ラベル 攝津幸彦記念賞 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 攝津幸彦記念賞 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2026年4月17日金曜日

【連載】攝津幸彦記念賞応募作品(全国学生俳句会合宿2025評論)5 「はまなすと未来」 野上翠葉

 一.〈はまなすと古い未来図だけがある〉

 これは福田若之の第一句集『自生地』所収の句である。解釈の前段階として、この句に用いられた単語の意味合いと、この俳句の鑑賞に大きな意味をもたらすと思われる、掲句の入った連作の前文を参照する。まずは単語を確認する。

 この句の季語は「はまなす」であり、講談社の『日本大歳時記』には「バラ科の落葉低木(略)関東以外の砂浜の砂地に自生するが、なかでも北海道の群落に咲く美しさは、真青な海を背に大胆でおおらかである。」とある。ここでは、季語の「はまなす」の背後に海の存在を認め、はまなすと海をイメージの連関として捉える認識を共有しておきたい。

 「未来図」に関しては、三省堂の『大辞林』には「未来を予測、あるいは将来のあるべき姿を描いたもの。」とある。「未来図」という言葉には科学の発展に対する純粋な憧れが含まれ、こうしたイメージの作品の代表例として、『鉄腕アトム』と『ドラえもん』が挙げられる。それぞれの作品で主人公であるアトムとドラえもんの誕生日が明確に設定されている(アトムは原作では二〇〇三年四月七日生まれ、ドラえもんは二一一二年九月三日生まれ)ことを鑑みると、未来図という単語には「未来の具体的な時点を予測し描いたもの」という意味が含まれていると考えても問題はないだろう。続いて前文を参照する。


 書かれたものはいつか消え去る。消え去ることは、書くことにあらかじめ織り込まれている。書くことは、書かれたものがあとかたもなくなることによって、ようやく果たされる。だからこそ、書くことを真に肯定するために、僕は、まず、この消失を肯定しなければならなかった。

                             

 この前文において大切なのは、福田が書くことを肯定するために、「古い未来図」から失われてしまった「なにか」をも肯定しているという事実である。失われてしまった「なにか」とは一体なにであるのだろうか。前置きが長くなったが鑑賞に入る。

 不思議な句である。はまなすの生えている海辺を写生した句のように見えるが、その読みを濁らせるのが、この句の特徴でもある「古い未来図」と「だけ」である。

 「古い未来図」から見ていく。「古い未来図」の「古い」には少しだけニュアンスの異なる二通りの解釈の方法がある。一つには、その未来図が描かれてから長い時間が経過しているという意味での「古い」である。二つには、アトムの時代設定がもう過去のものとなってしまっているように、その未来図で描かれた時点が既に過ぎ去ってしまったという意味での「古い」である。「未来図」を修飾する「古い」においては、前者が後者をも満たすことも多いであろうが、SFを一種の未来図と捉えた場合、ジュール・ヴェルヌの『地底旅行』のように、前者を満たしながら後者を満たさないものも存在するため、便宜上の区別を設けた。もちろんこの二つを峻別することはできないが、この「古い」は後者のニュアンスが強いのではないかと考えたい。それは、後者の意味が唯一はたらく被修飾語の「未来図」という名詞の特殊性と、「古い」ことを断定するような限定用法にある。これらによって導かれるのは、想像で描かれた「未来図」と景色を見ている存在にとっての「現在」(俳句内世界が現実世界と異なるかもしれないという意味で、「現在」と書き表す)は異なっていたこと、すなわち「未来図」は間違っていたという客観的な事実なのである。未来への期待を図や絵として象徴する「未来図」が間違っていたと書く福田は、楽観的・理想的に「未来図」に描かれていた虚構の「現在」と、その理想像から「頽落」(前文から考えるに、福田はこのことを肯定しているため)してしまった実際の「現在」とのギャップをアイロニカルに穿つ。そして、次に語る「だけ」とはなにが含まれなにが排除されるかの議論の先走りとはなるが、「現在」の未来をも否定した上で、未来が存在しなくなることを肯定しているのではないだろうか。

 続いて「だけ」について考えていきたい。「はまなすと古い未来図だけ」という言葉には、一体なにが含まれなにが含まれないのだろうか。そもそも、この俳句に詠まれた世界は現在の世界で、海辺で作中主体に把握される存在が「はまなすと古い未来図だけ」なのだろうか。それとも俳句内の世界に存在するのが「はまなすと古い未来図だけ」なのだろうか。この二択の問題を確定させる、「はまなす」以外の生物や「未来図」に代表される人工物が存在するかどうかの判断は難しい。そして、これらの生命や人工物の存在の是非の問題は最終的に一つの問題を導く。それは、果たしてこの俳句の世界には人間が存在するのかどうかという問題だ。しかし、現段階でこの問題に答えを出すことはできない。それを考えるためにもう一つの俳句を見ていく。


二.<玫瑰や今も沖には未来あり>

 これは中村草田男の第一句集「長子」所収の句だ。この句を一読すれば、福田の句はこの句を下敷きにしたものであることが見て取れるだろう。

 愛媛新聞社の『中村草田男 人と作品』には、「玫瑰とその先の雄大なる海原を見て、少年時代の希望に燃えて眺めた風景をダブらせ、前途洋々たるものをかんじたのであろう。」という松本博之の句評がある。草田男が、清国領事の息子として厦門で生まれたことや、京都帝国大学で哲学を学びキルケゴール研究の第一人者とされた従兄の三土興三からの影響を受けていることも、この句評を裏付ける。それでも解釈の上での問題がある。それは「沖には今も」という表現だ。「沖には今も未来があ」るのは「なにと対比されているのか」「なにに加えてなのか」を考えていく必要がある。

 東京堂出版の『現代俳句の鑑賞事典』の奥坂まやが書いた興味深い指摘がある。少し長くなるが引用する。


 この「今も」は、単に一個人の思いにとどまることなく、私たちの文化の根底に流れるものにまで届いている。私たちは、北方からであろうと南方からであろうと、この島へ海を渡ってやって来た民族なのだ。(略)母郷としての海の記憶は、未だに色濃く民族の無意識のうちに宿っている。私たちは海原へ熱い思いを捧げてきた。海境という古代以来の言葉に象徴されるように、海の沖は死者と生者の世界の境、時が生れてくる母胎でもあり、還ってゆく故郷でもある。


 単に生命が循環する場所としてだけでなく、時間の母胎すなわち民族の生まれた故郷としての、壮大な沖が描き出されている。この島々へやってきた人々が暮らしてきた時間の中で、民族(アイヌ民族・大和民族・琉球民族)や日本という概念が作り出されたと述べているのである。今回はこの解釈に加えて、沖の向こうに存在する外国から渡来した諸文物を考えたい。中国からは近世以前に、漢字、仏教、律令制度、漢詩、儒教などが、西洋からは近世に、火薬や鉄砲、キリスト教が伝来した。(草田男は娘の弓子からは「父はまぎれもなく洋魂和才の人であった」と、山本健吉からは「キリスト教と草田男さんの文学の発想は切り離しがたい」と評されているが、宮脇白夜の『中村草田男論:詩作と求道』では、この句ができた昭和八年の頃は「未だ〝求道以前〟」であり、句のなかにキリスト教への関心は見られないと指摘しているのでここでは論じない。)近代以降は、鉄道や電信の科学技術、洋服、近代化のための思想などが伝来してきた。これを意識した上で、「や」で切られた「玫瑰」を見てみるとどうだろう。陸=日本の存在としての、沖=海=外国と対比される存在としての「玫瑰」が浮かび上がってくるのではないだろうか。

 以上の議論から、「沖には今も」という表現では、沖=外国には過去も今も未来があること、そしてその裏返しとして「玫瑰」に象徴される陸=日本には「今」は未来がないことがわかる。ここで一つの問題が生まれる。日本の「未来」は失われてしまったのか、それともこれから生まれていくのかという問題である。これについて、草田男と娘の弓子の文章、十一歳の草田男の日記を見ることで議論を進めよう。


 「日清戦争の厄を凌ぎ日露戦争の厄を凌ぎ国民全体が清潔な勇気に満ちていた当時(中略)菅沼先生は単なる小学校教師であられたが、全心全身がそういう時代精神の権化であられた。」

『私の先生』 中村草田男 


 「政治的・社会的姿勢において父に一貫していたものは何かと言えば、それは「ナショナリズム」であったと思う。(略)それは基本的に明治の人間としてのナショナリズムだったと思う。」              

『わが父 草田男』 中村弓子 


「国へかへつたら身体をきたへ、(略)先生(菅沼先生 筆者注)の云つて居なさる精神のりつぱな人になり、りつぱな軍人になり、軍にてがらをして此の先生を安心させるつもりである。」                   

草田男の日記 


 娘の弓子が「明治のナショナリズム」と呼んだものと草田男が「清潔な勇気」と呼んだものは似た種類の観念であるだろう。それは漱石の研究者であった江藤淳が『明治の一知識人』というエッセイのなかで「明治文学の特質は作家の国家への献身だつた」と記したものであり、その本質は草田男の日記にも表出した、欧米列強の帝国主義に遅れまいとする富国強兵への理想であった。関東軍が満州事変を起こした二年後の昭和八年(一九三三年)に掲句が詠まれていることも印象深い。これらのことから判断するに、日本の「未来」はこれから獲得されていくものだという認識が掲句にあったと考えることが適切であろう。


三.「はまなす」と「未来」

 福田の句の世界はいつのどこで、そこに人間は存在するのかどうか、なにが失われたのかという問題を解決するために、草田男の句を見てきたのであった。福田の句が草田男の句から作られたと仮定すれば、この二つの句は空隙があったとしても時間的には連続していると考えてよいだろう。ここで現在の日本や世界に「はまなすと古い未来図だけ」しかないわけではないことを踏まえたうえで、この「だけ」という言葉に忠実になるならば、福田の句の世界は現在よりも遥か未来ということになるだろう。以上のことをまとめると、この世界には四つの時代があり、それは ①奥坂まやの指摘した時代:人がやってきて日本という概念が生まれた ②草田男の句の時代:外国には「未来」が存在するが、日本には「未来」が存在しない(これから獲得される) ③二人の句の間の時代:外国にも日本にも「未来」が存在する ④福田の句の時代:どこにも「未来」は存在しない と分けられる。また、④の時代の未来が存在しないということを、草田男の句に引き付けて考えれば、それは国家や文明といった概念が消滅し人類の未来が存在しなくなった世界、すなわち人間の存在しなくなった後の世界だと言うことができるのではないか。前文を鑑みれば、福田は書かれたものが消えることを肯定するのであり、日本の「未来」がなくなることも肯定するのである。これはナショナリズムによる軍国主義や戦争でもたらされるような「未来」を選び取るくらいならば、「未来」などいらないという態度を示しているのではないか。戦争や虐殺の起こり続けている③の時代に生きる我々がこの前文とこの句を読むとき、福田の言葉は未来への警鐘として鳴り響くのである。


【大学俳句会アンケート回答】➀俳句とは何なのか➁俳句で何をしたいか➂俳句に関して何を書きたいか、

野上翠葉:➀短すぎて何も書けないし、すべてを書くことのできる詩。誰も見ていない世界の細部に自分だけが気づきたい。どんなにささやかであっても、世界の美しくない部分に抵抗したい。➁自分と世界の変革。口語俳句による俳句の可能性、小説のような立ち位置に俳句を持ち上げる。作家=池田澄子、正木ゆう子。➂社会性を持った俳句の与える影響。俳句が持つ可能性について。


【筑紫磐井感想】

 福田若之と中村草田男の「はまなす」「未来」の句は、福田、中村の二人の作家の対比が浮かび上がって興味深い。ただそれだけでは一般印象風の感想になってしまうだろうから、少し考察を加えてみたい。

 令和5年に『昭和俳句史 前衛俳句~昭和の終焉』(川名大・角川書店)と『戦後俳句史nouveau 1945-202 三協会統合論』(筑紫磐井・ウエップ)が出た。両者は全く違う史観を以て叙述されたものだが、これに対し福田は、両者のいずれの価値判断も<意志>のイデオロギーに支えられていると見て、新しいもう一つの道筋の可能性を示し、「双方を一気に乗り越えなければならなくなる」、「古いものをばらして組み替えたりするほうに心血を注ぐ書き手が現れたりしたら、すべてが覆るだろう」と述べている(「二冊の《俳句史》から」WEP俳句通信139号2024年4月)。こうした考え方は、総合誌で言えばもう少し以前に俳句2022年1月号新春座談会「俳句の宿題」(筑紫磐井・対馬康子・阪西敦子・高柳克弘・生駒大祐)で生駒大祐が「参照性」として問題提起をしている。

 こうした文脈から考えると、福田、中村の対比は参照派の福田、言志派の中村と理解することが出来るわけで、現代的にもきわめて面白い話題を提供しており、その点に着目したとすれば論者の選択眼の良さを示している。

        

 こうした中で、本論前半では福田の次の句を紹介している。


 はまなすと古い未来図だけがある 福田


 これは中村の「玫瑰や今も沖には未来あり」を本歌取りしているわけであり、前述の福田の発言、「古いものをばらして組み替えたりするほうに心血を注ぐ書き手」である福田の特色を如実に示していると思われる。

 論者は福田と近い世代であるところからその意味でも説得力があるのだが、福田の句が中村の句と微妙に違っている点が評論的には掘り下げが必要であるように思う。

 まず、俳句を構成する要素ごとに眺めて見よう。


➀本歌取りを構成する要素・・・「はまなす(玫瑰)」、「未来」

➁対比的な要素・・・「今」⇔「古い」、「(沖に・・)あり」⇔「だけがある」


 各要素の、➀については単純な比較だから説明の必要がないだろう。本歌取りのアリバイのためには不可欠なようそだ。➁については、揶揄や批評が強く、本歌取りの特色はここに見なければならないと思う。様々な鑑賞の仕方があるだろうが、草田男をイデオロギーに支配された作家と見れば、古い要素(「今」などということ自身が古い)や、明治の高等教育を受けたインテリの断言がシニカルに浮かび上がるような気もする。

    

 しかしこれだけでは済まない関係が実はこの2句にはある。これは論者が全く触れていない点であり、かつ作者(福田)自身が気づいているかどうかよく分からない点でもある。それは、「未来」が「未来図」に置換されている点だ。「未来」=「未来図」と言えるであろうか。もちろんこの句を含む句集の福田の前文の雰囲気をどのように読み取るかは論者の解釈によることでそれを否定する理由はない。しかし「未来図」から単純に「鉄腕アトム」や「どらえもん」を連想してよいものかどうか。

    

 少しエピソードを語ってみたい。まず、草田男の頭の中には「未来図」の言葉はなかったように思う。それが登場するのは、弟子の鍵和田秞子の句集『未来図』(昭和51年)によるものである。この句集名は、集中の


 未来図は直線多し稲の花(47年11月万緑)


によるものである。一見、弟子への祝福や俳壇的評価(福田の頭の中ではそう考えたかもしれない)として草田男が題選したようにも思える。しかし草田男はこの句についての選評で「未来への計画想定の基本プランの図面」(48年3月万緑)と述べている。この表現には、明瞭な意思・懐疑のなさへの不満(いかにも思想家らしい草田男)がにじんでいるように思える。それもあろうか草田男は、句集序文でもこの句について全く触れていない。私は、句集題名に草田男は積極的に関与せず、秞子の意向で決まったものではないかとさえ思っている。

     *

 草田男の「未来」には政治があるだろう。そして戦前の草田男の言説は慎重な分析が必要であるように思われる。戦前の草田男の言説は語られた言説は分かりやすいが、語られない言説はなんであったかは相当推理を要する。その中には、俳句だから語られた言説・俳句以外で語られない言説があるはずである。「物いえぬ文芸」だからこそ言えた言説もある。

 だから本論の後半は、まさにそこに肉薄すべき部分に当たる。戦後書かれた言説にはよほど慎重に臨まなければならないと思う。これは論者が間違っているという訳ではない。ただこれらの発言を並べたからと言って直ちに結論が出てくるわけでもない。私もこれを批判する論拠があるわけではないが、「玫瑰や」のような句には情緒の流されない冷酷な解釈が必要なように思うのである。その意味では中村弓子の断片的な発言は肯定できる点が多い。

 草田男は戦争をどう考えていたか。反戦か戦争協力かという単純な問題ではなく、最高学府を出て国家や社会を考える余地のあった作家(金子兜太もそういう立場にあった)にとって、国の運命をどう考えていたのか、はこの句の解釈と無関係ではないように思うのである。

     *

 これらを踏まえた上で、最後の結論は私が最も興味を持つところである。冒頭に述べたような参照派の福田と言志派の中村は、永遠に交差することのない方向ではないかと思うのである。中村草田男に対して永遠に共感し得ない立場に立つとき、はじめて福田の評価がよく分かるように思うのである。

2026年3月27日金曜日

【連載】攝津幸彦記念賞応募作品(全国学生俳句会合宿2025評論)4 「欠損の詩学―波多野爽波俳句の一解釈」  飯本真矢

  ミロのヴィーナスを眺めながら、彼女がこんなにも魅惑的であるためには、両腕を失っていなければならなかったと、不思議な思いにとらわれたことがある。( 中略 )失われた両腕は、ある耐え難い神秘的な雰囲気、いわば生命の多様な可能性の夢を深々と湛えている。つまりそこでは、大理石でできた二本の美しい腕が失われた代わりに、存在するべき無数の美しい腕の暗示という、不思議に心象的な表現が思いがけなくもたらされたのである。

 

 これは、私の高校時代の教科書に収載されていた、小説家・詩人である清岡卓行による第二評論集『手の変幻』に収録された批評テクスト『ミロのヴィーナス』からの引用である。ここで、清岡が「不思議に心象的な表現」と述べるような、〈欠損〉による心理的産物を〈欠損美〉という語で定義したい。本稿では、次の爽波の句を端緒として、俳句的視点からこの〈欠損美〉について考えていきたい。

                           

うすうすと銀河靴べら失ひし   波多野爽波

 

 「靴べら」を失ったという日常の小さな出来事。その事象が広大なるスケールの〈銀河〉に包まれ、仄かな意識の中に統合されていく。この句は、一九八一年に発表した爽波の第二句集『湯呑』所収。抽象の感覚と写生の精神が一句の中に同居しており、『ホトトギス』に新風を吹き込んだ爽波の在り方の一端をこの句に見ることができる。

 ここでの「銀河」という語の使われ方に注目すると面白い。実景としての単なる夜空の景ではなく、靴べらを失ったことによる喪失感が「銀河」という大きなイメージに昇華されている。物を失ったことによる〈欠損〉の感覚が、宇宙的な孤独感や広がりと重なる。日常卑近な景と壮大で高遠な景が一瞬で交錯する、想像力の豊饒な飛躍による美しさをこの句に見ることができる。この美しさこそが、今考えたい〈欠損美〉に通ずるものなのではないだろうか。

  次に、この句で真っ先に目を引く副詞である「うすうすと」に着目してみたい。辞書的な「うすうす」の意味を、『大辞泉第二版』で引いてみる。

 

 うすうす【薄々】

1 はっきりとではなく、いくらか意識されるさま。おぼろげに。

2 色・光・密度などが薄いさま。うっすらと。かすかに。

 

 この句での「うすうすと」は、後者の意も含まれていないとは言えないが、前者の意の方が強いと考えられる。また、「うすうす気がついていた」や「うすうす勘づいていた」という使われ方は自然だが、「うすうす思っていた」や「うすうす知っていた」という使われ方には多少の違和感がある。このことから「うすうす」は、「思う」や「知る」といった主観的な語とは相性が悪く、むしろ外界からの働きかけに対する受動的で微細な感覚を表す語だと解釈できる。存在が、私たちが意識的に把握するものではなく、むしろ向こう側から立ち現れてくるものだとするならば、「うすうす」という語は、そのような存在の立ち現れの微細な気配を繊細に捉える装置として機能していると言えるだろう。

 加えて、この句を構造から紐解いてみると「うすうすと」という副詞の選択が特筆すべき効果を生んでいることがわかる。「靴べら失ひし」と取り合わされるかたちで提示された「うすうすと」した「銀河」は、そのおぼろな輪郭でもってして〈欠損〉の感覚を包んでいる。顕然とした「銀河」では補うことのできない感覚が、むしろ漠然とした「銀河」だからこそ湧き上がる。それは「銀河」の存在自体の不確かさという揺らぎが、「靴べら」の不在と響き合うからである。爽波は、「靴べら失ひし」と喪失を直截的に描いた一方で、存在と喪失の境界が揺らぐ繊細な感覚を「うすうすと」の中に封じ込めたのである。

 

 より深くこの句においての「うすうす」という語の使われ方について考えるため、「うすうす」が使われた、もう一つの爽波の句を見ていきたい。

 

蓑虫にうすうす目鼻ありにけり   波多野爽波

 

 この句も『湯呑』所収。知っての通り、蓑虫をどれだけ観察したとしてもそこに目鼻は認められないが、そこにないはずのおぼろげな「目鼻」を蓑虫に見出した点が爽波の手柄だろう。さらにそれを「うすうす目鼻ありにけり」と言い切ったことで、その瞬間、蓑虫の小さな繭が、存在しないはずの「目鼻」の気配を帯びて揺らぎ出す。存在しないはずのものが、一瞬存在を持つかのように振る舞う。〈在る〉と〈無い〉のあわいに不思議な感覚が立ち上がってくる。ここでも「うすうす」による揺らぎの感覚を見ることができる。

 また、この句の面白さは、蓑虫を蓑虫らしく表現しないところにある。通常なら地味で目立たない虫である蓑虫に「目鼻」を見出すことで、「蓑虫」を、既知の蓑虫ではなく、見慣れない様相へと変容させて描き出している。この転換は、ロシアの文芸理論家シクロフスキーが述べる〈異化〉に通じる手法だと言える。彼によれば、芸術や文学の役割は「生の全体性を確保すること」、即ち、日常化によって鈍化した感覚を揺り動かし、対象を新鮮なものとして再発見させることにある。この句における「うすうす」は、まさに対象を既知のものから見慣れぬものへと変貌させる〈異化〉の装置であり、その微細な曖昧さによって「蓑虫」の存在感を生々しく蘇らせている。

 さらに「うすうす」の効果について考える。そこに在るはずのない「目鼻」がそこに「うすうす」と在る。したがって、蓑虫の〈欠損〉としての「目鼻」を喚起する、清岡様に言えば、蓑虫に失われている「目鼻」の代わりに存在するべき無数の不定形の「目鼻」を暗示するという機能を「うすうす」という語が果たしていると考えることができるだろう。帰する所、「うすうす」自体が〈欠損美〉を呼び起こす触媒として働いていると見做すことができるのである。

  「うすうす」のもつ効果が明らかになったところで再び本題の句へ返ってみたい。

 「うすうす」が、〈欠損〉からもたらされる〈欠損美〉を喚起する要素として機能していることは、冒頭に引用した清岡のテクストとも呼応する。ミロのヴィーナスの欠けた両腕は、失われたことによってこそ無数の「在るべき美しい腕」の可能性を暗示する。そうやって、〈欠損〉が、鑑賞者の想像力で満たされる。これと同様に、爽波の句でも、「靴べら」の喪失は単なる実用品の不在に留まらず、その喪失が意識に生む微かな空白というかたちでの〈欠損〉が、「銀河」という無限のイメージによって満たされる。靴べらの〈欠損〉は、逆説的にそれ以上の広がりと深みを句の内部に導き込む。ここに、喪失によって生まれる美、即ち〈欠損美〉の本質がある。

  「うすうすと銀河靴べら失ひし」と「蓑虫にうすうす目鼻ありにけり」の両句に共通するのは、「うすうす」という曖昧な気配を媒介に、存在と不在の境界が揺らぐ瞬間を捉えている点である。こうしてみると、両句はいずれも〈存在の不在性〉や〈不在の存在性〉といった逆説を詠み込みつつ、喪失の裡に潜む美を掬い取った句であると評価できる。

爽波は、喪失を単なる不在としてではなく、むしろ新たな感覚世界への扉として提示する。この感覚世界は、欠けているからこそ、そこに〈在ったもの〉〈在るべきもの〉の無限の可能性を湛える空間なのだ。それはちょうど、清岡がミロのヴィーナスに見た「無数の在るべき腕の暗示」と同じく、欠けたものの不在を通じて、豊かな想像力が解き放たれる過程である。

 〈欠損〉の間隙に潜む豊饒な可能性を見出して、そこに在る、私たちがまだ知らぬ〈存在〉を俳句として十七音に封じ込めた。それこそが爽波の提示した〈欠損美〉なのである。

 

【大学俳句会アンケート回答】俳句とは何なのか俳句で何をしたいか俳句に関して何を書きたいか、

飯本真矢: ➀俳都松山で育ち小学生のころから俳句というものに触れていた。子規・虚子という俳人を教えられる中で俳句は古臭く語ぐるしいものだと幼いながら感じていた。しかし中学校の国語の授業で野口るり<チョコチップクッキー世界ぢゆう淑気>を知り短い詩型である俳句の形の中でも表現の可能性が無限にあると考えて興味を持ち始めた。➁俳句の大きな特徴として人とのかかわりが必ず伴うということがあると考える。句座を囲み、句会を行うということ。結社に入るということ。互いに互いの句を読み合い、鑑賞しあうということ。これらの俳句から始まる人とのつながりを大事にしつつ、俳句に取り組んでいきたい。➂若い世代、特に自分と同世代の俳人たちの俳句をいくつか集めてピックアップして述べてみたいという気持ちがある。さらに若い世代が俳句を始める際の刺激となるよう唸物を作ってみたいと思う。

 

【筑紫磐井感想】

 清岡の欠落論を前提に波多野の「うすうす」を使った俳句を研究しているのは実証的であり説得性がある。しかし、「うすうす」は多くの俳句作家が使っており、これらと比較することが波多野の独自性を浮かび上がらせたと思う。

     *

 具体的な作品に移る前に、「うすうす」の定義を見てみよう。論者が行っている考え方に従えば、

 うすうす【薄々】

1 はっきりとではなく、いくらか意識されるさま。おぼろげに。

色・光・密度などが薄いさま。うっすらと。かすかに。

 

となるが、2は具体的な色・光・密度という物理量が少ないさまを言っていると考えられる。これに対して、1はそうした物理量を超えて、感覚を受けとる側の意識を言っているようである。

 そして「うすうす」を使った用例は伝統も前衛も問わず多くの用例があるのである。

 ただし、うすうすの意味は系譜によって少しその傾向が異なる。2の実例は客観写生派の作品に多く使用されている。

 

うすうすとあやめの水に油かな 岸本尚毅

うすうすとしかも定かに天の川 清崎敏郎

月おぼろうすうすと色置きし雲 稲畑汀子

吐く息のうすうすと枇杷咲きそむる 岡本眸

 

 これに対し1の用例は、抒情派の作品に多く見られる。典型例が、馬酔木である。いずれも、色彩の見える実体が存在しないところが特徴である。なお、最後の、私の作品を入れたのはご愛敬であるし、厳密に「うすうす」ではなく「うつすら」であるがが、この作品を詠んだ時の私は馬酔木系に連なる作者であり、どういう気分で「うつすら」という言葉を使ったかはよく分かるので例に挙げてみた。用語の使い方は自身が使ってみる側に立たないと分からないことが多いからである。

 

しゃぼん玉木の間を過ぐるうすうすと 秋櫻子

うすうすと我が春愁に飢えもあり登四郎

芦戸かげおいてきし子のうすうすと 林翔

君に会ふ常にうつすら風邪ごこち 筑紫磐井

 

 そして注目したいのは、1から更に表現の進んだ3である。これを心象俳句と呼んで見たいと思うが、比較的前衛作家に多い。

 

うすうすと稲の花咲く黄泉の道 飯島晴子

天と地の間にうすうすと口を開く 中村苑子

草の絮うすうすと死も飛んでいる 渋谷道

うすうすと天に毒あり朝桜 宗田安正

 

 これらの作品にはどこにも明らかな色彩が見えない。のみならず如何なる具象も見えてこない抽象的な心象ばかりである。

 こうした中で論者の取り上げた爽波の句を比較して見ることとしたい。

 

うすうすと銀河靴べら失ひし   波多野爽波

蓑虫にうすうす目鼻ありにけり   波多野爽波

 

 前句は1(客観写生派)の系譜にあるが、しかし全体としてみると3の系譜も混じっている。その証拠に難解である。後の句は2の系譜にあると言えよう。

 問題は論者のいう欠損感が、爽波固有のものか、「うすうす」という言葉で詠まれる俳句に共通のものかどうかである。グループ分けした「うすうす」の作品は、2と3はいずれも何らかの欠損感を与えているようである。その意味ではこうした中での爽波の個性の発見が必要である。

 その意味で、爽波の「蓑虫にうすうす目鼻ありにけり」と登四郎の「うすうすと我が春愁に飢えもあり」はともに欠損感のある句としてともに語り合うべきだと思う。

2026年3月13日金曜日

【連載】攝津幸彦記念賞応募作品(全国学生俳句会合宿2025評論)3 「面の問題について」  蒋草馬

 一般にわれわれは、線は一次的なものであり、この一次的なものを組み合わせることで二次的なものとして面が現れると考える。あるいは、『メノン』(プラトン)でソクラテスが、

 立体の限界が図形である

として面は立体を限界づけるものと考えたように、「限界づける」という仕方で次元間を理解することもあるだろう。いずれにせよ共通するのは、非連続的段階的に線と面の問題を理解しているところである。こうした線と面の間のヒエラルキーは、対象が客体として存在することを前提しており、いわば線を「もの」として見ているために成り立っている。線というものがすでにそこにあり、面というものがすでにそこにあり、そして両者の関係に向かうというわけである。線や面の現れ、という観念はここから欠如している。しかし線をより現象として、「こと」として扱うとどうなるだろうか。ひとまず線の発見ということを考えてみる。線を発見するとき、あるいはまさに描くことによって線を発見するとき、線は順序に秩序だてられた構造物として立ちあがる。どこに立ちあがるのか。そこには線以前のふたしかな面が存在する。もちろん立体にも線は引けよう。ここでは線と面の問題に限りたいので、そうした面だか立体だかわからないものをまとめてふたしかな面と呼びたい。とはいえ我々が線を引くときというのは、多くの場合には引かれてある面というものが同定されうるようだ。するとわれわれが先ほどヒエラルキー的に理解したそれである、線によって構成されるあるいは限界づけられる面というものは、すでに線以前の面上におかれていて、面上の「線という構成観念に貫かれた構成物」にすぎないことになる。このような「こと」的世界観においてはむしろ面は線に比して基底的でさえある。「もの」的世界観との大きな差は、線をもたない面が発見されるということ、そしてその発見は線の発見とそのことの反省から起こるということ、この二点にある。ここに線と面は相互に基底に潜り合う関係へ変化し、階層秩序のパースペクティヴは崩壊する。

 線の問題は言葉の問題としても重要だ。構成的な文章は線に支配されている。視覚的な見た目に加え、今読んでもらっているように文章というのは前と後が定まっており、前から後ろへ読み下していかなければ“正確に”読むことはできない、とされている。このような決定的な意味世界からの解放は、まさに散文と自らを対置する形で、韻文によってなされてきたのではないか。散文的文法(それは一般に日本語の文法だとか正しい文法だとか言われてきた)を突き崩し独自の文法を成立させることで形成される不確かだが豊かな意味世界や、順序を絶対視しない同時多発的な言葉の現れとしての魅力が韻文にはあろう。韻文の世界は面へひらかれてきた。

 一枚のタブローのようにその詩全体を記憶の表面に浮かびあがらせて、それを眺めることもある。(アンソロジー『わが愛する詩』飯島耕一「昭和二十二・三年の詩集」)

 次のようにいう人がいるかもしれない。韻文にも言葉である以上順序がある。それを証拠に詩には始まりと終わりがある。吉野弘の「I was born」(資料一)を真ん中から遡るように読んでもまったく意味がわからないだろう、と。たしかにかの日野草城の「ミヤコホテル」連作(資料二)は明確なストーリーラインに貫かれているだろう。このような一見強烈に線的に見える韻文に対してわれわれはどのように応答できるだろうか。いくつかの指摘ができる。

 まず韻文という形式において、線はたちまちに瓦解しやすい。視覚的に連作や自由詩に特有のこととして、第一の直感として面がもたらされることは大きい。しかし面的世界はそこにとどまらない。一度線が発見されたのちも、面への移行は絶えず行われる。線と面の間におかれる経路は非対称に造形されたものではない。そして面的に、一枚のタブローとして目前の詩を眺めるとなると、前段落における表現はいくつか覆る。〝意味〟はすでに散文的意味、線的意味を前提とした表現となっている。めちゃくちゃな順番で詩を読んだとて、そこには面的な意味が立ち上がるだろう。面的な意味とはなにか。線は決定的な中心性、軸を要する。いやむしろ、線は幅を持たないから、周縁を意識した表現である「中心」「軸」という表現では不十分で、強いていうなれば軸そのものといった方が良い。対して面は、動いている。写真を何度か眺めるうちに先ほど全く気にならなかった奥の木陰が唐突に気になりだすことがある。ある一定の構成力に貫かれ、軸を置かれたように見える面は、しかし偶発的にその軸を突如失い、別の軸が浮かびあがったりする。周縁が絶えず中心へ転倒し続けていくこと。さまざまな情報の同時多発性。この諸要素が線的にはあり得なかった言葉の世界を開く。そして詩のおかれる面が限界を持たぬ面だとすれば、「始まりと終わり」という表現も不正確になる。詩は無限の余白の草原に突如現れた、ひとつの中心性にすぎない。ゆえに詩へは余白が倒れこみ続ける。

 こうした面的価値を認めたとき、連作における構成的な諸要素は批判の対象になるだろう。特に俳句において大きな問題となるのは時間だ。一般に俳句連作を並べる際、その順番は季節順というのが定石だ。それも基本的には歳時記の題の分配に従う。ここでは時間は激しい統制を受ける。それが近代的な直線的時間であろうと、前近代的円環的時間であろうと、線的であることには変わりはない。しかし、われわれの生きる時間はそのように統制された時間ばかりであったろうか。春のそよ風に唐突に冬の図書館の入り口を思い出すことも、夏の森林から紅葉する未来が焼きつくように見えることもある。われわれには過去も未来も見える。私の中では今言ったこととさほど変わらぬことだが、季節そのものが交錯することもある。冬の特別あたたかい日に降る長い雨が、どうして春雨と言えないだろうか。時間もまた動いているタブローのごときもので、線を見出そうとして統制しようとしてもしきれない部分が出てくる。小春日という題はその現れだ。飯田龍太が生涯魅せられた芭蕉の次の句にもよくわかる。

 此秋は何で年よる雲に鳥   松尾芭蕉

 ここで無季俳句が重要な問題として登場する。連作の中の無季俳句は、連作の時間における軸の外側、統制しきれない部分を描き出すのに役立つ。新興俳句における連作と、その中から生まれ出た無季派は俳句に対してこのような面的世界を切開した、と私は考える。

 季語は第一句は成るべく之を在らしめたいが、第二句以下には必ずしも之を要しない。同一の季語の繰り返しは、多くの場合反効果的である。

 尚一歩を進めて、全然季語を缺くことも一概には却けまいとする自由な立場も考へ得られる。然しこの場合には表題を連作各個の公約数たらしめ之に季節の特徴を持たしめる必要があらう。(『俳句文学全集(日野草城篇)』「連作是非」)

 しかし無季派のほとんどがそう考えたように日野草城はあくまで、季節の統制の内に無季俳句を置くことを求めた。たしかに完全な無秩序(この方向性はこの方向性として超季、ロマンチシズムの問題とともに試みられたようだし草城は結局そうした超季派を受容していくが)でない限り、なんらかの中心性を面は帯びる。そのような面上で周縁はひとまず中心に従うが、しかし同時に中心を欺いてもいる。あくる日にその連作を見直した時には、人が唐突にフェルメール「真珠の耳飾りの少女」(資料3)の暗闇が気になって仕方がなくなることがあるように、周縁に思われた句群が突如気になりはじめ、むしろそうした句のほうがその連作の本質めいた部分に触れる心地がしてくるのである。

 一句単位の形式を考えても韻文であるからには面の問題を免れることはできない。「俳句一行のこの棒は、私には目玉の直径となり得るギリギリの長さのように思われてならない(「言葉が現れるとき」)」と言った飯島晴子や「線的要素が削りとられて点的な非連続になる(『省略の文学』)」という外山滋比古の指摘にも似るが、この世界という無限の余白──それは同時に非常に騒がしい余白ならざる余白でもある──のなかにぽつねんと浮かびあがるこの短詩のことを思えば、面の問題を考えることのほうが適切に思える。さらに言えば、外山滋比古はあくまで点を線の構成要素として次元間のヒエラルキーの世界から抜け出ていないので話は余計に異なる。ここで多くは触れないが、一句単位にしても連作の時と同じようにホトトギス的題詠、無季、季重なりなど面を示唆する議題は尽きないだろう。

 以前にかなり句数の多い連作を募集する賞の選考委員と話したことがある。その彼は、連作全体の統一感や詩的味わいはほとんど考慮に入れておらず、一句一句のクオリティばかりを見ていると言った。新人の登竜門でもある連作を募集する各賞の様子を見てもそのような状況がある。俳句連作は死んだのか。面が損なわれれば俳句自体における詩性の重要な部分も死んでいく。まさに連作を通して俳句形式自体に迫っていく必要がある。


引用文献

・岡田正三訳『プラトン全集 第2巻』、全国書房、1946

・山本太郎、大岡信ほか『わが愛する詩:わたしのアンソロジイ』、思潮社、1968

・松尾芭蕉『芭蕉俳句紀行全集』、緑蔭社、1927

・日野草城『俳句文学全集 第8(日野草城篇)』、第一書房、1937

・飯島晴子『俳句発見』、永田書房、1980

・外山滋比古『省略の文学』、中央公論社、1979


参考資料

資料一 吉野弘「I was born」全編


I was born

確か 英語を習い始めて間もない頃だ。

或る夏の宵。父と一緒に寺の境内を歩いてゆくと 青い夕靄の奥から浮き出るように 白い女がこちらへやってくる。物憂げに ゆっくりと。

女は身重らしかった。父に気兼ねをしながらも僕は女の腹から眼を離さなかった。頭を下にした胎児の 柔軟なうごめきを 腹のあたりに連想し それがやがて 世に生まれ出ることの不思議に打たれていた。

 女はゆき過ぎた。

少年の思いは飛躍しやすい。 その時 僕は<生まれる>ということが まさしく<受身>である訳を ふと諒解した。僕は興奮して父に話しかけた。

──やっぱり I was born なんだね──

父は怪訝そうに僕の顔をのぞきこんだ。僕は繰り返した。

── I was born さ。受身形だよ。正しく言うと人間は生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだね──

 そのとき どんな驚きで 父は息子の言葉を聞いたか。僕の表情が単に無邪気として父の顔にうつり得たか。それを察するには 僕はまだ余りに幼なかった。僕にとってこの事は文法上の単純な発見に過ぎなかったのだから。

 父は無言で暫く歩いた後 思いがけない話をした。

──蜉蝣という虫はね。生まれてから二、三日で死ぬんだそうだが それなら一体 何の為に世の中へ出てくるのかと そんな事がひどく気になった頃があってね──

 僕は父を見た。父は続けた。

──友人にその話をしたら 或日 これが蜉蝣の雌だといって拡大鏡で見せてくれた。説明によると 口は全く退化して食物を摂るに適しない。胃の腑を開いても 入っているのは空気ばかり。見ると その通りなんだ。ところが 卵だけは腹の中にぎっしり充満していて ほっそりした胸の方にまで及んでいる。それはまるで 目まぐるしく繰り返される生き死にの悲しみが 咽喉もとまで こみあげているように見えるのだ。つめたい 光りの粒々だったね。私が友人の方を振り向いて<卵>というと 彼も肯いて答えた。<せつなげだね>。そんなことがあってから間もなくのことだったんだよ。お母さんがお前を生み落としてすぐに死なれたのは──。

 父の話のそれからあとは もう覚えていない。ただひとつ痛みのように切なく 僕の脳裡に灼きついたものがあった。

──ほっそりした母の 胸の方まで 息苦しくふさいでいた白い僕の肉体──。


資料二 日野草城「ミヤコホテル」全編

ミヤコホテル


けふよりの妻(め)と来て泊(は)つる宵の春

夜半の春なほ処女(おとめ)なる妻と居りぬ

枕辺の春の灯は妻が消し

をみなとはかゝるものかも春の闇

薔薇にほふはじめての夜のしらみつつ

妻の額(ぬか)に春の曙はやかりき

麗らかな朝の焼麺麭(トースト)はづかしく

湯あがりの素顔したしく春の昼

永き日や相触れし手はふれしまゝ

失ひしものを憶へリ花曇


資料三 ヨハネス・フェルメール「真珠の耳飾りの少女」(図版省略)


【大学俳句会アンケート回答】➀俳句とは何なのか➁俳句で何をしたいか➂俳句に関して何を書きたいか

蒋草馬:➀俳句とは=幽霊。他と比較して=圧倒的抑制。俳句とどこで=高校。なぜ関心が=時間論的可能性を見込んでいるから。➁露悪的に言うのであれば思想しかしたくない。➂時間論とそこから延長される存在論、特に未来と平面について。



【筑紫磐井感想】

 冒頭は、「面」と「線」の難解な哲学論で始まるが、私は連作論の序論として読んだ。様々な連作方法論があるが、蒋は連作俳句にストーリーがあることを前提としているが、緻密な前段から連作に論理を展開するのは難しい。連作は、現象であり風俗まで含まれるからだ。膨大な連作からの実証が不可欠だ。特に連作論は自らの実作との照合が必要だ。

   *

 この論を読んだとき、ちょうど大塚凱の連作論を読んで興味深かった(「Noi」第5号特集「連作と一回性――句集『或』を巡って」・大塚論考「少し暇そうにしている君を連れ出したい」)。大塚凱の句集『或』が連作として読まれるべきだという(ちなみにこの句集は本年度の芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞している)。

 生れ落ちてゼリーを作る真顔かな 大塚凱

 僕ら残像白シャツを脱ぐ脱がす

 大塚の論考では、通説としての秋櫻子の「現代俳句論」を引き、誓子の大正15年6月号の雑詠巻頭作品(熊祭をテーマとしたもの)・秋櫻子の昭和3年1月号の次席作品(『葛飾』の「筑波山縁起」として構成)から連作を解き始めている。

 しかし大塚は通説から一気に新興俳句の連作へ議論を展開しているのではなく、誓子・秋櫻子の作品がホトトギスの雑詠に登場しているところから、雑詠の「連作的」作品をたどっている。これは極めて賢明な考察だ。

 大塚は例として島村元大正6年8月巻頭作品をあげ、島村の「連作的」作品の無造作な同時性や偶然性は秋櫻子・誓子の連作とは異なると述べ、秋櫻子・誓子の連作の性格を指摘する。これを踏まえ、秋櫻子・誓子から窓秋・草城への新興俳句の展開、天の川における独自な方向性をたどり、連作形式こそが新興俳句の熱源になったものと位置付ける。連作に至る例句が豊富に取り上げられ、的確な解説が施されている

 その上で、高屋窓秋、日野草城、西東三鬼、吉岡前禅師洞とたどり、新興俳句における連作の位置づけを確認している。この点、蒋の論よりは一見緻密な分析を進めているように見える。

 しかし、木村の論から本当に連作の本質が浮かび上がっているのだろうか。結果的には連作と新興俳句を結びつける性急さも感じた。

    *

 新興俳句の草城の連作を批判した中村草田男であるが、草田男自身も連作(群作)俳句を多くつくっていた。

「青露変」(「俳句研究」16年10月号)

花に露十字架に数珠煌と掛かり

汝等老いたり虹に頭上げぬ山羊なるか

 ちなみに、青露は茅舎の戒名だ。以後、「騎士」、「無絃の楽」、「影踏遊」、「保名」、「木賊刈」、「直侍」、「メランコリア」と多くの連作俳句を発表しているという。さて新興俳句の連作と草田男の連作はどのような違いがあったのだろうか。

     *

 連作俳句は戦前のものばかりではない。戦後生まれ世代も多くの連作俳句を作った。代表的作家は攝津幸彦である。「皇国前衛歌」(俳句研究49年2月)は戦後世代のこの連作俳句の金字塔となっている。

送る万歳死ぬる万歳夜も円舞曲(ワルツ)

幾千代も散るは美し明日は三越

南国に死して御恩のみなみかぜ

 「皇国前衛歌」には皇国と前衛の同居するアナクロニズムを感じるが、実は皇国は攝津の本職である広告に叶っている。戦争にプロパガンダは不可欠だ。この諧謔性は戦前の連作とは少し違うものがある。それにしても美しい。

 攝津の直接的影響と言えるかどうかは一概に言えないが、高柳重信は地霊を詠んだ『山海集』(51年)を経て、海軍の艦名を詠んだ『日本海軍』(54年)を刊行している。これも明らかに連作だ。

松島を/逃げる/重たい/鸚鵡かな

一夜/二夜と/三笠やさしき/魂しづめ

海彦も/畳を泳ぐ/嗚呼/高千穂

     *

かくいう私も作品はすべて連作句集だ。


➀『野干』平成元年(王朝俳句)

みちのくに恋ゆゑ細る瀧もがな

風薫る伊勢へまゐれとみことのり

➁『筑紫磐井集(花鳥諷詠)』15年(虚子一族)

もりソバのおつゆが足りぬ高濱家

俳諧はほとんどことばすこし虚子

➂『我が時代』26年(震災俳句)

酷く雪降る

明日のほかこそ未来

吾(あ)と無


こうした連作につながる系譜としてこの度読売文学賞を受賞した高山れおながいる。


➀『荒東雜詩』17年

麿、変?

お湯入れて5分の麿と死なないか?

➁『俳諧曾我』〈附録原発前衛歌〉24年

げんぱつ は おとな の あそび ぜんゑい も

しろく て ぷよぷよ えだのゆきを も たかやまれおな も

ざの ざこ の ぶんがく なのだ それ で いい のだ

➂『百題稽古』令和7年(堀河百首・永久百首題・六百番歌合)7年

懐旧:ふらここのあのこ消えにし桜かな

初恋:命とは白シャツに透く君なりき

別恋:君の眼が向かうに消えて冬の金魚


 連作を論ずるに当たってはこれらを視野に入れることも必要だ。戦後連作俳句の特色は、連作であっても戦前の悲壮な文学としての新興俳句と違って諧謔が強いことであろう。時として俳句を馬鹿にしているところがある。

     *

 ちなみに戦後の連作俳句と言えば、実は社会性俳句が真っ先に思い浮かぶのである。岸田稚魚「演習水域」、沢木欣一「能登塩田」、能村登四郎「合掌部落」、榎本冬一郎「尻無河畔」、鈴木六林男「吹田操車場」、藤田湘子「砂川にて」等が代表的作品である。いずれも膨大な作品の連作であるとはいえる。しかしここで気になるのは、すべて個別の「地名」がモチーフとなっていることではある。戦後の俳句雑誌を振り返ってみると、昭和20年代後半となり、俳句雑誌が続々と創刊・復刊し、大家が作品を精力的に発表し始めるとき、大作の旅吟作品を発表し始めることが流行する。少しく経済的に恵まれ、移動の制約が解き放たれ日本全国に旅行することが可能となり、大家たちの制作意欲を満たすためには旅吟がうってつけだったのである。そして大家たちの次には、中堅・若手作家にも大作を発表する機会が与えられることになった。そしてちょうどその時、昭和28年頃から社会性俳句、地方の基地闘争や貧困闘争をテーマとした社会性俳句が噴出するのである。

 だから社会性俳句は旅吟俳句の一種だったのである。これに対して、前に挙げた新興俳句や中村草田男の連作、そして戦後の攝津幸彦らの連作は具体的な地名を持たない観念的な俳句であった。つまり社会性俳句のリアリズムに対し、これら連作俳句は構成的・思想的であったのである。

 最後に連作俳句との違いを、震災俳句を例に取って考えてみたい(これも属地的である)。日本最初の震災俳句はホトトギス大正13年2月号に発表した永田青嵐(当時民選の東京市長であった)の「震災雑詠(34句)」であった。あれほど時事を詠むことを嫌った虚子であったが、青嵐にはこの大作を詠むことを許したのだ。つまり関東大震災のような壊滅的な社会的事件については、どんなに抑制しようと俳句は生まれざるを得ない。これは、戦後の阪神・淡路大震災、東日本大震災についても言うことができた。特に、東日本大震災については、長谷川櫂『震災句集』、角川春樹『白い戦場』、小原啄葉『黒い浪』、永瀬十悟『橋朧』、照井翠『龍宮』、高野ムツオ『萬の翅』、渡辺誠一郎『地祇』等が知られるが、しかしこれらは連作と呼ぶべきなのだろうか。社会性俳句と発想は極めて近いものがあると思われる。

     *

 連作は新興俳句の表現形式であるという思い込みから、連作の豊饒性を見逃すことは残念なことである。木村の論がせっかくの雑詠問題に触れながら結論が新興俳句に一瀉千里に進み始めるのに比べると、蒋が哲学的な総論に多くの頁を使い、膨大な連作俳句の世界への言及が進まなかったことは怪我の功名を成しているように思える。もちろん膨大な連作俳句との関係の整理がこれから必要であるが、蒋の「面の認識」は壮大な連作俳句論の第一章としてならば期待ができるのである。

 なお本論については、BLOGで連載を始めている「未来俳句宣言」と比較して読んで頂くとよいかもしれない。

 以上、本当は客観的な鑑賞を書くべきであったが、レポート冊子の総評で書いたように「実は、私が手を加えたい論文も多くあった。」の思いに駆られた評論も多くあった。本論などはその筆頭に上がるものだ(『WEP俳句年鑑2026』(2026年1月ウエップ刊)で「現代連作論の繚乱」として一部紹介した)。乱文ご容赦いただきたい。


2026年2月27日金曜日

【連載】攝津幸彦記念賞応募作品(全国学生俳句会合宿2025評論)2 横山航路

今村俊三『鳩の頸』の再評価——あるいは俳句的遺産の発掘について 横山航路(北大俳句)   

はじめに

 病むは罪か初蝶に手をさしのべぬ

 掲句は今村俊三の第一句集『鳩の頸』の巻頭二句目に掲載されている。病涯にあった作者の主情的な叫びが初蝶へ伸ばした手に仮託されている悲痛な句と解せる。

 いま俳句に取り組んでいる作家の中でも、今村俊三の名を聞いたことがある人はほとんどいないだろう。国立国会図書館の資料に限ると、その名は平成十二年四月の『角川』に見られるのが最後であり、もはや忘れられた俳人とも言える。しかしながら、十句集をすべて通読する中で、魅力的な俊三句に出会う機会も多く、忘れ去られた俳人のままにしておくのは俳句の共同体にとって損失があるのではないかと考えた。

 そのため本稿では、第一句集となる『鳩の頸』を取り上げながら、その境涯的作品群の表現上の巧みさと、俳句という詩型への信頼という二つの側面を中心に論を進めていく。

 

一、今村俊三の経歴

 俊三は昭和三年に大分市に生まれる。昭和十八年に右上葉浸潤、昭和二十一年には左肺上部空洞、左腎臓結核を併発し、その青春時代は闘病のさなかにあった。それは「青春は病臥に潰ゆ柿甘し」からも見て取れる。

 昭和二十五年に「学苑」(のちに「霜林」)へ参加し、俳句の出発点とするとともに、昭和二十八年の「鶴」復刊と同時に参加した。「霜林」の桂樟蹊子、「鶴」の石田波郷に師事しながら、昭和三十四年には「霜林」同人、翌年には「鶴」同人となっている。

 『鳩の頸』が刊行されたのは昭和三十六年八月であるため、昭和二十五年からの約十年間、その初期衝動が散りばめられた句集でもある。吉野裕之は自身のブログでこう評している。 

 「二十代でこの世を去るべき病床の肉体が、現代医学のおかげで、還暦まで生きのびて、…」と句文集『桃滴記』(昭和62年、桃滴舎)の後記で自ら記すように、この第一句集に収めた作品の制作時期の俊三の病状はそれほど重く、しかし、「若い魂を病ましめることなく、(略)短小十七字詩たる俳句に、傷痍の青春を賭け、日々の生命を刻みつけて」(石田波郷『鳩の頸』序)いた。天性の明るさが、それを支えていたのだと思う。(1、原文ママ)

 俊三自身も『鳩の頸』のあとがきに「私の十数年に及ぶ闘病生活も、明日が知れないとあっては、眼の開いているうちに句集を作ってあげようという皆さんのご援助を、時期尚早と断る理由もなく……(後略)」と記している。結果的に平成二年まで生きたとはいえ、その当時においてはこの句集が唯一の碑となってもおかしくないという切実さが、強く句集を印象付けている。

 

二、『鳩の頸』の特徴

 本句集を方向づけるキーワードとして、「病涯」と「青春」を欠かすことはできない。句集全体が十一章に章立てされている中で、その始まりは昭和二十六年頃の入院・手術の日々を題材にした「無影燈」という章である。

 

 短夜を母に水乞ふとめどなし

 昼夜なく汗の拳を投げて耐ふ

 稲妻の硬き翼を握れる死

 鵙われを謗りつゞけて雨となりぬ

 

 こうした「短夜」「昼夜なく」の句における身体性と切迫感の表出、「稲妻」「鵙」の句における景の大きさと把握の巧みさ。痛ましい病涯詠を読者が受け止めやすい形に保っているのは、小さな技術の重なりの賜物であろう。

 しかし、病状の悪化により再入院を余儀なくされていた昭和三十三年の「波濤」の時代にはすこし変化が見られる。

 

 シクラメン医語の端々盗み臥す

 日傘まだ冷めざる母を帰しけり

 神想ふべし円錐の蚊帳の底

 湾あくびして白鷲を漂はす

 

 句群を通して無影燈時代のような切迫さではなく、日常の小さな出来事に対する客観的な眼差しに主眼を置いた句が増える。だが、「日傘まだ」の「まだ」の挿れ方、「神想ふ」「湾あくび」の把握には無影燈時代からの進展が窺える。

 また、青春という観点では、石田波郷がこう評している。

 

 苺つぶす若さ次第にあはれなり

 青春は病臥に潰ゆ柿甘し

 胡桃割るどこも傷つく木のベッド

 この期間に作者を苦しめたのは病苦の他には、自身の青春の意識だったにちがひない。「苺」「青春」の句は文字通りに自らの虐げられ失はれゆく青春を嘆いた句だが「胡桃割る」の句は、直接青春の文字はないが、作者自身が「どこも傷つく木のベッド」として把握されてゐることを見逃してはならないのである。闘病生活といふ現実を詠出しようといふ念願と、作者の内部にある浪漫性が希求するものとが、混然と同居し、……(後略) (2)

 波郷が引いた三句はいずれも俊三の苦しみの発露として受け取れる。「青春は病臥に潰ゆ」は嘘偽りのない俊三自身の魂の叫びだが、それを「柿甘し」の一筋の明るさが支えている。

 他にも、句集の後半にある「茶色の瞳」という章では、恋愛体験を主題とした連作形式を採っている。

 

 ロケ来ると五月のベッド揺り誘ふ

 海吠えて晩夏傷つきやすき愛

 雪晴に愛がすべての茶色の()

 

 この中でも「海吠えて」の句は主情的な叫びの強い句だが、海に「吠える」の動詞を斡旋する把握、「傷つきやすき愛」のフレーズの象徴性、季語としての晩夏を一句のこの位置に挿し込むことの韻律構成が連作内でも群を抜いている。

 

三、俊三の「信頼と覚悟」

 吉野裕之は俊三の第七句集となる『翼』を念頭に置きながら、「この作品に限らず、俊三の作品を支えているのは、俳句という詩型への信頼と俳句に対する覚悟ではないか、ということにあらためて気づきました。」と述べている(3)。この、「俳句という詩型への信頼と俳句に対する覚悟」というのは何であろうか。

 詩型への信頼は、句材の豊かさと規定の強引さの両面から説明できるだろう。

 林樟蹊子は『鳩の頸』の跋文でこう評している。

   

……(前略)俊三さんが、自分の狭い拾材範囲の中を、いかに刻銘に見すえているかということを知ることが出来るが、さらに、

  胡桃割るどこも傷つく木のベッド

  倖か眼鏡に凍てし星の数

  仮に置く七夕竹が書架隠す

  画鋲ひとつ落ちし壁の絵四月馬鹿

  東風や喪の消毒液を波立たす

 俳句になる題材はいくらでも我々の周囲にあるのであり、もつとそこに詩情を掘下げなければならないことを、これらの句から教えられる。 (4)

 

 また、吉野裕之は第五句集となる『立歩』を踏まえた上で、

「立春の二日後屑屋来てゐたり」「墓地ありて奥に暮春の寺ふたつ」「裏に車庫ありて年逝く耳鼻医院」「白魚を食べたる宵の火事近し」。普通はこのような拾い方をしないのではないだろうか。「立春の二日後」「墓地ありて奥に」「裏に車庫ありて」「白魚を食べたる宵」。こうした規定のしかたに、ある強引さとしたたかさがある。俊三の俳句に対する姿勢のひとつの断面である。 (5)

と指摘している。

 両者が評するように、俳句という詩型の豊かさを信頼し、その懐の深さというものに身を委ねていればこそ、「白魚を食べたる宵」という一見あやうい規定の仕方・一句の立ち上げ方が可能になるのだという観点が、俊三俳句を見つめる上では重要になるのではないか。

 それと同時に、俳句という詩型に対して俊三は韻律という形で応えていると言える。たとえば「万愚節飲食をけふ地下街に」(『翼』所収)「化石この億年の黙蕗の薹」(『摘花集』所収)などの句では、「けふ」や「この」が意味からの要請ではなく韻律面からの要請として挿し込まれている。前出の「海吠えて晩夏傷つきやすき愛」の「晩夏」も季語としてのイメージ喚起だけではなく、韻律を形作る意味合いが強く出ている。俊三は師・波郷から韻律への強い意識を継承した上で、独自に昇華させたとも言えるだろう。

> また、石塚友二は『鳩の頸』について、「〝地蟲出づ病者はおのが影に佇ち〟から始まって、巻尾の一句に至るまでの悉くが病床句、若くは闘病句でありながら、その病状の最悪を思はせる折節の句に於ても、不思議に底明るい一筋の光の如きものを感じさせたのは、疑ひもなくその巌にも似た性根の据えから来たものであったのだと思はれる」と評している。(6)

 俊三の生まれ持った向日性は「ベッド逆さに寝て母待てば涼しかり」「聖夜とて猫に臥食の汁頒つ」などからも垣間見ることができる。俊三は、俳句という詩型の懐の深さを信頼し、韻律を以て応え、天性の明るさを以て病涯を詠み抜いた、と評することもできよう。

 

四、まとめ

 これまで『鳩の頸』における「病涯」「青春」と俊三俳句に通底する「詩型への信頼」「俳句に対する覚悟」というトピックに注目しながら論を進めてきた。その上で、青春期を病とともに過ごした俊三にとって、韻律や構成の巧みさと生まれ持った明るさとの両輪が、その境涯を謳い上げるための支えとして機能しており、その発露として『鳩の頸』の句群と向き合う必要があるのではないか、との結論に至った。

 俊三は『鳩の頸』以降「どの屋根も鳩待つごとし花芙蓉」(『家』)、「息かよひ飽かぬわが身ぞ終戦日」(『翼』)などを経て、「白木槿いのちは息にほかならず」(『摘花集』)の境地に至っている。これらの句に触れるたびに生への明るい肯定を思う。そして、それを可能にしているのは「俳句という詩型への信頼と俳句に対する覚悟」であるだろうし、その信頼と覚悟について考えることはすなわち俳句という詩型そのものを問い直すことにも繋がるだろう。そうした意味で、俊三を今読むことに少なからぬ意義があるだろう、と私は考えている。

 本稿では俊三を取り上げたが、魅力的な句を残しながら俳句史上に埋もれてしまった俳人は決して俊三だけではないだろう。そうした“忘れられた俳人”の遺構を掘り起こし、正当な日の下にさらすこともまた、今の俳人に求められる仕事のひとつなのではないだろうか。

 

参考文献 カッコ内は引用部

今村俊三『鳩の頸』S36,竹頭社 (2)(4)

今村俊三『家』S47,福岡鶴俳句会 (6)

今村俊三『翼』S53,桃滴舎

今村俊三『摘花集』S63,桃滴舎

吉野裕之『今村俊三作品選』 (1)(5)

吉野裕之『Madein Y』  (3)

 

【大学俳句会アンケート回答】➀俳句とは何なのか➁俳句で何をしたいか➂俳句に関して何を書きたいか、

横山航路 「➀俳句とは何なのか:俳句甲子園をきっかけとして作句開始。日常を能動的に生きる一環として創作活動、特に短詩に傾注。➁俳句で何をしたいか:200年生きる。関心は今村俊三、林田紀音夫。➂俳句に関して何を書きたいか:俳句的遺産の発展。」

 

【筑紫磐井感想】

 メジャーでない俳人は引き出したのはよいことである。今村を選んだ理由が聞きたいと思ったが、この論ではそうした個人的事情は伺えなかった。ただ、横山の論が『鳩の頸』を中心に考察した為に、今村の生涯に及んでいないこと、またそのために今村の全生涯の俳句に対する評価が抜けていることーーそれは結局『鳩の頸』の評価にも微妙な影響を与えることとなると思われるのである。

 例えば今村の略歴を見ると、昭和3年生れ。28年鶴参加。35年鶴同人。44年波郷死亡。54年「桃滴舎」創刊、協会・鶴同人辞退。H2没(62歳)となる。句集は『鳩の頸』36年、『家』47年、『蟹曼荼羅』47年、『冬の樫』48年、『立歩』50年、『至順』50年、『翼』53年、『樫のほとりに』54年、『摘花集』63年、『深養集』令和3年、エッセイ集は『桃滴コラム』58年、『桃滴記』63年、『桃滴日録』令和4年。

> これを見ると、今村の全活動は俳句と身辺エッセイとなる。特に後半生は俳句より文章に傾いている。今村の全存在を見ると、後半生は散文へのシフトが大きく、論者の考察も晩年の句集及びエッセイ集まで広げると厚みのある研究となったと思うのである。

 これを考えると、協会・鶴同人を辞退し、「桃滴舎」を創刊することに重い意味を感じる。波郷一辺倒であった今村が協会のみならず鶴同人を辞退したことは誠に衝撃的である。なぜ波郷との縁を切ったのか。最晩年の「桃滴舎」9月号の巻頭鑑賞で、俳句は境涯を詠うことだ、波郷はそれが俳句の基本だと教えてくれたと述べているのは今村らしいと思う一方、これほど波郷に忠実だった今村にしてなぜ「鶴」から離れたのかが不思議に思われるのである。

 さてこの新しく得た場である「桃滴舎」は今村と同人の文章を多く発表する場でもあった。そして前半生が句集を中心とする時代とすれば、「桃滴舎」以降は俳句とエッセイを同時発表する時代に移り変わる。文章とは俳句の補完であった。俳句とは物言えぬ文学であることを実感し始めたのではないか。「桃滴舎」の新しく得たこの場で今村は境涯を詠う(語る)ことを始めている。

 私の個人的経験から言うと、「鶴」の出身が多かった「沖」では、今村俊三ファンも多かった。その中で、「鶴」の元同人であった久保田博は今村の親しい友人であり結社外の注目作家として今村を取り上げている。実は「桃滴舎」以降の時代に今村を論じた作家論は珍しい。それくらい中央俳壇から忘れられていた今村であった。その中で特に注目するのは、久保田が、第1句集『鳩の頸』の「俳句の凝縮」から第2句集『家』で「散文精神」に移動していると指摘している点である。私が、今村の後半生では、俳句だけではなく文章の比重が高まり、今村の全存在は俳句+身辺エッセイとなったのではないかと言った点と重なり合うように思う。俳句とは物言えぬ文学であるとの自覚が出たのではないかと思う。(「鶴」には、波郷、麦丘人ほか散文の名手も多かった)

 最後に付言であるが、今村俳句はこうした特質を分析すると、現在話題となっているAI俳句に最も対峙する作家となっており、現代性のある研究となったと思う。

2026年2月13日金曜日

【連載】攝津幸彦記念賞応募作品(全国学生俳句会合宿2025評論)1

(解説)攝津幸彦記念賞(第11回)の募集

(1)「豈」における例年の攝津幸彦記念賞は本年(第11回)は評論賞の募集を行うこととした。募集に当たっては、全国学生俳句会(合宿二〇二五)で提供された評論を応募作に加えて、その他にいつもの通り募集も行った(募集はメールによることとし ani-writing@e-primex.co.jp で受け付ける。詳細は「豈」68号138頁)

(2)対象は、特に若い世代の評論家を発掘することを目的とし、新作の評論のほか、既に他の媒体で発表した評論、まだ未完のダイジェストも含めて対象とすることとした。この他に通常評論賞では扱われない「宣言」も含めることとした。

(3)締め切りまでに提出された応募作を逐次BLOG俳句新空間で紹介しつつ、予備選考を加え評論奨励賞を最終決定することとする。

 以下今回から応募作品(全国学生俳句会合宿2025評論)を紹介する[コールサック124号120~123頁で概要が紹介されている](原稿はたて書であるが、BLOG記事に併せて横書きとした)。


************************

 文人俳句の俳諧性―紅葉・鏡花を中心に―/辻村栗栖(東大俳句会)


序論


  浮世の月見過ごしにけり末二年  井原西鶴

  死なば秋露のひぬ間ぞ面白き   尾崎紅葉

  露草や赤のまんまもなつかしき  泉鏡花

 

 それぞれの辞世の句である。日本文学を語る上で欠かせない作家は数多くいるが、その中でも特に外しがたいこの三人には強い関係性がある。即ち、泉鏡花は尾崎紅葉に強く影響を受け、尾崎紅葉は井原西鶴に強く影響を受けているという縦のつながりである。確かに前掲の三句を解釈してみると、全て秋の句であることは偶然であろうが、鏡花の「なつかしき」は紅葉の「面白き」と、紅葉のからりとした死への書きぶりと西鶴の一歩引いたようなまなざしはそれぞれ類似が指摘できよう。

 さて、井原西鶴は、近世前期に現在の大阪で活躍した俳諧師、浮世草子作家、人形浄瑠璃作家である。矢数俳諧を行ったことや『好色一代男』『日本永代蔵』などを著したことで有名で、芭蕉以前の江戸時代の俳諧の代表的人物でもある。

 本稿では、この西鶴の俳諧に注目し、そこから西鶴の思想や技術などを抽出する。その上で、近現代の作家のうち最も西鶴の影響を強く受けていると言える尾崎紅葉とその弟子の泉鏡花の俳句にどのような西鶴の精神が受け継がれているのか考察した後、現代において文人俳句を読む意義を求める。


二、西鶴の精神

二―一 西鶴の理解へ向けて

 西鶴の思想や技術を理解するためには、まず西鶴が生きていた時代の歴史的背景とその時代の文壇について理解する必要がある。

 序章でも軽く述べたが、西鶴は寛永十九年(一六四二年)に生まれ、元禄六年(一六九三年)に没した。一般的な歴史理解で言えば、この時代は三代将軍家光の元で鎖国と参勤交代が既に確立した後であり、それに伴って町人文化が花開いたころである。同時代人には池田光政や新井白石などの戦乱が終わった世間で政治的手腕を発揮した人物がいる一方で、由井正雪の乱や明暦の大火などの人々を揺るがせる混乱も発生していた。

 そういった中において、町人文化に付随して文学も隆盛し、そのテーマとして政治や混乱などへの揶揄が用いられることも時折あった。その代表格が諧謔を主題とする俳諧である。そもそも「俳諧」の語源が「俳優の諧謔」、即ち人気な人や物を滑稽に詠むことにあることからも、その解釈が可能である。あくまでも俳諧における諧謔とは、和歌や連歌で用いられてきた言葉同士のイメージの連鎖を切ることであったり、新しく縁語を生み出したりすることであると言われているが、これもある種人気なものを滑稽に扱っていると表すことができるだろう。

 さて、しかしその俳諧にも様々な論理があった。芭蕉以前の主な派閥として挙げられるのは、松永貞徳を中心とした貞門派と西山宗因を中心とした談林派の二つである。この違いについて詳述することはしないが、西鶴はクリシェとも表せる和歌や連歌の予定調和を貞門派よりもさらに裏切ろうとして発展した一派である談林派に属していた。

 その宗因は次のような句を残している。

  

お閑かに御坐れいまだ残んの雪

きつたり此つゝけりかな蘭秀る花


 〈お閑かに〉の句は談林俳諧に見られる大胆な破調の句である。即吟句であると伝わる。また、〈きつたり〉の句は、き・つ・たり・つつ・けり・かな・らんの七つの助動詞を詠みこんでいる。

 貞門派が和歌から引き継いだ縁語や掛詞などの技法をまだ用いていたのに対し、その自縛を解いて発展したのが談林風と呼ばれる談林派の特徴である。これが右の二句にも表れている。


二―二 俳諧師西鶴

 序章でも述べたとおり、俳諧師としての西鶴の最も知られた業績として矢数俳諧が挙げられる。一晩で二万句以上詠んだとされるが、その具体的な句数の信憑性はそこまで高いものではない。しかし一方である程度多い数の句を詠んだのは事実であるとされており、これについて加藤楸邨は談林風の流れと絡めて次のように述べる。


 貞門に於けるかかる詞の制限をとり去ったものが、談林の自由性であった。商人の伸びる力のあらわれとしての町人性が俳諧に於て徹底し、心に於ても自由となろうとするのが談林性であり、町人の社会の題材の上を、町人的な見方で伸びて行ったのが談林俳諧であった。西鶴に於てあらわれた談林性もこういう町人性、こういう自由性であり、これが西鶴の対他的優越意識と結びついたところに矢数俳諧があらわれたものであると思う。


 楸邨は談林風を構成する要素を「町人性」「自由性」であるとした上で、その表れが矢数俳諧であるとする。また、当時矢数俳諧を行っていたのは西鶴だけではなく、むしろ西鶴の句数を超える者も数人かいたという。それらに対抗して西鶴が二万句以上作ったとすると、西鶴には「対他的優越意識」があったのではないか、というのが楸邨の意見である。

 このような西鶴のスタンスは「阿蘭陀西鶴」とも呼ばれ、周囲とは一線を画していた。


 三、文人俳句

 三―一 尾崎紅葉

 近現代の作家で、最も西鶴の影響を受けていると言われているのは尾崎紅葉である。国文学者の安藤宏は紅葉の『伽羅枕』と西鶴の『好色一代女』の冒頭部分を比較した上で次のように述べる。


 文章のリズムも含め、かなり意識的な模倣であることがわかる。(中略)紅葉を貫いていたのは徹底した美文意識で、筋立ての妙と文章の技巧によって登場人物の「情」を照らし出していくことをめざす彼らの小説観は、近代人の日常的な内面心理をえぐっていくことをめざした二葉亭四迷のそれにまさに逆行するものであった。


 つまり、明治期の文壇の流れとしてあった二葉亭四迷にはじまる言文一致の運動の揺り戻しとも言うべきこの「西鶴復興」に最も寄与したのが尾崎紅葉なのである。

 紅葉が西鶴に影響を受けたのは小説だけでない。この時代の文豪は教養として俳句を作ることも多く、紅葉もその例に漏れない。現代俳句は、そのほとんどが正岡子規や高浜虚子から始まるホトトギスにその源流を持つが、明治期にはホトトギス以外の一派として文豪の俳句があったのである。詩人の大岡信は次のように述べる。


 僕は、正岡子規がいる一方で尾崎紅葉がいると思う。尾崎紅葉の俳句というのは、今日ほとんどまったく知られていない、といってもいい。『尾崎紅葉全集』の編集に関わった関係で、紅葉の俳諧ならびに紅葉の短詩型文学とその理論を並べた巻に携わりました。その結果、正岡子規の側から近代俳句を見るだけでは、事態の一方しか言っていないことになると感じたのです。


 もっとも、やはり本業でなく俳句を作る潮流は絶えやすく、現代俳壇において紅葉の系譜を自称する俳人は皆無といってもよい。

 具体的に紅葉の俳句を読むと、次のような句に西鶴らしさを感じることができる。


天渺々海漫々ひよつこり一ツ松漁船

稲妻や二尺三寸そりやこそぬいた


 それぞれ談林俳諧の気配を感じることができる。「天渺々海漫々」の句はその破調に西山宗因の作風を感じることができる。俳人の小澤實は、この句を「最初に『天渺々海漫々』と漢語を連ねるが、『中にひよつくり』と途中で俗語に転調する」(小澤、二〇二五)ところに西鶴よりの俳諧の流れを見出している。また、「稲妻や」の句は高山れおなの解説によると硯友社という文芸サークルの場で言語遊戯的に作られた句であるとしていて、これも談林俳諧の即吟の精神を受け継いでいる。

 また、絶筆の句とされる〈寒詣翔るちん〳〵千鳥かな〉の句も、岸本尚毅によれば「『ちん〳〵』は千鳥の声の形容ですが、男女の深い仲も意味し」、直接岸本は述べていないものの、掛詞を用いながら男女の深い仲という卑俗なところを詠んでいるさまに俳諧らしさを感じることができる。

 このように、尾崎紅葉は従来言われてきたように西鶴の影響を色濃く受けているが、それは小説だけに留まるものではなく、俳句にも通じていたのである。

※「ちん〳〵」はくりかえしで「ちんちん」


三―二 泉鏡花

 泉鏡花は尾崎紅葉と師弟関係にあった文人で、句作も行っていた。鏡花が紅葉から受けた影響はとても大きく、文体等において多くの指摘がなされている。しかし、鏡花自身が近世の蕉門俳諧などから直接受けた影響に関する研究はいくつか見受けられるものの、鏡花が紅葉を通して西鶴から受けた影響について書かれた文献はほとんどないと言ってよい。また、そもそも鏡花の俳句について書かれた書籍や先行研究は、秋山稔編の『泉鏡花俳句集』と前述の岸本尚毅による『文豪と俳句』のみと言ってよいほど少なく、今後の研究が俟たれる。

 さて、泉鏡花の句風の特徴として秋山は「①『色彩の配合』を多用し、『理想美とロマン』を追究した『華やかな句』、②『写生に抒情・感傷をこめたやさしい艶のある句』であり、③『芭蕉・蕪村その他の古句』の影響、④『小説の延長』とみられる句」と述べている。今回着目したいのは③である。なぜ鏡花が紅葉を通して西鶴から受けた影響について論じられてきていないかと言えば、仮に鏡花に俳諧の影響を感じる句があったとして、それが鏡花自身が芭蕉・蕪村から受け継いだものなのか、紅葉越しに西鶴から受け継いだものなのか判別することが難しいからであると考えられる。しかし本稿では既に談林俳諧の特徴と、さらにその中における西鶴俳諧の特徴について明らかにしており、これを用いることで鏡花の俳諧様の句について判別することができると考える。

 

礫打ツへく打破ルへく胡桃に石の手頃なる

とうからしあいつからさが過ぎるてな


 いずれも『泉鏡花俳句集』より。このように、破調と即吟性といった談林俳諧の作り方を想起させながら、口調の砕け方や内容に「町人性」を感じる句が鏡花には時折みられる。もっとも、この作り方が鏡花のメインではないことは確かであり、西鶴の影響を受けた紅葉の影響をさらに受けた鏡花俳句にとっては、既に西鶴要素がかなり薄れていることを示唆している。


四、結論

 本稿では、談林俳諧とその中の西鶴の位置や作風を確認したのちに、近現代において西鶴の影響を受けている作家である尾崎紅葉とその門下の泉鏡花の俳句を西鶴の俳諧と比較し、その影響の度合いについて考察した。談林俳諧の特徴は和歌や連歌のクリシェから脱出しようとしたことにあり、その手段として破調や即吟、雅俗の接続が用いられることがあった。その中でも西鶴は対他的優越意識を持ちながらも町人性、自由性を忘れずに当時の俳壇で大きな存在感を放っていたことがわかっている。

 そして、紅葉はそういった西鶴を再発見し、その写生法などを学びながら自らの俳句にも談林風を取り込んだ。しかし鏡花にまで至ると、西鶴の影響は薄まり、わずかに数句談林風の俳句が見られるだけになった。

 このように、子規の系譜に属さない文人の俳句は、近世の俳諧の特質を独自に受け継いでいるケースがある。現代において子規や虚子などの伝統からの解放を訴えるならば、その枠組みの外側に位置していた文人の俳句を読み直すことも重要なのではないだろうか。


【大学俳句会アンケート回答】➀俳句とは何なのか➁俳句で何をしたいか➂俳句に関して何を書きたいか、

辻村栗栖 「➀俳句とは何なのか:日常の過ぎ去って行く目の前の景色を書き留めたい。➁俳句で何をしたいか:馬酔木の作家に興味がある。かなり血は薄いが馬酔木の作家の系譜に連なる作家としてどのように新興俳句が発展して現代の俳壇で覇権を握ったのか調べたい。➂俳句に関して何を書きたいか:俳句史、特に戦後。もしくは江戸俳諧について。」


【筑紫磐井感想】

 子規、虚子が中心となっている現代俳句の系譜の中で、紅葉・鏡花らを取り上げたのは見識である。ただ、論者は二人を、西鶴の系譜ととらえているがこれは小説であってはそうかもしれないが、俳句にあってはどうだろうか。

 さてこの論では、岸本尚毅『文豪と俳句』、高山れおな『尾崎紅葉の100句』、小澤實共著『近現代詩歌』を使っているが、単著としては高山が圧巻である。高山は『尾崎紅葉の100句』以後、「『尾崎紅葉の100句』補遺」「翻車魚」第6号(2021年11月号)に掲載(『尾崎紅葉の100句』刊行以前に補遺が出るのもすごい)、さらに雑誌「オリジナリ」に「はれのち句もり」と題して紅葉・鏡花のみならず、巌谷小波、徳田秋声、江見水蔭、川上眉山、小栗風葉、柳川春葉の紅葉の門葉、太田南岳、谷活東、石倉翆葉らの晩年の弟子、星野麦人、角田竹冷らの周辺作家を取り上げており、いわば「紅葉山脈」の鳥観図を示している。これを見ると確かに子規一派に対し紅葉一派は見劣りするようだし、紅葉一派が何をめざしたかは子規一派程明確ではないようである。『尾崎紅葉の100句』で示されたように、直線志向の子規と違って得体のしれない紅葉の俳句を知るには、周辺まで視野を広げることは意味があるかもしれない。

 紅葉・鏡花の批評で興味深いのは、この中に三島由紀夫が出てくるのだが、それは、中央公論社『日本の文学』で紅葉・鏡花の巻の解説をしているからだという。力作だそうである。紅葉については、その他の評者として日夏耿之介(意外である!)、荻原井泉水、島田青峰、村山古郷の名も挙がっている。せっかく紅葉・鏡花を取り上げたのだからこれらを踏まえて現代最高峰の紅葉・鏡花論を書いてみてはどうか。俳人で紅葉・鏡花を研究する人は極めてまれだからこれは決して夢ではない。

 この論でもう一つの山となっている西鶴の影響であるが、通説での小説における西鶴の影響は間違いないであろうが、俳諧についての影響はあまり論じている人がいない。現代俳人では、高橋睦郎が紅葉は西鶴の談林でなく、其角の江戸座に近いと言っているのは銘記してよい。高山も同感している。論者独自の論があってもいいが一応参考にしておくべきだろう。

 参考までに、明治時代の子規の日本派の有力なライバルであった紅葉派・秋声会が以後忘れられてゆく過程には、高濱虚子のキャンペーンの影響があったようである。ホトトギスで虚子による「読本中にある俳句」(大正9年1月~大正12年10月)があり、その教科書俳句批判の中でホトトギス以外の俳句を排除された結果と見てよいかもしれない。

      *

 以上、私が論者を批判できるほど深い見識を持っているわけではないが、私が気づいた紅葉・鏡花論の周辺を掲げてみた。これらを批判できればほぼ完璧な紅葉・鏡花論が完成するだろう。感想と題した理由である。

2023年11月24日金曜日

【告知】豈66号刊!

●第8回攝津幸彦記念賞

准賞 「藍をくる」         斎藤 秀雄

   「むやみにひらく」         川崎 果連

選評 なつはづき・羽村美和子・大井恒行・筑紫磐井


●特集Ⅰ・救仁郷由美子全句集 

救仁郷由美子全句集 

解説・救仁郷由美子全句集       筑紫磐井


●特集Ⅱ・私の雑誌

『We』はうぃ。っと楽しもう。     加藤知子

「頂点」59年の終焉録          川名つぎお

「川柳スパイラル」の現在        小池正博

生存報告系個人誌「九重」の真実     佐藤りえ

書き続ける装置としての「俳句新空間」  佐藤りえ

「五七五」という場           高橋修宏

「ペガサス」多様な個性と俳句観に導かれ 羽村美和子

川柳誌「晴」ピーカンの日に       樋口由紀子

小さい句誌の小さい歴史         干場達矢

「しょっちゅう躓いている」       森須 蘭

紫ものがたり              山崎十生

わが「山河」のルーツとその変遷     山本敏倖

「奄美の俳句を考える」         大橋愛由等


●句集・俳書評

寺山修司来るー藤原龍一郎『寺山修司の百首』      樋口由紀子 

語り部としての一脈を担うー川名つぎお『焉』      山本敏倖 

託宣のごとく、宣戦布告のごとくー井口時男『その前夜』 江里昭彦 

学び敬い語り継ぐ一書―池田澄子『三橋敏雄の百句』   太田かほり 

カーテンコールは金銀砂子―秦夕美『雲』        佐藤りえ 

The Sleep of Reason Produces Monsters―小池正博『海亀のテント』  中山奈々 

諧謔の花―佐藤りえ『良い闇や』            岡田幸生 


●第64号作品評他

領域の自由              羽村美和子

詩は何処から生まれるのか       野木まりお 

特別寄稿 脳幹は全能の神もがり笛   わたなべ柊


●作品 55名


************************

募集! 第9回攝津幸彦記念賞


●内容

 未発表作品30句(川柳・自由律・多行句も可)

●締め切り 令和6年5月末日

●書式

応募は郵便に限り、封筒に「攝津幸彦記念賞応募」と記し、原稿(A4原稿用紙)には氏名・年齢・住所・電話番号を明記してください(原稿は返却しません)。

●選考委員 未定

●発表 「豈」67号

●送付先

〒183-0052 府中市新町2-9-40 大井恒行宛


2023年6月9日金曜日

【報告】第8回攝津幸彦記念賞 選考委員決まる ――大井恒行・筑紫磐井・なつはづき・羽村美和子

第8回攝津幸彦記念賞

●内容

未発表作品30句(川柳・自由律・多行句も可)


●締め切り 令和5年5月末日(水) ※ーー〆切済 有難うございました


●書式  応募は郵便に限り、封筒に「攝津幸彦記念賞応募」と記し、原稿(A4原稿用紙)には氏名・年齢・住所・電話番号を明記してください(原稿は返却しません)。


●選考委員 大井恒行・筑紫磐井・なつはづき・羽村美和子


●発表 「豈」66号


●送付先  〒 183-0052 府中市新町 2−9− 40 大井恒行 宛

2023年1月20日金曜日

【募集】第8回攝津幸彦記念賞(5月13日改定:選者名公表)

 

●内容

未発表作品30句(川柳・自由律・多行句も可)

●締め切り 令和5年5月末日(水)

●書式  応募は郵便に限り、封筒に「攝津幸彦記念賞応募」と記し、原稿(A4原稿用紙)には氏名・年齢・住所・電話番号を明記してください(原稿は返却しません)。

●選考委員 大井恒行・筑紫磐井・なつはづき・羽村美和子

●発表 「豈」66号

●送付先  〒 183-0052 府中市新町 2−9− 40 大井恒行 宛


2019年9月27日金曜日

【速報】第5回攝津幸彦記念賞応募選考結果

◆第5回攝津幸彦記念賞◆

   選考委員 池田澄子 高山れおな 筑紫磐井


正賞 打田峨者ん「我が命名罪」

準賞 なつはづき「ぴったりの箱」
   佐藤りえ「リクビダートル」の2名


受賞者と受賞作品は「豈」62号で発表されます。


2017年12月8日金曜日

【速報】第4回攝津幸彦記念賞発表!     筑紫磐井



 「豈」60号が刊行されて、第4回攝津幸彦記念賞(選考委員:池田澄子・大井恒行・筑紫磐井)が公表された。
 作品は、次号「豈」61号に発表される予定。

◆第4回攝津幸彦記念賞◆

 37編の応募作品より決定。
   選考委員 池田澄子 大井怛行 筑紫磐井

最優秀賞 なし

優秀賞(五十音順)
 打田峨者ん「余白に献ず」
 亀山鯖男「猿と牛」
 久坂夕爾「山椒魚内閣」
 倉阪鬼一郎「諸国集」
 嵯峨根鈴子「ノン」
 田沼泰彦「あなたがここにいてほしい」
 中嶋憲武「旋律」
 山本敏倖「被写界深度」

若手推薦賞
 佐藤りえ「七人の妹たち」
 椿屋実梛「待っている」
 牟礼鯨「くひちがふ雲」

2016年12月9日金曜日

【募集‼】 第4回攝津幸彦記念賞



過去3回にわたって公募した攝津幸彦賞を、篤志家の支援により、また、攝津幸彦没後21年、生誕70年を記念し、第4回攝津幸彦記念賞として募集することにしました。

正賞一作品を選考いたします。奮ってご応募下さい。





・内容  未発表作品30句(川柳・自由律・多行も可)


・締切  平成29年5月末日

・応募  応募は郵便に限り、封筒に「攝津幸彦記念賞応募」と記し、原稿(A4原稿用紙)には、氏名、年齢、住所、電話番号を明記。(原稿の返却はしません)。



・選考委員  池田澄子 大井恒行 筑紫磐井


・発表掲載 「豈」及び「俳句新空間」 

・送り先 183-0052 東京都府中市新町2-9-40 大井恒行 宛


池田澄子


大井恒行



筑紫磐井






(参考)
●第1回攝津幸彦記念賞(攝津幸彦論)受賞作  ※評論枠のみ募集
関悦史「幸彦的主体」
神野紗希「諧謔のエロス―真昼の帝国―」
野口裕「ふるさとの訛なくした攝津はん 珈琲ええ味出とるんやけど」 

●第2回攝津幸彦記念賞受賞作発表 》読む ※作品・評論の両枠を募集。
(選考委員: 池田澄子、筑紫磐井、高山れおな
作品
 正賞:花尻万博 準賞:小津夜景、鈴木瑞恵
 佳作:佐藤成之、しなだしん望月士郎山田露結夏木 久山本敏倖
評論   受賞該当作なし

※関連記事 (第2回攝津幸彦記念賞――3つから /筑紫磐井)》読む

●第3回攝津幸彦記念賞受賞作発表  》読む
(選考委員:関悦史、筑紫磐井、大井恒行

・攝津幸彦賞(関悦史選)  生駒大祐「甍」
・筑紫磐井奨励賞   生駒大祐「甍」
・大井恒行奨励賞  夏木久「呟き(Twitter)クロニクル」
●佳作8編
赤野四羽「王土」,打田峨者ん「直線距離」 ,北川美美「熊の眼」 ,嵯峨根鈴子「ラストシーン」,佐藤成之「返信」 ,曽根毅「西国名所図会」 ,小鳥遊栄樹「オルゴールから歯車零れ」,山本敏倖「ボク」 

 第3回の全受賞作は豈59号に掲載中。



2016年1月8日金曜日

【第三回攝津幸彦記念賞】 各賞発表   プレスリリース


29編の応募作品より、下記の作品を豈創刊35周年記念第3回攝津幸彦記念賞受賞作品として決定しました。

  • 攝津幸彦賞(関悦史  生駒大祐「甍」
  • 筑紫磐井奨励賞   生駒大祐「甍」
  • 大井恒行奨励賞  夏木久「呟き(Twitter)クロニクル」



  • 佳作8編

赤野四羽「王土」
打田峨者ん「直線距離」 
北川美美「熊の眼」 
嵯峨根鈴子「ラストシーン」 
佐藤成之「返信」 
曽根毅「西国名所図会」 
小鳥遊栄樹「オルゴールから歯車零れ」 
山本敏倖「ボク」 
(順不同)

 

受賞作品及び佳作は、「豈」第59号に、作品及び選評を含めて発表の予定。

 平成28年1月3日

豈 発行人 筑紫磐井
   編集人 大井恒行

(本賞は匿名篤志家による基金で運営)



【参考・過去の受賞作品】

●第1回攝津幸彦記念賞(攝津幸彦論)受賞作(評論)
関悦史「幸彦的主体」
神野紗希「諧謔のエロス―真昼の帝国―」
野口裕「ふるさとの訛なくした攝津はん 珈琲ええ味出とるんやけど」 

●第2回攝津幸彦記念賞受賞作発表 》読む(作品・評論の両枠)
作品
 正賞:花尻万博 準賞:小津夜景、鈴木瑞恵
 佳作:佐藤成之、しなだしん望月士郎山田露結夏木 久山本敏倖
評論   受賞該当作なし
関連記事 (第2回攝津幸彦記念賞――3つから /筑紫磐井)》読む




※第4回も28年度中に募集予定

2015年5月1日金曜日

募集‼! 第3回攝津幸彦記念賞(「豈」創刊35周年記念)

(2015.08.21追加更新あり)

「豈」創刊35周年を記念し、第三回攝津幸彦記念賞を募集いたします。
今回、作品30句の作品枠の募集です。(評論枠の募集はありません。)



・内容  未発表作品30句(川柳・自由律・多行も可)

・締切  平成27年10月末日

・応募  郵便に限り、封筒に「攝津幸彦記念賞応募」と記し、原稿には、氏名、年齢、住所、電話番号を明記。(原稿の返却はしません)。

・選考委員  関悦史 筑紫磐井 大井恒行

・発表掲載 「豈」及び「俳句新空間」 

・送り先 183-0052 東京都府中市新町2-9-40 大井恒行 宛



■2015.08.21. 発行人・筑紫磐井より

選考委員は、関悦史、筑紫磐井、大井恒行となっていますが、「豈」も若返りの季節を迎えており、関委員に大部分の選考審査をお願いする予定です。予選から始まり、本選作業、選考経緯の執筆まで依頼する予定で、筑紫、大井は助言役に回る予定です。その意味では、攝津幸彦記念賞(関悦史賞)と考えて頂いてもよいでしょう。若い世代の応募を期待するものです。 
 『新撰21』世代を対象とする俳句賞は今までいくつかありましたが、『新撰21』世代が選考の主役を務める俳句賞は初めてのものであろうと思っています。『新撰21』世代も早くも背後から後続世代に追われる時期となって来たのです。 

第7回石田波郷新人賞が2015年7月31日で締め切りとなったので、残る3ヶ月間で是非頑張ってください。





(参考)
●第1回攝津幸彦記念賞(攝津幸彦論)受賞作
(※評論枠のみ募集)
関悦史「幸彦的主体」
神野紗希「諧謔のエロス―真昼の帝国―」
野口裕「ふるさとの訛なくした攝津はん 珈琲ええ味出とるんやけど」 

●第2回攝津幸彦記念賞受賞作発表 》読む
(※作品・評論の両枠を募集。)
作品
 正賞:花尻万博 準賞:小津夜景、鈴木瑞恵
 佳作:佐藤成之、しなだしん望月士郎山田露結夏木 久山本敏倖
評論   受賞該当作なし
※関連記事 (第2回攝津幸彦記念賞――3つから /筑紫磐井)》読む




2013年12月20日金曜日

【第二回攝津幸彦記念賞・佳作】 アラッバプー族の場合 山田露結

※画像をクリックすると大きくなります。







第二回攝津幸彦記念賞・佳作受賞作五十句

   アラッバプー族の場合 山田露結

彼は詩の虜リコーのどが渇いている
ケリーは仏身何らかの手段で世界に水を汲む
未知の苦や無口の卵ダイエット
クリムゾンベビーシッターが嘆く思想の巷
ラム彗星猿の日に干す新しい希望
パトリオットとサスペンスに満ちた愛のピンク電話
仮の世の仮の姿の美処女カナ
システムにぶら下がって美しいアヒルの高揚感
カッパ帝国体罰はカッパサウンド
皇帝ボブピアン今年の秋を鎮め
美しい血脈アラッバプー族の場合
バックチドリ類その悲しみの首に正体
姉アゲハ超電導体の極端な孤独に達し
サルが買うサル飼うサルのヒエラルキー
輪廻転生とその可能性を示すアンダーショーツ
赤い蛾は速度を見つけられるのか
大豆または黄色人種を乾燥させたり
神がもたらした楕円や波の理由
揉み洗うと亜細亜のにおいのする女
また覇王母の鉄道網と夏
昼間の愛人のような液体
門渡りに無駄仏アラムあらわれて
ベシ湖から寂しい馬に乗ってゆく
父一人戻ってひとりチチバンド
全盲ナリーのためのベスト性欲
肉林の肉のひとつはかつて母
白象の白を剥がして姉が狂う
万歳前夜に花火帝国のオリエンテーション
偽太陽をぶら下げ人妻アーリの咆哮
まら燃せばまらまら燃えるでかまらも
発毛や女子高生のワビサビ煮
昭和ガラスに結露はじまる
マンサニヨバラミル国の外厠
はじめてそんな空気の薄い氷の上を歩いた
猫の木に猫の花咲くメケリ寺
さくらさくら日本は嫁を表示せず
汁飛ばし鈍父に続く世界の人々
青い鳥の青い陰茎よ
穴あればモガナの民の流れ着く
全国防火週間あなたの母は炎のまま?
衛生委員古い未来を積み残す
昼食は鶏のオヅウンルルパトダ
うつし世の全米販の「お米券」
女の家に入る小鳥のうしろに月の最期の日
頸動脈無効の首で仰ぐ宇宙神
IRU星は強い電波を放っている
仏身ケリー身を灰にしてケリーは偽名
月硬化の光の異常なにおいがある
ハウタガイトウルカグァ王、秋の精神で倒れ
亡国へ光フルフル錯乱母


【作者略歴】

  • 山田露結(やまだ・ろけつ)

昭和四十二年生まれ。愛知県在住。「銀化」同人。句集『ホームスウィートホーム』。共著『俳コレ』、『再読 波多野爽波』


2013年12月13日金曜日

【第二回攝津幸彦記念賞・佳作】 一瞬記   山本敏倖







第二回攝津幸彦記念賞・佳作受賞作五十句

          一瞬記   山本敏倖

一瞬にやっと近づく枯蓮
花の雲ニガリを少し足している
その岸のひまわりまでの調味料
深淵の零余子を付けて戻りけり
にんげんを留守にしている日向ぼこ
胡椒かけている凩が来ている
おぶらーとする遠火事はみるくの匂い
伏線はふくろうの声風葬す
影絵に帰る冬紅葉のろじっく
きさらぎやどう見ても托卵である
顔のない顔がめくれて二月尽
三月の化粧法とは馬に乗る
初蝶の残響音はむらさき
沸点ですかうかと芽吹いています
たんぽぽたんぽぽでもーにっしゅでありけり
花の冷時間どろぼうばかりいて
半島半ですかたくりの群生
落椿落ちてはいるが落ちてない
リラ冷の計算式は複葉機
逆光の稜線たぶんくちなわ
青蜥蜴予告でありて一である
大西日青銅の椅子用意する
万劫の音叉を運ぶ蝸牛
水の輪を出られぬ鯉と炎帝と
夕焼けの立方体に深入りす
うすぐもりやら鴫焼やら南下
追伸の雷にまぎれて世を脱ける
筆ペンが増えてこおろぎ鳴きやまず
紅茸の口承性はすぱいらる
穂芒や鳥羽絵のようにしゃべり出す
ぷりずむからきりぎりすへのぎょうこう
十月は複眼紐が結べない
ひすてりっくぱろでぃかなつたもみじ
茸飯は神経衰弱である
晩鐘の裏を返せば鵙の贄
野ぶどうのしずく昨日のボヘミアン
人形になるまで花野折りたたむ
黄落の底に目覚める淡水魚
ひな菊は延命処置でありけり
まんぼうのしんめとりっくふゆうかん
柿色の深度はいまもかなづち
伊達の薄着の一音一音なり
寒に入る干満というしつけ糸
近松忌遠心力を私す
痛点は冬芽のように陽性
えんきんやみみずくしゃらんつづらおり
関係のかまいたちかな籠に入る
黄道や枯野の奥の道しるべ
息白し麒麟の角の形して
正月を正方形にする正座


【略歴】

  • 山本 敏倖(やまもと びんこう)

1946年生(昭和21年)東京都出身 67歳
昭和63年「山河」入会(山河渓流賞・平成6年度山河賞・各受賞、現在同人、編集長運営委員)
平成 6年 「豈」同人、
平成 7年 第一句集『からくり異聞』上木
平成10年「吟遊」創刊同人、平成16年同退会
平成15年第二句集『天韻』上木
平成24年第49回現代俳句協会全国大会 大会賞受賞 「にっぽんの形に曲がる胡瓜かな」
       現代俳句協会員、東京都区協広報部長


【第二回攝津幸彦記念賞・佳作】 脳裏に抽斗を落とすこと、など 夏木 久







攝津幸彦記念賞佳作受賞作五十句

脳裏に抽斗を落とすこと、など       夏木 久

爪切ればときどきわらふ花茨
パラシュート脳裏に開き落椿
ひき潮やJohnnyの脳はなみづき
ミシン屋の路地裏を縫ひ浮かれ猫
夕桜キャッチボールをしてをりぬ
万国旗のやうな洗濯もの虚子忌
レントゲン室より春が項垂れて
溺れをり春の窓辺の浅瀬にて
春宵を抱いて倒るる置手紙
抽斗を落せば思ひ出す朧
電灯の憎しみ洗ひつつ暮春
ゆく春と墺太利へ濡れにゆく
帽子屋は風ためてをり初節句
屋上に薔薇のわづらふ金縛り
抜刀し路地まがりゆく夕薄暑
あの町の記憶に濡れし鯉のぼり
あぢさゐにあじのむらありついこぼす
かたつむりかたむくかたへかたたがへ
オウンゴールマリーdeゴールドオルゴール
まつしろのモーツァルトの昼寝かな
転んでも金魚掬ひをしてをりぬ
夏野かな椅子も机も放牧し
青嵐キリン脚立のやう倒れ
灯台の夜を夏蝶ノックせり
夜の秋おくらと螺子の山の上
恐竜を壊して夏の夜のマラソン
我武者羅に空蝉あいてゐて鷺洲
消火器と打ち明けられて曼珠沙華
ももすももすこしいたんでゐてすてき
駄目を出す泡立草とつゆ知らず
月光を塗つて泣く子を消毒す
燕帰る出口に近い席を取り
仏壇の海に真面目な鰯雲
縄梯子待てど暮せど鵙の贄
マンホール銀河の匂ふ人の出で
ぶつかつてひびきあはないのでかかし
こはるびのこはむちやくちやをいひこはる
湯豆腐や上着を闇に掛けしまま
ぶら下るもの透きとほる冬木立
とつぷりと重たいおでん屋の木曽路
護国寺の時雨れて思ふチチカカ湖
闇鍋のひかり煮詰むる手に触るる
辺までチェロを引き摺る冬銀河
吹雪きをり9番席の椅子の脚
二三頭棚に戻せり冬の蝶
消防士Quizに怒り冬帽子
探偵がやをら狐火ともす頃
にほんごのゆげもおこげもひとまろき
遠火事の夜のふもとの観覧車
抽斗に津波の止まぬ春隣