2015年10月16日金曜日

「凧と円柱」による認識論  2    竹岡一郎

《びーぐる28号(2015.7、発行・澪標)より転載》



  或る夜の守宮と影をかさねたる        「Ⅰ」 
菜の花と合はさるやうに擦れちがふ      「Ⅱ」 
あふむけに泳げばうすれはじめたる      「Ⅰ」

守宮とも菜の花とも重なり合わさる体は、例えば空という果ての無いものを仰ぎつつ泳げば、いとも簡単に拡散し、薄れ始める。これは他の人々を見る時も同様である。


おぼろなる襞が子供のかほへ入る      「Ⅰ」 
さはやかに人のかたちにくり抜かる     「Ⅲ」 
輪郭がとんで石灰山にひと         「Ⅲ」

うねっている場の雰囲気は、襞として子供の顔に入る。秋の涼しさに人は、赤外線スコープで見た時に体温の塊でしかないように、形だけがくり抜かれる。白い石灰の山に有れば簡単に輪郭が飛んでしまう。

そうなると、次の句群は、当たり前の事が、まるで奇跡的な一時的なものであるかのように認識されていることになる。

春風の止んであたまが上にある        「Ⅲ」 
コスモスに触れてゐる間は部屋がある     「Ⅲ」

頭が上に有る事、部屋がある事、これは当たり前のことだ。だが、再び風が吹けば、頭が上に有るかどうか、コスモスから身を放したら部屋は存続するのかどうか。

己が体も、体を囲む外界も、ぼんやりと輪郭の無いものへと変化してゆく感覚。しかし、句集を読む限り、そこには苦痛も恐怖も無い。敢えて一句挙げるなら、ここに咳の句がある。

あかるみに鳥の貌ある咳のあと        「Ⅰ」

放哉の「咳をしても一人」とは対極にあるように見える。それでも咳とは体にとって一種苦痛であって、人が苦痛によって体の機能を再認識するのであれば、咳は己が呼吸を認識させる。呼吸する体を認識した後に、明るみの鳥の貌を認識する。

ここは何処だらうか海苔が干してある     「Ⅰ」
この奇妙に明るい、懐かしい喪失感。海苔が干してあるのは、恐らく世界の果てで、しかし、懐かしい。いや、世界なんてものがあるのかどうか、そもそも疑わしい。分っているのは海苔が干してある事だけだ。「海苔干す」という春の季語から、俳人は春の明るい浜辺を想像するのだが、それは季語という猶予が仮に与えられ、その猶予に縋って読みたくなるだけのことだ。実景には、浜辺も陽光も無いのではないかという不穏が隠されている。

たてものの消えて見学団が来る        「Ⅱ」

これはいわき市吟行の句である。かつて「いわきへ」なる合同句集に、この句を見た。見学団は建物の流された後を見に来たのだが、ここに醸される荒涼とした明るさは何であろうか。戦時中、「アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ。」と、太宰治は「右大臣実朝」に書いた。その太宰の観じた明るさと同様のものを感じる。(そういう匂いのアカルサは、そもそもこの句集の最初から繰り返し綴られている。)

鳴りわたる時報に葛のはびこれり     「Ⅱ」 
終りめく数字が月の電柱に        「Ⅱ」
時報が何のために鳴るのかわからなく思えてくるのは、葛が傍若無人にはびこっているからだ。月下の電柱に有るのは只の数字だが、それが終末へのカウントダウンを表わしているように思えてくる。それら世界の崩壊を匂わせる雰囲気に対して、圧倒的に傍観者である作者である。

上着きてゐても木の葉のあふれ出す    「Ⅲ」 
うぐひすを滑らかなるはヘルメット    「Ⅲ」
このような穏やかであると同時に吹っ飛んだ叙情性は、一旦、己が体も含めた世界の輪郭を疑い切った後に、生まれて来るものだろう。認識のずれ、それはこれらのたった一字の助詞のずらし方(一句目の「も」、二句目の「を」)から見られるように、実に僅かな角度のずれなのだ。この二句において、ずれは存在の位置関係だけに留まらず、存在するものの構造自体に及んでいる。人間は日常においては、角度の微調整を絶えず無意識に行う事によって、認識の断絶を何とか回避しているのかもしれぬ。だから、その微調整を敢えて外すことが、遂には自らの存在を追いつめてしまう事は、次の掲句に表わされるように、作者にも良く分かっている筈だ。

霧のマンホールに乗つてゐてひとり    「Ⅲ」
マンホールと「ひとり」以外は全て霧なのだ。霧が晴れるまで、其処から動けない。動けば、霧の深淵に落ちるかもしれず、或いは自分が霧と化すかもしれぬ。

断面があらはれてきて冬に入る      「Ⅲ」 
靴ふたつその上にたちあがる冬      「Ⅲ」 
シーソーを冬の装置としてをがむ     「Ⅲ」
この孤独な、危うい釣り合いの上に立っている三句が、いずれも「冬」の句である事には理由があるだろう。「存在の寒さ」或いは「輪郭の揺らぐ世界の厳しい面」を「冬」に託しているなら、シーソーを拝む作者の姿は切実である。シーソーは物体のシーソーというよりは二元論的な釣り合いである。

ここで句集の終わりも近く、或る激しさを覗かせる句を挙げよう。激しさといっても、作者の性格上、真綿でくるんだような刃であるが、現実という甚だ頼りない認識が破綻を生じた瞬間、とでも言おうか。

絵がひらたく剝がれ吹雪の谷へ入る    「Ⅲ」

剝がれるのが積雪の破綻であるなら、絵と吹雪の谷は「剝がれ」において同一化する。吹雪の谷が剝がれるのが雪崩の相であるなら、絵は雪崩の如く剝がれ、吹雪の谷はやがて雪崩を起すであろう。

うすぐらいバスは鯨を食べにゆく     「Ⅲ」

薄暗いバスの中がまるで鯨の体内に呑まれたようであれば、バスと鯨は同一化する。バスが鯨を食べる理由を考えれば、食べる、とは同一化の暗喩であるか。

虹あとの通路めまぐるしく変る      「Ⅲ」

虹の仕組みが浮遊する水滴の反射であるなら、「めまぐるしく」とは反射の暗喩であり、通路は、消えた虹の仕組みを引き継いで虹と同一化する。

ゐるはずの人の名前に秋が来る      「Ⅲ」

体や顔や声ではなく、名前という言霊でしか、他者に認識され得ない人間は、もしかすると霊だけではないのか。秋が滅びの始まりの異名であるなら、ここにおいて肉体による認識は滅びはじめるのか。


(続く)

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