2019年11月8日金曜日

句集歌集逍遙 今泉康弘『人それを俳句と呼ぶ—新興俳句から高柳重信へ—』/佐藤りえ

「人それを俳句と呼ぶ」は今泉康弘のはじめての評論集である。視覚芸術と俳句との関係を論じた文章を中心に、新興俳句をさまざまな角度から検討する著書となっている。
各章で中心的に扱われる俳人、対比される事象は異なるものの、読んでいくと各章が相互に関連し、響き合うことがわかってくる。

「青い街」は松本竣介の絵画作品と渡邊白泉の俳句に共通する「街」概念の変遷を見ながら、「客観写生」の理念からは否定された、美術鑑賞という近代的行為から俳句を詠むことにスポットを当て、さらに社会批評を詠み込む点において、美術と俳句の状況、表出する表現の差異を調べた。

「地獄絵の賦」では前記の美術鑑賞とは違い、宗教と地域性によってもたらされる「地獄絵」の経験がいかなる影響を与えたか、俳人のみならず斎藤茂吉、寺山修司、太宰治らを挙げ、表現の源泉をさぐった。ここで斎藤茂吉の「実相観入」が話題に登る。本書の随所にあらわれる虚子の「写生」との違いが露わになり、子規を慕った茂吉と虚子との論のねじれが感じられる。

「月下の伯爵」では高柳重信の句集『伯爵領』へのリラダンの影響を丁寧に検証した。『伯爵領』はリラダン「未来のイヴ」を明確に引用し、句集を一冊の架空の空間として構成している。こうした手法は文学としては極めてオーソドックスな手法と思われるものの、俳句としては異端であることがあらためて提示されている。古典を参照し変奏する、そうしたことを捨て、自分の眼前をのみ見よ、とした子規の短歌革新運動、写生の提唱とは真逆の価値観である。

本書の最もヘヴィーな章、「『密告』前後譚」では『密告』刊行から西東三鬼の名誉回復裁判までの各人の動静が時系列にまとめられている。この章は特に今日現在、一読に値すると思う。表現規制、検閲、統制といったものは、対岸の火事でも絵空事でもない。

こうして読み進めていくにつれ、前章のことが想起されたり、ほかのページのことが思い出されるように一冊が有機的に作用するのは、ひとえに著者・今泉の透徹した俳句観によるものである。

同時代の表現は本来相互に影響し作用しあうものであり、こうした視点から俳句を見つめ直すことはむしろ当たり前なのではないか、と筆者は思うものである。このような本、論がこれからも書き継がれ、広く読み継がれていくことを願ってやまない。

(沖積舎)2019年10月10日刊

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