2019年11月29日金曜日

第126号

※次回更新 12/13

 【速報!】第5回攝津幸彦記念賞応募選考結果
 ※受賞作品は「豈」62号に掲載

【紹介】週刊俳句第650号 2019年10月6日 特集『切字と切れ』
【緊急発言】切れ論補足(1)――週刊俳句第10月6日号 特集『切字と切れ』座談会に寄せて
【緊急発言】切れ論補足(2)――週刊俳句第10月6日号 特集『切字と切れ』座談会に寄せて ※11/8追加
【緊急発言】切れ論補足(3)動態的切字論1――現代俳句の文体――切字の彼方へ ※11/29追加

■平成俳句帖(毎金曜日更新)  》読む

令和夏興帖
第一(11/8)飯田冬眞
第二(11/15)夏木久・山本敏倖・望月士郎
第三(11/22)椿屋実梛・曾根 毅・ 辻村麻乃
第四(11/29)仙田洋子・小野裕三・松下カロ・仲寒蟬

令和秋興帖
第一(11/8)大井恒行
第二(11/15)曾根 毅・辻村麻乃・仙田洋子
第三(11/22)小野裕三・仲寒蟬・山本敏倖
第四(11/29)神谷波・杉山久子・木村オサム・坂間恒子

令和花鳥篇
第一(8/23)神谷 波・曾根 毅・松下カロ
第二(8/30)杉山久子・渕上信子・夏木久
第三(9/6)小林かんな・早瀬恵子・木村オサム
第四(9/13)浅沼 璞・小野裕三・真矢ひろみ
第五(9/20)林雅樹・渡邉美保・家登みろく
第六(9/27)小沢麻結・井口時男・岸本尚毅・仙田洋子
第七(10/4)飯田冬眞・ふけとしこ・加藤知子・前北かおる
第八(10/11)山本敏倖・堀本吟・仲寒蟬・下坂速穂
第九(10/18)岬光世・依光正樹・依光陽子・辻村麻乃
第十(10/25)水岩瞳・菊池洋勝・内橋可奈子・高橋美弥子・川嶋健佑
第十一(11/1)望月士郎・花尻万博・中村猛虎・青木百舌鳥・佐藤りえ・筑紫磐井
追補(11/8)坂間恒子
追補(11/15)北川美美

■連載

【抜粋】〈俳句四季12月号〉俳壇観測203
切字と切れ――「切れ」よ、今日は・さようなら
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寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉔ のどか  》読む

句集歌集逍遙 今泉康弘『人それを俳句と呼ぶ—新興俳句から高柳重信へ—』/佐藤りえ

麻乃第二句集『るん』を読みたい
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渡邊美保第一句集『櫛買ひに』を読みたい 
6 『櫛買ひに』を読む/山田すずめ 》読む

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佐藤りえ句集『景色』を読みたい 
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5月の執筆者 (渡邉美保

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【緊急発言】切れ論補足(3)動態的切字論1――現代俳句の文体――切字の彼方へ  筑紫磐井

●はじめに
 「豈」62号で「切字と切れ」の特集を組んだ。その中で、川本皓嗣氏が、新しい提案をいくつかあげている。簡単に紹介すると、①芭蕉が愛用した古い切字を復活して表現的・リズム的効果を生かす、②二段切れ三段切れも切字に考えてよい、③季語同様、続々と新しい切字を案出したらよい、④切字のない句も多く作る、である。
 もはや、連句がなくなった現在、前句と付け句の区別もないのだから俳句で切字を議論する余地はないと言う考え方もあるが、現在の俳人は3~400年にわたる俳諧時代の遺産を持っているし(俳句から迂遠になればなる程、芭蕉しか知らない国民が増えるはずである)、現代俳句がどれほど発展しようと遂に芭蕉を超えることはできないわけであるから、頭の片隅では切字をおいておくことは必要であろう。
 その意味で川本氏の提案も無視できないところがある。もちろんこのうち、④「切字のない句も多く作る」、は切字否定論であるから当面ここでは措いておくことにする。そうすると、古い切字の再発見、新しい切字の開拓を勧める主張ということになる。
 同じ特集号で、仁平勝が「古い切字も、切れを生むための修辞でなく異化効果を狙うものと考えている。」と言っていたが、それは一つの解釈であって議論の最初からそう決める必要もない。我々が知らない全然別の理由も留保しておくべきだからだ。
 川本説の興味深いことは、〈前句が短歌の一部でなく、独立した詩歌だと認識させるためには、前句と下句の間に切断が必要となり、そのために「かな」という語――切字が重用されるようになった〉という前提を排除して、ともかく切字というものが歴史的に存在したが、それがどういう理念を持つかは別としていろいろに変形させることが有り得ると考えていることだ。切字にもはや切れは不必要になった、しかし得体の知れない切字がこれからも起こってよいだろうというのである。
    *     *
 こうした考え方を私は「動態的切字論」と呼びたいと考える。従来の切字のあるべき論(発句は切れなければならない、等という主張)を静態的切字論と呼ぶとすれば、未来に向って切字は変化し続けるだろうという考え方なのである。この考え方のすぐれているのは、『八雲御抄』から始って、連歌へ、そして俳諧へ、芭蕉へ、そして更には現代俳句へといくらでも発展できると言うことである(もっとも動態的になると、ことさら切字論と呼ぶ必要もないのであるが・・)。
 ただこうした新切字の提案には、①切字の範囲がどこまでであったのかを確定し、②切字から外れていたものは何であったかを確認し、③この外れていたものが切字に拡張し始めたことを確認するという作業が必要である。

●切字の確定
 動態的切字論では、まず、切字の範囲を確認することが必要である。高山の『切字と切れ』は論争書であるから、必要な素材は逐次引用しているが、無味乾燥な素材の一挙羅列、比較は行っていない。その意味では、高山が批判している浅野信の『切字の研究』の方がこの目的には便利である。
 『切字の研究』や岩波文庫『連歌論集』を使って、切字の推移を抜粋してみる。最初期の切字資料は、順徳院『八雲御抄』、二条良基『連理秘抄』・撃蒙抄』と言うことができるであろう、切字の原書が伺える。ただ、ここではまだ数語しか切字は挙げられていない。次に第2期として、梵灯庵『長短抄』、宗砌『密伝抄』をあげ、第3期として連歌における切字のほぼ完成した里村紹巴『至宝抄』、専順『専順法眼之詞秘之事』を上げておくことにしよう。この第2,第3期では10語以上の切字が提示されるようになる。特に専順法眼之詞秘之事ではその後の定説となる「切字18種」が生まれたからである。
 必ずしも上げられた名前の有名作家が執筆したとは言えないものも混じるが、一応その権威が信じられていたと見て紹介する。不徹底な方法だが、逆に言えばこれ以上に信頼できる充分な切字の数を確認できないからである。少なくとも江戸時代には、これらの伝書が切字に関して何らかの影響を持ったと言えるだろう。
 以下では、著者(仮託者も含む)名、書名、含まれる切れ字数、本文を掲げることとする。本文で、判明しがたい切字は「」を付した。

1)初期伝書
①[順徳院・八雲御抄] 2語
発句は必ず言い切るべし。なにの、なには、なにをなどとはせぬことなり。「かな」共、「べし」共、また春霞、秋の風などの体にすべし。
②[二条良基・連理秘抄]確認済み  6語(ただし、品詞としてはけり・けれ重複)
発句は最大事の物なり。・・・「かな」・「けり」常の事なり、このほか、「なし」・「けれ」・「なれ」・「らん」、また常に見ゆ。

[注]「けれ」→「けり」、「なれ」→「なり」と扱った。「なし」(形容詞又は補助形容詞)は撃蒙抄で例示がある。

2)中期伝書
③[梵灯庵主(浅山師綱)・長短抄]12語(含むセイバイ)
発句の切字
かな・けり・ぞ・か・し(「かし」の部分)・や・ぬ・(セイバイ)・む・す(ず)・よ・けれ(「けり」と重複)。

[注]セイバイは命令形。
④[宗砌(高山時重)・密伝抄①] 15語
連歌の大事、三百五十九ヶ条の内、然りと雖もてにはに過ぎたる大事なし。てにはの詞五十一、切てには十三、追而二、已上十五、「かな」・「けり」・「らむ」・「や」・「ぞ」・「せむ」・「けん」・「そ」・「こそ」・「れ」・「ぬ」・「よ」・「す」・「な」・「き」。


3)後期伝書
⑤[伝専順・専順法眼之詞秘之事]18語(下知4語あり)
一、発句切字十八之事
かな、けり、もかな、らむ、し、そ(ぞ)、か、よ、せ、や、つ、れ、ぬ、す(ず)、に、へ、け、し(じ)、
⑥[里村紹巴・至宝抄]23語(下知を1語とする)
かな、や、し、ぞ、か、もなし、もがな、けり、ぬ、し(じ)、む、を、さぞ、いさ、よ、いつ、いかで、いづれ、いく、こそ、ば、下知

[注]「下知」は命令形。

 さてこのように眺めたが、実は同じ著者の本にあっても切字は合致しない。次に掲げた事項は上記の同じ著者の著書とは、切字の数も内容も必ずしも合致しない。特に紹巴『至宝抄』と『連歌教訓』は別人が書いた程相違がある。実はこれには、「表に見えぬ切字は口伝あり」とあるように口伝問題がかかわってきている。一見すると、大事な部分は口伝で伝えることのようにも見えるが、実は全逆なのである。抑も口伝は、詩歌や芸事に始ったものではなく、大陸から導入された密教が前提としていたものであり、時代を追って「十二口伝」と言われるような詳細な口伝の方式が定められ、口伝を前提にしてテクストが作られていたのである。テクストがあって口伝があるわけではない。だから、抑も西欧の学問方式や後世のテクストクリークの成り立たない世界なのである。

②ー2[二条良基・撃蒙抄]5語(ただし、品詞としてはけり・けれ重複)
発句の体さまざまなるべし。「かな」・「けり」常は用べし。の事なり、このほか、「らん」・「けれ」・「つれ」など時にまた見ゆ。

[注]追加の「つれ」(→「つ」と扱う)。
④ー2[宗砌・密伝抄②(密伝抄後段で再度切字に言及している例)] 5語
発句の切れたると申すは、「かな」・「けり」・「や」・「ぞ」・「な」・「し」、何等申すほかに、なにとも申し候はで、五文字にて切れ候ふ発句、―――是は五文字の内にて申す子細候ふ。

[注]密伝抄②は密伝抄①に包含される。
⑥ー2[里村紹巴・連歌教訓]
かな、もや、や、ぞ、つ、か、き、なめり、けり、ぬ、もなし、はなし、し、し(じ)、いく、いさ、めや、なれや、やは、かは、らし、なれ、らん、、下知(け、よ、へ、せめ)

[注]『連歌教訓』と『至宝抄』の異動
(至宝抄から削除)もがな、む、を、さぞ、よ、いつ、いかで、いづれ、こそ、ば、
(連歌教訓に追加)もや、つ、き、なめり、はなし、めや、なれや、やは、かは、らし、なれ、らん、下知(け、よ、へ、せめ)

 これら中世の連歌の切字を受け継ぎながらも江戸期の誹諧・俳諧ではよほど風通しが良くなったが、逆に悪い面が生まれた。ジャーナリステックにするために切字の数を争ったり、俳句の知識の乏しい売文家が濫造したり、俳句作法書の質は下落している。こうした江戸期の切字については、浅野『切字の研究』では、正風以前までの例をあげており、総攬するのには便利である(浅野から見ると、芭蕉は四十八字皆切字なりと言った程当時にあっては革新的であったから、ここを以て「切字精神」史は完成したと見てよく、浅野はもはや芭蕉以後の切字資料の研究には熱心でないようである)。以下では、『切字の研究』により書名と切字数だけを示す。当面これで足りると思われるからである。なおついでながら、浅野の推奨する『白砂人集』『袖珍抄』も加えてあるが、これは浅野の切字=和歌発生説に叶うためである。

『埋木』      28+下知9*誹諧埋木
『誹道手松明』   32+下知*
『をだまき綱目』  48+下知9*誹諧をだまき
『新式大成』    39+下知8*俳諧大成新式
『真木柱』     56+下知9*
『暁山集』     18*
   *
『白砂人集』    22+下知
『袖珍抄』     20附加5+下知
(*は角川書店『俳句文学大辞典』の掲載の有無と名称)

 動態的切字論のベースとなる切字一覧については、里村紹巴『至宝抄』以下の例としては、北村季吟『埋木』と、浅野は上げていないが、藍亭青藍『増補俳諧歳時記栞草』を上げておきたい。季吟『埋木』は江戸時代の初期の貞門作法書としてこれを代表させたいと思うし、青藍『増補俳諧歳時記栞草』の付録はこの歳時記が明治以降もさまざまな出版社から復刻されて、よく知られていたからである(岩波文庫『増補俳諧歳時記栞草』解説(堀切実)参照)。また参考に、高山がもっとも切字数が多いと上げている挙堂『真木柱』を挙げておく。

⑦[北村季吟・埋木]28語+下知9
発句乃切字
かな、も哉、けり、けりな、む、し、もなし、そ、さそな、かしな、か、や、やは、かは、こそ、なり、いさ、いかに、いつれ、いつこ、いつ、なに、なと、いく、誰、つ、ぬ、よ、下知(れ、よ、な、へ、そ、け、や、せ、め)
⑧[藍亭青藍・増補俳諧歳時記栞草]40語+下知
や、かな・かも、もがな・てしがな、し(き)、し(たし)、ぬ(否定)、ぬ(完了)、つ、下知、か、ゆ、よ、ぞ、ぞ(係助詞)、なそ、こそ、なん、ん、らん、らし・けらし、まし、まじ、な、を、べし、たり、けり、あり、かし、やは、
いかに、いづれ、いづこ、いづら、いかが、何、いく、誰、さぞ、いさ
⑨[挙堂・真木柱]56語+下知9
哉、もがな、けり、成けり、けりな、む、らむ、し(形容詞、まし、じ)、ず、き、候、がもな、ぞ、さそな(さぞな)、か、か(が)、れり、めり、たり、もなし、はなし、けらし、ならし、かは、やは、こそ、やら、なり、ぬ、いかに、いかむ、いか、いかで、いかにせん、いかがせん、なに、なんと、など、どこ、いづこ、いづち、いづく、いつら、いつ、いづれ、誰、いく、かも、さそ、いさ、いざ、つ、よ、な、せ、や、下知(よ、れ、な、へ、そ、け、て、せ、め)


【訂正】前号で、「高山れおなは、芭蕉以後には基底部と干渉部の構造が当てはまるものは多くなく、特に現代俳句ではそれが主調となっていると言う。」と書いたのに対して、「(基底部・干渉部説については)誓子や素十の句がそれで読めるのかというような言い方で疑問を呈していたはず。また、芭蕉は例外的な作者だから、芭蕉を材料にして俳句一般を規定することには慎重であるべきだとも言ったかと思います。」と返事が来ました。たぶんはみ出した分は、高山発言に対して私が包括して書いた感想になると思います。

【抜粋】〈俳句四季12月号〉俳壇観測203  切字と切れ――「切れ」よ、今日は・さようなら 筑紫磐井

高山れおな『切字と切れ』(二〇一九年八月邑書林刊)
  「切字」と「切れ」は初心者によく分からない言葉である。何となくありがたそうに思える点では共通しているのだが、「切字」の方は千年近い歴史があるのに対し、「切れ」は戦後せいぜい数十年の歴史しかない。「や」「かな」「けり」の「切字」については、否定的見解も含めて、芭蕉も子規も虚子も、秋桜子も誓子も、草田男も楸邨、波郷も述べているが、「切れ」については誰も何も言っていない。具体的な切字を議論していると、神学のように抽象的な切れという概念があった方がいいように思えてしまうのである。
 高山は、新刊『切字と切れ』でこの違いを懇切丁寧に説明しようとするのである。もちろん、説明するだけでなく、特に「切れ」についての誤った教説を打破しようとしているのである。切字の体系書は浅野信が『切字の研究』(一九六二年桜楓社刊)を出しているが、それ以来の初めての著作だということである。
 『切字と切れ』は二部からなり、〈第一部 切字の歴史〉、〈第二部 切字から切れへ〉に分かれている。第一部では連歌で生まれた切字が、増加変質して行き芭蕉で一種の典型が生まれる歴史と、その中でも「や」と言う切字の構造を考察している。おまけに「古池や蛙飛び込む水の音」の解釈も行っている。第二部は、なぜ「切れ」という考察がなされるようになったかを、俳句ジャーナリズム、現代作家による切字の理解、国語学者の理解を示し、特に現代作家の「切れ」に関する妄説(もちろんこれは高山の評価だが)まで紹介している。
 こんな難しいことを言っても俳句の初心者には理解が困難だろう。二つのポイントを示しておく。定型詩では短歌(57577)は長い歴史を持っているが、その活動の中で二人で短歌を合作する連歌という形式が生まれた。これは前句(575)と付句(77)をそれぞれに別の作者が製作するのだが、前句が短歌の一部でなく、独立した詩歌だと認識させるためには、前句と下句の間に切断が必要となり、そのために「かな」という語――切字が重用されるようになったのである。
 もう一つは、連歌が発達して行く過程で「かな」以外にさまざまな切字が発明されていった。「けり」「らん」など後世では一八種類もあるとされるようになるが、その中に「や」と言う助詞が含まれるようになった。芭蕉の時代になると、「や」を使った名句が輩出するのだが、困ったことに「や」は前句の文末を切断するだけでなく、一句の中におかれて、句を切断することになる(「古池や蛙飛び込む水の音」)。二句一章構造の発見となるのであるが、以来、「や」の機能は今もって定説がないという状況にあるのである。
 もっとも「切字」については、川本皓嗣や藤原まり子などの精緻な研究がなされているが、彼らは「切れ」については余り言及していない。

論争真っ只中
 「切字」や「切れ」が研究者や好事家の論争にとどまっているならば「俳壇観測」で取り上げる必要はないが、実は「切れ」を俳句の制作に当り必須とする長谷川櫂や復本一郎がいるために、高山れおな、仁平勝による「切れ」批判が現在行われているのである。一見あまり実益ある問題ではないようにも見えるが、長谷川や復本によれば、切れのある句は、切れのない句よりすぐれていると見ているようである。とりわけ、復本は切れのない句は川柳であると言うのである(『俳句と川柳』一九九九年講談社現代新書)。ここまで行くと、現代俳句の優劣、評価問題となるから深刻な問題となる。特に川柳作家は復本の発言に差別を感じているようでもある【注】。
 川柳問題は別としても、「切れ」は大きな問題となる可能性を孕んでいた。「俳句」十月号では「切れ」賛成の「大特集・名句の「切れ」に学ぶ作句法」(総論執筆山西雅子)が組まれたが、「切れ」批判の「豈」六二号が特集を組んだ。後者では、従来の本格的な切字論の論客が登場したからその結論を述べておこう。
川本皓嗣=提案をいくつかあげる。①芭蕉が愛用した古い切字を復活して表現的・リズム的効果を生かす。②二段切れ三段切れも切字に考えてよい。③季語同様、続々と新しい切字を案出したらよい。④切字のない句も多く作る。
仁平勝=①自分の切れが必要という考えは変わりつつある。自分は今、虚子のような切れのない「平句体」にはまっている。②古い切字も、切れを生むための修辞でなく異化効果を狙うものと考えている。
 私自身は、切字は「文体」の一種であり、今後は切字や切れよりも、新しい「文体」を創出することが大事と考えている。ちなみに、近代俳句において最も挑戦的な表現者であった河東碧梧桐は、『八年間』と言う期間限定句集で、当初虚子以上に「かな」を使用したが、急速に「かな」が減少し「けり」が増加し、やがて切字は一切用いず、最後は口語表現に変わっていった。詠む内容に応じて文体変化が連動したのである。
(以下略)

※詳しくは「俳句四季」12月号をお読み下さい。

【連載】寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉔  のどか 

第3章 戦後70年を経ての抑留俳句

Ⅵ 百瀬石涛子(せきとうし)さんの場合(4)
【百瀬石涛子著『俘虜語り』を読む】‐その2

*は、インタビューをもとにした、筆者文。

2 蛇の眼窩・夏のペチカ
  存念の蛇の眼窩の深みどり(蛇の眼窩)
*章のタイトルとなっているこの句を読んで、はっとした。存念の蛇の眼窩とは、ただ普通に死んだ蛇の骸を見ているのではなく、死んで暫く経ち干からびた状態をみているのだ。眼窩とは、眼を収める窪みのことであるが、この句では、生気を失った眼と痩せて窪んだ眼窩を含めたものと感じた。石涛子さんの眼にはかつて帰還を待たず、栄養失調や感染症や寒さで先に逝った、戦友の落ち窪んだ眼窩ややつれた頬骨に重なるのである。

  吾亦紅むかし門閥言はれけり(蛇の眼窩)
*帰国後国鉄に就職し電車のバッテリーを保全する仕事をした。当時労働調整と言った赤狩り(レッドパージ)により、シベリア帰りを首にした。石涛子さんもシベリア帰りということで、25歳で首になった。この出来事は、本当に悔しかったと石涛子さんは語った。
 お国のためにいつも誠実に懸命に生きてきたのに、シベリア帰りであるということで、レッドパージの対象となり、国鉄を辞めざるをえなかった。吾亦紅の赤がレッドパージを象徴し、風に吹かれるのを見るたびに世間の無常を感じるのである。

  捕虜収容所(ラーゲリ)の歳月はるか鳥渡る(蛇の眼窩)
*今年もシベリアから鳥の渡る季節になった、歳月は過ぎれども捕虜収容所で過ごした日々は忘れない。

  鳥渡るシベリアにわれ死なざりし(夏のペチカ)
*鳥の渡ってくる、北の空を眺めるたびに、シベリアから生きて還ったことを思い、「われ死なざりし」の気持ちの中には、過酷な抑留生活のなかで生き残ってしまったという、罪悪感が秘められている。

3 ナホトカ・夏のペチカ・寒極光
  抑留の一歩となりし氷河渡河(寒極光)
*インタビューから、1945(昭和20)年8月、満州昌図、現在の中華人民共和国遼寧省で終戦を知らされ、武装解除を受けた。終戦の知らせを受け武装解除の準備をして、ソ連軍の来るのを待ったが、いつ頃ソ連軍が来たのかは覚えていないと言う。
 ソ連軍が来て私物接収をされソ連国境を流れる川が凍るのを待って、松花江・黒竜江を橇でソ連に渡った。未凍結の河に足を滑らせ死んで行った日本兵の死体を幾体も見ながら。中にはその遺体から衣類を剥ぐものもいた。まさに三途の川の辺に居る奪衣婆(だつえば)である。その時は、戦争が終わったのだから日本に帰れると思っていた。帰還(ダモイ)の言葉を信じていたのだ。

  収容所(ラーゲリ)の私物接収霏々と雪(寒極光)
*収容所では、71連発できる銃を持つソ連兵に腕時計などの私物を奪われた。バイカル湖は凍りつき、雪は霏々と降り続くのである。

  バイカルの凍湖さ走る雲の形(寒極光)
*十月に入るとロシア各地は、氷点下10度を下回り、バイカル湖も凍結し始め本格的な冬の到来である。空を行く雲も厚く次第に雪雲に変わる。

  伐採のノルマ完了眉氷る(寒極光)
*石涛子さんは、ウラノデ収容所で主に伐採の仕事をしたという。伐採の仕事は大地が凍結し材木の移動が容易になる冬に行われることが、多かったと言う。マイナス四十度のシベリアでは、水分すべてが凍り付く。ノルマが完了するころには、自分の吐く息に眉毛も凍り付いてしまうのである。

  寒林を伐採の俘虜声忘れ(寒極光)
*朝の点呼が終わると伐採の作業地まで、2~3キロメートルを徒歩で向かう、1日のノルマが終わるまでは、作業は終わらない。2人1組で切り倒した木の枝を払い、一本が何百キロもある木を何トンも運び台車に乗せる。作業が終わるころには誰も口を利くものは居なくなる。

  伐採のノルマの難き白夜の地(寒極光)
*ソ連はあらゆる作業にそれぞれのノルマを課した。基準をこなせば決められた量の食糧が支給され達成出来なければ、食料は減らされた。美しい白夜の日で有っても、ノルマが達成しなければ仕事は続く。終戦を迎えた年は20歳で、ロシア語を必死で覚えた。言葉を覚え現場監督と仲良くすることも仕事の一つだと考えた。スプラスカという成績表の点数を上げてもらうために。他の班が50点のところを常に75点の評価を貰い、羨ましがられた。与えられたノルマの成果が上がるように、常に心を砕いた。

  ノルマ果つ軍褌虱汗まみれ(寒極光)
*ノルマが終れば、褌ばかりか虱まで汗まみれだというのである。収容所に帰ってまずすることは虱とり。虱は、寒さで死ぬことは無く洋服の縫い目にびっしりと食い込み、白樺の木でこそげ捕るほどであった。

  捕り棄つる虱凍雪には死なず(寒極光)
*虱は発疹チフスを媒介する。衣類の縫い目に潜み、血を吸われると猛烈な痒みに襲われる。虱はマイナス40度を超える凍てた雪の上でも死ぬことはない。

  ペーチカに虱ぱらぱら焼き殺す(寒極光)
*虱は、ペチカで焼いても間に合わないくらいだったと。かゆみも眠りを妨げ精神的な消耗を増す原因にもなった。

  木の根開く異国の丘の生き競らべ(寒極光)
*「木の根開く」は、春になって立ち木の周りの雪がいち早く空き始める、雪国の春を告げる現象で、木の周りに土がのぞくと春が足早にやって来ることをいう、シベリアの地では、「木の根開く」季節がひとしお待たれたのである。
  収容所(ラーゲリ)での話は、もっぱら故郷の郷土料理や母の手料理の事で有った。そして、木の根の開く季節は、飢えをしのいで生き延びるため、腹をわずかながら満たせる季節となる。異国の丘で明日をも知れぬ自分の寿命との生き競らべである。
(つづく)
句集『俘虜語り』百瀬石涛子著 花神社 平成29年4月20日

2019年11月8日金曜日

第125号

※次回更新 11/29

 【速報!】第5回攝津幸彦記念賞応募選考結果
 ※受賞作品は「豈」62号に掲載

 【第2弾!】怒涛の切れ特集!
 【紹介】週刊俳句第650号 2019年10月6日 特集『切字と切れ』
 【緊急発言】切れ論補足(1)――週刊俳句第10月6日号 特集『切字と切れ』座談会に寄せて
 【緊急発言】切れ論補足(2)――週刊俳句第10月6日号 特集『切字と切れ』座談会に寄せて ※11/8追加

■平成俳句帖(毎金曜日更新)  》読む

令和夏興帖
第一(11/8)飯田冬眞

令和秋興帖
第一(11/8)大井恒行

令和花鳥篇
第一(8/23)神谷 波・曾根 毅・松下カロ
第二(8/30)杉山久子・渕上信子・夏木久
第三(9/6)小林かんな・早瀬恵子・木村オサム
第四(9/13)浅沼 璞・小野裕三・真矢ひろみ
第五(9/20)林雅樹・渡邉美保・家登みろく
第六(9/27)小沢麻結・井口時男・岸本尚毅・仙田洋子
第七(10/4)飯田冬眞・ふけとしこ・加藤知子・前北かおる
第八(10/11)山本敏倖・堀本吟・仲寒蟬・下坂速穂
第九(10/18)岬光世・依光正樹・依光陽子・辻村麻乃
第十(10/25)水岩瞳・菊池洋勝・内橋可奈子・高橋美弥子・川嶋健佑
第十一(11/1)望月士郎・花尻万博・中村猛虎・青木百舌鳥・佐藤りえ・筑紫磐井
追補(11/8)坂間恒子

■連載

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉓ のどか  》読む

麻乃第2句集『るん』を読みたい
インデックスページ    》読む
番外 「るん」を読む会のお知らせ  》読む

句集歌集逍遙 今泉康弘『人それを俳句と呼ぶ—新興俳句から高柳重信へ—』/佐藤りえ

【抜粋】〈俳句四季11月号〉俳壇観測202
戦後の風景を思いだしてみる ――秋野弘を誰が覚えているか
筑紫磐井》読む

渡邊美保第一句集『櫛買ひに』を読みたい 
6 『櫛買ひに』を読む/山田すずめ 》読む

葉月第1句集『子音』を読みたい 
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7 生真面目なファンタジー 俳人田中葉月のいま、未来/足立 攝  》読む

佐藤りえ句集『景色』を読みたい 
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7 佐藤りえ句集『景色』/西村麒麟  》読む

大井恒行の日々彼是 随時更新中!  》読む


■Recent entries

特集・大本義幸追悼「俳句新空間全句集」 筑紫磐井編  》読む


「兜太と未来俳句のための研究フォーラム」アルバム

※壇上全体・会場風景写真を追加しました(2018/12/28)

【100号記念】特集『俳句帖五句選』


眠兎第1句集『御意』を読みたい
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麒麟第2句集『鴨』を読みたい
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前衛から見た子規の覚書/筑紫磐井
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「WEP俳句通信」 抜粋記事  》見てみる

およそ日刊俳句新空間  》読む
…(今までの執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保 …
5月の執筆者 (渡邉美保

俳句新空間を読む  》読む
…(主な執筆者)小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子






「俳句新空間」11号発売中! 購入は邑書林まで


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「兜太 TOTA」第3号

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筑紫磐井著『女帝たちの万葉集』(角川学芸出版)

新元号「令和」の典拠となった『萬葉集』。その成立に貢献した斉明・持統・元明・元正の4人の女帝、「春山の〈萬〉花の艶と秋山の千〈葉〉の彩を競へ」の天智天皇の詔を受けた額田王等の秘話を満載する、俳人初めての万葉集研究。平成22年刊2,190円。お求めの際は、筆者までご連絡ください。

【緊急発言】切れ論補足(2)――週刊俳句第10月6日号 特集『切字と切れ』座談会に寄せて 11.7 筑紫磐井

基底部と干渉部
 川本皓嗣氏の切字論は、『俳諧の詩学』によってはじめて切字論が登場することになる。もちろん、共著の『芭蕉解体新書』(1997)におさめた「切字論」、『俳句教養講座第2巻〈俳句の詩学・美学〉』の「切字の詩学」に既に言及されているが、川本氏が初めて俳句を論じた単行本の『日本詩歌の伝統』には切字論も切れ論も含まれていなかった。ただ私はどうした錯覚か、『日本詩歌の伝統』に含まれていたように思っていた。その理由は、この著書のかなりの部分が「基底部と干渉部」を論じていたからである。
内容の定義は後から考えることにして、具体的な例句で見れば、

山里は万歳遅し梅の花

の「山里は万歳遅し」が基底部、「梅の花」が干渉部となるのである。そしてこの本のあと、復本一郎氏の「首部と飛躍切部」を知った。「首部と飛躍切部」では首部と飛躍切部の間に切れが存在すると主張されるのであるから、基底部と干渉部も同じ効果をもち、切れを主張しているのだろうと思っていた。
 しかしこの二つの説の違いはいまいちわからなかった。折角だから座談会での高山れおなの発言を引用すれば、「誇張や矛盾で和歌的な美学を異化するのが基底部、それに読み取りの方向を与えるのが干渉部」ということになり、復本氏の首部と飛躍切部のように切れを前提しているわけではないことになる。川本氏は、俳句、特に芭蕉の句の構造を分析しているのであって、切れが発生するかどうかはまだ言及されていない。
 高山れおなは、芭蕉以後には基底部と干渉部の構造が当てはまるものは多くなく、特に現代俳句ではそれが主調となっていると言う。
 しかし面白いのは、もしそうだとすれば、芭蕉の句と現代俳句、我々の読む俳句のどこが異なるかを基底部と干渉部を使って説明できるのではないかと思われることである。発句と平句よりは、あるいは切れの有無よりは芭蕉との差異が浮かび上がりそうなのである。
 川本氏の原文に戻って眺めてみよう。

 「俳句の興味の中心を占めるのは、強力な文体特徴で読み手を引きっけながら、それだけでは全体の意義への方向づけをもたない(あるいはその手がかりがあいまいな)「ひとへ」の部分、行きっぱなしの語句である。これを「基底部」と呼ぼう。一方、さきの句の「梅の花」のように、その基底部に働きかけて、ともどもに一句の意義を力向づけ、示唆する部分を、「干渉部」と呼ぶことにしよう。」(『日本詩歌の伝統』)

 こうした理解に立つと基底部は次の(〈〉)ようになる。

〈白露もこぼさぬ〉萩のうねりかな
〈草の戸もすみ替る代ぞ〉雛の家
秋風や〈藪も畠も不破の関〉
行く春や〈鳥啼き魚の目は泪〉


 基底部と干渉部は切字と必ずしも不即不離となるわけではない。むしろ、切字と切り離された当今の切れ論に論拠を与えるように思われる。しかし眺めてもわかるように、これは芭蕉のような強烈な基底部を持つが故の特異な例と思われる。だからこの場合、干渉部はあまり表現の特異さを持っているわけではない。
 もちろんすべての俳句がこうした例が成り立つわけではない。座談会で、

鎌倉右大臣実朝の忌なりけり 迷堂

のような例を挙げたわけであるが、切れの始末に困る事では切れ説も同様である。
 何を言いたいかといえば、切れなどと言う言葉を用いずとも、基底部と干渉部といった方がはるかに切れ論者の言いたい気分が伝わるのではないかということである(もちろん気分であって、切れ論者の論理は「基底部と干渉部」説に比べてはるかに非論理的である)。
 川本氏の基底部と干渉部を復本氏の首部と飛躍切部に言い換えても良いであろうが、それは芭蕉の俳句の構造分析であって、現代俳句にそのまま通用するものではないだろうと言うことである。あらゆる俳句に切れを探る徒労を重ねるよりは(切れが見つかったからと言ってそれが特段の意味を持たないのなら何のための探索かわからない)、基底部の文体の特徴を探ってみることの方が生産的であるように思う。
 ところで川本氏は言う、

 「俳句のリアリズムは小説のそれと比べても、はるかに表現の斬新さ、「耳新しさ」に依存する度合いが大きい」

 これは現在の伝統俳句には耳の痛いことであろう。表現の斬新さ、「耳新しさ」に耳をふさいでいたのが伝統俳句だからである。これが成り立つのは芭蕉と金子兜太ぐらいしかいないのではなかろうか。

【麻乃第2句集『るん』を読みたい 】番外 『るん』を読む会

(書き広告が少し読みにくいので掲載します。辻村麻乃さんは、故岡田志乃主宰「篠」の新主宰となられました)

辻村麻乃句集『るん』を本人が朗読し、俳句を好きな人と繋げる。
     そこにはるんの風が吹く。
『プールの底』から現在に至るまでの俳句感について、両親との関係やハードロックについてのエピソードも含めて紐解く。

11月16日(土)17時から18時40分
場所 六本木7-18-13 金子第一ビル二階 六本木フラット
           六本木二番出口から二分
会費 千円〈お茶とお菓子つき〉
ゲスト 林誠司(『るん』版元 俳句アトラス社長)
連絡先 辻村麻乃   rockrabbit36@gmail.com



句集歌集逍遙 今泉康弘『人それを俳句と呼ぶ—新興俳句から高柳重信へ—』/佐藤りえ

「人それを俳句と呼ぶ」は今泉康弘のはじめての評論集である。視覚芸術と俳句との関係を論じた文章を中心に、新興俳句をさまざまな角度から検討する著書となっている。
各章で中心的に扱われる俳人、対比される事象は異なるものの、読んでいくと各章が相互に関連し、響き合うことがわかってくる。

「青い街」は松本竣介の絵画作品と渡邊白泉の俳句に共通する「街」概念の変遷を見ながら、「客観写生」の理念からは否定された、美術鑑賞という近代的行為から俳句を詠むことにスポットを当て、さらに社会批評を詠み込む点において、美術と俳句の状況、表出する表現の差異を調べた。

「地獄絵の賦」では前記の美術鑑賞とは違い、宗教と地域性によってもたらされる「地獄絵」の経験がいかなる影響を与えたか、俳人のみならず斎藤茂吉、寺山修司、太宰治らを挙げ、表現の源泉をさぐった。ここで斎藤茂吉の「実相観入」が話題に登る。本書の随所にあらわれる虚子の「写生」との違いが露わになり、子規を慕った茂吉と虚子との論のねじれが感じられる。

「月下の伯爵」では高柳重信の句集『伯爵領』へのリラダンの影響を丁寧に検証した。『伯爵領』はリラダン「未来のイヴ」を明確に引用し、句集を一冊の架空の空間として構成している。こうした手法は文学としては極めてオーソドックスな手法と思われるものの、俳句としては異端であることがあらためて提示されている。古典を参照し変奏する、そうしたことを捨て、自分の眼前をのみ見よ、とした子規の短歌革新運動、写生の提唱とは真逆の価値観である。

本書の最もヘヴィーな章、「『密告』前後譚」では『密告』刊行から西東三鬼の名誉回復裁判までの各人の動静が時系列にまとめられている。この章は特に今日現在、一読に値すると思う。表現規制、検閲、統制といったものは、対岸の火事でも絵空事でもない。

こうして読み進めていくにつれ、前章のことが想起されたり、ほかのページのことが思い出されるように一冊が有機的に作用するのは、ひとえに著者・今泉の透徹した俳句観によるものである。

同時代の表現は本来相互に影響し作用しあうものであり、こうした視点から俳句を見つめ直すことはむしろ当たり前なのではないか、と筆者は思うものである。このような本、論がこれからも書き継がれ、広く読み継がれていくことを願ってやまない。

(沖積舎)2019年10月10日刊

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉓ のどか 

第3章 戦後70年を経ての抑留俳句
Ⅵ 百瀬石涛子(せきとうし)さんの場合(3)


【百瀬石涛子著『俘虜語り』を読む】‐その1
  シベリア抑留体験者の口は重いという。シベリア帰還者に向けられた「レッドパージ(連合国軍占領下、公務員や民間企業において日本共産党員とその支持者を解雇した赤狩り)によるばかりではなく、その体験があまりにも重く思い出すにつけ、苦しかった記憶の糸が解かれることにより、何度も追体験をしてその記憶にさいなまれるPTSDの状態になるからだ。
 PTSD(心的外傷後ストレス障害)とは、戦争・地震・津波・火災・交通事故などを経験したり、テロ・強盗殺人・レイプなどの犠牲者になるといったことをきっかけとして発症する。症状としては、悪夢やフラッシュバックによって外傷的出来事を再体験する。②外傷的出来事と関連した刺激を持続的に回避しようとするか反応性の鈍麻を示す、さらには感情が委縮し極度のうつ状態をきたしたり未来に対して展望をもつことができなくなる。③睡眠障害、易怒性、集中困難、過度の警戒心・驚愕反応・生理的反応など、覚醒の持続的な亢進を示す特徴が認められる。の3つの症状が中心となる(『心理学辞典』:有斐閣P.451)

 帰還後の石涛子さんに於いても例外ではなく、常に記憶はよみがえり気候の厳しい信州の冬を迎え、春を迎えるたびにその思いが、迫ってきたのだと察する。
八十歳を過ぎてようやく抑留体験は、俳句として結晶し姿を現し始めたという。石涛子さんは、令和元年で94歳となられる。
 ここでは、『俘虜語り』の中から、シベリア抑留体験に私たちを導く句を選び出して、読み進めて行きたいと思う。
*は、インタビューをもとにした、筆者文。

1 全裸の立木から                      
 『俘虜語り』では、作者の生きている今ここの出来事から、徐々に記憶が交錯するように呼び起こされ、再び今ここを生きる作者の句に帰って来るのである。

   虎杖の身丈を超ゆる子捨て谷(全裸の立木)
*虎杖(いたどり)は、スカンポのことである。筆者も子どもの頃には、スカンポをかじりながら学校から帰った思い出があるが、日本が貧しかった時代には、虎杖も食料とされた。人の身丈を超える虎杖の生い茂る谷には、子捨て伝説があるのだという。しかし、多感な年頃の石涛子さんは「獅子は我が子を千尋の谷に落とす」という諺を「子捨て谷」に重ね、戦争に志願して行くことで、子供時代の悲しい記憶を消すように自分に大きな試練を課そうとしたのである。

  子を間引くつたえありとよ燕去(い)ぬ(全裸の立木)
*1941(昭和16)年、人口政策確立要綱が閣議決定(『人口政策確立要綱の決定』 国立社会保障・人口問題研究所 1941~2年)され、産めよ殖やせよのスローガンのもと兵力・労働力の増強をめざし、多産家庭に対しては物資の優先配布や表彰が有ったという。物の無い苦しい時代、今のように当たり前に家族計画の知識があり、簡単に避妊ができた訳では無いのだ。つぎつぎと妊娠してしまう。石涛子さんの世代は、7~8人兄弟は当たり前。育てられなければ、生まれてきたばかりの子を殺す、妊婦が高いところから飛び降りることや冷たい川に浸かって子を堕胎する方法しかなかった。日本の各地に口減らしのための子捨て・子殺しは、潜在したのだ。

  少年の裸形眩しく蓮ひらく(全裸の立木)

 *17歳の石涛子さんは、日本軍の少年通信兵としての教育を受けたが、通常よりも半年早く、1943(昭和18)年に任地に赴いた。少年の裸形眩しくは、少年の日の石涛子さんであり、蓮ひらくは「お国のため身をささげる」という大志であり決意で有った。

  犬の死やぬくもりのこる草虱(全裸の立木)
*元気に野山を駆け回っていた、愛犬の突然の死。屍にはまだぬくもりが残り、草虱をつけている。死はいつも生の隣り合わせにあり、突然にやってくる。それは人間においても普遍の原理なのである。そして犬の死により、深い記憶の糸が解かれていく。

  飢ゑし日へ記憶つながる青胡桃(全裸の立木)
*青胡桃の実るころはシベリアの夏に記憶がつながっていくのである、抑留生活で飢えた兵士たちは、新緑の季節には草を摘み、木の根を掘り枯れた茸や木の根に住む虫をさがして食いつないだ。青胡桃の季節には、シベリアの飢えた日々に思いを馳せるのである。

  冬銀河いつも虜囚の夢をみて(全裸の立木)
*空気の澄んだ信州では、冬銀河が一層冴えて美くしい。しかし、冬を迎えるたびに思い出すのは、極寒のシベリアの事であり、夢に浮かんでくるのは、虜囚として過ごした過酷な日々の思い出なのである。

  暮れ方を風の重さの菜を間引く(全裸の立木)
*帰還後の暮らしでは、本業の傍らに農業をしたのかも知れない、あるいは勤めを辞めてから農業をしたのかもしれない。シベリア抑留を思い出すまい、語るまいと黙々と手を動かす。信州を吹く颪は、間引き菜にもその存在の重さを感じさせるのである。

  身に入むや眠り恐れし虜囚の地(全裸の立木)
*寒さが身に沁みる季節になると思い出す、眠ることに死の恐怖を感じたあの頃を。シベリアに抑留された1945(昭和20)年から1946(昭和21)年の冬に、重労働と酷寒と飢えによる栄養失調、虱などの不衛生による発疹チフスで、五万人近くの抑留者が死亡したという。食事をしている途中にも、眠っている間にも仲間が静に息を引き取っていく。眠気に襲われる瞬間は、死の恐怖を伴う。寒さが体に沁みる季節になると、あの死の恐怖が戻ってくる。   (つづく)

参考文献:句集『俘虜語り』百瀬石涛子著 花神社 平成29年4月20日
『人口政策確立要綱の決定』 国立社会保障・人口問題研究所 1941~2年 国立国会図書館ホームから