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2023年9月8日金曜日

救仁郷由美子追悼《追加》➁  大井恒行・筑紫磐井

 ●「五七五」3号・2019年8月

   風友に参禅す

薔薇赤き赤き依身も照らす朝

地獄(かぜ)吹き荒る涅槃や放射線

(すさ)び雨(くが)の芭蕉樹よ

苦なり病なり生死赤葉青葉添え

芍薬の一瞬救いの宇宙身体

(だつ)髪の(だつ)身心や水面の月

ほんとうの生誕地行く東西南北

山高き丸橋来たらん明暗燈

(げつ)満院孤児ら銀白の子守歌

下闇の白樫無限の白宝珠

万有の友の縁よと楠双樹

万象の色も信ならん沙羅双樹

その衣木喰卒寿や聴し色

五つ又行きつ帰りつ道祖神

直衆生(した)しき河童空也南無


*****************

●「ぶるうまりん」43号・2021年12月

   友が居る

垂れ漏らす尿とて分身秋彼岸

言の葉を来るんだ香り金木犀

苦しかり白に溶け入るさるすべり

遁れ端の痛みは白き曼殊沙華

呼び起こす月日は揺れるコスモスよ

絶望に目覚める日毎秋深し

柿の実の色づく頃の悲しみよ

コスモスと幼き日々の坂の町

   師安井浩司闘病中

日々帰らん 悲しみ滲む破芭蕉

歩く度痛み染み入る秋時雨

秋霖に濡れてつゆ草友の声

山茶花咲き始めて冬隣

僻んだ心傷み痛みて満月よ

赤染まるヌカキビ垂れし霧雨に

風起こりヌカキビ静かに揺れる朝

山鳩の山鳩在りし午后(ひる)の道

心友よローズピンクの薔薇開花

南天の色づく先を友が来る

冷ゆる風広がる雲に空の青

幸せが満ちる赤い実秋麗


●「ぶるうまりん」46号(2023年6月)

   友が居る(2)―最期の俳句

すずかけの無音ひとひら舞い降りし

病臥し友との別れ冬の旅

苦しみを共に歩くはシリウスよ

秋晴れやエンジェルラッパも応援し

電灯と火の見櫓の昭和かな

遠逝を生きて今此処大花野

橙黄色天空彩る樹木達

妬むなと微笑む冬の月光菩薩

弱き我妬み捨しと寒の夜

羨めば醜い貌鳥捨て往こう

赤垂れてチロリアンランプの冬うらら

揺れ木の葉音ひとつ無き隣人よ

開花一輪白山茶花に夕日雲

秋光と赤い帽子の少女かな

浄土門変化色づく南天の実

本棚に飾る小さきお正月

眠りの国へ赤い実たわわ届きたり

涙腺に細菌暴れ読めぬ文字

雲高き美し着物女絵葉書よ

空想のつもりに遊ぶ少女となり

寄り添うて散歩ふたりの冬日かな

流水の皮膚に染み入る冷たき夜

埋火や心貧しき女人とならん

   安井浩司追悼二句

大寒や米代川へ哀悼を

寒中の雲霞なる野添の地

曇天や下萌え寒き小雨かな

雨音に伝わる優しさ冬曇り

冬雲に無限の青の青の空

石榴葉の降り下る黄色地に咲き

雪降れり金柑無数の円描き

原の海涙落ちつつ浄化せり

桃咲きていのち散りしも浄土門

雨音や響く靴音かなし花色

怖いと泣く子どもじぶんの子守唄

目覚めれば涙の夜明け君ともに


[本号をもって追加は終了となります]

2023年8月25日金曜日

救仁郷由美子追悼・追加➀  大井恒行・筑紫磐井

  救仁郷由美子全句集のため、私(筑紫)の手元資料でまとめていたが、さらに大井恒行氏に琴座の不足資料を集めていただいたので追加として掲載する。

 これらは「豈」66号でまとめて掲載したいと思う。


●琴座 昭和62(1987)年1月号・422号

以下、耕衣選会員欄「琴座集」より

黒髪のむかしコスモス咲きにけり

火祭や少年固き頬もてり

風吹けり街を移せる酒瓶よ

温もりを肩にふれさす神無月


●琴座 昭和62年2月・423号

子の咳にめざめし部屋に(あかり)あり

大晦日吾子の泣きたる険しさよ

日溜りの白き冬薔薇恋しかり

吾子たちの裸足は白し霜柱


●琴座 昭和62年3月・424号

うたたねに冬日浴びたる黒表紙


●琴座 昭和62年4月・425号

暗闇のシグナル今は昔かな

老夫婦重なる手と手風の春

去年の傷赤き瑕瑾は風に病む


●琴座 昭和63年2月・434号

木々生きしなお緩慢に刻印(こくしる)

木々朽ちて死骸斜めにたたずあり

暗き島ひそひそと声連座する


●琴座 昭和63年3月・435号

寒風に赤き糸干す部落あり

降誕祭ぼんやり街が見えている

凍夜なりあえぬあえずと影を踏む

地球にて折笠美秋自転せり


●琴座 昭和63年4月・436号

まなざしはいのちを愛でる屠殺人

芽ぶくいま親のなき子の処女懐胎

 野原にて乞食のすする白き麺


●琴座 昭和63年5月・437号

地を這いて遊びし吾子に花なずな

確執は振りほどけども菜種梅雨

春の雪あすこすみか隠しおる


●昭和63年6月・438号

五月いま植物園を棲家とす

桜道呼べど応えぬソフト帽

満天星の花は静穏落涙せり

縁側に花瓜草と足の裏


●琴座 昭和63年7月・439号

黒猫は(から)の巣箱を追憶す

満月と黒き猫とが影をうむ

恋猫よ仮の宿での宙ぶらり

緊密に恋猫一夜を鳴きとおす


●琴座 昭和63年8月・440号

六月に逝くは船長の喉仏

悲しみ故ふたつながらも分かちえぬ

黄水仙ナルシスいまも花弁なり

五月死す薔薇の深紅とアフロディテ

土に臥すゴッホの頭上鶫飛ぶ


●琴座 昭和63年9月・441号

昼下がり抜歯サディズムと思いけり

人肌のとどかぬ温み記憶せり

半島に灯火反映す黙すひと

鳳仙花朝鮮咲きし子守歌


●琴座 昭和63年10月・442号

すだれさげ戦争語る八月よ

盆が来て母の笑顔は遠かりし


●琴座 昭和63年11,12月合併 443号

まどろみて昭和ののちの首都の雨

野に死して怒れる喉に痛みあり


●琴座 昭和64年1月・444号

生臭い肩先の冷えとけぬ日々

夢盗人泥地の海に潜んでる

夕映えに夢をかぞえて貼りつけし

何は無しプルトニウムと地獄絵師


●平成元年2月・445号

乾いた空眠れぬ夜明けの呼吸する

玄米の一膳飯と暮らす仲

宙返りの風のたまりに狐鳴く


●琴座 平成元年3月・446号

年越しに年男年取りて待つ忘却

老醜はスタンプなりし詩人を愛す

冬富士の見やる乞食も重ね着し

暖冬も飢えをかかえて眠る山羊

子は眠る明日は幾重も与えたし


●琴座 平成元年4月・447号

空虚空間白い光・は埋めがたし

座蒲団に(ヨル)もろともに沈殿す

人生きて言語の呪縛刺繍哉

夢を喰い東西南北走りゆく

裸身ただ私のために号泣す


●平成元年9月(452号)

夕暮れと犬の瞳が静止する

底辺の身すぎ世すぎに夢を張る

錠音の恋しき夜やこがねむし

少年のゴム長靴と積乱雲

死二カケコオロギ靴ノナカニ居ル


●平成元年10月(435号)

人肌が交じり合う丘祝祭す

靴底の律動(リズム)に生きる(カラー)たち

ダンシング食物たちのつつましさ

猫を抱く肥大する感触遊ぶ疲れ

待つ忘る夜の呼吸が深くなる


●平成2年2月・456号

琴座集

二ツ影一筋の道シリウスよ

カシオペアと語る道元案内人

うろうろと夕ぐれ時の冬木立

不可解な横着貼ってすれ違い


●平成2年 3月・457号 

這賊集

つれそうてきたゆめかいな暖かですか

瑠璃色の更紗持ちたるつたなき指

美しき瞳を結ぶ金星食

二つ影ひとすじの道シリウスよ

カシオペア語った道元案内人


●平成2年4月・458号

這賊集

湯ぶねに浮かぶ記憶の父の薬指

甲ぬぐ無言の昼のねぎぼうず

来ん春と首都は煙りてかゆの朝

国境に足踏み夢踏み影を踏む

ダダダダだ直接性を生きた兄

琴座集

大寒と靴下の穴板を踏む

窓ごしの沈丁花揺れ遠かりし

ねぎ切ってツグミ啼く朝恋うるひと

生活句句苦と笑いて逆さ富士


●平成2年5月・459号

這賊集

    折笠美秋の死

美秋亡く地上の朝は寒風や

ひとりゆく美秋の(くち)の赤き血よ

肩の影肉体に棲むしかないよ

呼べ呼べ言の葉震え涅槃へ届く

情を切った包丁転がる夏座敷

琴座集

空間と時の座標に友すわる

校庭の空は真空ボール蹴る

雛供に父の消した春がすみ

銀河よ死の灰積もる青き空

死滅の影に何億年と自浄せる


●平成2年6月・460号

(きびす)きびきびぐるり回って遠くの列車

山査子をおしえてくれる日約束げんまん

まっすぐに運命線たどる朝

五月雨に黒猫消えて抱くものなし

青葉若葉ただすみれ色のパラソル振る


●平成2年9月・463号 

這賊集

四ツ頃のマダラガガンボ厠の死

日輪に無知なることを愛されて

野に転びてゆきあいの空眺めし裸軀

黒繻子と黒子沈めし真夏日よ

大星雲讃歌に寝入る宇宙かな

琴座集

月蝕に意味づけですよ鳴くふくろう

地底都市冷シ冷シテ福笑イ

白々ト見入ル極楽地獄哉

向日葵畑まどろみて眩暈少年兵


●平成2年10月・464号 

「這賊集」(これより這賊集のみ)

アメリカンポップスに各駅停車見送る朝

ガラス箱無機質となる薔薇職人

夕日照る日螺旋階段に見つけた真理

夏の少年よ自転車の影弧を描く

世紀末時計の針はゆるり落下


●平成2年11.12月・465号

日没に私は羊はぐれけり

父は亡く独楽描きて盆の月

中秋にヒトガヒトデアル白キ団子

彼岸中日参る墓なき人外地(じんがいち)

脳髄に届かぬ私信無明かな


●平成3年1月・466号

(平成2年度同人自選欄作品3句)

林根は未央の体内へ降下せり

月蝕に意味づけですよ鳴くふくろう

日輪に無知なることを愛される

這賊集

瘋癲と芋の葉落とす秋の空

枯れ草やおいてけぼりの緋の輪舞

松葉杖ゆうらりゆれて地を叩く

悔し涙お手てつないで暮れ初む

松の木に半分の背丈車椅子


桜茶や一期一会の湯気にあう

盲て後薔薇数本の恋慕かな

無月哉月光水系ヲ直下セリ

口径に煮え立つスープ月下なり


●平成3年2月・467号

水魂に三日雨降り行方しらず

いきうるもゆくも天啓霜月夜

雑踏に失くした刻の玻璃絵かな

神無月の蚊のスローテンポの飛翔なり

振り向いた指切りげんまん新月や


●平成3年3月・468号

透いた月失くした日輪格子窓

戦争が遠く並んだ炬燵あり

世紀末うかれごころよ地獄絵図

命・生・物見守る岸辺無音絶叫

反戦は戦争の尻尾雪野原


●平成3年4月・469号

殺戮サ無防備ノ肩春ノ月

少年ノ一筋ノ放尿大西日

昔黒い畦道をぶらさがった片腕

東方に土地肌の山の山火事

ナーバスに航海者油まみれの朝


●平成3年5.6月・470号

脳髄が雑念に縛られるや静止駒

昼寝覚黒塗りの皿の桜餅

皆みんな東西南北忘却日

肩連ね詐欺師蔑む贋金作り

緑の西天使に成りそこねた婆ひとり


●平成3年7月・471号

青キャベツに問うチェルノブイリの不明確

放射能検知器の針振れ(クウ)無常

陽は透けり汚染未だに手配中

五感感知不能成麦畑

相生の萌ゆる時空や墓にて十四(トセ)


●平成4年1、2月(474号)

(平成4年より、隔月刊、耕衣、左大腿骨骨折により、平成4年10月~12月休刊)

夕闇に白色つみつつ暮れる雪山

夢巡る凍土深く種子の内包

萩の野に生酔無死の小屋一軒

身の丈の花と遊びし泣き虫子

満月に解決不能はびこれり


●平成4年5、6月・476号

青空の真大の記憶石仏

杏咲く歴史が問いかける私事

バロックの気取りに嵌まるコーヒーの香

向きなおって日本茶すするおとし穴

地球自浄三億年後の春夏秋冬


●平成4年9、10月・478号

青海が死刑執行行使する

水包む少年のうつぶせのゆらめき

少年ノ死沖縄二波ヲ打ツ

脳髄よ少年の死を生きる罪科

生誕の災禍を担う青い女


●平成4年11、12月・479号

昨日の続き今日であることの一番星

ミルクに溺れるアリ飲んだアフリカ

紺青の森失ないて後止血

ふとった春毛虫が残す脂道

月明りにポロンと自刃転がせり


●平成5年1、2月・480号

白布巾尻切れとんぼの枕元

月は黒い鳳仙花の黒い泥

ぼったりと土に包まる核の冬

川面写る手と手といろはにほへとかな

毒・毒・と夢の手ざわり死線越ゆ


●平成5年3,4月・481号

うそ話千夜続いて首括る縄

手懸りは白い光と日々が過ぎ

直線に肉体の痛み梅の花

舟形の月おとぎばなしへ北半球


●琴座 平成7年11・12月(496号)

日輪と根っこ野仏眺めたり (訂正)


2023年7月28日金曜日

救仁郷由美子追悼⑫(最終回)  筑紫磐井

 ●LOTUS 30号(2015年4月)

   葎生

鳥族の巫覡恋しき摘草や

山立娘連(いのししれん)多塔物塔へ突撃す

六十年後桃の老木乙女()

独神(ひとりがみ)出であちらにも出で心うらら

葉桜の木の間漂う宇宙母顔

幼年(おさなどし)摘むは路傍の野襤褸菊

唐門の囲いの巾より娑羅の花

母は月父は娑羅樹と御喋り児

唐門前修羅の脇ゆくごんぎつね

三角地一くわ一くわと土返す

夏旅の七人村へと葛折り

雲海の(たなごころ)這い水子神

山ん中悶絶僻地常無念

飛龍とて未完の神ぞ弦の月

相俟って星糞峠諸同(ほしくそとうげもろかえ)

降る雪や眼ることなき山毛欅林

窓秋氏詩神力すらはにかむや

木の家の詩人の記憶花譜となる

枯蓮の水底(わざ)に満ち満ちて

修羅に添う異境の旅の夏木立

巨樹樹透黒き蛇迫う黒つぐみ

闇に()れ石女明日は婚姻す

山又山産婆走りに山姥よ

鬼門角追われ払われ乞食女(こつじきめ)

天ん邪鬼の水の神様救い求る

門前のずり這う赤子掬い上げ

共喰ぞ悪喰ともどもなる地獄

弔いの摺り足ずるっと秋時雨

北の地震(なえ)洪水南の志都歌や

男鹿の海祈る両手(もろて)の白雲よ


●LOTUS 38号(2018年4月)

   吉村鞠子追悼句

雲白きときどき連なり墓処の空



●BLOG「大井恒行の日日彼是」(2022年4月16日)

安井浩司へ 俳句無の時々(1)水仙(4・16)

救仁郷由美子から、安井浩司死去の直前、エッセイの原稿をブログに載せてくれるか、という声掛けがあり、あろうことか、ほぼ同時に、安井浩司の訃報がもたらされた。安井浩司『自選句抄 友へ』の救仁郷由美子によるエッセイの連載は、とびとびながら、残る3句となっていたが、自身、文章は、もう無理みたい、書けない・・・。俳句なら、少しは書けそう、と言ってきたので、『自選句抄 友へ』の代替えということにもならないが、句ができたら、その都度公開することにした。諸兄姉、お許しあれ。


   厠から育む月日(げつじつ)如月仏の縁      由美子

   水仙と三度(みたび)別れの媼おり

   侵入者夜音(やおん)立て来るやって来る 



●BLOG「大井恒行の日日彼是」(2022年4月22日)

安井浩司へ 俳句無の時々②  


 文学における俳句形式のαとωは、幾たびの試練を経てなお永遠に問われよ(『句篇』ー終わりなり、わが始めなりー安井浩司・帯文より)

 ギリシャ語の最初の文字がアルファ、終わりがオメガであることから、最初から最後までを意味するが始原へと辿り返すならば、終わりなり始めなりと俳句形式を問う。


  オメガアルファの春雲形(うんけい)蛇間に陽光(ひかり)射し

2023年7月14日金曜日

救仁郷由美子追悼⑪  筑紫磐井

●LOTUS16号(2010年4月)

日昇り日没す

日入る(おく)黄泉戸喫を食む妻よ

草に触れ山々谷河足裏よ眼

秋空の天使と遊ぶ水子神

風音や堅胎帰還す木漏れ日に

気味悪き赤子や婆か葉で隠す

名付けし名悪魔は我が子座す仏陀

雷神の怒り注ぐ森悲しき雨音

鬼っ子や逃げ一目散にすすきが原

鬼っ子兄は追われ良われて骨直立

もうおっおっおた孤児の歌声谷上る

山呼ぶも岩塞ぐは蛇の道

夢や(なれ)現われまするか野茨よ

全部耕衣要素分解笑い鯰

妻ひとり救えぬなんぞ野菊原

友の死や拾いつづける落椿

ゆらりゆらりはいとの足元花十字

祭は集い顔作りつつ異邦びと

反抗し犯行閃光夏季の海

我皆々嫌って死んだ「永山則夫」

病者嫌者並んだ肩と鐘の盲

泥に座す皮膚くずれる于握れと手

十六()飢餓の希望の即身仏

彼の地の鬼とんぶりひとつ舌にのせ

太陽が染める砂塵や爆撃の村

貧しさも飢えに至らぬ虎落笛

山遠き労働の夕足裏あり

 若勇者へ三句

遼立国(リョウリツコク)花木々風と鳥の歌

瑠璃鳥来開く窓より白き花

春曙光越え行く峰に飛龍在り


2023年6月30日金曜日

救仁郷由美子追悼⑩  筑紫磐井

 ●LOTUS13号(2009年4月)

  緑星はるかにⅢ

書くと句書き書かぬと句書きヨウ泥鯰(どろなまず)

伝えたきこと無き春は伝えがたき日

紅葉(もみじ)手形ふるえる背中発熱す

歩行より想える空のあけぼのや

ダダダダッダ眠気に寒気影叫び

蓮の実や父置き去りし母の家

紅椿触れぬ母の白き手の動線

ヨタヨタと爪先立ちで交差路や

八百(よろず)神奇人となりしも御燈明

旅反旅困難一字と鳥追い人

変化(へんげ)記憶ふぬけはぬけて湯めぐりや

鳥追いて黒クッキーの家の灯よ

進むべき苦あり蓮華あり世は(すえ)未満

音はずれ半音さがすは死の床か

シャツ・カバー裏返した夜記憶組む

眠りへとまぶたのうらの洗水盤

捨て子だった五つ又辻岐路消えし

さざんかの見知らぬ笑顔祝祭や


●LOTUS14号(2009年9月)

  風の宿(やどり)

台風一過畳十枚一家あり

春月やまどろむ身体静止せり

蓮池の端の泥にて芽ぶく青

病身のいたどり噛みき少年期

せり洗う泪の記憶洗う池

さざんか道捨て子恐き道咲き巡る

ひとりまた「青物」へ走る端境期

歩く夜やひとりのふたり風の宿り

日輪や首と手首とひまわりと

眼底の黒色混濁光の粒子

永遠や生死の境夜鷹燃ゆ

彼岸へと渡る橋板の下人柱

陽降る世や黄泉路の小石も温かき

今は昔吾子喰らう山婆よ

枯蓮やあるはずもない愛しみ金輪際

奥の屋双(おくそう)の鏡も現われき


●LOTUS15号(2009年12月)

  物狂い

神話食う紙魚いっぴき蛇の尾へと

無なしの森の物語(はなし)など夏なつかしき

萩野原さまよう老婆よ翁面

夏萩や殺しそこねた日神我が子

青野走る殺しかけても児は走る

旅立つ日の黒白混濁光の粒よ

窓枠の光の帝国黒き樹々

背に触れたホラ父の骨忙しき冬

枯野原しゃがむ背後の岩鏡

虐待の光の国の聖母踏む

紅ほんのり髪つややかになじる母

アーフラよ愛などあげぬ山あざみ

詩人の名は北の根に眠る詩の明り

雪野原ナロード根っこへひた走る

『シベリアに逝きし46300名を刻む』書物

眼底や波紋となりし落つ涙

添い寝るは汚れ書物と天道虫

死の灰の赤きカンナも色音色

黒泥に飢餓やさしき男よろめく目

自殺などありやなしやと麦畑


2023年6月9日金曜日

救仁郷由美子追悼⑨  筑紫磐井

●LOTUS11号(2008年7月)


「緑星」遥かにI

朝焼けの光の直線発芽せよ

悲しみの萌える山河よ黄泉の樹々

雛共に写真立て置く眠り逝く

笑いつつ転ぶ風迫う梅林

幼児(おさなご)の月光青き花の木々

さくらちる雨滴はげしき泥の川

春霞ニーチエ枕の人類夢

まなざしとまなざしかわす海彼方

同行や愛しき指に(はちす)の実

恣意隠蔽平穏無事や四季の歌

殺傷や朝のお茶漬け終る頃

虐殺逃れ少女の飢餓よ日輪よ

瓦礫に木爆心地上蝉飛来

観作旧へ夜叉変化(へんげ)せり爆撃の村

すがめの君の自画像逆さもず鳴けり

日没の民反乱す新王や

地球自転敵後方に斜め横

裏切りの右肩疼く左翼(びと)

二十歳(はたち)の日暮中也悲しみ救済や

耕衣・浩司花野に笑う足裏かな


●LOTUS12号(2008年11月)

 緑星はるかにⅡ

明日となれ君は見上げる夏の空

無きがまま責なき責あり花いちもんめ

在るがまま責なき責負う寒満月

夢の世の泥に遊ぶやねぎぼうず

龍神の受胎告知か北の麦

泣き歩きはあーるのおがわは陽に遊ぶ

悲し声ぶなのこもれび楽し声

赤長靴雨雨降れ降れ母無き道

満月光赤目の子鬼出で翔けよ

百雷や生み出す力促す力

日と風と歩幅大きく夏大地

ひかりへと螺旋のぼりゆくいのちあり

老い肌の硬き爪立て老松硬し

彼方より明日開く本届きますか

暗闇夜光の粒へと鳴く鴉

しそしょうがとうふのかどの邪気の顔

夕やけや前方(まえ)跳びはねて和のリズム

光の渦へ夢追い追いてよだか星

永劫よ降りて晩夏の岩台地

青光の吸盤にて駆ける幼虫哉

虐殺は血に染められて地図一枚

黒林へ灰色樹林連なりし

日輪の民は逃げ逃げ夏萩原

黄泉の国逝く身の足元燈籠や

鬼子母詣り母となりえぬ産屋より

虫くいの蓮の花籠ささげましよう

れんこんや白骨となり切り落ちる

核の冬微毒毒々地球(テラ)点描

触れたから死の寝台の脚抱く

鷹ひとつ深山の淵より遊び

2023年5月26日金曜日

救仁郷由美子追悼⑧  筑紫磐井

●豈 40号 2005年3月

  無音の河

目次では俳句作品となっているが、実際は詩作品。長文が同時掲載され、安井浩司論ともなっている。


●豈 44号 2007年3月

  ブナの森へ


あかつきの凍てる街路や修羅に会う

こわれゆくなと妻抱えしは銃後の街

夢見ふゆことば・言葉余白消す

鳴る鈴の鈴の音木立暮れはじむ

コーヒーと本と駅舎と桜道

青き海ちるさくら手にこころざし 心

白波と白き砂地の桜花

ひとひとり死んではならぬ死せる日々

満月光幾重幾重と死者の列

山河へと太鼓の太鼓の弔う日

離れよと柿の実ひとつ忘れよと

夜の冬名無しの森の記憶の河

師立ちて生死はコスモ修羅万象

河口は春古びた帽子風に舞う

ひとりふたりさんにんよにん桃の花

はじける種子よいのちへ祈る鳳仙花

日輪の旅も終わるとブナの森


●豈58号 2015年12月

  豈銘鑑10句選

月明りポロンと自刃転がせり

夏みかん食べ頃でした兄は逝き

雨音は透いた傘打ち問いは消ゆ

いらだちのかあさん僕は奇妙かい

妻ひとり救えぬなんぞ野菊原

百年の桃の老木乙女咲き

唐門前修羅の脇ゆくごんぎつね

飛龍とて未完の神ぞ弦の月

降る雪や眠ることなき山毛欅林

男鹿の海両手なるらん白雲よ


過去の作品からの抜粋と考えられる。

「豈」への掲載はこの号をもって終了。

2023年5月12日金曜日

救仁郷由美子追悼⑦  筑紫磐井

34号(2001年11月)


  彩色は無彩色

段畑の北極星に屹立する

君は春うつむくままに風すぎる

異人さん四月に来るわと言いし姉

ててなしの誕生日朝摘みいちご

菜の花はいずこに咲けと赤さ大地

二百日夢も見ずに寝鳴くつぐみ

春からの苦悩つぐんで白桃よ

唯々一人君待つ椅子が回転せり

青を知る雑木林に尾長鳥

一度だけ途切れた夏に遺失物

返えす返えす挨拶長き眺める夜

もしも君と月見なければ十時です

赤茶けし風に吹かれて病む瞳

「G町」の月夜に飛石は夜鳴き鳥

骨董市の玻璃はまたもやまがいもの

風上を訪ねし途中黄色菊

訪ねるは二十年後のその私


35号(2002年10月)


  丘

風吹けりひまわり畑見えますか

気心が樹々にぶるさがる春の午後

春夏秋冬死体に降る雨国土あり

修羅と連れだちあなたとあえる萌木の地

民は民丘は私刑(リンチ)が正義です

丘へたつあなたを呼ぼうシオンの庭

初七日を過ぎて水仙刈り取りき

憑きゆくは苦しき事なり麦秋の地

今ここへおいでよここへ鬼あざみ

板塀のアリラン聞きし少女の首

仏に蓮死者の記憶に眠るイスラム

昼満月戦火団欒選びえぬ家族

ミサイル輝く闇夜の手の震え

白骨の憲兵韓紅(からくれない)を秘めている

どこまでも雲涌く丘や白き村

ちるさくら無の暗黒の脳髄よ


37号(2003年10月)


 首都東京と爆撃地点の眠り

かたすみのかたばみかみきひるさがり

月光やひとさしゆびは孤を描き

馬住む町と鬼住む町のおぼろ月

すべる夜々ねずみの散歩マンホール

九つの児を棄てる母の初がつお

かみさまがとおくむかしをよんでいる

誕生日の日が昇るままぼくすてないで

小さき頭背に寄り添いて眠る秋

告げられぬ名を持ち去りて死後五年

オリエントの春よ無色なイエスの血

悪魔だ剌せ愛のの家族の愛国や

出立の朝誰彼の血痕踏みしめ0

父ちゃんの言う通り落ちる首

四月空犬が赤子の指くわえてる

死んでるわ私は眠る月夜の彼

  『句篇』安井浩司句集讃

天心より汪がれし雨夏の花


38号(2004年2月)


  都市の雨

片隅なのか民暮らす国境の街

山起つ恐れ強がるばかり足裏よ

八つでも恐がらないよ赤満月

十三の少女の足骨花野行く

泣き抱きて泥土の沼の白き蓮

仰ぎ見る空の縁より蛇降りる

火柱の赤き熱きに呼び声が

直線に無言に走歩夕の雨

切り落とされて腕一本海の町

影ながき二つの手と手赤き月

春夜ふけさげすむ君は苦しがり

亡骸の眠る国土は虹の雨

戦場の闇に降り落つ声よ声

差別という事実の陰画焼き付けし

死ぬがため生まれて四年幼髪

赤色の落葉にもぐる捨子犬

死者守り身構える夜よ風を聞く

思い出してごらん青い空の青の色


39号(2004年7月)


  ラピスラズリ色の街

紫陽花へ手を延ばせば手は届く君

南風人知れずまま交信す

  ―歌人市原賤香―

亡夫の影眠り抱きし五月(さつき)の光

  ―大泉史世へー

好きということの離れる遠い鈴の音

紅葉黄葉深山人りせば漆椀

蒼白と姉に紅差す黄泉大路

白き腕宿る狂気の夏景色

青柿に友達じゃないという女(め)

ひとは歌うひとがひとでありしひとでなし

立穴の奪われし眠り人柱

裸身の内耳突き剌す太古の叫び

地底に星アフガニスタンイラクパレスチナ

梅雨晴れや声消えうせて群集哉

こぼれ落つ革命反核反戦日

2023年4月21日金曜日

救仁郷由美子追悼⑥  筑紫磐井

  1998年10月13日攝津幸彦が亡くなる。「豈」28号は攝津幸彦追悼特集号。その次の号から、救仁郷由美子は「豈」に参加する。

 永田耕衣が亡くなり大井ゆみこを廃することとし、救仁郷由美子として作品を書きたいという。


●豈29号(1998.1.20)

   青き船

悲しみが日常越して端境期

まどろみの朝に飛ぶ街地図になく

酒ぴんとひとと当分に狂いがたし

子殺しは母殺しへ向う青き病棟

夕ぐれて茫洋茫洋砂地消ゆ

ひっそりとボケが咲きます道は消ゆ

浄土へと片腕昇るせみしぐれ

母と子と刺し違えて腹にからすうり

眼耳鼻口苦しき日々と共犯す

暴爆にただ聞こえずして皮膚とろけ

白波の泡に溶けゆく白き足

最低ね貴方と私の着地点

晩春や嫌悪の情に流さるる

愛印レースペーパーへ焼菓子を

満月より真っすぐ風が降りてくる

三日月に天の十字か細き雲

まなざしへ硬き背中の彼岸花

涙落つ落椿とも競いし日

空を裂く黒き羽音や鴉群れ

南国へ届け灯ともす石灯篭

六甲よ白光砕き白法被

闇薄きシグナル赤き南風

桃の香にハッピーエンドが燃えつきる

海越えて風生まれ来るルサンチマン

朝焼けの河口漂う青き船


●豈30号(1998.7.20)

  青の街

大いなる誤解の露地裏ぼたん雪

幸せは我の身の内鬼は外

不可思議に余白が積る雪木立

今宵また夢魔よ(やしろ)へ広がれり

無月待ち凍った瞳納めゆく

血族の冷えた歳月曼珠沙華

悲鳴聞く赤子の指は砂遊び

泣きじゃくる児を抱きとめた雪野原

桜満開さげすむ眼球埋めに来る

黒雲に満月吊す赤き丘

緑青の街のポストは血の便り

背後ではそろり淋しき二月の夜

呼び笛は青白き街の爆音か

眠る龍天地翔けぬけ春告げよ

天心に千の傷うけ龍となる

ぼんやりと空に絵地図は深き青

都市は雪無音一刻降り続け

あなたはとなり熱き紅茶に陽は沈む

交差点横向き合っても銀婚歌

東にお日様生きて人生奇妙かな


●豈31号(1999.4.20)

  青き湖

婆は朝文字忘れゆくとも雪月花

千億の時刻(とき)朝もやとなるブナ林

山に月瑠璃紺色を流す(うみ)

絵空事話す君を抱き雪景色

夢に立つ君は南の空の下

雪野原裸足のままに眠りたし

シーツへと沈みゆく月冬の室

通夜待ちて泣きたき事を添寝する

南方へ降りくる風と遊びし日

夕暮を抱きとめました空腕に

さみしさはゆすってあげる春の空

口移す君の言葉はさくらんぼ

南風三ツ編刻ざむ少女居て

血の温み夕立赤く鬼やんま

腐りかけた足切ります貴方笑う日

友の死を懐紙に包み半世紀

友残す薔薇の記憶が友となり

行き違う影の近さか鈴の音か

湧き水や僕から俺へひしやく投げ

口径へ甘えび運こぶ日本海


●豈32号(2000.5.20)

  日常の「非」

  安井浩司『四大にあらず』讃三句

震撼す我の夜は眠りは()の言葉

言の葉は北の天空広がれり

北方より耳にしたのか()の声を

  森山光章『勝鬘空位抄』贈

貴腐なりし棄てさられる地に芽ばえける

願いは奇妙に紡ぎ出す夢コミュミカシオン

瑠璃紺の海に凍死す花消ゆる

天心の記憶と行為にこのあやふやな空

片寄って揺れて真すぐまなざしは

出生の記憶の時間軸消せますか

つながるのつながることなく春の空

我の手に折られし山萩友遠し

空しくも漂よう春は今年です

これからは向うこちらと麦を刈る

さびしくて野分きと交わす叫び声

なにぞ悪格子の向うはオミナエシ

咲かぬ芽も咲く芽も見えぬ庭師の逆立ち

松明に守られし裸身想起せよ

背後では来る者と来ぬ者消した昼

十字架の影黒き角沈丁花

おやすみなさい言葉は闇に返えらぬ日

また明日(あした)思える不可思議雨上がり

日は昇るそこにあるのに視えない陽光()

意味なくも裏切りとする失語せり

マァマパパ元気宛先不明捨子のお盆

送り火や縁を切る里継ぐ里

ややもせば端し葉をちぎり黙しけり

桃節句母と夜叉との二心

母呼びてアァー泣きつつ老母横臥する

陰陽の暗きを(かぶ)く言葉かな

姥捨ての命託す山花芽は固し

道祖神地獄かすめて夕ぐれり

頭上にて病に生きる梅の枝

想う戦争八月の雨は終り往く

空に月捨てるの顔は拾うわ子宮

買物する母から逃がれヒストリー

星夜満月迷路通底散歩道

空の青白雲遠き木々と風

空中ヘグッバイ夏祭紙ふうせん

空昇る風船赤き広場あり

空想癖に切り傷幾つ猫と街

夢の跡傷跡残す僕の英雄(ヒーロー)

プライドを異臭の衣込め宿なき人

問題は逝けるか雪夜の銀狐

まなざしを見届けてゆく雑居孤独

夜も明ける生きながらえた寝台に

天地水生きるが為に眠る子等

山に降る海落つ雪よ白重ね

米を研ぐ白き滴くか婆の甲

婆と(じい)瓜ふたつ成り石の上


●豈33号(2000.10.20)

  日常の「非」

親蛇を逃がれる草丈ゆらり首

かの頭上届かぬ枝先青帽子

青薔薇よ留保の昼を咲きゆけり

さかしまさかさま昼満月は本を読む

昨日(きのう)見た夢昔の昨日(きのう)のコルトレーン

髪を洗いてニーチェへ向えシユポポシユツシユツ

わが夏の悲しみ流す中也の(ことば)

記憶燃え狂った春を待つ私

天地水肩の位置より冬木立`

行きつ戻りつ三日山越え月(あか)

昨日(きのう)今日(きょう)狂気の明日(あす)を記すうさぎ

今年(こぞ)花見地獄へ向わぬ我が意気地

十月の殺す感触ぬめる悪寒

住み家なき冬歩く男よすすけ顔

食卓は地べたに置かれ夕餉かな

一畳の畳を恋いて枯草踏む

品性なきさげすむ目の窪み冬

神はただ万物を愛せしと虐殺の街

隣村の板壁の外青き朝

母抱く児の地獄極楽蓮の花

泥に寝る「あたしおぼえてあたしみて」

孤独は冷たき此処このところ水死体

神話史記穢れし百年『死霊』生む

存在と無卵子精子よ春の波

   ―大橋くるみ街に立つー

ドタパタド天使降りくる夢千夜

やぁだ母さん彼岸のむこう微笑む()

2023年4月7日金曜日

救仁郷由美子追悼⑤  筑紫磐井

【未定掲載句】全冊

●65号(1995年5月25日)

都市/大井ゆみこ

抱き止めて迷路にはホラはぐれ猫

夕ぐれの壁に背合わすハンプティーダンプティ

亡き人と共寝た薔薇は冬の季語

逝きて空へ吊す薔薇は乾ききる

れんげ田の記憶貼りつけ閉じる窓

感触はネオンライトに花いちもんめ

白雲に天馬を描く尻軽っ娘

寒き肛門となめらかな皮膚語る男(ひと)

暴爆の天心街ははにかめり

TKIOの草に群衆がつまずく日


●66号(1995年5月29日)

差異/大井ゆみこ                           

突然です私の顔がない鏡             

雨のこだわり知らぬ反転逆転か          

生と死と虹はその色分けにけり           

むだ死にへ彼岸花幾重も群生し          

無数に死光る今宵の街景色        

地層にも虐殺の骨重なると          

空々と死の灰真実信じます          

空白な顔の白波夕月夜

風吹かれレモンポトスは痛かりし          

白湯を手に差別はいつも逆立ちさ           

極楽へ再生サ行連続せよ            

地図芽ぶく緑の夢見は五億年         

真昼また言葉の影を売る男          

ラジオでは晩は嵐と愛捜す          

逃げなんて立ち止まろうか金木犀           

かきの木の重ね月日はあったかお手々           

最愛の記録は原っぱ赤まんま       

野菊の花の古き陰影真空律        

相槌に愛の破片の寄せ木あり         

恋ひとは夢びとなれば夏祭        


●68号(※編集作業中に見つからなかったので省かせていただく。)


●69号(1996年10月27日)

影/大井ゆみこ

黒繻子のわたし飛べない羽抜け鳥

満月が昇らず緋色地平線

かあごめかごめ腕の内側吹きぬける

このごろは明けぬ夜明の春さがし

震災の山河抱くは日暮かな

積もる雪女人仏の裸足欠け

ひとひとひと正しい道を皆垂線

花芽あり雨は真すぐ降りてくる

影向こう白きいちごの香り立つ

木々と木々愛のささやき厭きて秋

2023年2月3日金曜日

救仁郷由美子追悼④  筑紫磐井

   大井ゆみこの作品は手元にある「琴座」バックナンバーでも数が少ない。欠詠が多く、「琴座」全体を再確認する必要がありそうだが、今後紹介する「未定」「豈」でも多くはないし、「俳句新空間」第17号の拙文「資料・救仁郷里由美子」に示したように、評論の人であったようである。その中で493号は特別作品として対策を発表している。


7年5・6月号(493号)

 地球儀

           大井ゆみこ

いも虫が垣根と唄を通り越す

晩秋の夜ふけふざけるすすきたち

母ヘビノ不孝トグロ石トナル

夜明持つゼンマイ時計に巾なる耳

台所出で月夜のアザミさがしゆく

うそっぽさ故少女のまま囚われくる

今夜にも熱帯魚となる妻がいて

風だって「感じ取るものよ」神無月

群れて明日愛を過剰に発行せり

右の手を人魚の洵に沈めた日

幸せのブヨブヨ気分まるめる昼

薄青きティカップに注ぐなごみの香

月夜には平たく丸く彼がいる

静謐が私消しそう春の雨

生まれいで失いし春はじまりに

「あたしねえ」赤毛の女自我紡ぐ

ひとりただ菜の花の黄の無言へと

裏山の洞穴にて吐く言葉の音

地球儀からさみしさ滲むクリスマス

記憶する道跡形なく野草花

病める肩隣りの肩となごむ春日

さみしさに賽の河原の石持てり

生と死と近づきすぎた老桜

微笑んで戦う為に生まれ来ず

花畑つぼみに時刻飾りける

春誘い伶ぶきはじめた老枯れよ

忘れたし約束燃やす冬花火

なたね梅雨今日の片悩は椀の中

時計針春のこよみを巻きゆきて

散る桜墨すりこむ夜白かりし

固きエゴ山海深く芽ぶかりし

真夜中に記憶を吊す物干竿

地鳴り呼び虚空空洞連音す


【注】本作は特別作品であり、新進女性5人と句集(他に稲葉早恵子、皆川燈、花森こま、藤原千恵)で、40句を応募し、金子晋と五十嵐進が選び、短評を下している。


7年11・12月号(496号

               大 井 ゆみこ                       

先触れの台風崩す豆腐かな   

南島の流木行き着き戸口あり         一

生死今草葉の下よだんご虫      

風雨にも家なき人の靴の穴      

山影も秋へと沈む日ぐれ哉   


【注】「琴座」ではこの作品が最後のようである。ちなみに「琴座」は平成9年1・2月号(通巻503号)で終刊している。


2023年1月20日金曜日

救仁郷由美子追悼③  筑紫磐井

  「琴座」同人となっても救仁郷由美子(大井ゆみこ)は毎号作品を発表しているわけではない。追悼作品集ではあるが、とびとびの作品しか掲載していないのはこのような理由である。また、私の手元にも「琴座」のバックナンバーがすべてあるわけではないので益々不完全ではある。しかし、いずれ救仁郷由美子作品集を豈でまとめたいと考えているので、それまでの努力として「俳句新空間」を活用したいと考えているのである。ご容赦いただきたい。


●「琴座」6年1・2月 486号

             大 井 ゆみこ

夏みかん食べ頃でした兄は逝き

過去は過去にコーヒー飲む老木の椅子

からまりし銀の指輪にからすうり

青ざめた空か気候となった街

うそばっかりふった七味の色模様


●「琴座」6年3・4月 487号

             大 井 ゆみこ

正面を見つめなおして寒桜

天地爆風水草振れて個体は死

四肢泥土零れては涙朝霧となる

すでに青空重金属に犯されし

日の丸や上目使いの晴れ晴れ日


●「琴座」6年5・6月 488号

            大 井 ゆみこ

ほら貝と同じくらいに陽ざし浴び

愛しき手ざわり冥府の五月かな

わたくしにはよろしき朝と尾長鳴く

寝台と物語りにくるまれて休日

薔薇聖水全身にそうひとり言


●「琴座」6年7・8月 489号

            大 井 ゆみこ

垂直に流るる現世死の水平線

現世の縦線死の横線と交わる日

死して天心を真空せし身体

無辺の闇夜の淵をくぐる鳥

晦日来る人生ひとつひねりましよう


●「琴座」7年3・4月 492号

            大 井 ゆみこ

一本の白髪と我が陽だまりに

冬に座すひざの硬さよ青畳

嗚きガラス六差路ぐるりと日を仰ぐ

あやとりにかくれたのです幸不幸

チカチカとあの銀紙の星の過去


2022年12月23日金曜日

救仁郷由美子の回想②  筑紫磐井

  バックナンバー全てがある訳ではないので、手元にある「琴座」から選ばせていただく。追って追記したい。

●琴座 平成元年11・12月(454号)

這賊集

 大井 ゆみこ

薔薇園ノ少女が死ンダ夏が来ル

積木積ム室ノ白壁日ヲ止メル

空虚とロックスカートに赤い髪

踊らない十五歳彼岸ハイヒール

死にゆく口火の見やぐらは深く焼ゆ


琴座集

じゃんけんぽん曇った空に友他界 東京都 大井 ゆみこ

置きざりの生きてる不思議動かせぬ

闇惑う見ること聞くことかかえしも

星月夜マシュマロ含んだ秋を待つ

風さわぎ路面電車の白昼夢


●琴座 平成2年1月(455号)

這賊集

大井 ゆみこ

十代の夢はっながらぬ十字路赤信号

少年の皮膚に被さる母の夢

春風にへその緒切って未央あちら

赤まんま静かに思い染めあげし

鰯雲ただ泣きじゃくるつたなき日


琴座集

往路あり降り積む疲れ夜露あり 東京都 大井ゆみこ

ヤリ切レヌフルサトハナシステーション

往生に水底行きて挨拶す

月光が呼吸の谷問に挾まるる


●琴座 平成4年7・8月(477号)

這賊集

大井 ゆみこ

虚空にて面影たどる五月哉

洞はかの五月に死した男持つ

四ツ辻や解決不能回転す

朝な夕な引きさかれては燃ゆ山河

山肌に国是流せよ立つ緑


●琴座 平成5年7・8月(483号)

這賊集

大井 ゆみこ

月下の船天地水木櫓に交わす

川上に死の灰拒んだ絵看板

六月の闇に迷走笑い草

窓枠に山河見ばえし死化粧

白光や泥はね路地踏む祭かな


2022年12月9日金曜日

救仁郷由美子追悼①  筑紫磐井

  8月10日に亡くなった救仁郷由美子(大井ゆみこ)氏は豈同人、俳句新空間メンバーでもあるが、その前後にいくつかの俳句雑誌に関係していた。


「琴座」~503号(終刊号1997.1)まで大井ゆみ子名で在籍

「未定」64(1994.9)~70号(1996.11)大井由美子名で参加

「豈」29号(1998.1)~59号(2016.12)に救仁郷由美子名で同人参加

「LOTUS」11号(2008.7)~39号(2018.8)同人、40号(2018.10)以降会友

「俳句新空間」2020.5~散発参加


 救仁郷由美子の評論活動――特に安井浩司論については「俳句新空間」17号にその目次を掲げておいたが、ここではそれ以外の活動について紹介しておこう。

 「琴座」では永田耕衣の選をする「琴座集」に投稿し、平成元年8月に巻頭を得て、「琴座の諸作」で耕衣の評(琴座の諸作)を受けた。耕衣の言う「北京事件」は天安門事件である。この直後、琴座同人となっている。

 この時期以前の「琴座」バックナンバーが手元にそろっていないので、巻頭以前のいくつかの例を掲げておく。


●琴座 平成元年8月(451号)


琴座集 巻頭

雨音や透いた傘打ち問いも消ゆ 東京都 大井ゆみこ

北京夏戦車に向かう歩幅幾つ

川の岸耳鳴り数える越境者

少年の柔かき耳吐夢吐夢止

満月に打つ大太鼓赤き耳


琴座の諸作

ネオ新風と言えるかどうか

               永田耕衣


無季も元より快認して、作り手の数少いワガ琴座人のなかに、ネオといえるかどうか、ヤヤ古びたカビの匂いもする野老耕衣のドタマ即髄脳、その或る細胞を並び変えさせて呉れるような句々が、散発的に現成してきた気配を、野老は長生し恵まれとして妙に快く思わしめられつつある即今だ。オク歯にモノがひっかかって除れぬような狂気に似たウレシイ物のいいかただが、正直な実感の震動だ。この実感の見えかくれする魔性―というのはチト逸りすぎだがー琴座集から先手を打つ。何といったって既成の完熟した、悪口を叩けばキレイゴト染みた一切手馴れた作法と感賞圏を、何ほどかドキンと覚醒させてくれる〈奇襲創造〉のダイゴ味を欣求しているのだ。そんな因子を持続する句々を、実はタレもが欣求している筈だ。積極的なネオ境環を拓いた、少くとも創造の場を第一義とするハナシに、いつもアタマを突っこんでいないと、チツともおもしろくない。謙遜の美徳よりも、作者の個々が〈新〉を拓いて見せようとするその迫力をば擬態でも構わぬ、嗅ぎ出す努力に〈出会の絶景〉を更新して行きたいのだ。

    (中略)

ゆみこサンの投稿をワザと発表月次をテレコにした。何れも北京事件にタッチした作品かと思われる主流を直感したが、掲上の一句を早くココで諸君にお目にかけたくて先稿の如く採沢裁量した。無季だが妙韻がネオ〈禅問答〉の如く切りこんでくるのだ。透いた傘を雨が打つ、ソレは傘の主に何事かの大擬団の〈間〉であったが〈答〉も聞かずに〈問いも消ゆ〉と断じた。〈雨粒〉の自問自答である。



●琴座 平成元年6月(449号)


愛語抄―田荷軒あて―

○易易と死なぬぞと囀る勿れ

 生は空死は無ウならぬ牡丹哉

 桃柳四大不尽の淋しさよ

 もう淋し女人も道も藻の花も

 逝く春や拾うに堪えぬ地や空


「田荷軒泥ん」何故か恐る恐る読み始めました。「易易と死なぬぞと囀る勿れ」の句より涙が止まらなく、あとは涙の中で読み終えました。田荷軒翁九十歳祝。    かしこ

              大井ゆみこ

琴座集

苦悩とて糞なればよし春の月   東京市 大井ゆみこ

軽薄なお茶会転がる卵たち

口経に空白空洞くもの糸

朝露に悲しきことが転るよ


●琴座 平成元年7月(450号)


琴座集

春うとく蕾は血色根元骨    東京都 大井ゆみこ

ひとひとり地図にない街遊歩道

隊列は彫塑なりえず花ふぶき


2020年12月25日金曜日

『永劫の縄梯子』出発点としての零(3) 俳句の無限連続 救仁郷由美子

  浩浩と米代の川ひとり秋  『宇宙開』

 日本海に河口を開く米代川の地にて安井浩司は、昭和十一(一九三六)年二月二十九日に誕生する。なお、昭和十一年は閏年にあたる。誕生日は毎年誰にも来るものと思うが、安井はグレゴリオ暦の方法によって四年に一度の誕生日を迎える。まさに「異彩の俳人」の誕生日である。「ひとり秋」は孤独の秋と読めるが秋をひとり占めしているとも読む。大きくうねる河口に立ち、澄んだ空と海が眼前にある醐味は格別である。安井浩司ならば万有一如というであろう。
 
  句をなす友よ、いずれにせよその荒野の軌なき道を歩む他無いのである。
       『安井浩司俳句評林全集』

 
 朝鮮の友にささげる鶴の吸物  『霊果』
   訣別の友はもしや神(かむ)今食(いまけ)   『氾人』
 友よまず小川の魚を隠語とし 『汝と我』
 春日上り海部の友は登校せず 『句篇』
 枯野遥か縄を掘ればはや友に  『山毛欅林と創造』
 清友よ「媛」と銘せる酒酌まん  『空なる芭蕉』
 交響詩「巨蛇」を揮う若き友  『宇宙開』


 〈友になりておなじ湊を出(いで)舟(ふね)のゆくえも知らず漕ぎ別れぬる〉、この歌は西行の歌であるが、この歌がもたらす存在のままの孤独のかたりかけが「友」の各句にも流れている。

 西行心触れゆくのだ花薄荷  『氾人』
 
 存在が感応する魂の寄り添いは孤独の相互交感を生み出し「朝鮮の友」「清友よ」の句などには索(もと)め合う友との時空を超えた交流が流れ入る。安井浩司の「友」とは仲間内の意ではない。志を同じくするもの、同行者、道づれ〈雪袴ツアラストラ参ろうか 『汝と我』〉と同位なのである。そう、三人称的なかたりかけから、個我を超え、私達が一般的に抱く友の印象は消える。友の意味は〈直心の交(まじわり)〉であり、心と心の直交は個我を超えいる。故に、一句における〈友〉は読者自身でもあるのだ。

 見落せばおきなぐさも雑草に 『乾坤』
 去・今・来せきれいのせわしさよ『風餐』
 出雲大社巨蛇波のよぎるのみ 『山毛欅と創造』


 掲句三句を正統な写生句といえばひとはいぶかしがるだろうか。なぜならば、豊口陽子の「安井浩司私論」に〈『汝と我』所収の「汝も我みえず大鋸(おが)を押し合うや」の句を、あれは純然たる写生句だと作者はいたずらっぽく笑うのである〉とある。豊口陽子は「拈華微笑(ねんげみしょう)」、安井浩司との俳句的関係性へと暗黙知を働かせる俳人である。――であるならば〈冬青空泛かぶ総序の鷹ひとつ『四大にあらず』〉もまた写生句とみる。冬の晴れた日、空を見やれば、透明で実体がありそうなのだが無い、その無の青の深さに身ぶるいせずにはいられない。それは「空(くう)」そのものである。冬の空に安井俳句とともに自己を「ひとつ」泛べてみてはどうだろうか。俳句表現が表わす言語の豊かさ、自然と言語の二元性を超えて我が身心に不二の感覚が生じるはずだ。安井俳句は観念的であり、形而上学的だと言われる。それは安井浩司の東洋的哲学心と詩心の高さゆえなのだが、人間の側の視点である形而上学を離れて、自己は自己であり、他己は他己であり、なおも自他を超えて言語があることを教える安井俳句。それゆえに俳句を学びつくしたいと思うのである。

 夏垣に垂れる系図も蛇のまま  『風餐』
 醜(しこ)の翁も芋饗祭りへ這い行くぞ 『四大にあらず』 
 わが庭の朝鮮ぎぼうしいつ日より 『霊果』
 韓人きて音を入れれば竹震う   〃


 安井の動詞使いは美しく「垂れる」「這う」などの語が、現象を表し、自然の機能の動きを表し時間を表出する。つまり、このような動詞を働かせることは、エドマンド・リーチのいう「不可視的現実を表現した可視的現象」を俳句に起こすということになろう。また「わが庭」「韓人きて」の句は我と汝の対句であり、対句であることでかたりが生じ、「我が庭」「入れれば」から主体性が消え、それは汎個性的なものとなり、古代より現代までの「地下水脈による結びつきの記憶」としての神話性「古代実存」が立ち表れる。

 花曇る眼球を世へ押し出せど 『汝と我』

 道元『正法眼蔵』に「自己の皮肉(ひにく)骨髄(こつづい)を脱落(とつらく)するとき桃(とう)華(か)眼睛(がんぜい)づから突(とっ)出来(しゅつらい)相(そう)見(けん)せらる」とある。自己そのものを究めれば、身心脱落する。言わば桃の花が目玉の中から突出してきてはじめて桃華に出合うことが出来ることの意といわれる。「眼睛づから突出来相見せらる」と「眼球を世に押し出せど」この合一を発見したとき、安井浩司の東洋的哲学心に触れ得た。互いに異なる物質が融け合い一体となる、無碍自在、花の自性は言語の届かないところにある。いわば不立文字。だが、「押し出せど」である。

 マリア図や炎天の雪ふいに来し『空なる芭蕉』
 天国を問えば叱るや永平寺  『宇宙開』

やはり永田耕衣の言う通り、俳人は悟っても悟り切れない存在なのである。

 柘榴種散って四千の蟲となれ 『汝と我』

 種子が因、花や実が果、土、水、太陽等々の縁(条件)。これらすべてが関わりあって生命がある。この考え方が「縁起」であり、これは仏教的哲学思想といわれる。安井の句は種が散った地に花が咲き実がなるとだけいうのではない。四千の種散り花咲き、花咲けば当然蟲も来る。この縁起のすごさである。なおも田村隆一の詩「四千の日と夜」も関わって来る。ひとつの柘榴の実は個としての一、「四千」は種子と蟲の個々の因、それに土、水、太陽があり、一つの構成要素が全体である。西洋的二元論である全体と全体以外のトポス、このような考えには到りつけない。重重無尽、あらゆる事物、事象は互いに無限の関係性をもって融合し一となる。「東アジアの詩人」安井浩司『句篇』全六巻の出立の句である。
 そして、句篇最終巻『宇宙開』の句集名は後記に「俳人・志賀康の著書『山羊の虹』において、今日的状況の中で改めて抄われたものである」と記される。俳句的関係性が安井俳句の本質にある。この本質が安井俳句のかたりを開く。このかたりが読み手の自由な受け取りと応答を可能とする。それは平等な水平的関係となるのである。その上で、俳句対俳句のとらえ返しと反復が俳句の無限連続なりとなる。これが安井浩司の俳句なのである。

 鷹遊ぶ夕べの空を彩(だ)みかえす 『山毛欅林と創造』 

2020年7月10日金曜日

【新連載】『永劫の縄梯子』出発点としての零(2) 救仁郷由美子

 「有耶無耶の関ふりむけば汝と我」の句は一般的な俳句の五音、七音、五音による音数律とは少し異なる。
 七音、五音、五音の十七音からなる。
 この「有耶無耶の関」の句を「汝と我」の出合う場の仮称であると仮定するが、歴史的には山形・秋田の県境、象潟の南にあった古関の名であり、古歌に読み込まれた名前でもある。
 芭蕉『おくのほそ道』での「むやむやの関路」を引用すれば、
 此寺の方丈に座して、簾を捲ば、風景一服の中に盡て、南に鳥海天をささえ、其陰うつりて辻にあり。西はむやむやの関路をかぎり、東に堤を築て秋田にかよふ道遥かに、海北にかまえて浪打ち入る所を汐ごしと云。       芭蕉『おくのほそ道』
「かよう道遥か」な秋田の地に、二〇二〇年の現在、安井は居し、三百年程前に芭蕉は象潟に座した。菅江真澄の『遊覧記Ⅰ』を開けば、芭蕉翁の塚石が「ねむの木のかたわらに」ある。
 二十七日、風が西から吹くので、天気もよくなろうと思い出立した。ひとつ越えていくと川袋という浜をへて関村にはいった。この関村が昔うやむやの関の跡なのであろう。(略)冬枯れたねむの木のかたわら「象かたの雨や西施がねぶの花」と記してあるのは、世間に多い芭蕉翁の塚石である。
真澄から芭蕉、安井から真澄そして芭蕉へ。先達からの言語の水脈が安井の俳句から想い起こされる。

象潟をいま過ぎ越しの夏の花              『汝と我』

 この想い起こしから、「定型の中で」の文中で語る安井の「さまざまな困難性に」思い到る。
 松尾芭蕉は「汝が俳句行為について考える。中世をさかのぼり、遠く荘子逍遥篇他に想いめぐらしながら、遂に、“風狂”として在ることの存在と当為が、俳句行為の決定的意味を担うはずだと考える」――汝が俳句行為“風狂”とは、芭蕉にとって狂い在ることだといい、そして「日常という地獄性の中に狂い在ることだけが」、芭蕉の「存在論の決定的意味というものではなかったか」と問う。
 「存在論の決定的意味」が「狂い在ることだけ」であることは、遠く芭蕉ひとりのことではない。趣味やコミュニティを求める生活を俳句生活と捉えての俳句から、詩・文学・芸術だと俳句を捉えてしまえば、俳句は決定的な存在論となる。存在論に当為論(いかに生くべきか)が伴わなければ、地獄性そのものが、ひとの縁となり、そして、その現象もまた形式のひとつの姿となる。この姿もまた、俳句の文体である。

 個我が「俳句形式を〈文体〉として捉えるとき」「文体とは、それ自身存在をめざすことなく、かえって“零”へ近づくだけであり」、俳句は「文体自身のままに果てるだろう」ならば、「《お前はどうするのか》に今こそ繋がってゆく他ない」。
 そして、「ザインとしての“風狂”を否定し、ゾルレンとしての“不可能性”を選ぼうと思い募る」。この思いが、さまざまな困難性へと向かう、安井の当為論となる。
 ところで、「安井浩司『俳句と書』展の図録(金魚屋プレス日本版)に、俳人安井浩司と生活・職業人・安井浩司についての鶴山裕司のインタビューがある。安井のインタビューでの発言は次のようである。
 (略)だがしかし、汝は我ならずと叫びつつも、汝は我にほかならなのではないか、汝から我は逃げられないのではないか、この矛盾律をどうすればよろしいのか。そこに神さえ介入できない、「汝と我」の宿命にして、なんとも不可解な、不条理の関係があるのです。(略)結語をいわせていただければ、安井浩司のカオスとしての俳句の原点、ささやか書道に挑む基点も、みなここにあるのではないか、と思うことがあります。
「有耶無耶の関」はこの「矛盾律」の場でもあろう。
 安井は存在論と言い、当為論と言う。
 たとえ、今、私達が「汝と我」を問わず、自己の道を求めているとしても、あきらめが存在論や当為論を遠ざけているとしても、安井の俳句を言(こと)解き、事解く思考が運ぶままにあるとき――。
 はっきりしない、あやふやな「有耶無耶」の意味を連なり連なりしてゆくと、渾沌となり、渾沌は虚無をも曖昧にし、したがって、言語による分節が不可能となる。そこは意識と無意識の境であろうから、ならばその境のその場所、〈トポス〉を存在のゼロ・ポイントと考えよう。だが、確認しておかなければならないのは、存在のゼロ・ポイントの場〈トポス〉はあやふやな処であり、絶対零度ではないということである。そして、無意識を言語化出来ない領域の比喩だとするエクリチュールのゼロ値すらも、安井の句ではあやふやなのである。
 この存在のゼロ・ポイントの場〈トポス〉を〈安井浩司〉の俳句の原点とし、ここを俳句の出発点と仮定する。
 「存在をめざすことなく」とは、いかに生きるべきかを問わず、俳人としての何がしかを認め合う俳句生活。そこに背を向け、自らの俳句、何故俳句なのかを問う俳句行為。

 ところで、攝津幸彦は、『汝と我』の句集名から思い出すように、マルティン・ブーバーの論作を読み返したという。ブーバーの『我と汝』は、「世界は人間のとる二つの態度によって二つとなる」に始まる西洋的二元論である。『汝と我』には、二元論を気遣いつつも東洋的思想の地脈へと手まねかれた感がある。零度としての主体(自己は変わることなく)から視る(作者の視点)俳句形式の思想。この思想を突き切り、仮設としての零地点を自己の俳句の出立地と定めた。安井の俳句はそのような俳句なのだと思えてくる。

 俳句の読みに思想が必要かと問われたなら、必要であり、必要ではないと言えるだろう。
 しかし、やはり、安井の俳句には、思想としての当為論がある。それならば、「有耶無耶の関」の句は、表層と深層の意識と存在の自己矛盾的関係で結ばれた場〈トポス〉に、俳句の原点を仮説したと改めて想う。
 このような俳句の原点から出立した安井の句は、経験の言語で表現されながら、深層意識的な言語で表現され、「私的絶対化の道(当為論)」の成立によってあるという。
自己の深層意識における光(救済)と深い闇(狂気)でもある汝と我。現実が充分に地獄性に満ちているにしても地獄性を負い求めるのは自己の内なる汝と我である。当為論とは、己の深層意識へ、表層意識へ、どのように生き抜くべきかという己自身の問いである。そして、この思考は言語の内にあり、問うて生きる他ないが為の思考である。詩は思考であり、言語である。この言語は個我と個我を繋いでゆぐ。俳句に生きるのではなく、俳句を生きる俳句観があることを安井の句によってはじめて知るのである。
 現象的な存在世界そのものの窮極的起点がコトバの意味分節にある。(『意識の形而上学』井筒俊彦)
井筒俊彦の広大な東洋思想と俳句が結び合う。だが、俳論として言語化するのは、不可能に近い。それでも、「窮極的起点がコトバの意味分節にある」ことが「有耶無耶の関」における「汝と我」の俳句の原点であり、ここに「詩が要求された」と安井は直感したのではないかと思える。
 只今「詩が要求されたということは意味の新しい次元が要求されたことに外ならない」(「現代の英文学」)と深瀬基寛はいう。この意味すらも「仮りの名(空)」仮象であるという安井の俳句は、当為論をもって、零地点「有耶無耶の関」から、「句篇全六巻」俳句の旅へと出立した。

2020年5月29日金曜日

【新連載】『永劫の縄梯子』出発点としての零(1)  救仁郷由美子


「俳句新空間」第12号で、救仁郷由美子氏に『永劫の縄梯子』「風の言語――俳句のリアリズム――」を執筆していただいたが、「俳句新空間」では半年に1回の刊行なので連載ものとして書くならばBLOGでの執筆もお願いしたいと依頼した。今回が実質その第2回である。
実はすでに「豈」でも『永劫の縄梯子』「『四大にあらず』とともに」を長らく連載し、「LOTUS」でも安井浩司論を執筆した。今回場を改めて、ライフワークともいえる安井浩司論が再開されるのは喜ばしい。(筑紫磐井)
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BLOG「俳句新空間」②(「俳句新空間」―風の言語―が➀で通号②)

    有耶無耶の関ふりむけば汝と我              (『汝と我』)

 掲句においては、句中での、「ふりむけば」が一瞬の場面転換を起こし、この場面転換が可能性を開いていく。それは一語で意味を完結させる無音の動作を助詞「ば」が仮定へと繋げていくからだ。この動作の語から俳句形式の特質(詩の特質)である、ことばの省略による無(空白)の空間から、無限にことばを呼び起こすことができる。
 そうなれば、「有耶無耶の関」に立つイメージの場での、無の空間から、「お前」と呼びかける同格の場を出現させることも可能なのだ。
 何故に。それは、「汝と我」の問い問われる場が、「なぜ俳句なのか」と問う場処であり、その問う場処を「有耶無耶の関」と仮称したと思えるからだ。

 一体、お前はどうする(・・)の(・)か(・)。《お前》―《私》、極としての「私」しか答えざるをえないことを前提とした問いだ。「私」が問うことと答えることを所有する、この原初としての(あるいは基本的(・・・)な)問いをふるい立たせることが、求められているように思える。
(『海辺のアポリア』「定型の中で」)


 「俳句定型とは何んであろう」と、書き出されて始まる「定型の中で」、「一体、お前はどうするのか」と、俳句実作者として、〈俳人安井浩司〉は自問する。
 私自身の「問うことと答えること」の俳句の極の場で、問い問われる自己の全的存在が、ここ掲句の「汝と我」に在る。俳句と対の私ではなく、俳句=私の自意識の一瞬の転換、その瞬時に見えた自己の奥底で問い問い合う「汝と我」。しかし、問うているのは、私自身なのか。あるいは俳句自身なのか。問うてみて、見えてくる「汝と我」。あいまいで確かなものは何もない。立つ地は零地点である。ここを出発点として、安井は、さらに「〈定型の中〉にあって、《お前はどうするのか》に今こそ繋がってゆく外ない」という。
 だが、「俳句形式の、さまざまな困難性」に向うはげしい言述は、〈安井浩司〉の詩の感性から述べられたものなのだ。それ故に、困難性を問うことそのものに疑問が投げかけられることにもなろう。だが、「お前はどうするのか」と問われる言葉を受け止め、決意の俳句行為をなしている俳人、詩人が現代にもいる。
 それでも、「俳句形式の、さまざまな困難性」の中で、日本語の詩としての「俳句定型詩」は、安井の個的問題なのではないかと考えてしまう。安井はこの「困難性」を「不可能性(・・・・)の中をつらぬく恐るべき行為」(『海辺のアポリア』四六頁)だという。
 人間の理想としてなすべきこと、なすべきことを筋道立てて述べる当為論。述べた理想を自己実践していくことの困難性。困難性の果てはなく、しかも困難性を乗り越えてゆく俳句。
 その当為論による「俳句定型詩」が、「句篇・全六巻」に、想像し得た俳句定型詩、望んだ定型詩となって表わされている。
 その後に刊行された句集『烏律律』も俳句の定型詩として在る。だが、真の自由を得た(真の詩であることの)未見の詩が句中の中に在ることには、ほとんどの読者が気づかぬままにいる。
 ここで、いきなりの直観的断定をしてしまうが、仮称もまた実存からの発語であると確認しつつ、先へ少しずつ向かうことにしたい。          (以後、次回)