(投稿日:2011年12月09日)
●―1近木圭之介の句/藤田踏青
残酷ニデスネ。エエ梟ノヨウニデス
「層雲自由律2000年句集(注①)」所収の平成6年の作品である。梟という字は鳥と木から成り立っており、獲物を木に突き刺すその方法がちょうど磔に似ていることから晒す、猛々しい、強い意志を示す語となっている。梟師、梟首、梟猛、梟雄などの強く厳しい言葉などが多いのも頷かれる。
さて掲句だが、その梟の残酷さを示すが如く、異常なドラマ展開の中での問答形式で表されている。しかも漢字とカタカナ表現でその切っ先の鋭さ、ゴツゴツ感から残酷さを増幅させているかの如くに。この様に句読点を含め、自由律の表現には如何様にもドラマの展開を拡げていける自由と奔放さが潜んでいる。しかしこの作品あたりが一行詩とのギリギリの境界に立つものであろうかとも。俳句というものを形式ではなく詩的内容で捉える限り許容される範囲と考えるのだが。
おんなの骨に梟なき 月日すぎました 昭和62年作
この句の場合は、亡くなった女の記憶が月日の中で角質化してゆく過程を、梟の鳴き声をおんなの骨に潜ませることによって再認識させる構成となっている。また一字空白はその時間的な落差を示しているものと言えよう。狂言に「梟山伏」というのがあり、梟にとりつかれて奇声を発する病人を直そうと山伏が祈るが、自分が奇声を出し始めるという内容のもので、梟の鳴き声はそのように意識下で伝搬してくるようである。
梟と言えば山頭火の「ふくろうはふくろうでわたしはわたしでねむれない」という句があったのを思い出す。やはり梟はネガテイブな雰囲気を持っているようである。
圭之介には鴉の句も多くみられる。
木の椅子が一つ 鴉ぎようさん啼いていた 昭和23年作 注②
鴉よ かれ独りの ときのうしろ姿を おもえ(山頭火)昭和25年作 注②
二羽の黒い鳥が的確に空間 昭和28年作 注②
人間笑う以前カラスぎようさん笑う 昭和38年作 注②
生(なま)のもの口にしてカラス不敵に笑う 昭和40年作 注②
あらうみからすをとばす 昭和48年作 注②
鴉の場合はその存在が常に人間(自己)に対峙するものとして表現されている。その数が一羽でも二羽でもぎようさんでも、その不穏な反意は裏返せば人間そのものに存するとも言えよう。つまりは人間の奥底に潜んでいる鴉をえぐり出すが如くに。それは山頭火に対しても同じような思いであったであろう。
その他「鳥」に関する句と詩の断片を若干列記する。
鳥の渡る湖がランプもう灯していた 昭和24年作 注②
鳥ら空の道の明るさにつづく 昭和30年作 注②
気管の奥に断崖 海鵜の啼く時もある 昭和55年作 注②
鳥の貌北へ北へその日河口空瓶(くうびん)一個 昭和56年作 注②
署名をする海鳥の啼く古里の中で 昭和58年作 注②
林の部分が明るいのは其処へ一羽で行くんか 昭和59年作 注②
<パレットナイフ 2> 注③
Ⅰ この時間は黄泉のくに珈琲房
星座と呼ぶ仮面の女 そのまなざし
(ドリップがこれから香るのだ)
Ⅱ 憎悪は一本の影
太陽に位置の確かさ
Ⅲ 少年は性の倒錯を宿し数年経た
どこにも通り抜ける道を持たずに
――いらだちのサラダ私に青い
Ⅳ 刃のごとく窓に映る河
内なる凶
沈黙と溶暗
Ⅴ 虚空(そら)が一羽の鳥を溶岩に変えて堕した
二枚の翼の重さ 鳥の半生
注①「層雲自由律2000年句集」合同句集 層雲自由律の会 平成12年刊
注②「「ケイノスケ句抄」 層雲社 昭和61年刊
注③「近木圭之介詩画集」 層雲自由律の会 平成17年刊
●―2稲垣きくのの句/土肥あき子
いろ恋に邪魔なふんべつ鳥雲に
昭和39年作、『冬濤』に所収される作品である。
鳥たちがはるか大陸へと帰っていく「鳥雲に入る」は、きくのの気に入りの季語であったと思われ、第一回の感銘句に挙げた
歯でむすぶ指のはうたい鳥雲に 『榧の実』所収
を始め、
似合はなくなりし薄いろ鳥雲に 『榧の実』所収
買物籠充たす玉ねぎ鳥雲に 『冬濤』所収
拍子木にきざむ豆腐や鳥雲に 『冬濤』所収
銭かぞふ女の指よ鳥雲に 『冬濤』所収
と、どれも軽い嘆きを伴うように詠んでいる。
冒頭に引いた作品には「いろ恋に邪魔なふんべつ」と、勇ましい言葉を発しながら、はるか雲間に鳥の影が紛れる様子を見ることで、実際には常識に縛られながら生きていかねばならないため息が混じる。
また、
ふつつりと絶ちし想ひよ鳥雲に 『冬濤』所収
昭和41年に作られたこの作品は、30年近くの時間を共にした恋人が亡くなった年である。「ふつつりと絶ちし」とはいっても、決して自ら望んだものではなく、死によって一方的に「絶たれてしまった」関係への想いである。ことにきくのの場合、同居する関わりを持てなかったこともあり、会えるの会えないのという焦燥に人一倍苦しめられてきた。待つことに慣れている身には、もう二度と会えないという実感がなかなか湧かないのではないか。やり場のない憂愁を胸に抱きつつ、空の彼方に消えてゆく鳥たちを遠く眺め、この失意をどこか遠くへ持ち去ってもらいたいという願いが込められているようだ。
こうしてみると、元来感傷的な季語ではあるものの、きくのの「鳥雲に」にはことさら現実を逃避したいこころ、また社会のしがらみからの解放を願うこころが描く幻影に見えてくる。
●―4齋藤玄の句/飯田冬眞
冬の雁空では死なず山の数
昭和53年作。第5句集『雁道』(*1)所収。
齋藤玄は鳥が好きだった。
鳥好きに雀ばかりの麗かさ 昭和47年作 『狩眼』
と表白していることからもうかがえる。数量的な根拠としては、後半生(昭和46年から昭和55年)の三句集だけで110の鳥の句があり、全体の12パーセントに相当する。(三句集合計938句中、『狩眼』43句、『雁道』43句、『無畔』24句)
前回の「桜」13句に比べると「鳥」の句は8.5倍に相当する。
これまでにも「冬」「精神」「夏」「色」の項で、玄の鳥の句を紹介してきた。あらためてあげておくが、内容に関しては重複するので割愛する。
玄冬の鷹鉄片のごときかな 昭和16年作 『舎木』
骨ひらふ手は初雁を聴いてゐる 昭和16年作 『舎木』
膝立てて大露の雁をゆかせけり 昭和17年作 『飛雪』
つぎはぎの水を台(うてな)に浮寝鴨 昭和48年作 『狩眼』
すさまじき垂直にして鶴佇てり 昭和49年作 『狩眼』
寒風のむすびめごとの雀かな 昭和50年作 『雁道』
雁の道のごとくに死ぬるまで 昭和53年作 『雁道』
雁のゐぬ空には雁の高貴かな 昭和53年作 『雁道』
雁の道はなかりき水景色 昭和53年作 『雁道』
雀らの地べたを消して大暑あり 昭和53年作 『雁道』
このなかでは、〈玄冬の鷹鉄片のごときかな〉が秀抜。大空に舞う鷹を〈鉄片のごとき〉ととらえた感性は現代的である。厳寒の大空を舞う鷹に自己を重ね合わせながら、その鬱屈感が象徴的に表現されている。この句の鑑賞と作句時期の時代背景については「色」の項で詳しく述べたので、そちらを参照されたい。
戦前の作品では、ほかに次のようなものがある。
枯るる園雌雄の鷹をわかち飼ふ 昭和13年作 『舎木』
鷲鬱と青き降誕祭を抽(ぬ)く 昭和15年作 『舎木』
〈枯るる園〉の句は、自註(*2)によると函館公園に飼われていた鷹で、雌雄が別々の檻に入れられていたようだ。大空を舞うことも、つがいで寄り添うこともままならない檻のなかの鷹の凄まじさを詠んでいる。冬枯れてゆく動物園の情景に24歳の玄は己を投影させていたに違いない。
〈鷲鬱と〉の句では、降誕祭、つまりクリスマスの夜の鬱屈した心理を鷲に託して描いているが、言葉が具体的な心理を射抜いておらず、上滑りの感は拭えない。総じて、戦前は「鷹」「鷲」「雁」など比較的大型の鳥を詠み、青年期の作者の鬱勃とした心情と重ね合わせた作品が多いようだ。石川桂郎、石田波郷に出会う前ということもあるのか、この二句からは凝視の果てに対象の本質をえぐり出す、晩年の玄作品に特徴的な「確かな眼」はあまり感じない。
癌の妻風の白鷺胸に飼ふ 昭和41年作 『玄』
割腹死鶲(ひたき)撒かるる空の端 昭和45年作 『玄』
主宰誌「壺」を休刊し俳壇から遠ざかっていた昭和28年から昭和45年までの沈黙期の作品から二句あげた。〈癌の妻〉の句は第三句集『玄』に収録された連作「クルーケンベルヒ氏腫瘍と妻」のなかの一句。ベッドから起き上がった妻の後ろ姿と畦に佇む白鷺の風姿が重なり合って哀切。自注には「醜くなった妻を俳句でしか飾れない」と悲痛な文章を残している。(*2)
〈割腹死〉の句の前詞は「三島由紀夫の死」。死と鳥の組み合わせはヤマトタケルの昔から度々現れてきた文学的モチーフではある。オレンジ色の胸を持つ鶲の群れが空を飛ぶさまを〈鶲(ひたき)撒かるる〉とした措辞が印象的。
笹鳴のまにまに麻酔きかさるる 昭和52年作 『雁道』
病室の空のいづちへ揚雲雀 昭和52年作 『雁道』
患者食こんにやくつづき百千鳥 昭和52年作 『雁道』
三句ともに「入院、腹部切開手術を受く 五句」中の句。入院生活の日常の寂しさを描きながら、どこかに明るいユーモアを感じるのは、〈笹鳴〉〈揚雲雀〉〈百千鳥〉といった季語の恩寵であろうか。鳥の鳴き声や軽やかな振る舞いが病者の心に明るく健やかなものを与えているのが読み取れる。師である石田波郷と同様に死線をさまよいながらも詠嘆に流されることなく、一種の軽みさえ感じる句をなせたのは、俳句に対する信頼と一句独立の精神が根底にみなぎっている故だろう。
蹼(みずかき)に乗つたる鳥や雪催 昭和52年作 『雁道』
〈蹼(みずかき)に乗つたる鳥〉も軽妙な感じを受ける句だ。それは「蹼」という難しい漢字のあとに〈乗つたる鳥〉というひねりを加えた表現の効果だろう。重苦しい印象のある〈雪催〉の前を切字の「や」で一拍置いているのも良い。言葉の重い、軽いを交互に配しながら水鳥の姿を描出しており、巧みである。
冬の雁空では死なず山の数 昭和53年作 『雁道』
〈空では死なず〉も読みようによっては諧謔のように見えなくもない。雁にとっての〈空〉は日常であり、そこで死ぬことはないという断定は、自己の死に引き寄せて考えているようにも読めてくる。下五を〈山の数〉と抑えたことで雁の骸を抱いている山が累々と連なっている景が見えてくる。山をすべての命の根源として捉えるならば、根源回帰への希求ともとれる。
生きかつ死なねばならない恍惚と恐怖。玄の鳥の句を読むたびにそのことがしきりに胸にこみ上げてくる。
*1 第5句集『雁道』 昭和54年永田書房刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載
*2 自註現代俳句シリーズ・第二期16『斎藤玄集』 昭和53年 俳人協会刊
●―5堀葦男の句/堺谷真人
首都の芝厚し栗鼠・鳩・老婆あゆみ
『火づくり』(1962年)最終章「火の章」の句。「太陽の専制」と題された連作50句の劈頭を飾る「アメリカ 九句」より。
見事に手入れされた厚い芝生がどこまでも広がる公園。愛くるしい栗鼠が垣根づたいにひょいと顔を出し、一瞬じっと何かを見つめてから、するすると走り去る。子どもの撒くポップコーンに鳩があつまり、ふくよかな老婦人は脚をいたわるようにゆっくりと散歩を愉しんでいる。
1960年6月、国際棉花諮問委員会出席のため渡米した葦男は首都・ワシントンに滞在した。葦男の眼をまず捉えたのは、超大国の首都の美しさである。ナショナル・モールの緑あふれる景観はもとより、輪奐たる諸官庁の建物やオフィスビルの合間にもここかしこに分厚く敷き詰められた芝生は、金銭的尺度や軍事力だけでは測り得ないアメリカの豊かさ、底力というものを思い知らせたに違いない。祖国・日本を完膚なきまでに打ちのめした超大国の凄みを、葦男はビジネスシューズで踏む公園の芝生の厚みから感じ取っていた。
筆者がこの作品を「鳥」の句として取り上げたのには理由がある。第一句集『火づくり』837句には鳥を詠んだ作品が31句ある。しかし、全206ページの69ページ目に位置する鳥の句No.23「つばくらの白胸(しらむね)よごる街貧しく」のあと100ページ近く鳥を詠んだ句は一つもなく、163ページ目に至ってやっと出現した鳥の句No.24が即ち「首都の芝厚し・・・」なのである。制作年代にして1952年から1960年まで足かけ9年間に及ぶブランクは何を意味するのであろうか。
無論、葦男が9年間ものあいだ鳥の句を一切詠まなかったわけではない。例えば1954年5月に発行された「十七音詩」第3号には「君と見し夕日のごとし雁啼けり」という作品も見える。しかし、『火づくり』編纂時の葦男はこれを採らなかった。
ところで、鳥の句の空白期は『火づくり』第三章「地の章」をまるまる含むが、実はこの「地の章」は『火づくり』刊行当時、集中のアキレス腱と見なされていた形跡がある。今、1963年5月発行の「十七音詩」第25号<火づくり特集号>の座談会「“火づくり”を手にして」を披見すると、鈴木六林男ら同時代の俳人たちは「風の章」から「水の章」への深化を高く評価する一方、「地の章」については「低迷」「足踏み」「勇み足」等の言葉で忌憚なき評定を下しているのだ。
しかし逆にいえば、「地の章」の時代こそ葦男が全身全霊を賭けて俳句表現上の試行錯誤を繰り返した歳月だったともいえよう。僻目かもしれないが、葦男が新しい表現や思想の地平を開くため、敢えて好きな鳥の句を封印するという「鳥断ち」の挙に出たのではないかなどと筆者は想像してしまう。
葦男が約2ヶ月の外遊を終えて羽田空港に降り立ったのは1960年7月14日であった。同じ日、アメリカの民主党大会においてジョン・フィッツジェラルド・ケネディが大統領候補に指名された。指名受諾演説で彼が高らかに掲げたスローガンが「ニュー・フロンティア」である。
For the problems are not all solved and the battles are not all won—and we stand today on the edge of a New Frontier … But the New Frontier of which I speak is not a set of promises—it is a set of challenges. It sums up not what I intend to offer the American people, but what I intend to ask of them.
アメリカで始まろうとしていたフロンティア精神の復興運動。その息吹を目の当たりにした葦男の俳句にようやく鳥はもどって来たのだ。
●―8青玄系作家の句/岡村知昭
羽抜鶏の抜けつ放しで遊びをり 安川貞夫
掲出句は第2句集『独酌』(1961年1月 青玄発行所)所収。作者は1919年(大正8)生まれ、奈良県出身。軍隊時代に伊丹三樹彦と出会ったのがきっかけで俳句への関わりが始まり(同じように俳句と出会った楠本憲吉と戦後すぐに日野草城の家を訪れている)、1949年(昭和24)に「まるめろ叢書」第4として第1句集『小盃』を刊行(「まるめろ」は草城が指導、三樹彦が編集で1946年に創刊した俳誌、ちなみに叢書第2が桂信子の『月光抄』)。「青玄」には創刊から参加。『独酌』は1949~60年までの作品220句余りを逆年順に収録、掲出句が収められた1958年(昭和33)の章の作品12句は、すべて「羽抜鶏」がモチーフとなっている。
そこで、「羽抜鶏」という季語を手元にある歳時記で改めて見直してみると、
西日が射しこむ鶏舎の中で、羽抜した鶏の姿は、なんとも見すぼらしく、哀れである。鶏冠の色まで暗白色にかわり、しょぼしょぼと歩くさまは滑稽ですらある」(講談社版『カラー図説日本大歳時記』より、筆者は飯田龍太)、
昔は、農家の庭で放し飼いにされていた鶏が哀れな姿をさらして駆け回ったりする光景がよく見られた。滑稽味のある季語。(『今はじめる人のための俳句歳時記』角川文庫)
というように羽根がだんだんと抜け落ちてゆく姿に対する「哀れ」さと羽根を散らばらせながら駆け回る姿への「滑稽」さ、人間サイドからの目線に基づいたこのふたつの感情が受け継がれていきながら「羽抜鶏」は存在しているわけである。
掲出句以外の作品での「羽抜鶏」たちは、「身辺を抜け羽が舞へり羽抜鶏」「抜け羽の行方へ一顧羽抜鶏」「羽抜鶏の尻うごきをり草の中」といった身近にいる鶏自身の羽根が抜け落ちてゆく動きをじっと見つめ続けたところから生まれた句があると思えば、「バスの砂塵へ片目つぶって羽抜鶏」「雲見る間も羽抜けやまず羽抜鶏」「天想うこと多くなり羽抜鶏」「羽抜鶏の尻を見しより母恋し」というような自分自身のいまの姿を鶏に投影したかのような作品も現れる。鶏の尻から母の後ろ姿を想う姿は母恋いには珍しいのではあるまいか。「羽抜鶏の雄が羞らう雌の前」「狡い雌とはなれて雄の羽抜鶏」では雌の優位に対して雄であることへの無力を訴えてやまないのは男性である自分自身、己への「哀れ」「滑稽」の投影もここに極まれりというところなのだろうか。「羽抜鶏どうしであそぶ沼に映り」「沼に映る凡夫につづく羽抜鶏」は沼という独特の不気味さを醸し出す場所との取り合わせを通じて、生命としての存在そのものの不確かさを写し取ろうとしている、その先にあるのはもちろん自分自身の不確かさなのだろう。
そして掲出句の「羽抜鶏」である。この鶏は羽が抜け落ちてゆく真っ只中にありながら、それがどうしたと言わんばかりに周辺を堂々と走り回る。作者を含めた人間たちから向けられる「哀れ」や「滑稽」の目線などはいとも易々と跳ね返し、夏の暑さにおろおろともせずに走り回る。もしかしたら「抜けつ放し」を恐れることのないたくましさこそが本当の「羽抜鶏」なのかもしれない、と思わせてしまいかねないぐらいである。作者がこの1句を外さなかったのも、己が生命もまたこのようにたくましくありたいものだ、との感慨が鶏を見つめながらよぎっていたからだろうか。
著者の第1句集『小盃』に日野草城は序に次の一文を送っている。
「安川貞夫罷り通る」
その安川貞夫氏の目の前を、羽抜鶏たちははつらつと動き回っている、羽を全身からほとばしらせるかのように飛び散らせながら。まさに「羽抜鶏罷り通る」。
●―9上田五千石の句/しなだしん
火の鳥の羽毛降りくる大焚火 五千石
第四句集『琥珀』(*1)所収。昭和五十八年作。
「火の鳥」の句であるから、厳密にいえば「鳥」の句とは云えないかもしれない。五千石には「渡り鳥」をはじめ、多くの鳥の句があるが、今回はこの「火の鳥」の句を紹介したいと思った。
◆
火焔鳥、不死鳥、フェニックス、様々に呼ばれる火の鳥は、永遠の時を生きるという伝説上の鳥。数百年に一度、自ら香木を積み重ねて火をつけ、その火に飛び込んで焼死し、その灰の中から再び幼鳥となって現れるという。ちなみに鳳凰とフェニックス、東西の聖なる鳥の代表としてよく混同される両者だが、フェニックスのルーツはエジプトにあり、歴史書によれば、形態は猛禽類(エジプトで愛好されていた鷹)に近い。それに対して鳳凰は長い首、尾羽など孔雀に近い見た目をしており、そのルーツはインドにあるという。また鳳凰は雌雄の別があり卵も産むのに対してフェニックスは単性(雄)生殖をするとされているところに大きな違いがある、とのことだ。
◆
この句は「火の鳥」を詠ったものではなく、この「火の鳥」は大焚火の比喩として使われている。
五千石は大焚火を前にして(目の前にしたわけではなく、題詠ということも考えられるが)、舞い上がる火の粉を追い視線を上に向けたとき、炎に染まった夜空に「火の鳥」を認めたのだ。そしてその「火の鳥」が羽ばたきを見せたとき、羽毛がしずかにゆっくりと舞い落ちてくるのを見た。そんな幻想の後、現実の眼前には焚火がまた炎をあげる。それは不死鳥の数百年に一度の再生を見るがごとくである。
◆
題詠という可能性に触れたが、『上田五千石全集』 (*2)の『琥珀』の補遺、「畦」昭和58年2月号には、「左義長や火の切れ宙にむすびあひ」「かんばせをどんど明りにまたまかす」「山風に焔あらがふ磯どんど」という「左義長」を詠んだ句が残っている。これらの作品のどこかに掲出句に通ずるイメージを感じるのは私だけだろうか。
この頃の吟行時の作品には前書きがあるが、この一連の「左義長」の句にはそれがない。「左義長」の題詠だったことも大いに考えられる。そして掲句が「左義長」の一連として詠まれ、「焚火」に推敲されたとも考えられなくない。
◆
掲句、「火の鳥」自体誰も見たことがないだろうから、読み手によってそのイメージは随分異なるかもしれない。ただ「焚火」に対して「火の鳥」を単に持ち出しただけでなく、その「羽毛」という細かい描写を加えたのが、五千石の技であり、詠み手の想像力を刺激するところだろう。
*1 『琥珀』 平成四年八月二十七日、角川書店刊
*2『上田五千石全集』 富士見書房刊
●―10楠本憲吉の句/筑紫磐井
私は船お前はカモメ海玄冬
前号、鑑賞文の中で例句として取り上げたが、再度、憲吉の技法を確認するために取り上げよう。
61年、『方壺集』より。玄冬は間違いではない、「厳冬」は寒い冬だが、「玄冬」は中国の5行説で色彩と四季を組み合わせたとき、青春、朱夏、白秋、玄(くろ)冬と呼ばれるからだ。極寒の冬を連想しなくてもよい、おごそかな冬の季節感を感じ取ればそれでよいのだ。
憲吉には、既に述べたように他の俳句や詩、歌謡の借用が多かったが、これに通じるものとして、こうした対句の構造が多い。それも、月並みではない、しかしいかにも通俗的な使い方が目立つことだ。この句で見れば、たちまち歌謡曲の一節が思い出されるが、「私は船お前はカモメ」はありそうでない歌詞だ。しかし、私は船あなたは港、私はカモメ・・・など類した歌謡曲を探すことは苦労は要らない。
蘭は絃、火焔樹は管、風は奏者
曇り日の風の諜者に薔薇の私語
ひらひらとコスモスひらひらと人の嘘
足跡に春日洽(あまね)し潮騒遠し
ヒヤシンス鋭し妻の嘘恐ろし
ヒヤシンス紅し夫の嘘哀し
”矛盾”それは花言葉ではない君言葉
巨花か巨船か流離のごとき熱の中
君と白鳥探すこの旅死探す旅
ひまわり多感 中年よりも南風(はえ)よりも
我を愛せとバラ我を殺せとまんじゅうしゃげ
二日はや死と詩が忍び足でくる
鴨遊ぶ池畔孤客でおしゃれで僕で
鴨川を何か流るる心か何か
湖は秋波で僕は秋波でホテルは何波
とある女ととある話の虫の宿
没日何色私はあなたの何色
天に狙撃手地に爆撃手僕標的
このように見てくると、くすぐったくはなるが、作詞家であれば阿久悠の感覚に似ているかもしれない。かるく、しかしどこか心が疼けばそれでよいという詠み方なのである。
戦後俳句は、稲垣きくのや斎藤玄も必要だが、一方でこんな感性も生んでいる。戦後俳句の豊饒さを言うときにはどちらも忘れられない人々であると思うのである。兜太、重信、龍太、澄雄ばかりが戦後俳句なのではない。通俗性は、戦後俳句の特徴の一つであり、やがて「俳句って楽しい」という、とても文芸とは思えないキャッチフレーズまでが生まれ始める。確かに楠本憲吉はそうした風潮の責任を負うべき最初の作家であり、戦犯である。ただ厭うべき戦犯ではなくて、愛すべき戦犯と思ってほしい。
●―12三橋敏雄の句/北川美美
鷓鴣は逝き家の中まで石河原
シュールレアリストによる自働記述のような句である。四次元空間に入り込む気分になる。「逝」という字意に文学的匂いのする鶏・「鷓鴣」への愛着があったことを伺わせ、鷓鴣への追悼、そしてその悲しみの彼岸の風景が家の中まで入りこんでいるように読める。これを第一の読みとしてみる。
さて、掲句は句集『鷓鴣』のタイトルになっているだけでなく、中扉に三鬼、白泉、敏雄の鷓鴣の句を錚々と鎮座させている。戦国三武将の風格である。
鷓鴣を締むおそるる眼かたく閉づ 西東三鬼
新興俳句の旗手として名高い三鬼。ルナアルの『にんじん』の中で岸田國士によりヤマウズラ族の雛が「鷓鴣」と訳されている。三鬼補遺にある「『にんじん』を詠む」と前書き風タイトルがついた昭和9年の作品の一句である。二羽の鶏が殺される場面に恐ろしさのあまり眼を閉じるのは三鬼である。その後の三鬼が、新興俳句弾圧に従うままでいるしかなかったようにも読める。
塵の室暮れて再び鷓鴣を想ふ 渡邊白泉
白泉からは、漢詩の叙情が伺え、「想ふ」に孤独感が漂う。白居易『山鷓鴣』の心情に近い。これも発表後の事になるが、新興俳句弾圧後、俳壇から距離を置いていた白泉のボヘミアン的身の上を重ねあわせると、群れから外れたその身が毎朝毎晩啼きつづけていた鷓鴣をたびたび思い出しているように読める。「塵の室」が、穢れた世ながら貧しく高貴に映る。痛々しい淋しさを伴う句である。
そして三句目に敏雄の鷓鴣の句。先師とともに掲げた句が意味することが第二の読みである。
「鷓鴣」を「俳句」と置き換えてみる。敏雄が想う、三鬼、白泉、敏雄のそれぞれの立ち位置が見えてくるようだ。ひとつひとつの石は敏雄が目覚めた新興俳句という新しさを求めた俳句への鎮魂。外から内に繋がり境の区別が無くなっている賽(さい)の河原の風景である。その石々を家の中で積み上げている敏雄の背中を想うのである。弔いと創造を繰り返す俳句への思いと読めてくる。そして、どこか途方に暮れている印象がある句である。
『眞神』から『鷓鴣』の刊行まで約五年のインターバルがあるが、制作年に於いてこの二句集は同時期である。両作品とも敏雄俳句史に於ける新興俳句からの起死回生といえるだろう。『鷓鴣』での彼岸の捉え方が微妙に『眞神』と異なることに注目しながら更に読み進めて行きたい。
●―13成田千空の句/深谷義紀
白鳥の花の身又の日はありや
第2句集「人日」所収。
千空作品の中で最も多い季語は「雪」である。青森、それも雪の多い津軽の五所川原を終生離れることがなかった千空だから、これは謂わば当然の結果だろう。ところが、それに次いで多いのが「白鳥」。これは、やや予想外の結果だと言える。確かに東京などと異なり、青森には冬季になれば白鳥が多数飛来するから、白鳥を見かけることがさほど珍しくないという事情はあるだろう。しかし、そうは言っても、他の作家の場合「白鳥」の作例はそう多いとは言えないし、この点はやはり千空の句業の一つの特質であろう。
掲出句以外の「白鳥」の句を挙げる。
波なりに冬去る白鳥の墓一基 「地霊」
白鳥の黒豆粒の瞳を憐れむ 「人日」
白鳥の遥かな一羽父なるか 「天門」
白鳥千羽東にひらく海と空 「白光」
白鳥の声かすめ去る夢の端 「忘年」
白鳥の飢ゑのうら声風のこゑ 「十方吟」
各句集から一句づつ引いた。
これら「白鳥」の句を眺めているうちに気付くのは、白鳥に千空の様々な想いが込められているということである。千空は白鳥を客観視するのではなく、かけがえのない存在の人間に接するような眼差しを注いでいる。上述の句に即して言えば、或る時は“墓を遺して逝った男”を、或る時は“幼少時に死別した父”を、或る時は“凶作による飢饉に見舞われた津軽の先祖たち”を、それぞれ見ているのである。
では、なぜ千空はこの「白鳥」という対象に惹かれ、このように己が想いを託したのだろうか。以下は、全くの独断である。
五所川原からさほど離れていない津軽外が浜には「雁風呂」「雁供養」の伝承が残る。津軽の人達は、春になると砂浜に残る木の枝を拾いながら、北に帰ることができなかった雁の霊を弔うという。千空が白鳥を見る眼差しに、これと相通ずるものがあったような気がしてならない。
純白の白鳥の姿は確かに美しい。だが、長い旅路の中途で力尽きるものも少なからずいるだろう。また、たとえ無事に辿り着いても飛来した地で斃れていくものも多い筈である。眼前の白鳥と来年再び相まみえる事は不可能と言ってよいだろう。掲出句では、運命の過酷さに裏打ちされた、哀しいまでの白鳥の美しさが詠われている。
●―14中村苑子の句 【『水妖詞館』―― あの世とこの世の近代女性精神詩】41.42.43.44/吉村毬子
41 鐘の音の絡みて震ふ髪を梳く
以前、鑑賞した4.の句の拙文の最後に以下がある。
4.跫音や水底は鐘鳴りひびき
苑子の詠む「水」はなぜか粘りを持つ。跫音は冴え、水は透明でさらさらと流れ、鐘の音は美しく澄む。だが、苑子の水底に捕まると、それらも清澄なものを湛えながら絡まっていくのである。(中略)跫音と鐘の音は、永遠に響き、そして絡まっていくのであろう。
先日も〈5.撃たれても愛のかたちに翅ひらく〉と〈30.愛重たし死して開かぬ蝶の翅〉の両句の関連性を論じたが、今回の「鐘」もまた、4.の句との繋りを予知した訳ではなかったが、自ら、予告したような文章を書いていたことに驚きながらも、納得している次第である。
掲句の「鐘の音」が、4.の句の「水底」から聴こえてくる音なのかは、書かれていないのであるが、「髪を梳く」行為は、髪を洗った後に必ずすることであり、水を裏付けている。私はまた、4.で〈躰の水底に鐘があり、水底が鳴っているのだ〉と論述したが、今回の句も自身の水底の「鐘の音」が絡んで「震ふ髪を梳く」のだとも思える。
鈴=〈34.鈴が鳴るいつも日暮れの水の中〉や、鐘のその美しい音色は、神仏との交信とも云われ、湖には寺院が沈んでいて、ときとしてその鐘の音が聞こえる、などという日本各地に残る沈鐘伝説とともに、苑子の魅かれるものであったのだろう。苑子は、民話や伝説が好きであった。
苑子の好んだ紀州には、僧の安珍に裏切られた清姫が蛇に変化(へんげ)、変成(へんじょう)し、道成寺で鐘ごと安珍を焼き殺すという、安珍清姫伝説がある。
そして、福井県敦賀の金ケ崎には元禄2年8月、ここを訪れた芭蕉の句碑がある。
月いつこ鐘は沈るうみのそこ 松尾芭蕉
『奥の細道』には記されていない句だが、宿の主から聴いた沈鐘伝説を一句にしたそうである。福井への旅を私に勧めていた苑子も訪ねた地かも知れない。また、即身仏の行者は、生きたまま木棺に入り、その中で断食をしながら鐘を鳴らしてお経を読み続けたと云われる。
「鐘の音」が、古代の神仏の遥か悠久の時より鳴り続け、女の髪に絡みついて震える。その「震ふ髪を梳く」一刻(いっとき)、巫女のごとく、鐘とともに水底に沈んでいる者達の憑代となっているかのようである。苑子は、それらの美しく荘厳な悲哀の鐘の音を確かに聴いているのである。
42 若き蛇芦叢を往き誰か泣く
蛇は古代より神の象徴である。眠らず脱皮して若返る(ように見える)、強い生命力は、生と死を超越した存在として崇められる。陸上のみならず、水の上や、さらに木の上までとどこまでも素早く移動できる事が、昔の人をして、あの世とこの世の往来さえ可能だと思わせていた。
〈あの世とこの世を往き来する女流俳人〉の異名を持つ苑子も、「花」や「桃」に次ぐほど多くの「蛇」の句を残している。後日鑑賞することになるが、『水妖詞館』にも他に2句を掲載しているし、その後の句集にもいくつかの蛇を登場させている。
草擦りの野擦りの蛇へ火を放つ 苑子『四季物語』
荒髪も蛇と長けるぬる水鏡 〃『吟遊』
今回の句は、句集に収めた「蛇」の句では最初の作品である。が、『水妖詞館』は62歳刊行であり、編年体で作成した句集ではないため、何才頃の作品かは解らないのである。しかし、『四季物語』や『吟遊』からの掲出句よりもやはり若書きの感はある。
「若き蛇」は青年であろう。「蛇」の強い生命力は性の象徴でもある。高さ2メートルにも伸びる大群落を作る「芦叢」は川辺に自生する。蛇は、川の姿に重ねられ、水神とも伝えられることから、「芦叢」は、蛇の思うがままに支配できる場所とも言えよう。生めかしい「若き蛇」が、獲物を呑み込み芦叢を往き過ぎるように、瑞々しい艶気(つやけ)を持つ青年が巷間で泣かせた「誰か」がいるという事を詠んでいるのか――。誰かの措辞は、複数とも取れる。己れの意のままに青年は世間の女達を弄ぶ。
「誰か」のひとりが苑子自身であるのかは、定かではないが、「若き蛇」の行動や「泣く」者達を客観的にとらえ、愛憎も悲哀も描かれてはなく、静かに視つめ受け流しているようにさえ思われる。
苑子に限らず、神々や生命の象徴と崇めれる「蛇」は、多くの俳人の佳句として、その姿をなお一層輝かせているのである。
吹き沈む
野分の
谷の
耳さとき蛇 高柳重信
法華寺の空とぶ蛇の眇(まなこ)かな 安井浩司
水ゆれて鳳凰堂へ蛇の首 阿波野青畝
43 身を容れて夕ぐれながき合歓の歓
「合歓」は、葉が夕方閉じるが、花は夕方に開き、夜になっても咲いている。中七下五の「夕ぐれながき合歓の歓」は、夕暮れになり花が咲き始め、その時間は、花にとっても見る者にとっても楽しい時であるという解釈が成り立つ。「合歓の歓」と同字を当てた技巧も効いている。また上五「身を容れて」は、高木である合歓の木の下で花を眺めているのか、樹形が真っ直ぐではなく倒れたようであるため、身を容れる風情も面白い。
しかし、「合歓」は〈ごうかん〉という読み方もあり、歓楽をともにすることの他に、同衾するという意味もある。とすると、上五の「身を容れて」と「合歓の歓」が途端に艶を帯びた句に変貌してくるのである。
象潟や雨に西施がねぶの花 松尾芭蕉
春秋時代、呉王夫差が、その美貌に溺れて国を傾けるに至ったという美女、西施を合歓の花に譬えた『奥の細道』での有名な一句であるが、山本健吉の文章を抜粋する。
(『芭蕉・その鑑賞と批評』2006年新装版)
西施が悩ましげに、半眼閉じているさまに、薄紅の合歓の花が、雨に濡れながら眠っているというのであって、その姿を雨中の象潟の象徴と見たのである。(中略)つまりその雨景そのものが、恨むがごとく、魂を悩ますがごとく、寂しさに悲しみを加えた、女性的な情緒だったのであって、それはまた、象潟に思いを寄せてははるばるやって来た、芭蕉の心の色でもあった。
芭蕉は、象潟の雨景に西施を重ねながら、恨むがごとく、寂しさを表現しているが、苑子の句は歓楽をともにする嬉しさを詠っている。そして、日常茶飯事では無いがために、(合歓(ねむ)の花を眺める時間も、合歓(ごうかん)の時間も)その喜びも一入のように思われる。逢引に似たイメージも想像される。
ネムの名は、葉の睡眠運動によって閉じることから付いたそうであるが、西施が眠っている様子や同衾をも思い起こさせる「合歓の花」は、そのほのぼのとした柔かな花の姿のように、朦げな艶があるようである。漢名を夜合樹とも言うらしい。
羅(うすもの)の中になやめりねぶの花 各務支考
44 死にそびれ絲遊はいと遊ぶかな
句集の序において高屋窓秋氏が〈通読していて心のやすまるひまもないような気がして、すこしぐらい息ぬきになる作品が含まれていてもよいではないかと〉思ったことについて、同感しつつ、全139句の三分の一近くまで書き綴ってきたのだが、掲句が、久し振りに息をつける気がするのはなぜだろうか。
苑子の句には、たびたび「死」が頻出するが、掲句もまた、上五から「死にそびれ」という尋常でない言語で始まるのだが、「死にそびれ」てもいるためか、句全体に「死」を扱った凄絶さは感じられない。「絲遊」(陽炎(かげろう))は実体のない気であり、日射しのために熱くなった光が不規則に屈折されて起こる儚い仄かなものであると、死が喩えられているからであろう。
また「絲遊はいと」の韻を踏む音感と、「絲遊は」「遊ぶかな」の視覚的な文字による言葉遊びも影響している。この句の前句〈39.身を容れて夕ぐれながき合歓の歓〉にも見られた。同じ手法で1頁に2句並べられている趣向である。
「死にそびれ」とは、死のうとしたけれども機を失ってしまったことだろうが、人は、人生のいろいろな場面で〝寝そびれた〟ように、「死にそびれ」ているのではないだろうか。
母親の胎内で父親の精子が生き残る時、羊水の中でようやく臨月を迎え、出産される時、危く交通事故に遭遇した時、自然災害にあった時、大失恋して、仕事上の大失敗をして〝もう死んでしまいたい〟と思った時、等々――。そんな時、「死にそびれ」なかった人もいるということを考えると、生あればこそ「絲遊」を感受し、その中に遊ぶ自身の姿も実感できるのである。
しかし、人の一生など、「絲遊」のように儚いものだと、苑子が、その浮遊する光の中で微笑んでいるような気もする。その微笑に私は少しだけ、息をつけるのかも知れない。