2015年10月2日金曜日

「凧と円柱」による認識論  1        竹岡一郎

《びーぐる28号(2015.7、発行・澪標)より転載》



今年の田中裕明賞は、鴇田智哉の「凧と円柱」であった。

今、俳壇で最も可能性を持つ賞が田中裕明賞であろう。選考委員は石田郷子、小川軽舟、岸本尚毅、四ツ谷龍。第一回目からの受賞者を挙げると、高柳克弘、関悦史、津川絵里子、榮猿丸、西村麒麟と錚々たる作家が並ぶ。第二回目が該当者無しというのも、選考の厳しさを示している。

この賞の面白い処は、毎回小冊子が出て、選考会、記念吟行会、授賞式の有様が手に取るようにわかる事だ。特に、選考会の経過を冊子にして後世に残すという事は、主催・ふらんす堂に、余程の矜持が無いと出来ない。

一つ残念なのは、賞の応募規定が満四十五歳までということで、これは四十五歳にして逝った田中裕明を顕彰して設けられた賞だから仕方ない。しかし、年齢制限を付けることで、若い作家をより積極的に世に出したいという姿勢は、充分肯える。俳壇には、若い自由な血が、もっと行き渡るべきだからだ。

過去の受賞句集の中でも、伝説と化すのは、関悦史の「六十億本の回転する曲がつた棒」であろう。関の句集は、代表句「人類に空爆のある雑煮かな」と、祖母の介護を詠った「介護」及び震災体験を詠った「うるはしき日々」ばかりが喧伝されるが、他の章にも瞠目すべき句が山のように有る。次に、そのごく一部を挙げる。


少女らの脂とおもふ祭かな          
 「日本景」  
「名指サレタ婦人ハ紀元前カラ難所デアツタ」 
 「マクデブルクの館」  
天使とも蛆ともつかぬものきたる   
 「襞」  
「正義」超えつつ菌(きのこ)となつて増えゆくや
「ゴルディアスの結び目」  
羽化(ウクワ)シケル人(ヒト)ノハゲシク折(ヲ)レユクナリ
「百人斬首」  
うすらひやさはられてゐるうらおもて
 「発熱」
 
滴りて無限にのぼりゆくならん
 「歴史」


関は社会詠の作家と思われがちだが、実はかくのごとく、詩として奇跡的な跳躍を遂げた句も多い。かつてこれほどの振幅で句集を展開した俳人はいなかったと思う。師もなく結社にも属さず、ネットから出現したという点でも、象徴的な作家である。関の句集が出たのは、奇しくも大震災があった年だ。その年に、俳人の有り方を揺さぶる句集が出たのは、感慨深い。

前置きが長くなったが、この度の受賞作、鴇田智哉の「凧と円柱」である。この句集は、三つの章に分かれている。Ⅰ、Ⅱ、Ⅲと、特に題も無い章だが、あとがきによると、「承は、尾のつづき。/転は、天災の痕跡。/起は、それからの響き。」とある。Ⅱが大震災の頃の句であると読めるが、一筋縄でいかないのは、「句はどれも、それが生まれた年によってでなく、心における前後に照らされて、配置された。」と記されている事だ。その後で、「ときに心は、未来の出来事を先に見ることでさえ、ある。」と。ここで作者が密かに志すのは、四次元的な認識であることが推測される。あとがきの掉尾、「この句集はいわば、心の編年体による。」を解析するに、時間とは一般に遡行することが出来ないが、物質から始まって空間、場の解体に至れば、時間もまた解体することが出来るかもしれぬという意味か。

 句を見てゆくと、先ず目に付くのが、自らの視覚による認識への懐疑だ。

ぼんやりと金魚の滲む坂のうへ        「Ⅰ」 
めまとひを帯びたる橋にさしかかる      「Ⅰ」 
ががんぼの古い形が目に残る         「Ⅰ」

滲む金魚、「めまとい」という文字通り視覚を妨げる虫の群を帯びた橋、絶えず動いているために今の形状がはっきりとしないががんぼ、これらは今見える物への疑問であろう。そこから、認識するための眼球と、認識を遮る瞼への拘りが表される。

まなうらが赤くて鳥の巣の見ゆる       「Ⅰ」 
風下にうすい瞼はありにけり         「Ⅱ」 
草木枯れまぶたの裏を目がうごく       「Ⅱ」 
まなざしの球体となり霧をゆく        「Ⅲ」 
まばたくと手の影が野を触れまはる      「Ⅲ」
人間の文化は、その九割が視覚的文化であると聞く。だからこそ、その視覚を疑い出すと、人間は恐らく、認識というものが根本から崩れ出す。

どこまでの木目のつづく春の家         「Ⅰ」
「どこまでも」なら、単に家の形容に留まるが、「どこまで」のあとを「の」で以てずらすことにより、木目はその家の領域を超えて、風景の中をどこまで続いてゆくか、わからなくなる。「の」の一字によって、家と外界の境界が不明瞭になってゆく。繰り返し読む内に、先ず風景の中に木目ありきであり、その木目の途中に家が現れるような観さえ生じてくるのだ。(今、私は繰り返し読むと言った。この句集全体が、繰り返し読まねば真価がわからない句に満ちている。一度読んだだけでは、誠に淡いイメージであるが、何度か読み直す内に、或る明るい深淵が現れ出すとでも言おうか。)

そこにゐる蜻蛉に位置の入れかはる      「Ⅰ」
「蜻蛉と」でも「蜻蛉の」でもない。「に」は意志的な方向性を表わすと読むが、入れかわるものは何なのか、明示されていない以上、作者と蜻蛉の位置が入れ替わると読まざるを得ない。これは単純に場所が入れかわるのではなく、蜻蛉と自分の存在の輪郭が不明瞭になるのだ。それは、世界の諸々のものと自分或いは人間というものとの境界が不明瞭になるという事だ。 
    
(続く)




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