2015年10月30日金曜日

【短詩時評 五人目】北山あさひと戦略としての「なんなんだ」-ひとりひとりは、崖-  柳本々々



八月十五日 お家三軒分くらいの夕焼け雲 なんなんだ  北山あさひ

ごめんなさいデモには行きたくない すーっと風から夜が始まってゆく  〃
  (「なんなんだ」『短歌研究』2015年11月号)

崖っぷちという言い方はよくありますが、一人一人が崖なんだという感覚が生きていて、読ませます。
  (米川千嘉子「短歌研究新人賞選考座談会(北山あさひの連作「風家族」に対するコメント)」『短歌研究』2015年9月号)

“愛”は通常語られているほどぬくぬくと生あたたかいものではありません。多分。
それは手ごわくひどく恐ろしい残酷な怪物のようなものです。
  (岡崎京子「あとがき」『pink』マガジンハウス、2010年)

なんだっていいでしょ! ……とは言いたくないけど、今は言わせて! 大丈夫よ。ちゃんと意味を持ってやってるから。ただ、その意味を、今はまだわかってほしくないから言わせて……なんだっていいでしょ!
  (倉持裕『ワンマン・ショー』白水社、2004年、p.23)

今回取り上げてみたいのが北山あさひさんの短歌です。

北山あさひさんには2014年の第五十七回短歌研究新人賞候補作として「グッドラック廃屋」、2015年第五十八回短歌研究新人賞候補作として「風家族」があるんですが、どれも規制のコードに対する〈なんなんだ〉という枠組みがひとつのテーマになっているんではないかと思うんですね。

たとえば掲歌をみてください。「八月十五日」という国民の〈終戦記念日〉に対する「なんなんだ」、「デモには行きたくない」とする(おそらくは安保法制反対)「デモ」に対する〈なんなんだ〉、こうした〈なんなんだ〉性は明滅する比喩とセットになってあらわされていきます。「お家三軒分くらいの夕焼け雲」や「すーっと風から夜が始まってゆく」という〈明日には消えてなくなっている〉比喩とかけあわせることによって〈なんなんだ〉性が強まっていくわけです。それはけっして不動のものでもなんでもないんだと。

つまり、〈なんなんだ〉っていうのは語りの認識の布置のなかでは〈消える〉ものとしてあるわけです。「八月十五日」や「デモ」といった国民イヴェントがあるのだけれども、その国民イヴェントがいったい〈このわたし〉とどれくらいの強度をもって連絡させることができるのか、そもそも〈あなた〉はどうなのか、ほんとうに強度をもって「八月十五日」や「デモ」と関わりあったうえで〈そこ〉にいるのか、それらイヴェントと明日には消える風景とどれくらいの差違があるのか、〈どうなんだ〉、というよりも〈なんなんだ〉、というよりも〈わたしなんなんだ〉、というよりも〈おまえなんなんだ〉、というよりも〈わたしたちなんなんだ〉、というそうした〈なんなんだ性〉。

そうした国民=集団的イヴェントに対する〈なんなんだ性〉はこれまでの連作からも「結婚」や「家族」という集団的枠組みへの〈なんなんだ性〉として見いだすことができます。


いちめんのたんぽぽ畑に呆けていたい結婚を一人でしたい  北山あさひ

母でなく妻でもなくて今泣けば大漁旗がハンカチだろう  〃
  (「グッドラック廃屋」『短歌研究』2014年9月号)

母さんが父さんにバット振りかざすあの夜のこと 家族はコント  北山あさひ

たぶん今ニトリに行ったら吐く 風が動いて他人を抱く他人は  〃
  (「風家族」『短歌研究』2015年9月号)


「結婚」「母」「妻」「夫婦」「親子」「家族」「家庭」に対する〈なんなんだ〉という〈吐き気〉。それら記号を受け売りせずに、むしろ意味内容を吐瀉物としてひきずりだすような〈積極的不快感〉。それがひとつの〈なんなんだ〉になっている。

で、この北山さんの短歌の〈なんなんだ性〉というのは当然そうした〈わたし〉や〈あなた〉のイヴェントに対する主体的関わりを問うものとなっていきますので、その主体的関わりを統辞する〈主語〉そのものへの〈なんなんだ性〉ともつながっていきます。


すはだかの特に乳房の滑稽よ氷を摑む〈俺〉の気持ちで  北山あさひ

TSUTAYAへ行きそのあと鳩を追いかけた私から出ていくなよあたし  〃
  (「なんなんだ」『短歌研究』2015年11月号)

巨大なる会いたさのことを東京と思うあたしはわたしと暮らす  北山あさひ
  (「グッドラック廃屋」『短歌研究』2014年9月号)


「〈俺〉の気持ちで」「私から出ていくなよあたし」「あたしはわたしと暮らす」。こうした主語の仮称化、或いは主語の相対化は、主語さえ唱えてしまえば短歌を主体的・システマティック・機械的に統辞してしまえることの〈危うさ〉を浮き彫りにしているようにも思います。「八月十五日」も「デモ」も「結婚」も「妻」も「俺」も「あたし」も「わたし」も、〈そう〉唱えた瞬間に、その主語をめぐる構文=構造=枠組みごと密輸し、〈わたし〉がたとえ〈そう〉思っていなくても自動的に組織してしまう。そういう言葉から勝手に〈わたし〉の枠組みがつくられることの危機感のようなものがあると思うんですよね。それら短歌機械・主語機械・概念機械に対するひとつの〈吐き気〉が。北山さんの連作タイトルの言葉を借りるならば、それはいわば、短歌・主語・概念・システムの〈廃屋化〉でもあるわけです。


だからこそ、主語に対し「なんなんだ」という〈吐き気〉を催しつつ、微分化することによって、〈わたしだけの遠近法〉をもういちどつくりだす。それが北山あさひさんの短歌なんじゃないかと思うんです。


ですから、〈なんなんだ性〉っていうのを今あらためて言葉にするとならば、それはどんな状況下であれ自分でなしとげる〈生の遠近法〉なのではないかと思うんですよ。あらゆる事・物に対して〈なんなんだ〉と〈吐き気〉のするような距離を生成し、 不快感や吐き気を催しながらも、短歌定型をとおして固有の〈生の遠近法〉をまさぐること。それが〈風〉のようなものであれ、〈廃屋〉のようなものであれ。


それが北山さんの短歌の《あえて》生き生きとさせない〈遠さ〉なのではないかと思うんです。

〈遠さ〉ははじめからあるものではない。それはじぶんで〈きもちよくない場所〉からつくりだすものだと。そしてその〈生き生きさせない遠さ〉によってはじめてわたしはわたしの枠組みからどこにも回収されえない生を組み換えることができるのだと。なんなんだ。



飛んでいく麦わら帽子いつだって遠さが心をつくると思う  北山あさひ
  (「風家族」前掲)

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