の中で心身に刻んだ俳句と、その句への大関氏の評言を引用する。


俘虜死んで置いた眼鏡に故国凍る  小田保


 眠っている間に死んだのだろうか、枕元に置かれた眼鏡は霜で凍り付いている。それはまるで、夢に見る故郷まで凍らせてしまっているようである。同じ部隊で戦い、厳冬の夜は故郷の雑煮のこと、牡丹餅のことなどを語り合った仲間である


秋夜覚むや吾が句脳裡に刻み溜む  石丸信義


 ソ連側は、抑留中の真実を漏らすまいとしてか、抑留者の結束を恐れてか、全ての文書やメモさえも没収した。文書やメモを持っているのが見つかると、帰還が遅れるという噂もあった。句帳を没収されてからの秋の夜長、目が覚めるとひたすら自分の句を暗唱し、脳裡に刻み込んだのである。


死にし友の虱がわれを責むるかな  黒谷星音


 抑留一年目の冬、作業大隊五〇〇名のうちの半数が亡くなり二〇〇名余となり、残った者は絶望の日々を送った。死期は、寄生する虱が一番良く知っている。死体からぞろぞろと虱が離れるからだ。生き残った者は、その虱に責め立てられているのである。


死もならぬ力がむしり塩にしん  庄子真青海


 厳しいノルマと重労働に体力も消耗し、死を意識する毎日ではあるが、弱り切った肉体は生きたいと要求するように、塩にしんをむしり食うのである。


炎天を銃もて撲たれ追はれ行く  高木一郎


 一九四六年七月一日、ダモイと騙され貨車に乗りキズネルで降ろされた。日本にもみた朝顔が遥か遠く離れたロシアの地キズネルにも咲いている。/ひとしきり朝顔に心安らいだのもつかの間、キズネルよりエラブカへ徒歩で三泊四日の移動をする。酷暑の中、水も飲めない行軍である。


汗の眼を据えて被告の席に耐ふ  長谷川宇一


 《「冷然受刑」(昭和二十四年六月から八月)/八月になると私は予審に呼び出された。私の罪名は、「資本主義援助」というソ連国家反逆罪だそうだ。/(略)向かって右側の裁判官が立って読み上げた。(略)「第五十八条第四項の資本主義援助」で求刑二十五年というのである。(略)ソ連の将校が何か言うことはないかというから、「第三国人である私のソ連外でしたことで罪に問われるのは、徹頭徹尾不承知であったと記録をしておいて貰いたい。」と言った。》(長谷川宇一の手記より)


生くべきものは生くべきままに蓼の花  川島炬士


 《ハバロフスクの監獄生活で毎日三十分くらい監房からひき出されて、檻の中の熊のように絶望の心を抱いて、とぼとぼと重い足どりで歩いた十坪に足らぬ板塀で取り囲まれた散歩場の片隅の日陰にひそやかに咲いていた蓼の花を見いだしたときの私の悟りでもあり、生への復帰の叫びでもありました。この句一つで私の俳句の道に入った報いは十分だと思っております。(略)暗黒のなかに一縷の光明こそは俳句であった。》(長谷川宇一の手記より)


母に逢うまでは死なず 夏の砂漠暮る  鎌田翠山


 三日目に半病人になって、倒れているところをカザック人の猟師に救われ、三日間看病を受け、七日ぶりに収容所に帰り、皆の叱責と三日間の営倉と七日分のノルマの強要で済んだ。もしも猟師が見つけてくれなければ砂漠で死んでいたし、脱走とみなされても死が待っていた。(略)もうろうとする意識の中で、鎌田氏は生き抜いたのである。


 これらの八名の俳句は、まさに「極限状況を刻む俳句」としか言うことができない、極度に緊迫し生死を賭けた場で生まれた俳句だろう。大関氏は抑留兵たちの重たい思いに対して、父もそれに近い思いを抱いたかもしれないと逆に親近感を抱いて、可能な限り聞き入ったのかも知れない。

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 第四章「戦後七十年を経てのソ連(シベリア)抑留俳句」では、長野県塩尻市に暮らす百瀬ももせ石涛子せきとうしに取材し、そのシベリア抑留体験の証言や句集『俘虜語り』について詳しく紹介している。その中から二句と大関氏の評言を引用する。


逝く虜友ともを羨ましと垂氷齧りをり  百瀬石涛子


 飢えは自分自身の心を苛み、抑鬱状態に追い込む、逝く友を羨ましいとさえ思い、その一方で垂氷を齧らせる。死を切望しながらも、体は生きようと懸命であった。


渡り鳥羨しと見つめ俘虜の列  百瀬石涛子


 冬の近づく頃、鴨や白鳥、鶴などはシベリアの広大な空を自由に飛び、冬には日本に渡ってゆく。作業に出かける前の点呼の列で、作業の合間の給食を待つ列で空を見上げながら、自由に飛べる渡り鳥を羨ましく眺めるのだった。


 第四章の百瀬石涛子氏について大関氏は、「八十歳を過ぎてようやく抑留体験は、俳句として結晶し姿を現し始めた」と言っている。それほど言語化するには膨大な時間を必要とした百瀬氏にとって俳句との出会いは素晴らしいものとなったのだ。


 第五章「満蒙引揚げの俳句を読む」では、井筒紀久枝いづつきくえ『大陸の花嫁』と天川悦子あまかわえつこ句文集『遠きふるさと』を紹介している。その中から各一句と大関氏の評言をそれぞれ引用する。


酷寒や男装しても子を負ふて  井筒紀久枝


 一九四五年八月二十五日に武装解除を受けて以来、ソ連兵と中国兵や地元の中国人による略奪が繰り返され、ソ連兵により女性は性的暴行受けた。髪を剪って顔に竈の煤を塗りたくり、若い娘にも赤ん坊を背負わせて偽装をした。凍てる冬の夜、母親たちは襲撃を警戒して男装をし、銃は持ち去られているので、わずかな農具を持って歩哨に立ったという。


子等埋めし丘べに精霊とんぼ飛ぶ  天川悦子


 八月に避難指示が出て、足止めされた鎮南浦では、暴漢たちによる暴力もあり、収容所が港の倉庫に移った。九月になると、鎮南浦にもソ連軍が進駐した。ソ連軍の中でも、一番凶暴な「いれずみ部隊」だったという。難民はソ連軍による強奪や性的暴力にみまわれた。九月末にはソ連兵は引き上げて行ったが、入れ違いに飢餓が襲ってきたとあり、この時のことを悦子本人に電話で確かめると、「鎮南浦は十月になると雪が降り始め零下二〇度にもなるところなの」と教えてくれた。避難民は飢えと寒さに襲われたのである。


 「日ソ中立条約」が破棄されてソ連が進攻する混乱の中で関東軍が武装解除された。大関氏はその後に満州に残された満州開拓民家族の井筒紀久枝氏、天川悦子氏などの女性が詠んだ俳句を紹介し読み取り、二人の人生を辿っていく。それはソ連抑留者の俳句を読み取る作業と同様に価値あることで、後世に残すべきことだと考えているのだ。その意味でサブタイトル「ソ連抑留者・満州引揚げ者の証言に学ぶ」という姿勢によって、本書の構成が出来上がっていったのだろう。略奪と性的暴行などの壮絶な体験を俳句と散文で伝えた二人の言葉は、戦争が終わっても続いていく民衆の悲劇を語り掛けてくると大関氏は語ろうとしているのかも知れない。


 最後に「全章のまとめとして」の中から大関氏が本書をまとめながら感じ取り考えていたことを記している箇所を引用したい。


 極限状況の今ここを支える俳句の働きは、抑留詠(戦争詠)・引揚げ詠・震災詠など、特殊な境涯にあっても、病や介護の境遇にあっても、毎日の暮らしにおいても、現実の出来事の証言となり、遭遇した出来事の認知の書き換えやストレス緩衝効果や孤独の環境の中で承認されることにより、安心感や仲間との信頼関係を回復する、失われた命への鎮魂による自他救済などの働きがあった。

 自他救済について、少し違う角度で考えると、本書で取り上げた方々は、危機的状況九死に一生を得た体験を持つ。この体験は思考の混乱を呼び、喪失感や自責の念を抱かせるが、一方で生かされた命の一瞬一瞬を、大切に使おうとする思いは、前向きに生きようとする力を生み、積極的な句作、平和の尊さを語り継ごうとする活動などの動機となる。俳句は悲しみや悔しさ、怒り、嘆き、優しさといった感情を伝える器であり、受け取った人に共感を呼び起こし心の癒しを与える。そして俳句を詠んだ人と読む人を、互いに支える杖(伴走者・燈火)となり、難局を切り開き、未来へつなげる働きをするのだと私は考えた。そして、これは特別な人のことでなく、俳句を支えとして境涯を生き抜く決意をした人に、共通にもたらされる働きであると思う。


 大関氏は読み取ってきた「抑留詠(戦争詠)・引揚げ詠・震災詠など、特殊な境涯」である極限状況の俳句を創作し読解し共有することは、「ストレス緩衝効果や孤独の環境の中で承認されることにより、安心感や仲間との信頼関係を回復する、失われた命への鎮魂による自他救済などの働きがあった」とその効用を結論づけている。大関氏が看護師で他者を癒すことを職業としていることもあり、俳句・散文などの表現行為が、存在の危機を感ずる人びとにとって生きることの原点に立ち還る有力な方法であることを再認識したのだろう。きっと大関氏の父の存在もこれらの俳句・散文の中に立ち現れて、父との無言の対話は継続されてきたに違いない。


 ところで、二〇二二年二月にロシアがウクライナを侵略し、同年の七月の時点で米国国務長官は六〇万~一六〇万人のウクライナ人がロシア国内に強制移住をさせられていると発表している。その数が正しいかどうかは定かではないが、そのような恐るべき「戦争犯罪」が拡大し現在も繰り返されてウクライナ人の苦悩が続いている。その強制移住や強奪という点では類似するソ連抑留者・満州引揚げの当事者たちの「極限状況」を、俳句・散文を通して伝える大関氏の試みを多くの人びとに読んでもらいたいと願っている。


(鈴木比佐雄氏はコールサック社代表、詩集、詩論集、評論集など多数。最新評論集は『沖縄・福島・東北の先駆的構想力 ―詩的反復力Ⅵ(2016―2022)』。)


2023年12月8日金曜日

【連載】大関博美『極限状況を刻む俳句 ソ連抑留者・満州引揚げ者の証言に学ぶ』を読む⑥ 一人の俳句の書き手・読み手として 黒岩徳将

 大関博美『極限状況を刻む 俳句 ソ連抑留者・満州引揚者の証言に学ぶ』(以下『極限状況を刻む俳句』)はシベリア抑留の過酷な体験を生き延びた父がいたという個人的な背景を起点として執筆された。大関は「僭越なことだが、抑留者の父を持った子どもの使命として、父を含めた抑留者たちの語り得ぬ言葉を掘り起こし、少しでもソ連(シベリア)抑留者たちの実相とその思いを後世に伝えていきたい」と希望し、現代日本社会全体の問題として提起している。大関の父は「これといった表現手段を持たな」かったとある。積極的に語ろうとしなかった父の体験を間接的にでも理解しようとする目的も含めて、平和記念資料館にて父の足跡を資料から知り、抑留体験者の話を聞き、資料収集によりシベリア抑留・満州引き上げという歴史的事件の詳細を掘り下げて理解しようとしている。大関は「みな違う抑留体験があり、戦後の生き方も様々」であることを理解しつつ、抑留体験を伝える作品のうち、俳句を中心にとりあげて「ソ連(シベリア)体験や満州引き上げを体験した方々の、過酷な境遇を生き延びた思いを刻んだ俳句を読むことにより、作者たちの内面世界を理解し」ようと作品解釈・鑑賞している。第三章「ソ連(シベリア)抑留俳句を読む」では、大関自身が俳句経験者であるという特性が活かされ、抑留者の俳句の読解と作品の背景を掛け合わせて記した文章が、読者の一句の理解を促進する効果を成し得ていると考えた。


占守に戦車死闘すとのみ濃霧濃霧 小田保(『続シベリア俘虜記』)

 たとえば小田のこの句について、『シベリア俘虜記』に小田が記した随筆が抜粋して追加されている(戦記についての出典は定かではないと大関註あり)。占守島に上陸開始したソ連軍の止まない進撃に苦戦し、濃霧のために主力部隊の来援が遅れる事態があったことが付記されることで「濃霧濃霧」の繰り返しの切迫感の意義が強調されるように思われる。


死にし友の虱がわれを責むるかな 黒谷星音

 大関評に「抑留一年目の冬、作業大隊五〇〇名のうちの半数が亡くなり二〇〇名余となり、残った者は絶望の日々を送った」とある。労働苦を背負った死者から、寄生していた虱が離れる映像的おぞましさが「責むる」の壮絶さを強調する。


 俳人が句会にて選をするとき、一句だけを読むことで読者に景・状況・作者の感情などの情報がわかりやすく伝達されるかどうかを評価軸の尺度におくことは一般に多いだろう。作者の名が付され、シベリア抑留者であることを前提にして上記の句に向き合う時の読み解きとは、読者側のスタンスを句会と変えなくてはならないのではという問いが頭にちらつく。また、違う観点から捉えると、俳人が一句を読むときに、景・状況・作者の状況を「読めない」と感じることにより付帯する情報を取得し、時代や事件の背景をより深く知ろうとすることができるということを多くの句から感じられた。それほどに戦争を生の体験として持つ先輩世代と筆者との距離は遠い。遠いからこそ、本書序章にて記されている、旧満州で生まれ、句文集を出版した『遠きふるさと』の著者天川悦子氏が大関氏に「世代の違う貴方が、私たちの体験した戦争をどのように思うのか、楽しみ。思い切りやってみなさい」と言ったエピソードは、本書の戦争非「体験」読者にとっても他人事ではないということを痛感する。体験し得ないからこそ情報を得にいくことの重みを大関氏に教えていただいた。

 終盤の「全章のまとめとして」には、俳句や句座が当時、そしてその後の俳句作者の人生にどのように影響したか、その「働き」について大関が仮説立てし、シベリア抑留・満州引き上げの検証を、現代社会問題である阪神淡路大震災・東日本大震災・ウクライナ侵攻に敷衍している。「働き」といっても合理主義に基づいたものではなく、抑留者の中には命や尊厳を繋いでいくために俳句が手綱になった人がいたことを噛み締め、俳人生活と社会生活を捉え直したい。また、本書にも紹介されている抑留者が選択した他ジャンルの表現形式と比較して「なぜ俳句なのか」「俳句だからこそできることは何か」を問い続けることも一俳句作者としては必要なことのように思う。

 本書記載の直接的な内容からは外れてしまうのだが、本書を読み、筆者は自身の師系の流れに位置付けられるシベリア抑留経験者の俳句について読み直すべきだと考えた。昭和32年に「寒雷」入会、昭和50年に「椎」を創刊している原田喬は昭和20年に応召、終戦と共にソ連捕虜となり、23年にシベリアより帰還。第一句集『落葉松』に次の句がある。


シベリアにて二句

凍死体運ぶ力もなくなりぬ

雀烏われらみな生き解氷期

 死体を運び続けてきたからこそその力の失せ具合にやるせなさでは済まされない苦々しさがある。


固く封じてレーニン全集曝書せず

 本は自宅にあるが開く対象にはできないことに並並ならぬ苦しさを感じる。


次の句は喬の「これからの私の俳句」というエッセイに収録されている。


生くるは飢うることあかあかとペチカ燃ゆ(昭二一)

 私はその頃シベリアに抑留されていた。それは満三年間だった。紙も鉛筆もなかった。私はただつぶやいては自分に言ってきかせた。私の抒情の甘さは今日に至るまで私の本質であることを変えていないが、この句はその原型であると思う。飢えて死ぬというきびしさをまともに追求せず、飢えている自分を傍観している放心状態を、ペチカという言葉が持つ異国情緒の中で歌っている。これは歌うは訴うという本来の力を持ってはいない。(「寒雷」1973.9)


 喬は、シベリア抑留体験が俳句になるときに作者が何を求めたか、そして俳句を結晶化させるときに作者として何を求めるのか、何に格闘しているのか上記文章からうかがえる。自句自解は句の持つ力を作者自身が信じられていないから行うのはよろしくないという意見があると思う。ただ、このエッセイは、散文で述懐するしか、自身の中でけりをつけることはできなかったのかもしれない喬の心中を思った。何より抑留体験を材にした自句を叩くというストイックさに、喬が体験を自己の俳句に昇華させるためにもがいていたことがわかる。「沖縄タイムス」(2023,9,5)の『極限状況を刻む俳句』書評では「俘虜死んで置いた眼鏡に故国(くに)凍る 小田保」「棒のごとき屍なりし凍土盛る 黒谷星音」を引用し、「死や凍結が文芸としての比喩ではなく、現実の風景だった」ことを指摘している。これは現代俳句でも重要な論点だと筆者は考える。2023,10,18に現代俳句協会事業部が公開しているYouTube動画「いまさら俳句第四回 「前衛俳句の手法は現代でも有効か?」」において、後藤章は川名大に現代と切り結ぶときの手段としての暗喩の可能性を問うている。川名は「喩えるものと喩えられるものが完全にイコールになってしまうと喩えられるものが広がっていかない」「一句全体でもってメタファーになっていないと効果が出ない」と断じ、金子兜太の句の好作として「我が湖あり日陰真暗な虎があり」を挙げ、心の中の思いとか性情を表している」「精神的な世界の中で虎が潜んでいる」と、比喩の対象を御し難い存在として捉えると広がりがある」述べている。川名の捉え方で考えると「死や凍結が文芸としての比喩ではなく、現実の風景だった」として作られた句は文芸的価値に乏しいとみるのだろうか。また、喬の言う「歌うは訴う」は川名が価値を置く暗喩の力と重なり合う部分があるのかどうかということも筆者は即時判断できない。

 「寒雷」1999.9の原田喬追悼特集にて九鬼あきゑが遺句五十句を抄出しており、次の句が最後に記されている。


流氷やわが音楽はその中より 喬(『長流』にもあり)


 大須賀花は同号にて「この流氷は厳寒のシベリア抑留時代のものと想像するが、先生の胸にはいつも流氷があり続けたのではないかと思う。」と鑑賞している。原田氏から直接話を聞いたことのない筆者としては、この「流氷」の一語をもって原田喬の句業をシベリア時代のイメージを被せて飲み込むことに躊躇いを覚える。「音楽」を創作表現の比喩として捉えるとき、ここに俳句作者の込めた思いと読者の解釈鑑賞に齟齬が生まれる可能性があり、その齟齬を齟齬のまま飲み込んだときに何が生まれるのかということに注意はしながら味読するべきかと思う。


2023年10月27日金曜日

【連載】大関博美『極限状況を刻む俳句 ソ連抑留者・満州引揚げ者の証言に学ぶ』を読む⑤ 上梓その後③ 大関博美

 ソ連抑留者の体験談を伺い、それまで、ソ連抑留に目を向けていた私は、満州引揚げをソ連抑留と同等に取り扱い、書かなければならないと深く思い、新谷亜紀さんのブログで連絡を取り、私の取り組もうとしていることを伝えました。そして、亜紀さんから満州俳壇の形成や歴史を研究している、西田もとつぐ氏のご著書や、京大俳句を読む会の冊子をお送りいただき、井筒紀久枝さんの『大陸の花嫁』を書くにあたりましては、細やかなご助言を受けることができました。

 この度は、亜紀様の承諾を得て以下の感想を紹介させていただきます。


 《阿部誠文氏や西田もとつぐ氏にはなかった切り口で、いかに満州崩壊・満州引揚げ・ソ連抑留に至ったのか歴史をよく調べ、自分の言葉で伝えようとしているところ、私たちの世代が学校で学んでいない歴史を日清戦争から、紹介していることが良い。体験者やご遺族の一人一人に連絡し、コンセンサスを得ようとしたことが、筆の力となったと思われる。特に第3章からの俳句作品の紹介とまとめについては、圧巻である。満州引揚げやソ連抑留の俳句作品をリンクし、まとめ上げているところは、後世に語り継ぐ理想の形を見せていただいた気持ちで感動している。この本は後世に残すべき一書である。》


 私はソ連抑留・満州引揚げ俳句を取りあげ、極限状況における俳句の担った働きや句座の役割や句座がどのように機能したかについて、「全章のまとめ」の中で考察しています。

  また、第2章以降をまとめながら、自問自答したことがあります。

 抑留体験者の山田治男さんや中島裕さんは、「憲法第9条が日本や国民を守ってくれるのか」と私たちに問いかけています。この問いかけに私は、拙著で現代との結び目を作りましたので、多くの証言のすさまじさに心を奪われることなく、お読みになり、今ここからの未来について、一緒に考えていただくことができたならこの上ない幸せであると感じます。

 抑留兵の子である私から、平和の種が鳳仙花の種のように飛び散り、広まってくれることを祈ります。


   抑留兵の子である私鳳仙花  博美


(おわり)

2023年9月29日金曜日

【連載】『極限状況を刻む俳句―ソ連抑留者・満州引揚げ者の証言に学ぶ-』上梓その後②(連続④) 大関博美

 令和5年6月14日、小田保氏のご遺族のお嬢様から、手紙が届きました。その後電話で話をさせていただきました。拙著の感想をブログ「俳句新空間」に載せさせていただきたいとお伝えし、ご了承をえました。

 まず、手紙の冒頭に、以前大関さんからの便りを、今は亡き母が「お父さんの作品を読んでくれた娘さんから手紙が来た」ととても喜んでいましたと、ありました。(以下電話での話を含めて引用する。)

   《この本を読んで父の生きた時代の戦争のこと、シベリア抑留の事を深く理解することが、できました。やはり父も千島列島での戦いが激しかったことを話しましたが、多くを語りませんでした。私は俳句をしませんが、句ごとに添えられた、解説がわかりやすく、また、全章のまとめを読んで、父が死の間際まで抑留俳句や広島の平和についての俳句を読み続けたのか、理解できました。この本を母にも読ませてあげたかった。姉が夏に帰省したら、この本を真っ先に読んでもらいます。》

 私からは、「私は、小田さんの著書に、この仕事をするように言われたように思ってい ましたし、くじけそうになる時は、何度もお父様の本を見て、自分を励ましていました」とお伝えし、電話を終わりました。

 信州塩尻の百瀬石涛子氏へは、手紙のやり取りは大変なので、私から一カ月を待ち7月3日に電話を入れさせていただきました。百瀬氏は今年99歳になると言い、現在は車椅子で過ごされているそうです。私の電話にこたえてくださいました。  

 《本が届いて、1週間かけて読んだよ。たくさん調べて書いてくれてありがとう。戦争当時のおらたちに分からないことまで、調べてあった。この本を次に人に貸して、又その次に読む人も待っている。あんたのお父さんと私は、ほぼ同い年だ。お父さんがシベリアの話をしなかったのはよくわかる。シベリアから帰っても生活が苦しくて、家族も守らなきゃならんし、シベリアのことは誰にも話せなかった。今でも俳句は、毎日詠む。シベリアの句もね。月一回の句会には、娘に連れて行ってもらうよ》

 百瀬氏にとっては、レッド・パージにより、国鉄を辞めざるを得なかったことが、長い沈黙の理由であったのだと感じる。百瀬氏の言葉から、私の父が子どもたちに対して戦争を語らなかったのは、戦争は勝者・敗者の別なく、加害者と被害者をうむこと、その体験が凄惨な体験であることから、思い出したくない、家庭に戦争の影を落としたくない、平和な家庭を守りたいという一念のあらわれだったのだと感じた。

 私の父と同年の百瀬氏には長生きし、健吟を続けてほしいものだと思います。(つづく)


2023年9月8日金曜日

【連載】大関博美『極限状況を刻む俳句 ソ連抑留者・満州引揚げ者の証言に学ぶ』③ 上梓その後 大関博美


 筑紫磐井先生にお会いしたことをきっかけに、私の父のソ連(シベリア)抑留をたどる旅をまとめた『極限状況を刻む俳句~ソ連抑留者・満洲引揚げ者の証言に学ぶ』を令和5年6月6日に上梓することが出来ました。昭和1945(昭和20)年8月6日、広島に原子爆弾が投下され、8月8日にはソ連が日本に宣戦布告し、8月9には長崎にも原子爆弾が投下、そしてソ連が満州に侵攻した日で、8月は正に祈りの月です。

 さて、この度は拙著に託した私の思いについて、またこの本の作成にご協力いただいた、ご遺族や俳人の方の中でご了承の得られた感想をご紹介させていただきます。

 父の体験したソ連抑留をたどる旅で、新宿にある平和祈念資料館での語り部の体験談を伺いに通う一方で、拙著のもととなるソ連抑留・満州引揚げ俳句を読んで参りました。これらの作品について、浅薄な私の知識では「なぜ日本は、日清・日露戦争他を経、日中戦争から太平洋戦争へ突き進まなければならなかったのか」「なぜ、大日本帝国は大陸(現在の中国北東部)に満州国を建国したのか」「なぜ、ソ連は日ソ中立条約の締結期間を残し破棄したのか」「なぜ、当時155万人もの日僑俘虜をうむほど多くの日本人が満州に渡ったのか」「なぜ、57万5千人のソ連抑留が可能だったのか」など分らないことがありました。そこで、戦争に至る歴史背景・ソ連抑留の体験談・ソ連抑留俳句・満州引揚げ俳句をリンクしその実相に近づくことにより、父母が戦争を体験した世代や戦争を知らないその子の世代にこれらのことを伝えたいと思いました。何の肩書もない私の言葉に、ソ連抑留や満州引揚げの体験者やご遺族の皆様は、耳を傾けてくださいました。多くの方々との出会いがあってこそ、この本は生まれることができましたことを、私は深く感謝しております。拙著では、「極限状況における俳句の果たした働きや句座の力」を主題とし、次の世代に語り継ぐ証言として、また、将来あってはならない戦争について投げかけを試みるという3層構造をなしています。ですから体験談や俳句による証言の凄惨な内容に心を奪われず、平和な未来を保つための今ここを考えて、お読みいただければ幸いです。

 上梓後6月10日に、関係者の皆様に謹呈の本が発送されました。令和5年6月13日、高木一郎氏のご遺族の高木哲郎氏から、電話を頂きました。 

《あなたから本が届き、名前に見覚えがあった。父の句集にあなたからの葉書を挟んでおいたのを思い出し、手紙を書くより早く気持ちを伝えたかったので、葉書の番号に電話を掛けました。父の作品をこんなに丁寧に取り上げてくれてありがとう。この本を手に取る人は、一握りの人かもしれないが、その人を通じて次の世代に伝わってゆく貴重な一冊だと思います。私には兄弟姉妹が他に4人います。4人にもこの本を持たせ、当時満州国建国や満州移民政策などの歴史を読んで、私たちが体験した、戦争について再認識したいと思います》

と、お話くださいました。 これから、歩き出して行く拙著にとてもありがたいご感想を頂くことができたことを嬉しく感じた日でありました。

(つづく)

2023年7月28日金曜日

【連載】大関博美『極限状況を刻む俳句 ソ連抑留者・満州引揚げ者の証言に学ぶ』を読む➁

「極限状況を刻む俳句」を刻む  杉山久子


 「戦闘が終わっても戦争は終わらない」(山本章子)

 かつて投下された爆弾の不発弾の山の上に腹ばいになって生活しているようなものだと沖縄の日常を指摘する「沖縄季評」の一文が、大関氏の著書を読んで直後の私の心中に重く響いている。


 本書では、まずソ連抑留に至る経緯を日清・日露戦争戦争に遡って解説されており、個人の人生が大局に翻弄される状況を見渡すことになる。

続くソ連抑留者の体験談と抑留俳句は、その奥に語られなかった多くを含むであろうことを踏まえながら、刻むように詠まれた十七音からお一人お一人の叫びを聞く思いで読んだ。

 声のなき絶唱のあと投降す     小田保

 俘虜死んで置いた眼鏡に故国(くに)凍る  〃

 日本人打つ日本人暗し日本海     〃

 肉体的精神的に苛烈を極める状況の中で、仲間同士の「密告」「つるし上げ」といった更なる精神的極限へと追い詰められる。


 秋夜覚むや吾が句脳裡に刻み溜む  石丸信義

 棒のごとき屍なりし凍土盛る    黒谷星音

 初蝶をとらえ放つも柵の内     庄子真青海

 初夢は吾子の深爪また切りし    高木一郎

 汗の眼を据ゑて被告の席に耐ふ   長谷川宇一

 としつきを黒パンに生き燕飛ぶ   川島炬士

 むかれたるまま 蛙 俘虜の手をのがる  鎌田翠山

 生々しい臨場感を伴う鎌田翠山氏の句には、生死の拮抗する瞬間が描かれており、それは過酷な体験をされた人々の生をつかみ取ってこられた一瞬一瞬にも重なる思いがする。 

 鎌田氏のように、シベリアだけでなく欧露の砂漠での捕虜体験や、これまであまり目にすることのなかった女性の俳句(満蒙引き揚げ)を取り上げていることも本書のきめ細やかなところであろうか。

 行かねばならず枯野の墓へ乳そそぎ   井筒紀久枝

 子等埋めし丘ことごとく凍て果つる   天川悦子


 シベリア抑留の過酷な体験を生き延びた父を持つ著者の、今伝えなければという強い切迫感に貫かれた本書では、俳句や句座の存在が当時、そしてその後の人生にどのように働いたかを作者の証言を踏まえての考察がなされている。更には震災詠や現在も終わらないロシアによるウクライナ侵攻などの極限状況においても川島炬士の語る「暗黒の中に一縷の光明こそは俳句であった。」のように、俳句が心の支えとなっている例を挙げつつ紹介する。そこには筆者の平和を希求する強い祈りが込められている。


 戦後がいつの間にか戦前へとすり替わってしまうのではないかという危惧も漂う現在、多くの人にこの極限状況に刻まれた俳句と証言を目にして欲しい。


2023年7月14日金曜日

【連載】大関博美『極限状況を刻む俳句 ソ連抑留者・満州引揚げ者の証言に学ぶ』を読む➀

  BLOG「俳句新空間」での長大な連載をもとに、大関博美『極限状況を刻む俳句』(コールサック社)が刊行されたところから、本BLOGで何人かの方に解説・感想をお願いした。折しも、終戦記念日を控えて、タイムリーな本となっているように思う。戦争とは何かを今一度考えてみたい。

 第1回は鈴木比佐雄氏。コールサック社代表、詩集、詩論集、評論集など多数。最新評論集は『沖縄・福島・東北の先駆的構想力 ―詩的反復力Ⅵ(2016―2022)』。


 解説 ソ連抑留者の極限状況を後世に伝えることは可能か

大関博美『極限状況を刻む俳句 ソ連抑留者・満州引揚げ者の証言に学ぶ』

                 鈴木比佐雄


  1

 本書『極限状況を刻む俳句 ソ連抑留者・満州引揚げ者の証言に学ぶ』を執筆した大関博美氏にとって、ソ連抑留者であった父は子供の頃から大きな謎であった。その謎を聞いてみたいと願っていたところ、六十二歳で亡くなってしまった。父の背負っていた極限状況の一端でも認識し、父の重荷を娘として理解したいという胸に秘めていた課題を直接聞く機会を、大関氏は失ってしまった。しかしその代わりに、まだ存命中の父母の世代のソ連抑留者・満州引揚げ者たちに取材を試みその人物像と接し、その著書を読むことによって、最もアジア・太平洋戦争で傷ついた世代の思いに肉薄し、その証言を後世に残すことを構想した。そのことに一途に邁進しようとする純粋さ、熱い志を私は草稿・構成案を拝読し感じ取った。

 大関博美氏は一九五九年に千葉県袖ケ浦市に生まれ、今は隣接する市原市に暮らす現役の看護師であり、俳句結社「春燈(しゅんとう)」に所属する俳人だ。数年程前に、コールサック社が刊行した東北の俳人の照井(てるい)(みどり)氏と永瀬十悟(ながせとおご)氏の句集やエッセイ集について、大関氏から問い合わせがあり、その際に本書の出版についても相談があった。早速その下書き的な草稿を送って頂いて拝読したところ、まだ修正・加筆が必要な個所が多くあったが、誰よりもソ連抑留者・満州引揚げ者の悲劇の歴史について俳句を通して解き明かし、その教訓を後世に伝えていきたいという強いモチベーションを感受することができた。

 私は現在の文芸誌「コールサック」(石炭袋)を一九八七年に刊行したが、その創刊号に詩を寄稿してくれた詩人に、シベリア帰りの鳴海(なるみ)英吉(えいきち)氏がいた。鳴海氏はソ連抑留者であり、抑留体験を一〇八篇の詩に綴った詩集『ナホトカ集結地にて』で壺井繁治賞を受賞した詩人で、日蓮宗不受不施派の研究者でもあり、そのソ連抑留体験や民衆の不屈の精神について亡くなる間際まで執筆し続けていた。鳴海氏は亡くなる二〇〇〇年まで十三年間も欠かさず寄稿し「コールサック」の文学運動を支援してくれ、私にとって父のような詩人であった。「コールサック」が出るたびに、自宅の千葉県酒々井(しすい)町まで出かけて作品を論じ合う交流を続けていた。その際には中国戦線での出来事や鳴海氏が抑留された「ツダゴウ収容所では零下三十度の冬に鉄道敷設作業などによって千人以上の戦友たちが五百人も病死・餓死をした」という、凄まじい体験談を聞かせてもらった。またその冬を越えるとロシア人との人間的な交流もあったことを知らされ、ノモンハン事件で孫を失くした老婆のことを記した名作も残している。私は鳴海英吉氏が二〇〇〇年に亡くなった後に『鳴海英吉全集』を企画・編集し、多くの鳴海氏を愛する人びとのご支援で刊行することができて少し役目を果たすことができた。大関氏と同様に私も父が六十歳半ばで亡くなり、中国戦線の戦争体験を聞く機会を逸してしまった。そのこともあり大関氏が父上から聞けなかったことを、まだ健在な抑留者・引揚げ者から取材し、その著書から学び一冊の書籍にまとめたいという志は、称賛に値する。実際に行動に移して本書の原稿を最後まで執筆し推敲をやり遂げたことは、敬愛する亡き父との無言の対話がなせる粘り強い意志力だったろう。


  2

 本書は序章「父の語り得ぬソ連(シベリア)抑留体験」、第一章「日清・日露戦争からアジア・太平洋戦争の歴史を踏まえて」、第二章「ソ連(シベリア)抑留者の体験談」、第三章 「ソ連(シベリア)抑留俳句を読む」、第四章「戦後七十年を経てのソ連(シベリア)抑留俳句」、第五章「満蒙引揚げの俳句を読む」、「全章のまとめとして」から構成されていている。全体を通して大関氏の父母の世代の苦難の経験をした体験者への深い畏敬の念が根底にあり、その想いが重たい口を開かせて貴重な証言を引き出していったと考えられる。また「ソ連抑留者・満州引揚げ者たちの極限状況を俳句で後世に伝えることは可能か」という大関氏の問い掛けが根底にある。戦争の悲劇が戦後も続き、元兵士たちを劣悪な環境で危険な労働に駆り出し死に至らしめ、幸運にも帰国した抑留者たちも生涯にわたって収容所体験がトラウマとなり心身を苦しめた。そんな大関氏の父のようなソ連抑留者や満州引揚げ者たちが身をもって示した平和の尊さを、本書にまとめたいと願ったのだろう。

 序章「父の語り得ぬソ連(シベリア)抑留体験」は本の成立過程を率直に語っていて、その中で紹介されている左記の俳句は、大関氏が父という存在者の内面に次第に肉薄していく道筋を指し示しているかのようだ。


シベリアの父を語らぬ防寒帽

抑留兵の子である私鳳仙花

三尺寝父の背の傷ただ黙す


 なぜ「防寒帽」を父は大切に保存していたのか。なぜ「抑留兵」と父は呼ばれたのか。どうして働き者の父の背に深い傷が刻まれているのか。その答えを大関氏は探求していく宿命を持っていると感じさせてくれる。


 第一章「日清・日露戦争からアジア・太平洋戦争の歴史を踏まえて」では、アジア・太平洋戦争の前に、日本が遅れた帝国主義国家になった日清戦争・日露戦争とは何であったのか、そのことが結果としてアジア・太平洋戦争を引き起こしてしまったのであり、その発端となった一八九四年の日清戦争からの歴史を問うている。その章立ては次のようになっている。「一 はじめに」、「二 日清戦争から日露戦争へ」、「三 日露戦争」、「四 日露戦争から満州事変へ」、「五 第一次世界大戦へ」、「六 ソ連(シベリア)への出兵―七年戦争への道」、「七 満州事変から満州建国まで」、「八 日本の国際連盟の脱退」、「九 満蒙開拓と昭和の防人」、「十 大陸の花嫁について」、「十一 日中戦争への道」、「十二 ノモンハン事件(戦争)から第二次世界大戦・太平洋戦争へ」、「十三 第一章のおわりに」。このように大関氏は、五十八頁を割いて世界史的な観点で日本とソ連・ロシアとの悲劇的な半世紀わたる歴史を辿っていく。その歴史観は特に加藤陽子氏の『それでも日本人は「戦争」を選んだ』を参考にしている。その加藤氏の世界史的歴史観である《「日清戦争」がイギリスとロシアという帝国主義国家の代理戦争になっていたと世界史的な解釈をする》こと、また《日露戦争がドイツ・フランスとイギリス・アメリカの帝国主義時代の代理戦争であったこと》だという解釈を大関氏は参考にして、清国の領土を奪い国家予算の何倍もの賠償金を課していく帝国主義戦争に日本が積極的に加担していく危うい存立基盤を浮き彫りにしている。そのことが結果として大きな禍根を残し、悲劇の結末を迎えていくことを暗示していくかのようだ。一部の保守政治家たちなどが日清・日露戦争は正しかったと主張する言説のレベルは、歴史とは多様な解釈が可能であることは許容できるが、今後の歴史を創り出していく観点からは、大きな過ちを繰り返す歴史を美化する危ういナショナリズムを絶対化する歴史認識だろう。それ故に大関氏は日清・日露戦争の他国の領土を奪い取るなどの勝利感覚が、その後のアジア・太平洋戦争に三百万人以上の日本人の戦死者とソ連抑留者・満州引揚げ者などを生み出した悲劇の要因であるという、痛切な歴史認識を再確認するためにこの第一章から始めたのだろう。


  3

 第二章「ソ連(シベリア)抑留者の体験談」では、山田治男(やまだはるお)中島裕(なかじまゆたか)の二人から大関氏は直接取材をして、ソ連との戦闘、降伏後の経緯、シベリアの収容所での出来事、抑留者の尊厳などを記し、また日本兵を強制労働させるソ連の国際法違反を伝えている。

 第三章 「ソ連(シベリア)抑留俳句を読む」では、小田保(おだたもつ)石丸信義(いしまるのぶよし)黒谷星音(くろたにせいおん)庄子真青海(しょうじまさみ)高木一郎(たかぎいちろう)長谷川宇一(はせがわういち)川島炬士(かわしまきょし)鎌田翠山(かまたすいざん)の八名の経歴や俳句を紹介している。その中で八名が特に生存の危機に直面した壮絶な体験の中で心身に刻んだ俳句と、その句への大関氏の評言を引用する。

俘虜死んで置いた眼鏡に故国凍る  小田保

 眠っている間に死んだのだろうか、枕元に置かれた眼鏡は霜で凍り付いている。それはまるで、夢に見る故郷まで凍らせてしまっているようである。同じ部隊で戦い、厳冬の夜は故郷の雑煮のこと、牡丹餅のことなどを語り合った仲間である。

秋夜覚むや吾が句脳裡に刻み溜む  石丸信義

 ソ連側は、抑留中の真実を漏らすまいとしてか、抑留者の結束を恐れてか、全ての文書やメモさえも没収した。文書やメモを持っているのが見つかると、帰還が遅れるという噂もあった。句帳を没収されてからの秋の夜長、目が覚めるとひたすら自分の句を暗唱し、脳裡に刻み込んだのである。

死にし友の虱がわれを責むるかな  黒谷星音

 抑留一年目の冬、作業大隊五〇〇名のうちの半数が亡くなり二〇〇名余となり、残った者は絶望の日々を送った。死期は、寄生する虱が一番良く知っている。死体からぞろぞろと虱が離れるからだ。生き残った者は、その虱に責め立てられているのである。

死もならぬ力がむしり塩にしん  庄子真青海

 厳しいノルマと重労働に体力も消耗し、死を意識する毎日ではあるが、弱り切った肉体は生きたいと要求するように、塩にしんをむしり食うのである。

炎天を銃もて撲たれ追はれ行く  高木一郎

 一九四六年七月一日、ダモイと騙され貨車に乗りキズネルで降ろされた。日本にもみた朝顔が遥か遠く離れたロシアの地キズネルにも咲いている。/ひとしきり朝顔に心安らいだのもつかの間、キズネルよりエラブカへ徒歩で三泊四日の移動をする。酷暑の中、水も飲めない行軍である。

汗の眼を据えて被告の席に耐ふ  長谷川宇一

 《「冷然受刑」(昭和二十四年六月から八月)/八月になると私は予審に呼び出された。私の罪名は、「資本主義援助」というソ連国家反逆罪だそうだ。/(略)向かって右側の裁判官が立って読み上げた。(略)「第五十八条第四項の資本主義援助」で求刑二十五年というのである。(略)ソ連の将校が何か言うことはないかというから、「第三国人である私のソ連外でしたことで罪に問われるのは、徹頭徹尾不承知であったと記録をしておいて貰いたい。」と言った。》(長谷川宇一の手記より)

生くべきものは生くべきままに蓼の花  川島炬士

 《ハバロフスクの監獄生活で毎日三十分くらい監房からひき出されて、檻の中の熊のように絶望の心を抱いて、とぼとぼと重い足どりで歩いた十坪に足らぬ板塀で取り囲まれた散歩場の片隅の日陰にひそやかに咲いていた蓼の花を見いだしたときの私の悟りでもあり、生への復帰の叫びでもありました。この句一つで私の俳句の道に入った報いは十分だと思っております。(略)暗黒のなかに一縷の光明こそは俳句であった。》(長谷川宇一の手記より)

母に逢うまでは死なず 夏の砂漠暮る  鎌田翠山

 三日目に半病人になって、倒れているところをカザック人の猟師に救われ、三日間看病を受け、七日ぶりに収容所に帰り、皆の叱責と三日間の営倉と七日分のノルマの強要で済んだ。もしも猟師が見つけてくれなければ砂漠で死んでいたし、脱走とみなされても死が待っていた。(略)もうろうとする意識の中で、鎌田氏は生き抜いたのである。


 これらの八名の俳句は、まさに「極限状況を刻む俳句」としか言うことができない、極度に緊迫し生死を賭けた場で生まれた俳句だろう。大関氏は抑留兵たちの重たい思いに対して、父もそれに近い思いを抱いたかもしれないと逆に親近感を抱いて、可能な限り聞き入ったのかも知れない。


  4

 第四章「戦後七十年を経てのソ連(シベリア)抑留俳句」では、長野県塩尻市に暮らす百瀬(ももせ)石涛子(せきとうし)に取材し、そのシベリア抑留体験の証言や句集『俘虜語り』について詳しく紹介している。その中から二句と大関氏の評言を引用する。

逝く虜友(とも)を羨ましと垂氷齧りをり  百瀬石涛子

  飢えは自分自身の心を苛み、抑鬱状態に追い込む、逝く友を羨ましいとさえ思い、その一方で垂氷を齧らせる。死を切望しながらも、体は生きようと懸命であった。

渡り鳥羨しと見つめ俘虜の列  百瀬石涛子

冬の近づく頃、鴨や白鳥、鶴などはシベリアの広大な空を自由に飛び、冬には日本に渡ってゆく。作業に出かける前の点呼の列で、作業の合間の給食を待つ列で空を見上げながら、自由に飛べる渡り鳥を羨ましく眺めるのだった。


 第四章の百瀬石涛子氏について大関氏は、「八十歳を過ぎてようやく抑留体験は、俳句として結晶し姿を現し始めた」と言っている。それほど言語化するには膨大な時間を必要とした百瀬氏にとって俳句との出会いは素晴らしいものとなったのだ。


 第五章「満蒙引揚げの俳句を読む」では、井筒紀久枝(いづつきくえ)『大陸の花嫁』と天川悦子(あまかわえつこ)句文集『遠きふるさと』を紹介している。その中から各一句と大関氏の評言をそれぞれ引用する。

酷寒や男装しても子を負ふて  井筒紀久枝

 一九四五年八月二十五日に武装解除を受けて以来、ソ連兵と中国兵や地元の中国人による略奪が繰り返され、ソ連兵により女性は性的暴行受けた。髪を剪って顔に竈の煤を塗りたくり、若い娘にも赤ん坊を背負わせて偽装をした。凍てる冬の夜、母親たちは襲撃を警戒して男装をし、銃は持ち去られているので、わずかな農具を持って歩哨に立ったという。

子等埋めし丘べに精霊とんぼ飛ぶ  天川悦子

 八月に避難指示が出て、足止めされた鎮南浦では、暴漢たちによる暴力もあり、収容所が港の倉庫に移った。九月になると、鎮南浦にもソ連軍が進駐した。ソ連軍の中でも、一番凶暴な「いれずみ部隊」だったという。難民はソ連軍による強奪や性的暴力にみまわれた。九月末にはソ連兵は引き上げて行ったが、入れ違いに飢餓が襲ってきたとあり、この時のことを悦子本人に電話で確かめると、「鎮南浦は十月になると雪が降り始め零下二〇度にもなるところなの」と教えてくれた。避難民は飢えと寒さに襲われたのである。


 「日ソ中立条約」が破棄されてソ連が進攻する混乱の中で関東軍が武装解除された。大関氏はその後に満州に残された満州開拓民家族の井筒紀久枝氏、天川悦子氏などの女性が詠んだ俳句を紹介し読み取り、二人の人生を辿っていく。それはソ連抑留者の俳句を読み取る作業と同様に価値あることで、後世に残すべきことだと考えているのだ。その意味でサブタイトル「ソ連抑留者・満州引揚げ者の証言に学ぶ」という姿勢によって、本書の構成が出来上がっていったのだろう。略奪と性的暴行などの壮絶な体験を俳句と散文で伝えた二人の言葉は、戦争が終わっても続いていく民衆の悲劇を語り掛けてくると大関氏は語ろうとしているのかも知れない。

 最後に「全章のまとめとして」の中から大関氏が本書をまとめながら感じ取り考えていたことを記している箇所を引用したい。


 極限状況の今ここを支える俳句の働きは、抑留詠(戦争詠)・引揚げ詠・震災詠など、特殊な境涯にあっても、病や介護の境遇にあっても、毎日の暮らしにおいても、現実の出来事の証言となり、遭遇した出来事の認知の書き換えやストレス緩衝効果や孤独の環境の中で承認されることにより、安心感や仲間との信頼関係を回復する、失われた命への鎮魂による自他救済などの働きがあった。

 自他救済について、少し違う角度で考えると、本書で取り上げた方々は、危機的状況九死に一生を得た体験を持つ。この体験は思考の混乱を呼び、喪失感や自責の念を抱かせるが、一方で生かされた命の一瞬一瞬を、大切に使おうとする思いは、前向きに生きようとする力を生み、積極的な句作、平和の尊さを語り継ごうとする活動などの動機となる。俳句は悲しみや悔しさ、怒り、嘆き、優しさといった感情を伝える器であり、受け取った人に共感を呼び起こし心の癒しを与える。そして俳句を詠んだ人と読む人を、互いに支える杖(伴走者・燈火)となり、難局を切り開き、未来へつなげる働きをするのだと私は考えた。そして、これは特別な人のことでなく、俳句を支えとして境涯を生き抜く決意をした人に、共通にもたらされる働きであると思う。


 大関氏は読み取ってきた「抑留詠(戦争詠)・引揚げ詠・震災詠など、特殊な境涯」である極限状況の俳句を創作し読解し共有することは、「ストレス緩衝効果や孤独の環境の中で承認されることにより、安心感や仲間との信頼関係を回復する、失われた命への鎮魂による自他救済などの働きがあった」とその効用を結論づけている。大関氏が看護師で他者を癒すことを職業としていることもあり、俳句・散文などの表現行為が、存在の危機を感ずる人びとにとって生きることの原点に立ち還る有力な方法であることを再認識したのだろう。きっと大関氏の父の存在もこれらの俳句・散文の中に立ち現れて、父との無言の対話は継続されてきたに違いない。

 ところで、二〇二二年二月にロシアがウクライナを侵略し、同年の七月の時点で米国国務長官は六〇万~一六〇万人のウクライナ人がロシア国内に強制移住をさせられていると発表している。その数が正しいかどうかは定かではないが、そのような恐るべき「戦争犯罪」が拡大し現在も繰り返されてウクライナ人の苦悩が続いている。その強制移住や強奪という点では類似するソ連抑留者・満州引揚げの当事者たちの「極限状況」を、俳句・散文を通して伝える大関氏の試みを多くの人びとに読んでもらいたいと願っている。