2015年10月2日金曜日

「芸術から俳句へ――仮屋、筑紫そして・・・」 その1 /筑紫磐井・仮屋賢一



北川編集長と仮屋賢一氏との間で音楽をめぐってのメールのやり取りがしばらくあり、ccで私にも送られてきていた。なかなか面白くはあるが俳句の話は近付いてきそうで近付いてこない。縄跳びの「おはいんなさい」ではないがやっと私の飛び込めそうな波がやってきたので、勇を鼓して先ずは飛び込んでみた。うまくつながるかどうかは分からないし、話題が本当に俳句に戻ってくるかもよく分らないが、少しやり取りがたまったので掲載してみることにした。ご覧いただきたい。



1.筑紫磐井から仮屋賢一へ(仮屋賢一←筑紫磐井)
the letter rom Bansei Tsukushi to Kenichi Kariya


北川さんと音楽の話でずっと盛り上がっている中で、なかなか割り込めませんでした。話の中の曲名はほとんど理解できず。

ただ、最終的には俳句の話に戻るだろうと思っていましたが、なかなか話題は尽きないようです。
全然音楽になじみがないのですが、先日、金子兜太の秩父俳句道場(4月4日~5日)に行ったおり、自分のBLOGを読んでほしいといった人がいて覗いてみると私の品評をしていましたがその中で、音楽にたとえてくれていました。

筑紫氏の気概は、当然ながら氏をして俳句を侵害するものと戦わせる。それが例えば川名氏だ。 
極めて乱暴にたとえれば、ヒップホップは音楽じゃない、演歌は嫌いだ、と言うクラシックや現代音楽好きの川名氏に対して、ヒップホップだって玉石混淆かもしれないが音楽のひとつだろうし、演歌だって演歌という楽しみ方やファンや伝統があって、そんなふうに切って捨てるものではあるまい、と言う筑紫氏がいる。そして筑紫氏の方は音楽が人をして感動させるのは何だろうか。そもそも音楽とはなんだろうか、という方に関心があるのだと思う。たぶん。以上あくまでもたとえ話。 
俳句/音楽、ヒップホップ/社会性俳句、演歌/花鳥諷詠。

なるほど私は演歌に近いのかと納得した次第。確かに、音楽(俳句)ありきではなくて、音楽(俳句)が人を感動させるのは何だろうか。そもそも音楽(俳句)とはなんだろうか、という方に関心があるというのは間違いありません。

とここまで書いて、先が進みません。このまま金子兜太の話題で続けさせて頂きます。ヒップホップにたとえられた社会性俳句ですが、秩父俳句道場(詳しくは北川さんが記録を書いてくれると思いますが)では、如何にも社会性俳句の創始者らしく、意気軒昂たるものがありました。ちょうど東京新聞で「平和の俳句」と題して毎日、いとうせいこうと反戦俳句の選をやったりしていますが、秩父俳句道場の句会でもこんな句を取っていました。

ニューギニアの抜け殻の伯父空が流れる 
逃水や武器開発と在庫一掃 
価値観が津波のように震災忌

仮屋さんどう思われますか。

そういえば私の学生時代は岡林信康「友よ」西岡たかしの五つの赤い風船「遠い世界に」などがよく歌われましたが、これなど社会性歌謡でしょうか。社会性歌謡が楽曲と歌詞で成り立っているのに対し、俳句は楽曲に相当するものが見えないので、もろにメッセージだけで勝負するようになってしまって点が、衰退した理由かもしれません。しかし作者として黙ってはいられないという思いは誰も否定できるものではありません。俳句ではないと言われても。





※左の画像は更に傍線部をクリックするとYoutubeに移動します。
※動画をご覧になる場合は音声が出ます。(念のため)




2.仮屋賢一から筑紫磐井へ(筑紫磐井←仮屋賢一)
the Letter from Kenichi Kariya  to Bansei Tsukushi 


筑紫さま

仮屋です。
返信をお待たせしてしまい大変申し訳ありません。

さて、呈示してくださった俳句についての話です。

ニューギニアの抜け殻の伯父空が流れる 
逃水や武器開発と在庫一掃 
価値観が津波のように震災忌

こういった類の俳句ですか。

少なくとも、自分が普段親しんでいる俳句とは異なった読後感があります。

強い主張を持った言葉が使われているように思えます。

そして、それらの言葉が自身の字義以上の世界観を孕んだ言葉として、作品を作り上げているというのも確かだと感じます。

それは、散文にはない、詩、特に俳句の特有の力によるところも大きいと思います。

俳句という詩型の力(議論の余地は大いにありますが、ここでは控えることとします)を得て成り立っている作品、という意味では、これらも俳句と言うことができるでしょう。

しかし。
ここからは多分に主観の話になるのですが、美しくないのです。
俳句というものの美しさがそこに無いように思えるのです。

ここでの美しさ、とは表面的なものではありません。

景色の美しさ、調べの美しさ、余韻の美しさ、機知に富む美しさ、「美しくない」という美しさ、ほんとうに様々な「美しさ」があると思いますが、挙げられた俳句は、それらの美しさとは全く無縁の世界にあるように思えてなりません。

多分、挙げられた作品のようなものは、俳句という形によって多くの力を与えることができるものの、俳句という形によって「美しさ」を与えることができないのではないか、と思うわけです。

僕にとって、このような俳句は、俳句であることを認めたくないものです。

ただ、同時に、単なる短詩ではなく、「否定されるべき俳句」として存在していなければならないものでもあります。

「こんなものは俳句ではない」と否定されるために、俳句という世界の枠内に存在していてほしいもの、といったところでしょうか。

ところで、確かに、このような俳句には衰退を感じますが、社会性歌謡はそれほどでもありませんね。

>社会性歌謡が楽曲と歌詞で成り立っているのに対し、俳句は楽曲に相当するものが見えないので、もろにメッセージだけで勝負する

考えようによっては、「社会性歌謡」は狡いわけです。
だって、楽曲さえ良ければ、あるいは歌詞さえよければ、あとはもう片方が大して悪くないというだけで、そこそこの世間的評価を貰えてしまう可能性があるわけですから。

メロディがとても良いから、という理由で、歌詞は大して気に留めていない、
あるいは、歌詞がとってもいいから、メロディはありふれた感じがあるけれども、なんてこと、珍しくは無いと思います。

一方俳句は、そうでない。
「楽曲に相当するものが見えないので、もろにメッセージだけで勝負する」とおっしゃいましたが、それは違うかな、とは思いますが。

口に出してみた時の音、抑揚、リズム感、それらは十分、楽曲に相当していると思います。

寧ろ、歌謡曲が必ずしも音楽としての評価尺度で評価されていないのに対し、俳句は音楽としての評価尺度できちんと評価されているからこそ、厳しいのではないか、と。

たとえば、フレーズ感、リズム感、それらがしっかりと内容とマッチしているか。

社会性歌謡を鑑賞するときよりも寧ろ、俳句を鑑賞するときの方が、より高い頻度で気にされるのではないかと思います。

もちろん、名実ともに傑作は存在すると思いますが、それは歌謡曲も俳句も同じくらいの割合なのではないでしょうか。

これらの題材は成功に導くのが難しい。費用対効果が悪い。だから、衰退する。

ただ、歌謡曲に関しては、正しく評価されづらい、だから、衰退していないように振舞っている。
衰退すべきなのに、衰退していない。

たったそれだけのことではないでしょうか。

歌謡曲だって、もともとの歌の作る方法と同じように、詞があって、そこから自然に紡ぎだされる旋律やリズム(日本語の発音、内容と結びついた抑揚・表現など)をもとに作曲してゆく。

そうあるべきだと思いますね。



ーーー

  • 仮屋賢一(かりや・けんいち)

1992年京都府生まれ。「天下分け目の~」の枕詞で有名な天王山の麓に在住。関西俳句会「ふらここ」代表。作曲の会「Shining」会員。
現在、【およそ日刊・俳句新空間】で「貯金箱を割る日」と題した日替わり鑑賞執筆中。

2 件のコメント:

  1. 衰退すべきかどうかの基準が費用対効果とはこれまた貧しい話ですね

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  2. 衰退しているのは社会性俳句ではなく俳句というコンテンツそれ自体では?
    その衰退の原因は「こんなものは俳句ではない」「否定されるべき俳句」などという発言に象徴されるような固執した価値観を持った人たちの存在だと思いますが。
     しかも、俳句のリズム感やフレーズ感、そしてそれを至上のものとする価値観を突き詰めてゆけば、それこそ「費用対効果」が悪くなるのでは?

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