2018年3月23日金曜日

【新連載・西村麒麟特集2】麒麟第2句集『鴨』を読みたい4 ある日の麒麟さん句会  服部さやか

 このほど、ご縁があって麒麟さんの句会にお邪魔している。何かとぼんやりしているので、麒麟さんが様々な賞を取られている実はすごい人だということに気づいたのは句会に行き始めてからで、もう少しでもその事実をしっかり認識していたら、こんな心持ちでは参加していなかっただろうなとつくづく思う。
 句会での鑑賞にしてもメンバーの方々との差は歴然。しかし、何も考えずに飛び込んでしまったのだから、ある意味当然であり大して気にしていない。そんなポジションの私が、句会でいかに伸び伸びと鑑賞(というよりも感想)をしているかというと、こんな感じである。

水槽の中緑なる西日かな

 最初、西日=赤のイメージで、緑と赤の色彩コントラストが鮮やかな句だなと思ってしまったのですが、水槽の中のただ濁ったような緑色が光にさらされることで水草のうごめきに変わり、生命のある様がふわっと浮き上がってくるような感覚で素敵な句だなと思います。

白とも違ふ冬枯の芒かな

 白ではないですよね。やわらかい光の色なのかどうか。と、そんなことを考えながらそうした風景の中にいる自分、という映像が浮かんできました。

炎昼や地図をくるくる回しつつ

 方向音痴の人は地図を回すといいますよね。暑い中、すごく迷って大変だなと思うとともに、「炎昼」なので周りの景色が白く飛んで、迷っている姿だけがクローズアップされてくるのがいいなと思います。

水中を驚かしたる夏の雨

 水泳の授業を思い出しました。水の中にいると雨だとは一瞬わからず、何が起こったのかと不思議な思いにとらわれたりしますが、水中で雨を感じることができるのは、やはり夏・・・。(と最初の文に戻ってゆく。)

電球の音がちりちり蚊帳の上

 ちりちりという電球の音で表わされる夜の暗さや静けさ。暗闇に電球のわずかな光だけがあるような。そして、ただ電球を見上げているのかと思いきや、ふと蚊帳の中に入ってしまっているというワープみたいな感覚がおもしろくてよいなと。

雛納め肌ある場所を撫でてをり

 こういうのは無意識の行為なのでしょうか、ほのかな好意に対しての。髪や着物ではなく肌。その質感や感触といったものが雛への心の距離感のように感じられ、この何気ない仕草にとても共感できます。

秋風やここは手ぶらで過ごす場所

 手ぶら=何も持たないことは「無心」とは違うけれど、他の季節のように風に感情を抱かず、心に何も持たないで風だけをただ感じることができるのは秋なのかなと。何もないことの自由さを感じます。

無き如く小さき川や飛ぶ螢

 「無き如く」にわずかでも、流れていれば水と認められる。水があるところには生命があり、そこへ螢。何か生命の神秘のように思えました。

   随分自由に書きました。
 場違いな所に来てしまったなと思いつつも、あまり気後れせずに感想を述べることができるのも、偏に麒麟さんの大らかな人柄や句会メンバーの温かさのおかげである。文法や俳句の形式的なことで誤った解釈をした場合でも興味深く耳を傾けてくれ、修正すべきはやんわりと、しかし否定するようなことは決してない。国語の問題のように、読み方としての正解はあるのだろうけれど、「思うことは自由」といった「自由さ」を残してくれている。この『鴨』という句集にしても、「全然違うよ」と思われる読み方をしているかもしれないが、自由に、思いのままに麒麟さんの世界を楽しむことを許していただきたいなと思う。

0 件のコメント:

コメントを投稿