こないだ麒麟くんと話す機会があった。二人とも酔っていた。
俺「連句の付合みたいに読んでんだ、鴨を」
麒麟「句の並びはアレコレ考えましたから」
俺「じゃあ、連句的に註釈してもいいよね」
麒麟「もちろん、お願いします」
で、書いてる。もう酔ってない。
水中りして凡兆を思ふかな
禁酒して詰まらぬ人として端居 46頁
水中りして→禁酒して、凡兆→詰まらぬ、思ふ→端居。
初期俳諧的な言葉の連想による詞付(ことばづけ)。凡兆を思う人を「詰まらぬ」というのに諧謔あり。
同一人物がならぶ、其人(そのひと)の付。
火を囲み皆静かなる花見かな
何もかもリュックの中や桜守 116頁
火を囲み皆静か→何もかもリュックの中、でキャンプファイヤーを思わせながら、花見→桜守で意表をつく。
皆→桜守の人情他による向付(むかいづけ)でもある。
屏風絵の賑はつてゐる飯屋かな
呼ぶ時は必ず手紙冬紅葉 167頁
屏風絵→冬紅葉、賑はつてゐる飯屋→呼ぶ。
この付合、手紙が意表をつく無心所着(しょじゃく)。
何の鮨あるか見てゐる生身魂
廻り来て再び猫や走馬燈 140頁
前句を回転寿司と取成し、走馬燈をあしらった付。
結果、回転寿司のレーンに猫がのってるイメージも。やはり無心所着である。
虫籠に住みて全く鳴かぬもの
小さき墓ばかりや秋の海が見え 150頁
虫籠→秋の海、全く鳴かぬもの→小さき墓。
連句の題材である「無常」の付。
以上、麒麟くんを真似てスマホで打ってみたが、彼のようにはうまく打てない。
慣れぬことはせぬものである。酒がほしい。 《未完》
(【筑紫磐井注】辻村麻乃第2句集『るん』の出版記念会で、浅沼璞先生と西村麒麟がもりあがっていた。出版記念会の主人公をさておいて盛り上がっており、『鴨』を連句として読んでも良いかというのである。私は連句は素人なのであるが、「読み」の可能性としてはいろいろあると思う。ことによったら連句式の読みというのが一世風靡してもいいのではないかということでお願いした。麒麟君、《未完》とあるのだからもっともっと酒を差し上げて、続編を書いて貰ったらどうだろう。)
2018年10月12日金曜日
2018年9月14日金曜日
【新連載・西村麒麟特集2】麒麟第2句集『鴨』を読みたい9 西村麒麟句集「鴨」を読む -多様な光― 小沢麻結
今回、幸運にも初めて纏まった西村麒麟氏の作品を読む機会を頂いた。第二句集「鴨」は、西村氏のプリズムを通した柔らかな光が放つ一冊と思量する。惹かれた句を以下に挙げる。
宝舟ひらひらさせてみたりけり
雛納め肌ある場所を撫でてをり
一句目、七福神などを乗せた宝舟の絵は、元旦か二日の夜に枕の下に敷いて寝ると良い初夢が見られるとされているいわば縁起物。舟は重量度外視のお宝を積み、描かれた七福神も皆破顔、お目出度い雰囲気に溢れている絵だ。珍しくてひらひらさせてみることはするかもしれないが、それを句に詠める人はなかなかいないのではないだろうか。そこを句にできるところが西村氏だと思うのである。ひらひらさせたなんて言ってしまったら満載の宝がちょっと零れ落ちてしまいそうだし、夢の効果が半減してしまいそうだし。だがこの行為が正月の晴れやかさと通底しており、目出度すぎずに新年の句として成立させている点、手際よい。
二句目、一読、句の作者は男性とわかる。来年まで会うことのない雛人形を愛しむのは女性で、髪はそっと撫でるかもしれないが顔には直接指で触れないだろう。手や足を撫でるというのも考えにくい。大事な人形を汚さないように配慮が働くからだ。作者は雛納を手伝いながら興味を持ち撫でてみた、という句だろうか。中七の表現から、着物から出ている手足を撫でたのだろう。確かに細くて、硬そうで、つるっとしていて、触感を試したくなるかもしれない。
二句に共通し、遊び心―茶目っ気―が溢れている。
裏返るその盆唄を愛すなり
山の名を知らぬまま行く紅葉狩
この二句にはぶれない潔さがある。
一句目、裏返るそこがいいのかもしれないし、盆唄としての哀愁が漂う。何気ない表現にきちんと季題の本質が押さえられている。
二句目、大事なのは其処が何処か(場所)という点ではなく、紅葉狩り(内容)であって、誘われて共に行く人なのかもしれない。だからこそ、その見事な紅葉を観るために、迷いなく深山を踏み分けてゆけるのだ。
露の世の全ての露が落ちる時
真つ黒に錆びてゐるのが狐罠
秋茄子の人数分が水の上
いずれの句も読み手の想像力を刺激する。見えないものを見せるためのヒントがこれらの句にありそうだ。一句目のその時を想像すると救いようのない静寂が広がる。二句目の今は使われていないが狐罠のこれまでを想像すると狐だけに生々しい。三句目、汲み上げた澄んだ清水に浮く秋茄子の紫紺のつややかさ。私が想像するもてなしの秋茄子は六個だ。
烏の巣烏がとんと収まりぬ
写生が効果的な句だ。坐り直す時の描写の中七に実感がある。大切な卵やヒナを羽の下にちゃんと納めて坐った烏が頼もしい。収まったと見て取ったところに安心感があり、季題が動かない。
作者独特のプリズムが働いた一物仕立ての句が好もしい。以上の句は「北斗賞受賞作品」にはなかった句だ。先に「思ひ出帳」を読んだ時に惹かれた句は、また別にある。
入社試験大きな声を出して来し
侍の格好でする鏡割
草相撲代りに行つて負けにけり
初雀鈴の如きが七八羽
浮かんだり沈んだりして鯨かな
蛍の逃げ出せさうな蛍籠
鈴虫は鈴虫を踏み茄子を踏み
八月のどんどん過ぎる夏休み
最後に、「北斗賞受賞作品」、「鴨」から厳選した十句に共通する二句を挙げたい。
白玉にひたと触れゐて白玉よ
秋の昼石が山河に見えるまで
よく見ることで授かる句が、読み手の心に呼びかけてくる。一句目の中七の触感は「くっついている」様を「ひたと触れゐて」と表現したことで白玉らしさを描き切っている。二句目、集中して見入っていると他のものは見えなくなってただ石の形状だけがクローズアップされる。光と影の陰影が明確になる秋の昼に自然のあり様に見えてくるまで石をじっと見る。掲句と対峙していると、静かだが腹を据えた意志の強い句が立ち上がって来る。
宝舟ひらひらさせてみたりけり
雛納め肌ある場所を撫でてをり
一句目、七福神などを乗せた宝舟の絵は、元旦か二日の夜に枕の下に敷いて寝ると良い初夢が見られるとされているいわば縁起物。舟は重量度外視のお宝を積み、描かれた七福神も皆破顔、お目出度い雰囲気に溢れている絵だ。珍しくてひらひらさせてみることはするかもしれないが、それを句に詠める人はなかなかいないのではないだろうか。そこを句にできるところが西村氏だと思うのである。ひらひらさせたなんて言ってしまったら満載の宝がちょっと零れ落ちてしまいそうだし、夢の効果が半減してしまいそうだし。だがこの行為が正月の晴れやかさと通底しており、目出度すぎずに新年の句として成立させている点、手際よい。
二句目、一読、句の作者は男性とわかる。来年まで会うことのない雛人形を愛しむのは女性で、髪はそっと撫でるかもしれないが顔には直接指で触れないだろう。手や足を撫でるというのも考えにくい。大事な人形を汚さないように配慮が働くからだ。作者は雛納を手伝いながら興味を持ち撫でてみた、という句だろうか。中七の表現から、着物から出ている手足を撫でたのだろう。確かに細くて、硬そうで、つるっとしていて、触感を試したくなるかもしれない。
二句に共通し、遊び心―茶目っ気―が溢れている。
裏返るその盆唄を愛すなり
山の名を知らぬまま行く紅葉狩
この二句にはぶれない潔さがある。
一句目、裏返るそこがいいのかもしれないし、盆唄としての哀愁が漂う。何気ない表現にきちんと季題の本質が押さえられている。
二句目、大事なのは其処が何処か(場所)という点ではなく、紅葉狩り(内容)であって、誘われて共に行く人なのかもしれない。だからこそ、その見事な紅葉を観るために、迷いなく深山を踏み分けてゆけるのだ。
露の世の全ての露が落ちる時
真つ黒に錆びてゐるのが狐罠
秋茄子の人数分が水の上
いずれの句も読み手の想像力を刺激する。見えないものを見せるためのヒントがこれらの句にありそうだ。一句目のその時を想像すると救いようのない静寂が広がる。二句目の今は使われていないが狐罠のこれまでを想像すると狐だけに生々しい。三句目、汲み上げた澄んだ清水に浮く秋茄子の紫紺のつややかさ。私が想像するもてなしの秋茄子は六個だ。
烏の巣烏がとんと収まりぬ
写生が効果的な句だ。坐り直す時の描写の中七に実感がある。大切な卵やヒナを羽の下にちゃんと納めて坐った烏が頼もしい。収まったと見て取ったところに安心感があり、季題が動かない。
作者独特のプリズムが働いた一物仕立ての句が好もしい。以上の句は「北斗賞受賞作品」にはなかった句だ。先に「思ひ出帳」を読んだ時に惹かれた句は、また別にある。
入社試験大きな声を出して来し
侍の格好でする鏡割
草相撲代りに行つて負けにけり
初雀鈴の如きが七八羽
浮かんだり沈んだりして鯨かな
蛍の逃げ出せさうな蛍籠
鈴虫は鈴虫を踏み茄子を踏み
八月のどんどん過ぎる夏休み
最後に、「北斗賞受賞作品」、「鴨」から厳選した十句に共通する二句を挙げたい。
白玉にひたと触れゐて白玉よ
秋の昼石が山河に見えるまで
よく見ることで授かる句が、読み手の心に呼びかけてくる。一句目の中七の触感は「くっついている」様を「ひたと触れゐて」と表現したことで白玉らしさを描き切っている。二句目、集中して見入っていると他のものは見えなくなってただ石の形状だけがクローズアップされる。光と影の陰影が明確になる秋の昼に自然のあり様に見えてくるまで石をじっと見る。掲句と対峙していると、静かだが腹を据えた意志の強い句が立ち上がって来る。
2018年6月8日金曜日
2018年5月25日金曜日
【新連載・西村麒麟特集2】麒麟第2句集『鴨』を読みたい8 私信 麒麟さんへ 藤井あかり
刊行された『鴨』の初めての読者が私であることを思うたび、つい頰が緩んでしまいます。
数年前、麒麟さんのお宅と私の実家の最寄り駅が同じであるご縁で、麒麟さん・A子さんご夫婦と親しくなりました。近所のカレー屋さんやイタリアン・レストランに行ったり、お花見や忘年会をしたり。
たいていたわいないおしゃべりに終始して、俳句の話が出ることもたまにあるけれど、「麒麟さんって推敲とかします?」「あんまりしないんですよ」「私もしなくって」などとのんびりしたもの。吟行と称して会っても、書き留めた句を見せ合ったことはなく、でもたしかに句は残っています。
A子さんはいつも麒麟さんの横でほほ笑んでいます。A子さん自身は俳句を作らなくて、ただただ麒麟さんの俳句を大好きなのが伝わってきます。
あの日は麒麟さんのお宅に遊びに行っていましたね。
三人で炬燵に入り、A子さんの絶品おでんと私の林檎ケーキを食べながら、いつものようにおしゃべりしていると、ピンポンとチャイムが鳴って玄関先にドカドカと十数個の段ボール箱が置かれ、その一個目の封が開けられて、一番上の一冊をいただいたのが私でした。
そのあとはなんだかもう胸がいっぱいになってしまって、はしゃぎすぎてお皿を下げるのも忘れて帰ってしまったこと、ごめんなさい。
お詫びといつものお礼をかねて『鴨』から「愛妻10句」を選んでみたので、お二人で楽しんでくれたら嬉しいです。
二家族同時にわつと初笑
笑いのツボが同じってことがまずはめでたいなぁと。
白団扇顔のみ妻の方へ向け
出会った当時は体ごと向けていたと思うけれど。
鰻重の蓋開けてゐる妻の顔
変わっていく表情がいとおしい。
端居して妖しきものかいや妻か
いや、妻って妖しいものなのでは。
踊子の妻が流れて行きにけり
もう戻ってこないような切なさも。
向き合つてけふの食事や小鳥来る
おのずと向き合う時間をもてる幸せ。
帰宅して気楽な咳をしたりけり
外用の咳と家用の咳。
アロハ着て息子の嫁を眺めをり
これ以上ない気の置けなさ。
妻留守の半日ほどや金魚玉
自由でさびしい時間。
無花果や妻の幼き頃の本
懐かしいような、新しいような。
麒麟さん、『鴨』出版おめでとう。
それから、A子さんと出会えたこと、改めておめでとう。
では、また近いうちに。
数年前、麒麟さんのお宅と私の実家の最寄り駅が同じであるご縁で、麒麟さん・A子さんご夫婦と親しくなりました。近所のカレー屋さんやイタリアン・レストランに行ったり、お花見や忘年会をしたり。
たいていたわいないおしゃべりに終始して、俳句の話が出ることもたまにあるけれど、「麒麟さんって推敲とかします?」「あんまりしないんですよ」「私もしなくって」などとのんびりしたもの。吟行と称して会っても、書き留めた句を見せ合ったことはなく、でもたしかに句は残っています。
A子さんはいつも麒麟さんの横でほほ笑んでいます。A子さん自身は俳句を作らなくて、ただただ麒麟さんの俳句を大好きなのが伝わってきます。
あの日は麒麟さんのお宅に遊びに行っていましたね。
三人で炬燵に入り、A子さんの絶品おでんと私の林檎ケーキを食べながら、いつものようにおしゃべりしていると、ピンポンとチャイムが鳴って玄関先にドカドカと十数個の段ボール箱が置かれ、その一個目の封が開けられて、一番上の一冊をいただいたのが私でした。
そのあとはなんだかもう胸がいっぱいになってしまって、はしゃぎすぎてお皿を下げるのも忘れて帰ってしまったこと、ごめんなさい。
お詫びといつものお礼をかねて『鴨』から「愛妻10句」を選んでみたので、お二人で楽しんでくれたら嬉しいです。
二家族同時にわつと初笑
笑いのツボが同じってことがまずはめでたいなぁと。
白団扇顔のみ妻の方へ向け
出会った当時は体ごと向けていたと思うけれど。
鰻重の蓋開けてゐる妻の顔
変わっていく表情がいとおしい。
端居して妖しきものかいや妻か
いや、妻って妖しいものなのでは。
踊子の妻が流れて行きにけり
もう戻ってこないような切なさも。
向き合つてけふの食事や小鳥来る
おのずと向き合う時間をもてる幸せ。
帰宅して気楽な咳をしたりけり
外用の咳と家用の咳。
アロハ着て息子の嫁を眺めをり
これ以上ない気の置けなさ。
妻留守の半日ほどや金魚玉
自由でさびしい時間。
無花果や妻の幼き頃の本
懐かしいような、新しいような。
麒麟さん、『鴨』出版おめでとう。
それから、A子さんと出会えたこと、改めておめでとう。
では、また近いうちに。
2018年5月11日金曜日
【新連載・西村麒麟特集2】麒麟第2句集『鴨』を読みたい7 水熱く――西村麒麟『鴨』の一句/堀下翔
澄江堂芥川龍之介、明治二五年東京市に生まれ、関東大震災を挟んで昭和二年にみずから毒を含んで死するまでの僅々三五年間に、専ら短編小説をものし、また我鬼を自称してしばしば発句を吐いた。
わたしの座右には澄江堂の第三の短編小説集である『傀儡師』(大正八年、皇都新潮社開雕)の復刻版がある。ただし、いまこうして「短編小説集」と書いてしまったのは迂闊なことである。近代日本文学で短編小説という領域を先導したのはほかならぬ澄江堂であって、ましてやそれを一冊の本にするに際して、発表年月日に随わず、作品の趣向に沿って配列するなどという配慮にいたっては、そうした配慮の存在自体、ながらく発見されずにいたことにすぎず、いったいこの一冊のすごみを往時の読者はいかようにして看取していたのか、思うだにただ立ち尽くすのである。
『傀儡師』には「枯野抄」(大正七年九月)という作品が収められている。芭蕉臨終に立ち会った弟子たちの内面を描いた名品で、漱石の葬儀を模したともいう。古典を題材にすることの多かったこの作家のこと、ご多分に漏れず「枯野抄」も、芭蕉終焉のありさまを門弟どもの手記によって再現したという文暁の「花屋日記」に想を得ている。「枯野抄」の執筆時期に相前後して「花屋日記」は偽書であるとささやかれるようになり、かつ澄江堂は偽書と確信していたとも考えられているが、それはささいな問題である。「花屋日記」には記述のない立会人たちの席次にあっても、いざ筆をふるうや、木節以下、治郎兵衛、其角、去来、支考、丈草、乙州、惟然坊、正秀、之道と手際よく、そして意味深長に座敷に並べてしまうさまには、陶然たるものがある。
彼が「花屋日記」という珍しい典籍に関心を持ったのは当然、自身が東洋城の「渋柿」や虚子の「ホトトギス」に句を投じた俳人であったからだろう。〈鉄條に似て蝶の舌暑さかな〉という我鬼の句が「ホトトギス」(大正七年八月号)に載ったあと、当時、主観尊重の旗手として虚子に称揚されていた蛇笏はこれを評して「無名の俳人によつて力作さるる逸品」としたそうだが――むろん、蛇笏は我鬼の正体など知っていたのである――、件の句がのちに〈蝶の舌ゼンマイに似る暑さかな〉という名句に改作されるという事情を差し引いても、蝶の舌なるものと発条との繊細な相似をこともあろうに「暑さ」という大味な季題にべっとりと取り合わせる手腕には、この無名の俳人の感覚の鋭さを思わざるを得ない。
なんにせよ、澄江堂の名前を聞けば、わたしはすなわち才気煥発といったたぐいの言葉を想起することになる。
芥川龍之介忌か水熱く 西村麒麟
『鴨』(平成二九年、文學の森)収載のこの句とは、初出の句会で出合って、心中アッと叫びながら特選に取った。
澄江堂の忌日である七月二四日、その頃の水が熱いのだという。そしてまさにその水の熱気に、この句の主体は、今日が秀才澄江堂の命日であったことを実感し、あるいは思い出したのだ。この「か」は詠嘆の終助詞の「か」。
そのへんの甕や盥に汲んであった水が夏の太陽に晒されて熱を帯びている。これを俳句ではふつう「日向水」というが、作者とてもちろんこの言葉を知らなかったわけではあるまじく、しいて言うならば「日向水」を芥川龍之介忌の熱い水と言い換えているということになる。いくら忌日季語は季節感が薄いから季重なりにしていい、したほうがいいと世の人が言うとはいえ(もっとも、わたしはこのような考え方をいっさい信じていないのだが)、〈芥川龍之介忌か日向水〉では、「か」を挟んで名詞が二つ並んだだけで平坦だから、ちょっとさまにならない。それに、「日向水」というと、あたたかく、またぬくいといった印象になるだろうが、掲句は熱いというのだから、まったく同じというわけでもない。ふつふつと沸かんとするかのごとき気配さえ一抹ある。何気なく手を差し入れてみたら瞬間その熱にやられて驚いている景を想像する。あたかも、聡明で神経質そうな澄江堂がいざ筆を執るや鋭い才をたばしらせ、周囲の人々がそれに遇して唖然とする様子を思わせるではないか。熱い水がフックとなって一句の主体が芥川龍之介の命日を連想したのと同時に、メタ的には、水と主体との関係が澄江堂と周囲との関係と二重写しになって読者の目には映る。
俳句は象徴詩であるという、言い出しっぺが誰なのかはいまひとつ判然としないながらも、根強く、そして正鵠を射た言説があるが、掲句などはその言に随うといっそう読み甲斐が出てくる代物なのである。
ついでにいえば、澄江堂の忌日は、河童忌とか我鬼忌と称され、特に俳句の世界では彼の俳人としての功績を重んじて我鬼忌と詠むことが多いようだが、西村は優雅に「芥川龍之介忌」と詠んだ。長々しい言葉が意表を突くという狙いもあるのかもしれないが、なにより、この句の核は「水熱く」という五音に尽きているという判断があるのだろう。河童忌や我鬼忌と詠めばどんな水だったか描き出す余裕もあるが、澄江堂の姿をしのぶには「水熱く」で充分だと考えたのである。そしてここには「俳句はこれくらいでいいんだよ」という西村の傍白も潜んでいそうだ。
わたしの座右には澄江堂の第三の短編小説集である『傀儡師』(大正八年、皇都新潮社開雕)の復刻版がある。ただし、いまこうして「短編小説集」と書いてしまったのは迂闊なことである。近代日本文学で短編小説という領域を先導したのはほかならぬ澄江堂であって、ましてやそれを一冊の本にするに際して、発表年月日に随わず、作品の趣向に沿って配列するなどという配慮にいたっては、そうした配慮の存在自体、ながらく発見されずにいたことにすぎず、いったいこの一冊のすごみを往時の読者はいかようにして看取していたのか、思うだにただ立ち尽くすのである。
『傀儡師』には「枯野抄」(大正七年九月)という作品が収められている。芭蕉臨終に立ち会った弟子たちの内面を描いた名品で、漱石の葬儀を模したともいう。古典を題材にすることの多かったこの作家のこと、ご多分に漏れず「枯野抄」も、芭蕉終焉のありさまを門弟どもの手記によって再現したという文暁の「花屋日記」に想を得ている。「枯野抄」の執筆時期に相前後して「花屋日記」は偽書であるとささやかれるようになり、かつ澄江堂は偽書と確信していたとも考えられているが、それはささいな問題である。「花屋日記」には記述のない立会人たちの席次にあっても、いざ筆をふるうや、木節以下、治郎兵衛、其角、去来、支考、丈草、乙州、惟然坊、正秀、之道と手際よく、そして意味深長に座敷に並べてしまうさまには、陶然たるものがある。
彼が「花屋日記」という珍しい典籍に関心を持ったのは当然、自身が東洋城の「渋柿」や虚子の「ホトトギス」に句を投じた俳人であったからだろう。〈鉄條に似て蝶の舌暑さかな〉という我鬼の句が「ホトトギス」(大正七年八月号)に載ったあと、当時、主観尊重の旗手として虚子に称揚されていた蛇笏はこれを評して「無名の俳人によつて力作さるる逸品」としたそうだが――むろん、蛇笏は我鬼の正体など知っていたのである――、件の句がのちに〈蝶の舌ゼンマイに似る暑さかな〉という名句に改作されるという事情を差し引いても、蝶の舌なるものと発条との繊細な相似をこともあろうに「暑さ」という大味な季題にべっとりと取り合わせる手腕には、この無名の俳人の感覚の鋭さを思わざるを得ない。
なんにせよ、澄江堂の名前を聞けば、わたしはすなわち才気煥発といったたぐいの言葉を想起することになる。
芥川龍之介忌か水熱く 西村麒麟
『鴨』(平成二九年、文學の森)収載のこの句とは、初出の句会で出合って、心中アッと叫びながら特選に取った。
澄江堂の忌日である七月二四日、その頃の水が熱いのだという。そしてまさにその水の熱気に、この句の主体は、今日が秀才澄江堂の命日であったことを実感し、あるいは思い出したのだ。この「か」は詠嘆の終助詞の「か」。
そのへんの甕や盥に汲んであった水が夏の太陽に晒されて熱を帯びている。これを俳句ではふつう「日向水」というが、作者とてもちろんこの言葉を知らなかったわけではあるまじく、しいて言うならば「日向水」を芥川龍之介忌の熱い水と言い換えているということになる。いくら忌日季語は季節感が薄いから季重なりにしていい、したほうがいいと世の人が言うとはいえ(もっとも、わたしはこのような考え方をいっさい信じていないのだが)、〈芥川龍之介忌か日向水〉では、「か」を挟んで名詞が二つ並んだだけで平坦だから、ちょっとさまにならない。それに、「日向水」というと、あたたかく、またぬくいといった印象になるだろうが、掲句は熱いというのだから、まったく同じというわけでもない。ふつふつと沸かんとするかのごとき気配さえ一抹ある。何気なく手を差し入れてみたら瞬間その熱にやられて驚いている景を想像する。あたかも、聡明で神経質そうな澄江堂がいざ筆を執るや鋭い才をたばしらせ、周囲の人々がそれに遇して唖然とする様子を思わせるではないか。熱い水がフックとなって一句の主体が芥川龍之介の命日を連想したのと同時に、メタ的には、水と主体との関係が澄江堂と周囲との関係と二重写しになって読者の目には映る。
俳句は象徴詩であるという、言い出しっぺが誰なのかはいまひとつ判然としないながらも、根強く、そして正鵠を射た言説があるが、掲句などはその言に随うといっそう読み甲斐が出てくる代物なのである。
ついでにいえば、澄江堂の忌日は、河童忌とか我鬼忌と称され、特に俳句の世界では彼の俳人としての功績を重んじて我鬼忌と詠むことが多いようだが、西村は優雅に「芥川龍之介忌」と詠んだ。長々しい言葉が意表を突くという狙いもあるのかもしれないが、なにより、この句の核は「水熱く」という五音に尽きているという判断があるのだろう。河童忌や我鬼忌と詠めばどんな水だったか描き出す余裕もあるが、澄江堂の姿をしのぶには「水熱く」で充分だと考えたのである。そしてここには「俳句はこれくらいでいいんだよ」という西村の傍白も潜んでいそうだ。
2018年4月27日金曜日
【新連載・西村麒麟特集2】麒麟第2句集『鴨』を読みたい6 鴨評 安里琉太
北斗賞受賞作「想ひ出帳」については、ちょっと頑張った文章を書いたので、今回は気ままに一句ずつ好きに書こうと思う。
第一句集『鶉』は秋から始まっていた。この第二句集『鴨』は新年から始まる。どちらの句集も始まり方、終わり方が全体の雰囲気と密接に関わっている。
見えてゐて京都が遠し絵双六
絵のはなしは絵空事になりやすいから難しいのだけれど、『鴨』には屏風や絵が程よく出てきて嬉しくなる。高橋睦郎氏に「振りふりて上ガれば京や雪ならん」なる句があるが、この京都と京の違いは案外大きい気がしている。
宝舟ひらひらさせてみたりけり
「ゐたりけり」だと笑えすぎちゃう気がする。試しに、手持ち無沙汰で、という感じがすこし笑えていい。クスッとした後に、ひらひらしている宝舟の透け具合とか、色合いとか、そういうところが見えてくる気がする。笑えすぎちゃうと、こういうところに目が行かない感じがする。
初雀鈴の如きが七八羽
すずめ、すず、というように音で展開している。そんなに大きい鈴ではなく、お守りなんかに付いている程度の小さいやつだろう。この比喩は鈴と言いながら、音でもなく、また完全な見立てでもない。思いつくところ、光の当たり具合とか、サイズ感とか、揺れ具合とかである。比喩に収まっているのではなく、比喩が広がりをもっている。
蛇穴を出てゑがかれてゐたりけり
蛇穴を出るという季語の、その後の展開を如何に面白くするか、という作り方に腐心する句を私はよく見る。「蛇穴を出て」と、ちょっと大喜利的な感じがしないでもない季語だ。そっちの方向に陥りすぎず、詩に昇華したいのである。なるほど確かに蛇穴を出てからしか書けないのだけれど。
日の如く印度の月や涅槃像
この比喩も不思議である。涅槃像というけれど、これは涅槃図のなかのことと読みたい。日に月を例えるというのもすごいのだが、経年劣化した月が次第に赤みを帯びて太陽に見えるというのは、凡庸の比喩ではない。何か現実世界の月が降りて、日が昇って、を繰り返している間に、涅槃図の月が古びて太陽になったような、そんな不思議な時間の感覚や幻想を立ち込めさせるように思う。
早蕨を映す鏡としてありぬ
評しづらい、或いはほかの言葉で言い換えられないということは、かなりの大成功なのだと思う。その詩が唯一としてあるように思える。
蛤の水から遠く来たりけり
今井杏太郎に「蛤を焼けばけむりのあがりけり」があるのを、ぼんやり思い出した。とんでもなく当たり前なんだけれど、どこか蜃気楼っぽいかんじもする。この句、「(誰かが、或いは私が)蛤の水から遠く来た」とも「蛤が水から遠く来たのか」とも読めるが、どちらが良いだろう。私は前者の方が好きである。
月光や椿の杖を遊ばせて
いよいよ仙人っぽい感じがする。
食べ応へある白菜を神様に
『鶉』には「けふの月野菜を持参したる人」、「初雁や野菜どつさり持ち帰れ」という句がある。農家と言うよりほまち畑のようなものなのかもしれない。野菜がつなげる関係。
蜷の道水面に何があらうとも
mやnの鼻音に、なんだかまろやかな印象を思う。そのためか、水面の印象もそれに沿ったものを思い浮かべた。「何があらうとも」と言っているものの、何ごともなく過ぎ去っていく時間を思う。
春風やまだそこにある烏瓜
秋からずっとある烏瓜というより、最近見た烏瓜が、或いは来るたびにある烏瓜が、として読みたい。
雨に冷え月に冷えたる蟻地獄
「蟻地獄」と「月」と「冷え」の三つが季語のように思われるが、どれが中心的に働いているのだろうか。「蟻地獄」が夏だと「冷え」の感覚が追い付かない。では、この二回使われた「冷え」がそうかと考えてみるものの、それも違うように思う。この「冷え」は実際の「冷え」のみを言いたいわけではない。「蟻地獄」を雨が物質的に溺れさせ、冷える。雨がひいて空虚になった蟻地獄は更に月明に溺れて、冷える。二つの特性の違ったものによって冷やされていることを考えると一つ目の「冷え」と二つ目の「冷え」が違っていることが分かる。そして、その何れも非常に観念的な「冷え」を内包しているように思える。残るは「月」だが、これが他の二つをうまく包括しているように思える。長雨のあとのすさまじい月明。「雨」とか「月」といった天文の言葉と「地獄」という言葉の出会いが、観念的な「冷え」を何か空間的な大きさにまで広げているように思う。かなりレトリカルな印象だ。
まだまだ挙げたいところだが、キリがないので、ぜひ『鴨』を手にとってもらえればと思う。そして、この句集について、一緒に話せればと思う。
第一句集『鶉』は秋から始まっていた。この第二句集『鴨』は新年から始まる。どちらの句集も始まり方、終わり方が全体の雰囲気と密接に関わっている。
見えてゐて京都が遠し絵双六
絵のはなしは絵空事になりやすいから難しいのだけれど、『鴨』には屏風や絵が程よく出てきて嬉しくなる。高橋睦郎氏に「振りふりて上ガれば京や雪ならん」なる句があるが、この京都と京の違いは案外大きい気がしている。
宝舟ひらひらさせてみたりけり
「ゐたりけり」だと笑えすぎちゃう気がする。試しに、手持ち無沙汰で、という感じがすこし笑えていい。クスッとした後に、ひらひらしている宝舟の透け具合とか、色合いとか、そういうところが見えてくる気がする。笑えすぎちゃうと、こういうところに目が行かない感じがする。
初雀鈴の如きが七八羽
すずめ、すず、というように音で展開している。そんなに大きい鈴ではなく、お守りなんかに付いている程度の小さいやつだろう。この比喩は鈴と言いながら、音でもなく、また完全な見立てでもない。思いつくところ、光の当たり具合とか、サイズ感とか、揺れ具合とかである。比喩に収まっているのではなく、比喩が広がりをもっている。
蛇穴を出てゑがかれてゐたりけり
蛇穴を出るという季語の、その後の展開を如何に面白くするか、という作り方に腐心する句を私はよく見る。「蛇穴を出て」と、ちょっと大喜利的な感じがしないでもない季語だ。そっちの方向に陥りすぎず、詩に昇華したいのである。なるほど確かに蛇穴を出てからしか書けないのだけれど。
日の如く印度の月や涅槃像
この比喩も不思議である。涅槃像というけれど、これは涅槃図のなかのことと読みたい。日に月を例えるというのもすごいのだが、経年劣化した月が次第に赤みを帯びて太陽に見えるというのは、凡庸の比喩ではない。何か現実世界の月が降りて、日が昇って、を繰り返している間に、涅槃図の月が古びて太陽になったような、そんな不思議な時間の感覚や幻想を立ち込めさせるように思う。
早蕨を映す鏡としてありぬ
評しづらい、或いはほかの言葉で言い換えられないということは、かなりの大成功なのだと思う。その詩が唯一としてあるように思える。
蛤の水から遠く来たりけり
今井杏太郎に「蛤を焼けばけむりのあがりけり」があるのを、ぼんやり思い出した。とんでもなく当たり前なんだけれど、どこか蜃気楼っぽいかんじもする。この句、「(誰かが、或いは私が)蛤の水から遠く来た」とも「蛤が水から遠く来たのか」とも読めるが、どちらが良いだろう。私は前者の方が好きである。
月光や椿の杖を遊ばせて
いよいよ仙人っぽい感じがする。
食べ応へある白菜を神様に
『鶉』には「けふの月野菜を持参したる人」、「初雁や野菜どつさり持ち帰れ」という句がある。農家と言うよりほまち畑のようなものなのかもしれない。野菜がつなげる関係。
蜷の道水面に何があらうとも
mやnの鼻音に、なんだかまろやかな印象を思う。そのためか、水面の印象もそれに沿ったものを思い浮かべた。「何があらうとも」と言っているものの、何ごともなく過ぎ去っていく時間を思う。
春風やまだそこにある烏瓜
秋からずっとある烏瓜というより、最近見た烏瓜が、或いは来るたびにある烏瓜が、として読みたい。
雨に冷え月に冷えたる蟻地獄
「蟻地獄」と「月」と「冷え」の三つが季語のように思われるが、どれが中心的に働いているのだろうか。「蟻地獄」が夏だと「冷え」の感覚が追い付かない。では、この二回使われた「冷え」がそうかと考えてみるものの、それも違うように思う。この「冷え」は実際の「冷え」のみを言いたいわけではない。「蟻地獄」を雨が物質的に溺れさせ、冷える。雨がひいて空虚になった蟻地獄は更に月明に溺れて、冷える。二つの特性の違ったものによって冷やされていることを考えると一つ目の「冷え」と二つ目の「冷え」が違っていることが分かる。そして、その何れも非常に観念的な「冷え」を内包しているように思える。残るは「月」だが、これが他の二つをうまく包括しているように思える。長雨のあとのすさまじい月明。「雨」とか「月」といった天文の言葉と「地獄」という言葉の出会いが、観念的な「冷え」を何か空間的な大きさにまで広げているように思う。かなりレトリカルな印象だ。
まだまだ挙げたいところだが、キリがないので、ぜひ『鴨』を手にとってもらえればと思う。そして、この句集について、一緒に話せればと思う。
2018年4月6日金曜日
【新連載・西村麒麟特集2】麒麟第2句集『鴨』を読みたい5 千年宇宙のパースペクティブ 佐藤りえ
『鴨』を読みながら、思うことが二つあった。ひとつめは、そのパースペクティブの自在さについて、である。
見えてゐて京都が遠し絵双六
句集冒頭の一句。今日のすごろくは多種多様な題材のものがあるが、絵双六といえば「東海道五十三次」、日本橋を出て京都までを行く廻り双六が浮かぶ。指でたどれば数センチの場所にある「あがり」の京都が、数十コマを経なければたどり着けない、まさに「見えてゐて遠い」状態だ。床に広げて遊んでいる、賽の目がはかどらず、進みの遅さに辟易している尺の「遠さ」と、平面世界の東海道を進む、双六の「中の距離」の「遠さ」を二重写しに読むと、より楽しい。
蛇穴を出てゑがかれてゐたりけり
こちらも二次元と三次元の問題(?)が同一視されているようである。蛇の絵を描いているか、描かれた蛇を見ているのか。穴を出ようとして(あるいは全身が出て)その結果描かれてしまった、とは、なんとなく「星の王子さま」のウワバミの話を思い出してしまった。「ゑがかれてゐたりけり」には、たとえば絵の見事さに驚く、というような趣ではない、「穴を出てしまったから絵になってしまった」「穴を出なければ描かれなかったのに」というような「あれあれ」な感興をおぼえる。
早蕨を映す鏡としてありぬ
庭の片隅か、林の中か、とにかく芽吹く蕨を見つけた。それらがうつる水の存在を「映す鏡」と描写している。水の素性は鏡として提示されているだけで、潦なのか、小川なのか、全貌は要として知れないが、「鏡」なのだから、澄んで静かに留まる水なのだろう。「~としてありぬ」という提示のされ方から、眼目は早蕨から名もなき止水の側へ移りゆく。その水は、春を待ち、早蕨のためにあったのだろう、と、水に存在意義を与えているようでもある。
砧打つ千年前の科挙に落ち
砧打ちの地味な、力のいる、根気のいる仕事について、この労働は、千年前の科挙に失敗したせいである、というニュアンスのある結句になっている。罰ゲーム的な感覚のようでもある。たいへんな時間の飛躍が「砧」と「科挙」のあいだに流れていることが、もうおかしい。因果によってやらなければならないのだと思わねば、やっておれぬほどに、必死に叩いているのだろうか。
隠れ住む人かがんぴの花咲かせ
和紙の原料となる雁皮は栽培の難しい木だが、野生の木を森林で目にすることはそれほど珍しくはない。やせた山野にも育つ地味な低木で、生育は遅く、白い地味な花が咲く。
「隠れ住む人」の表現から、里山あたりの、居住地を少し離れた、人目につかないあばら家を想像させる。人気のなくなった家屋に寄り添うように自生する花を、「咲かせ」る人の不在のアリバイとして描いているのがおもしろい。たった今はいないけれど、そこに人がいるのだろう、という、「早蕨を映す鏡としてありぬ」同様に、眼目そのものを直接描かず、焙り出すかたちで存在感を与えている。
このように、二次元/三次元、在/非在、現在/過去を自在に持ち寄りながら、『鴨』の句は「見たままを詠む」という作句上達法最大の「嘘」を軽々とクリアしてみせている。平明に、「ありのまま」言っているっぽく見せながら、実際は観察から内省を通って一句が成り立つ間に、とんでもなく遠いところまで行って帰ってきているのが、これらの句の見所だ。
内部機関を循環して濾過された水が、器に巧妙に、整然と配されているかのような作りは、あまりに手際がただしく、突発的なところを伺わせないがために、その内省が「仙人的」とか「達観」といった印象を与えているのだろう。
ここでもう一つの思うこと、「挨拶性」を挙げたい。
花衣そのまま鍋の蓋開けて
久女は「花衣ぬぐやまつはる紐いろ/\」と、帰宅次第ちゃっちゃと脱いでしまうが、ここでは装いそのままに鍋の蓋を開けている。「そのまま」が筆者との距離と少しの時間経過を伝える。現在の花衣の主はよそゆきのまま鍋を構っちゃってるなあ、と微笑ましく見つめているようだ。「ぬぐやまつはる」の鬱屈と「そのまま鍋の蓋」の鷹揚さを対比するのは深読みかもしれないが、先行句を思うと、より鷹揚さがいとおしくなってくる。
長身の千利休が果てたる日
千利休の忌日は旧暦の二月二十八日、現在の三月二十八日にあたる。利休のものとされる現存する甲冑の寸法から、茶人は180センチ余という、当時としては相当に大男だったであろうことが伝わっている。その、おおきなおおきな利休が、太閤秀吉から切腹を言い渡され果てた日は、春たけなわを待つ時期の一日だった。この春の日に、かつて、物理的にも、文化的にもおおきな男が果てた。その欠落を、「そういうことのあった日」としてのみ描いている。忌日の性格を自然描写に語らせるのではなく、春の、今日のこの日が「そういう日」であると語る、逆説的な構造を持ったこの句は印象深い。
これらの句は、現在性を厳格にたもちながら、さらにおおいなる時間への挨拶を内包しているように見える。
今日のこの日に、無数の「かつて」が絡まっている。「かつて」を持ち重りのする荷物としてでなく、あくまで軽く手に取って、現在に混ぜてみせるのが、麒麟流ではないだろうか。
「軽さ」というキーワードは、「身軽さ」として、前述したパースペクティブとも密接に関わっているように思う。
焚火して宇宙の隅にゐたりけり
句集の中から特に好きな句をひいた。集中には他にも焚火の句(「栃木かな春の焚火を七つ見て」「俊成は好きな翁や夕焚火」など)があるが、どの焚火もまったくといっていいほど象徴性を帯びていないところも、麒麟氏らしい。
この句には、足下の小さな焚火から、どんどんカメラがひいていき、関東平野、日本、地球、太陽系、とどんどん遠ざかっていくイメージを持つ。「宇宙の隅」という把握が、火を扱う主体を、非常な遠さから見守っているようだからだ。
もし、いつか、どこか別の銀河から宇宙人がやってきたとして、麒麟さんなら、「やあこんにちは、どちら様ですか」と、焚火を囲む輪に迎え入れてあげるのではないだろうか。
見えてゐて京都が遠し絵双六
句集冒頭の一句。今日のすごろくは多種多様な題材のものがあるが、絵双六といえば「東海道五十三次」、日本橋を出て京都までを行く廻り双六が浮かぶ。指でたどれば数センチの場所にある「あがり」の京都が、数十コマを経なければたどり着けない、まさに「見えてゐて遠い」状態だ。床に広げて遊んでいる、賽の目がはかどらず、進みの遅さに辟易している尺の「遠さ」と、平面世界の東海道を進む、双六の「中の距離」の「遠さ」を二重写しに読むと、より楽しい。
蛇穴を出てゑがかれてゐたりけり
こちらも二次元と三次元の問題(?)が同一視されているようである。蛇の絵を描いているか、描かれた蛇を見ているのか。穴を出ようとして(あるいは全身が出て)その結果描かれてしまった、とは、なんとなく「星の王子さま」のウワバミの話を思い出してしまった。「ゑがかれてゐたりけり」には、たとえば絵の見事さに驚く、というような趣ではない、「穴を出てしまったから絵になってしまった」「穴を出なければ描かれなかったのに」というような「あれあれ」な感興をおぼえる。
早蕨を映す鏡としてありぬ
庭の片隅か、林の中か、とにかく芽吹く蕨を見つけた。それらがうつる水の存在を「映す鏡」と描写している。水の素性は鏡として提示されているだけで、潦なのか、小川なのか、全貌は要として知れないが、「鏡」なのだから、澄んで静かに留まる水なのだろう。「~としてありぬ」という提示のされ方から、眼目は早蕨から名もなき止水の側へ移りゆく。その水は、春を待ち、早蕨のためにあったのだろう、と、水に存在意義を与えているようでもある。
砧打つ千年前の科挙に落ち
砧打ちの地味な、力のいる、根気のいる仕事について、この労働は、千年前の科挙に失敗したせいである、というニュアンスのある結句になっている。罰ゲーム的な感覚のようでもある。たいへんな時間の飛躍が「砧」と「科挙」のあいだに流れていることが、もうおかしい。因果によってやらなければならないのだと思わねば、やっておれぬほどに、必死に叩いているのだろうか。
隠れ住む人かがんぴの花咲かせ
和紙の原料となる雁皮は栽培の難しい木だが、野生の木を森林で目にすることはそれほど珍しくはない。やせた山野にも育つ地味な低木で、生育は遅く、白い地味な花が咲く。
「隠れ住む人」の表現から、里山あたりの、居住地を少し離れた、人目につかないあばら家を想像させる。人気のなくなった家屋に寄り添うように自生する花を、「咲かせ」る人の不在のアリバイとして描いているのがおもしろい。たった今はいないけれど、そこに人がいるのだろう、という、「早蕨を映す鏡としてありぬ」同様に、眼目そのものを直接描かず、焙り出すかたちで存在感を与えている。
このように、二次元/三次元、在/非在、現在/過去を自在に持ち寄りながら、『鴨』の句は「見たままを詠む」という作句上達法最大の「嘘」を軽々とクリアしてみせている。平明に、「ありのまま」言っているっぽく見せながら、実際は観察から内省を通って一句が成り立つ間に、とんでもなく遠いところまで行って帰ってきているのが、これらの句の見所だ。
内部機関を循環して濾過された水が、器に巧妙に、整然と配されているかのような作りは、あまりに手際がただしく、突発的なところを伺わせないがために、その内省が「仙人的」とか「達観」といった印象を与えているのだろう。
ここでもう一つの思うこと、「挨拶性」を挙げたい。
花衣そのまま鍋の蓋開けて
久女は「花衣ぬぐやまつはる紐いろ/\」と、帰宅次第ちゃっちゃと脱いでしまうが、ここでは装いそのままに鍋の蓋を開けている。「そのまま」が筆者との距離と少しの時間経過を伝える。現在の花衣の主はよそゆきのまま鍋を構っちゃってるなあ、と微笑ましく見つめているようだ。「ぬぐやまつはる」の鬱屈と「そのまま鍋の蓋」の鷹揚さを対比するのは深読みかもしれないが、先行句を思うと、より鷹揚さがいとおしくなってくる。
長身の千利休が果てたる日
千利休の忌日は旧暦の二月二十八日、現在の三月二十八日にあたる。利休のものとされる現存する甲冑の寸法から、茶人は180センチ余という、当時としては相当に大男だったであろうことが伝わっている。その、おおきなおおきな利休が、太閤秀吉から切腹を言い渡され果てた日は、春たけなわを待つ時期の一日だった。この春の日に、かつて、物理的にも、文化的にもおおきな男が果てた。その欠落を、「そういうことのあった日」としてのみ描いている。忌日の性格を自然描写に語らせるのではなく、春の、今日のこの日が「そういう日」であると語る、逆説的な構造を持ったこの句は印象深い。
これらの句は、現在性を厳格にたもちながら、さらにおおいなる時間への挨拶を内包しているように見える。
今日のこの日に、無数の「かつて」が絡まっている。「かつて」を持ち重りのする荷物としてでなく、あくまで軽く手に取って、現在に混ぜてみせるのが、麒麟流ではないだろうか。
「軽さ」というキーワードは、「身軽さ」として、前述したパースペクティブとも密接に関わっているように思う。
焚火して宇宙の隅にゐたりけり
句集の中から特に好きな句をひいた。集中には他にも焚火の句(「栃木かな春の焚火を七つ見て」「俊成は好きな翁や夕焚火」など)があるが、どの焚火もまったくといっていいほど象徴性を帯びていないところも、麒麟氏らしい。
この句には、足下の小さな焚火から、どんどんカメラがひいていき、関東平野、日本、地球、太陽系、とどんどん遠ざかっていくイメージを持つ。「宇宙の隅」という把握が、火を扱う主体を、非常な遠さから見守っているようだからだ。
もし、いつか、どこか別の銀河から宇宙人がやってきたとして、麒麟さんなら、「やあこんにちは、どちら様ですか」と、焚火を囲む輪に迎え入れてあげるのではないだろうか。
2018年3月23日金曜日
【新連載・西村麒麟特集2】麒麟第2句集『鴨』を読みたい4 ある日の麒麟さん句会 服部さやか
このほど、ご縁があって麒麟さんの句会にお邪魔している。何かとぼんやりしているので、麒麟さんが様々な賞を取られている実はすごい人だということに気づいたのは句会に行き始めてからで、もう少しでもその事実をしっかり認識していたら、こんな心持ちでは参加していなかっただろうなとつくづく思う。
句会での鑑賞にしてもメンバーの方々との差は歴然。しかし、何も考えずに飛び込んでしまったのだから、ある意味当然であり大して気にしていない。そんなポジションの私が、句会でいかに伸び伸びと鑑賞(というよりも感想)をしているかというと、こんな感じである。
水槽の中緑なる西日かな
最初、西日=赤のイメージで、緑と赤の色彩コントラストが鮮やかな句だなと思ってしまったのですが、水槽の中のただ濁ったような緑色が光にさらされることで水草のうごめきに変わり、生命のある様がふわっと浮き上がってくるような感覚で素敵な句だなと思います。
白とも違ふ冬枯の芒かな
白ではないですよね。やわらかい光の色なのかどうか。と、そんなことを考えながらそうした風景の中にいる自分、という映像が浮かんできました。
炎昼や地図をくるくる回しつつ
方向音痴の人は地図を回すといいますよね。暑い中、すごく迷って大変だなと思うとともに、「炎昼」なので周りの景色が白く飛んで、迷っている姿だけがクローズアップされてくるのがいいなと思います。
水中を驚かしたる夏の雨
水泳の授業を思い出しました。水の中にいると雨だとは一瞬わからず、何が起こったのかと不思議な思いにとらわれたりしますが、水中で雨を感じることができるのは、やはり夏・・・。(と最初の文に戻ってゆく。)
電球の音がちりちり蚊帳の上
ちりちりという電球の音で表わされる夜の暗さや静けさ。暗闇に電球のわずかな光だけがあるような。そして、ただ電球を見上げているのかと思いきや、ふと蚊帳の中に入ってしまっているというワープみたいな感覚がおもしろくてよいなと。
雛納め肌ある場所を撫でてをり
こういうのは無意識の行為なのでしょうか、ほのかな好意に対しての。髪や着物ではなく肌。その質感や感触といったものが雛への心の距離感のように感じられ、この何気ない仕草にとても共感できます。
秋風やここは手ぶらで過ごす場所
手ぶら=何も持たないことは「無心」とは違うけれど、他の季節のように風に感情を抱かず、心に何も持たないで風だけをただ感じることができるのは秋なのかなと。何もないことの自由さを感じます。
無き如く小さき川や飛ぶ螢
「無き如く」にわずかでも、流れていれば水と認められる。水があるところには生命があり、そこへ螢。何か生命の神秘のように思えました。
随分自由に書きました。
場違いな所に来てしまったなと思いつつも、あまり気後れせずに感想を述べることができるのも、偏に麒麟さんの大らかな人柄や句会メンバーの温かさのおかげである。文法や俳句の形式的なことで誤った解釈をした場合でも興味深く耳を傾けてくれ、修正すべきはやんわりと、しかし否定するようなことは決してない。国語の問題のように、読み方としての正解はあるのだろうけれど、「思うことは自由」といった「自由さ」を残してくれている。この『鴨』という句集にしても、「全然違うよ」と思われる読み方をしているかもしれないが、自由に、思いのままに麒麟さんの世界を楽しむことを許していただきたいなと思う。
句会での鑑賞にしてもメンバーの方々との差は歴然。しかし、何も考えずに飛び込んでしまったのだから、ある意味当然であり大して気にしていない。そんなポジションの私が、句会でいかに伸び伸びと鑑賞(というよりも感想)をしているかというと、こんな感じである。
水槽の中緑なる西日かな
最初、西日=赤のイメージで、緑と赤の色彩コントラストが鮮やかな句だなと思ってしまったのですが、水槽の中のただ濁ったような緑色が光にさらされることで水草のうごめきに変わり、生命のある様がふわっと浮き上がってくるような感覚で素敵な句だなと思います。
白とも違ふ冬枯の芒かな
白ではないですよね。やわらかい光の色なのかどうか。と、そんなことを考えながらそうした風景の中にいる自分、という映像が浮かんできました。
炎昼や地図をくるくる回しつつ
方向音痴の人は地図を回すといいますよね。暑い中、すごく迷って大変だなと思うとともに、「炎昼」なので周りの景色が白く飛んで、迷っている姿だけがクローズアップされてくるのがいいなと思います。
水中を驚かしたる夏の雨
水泳の授業を思い出しました。水の中にいると雨だとは一瞬わからず、何が起こったのかと不思議な思いにとらわれたりしますが、水中で雨を感じることができるのは、やはり夏・・・。(と最初の文に戻ってゆく。)
電球の音がちりちり蚊帳の上
ちりちりという電球の音で表わされる夜の暗さや静けさ。暗闇に電球のわずかな光だけがあるような。そして、ただ電球を見上げているのかと思いきや、ふと蚊帳の中に入ってしまっているというワープみたいな感覚がおもしろくてよいなと。
雛納め肌ある場所を撫でてをり
こういうのは無意識の行為なのでしょうか、ほのかな好意に対しての。髪や着物ではなく肌。その質感や感触といったものが雛への心の距離感のように感じられ、この何気ない仕草にとても共感できます。
秋風やここは手ぶらで過ごす場所
手ぶら=何も持たないことは「無心」とは違うけれど、他の季節のように風に感情を抱かず、心に何も持たないで風だけをただ感じることができるのは秋なのかなと。何もないことの自由さを感じます。
無き如く小さき川や飛ぶ螢
「無き如く」にわずかでも、流れていれば水と認められる。水があるところには生命があり、そこへ螢。何か生命の神秘のように思えました。
随分自由に書きました。
場違いな所に来てしまったなと思いつつも、あまり気後れせずに感想を述べることができるのも、偏に麒麟さんの大らかな人柄や句会メンバーの温かさのおかげである。文法や俳句の形式的なことで誤った解釈をした場合でも興味深く耳を傾けてくれ、修正すべきはやんわりと、しかし否定するようなことは決してない。国語の問題のように、読み方としての正解はあるのだろうけれど、「思うことは自由」といった「自由さ」を残してくれている。この『鴨』という句集にしても、「全然違うよ」と思われる読み方をしているかもしれないが、自由に、思いのままに麒麟さんの世界を楽しむことを許していただきたいなと思う。
2018年3月9日金曜日
【新連載・西村麒麟特集2】麒麟第2句集『鴨』を読みたい3 乗れない流れへの強烈な関心 中西亮太
麒麟さんの句集をどう切り取るか。明るさと暗さ、俗と雅…。多くの句集がそうであるようにこの『鴨』も多様に語ることができる句集であったと振り返る。
僕が興味を持った句の中で描かれる人物(麒麟さんだろう)は「流れ」に乗れない。
ささやかな雪合戦がすぐ後ろ
友達が滑つて行きぬスキー場
踊子の妻が流れて行きにけり
『鴨』のベースになったとも言える北斗賞受賞作「思ひ出帳」を鑑賞した際、僕はこうした句を「ポジティブな諦観」を表現したものとして解釈した(※1)。出来事の渦中にいないことを「画」にして切り取り、ある種の開き直りを見せることで句を作る技法として捉えたのだ。つまり出来事や流れに「乗らない」という態度による句作である。
しかし『鴨』を読み進める中で、作中人物は流れに「乗らない」のではなく「乗れない」と捉えたほうがよいのではないかと思うようになった。『鴨』で描かれる人物は流れに乗らないという強気な選択を行う人物には思えない。むしろあまりにも弱々しい人物が描かれているように思えるのだ。
我を狩るつもりの大き蟷螂よ
本当は「雪合戦が羨ましい」「一緒にスキーを滑りたい」「踊りを踊りたい」…。ポジティブな諦観という技法によって描かれる人物は、その技法に反比例するように出来事や流れへの強烈な関心を持っているようにさえ見える。
雪の日や大きな傘を持たされて
こう解釈すればこの「雪の日や」の句も、傘を持たされる背景にある出来事への強烈な関心を読み取ることができる。
ところで、こうした作中人物に共感する人は多いのではないだろうか(僕はとても共感するのだが…)。目の前の出来事に関心を持っているものの、空気や流れを読みすぎてしまう。「一緒にやろうよ」と誘われれば幸い。最後は流れに乗れず孤独を感じてしまうのである。
禁酒して詰まらぬ人として端居
以上、句に潜む技法とそれによって反比例的に描かれる作中人物の感情を解釈してみた。書き終えてみると、『鴨』の持つポテンシャルを描ききれないことに悔しさを感じる。拙い文章ではあるが『鴨』の一面を描いたと信じて筆を止めたい。
最後に、麒麟さん、句集上梓おめでとうございます。引き続きよろしくお願いいたします。
※1中西亮太「喚起する俳人」
(https://sengohaiku.blogspot.jp/2017/05/kirin2.html)
僕が興味を持った句の中で描かれる人物(麒麟さんだろう)は「流れ」に乗れない。
ささやかな雪合戦がすぐ後ろ
友達が滑つて行きぬスキー場
踊子の妻が流れて行きにけり
『鴨』のベースになったとも言える北斗賞受賞作「思ひ出帳」を鑑賞した際、僕はこうした句を「ポジティブな諦観」を表現したものとして解釈した(※1)。出来事の渦中にいないことを「画」にして切り取り、ある種の開き直りを見せることで句を作る技法として捉えたのだ。つまり出来事や流れに「乗らない」という態度による句作である。
しかし『鴨』を読み進める中で、作中人物は流れに「乗らない」のではなく「乗れない」と捉えたほうがよいのではないかと思うようになった。『鴨』で描かれる人物は流れに乗らないという強気な選択を行う人物には思えない。むしろあまりにも弱々しい人物が描かれているように思えるのだ。
我を狩るつもりの大き蟷螂よ
本当は「雪合戦が羨ましい」「一緒にスキーを滑りたい」「踊りを踊りたい」…。ポジティブな諦観という技法によって描かれる人物は、その技法に反比例するように出来事や流れへの強烈な関心を持っているようにさえ見える。
雪の日や大きな傘を持たされて
こう解釈すればこの「雪の日や」の句も、傘を持たされる背景にある出来事への強烈な関心を読み取ることができる。
ところで、こうした作中人物に共感する人は多いのではないだろうか(僕はとても共感するのだが…)。目の前の出来事に関心を持っているものの、空気や流れを読みすぎてしまう。「一緒にやろうよ」と誘われれば幸い。最後は流れに乗れず孤独を感じてしまうのである。
禁酒して詰まらぬ人として端居
以上、句に潜む技法とそれによって反比例的に描かれる作中人物の感情を解釈してみた。書き終えてみると、『鴨』の持つポテンシャルを描ききれないことに悔しさを感じる。拙い文章ではあるが『鴨』の一面を描いたと信じて筆を止めたい。
最後に、麒麟さん、句集上梓おめでとうございます。引き続きよろしくお願いいたします。
※1中西亮太「喚起する俳人」
(https://sengohaiku.blogspot.jp/2017/05/kirin2.html)
【新連載・西村麒麟特集2】麒麟第2句集『鴨』を読みたい2 ささやかさ 岡田一実
ずっと昔から麒麟さんを知っている気がする。というのは俳句ウェブマガジン「スピカ」の「キリンの部屋」の初期からの読者だったからだ。「キリンの部屋」はご存じの通り、麒麟さんの日常や周辺を描いた「枕」から始まる。長年その「枕」のファンだった。なので、好みの女性像(いわゆる菩薩顔)がわかるし、苦手なこと(珍しい料理を食べ慣れないところで食べるとか)も知っている。アルファベットで表される友人の俳人たちもだいたい想像できる(ただし、現実感があるかといえば、夢の中の話のようなエピソードが多い)。名人の落語家のように面白い「枕」をさっと切り上げて本題に入るスタイル、本題へのツッコミのようなコメントもまた面白かった。
去年の秋、上京する際に連絡を取ってお食事することになった。ずっとわくわくしていたし緊張もしていたのだが、お目にかかると「ああ、知っている麒麟さんだな」と思った。「キリンの部屋」の麒麟さん、そのままの正直で楽しい人だった。
「正直な印象」。それはその後送って下さった第二句集『鴨』でも感じた。虚勢を張ったところがない。丁寧に趣向を届けている。
ささやかな雪合戦がすぐ後ろ 麒麟
ささやかだな、と思う。「ささやかな」と書いてあるのだからそうなのだけど、ささやかな賑わいをただ察知している姿、自分はその賑わいには加わらないという距離の取り方が、孤独感、というと言い過ぎかもしれないが、「ひとり」な感じを浮き上がらせる。
こういう「ひとり」な感じの句は割と多い。
栃木かな春の焚火を七つ見て 麒麟
この句も「ひとり」な感じがする。「見て」という感覚が個人的だということもあるかもしれないが、「栃木」という土地の響きが《栃木にいろいろ雨のたましいもいたり 阿部完市》などの先行句のイメージは引きつつ、読者には必然性がわからない個人的に思い入れのある場所のように感じるからだろう。
もちろん「俳句」という形式が「ひとり」の感慨を表出するもの、ということはあるかもしれない。しかし、その感慨がささやかであればあるほど個人的な印象を与え、読者はいわゆる「共感」とは別の驚きと興を感じながら句の世界に入っていくことになる。
嫁菜飯宿の暗さも気に入つて 麒麟
大鯰ぽかりと叩きたき顔の
紫陽花や傘盗人に不幸あれ
夕立が来さうで来たり走るなり
灯籠の苔の感じも秋らしく
冬の雲会社に行かず遠出せず
学校のうさぎに嘘を教えけり
「気に入つて」という好み、「叩きたき」という欲望、「不幸あれ」という願い、「走るなり」という勢い、「苔の感じ」という大雑把な把握、「行かず」「せず」という意思、「嘘を教えけり」という面白がりよう、どれもささやかで個人的で「ひとり」という感じがする。
麒麟さんの「ひとり」感は寂しそうではない。自分の心の動きを楽しげに明瞭に描いているからだろう。
きらきらと我の思考や桜餅 麒麟
この自己肯定感。「ひとり」であることのきらめき、美しさを屈託なく受け入れることによって、「ひとり」であっても暗くも寂しくもさほどない開かれた世界と感応できるのだと思うと、すこし羨ましくもある。
去年の秋、上京する際に連絡を取ってお食事することになった。ずっとわくわくしていたし緊張もしていたのだが、お目にかかると「ああ、知っている麒麟さんだな」と思った。「キリンの部屋」の麒麟さん、そのままの正直で楽しい人だった。
「正直な印象」。それはその後送って下さった第二句集『鴨』でも感じた。虚勢を張ったところがない。丁寧に趣向を届けている。
ささやかな雪合戦がすぐ後ろ 麒麟
ささやかだな、と思う。「ささやかな」と書いてあるのだからそうなのだけど、ささやかな賑わいをただ察知している姿、自分はその賑わいには加わらないという距離の取り方が、孤独感、というと言い過ぎかもしれないが、「ひとり」な感じを浮き上がらせる。
こういう「ひとり」な感じの句は割と多い。
栃木かな春の焚火を七つ見て 麒麟
この句も「ひとり」な感じがする。「見て」という感覚が個人的だということもあるかもしれないが、「栃木」という土地の響きが《栃木にいろいろ雨のたましいもいたり 阿部完市》などの先行句のイメージは引きつつ、読者には必然性がわからない個人的に思い入れのある場所のように感じるからだろう。
もちろん「俳句」という形式が「ひとり」の感慨を表出するもの、ということはあるかもしれない。しかし、その感慨がささやかであればあるほど個人的な印象を与え、読者はいわゆる「共感」とは別の驚きと興を感じながら句の世界に入っていくことになる。
嫁菜飯宿の暗さも気に入つて 麒麟
大鯰ぽかりと叩きたき顔の
紫陽花や傘盗人に不幸あれ
夕立が来さうで来たり走るなり
灯籠の苔の感じも秋らしく
冬の雲会社に行かず遠出せず
学校のうさぎに嘘を教えけり
「気に入つて」という好み、「叩きたき」という欲望、「不幸あれ」という願い、「走るなり」という勢い、「苔の感じ」という大雑把な把握、「行かず」「せず」という意思、「嘘を教えけり」という面白がりよう、どれもささやかで個人的で「ひとり」という感じがする。
麒麟さんの「ひとり」感は寂しそうではない。自分の心の動きを楽しげに明瞭に描いているからだろう。
きらきらと我の思考や桜餅 麒麟
この自己肯定感。「ひとり」であることのきらめき、美しさを屈託なく受け入れることによって、「ひとり」であっても暗くも寂しくもさほどない開かれた世界と感応できるのだと思うと、すこし羨ましくもある。
2018年2月23日金曜日
【新連載・西村麒麟特集2】麒麟第2句集『鴨』を読みたい 1.置いてけぼりの人 野住朋可
麒麟さんの俳句は置いてけぼりの人の俳句だと思っていた。
見えてゐて京都が遠し絵双六
みんなはすでに京都でキャッキャウフフ。
友達が滑つて行きぬスキー場
きっと本人はまだスキーを履いているところ。
計算ではなく、なぜだか当然のように置いて行かれる人なのだ。そして、少し遅れた位置から、みんなのことをいつも見ている。そのことをポジティブにもネガティブにも感じていなさそうなところに、好感が持てる。
何の鮨あるか見てゐる生身魂
岡山へ行きたし桃を五つ食べ
一句目、賑やかにご飯の準備をする人たちを尻目に寿司を物色していると、なんだか自分が違う次元の存在になったような、生身魂にでもなったような気分になる。二句目、会いたい人でもいるのだろうか。「今頃岡山では…」と考えているとそわそわしてきて、それが治まるのには桃が五つも必要だったのだ。置いてけぼりの人の暮らしは、面白くて少しキュンとなる。
少し寝る夏座布団を腹に当て
秋風やここは手ぶらで過ごす場所
冬の雲会社に行かず遠出せず
みんなといるより、一人が好きな人だと思う。どう過ごしているかというと、とことん何もしない。起きない、持たない、出かけない。暇な時間は暇でいるためにある、と言わんばかりに過ごす。なので、「夕立が来さうで来たり走るなり」なんて句に出会うと、飛び上がってしまう。走るんだこの人…。
少し待つ秋の日傘を預かりて
妻留守の半日ほどや金魚玉
妻と暮らしても暇だ。彼女があれこれ用事をしたり出かけたりする一方で、自分はぼんやり待っている。あるいはここでも、妻に置いてけぼりを食らっているとも言えるかもしれない。
ところが、よくよく読んでみると置いて行かれてばかりではないことに気が付く。
金沢の見るべきは見て燗熱し
金沢には見るべき場所が山ほどあって、2~3日ではとても回り切れない。タイトな観光でへとへとの人達がようやく宿に帰ってくると、彼は「見るべきは見て」とっくに熱燗を始めている。置いてけぼりにされたのは、こちらの方だったのだ。
朝食の筍掘りに付き合へよ
踊り子の妻が流れて行きにけり
誰よりも早起きして、筍掘りに行こうとみんなを起こして回る。ちゃんと散歩を兼ねた下見も終えて、早く案内したくてしょうがない。踊りの輪にも、入り損ねたのではないのだろう。彼自身はすでに2周3周と踊り進んでおり、その状態から妻を見ているのではないか。
こういった観点から『鴨』を読み返すと、同じくらいの立ち位置から景を見ていたつもりだったのに、実はどの句も何周も先の地点から読まれているような気がしてくる。そんな時私は麒麟さんが「現代の隠者」や「仙人」と評されることを思い出し、改めて納得してしまうのである。
見えてゐて京都が遠し絵双六
みんなはすでに京都でキャッキャウフフ。
友達が滑つて行きぬスキー場
きっと本人はまだスキーを履いているところ。
計算ではなく、なぜだか当然のように置いて行かれる人なのだ。そして、少し遅れた位置から、みんなのことをいつも見ている。そのことをポジティブにもネガティブにも感じていなさそうなところに、好感が持てる。
何の鮨あるか見てゐる生身魂
岡山へ行きたし桃を五つ食べ
一句目、賑やかにご飯の準備をする人たちを尻目に寿司を物色していると、なんだか自分が違う次元の存在になったような、生身魂にでもなったような気分になる。二句目、会いたい人でもいるのだろうか。「今頃岡山では…」と考えているとそわそわしてきて、それが治まるのには桃が五つも必要だったのだ。置いてけぼりの人の暮らしは、面白くて少しキュンとなる。
少し寝る夏座布団を腹に当て
秋風やここは手ぶらで過ごす場所
冬の雲会社に行かず遠出せず
みんなといるより、一人が好きな人だと思う。どう過ごしているかというと、とことん何もしない。起きない、持たない、出かけない。暇な時間は暇でいるためにある、と言わんばかりに過ごす。なので、「夕立が来さうで来たり走るなり」なんて句に出会うと、飛び上がってしまう。走るんだこの人…。
少し待つ秋の日傘を預かりて
妻留守の半日ほどや金魚玉
妻と暮らしても暇だ。彼女があれこれ用事をしたり出かけたりする一方で、自分はぼんやり待っている。あるいはここでも、妻に置いてけぼりを食らっているとも言えるかもしれない。
ところが、よくよく読んでみると置いて行かれてばかりではないことに気が付く。
金沢の見るべきは見て燗熱し
金沢には見るべき場所が山ほどあって、2~3日ではとても回り切れない。タイトな観光でへとへとの人達がようやく宿に帰ってくると、彼は「見るべきは見て」とっくに熱燗を始めている。置いてけぼりにされたのは、こちらの方だったのだ。
朝食の筍掘りに付き合へよ
踊り子の妻が流れて行きにけり
誰よりも早起きして、筍掘りに行こうとみんなを起こして回る。ちゃんと散歩を兼ねた下見も終えて、早く案内したくてしょうがない。踊りの輪にも、入り損ねたのではないのだろう。彼自身はすでに2周3周と踊り進んでおり、その状態から妻を見ているのではないか。
こういった観点から『鴨』を読み返すと、同じくらいの立ち位置から景を見ていたつもりだったのに、実はどの句も何周も先の地点から読まれているような気がしてくる。そんな時私は麒麟さんが「現代の隠者」や「仙人」と評されることを思い出し、改めて納得してしまうのである。
【新連載・西村麒麟特集2】麒麟第2句集『鴨』を読みたい 0.序に変えて 筑紫磐井
西村麒麟と知り合ったのはいつからだろう。御中虫が句集を上梓する前に連載を依頼したときに、彼女と相性のいい作家ということで紹介を受けたように思う[注]。もちろん御中虫は個性的な作家であったが、彼女の批評をした西村麒麟も負けず劣らず個性的であった。御中虫は賞賛と罵倒が実は境目がないということを文体として示したのだが、麒麟は嘘と真実が境目がないということを文体として示したのだ。実際私は御中虫と西村麒麟がこれほど親しげなやりとりをしているにもかかわらず会ったことも、見たこともないと言うことを知らなかった。御中虫の罵倒はともかく、西村麒麟の親しげな手紙は、実際、詐欺ではないかと思ったぐらいである。しかし、この時、俳句の世界にコペルニクス的転回が生まれたといって良いであろう。いまそれを覚えている人は少ないが、俳句とは上手に嘘をつくこと――それも徹底的に――だという古人の言葉を本当に実践したのは現代俳句においては麒麟が初めてではなかったかと思う。
[注]右欄の【ピックアップ】の中の、「赤い新撰・御中虫と西村麒麟」参照。「俳句新空間」に先立つ「詩客」に載った「俳コレ」に対する御中虫のユニークな評、御中虫百句に対するこれまたユニークな西村麒麟の評が掲載されている。
俳句新空間では、BLOGの特色を生かして、膨大な句集特集を行っている。しかしそのほとんどが、西村麒麟の句集(『鶉』『鴨』)、或いは受賞作品集である。なぜこの頼りない若者に膨大な句集鑑賞の機会を与え、また多くの人が句集鑑賞をするのかというのは社会問題として考えなければいけない。
散文、詩、短歌・・・と言語空間が縮小してゆくときに、表現が不自由になったと見るのは常識的である。しかし、虚偽性という倫理から散文、詩、短歌がなかなか解放されないのに対して、俳句のような短詩(金子兜太は世界最短詩と言ったが)は逆にそうした倫理から解放されている。なぜなら俳句では真実は語れっこないからだ。真実の反対が嘘とすれば、俳句は嘘をつく宿命を負った詩型なのである。そして、そうした俳句の特色を生かして、実に罪悪感なく嘘をついているのが西村麒麟ではないかと思っている。
だからこの句集特集は、いかに西村麒麟の嘘を多くの老若男女がいかに正当化しているかを知るための社会学的資料だと思っている。
これは、何も西村麒麟を批判しているわけではない。もはや俳句は、こうした方法でしか新しい世界を獲得できない。現代俳句は、せいぜい、芭蕉の摸倣、草田男の摸倣、重信の摸倣、兜太の摸倣、虚子の摸倣に終始している。この摸倣の世界を破壊できるのは、生まれながらに嘘をつくことの出来る麒麟だと思っている。
また、これは麒麟の俳句を鑑賞する論者を批判しているものでもない。これらの人はこうした麒麟の本質を十分弁えた上で、教唆犯や従犯でなく、共謀共同正犯として犯罪に荷担する勇気を持っているからだ。言っておくが、この犯罪に時効はない。一旦成立した犯罪は、古典として言語犯罪博物館に永久に陳列される。
[注]右欄の【ピックアップ】の中の、「赤い新撰・御中虫と西村麒麟」参照。「俳句新空間」に先立つ「詩客」に載った「俳コレ」に対する御中虫のユニークな評、御中虫百句に対するこれまたユニークな西村麒麟の評が掲載されている。
俳句新空間では、BLOGの特色を生かして、膨大な句集特集を行っている。しかしそのほとんどが、西村麒麟の句集(『鶉』『鴨』)、或いは受賞作品集である。なぜこの頼りない若者に膨大な句集鑑賞の機会を与え、また多くの人が句集鑑賞をするのかというのは社会問題として考えなければいけない。
散文、詩、短歌・・・と言語空間が縮小してゆくときに、表現が不自由になったと見るのは常識的である。しかし、虚偽性という倫理から散文、詩、短歌がなかなか解放されないのに対して、俳句のような短詩(金子兜太は世界最短詩と言ったが)は逆にそうした倫理から解放されている。なぜなら俳句では真実は語れっこないからだ。真実の反対が嘘とすれば、俳句は嘘をつく宿命を負った詩型なのである。そして、そうした俳句の特色を生かして、実に罪悪感なく嘘をついているのが西村麒麟ではないかと思っている。
だからこの句集特集は、いかに西村麒麟の嘘を多くの老若男女がいかに正当化しているかを知るための社会学的資料だと思っている。
これは、何も西村麒麟を批判しているわけではない。もはや俳句は、こうした方法でしか新しい世界を獲得できない。現代俳句は、せいぜい、芭蕉の摸倣、草田男の摸倣、重信の摸倣、兜太の摸倣、虚子の摸倣に終始している。この摸倣の世界を破壊できるのは、生まれながらに嘘をつくことの出来る麒麟だと思っている。
また、これは麒麟の俳句を鑑賞する論者を批判しているものでもない。これらの人はこうした麒麟の本質を十分弁えた上で、教唆犯や従犯でなく、共謀共同正犯として犯罪に荷担する勇気を持っているからだ。言っておくが、この犯罪に時効はない。一旦成立した犯罪は、古典として言語犯罪博物館に永久に陳列される。
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