2025年10月24日金曜日

【連載】現代評論研究:第17回総論・「遷子を通して戦後俳句史を読む」座談会 仲寒蟬編

(投稿日:2011年12月23日)

出席者:筑紫磐井、原雅子、中西夕紀、深谷義紀、仲寒蝉(司会)


4.戦後の生活と遷子について。

 筑紫は当初遷子のことを医師という恵まれた職業環境にあると思っていたが、医師である仲の話や(遷子によく似た)昭和30年代に開業した医師を父に持ったメンバーへのインタビューを総合して、当時の医師の生活は大変ったのではないかと述べる。

 遷子は野沢の旅館を買い取って開業したが、この頃の開業には〈親か連れ合いの一族の支援がない限り独力では不可能であった〉と考え、遷子にとっては父が人助けのために手に入れていた土地家作が役に立ち、〈兄弟共同で開業するというのは合理的な判断だった〉と言う。

 したがって『山国』『雪嶺』では〈魂の抜けたようにしか見えない父〉豊三だが、兄弟(富雄(遷子)、愛次郎)の進学、さらに開業の支援と一族に医師のいない中で家長としての重い責任を果たしたと評価する。

 遷子の親への依存や苦しい生活を表わす作品として次のようなものを挙げる。

 年逝くや四十にして親がかり   22年

 田舎医となりて糊口し冬に入る  23年

 正月も開業医われ金かぞふ    同

 自転車を北風に駆りつつ金ほしや 同

 暮遅き活計に今日も疲れつつ   同

 その上で〈これこそ、ホトトギスの花鳥諷詠とは全く異なる、アララギ的な短歌リアリズムの世界であった。「鶴」的な境涯俳句ではなく、生活リアリズムに出発する(それは今全く評価されていない戦場リアリズムに根を持つものであるが)ことにより、独自の遷子の開業医俳句が生まれた〉と述べる。遷子にとって最大の誤算だったのは、研究者の道を取らなかったことではなくて、病気のため病院を辞めて開業せざるを得なくなり、大学に戻れなくなったこと、と言う。

 さらに当時の開業医の生活を次のように描写する。

 〈(遷子と同様旅館を買い取ったため)入院施設のある小規模な医院は、施設の狭さから医院と家庭は隣接して、公私のない生活の部分もあった。旅館構造を改築したものなので、病院の諸施設と家庭が混ぜんとしていたはずであり、建物の中には家族の個室と病室、看護婦の居室も混じっていたのではないか(昭和30年代は通いの看護婦ではなくて、中学出の女性を看護学校に通わせ資格をとらせて、住み込みであったと思われる)。医師の妻は入院患者の食事を作り、また看護婦たちとガーゼや汚れたシーツを洗濯などもした。そのほかに、毎月の保険請求事務も医師とともに妻が手伝った。当時は手書きで、そろばんを使っていた。『雪嶺』の中に保険事務が溜まったという句があることからも、面倒な仕事が多かった。他のメンバーから開業医の妻の中には過労で肋膜を患った例も報告された。看護婦も、中学を卒業してからすぐ住み込みで働き、看護学校へ通わせてやり、一人前になって患者と結婚するというようなアットホームな例もあった。〉

 〈病院医師と開業医の違いは、患者と患者の家庭が一体となって関係してくる所にある。遷子の俳句の中で、病院勤めの時には見られなかった医師俳句が、戦後開業医の生活で顕著に表れるのもそうした理由である。また、往診をすれば、いやおうもなくその家の様子が見えることもあっただろう。〉


 は無回答。

 中西は終戦後5,6年の期間として次のように言う。

 戦中に肋膜炎を発病し、東大医学部からの派遣で函館の病院の内科医長の職に就くが故郷佐久での開業に踏み切ったことにより大学へは戻れなくなる。

百日紅学問日々に遠ざかる

故郷に住みて無名や梅雨の月

などの句には〈大学研究室を断念したことの悔いが燻っている〉と述べ〈戦争がなければ、肋膜炎にはならず、或いは大学に残れたかもしれないのである〉と指摘する。

 弟愛次郎を誘って開業した後も

四十にして町医老いけり七五三

裏返しせし外套も着馴れけり

という句が示すように〈開業はしたけれど、患者も貧困にあえぎ、治療費も稼げなかった時期なのではないだろうか〉と想像する。

 深谷は〈謂わば無一物で佐久に帰郷したわけであり、決して豊かとは言えないだろうが、それなりの生活(もちろん地域医療の最前線に立つ者として多忙ではあった筈だが)を過ごしていたのではないだろうか〉と述べ、さらに〈農村の貧しさがその作品に色濃く投影されているが、時期を下るにつれ高度経済成長の影響もみて取れる〉と言う。

 は〈句集を年代順に読んでいくと佐久という貧しい田舎の村が町となり市となって行く様子が分る〉と言う。『山国』『雪嶺』には社会性俳句の原動力ともなった貧しさを詠んだ句が散見され、当時の佐久地方で盛んだった養蚕に関する句、自転車で往診する句、スケート(恐らく田んぼに張った氷の上での下駄スケート)やストーブなど寒い地域の生活に関わる句など多くはないが当時の生活を窺わせる句に触れる。


4のまとめ

 筑紫は当時医院を開業すること自体が現在考えるよりずっと大変だったことを強調、遷子の父豊三の家長としての役割や開業間もなくの暮らしの困窮に触れた後、開業医としての生活が地域住民である患者の暮らしへの深い関わりを産み、往診などの医師俳句につながったことを述べる。

 中西はやはり開業間もなくの生活の大変さに触れ、大学での研究を諦めざるを得なかった悔いが尾を引いていたと考える。

 深谷と仲はそういった遷子一家を含む地域全体の貧困が高度経済成長とともになくなっていくことにも触れる。