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2023年12月8日金曜日

【渡部有紀子句集『山羊の乳』を読みたい】⑯ 生き物への眼差し 笠原小百合

  渡部有紀子さんが第一句集『山羊の乳』を上梓された。

 有紀子さんとは俳人協会の若手句会、若手部の各句会(名称は似ているが全くの別句会である)でご一緒しており、その並外れた観察眼と鑑賞力にいつも感服しきっている。

 有紀子さんのその強い眼差しに、俳句の道を進む者の意志を感じていた。

 その眼差しは『山羊の乳』にも如実に表れているように思う。


朝焼や桶の底打つ山羊の乳

子と歩む名月見ゆるところまで


 一句目。力強い写生句である。「朝焼」の眩さ、神々しさの中、「桶の底」を弾けんとばかりに強く打つ「山羊の乳」を搾る手にも自然と力がこもる。まるで神聖なる儀式のようなワンシーンだ。写生に徹底することの底力を見せてくれる一句である。

 二句目。慈しみに満ちあふれた句である。何より先に湧き出る子を愛しむ気持を上五に置くという句の作りが秀逸だ。それも「名月」を求めてのことであれば、尚更愛しさは増す。十五夜に願いをこめて、お子さんとの大切な時間を切り取られている。


 筆者が興味を抱いたのは、俳人・渡部有紀子の詠む生き物の句だった。

 筆者自身が生き物、動物への思いを大切にしていることもあり、他の俳人の詠みぶりがどうしても気になってしまう。

 以下、「山羊の乳」より生き物を詠んだ4句を取り上げ、鑑賞していきたい。


つばめつばめ駅舎に海の色曳いて


 駅舎にすっと一瞬、つばめが通り過ぎる。その軌跡が「海の色曳いて」いたように見えたという句。つばめのちょっと澄ましたような表情が浮かぶ。

 海よりやって来たつばめが海の色を一緒に連れてきたという把握に相応しいのは、海の近くの駅舎か、遠く離れた駅舎か。けれどきっとそんなことは些末な問題でしかない。作者に馴染み深い鎌倉方面の駅とも読めるし、大都会の東京駅として読んでもまた味わい深い。読み手側によって世界の広がり方の変化する楽しさに「つばめつばめ」のリフレインも加わり、海の明るさに包まれる心地になる。


水鳥の身動ぎもせず弥撒の朝


 一句を貫く厳かな空気は、ひんやりとした朝の気配を思わせる。「身動ぎもせず」という措辞は何を示しているのか。写生だけでは収まりきらない感情がそこには見えるように思う。静寂にも様々な種類があり、掲句は厳粛で美しい静寂の景を描いているのだと感じた。「弥撒」という一語により、静寂がより引き立つ。


移されて金魚吐きたる泡一つ


 よくご覧になられているなと、うっとりとした溜息の漏れた句である。上五「移されて」が特に巧みで、省略が効いている。金魚がぽっと泡を一つ吐いただけで、こんなに豊かな気持になれる表現が出来る人がいるということに驚いた。金魚のその存在の優雅さも伝わってくる。凛と気高い、孤高すら感じる金魚は、一体何を思っているのだろう。


宮古馬高く嘶き稲光


 「宮古馬」は宮古島に生息している野生の馬のこと。「嘶き」「稲光」の韻の重厚感は、読み手にその土地への思いを馳せる手助けをしてくれる。宮古馬が高く嘶いて、それがきっかけとなり稲光が起こったように読めるが、そこに因果関係はない。たまたま高く嘶いたときに、稲光が見えたのだ。まるで俳句の神様からの天啓のような句だと感じた。

 以上の句を読んでいく中で、有紀子さんは生き物という対象を非常に客観的に捉えていると感じた。生き物との一線を越えない。それは生き物への敬意の表れ。むやみに近寄ろうとしない。生き物たちの領域へ勝手に侵入しない。ずかずかとつい乗り込んでしまう筆者にとって大いなる学びとなった。有紀子さんの他者を思いやる姿勢は、動物相手でも人間相手でも変わらない。



【執筆者プロフィール】
笠原小百合(かさはらさゆり)
1984年生まれ。栃木県出身。埼玉県在住。
2017年作句開始、田俳句会入会。水田光雄主宰に師事。2023年、第9回田賞受賞。俳人協会会員。


2023年11月24日金曜日

【渡部有紀子句集『山羊の乳』を読みたい】⑮ 各章から 大西朋

 渡部有紀子俳句の魅力は何といっても句材の幅広さ、語感の端々から感じることのできる、知性と品性のバランスのよさだろう。そして対象物に迫るひたむきさ、何事も真摯に受け止め、取り組む姿勢は、句会を共にして常々感じ入るところである。芯の通った硬派な一集である。一章から一句ずつ取り上げ鑑賞する。


黒曜石

春霙イエスの若き土不踏

 イエス像に見る風貌は老成し達観しているような面持ちだが、よくよく考えてみれば若いのである。ほっそりとした肢体の先の土不踏。春のまだ寒い日、その土不踏を霙が溶けて滑り落ちていく様は切ない。


神の名

立春大吉ピザを大きく切り分けて

 焼き立てのピザを思う存分食べたい分だけ切り分ける。そしてふと熱々のピザを頬張りながらふと今日は立春だと気づく。日々の中にある幸せが立春を「立春大吉」としたことでより豊かに伝わってくる。


ディアナの弓

移されて金魚吐きたる泡一つ

 水槽を洗うために一時的に金魚をバケツなどに移したのか、もしくは金魚掬いで袋に移されたのか。ともかくその金魚が泡を一つ吐いた。何とも心細さを感じる「泡一つ」。泡は金魚のため息かも知れない。


師のなき椅子

朝焼や桶の底打つ山羊の乳

 朝早くから絞る山羊の乳。牛の乳ではなく「山羊の乳」に山暮らしの野趣を感じる。そして勢いよく桶の底を打つ乳の音に五感が刺激され、人も自然もしっかりと目覚めてゆくようだ。朝焼けの中を運ぶ山羊の乳が旨そうである。


王の木乃伊

黄金虫落ち一粒の夜がある

 夜になると門灯や軒の灯にばちばちとぶつかってくる黄金虫。そしてぶつかっては落ちて仰向けになり、必死にもがいている。虚子に「金亀虫擲つ闇の深さかな」という句がある。虚子は大いなる闇の深さへ消えてゆく金亀虫を描いているが、この句は眼前の黄金虫をクローズアップすることで、そこから夜の闇がぽつんと足元に現れるような詩情がある。黄金虫だからこそ、「一粒」という措辞が効いているのだ。

 有紀子ワールドの旅を終えて、またここに来ようと思う、そんな読後感が心地よい。



プロフィール
大西朋
1972年生まれ。
鷹・晨同人。俳人協会幹事。


2023年11月10日金曜日

【渡部有紀子句集『山羊の乳』を読みたい】⑭ 異郷を旅する言葉、そして心  柏柳明子

 朝焼や桶の底打つ山羊の乳

 古代、西アジアで興った牧畜。羊や山羊を家畜化し乳を利用する営みは時代と共にヨーロッパを含めた多くの地域に普及したといわれる。そんな歴史を踏まえて表題句を読むと、「山羊の乳」という言葉にはいにしえの時間と文明が宿っているかのように見えてくる。季語・朝焼がはからずもそのことを象徴しているようである。だからだろうか、句集『山羊の乳』を読んだ第一印象は「ヨーロッパ、または異郷の雰囲気が漂う一冊」というものだった。

 あとがきによると、渡部有紀子さんは句会の方々と一緒に絵画やギリシャ・ローマ神話の世界を詠むことに挑戦し、そのことが後に世界中の神話や宗教が下敷きになった師・有馬朗人氏の俳句を読み解くのに随分と役立った、とある。それを読んで腑に落ちるものを感じた。

 聖書の人物や関連した季語が出てくる俳句、あるいはギリシャやローマ神話に基づく俳句、そして異郷の古き神々や原風景を思わせる俳句。それらは日本の風景や日常生活等を詠んだ作品の合間合間に顔を覗かせ、本句集に独特の表情と陰翳を与えている。

 以上の観点に基づき、本句集の俳句作品を鑑賞しようと思う。

 まず、聖書に関連した俳句を見てみたい。


春霙イエスの若き土不踏

 洗礼後の荒れ野でのイエスの姿だろうか。「若き土不踏」が厳しい修行と試練の日々を象徴しており、イエスの苦悩の表情まで窺われるようで焦点の当て方が巧みだ。春霙という季語も本格的な春(ナザレのイエスが万人にとっての救い主になる時)を迎えるための最後の辛苦のようで効果的である。


茨の芽イコンの聖母イエス見ず

テンペラの金の聖母や寒卵

 テンペラにより描かれた聖像画・イコン。聖母子像のマリアは確かに嬰児イエスと目を合わせてはいない構図が多い。言われてみればそのとおりで、ハッとさせられる。その驚きを「発見」として生かすことができる俳句という詩形の力を本作品は再認識させてくれる。茨の芽の小さい生命の息吹が愛おしい。

 二句目。こちらの画にはイエスはおらず、聖母マリアだけなのだろう。金色の背景に包まれたマリアが手を合わせ柔らかく小首を傾げている様子が目に浮かぶようだ。寒卵との取り合わせが意外なようで、静謐な存在感が祈りのイメージとも重なってくる。


 一方、聖書に関連した季語の俳句もある。


カトリック歌留多にしかと創世記

 個人的な話で恐縮だが私は教会の幼稚園出身、小学校時代はそこの日曜学校に通っていた。中学年の頃だったか、「聖書かるた」というものをやった記憶がある。聖書の話や教えが書かれたかるただったが、まさか俳句で再びお目にかかるとは思わなかった。今振り返ると、読み物としてもなかなか面白いエピソードが多い旧約聖書「創世記」。どんな読み札で取り札なのか、ドラマティックで絢爛たる絵柄なのか。シンプルな詠みぶりゆえに想像が広がる楽しい一句。


真白なる藁を敷入れ降誕祭

 生まれたばかりのイエスは馬小屋の飼い葉桶に寝かされた。そのエピソードを思い出すと、この句は「降誕祭」の季語を用いながら「聖夜劇」のワンシーンを詠んでいるのかな、とも思う。毎年、クリスマスの頃に劇が行われていた夜の礼拝堂を思い出した。上五「真白」が神の子の誕生に対する寿ぎを厳かに表わしている。


骨太き魚を取分け復活祭

 骨が太い魚は体が大きく身もしまっていそうだ。それを数人で分け合いながら食べる景はエネルギーに満ちており、復活祭との取り合わせは絶妙。磔刑にあいながら三日目に復活したイエスの姿を踏まえ、「生きる」力を肯定した作品という印象を読者に与える。


 では、神話に基づいた俳句はどうだろうか。


大いなるニケの翼や涼新た

銀貨にはニケの立つ船草の絮

 勝利の名をもつギリシャ神話の女神・ニケ。

 一句目、「大いなるニケの翼」と畳み掛けるようなフレーズの後を切れ字「や」で受けている。その疾走感のある詠みぶりからニケの翼の羽ばたく音が聞こえるかのようだ。そして、下五の季語の爽快さが地中海の美しい空と海を想像させ、希望に満ちた古き佳き世界と時間の広がりを読者の前に提示している。

 二句目は銀貨に彫られたニケの姿。船に乗った姿は勝利に向かってひた走る力強さに満ちている。風を得てきらめきつつ飛ぶ草の絮との対比により、十七音の表現に緩急を生み出している。


水の秋ミノスの牛の金の角

 テセウスはアリアドネより手渡された短剣と毛糸によりミノタウロスを倒し、迷宮の入口まで辿り着く。「金の角」が神話と歴史の境目に輝き、水の秋という美しい季語との調和をみせている。


 それにしても聖書の俳句もそうなのだが、日本文化に基づく季語がこうもヨーロッパ(あるいは異郷)的なテーマと違和感なく調和するとは、有紀子さんの手腕はつくづく凄いと思う。師の影響もあると思うが、ともすれば季語が浮いてしまう危険性がある中、これだけの完成度の作品を複数作り、揃えることができるのは素晴らしい。


 上記以外にも、次のような古代の息吹を現代に伝える佳句がある


月涼し仮面真白き古代劇

春星や王の木乃伊を抱く谷


 一句目。真っ白な仮面による古代劇はいくぶん秘儀めいた表情をもち、その景に涼やかな月光があまねく満ちわたっている。

 二句目。「王の木乃伊」の眠りを守るのは谷だけではなく、星の光もそうなのかもしれない。しかも季節は春。一句目の月の光とは異なる柔らかい宇宙からの光が読者の心をもやさしく照らす。また、春星という季語と王の木乃伊から、若きツタンカーメンを発掘したハワード・カーターの姿と人生がどことなく重なってくる。


 また、作者の内なるノマドの精神を彷彿とさせるような句もある。


旅芸人黒き箱曳き冬木立

 「黒き箱」は旅芸人の仕事道具が入っているのだろうが、芸人自身、あるいはその人生のようにも映る。重量感のある「曳く」行為から己が半生を影のように引きずっている姿を想像でき、冬木立という寂びた季語がロングショットの映像として続く。ギリシャを題材にした作品を撮り続けたテオ・アンゲロプロスの映画「旅芸人の記録」の世界観とも響き合うものがあるかもしれない。


 最後に、「神」という言葉が入った作品を見てみたい。


羊皮紙の青き神の名冬の蝶

 パピルスよりも保存が長く効き、経典などの重要文書の記載に用いられた羊皮紙。中七に「青き神の名」とあるということは、ラテン語の聖書だろうか。青いインクで書かれた言葉であり神の名前なのだろうが、「青い神様とその名」のようにも一瞬読めて不思議な印象が残る。冬の蝶の存在感がそのイメージをことさら高めるからかもしれない。そして「神の名」から、愛をもって人と対峙しながら同時に滅ぼすことも可能な絶対の存在への畏怖を感じる。


夕焚火文字なき民の神謡ふ

 文字をもたない民族は世界中にいる。そのため、文明や歴史の成り立ちが不明なことも多い。そんな民族にも言葉があり歌がある。そして、信仰がある。口伝えで継承されてきた民族固有の文化と精神、そして記憶が、あかあかとした焚火とともに暮れつつある天へ昇っていく。静かで美しい作品だ。

 

 現在からあらゆる場所・時代へ、そして神話へ。俳句形式を用い、縦横無尽に空間と時間を旅することができる言葉と心。それが、作家・渡部有紀子の特質のひとつなのかもしれない。この旅の先に生まれる新しい俳句の誕生を祈りつつ、稿を終えたい。


~~~~~

【執筆者プロフィール】
柏柳明子(かしわやなぎ・あきこ)
1972年神奈川県横浜市出身。『炎環』同人。『豆の木』参加。
第30回現代俳句新人賞。第18回炎環賞。第27回豆の木賞。
句集『揮発』(2015年)、『柔き棘』(2020年)。現代俳句協会会員。

2023年11月1日水曜日

渡部有紀子句集『山羊の乳』を読みたい インデックス

① きちんとの向こうに  鈴木崇 》読む

② 白を択(えら)ぶとき  池田瑠那 》読む

③ 渡部有紀子『山羊の乳』鑑賞  杉原祐之 》読む

④ 生真面目さで以って見つけ出す  上野犀行 》読む

⑤ 雪よりも白く  吉田林檎 》読む

⑥ 「凛と」  今泉礼奈 》読む

⑦ 『山羊の乳』を鑑賞して  星野麻子 》読む

⑧ 「山羊の乳」鑑賞  久世裕子 》読む

⑨ 一句鑑賞文  秋谷美春・堀内裕子・千田哲也 》読む

⑩ 確かめる目線  藤原暢子 》読む

⑪ こどものいる風景  千野千佳 》読む

⑫ 『山羊の乳』書評  嶋村耕平 》読む

⑬ 揺らぎ  板倉ケンタ 》読む

⑭ 異郷を旅する言葉、そして心  柏柳明子 》読む

⑮ 各章から 大西朋 》読む

⑯ 生き物への眼差し 笠原小百合 》読む




2023年10月27日金曜日

【渡部有紀子句集『山羊の乳』を読みたい】⑬ 揺らぎ  板倉ケンタ

  『山羊の乳』を読み、端正な印象を受けた。それは、俳句の作りであり、対象への眼差しである。しかし、良いと思った俳句を引いてみると、およそ本書のサンプルとしては相応しくないであろう句群になってしまった。なんと。なので、開き直って、その抽出した佳句を、逆に「自選15句」を足がかりに分類し直して、本書のどこに惹かれたのかを整理しつつ、自分にもこの句集にも顔向けのできる文章にしようと思うのである。(こんな句集評の書き方はしたことがないから、わくわくしている。)


 まずは、自選15句を示す。


手文庫のうちのくれなゐ鬼やらひ

真昼の日ほどけ落花のひとしづく

アフロディアゐぬかと拾ふ桜貝

我が手相かくも複雑春の風邪

落椿丸ごと朽ちてゆく時間

朝焼や桶の底打つ山羊の乳

蓮ひらくモノクロームの世界より

月涼し手のひらほどの詩の絵本

サーカスの漢逆さま夜の蠅

夜店の灯にはかに玩具走りだす

コスモスの捉ふる風の高さかな

秋の蛾の影を分厚く旧市街

フェルメールの窓を明るく冬隣

たましひに匂ひあるなら花柊

旅芸人黒き箱曳き冬木立


 大雑把に分類し、所感を述べつつ、事前に抽出した句を鑑賞しよう。なお、分類といっても、形だったりモチーフだったりでカテゴライズしていて、それは互いに独立とは限らない。あくまで大雑把な分類である。


A 季語世界の端からモノ(の発見)を抽出する


手文庫のうちのくれなゐ鬼やらひ

月涼し手のひらほどの詩の絵本

夜店の灯にはかに玩具走りだす


 「季語とモノ」のように完全に分離されず、季語がモノを包摂しようとする懐の深さを得た時に秀句となる。だから、「モノ」部分に重点があるとなかなか難しい。抽出句は、


青蔦の学舎どこよりトランペット

花の種採るほろほろと児の言葉

初富士に向かひ大きな牛の鼻

朝刊をぱりつと開き冷房車


 <花の種>句には、かたわらの子どものあどけなさの裏側に神秘性が感じられ、面白い。<初富士>句のようなおおらかさと景色の落差にも惹かれた。


A’  広い景色を背景に、モノや手元を描く


朝焼や桶の底打つ山羊の乳


 季語は背景にあり、より「モノ」に焦点の当る作り方。Aに比べてそもそもが包摂性の高い季語であるから、多少「モノ」に重点があっても一句として成立することが多いが、だからこそ安易な季語の提示は禁物である。抽出句は、


朝焼や桶の底打つ山羊の乳

大西日飛ぶ鳥長き脚揃へ


 <大西日>句は鷺のような大型の鳥の姿がシルエットとして浮かび上がり、また、あの脱力した細長い脚がよく見える秀句。


B  比較的写生に重点がある


真昼の日ほどけ落花のひとしづく

落椿丸ごと朽ちてゆく時間

コスモスの捉ふる風の高さかな


 季語そのものの様を詠み込む類の句。それ以上あまり説明はいらないか。抽出句は、


雪吊の雪が消えずに乗るところ

あちこちが飛び出してゐて大茅の輪 

移されて金魚吐きたる泡一つ

噴水の天辺砕けまた砕け

飛込みし鳥の重さや花万朶


 <あちこちが><噴水の>などは、おかしみが感じられる。このおかしみは、作者の隠れた(作者はあまり自覚的ではないのでは? と自分は感じている)特徴である。まあ、おかしみというのは俳句という形式の性分でもあるので、個性とはまた違うかもしれないが、しかし惹かれた。<移されて>句は上五が秀逸。<雪吊><飛込みし>あたりは類句がないことはないのだろうが、対象の質感(または量感)をよく捉えている。


C  幻想世界を含む一物仕立


蓮ひらくモノクロームの世界より

たましひに匂ひあるなら花柊


C’  神話世界や芸術作品から想像を膨らませる


アフロディアゐぬかと拾ふ桜貝

フェルメールの窓を明るく冬隣


 CやC’(乱暴にこう括ってしまったが、くくるべきなのは本来BとCである)は、抽出句から当てはまるものは、Cの<黄金虫落ち一粒の夜がある>のみであった。Cは難しいぶん、自分はとても可能性のある作り方だと思っていて、現実世界に幻想への揺らぎがあるとそれは作者の心象世界への揺らぎとなり個性の立った秀句になると言える。C’はもっとずっと難しいと思っていて、というのは、短い俳句形式の中で、そうした引用部分の重み以上の自分オリジナルの詩情を描ききれなければ、それは先行する神話なり芸術なりを間借りしただけに過ぎないからだ。とはいえ、俳人は概ねそういう営みを行なっている。それは「季語を用いる」ということである。季語の大きな文脈の中に身を置きながら、自分オリジナルの詩情を提示する。だから、やり方が悪いということはないのだけれど、有季でかつC’の書き方をするということは二重にそれをやっているということである。だから、ものすごく難しいのだ。後書きなどを見ても、作者はこのやり方にこだわりを持っていることがわかるので、ここから出てくる次なる秀句にぜひ期待したい。


D 自分の身体感覚を内省的に詠み込む


我が手相かくも複雑春の風邪


 ここもあまり説明が要らなさそう。抽出句は、


箱庭の夕日へすこし吹く砂金 

惜春の粉糖すこし食みこぼす


 <箱庭>句で、「吹く」とあるのは、もしかしたら息で吹いているわけではないかもしれないが、自分は息かと思って読んだ。綺麗な仕立だが、嫌な綺麗さではない。<惜春>句では「食みこぼす」が生きている。「食む」という動詞は相当難しいはずだが、ここでは複合動詞で「食む」の様子がよく伝わる。どちらの句も、あまり深刻ではないが、しかし身体感覚が迫ってくる良さがある。深刻ではない、というのは、こういう句において重要だろうと思う。


E  人間くさい世界を詠み込む


サーカスの漢逆さま夜の蠅

秋の蛾の影を分厚く旧市街

旅芸人黒き箱曳き冬木立


 人間の様子を描いているが、この季語の「同居性」とでも言おうか、ぽつんといてくれるような描き方が良いと思う。抽出句は、


ガチャポンの怪獣補充炎天下 

サーカスの漢逆さま夜の蠅 


 こういう人間が出てくる作品が、特に端正な本書の中で切れ味を発揮していたように思う。<ガチャポン>句は中七の脚韻が楽しく、怪獣という単語から、その怪獣が壊してきたであろう都会の風景(例えば、秋葉原)が見えてくる。この句は一義的には補充するという労働の厳しさを描いていると読めるが、破壊される対象の街の小さな一部分に怪獣が収まっていることの面白さも、深読みすればあるかもしれない。


 さて、ここまで読んできたが、最後に、この作者に伸び代があるとすればどういうところか、自分の思うところを述べたい。それは、「型」に対する向き合い方である。「型」とは、五/七/五という音の話でもあり、「取り合せ」「一物仕立」といった技法の話であり、本質的には両方である。

 試しに、先に挙げた自選句を見てみると、季語が上五、または下五にある作品が実に15句中14句を占めており、中七にあるのはわずかに<真昼の日ほどけ落花のひとしづく>のみである。この「季語の五音」と「十二音」がかっちりした型の中で徐々に亀裂を起こし、途切れ途切れの印象になっているとすると、非常に残念なことである。形がしっかりしていることが悪いのではなく、群で見た時にしっかりし過ぎているということなのである。

 俳句は五/七/五と言われるが、言葉同士はもっと複雑に関係しあっている。総体として滑らかであり、揺らいでもいる。

 先に挙げた<ガチャポンの怪獣補充炎天下>も、良い句だとは思うが、例えばあの暑い街の陽炎の立つような熱気は、実はもっと揺らぎがある調べに乗ると見えてくるかもしれない。Cのところで述べた「揺らぎ」も、第一義こそ違うものの、本質は同じところにある。よりもどしが欲しいのだ。

 そんな揺らぎは、どうでしょう? 渡部さんには似合わないかなぁ……


執筆者略歴
板倉ケンタ(いたくらけんた)
1999年東京生。「群青」「南風」所属。俳人協会会員。
第9回石田波郷新人賞、第6回俳句四季新人賞、第8回星野立子新人賞。

2023年10月13日金曜日

【渡部有紀子句集『山羊の乳』を読みたい】⑫『山羊の乳』書評 嶋村耕平

 ちょうど鑑賞文のお話を頂いた折に、有紀子さんの『変わりゆく「子ども・子育て」と季語』(角川俳句2023年6月号)という鑑賞記事を拝見した。今回の句集序文では、結社大先輩である日原傳氏が紹介されている「人日の赤子に手相らしきもの」や「永き日の逆さに覗く児の奥歯」も母親の視点でなければ作句できない秀逸であると思う。私自身も子育て当事者で改めて子育ての観点で句集を眺めると、直接的ではないが「子育てあるある」な句が多いことに気づく。そこで私は今回ストレートに子どもが題材には見えないが、子育ての当事者でなければ得られなさそうな句について、この場でいくつか紹介させていただければと思う。

 蜜を吸ふ総身の震へ黒揚羽

 子育てをしていなくても揚羽の句は作れるが、そうではない。単なる吟行の写生句ではなく、子どもと一緒に半ば強制的に見ている蝶で詠んだ句ではないかと思う。子の育ちとともに親は学び直しの連続である。子育てしていなければ記憶の彼方にあるような中南米の生き物・昆虫や新幹線の名前、ミニトマトの育て方、カブトムシの捕まえ方などを学ぶ。句に戻れば、紙切れのような薄い体で蜜を吸っている様を「総身の震へ」と記すことで、揚羽の蜜を吸う行為をよく捉えている。子と一緒に蝶の飛んでいった先を追いかけて得られた成果なのではと思う。

 八月の折紙の裏みな真白

 折り紙は子育てをしていなければなかなか触れる機会がない。渡部家でもそうだと思うが、子どもの片付けない折り紙が散らばっているのであろう。「裏みな真白」は子の代わりに部屋を片付ける親の小さな発見である。「真白」が「八月」と良い組み合わせであると思う。

 八月という太陽の光が厳しく、そこら中にあるものが反射をして白く見えること、また敗戦記念日という「リセット」の意味もあるように思う。また八月という季語は子が一日中家にいて、親としては試練の季節である。

 長き夜の耳繕へるテディベア

 どんなに新しい玩具を買ってきても、お気に入りのモノが子どもには一つか二つはある。ぬいぐるみであればたまに洗うことはあっても、徐々にくたびれてくる。当然ほつれてもくる。他人からすれば中古玩具なのだが、子ども本人にしてみれば宝物でありそれを直す母、と暖かい鑑賞もできる。一方で子供が寝静まったあとの親の貴重な自由時間を削ってぬいぐるみを直しているという、身も蓋もない大変さも伝わってくる。子育て中は本当に自分の時間というものが短い。

 進路相談ストーブの火の盛ん

 無論中学生、高校生でも同じものを見ていると思うがこれは親の俳句である。十代にはやや渋すぎる題材というのもあるが、どこか進路相談が他人事のような句である。学校行事・授業参観では教室の掲示やモノの配置、他の子の様子など、我が子もそうだが、普段どういう環境で教育を受けているのかに気が行きがちである。この句では先生と生徒が今後の進路についてあーでもないと議論が盛り上がっている。その中で第三者である作者は、石油ストーブの火力の方に気がとられている。進路相談をしている十代だと、その内容の方が題材になるであろうし、ストーブは普段から見ているから気にならないであろう。


執筆者プロフィール
嶋村耕平(しまむら こうへい) 昭和六十年生、「天為」同人。

2023年9月29日金曜日

【渡部有紀子句集『山羊の乳』を読みたい】⑪ こどものいる風景  千野千佳

  渡部有紀子さんの第一句集『山羊の乳』は隙のない句集だ。一句一句の完成度が高く、句会の投句一覧の中にあれば選びたくなる句ばかりだ。日原傳さんによる序文は、有紀子さんの句の特徴と魅力をこれ以上ないほど的確に伝えている。色を詠み込んだ佳句が多いこと、美術に関する素材を詠んだ句が多いこと、子育て句も魅力的であること、澤田和弥さんを悼んだ句が収められていること、そして有馬朗人さんへの追悼句の見事さ。

 多彩な魅力をもつ句集なので、読者によって惹かれる句はさまざまであろうが、こどもを詠んだ句に好きな句が多かった。わたしのこどもが二歳のイヤイヤ期で、毎日育児に悩んでいるからかもしれない。


人日の赤子に手相らしきもの

 句集の二句目にこちらの句があることで、有紀子さんの吾子俳句は甘くない(そこがいい)ということが読者に伝わる。「らしきもの」から、母親であることの実感もまだおぼろげであることを想像した。


歩き初む児について来る春の月

 歩いていると月がついてくると感じるあの現象と「歩き初む児」との取り合わせがいい。他の季節ではなく「春の月」がしっくりとくる。この世の不思議を子とともに眺めている。


永き日の逆さに覗く児の奥歯

 仕上げ磨きの一句。「逆さに覗く」だけで親と子の体勢がわかる。季語が「永き日」なので、仕上げ磨きを嫌がらない子を想像した。(羨ましい……。)


春夕焼木箱にしまふ紙芝居

 さりげない一句だが、たしかな感触がある。紙芝居の句はこどもが身近にいないとなかなか作れない。こうした佳句を得ることで、また育児が楽しくなるのだと思った。


二階より既に水着の子が来る

 プールや海水浴が楽しみで、早々と水着に着替える子を詠んだ句はあると思うが、「二階より」に独自性がある。家の造りが見えてきて、「来る」によって子の足音まで伝わる。


子が星を一つづつ塗り降誕祭

 降誕祭の飾りの星をクレヨンでぬりぬりと強めに塗っていく小さな手が見えてくる。「一つづつ」の丁寧な描写がいい。


子と歩む名月見ゆるところまで

 今日は中秋の名月だよと月の出のころに子を連れ出したと想像した。都会は高い建物が多いので、まだ低い位置にある月を見ることができる場所は限られている。ぱっと見えた名月にわぁっと驚く親子を想像して楽しくなる。


赤子抱き二階より見る神輿かな

 まだ子が小さいので外には出ず、家の二階から祭を見ている。赤子のうちから伝統行事を一緒に楽しむ姿勢がいい。句集ではこの句の後に「亡き祖父と三社祭ですれ違ふ」「泥鰌鍋鴨居に雷除の札」と続くことで、一気に景色が広がる。


 以上、たくさんあるこどもの秀句から特に好きな句を引いた。


 あと個人的な趣味で好きだったのが、句集の最後から二句目の句。


旅芸人黒き箱曳き冬木立


 「旅芸人黒き箱曳き」まで読んで、パッと頭に浮かんだのは、金田一耕助シリーズ「悪魔の手毬唄」の恩田幾三のような、昭和初期の詐欺師。すると季語「冬木立」で「おや、昔のヨーロッパの旅芸人かも」という気もしてくる。旅芸人の不思議な色気と、怪しい雰囲気がとてもいい。


執筆者プロフィール
千野千佳(ちの・ちか)
1984年新潟県生まれ。埼玉県在住。蒼海俳句会。2023年、第11回星野立子新人賞受賞。

2023年9月8日金曜日

【渡部有紀子句集『山羊の乳』を読みたい】⑩ 確かめる目線  藤原暢子

  有紀子さんは静かな熱のある人だ。彼女とはコロナ禍の中、俳人協会若手部のオンライン句会を通して知り合った。句会の中でいつも彼女は皆へ問いかける。自身の句について、相手の句について。ひとつひとつ確かめる。俳句に対する熱を目の当たりにして、いつも背筋が伸びる思いがする。

 そんな有紀子さんの熱心な姿をいつも目しているので、第一句集『山羊の乳』を手に取った際は、いささか緊張した。だが、ページをめくりながら、私にまず飛び込んで来てくれたのは燕だった。

  つばめつばめ駅舎に海の色曳いて

 つばめつばめと繰り返すのは、作者の呼びかけだろう。口にすると私の目の前にも燕の姿が見えてきそうである。「駅舎に海の色曳いて」から、その後の燕の動きを想像することは容易い。燕が駅舎と海を繋ぐ。海の色を曳く燕の線が見える。それは駅と海との間を行き来する作者の想いと重なるのだろう。思わず「つばめつばめ」は口に出して読みたくなる。とても好きな句だ。

 娘さんのいる有紀子さんの、母の姿が見えて来る句も好きである。

  木苺の花自転車で来る教師

  月蝕を蜜柑二つで説明す

  台風の目の中にゐて布巾煮る

 木苺の花の句。家庭訪問だろうか。木苺の花の白さと葉の青さに、新米教師を想像してしまう。花の季節は4月。進級により、変わったばかりの担任教師。自転車で来るという情報以外ないのだが、木苺の花から教師の色々な様子を想像させられる。

 月蝕の句。月蝕の仕組みを知らない、幼い子どもへの説明だろう。そばにある蜜柑をぱっと手に取り、娘さんへ説明する有紀子さんの姿を想像すると、あたたかな気持ちになる。蜜柑の色のあかるさもいい。

 台風の句。布巾を煮るという日常の家事が、台風の目の中にあると詠んだ途端、日常から遠ざかる。台風の目の円の中心に、付近を煮る鍋の円がある。その円のすぐそばに有紀子さんがいるのが、なんだか不思議だ。そう、有紀子さんは、異界へ誘い出すのもうまい。

  箱庭の夕日へすこし吹く砂金

  黄金虫落ち一粒の夜がある

  秋の蛾の影を分厚く旧市街

 箱庭の句。現実と箱庭のスケールを夕日でつなぐ。砂金を吹くのは人であろうが、箱庭の住人の目線になると、それは風を生む神の姿とも重なる。ただの砂ではなく砂金であることで、夕日の光が粒子となって見える。

 黄金虫の句。「一粒の夜」というフレーズがとてもいい。黄金虫が落ちる時、ばちんと音がする。その姿に目を奪われる時、周囲に広がる夜が、その甲虫の小さな体にぎゅっと凝縮される。

 秋の蛾の句。「影を分厚く」と言ったことで、厚みのある石の壁の建物と、旧市街の姿が浮かび上がってくる。きっと異国だろう。秋の蛾の乾いた質感も、日本とは異なる乾いた空気を運んできてくれる。そして異界から、日本へ目を向け直す祭の句も少し。

  声かけて縄の降りくる秋祭

  亡き祖父と三社祭ですれ違ふ

 秋祭の句。縄だけに焦点を絞ったのが面白い。確かに縄は、祭の色々な場面で活躍する。山車の上からだろうか。縄がするすると降りて来る。縄の動きとともに、縄の周囲の澄んだ秋の広い青空が見えてきて気持ちがいい。

 三社祭の句。「すれ違ふ」の言い切りにとても惹かれた。亡き祖父と、確かに「すれ違ふ」のである。有紀子さんの中にある祖父の姿が浮かび上がって来る。きっと祭が、とりわけ三社祭がお好きだったのだろう。三社祭があるとき、その中にはいつも、亡き祖父が存在しているのである。

 幅のある世界を詠んでいるが、その中に一貫して感じるのは有紀子さんの確かめる目線である。ひとつひとつ、納得がいくまで近くから見つめ、遠くから見つめ、句を立ち上げる。

  朝焼や桶の底打つ山羊の乳

 タイトルとなったこの句も、山羊の乳絞りの様子を、熱心に見つめた有紀子さんの姿を想像することができる。熱のある目のもとに、これからもまた新しい句が生み出されていくのだろう。

【執筆者プロフィール】
藤原暢子(ふじわらようこ)1978年鳥取生まれ、岡山育ち。東京都在住。「雲」同人。2000年「魚座」入会。「魚座」終刊に伴い、2007年創刊より「雲」入会。第10回北斗賞受賞。2021年雲賞受賞。句集に『からだから』。


2023年8月25日金曜日

【渡部有紀子句集『山羊の乳』を読みたい】⑨ 一句鑑賞文 秋谷美春・堀内裕子・千田哲也

 夜店の灯にはかに玩具走りだす   有紀子

 縁日の参道、境内には様々な露店が軒を連ねるが、中でも玩具を売る店は、いつの時代も子供達の興味の中心であろう。露店で売られる玩具には、普段デパート等では見かけないものも多く、非日常的な感覚を覚えるが、日が暮れて灯が灯りだすと、まるで時間を超越したかのような異郷感も強まってくるから不思議である。

 掲句は、子と一緒に露店を覗く作者だろうか。不思議さと如何わしさが綯交ぜとなった夜店の灯の下で、乗物あるいは動物の玩具の一つが不意に走りだす。瞬間、驚きに満ちた作者の視点は、かつての子供時代へ時を遡り、子の視点と一体化している。夜店の灯は魔法である。

秋谷美春  
(「天為」2023年6月号より転載)


土のこと水のこと聞き苗を買ふ  有紀子

 花屋に勤めていた。花を詠むのも、詠んだ句を観賞するのも好きである。 この句に出会った時の衝撃は忘れられない。句集から、飛び込んできた。いい!大好き!と思った。だって、春に向かって咲く花の、苗を前にしたワクワク感!花好きなら感じられない人はいないでしょう。本人がお店の人に土のことや水のことを胸踊らせて尋ねている姿が浮かんできませんか?(売る側もワクワクです。)  

 土のこと水のこと、この、「のこと」のリフレインもなんだか可愛らしくて。いつも素敵で、お茶目で時に厳しく私達を叱咤激励して下さる先生、これからも楽しみにしております。

堀内裕子  
(「天為」2023年6月号より転載)


 アダムよりエヴァの背高し聖夜劇  有紀子

 そこか。そこなのか…。はっとして、その後ぷぷぷと笑みがこぼれる。

クリスマスの季節に子供の頃、学校や教会で降誕劇に参加したり、子供やお孫さんのを観に行かれたことのある方もいらっしゃるのではないだろうか。神様は駄目と言うのに、アダムより背の高いエヴァ役の子供が、アダムさん、ちょっと来てこの実を食べてみて下さいよ、と恐ろしいことを可愛らしい声で言うのである。

 アダム役とエヴァ役の子供の背の違いに着目するなんて。

 子どもを持つ身として、子どもを詠みたいのだけれど、凡庸になってしまうことが良くある。渡部有紀子の真骨頂をここに垣間見た。  

堀内裕子  


飛び込みし鳥の重さや花万朶   有紀子

 花万朶という美しい季語。柔らかな午後の陽光、枝垂れにはすでに数多の花が付いて、まさに春爛漫。美しくも長閑さに眠気を催したところ…… 突如、飛び込んで来た鳥は目白だろうか。

 大きくない鳥が、枝はずいぶんとたわんだ。そのたわんだ分が、まさにちょうど自分の重さであることが明らかになれば、開ききった花たちは笑うように揺れ、花びらの二、三片がゆっくり落ちていく。

 貴人たちの遊びに入り込んだ田舎武者の無骨さ、あるいは現代的にいうならば、背広姿の男性がランチタイムのカフェに飛び込んでみたら、女子たちでいっぱいの店内、お喋りがいっぱいに咲いていてる。大きな体を小さくしても、似つかわしくない服装、体の大きさの「バツの悪い」さま、クスクスと笑う声…。

 美しくも退屈になりがちな春爛漫の華やかさは、ユーモアをふくんだ一幕によって、新鮮に蘇る。

千田哲也  


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【執筆者プロフィール】
秋谷 美春(あきや みはる)
 昭和59年生まれ。島根県出雲市在住。
 平成28年 天為俳句会入会
 令和4年4月 第6回芝不器男俳句新人賞 一次選考通過
 令和4年9月 天為俳句会同人推薦

堀内 裕子(ほりうち ゆうこ)
 2020年より作句開始。「天為俳句会」会員。神奈川県在住。

千田哲也(ちだ てつや)
 1969年生まれ。鎌倉の「カフェ・エチカ」店主。2021年より作句開始。「カフェ・エチカ俳句の会」および「天為湘南ゲスト句会」にて、俳句を発表中。

2023年7月28日金曜日

【渡部有紀子句集『山羊の乳』を読みたい】⑧ 「山羊の乳」鑑賞  久世裕子

   有馬朗人先生は「天為」十八号で、「どこか新しいことは、自然科学の研究の最低条件であるが、文芸の世界でも同じである」と書かれている。また「天為」二十号で、「見たり聞いたりする角度を、少し変えてみることは、新しいものに触れる一つの方法である」とも書かれている。

 有紀子さんの「山羊の乳」には、その「新しさ」を感じる句の数々が並ぶ。そして、それらの、十七音にきっぱりと収まる省略の効いた句姿に憧れを感じた。その中から三句を取り上げて私なりの鑑賞をしてみようと思う。


惜春の粉糖すこし食みこぼす 

     

 ガトーショコラだろうか。雪のようにかけられていた粉砂糖がテーブルクロスあるいは衣服に、わずかながらこぼれ散らばり落ちる。暑い季節へ進むにつれさっぱりした軽い味わいを好むようになるもの。その前にと楽しんだ、濃厚な味わいの重めのケーキと、そこからひっそりこぼれ散る繊細な粉砂糖との対比。友人との楽しいティータイムの語らいの華やかな賑やかさと、粉砂糖の白くはかない静けさとの対比。粉砂糖がとにかくせつない。

 この句の十七音のうち十一音が静かな無声子音から始まる(セ・キ・シュ・フ・ト・ス・コ・シ・ハ・コ・ス)。さらにその十一音のうち七音は息を漏らす無声摩擦子音から始まる(セ・シュ・フ・ス・シ・ハ・ス)。「惜春」「粉糖」等の言葉の選択で、まるで溜息のような調べとなっていることにも注目した。


花の種採るほろほろと児の言葉  

      

 花の種を手に受けて採り慈しむように、まだ覚束ないながら懸命に話す子の言葉を聞き洩らすことのないよう大事に受けとめ、その思いを汲み取っている様子が浮かぶ句だ。「ほろほろと」の表現で、句集の表紙の花々が頭に浮かんだ。表紙の雰囲気が有紀子さんによく合っていて素敵で「スカビオサ、かな?」と、ひとしきり眺めた後だったからだろう。小さく飛ばされていくような種が、成長しやがて花が咲くように、まだ弱く断片的な言葉たちは、そのうち文となりしっかりと思いが伝えられるようになっていく。今はその過程、とゆったり見守る温かいまなざしが見え、たおやかな花々の優しい色合いが心に広がった。 


口笛に澄みゆく眼夏の果      


 眼が次第に澄んでゆくほどに口笛を響かせている。それ程に口笛を吹きたくなる時とはどのような時だろう。普段の生活で、知り合いが口笛を長く吹いているところに出くわすことが無い。口笛は、人目に付く場所ではあまり吹き続けないのではないだろうか。

人が口笛を吹き続けたくなる時とは(それが生業では無い場合)

夕暮れ時など哀愁そそる時間帯

遠くまで見渡せる視界の広い場所

辺りに自分たちの他に人がおらず万が一見られてもそれが知り合いでは無い旅先

という三つの条件を満たし、且つ心がすっきりと洗われた時ではないかと考えた。

 さて、口笛を吹いているのはご本人かあるいは隣にいるお子さんか。夏の終わりのせつなさ、旅情、遥かなる美しい景色とそれに対峙する人間の孤独や決意までもが、定型十七音で見事に表されていると感じた。


 そしてまた、数々の句に、有紀子さんの「他者を思いやる心」を感じるが、私もその恩恵を受けている一人である。昨年、天為若手句会というリモート句会を立ち上げられ、地方の同世代のメンバーが共に俳句を学べるよう尽力下さっている。私にとって、地元の句会とはまた違う、たくさんの刺激と学びがあり、緊張しながらも待ち遠しい時間となっている。この場をお借りして改めて感謝の気持ちを表したい。

 有紀子さん、いつもありがとうございます!

(「天為」2023年6月号より転載の上、加筆修正)


プロフィール
久世 裕子(くぜ ひろこ)
富山県富山市在住
昭和四八年生

「天為」・「花苑」会員

2023年7月14日金曜日

【渡部有紀子句集『山羊の乳』を読みたい】⑦『山羊の乳』を鑑賞して  星野麻子

  有紀子さんと初めてお会いしたのは、マンハッタン句会という超結社句会でのこと。初めて有紀子さんの選評を聞いた時、選評の的確さ、明確さに驚き、更にユーモアを交えつつ、分かりやすいながらも高潔な語り口に、「こんな凄い人もいるのか」と年下ながら、ほのかな憧れを抱いた。

 今回、句集「山羊の乳」を鑑賞し、先ず装丁の美しさに心奪われた。カバーの淡い紫の色、タイトルと作者名を囲む花の繊細さ。全てに有紀子さんの美意識が現れていて、表紙をみただけで姿勢を正してしまう、そんな句集だと感じた。


  メドゥーサの憤怒のごとく髪洗ふ

  花の夜の解きたる帯に熱すこし

  夜濯ぎの絞りきれざる丈のもの


 どの句も有紀子さんを想像しながら鑑賞した。

一句目、メドゥーサの憤怒とは、何があったのか?穏やかな有紀子さんの激しい一面をみたようでドキドキした。

二句目、何とも艶やかな一句。一句目とは違うドキドキを感じた。

三句目、具体的な物の名は述べず、読者に想像させる。丁寧な暮しぶりが描かれている。


  夢に色なくて墨絵の宝船

  移されて金魚吐きたる泡一つ

  栞紐ひとすぢ青き余寒かな

  はつなつの帆船白のほか知らず

  軽軽と大蛇運ばれ里祭


 以上、特に好きな五句。読んでなるほどと思うと同時に、自分でも見たこと、体験したことであっても、こんな風に詠むことが出来ない。才能があるとは、こういうことなのかと納得がいった。


  永き日の逆さに覗く児の奥歯

  子が星を一つづつ塗り降誕祭

  二階より既に水着の子が来る

  月蝕を蜜柑二つで説明す 

  長き夜の耳繕へるテディベア


 お子さんのことを詠まれた句。どの句も温かい目線。

 この中で四句目の「月蝕を」の句の季語「蜜柑」の使い方に感動を覚えた。お子さんに月蝕を説明するのに、手近な蜜柑で説明する。きっと父親では、こういう発想はしない。手に取るものも、林檎でも、ましてやバナナでもない。蜜柑の季語が動かない。上手いと唸ってしまう。


  朝焼や桶の底打つ山羊の乳


 句集のタイトルにもなっている一句。朝焼の美しさ、山羊の乳が桶の底を打つ音、清々しい牧場の空気。この句を一読した時に、猛烈にこの句を体験したくなり、早朝の牧場に足を運んだ。有紀子さんの清廉さが詰まったような一句。視覚、聴覚、嗅覚、皮膚感覚。あらゆる感覚を一句の中におさめている。素晴らしい句というのは、人を掻き立てるのだと感じた。

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【執筆者プロフィール】
星野麻子
1971年 東京生まれ
2019年 香雨入会
2022年 香雨賞受賞、香雨同人

2023年6月30日金曜日

【渡部有紀子句集「山羊の乳」を読みたい】⑥ 「凛と」  今泉礼奈

  「山羊の乳」を読み、まず、渡部有紀子さんはなんと隙のない人だろうと思った。


人日の赤子に手相らしきもの


 そもそも赤ちゃんの手相を見ることはできない。赤ちゃんは基本的に手を丸めていることが多く、大人のように手をしっかりと開いてくれることはないからだ。ただ、作者は我が子の手相を確認しようとして、「手相らしきもの」があるような気がした。その措辞からは、生まれたばかりの我が子の行く末をまだ知りたいわけではないという、親の感情も見えてくるようだ。ただ、何より驚くのは「人日」という季語の的確さである。


 句集の二句目に置かれたこの句をはじめとして、子どもを句材とした俳句、傍らに子どもの存在を感じる俳句は多く見られる。「子ども俳句は甘くなる」と一般的に言われているが、有紀子さんの俳句は子ども俳句でも冷静さを忘れない。


歩き初む児について来る春の月


 喜びを爆発させてしまいそうな状況だが、平然と可笑しなこと言っている。冷静な詠みぶりなのも逆に楽しい。


木苺の花自転車で来る教師


 家庭訪問だろうか。自転車に乗る先生の珍しい姿に、子どもは少し嬉しくなる。「木苺の花」から、そんな子どもの幼さを感じさせる。


月蝕を蜜柑二つで説明す


 親は両手に蜜柑を持っている。説明する親も、それを聞く子も真剣な顔をしているのだろう。ユーモラスな句だ。


渡り鳥折り紙にある山と谷


 山折りと谷折り、そして折り紙を折る子供を前に、親は「渡り鳥」のことを思う。「渡り鳥」の季語の選択に隙がない。


霧深し手をからめてもからめても


 手を絡めれば絡めるほど、霧が深くなっていくような。男女の句とも読めるが、この句集においては親子の句として読んだ方がしぜんで、かつベタベタにならないのが良い。


 私も子育ての真っ只中だが、子どもと毎日生活していると、子どもを詠もうと思わなくても、どうしても句材が子どもに寄ってしまう。子育ては楽しく嬉しいことばかりではない。辛く大変なこともある。私はいつもその感情をどう季語に乗せるか、どう託すかと思案しているが、有紀子さんの句にはそういった作為が全く見えないのだ。季語がしぜんで、的確で、凛と存在している。


 最後に特筆しておきたいのは、最終章の「王の木乃伊」では、それまでの章と雰囲気の異なる句が多く見られたことだ。


滝凍てて大魚の背骨あるごとく

落椿丸ごと朽ちてゆく時間

黄金虫落ち一粒の夜がある


 これまでの的確さや冷静さに加えて、大胆さがプラスされたように思う。あとがきに「本句集は概ね編年体で構成した」とあるので、この大胆さがどう変化、飛躍していくのか。第一句集をまとめたばかりの方に掛ける言葉としては大変失礼だとは思うが、読み終えて、まず第二句集が楽しみになる第一句集だと思う。


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今泉礼奈(いまいずみ・れな)
平成六年、愛媛県松山市生まれ。東京都在住。「南風」同人。村上鞆彦、津川絵理子に師事。


2023年6月9日金曜日

【渡部有紀子句集『山羊の乳』を読みたい】⑤ 雪よりも白く  吉田林檎

 俳人協会の若手句会。質問の時間がくると渡部有紀子さん(以下敬称略)は必ず手を挙げた。返答をもらうとさらに畳みかける。それはちょっと聞いてみようという態度ではない。心底自分の中で解決していないゆえの質問であることが見てとれた。


 土のこと水のこと聞き苗を買ふ


 若手句会の席で熱心にメモをとる姿と重なる。ただ苗を買うだけではなく、その後どう育てればよく実るかまで飲み込む時間が作者には必要なのである。納得するまで諦めないその姿勢は作品においても一貫している。その実直さに色があるとするなら白。『山羊の乳』という句集名に始まり、白を基調とした世界がこの句集を貫いている。


 春寒し白磁の匙の朝の粥

 産着とす白のレースの花模様

 噴水の人魚の抱く白き貝

 はつなつの帆船白のほか知らず

 箱庭の白沙微かな熱を持つ


 寒さが戻ると暖をもとめて明るいものに目がいく。朝の粥で匙の色と質に着目する視点が細やかだ。冬の寒さなら白磁の冷たい質感は付きすぎである。二句目、レースであることから新生児が女の子であることが推測され、白の必然性が確かだ。三句目、噴水の人魚の抱く貝、人魚全体ではなく貝に焦点を絞ったことで噴水と対比するにふさわしい白さが浮き上がる。四句目、帆船はいつでも白だが、はつなつを季語としたことで空や海の青が思われ、色彩の印象は白が主役になる。最後の句、箱庭の砂が熱を持つことに不思議はないが、光を集める黒ではなく反射する白の中に熱を持っている点に小さな感動がある。砂浜では得られない感覚だ。

 いずれも他の色には置き換えがたい効果を発揮している。さらに有紀子句が描く白の特徴として、白だけではなく「真白」としている点がある。


 真白なる藁を敷入れ降誕祭

 真白なる湯気を豊かに雑煮かな

 初御空胸に真白き矢を抱く

 月涼し仮面真白き古代劇

 八月の折紙の裏みな真白


 いずれも「真白」を「白し」などに置き換えれば価値が半減する仕立てだ。一句目、降誕祭の句はキリスト生誕の場面をあらわしたクリッペを詠んだと考えると腑に落ちる。そうなると藁の色のリアリティは不要で、真白であるからこそドラマとしての感動があるのだ。二句目、雑煮の湯気が白いというだけならそこに詩はないが、真白とまで述べたことで映像は力強さを獲得した。新年を迎えた溢れるほどの生命力を色に託して語っているのだ。初御空の句は第4回新鋭俳句賞受賞作品の冒頭に配置された。この時既に白の世界を追求しはじめていたのだ。その後の輝くばかりの活躍を見るにつけ、この句はその後の作者の姿を先取りしており、「真白き矢」とはその志の形だったと思わされる。月涼しの句は、「白き仮面」ではなく「仮面真白き」としているので仮面は白でなくても成立する。前者の表現であれば仮面の色についての事実を述べているが後者は作者が真白と感じていることになるからだ。「仮面真白き」からくる不気味な涼しさが月涼しに呼応する。最後の句は季語を八月としたことで真白が終戦日への思いにも立秋の心持ちにも重なる。白し、では八月とのバランスがとれない。

 ある場面に遭遇して心が動いた時、有紀子にはそれが白く輝いて見えるのだろう。通常であれば「白い」で見過ごしてしまうようなことに心がとまり、観察の目を研ぎ澄ませているうちに真白に昇華するのだ。


 惜春の粉糖すこし食みこぼす

 大いなるニケの翼や涼新た

 降誕祭十指を立てて麵麭を割る


 白の字を使っていなくてもそう感じさせる句もある。一句目、惜春に形を与えた時の一つの正解がこぼれるほどの粉糖であると思わされる。掴みどころのない粉糖のありようが惜春と響きあう。二句目、ルーブル美術館所蔵のサモトラケのニケの翼は時代を感じさせる色ともとれるが、涼新たの心情を重ね合わせると真っ白な光をまとっているようだ。最後の句、麺麭こそ白とは限らないが、降誕祭に十指を立てて割る麺麭は白であるべきである。先出の<真白なる藁を敷入れ降誕祭>でもそうだったが、信仰に関わる句には白のイメージが伴うようである。

 白とは特定できないものまで白を読者に感じさせる詠みぶり。有紀子は眩しいものや光のあたるものから逃げることなく真正面から取り組んでいる。そうした修練があるからこそ成立する作風なのだ。

 

 本句集の序文では色を詠み込んだ句が多い点について触れられている。それは事実であり同感だが、筆者はそれも「白」がもたらす効果であると考える。『山羊の乳』とはどんな句集だろう、と読み進めると眩しいばかりの白の句群に出会う。白が通底する世界の中で色彩に出会うとその色はより際立って見える。キャンバスが白と読者の中で確定しているからこその効果だ。その中でも筆者は白に相対する存在としての「赤(紅)」に目がとまった。


 真紅てふ色恐ろしき水中花

 芍薬の散る一片のなほ真紅

 落書のラッカー真つ赤春疾風


 白に対する色を黒としないのが作者の個性。一句目、ただ真紅であることを「恐ろしき」とまで叙している。水中花の色としてはさほど珍しくないが作者はそこに不吉なものを感じたのだ。それも人工物である水中花ゆえ。二句目、芍薬の一片の真紅を「なほ」とまで感じ取っている。散ってなお発するその色に美しさの奥底の禍々しさを描いている。三句目、落書があるという事実や内容ではなくただ「真つ赤」と感じた点に焦点をしぼっている。春疾風は若い力として落書と響き合う。

 どの赤も美しさや前向きな意味での情熱を表していない。むしろ赤く染まることを恐れているようだ。真っ白なキャンバスに痛々しいまでの真紅が飛び散る。下地が白だからこその効果であり、作者の心中を象徴している。


 音韻についても触れておきたい。作者はピアノを習っていた経歴があり、現在もご令嬢のピアノレッスンに付き添われている。俳句以外の場所でも聴覚への感覚を日々磨いているのである。句会での見事な披講からは、受け手にどう響くかをも常に考えていることが見てとれる。


 待春やアンモナイトの奥の闇

 うららかや合掌朽ちし木端仏

 水鳥の身動ぎもせず弥撒の朝

 獅子を据ゑ四角涼しき大理石

 ガチャポンの怪獣補充炎天下


 待春の句、「ん」のリフレインが心地よく、アンモナイトの渦と響き合う。母音も[a]から[o]へと閉じていく過程は闇に近付く過程だ。春を待つ弾んだ心が音韻に表れている。二句目、促音を重ねた音韻は一度読み終えるともう一度音読したくなってしまう。うららかな日差しを浴びると木端仏は芽吹きのようである。三句目は「み」のリフレインが唇にも耳にも優しく、水鳥のもつ曲線に似つかわしい。四句目は17文字の中に[s]が7回使われている。[s]を発音するために口の中を通る風は涼しさそのもの。読んで涼める句だ。ガチャポンの句は、濁音と拗音が口の中に暑さを再現している。何度も音読したい句だが、特に濁音の続く中七は唱えることで童心に帰ることができる。

 音韻と季語との相性が言葉を選ぶ上での重要な基準となっていることがみてとれる句群である。こうした音韻感覚はピアノとの関わりが深い時間を過ごしてきたからこそ獲得したものといえよう。


 さて、今回筆者にこの句集評の機会をいただいたからには触れておかねばならない一句がある。


 蓮ひらくモノクロームの世界より


 これは作者と筆者の二人である取り組みをしていたことで出来た句である。その取り組みとは、毎週1曲BTSのミュージックビデオ(MV)を鑑賞して作句するというものだ。その話をいただいた時にはせいぜい毎週1句だろうと思っていたのだが、続けていくうちに2人とも毎週3句出来上がるようになってきた。映像から閃くもの、甦る記憶、季語の発見。コロナ禍に俳句を作る新しいアプローチを獲得した。

 掲句は「Make It Right」という曲のオフィシャルMV (Vertical ver.)が課題だった週に作句されたものである。モノクロまでは容易に辿りつくが、魂を振り絞って観ることがなければ「蓮ひらく」に到ることはない。

 一人では継続が難しいこの取り組みを通して映像から句を詠むことも不可能ではないことを作者に教えてもらった。そしてそれには相当な集中力が必要であることも。

 句集を読み進めるうち、作者がこうした取り組みに費やしてきた月日を知った。


 メドゥーサの憤怒のごとく髪洗ふ

 茨の芽イコンの聖母イエス見ず

 箱庭の道は羅馬へクォ・ヴァディス


 ギリシャ神話の世界に入り込み、メドゥーサの頭髪にうねる蛇を見てきたかのようである。髪洗ふが動かない。二句目、イコンを見て作った句のようだが、聖母が何を見ているのかにまで思いが到るにはそのイコンの世界に入り込むことが必要である。茨の芽がその後のイエスの生涯を語っている。三句目の下五は新約聖書の言葉で「(主よ)いずこへ行き給うぞ」という意味。小説や映画・絵画にもなっているが掲句は聖書からとったと考えるべきであろう。そのような背景を持つ言葉を箱庭の規模で考えることにおかしみがある。いずれもイメージの世界に全力で入り込むことで句として結実した作品である。MVから俳句を作ることも今後開いていくべき道として記しておきたい。


 優れた聴覚で、対象に入り込んで真っ白のキャンバスに描くように作るのが有紀子句の世界であり、心のありようだとすると、作者は世界の陰の部分をどのように呑み込んでいるのだろうか。拒絶だけでは生きて来ることが出来なかったはずである。その手がかりとなるのが、師の追悼句である。


 集ひきてここに師のなき椅子寒し

 聖樹の灯受け空つぽのたなごころ


 「寒し」「空っぽ」と気持ちを率直に言葉にしている。有紀子は悲しみにも目を背けることなく真正面から向き合っているのだ。そして雪を降らせたように白に染めてしまう。他の色に染まることを恐れるように。

雪よりも白いその表現はこれからどのように年輪を重ねていくのであろうか。陰を許さず輝きを磨き続けるのか、有紀子の白い世界の中で陰を獲得していくのか。箱入り娘を見守っているような心境なのである。 (「天為」令和5年6月号より転載・一部加筆修正)


【執筆者プロフィール】
吉田林檎(よしだりんご)1971年東京都出身。『知音』同人。
第3回星野立子新人賞/第5回青炎賞(知音新人賞)/第16回日本詩歌句随筆評論大賞 俳句部門 奨励賞
俳人協会会員/句集『スカラ座』

2023年5月26日金曜日

【渡部有紀子句集『山羊の乳』を読みたい】④ 生真面目さで以って見つけ出す  上野犀行

読初の文字なき本を絵解きせり

人日の赤子に手相らしきもの

 渡部有紀子さんの第一句集『山羊の乳』の冒頭の二句である。新年最初に手にする本は、ヒントもなく自分で絵解きして読み進めなければいけない。そして、赤子の小さな手にある皺だか筋だかは、手相なのか何だかわからない。答えらしきものがあるのかもしれないが、今現在はわからない。自ら見つけ出さないといけない。


 有紀子さんは大変真面目な方である。いや、生真面目という言葉の方が当てはまる。何事にも正面から勤勉に取り組む方だ。

 すると普通だと、取っつきにくい人だと思うかもしれない。しかしそれは大きな間違い。一度お会いしてみれば、生真面目だからこその面白さがある方であることがわかる。そして句座を共にすれば、こちらが恐縮してしまうほどの、大いに気遣いの方であることがわかる。

 この印象は、句集全体を貫いていた。

千代紙をきつちり畳み雛の帯

土のこと水のこと聞き苗を買ふ

千本の影を整へ針祀る

 雛人形の帯は、千代紙を折りまげて作り、しかと締める。文字通り、有紀子さんの「きつちり」とした性格が出ている。苗を買うときも、店にいろいろと尋ねる。もしかしたら、店員も深い関心に圧倒されているかもしれない。針供養の様子を目にすると、千本の針が整然と影を成していることに着目する。ひんやりとした空気が伝わって来る。

 そんな有紀子さんだからこそ、次のようなユニークな句も詠むことができる。

月蝕を蜜柑二つで説明す

星の砂呉るる銀行涼新た

軽軽と大蛇運ばれ里祭

 お子様に対してだろうか、月蝕の仕組みを丁寧に話している。それを蜜柑二つ並べてというところが、端から見ているといかにも変なものである。南の島で銀行に立ち寄ったら、星の砂を呉れた。こんなにありがたいサービスを、一般的には堅物のイメージである銀行員がしてくれている。秋の収穫を感謝する祭が里で執り行われている。厳かなものであろうかと思っていたら、大蛇を運んでいる。他所から来た人はびっくりだが、地元の人は何事もなく当たり前に眺めている。

 これらの句には何とも言えない俳諧味がある。「緊張と緩和」が効いており、その落差からおかしさがにじみ出ている。しかし、有紀子さんは読者を笑わせようなどとは毛頭思っていない。生真面目に物を見詰めていたら、自然とそうなったのだ。あざとさがないので、読み手は心地良く有紀子さんの世界に入り込める。


永き日の逆さに覗く児の奥歯

人形に絵本読む児や春ともし

二階より既に水着の子が来る

スケートの輪を抜けてより母探す

 吾子俳句においても、有紀子節は健在である。真剣に子育てに向き合っているからこその、そこはかとない違和がある。

 歯の生え具合を確かめるために、子の口の中を覗く。よく考えると、母子が顔を逆さまに向き合っているのは、異様である。子が人形に絵本を読んでやっているのも、かわいらしいが、冷静なれば不思議なことである。海水浴では、海岸にある海の家で着替えればよい。しかし、民宿を出る前にその二階で、すでに子は水着一枚になっている。子のたくましさが伝わって来るが、相当面白い光景である。スケートで一心に滑っていたら、いつの間にか母を見失っていた。そうした子を、母は傍らでそっと見守っている。すぐに声を掛けて子を安心させはしないところが、有紀子さんの生真面目さであり、一句をドラマチックなものにしている。〈入学の子に見えてゐて遠き母 福永耕ニ〉と同じように、成長過程にある子の不安や孤独を描き出すことに成功している。

 お子様がミッション系の学校に通っていらっしゃることからか、キリスト教に関する句も多い。しかし、聖書や教義の内容を大上段に振りかざしたものではない。あくまで写生に徹し物を描き、その結果として予期せぬ諧謔があふれ出すという手法は、一般の生活詠と変わらない。

水鳥の身動きもせず弥撒の朝

骨太き魚を取分け復活祭

真白なる藁を敷入れ降誕祭

降誕祭十指を立てて麵麭を割る

 水鳥が身動きひとつしないような神聖な朝に始まる弥撒がある。かと思えば、復活祭の弥撒が終わると、神父も信者も、うれしそうに大きな魚を一緒につついている。クリスマスでは、真っ白な藁を敷いて飾りつけをしている。清廉な精神を思わせる。一方で、どうしても人はパンを口にして、生きていかなければならない。クリスマスの夜も、指に力を入れパンを割って、自らの腹を満たす。

 復活祭やクリスマスの弥撒に神聖な気持で与っていたら、人間の業の深さを考えるに至った。有紀子さんは極めて真剣なのであるが、読み手は、やはりその真剣さと人間臭さの隔たりに、どこかくすぐられるのである。それでいて「人はパンのみにて生きるにあらず」という聖書の言葉の意味を、深く考えさせられたりもするのである。


夢に色なくて墨絵の宝船

毛糸編む膝にあふるる大河編む

朝焼や桶の底打つ山羊の乳

蟻塚の奥千万の蟻眠る

秋澄むや手毬の中の銀の鈴

 生真面目に物を読んで来た結果、有紀子さんの俳句は深化していった。右記の俳句は、それらの一つの到達点である。どの句にも真剣さを起源としたおかしみがあり、更にそこから発展してやさしさを醸し出している。そして、どこか世の中や人生の真理を衝いた作品を成すに至っている。

 夢がモノクロである人がいる。そして宝船も墨で描かれている。初夢も宝船も白黒であるからこそ、これからの未来も地に足のついたものであってほしいという想いが伝わって来る。ただ単に毛糸を編んでいるのではない。これから始まる大河のような物語を編み込んでいる。どんなドラマになるかは、膝の上にある毛糸だけが知っている。山羊の乳が力強く桶へ絞られる。先に紹介した句と同様、この句も人間が物を口にしていかなければならないことを詠んでいる。朝焼という季語が、そういう人間の逃れられない在り方を、明るく大きく受け止めている。地上に出ている元気なものはごくわずか。実は蟻塚の奥には、億千万の蟻が身体を休めている。人間社会を語っているかのようである。労働に疲れた者を見守る姿は、聖母マリアのようである。手毬の中の鈴は見えない。しかしその涼し気な音から、その銀の色を想像させてくれる。澄んだ秋空が読者の前に広がってゆく。


 ずっと生真面目に生き、ずっと物をじっと見つめて来た。その結果、作品からくっきりとした景が、かがやきを以って浮かび上がってくる。それは科学者が冷徹に物事を観察していった結果、世界に予め組み込まれていた答えの一端を見つけ出し、光を当てて人々に差し出していることと同じことのように思われる。


梟や手術の糸の溶くる夜も

 前書に「乳癌手術無事終る」とある。その時は、有紀子さんも気が気ではなかっただろう。それでも、有紀子さんは術前も、術後も変わらずに俳句を詠んでいる。どんなことがあっても、生真面目に人生に向き合い、俳句に向き合ってきた。

 そういう人を、俳句の神は必ず護ってくれる。有紀子さんの今現在の元気な姿、そして俳壇での多くの活躍と実績が、それを物語っている。これも、本当は予め決められていたことなのだろう。有紀子さんは、自身の無欲で生真面目な努力により、自然と天からいわば「ご褒美」を授かったのである。


鳥渡る櫂に祈りの飾紐

 この句のように、有紀子さんはこれからも浮足立つことなく、生真面目に、櫂を漕いでいくだろう。渡り鳥とともに、少しずつ着実に、俳句の大海を進んで行くだろう。櫂に付けられた飾紐が、これからの有紀子さんの道を静かに祈っている。


【執筆者プロフィール】
上野犀行(うえの・さいごう)
1972年静岡県生まれ、神奈川県横浜市育ち。2015年「田」入会。水田光雄主宰に師事。
2021年第一句集『イマジン』。俳人協会会員。

2023年5月12日金曜日

【渡部有紀子句集『山羊の乳』を読みたい】③ 渡部有紀子『山羊の乳』鑑賞 杉原祐之

   渡部有紀子さんは「信念の人」だと思う。私は実は渡部さんと直接お会いしたのは、2回ほどしかない。渡部さんが数多くの賞を受賞されていてしっかりとした評論を書くことを存じ上げていたが、私があまり俳句の集まりに顔を出していないこともありお目にかかることはなく、俳人協会の若手部の早朝句会でZoom越しにご一緒するくらいだった。

 私が昨年4月に上梓した『十一月の橋』も読んでいただきたいと送ったが、宛所不在で返ってきてしまった。他に連絡する術を知らず、ご縁がないのかとあきらめていた時、角川書店から『俳句』の書評を誰に依頼するかの相談があった。私は天啓と思い渡部さんを紹介し、『俳句』に素晴らしい評論を書いていただいた。その渡部さんの評論は、出版元のふらんす堂・山岡さんも絶賛されていた。

 そんな形でご縁が出来ても暫くはメールやメッセージを交換する仲であったが、12月に渡部さんが『山羊の乳』を出版され、私がその感想をFacebookに載せたときに大きな変化があった。


>最後に

>「句友・澤田和弥氏を悼む 一句」

風五月手を振りやまぬ弥次郎兵衛


 この俳句は私と同年代、「早大俳研」出身の35歳で夭逝された澤田和弥さんを悼まれた俳句である。渡部さんは澤田さんと同じ「天為」に所属しており、彼の俳句と評論を愛していたのだ。ある日、渡部さんから澤田和弥さんの遺句文集を出したいと相談を受けた時は驚いた。なぜ渡部さんがそこまで義理があるのか分からなかったが、渡部さんに信念を感じた私は全面的に協力することを決めた。私の人脈で当たれる「早大俳研」や「慶大俳句」の仲間に相談、浜松で澤田さんと「のいず」を刊行していた面々にも連絡を取り、出版の準備を進めている。

 その中で、渡部さんは澤田さんの俳句、評論を集め、ご遺族への了解を取るための手紙、各出版社へ相見積依頼、クラウドファンディングの調整など、精力的に行っている。澤田和弥さんの作品を後世にまとめた形で残すことを、天から与えられた使命だと信じていらっしゃるのだと思う。

 私は4月からシンガポールへ単身赴任することになり、遠隔地からの協力しかできなくなってしまったが、渡部さんの熱意に応え是非澤田和弥さんの遺句文集出版まで漕ぎつけたいと思う。


 信念の人渡部有紀子さんの俳句として、私が好きな句は以下の通り。


「黒曜石」

手文庫のうちのくれなゐ鬼やらひ

 →中七の把握でハッとさせられる。節分が冬から春への切替えのイベントであることもうまく活用している。

霜降る夜紅き封蠟解くナイフ

 →この句も赤(紅)を効果的に使っている。真剣な眼差の渡部さんの様子が目に浮かぶ。

「神の名」

ミモザは黄洗濯船の若き画家

 →絵画を鑑賞しながらの吟行にも積極的に取り組んでいるようだが、上五の把握で生き生きと絵が輝いた。

月涼し手のひらほどの詩の絵本

 →道具立てが見事。詩情に溢れて隙のない感じ。

「ディアナの弓」

真白なる湯気を豊かに雑煮かな

 →正月のめでたさが率直に伝わり、福の多い一年が期待できる。

形代のなんとも薄し夏祓

 →観察の鋭さ、焦点が絞れている。

子が星を一つづつ塗り降誕祭

 →子どもの俳句も冷静な視点で詠まれている。甘すぎずそれでいて愛情が感じられる。

「師のなき椅子」

雛段の進むことなき牛車かな

→動きそうで動かない牛車。哀れがある。

朝焼や桶の底打つ山羊の乳

→句集の表題の一句。季題「朝焼」と「桶の底」の対比に高原の凛とした空気感が伝わってくる。

「王の木乃伊」

人日や木匙で掬ふ朝のジャム

→この句も道具立てが周到で表現に無駄がない。

立子忌の和風パスタをくるくると

→立子は女流俳人のある道を作った一人。和装のイメージがあるので和風パスタがぴったし。

夕焚火文字なき民の神謡ふ

→しばしば神話をモチーフとした俳句が出てくる。この句も硬質の表現だが冷たすぎず余韻がある。


【杉原祐之】
 1979年生まれ、東京都出身。1998年「慶大俳句」入会。本井英、三村純也に師事。
 2012年『先つぽへ』、2022年『十一月の橋』(共に、ふらんす堂)を上梓。「山茶花」飛天集同人、「夏潮」運営委員。
 2023年4月よりシンガポールへ単身赴任中。


2023年4月21日金曜日

【渡部有紀子句集『山羊の乳』を読みたい】➁ 白を択(えら)ぶとき  池田瑠那

  渡部さんの強みの一つに、色彩美を捉える感覚の鋭敏さがあげられる。本句集の「序」においても日原傳氏が「『色』を詠み込んだ句が多い」と指摘し、「スメタナの青き水面へ黄落す」「霜降る夜赤き封蝋解くナイフ」「小鳥来る青き甍の神学校」等を取り上げている。

 どの句も、情景が一幅の絵画のようにありありと心に浮かぶ佳句である。一方、本句集には無彩色である「白」が詠まれた句も多く収められており、筆者はそちらにも非常に心惹かれた。言葉の絵具箱を自在に使いこなす手腕を持つ渡部さんが、あえて詠む「白」にはどのような魅力があるのか。本稿ではこれを読み解いてみたい。


1清浄なる「白」

 渡部作品の「白」は、読者に「清浄さ」を強く印象付ける。無論、「白」とは伝統的にも清潔・純粋といったイメージを纏う色だが、一句の中で取り合わせられた句材によって、その「白」の特質が遺憾なく発揮されることとなるのである。

産着とす白のレースの花模様

真白なる藁を敷入れ降誕祭

 一句目、渡部さんご自身の出産準備の様子を描いた句。「白のレースの花模様」がいかにも涼しげで、穢れを知らぬ赤子にふさわしい。二句目は幼子イエスやマリア、ヨセフなどの人形を並べている場面だろうか。ミニチュアの馬小屋に敷く藁が「真白なる」ものであることに、ふと厳粛な思いが湧く。いずれも純真無垢なる存在への慈しみや畏敬の念が「白」に託されている。

初御空胸に真白き矢を抱く

 「真白き矢」は年頭の清々しい気持ち、あるいは我々に与えられた「新年」という時間そのもののようである。青く澄んだ空のもと、主人公もこの一年を「矢」のように真っすぐに歩んでいくのだろう。

くるむもの白を尽くして雛納

 華々しい雛人形を包む薄紙の「白」を詠む。「雛」とは本来、人間の身代わりとなって穢れを引き受けてくれる存在である。飾り終えた雛に対し「白を尽くして」丁重にくるんでいく行為には、いわゆる「清め」の思いが込められているのではないか。


2時空を超える白

 渡部作品において「白」は、しばしば「いま、ここ」ではない時空へと読者を誘う色となる。

過去と現在

天平の白きよらかに梅咲けり

実朝の海を向かうに白式部

八月の折紙の裏みな真白

 一句目、大伴旅人の邸宅で梅花の宴が催されたのは天平2(730)年のこと。「天平の白」の一語が奈良時代の歌人たちに愛でられた梅と、眼前の梅とをつなぐ。二句目、「海」と「白式部」による大小、紺青と白の対比が鮮烈。源実朝の絶唱「大海の磯もとどろに寄する浪われて砕けて裂けて散るかも」が思い起こされ、気品を湛えた白式部の実に、悲運の将軍の面影が重なる。三句目、色とりどりの折紙の裏の「真白」に着目。八月といえば、何かと先の大戦に思いをいたす月、この「真白」は原子爆弾の閃光や、終戦の詔勅を聞いた人々の心の空白に通じている。折紙を楽しむ平和な八月の一時と、戦時中、戦争直後の八月とが「真白」によって結ばれるのである。

異世界と現実世界

月白し仮面真白き古代劇

 月光降りそそぐ中の野外劇のワンシーンを捉えた。舞台上に生み出されるのは、「真白き」仮面をつけた者らの演技による虚構の世界――の筈だが、観客たちには、やがてそちらがもう一つの現実のように見えてくるのだ。

箱庭の白沙微かな熱を持つ

 箱庭という別世界にも、現実世界の夏の日差しは届き、熱気がこもることもあるだろう。理屈の上ではそう納得するものの、いつしか自分が箱庭の中の人物となり、微熱を帯びた白沙の上に佇んでいるような錯覚に陥る句。筆者は安房直子の童話「鳥」を連想した。


 以上見てきた通り、渡部作品における「白」は俗塵を離れた清らかさを表す色として登場する。また遥かな過去の光景や人物像、現実を超えた異世界等をありありと感じさせる色として登場する。

絵画において、最も明るい白は絵具の白ではなく、何も塗らない紙それ自体の白だという。色彩感覚に優れた渡部さんが白を択ぶとき、一句に清浄な光が射し、あるいは時空を超えた世界を垣間見せる、不思議な力が宿る。

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池田瑠那(いけだ・るな)
1976年11月生。「澤」同人、俳人協会幹事。
2004年「澤」入会。2007年第7回澤新人賞受賞。2018年第一句集『金輪際』を上梓。2021年「虫愛ずるひと、犀星」にて第8回俳人協会新鋭評論賞を受賞。2023年「閾を視る、端に居る――上野泰が詠む閾と縁側――」にて第24回山本健吉評論賞を受賞。


2023年4月7日金曜日

【渡部有紀子句集『山羊の乳』を読みたい】➀ きちんとの向こうに  鈴木崇

 有紀子さんとは鎌倉で句座を共にしている。参加者の一人に料理人がおり、俳句弁当なる季語にもなっている旬の野菜をふんだんに取り入れたお手製弁当をつつきながら和やかに行っている会なのだが、フランクな歓談の席でも有紀子さんは所作や言動に綻びがない。端然としてクールだ。いつ何時でもきちんとしている。そのような印象がある。


つばめつばめ駅舎に海の色曳いて

炎昼をぱたりと打つて象の耳

我が手相かくも複雑春の風邪

手の中の切符小さし冬の虹

喉仏尖らせて飲む寒の水


 きちんと、は句風にも表れている。題材の把握、季語の選択、定型への仕立てに隙がない。処理が的確だ。

 「つばめつばめ」は、京浜急行の逗子・葉山駅を連想する。海岸に近いほうの南口駅舎は湘南電気鉄道時代の駅を模した造りでレトロな趣きがある。「海の色曳いて」の修辞は実に秀逸。「炎昼の」動物園のもの憂さも目に浮かぶ。「我が手相」のアンニュイを季語「春の風邪」でしっかりおさえ、「手の中の切符」は季語「冬の虹」で旅情をさそう。「喉仏尖らせて」は「海の色曳いて」同様あざやかなレトリックである。


待春やアンモナイトの奥の闇

風光る埴輪の膝の五弦琴

銀漢や鼻梁の長き伎楽面

冬の鋭角黒曜石の大鏃

春星や王の木乃伊を抱く谷


 古今東西の文化財が詠み込まれているのが本句集の特色といえる。さながら博物館のようである。アンモナイトの凹凸をいとおしむようになぞる姿がイメージされる。句集を繰るごとに名品・至宝を惜しみなく見せてくれる。引用句のほかにも、ニケの像、フェルメールの名画、侍女俑、円空作と思われる木端仏などなど、ミイラもあるし、トーハクの東洋館さながらの絢爛さだ。

 私が所属する結社の句会では、美術館や博物館での見聞を詠んだ句に対して、屋内での出来事なので季語と結びつけるのが難しいと主宰から言われることが多いのだが、作者の句は季語選びが周到できちんとしているため、全く気にならない。

 作者は二〇二〇年第四回俳人協会新鋭俳句賞を受賞、そして二〇二二年には第九回俳人協会新鋭評論賞、二〇二三年には第三十七回俳壇賞を続けて受賞し、めざましい成果を見せている。「Ⅳ 師のなき椅子」の章に新鋭俳句賞受賞作「蟻眠る」からの句が収められており、本句集のハイライトだろう。


朝焼や桶の底打つ山羊の乳

蟻塚の奥千万の蟻眠る


 早朝の小屋に響く乳搾りのはじめの一打! ここには作者のきちんとの向こうにあるパッションが感じられる。定型に充填された作者のエモーションが読者の内で炸裂する。「蟻塚」に眠る千万もの蟻の群れもふつふつとたぎるパッションの予感だろう。


メデューサの憤怒のごとく髪洗ふ

己が手を描くデッサン秋日濃し

降誕祭十指を立てて麵麭を割る

はつなつの帆船白のほか知らず


 これらの句にも作者の激情を感じる。「メデューサの憤怒」はまさに感情が噴出しているが、「己が手」を素描する姿にも秘めたる情熱がある。「降誕祭」の中七「十指を立てて」はこれまた卓抜な表現だが、高い精神性を思わせる。帆船が「白のほか知らず」出帆していく、前途への明るき情調だ。

 新鋭俳句賞受賞作「蟻眠る」を知りあう前に私は読んでおり、自身のノートを見返すと、感じ入った句を抜き書きしている。そのときは背中が遠い存在だと思っていた。今では句座を共にしているとは不思議なものだ。ましてや句集の鑑賞文を書いているとは。最近は有紀子さんのきちんとオーラに気圧されることなく軽口を叩ける間柄になってきた(気がする)。メデューサの怒りではなく俳句へのパッションを引き出せる俳句仲間でありたい。

 第一句集の上梓おめでとうございます!

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鈴木崇
1977年生まれ。神奈川県横須賀市出身。「鴻」同人。