ラベル 仲寒蟬 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 仲寒蟬 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2026年1月30日金曜日

【連載】現代評論研究:第22回総論・「遷子を通して戦後俳句史を読む」座談会 仲寒蟬編

 (2012年01月06日)

9.遷子が当時の俳壇から受けた影響、逆に遷子が及ぼした影響について

 筑紫は特に開業医俳句について誰も遷子の先人となる人はおらず〈遷子は自らの良心に基づいて開業医俳句を開拓した〉と述べる。一方で〈遷子の句業を引き継いだ人もいなかったのではないか。35年後の今、わずかに5人の作家たちだけが自らの良心に基づいて遷子を発見したのかもしれない〉と言う。


 原、中西は無回答。


 深谷は晩年の角川源義とのやり取りからも分るように〈どちらかと言えば、自己に対する俳壇での評価など気にも留めず、俳壇とは距離を置いていた〉と述べる。逆に〈俳壇への影響もあまり大きなものとは言えず、今日まで余り鑑みられることがなかった〉と言う。


 仲は影響を受けた作家として水原秋桜子と石田波郷を挙げる。波郷については年下ながら尊敬の対象だったようだが俳句の上での影響は強くないと言いつつ〈境涯俳句を詠むという行き方は波郷から学んだのかもしれない〉と述べる。また〈『惜命』と遷子の闘病俳句との関係については今後の比較研究が必要だ〉と考える。

 飯田龍太について〈遷子に対する評価が意外に低いのには驚いた、同じように中央俳壇を遠く離れて自然の中の暮らしを詠む者同士もっと共感するところがあってもよいのではないかと思った、遷子の方は龍太に親しみを感じていた〉とコメントする。

 最後に遷子の俳句は同時代の人々に評価されなかったと締め括る。


9のまとめ

 回答者に共通していたのは遷子の前に遷子なく、遷子の後に遷子なしということ。理解者と言う意味でも同時代の、馬酔木の人達にすらあまり理解されていなかった。筑紫の言うように当時見過ごしてきたものが現代だからこそ見えてくるようになったのかもしれない。


(2012年01月13日)

10.あなた自身は遷子から何を学んだか?

 筑紫は次の2点を挙げる。

①戦後俳句史をどのように構築したら良いのかということ。既存の戦後俳句史に対する新しい戦後俳句史観、すなわち「社会的意識俳句」時代のあとに伝統俳句の時代が新生したという流れ。――ここで詳細を述べるのは適当ではないが、はしょっていえば〈角川源義などの前衛俳句・現代俳句協会と対立した政治的な「伝統派」の主張者に対し、この時期そうした政治的な動きから疎外されていた草間時彦・能村登四郎・飯田龍太などが実践していった伝統俳句の新しい運動(「新・伝統俳句」といえようか)〉が起こったと考えられるが、それは〈「社会的意識俳句」のそれを精神的・内面的に深化させたものであったといえるかも知れない〉と言う。

②我々が死ぬときは残るものは何か。視覚も薄れ、論理さえおぼつかなくなっても意味など失った「ことば」だけが残る。〈だから俳人は死ぬ最後まで言葉にこだわる、亡くなる人で最後まで活動できるのは俳人ばかりだ〉と述べ子規と遷子の最期に触れる。

 さらに〈こう言っておきながらも不思議なのは、風景俳句、生活詠、行軍俳句、開業医俳句、そして療養俳句を離れて遷子の作品は不思議な魅力をたたえている〉と述べる。

例として


雛の眼のいづこを見つつ流さるる


を挙げる。ユニークな画家である智内兄助(ちないきょうすけ)氏はこの句に触発され、作品「雛の眼のいづこをみつつ流さるる」を発表した(少し仮名遣いが違うが)。

 そこに描かれたおどろおどろしい少女の姿は、遷子の心の深淵をのぞきこむような不気味さをたたえている。さらにこの絵が坂東眞砂子のホラーノベルの傑作『死国』(四国高知のある村で起こる死者の怨念とよみがえりの物語)の表紙絵となっているのはさらに驚きだ。端正な遷子の像からは思い及ばない結末である。


 原は〈いまだに捉えきれずに〉いると言う。


 中西は〈死の直前まで俳句を続ける精神力〉、〈自己の生き方の思想的部分を扱っていること、特に無宗教の身の処し方を描いているところ〉に感心し、真似はできないと述べる。


 深谷は遷子研究を始めて〈自分の想いを作品にしたいという気持ちが強くなった〉ことから〈自分の俳句の作り方が変わった〉と述べる。


 仲は遷子の冷徹な目が〈科学者と文学者という一見正反対の立場を結び付け〉、焦点がぶれることのない一貫性を以て医業と俳句の両方に接したと言う。その〈真摯に、ほとんど求道と言ってよいストイックさで対象に向かう姿勢は羨ましい程〉と述べる。〈学んだもの、自分も身につけたいものとしてこの「冷徹な目」を挙げたい〉と言う。


10のまとめ

 筑紫は戦後俳句史の構築に関する示唆、俳人として死んだ後に何を残すかということを学んだと言い作者の思いもよらぬ所で後世の人間がその作品からインスピレーションを得るという幸福もあると画家智内兄助の事例を紹介する。


 原は遷子をまだ捉えきれない存在と感じている。


 中西は俳句を死に至るまで続ける精神力、無宗教の身の処し方に注目する。


 深谷は作者の思いを俳句に表現するという作句態度に共感する。


 仲は医療にも俳句にも同じ「冷徹な目」を持って臨んだ生き方を学びたいと述べる。


おわりに

 所属する俳句グループも住居や職場などの環境も全く異なる5人が遷子という一俳人を研究し、その作品と生き様に感動し、『相馬遷子―佐久の星』が生まれた。今回その5人が再び集い、「遷子を通して戦後俳句史を読む」という試みを行った。

 遷子を読み込んだ人達ばかりなので遷子俳句の特徴や魅力については各人の主張を持ちながら、全員が殊に医師としての生活を詠んだ句(医師俳句)と晩年の療養俳句についてもっと高く評価されてしかるべきと考えていた。

 戦後俳句史を読むというテーマに即して言えば、遷子は孤高の作家でありその俳句世界は独特であるとの認識が大勢を占めたが、一方で「社会性俳句」の潮流とは別の実生活に根を下ろした「社会的意識俳句」とでも呼ぶべき傾向の句(医師俳句も含まれる)を遷子が多く残したことは同時代、またその後の同傾向の俳句を見直すことにつながるとの見方もあった。

 この座談会が従来の戦後俳句史からほとんど抜け落ちていた相馬遷子という清澄な星を星図の中に位置付けるのに多少なりとも貢献できていればと思うばかりである。

(終了)

2026年1月16日金曜日

【連載】現代評論研究:第21回総論・「遷子を通して戦後俳句史を読む」座談会 仲寒蟬編

(2011年12月30日)

8.病気・死と遷子について。

 筑紫は〈これこそみなさんに聞いてみたい〉と言い、遷子の死についての反応を〈①応召を受けての戦場での死の対応、②病気となって最後は死を免れないと自覚した時の死への対応〉、の2点に分けて考える。

①このような死の危険は普遍的ではないとしつつ、死に対して臆病な遷子の言動を紹介する。「馬に乗っては行軍したが、敵弾が飛来すると、馬から降りるのが実に早かった。こわいのですね。気がつくともうまっさきに降りているのですよ」(堀口星眠聞き書き)「生来臆病な私にとっては、小銃弾の音さへもあまり有難くはありませんでした」(遷子の回想)。

②〈無神論者からすれば、次の世や神の国は存在しないのだから、死はあらゆる世界の崩壊である〉から〈この崩壊寸前の世界の最後の瞬間を、たった一人孤独に耐えてどう見るか〉が遷子だけでなく我々にとっても問題と言う。その意味で〈我々は、遷子の俳句を語っているつもりで、実は自分の死に臨む姿勢を考えているのである。「微塵」が美しいかどうかではなくて、美しい言葉を吐きたいと思った遷子の心理を考えてみたい〉と述べる。


 原は突然に来る戦地での死と異なり、病気の場合は一歩一歩死に近づくので〈自分だけの孤独な心の揺れがあ〉ると述べる。〈病状に一喜一憂しつつ、その折の心情に正直な句が並ぶ中での「冬麗の微塵となりて去らんとす」は、意志のかたちを取った虚無なのか、それとも静かな覚悟か、今も分か〉らないと言う。原句「何も残さず」から「微塵となりて」への推敲については〈言葉によって心身の昇華を願った結果〉かと考える。


 中西は自身の病気(生来の胃弱、戦中戦後の肋膜炎、死に到った癌)という意味でも医師として毎日病気の人を治療していたという意味でも〈遷子にとっては病気は常に身の回りにあった〉と述べる。

 だからと言って病気と死に慣れるものではないが〈自身の死期は他人には言わなくても、分かっていた〉、だからこそ「冬麗の微塵となりて去らんとす」という辞世を用意できたと言う。

 〈死によってすべてなくなるという発想は、再生も輪廻もない、無宗教のものである。死を学ぶことを医師として良かれ悪しかれ患者を通して体験的にしていた〉と述べる。


 深谷は患者の病気や死を対象とした作品は医師俳句として結実し、自身の病気については晩年の闘病俳句となった、と言う。「冬麗の微塵となりて去らんとす」については〈文字通りの絶唱であり、まさに古武士の最期を見るような感すらする。あまりにも見事な人生の幕の引き方であり、最後までその美学(生き様)を貫徹した〉と述べる。


 仲は『山河』の闘病俳句を読めば諦めたり強がり言ったり煩悶したり、心が揺れ動いているがこれは人間として自然で、〈冬麗の微塵の句になってやっと覚悟が定まったかに見える〉と言う。ただ遷子は揺れ動く自分を冷静に見て「写生」しており〈患者や身内の病気・死に対しても自分のそれに対しても冷徹な姿勢はぶれることがない〉という意味で〈極めて科学者的な目を持った人であった〉と述べる。

 自分を「無宗教者」と決めつけ、信仰を持たず、「死は深き睡り」に過ぎないと考えていた遷子は死後故郷の自然と一体化すると思っていたのではないかと推測する。


8のまとめ

 遷子は生涯に少なくとも2度死に直面している。

 最初は応召されて戦地へ向かった時であるがこれに触れたのは筑紫と原のみであった。これに関しては誰もが経験するものとは少し異なり、ことに現在のような平和な日本ではあまりピンとこないものであろうが忘れてはなるまい。筑紫の紹介する死に対して臆病な遷子の言動は決して誰も笑えないものである。

 一方、癌を患ってから死に至るまで遷子が思い悩み、考えたことはほぼそのまま俳句として結実しており、それこそが我々の心を打った。この死を前にした時の揺れ動く気持ちは誠に人間的で原、仲がこの正直さに注目している。また病気自体は医師遷子の周りに常にあったものだが、中西はだからこそ自身の死を覚悟で来たと述べ、仲は患者や身内の病気・死に対しても自分のそれに対しても冷徹な姿勢はぶれることがなかったと強調する。

 死に対して無宗教者、無神論者であった遷子の虚無的な死生観についてはほぼ全員が触れている。筑紫はそこから我々のうちやはり無神論者である者が学ぶものが多くあると考える。

 また辞世と言われる「冬麗の微塵となりて去らんとす」を全員が挙げており、筑紫は美しい言葉を吐きたいと思った遷子の心理に注目、原は推敲の過程から言葉によって心身の昇華を願った思いを忖度、中西は患者から死のあり方を学んだ末の覚悟と言い、深谷は文字通りの絶唱で古武士の最期を見る感があると述べ、仲は故郷の自然と一体化する思想を読み取っている。


2025年12月26日金曜日

【連載】現代評論研究:第20回(戦後俳句史を読む)「遷子を通して戦後俳句史を読む」座談会⑦(仲寒蝉編集)

投稿日:2011年12月23日 


7.職業・仕事と遷子について。

 筑紫はまず教師、政治家、医師、灯台守などの職業は単なる生活費を得るための活動ではなく、〈倫理が先に存在し、社会がその種の職業人に敬意を持って処遇する〉ものであることを指摘。「恩給」という言葉を〈官吏は国家のために身命を賭して働くからその老後の蓄財もないわけで、そうした国家への忠誠に対して御恩として給付される〉と解説、公務を行う者には労働の対価としての給与(給料)は存在せず、〈高邁な無償のサービスに対して生命を維持するために国家から給されるもの(俸給)であった〉という昔の考え方と〈極めて合理的な労働原理の中間に遷子や同世代の人々が存在したことを忘れてはならない〉と述べる。


 原はもし遷子が地方の開業医でなく研究者の道に進んでいたら人間的な幅はかなり狭められていたと指摘し、地域医療従事者としての生活が否応なく他者との関わりをもたらし、遷子の意識に影響を及ぼしたと言う。このことは孤独が深まるということも含め〈人間を詠むと言う短絡的なことではなく、自然に対する態度にも反映されたのではない〉かと述べる。


 中西は馬酔木の職業俳句の特集に医師俳句が並んでいる中で遷子の句を見てバッハを思い出したと言う。〈同じ時代の作曲家の作品と一緒に演奏されると、バッハの曲がとてもチャーミングだった。これと同じで、医師本人のことばかりを詠っている医師俳句の中にあって、遷子の句が、患者との対応を詠い真に迫っていると思った〉と。遷子の医師俳句は〈時に厳しい見方も随所にあるが、患者の農民の様子を描いたからこそ〉登場する医師もとても生き生きと見える。〈患者との対人関係を描くことによって医師俳句が立体的に見えた〉と言う。


 深谷は〈遷子が地域医療の最前線に立って患者やその家族と接してきたことを抜きに、遷子俳句は語れない〉と述べ〈何よりも生と死のせめぎあいの切迫感を読む者に伝えてくれる〉と言う。その一方で〈東京の大学などに籍を置き、最先端医療の研究に従事したかったという思いは後年まで抱え続けていた〉のではないかと推測する。


 仲は職業や患者に対する遷子の態度、信条を次の5点にまとめた。


1)生真面目。俳句を読んでも「滑稽」や「笑い」からは程遠い。ペットや盆栽にも興味なく、仕事と俳句にひたすら打ち込む真面目人間。

2)優しさ、温かさ。遷子は手遅れの患者を叱ったり風邪の患者に金を払えば即他人と言ったりもしたが、根は患者思いの医師であった。彼が患者に優しかったのは自分自身や家族が病弱であったことと無関係ではなかろう。

3)人間嫌い。患者や人間が嫌いだったのではなく世俗の人間関係が鬱陶しかったのだろう。

4)正義感。常に弱者の立場に立とうとする姿勢。

<5)潔癖。生真面目と通じるが媚びる自分を許せないようなところがある。

2025年12月12日金曜日

【連載】現代評論研究:第19回総論・「遷子を通して戦後俳句史を読む」座談会⑥(仲寒蝉編集) 

2011年12月16日

出席者:筑紫磐井、原雅子、中西夕紀、深谷義紀、仲寒蝉(司会)


6.自然と遷子について述べよ。

 筑紫は〈遷子が俳句という芸術に足を踏み入れる動機となったのは、秋桜子に教えられた自然観照の美しい風景によるものであった〉と指摘。ただこうした自然観照は独創的である必要はなく〈あらゆる青年たちが共感したからこそ、馬酔木俳句はこれほど広く展開した〉と述べる。それを示す事項として馬酔木の最初の歳時記『現代俳句季語解』(昭和7年)の例句に作者名の記述がないことを挙げる。水原秋桜子によると「作者名を省いたのは、お互いの共有の芸術であるという親しみを持ちたいから」、つまり〈虚子が確立した日本的季題趣味に対して、水原秋桜子は西洋美術的な自然趣味を導入した〉がそれは個性以前の〈当時の若者共有の感覚であった〉ということになる。

 さらに〈こうした共有感覚が壊れ、個人個人の悩みが個性の下で語られるようになるには、人間探求派を待たねばならない〉と述べ、〈戦前の遷子の叙景俳句と、戦後の馬酔木高原派の俳句は本質において何も変わるところがなかった〉、〈皮肉に言えば、少しばかり、近江俊郎風の「山小屋の灯」的通俗性を加えたに過ぎない〉と言う。


 原は〈遷子の風景句に興味を持ったのは、自然への対し方が、初期と晩年では違うように感じられたから〉、すなわち〈初期の外側から描かれた風景が、次第に内面と重なってきた―自己と一体化した―〉その変化の過程に惹かれたと言う。


 中西は〈師の秋桜子は美しい風景句を作る人であったから、遷子の出発点は美しい風景句であった〉と言う。医師俳句を作っている『雪嶺』時代も吟行はしていたはず、と推測する。〈窓を開けると山が見える佐久という美しい山国の環境〉にあって〈美しい反面、寒さの厳しさや、雪の恐ろしさを常に身近にしていたことだろう〉と自然の厳しさを知った人の「わが山河」であったことを強調する。


 深谷は〈馬酔木「高原派」の純粋自然賛歌とは作風は大いに異なる〉と指摘。〈自分が暮らす佐久の山々や風土に対する国誉め的な作品もあるのは、重い作風の作品が多い中にあってふと心が和ませられる〉と述べる。


 仲は〈八ヶ岳、浅間山といった山々は佐久移住前の『草枕』時代、『山国』の昭和30年代までは分け入ってゆくもの、それ以後は遠望するものとして詠まれる〉と言う。これら故郷の山や川は〈『雪嶺』の終り頃から『山河』時代になると「わが山河」と呼んで愛するものとなった〉と言う。

 また磐井氏の論文にあるように遷子の俳句に星が多く詠まれていることを挙げ、〈佐久の方言で「凍みる」と言われる冬の気温の低さ、そのせいで空気中から水分が希薄となり星が美しくも冴えわたって見える〉と述べる。

 しかし一方で〈一つ一つの植物や動物の名前を挙げて詠むことは多くなかった〉ことを指摘。〈盆栽が好きだった父親と違い「生き物飼はず花作らず」と自分を規定しているくらいだから、高原派と呼ばれる割には生物に対して冷たい。人間も含めた生物とウェットな関係を持つことが彼にとっては煩わしかったのではないか〉と述べる。


6のまとめ

 ほぼ全員が若い頃の遷子が「馬酔木」特に秋桜子の美しい風景を描く俳句の流れの上にあったこと、佐久の自然の厳しさに触れた後には外から見るだけでなく内面的なものの反映として自然を捉えるように変わって来たことを感じている。


 筑紫は秋桜子の自然観は個性のない〈当時の若者共有の感覚〉であって、戦後の「馬酔木」高原派の俳句もその延長線上に過ぎず、それが個性的な様相を呈するのは人間探求派以後であると俳句史を概観する。


 仲は遷子の性質として人間も含めた生物とウェットな関係を持つことを煩わしいと感ずる所があり、単に自然が好きで俳句に詠んでいたというのと異なる点を強調する。

2025年11月21日金曜日

【連載】現代評論研究:第18回総論・「遷子を通して戦後俳句史を読む」座談会⑤(仲寒蝉編集) 

 :2011年12月09日

出席者:筑紫磐井、原雅子、中西夕紀、深谷義紀、仲寒蝉(司会)

 

5.家族・家庭と遷子について述べよ。

筑紫は〈全く関心がない〉と言う。

原は興味がないと言う。

中西は俳句から見る遷子は〈良き家庭人だった〉と言う。

 

百舌鳴くや妻子に秘する一事なし  (『山国』)

 に明治生まれの潔癖さを読み取り〈この句が遷子の全句の中にあって、家族への愛情表現の最たるもの〉であり〈句の調子としても、気骨ある遷子の高い精神を描いた他の作品と同列に並べられることができるもの〉と評価する。

 次に示すように『雪嶺』の息子を描いた句に親の本音を、娘の結婚の句には〈手放しで喜ぶ良き父の姿〉があり世の父親と変わらないと言う。

 かすむ野に子の落第をはや忘る

帰省子に北窓よりの風青し

秋の苑子を嫁がせし父歩む

 

 横道に逸れるが、その中で2句目の「青し」に注目する。『草枕』の「梅雨めくや人に真青き旅路あり」の〈「真青き」には将来への不安とともに、まっさらな手付かずの美しい未来を思わせるものがある〉と述べ、上の句の〈「風青し」にも青年の前途を祝福するものが含まれている〉と指摘する。それを踏まえて〈遷子の「青」に寄せる清澄な思いは生涯変わらなかったのではないか〉と言う。

 ただ華やぎを添えるものではあっても家族を描いた句は『雪嶺』では傍流。家族を描いたものでは『山河』の死の前後の父を描いたものが良かったと言う。

深谷は〈私的な要素であるため「戦後俳句史」を語るうえでは適さない部分かも知れない〉と断わりつつ〈敢えて言えば戦後の家庭像がありのままに描かれており、遷子の実直な人柄があらわれている〉と述べる。

仲は『雪嶺』には息子の反抗や受験、娘の結婚を詠んだ句があるが〈内容としては市井の優しい父親の域を出ていない〉と言う。また『山河』にある〈老いた父母を詠んだ句は淡々としており患者を見る目とほとんど変わるところがない〉が、〈母の句の幾つかは彼にとって母は永遠に若く気風のいい存在だったことを示している〉と述べる。

 

5のまとめ

 5人中2人が興味なしと回答している。回答のあった3人に共通していたのは、遷子はよき家庭人、よき父親であったということ。ただ家族を題材にした俳句については中西が『山国』の「百舌鳴くや妻子に秘する一事なし」を評価した他は遷子の句業の脇役的存在との認識であった。個々では中西が『山河』の死の前後の父を描いた句を、仲が母を描いた句を評価している。

 

2025年10月24日金曜日

【連載】現代評論研究:第17回総論・「遷子を通して戦後俳句史を読む」座談会 仲寒蟬編

(投稿日:2011年12月23日)

出席者:筑紫磐井、原雅子、中西夕紀、深谷義紀、仲寒蝉(司会)


4.戦後の生活と遷子について。

 筑紫は当初遷子のことを医師という恵まれた職業環境にあると思っていたが、医師である仲の話や(遷子によく似た)昭和30年代に開業した医師を父に持ったメンバーへのインタビューを総合して、当時の医師の生活は大変ったのではないかと述べる。

 遷子は野沢の旅館を買い取って開業したが、この頃の開業には〈親か連れ合いの一族の支援がない限り独力では不可能であった〉と考え、遷子にとっては父が人助けのために手に入れていた土地家作が役に立ち、〈兄弟共同で開業するというのは合理的な判断だった〉と言う。

 したがって『山国』『雪嶺』では〈魂の抜けたようにしか見えない父〉豊三だが、兄弟(富雄(遷子)、愛次郎)の進学、さらに開業の支援と一族に医師のいない中で家長としての重い責任を果たしたと評価する。

 遷子の親への依存や苦しい生活を表わす作品として次のようなものを挙げる。

 年逝くや四十にして親がかり   22年

 田舎医となりて糊口し冬に入る  23年

 正月も開業医われ金かぞふ    同

 自転車を北風に駆りつつ金ほしや 同

 暮遅き活計に今日も疲れつつ   同

 その上で〈これこそ、ホトトギスの花鳥諷詠とは全く異なる、アララギ的な短歌リアリズムの世界であった。「鶴」的な境涯俳句ではなく、生活リアリズムに出発する(それは今全く評価されていない戦場リアリズムに根を持つものであるが)ことにより、独自の遷子の開業医俳句が生まれた〉と述べる。遷子にとって最大の誤算だったのは、研究者の道を取らなかったことではなくて、病気のため病院を辞めて開業せざるを得なくなり、大学に戻れなくなったこと、と言う。

 さらに当時の開業医の生活を次のように描写する。

 〈(遷子と同様旅館を買い取ったため)入院施設のある小規模な医院は、施設の狭さから医院と家庭は隣接して、公私のない生活の部分もあった。旅館構造を改築したものなので、病院の諸施設と家庭が混ぜんとしていたはずであり、建物の中には家族の個室と病室、看護婦の居室も混じっていたのではないか(昭和30年代は通いの看護婦ではなくて、中学出の女性を看護学校に通わせ資格をとらせて、住み込みであったと思われる)。医師の妻は入院患者の食事を作り、また看護婦たちとガーゼや汚れたシーツを洗濯などもした。そのほかに、毎月の保険請求事務も医師とともに妻が手伝った。当時は手書きで、そろばんを使っていた。『雪嶺』の中に保険事務が溜まったという句があることからも、面倒な仕事が多かった。他のメンバーから開業医の妻の中には過労で肋膜を患った例も報告された。看護婦も、中学を卒業してからすぐ住み込みで働き、看護学校へ通わせてやり、一人前になって患者と結婚するというようなアットホームな例もあった。〉

 〈病院医師と開業医の違いは、患者と患者の家庭が一体となって関係してくる所にある。遷子の俳句の中で、病院勤めの時には見られなかった医師俳句が、戦後開業医の生活で顕著に表れるのもそうした理由である。また、往診をすれば、いやおうもなくその家の様子が見えることもあっただろう。〉


 原は無回答。

 中西は終戦後5,6年の期間として次のように言う。

 戦中に肋膜炎を発病し、東大医学部からの派遣で函館の病院の内科医長の職に就くが故郷佐久での開業に踏み切ったことにより大学へは戻れなくなる。

百日紅学問日々に遠ざかる

故郷に住みて無名や梅雨の月

などの句には〈大学研究室を断念したことの悔いが燻っている〉と述べ〈戦争がなければ、肋膜炎にはならず、或いは大学に残れたかもしれないのである〉と指摘する。

 弟愛次郎を誘って開業した後も

四十にして町医老いけり七五三

裏返しせし外套も着馴れけり

という句が示すように〈開業はしたけれど、患者も貧困にあえぎ、治療費も稼げなかった時期なのではないだろうか〉と想像する。

 深谷は〈謂わば無一物で佐久に帰郷したわけであり、決して豊かとは言えないだろうが、それなりの生活(もちろん地域医療の最前線に立つ者として多忙ではあった筈だが)を過ごしていたのではないだろうか〉と述べ、さらに〈農村の貧しさがその作品に色濃く投影されているが、時期を下るにつれ高度経済成長の影響もみて取れる〉と言う。

 仲は〈句集を年代順に読んでいくと佐久という貧しい田舎の村が町となり市となって行く様子が分る〉と言う。『山国』『雪嶺』には社会性俳句の原動力ともなった貧しさを詠んだ句が散見され、当時の佐久地方で盛んだった養蚕に関する句、自転車で往診する句、スケート(恐らく田んぼに張った氷の上での下駄スケート)やストーブなど寒い地域の生活に関わる句など多くはないが当時の生活を窺わせる句に触れる。


4のまとめ

 筑紫は当時医院を開業すること自体が現在考えるよりずっと大変だったことを強調、遷子の父豊三の家長としての役割や開業間もなくの暮らしの困窮に触れた後、開業医としての生活が地域住民である患者の暮らしへの深い関わりを産み、往診などの医師俳句につながったことを述べる。

 中西はやはり開業間もなくの生活の大変さに触れ、大学での研究を諦めざるを得なかった悔いが尾を引いていたと考える。

 深谷と仲はそういった遷子一家を含む地域全体の貧困が高度経済成長とともになくなっていくことにも触れる。

2025年9月12日金曜日

【新連載】新現代評論研究(第11回)各論:仲寒蟬、村山恭子

★―1 赤尾兜子を読む5 /仲寒蟬

10. 日ごと増す枯葉や我は疎んぜられ

 「疎んぜられ」とは誰からであろうか。誰か、というより世間からか。この次の句は「寂(さみ)しき技(わざ)をして悔多き冬(あ)朝(さ)なりけり」である。疎んぜられた理由はこの寂しき技と関係あるのだろうか。

 寂しき技とは何なのかが気になる。決まったパートナーのいない若い男がひとりですることと言えば自ずから想像はつくが、兜子はこの年に軍隊生活から解放され翌年に向けて受験勉強中であったから学問や文学と関係することなのかもしれない。ただそれであれば「悔多き」と述懐している理由が分からなくなるし、時間帯としては朝に行った何か、ということになろう。

 年表風に書けばこの句集の扱う昭和20年10月~12月というのは

昭和19年(1944)、大阪外国語学校を繰り上げ卒業。

昭和20年(1945)、陸軍整備学校に入隊。終戦により復員。

昭和21年(1946)、京都大学文学部中国文学科に入学。

という頃に当たる。

 一度は大阪外国語学校中国語科で勉学に励むつもりが軍隊に取られ、間もなく敗戦を迎え、次は大学受験というめまぐるしさ。この時期は別に浪人した訳ではないがまだ大学生ではなく、かつて所属していた陸軍は跡形もなくなってしまって実に宙ぶらりんの立場であった。それだけでも自分は世間に必要なのか、疎んぜられてはいまいかという思いになったかもしれない。この増えてゆく枯葉のように徒に時間だけが過ぎてゆく。


11. 胸騒ぐことなく午後の枯木と佇つ

 わざわざ「胸騒ぐことなく」と表明しているのは普段胸の騒ぐことばかりであるからだろう。その胸を騒がせることとは何だろうか。先の俳句に出てきた金と恋とが真っ先に考えられる。何しろ兜子はまだ20歳という多感な年齢。学業、生活、恋愛と悩みは様々あったろう。また大日本帝国が瓦解してこれまでの価値観、物の見方が180度転換された、そのことに関する胸の騒ぎであるかもしれない。日本は、日本人は、自分はこれからどこへ行くのだろうか、と。

 この少し後に同じ枯木を詠んだ句として

獨立自尊胸に枯木の轟々と

が収められている。同じ12月6日作の句である。してみれば本句を詠んだ時にも「獨立自尊」が胸にあったと思われる。いずれの句にも「胸」の語が出てくるから枯木と対峙しつつ兜子の胸には様々な思いが去来していたに違いない。

 さらに想像をたくましくすれば、轟々たる風の中に堂々と立つ枯木は日本という国の象徴であるかもしれない。さらには軍部の一員から大学生になって呆然としている兜子自身の象徴とも考えられる。「獨立自尊」は日本が世界に対してということかもしれないが、ここは兜子という人間が世間に対してと考えるのが妥当であろう。


12. 木の葉髪無為ニ繋がる二十年

 木の葉髪は晩秋から冬に髪が抜け落ちること。鳥や獣であれば夏の毛や羽が抜け落ちて冬のそれに入れ替わる頃。人間にもその名残があるのかもしれない。20歳の青年と雖も木の葉髪の数本くらいはあっただろう。

 この句の「二十年」はもちろん兜子が生まれてから今までの20年ということであろうが、昭和という時代が始まって戦争に突入し敗戦に至ったというその20年なのかもしれない。人生では最も濃縮された、人格形成にとっては重要な20年という筈であるが、兜子は「無為に繋がる」と斬って捨てる。

 この俳句の感慨にはこれまで当然のものとして凭れてきた国家、世間の常識が敗戦によって全否定されたという背景があろう。いままでやってきたこと、人生は所詮「無為」に繋がるものでしかなかった。「無為」という言葉は老子の唱えた理想の状態としての「無為」ではなく、ただぶらぶらと徒に時間を過ごしている状態という意味の「無為」であろうと考えられる。

 実際には来年の受験に向けて勉強していたのかもしれないが、兜子にとってこの時期の自分は無為の徒でしかなかった。大阪外国語学校時代には中国語を勉強して満州や中国で活躍しようとの希望があった。軍隊にいた時には国のため、国民のために働いているという実感が持てたろう。だが今は何かを生み出す訳でもなく時を浪費している自分がいる。そういう思いであろう。


★―7:藤木清子を読む3 / 村山 恭子

3 昭和10年 広島県 藤木水南女で出句 ①

  通り魔に寒気立(そうけだ)ちたる古衾        旗艦2号・2月

 〈古衾〉は布団以前の寝具で、布団を衾と言うこともあります。自身が〈通り魔〉に遭ったのではなく、家人や知り合い等から知って身が〈寒気立ち〉ました。〈古衾〉は長く愛用したもので、それにより我が身を守り心を落ち着かせました。慎ましい生活も見えてきます。

   季語=古衾(冬)


  古衾悪魔に黒髪摑まれぬ         同

〈古衾〉を掛けて寝ました。夢の中で〈悪魔に黒髪〉を摑まれ、うなされています。

 中七を「悪魔に髪を」で七音に整えず、〈悪魔に黒髪〉の〈黒髪〉と色を出し、また八音にしたことで、悪魔に豊かな量の髪を掴まえられている実感があります。

   季語=古衾(冬)


  掛乞に話し込まれてたがやせる      同

〈翔乞〉は半年分の付けの代金を、暮に取り立てること。取り立てる者は大晦日まで忙しく動き回りますが、〈掛乞〉はどっしりと話し込んでいきました。半年分の暮らしを振り返りながら、次の半年の無事を願い、畑を耕しています。

   季語=掛乞(暮)


  お向ひの壁が真赤で夜なべ鍛冶     旗艦4号・4月

 〈お向ひの壁が真赤で〉から火事かと思わせ、下五の〈夜なべ鍛冶〉で謎解きのような展開です。〈夜なべ〉は秋の長い夜を働き続けることで、鍛冶職人のこつこつと仕事をする姿は秋の静けさを深め、真赤な焔は闇を美しく照らしています。

   季語=夜なべ(秋)


  麦の穂や海の深浅あきらかに       旗艦7号・7月

〈麦〉は五穀の一種で、初夏、黄金色に稔ります。〈麦の穂〉の丘から〈海〉を見ると、

深い場所と浅い場所の色が〈あきらかに〉異なっています。麦の黄金色、浅瀬のエメラルドグリーン、深瀬のコバルトブルーと夏を鮮やかに描写しています。

   季語=麦の穂(夏)

 

  耳につく虻の声のみ単衣裁つ       同

 耳に聴こえるのは虻の声だけの中、〈単衣〉の生地を裁っています。〈虻の声〉は虻の羽音。声としたことで虻の存在感が増しています。その空間にいるのは虻と単衣を裁つ人のみで、ジョキジョキと生地を裁つ鋏の音が際立っています。

   季語=単衣(夏)


  蒼穹に心触れつつすだれ吊る       旗艦8号・8月

 すだれを吊っています。その気持ちは〈蒼穹〉の青空、大空へ、心が触れるようにのびやかで、晴れ晴れとしています。〈すだれ〉を吊って夏を迎える高揚感がよく出ており、すだれが広がる情景が涼やかです。

   季語=すだれ(夏)

2025年8月22日金曜日

【新連載】新現代評論研究(第10回)各論:仲寒蟬、後藤よしみ

 ★―1 赤尾兜子を読む4 /仲寒蟬

 7. 滄桑の夢ならなくに師走かな

 「山梨宮戦争犯罪容疑者と指定さるに二句」と前書のあるうちの二句目。

 山梨宮を調べても山梨縣護国神社の摂社としてしかヒットしない。山階宮と梨本宮はいる。うち戦犯となったのは梨本宮守正王、久邇宮朝彦親王の第四王子。元帥陸軍大将でもあったが戦犯とされたのは伊勢神宮祭主、つまりは国家神道の親玉であるという理由らしい。皇族唯一のA級戦犯として巣鴨プリズンに拘留されたが半年後に不起訴で釈放された。

この句の前書にある「山梨宮」は恐らくこの梨本宮の誤記であろう。この人自体、別に表立って活躍した形跡はなく閑院宮、伏見宮、東久邇宮、朝香宮ほど戦意高揚に努めた訳でもなかったようだ。連合軍による一種の見せしめとも言われる。

 兜子からすれば軍部、政府、皇族などはみな結託して国を滅亡へ追い込んだ連中であるから梨本宮であろうが伏見宮であろうが意味合いは同じであったろう。ざま見ろとまでは言わないが当然の報いとは思ったかもしれない。この人を含めてA級戦犯容疑での逮捕者は計126名(5名は逮捕・出頭前に自殺)、うち28名が裁判にかけられ7名が死刑となった。

 戦前ならば国民(臣民)の尊敬を得て羽振りもよかった宮様が今やブタ箱入りだ。滄桑の夢とは滄桑之変と同義であろう。『唐詩選』にある劉希夷(劉廷芝)の有名な詩「代白頭翁」に

  已見松柏摧為薪  已に見る松柏の摧かれて薪となるを

  更聞桑田変成海  更に聞く桑田の変じて海となるを

とあるように桑畑が海になるくらい時世の変遷の激しいことを言う。当時「桑田滄海」または「滄海桑田」という成語があったようだ。

 こうして連合軍による戦犯摘発の嵐が吹き荒れる中、敗戦の年は暮れてゆく。

 

8. 思慕金と恋の卍や炭火消ゆ

 兜子にしてこんな俗っぽい句を作るとは、と驚いてしまう。まあ、この句集というか草稿は他人に見せるつもりはなかったようなので、一種の日記として記されたのであろう。それにしても「金と恋の卍」って何なんだ?下世話な、週刊誌的興味からすればその中身を知りたい気もする。兜子の評伝を本気で書くつもりならば色々と調べて事実関係を明らかに出来るかもしれないが、筆者はそこまで彼の私生活に興味はない。俳句の鑑賞ができれば充分である。

 当時金と恋のことで大いに悩むところがあったのだろう。「炭火消ゆ」というのは、炭火も消えるくらいまで長く悩んでいたということか。古典的に火は恋のメタファーなので金が絡んで恋の火が消えてしまったということかもしれぬ。

 

9. 萩桔梗また幻の行方かな

 「旧知の女失恋したるを聞くに一句」の前書がある。この旧知の女と兜子の関係は?いわゆる元カノなのか、単なる知り合いなのか。いずれにせよその女が兜子とは別の男と恋をしていてそれが破れたということだ。自分を振った女であればいい気味と思うだろうか、それとも気の毒に思うだろうか。

 同人誌の編集長が伝統芸能に造詣深く、小唄と端唄の違いも判らぬ筆者に色々と指南してくれる。端唄は広辞苑によると「江戸で、文化・文政期に円熟し大成した小品の三味線歌曲。(中略)これから、歌沢と小唄が派生した」ということだ。端唄は撥弾き、小唄は爪弾き。

 岩波文庫に『江戸端唄集』(倉田喜弘編)というのがあってその「端唄百番」29に「萩桔梗」というのがある。

  萩桔梗 なかに玉章しのばせて 月に野末に 草の露

君を松虫 夜毎にすだく 更ゆくかねに 雁の声

こひはこうした(ママ) 物かいな

 この句がどこまでこの端唄を踏まえていたのか否かは知らない。萩も桔梗も秋の七草のひとつであるし古来和歌や物語に多く登場してきた。もちろん恋との関係も深い。破局を迎えた他人の恋を「幻の行方」と表現したのだ。


★―3「高柳重信の風景 6」  後藤よしみ

 3 多行形式の行方

 一九四七年の「群」四・五月号に初めて多行形式による作品と多行形式への「提議」を他の同人とともに発表し、「空白圧力を効用した有機的構成によっての漂泊内容の拡張」を試みを試み、象徴主義の形式と空白を利用する志向をあらわした。これ以降、重信は多行形式に取り組み、その可能性を追求していく。


 身をそらす虹の     船焼き捨てし 

  絶巓      *  船長は

     處刑台  

             泳ぐかな     『蕗子』 


 そして、第二句集『伯爵領』では、、多行に視覚的な表記上の配置(「カリグラム」)の工夫を凝らしている。


   森                         森 の 奥    の

   の   夜                         夜    の

     更 け   の        *    雪 の お く の

          拝                  眞    紅

  火 の   彌 撒           の    ま ん じ 

     に 

  身 を   焼  

  く   彩

  蛾                           『伯爵領』 

  

 重信は、『蕗子』『伯爵領』の実験を進め、自身の多行形式をさらに深めていく。  

  

軍鼓鳴り     かの日         電柱の  

荒涼と   *  炎天       *  キの字の  

秋の       マーチがすぎし     平野  

痣となる     死のマーチ       灯ともし頃   『罪囚植民地』 


 この『罪囚植民地』という句集名は、『伯爵領』の「あとがき」に「遂に、罪囚植民地に流されてしまつた」という記述から、長期の構想のなかの作品群ということがわかる。そして、一字下げなどの様式は、しだいに影を潜めていく。

 ここで、課題が少しずつ浮上してくる。多行形式の表記の工夫を重ねてきた重信に対し、「一行形式で書けるのでは」という根強い批判を受けるようになったのだ。当時の俳壇の無理解による批判とも見えるが、澤好摩は『罪囚植民地』の次の句を挙げ、下段のように一行に書きあらわした。

 

月明の       *     月明の冬の砂塵の行方かな

冬の

砂塵の

行方かな

 

 そして、一行形式にしても「あまり違和感はない」としている(『高柳重信の一〇〇句を読む』)。一行形式の本来の姿でそのまま読み取れるのであれば、多行形式にする必要はないとも言える。つまり、多行形式の必然性が見えてこなければ一行形式がふさわしいものとなるのだ。ここに多行形式の困難さがあらわれている。このような課題も抱えたことで、重信は多行形式の今後の新たな展望をなかなか見出せなくなっていくのである。

  

 4 「風景の発見」と日本的なるもの

 重信の停滞脱出の変化の切っ掛けは、またしても宿痾の悪化からであったと言えよう。一九六五年一月元旦から発熱し、熱が収まったものの初めての喀血をしために自宅安静となっていた。そして、栃木の宇都宮病院長をしていた平畑静塔のもとに二月、入院することになった。 

 これが一つの転機となる。重信は歩けるようになると病床から散歩に出かけ、北西の日光の山々、東に筑波山を眺めていたという。そして、これまでの半生を振り返り生と死を考えている。志賀直哉の「城崎にて」の主人公のようにである。 

 〈ここでは、晴れているかぎり、眼前に日光の連山がくっきりと見え、たまさか快晴に少し高いところに立つと、うち続く家並みのはるか遠くに、うっすらと筑波山を眺めることが出来る。(略)だが、その昔、この日光や筑波の山々は、もっと直接に人間の日常生活につながり、その精神にも生き生きとしたかかわりを持っていたにちがいない。そこでは、人間がそれを眺めると同時に、山々もまた人間を強く見つめていたであろうし、季節に応じ天候に応じ、そして時々刻々に微妙に変化する山容は、人間とのさまざまな対話をもたらしたであろう。それは、いま、想像も出来ない澄みきった空気と、驚くべき荒涼とした見はらしの中のことである。おそらく、俳句が俳句であって、なおかつ同時代の多くの人間の心の中に、ある普遍的な感情を共通に喚起することが出来たのは、このような人間と自然との豊かな対話が、常に可能であったからであろう〉。(「俳句の廃墟」『高柳重信全集Ⅲ』) 

 そこには、原風景の喪失を埋めるような風景の発見ともいうべきものが見られたと言えないだろうか。自然の風景に身を置き風景に触れることで自己の内省が促され、過去の時代へと思いを馳せることは、多くの人が経験する現象である。言葉をかえれば、内省と遡行が行われていたと言えよう。この入院での風景体験が重信の内面を深く掘り下げる作用をもたらし、重信の後半の句業へと導いてゆく転機となったと見ることができるであろう。 

 この時期以降、重信の精神は遡行により次第に言霊・呪術と古代へと向かっていったとみられるが、重信には小学校時代に富士を眺めることで育てた風景との連想力による交換もあった。風景との対話のうちに自身の思いを煮詰めてゆくのだが、少年時代にはすでに重信の周りに霊魂に充ちた存在があったと言える。それが、入院中の生活で「自然から語りつづけられる体験」として甦ったのであろう。

 また、入院中の読書体験では、以前から関心のあった古代の呪術や原始宗教に関する本にあたっているが、それらにより、重信は言霊や呪力というものに強い関心を寄せるようになったと考えられる。

 言霊については「言語自身に精霊があつて、意味通りの効果を発揮する」とする折口信夫(「言霊信仰」)の説明が一般的であるが、その言霊は、言葉に内包されている創造力を信じる表現上の思想として考えられている。重信は国学者の富士谷御杖の言霊倒語論に親近感をもっていたようである。倒語とは直言をするのを避け、所思と異なる表現をすることであり、「其言の外にいかし置たる所のわが所思」が御杖の言う言霊にほかならないと言う(河田和子『戦時下の文学と〈日本的なもの〉』)。これは、日本的なる暗喩の象徴として言霊がとらえられよう。言霊を求めることは、言葉ではどのようにしても表現することができないものがあるということにほかならない。その意味では、重信は言霊や先の風景の認識においてこれまでの西欧の概念や思潮に回収しきれずこぼれ落ちるものを顧みたと言えよう。これまでの象徴主義をくぐり抜け、御杖の言う象徴としての言霊を用い、新たな日本的なるものを創出しようとした。

 一九六七年には、呪術について「俳句形式とは対抗呪術である。古代、呪術にかからないために必要とされたのが対抗呪術で、俳句形式によって、言葉は力あるものとして存在し、季題、切字、定型などは、人間が生み出した巧妙な対抗呪術ではないか」(「俳句形式の思想」『高柳重信散文集成第十冊』)と述べるようになっている。さらに、一九七一年には「呪術的なものに対するあこがれと好奇心があり、この頃、少し迷信深いくらいに神がかってきた」と山口誓子らとの対談で語っている(「現代俳句の原型」『高柳重信対談座談会集第五冊』)。これらの重信の言葉は、言霊と同様に呪術の力にふれることで創造性の回復を希求したものと読みとることができよう。重信は俳句形式を書こうとしながら「神話的象徴」を書き、俳人から呪術師に変身してゆく。

 一九七一年に「俳句評論」の全国大会が名古屋であり、その時に飛騨高山へ重信は三橋敏雄らと足を運んでいるが、そこで飛騨の自然の奥の神々の存在と隅々にまします言霊を見てとった作品は、「飛驒」十句として一九七二年に「俳句研究」二月号に発表されている。

  

飛驒(ひだ)の         飛驒(ひだ)の         飛驒(ひだ)の

美(うま)し朝霧(あさぎり)     *  山門(やまと)の      *  闇速(やみはや)の泣(な)き水車(すゐしや)   

朴葉焦(ほほばこ)がしの      考(かんが)へ杉(すぎ)の        依(よ)り姫(ひめ)の

みことかな       みことかな       みことかな                                   「飛驒」『山海集』   

  

 これらの作品は、「はるかなる祖霊や地霊の密かな語りかけ」に耳を澄ましえたものであった(「後記」山海集』)。澤好摩は、「よくよくこの土地、風土の本質を見抜いた作品である」としている(『高柳重信の一〇〇句を読む』)。これまでの風景との対面が、飛驒において開花し、言霊・地霊の声を受けとめることにつながったと言ってよいだろう。このことは、風景感覚の覚醒が心の奥深くに作用して、感情や記憶と結びつき、新しいインスピレーションから生まれたものと言えるのではないだろうか。その風景のもたらすさまざまな働きが指摘されているが、そのなかでアイデンティティの拠り所、想像力としての連想力の強化、神話空間と創造の磁場の提供などと呼ばれるものの影響があったのではと思われる(柴田陽弘『風景の研究』)。これにより、重信にとって風景は言霊を含むものとなり、過去と現在をつなぐ歴史の世界に立つことになる。


 5 父母と「私性」

 一九六四年に「俳句評論」同人の橋閒石の句集『風景』が出されると、次のような句を引いて論じている。 

  

  階段をのぼる亡父の瞳の豪雨 

  くさむらに幹沈みゆく娼婦を母 

  水底に父母のむつごと虹負うとき   橋 閒石 

  

 〈橋さんが示した「父」と「母」への思いの、深刻な相違を考えたりすると、その興味はいっそうふかまってくるであろう。 

 遠い少年の日から、いまや還暦をむかえた老年の日まで、長く、消えずに引きつがれてきた心の翳りであり、おそらくは、青年期以後の橋さんにとっては、もはや、ひとつの思想のようなものとなっていたにちがいない、いわば精神の底流ともいうべきものであったろう〉。(「父と子と、そのほか」『高柳重信散文集成第八冊』) 

 ここでは「父母に関する一筋の青白い光線を照射すると、それぞれに、襞のふかい、翳りの多い、不思議な交換」を感じとっている。重信においては、その後の『遠耳父母』の諸作品につながるものがあった。

 一九六六年から、次の『遠耳父母』の句を「俳句評論」へ発表しはじめている。 

  

   耳の五月よ    沈丁花       沖に

   嗚呼     *         * 父あり

   嗚呼と      殺されてきて    日に一度      

   耳鐘は鳴り    母が佇つ闇     沖に日は落ち   『遠耳父母』  

 

 二句目の〈沈丁花〉の作品について、次のような文章がある。「その少年の頃の僕は、なぜか、くりかえし殺される『母』のイメージを育てていた。(略)そして、僕は、殺された『母』にあうために、夜ごと、庭の片隅の沈丁の繁みへ出てゆくのであった」(「母が佇つ闇」『高柳重信散文集成第十一冊』)。これは、母についてのネガティブな側面をあらわすものであり、重信が敗戦後からの「心理的に受け止める」という側面をうけついだものとなっている。 

 その一方で、三句目は、「自らの来歴に関わるイメージの集中的な展開が試みられる」作品となっている(澤好摩『高柳重信の一〇〇句を読む』)。この句集では、橋閒石の『風景』でも取り上げられた父母らが登場してくる。これまでの傾向を変え、自己の内面、そして深層に転回してゆくと受け取れるものになっていると言えよう。その傾向が明瞭となるには、『山海集』を待たねばならない。 

 なお、『蒙塵』は句集としての設計図を持ちながら完成せず、『遠耳父母』は「別個に制作され、別個に発表された四つの作品群によつて成立し、しかも微妙な共鳴を伴つている」として新たな創作意欲を再びかき立てるものとなったと言える(「覚書」『高柳重信全句集』)。 

 そして、『蒙塵』『遠耳父母』の時期の俳句形式は徐々に変化を見せ、一字下げ、一字空白、一行空白がなくなり、四行形式へと収斂する時期にあたっている。入院生活での風景体験が、いわば風景発見というべきものが内面化をもたらし、新たな重信を促してきたと取れるであろう。このようにして、『遠耳父母』では橋閒石の『風景』に触発されてか父母について集中的な展開が見られている。肉親や象徴的な父母を含めて自己の内面を掘り下げ、井戸に降りてゆくような作業と言いあらわせるだろう。 第六句集『山海集』(七六年)以降、一行空白が姿を消す。そして、漢字には総ルビ(ここではカッコ内)がふられている。

 さらに、形式面のみだけではなく内容面から時期ごとの特徴をとらえると次のことがわかる。それは、「私」(わが・われなどの一人称)の消失と復活である。具体的に見ると、初期『蕗子』において


   わが来し満月    わが誇

   わが見し満月  * われを欺け

   わが失脚      獄のうち

   城と飾り


 このように〈わが・われ〉など「私」を用いるものが八句ある。『伯爵領』では二句。その後に消え、後期『山海集』から私性が復活する。


   天に代りて     目醒め

   死にに行く  *  がちなる

   わが名       わが尽忠は

   橘周太かな     俳句かな


 この「日本軍歌集」十句すべてが〈わが〉をふくむ。これは、次の『日本海軍』においても


 いま

 われは

 遊ぶ鱶にて

 逆さ富士


と一句、あらわれている。

 重信が影響を受けたマラルメは、「純粋な作品においては詩人は発語するものとしての姿を消してしまう。彼は語にその主導権をゆずりわたすのだ」(「詩の危機」『マラルメ全集Ⅱ』)としている。つまり、作者たる「私」が姿を消していく。そして、そのマラルメの影響たる象徴主義が弱まることで「私」が浮上してきたと言えるのではないだろうか。

2025年5月9日金曜日

【新連載】新現代評論研究:各論(第4回): 仲寒蟬、眞矢ひろみ、佐藤りえ、筑紫磐井、横井理恵

 ★―1「シン・兜子を読む」3  仲寒蟬

4. こゝろ虚(むな)し蜩ニもの思ふこともなし

 蜩は『万葉集』のむかしから和歌に詠まれてきた。

 巻第十、「夏相聞」に「蟬に寄す」の前書で詠み人知らずとして

ひぐらしは時と鳴けども恋ふるにしたわやめ我は時わかず哭く

これは片思いの歌らしい。

 また巻第十七に大目秦忌寸八千島の作として

ひぐらしの鳴きぬる時はをみなへし咲きたる野辺を行きつつ見べし

これも男女の思いを裏に感じさせる。

 大好きな『新古今和歌集』からは式子内親王の歌

夕立の雲もとまらぬ夏の日のかたぶく山にひぐらしの声

 伝統的に蜩には「日暮らし」という意味を掛けて使われてきた。『徒然草』序段の「日ぐらし硯に向かひて」の「日ぐらし」も、もちろん一日中ということではあるが、その背景に蜩の声が聞こえる気がする。

 そのような蜩の声を聴けば普通であれば何か物思いをするのであろうが今の俺には思うことすらないというのがこの句の心である。何故物を思わないかと言えば上五に「こころ虚し」とある通り心の中が虚ろ、何もないからである。何もないところには物思いすら出現しない。

 では何故この時の兜子の心は虚ろであったのか。恋ではあるまい。恋ならばむしろそのことで心は一杯のはず。恐らくまだ敗戦のショック、『蛇』のあとがきにある「日本の崩壊、偶像の瓦解、物心両面の廃墟のなかで、主体的な精神のよりどころを喪失した」ということではなかったか。

 

5. かまつかの紅(あけ)濃し恋ふる影と繋(つなが)る

 こちらの句は恋の句であろう。

 かまつか=雁来紅は葉鶏頭のことで秋の季語。雁が来る頃に葉の色が赤や黄色に色づくのでこう呼ばれる。鶏頭も葉鶏頭も同じヒユ科だそうだ。ただ色は鶏頭に似ていても花は小さくて目立たない。葉鶏頭の学名はAmaranthus tricolorという。

 「かまつか」というのは何に由来する名であろうか。初出は『枕草子』六四段「草の花は」に

 又、わざととりたてて人めかすべくもあらぬさまなれど、かまつかの花、らうたげ也。名もうたてあなる。雁の来る花とぞ文字には書きたる。

とある。江戸時代の歳時記には雁来紅を「かまつか」と振り仮名してあるので「かまつか」=雁来紅との認識は出来上がっていたのだろう。

 その鮮やかで美しい雁来紅の紅色を愛で、「恋ふる影」つまり恋しい人の面影に繋がるのだと詠んでいる。この恋しい人が誰であるのかは知る由もない。

 

6. 枝豆の醜(しこ)嗜(す)く姉の嫁がざる

 これはちょっとひどい句だ。まず枝豆を「醜」、つまり醜いもの、不快なものと決めつけている。さらにその枝豆を好む姉を「嫁がざる」と紹介している。これではまるで枝豆なんぞ好きだから嫁に行けないのだ、と言わんばかりではないか。

 それにしても、と思う。作者自身は枝豆が好きなのだろうか。また兜子の俳句に父と母以外の肉親が出てくることは少ないのだが、この姉のことを本当はどう思っているのだろうか。この姉のその後がどうなったのかも気になる。


★―2橋閒石の句 3 眞矢ひろみ

 蜥蜴青く睦むも涸れし泉の底   「無刻」昭和32年

 ある一点が青く生涯橋わたる   「風景」同38年

 逆流や心の襞の草青み      「荒栲」同46年

 わがいのち風花に乗りすべて青し 「卯」 同53年

 一月の山青し困った男かな    「和栲」同58年

 閒石が句に用いた語彙としては、雪、芹、蝶、白など故郷・金沢や母親に繋がるものが多いが、昭和20年代から50年代にかけては青もよく使われる。挙句はその一部だが、多義的であるため、各々の青の受け止め方は読み手に委ねられる。五句だけでは判別しにくいが、「荒栲」「卯」を境に句風は徐々に大きく変化し、これに伴い青の句は減少する。自我意識の強さによって滲んだ青が薄らぎ、大人としての遊びの中で、雪の白さだけが残るといった風情かもしれない。

 閒石の句風変化はこれが初めてではない。小学生の授業で俳句に興味を持って以来、師も持たず結社等に加わることもなく、読書からの我流で作句を続けていたが、昭和24年、連句のほだしから逃れる形で「白燕」を創刊し、連句、エッセイと並び俳句実作にも本格的に向き合うこととなる。齢は既に五十路に入ろうとしていた。京大三高俳句会が「続いていれば、播水、誓子、草城、静塔らの人々と早くから関りができていた」(*1)と悔やんでも詮なきこと。まず流派を問わず広く交わることに努め「係累の無い気楽さから自由に振る舞う」ことで耕衣、兜子、六林男、重信等と懇意となる。折しも社会性俳句、前衛俳句の興隆期を迎えており、これを支えた俳人たちとの交流の影響は「無刻」「風景」の句となって表出し、句風は激変する。当時の実験的な手法を取り入れ、無季や下六の句が多くなり、郷愁俳人の面影は消えて、思念的で不条理な世界に浸かる。自我意識の強さが土台にあるとの指摘もあるが、「風景」には自己の名でもある橋という語彙をメタファーとした句も多く、その証左かもしれない。旧派の系譜を引く俳諧宗匠と前衛俳句の取合せとなるが、閒石自身は後日「現代西欧の文学芸術に強い関心を寄せていたので、意外な事象など何ひとつなかった」(*2)とし、「そこから得た見聞と刺激とは、私の内部発展にどれほど多くの寄与をしたか」と回想している。

 しかし一方、この時期の句への評価は極めて低い。「メタファーの自壊とイメージの雑駁さが目立つ」(恩田侑布子)、「気迫で迫るでもなく、修辞で唸らせるケレンもない」(高山れおな)、「修辞の屈折が多出していて、おおかたは不成功(略)それがまた微笑ましい」(金子兜太)といった具合である。ただし次の句を除く。

 柩出るとき風景に橋かかる 「風景」

 閒石の代表句の一つ。酷評渦巻く句群の中に佇立する姿も異様だが、風景が句集の名となり、橋も用いていることから、閒石自身にもそれなりの思いがあったに違いない。柩を橋に見立てるのか、現実の橋か、現世から来世への夢幻の橋か、橋は作者のメタファーか、能の橋懸りに繋がるのか等々、想像を膨らませることができる。悪い例えかもしれないが、連句であれば、多くの可能性の中で自分なりの読みを確定させて、付けを楽しむことができそうである。

 色々な読みが可能となる要因は、「出るとき」で結ぶ平明な文体や、風景という抽象性の高い語彙の選択にある。手元の資料だけの検索だが、昭和30年代までに風景を句に入れた例は極めて少ない。元来、漢語であることに違いないが、明治に入り西洋landscapeの翻訳語として用いられ定着した。西欧文学上の風景の発見は、閒石の専門である18~19世紀のロマン派に依るところ大である。風景は単なる背景ではなく、感情や内面を映し出す鏡のような存在となる。我が国の詩歌は自然の風物に人の思いを託す手法を古来有するが、この場面でも異文化の潮流は交錯する。無論、ここでの風景とは、個別具体的な風物を集合的、抽象的に指しているのだが、句の中に風景という語彙そのものを取り込めば、客観的な対象というより、ロマン主義的な主観・自意識の反映という色合いも俄然帯びてくる(*3)。この世から見ているのか、あの世から見ているのか、具象か非具象か、二極的なアングルが混然となって読み手に迫る。

 一方、この句は約二十年後の「和栲」に見られる、悠然として諧謔味たっぷりな句風の端緒と見る向きもあり、句の性格上そういう読みも可能だろう。閒石は亡くなる直前のエッセイで「どれほど学識才能を備えていようとも、それなるがゆえに却ってその灰汁が抜けなくてはこの種の文芸の境地は望めない。(略)囚われない心が要なのである。」(*4)とある。この種の文芸とは、エッセイのほか俳句連句等の俳諧文学全般を含めると見てよい。この句には灰汁がまだ残っているようにも感じるのだが、どうであろう。


*1 「わが来し方」 『俳句研究』10月号 昭和58年

 なお、当時の閒石が接したであろう関西前衛の様子は「豈39-2 特別号関西篇 2004」に詳しい。

*2(参考)閒石は随筆等のなかで、ワーズワースの詩論が芭蕉前後の俳論と似通っていること、イェーツの「個性と非個性、具象と非具象とが手を握る次元における客体、そういった意味の「物」に行きつこうとする態度に」深く共鳴すること等に言及し、パウンドやローウェル等イマジストにおける俳諧の影響等について、詩を引用しながら具体的に分析している。金子兜太は昭和30年代半ばごろ、閒石から、己が俳句観を裏付けるために欧米の文献も読むよう諭されたことを述懐している(「橋閒石全句集」栞 平成15年)。

*3(参考)「風景の発見」『日本近代文学の起源』柄谷行人 昭和55年

*4 「俳諧余談」 白燕俳句会 平成21年


★ー5 清水径子を読む3 佐藤りえ

 降る雪の中に薄給わたさるる

 引き続き『鶸』より。初出は「氷海」昭和29年3月号〈雪の中にて薄給を渡さるゝ〉。

 詩語としてなじみ難そうな「薄給」の一語が、「降る雪」も相まっていよいよ悲しい。現金支給の給料袋を、はかなさのあまり受け取り損ねてしまいそうである。

 この前年(昭和28年)、社会性俳句の話題が総合誌「俳句」などで取り沙汰される時期にあるが、この句はその枠組みには入らないように思われる。昭和27年、「氷海」発行所のあった大同社を辞した折には「耺はなれ春の浮雲小さけれ」「耺欲しや雪後の灯あしもとに」(句集未収録)と詠んだこともあった。「薄給」も「耺欲しや」ももちろん実感を表しているが、「降る雪」「春の浮雲」「雪後の灯」といった季感、それも詩的な状況のなかに置かれ、リアルな境涯詠とは一線を画している。ただし、自らの句境を詩的な世界へ抛り、幻想に浸ろうということでなく、作品として成立させる緊張感、美感によって統制されているものと感じる。

 樹がなくて音がして降る工場の雪

 前出句と同じ「氷海」昭和29年3月号の「工場」一連が初出の句。

 庭木であれ、里山であれ、樹木に降る雪は音立てて降る、という感じはあまりしない。雪が降っているのに気づくのは、窓からにしろ、表へ出た折にしろ、それを目にした時である。

 掲句はトタンか金属か、建造物に雪もしくは雪雫が当たり、見えないながら雪が降っていることを室内で感じている景と取れる。

 同じ一連に「足袋継ぐも物書くも壁壁が向く」(句集未収録)がある。工場の室内、それも窓のない部屋で忙しく働くうち、普段感じない何かの音がしているのに気づく。あるいは、工場の作業音の止み間の出来事だったろうか。見えないけれど、外は雪だ。積もる樹もなく、雪は建物と雨樋を経て側溝へ排出される。

 高度成長期に差し掛かろうとするこの時期、径子の住まう東京はインフラ整備、工業発展などにより環境汚染、公害が進み、人間は自然を置き去りにしつつあった。「あはれ」でも「みやび」でもなくとも、雪は降る。現在性を強く感じさせる一句。

『鶸』には雪の句が30句収録されている。第二句集『哀湖』以降に比べて格段に多い割合である。

 降る雪の見えぬ部屋にて落付けず 「鏡」

 雪を掻き舗道の新しき十字 〃

 生きて朝ぬくきこの一面の雪 「火の色」

 雪、寒さといった事象がこの時期通奏低音として径子の中に流れている。「氷海」昭和29年7月号の女流特集に「現在四十四才勤人、文京区西片町に自炊す。」と記した径子の戦後も、厳しい雪に降られながらの道程だった。


●―10 現代の句集(清水径子余論)/筑紫磐井

 佐藤りえの「清水径子の一句」の掲載に当たり、清水の第1句集『鶸』(牧羊社昭和48年刊行)について質問を受けた。「処女句集シリーズ」と銘打っている理由である。牧羊社の処女句集シリーズには若干情報が錯綜しているところがある。いくつか回答したのだが、それらをまとめてそもそも牧羊社という俳句出版社の概要について述べておいた方がいいのではないかと思われた。角川書店の俳句界における貢献や迷惑はよく知られているが、特に昭和期後半の牧羊社の位置づけを知らないと、現代俳句のありさまが見えてこないからである。一言で言えば、昭和40年代以降のシリーズ方式で名句集を噴出させたのが牧羊社であったのである。

 簡単に言えば、牧羊社という新興俳句出版社は目覚ましい出版活動を果たし、戦後派作家のアンソロジーを出した。特に、40年代後半の【現代俳句15人集】というシリーズで、高柳を除くほとんどの戦後俳人を網羅した感があり、このシリーズにより戦後俳句派は脚光を浴びることとなったと言ってよい。


【現代俳句15人集】

➀『忘音』飯田龍太[雲母]【読売文学賞受賞】

➁『竹取』石川桂郎[風土・鶴]

➂『操守』石原八束[秋]

④『冬濤以後』稲垣きくの[浜]

⑤『真名井』加倉井秋を[冬草・若葉]

⑥『神々の宴』角川源義[河]

⑦『暗緑地誌』金子兜太[海程・寒雷]

⑧『素志』 香西照雄[万緑]

⑨『沖縄吟遊集沢木欣一[風・天狼]

⑩『夏帯』鈴木真砂女[春燈]

⑪『二人称』津田清子[天狼]

⑫『鳳蝶』野澤節子[(蘭)・浜]【読売文学賞受賞】

⑬『枯野の沖』能村登四郎[沖・馬酔木]

⑭『白面』藤田湘子[鷹]

⑮『花眼 』森澄雄[(杉)・寒雷]


 大事なことは、読売文学賞はそれまでほとんど歌人ばかりがとっていたことで、ごくまれに松本たかしや石田波郷も受賞したが、水原秋櫻子も中村草田男も受賞できなかった。【現代俳句15人集】で初めて読売文学賞が受賞できたことである。このメンバーの中で、後年森澄雄や鈴木真砂女も受賞しているからこの顔ぶれが強力であったことはまちがいない。始めて俳句が短歌に追いついた事件だった。

 【現代俳句15人集】は引き続く中堅の処女句集シリーズに影響を与えている。【現代俳句15人集】の結社構成に準じて第1句集を出していない作家から中堅の「処女句集シリーズ」が編まれ、この中に清水の第1句集『鶸』があるのである。

 ちなみに牧羊社の「処女句集シリーズ」は2種類あり、昭和40年代末のシリーズは中堅俳人対象のもの、昭和60年度初頭は新人対象のものである。【処女句集シリーズ(中堅)】のラインアップを見てみよう。


【処女句集シリーズ(中堅)】

➀『白繭』櫛原希伊子[浜]

➁『愛鷹』中拓夫[寒雷・杉]

➂『海上』桜井博道[寒雷・杉]

④『月見草』嶋田摩耶子[ホトトギス]

⑤『鶸』清水径子[氷海]

⑥『海の記憶』鈴木詮子[秋]

⑦『海の石』須並一衛[雲母]

⑧『生国』竹本健司[海程・國]

⑨『風色』成瀬桜桃子[春燈]

⑩『石階』橋本美代子[天狼]

⑪『完流』平井さち子[万緑]

⑫『鳥語』福永耕二[馬酔木・沖]

⑬『傷痕』細川加賀[鶴]

⑭『雪浪』本多静江[雪解]

⑮『猿田彦』松本旭[河]

⑯『避暑散歩』森田峠[かつらぎ]


 私の知らない作家は誰一人おらず、また中堅というよりは大物も混じっている。この中で印象に残るのは、沖にいた福永耕二で私もいろいろ教わっている、これも名句集である。

 面白いのは、これほどの中堅・大物がいい年をして初めて処女句集を出していることで、その後のくちばしの青い新人たちがわれもわれもと句集を出しているのと対照的である。句集の考え方がわずか10年ぐらいの間に大きく変わったのである。清水径子もここに上がっている。

 少し中休みのようになるが、実はこの「処女句集シリーズ」(【処女句集シリーズ(中堅)】)に引き続き、牧羊社は「精鋭句集シリーズ」という企画も刊行している。


【精鋭句集シリーズ】

➀『火のいろに』大木あまり[河]

➁『氷室』大庭紫逢[鷹]

③『絢鸞』大屋達治[豈]

④『鵬程』島谷征良[風土]

⑤『花間一壷』田中裕明[青]

⑥『メトロポリティック』夏石番矢[未定]

⑦『窓』西村和子[若葉]

⑧『海神』能村研三[沖]

⑨『古志』長谷川櫂[槇]

⑩『銅の時代』林桂[未定]

⑪『芽山椒』保坂敏子[雲母]

⑫『午餐』和田耕三郎[蘭]

(これらは必ずしも第一句集ではない)


 【現代俳句15人集】【処女句集シリーズ(中堅)】につぐ世代として、牧羊社が売り出したい新人だったことは予想がつく。このラインアップもほとんど現在でも知られている俳人であり、前2つのシリーズの編集方針を継いでいることは間違いない。

 しかし、ここから牧羊社の経営方針が大きく変わる。【処女句集シリーズ(新人)】が出るのだが、その物量から言ってもこの「処女句集シリーズ」が驚異的であったことは否めない。【精鋭句集シリーズ】が戦後俳句世代(飯田龍太や金子兜太ら)やそれに次ぐ準世代の後継を発掘育成しようとしていたのに対し、「処女句集シリーズ」は「結社の時代」を予見するかのようにあらゆる結社の内部にくさびを打ち込み若手を無秩序に発掘しようとしていたのだ。その意味では、かつて「特集・俳句の未来予測」で、私は「巨人の時代は終わった」と述べたのだが、巨人の時代から、巨人のいない時代に向かっての潮流を作ったということが出来るかもしれない。

 経済的に恵まれない若い世代に句集を出版させるため、魁に当たる【処女句集シリーズ(新人)Ⅰ】を59年から出版開始した(全56巻)。総ページ70頁、収録句数200句程度、安価なペーパーバックスで定価1000円と【精鋭句集シリーズ】に比べてかなり簡易である。当時このシリーズで第一句集を刊行した作家は現在の60~70代作家のかなりを占めていると言ってよいだろう。句集名と作家名をあげてみる。ただここに掲げた作家たちは、その後の著名俳人もいるが、多くが行方がよくわからない。様々な流転の人生をたどっているわけで、【現代俳句15人集】【処女句集シリーズ(中堅)】【精鋭句集シリーズ】と違う俳句人生を歩んでいるらしいのである。従って所属結社[]はここでは上げない。


【処女句集シリーズ(新人)Ⅰ】

➀『明日』赤松湘子

➁『仁王』新井康村

➂『藍』荒巻日出子

④『早婚』石毛喜裕

⑤『花折々』五十嵐貞子 

⑥『風の扉』稲田眸子

⑦『北限』今井聖

⑧『坐』岩月通子

⑨『走者』遠藤真砂明

⑩『自分史』大槻一郎

⑪『山径』岡本欣也

⑫『満月の蟹』金子青銅

⑬『全身』金田咲子

⑭『雨の歌』片山由美子

⑮『潤』鎌倉佐弓

⑯『華』加茂志津子

⑰『藤房』唐沢富貴子

⑱『海月の海』久鬼あきゑ

⑲『水路』窪田久美

⑳『構図』黒部祐子

㉑『みむらさき』斉藤芳子

㉒『海図』佐野典子

㉓『花に燃え』塩田恭子

㉔『紐育にて』柴原美紀子

㉕『太山抄』白井真貫

㉖『風花』杉浦東雲

㉗『月明の樫』鈴木貞雄

㉘『深雪』関久江

㉙『冬椿』谷中隆子

㉚『環状陸橋』田村千代子

㉛『水晶』千葉孝子

㉜『桃』辻桃子

㉝『雪舞』外川 玲子

㉞『父子』富田正吉

㉟『喇叭音』永野史代

㊱『風の的』中村尭子

㊲『赤鉛筆』中村姫路

㊳『花摺』西坂三穂子

㊴『風の調べ』二塚元子

㊵『海星』長谷川登美

㊶『シャガ-ル展』羽鳥美奈子

㊷『湖神』福沢宏子

㊸『清世志苑』福嶋延子

㊹『破魔矢』星野高士

㊺『青垣』前川菁道

㊻『目礼』松田小恵子

㊼『妙光』松田貞男

㊽『平均台』松永浮堂

㊾『十一月』松本康男

㊿『銅鐸』三井量光

51『火事物語』皆吉司

52『雪の音』宮川みね子

53『魚と遊びし』山上カヨ子

54『山日』横岡たかを

55『深秋』吉田成子

56『手足』龍野龍


 【処女句集シリーズ(新人)】は以後平成5年ごろまでⅡ~Ⅷと出され、収録作家だけで二百名近く、中にはⅠに劣らぬ多くの作家を輩出している。主な作家と句集を掲げて見よう。


Ⅱ⑤『砧』小澤實⑧『鶏頭』岸本尚毅 

Ⅲ③『さくら』いさ桜子⑤『神話』遠藤若狭男⑩『髪』佐怒賀直美⑭『愛国』対馬康子 

Ⅳ➀『海彦』赤塚五行⑥『岳』石島岳⑨『日差集』上田日差子⑯『海市』小林貴子㉖『浮巣』中岡毅雄㉗『蛍の木』名取里美㉚『檸檬の街で』松本恭子 

Ⅴ➁『鶴の邑』藺草慶子⑧『気流』大竹多可志⑳『虎刈』寺沢一雄㉓『陽炎の家』高野ムツオ㊼『一葉』山本一歩㊾『雪意』若井新一 

Ⅵ➀『祭酒』山口剛⑦『水を聴く』高浦銘子


 さて、【処女句集シリーズ(新人)】は【精鋭句集シリーズ】のライバルに当たるわけだが、後発簡易版の【処女句集シリーズ(新人)】のメンバー、金田咲子、片山由美子、鎌倉佐弓、鈴木貞雄、星野高士、小澤實、岸本尚毅、小林貴子、高野ムツオらが、【精鋭句集シリーズ】らに劣るわけでもない。またその後、東京四季出版においても「新鋭句集シリーズ」(全30巻)を刊行しているし、単発で句集刊行した正木ゆう子、中原道夫もいた。出版社の企画そのものが意味があったわけではなく、それに呼応して生まれた時代の雰囲気が大きかったというべきであろうか。 


●―15 中尾寿美子の句 1/横井理恵

 2011年から始まった「戦後俳句を読む」のシリーズで横井理恵さんに「中尾寿美子の一句」の鑑賞を行っていただいたが、2025年からの【評論研究】での参加には、メールの不通でご返事がいただけなかった。しばらくしてから、佐藤りえさんが【清水径子の一句】を開始するに当たり、是非中尾寿美子も併せて読みたいという気持ちが強まった。これは佐藤さんも同感という事であった。なぜなら、二人は「氷海」、その終刊後「琴座」と双生児の様に歩んだ女流としてよく知られていたからだ。径子を知るためには寿美子を、寿美子を知るためには径子を研究する必要がある。今回遅れたが、横井さんから掲載の了解を得られたので【新評論研究】として掲載することとした。(筑紫磐井)

    *

 天為の横井理恵です。お仲間に加えていただきましてありがとうございます。

 天為の二百号記念特別号の特集「検証・戦後俳句――もう一つの俳人の系譜」で中尾寿美子を担当するまで、寿美子についてはほとんど何も知りませんでした。俳句文学館に通って資料を集め、ひたすら作品と向き合ううちに、私が少女時代を過ごした天沼に住んでいたこと、やや土地勘のある新座が終の地であったことなどを知り、親しみを感じるようになっていきました。切り口について考えあぐねていた時に、天為の会で、ある方から「寿美子の句ってわかんない!」と言われ、この人に、「なるほど、わかった!」と言ってもらいたい、という思いを強くしました。寿美子の軌跡と俳句というモノの在り方とは、あたかも年代を追って並べられた絵画展を見るように、必然を感じさせるものとして展開していくのです。その妙味を広く知っていただくことができたら幸せです。

 中尾寿美子:大正8年生まれ、平成元年没。その生涯は軽やかな転身と言えるでしょう。

    *

中尾寿美子の句/横井理恵

 霞草わたくしの忌は晴れてゐよ   中尾寿美子

 「死」というテーマを与えられた時、最初に頭に浮かんだのは「時代の死」であった。

 「戦没の友のみ若し霜柱(三橋敏雄)」
 「前ニススメ前ニススミテ還ラザル(池田澄子)」

 死者が近しい人であれ見知らぬ大勢であれ、戦没者たちはある時代の象徴であり、それぞれの個を太い筆でべったりと塗りつぶされた存在に見える。時代に殺サレタ人々への思いは同じ色調を帯びるように思われるのだ。今回東日本を襲った地震と大津波による死者もそうだ。誰かの友であり誰かの家族であり、一人一人に紡いできた物語がありながら、あの黒い、あまりにも黒い海の水に巻き込まれ、全ての人が一色に塗り込められてしまった。「時代の死」は私たちに問いかける。「おまえに責任はないのか」「なすべきことは何か」と。答える術のない問いをつきつける――それが「時代の死」だと思う。

 寿美子の句にはその意味での「死」は見られない。寿美子は敗戦引き上げを体験した世代であるが、俳句をはじめたのは戦後であり、日本の高度経済成長期である。最も「時代の死」から遠いところで寿美子は生き、作句していた。だから、今回のテーマでは書けないのではないかと最初は思った。しかし、よくよく考えてみると、「死」とはきわめて個人的なものである。むしろ「時代」によらない「死」こそがあるべき姿なのかもしれない。

 時代背景を無視することはできないにしても、生者は時代に塗りつぶされることなく自らの物語を紡いでいく力を持つ。戦後を生きた女性としての寿美子は、きわめて純粋に個人的な「死」を見ていたと言えるだろう。そんな一個人における「死」をテーマに、寿美子の句を見てみよう。

 人は生きていれば必ず誰かの死に出会い、やがては自らの死を迎える。寿美子の句において最初に出会った「死」は俳句開眼の師高木風駛の死であった。

 冬ばら抱き男ざかりを棺に寝て     『天沼』

 「高木風駛師急逝一句」という前書きのあるこの句の破調は、定型という器に納まらぬ溢れだす哀切の響きを持っている。人は死ぬときを選べない。生きてあることは親しい人の死に出会うことと切り離せない。俳句によって「今ここを生きる」道を歩み始めた寿美子は、そのことをかみしめていただろう。

 第二句集『狩立』から第三句集『草の花』にかけて、寿美子の句には「老婆」が多く登場する。鷹羽狩行は、「寿美子には老婆の句が多い。それのみならず、自分を老婆と類客観視する。」と書いている。そして同時に「死」という文字を句の中に入れた句、「自らの死」をモチーフにした句を作り始める。

 咳けばまさしく日本の老婆風の中   『狩立』

 梅林の余白に婆の影法師      

 死なば樹にならんと思ふ朧の夜     

 婆の死後野の涯にさく白菫      『草の花』

 桜冷ゆ瞑ればすぐ死ねさうに

 死後の景すこし見えくる花八ッ手

 冬耕のいつしか風になる老婆

 「生老病死」の「老」と「死」を見据えながら生きる寿美子であるが、これらの句は受け手にとってちょっと重い。見る目が据わっているかのようだ。それが、軽やかで楽しげな視線に変わっていくのが次の第四句集『舞童台』である。

 余生とは菜の花に手がとどくなり    『舞童台』

 老人も鶯である朝な朝な

 つばな笛黄泉明るむと思はずや

 鶯やことりと吾れに老いの景    

 明るく光のさす句が並ぶ。そして、第五句集『老虎灘』を象徴するのは「白桃」である。

 夢の世やとりあへず桃一個置く     『老虎灘』

 白桃にならんならんと鏡の間

 媼いま桃のひとつを遡る

 天元に白桃ひとつ泛びゐる

 みずみずしい「白桃」とその萎びかげんは、ユーモラスでまろやかな感覚に満ちている。自嘲的だった「婆」も今や雅びやかな「媼」となり、晴々と世界と交感しているのである。

 そして、掲句。

 霞草わたくしの忌は晴れてゐよ

 やがて来る自らの「死」を、寿美子はこんなに晴々とうたっている。今をしっかりと生きていれば、死でさえもこんなに晴々と思い描くことができるのだ。寿美子の句はそのことを教えてくれる。私たちは「時代の死」に立ち会わなかったことを、死者に含まれなかったことを気に病む必要はないのだ。あくまでも「個人的な死」を意気揚々と迎えることこそ、真に生きることなのだから。


2025年4月11日金曜日

【新連載】新現代評論研究(第2回):仲寒蟬、杉美春、佐藤りえ

 ★ー1赤尾兜子を読む2/仲寒蟬

 2. 蜘蛛とわれと背き一日を秋雨(あめ)降れり

 蜘蛛と言えば『蛇』の「鉄階にいる蜘蛛智慧をかがやかす」を思い出す。この『飈』からは数年後の作ということになろうか。鉄階の蜘蛛は下等生物ではなく智恵を持ったものとして描かれている。そう言えば岸の蛇も音楽を解しはしまいがどこか知能を持った雰囲気がある。

 それではこの句の蜘蛛はどうか。「われと背き」という表現からは作者と対等であるかのような印象を受ける。背くは心情の上のそれではなく単なる位置関係であろう。つまり作者が右を向いているとすれば蜘蛛は左、この蜘蛛は室内にいるものだとすれば小虫を捕獲するためにひねもす蜘蛛の囲に張り付いていることであろう。作者は作者でやることがあろうから蜘蛛を凝と見ている訳にはいかない。だから「背き」なのである。つまりてんでに別々のことをしている。だが作者はふとそこに蜘蛛がいることに気付いた。蜘蛛の方も作者を認識したかもしれない。

外では一日中雨が降り続いている。わざわざ「秋雨」と書いて秋の長雨を思わせる。ただの雨ならば季語は「蜘蛛」で季節は夏ということになるが、こう断わることで季語は「秋雨」、季節は秋ということになる。『蛇』以降は無季の句を量産する兜子にしては季節や季語に対して実に細かい配慮である。

 3. 承書必謹日本ハ朝顔の如き國か

 「承書必謹」とは難しい、戦前の大日本帝国を引きずっているような語彙である。字が違うが「承詔必謹」であれば聖徳太子の十七条憲法の第三条にあり「詔を承けては必ず謹め」と読み下す。恐らくこれのことだろう。十七条のうちでは第一条の「和を以って貴しと爲し・・・」が有名であるが、憲法と言っても現在のそれとは異なり当時の宮廷人や官僚の心得、道徳を説いたもの。

 「承詔必謹」とは「天皇の命を受けたら必ず従え」という意味である。この憲法は長らく忘れられていたが明治の尊王思想で復活し軍部もこれを利用した。そのお蔭で国は滅び国民は酷い目に遭った。兜子は陸軍機甲整備学校の特別甲種幹部候補生として入隊し、東京空襲の際に救出トラックで出動した体験を持つ。空襲の惨状を間近に見ていたのである。何という愚かな戦争をしたのだろうという国への怒りと自分もその軍の一員であったという後ろめたさが心の中で葛藤する。

 この句で朝顔が出てくるのは、朝顔は朝になると一斉に花開いて太陽の方を向く、このことが「承詔必謹」に通じるというのであろう。だから日本は古来「承詔必謹」の国であってお上の命令に忠実に従う、そういう国柄であるから先の戦争のようなことが起こったのだという省察と一種の諦めか。


★ー4藤木清子を読む1 「白い昼」/杉美春 

はじめに

 新興俳句運動の中で、数少ない女性俳人として頭角を現わし、優れた作品を発表しながら、忽然と姿を消してしまった藤木清子。「ひとときの光芒」(宇多喜代子)ではあったが、その残像は今も俳句史に残る。戦前・戦中の困難な時代を病弱な夫を支える妻として、後に寄食する寡婦として生きた俳人。その足跡を俳句で辿ることは、新たな戦前を生きる私たちにとって何らかの意味があると思われる。

 以下の点に注目しつつ、藤木清子の俳句を読み解いていきたいと思う。

1. 伝統俳句から新興俳句運動へ

 水南女から藤木清子へ~「京大俳句」を中心に

2.新興俳句運動の中で。「旗艦」を中心に

3.戦争と清子

4.「しろい昼」を中心に~断筆まで

  キーワードとしての「白」と「昼」が象徴するもの


1. ノラとならめ

 火を埋むノラとならめと思ひしころ 藤木水南女(昭和11年「京大俳句」1月号)

 近代演劇確立の礎石ともなった、と言われるイプセンの『人形の家』は、1879年の作。イプセンにおける女性解放の思想は、この作品に初めて色濃く現れてくる。平穏な生活を送っていた弁護士の妻ノラはかつての不正が露見し、夫から叱責を受ける。問題は解決するが、籠の鳥や人形のように生きることより、人間として生きたいと願ったノラは夫も子どもも捨てて家を出る。イプセンが本作を書いたきっかけは、1878年、ローマのスカンジナビア協会に対し、協会内の仕事に女性を採用し発言権を与えるように提案したところ、その定義が否決されたことだという。日本では、1911年に初めて上演された。当時の日本でも女性解放運動は徐々に発展しており、1900年には津田梅子が女子英語塾(前津田塾大学)を設立していた。また1911年には平塚らいてうが『青踏』を創刊、与謝野晶子も女性の教育や解放について論じるようになっていた。そして『人形の家』は日本で上演され、話題となった。このような状況を背景に、杉田久女の〈足袋つぐやノラともならず教師妻〉や藤木清子の〈火を埋むノラとならめと思ひしころ〉などの俳句が生まれたのであろう。

 藤木清子は、草城の「旗艦」で活躍した女流俳人である。昭和六年頃から夫とともに俳誌「廬火」や「天の川」に藤木水南女の名前で投句していた。「旗艦」が創刊されると2号から投句を初め昭和15年まで作品を発表し活躍したが、

 ひとすじに生きて目標うしなへり   藤木清子(昭和15年10月「旗艦」70号)

の俳句を最後に忽然と姿を消した。病身の夫を亡くした後、寄食した家で寡婦として片身の狭い暮らしをしていた。「ノラとならめ」という思いはあっても、時代的な背景を考えれば経済的な自立は困難であっただろう。やがて再婚話が持ち上がるが、再婚の条件は「俳句を捨てる」というものだった。

 久女と清子、この二人の女流俳人は才能を持ちながら「ノラ」にはなれず、ひとりは破門によって、ひとりは再婚によって、俳句への道を閉ざされたのである。

 藤木清子については、断筆後の情報は残っていない。そのため境涯から俳句を読み解くことは難しいので、作品そのものと作品を取り巻く状況を中心に読み解いていきたいと思う。


(1) 水南女から藤木清子へ

① 伝統俳句の時代

 (「蘆火」1931年(昭和6年)~1935年(昭和10年)「旗艦」入会まで)

 「蘆火」は、後藤夜半が昭和6年11月に創刊した俳誌で、「ホトトギス」の衛星誌。昭和9年10月、夜半の病気療養のため終刊。おもに関西の俳人が集っており、広島・安芸に住んでいた藤木清子も水南女の俳号で、夫の藤木北青とともに参加していた。表紙は東郷青児画伯のヌード画で「俳誌とヌードという取り合わせが、当時としては仰天するようなことだった・・・高屋窓秋の〈頭の中で白い夏野となってゐる〉に好意を寄せた文章が掲載されるなど、ここに新興俳句系の青年たちが集まりはじめた・・・」(『ひとときの光芒』藤木清子全句集 宇多喜代子解説「藤木清子とその周辺」より)

 曼珠沙華抱へて溝を飛びにけり (昭和6年12月「蘆火」2号)

 むき合ふてすわる母子や障子貼り(同)

 私たちが知ることのできる初出の俳句である。

 同じ「蘆火」2号には、夫の北青の俳句も一句、掲載されている。

 お手植えの松のかくれて祭店 (藤木北青)

 水南女も北青も「ホトトギス」系の写生句の域を出ていないが、「蘆火」を通して伝統的な俳句を学びつつ、新興俳句系の俳句と出会っていったのだろう。

 まち針を数へて夜なべ仕舞せり (昭和7年3月「蘆火」5号)

 藤木清子全句集には「蘆火」2号~5号までの7句が収録されている。

  昭和10年からは新興俳句誌「旗艦」「京大俳句」「天の川」に投句している。

 昭和12年後半からは「旗艦」がもっぱら創作発表の場となっていくが、まずは「京大俳句」を中心に清子俳句を見ていきたいと思う。


② 「京大俳句」への出句

 「京大俳句」は昭和8年(1933年)1月、三高・京大俳句会の平畑静塔、井上白文地、藤後左右、長谷川素逝らによって創刊された。編集人は静塔。昭和10年(1935年)から学外に門戸を開き、西東三鬼、高屋窓秋、石橋辰仁助、渡辺白泉、三橋敏雄らが参加している。新興俳句運動の中心誌として無季俳句や戦争俳句を多く取り上げたが、そのため1940年2月から8月にかけて多くのメンバーが特高警察によって検挙され、終刊を余儀なくされる。

 水南女は「蘆火」終刊後、「天の川」「京大俳句」「旗艦」の3誌を中心に作品を発表している。「京大俳句」に投句を始めたのは昭和10年8月から。それに先立ち同年2月から創刊まもない「旗艦」にも投句している。

   冬夜断想(京大俳句 昭和11年1月)

 冬を生く妻てふ名にぞあらがひて

 人こひし炭火は美しくはしくてれ

 火を埋むノラとならめと思ひしころ

 さびしさに湯気這ひのぼる吾が肋

 病弱な夫との生活は経済的にも精神的にも決して楽なものではなかっだろう。「妻てふ名にぞあらがひて」生きたいという思い、「ノラとならめ」という思いを埋火のように抱えながら、寂しさを募らせていったのではないだろうか。「湯気這ひのぼる吾が肋」という身体表現には、女性としての充たされない思いが溢れている。

  手記(京大俳句 昭和11年5月)

 不楽(さぶ)し妻荒びたる部屋がある

 ひしがれし涙が針にきらめくよ

 昭和11年9月から「旗艦」にも「京大俳句」にも、水南女改め藤木清子として出句している。9月7日に夫藤木北青が病死。その前後の心情が清子への改名のきっかけとなったのだろうか。

 あつき夜が四角な壁となりて責む (京大俳句 昭和11年9月、水南女改め 藤木清子)

 空は青磁ましろき蝶の孵りたる

 真っ青な空へ飛び立つ羽化したばかりの白い蝶。その蝶は清子の化身である。寡婦となった心細さ、寂しさと同時にある種の清々しさも湛えている。

 「旗艦」昭和12年2月(26号)後記に、安芸から神戸市への転居が報じられている。歯科の開業医だった兄を頼って寄宿したのである。以降、藤木清子として「京大俳句」への出句は昭和13年8月号まで続く。


★ー5清水径子を読む1/佐藤りえ

 風ときて寒柝消ゆる鏡かな

 清水径子は明治44年生まれ、義兄秋元不死男の「氷海」で俳句を始めたのが昭和24年、径子38歳の折のことである。中年の山に差し掛かるこの頃までに、径子は両親・祖母・弟と既に多くの肉親を失っていた。二十代のはじめには短期間の結婚、離婚を経験している。俳句という言葉の杖を操るまでに、ここまで多くの別離を経てきたことは、ウェットな意味だけでなく、径子のものを見る眼の下地として息づいているように思う。

 掲句は第一句集『鶸』の巻頭句。寒柝=冬の夜に打ち鳴らされる拍子木の音が風に乗って届き、消えた。窓辺に置かれた鏡台か、手鏡を覗いていたのか。いずれにせよ、書かれてはいないが喚起されるイメージとして、ひとりの情景が浮かぶ。ひとり居る部屋で、ひとりしか映らない鏡を、ひとりで見つめている。チョーン、チョーン、と乾いた音が窓外にあり、その音は遠く、室内の間近までは入ってこない。径子の俳句に色濃く漂うのはこうした「ひとりきり」の静けさである。

 序文に師・秋元不死男が「嘆きの詩性」と綴るように、径子の句には而して立つ身のかなしみ、嘆きがつよく漂っている。

 満月の下を下をとわがひとり

 降る雪の中に薄給わたさるる

 除夜の灯を金魚や草や木と領つ

 子を生(な)さず活けるそばから散るさくら

 しかし嘆きつつ、読む人をかなしませるものではなく、誰を責めるでもなく、痛いほどに屹立し、すうっと此の世を掬い取ってみせている。

 第一句集『鶸』は昭和48年刊行、句集題は不死男がつけてくれたものである。昭和40年以前の表記がある「鏡」から昭和47年の「蓬」まで九章428句を収める。この頃すでに俳歴は24年、径子は62歳になっている。

 序文に不死男が綴る「勝手な作り方」という見方は、不死男自身の作風に重ねたものでもあろうし、径子の作品についていえば肯定的な評言であると思う。心象をあらわす書きぶり、自然な音感の句跨がりの多用、印象的な直喩の多さ、後年師事する永田耕衣にも通じる、万物の位相が自己と一直線上にあるかのような捉え方など、『鶸』にはすでに径子の特徴と呼べる萌芽が散見する。

 あとがきに径子自身が魅力を感じたと挙げているのは、以下の三句。

 ピストルがプールの硬き面にひびき 山口誓子

 山鳩よみればまはりに雪がふる 高屋窓秋

 クリスマス地に来ちちはは舟を漕ぐ 秋元不死男

 硬質なスケッチ、リリシズム、来歴を語る言葉のわざ、径子の指向したものが見える選句である。また、この三句の選句だけからみても、強引に言ってしまえば、径子の試行がきわめて意識的に「現代俳句」を標榜していたように思う。すなわち自由な書きぶりでありつつ、散文化を周到に避けること。嘆きが感じられるのは句材、心情表現からのもので、切れ字による詠嘆が極めて少ないこと。伝統的な詠嘆を以てすれば、嘆いてみせることは、もっと容易いことだろう。径子はそうした手順を避け、きりっと、しゃんとしていることを選んだ。そのように見えて仕方がない。

〈俳句は「十七音の短詩」という考えを深めました〉と綴る、径子の考えを探っていきたいと思う。

2025年3月21日金曜日

【最新連載!】新現代評論研究(第1回):仲寒蟬、眞矢ひろみ、後藤よしみ

  BLOG「俳句新空間」で先行連載している「現代評論研究」は平成23年から連載を始めた「戦後俳句を読む」のシリーズの復刻であったが、これを受けて「新・現代評論研究」を今回から始めることとした。昨年実施した現代俳句協会の評論教室を契機にリアルタイムなBLOGの場で評論研究を進めようとするものである。その第1回目に当たる今回は取り敢えず3人が参加して頂いたが逐次追加されてゆく予定である。

 内容は、「戦後俳句を読む」に執筆した内容を多忙な中書き改めていただいた仲寒蟬氏、「戦後俳句を読む」に倣いつつ新しい作家鑑賞を加える眞矢ひろみ氏、取り敢えず短期連載で作家論としての取りまとめを考えている後藤よしみ氏と特に枠組みにこだわらない執筆をしている。今後予定される執筆者はさらに新しい企画を考えているようである。


★―1:赤尾兜子を読む1 / 仲 寒蟬

0. はじめに

 かつて2011年4月からの「戦後俳句を読む」(「俳句新空間」とその前身の「詩歌句」掲載)で赤尾兜子の俳句を46回ほどにわたって観賞した。

 今回の戦後俳句研究でも赤尾兜子を読もうと思うのだが、単に前回の続きというのでは発展性がない。筆者もあれから俳人としての経験を積み、それなりに色々と考えてきたのだからその兜子像も当時とは少しく異なる筈である。

 そこで手始めとしていわゆる兜子らしい前衛的な句が形成された『蛇』『虚像』よりも前の句集から読み始めてみようと思う。ちなみに生前の赤尾兜子には刊行順に『蛇』『虚像』『歳華集』『稚年記』『玄玄』(厳密には死後の刊行)の5句集があるが、年代順に並べると『稚年記』が一番先に来る。さらに死後にまとめられた『赤尾兜子全句集』刊行直前に遺品の中から見つかった句稿を元に『飈』という句集がまとめられたが、年代順で行くとこれは『稚年記』と『蛇』との間に当たる。

 したがって暫くは『稚年記』『飈』の俳句から読み進んで行くこととする。


1. 無花果や若き乳房ニある秘言

 『飈』の巻頭句であり「因習の彼方 一句」の前書を持つ。

 のっけから難しい句に出くわした。そもそも「秘言」は何と読むのか。「ひめごと」では「秘め事」とややこしい、やはり「ひげん」であろうか。大字源にも字通にも出ていない。意味としては秘めた言葉と取る他ない。

 『飈』は昭和58年2月28日発行、兜子の妻である赤尾恵以の「あとがき」によれば

  去年、『赤尾兜子全句集』が間もなく刊行される直前に、遺品の中から発見された未発表の二百二十二句でございます。

ということである。この句集の存在については妻にも他の何人にも一切知らせていなかったという。刊行に関わった和田悟朗によると

  日記風に書き連ねたこの句集は、初期の『稚年記』と、のちの前衛作品『蛇』との中間期に当たり、終戦直後のミリタリズムの反省とやがて始まる社会不安への危惧の心を抱いて、青年兜子が抒情主義から脱却しつつ、やがて前衛的姿勢への萌芽を見せる多情で思想的な作品集。

ということになる。

 さて、この句、無花果はその形と果汁豊かな感触とから容易に乳房を連想させる。若き兜子にあった恋、というより情事の記憶であろうか。前書の「因習の彼方」はどういうことだろう。まさか菊池寛の小説『恩讐の彼方に』とは関係あるまい。因習というからには古くて新しい時代には弊害となるもの。男女の関係で言えば恋愛感情のない結婚とか愛妾制度のようなものだろうか。その彼方ということだから新時代の自由意思に基づく肉体関係ということか。


★―2: 橋閒石の句 1/眞矢ひろみ


たましいの暗がり峠雪ならん


 昭和59年蛇笏賞受賞「和栲」の一句。選考委員の飯田龍太は「委員の誰ひとり、面晤をもたぬとは、まことに愉快」と記す。この句集は閒石が亡くなる8年前、傘寿記念の出版である。「大方の人が、受賞まで閒石の名を知らなかったようで」と正木ゆう子が述懐しているが(*1)、「和栲」は閒石にとって第7句集であり、永田耕衣や赤尾兜子とも親しく昭和33年には高柳重信の「俳句評論」創刊に参加し、鈴木六林男は閒石に再婚話を持ち掛けるほどであった(*2)。単に関東で無名だったのではと想像してしまう。一方、恩田侑布子が評したように「閒石が初老期までは平凡な俳人に過ぎなかった」(*3)とすれば、全国的には無名であったことの要因とも考えられる。

 さて、恩田評の正否はひとまず置くとして、閒石の作風の変化自体は、句歴が70年を超えることを考え合わせると、当然と言えば当然である。逆に生涯を通じて変わらなかったことに着目すると、その一つが故郷・金沢への郷愁の念が強く、生涯を通じてモチーフにしたことだろう。

 「和栲」には掲句のほか、故郷を語彙として使った句に


故山我を芹つむ我を忘れしや

はらわたに昼顔ひらく故郷かな

ふるさとや灰の中から冬の鳥


 また、故郷を強く意識した句として


こなゆきこゆき雪のでんでん太鼓かな

ふぶく夜や蝶の図鑑を枕もと

雪ふれり生まれぬ先の雪ふれり


などが挙げられる。

 閒石は祖父が加賀藩、お書物掛を勤めた書家という家に生まれたが、病弱な少年期を過ごす。中学を退学して自宅療養となるが、父親が図書館から借りてくる本に、江戸期から子規前後の俳書が含まれ、地方新聞や雑誌に投句するようになる。これが連句、俳句との馴初めである。金沢といえば、泉鏡花や室生犀星に始まり現代にいたるまで、多くの文人を出しているが、父親が俳書を借り与えるあたりを地域風土と呼ぶのかもしれない。その後、四高を経て京大に大正14年21歳で進学するが、この時期に両親や長兄を相次いで亡くしている。死と隣り合わせだった青少年の時期を、故郷で家族と暮らしたことが、閒石の精神に大きく影響したことは想像に難くない。

 大学では英文学を専攻し、教官の職を得て神戸に居を定める。専門は英文学、殊にラムやハズリット等のエッセイである。閒石自身も後年、金沢での家族の思い出、蟹、鰤、鶫、雛菓子といった食物、雪や氷柱、生家の佇まいなど、細々とした日常を随筆として綴っている。北陸とは違い、縁遠くなった雪には特に敏感で「雪という字にぶつかっただけでも、母親にめぐり逢ったような気がする」と書いている(*4)。

 昭和26年48歳の時の初句集「雪」には「ふるさとへ続くこの道秋の風」などあり、平成4年亡くなる直前の最終句集「微光」では「雪山に頬ずりもして老いんかな」と、自虐的でユーモラスながら凄まじい。頬ずりをするのは雪ではない。雪山である。閒石の「雪」は、映画「市民ケーン」の「薔薇のつぼみ」のイメージと重なってしまう。

 文頭のたましいの句についても、自己の魂の深部に、峠の雪、つまり故郷を見出しているものと読む。婉曲推量の助動詞・辞である「らむ」の機能を使い、話者(≒作者)の立ち位置を明らかにする。傘寿の閒石は、これから越えるだろう節目・峠に、魂の最深部に遺る雪・故郷金沢と母の背のぬくみを感じているのだろう。などと解せば深読み、妄想と叱責を受けそうだが「詩の本領は重層の曖昧さにある」「こうもとれああもとれる、というふうであってこそいいのだ」(*5)として、一つの読みに拘泥することを嫌った閒石である。このような読みに対しても、静かな笑みを浮かべるに違いない。

 以下、余談である。昨今、望郷をモチーフにした俳句を見かけない。交通通信のネット化が進み、全国どこでも同じフランチャイズの店が軒を連ねる時代である。そもそも豊かな地域風土を持つ地を故郷として持たない、又は認識しない俳人が増えている可能性も高い。また、唐突だが、野口る理が「俳コレ」(*6)に『意識していること』として「「今」や「思い」を書かない」としていたことを思い出した。望郷の念が俳句の対象から消えた、或いは共感を生む土台足りえなくなったように感じる。だとすれば、閒石は生涯を通じて故郷に向き合った最後の俳人かもしれない。


    *1『現代秀句』正木ゆう子 春秋社 平成14年
    *2『橋閒石全句集』栞 鈴木六林男 沖積舎 平成15年
    *3「終焉のむつの花」偏愛俳人館 恩田侑布子 角川『俳句』令和2年9月号
    *4「残雪」『泡沫記』橋閒石 南柯書局 昭和55年
    *5「比目魚」『泡沫記』 同
    *6「俳コレ」「週刊俳句」編集部 邑書林 平成23年


★―3:「高柳重信の風景」/後藤よしみ

 

一 はじめに

 (一)

 『芭蕉の風景』が、小澤實氏により二〇二一年に出版されている。松尾芭蕉が句を詠んだ地を作者が実際に訪れ、芭蕉の当時と変わらぬ風景のなか、また当時の面影が全く消え去ったなか、俳人と旅と俳句の関係を深くつきつめて考えつづけた連載をまとめたものである。「実際の風景と、それを形作ってきた文化の古層を読み解き、見聞きしたことを文章や句にとどめる。先人や歌枕の跡を訪ねた芭蕉の旅と二重写しとなり、時空を超えた豊かな文学世界」と評されている。

 この風景というものの概念は多様で、いろいろに解釈されている。一般的には、十七世紀以降に西欧において風景画が登場して風景に美を見いだすようになったとされる。日本においてはどうであろうか。柄谷行人は、明治二十年代の文学作品において、西洋と同じように風景に美を見いだそうとする発見がおこなわれているとする。

 その柄谷行人は、芭蕉において、風景は発見されなかったとしている。それに対する意見も多数出ている。

 それでは、戦後の俳句作家として高柳重信における風景とはどのようなものであろうか。高柳重信については、次のように紹介されている。「多行形式の俳句を開拓し、大いに実践」(澤好摩『現代俳句大事典』)。「従来の俳句概念を決定的に打ち破って出現した俳人。(略)多行形式によるイメージの屈折と重層化、カリグラムの表現法によって物語的世界を仮構、展開し、一句集によって宿痾の生の全体を象徴化した」(川名大『現代俳句』)とされている。このように戦後の俳句に新たな取りくみを展開した俳人である。

 高柳重信において、風景とはなにか。はじめに重信自身の言葉から見ていきたい。

 まず、少年期である。東京都文京区にある小学校の三階建ての屋上からは、校歌の一節、「富士の高根に筑波嶺に」と歌われているように、富士山も筑波山も見えた。重信は、度々屋上に上り、そこからの風景を眺め、後年の詩心を育てている。


《日々、その姿を眺めてくらすことは、やがては、その間近にあって、それを仰ぎたいという心を養い続けることであり、そしてまた、いつかは、その山に登ってみようとする思いを、具体的に確実につのらせつづけることでもあった。その山には、それにふさわしい霊魂がひそんでいると信じられていた時代であれば、それはすなはち、人間の精神と直接つながる思いであったわけである。(略)それは、ある一つのものが喚起する人間の精神や感情に、相互に共通した普遍的な感情を、あらかじめ期待することが出来る基礎でもあった。そして、この俳句表現の一つの特徴である即物的な発想も、そのような感受性の基礎がなければ、とても成立する余地はなかったろう》。(「俳句の廃墟」『高柳重信全集Ⅲ』)


 敗戦後に移り住んだ荒川河畔の戸田の風景は次のように描かれている。


《秩父颪と呼ぶ北風が、日がな一日吹きつのり、空気が澄みきってくる夕暮れどき、夕焼けに染んだ西の地平線にくっきりとした富士が雪を被て、うす桃色に遠望できるのが、わずかに正月らしい風景なのであろうか。しかし、その遠望の富士につづく枯色の荒川の堤防や、更にそのこちら側の畑には、元旦早々から麦踏みの人影が見え、思えば、富士の遠望に心を奪われているのは酔眼の僕ただひとりのようでもある。つかの間に日が落ちると、歌留多を読む声もない。秩父颪に吹きたわんだ電線が暗闇の中で寒々として唸り声をあげるだけである。そしてこの秩父颪も、戸田橋のあたりで荒川を越え、東京に入った瞬間、もう何の風情ももたぬ唯の北風になってしまうのである》(「戸田の正月」『高柳重信読本』)。


 敗戦直後の寒々としたなかの富士の山容が美しい。

 次に、重信が宿痾と呼ぶ肺結核のため、吐血し、宇都宮病院に入院していた一九六五年に関するの文章である。入院中の生活で《自然から語りつづけられる体験》が甦る。入院時の状況をつづった「宇都宮雑記」(『高柳重信全集Ⅱ』)によりひも解いてみる。まずは、ようやく歩けるようになってからのものからみていく。


《顎をひき、胸を張り、両手は帯を握って、しっかりと拳をつくる。そして、なるべく見はらしのきく、すこしでも高いところを目指して、静かに歩をすすめてゆく。よく晴れた日には、まだ雪を被た日光の山々が、あざやかな姿を北西の方角に見せ、遠く、東の方角に、筑波山と思われるものが眺められる。(略)それは、少年期から青年期になろうという十八歳の時であったが、僕は、あの大戦の困難なさなかに、すでに右肺に空洞を育てていた。

 大戦が終わって、(略)僕だけは、依然として、今日明日あたりという、あまりさしせまった思いではないにしても、あるいは半年か一年の後にやってくるかもしれない死について、漠然とした思いで、ただ、それを待つことだけが、のこされたわずかな仕事であった。

 しかし、思いもよらず、四十二歳の今日まで生きてみると、いったい、何が手遅れだったというのであろうか、いささか唖然とするほどの不思議な思いがする。

 だが、その昔、この日光や筑波の山々は、もっと直接に人々の日常生活につながり、その精神にも生き生きとしたかかわりを持っていたにちがいない》。


 さらには、


《ここでは、晴れているかぎり、眼前に日光の連山がくっきりと見え、たまさか快晴に少し高いところに立つと、うち続く家並みのはるか遠くに、うっすらと筑波山を眺めることが出来る。(略)だが、その昔、この日光や筑波の山々は、もっと直接に人間の日常生活につながり、その精神にも生き生きとしたかかわりを持っていたにちがいない。そこでは、人間がそれを眺めると同時に、山々もまた人間を強く見つめていたであろうし、季節に応じ天候に応じ、そして時々刻々に微妙に変化する山容は、人間とのさまざまな対話をもたらしたであろう。それは、いま、想像も出来ない澄みきった空気と、驚くべき荒涼とした見はらしの中のことである。おそらく、俳句が俳句であって、なおかつ同時代の多くの人間の心の中に、ある普遍的な感情を共通に喚起することが出来たのは、このような人間と自然との豊かな対話が、常に可能であったからであろう》。(「俳句の廃墟」『高柳重信全集Ⅲ』)


 このように、風景との対話を記している。ここで分かることは、重信が少年期から風景と対話をおこない、入院期の死を身近に感じた際の深い風景の洞察である。そこでは、俳句創作の根源にふれている。


 (二)

 重信の句業を概観すれば、次のことが言えるであろう。敗戦後に俳壇に多行形式により登場した重信。五〇年代後半から六〇年代半ばにかけ寡作となる。それが、この入院時期の風景の中に身を置くことから作風の変化がみられ、創作意欲が高まっている。

 初期の代表作から見ていく。


  身をそらす虹の                            

  絶巓                                          

      處刑台   

      *

   船焼き捨てし                                       

  船長は                                          

 

  泳ぐかな    『蕗子』(一九五〇年)

 

 形式面では、空白や一行空白を活用した視覚的造型性の多行形式をもちている。

 次に六十五年の風景体験からを、七一年の飛騨行での風景体験を経ての「飛騨十句」の作品は以下のようなものがある。


  飛驒の(ひだ)

  美し朝霧(うましあさぎり)

  朴葉焦がしの(ほほばこ)

  みことかな   

    *

  飛驒の(ひだ)

  山門の(やまと)

  考へ杉の(かんがへすぎ)

  みことかな

    *

  飛驒の(ひだ)

  闇速の泣き水車(やみはやのなきすゐしや)

  依り姫の(よりひめ)

  みことかな  「飛驒」『山海集』( )内ルビ (一九七六年)


 このように変化を見せる。形式面では、空白や一行空白がなくなり、四行形式に固定され、ルビがふられている。内容面では象徴主義の影響からの西欧的なものより日本的なものへと転換している。形式および内容の両面にわたる大きな変化が生じている。

 重信と風景の関係から重信の句業の移り変わりがどのようなものであるか。本稿では、これを探っていきたいと考える。

2025年2月28日金曜日

【連載】現代評論研究:第3回・私の戦後感銘句3句(3)藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、仲寒蟬、北川美美

 ●―1 近木圭之介の句/藤田踏青

汽船が一つ黒い手袋から出て航く  昭和27年作「ケイノスケ句抄」所収


 圭之介は昭和9年に門司鉄道局に入社しているので、これは関門海峡の風景からイメージしたものであろう。黒い手袋は機関手のそれであり、夕景の中でのそれであり、戦後という時代を象徴するそれでもあろうか。それ故、汽船とはある意味で新たな世界、新たな希望へと、いつかは明るみへと出で立つものとして託された存在のようにも思える。

 画家としての圭之介は数多くのイラストや挿画を描いているが、氏の画風の基調は「黒」である。モノクロの世界では、白い背景の空白感と相俟って、まるで俳句における大いなる空白、「虚」と対峙する極限化された詩語のように「黒」が据えられている。つまり「黒」は氏の芸術の源泉であり、詩的認識の根源でもある。そして、この立体的な詩的空間は青春時代に夢中で読んだJ・コクトーの影響も多いのであろう。


黒。意識の統一                 平成5年作


 このエピグラム風の宣言こそが氏の芸術意識を端的に物語っているように思える。意識の統一としての「黒」がアイデンティティを主張しているからだ。


心のきれっぱし黒く蟻になり地を這う   昭和25年作

月夜楽器が黒いケースにおさまる     昭和29年作

自画像の中にあって黒いその船      昭和32年作

月夜に野犬化する黒い一匹の周辺     昭和41年作

思想は黒い実私の中にこぼれているだけ  昭和60年作


 これ等、黒い「蟻」「ケース」「船」「一匹」「実」は各々に、氏自身に内在するものであり、混沌とした自意識を客観的に分析しつつ、最終的には原郷としての氏自身へ回帰してゆく構成となっている。形象化された「黒」の切断面は、氏自身をも傷つけているのだが、結局は真の「黒」そのものに収斂されてゆく。つまり、氏の意識の統一こそは「黒」なのである。

 この門司港の職場には、ほろほろ酔うた山頭火が何度も顔を出したようである。それは其中庵(小郡)を発って九州の旅に出る時の通り道でもあったからであろう。また門司埠頭から東上遍歴する為に乗船する山頭火を見送りにも行った事もあるそうだ。その圭之介居の庭には山頭火の句碑が二基建てられている。


へうへうとして水を味ふ   山頭火

音はしぐれか        山頭火


その山頭火へ圭之介は今も語りかけているようである。


あの雲がおとした疑問 山頭火何処へ   圭之介 昭和57年作


●―2 稲垣きくのの句/土肥あき子

まゆ玉やときにをんなの軽はづみ


 1970年「現代俳句15人集」(牧羊社)に名前を連ね、きくのの第3句集『冬濤以後』が出版された。あとがきによると1966年から1969年秋までの3年間の作品が所収されている。句集とは生まれ変わるための禊のようなもの、とはよく言われるが、きくのの出版サイクルはすべて3年である。人間の細胞がおおよそ6年で大きく入れ替わるといわれることを考えると、その半分の周期で生まれ変わり続けるきくのの俳句にかける情熱は相当なものである。また、俳人協会賞を受賞した前句集を超える作品をまとめる前提は、かなりのプレッシャーになるのではないかと思うところだ。

 しかし、60代になったきくのの作品には、先の第1、第2句集よりずっと穏やかな呼吸が伝わってくる。前句集の痛々しいまでの率直な心情の吐露を経て得た切り口に、おおらかな艶が加わった。掲句にあるようなリズムの良さに加え、まゆ玉の色彩と、天から降るようなゆらめきによって、下五の「軽はづみ」を単なる無思慮ではなく、万やむを得ず囚われてしまうものとして明るく際立たせる。わが身を顧みながら、軽はずみにも思えたいくつかのできごとを、反省や忘却したいものとしてではなく、人生にきらきらと振り注ぐ光りのように感じているのだ。

 寄り道も後戻りもあった人生に、少しばかり肩をすくめながら、いくつかの軽はずみと思われたできごとも、ひとつひとつ愛おしんで振り返っているのである。〈牡丹もをんなも玉のいのち張る〉〈別れにも振向くはをんな冬木の芽〉などにも、掲句と同じ感情が働いている。

 自身を潔癖に見つめつづけたきくのが、あるいはどの女性も同じ弱さを持ち合わせていることを知ったのかもしれない。彼女のさらけ出してきた傷は、時代をこえて多くの女性が思い当たるものであり、それを誰に言うこともなくささやかな自己愛をもって癒してきた。女たちは、その性の強靭さやもろさ、あるいはずるさや哀しさについて、まるごと肯定するきくのに、なにより安堵し、安らぐのである。


●―4 齋藤玄の句/飯田冬眞

死が見ゆるとはなにごとぞ花山椒


 昭和55年作、句集『無畔』(*1)所収。感銘句の3句目は「見る」ことにこだわり続けた玄の絶句をとりあげたい。玄にとって「見る」こととは何であったのだろう。見たものを俳句にする。あるいは、見えるものを俳句にする。さらには見えるように俳句にするという手法を多くの俳人は用いている。この絶句は齋藤紬夫人が病床の玄の口許に耳を寄せ、きれぎれの言葉を聴き取って筆録したものという。だとするならば、病床で玄は「死」を見たのだろうか。

 掲句の鑑賞に入る前に、この句が詠まれた背景を、つまり、昭和55年5月8日に永眠するまでの、玄の最晩年の軌跡を全句集の年譜を参考にたどってみる。昭和55年の玄は、新春の頃から発熱と腹痛に襲われ、1月22日に北海道旭川市の唐沢病院に再入院する。翌日手術を受けたが直腸がんが再発、諸臓器に転移しており絶望状態となっていた。だが、この間も絶えず句作・選句に傾注し、見舞い客には枕頭でのお見舞い句会を命じるのが常であったという。4月10日、前年の3月に刊行した第5句集『雁道』に対する第14回蛇笏賞授賞が決まる。病床で受賞の報を聞いた玄は、「今回の『雁道』では、純粋にナイーブに句作一途に専念できた」(*2)と語っている。

 そして、蛇笏賞受賞後、病のために目が見えなくなった玄は、主宰誌「壺」の投句を一句一句、紬夫人に読み上げさせて選句したという。玄の凄まじいまでの俳句への執着を物語るエピソードである。「見る」ことにこだわり続けた玄にとって、失明という身体的困難が作風に変化をもたらしたことは想像に難くない。

 玄は『雁道』命名の由来を句集の「あとがき」に次のように記す。

『雁道』(かりみち)という集名は、雁の通る道という意で命名した。雁道は、雁が通る時にはそれと知られる。また雁が通らなくともそこに存在する。時には見え、時には消え、在って無きがごとく、無くて在るがごとくである。これは今後の私の命のありようと、俳境のありようを示唆しているような気がする。(*3)

 もちろん、『雁道』の「あとがき」を記述した時点で玄はまだ、〈花山椒〉の句は得てはいない。しかし、掲句の〈死が見ゆるとはなにごとぞ〉の一節を読むとあきらかに見えない死を見ている玄がいる。玄にとって「死」は他者の「死」であって、「見える」ものであった。前夫人、石田波郷、石川桂郎、相馬遷子などの死を作品化してきた玄にとって、「死」は「無くて在るがごとく」のものであったはずだ。客観的な他者の死であったからこそ「見える」ものであった。たが、自己の死を見たものはいない。玄は病による意識の混濁と覚醒のはざまで、不可視の死をすでに光を失った眼の奥底で見てしまったのだ。そのとき病床でつぶやいた独白が〈なにごとぞ〉という驚愕の一語であった。自身の「死」を見てしまった玄は、驚愕したと同時に恥じたのではないか。理性の人でもあった玄は幻視をみた自身をはにかみつつ、健康であった頃に見た〈花山椒〉を思い浮かべたのだろう。それは「山椒」の古称である「はじかみ」からの連想であったのかもしれない。病のせいでとうとう幻まで見てしまった。そんな玄の含羞が〈花山椒〉に託されているように思えてならない。

*1 『無畔』昭和58年永田書房刊、『齋藤玄全句集』昭和61年永田書房刊 所載
*2 『俳句』昭和55年6月号 角川書店刊
*3 『雁道』昭和54年永田書房刊、『齋藤玄全句集』昭和61年永田書房刊 所載


●―5 堀葦男の句/堺谷真人

蝉はたと肩にいまわれ森の一部


 句集『山姿水情』(1981年)所収。

 夏。森の中をそぞろ歩いていると、一匹の蝉がはたと肩にとまった。瞬間、蝉も我も等しく大いなる森の一部であることを俳人は直観する。まるで自己自身が森の木々のひとつになってしまったかのような、自然とのホリスティックな合一感覚。蝉を肩にとまらせたまま、木洩れ陽の中に凝然と立ちつくす作者の「そのとき」をまざまざと追体験させる句である。

 「ぶつかる黒を押し分け押し来るあらゆる黒」の項でも触れたように、葦男は晩年に至るまで作品の形象性を重視し、実作においては対象をよく見ることを自他に課した。漫然と眺めるのではなく、みとめる、つまり、「見て止める」「しかと見とどける」ことを求めたのである。


しなやかな枝の全長雪を置き   『山姿水情』

散り敷いて桜紅葉の表がち    『山姿水情』

水勢に真向ふ山女魚ひとつは外れ 『朝空』

鴨万羽いま十数羽天に弧を    『過客』

柚子の宙しんと黒棘みどり棘   『過客』


 『朝空』(1984年)は生前最後の句集、『過客』(1996年)は歿後に編まれた遺句集である。還暦を過ぎた頃から葦男の俳句視力には一層磨きがかかり、とりわけ吟行などの嘱目詠において遺憾なく発揮された。彼に師事した山本千之(元「一粒」代表、故人)は喟然として歎じていう。

ことばによって「かたち」を成すに当たって類型的になることを避けようとすると、通常のレベルを超える観察力を要請される。このような仕方の一つに精密描写とも云える、より突っ込んだ観察がある(中略)何人も同じ景色を見ていたのに、ここまで精しく書いたのは先生だけであった。(「一粒」堀葦男追悼号 1993年より)

 これらの作品を読むたびに筆者は中唐の詩人・銭起の五言絶句「銜魚翠鳥」を連想する。「有意蓮葉間(意は有り蓮葉の間)、瞥然下高樹(瞥然として高樹より下る)、擘波得潜魚(波を擘きて潜魚を得)、一点翠光去(一点翠光去る)」カワセミの敏捷さと青い宝石の如き姿を活写する銭起は尋常ならざる動体視力の持ち主であるが、葦男の透徹した観察眼は時にこれに肉薄するのだ。

 ここで冒頭の作品にもどる。

 かくの如く平素より対象を凝視することに務めていた葦男が森の中で遭遇したのは、蝉の不意打ちであった。対象をとらえたのは視覚ではない。蝉が肩にぶつかる軽い衝撃と、薄い夏物の生地を通じて肌に伝わる爪の感触、そして森全体との合一感覚。一句をくっきりと立ち上がらせているのは、意志的・能動的・集中的な凝視ではなく、却って偶発的・受動的・全身的な感受なのである。

 蝉の句はこちらから摑みに行った句ではない。あちらから飛び込んできた句である。葦男がしばしば口にした「俳句を授かる」ということを何よりも端的に物語る作例であるといえよう。


●―8 日野草城の句/岡村知昭

妻子を担う片眼片肺枯手足


 第8句集「銀」(しろがね)所収。「草城頑張れ」の前書が付く。この1句の直前には「蠅生れ身辺錯綜す家事俳事」が置かれ、直後には高浜虚子の見舞い(前書には「五月二十三日 虚子先生を草舎に迎ふ」とある)を自宅「日光草舎」に迎えたことを詠んだ3句「新緑や老師の無上円満相」「先生の眼が何もかも見たまへり」「先生はふるさとの山風薫る」が続く。「銀」は草城亡き後にまとめられた句集であるのだが、まるで自らの手で一集を編んだかのような計らいを感じさせる並びとなっているのが、私にとってはなんとも興味深く思われる。妻子を養わなければならない勤めを果たすどころか、妻子の手を煩わせなければならない闘病の日々、その中でもとどまることのない俳句への情熱。そんな数々の「身辺錯綜」に溢れる日々のさなかに訪れた旧師とのようやくの「和解」に喜ぶ草城の姿が、作品の配列を通して、ある時間の流れを形作っているように見えるからだ。

 草城にはいまこのとき、数多くの人々が与えてくれるさまざまな支えによって自らの存在が成り立っていることを十分にわかっている。横臥しかない自分に代わって一家を支えるだけにとどまらず、夫の励ましになればとの気持ちから自らも俳句を作るようになった妻(日野晏子の俳句についてはいずれ取り上げてみたい)、「新興俳句の系譜を愛し、病める草城を重んじる」(伊丹三樹彦『人中』あとがきより)との深い師への思いをもって、すでに自由の利く体ではなくなった自分が主宰者である「青玄」の元に集ってくれる若者たち。それぞれの立場で自分を支えてくれる人々の姿を横臥しながら目の当たりにしながら、草城としてはなんとかこの想いに応えなくてはとの気持ちに駆られただろうことは想像に難くない。そのために何をすべきかを考えたとき、横臥の毎日を送る自分にできるのはただ俳人「日野草城」であり続けること。これこそが妻や俳句の仲間たちに報いる唯一の手立てなのでは、との想いが湧いてきたのではないかと思われてならないのだ。だから「草城頑張れ」との前書はいまここにある自分自身への励ましであり、「妻子を担う」とはたとえ体の自由を失っていようが、これからもずっと俳人「日野草城」であり続けることへの意思表示でもあったのだ。

 ただ、病床にある自らが抱くさまざまな思いに裏打ちされて詠まれたものでありながら、この1句からはいわゆる「境涯詠」が持つ求心的な雰囲気とは異なる、一種の軽さを帯びているように見える。この1句をはじめとして晩年(すなわち戦後)の草城の作品はいわゆる「境涯詠」のカテゴリーから読まれているのだが、その「境涯」の詠みぶりの視点は、自分と周辺に起こっている現象をそのままに像としての造形に向けられているように思われる。さらなる体の異変や家族や仲間たちのさまざまな姿も、それらすべてが起こるべくして起こったこととして受け止められて、それぞれの作品に立ち現れているのだ。この強い作句姿勢があればこそ、虚子の見舞いを詠んだ3句の中に決して虚子が受け付けるはずのない無季の句を入れられたのだ、「何もかも見たまへり」なのは自分自身が虚子へ向けたまなざしでもあるからだ。横臥の病床から「妻子を担」ねばならない「片眼片肺枯手足」の草城は、自分を支えてくれる家族や俳句仲間の前で、強い自信をもって俳人「日野草城」であろうとし続け、その姿勢を最後の瞬間まで見事に貫き通してこの世を去った。


●―9 上田五千石の句/しなだしん

 第1回で、昭和29年、五千石は神経症を患っていたことは書いた。

この件についてある人物によって書かれた文章がある。それは、句集『田園』の復刻版に付録の「交響集」の、鷹羽狩行による「伝承の使者―上田五千石論」(*1)という評論の一部である。

(前略)大学二年のときの強烈な精神衰弱であろう。
第一に下宿先の大井町で羽田から低空でくるジェット機音に屋根ごと揺すぶられ、空襲の恐怖を感じて夜中に幾度か寝床をとび出したという。第二は何でも人並以上に出来る彼は、何でもできることは実は何にもできないのではないかという不安を抱き、何をやればいいのかという方向失調の強迫観念が次第に募る。第三は女性に対する欲求不満、これは死ぬほど苦しく、また実際に死のうと思ったらしい。

と、なんとも歯に衣着せぬ物言いである。同じ時代に真剣に俳句に取り組んだ先輩で、いわば同士である狩行ならではの物言いなのであろう。

         ◆

 かくして7月17日、秋元不死男に出逢い、その夜には神経症は吹き飛んでしまった訳だが、吉原市(現富士市)唯称寺の「氷海」吉原支部発足の会では、秋元不死男の講演「俳句表現の生命」を聴き、そして句会に参加する。

 この際、五千石の句は秋元不死男選人位に入選する。


星一つ田の面に落ちて遠囃子   五千石(昭29年作)


 それがこの句である。「遠囃子」は季語としてやや微妙だが、遠く聞こえる祭囃子と思うと「祭」の範疇に入ろううか? または「星」が「落ちて」で、流星を詠んだ句になるだろうか? 時期は盛夏、場所は青田になっているであろう田園の道である。“星がひとつ田に落ちて”は夏の夜のファンタジーであって、遠く聞こえる祭囃子が現実のものと読むのが、やはり自然かもしれない。この句は、句集にも収録されておらず、もちろん自註にも掲載されていない。

         ◆

 いずれにしてもこの句が五千石の俳句へのめり込んでゆく記念すべき句である。

「ゆびさして」の星の句が句集『田園』の一句めに置かれ、この27年のこの句も「星」の句であることは、とても興味深い。

 ちなみに五千石には多くの星の句があるが、昭和18年、五千石10歳のときの「少年新聞」への投稿、入選句〈探照燈二すぢ三すぢ天の川〉もまた星の作品である。

*1 鷹羽狩行「伝承の使者―上田五千石論」は昭和44年2月「俳句」に掲載されたもの。


●―10 楠本憲吉の句/筑紫磐井

天に狙撃手地に爆撃手僕標的


 狙撃手は文字通り鉄砲で標的を狙うプロフェッショナルだが、爆撃手はあまり聞いたことがない。軍隊用語で言うと、航空機爆撃の際の爆弾投擲の専門家(標的に合わせて爆弾落下の条件を設定する者)を言うらしいが、なぜ「地」なのか。むしろ障害物を破壊する爆薬筒を匍匐しながら運んだという爆弾三勇士のようなものがふさわしい。しかしこの爆薬筒という武器は工兵部隊が使うもので、敵陣や鉄条網、地雷を爆破する兵器であるから人を標的にすることはない。調子よく読み進めるのであまり矛盾を感じないが、調子に騙されて論理はよくつながらない。逆に言えば詩歌は調子さえよければ論理など重要でないことの証拠になるかも知れない。「天に狙撃手」「僕標的」、要はこれだけを伝えればよいのだが、調子よく対句を使って明るい戦場を描いている、いや戦場のような環境にある人生をカラリと描いている。爆撃手は判然としないものの、いずれにしろ、僕の命を狙う危険な奴ばかりだからだ。これも前回同様62年の作品だから晩年の作品、死の前年の作品である。死の標的は自分である。「死ねばただ一億分の一人 水引草」「冬バラ瞑想「侮る勿れ汝が死に神」」などが同年作品であるが、論理的であるだけ詩歌としての飛躍がなく感銘句にあげるようなものではない。

 62年の作品としては前回の「郭公や」とこの「天に狙撃手」をもって憲吉の代表句としてあげておきたいと思う。63年、なくなる年ともなるとさすがに入院生活が続くためか、師の草城の晩年のような沈痛な句が見られるようになるが、これは憲吉にふさわしくない。憲吉の晩年は明るく調子よく軽薄であってほしいのだ。

 そもそも憲吉は師の草城をどう見ていたのだろうか。55年にこんな句がある。

師の句いよいよ懐かしかぐわし草城忌


 前回、堀本・北村と「戦後俳句史を読む」で草城と憲吉の比較を論じてみたところであるが、これは憲吉自ら草城についての感慨の一句である。論評と違って、本当に草城のすべてを現わしているかどうかは不明であるが、かえって散文の論理を越えて直感的に草城の一面を描いている的確さがある。憲吉にとって「かぐわし」い存在の草城は決して晩年寝たきりの草城の姿ではないだろう。やはり大正末期から昭和初期にかけての、才気溢れた草城、それこそ「ミヤコホテル」を詠んだ草城ではなかったか。当時相変わらず憲吉はこんな句を詠んでいる。


女体塩の如くに溶けて夜の秋 52年

若き人妻春昼泳ぐごと来る  53年

風花やいづれ擁かるる女の身 55年


 まるで「ミヤコホテル」なのである。


●―11 赤尾兜子の句/仲寒蝉

ゆめ二つ全く違ふ蕗のたう  『玄玄』


 最終句集『玄玄』の掉尾に置かれた句。昭和56年、兜子は不眠やアキレス腱の傷あとの痛みなどに悩まされていたが3月17日自宅付近の阪急電車の踏切で事故に遭い急逝した。享年56歳、一説には自死であったという。

 『赤尾兜子全句集』は作られた順に編まれている。最初に『稚年記』、ついで『蛇』『虚像』『歳華集』そうして最後が『玄玄』である。しかし刊行されたのは『蛇』(昭和34年、34歳)、『虚像』(昭和40年、40歳)、『歳華集』(昭和50年、50歳)、『稚年記』(昭和52年、52歳)の順であった。なぜ晩年になって初学の頃の作品集である『稚年記』を出版したのか。あとがきで兜子は「周囲の、度重る誘ひにのつて」遺書として父に手渡した句稿、父も亡くなり「三十年あまり筐底にねむりつづけて」いた句稿を湯川書房から出版することにした旨を書いている。『歳華集』の後、兜子はそれまでの無季も辞さず破調の多い新仮名遣いの俳句から有季定型、歴史仮名遣いのそれに回帰(?)していた。そのことと自分の初学の頃の有季定型、歴史仮名遣いの句稿を世に出そうと決めたこととは無関係ではないように思われる。

 その晩年の有季定型、歴史仮名遣いの俳句たちは作者の突然の死によって整理されないまま残った。ただ次の句集上梓の意志は固まりつつあり、句集名を『玄玄』にしたいということを周囲に告げていたと言う。『玄玄』は兜子の死後に編まれたためにそれまでの4句集と異なり本人の編集を経ていない。

『赤尾兜子全句集』のあとがきに和田悟朗は次のように書いている。

最後の一句、「ゆめ二つ全く違ふ蕗のたう」は、没後かなりの日数がたってから、兜子の日記から発見された作品の一つで、その執筆は逝去のほんの数日前に当たる。そこに書きこまれた句は、その時の心情をそのまま書き連ねたものが多く、その中からこの一句だけをとくに恵以夫人の許可をえて、事実上の絶句として添えることにした。全巻を通じて唯一の未発表作品である。

 兜子の人生を離れて好きに解釈すれば「ゆめ」は誰かと誰か、例えば夫婦同士、友人同士といった二人の見る夢が異なっているということか。その場合の夢は眠って見る文字通りの夢と言う意味かもしれないし所謂未来のビジョンと言う意味での夢かもしれない。しかし考えてみれば見る人が違えば夢が異なるのは当たり前。別の見方をすれば同一人物が別の機会に見る二つの夢が全く違うということかもしれない。例えば気分が高揚している時と落ち込んでいる時に見る夢というように。

 蕗の薹は春になると真っ先に地面を割って顔を出す。これから過ごしやすい、いい季節に向かうという希望を込めた季語と言える。それに蕗の薹は蕗の子供であるからどのように成長していくのか未知数なのだ。二つの夢と蕗の薹との取合せは、従って将来の可能性、それも明るい可能性を示唆する。兜子の悲しい最後を想い合わせると、この句が全句集の最後に置かれていることが実に大きな救いのように思われる。


●―12 三橋敏雄の句/北川美美

山山の傷は縱傷夏來る


 環境は、人格形成に加え、作品に大きな影響を及ぼす。三橋敏雄の出生地・東京都八王子市は、西南には富士山、南には山岳信仰として名高い大山、そして丹沢山系が臨める。古くから宿場町として栄え、織物産業を中心に物流中継地としても発展した。筆者の出身地・群馬県桐生市とも、その織物文化交流は古く、八王子・大善寺境内の機守神社が桐生・白滝神社から勧請された記録もある。

 三橋には山を詠った句が多い。「裏山に秋の黄の繭かかりそむ」(『眞神』)「蝉の殻流れて山を離れゆく」(『眞神』)「山を出る鼠おそろし冬百夜」(『眞神』)「山里の橋は短し鳥の恋」(『長濤』)など。三橋敏雄の眠る墓地、八王子・吉祥院の高尾山が見渡せる高台に句碑「たましひのまはりの山の蒼さかな」(『眞神』)が建立されている。どの山の句からも山を背に角帽の三橋青年の姿が見えてくるようだ。掲句は『疊の上』に収められている。

 縦傷とは何か。開腹手術の場合、縦切りは、視野が広く手術しやすく、緊急手術はほぼ縦切りになるらしい。横切りは術後に傷が目立たないというメリットがある。縦傷とは深く跡が残る傷である。山の縦傷。伐採でむき出しになった「不整合」という地層(ジュラ紀=約1億4000万年前)がみえたのだろうか。山の縦傷から太古がむき出しになり、自然破壊への警告とも読める。そこに人を灼く夏がまた来る。 

赤蜻蛉わが傷古く日を浴びて (『鷓鴣』)

 一方、「傷」という言葉が一致している上掲句と並べてみると、不思議と「傷」の意味が同じにみえてくる。一瞬にしてついた昔の深い傷、夏から秋になると思い出すもの―「戦争」と結びつけるのは短絡だろうか。戦争は思い出したくない過去であると同時に、決して消えることのない歴史的事実だ。「傷」とは、ゆるぎない「過去の事実」に因るものである。

 『鷓鴣』と『疊の上』は制作年として10年以上の開きがあるが、「赤蜻蛉」の句を土台とし、「山山の傷は縦傷」の句が生まれたと思える。技法としては、前回(第二回)の「腿高きグレコは女白き雷」と同様、「は」の使用に注目している。

 三橋敏雄のような大正末から昭和初めに生まれた世代が「戦中派」とよばれ、注目されるようになったのは、昭和30年代初めのことだ。働き盛りの30代40代である。「もはや戦後ではない」(1956年)という言葉は、「戦前」のレベルを超えることは易しいがその先容易ではないという意味だった。「戦後」という言葉は使われつづけてきたが、3.11の震災を契機に、「戦後」から「災後」に変わるという論考(*1)がある。「災後」が文字変換トップにくる日も近いのか。注目していきたい。

 「傷」それは、「過去の刻印」ということに気付く。


*1)「災後政治の時代」(読売新聞2011年3月24日文化欄)御厨貴(みくりや・たかし):政治学者、東日本大震災復興構想会議議長代理

2025年2月14日金曜日

【連載】現代評論研究:第2回・私の戦後感銘句3句(2)[執筆者]藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、山田真砂年、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、仲寒蟬、北川美美

 ●ー1近木圭之介の句/藤田踏青

虚構ノ美シサ触レレバ風ニナル


 「層雲自由律二〇〇〇年句集」(平成12年刊)所収の、作者が81歳の平成5年の作品である。掲句については以前「豈」にも書いたが、俳句は現実に触発された思いによって創られるが、現実的な世界を具体的に描く段階から発し、非現実的な虚構の世界を抽象的、シュールに描く段階へと、創作の意図のベクトルは拡大され、多様化されてゆく。そしてその虚構の美しさを保証するものはあくまで言葉のリアリティでなければならない。即ち、言葉が拘束するのである。

 「虚構と現実」とは「文学の真実」にも相通じるものであり、その根底には人間の存在が横たわっている。文学には限界は無い。延いては表現方法と内容にも限界は無い。虚構とは表現技術の一方法なのであり、文学(俳句)だけではなく、芸術の全ての行為は虚構である、との言も過言ではない。そこに全ての本質が込められているのだから。

 掲句は漢字とカタカナの表記であるが、これは圭之介が画家としてデッサン風に描いたからでもあろう。特にカタカナ表現は虚構の構築過程のメタファーに相当するものであり、その裏に硝子の如き脆さをも秘めている事を示唆している。またそれによって「虚構ノ美シサ」と「風」が印象鮮明に浮かび上がってくる効果もあろう。そしてその虚と実の世界に「往きて帰る心」が余すところなく表現され尽くしているとも言えよう。

 圭之介の詩「パレットナイフ」(「近木圭之介詩画集」平成17年刊)に次の様なものがある。


Ⅰ 現象は飛躍の中で虚構

  感受性は非存在の座から訴える

Ⅱ よどむ思念はいつか変貌

  偽りの衣装

  演技のなかで透視される実体


 ここでも虚構と現実が相互に照応しあっているのがわかる。詩人として、画家として、俳人として、圭之介は吐き続けるのである。


ドコ切ッテモ日曜ノ午後 曖昧ナ狂イ   平成5年作

イノチ詩語吐ク 微量ノ毒吐ク      平成9年作


 荻原井泉水は層雲第一句集<生命の木>(大正5年刊)において「芸術より芸術以上へ」と主張し、戦後もその求道的な「層雲の道」を説いたが、圭之介は「芸術より更に芸術そのものへ」との志向へと深めて行ったものと考える。それ故、晩年の井泉水の方向性とは異なった独自の作風となっていった。


●―2稲垣きくの句/土肥あき子

バレンタインデーか中年は傷だらけ


 1963年第一句集を上梓した直後、「春燈」主宰久保田万太郎を亡くす。そのわずか3年後の1976年に出版された第二句集『冬濤』で俳人協会賞を受賞する。句風に大きく方向転換が見られるのは、万太郎の死が影響していることを感じさせる。

 句集には1965年、まだアンカレッジ経由で世界旅行をしていた時代に、パリ、ローマ、サンフランシスコと賑やかな旅吟が混じる。〈夏帯にたばさむものやパスポート〉〈甃よし夏足袋のふみ応ヘ〉〈ゴンドラの波きて匂ふ水も夏〉と、それはまるで渡り鳥が係留地に点々と立ち寄っているような軽やかな詠みぶりである。

 また、そののち、あきらかに恋人との死によって永遠の別れが訪れる。恋人を失ってのち、きくのは秘めたる愛を作品へと解放した。恋ほど軽くなく、情念ほど重くない、そして背徳の悲しみを背負ったきくのの愛は、完全な幕引きにならない限り、俳句にもエッセイにも個人を特定することができないよう配慮してきたものだった。

 掲句は「ひとの死ー」と前書された連作に続くものである。不二家のハートチョコレートが発売されたのが1971年、このあたりから日本にバレンタインデーが定着したといわれる。掲句は1966年の作品であることから、まだ一般にバレンタインデーがなんのことかも、よく分からない時代である。

 しかし、前年ヨーロッパ各地を旅行してきたきくのにとって、それが愛の日であることはじゅうぶんに意図し、さらに誰もが聞きなれない言葉であればあるほどふさわしい斡旋だった。

 「そうか、今日は愛の日か…」と恋人を失った日々のなかで思うきくのは、傷だらけになったわが身をつくづくと見回し、名誉でも災難でもない、ただひたすら自分でつけてきた傷にそっと触れている。


●-4齋藤玄の句/飯田冬眞

たましひの繭となるまで吹雪きけり


 昭和52年作、句集『雁道』(*1)所収。第14回蛇笏賞の選者の中では、森澄雄が感銘句のひとつにあげただけだが、没後30余年を経てもなお、歳時記の用例に取り上げられることが多い句。齋藤玄の代表句という者もいる。前回の〈おのおのの紅つらならず曼珠沙華〉と比べると写実の目とは異なるが、何かを見ている作者はたしかに表出されている。何を見ていたのか、それを探るのが今回のテーマでもある。この句について玄は、自註(*2)にこう記す。


「吹きまくる吹雪の中で、僕の魂は雪で真白になってゆく。その上にまた雪が吹きつけて重なってゆく。魂まで繭のようになってしまった」


 しかし、読者には「魂まで繭のようにな」るとはどういうことなのかが判らない。見たものを追体験できるような作り方ではないからだ。前回の〈曼珠沙華〉の句は対象を見ることで生まれた。群がり咲く曼珠沙華を見て「一団の火」のように感じた「紅」の色ではあるが、子細に見ると一花一花、個々の持つ紅色に差異があることを発見した。その認識の結果を〈つらならず〉という語を用いて曼珠沙華の本質を描き出すことに成功した。見たものを見せることで共感が生じたのだ。

 見ることは対象を認識するための過程のひとつである。五感を駆使した句は、表出された言葉を手がかりにして作者のつかみえた認識に遡及しやすくなるため「開かれた俳句」といえるだろう。いっぽう、認識そのものは、五感の架け橋を用いなければ、伝達することは困難である。「閉じた句」とは多く、認識そのものを詠んだ際に付与される評言といえるだろう。そうした「閉じた句」を鑑賞する際に手がかりとなるのが象徴的な語、イメージではないだろうか。

 掲句の場合、手がかりは多いように思える。〈たましひ〉〈繭〉〈吹雪〉。なかでも季語の「吹雪」には、作者の住地が北海道であることを踏まえれば、風土と魂の相克という図式化した鑑賞に誘い込む陥穽すらある。だが、この句から感じるのは、風土の呪縛から解き放たれた詩魂の飛翔などといった空疎なものではない。もっと切実なものだ。

 句集の配列をみると、この句の前に「病む妻の侘助の番をするでなし」があり、三句あとに「きさらぎの誰の忌ならむ髪ばさら」がある。そこから作句時期を敬愛していた相馬遷子の一周忌(1月19日)を含む一月中旬ないし下旬と類推してみたい。作者が、友の一周忌を契機にして、自身の病や妻の病から漠然と感じ取っていた「死」という見えないものを凝視することで受け止めた命のありようを詠んだものと言えないだろうか。つまりこの句における〈吹雪〉とは、老病死といった生きることの苦しみ、とりわけ「死」への恐怖を表し、それを感じ続ける〈たましひ〉とは作者を含む命あるもの。〈繭〉とはそうした感じやすい命を包みこみ、保護する悟性そのもの。いうなれば、「死」の恐怖を感じ続ける〈たましひ〉が「死」であり「生」でもある〈繭〉を生み出したのだ。繭とは「死」であり「生」でもある両義的な存在。だが「生」や「死」に翻弄されることはない。〈繭〉という象徴的な語から読み取れるのは、凝視した果てに到りついた作者の境涯であり、命を見続けることの永遠性である。見ることは次の生への過程のひとつという認識そのものを詠んだ奇跡の一句である。

 冒頭に記した「何を見ていたのか」という最初の問いに答えるならば、「命を見ていた」ということになるだろうか。

*1 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載

*2 自註現代俳句シリーズ・第二期16『斎藤玄集』 昭和53年 俳人協会刊


●ー5堀葦男の句/堺谷真人

沖へ急ぐ花束はたらく岸を残し


 出航する貨客船。色とりどりの紙テープが宙に舞う。やがてテープは次々と切れ、人々の手から青い波間へと滑り落ちてゆく。餞の花束を高く振りつつ沖へと遠ざかる船客たち。一方、船上から望む埠頭には、見送りの一群の後方で立ち働く荷役の人々の姿があった。

 葦男は神戸育ちである。小学生の頃から、夏冬の休暇に父と神戸~横浜間を海路旅行し、詩情を蓄積されたという。大学卒業後は大阪商船に入社、はじめ神戸支店、ついで大阪本社に勤務した。海や船は特別親しい存在だったのである。

 しかし、彼が入社した1941年に太平洋戦争が勃発、翌年には国家総動員法に基づく特別法人船舶運営会が設立され、海運業界も国家統制の中へと組み込まれてゆく。1947年、肺患を抱える葦男は劇務に耐え切れず転職。棉花関係の職場を選んだのは、仕事の性格上、海彼とのかかわりを温存できるという淡い期待があったためかもしれない。

 冒頭の句も『火づくり』(1962年)所収。句集最末尾の「祖国愛憎」中、船舶を素材とした6句のひとつ。20音節の破調だが、「寒暮の波になぶらせ離心軽い吃水」「灯漏らすキャビン鋼より緻密な沖指しつつ」など他の5句に比べ、表現は際立って平易であり、記憶に残りやすい。

 ここで、『火づくり』上梓と同年、第10回現代俳句協会賞を受賞した葦男のコメントを聞こう。


 だんだんと俳句の特質が、時間性よりも空間性に、詠唱性よりも形象性にあることが分って来るにつれて、本格的なデッサンを身につけたいと思うようになり、虚子はむろんのこと現代の先輩作家の技法を句集から学ぶことに努めた。

(「俳句研究」1963年1月号所載「受賞のことば」より)


 「沖へ急ぐ」は受賞作品「砂礫の涯」50句に採録されている。が、連作とも見える他の5句の姿はそこにはない。句の取捨を左右したものは何か。筆者は「詠唱性から形象性へ」というテーゼに背馳することを、他ならぬ作者自身が行ったのではないかと見る。「オキエイソグハナタバハタラクキシオノコシ」この句は破調であるにも拘らず、同音や類似音を巧みに配し、詠唱性に優れる。景は淡白である。「本格的なデッサン」というよりも余白の多い略筆である。その余白に響くのは海風に遮られて切れぎれに届く家族や友人の声であり、岸壁に打ち寄せる波の音であり、船荷や起重機の稼動音であり、そういったもろもろの音声(おんじょう)が混淆する海上のサウンドスケープなのである。

 神戸市の海岸通には1922年竣工の商船三井ビルディング(旧大阪商船神戸支店)が現存する。渡辺節の設計によるこの優美なオフィスビルは、西向き入口のドアの上部にブロンズ製の欄間がある。中央には追い風を孕む帆船を描いた円盤状のレリーフ。周囲は透かし彫りの青海波文様である。筆者は葦男遺愛の白銅の文鎮を目睹したことがある。藍碧の青海波の上を飛び急ぐ5羽の金色の千鳥。

 思えば、四海波静かなることを寿ぐこの意匠ほど海を愛した葦男にふさわしいものはない。そして平和希求という戦後日本の原点にもその思いはどこかでつながってゆくのである。


●―6富澤赤黄男の句/山田真砂年

爛々と虎の眼に降る落葉  富澤赤黄男


 句集『天の狼』(昭和16年8月1日発行、旗艦発行所、発行者水谷勢二(砕壺))の巻頭に置かれた句であり、富澤赤黄男の代表句の中の一句である。

 この句集は、逆年順に編まれており、もし編年であれば掉尾を飾る句であったろう。何故逆年順にしたかは興味あるところだ。

 さて、この句には句集『天の狼』における赤黄男の特徴が顕著に現れている。

 密林の中で飢えと孤独に耐えながら、眼の中には飢えを満たすべく獲物を希求する燃えるような光を湛えて待ち続ける虎、時折視界のなかに動くものは音もなく天上から降ってくる緑の葉。ここには黄色と黒の鮮やかな虎の縞模様や炎のような眼の光り、そしてひらひらと舞い落ちる緑という、すでに多く人に指摘をされている色彩感覚が、また孤絶感が現れており、赤黄男ファンのみならず多くの人を魅惑する。

 落葉を緑色と捉えることに違和感をもつ人もあろう。それは落葉を季語として解釈しているからである。

 赤黄男は『俳句を詩の特殊とする所以を一つに十七音形式に置いて、この最大の俳句性を確保する限り、本質的伸展の為に季題を必ずしも要せずとする方向に、より自由と発展を期待できるやうである。・・・新興俳句は、純粋の俳句を文学しつつあるものであり、この十七音定律たる最大の俳句性を捨てては俳句は存在し得ない。』と「新興俳句将来の問題」(「旗艦」昭和10年5月)と述べているように、この時期の赤黄男は、詩としての俳句で死守すべきは定型であり、季語は必須ではない。従って赤黄男自身はこの落葉を季語として認識していない。


密林の詩書けばわれ虎となる


の句もあり、また赤黄男が兵役についていたときに中支の野戦病院に入院したことを考慮すると、この虎は南支の密林が相応しい。とすれば季語としての枯れた落葉ではなく密林に緑のまま散る落葉でなければならない。

 さらにもう一つの特徴は、爛々(らんらん)のように同じ音の重なる言葉の使用である。


瞳に古典紺々とふる牡丹雪

銃聲がポツンポツンとあるランプ

向日葵の貌らんらんと空中戦


など全217句中およそ一割、十句に一句の割合で同音を重ねる言葉が使われている。そしてそのほとんどが擬態語であるが、十七音の制限のある定型では、多くの言葉を要さず、詩情を感覚的に伝え読み手の心の琴線を共鳴させるためには効果的な方法である。

 この句は私の中で燦然と輝く金字塔として存在し続けている。



●―8青玄系作家(日野草城)の句/岡村知昭

高熱の鶴青空に漂へり 日野草城


 第7句集「人生の午後」所収。この句が書かれた昭和24年は日野草城にとっては大きな転機の年であった。まず2月には「風邪を引き、高熱と激しい咳嗽が続いた。相当応へ、以後ずつと臥たきりとなつた」(「人生の午後」各章前の前書きより)。4月には休職中の会社を正式に退職、25年の会社員生活にピリオドを打つ。直後にはその後の生活の拠点となった大阪池田の自宅「日光草舎」へ転居する。9月には第6句集「旦暮」(あけくれ)を上梓。そして10月にはいよいよ主宰誌『青玄』が創刊される。病状の悪化、退職、転居、刊行に創刊と1年間に身辺で起こった大きな変化の数々を、草城はただ病の体を横たえて迎えるほかなかった。『青玄』創刊も自らの手に寄るものではなく、草城主宰誌の創刊を望む若者たちの手によってようやく形作られたものであった。

 句集「人生の午後」において「鶴」が登場する作品としては、この句のすぐあとに「鶴咳きに咳く白雲にとりすがり」があり、翌年25年には「病む鶴の高くは翔ばぬ露日和」「病む鶴の老足露にまみれけり」「病む鶴に添うてなまめく妻の鶴」といった作品がある。これらの作品中に登場するどの「鶴」も病を抱え込み、天高く飛べない存在として立ち現れるというところで、「句の中に流れる孤独な悲傷のなまなましさ」(大岡信)が作品中からにじみ出ているのはまぎれもなく、その後の草城が送った病床での日々と重ね合わせる形で読まれるのも、それはそれで致し方ない感じを受けるのだが、この1句の「高熱の鶴」にはその他の「病む鶴」たちとは微妙に異なった雰囲気を漂わせながら、草城の想念によって形作られた内なる青空を飛んでいるかのような印象を私に抱かせてやまない。

 草城と「鶴」はこの1句において、どちらもが「高熱」を発しながら天地の狭間で真正面から向かい合っているのだが、このとき高熱を発する草城の「高熱の鶴」への対し方は、今ある己自身をなんとしても見届けようとする強い意志によって貫かれている。確かに漂う「鶴」はこれからどうなってしまうのだろうか、との懐疑は自身にとって強く感じずにはいられないものがあるだろうが、それでも青空に「鶴」あり、地にわれ草城ありとの把握を徹底して貫くことにより、ほかの「病む鶴」たちの登場する作品には見て取りにくい、強い求心力をこの1句は獲得した。それは境涯的な読みを誘いながら、同時に安易な作者と作品との一体化を跳ね除ける強靭さにもつながっている。「高熱の鶴」を通じての求心力の把握によって、草城は人生の大きな転機を迎えた自分自身の、俳人としての新たな方向性を見出していける自信を手に入れられたのではないかと私には思われてならないのだ、西東三鬼が病床で生死をさまよう中から詠んだ「水枕ガバリと寒い海がある」を「私の俳句は、この句によって開眼した」と述べたように。

 青空から遠ざかる生活を余儀なくされながら俳人としての転機を迎えた草城は、『青玄』創刊号に「俳句は東洋の真珠である」との名高い言葉を寄せる。それは自らの俳句観のあるべき展開を指し示すとともに、「病む鶴」たる自分と若き「鶴」たち、それに自らの闘病の日々を支える妻子とが新たな青空へ飛び立つにあたっての宣言でもあった。没後、草城の忌(昭和31年1月29日)の異称として「凍鶴忌」「鶴唳忌」(かくれいき)が考えられたと、伊丹三樹彦は「日野草城全句集」の栞で記している。


●―9上田五千石の句/しなだしん

木枯に星の布石はぴしぴしと   五千石『田園』(昭32年作)


 第1回で触れた「ゆびさして」の句から一年後、この句は生まれている。

この句について五千石は自註(*1)で、


冬の夜空は星の繁華街になる。名のある星座は競って店開きする。


と記している。

 この句は「氷海」の昭和33年3月号に初出する。ただ、句集『田園』に掲載されたそれとは違っているのである。


木枯に星の布告はぴしぴしと   五千石


 違っているのは一文字。「告」と「石」である。ただその意味は大きく違っていると言わざるを得ない。「布告」は「(政府から)一般に知らせること、告げること」。一方「布石」は「囲碁で作戦を立てて要所に石を配すること、将来のために用意すること」である。

 句集『田園』でこの句を読んだとき、冬の空を碁盤に見立てて、星を碁石のように「ぴしぴし」と置く、そんな風に鑑賞して、冬の厳しい寒さが感じられ、「布石」という言葉がとても生きていると思ったのだが、原作で五千石が意図していたところは違ったようだ。

 原作の「布告」を信じて読むと、木枯が吹いて星々が一斉に光りを増し、主張を始めた――、そんな風に読める。それもひとつの星の在りようを詠っているとは思うが…。ちなみに自註のコメントは、原作の意図に近いような気が私にはする。

       ◆

 この句がいつ改められたのか、調べるすべがない。(いや五千石のことだからどこかに書かれているものがあるのかもしれないが)いずれにしても最終的には「布石」として残されたわけで、それは「布告」よりも「布石」が、五千石の心中でも優ったからに他ならないだろう。

 それにしても、一字の違いの大きさを思い知らされた作品である。


*1 『上田五千石句集』自註現代俳句シリーズⅠ期(15)」 俳人協会刊


●―10楠本憲吉の句/筑紫磐井

郭公や過去過去過去と鳴くな私に


 最晩年に近い昭和62年7月の作品。翌年1月に入院し、12月には亡くなっている。だから一見、郭公の鳴き声を模倣しただけの悪い洒落のような句に見えるが、この前後には死を意識した句がいくつか詠まれており、この「過去」には作者の生涯を振り返ったほろ苦い思いがこめられている。


万緑叢中死は小刻みにやってくる

黄落激し滅びゆくものみな美し

死んでたまるか山茶花白赤と地に


 過去の回想を迫る郭公に作者は拒絶を示すのだが、開口音(ア行音)と調子のいいリズムで、暗さをあまり感じさせない。晩年は明るい派手さの中に死の匂いを撒き散らしているのだが、そんな憲吉の晩年が好きである。『隠花植物』よりは『孤客』が、さらにそれよりは『方壺集(未完作品)』の方が好きである。

 掲出の句、なるほどどこか軽薄である。いや憲吉の句は総じてすべて軽薄である。しかし悪い感じはしない。軽薄な調子の良さにしか語れない真実もあることがこれらの句を見ていると分かる。死はことごとく深刻でなければならないわけではない。軽薄な死や軽薄な遺言はその人の持って生まれた宿命だ。それぞれの持ち味を生かした言葉こそが真実の言葉なのである。

 「もっと光を」(ゲーテ)や「喜劇は終った」(ベートーベン)も悪くはないが、私たちの身近にそんな荘重な言葉の似合う人間は決して多くはない。私の友人などにゲーテやベートーベンなどいるはずもないからだ。臨終の席であってもそんな言葉を聞いたらぷっと吹き出さずにはいられないだろう。身の丈に合わない言葉は言わないに越したことはない。とすれば、ふっと思い出さずにはいられない憲吉の晩年の軽薄な句は、その人となりを語る印象深い句というべきであろう。

       *     *

(余談)戦後俳句史総論の鼎談を行っている堀本氏から日野草城の話を持ちかけられ、憲吉との関係についてちょっと触れてみる機会があった。思うに、草城は「ミヤコホテル」に代表される若い時代こそが軽薄の頂点であった(その意味で晩年に重い療養俳句を詠んで過ごしたことは、正統的な俳句人生であったと言えよう)作家だが、彼の弟子の憲吉は晩年が軽薄であるという点で似ているようでずいぶん違いがある。年取ってから覚えた道楽のような、ちょっと気まずく、滑稽な、しかし同年配の者には羨望に満ちた思いが湧いてくるのを禁じ得ない。どうだろうか、若い日の軽薄は鼻持ちならないものだが、晩年の軽薄は許せるものがあるように思うのだが。


●―11赤尾兜子の句/仲寒蝉

大雷雨鬱王と会うあさの夢  『歳華集』


 はっきり言って第2句集(年代順では3番目)『虚像』を読み進むのは結構つらい。だがその苦痛にこそ兜子の俳句を余人のそれから画然と区別せしめる秘密が存する。


ふくれて強き白熱の舌吸う巨人工場


などはまだしもイメージが浮かびやすく分りやすい方である。それにしても7-9-7というリズムはもはや俳句と呼べるぎりぎりの地平まで来ている。


毒人参ちぎれて無人寺院映し


は字数の上では大人しいが先の句より意味を追いにくく(抑も意味を追ってはいけない類の句であろうが)イメージも結びにくい。毒人参、無人寺院というイメージの重なりにこそ一句の要があるのだろう。


解く絹マフラーどのみちホテルの鯛さびし


にはドラマ性を感じる。結婚披露宴の一齣でもあろうか、いきなり鯛が出て来る所が何となく滑稽でもある。

 さて第3句集の『歳華集』は恐らく大方の見る所の兜子の代表句集ということになるのではないか。気力も名声も充実していた時代。年表風に記すと…昭和33年、現代俳句協会員となり高柳重信らと「俳句評論」創刊。昭和34年、第1句集『蛇』刊行。昭和35年、「渦」創刊。昭和36年、中原恵以と結婚、第9回現代俳句協会賞受賞、これが引き金となって協会が分裂し俳人協会が設立された。昭和40年、『虚像』刊行。

 こうして前衛俳句の一方の雄としてその立場を確かなものとしていった兜子が昭和50年、満50歳の誕生日を期して上梓したのがこの第3句集『歳華集』であったのだ。序文を大阪外国語学校時代からの莫逆の友、司馬遼太郎が、さらに大岡信から「赤尾兜子の世界」、塚本邦雄から「神荼吟遊」という文章を寄せられるという実に豪華な句集であった。

 『虚像』のまわりくどい表現からは余程分りやすく読みやすい句風になっている。子の病気や豪雨による被害など家族の出来事、西洋を含む各地への旅行、司馬遼太郎や陳舜臣(大阪外国語学校の1年先輩)との交流も詠まれていて内容からも親しみやすいものとなっている。先に「大方の見る所の兜子の代表句集」と書いたが、所謂前衛俳句の雄としての兜子は鳴りを潜めているのでその意味からは反対意見も多いことと思う。



●―12三橋敏雄の句/北川美美

腿高きグレコは女白き雷


 新興俳句は、モダニズム的要素を取り入れ、コスモポリタンで妖艶。それまでにない俳句の世界を築いた。弾圧事件により終息という記録をみるが、その意志は今日にも受け継がれている。掲句は『まぼろしの鱶』に収められ「昭和三十年代」の作品である。グレコとは、宗教画家のエル・グレコともいえるという宗匠の話を耳にしたことがあるが、三橋がニューヨークでジュリエット・グレコを見て得た句であるらしい。1960年三橋40歳の時、日本丸にて寄港した地であろう。日本の海外渡航は1964年に自由化されている。ジュリエット・グレコ。(Juliette Gréco)フランス人シャンソン歌手。今も歌いつづける。

「腿高き」という外人女性のとらえ方、「女」と指摘する危険さ、「白き雷」(「しろきらい」と読むと予想)の百合が香りたつような閃光。まるで競争馬のような気品を持ち三橋の前に立つフランス人女性が目に浮かぶ。五七五のリズムの中、作者の鋭い感性により洒脱な詩として浮かび上がっている。季語がどうだのという説明は陳腐に過ぎない。ジュリエット・グレコは第一回引用の「日はまた昇る」(アーネスト・ヘミングウェイ作)の映画に出演している。

 技法的特徴は係助詞「は」にある。「グレコは女」。「グレコ」が「女」であることを強調し、題目を示す。そこに三橋の錬金術が冴える。「グレコ以外は女ではない」というところか。

「は」の使用について既にその特徴が明らかにされているのは、下記の句である。


出征ぞ子供ら犬も歓べり (『太古』)

出征ぞ子供ら犬は歓べり (『まぼろしの鱶』)(『靑の中』)


 『太古』発表当時(昭和16年)、時勢を配慮して手直しをしたものを後に原形に戻したと考えられている。(*1)「も」であれば、全ての人々が喜び、「は」であれば「子供ら犬は」以外の人は喜んでいないことになる。(*2)

 優れた作家は助詞の使用が巧みと言われるが、係助詞「は」の使い方に顕著な句が三橋にはある。脳裏でリフレインを起こさせる句たちである。これについては、改めて触れさせていただく。

 結社を持たない三橋は俳壇と微妙に距離を置いていたように感じる。人気作家というより一部の熱狂的支持者を持つ作家という印象が強い(現在も)。超特装本も限定刊行された。『靑の中』後記に記載のあるコーベブックス(南柯叢書)(*3)の元編集者・装丁家である渡邉一考氏が経営する赤坂のモルト・バー「ですぺら」(*4)の壁面には「船焼き捨てし/船長は//泳ぐかな」(高柳重信)と並んで掲句の色紙がある。

 余韻と残像を残しつつ、ふと日常を忘れさせてくれる句である。


*1)『俳句評論』昭和52年11月号 三橋敏雄特集  『「太古」および「弾道」の秀句』 松崎豊

*2)『休むに似たり』 池田澄子著

*3)1963-2002年に営業の神戸に本社のあった出版社。加藤郁乎、永田耕衣、マルセル・プルース、須永朝彦などの本を出した。

*4)「ですぺら」東京都港区赤坂3-9-15 第2クワムラビル3F Open: 18:00-26:00 定休:日曜・祝日 TEL:03-3584-4566


2025年1月24日金曜日

【連載】現代評論研究:第1回・私の戦後感銘句3句(1)  藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、仲寒蟬、北川美美

はじめに

 2011年から数年間、BLOG「詩客」(「詩歌梁山泊~三詩型交流企画」)の俳句部門で「戦後俳句を読む」の企画を実施してきた(その後、BLOG「俳句空間」、BLOG「俳句新空間」に継続)。既に10年以上が経ち改めてそれらを読み直したいという希望も出されたことから、俳句作品(当時は川柳作品も多くの参加者があった)を中心に復活しようとしたものである。方針を固めて連絡を取り、了解の取れた方を中心に掲載しようとするものである。出来ればその後新しく参加される方も募集したいと思っている。

 近年『●●●の百句』の企画が好評に進んでいるが、こうした企画に先駆けたものとしての連載であったと考えている。読者のご支援を期待したい。


[執筆者]

藤田踏青【近木圭之介】、土肥あき子【稲垣きくの】、北村虻曳【戦後俳句史総論】(総合座談会に掲載)、飯田冬眞【齋藤玄】、堺谷真人【堀葦男】、山田真砂年【富澤赤黄男】(今回欠稿)、堀本吟【戦後俳句史総論】(総合座談会に掲載)、岡村知昭【青玄系の作家】、しなだしん【上田五千石】、筑紫磐井【楠本憲吉】、仲寒蟬【赤尾兜子】、北川美美【三橋敏雄】


●―1:近木圭之介の句/藤田踏青


古里 石も眠い


 「ケイノスケ句抄」(昭和61年発行)の中の昭和55年の作品である。明治45年に生まれた圭之介(旧号:黎々火)は小学校1年生までの7年間、金沢の地で育った。そして1年生が終了した後、山口県長府市の伯父の許へ養子となり移り住んでいるので、この古里は金沢を指しているのではないか。叙情を抑え句材とする物「石」を冷静に描写する事によって「古里」への思いを円環的に形象化している。そして埋もれ去った時間の中で古里は眠りに居り、石もまた掴みどころ無く眠いのである。

 この句は4・3・3のリズムの十音であり、自由律俳句での所謂短律句である。荻原井泉水が主張した自由律俳句では、大正末から昭和初期にかけて短律の句が数多く作られ、その主宰する俳誌「層雲」では昭和4年に層雲第7句集が「短律時代」と称して刊行されているほどである。代表例としては次のような句がある。


 咳をしても一人(9音)  尾崎放哉  大正14年

 草も月夜   (6音)  青木此君楼 大正15年

 陽へ病む   (4音)  大橋裸木  昭和6年


 井泉水の主張では「俳句は一つの段落を持っている一行の詩である」(「新俳句入門」より)とあり、上掲の句なども構成的に二句一章の構造をもち、意味上の句切れと音調上の句切れを共に備えている。圭之介は昭和7年に「層雲」に入門しているので、当然そのような新しい短律の世界を見つめてはいるが、放哉や山頭火とは異なる詩性を尊重する短詩的傾向の作品開拓へと進んでいったのである。

 自由律俳句の短律については高柳重信が次の様に言及している。「大正時代にはロマンチックな人道主義と、ほとんど純粋無垢に近い社会主義と、繊細で厭世的な魂が縋りつくように求めるストイックな信仰と、それぞれに当時の社会状況を反映した俳人たちが、真剣に一途に精神の火花を散らした一時期であった。それ等の俳人たちにとって、この時代は、少なくとも主観的には、どうしても書かずにおれぬと信ずる何かがあまりにも多かったため、十七字の桎梏から解放された自由な短詩型は、まさに手頃な表現の具であったろう。・・・・中略・・・・自虐的なまでにストイックな信仰心を高めてしまった人たちは、おのずから寡黙をあいするようになり、十七字の俳句定型よりも更に言葉を惜しむ短律へと傾斜してゆくのであった」(「俳句形式における前衛と正統」より)。これは多分に放哉や山頭火を念頭に置いた論であろうが、短律という形式は戦後においても掲句のように脈々と生きづいており、戦後は信仰心というよりはより一層詩的な方向へと展開されていった。

 また、圭之介は昭和16年と昭和53年の2回「層雲賞」を受賞しているが、戦前戦後を通じて二度の受賞者は「層雲」では氏ただ一人である。その2回目の受賞の前年(昭和52年)の作品に次の様なのがある。


古里では黄昏が咽喉から溢れて来た


 これは前掲の作品とは異なり、二十一音の長律の作品である。自由律俳句の本義である「一句一律」の主張は当然、このように一人の作者の中で短律と長律の並存という可能性をも秘めているのである。

 尚、氏の没後(平成22年)に刊行された「日没とパンがあれば」では掲句はそれぞれ「古里 眠い石も」「能登で黄昏が喉まであふれてきた」となっているが、その詩画集的な趣きを考えると、俳句臭を取り去り、詩的に推敲した為かも知れない。


●―2:稲垣きくのの句/土肥あき子


歯でむすぶ指のはうたい鳥雲に


 きくのの句集は生前3句集、没後1句集、計4句集ある。このたび3回続く感銘句の鑑賞は、それぞれの句集から一句ずつ取り上げていきたい。

 掲句は1963年に刊行された第一句集『榧の実』に所収されている。「春燈」に投句を始めた1946年から1962年まで、40〜50代の作品が収められている。「春燈叢書第18輯」とある本句集は、扉の木版画に当時「春燈」の表紙も手がけていた川上澄生、題字は宮田重雄という瀟酒な装丁であり、句集というより、上質の和菓子の箱のようにも見える。とはいえ、そこに並ぶ俳句は甘い菓子を思わせるものは少ない。

 掲句から見えてくるのは一人の女である。他人の手を借りずに、女が一人でできるものは数あれど、指の包帯ほど厄介なものはない。片手で押さえながら、歯も動員し、最後に作る結び目にくっと力を入れるときの視線は、確かに宙を見上げるかたちになる。それもどちらかというとぶざまな姿であると自認しつつ。

 きくのは短い結婚生活を経て、20代を映画女優として自活の道を得た。役柄を見ると、女客などが多く、大きな役でも主役の姉あたりであることから、スターというほどではないが、それでも10年間に45本という出演本数は立派な女優として活躍していたことを意味するものである。また、これは一般の明治生まれの女性の典型からは外れた人生でもある。結婚、出産、子育てという周囲の常識から見ると、遥か遠くの銀幕の女性であり、きくの自身「一般とは違う女」であることをじゅうぶんに意識していただろう。そして、そろそろ30歳になるという頃、女優を辞め、俳句を始める。仕事を辞める直接のきっかけが何であれ、己の美や老いをもっともはっきり自覚する職業であることを思うと、30歳は潮時と考えたのかもしれない。

 きくのの作品には生活感がないと言われてきたというが、女優であった経験が自身の運命をごく客観的に見る術を身につけたのだと思われる。ストーリーがあり、背景があり、役者がいる。これらを実生活のなかでも、自然と感知していたのではないかと思われる。

 掲句に漂う空気は孤独であるが、対極に渡り鳥を自由の象徴としてはばたかせることによって、大きな空間が生まれた。雲に紛れる彼らの目指す先の安住の大地へ、思いを馳せる。包帯の白が実に映像的である。

 同句集に収められる〈夏帯やをんなの盛りいつか過ぎ〉〈似合はなくなりし薄いろ鳥雲に〉〈つひに子を生まざりし月仰ぐかな〉などからも、現実を静かに見つめ、嘆き悲しむ見苦しい姿は決して出さず、かといって目を閉ざすわけでもない妙齢の女が凛として佇っている。



●―4:齋藤玄の句/飯田冬眞


おのおのの紅つらならず曼珠沙華 昭和50年作 句集『雁道』所収


 曼珠沙華を見るとき、どのように見ているだろう。まずは畦一面を真紅に染めて咲く曼珠沙華の一群が視界に飛び込んでくる。その次に焦点を絞ってゆくと、ひとつひとつの曼珠沙華の姿と色に行き着く。曼珠沙華の花の色を言葉で表すならば「紅」としか言いようがない。しかし、一本一本の真紅の曼珠沙華の「紅」の色はどんなに群がり、蘂と蘂が錯綜するほどに咲き乱れても、決して、隣で咲く曼珠沙華と同じ「紅」の色ではないのだ。曼珠沙華の「紅」の色は隣の紅を乱さず犯さずに咲き盛っている。全体では真紅一色に見える曼珠沙華も一花一花の「紅」の色は微妙な異なりを身にまとっている

 言葉と実態のもつ微妙な差異を凝視することで曼珠沙華の実相を見つけ出し〈おのおのの紅つらならず〉と表現し得たところにこの句の独自性があるように思う。言われてみれば確かに曼珠沙華の姿は、そうとしか言いようがない。まさに写実の鋭い目によって、曼珠沙華の本来の姿を描いて見せた一句といえる

 齋藤玄は「凝視と独白の作家」であると前回紹介したのだが、この句は、彼の「凝視」の側面をよく表している句だと思う。曼珠沙華の人口に膾炙した句と比較するとそれがよくわかる。試みにいくつか挙げてみる。


つきぬけて天上の紺曼珠沙華   山口誓子

曼珠沙華落暉も蘂をひろげけり  中村草田男

西国の畦曼珠沙華曼珠沙華    森澄雄

曼珠沙華どれも腹出し秩父の子  金子兜太


 どれも秀抜な句であることはまちがいないのだが、曼珠沙華そのものが鮮烈であるゆえに〈天上の紺〉〈落暉も蘂をひろげ〉〈西国の畦〉〈腹出し秩父の子〉といった景物あるいは背景を引き合いに出すことでしか作品世界の均衡を保てなくなっている。つまり、私たちが名句だと思っているこれらの句は、読者が抱く曼珠沙華に対するあるイメージを引用することではじめて作品として成り立っている作り方なのだ。俳句とはそういうものであるのかもしれず、大方はそうした詠み方、作り方でよいのだが、齋藤玄は対象を見て視て観て見尽くして自滅するか、そこから対象本来の姿をつかみとることに成功するかのきわどい作り方をしている作家なのである。掲句はもちろん成功例なのだが、他の作品について言うと「凝視」することで対象と一体化した挙句に作者が透けて見えすぎる嫌いがある。たとえば同じ『雁道』の〈色として白梅の白なかりけり〉などは、〈白梅の白〉を凝視した結果〈色として〉〈なかりけり〉という理屈を詠むという自滅の道をたどってしまっている。いわゆる「理に落ちる」というやつだ。掲句は、他の背景、景物をいっさい用いずに曼珠沙華だけを見てその「紅」をとおして〈つらならず〉という曼珠沙華そのものの姿に肉薄した結果、命と命のありかたの実相、関係性の真理といったものの一面を言いとめているようにも読めるのだが、いかがだろうか?


●―5:堀葦男の句/堺谷真人


ぶつかる黒を押し分け押し来るあらゆる黒


 第一句集『火づくり』(1962年)所収。最終章「火の章」、「潜在空間」と題する25句の劈頭に置かれた作品である。広く人口に膾炙した堀葦男の代表作であり、究極の抽象表現は昭和三十年代前衛俳句のひとつの到達点を示す。安西篤は『現代の俳人101』(2004年)の中でこの句について「原色のタッチの力感でひた押しする抽象画のバイタリティを感ずる。アクションペインティングのような力強さだ。当時の時代相の低暗部にあるマグマを感覚的に表現し得た句でもあった」と書いている。的確な鑑賞であろう

 葦男は、終生、俳句表現の形象性を重んじた。句座では「心のすがたを、物のかたちで書く」という言い回しを好んで用い、時に言語遊戯や観念性に流れる連衆をやんわりと誘掖した。その葦男がこの句では黒以外の色彩と形状とを悉く消去しているのだ。互いに相摩し、相撃ちながら押し寄せて来る夥しい黒の氾濫。怒濤のような運動エネルギーだけを、作者の側もいわば「力づくで」書き切ってみせたのである

 ところで、筆者は生前の葦男から、この句の誕生の契機となった体験について直接聞いたことがある。「夕方、御堂筋を歩いていた。ふと顔を上げると、淀屋橋方面から夕闇を背景にして猛然と走って来る自動車の群が目に入った。煌々たるヘッドライトの光以外は一様に黒い塊。それがあとからあとから際限もなく押し寄せて来るさまは圧倒的だった」と

 大阪市を南北に貫く6車線の御堂筋は、1970年の1月から南進のみの一方通行となった。同年4月に開幕した大阪万博による交通量の増大が予想されたため、渋滞緩和策として、市内の南北方向の幹線道路が一方通行化されたのだ。葦男が目にしたのは南北双方向に自動車が流れていた御堂筋である。職場は大阪市東区(現・中央区)備後町の綿業会館内にあった。綿業会館から西に300mほど行くと御堂筋にぶつかり、淀屋橋はそこから北に約800mという位置関係だ。葦男は御堂筋に沿う東側の歩道を北向きに歩いていたと思われる。帰宅中だったのであろう。いや、仕事関係の酒席があって北新地方面までゆく途中だったのかもしれない。いずれにせよ、前衛俳句の極北に屹立するこの記念碑的な一句は、近現代大阪の大動脈ともいうべき御堂筋の夕闇の中で胚胎したのである

 以下、余談。葦男の職場から御堂筋に出て、淀屋橋と正反対、南へ500mほど行くと、真宗大谷派難波別院(南御堂)がある。その近く、御堂筋の東側側道と中央4車線を隔てるグリーンゾーンに小さな石の柱が立つ。刻まれているのは「此附近芭蕉翁終焉之地ト伝フ」の文字。芭蕉が客死した花屋仁左右衛門の旧宅跡だ。昭和初頭の御堂筋拡幅工事により、旧宅跡は路面にせり出す格好になってしまった。元禄七年の秋、一人の老俳諧師があまたの門人たちに囲まれて今生最後の幾日かを過ごした永訣の地を、3万台以上の自動車が今日もまた駆け抜けてゆく


●―6:富澤赤黄男の句/山田真砂年(今回は休載)


●―8:日野草城の句/岡村知昭


山茶花やいくさに敗れたる国の


 『青玄』という雑誌が日野草城の存在なくしては決して生まれなかったことを思うとき、これから「『青玄』の作家たち」の作品の数々を考えていくときに、まず取り上げるべき作家は草城こそがもっともふさわしいはずである。そしてこれから取り上げる1句こそ、草城の俳句への復帰を飾る第一歩であると同時に、草城を慕う若者たちにとっては『青玄』創刊への大いなる助走のはじまりとして、それぞれの立場がその後さまざま変わることはあっても決して忘れることのできない大切な存在、まさしく「感銘句」としてあり続けた。私にとっての「『青玄の作家たち』へのアプローチもまた、日野草城の「山茶花」の1句から始めることにしたい

 草城がこの一句を詠んだのは昭和20年11月11日、大阪は豊中の小寺正三の自宅で開かれた第1回「まるめろ俳句会」でのこと。草城がこの1句を詠むまでの様子は、この日の句会に参加していたひとりである楠本憲吉は翌年創刊した「まるめろ」の創刊号で次のように書いている


 本道をそれて道が下り坂にかかった時、左手の籔の茂みの中に山茶花の灌木がぽっかり浮き出たように咲いているのに目を引かれ、振り返りざまに眺めていると

「オヤ、山茶花が咲いていますね

 と穏やかに言われた。それはいかにも穏やかな先生の声だった

        (引用は『日野草城全句集』栞所収の「先師草城のことども」より)


 楠本憲吉はもちろんのこと、伊丹三樹彦、桂信子といった他の参加者たちが一挙手一頭足を食い入るように見つめ続けていた中で草城が発した「穏やか」な声、「穏やかに」語られた言葉。「穏やか」な一瞬から詠まれた草城の1句が参加者に強い印象を残したであろうことは想像に難くないし、いま彼ら彼女たちが立っているこの場のありようを「いくさにやぶれたる国」と広い視線で捉えるときのあまりの穏やかさも、参加者たちをまた驚かせるに十分だったはずである、まぎれもなくこの国は「いくさに破れ」たのだとの思いを「穏やか」な詠みぶりを通じて草城は突きつけてきたのだから。そんな参加者たちの驚きをよそに、草城はこの1句に対しての名乗りを「又しても如何にも穏やかに言われた」と憲吉は書き残している。名乗りは幾度も繰り返され、この日の句会の最高点となった

 8月15日周辺の句で「おもひきや戦をとざすみみことのり」「戦果つ残る暑さのきびしきに」と詠んだ草城にとって、「敗れたる国」と敗戦をはっきりとした言葉で表すことへの逡巡は多少はあったかもしれない。だが自らの目の前に立つ若者たちのまなざしの熱さを前にして、自らが再び俳句に拠って立つ意思がより確かなものとなったことを深く実感したところから、草城の「いくさに敗れたる国」での再出発が始まった。それはこの日出席した憲吉、三樹彦、信子にとってもまた同じだったのだろう。草城の「穏やか」さの中に秘められた熱さを受け止めるところから始まったそれぞれの戦後。だが草城と若者たちの想いがひとつの雑誌として形になるまでにはあと3年の月日を要したのだった


●―9:上田五千石の句/しなだしん【「星」の句からみる五千石の真実(1)】


 前のプロローグ(自己紹介)にて


ゆびさして寒星一つづつ生かす   五千石(昭31年作)


を第一句集『田園』から挙げ、私の愛誦句であることは書いた。

 この句の特筆すべきは、とても能動的であること。「ゆびさして」「生かす」のだ。見上げた夜空に星を一つ見つける。一つ見つけると目がどんどん闇に慣れてゆき、また一つ、また一つと星を見出すことができる。五千石はその行為を「生かす」と言いきった。それも、星の一つ一つを確認するように「ゆびさして」である。

        ◆

 このとき、五千石はきめらく星を「ゆびさして」「生か」したいほどの心持ちにあったのだろうと推察する。

 この句について五千石は、自註(*1)に次のように書いている。


俳句によって、自分という存在が、ハッキリしてきた。

そうなると自分を中心に宇宙の全てが、いきいきしはじめた。


 実は、五千石は一浪のあと入学した上智大学二年の春頃、いわゆる神経症に悩まされていたのだ。

 五千石は、著書『俳句に大事な五つのこと 五千石俳句入門』(*2)の「俳句との出会い」のなかで、次のように記す。


大学二年の夏休みを、私は一か月も早くとらざるをえませんでした。

神経症が高じて、どうにもならなかったからです。(中略)

死は私に直面していました。


 そんな状況にあった五千石は、帰省後に母の導きにより、秋元不死男の俳句に出逢う。

 同書によれば、後日、五千石が参加した俳句会は「忘れもしない、昭和二十九年七月十七日のこと」で、「私を苦しめぬいた神経症は、その夜をもって完全に雲散霧消、神経症の患者ではなくなった」という驚くべき事象の日であり、「かくて秋元不死男は私のいのちの恩人」となったのだ。

 さらに続けて「ゆびさして」の句にふれ、


俳句によって、初めて私自身と巡り会うことができたのでした。

言葉をかえて言えば、”私の中の自然を大切にする”ことを知ったということです。 

今日の私の生き方と私の俳句観は、すべてそこから導かれてくるのです。


と述べている。

 ちなみに7月17日の俳句会というのは、秋元不死男が出席した吉原市(現富士市)での「氷海」吉原支部発足の会であった。この件についてはまた別途述べたいと思う。

        ◆

 「ゆびさして」の句が成ったのは、先の神経症の件が起こった昭和29年5月頃から数えておよそ1年8カ月後、ということになろうか。この句は、五千石の、俳句開眼の一句であり、自我開眼の一句、そして「いのちの一句」でもあったのだ。

 若き五千石の青春が迸っている作品である。


*1 『上田五千石句集』自註現代俳句シリーズⅠ期(15)」 俳人協会刊

*2 『俳句に大事な五つのこと 五千石俳句入門』 角川学芸出版刊


●―10:憲吉の句/筑紫磐井


汝が胸の谷間の汗や巴里祭


 憲吉の極めつけといってよい句である。しばしば、この「巴里祭」の句以外憲吉には何も残っていないではいないかと批判する人がいるが、そうした人に限って憲吉の「巴里祭」に匹敵する程の句を持っていたためしがない。この句に匹敵する名作はそう簡単には見つからないのである。もちろんわたしは以下の連載で、「巴里祭」の句以外憲吉には何も残っていないという迷信を打ち壊したいと思うのであるが、その意味でも1回目に取り上げるべき句だと思う。


 「巴里祭」とは、7月14日のフランス革命記念日のことであるが、もはや風俗としては何の痕跡も残っていないのではなかろうか。この句の詠まれた背景には、憲吉の若かりし時代、彼と同世代が背伸びをして見たであろうルネ・クレールの「巴里祭」(Quatorze Juillet 1933年フランス映画)を抜きにしては語れない。内容は巴里祭の前後の男女の他愛ないものがたりだが、灘万のボンボンとして生まれ、慶応大学を出て、やや前衛風のかっこいい俳句をつくる憲吉にはふさわしい映画だ。上演はたぶん憲吉12,3歳の頃である(遠藤周作が同級生だ)。だから、この映画を見なくなった現代では共感が乏しくなるのも致し方ない。


 映画巴里祭の流行った二・二六直前の騒然とした時代の、少しエロチックな、しかし明るい時代雰囲気は、戦後の同じような時代を生きている憲吉にピッタリする。「谷間の汗」で上気している若い女の生理までもがにおい立ってくるのは、この作家特有の観察眼である。この作者の句に登場する女たちはみな個性的で美しい。(作者による卑俗な自解があるが興ざめなのでここでは紹介しない。)


 出典は『楠本憲吉集』(昭和42年)、昭和28年の作品。


●―11:赤尾兜子の句/仲寒蝉


音楽漂う岸侵しゆく蛇の飢  『蛇』


 少し前までは兜子と言えばこの句しか知らなかった。意味が分っていたかと問われると自信はなく、好きかと問われるとさほど好きでもなかったが、何故か気になる句であった。いわく言い難い不思議な雰囲気をたたえ好悪の彼岸にあるような句であった。

 兜子の句を字余りという観点から見ると、初学の頃の『稚年記』はほぼ定型遵守、『蛇』の最後の章「坂」あたりから字余りの句が8割を越え、次の『虚像』では9割以上が字余り、それが『歳華集』の最後あたりで減少し、死後に編まれた最終句集『玄玄』ではまた定型が多くなる。仮名遣いも初期の『稚年記』は歴史仮名遣い、『蛇』『虚像』『歳華集』など全盛期の句集は新仮名遣い、最後の『玄玄』はまた歴史仮名遣いに戻るのでこのことと字余りとが明らかに連動している。その意味では掲出句は7-7-5と字余りながら同じ『蛇』に収められた「ゆうべ真つ白い玉巻キヤベツ抱いて思うことないぞ」「場末の木椅子にちぢれ毛絡ませ記者ら酔う」「ナイフが掠める檻の汚れた空で蒸す夜景」などと比べれば随分と大人しい印象である。

 兜子の句は言葉を尽くして細部を描写しているように見えても同じ時代の所謂「写生」を目指した句とは全く印象が異なっている。詳しく描かれることと分りやすいこととは別次元の問題だということを思い知らせてくれる。先に挙げた3句を例に取っても「ゆうべ…」は白い玉巻キャベツというはっきりしたイメージを抱かせるものの何を「思うことない」のか判然としないし、「場末の…」はかなりの細部描写であるのに木椅子の置かれた場所が屋内なのか屋外なのか不明なので記者達は宇宙空間のどこかにでもいるような無重力感がある、「ナイフ…」に至っては一つ一つの単語の意味は追えても総体としてのイメージは非常に漠然としており何故この語とこの語が結び付くのか謎のまま放り出されている。

 そのような句に混じって掲出句があるということを知った上で読み解いてみよう。名詞4つと動詞2つから成り字数の割には意味が凝縮された感がある。これだけ言えば充分だろうと思えるほど言葉は尽くされている。でありながら頭の中で容易に像が結べない。読者はゴツンゴツンと言葉にぶち当たりながら自分の位置を考えつつ進んで行かなくてはならない。幾つかの謎が読者の前に立ちはだかりなかなかスムーズに前へ進めないのだ。

 音楽とはどのような?ベートーヴェンの交響曲みたいに重々しいものか、それともこれの書かれた昭和30年代前半に流行った春日八郎の『お富さん』や石原裕次郎の『俺は待ってるぜ』のような流行歌なのか。岸は川岸か湖岸か、或いは海の岸か。「侵しゆく」の主体は蛇なのか飢なのか。勿論それは読者に委ねられているのだから鑑賞は自由なのだが、書かれているのが尋常の光景でないだけに夢でも見るかのような印象がある。むしろその曖昧模糊を狙っているとも言える句なのである。

 赤尾兜子の句の造りは見た物、経験した事をなるべく素直に「単純なる叙述(虚子)」によって表現する行き方からは対極にある。掲出句をもしも作者が実際に目にした出来事と仮定すれば、例えば川岸を獲物を探して蛇がくねりながら進んで行く、その向こうに公園があってゆったりしたムード音楽が聞こえて来る、といった情景を思い浮かべればよい。これを俳句に仕立てるのに音楽や飢といった言葉は不要である。ただ川岸とそこを進む蛇を簡潔に表現すればよい。ところが兜子は背景に音楽を漂わせ、蛇を飢えていると看破し、あえて「侵しゆく」という措辞を選んだ。そのことにより句はどうなったか?良くなったか否かは読者の考え方次第。しかし少なくとも川辺を進む蛇を詠んだ凡百の俳句とは全く異なる世界観を持った句に変身したことだけは確か。あたかも音楽に合わせて湾曲する川岸をパックマンのように蛇が齧ってゆく、その飢は留まる所を知らず蛇は岸の続く限り地の果てまでも進んでゆく…と言ったところだろうか。


●―12:三橋敏雄の句/北川美美


日にいちど入る日は沈み信天翁


 人は一生を通じて、「こころ」という不思議な作用に左右される。時代、環境に翻弄されながら「こころ」を持つ「人」として成長していく。経過する時の中で肉体、脳が老いていく。記憶の中にとどめたくない事象に遭遇し、年齢とともに「こころ」が磨り減っていく。それでも日(陽)は昇り、日(陽)は沈み、一日が展開する。生きる者に、朝が来て、昼が来て、夜がくる。そして、春が来て、夏が来て、秋が来て冬になり一年が終わる。人も動物も植物も営みを繰り返えす

 掲句は、三橋敏雄 句集『眞神』(ま(・)かみ ※注)31句目に収められている。昭和44年、敏雄49歳の時の作である

 『眞神』には全体を通し不思議な時間軸が流れる。浮遊した時の中で、身体的といえる言葉を通しタイムスリップしたような世界に引き込まれていく。現代詩とも、絵画とも、映像とも共通する、それまでになかった17文字の世界が展開し、次の句へと連鎖するような錯覚をし、不思議な迷宮を体験する。『眞神』は生生流転の人間世界、自然界を背景にしている

 上五中七のたった十二音節「日にいちど入る日は沈み」において、地球の自転を潜ませ日没から日昇までの時間経過を暗示している。繰り返しながら、日々失っていく何か。「日」という陽に対し、「沈む」という陰。全滅の危機に瀕する「信天翁」(あほうどり)の、「天」を「信」ずる「翁」という表記。使徒のような鳥が重く沈む日(陽)をみている。視点は鳥である。読者が鳥になったような錯覚を起こす。読者は、自分の人生や時代を思いつつ、ただこの句を前に自分を投げ入れるのではないだろうか

 アメリカの「失われた世代」(ロスト・ジェネレーション)とは、ヘミングウェイやフィッツジェラルドの小説家に代表されるような20代に第一次世界大戦中に遭遇し、従来の価値観に懐疑的になった世代をいう。『日はまた昇る』(原題:The Sun Also Rises)は、ヘミングウェイの出世作として有名だ。その序文に記された言葉を引く

 傳道之書(アーネスト・ヘミングウェイ『日はまた昇る』谷口陸男訳


 「世は去さり世は来きたる地は永久とこしなへに長存たもつなり 日は出いで日は入いりまたその出いでし處に喘あえぎゆくなり(略)」


 上記の言葉は、旧約聖書 第一章であるが、これには省略されている冒頭箇所がある。「ダビデの子、エルサレムの王である伝道者の言葉。伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である。日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか。

 これを掲句に結びつけると、神の使徒「信天翁」は、いっさいの空にいる自由な阿呆(あほう)。崇高でありユニーク。『眞神』には所々にシャーマン的な存在が登場するが、注意しなければならないのは、『眞神』は物語ではない。俳句集である。読者が慣れ親しんできた言葉を使用しながら、俳句形式の中で読者を別の世界へ連れて行く三橋の冷静で巧みな術がある

 戦争という体験は、三橋に多くを語らせず、しずかに、海から陸をみるという視点をもたせた。大人は泣き叫ばず日常を淡々と生活できる。大人は考えることができる。大人は時間を操作できる。掲句は、大人であること、人生の時間について改めて想いをめぐらす一句である


※注)『眞神』の読み方は、様々あるようだが、筆者は「ま(・)かみ」と読む。


【補足】北川美美は2021年1月14日になくなった(享年57)が、BLOG俳句新空間の創始者・管理人であり、「戦後俳句を読む」においても三橋敏雄作品を鑑賞し、これをもとに『「眞神」考』刊行(2021年ウエップ刊)にまとめた。この連載研究の趣旨をもっともよく体した論者であった。

 この連載で友人たちと切磋琢磨しながらまとめた論考が単行本として完成したものであり、この連載研究がどのように発展したのかは北川美美を比較対照して眺めることによりよく理解できると考え、物故者ではあるがこの連載復活に当たり掲載させていただくこととした。ただし、この連載の後、北川は三橋論を「ウエップ俳句通信」で再連載し、更に『「眞神」考』原稿の段階でまとめなおしたので、北川の最終見解とは少し異なるところがあるので注意されたい。