2015年12月25日金曜日

第33号 

攝津幸彦記念賞詳細
受賞者まもなく当ブログにて発表予定‼


  • 1月の更新第34号1月8日・第35号1月22日



  • 平成二十七年 俳句帖毎金00:00更新予定) 》読む

    (1/1更新)冬興帖、第六花尻万博・水岩瞳・下坂速穂・岬光世
    依光正樹・依光陽子・飯田冬眞
    (12/25更新)冬興帖、第五…堀本 吟・月野ぽぽな・羽村 美和子
    石童庵・もてきまり
    (12/18更新)冬興帖、第四…坂間恒子・望月士郎・青木百舌鳥
    (12/18更新)秋興帖、追補…福田葉子
    (12/11更新)冬興帖、第三前北かおる・ふけとしこ・川嶋ぱんだ
    とこうわらび・林雅樹・早瀬恵子
    (12/4更新)冬興帖、第二内村恭子・渡邉美保・小野裕三
    佐藤りえ・木村オサム・栗山心
    (11/27更新)冬興帖、第一曾根 毅・杉山久子・陽 美保子
    小林かんな・山本 敏倖・網野月を・夏木久


    【毎週連載】  

    曾根毅『花修』を読む毎金00:00更新予定) 》読む  
      …筑紫磐井 》読む

    曾根毅『花修』を読む インデックス 》読む
    • # 21   たどたどしく話すこと … 堀下翔  》読む
    • # 22   墓のある景色 … 岡田一実  》読む
    • #23   永久らしさ  … 佐藤文香   》読む
    • #24   続〈真の「写生」〉  … 五島高資  》読む
    【対談・書簡】


    「評論・批評・時評とは何か?」 (堀下、筑紫そして…)
    その13 …堀下翔  》読む 
    「芸術から俳句へ」(仮屋、筑紫そして…)
    その3 …筑紫磐井・仮屋賢一  》読む 
    過去掲載分
      その1
    その2

    字余りを通じて、日本の中心で俳句を叫ぶ
    その1 …筑紫磐井・中西夕紀  》読む




    およそ日刊「俳句空間」  》読む
      …(主な執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香 … 
      (12月の執筆者: 佐藤りえ・宮﨑莉々香…and more  )
       井恒行の日々彼是(俳句にまつわる日々のこと)  》読む 



      【鑑賞・時評・エッセイ】


      <New>
      【短詩時評 8往】  ニューウェーブをめぐるデジタル・ジャーニー
      -帰りの旅-
      …柳本々々  》読む 

       <引き続き掲載>
       ■ 朝日俳壇鑑賞 ~登頂回望~ (九十四)
      …網野月を  》読む 
      ■  中島敏之の死
      …筑紫磐井 》読む
       【俳句時評】 等身大の文体――石田郷子私観(前編) 
      …堀下翔  》読む  
      【特別連載】  散文篇  和田悟朗という謎 2-1
      …堀本 吟 》読む 

      リンク de 詩客 短歌時評   》読む
      ・リンク de 詩客 俳句時評   》読む
      ・リンク de 詩客 自由詩時評   》読む 





          【アーカイブコーナー】

          赤い新撰御中虫と西村麒麟 》読む

          週刊俳句『新撰21』『超新撰21』『俳コレ』総括座談会再読する 》読む



              あとがき  読む

              ●俳句の林間学校 「第7回 こもろ・日盛俳句祭」
               終了いたしました。 》小諸市のサイト
              シンポジウム・レポート「字余り・字足らず」   … 仲栄司 》読む 
              小諸の思い出2015  北川美美  》読む 






              筑紫磐井著!-戦後俳句の探求
              <辞の詩学と詞の詩学>
              川名大が子供騙しの詐術と激怒した真実・真正の戦後俳句史! 



              筑紫磐井「俳壇観測」連載執筆











              特集:「突撃する<ナニコレ俳句>の旗手」
              執筆:岸本尚毅、奥坂まや、筑紫磐井、大井恒行、坊城俊樹、宮崎斗士


              特集:筑紫磐井著-戦後俳句の探求-<辞の詩学と詞の詩学>」を読んで」
              執筆:関悦史、田中亜美、井上康明、仁平勝、高柳克弘




              冊子「俳句新空間」第4号発刊!(2015夏)
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              豈57号刊行!
              豈57号のご購入は邑書林まで

              第33号 あとがき


              メリークリスマス! 皆さまどのようなクリスマスの日をお過ごしでしょうか。今更ながら調べてみるとクリスマスは冬至の祭という説があり、確かに日本列島、冬真っ盛り冷え込んでいる本日…暖かくしてこのブログでお楽しみください。

              2015最後の更新は、「評論とは何か?」の堀下翔、「短詩時評」として柳本々々、そして曾根毅『花修』を読むは22寄稿まで来ました。豪華執筆陣です。 冬興帖も順調に続いています。 2015年も多くの皆様のご協力により無事更新できました。執筆者の皆様、読者の皆様どうぞ来年もよろしくお願い申し上げます。


              以下誤記のお詫びともろもろ雑談。

              <およそ日刊・俳句新空間>ですが、昨年2014年11月12日掲載の黒岩徳将氏の【きょうのクロイワ 3】に関連して鑑賞句の作者である広渡敬雄さんのラベルのお名前に間違いがありました。訂正しお詫び申し上げます。http://haiku-new-space03.blogspot.com/2014/11/blog-post_12.html

              また、12月の更新日告知の掲載に誤りがありご執筆陣の皆様にご迷惑おかけしました。お詫び申し上げます。大変失礼いたしました。

              それと新執筆者紹介。

              <およそ日刊・俳句新空間>に、12月より、宮﨑莉々香さんが執筆者として加わりました。大学一年生。土佐出身。 どうぞご愛読のほどよろしくお願いいたします。12月は、佐藤りえさんと宮崎莉々香さんが続きます。 

              「莉」といえば、新聞の記事を見ていたらAKBに「莉」の字がつく方がいることを知りました…、この「莉」の字、ある意味、アイドルの魔性を示すような気もします。当のわたくしはこの「莉」の字は子供の頃、女優「岡田茉莉子」の字で覚えまして、「茉莉花茶」がジャスミン茶だと知った時の喜びを思い出します。作家・林真理子が「茉莉花茶を飲む間に」というタイトルの本を出した時は、世代的に想うことは同じ(林真理子さんの方が年長ですが)なんだろうか、と。莉々香さん登場により香り立つ俳句ブログになったような…、と期待が膨らみます。

              以下雑談。

              さてAKBならぬCKBというグループのライブにて競演された野坂昭如さんを3回拝みました。説法が効いていました。『終末のタンゴ』が強烈な印象として残っています。野坂さんの姿はその後、確かNHK教養講座『終末の哲学』で、台本も見ずカメラを凝視で話される姿に見入りました。最後にライブで拝見したのは2003年の福岡でしたので倒れる直前のお姿だったと思います。確かにお顔がとても血の気が無いような白さだったのを憶えています…。 テレビ時代の作家として先駆けで方でしたらから、テレビから消えて非常に淋しい。ある時代が終わった感があります。ご冥福をお祈り申し上げます。 野坂さんの写真で気に入っている写真を後日ここのお貼りします。



              …と豈58号がリリースしたという速報が大井相談役のブログで流れました。
              攝津幸彦賞受賞者お伝えすべく情報入手中です。


              ‐俳句空間‐「豈」 (58号)  目次 
                                  
              表紙絵・風倉 匠・表紙デザイン・長山真

              ◆速報・第3回攝津幸彦記念賞決定  
              ◆招待作家・30句 金原まさ子                               
              ◆新鋭招待作家 竹岡一郎   冨田拓也  堀田季何  前北かおる 
              ◆「豈」57号招待作家作品を読む   言の葉パラパラ    池田澄子  
              ◆作品Ⅰ  秋元 倫  飯田冬眞 池田澄子  伊東宇宙卵  伊東裕起 
              丑丸敬史   大井恒行  大本義幸  岡村知昭  恩田侑布子 
              鹿又英一   神谷 波   神山姫余  川名つぎお
              ◆特集 安井浩司評論特集
              安井浩司著「さまよう鬼、西東三鬼ノート」を読む 網野月を   
              「俳句形式のアポリア」 江田浩司
              私感『聲前一句』小論 表健太郎   
              愛奴 九堂夜想      
              『安井浩司俳句評林全集』読後随想 曾根 毅  
              形式というトラウマ 田沼泰彦
              神の臼から零れる俳句 鶴山裕司 
              なぜ俳句なのか 救仁郷由美子
              私的もどき観察    筑紫磐井 
              ◆作品Ⅱ   北川美美   北野元生   北村 虻曳  救仁郷由美子  倉阪鬼一郎
               小池正博   小湊こぎく   小山森生  五島高資  堺谷真人
              坂間恒子  杉本青三郎  鈴木純一 
              ◆連載  私の履歴書⑦ 逃亡とや千の鈴鳴る千鳥かな     大本義幸 
                  大本義幸インタビュー・「豈」創刊のころ(二) 聞き手 関 悦史 
              ◆作品Ⅲ  関 悦史  関根かな  妹尾 健  高橋修宏  高橋比呂子
               田中葉月  筑紫磐井  津のだとも子 照井三余  中戸川奈津実  
                中村冬美  中村安伸  夏木 久  新山美津代  萩山栄一 
              ◆書評  秦夕美句集『五情』評  夏木 久
              ◆作品Ⅳ 秦 夕美   羽村美和子  早瀬恵子   樋口由紀子   福田葉子 
                藤田踏青   堀本 吟 真矢ひろみ   森須 蘭 山上康子
                山﨑十生   山村 嚝   山本敏倖  わたなべ柊   亘 余世夫 
              ◆「豈」銘鑑-WHO‘S WHO  
                ・旧同人招待作品 岸本マチ子 富岡和秀 鳴戸奈菜  仁平 勝  福永法弘 
              ・中烏健二追悼  永井江美子    
              ・物故同人の思い出  川名つぎお 
              ・旧同人句集評 島一木句集『都市群像』を読む  大本義幸 
              ・「豈」創刊号を眺める   筑紫磐井編  
              ・「ひたすら書く、黙って書く」ためのブログ運営記  北川美美 
              ・冊子「俳句新空間」の誕生    筑紫磐井 
              ・WHO‘S WHO  各同人代表10句  
              ・「豈」同人在籍一覧   

              評論・批評・時評とは何か?――堀下、筑紫そして・・・その13…堀下翔



              堀下:

              ちょっと間が空いてしまったので、前回までの話を確認してみますが、まず花尻万博氏の「鬼」50句についてのことがありました。

              柊や 街
              祀られ鬼
              言の間虎落笛する

              といった、定型を大きく外れた50句に対して、僕はこれが詩型融合の作品に似ていることを指摘し、また、そのことが、行間の緊張がきわめて弱く、一行の独立性をあやうくしているのではないか、という印象を述べました。

              いっぽう磐井さんは、これを〈自由律〉と〈連作〉という二つの視点で説明されました。形式を突き詰めた結果の産物なのではなく、世界最短の詩を確立させたい、という作家意識がもたらしたのがこの『鬼』であること。〈連作〉は、必ずしも作者がはじめに構成したとおりには読者のもとに届いていない、すなわち、不定形なものであること。この二点が、おおまかな磐井さんのお話でした。後者の話をもっと具体的に思い出してみますと、誓子の例が出てきました。句集に5句の連作として収録されている「蟲界變」が、「ホトトギス」初出時には、虚子選を経た4句であった、というくだりです。〈五句を限度とするホトトギスの雑詠欄に投吟する場合には、その規約に基づいて、一聯数句の連作俳句を、一聯五句の連作俳句に構成し直さねばならない〉という誓子の発言は、まさに、連作に行間の緊張が必ずしも求められないことの証左ですね。誓子はこの問題を、一句の完成度で解決しようとしていて、結局この課題は、古今、『鬼』に至るまでの多くの作品が、結局クリアしきれていない部分だと思いますが、さておき、行間の緊張と一句の独立性とは、決して必要条件として結ばれているものではない、ということが分かりました。ありがとうございます。

              それから、山頭火の文章、ようやっと確認しました。『其中日記』昭和13年10月4日の記事ですね。以下の引用は『山頭火全集』第9巻(春陽堂書店/1987)より。

              よい句はよい人からのみ生れる(よい人とは必ずしも道徳的人物を意味しない)、人間として磨かれ練られてゐなければならない。

              作りつゝ味はひつゝ、――制作と鑑賞とは両翼の如し。

              句は飽くまで推敲すべし、一句に拘泥するは非。

              古池や蛙とびこむ水の音
              ―――蛙とびこむ水の音
              ――――――――水の音
              ――――――――――音

              芭蕉翁は聴覚型の詩人、音の世界

              なにせ日記なので断片的だし、文脈も判然としていないのですが、この日の日記が、引用部分の前からずっと、「よい句」とは何かということについて雑然とメモしている点から判断して、まず芭蕉の〈古池や蛙とびこむ水の音〉が「よい句」であり、そのよさの中核が「音」にある、ということを山頭火は言っているのでしょう。同じ放浪の詩人として芭蕉に心を寄せていた山頭火が、「よい句」のことを考えていたときに不意に思い出した句が〈古池や蛙とびこむ水の音〉だったのは、いかにもなるほど、の感があります。

              磐井さんはこの山頭火の日記の記事を読まれ、古池の句に山頭火が見出したのは〈俳句の本質は沈黙にある〉ということだったとお考えになったようですが、ほんとうに山頭火はこの句に何も残っていないと思ったのでしょうか。むしろ、〈古池や蛙とびこむ水の音〉を何度も何度も洗い出してみて最後に残った〈音〉という言葉の存在感を山頭火は大切にしたいと思ったのではないでしょうか。

              この〈音〉と花尻万博の〈小火と蛾〉とが、導き出される手順こそ逆であれ、作者にとって同質の言葉であるのには、異論はありません。言葉を足し、再構成して、〈小火と蛾〉が十七音の俳句になったとしても、その詩情の中核にあるのは依然として〈小火と蛾〉でしょう。でも、その前後の二つの句が、どうしてまったく同じ作品でしょうか。〈音〉はたしかに〈古池や蛙とびこむ水の音〉の中核でしょうが、けっして〈古池や蛙とびこむ水の音〉と同じ句であるわけはありません。〈音〉に凝縮された作者の手ごたえを、〈古池や蛙とびこむ水の音〉に展開、再構成する作業こそが必要です。花尻万博「鬼」に覚える一行のおぼつかなさは、そういった作業を経ていない点にあると思います。そして、その作業は、作者自身の手になされるべきものでしょう。書くことの責任が作家にはありますから。

              もう一つ、『関西俳句なう』の話もしていましたね。

              磐井さんはここに収録された26名の作家を〈消費的傾向を維持しながら、多義的に見ると自己規律的表現も実現している〉と特徴づけられていました。自己規律的表現、というのが具体的にどういうことなのか、もう少し説明していただきたいのですが、もう一方、消費的であるというのは、僕も、ひしひしと、そして悲痛に感じていた部分です。収められた作家は、半分が「船団」所属であることを抜きにすれば、ほかは「樫」「いつき組」「火星」「晨」「草蔵」「花組」「百鳥」「運河」「狩」「円虹」と多様で、伝統俳句に身を置いている場合も多いのです。それぞれが違う場所で書きながら、ある種のトーンの統一をもって、耐久性のない書き方をしているので、これが時代の空気感なのか、と思わざるを得ません。

              耐久性がない、ということの内実もいろいろあって、意味に偏重していたり、句のすがたが似通っていたり、などがそれですが、そのうちの一つに、一句の消費性が、着想の段階から見られる、ということがあるのではないでしょうか。

              たとえば、この句などを見てみますと、その成り立ちが既存の時代性の消費にあるというのが分かります。

              この声も山寺宏一かき氷 黒岩徳将 
              夏休み終わる!象に踏まれに行こう! 山本たくや 
              不揃いのビー玉背の順にして、夏。 舩井春奈

              黒岩の句は、声優の山寺宏一(1961-)が、業界のオールラウンダーとしてしばしば取り沙汰されることをうたった句です。山寺といえば1990年代以降、多様な声を演じ分けられる人気声優として、アニメ・洋画を問わず同時代の声優の中で突出した出演本数をほこる人物です。この人を傑士と思わせる伝説めいたエピソードがファンの間ではしばしば語られています。同じ作品の中で複数の役が山寺ひとりに割り振られ、まったく違う声質で演じきったといったものがそれです。有名なところでは、リメイク版『ヤッターマン』(日本テレビ/2008放送)において、ナレーションのほか、何種類もいるメカキャラクターを一人で担当したエピソードなどが語り草になっています。だから〈この声も山寺宏一〉というフレーズを聞くと、アニメファンは大喜びなんです。でも、この句が読者に与える喜びは、詩情というよりも、お笑いの「あるある」ネタですよね。すでに流布している、世代に共有のノリを定型に当てはめている。時代を消費することで一句がなっています。

              山本の句だって同じだと思うんです。〈象〉と〈踏む〉といえばサンスター文具が1960年代に放送していた「象が踏んでも壊れない」という筆入のテレビCMがすぐに想起されます。もちろんこれだけでそのCMに結び付けるのは乱暴ですが、この句はさらに〈夏休み〉と取り合わされているので、いよいよ夏という季節の少年性が、筆入のイメージを喚起するでしょう。1988年生まれの山本が過ごした1990-2000年代という時代において、ノスタルジーの対象になったのは、ちょうど彼の親世代にあたる世代にとっての幼少・少年時代ですから、山本の時代のテレビには、ひどく画質のわるい往時のテレビCMが、なつかしの、などと冠されてふたたび映し出されていました。仮にこの句がそのCMを出発点にしていなかったとしても、山本が俳句を書いている時代にあって、〈象〉と〈踏む〉と〈夏休み〉とが癒着した文化的土壌が成立している、というのは言い過ぎでしょうか。この句が〈行こう!〉という勧誘の形で終わっていることも、〈象に踏まれ〉ることの意味性が、この句の書き手と受け取り手との間に共有されていることの暗示である気がしてなりません。とかく、この山本の句を読んでも、分かりすぎてしまう、という印象を受けます。

              舩井の句も、もっと説明が難しいのですが、やはり「不揃い」「ビー玉」「背の順」という語彙が「夏」の青春性を基軸に、それぞれ既存の結びつきを以て一句に組み込まれているのではないでしょうか。この句を、ビー玉を並べることの無為性から青春のけだるさを感じるといった、言葉通りの受け取り方をするとして、でもこの情感は、二十一世紀の俳句が書く以前に、J-POPや、テレビCMや、テレビドラマなどで、いくたびも比喩的に挿入されてきたものなのではないか。たとえば、このある種陳腐な情感をういういしく扱おうとするときに、〈不揃い〉なんて言葉を使ってしまったら、どうしたって『ふぞろいの林檎たち』(TBS/1983放送)のタイトルが頭をもたげるし、さらには、このドラマが典型化した結果、『男女7人夏物語』(TBS/1986放送)といった青春群像劇が多作され、それが1990年代の〈月9〉的世界観(『東京ラブストーリー』(フジテレビ/1991放送)etc…)をバックボーンにする恋愛至上主義へと繋がっていく時代の空気感なども思われ、〈不揃いのビー玉背の順にして、夏。〉という句じたいが、そういった空気感に回収されてゆくのではないか、と、そう思うのです。

              三句とも、うまく説明できそうな句を恣意的に選んだきらいはありますが、説明し尽くせるかどうかに限らず、『関西俳句なう』には、このような世代が共有する既存の情感を俳句という詩形において再生するという書き方が通底している、それが僕の感想です。

              【短詩時評 8復】 ニューウェーブをめぐるデジタル・ジャーニー-帰りの旅-  / 柳本々々



               ウテナさんもわたしもコスミスミコを抱きしめて、「イヴだものね、聖夜だものね」と叫ぶ、コスミスミコもわたしたちを両抱きにして、「生きてないけど聖夜だものねえ」と叫びかえす。橇やとなかいみたいな音が窓の外に響く、「コスミスミコ、長生きしろよ」ウテナさんが言う、「だからあ、生きてないのお」コスミスミコが答える
                (川上弘美「クリスマス」『神様』中公文庫、2001年)

              いまはクリスマスイブとクリスマスによってはさまれた真夜中の十二時です。
              わたし(たち)はクリスマスのまっただなかにいるわけですが、そしてクリスマスのまっただなかで時評の途上にいるわたしをわたしはふしぎに思いますが、前回、行きの旅によって目的地に到達した以上、わたし(たち)は帰らなければなりません。

              旅を、つづけましょう。

              前回はニューウェーブ短歌における1990年代前半当時の加藤治郎さんや穂村弘さんの言説をみてみました。そこにはデジタルメディアの奥行きに〈詩情〉を見出すような視線が感じられたのですが、では、短歌の言説の〈外部〉はその当時どうなっていたのでしょうか。


              【3、うちがわの旅、そとがわの旅】


               「まだ行っていないところがある。そこを探してみよう」「無駄に終わるかもよ」「まあ、それでもいいよ」
                (時雨沢恵一「多数決の国」『キノの旅』電撃文庫、2000年)

              1991年に出版された『ゼロ・ビットの世界(現代哲学の冒険15)』(岩波書店)で宗教学者の植島啓司さんが「仮想環境システム」という論考において次のように述べています。

               われわれの外側にあると思われていたものが、実際にはわれわれの内側に存在していたり、または、その逆であったりすること。また、目に見えない緊密なネットワークがわれわれのまわりに張り巡らされて、なにが真の意味でリアルかがわからなくなりつつあるということ。そうしたことによって、これまでとは異なる、さらに高度なメディア・テクノロジーの「鋳型」(記号系)が必要とされるようになってきたのである。

              植島さんが述べているのは新たな仮想現実が新しいメディアによって用意されつつあることで、言語システムや記号体系も新しくつくりなおさなければならないという指摘です。この〈新しく記号体系をつくりなおすこと〉を短歌という領域において〈実践〉し〈接合〉していたのが大きく言ってみれば、加藤治郎さんや穂村弘さん、荻原裕幸さんらニューウェーブだったのではないかと思うんです。

              こうした電子メディアと言語の関係、それらをどう接合するのかという問題は世界的にも注目されていたトピックでした。

              1990年に出版、1991年に最初の邦訳が出された電子メディア論の書物、マーク・ポスターの『情報様式論』(岩波書店、2001年)においては次のように述べられています。長くなりますが、電子メディアにおけるコミュニケーション様式の新しいあり方や書き方をめぐる考察として大事だと思いますので引用してみます。

               電子メディアによるコミュニケーションは言語の……レベルにおいて強制的な効果をもっている。語る身体から聴く身体への関係を遠隔化することによって、また読者あるいは書き手と、印刷されたあるいは手書きのテクストの手で触れることのできる物質性との結びつきを抽象化することによって、電子メディアによるコミュニケーションは、主体とそれが送信したり受信したりするシンボルとの関係を覆し、この関係を徹底的に新しい形態に再構成するのである。電子メディアによるこうしたコミュニケーションの主体にとって、対象は言語の中に表象されたものとしての物質世界ではなく、シニフィアンそれ自体の流れとなろうとする。情報様式においては、主体がシニフィアンの流れの「背後」に存在する「現実」を識別しようとすることはますます困難、あるいは的はずれなこととなり、その結果社会生活の一部はメッセージを受け取り、解釈するための諸主体を位置づける活動となるのだ。 
                ……(中略)…… 
               主体はデータベースによって増殖され、コンピュータによるメッセージ化や会議化によって散乱し、テレビ広告によって脱コンテクスト化されたり再同定されたりし、電子的なシンボル転送において常に溶解されたり、材料化されたりしているのである。ドゥルーズとガタリの視点においては、われわれは時間と空間に根づいた「樹木(ツリー)状」の存在から、水を求めて毎日地上をさまよう「リゾーム的」な遊牧民へと変化しつつあるのである。

              電子メディアの発達はコミュニケーションの変容をもたらし、物質的な文字を抽象化(記号化)すると述べています。また、〈だれ〉がそれを述べているのか語っているのかという主体も不安定になり、やがて〈だれ〉が語っているというよりは、メディアのシステムそのものが〈大文字の主体〉=〈主体そのもの〉となるような状況となっていくのです。そして語られたことばは、このわたし〈が〉語っているもの、というよりは、このわたしが語っていることばそのもの〈を〉語っていることばという、ことばに対することばそのものになっていく(メタことばやメタ記号がさらにメタメタことばやメタメタ記号を呼び込んでいきます)。

              これらの特徴は俵万智さんの短歌には見られず、ニューウェーブの記号化された短歌の特徴といってもいいのではないかと思うのです。物質的な文字が抽象化=記号化された、〈だれ〉が語っているのかわからないような〈システム〉そのものが露出してくる短歌。〈背後〉や〈背景〉を読みとろうとして〈解釈〉しても〈現実の果て〉に行き着くことができない短歌。


              【4、みえる旅、みえない旅】


               そこは、『戦争の進化・平和との共存』と書かれたコーナーだった。館長が聞いた。「昨日の『戦争』はごらんになりましたか?」
                (時雨沢恵一「平和な国」『キノの旅』電撃文庫、2000年)

               最後に、これら90年代前半の時代状況を指摘する言説を短歌(表現)史の流れのなかでみてみたいと思います。その際のキーワードが〈みえる〉と〈みえない〉です。

              『短歌研究』1991年11月号の「「誌上シンポジウム 現代短歌のニューウェーブ-何が変わったか、どこが違うか」において加藤治郎さんが次の指摘をしています。

               ここ二、三年で始まったことではないのですけれど、視覚的なものの再現で表現できるものは限られている、ということがあると思う。
               ……土屋文明の昭和八年の歌で、……〈吾が見るは鶴見埋立地の一隅ながらほしいままなり機械力専制は〉。やはりある一時期には、典型的に「わが見るは」、見ることによって現実が見えたわけなので、もちろん機械内部にメカニカルなものがあるのだけれど、やはり動いている機械自体が本質だったわけです。それは、目で見て分かる。単純に言ってしまえば。では、現代の情報化社会ではどうか。気になる歌というのは、職場にパソコンが置いてあってそれが光っているとか、ファクシミリがあるとか、そんな歌で現代を歌っていると錯覚しているものです。あれはただ箱の外観だけを歌っているに過ぎない。そうすると、実態は何が起こっているかというと、たとえば黄色いケーブルがあって、その中を毎秒十メガという情報が流れていたりする。目に見えるところで歌っていては、もう歌えない現実が根本的にあるんです。現代を記述する表現を考える時に。従来の手法では絶対に無理なところに来ている。そういった認識で試行している。単に新しければいいというようなことではなくて、ある現実を記述するための言語表現というものの、一つの模索の段階にあるのではないか、と思います。

              言語化できない〈現実〉。その〈現実〉をデジタルメディア環境が用意する《現実》。もはや〈見えない〉部分が〈現実〉化していく時代。そのなかで〈現実〉化できるてざわりのある部分は、見えない内部に働きかけ、コントロールし、指示し、操作もできるソフトウェアに働きかけるハードウェアとしての〈外部〉でしかありません。つまり、入力するためのキイボードなどの。

              『短歌』(1990年1月)の加藤治郎さんの連作「アレゴリーの氷」にはこんな歌があります。

                いま詩語を挿し入れようとキイを打つ 永遠(とわ)に入力待ちのカーソル  加藤治郎

              「詩語/永遠」と「入力待ちのカーソル」との接合が一首の内部でなされている点において、短歌を〈詠むこと〉のなかにデジタルメディアをとおして〈書くこと〉が侵入してきている歌ともいえますが、この「永遠に入力待ちのカーソル」に〈どうしても言語化しえない現実がデジタルメディアを通してあらわざるをえない状況〉が端的に表現されているのもまた特徴的だと思うんです。

              ただたんに永遠に歌えない現実=言葉があるのではなく、それは「入力待ちのカーソル」として、デジタルを通して、あらわれるのです。

              デジタルメディアの感受・親近から主体を立てるニューウェーブ。

              それまでは〈わたし〉がメディアに対して働きかけていた。〈見る〉という行為は能動主体ですから〈わたし〉が主体になりさえすれば、〈わたくし〉は成立していた。

              ところがデジタルメディア環境は、ちがう。〈見る〉行為が頓挫され、わたしの知らない領域が世界のリアルを生産する世界になってしまった。

              「一九九〇年八月二日のイラクのクウェート侵攻で始まった湾岸危機では、最初から映像が大きな役割を果たした」と高橋和夫さんが『改訂版 現代の国際政治』(放送大学教育振興会、2013年)において指摘するように、ちょうどニューウェーブが言説化されはじめたこの時期の1991年、「映像の戦争」或いは「メディア・ウォー」ともいわれた湾岸戦争が起きています。

              ボードリヤールが〈湾岸戦争は起こらなかった〉と述べたようにそれはモニター上の戦争でもありました。ケヴィン・ロビンスは『サイバー・メディア・スタディーズ 映像社会の〈事件〉を読む』において、「湾岸戦争は文字通り、西洋の映像技術の見本市であり、「観察する者」と「観察される者」の間の戦争であった」と指摘しています。

                新しい視覚テクノロジーを通じて、「電子映像の反対側には、実際に生きている他者がいる」という現実は、むしろうやむやにされた。……われわれは見ることはできたが、見たものに対して耳を貸さなかった。われわれは現実世界から切断された。実際の戦争を聞き、感じ、応答することから、切り離されていた。映像の中へともぐりこむことによって、道徳的にノックアウトされ、「相殺」された。
                 (ケヴィン・ロビンス、田畑暁生訳『サイバー・メディア・スタディーズ 映像社会の〈事件〉を読む』フィルムアート社、2003年)

              誰もが戦争をテレビで〈見〉ていながら実際の戦争を〈見ていなかった〉。戦っている人間でさえ、ミサイルをモニターから撃っていたのがこの戦争の特徴でもありました。

              「一九九一年、それはぼくたちが、そして言葉が、いかに無力かといふことを思い知らされた年だつた」(『あるまじろん』) と、この〈湾岸戦争〉を〈日本〉から/へと連作化したのが荻原裕幸さんです。「何ダコレ」や「誰カ」「街?」「最後ニ何カ」とあいまいな指示対象が氾濫しているのが特徴的なように、空爆の〈対象〉が〈不在〉化されてゆくのが特徴的です。誰が見ているのか、誰が語っているのか、誰が見られているのか、誰が語られているのか、誰が空爆を起こしているのか、誰が空爆を起こされているのか。しかし、それでも、記号としての「▼」にみっちりと埋め尽くされ、なにかが破壊し消尽されているのがわかります。デジタルでクールな記号が暴力化しているのです。


                ▼▼雨カ▼▼コレ▼▼▼何ダコレ▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼BOMB!

                ▼▼誰カ▼▼爆弾ガ▼▼▼ケフ降ルツテ言ツテキタ?▼▼▼BOMB!

                ▼▼▼街▼▼▼街▼▼▼▼▼街?▼▼▼▼▼▼▼街!▼▼▼BOMB!

                ▼▼▼▼▼最後二何カ▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼BOMB!
                
              (荻原裕幸「日本空爆 1991」『あるまじろん』沖積舎、1992年)

              加藤治郎さんは『短歌レトリック入門』において、「一九九〇年代の修辞」の「ハイテク化」を指摘し、ニューウェーブの短歌において使用されていた記号の背景を次のように説明しています。

                では、その背景にあるものは何でしょうか。その主要な要素は、文書処理ソフトウェアの浸透だと考えていいでしょう。手書きの世界から、パソコンやワープロを利用した文書処理環境への移行ということです。つまり、そこでは「鬯」と入力するのも、▼と入力するのも等しい行為(それを行為と言えるとして)なのです。そしてどちらも、作歌の意識上、一拍としてカウントします。われわれは、恋や☆や爨(さん)の間に境界のない文書処理環境に移行しつつあるのです。「鬯」や▼に対する抵抗感が無い環境を前提としない限り、これらの作品は生まれなかったのではないでしょうか。
                (加藤治郎『短歌レトリック入門』風媒社、2005年)

              加藤さんが「手書きの世界」から「文書処理環境への移行」を述べているように、ニューウェーブはデジタルメディアへ移行していくなかでの感応性において生起し、明滅していました。その意味でも「ニューウェーブ」の〈私〉は短歌のそれまでの遺産である〈私〉とは〈無縁〉という意味での「ニュー」だったのではないかとも思います。『短歌』1991年5月号「特集・現代短歌のニューウェーブをさぐる」の「遺産ゼロ」において佐藤通雅さんは林あまりさんの短歌を取り上げながらこう指摘しています。

                今や私たちは肉眼以上にたしかな映像を見、人間以上の頭脳を発揮する機械に囲まれて暮している。つい先日まで、私たちは何かを創造しようとするとき、過去の否定をエネルギーにした。しかしもう否定などという営みも無効なほどに、世界は突出してしまった。当然、遺産を学ぶも継ぐも、一手段でしかなくなった。 
                これが林あまりをはじめとするニューウェーブの出発点だと思う。遺産ゼロの出発を強いられているともいえる。

              荻原裕幸さんがやはり同じ号(『短歌』1991年5月号「特集・現代短歌のニューウェーブをさぐる」)における「「場」の外部へ」という論考のなかで加藤治郎さんや西田政史さんの短歌を取り上げながらニューウェーブが「散文化により一層明確になつた短歌の共同体的性格を逃れて、今日の詩の言語の向ふべき場所の一つをめざしてゐるやうに思ふ。つまり、隠喩的表現、モノローグ的表現を成り立たせる共通の「場」の中にある限りコミュニケーション(自己と他者をつなぎつつ、自己と他者を区切ること)が成り立たない現状にあつて、「場」の外部でのコミュニケーションをめざしてゐる」と指摘しているのも佐藤通雅さんの指摘の「遺産ゼロ」をポジティヴにとらえたものだともいえます。

              ある意味でそれまでの戦後短歌の〈わたし〉はニューウェーブによっていったん途切れ、メディアとの感応のなかでさまざまな言語=記号体系を再構築しなおしながら、〈わたし〉を外部と連携しつつ模索していたとも言えます。それがもうほんとうに〈わたし〉かどうかはわからず、その〈わたし・でない・わたし〉という土壌から斉藤斎藤さんや永井祐さんの〈わたしを問いかけるわたし〉が生まれてくるようにも思います。

              帰りの旅がとても長くなってしまいました。まとめます。

              ニューウェーブ短歌は〈詠む/書く/読む〉メディアの変化と呼応しあっていました。それが如実にあらわれたのが、1990年代前半でした。80年代なかばの俵万智さんのライトバースではまだデジタルメディア環境は整備されていなかった。90年代前半になってそれらをニューウェーブが感受し、短歌にあらわしていったのです。しかしニューウェーブの〈ニューウェーブ性〉というものはそもそも〈記述的〉に〈それがなんであるのか〉とあらわせるようなものではなかった。それはデジタルメディアという〈外部〉とのたえざる交信や交通のなかにあったから。だからおそらく「ニューウェーブ」とはひとつの〈呼応〉や〈感受〉や〈感性〉のありかたであって、定義できるものではなかったのだと思います。〈こうではない〉というネガのかたちでしか。

              米川千嘉子さんがやはり同じ号(『短歌』1991年5月号「特集・現代短歌のニューウェーブをさぐる」)において「“新旧”をくずす“新”」で、「作品や作者に直接の共通点をみつけてひとつの「ニューウェーブ」としてくくることは非常に難しい」とし、「前後にいる作者や作品との連続や断絶の複雑に微妙な《あや》を注意ぶかくよむこと」をニューウェーブを語る際の要点として述べ、ニューウェーブを概括することの危険性を指摘していますが、ニューウェーブとは、おそらく米川さんが指摘するように〈それぞれの立場〉があるだけだったのではないかと思うのです。ニューウェーブとはデジタルメディアに対するそれぞれの応答のやりかただったのだから(少しガンダムの「ニュータイプ」のありかたとも似ているかもしれません。アムロ・レイもララァ・スンもシャア・アズナブルもカミーユ・ビダンもハマーン・カーンもそれぞれ兵器や戦争に対する感受=応答のありかたが違う)。

               前掲のマーク・ポスターは次のように述べています。

                コンピュータ化されたワード・プロセッシングと著者性との相互関係は主体の別の側面を変化させる。著者が一人の個人であり、独自の存在であり、この独自性をエクリチュールの中で主張し、著者性を通して個人性を確立する限りにおいて、コンピュータは彼らの統一された主体性という感覚を妨げるだろう。手書きの痕跡とは違って、コンピュータのモニターはテクストを脱人格化し、エクリチュールから個人性の痕跡すべてを取り除き、グラフィックな刻印(マーク)を脱-個人化する。

              「コンピュータ」は〈わたし〉を「脱-個人化」するものとしてある。したがって、むしろニューウェーブは〈わたし〉をデジタルメディアを通した〈書く行為〉からたちあげるしかなかったのだと思います。そしてそれは〈わたし〉という主体性によって担保されるものではなく、デジタルメディアによって常に担保されるものであった。

              だから、湾岸戦争が〈起こらなかった〉ように、実はニューウェーブも〈存在していなかった〉。しかしだからこそ、湾岸戦争がそういうかたちで〈起きていた〉ように、ニューウェーブもそういうかたちで〈存在していた〉のではないかと思うんです。すべてはメディアのなかで。


                千行のソフトウエアを打ち終えてあおい液体酸素をすすれ  加藤治郎
                (「魔女の一撃」『歌壇』1990年9月) 

               「ハロー、メリイ、クリスマアス。」
               と叫んだ。アメリカの兵士が歩いているのだ。
               何というわけもなく、私は紳士のその諧ぎゃくにだけは噴ふき出した。……
               東京は相変らず。以前と少しも変らない。

                (太宰治「メリイクリスマス」)

              2015年12月11日金曜日

              第32号

              攝津幸彦記念賞詳細
              受賞者まもなく当ブログにて発表予定‼

            • 12月の更新第33号12月25日



            • 平成二十七年 俳句帖毎金00:00更新予定) 》読む

              (12/18更新)冬興帖、第四
              坂間恒子・望月士郎・青木百舌鳥
              (12/18更新)秋興帖、追補
              福田葉子


              (12/11更新)冬興帖、第三前北かおる・ふけとしこ・川嶋ぱんだ
              とこうわらび・林雅樹・早瀬恵子
              (12/4更新)冬興帖、第二内村恭子・渡邉美保・小野裕三
              佐藤りえ・木村オサム・栗山心
              (11/27更新)冬興帖、第一曾根 毅・杉山久子・陽 美保子
              小林かんな・山本 敏倖・網野月を・夏木久


              【毎週連載】  

              曾根毅『花修』を読む毎金00:00更新予定) 》読む  
                …筑紫磐井 》読む

              曾根毅『花修』を読む インデックス 》読む
              • #19   彼の眼、彼の世界 … 仮屋賢一 》読む
              • #20   きれいにおそろしい … 堀田季何  》読む

              【対談・書簡】
              「芸術から俳句へ」(仮屋、筑紫そして…)
              その3 …筑紫磐井・仮屋賢一  》読む 
              過去掲載分
                その1
              その2

              字余りを通じて、日本の中心で俳句を叫ぶ
              その1 …筑紫磐井・中西夕紀  》読む
              「評論・批評・時評とは何か? (堀下、筑紫そして…)



              およそ日刊「俳句空間」  》読む
                …(主な執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香 … 
                (12月の執筆者: 佐藤りえ・宮﨑莉々香…and more  )
                 井恒行の日々彼是(俳句にまつわる日々のこと)  》読む 



                【鑑賞・時評・エッセイ】


                <New>
                【特別連載】  散文篇  和田悟朗という謎 2-1
                …堀本 吟 》読む 
                【短詩時評 8往】  ニューウェーブをめぐるデジタル・ジャーニー
                 -行きの旅
                …柳本々々  》読む 
                 ■ 朝日俳壇鑑賞 ~登頂回望~ (九十四)
                …網野月を  》読む

                 <引き続き掲載>
                ■  中島敏之の死
                …筑紫磐井 》読む
                 【俳句時評】 等身大の文体――石田郷子私観(前編) 
                …堀下翔  》読む  

                リンク de 詩客 短歌時評   》読む
                ・リンク de 詩客 俳句時評   》読む
                ・リンク de 詩客 自由詩時評   》読む 





                    【アーカイブコーナー】

                    赤い新撰御中虫と西村麒麟 》読む

                    週刊俳句『新撰21』『超新撰21』『俳コレ』総括座談会再読する 》読む



                        あとがき  読む

                        ●俳句の林間学校 「第7回 こもろ・日盛俳句祭」
                         終了いたしました。 》小諸市のサイト
                        シンポジウム・レポート「字余り・字足らず」   … 仲栄司 》読む 
                        小諸の思い出2015  北川美美  》読む 



                        冊子「俳句新空間」第4号発刊!(2015夏)
                        購入ご希望の方はこちら ≫読む


                        豈57号刊行!
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                            筑紫磐井著!-戦後俳句の探求
                            <辞の詩学と詞の詩学>
                            川名大が子供騙しの詐術と激怒した真実・真正の戦後俳句史! 



                            筑紫磐井「俳壇観測」連載執筆











                            特集:「突撃する<ナニコレ俳句>の旗手」
                            執筆:岸本尚毅、奥坂まや、筑紫磐井、大井恒行、坊城俊樹、宮崎斗士


                            特集:筑紫磐井著-戦後俳句の探求-<辞の詩学と詞の詩学>」を読んで」
                            執筆:関悦史、田中亜美、井上康明、仁平勝、高柳克弘

                             【時壇】 登頂回望その九十四 /  網野月を


                            その九十四(朝日俳壇平成27年11月23日から)

                            ◆種採つて夫との月日遺しゆく (高松市)白根純子

                            金子兜太の選である。「夫」なる存在の現在の状況が今一つ不透明であるが、ご夫妻の軌跡を「遺しゆく」行為に勤しんでおられる事は判明する。その手段として上五の「種採つて」があるのだ。季節の循環と共に植物の生命を次年に受け継ぐ行為だが、作者はそこに新たな意味を見出している。

                            ◆どんぐりを等身大に描ける子よ (米子市)中村襄介

                            長谷川櫂の選である。評には「一席。好きなものは大きく描く。自由自在の子どもの世界。」と記されている。評にある「自由自在の子どもの世界」に同意する。ピカソは、「ゲルニカ」を描いて、ものの大小、配置の不確実性に一石を投じた。それは子どもの世界では当たり前のことであり、恐怖や怒りのみならず、加えて歓喜や楽しみの展開される世界観である。自由自在の子どもの表現の世界である。子供は「金持ち」ならぬ「時持ち」だ。時間をたくさん持っている人間は、自由になれる。

                            ◆アーサーにエクスカリバー大根引 (香芝市)土井岳毅

                            長谷川櫂の選である。評には「四句目。エクスカリバーはアーサー王の剣。」と記されている。彼アーサー王はブリテン島の英雄だ。英雄には古来名馬と名剣(名刀)が付きものである。エクスカリバーは最近ではゲームのアイテムとしてお馴染みである。作者にとっての名刀は、どろ大根といったところか?大根を掲げて「名月赤城山」の一節を唸ってみせているのだろう。

                            ◆狭庭にも小さき未来図種を採る (東京都)長谷川弥生


                            稲畑汀子の選である。評には「三句目。狭い庭にある作者の夢と心積もりが楽しい。」と記されている。こう詠まれると季題「種を採る」は何とポジティヴな意味を含有していることか!、判る。「狭庭」の謙遜も、「狭庭」と「小さき」の重複も、僅かだが作句の狙いを剥き出しにしている感がある。

                            【短詩時評 8往】 ニューウェーブをめぐるデジタル・ジャーニー-行きの旅-  柳本々々




                            【0、旅に出る前に】
                              「じゃあ、キノは? キノは、どうして旅を続けてるの?」
                              (時雨沢恵一「森の中で・a」『キノの旅』電撃文庫、2000年)

                            短歌には、ニューウェーブという流れが1990年代頃からあって、そこでは記号をたくさん使った短歌が生まれたりしました。この記号と短詩の問題は、いま川柳で問題になったりはするけれど、短歌ではもう取り込まれてしまったものとしてあるんじゃないかと思うんですね。ひとつの短歌言語になっているのだと。でも川柳ではまだ川柳言語にはなっていません。

                            そこでニューウェーブの当時の言説のなかに入っていきながら、当時どのようにニューウェーブがとらえられていたかをさぐってみたいというのが今回の文章になります。うまくいくかどうかはわかりませんが、とりあえず出発してみようと思います。


                            【1、わかりやすい旅、わかりにくい旅】


                              小さな声は言った。「第三の選択だ」「なにそれ?」
                              (時雨沢恵一「大人の国」『キノの旅』電撃文庫、2000年)

                            荻原裕幸さんが、『短歌』1991年5月号で組まれた特集「現代短歌のニューウェーブをさぐる」における「「場」の外部へ」という論考において、1980年代の短歌の「文体の変遷」を「詩的言語(=隠喩的言語)」から「散文的言語」への流れとして指摘しています。

                            荻原さんが指摘するように短歌史における1980年代半ばから90年代前半の流れを概括してみるならば、1987年の俵万智さんの『サラダ記念日』といった〈ライトバース〉=散文化から、荻原裕幸さんや加藤治郎さん、穂村弘さん、西田政史さんなどの散文+技法・記号化としての〈ニューウェーブ〉の流れがあります。

                            〈ライトバース〉は主に口語化・散文化がその主たる特徴ではあったんですが、90年代前半の〈ニューウェーブ〉と呼ばれる流れは各自がめいめいの立場からそれぞれのやりかたで記号言語をふんだんに取り入れ、独自の技法で、短歌をあらわしていったというのが特徴的だったのではないかと思うんですね。

                            かんたんにいえば、当時の、糸井重里さんを代表とするコピー文化とあわせて論じられることも多い俵万智さんの〈読みやすい・わかりやすい〉短歌から、ニューウェーブの短歌は〈読みにくい・わかりにくい〉短歌として、読み手が枝分かれする短歌になった(だからこそ、ニューウェーブにはそれまでの短歌の系譜とは切断されるような「ニュー」がついていた)。

                            〈わかりやすさ〉としてのキャッチ・コピー的な読み手を一枚岩化する短歌から、〈わかりにくさ〉としての読み手を微分化・細分化してゆくような〈わかりにくい〉短歌へ。

                            それはそれまでつちかわれた短歌の伝統や戦後短歌の流れからの〈切り離し〉ともなっていたのではないかと思うんです。なぜなら、それまでの短歌の枠組みや読みのコードでは、ニューウェーブの読解が不可能だったからです。〈わかりにくい〉とはそういうことです。もっと言えばその〈わかりにくい〉理由は、ニューウェーブがそれまでの戦後短歌の系譜と切断されていたからじゃないかと思うんです。

                            「自然体で振舞う歌人達」(『短歌』1991年5月)において細井剛さんは、「ニューウェーブ」が「戦後短歌の歴史と無縁な地点から成立」していると指摘しています。

                            細井さんは、「ニューウェーブということばが使われだしたのは、……一九八九年の後半くらいからではないか」と述べ、ニューウェーブの特徴として「自然体」をあげて、「みずから自由に振舞うだけに、他に対しても、みずからの考えを強要しないという、自他にフリーハンドを与えておく」という指摘をしています。

                            〈自然体〉=〈自由〉に見えるのはそれまでの短歌の枠組みから抜け出てしまうことで切り離されているからだし、また「みずからの考えを強要しない」というのも、そもそもがニューウェーブの短歌は一括りにすることさえ難しく、どう読み解けばいいかもめいめいで違っているためわかりにくく、また読み解きも読み手がどのような読みの枠組みをもってくるかで解釈が別れてしまうことを示唆しています。細井さんのいう「フリーハンド」とは〈読むことのアナーキー〉でもあったはずです。


                            【2、かきとりやすい旅、かきとりにくい旅】

                              「でもその後、そのおかげで機械がさらに発達して、この国ではそれでも生活できるようになってしまった。だからみんな、今でも森の中の離れた家で一人で生きているんだ。自分だけの空間で、自分だけが楽しいことをして……」
                              (時雨沢恵一「人の痛みが分かる国」『キノの旅』電撃文庫、2000年)

                            なぜ、このように戦後短歌から一気にニューウェーブは〈無縁〉化してしまったんでしょうか。

                            すぐにこの答えに大まかに答えてしまうならば私はそれは1990年前後に起きたメディア環境の大きな変化ではないかと思うんです。

                            それはインターネット環境が次第に整い、パソコンが生活の一部として常態化・全般化していくという、大きな変化です。

                            水越伸さんは、『21世紀メディア論』(放送大学教育振興会、2011年)において90年代前半のメディア環境を次のように指摘しています。

                             1990年代前半、それまで研究者や専門家に利用が制限されていたインターネットが一般に公開された。パソコン通信が個別通信サービスのネットワークに閉じていたのに対して、インターネットはまさに、ネットワークのネットワークとして世界のあらゆるネットワーク・ユーザーを結びつけるものであった。

                            ここでニューウェーブといわれていた加藤治郎さんや穂村弘さんがコンピュータに関わりの深い職業でもあったことに注意したいと思います。彼らはデジタル・メディアの環境に敏感な立場にありました。

                            『短歌研究』1992年2月号の「作品+エッセイ〈今の世の中、歌人は何を考えているか〉」に加藤治郎さんの連作「ディア」が掲載されています。その連作の下に加藤さん自身によるエッセイが載っているのですが、「ダウンサイジング」という情報システムがコンパクトになり、あちこちにますます分散・分布・散乱していくであろうメディアの現況が書かれています。

                            これはまさしく今の時代がそうなのですが、現在わたしたちの社会では手塚治虫のマンガに出てくるような巨大なマザーコンピューターがなくとも、みながスマホやiPhoneを持ち歩いている汎メデジタルメディア状況ですよね。「ダウンサイジング」はマザーコンピュータ並のデータを各自が鞄やポケットに入れて持ち歩き、指でスクロールできるまでになっています。

                            加藤さんのエッセイを少し長くなりますが引用してみましょう。


                             九〇年代以降、情報システムの分野では「ダウンサイジング」(小型化)ということが注目を集めています。「ダウンサイジング」とは、ホスト・コンピュータを頂点とした中央集権的な情報システムから、クライアント/サーバー・モデルという分散情報システムへの転換のことです。要はホスト・コンピュータを王のように崇めて、すべてのマシンが端末としてその支配下にあった時代が終わったのです。そしてLAN(ローカル・エリア・ネットワーク)に接続された小型高性能マシンが相互に役割を分担して、連携処理でもってアプリケーションを構築してゆく、そんな時代がやってきたというのです。 
                            実に、ようやくプレモダン的なトゥリー構造が崩壊したわけですが(ホスト・コンピュータの機能強化を考慮すればモダン的な構造と言えましょう)多様な散乱を受け入れるポストモダン的なパラダイムにはまだ至っていないようです。いずれにしろ現実の情報システムの変革が社会思想のモデルとマッチングしているのは興味深いことです。
                            こういった変革を実現してゆくのがシステム・エンジニア(SE)であり、プログラマーなのであります。

                            加藤治郎さんが志向しているのは、デジタルメディアが(トゥリー構造のような位階的に連接されていくかたちではなく)あちこちに思いがけないかたちでリゾームとして根をのばしていくような〈中心のない〉メディア環境です。そうしたデジタルメディアの隅々までへの思いがけない浸透はそれまでの〈書く行為/語る行為〉をも更新することになったはずです。

                            そのことと関連して、この加藤さんの連作「ディア」においてふしぎな結句の書かれ方がされていることに注意したいと思うんです。


                              動脈のような地下道もまれゆくコートの肩だひいふうあんや  加藤治郎

                              園長は坊さんだった豚汁の大鍋がある部屋はおそぎゃあ  〃

                              せんせいの指が砂場のトンネルを崩していくねひいらああいいて  〃

                              あたらしい薪に薪こすられて火の粉はのぼるおひゃいとおぶろ  〃

                              つつきつつ焚いているのはなんだろう鹿の角おひゃあら、るらあんや  〃

                            「ひいふうあんや」や「おそぎゃあ」「ひいらああいいて」 「おひゃいとおぶろ」「おひゃあら、るらあんや」というもったりしたような、べったりしたようなひらがなの使い方。

                            ここでひとつ〈現代の視点〉からこのふしぎなひらがなの表記を考えてみます。現代のネットで有名なことばに、アニメ『サザエさん』のマスオのセリフ「びゃあ゛ぁ゛ぁ゛うまひぃぃ゛ぃ゛」というのがあります。これは『現代用語の基礎知識2008』(自由国民社、2008年)にも収録されているほどの言葉です。 解説を引いてみましょう。

                             マスオさんの名言。2007年5月27日に放送された「サザエさん」の「全自動タマゴ割機」の回で「全自動タマゴ割機」によって割られた玉子で作った玉子焼きを食べたマスオが発した一言。カオスなストーリーの「全自動タマゴ割機」の回を象徴する一言として、注目を集め、ニコニコ動画などで話題を呼んでいる。

                            この「びゃあ゛ぁ゛ぁ゛うまひぃぃ゛ぃ゛」はマスオが卵料理を食べたときのセリフの〈空耳〉です。脚本その通りの表記ではありません。空耳として〈再話〉化されたものです。

                            大事なことはこれが声に出して〈再・発話〉できないとういことです。〈声〉でたのしむものではないんです。〈眼〉でたのしむものなんです。〈眼〉で読むことばということです。だからこれは実は〈空耳〉ではありません。むしろキイボード的表記を活かして〈創作〉していく、あえていうなら〈創耳〉に近いものです。この言葉は、耳で聴いて・鉛筆で書き写した〈空耳〉ではなく、あらかじめパソコンのモニターで鑑賞されることを想定されたパソコン言語なのです。

                            通常の表記(脚本)から〈音声〉化された言葉だったはずのものが、キイボードの言語で打ち込みなおされることによって〈音声〉へさかのぼることを禁じられ、〈脱-音声化〉=〈異化〉されることによって〈新しい〉ことばになり、受容されていく。そしてそれがネットで〈視覚的快楽〉として流通し、〈眼〉によって伝播していく。これは〈聴覚〉ではあらわせない。声としては。モニターでしかあらわしえない。パソコンのデジタルなモニターでしか。

                            この「びゃあ゛ぁ゛ぁ゛うまひぃぃ゛ぃ゛」を取り巻くメディア状況は実は加藤治郎さんの結句のふしぎな表記のあらわれ方によく似ています。むしろ、今のネット言語状況を〈先取り〉していたといってもいいのかもしれません。「ひいふうあんや」、「おそぎゃあ」、「ひいらああいいて」、「おひゃいとおぶろ」、「おひゃあら、るらあんや」には〈眼〉でみるたのしみ、それを打ち込む快楽があるからです。そしてそれがそれまでなかった〈詩〉として昇華するのです。

                            しかしここで注意しておきたいことは、「それまでなかった〈詩〉」と述べたものの、それまでなかったのは短歌の技法や枠組みではなかったということです。短歌の技法や枠組みがなかったというよりも、メディア環境がなかったのです。加藤治郎さんはデジタルなライティング=デジタルなエクリチュールで詩に接近していますが、これは当時のメディア環境を加藤さんが敏感に感受し、短歌に共鳴させたとものといってもいいと思います。ある意味ではメディアが加藤さんに〈書かせ〉ているのです。

                            だからニューウェーブとは、なんだったのかと率直にいえば、それは〈メディアの感受性〉だったのではないかと思うのです。それはもはや短歌の枠組みのなかでだけ作用するものではありません。メディアの枠組みを通して機能していたものだったのです。

                            実際この加藤さんの連作には「出力」や「キイボード」というデジタルメディアに関連したことばそのものが出てきます。


                              キイボード!ってわめいたのは百つぶの乾いた苺でした そっちも  加藤治郎

                              庭石がしんしんならぶ冬のゆめだけれどさきに出力したら  〃


                            「キイボード」と「苺」の取り合わせ。「冬のゆめ」と「出力」の取り合わせ。日常的な事・物が平然とデジタル用語と並列化され、つなぎあわされる。日常とデジタルが自然と並べられ、短歌として融合されることに〈詩〉が見いだされています。

                            この1992年2月号の『短歌研究』の同じ号では穂村弘さんが「講座・歌人のための「コンピュータ学」-ベビードラゴン-」という文章を書いているのも興味深いことです。なぜなら、穂村さんもまたコンピュータというデジタルに〈詩〉を見いだしているからです。

                            そこで語られているのは、コンピュータの奥にある闇=精神です。穂村さんもまたデジタルの奥にゼロワンで割り切れない詩的領域を見いだしているのです。やはり長くなるが引用してみましょう。

                             歌人にとっての韻律感や喩的感応力といった能力が簡単には言語化し得ないように、プログラマーがコンピュータの精神に向かう時に必要とされる能力も、言い表すことが難しい。どうもそれは「論理的な思考力」というような分かりやすいものではないらしいのだ。先ほどコンピュータの精神も高度なものになるとその内部は〈闇〉だと言ったが、プログラマーの適性も最終的には思考の論理性よりもむしろ不可視の世界に対する感応力が問題になる。コンピュータの精神は、単純で論理的な細部の果てしない組合わせによって不可避的に自らの内部にバグを抱え込み、やがてその論理性の上位に〈オーラ〉というか〈うねり〉というかほとんど〈個性〉のようなものを生み出す。
                              …(中略)…
                              ある種のプログラマーにとっては本当にコンピュータの中にすべてが埋まっているのだ。そこでは1(ワン)と0(ゼロ)によって、根拠もなく現実と呼ばれているこの世界の徹底的な読み替えが行なわれる。プログラマーは指先から静電気の火花を散らしてキーボードを叩き続け、ついにはもうひとつの現実が生み出される。それを偽の世界と呼ぶのなら現実もまた偽の世界だし、現実がリアルならばその世界も同様にリアルなんだろう。

                            「偽」と「現実」と「リアル」の混淆。

                            こうした加藤治郎さんや穂村弘さんのデジタルメディアをめぐる言説は、実は同時代の言説とも共鳴しあっているのですが、それは次回の〈帰りの旅〉にしたいと思います。とりあえず、目的地です。

                              「それに?」「止めるのは、いつだってできる。だから、続けようと思う」
                              (時雨沢恵一「森の中で・b」『キノの旅』電撃文庫、2000年)

                            「芸術から俳句へ」(仮屋、筑紫そして…) その3 …筑紫磐井・仮屋賢一 



                            5.筑紫磐井から仮屋賢一へ(仮屋賢一←筑紫磐井)
                            the letter rom Bansei Tsukushi to Kenichi Kariya

                            お久しぶりです。
                            既に先行した堀下⇔筑紫対談で、「俳句は文学か否か」の議論があるのでそれと対比しながら考えてみたいと思います。仮屋さんの発言「藝術と呼べるものの範疇は大きいでしょう。こういう意味で、俳句もまた、藝術なのです。」は芸術の範囲を最大限に拡大しているので、おそらく「俳句は文学か否か」の議論と違って真正面からぶつかり合うことはないと思います。ただそれだけでは面白くないので、俳句は文学でないというような主張(第二芸術論)が出た背景を併せて考えてみたいと思います――文字にしてみたらこの主張は二つ意味があることに気付きました。俳句を芸術に入れてあげないといういじめっ子の論理と、俳句は芸術に入って上げないという芸術を見下すお金持ちの論理とですが、今は前者の論理と解釈しておきましょう――。

                            文学も芸術も、それが近代(啓蒙主義時代といった方が正確でしょうか)になって議論されるようになった頃には、分析的な議論が行われているようです。文学や芸術とは何かという理念の議論もさることながら、文学や芸術を構成する要素ジャンルが列挙され、それを念頭に入れて議論が行われているようです。百科全書派などがその代表でしょう、具体性のない理念の議論はあまり行われていないようです。問題は理念の違いもさることながら、その時代時代の要素ジャンルが異なっていることでしょう。カントやヘーゲルの時代の芸術のジャンルと、現代の芸術のジャンルが異なっていることです。構成するジャンルが異なってくれば、当然のことながら理念も変わります。私は、芸術観・文学観の違いは、ジャンルの違いではないかと思います。

                            東洋の場合はましてその違いが大きいでしょう。堀下さんの対談で取り上げた『文心彫龍』などになると、詩、楽府、賦、頌ぐらいまではいいですが、銘、誄、哀、史伝、諸子、論説、から始まり、詔、檄、表、奏に至ると芸術・文学の価値観がずいぶん違ってくることが分かります。ただそれが文学観(当時は個別ジャンルの名称はあったようですがそれを取りまとめる「文学」と言う概念は確立していなかったように思えます。おそらくそれは西欧においても同様でしょう。詩・悲劇は古く、文学・芸術は新しいのです)として正しいのかどうかは、よく分かりません。相対的なものだからです。

                            桑原武夫の「第二芸術」は、桑原武夫の考えていた具体的な芸術・文学ジャンルに俳句は入らないという説であり、当時の西洋近代芸術のジャンルと俳句というジャンルに共通性が少ないというものだったのでしょう。それはそれでが正しいものだろうと思います。問題は、芸術の範囲を広げて俳句が入るようにするのか、芸術を近代の理念で限定し俳句を排斥するかと言う態度であります。とはいえ明らかにどちらが間違っているというものでもないように思えます。
                            そうなると、問題は、いずれにしろ芸術や文学の側の問題と言うことになり、俳句の問題ではないということになります(ただ誰が芸術や文学の範囲を決めるのかよく分かりませんが。俳人もこの問題に投票権はあるのでしょうか)。確かにそうでしょう、芸術や文学が寛容になりさえすれば済むように思われます。

                            しかしここに一つ問題があります。芸術や文学が寛容になることがあっても、俳句が寛容になることがなければ一方通行になってしまうということです。現代俳句はどんどん不寛容になっているような気がします。俳句は有季定型であり、自由律俳句、無季俳句、川柳とはっきり異なると考える以上、芸術や文学がいかに寛容になっても、俳句が現に芸術や文学になっていく道は閉ざされているような気がしてなりません。伝統だから不寛容でよいというわけではないでしょう。むしろ伝統こそ、それが豊かになるためには寛容である必要があると思います。ですから仮屋さんの言説に、たった一言付け加えるとすれば、「こういう意味で、「寛容であれば」俳句もまた、藝術なのです。」となるのではないかと思えます。

                            話はやや飛躍しますが、常にそうした図式の中で考えて見る必要がありそうです。私は、俳句はダブルスタンダードが必要だと思います。選択肢が一つになった途端に衰退を始めるからです。前衛と伝統はともども競い合った時代が美しかったと思います。少なくともいろいろな個性が生まれたように思います。現代の俳句が(ジャンルとして)美しくないのはそうした不寛容にあると思います。


                               *

                            ご説の「作者不在の藝術は存在し得ず、藝術は必ず作者の存在する作品でなければならないのです。」は堀下さんの投げかけた問いの一つですが、今回論ずるのは大変なので次に回すことといたしましょう。



                            6.仮屋賢一から筑紫磐井へ(筑紫磐井←仮屋賢一)
                            the Letter from Kenichi Kariya  to Bansei Tsukushi 
                            筑紫さま

                            いまの俳句が寛容でない、ということ、そしてジャンルとして美しくないということ、とても興味深いお話です。直感的な意見を述べてゆくので、論の欠陥を指摘すればキリが無いとは思いますが、考えてみたいと思います。

                            現状の俳句の界隈に目を向けると、新たな俳句というものを模索し世に出そうとしている人はいますし、俳句は今でもますます多様になっていこうとしているようにも見えます。もちろん、多様性の成長のスピードは決して速いものではありませんが。しかしやはり、そう見えるだけなのでしょう。よく考えてみれば、却って俳句というジャンルは多様性を失い、幅の狭いものになっている。それは、ジャンルとしての俳句が、多様性を形成していた様々な要素を締め出しにかかっているから、というような印象を受けます。極論(というより暴言)にはなりますが、今でいうところの伝統俳句、自由律俳句、無季俳句、社会性俳句、その他様々なものを含んで、一つの「俳句」というジャンルを形成していたのが、いつの間にか伝統俳句以外が俳句というジャンルから締め出されてしまった。そんなイメージです。現実はそこまで極端ではないとは思いますが、新たに「◯◯俳句」と作り上げられたジャンルがあったとしたら、そのほとんどは、最初から自ら「俳句」と似て非なるものであると自負している嫌いがあるのかもしれません。

                            話が見えづらくなってきてしまいました。まとめれば、「俳句」というジャンルは自らどんどん狭くなってきていて、一方で「俳句」に近いところであらたにジャンルが立ち上がったとしても、はじめから「俳句」というジャンルの外での動きでしかないという傾向があるのではないかということです。「俳句」がますます不寛容になってゆくことで、「俳句」を寛容なものにできる可能性を持っている人ほど「俳句」の外に出てしまうという悪循環が出来上がっているような気さえいたします。

                            ジャンルとしての美しさはどこにあるのでしょうか。そのジャンルが今より広く成長する可能性と今より深く成長する可能性のどちらをも十分に秘めていることは、そのジャンルが美しいものであるための必要条件であると思います。そう考えれば、寛容でないことは、広さを制限してしまうことに直結しかねません。だから「俳句」はジャンルとして美しさを欠くことになってしまうのでしょう。

                            初回の喩え話を持ち出してくることにはなりますが、社会性俳句をヒップホップに喩えるものがありました。この喩えだと、「社会性俳句は俳句か」という問いと「ヒップホップは音楽か」という問いは(このような問いがどのくらい重要な問いであるのかどうかはさておき)お互い対応するでしょう。では果たして、俳句にとっての「社会性俳句は俳句か」と、音楽にとっての「ヒップホップは音楽か」とは、本当に同じようなものなのでしょうか。

                            音楽にとっての「ヒップホップは音楽か」という問い、個人個人が考えることについてはとても意味があることだとは思いますが、音楽というジャンルからしたら、この問いはどうでもよいものなのかもしれません。ヒップホップが音楽であろうがなかろうが、どっちでもいいのです。個人がそれぞれ、自分の考えに基づいて、好きに扱えばいいのであって、「音楽」というジャンルの立場からはこの問いに積極的に結論を打ち出そうとはしないでしょう。

                            俳句にとっても、「社会性俳句は俳句か」なんてどうでもいいはずなのです。個人個人が考えを持てばいいだけで、それを俳句だと思って追究してもいいし、俳句だと思えないから無視してもいい、あるいは俳句にしようと腐心してもよい。それくらいでいいはずなのです。この問いに対する議論をするのは、あくまで個人同士でよいはず。しかし現状は、もっと大きな単位でこの問いに対して議論をしている、そんな気がします。どこからどこまでが俳句なのか、という線引きを積極的にしようとしているのです。結局、筑紫さんの「俳句は有季定型であり、自由律俳句、無季俳句、川柳とはっきり異なると考える」というところでしょう。俳句は今でも、可能性を模索することよりも、自分の領分を確定させることのほうに目が向いているのでしょう。だから、寛容にもなれない。

                            アイデンティティの確立、という面で音楽と俳句を並べてしまうと、俳句にはだいぶハンディキャップがあるとは思うのですが、それでも、俳句はそんなに頑張らなくてもいいのにな、なんて思ってしまいます。もっとぐちゃぐちゃになって、それを俳句というジャンルは憂うことなく楽しんで見守ればよいのです。ジャンルとしての美しさは、そういったところ泥臭さや混沌といった、美しくないものを内包しているといったところから生まれてくるのではないでしょうか。


                            【特別連載】  散文篇  【和田悟朗という謎 2-1】   堀本吟



                            1】 和田悟朗の虚子論を中心に

                            A. 「俳句研究」誌上の《虚子の茫瀑と断定とー高浜虚子論》のこと


                             このエッセイ《虚子の茫瀑と断定とー高浜虚子論》を読んだのは、初出の「俳句研究」昭和六十年三月号の特集の一文である。[特集・高浜虚子論 Ⅰ]の執筆者の一人として寄稿されている。悟朗の本では『俳人想望』におさめられている。
                             ざっと読み比べてみたら、初出を直している気配はないので、『俳人想望』の方で読むことにする。が、もとの雑誌を読む楽しみもあり、両方を座右においている。

                             最初に余談を出してしまうのだが、この「俳句研究」の登場作家が、たとえば最近句集にまとめられた矢上新八『浪華』は大阪弁を使って一句をなしている句群集成であるもので、この号にはその始まりのころような十句が並んでいる。(それらは句集には収録されていないようだが、下記のようなもの。)

                            雨ん中そやから鳥も素足で居る  矢上新八 (未定、草苑 所属) 

                             当時、澤好摩、夏石番矢らのいた「未定」は、攝津幸彦、長岡裕一郎、大井恒行、大本義幸らの「豈」と並んで、登場し始めた戦後世代の牙城の位置を持ち、この号は、七〇〜八〇年代ニューウエーブと私に摺りこまれている、上記の名前以外にも、江里昭彦、小西昭夫、小林恭二、増田まさみ、田中裕明、長谷川櫂、四ツ谷龍・・・。ワーなつかしい、と言いたいような、メンバーである。高柳重信が俳句研究でしかけた五十句競作に応募してきた青年たち、今で言えば、俳句甲子園、芝不器男俳句新人賞、新撰21など、ピックアップされて来ているそういう若手世代である。その戦後世代への転換期には、和田悟郎も赤尾兜子や橋閒石を先立てた、関西出身の少壮の俳句作家であった。
                             
                             和田悟朗は、そういう台頭のなかでも少壮の俳句の先達として、ここでは長文の虚子論を差し出している。参考までに、この号の【特集・高浜虚子論 Ⅰ】の執筆メンバーを記しておく。
                             目次によれば、

                            高浜虚子の俳句・俳句観・人生観(川名大)*虚子の茫漠と断定と(和田悟朗)。
                            他力の俳句(岡井省二)*雑詠とその周辺(小澤實)* 選者高浜虚子(福田甲子男)*
                            小諸時代の虚子(宮坂静生)*先駆者虚子(本井英)。

                             という面々が虚子について様々な角度から切り込んでいる。特集の[虚子論第Ⅱ]を抑えておいた方がいいのだが、残念ながら、手元にその次号がないので調べが間に合わない。和田悟朗の最近のエッセイ風の文章を読む機会はおおかったが、昭和六十年(1985年)のこのころ自分が考えていたことがわかるのはありがたい。和田悟朗の戦後の俳句史への理論作業の跡を読み、あらためて、大きな時代に包まれている認識者の姿を見た、それが、新たな発見でもありたいそう嬉しいことであった。
                             
                            B. 『俳人想望』の中の《虚子の茫瀑と断定とー高浜虚子論》

                             さて、この文章は『俳人想望』に収められている。昭和六十年刊行の随想集『現代の諷詠』に続くものであり。、作家論、句集評を集めている。一書にまとめられた時には、和田悟朗の俳句や他の文章との関連で考えられることが多いが。雑誌にあっては、当時かなり高浜虚子への関心が広がっている。書かれていることは、高浜虚子論の一環でしかもかなり重要な役割である。その収録されている散文集の「あとがき」は以下のようである。

                             俳句は一句一句が独立したものであって、その作者名や作句のさいの状況や、作家 の人物像などは全く無用だ、とよくいわれている。それには私も賛成であって異論は  ないのであるが、しかしてその一句一句の集成である句集や、その作者の人柄などを通じて、それを書いた人間そのものに深い興味を覚える。そして、それぞれの人間、私自身を含めて、俳人の人生観・世界観・死生観などを探索し、その生きている姿を さまざまに想望してみたいと願い続けて来た。 
                            文章を書くこと自体、俳句を作ることとは別のおおきな楽しみである。(後略)
                                             (和田悟朗『俳人想望―あとがき』、下線は堀本)

                             この第二随想集をいただいている。短い書評を書いた記憶があるのだが、その原稿がどうしても見当たらない。多分おなじところに線を引いているだろう。この下線部分、要約して「作品とともに人間を見る視線」に私は惹かれたのだと思う。また、作句と文章。韻文と散文の両立、という主張が、とかく二者択一的にいわれ、圧倒的に実作優先の主張の中で、私の関心を惹きつけた。

                             私は、戦中派の俳人が戦後をいかに切り開いたか、ということに関心をもちながら、しかも俳句を始めたばかりだったから、坪内稔典や江里昭彦や小西昭夫、やがて攝津幸彦という、若手の当時まだ新人と言われていたような人たちとやっと接触し始めていた。

                             俳人その人たちをしらず、俳句のことにはほとんど無知であった。
                             
                             戦前から戦後の新興俳句の作家の句集を読んで理解しようとするときに、(たとえば、山口誓子、西東三鬼、鈴木六林男など)その作品世界ははっきり言ってなかなかはらに落ちることはむずかしく、関西の実際の俳壇勢力の中心になっていたその人間性とか人格や個人の来歴の年譜をたどり、現在想あることの必然性を理解するのが重要な基礎作業となった。

                             しかし、この人文主義、(ヒューマニズム)の姿勢は、一句の背後に広がる言葉に現れなかった世界に踏み込むことなのである。俳句は、言うまでもなく作品を味う世界なのだから、その実在性を断ち切ってあくまで言葉の領域に入らねば表現世界を読むことにはならない。それは当然のことだったが、ともかく、そいうい切り替えが強調されるということは、今までの俳句批評の視点に、やはり反省が必要だということである。作者の人間的側面や句に関わる人為的なことを入れない(入れてはならない)という新しい視点の批評軸が模索されていて、私も、懐疑に苛まれた。
                             
                             俳句の詩型の構造の探求と歴史性の抑え、表現論の二つの方向に批評の課題が出てきていたのだが、この次元の違いが人文主義批判である。今改めて和田悟朗の若い日の評文に触れた時に。案外私の初心に近い疑問を、悟朗もまた抱いていたことに気がついた。

                            しかし、和田悟朗は、思考の内側における両者の区別とともに、知情意全体の表出としてのヒューマニズム的な立脚点によるその俳句の方法とすることを考えていたのかも知れない。つまり全人的な表現ということである。

                             内部意識とともに世界全体を言葉として取り込む、そのどちらにも偏らず、どちらも知りたいというのが私の大それた願望であった。和田悟朗に惹かれるとしたら、その領域の融合を、作家は淡々と(とみえるほどに)探っていたのである。。

                             上掲の昭和六十年の「俳句研究」に和田悟朗が書いている、「俳句は一句一句が独立したものであって、その作者名や作句のさいの状況や、作家の人物像などは全く無用だ、とよくいわれている。」(前掲文)、とはそういうことであり、「しかしてその一句一句の集成である句集や、その作者の人柄などを通じて、それを書いた人間そのものに深い興味を覚える。」下線部分 は堀本)、今でも共鳴する。

                             時代の環境、個人的な感傷、あるいは人生観やイデオロギーなどの固定観念にふりまわされない、俳句表現史的視点、ということ。俳句作品のテキストのみからその「句」の表現をさぐる、こと。私にも常にその問題が頭を占めていた。

                             作品の背後にある人間の実存的な意味性を理解しなければその作品を読んだことにはならないのではないだろうか?ということは、自分の信念である。なぜならば、その俳句を書く動機が極めて人間的なところから出ているのであれば、そこを読み取らねば読んだことにはならない。

                             ともすれば、現世の関係性に固定化し膠着することが俳句を痩せさせる、という見解をしばしば聞いた。それは一面正しい。このいわゆる人文主義(ヒューマニズム)には、言語に徹しきれないという負の側面がある。作家たちはどのようにに乗り越えていったのだろうか。特に和田悟朗のことを考えるときに、そのことが頭を離れない。

                            C. 『諸葛菜』の中の《水底の情感ー死に狎れて》にある悟朗の初心

                             ところで、人間を、いわゆる人格や性格からではなく、物質の元素まで還元して考える視線は、俳句の外でつまり化学や生物学の世界にすでに出てきていると、これは誰にも想像できる。とくに、和田悟朗にあっては、それを俳句形式につなぐ理解のきっかけとはどのようなものであったのだろう。
                             和田悟朗は、もともと科学者であるから自分の認識や知識の中で既に「人間」を物質として解体している、その俳句にも、どうしてもその学者の思考法、つまり、存在世界を抽象化して記号に転じる思考の習性ができている。
                             しかし、科学研究を職業とする生活者としての時間空間の有り様と、俳句作家としての自立する時間空間の過程は、年齢的にも同時に進行している。生活の中のさまざまなアクシデント、これが多分大きな問題だったのである

                             和田悟朗を最初に俳句へ誘導したのは、化学の師である莵原逸朗教授と回覧誌を始め、次の俳句を見せられたからである(と書いている)。以下の引用はエッセイ《水底の情感ー死に狎れし》『諸葛菜』中/昭和58年1月30日/現代俳句協会現代俳句の100冊[13] )より。

                               春めくやもの言ふ蛋白質に過ぎず   逸朗
                               雪ちるやサインはコサインよりかなし 逸朗
                             
                             莵原逸朗のこの最初の句には「非情のものを有情で切る心地よさ冷酷さ」、次の句には「非情のものに有情を感じる温かさがあり、その小気味よさが、ぼくがそれまでに思い込んでいた俳句の可能性を著しく拡大してくれた。」(引用文は『諸葛菜』の上掲エッセイより)。

                             続いてそのくだりを読むと、それだけではない。同じころ流産した妻の看病のそばで、「山口誓子をむさぼり読んでいた」とある。その山口誓子の俳句からも、非情のその根底に、やはり人間を深く感じ取ることができ、それまでなんとなく知っていた、いわゆる単なる俳諧とは異質な世界であると思った。」(引用文は『諸葛菜』の上掲エッセイ)。

                             三十代といえば、化学研究者としても、意欲満々の時で男盛りである。
                             そのころの俳歴について言えば、

                            昭和二十七年莵原逸朗と出会う。
                            昭和三十年。赤尾兜子の「坂」の同人参加。
                            昭和三十一年橋閒石の「白燕」に参加。
                            昭和三十三年に高柳重信「俳句評論」に同人参加。
                            昭和三十五年「渦」創刊。同人参加。これは、「坂」と船川渉の「山系」が合体した。

                            第一句集『七十万年』は、昭和四十三年・八月十五日・俳句評論社から刊行された. 
                            昭和四十四年現代俳句協会賞受賞。
                            ・・とある。


                             文字どおり「前衛俳句」の坩堝に巻き込まれた経歴であり、『七十万年』にもその時代性は反映しているものの、和田悟朗の俳人の出立は、そういう時代の先端をゆこうとする、高柳重信や赤尾兜子、関西にもかなりの人材を出した金子兜太の方向とは一歩離れ他独自なたたずまいを見せている。それでいながら、正しく彼らにとってなくてなならぬ存在となってゆく。

                             所属としては橋閒石と赤尾兜子そして高柳重信という三人の当時としては「異端」とされるな天才たち、(戦後の新興俳句の動きの中でも、最も活発なグループであった)、との濃密な交流が始まるのであるが、じつは、俳句にハマるきっかけに山口誓子の存在があった。そういう俳句の体験があったとは、私にすこし意外な感を抱かせたのだが、ともかく感動的な事態だ。(このことは、別文で考えてみたい。)

                             さらに、後年、悟朗の師の橋閒石がこういうを作っている。

                            人ももの言う蛋白質に過ぎずと云える春の人  橋閒石『微光』
                                              (平成四年八月。沖積舎)。

                            奇妙だがよく理解できる字余りである。なお、橋閒石はこの三ヶ月後の十一月二十六日八十九歳で逝去。

                             おもえば、悟朗存命中に企画され進行していた『和田悟朗全句集』(飯塚書店)は、ついに間に合わす、二月二十四日に他界された(九十二歳)のであった。

                             晩年にこの「もの言う蛋白質に過ぎず」の語が俳句として繰り返されるという、この成り行きにおもしろさを感じた。和田悟朗の最初の師。私淑した莵原逸朗のことを言っているのは明らかである。閒石悟朗のあいだに、そういう話でも出たのであろう、この循環は取るに足らない思いつきなのだろうが、しかし私には、人生の最後にゆきついた橋閒石の達観が、俳句人生のはじめの和田悟朗を鼓舞した言葉であったことに大変興味を感じている。
                             
                             和田悟朗の《水底の情感ー死に狎れて》というエッセイには、作家が体験した身近な「死》が書かれてあり、どれも、個人的な体験である。この文章で彼は集中的に死について考えた。最後に、自分のこの文章について彼はこうも書く。

                            「身近に起こったいろいろな死との関わりを通して、生存意識の経緯を探ってみたい 
                            と願った」「必然、少々陰気な文章になってしまった。ぼくは本来は幼稚で楽天的な人 
                            間である。」 (『諸葛菜』《あとがき》)

                             最初にあげた「虚子論」はその三年後に書かれている。上にあげたこのような私的な経験を踏まえた高浜虚子への考察は、私の印象では暖かくかつ冷徹である。なんでも見えているようなところもあるが、やはり独特な科学的というより人間主義的な視点をみる。和田悟朗の俳句への認識と人間性洞察の交錯を、俳句文脈から見てゆきたい。(この章続く)