110. 喉長き夏や褥をともになし
「喉長き夏」が難関だ。それが「すっきりと抜けていかない違和感のある夏」であれば、今までの読みであれば、おそらく、敗戦の夏のことではないだろうか。
喉は咽頭という身体の部位で、その表現には通常〈太い〉〈細い〉が使われる。しかし長さの表現は伴わないだろう。慣用句に「喉が長い」という表現は無い。敏雄は言葉から想起する感覚を逆行し、その感覚を身体部位に当て嵌めていく。
例えば「喉越し爽やか」の措辞は肯定的なもので、それは、喉を通る時の感覚だ。「喉が長い」感覚とは、「喉が詰まる」感覚に近く、何かが喉を抜けていかない違和感が続いていることに近くないだろうか。
また「褥(しとね)」とは敷物のことで、源氏絵巻にも描かれ、古くから文学的表現の中に登場してきた。加山雄三の歌、「君といつまでも」の歌詞に「〽優しくこの僕のしとねにしておくれ・・・」というサビ部分の<̪シトネ>は、子供ながらに耳には残っていた。安らかで心地よく安らかに身体を横にすることができるものの代名詞として受け止めたい。
したがって、<褥をともになし>とは、やすらぐことができない、誰もやすらげない苦痛を言っているのだろう。
この「褥(しとね)」という古語を駆使出来るのは、三橋敏雄と岩谷時子(作詞家・越路吹雪のマネージャーでもある)の大正生まれの世代だからだろうか。
しかし、「喉長き夏」は理解し難い措辞、読者の独断でしか解せない措辞だ。敏雄はそれでよかったのだろう。意味などどうでもよい、俳句は見るもの、というビジュアルの問題ではなく、掲句はその感覚が何かを知りたいくなる。
掲句は、十七句目〈眉間みな霞のごとし夏の空〉の「霞」と同様に、戦前と戦後で真逆になった現実的な心の苦痛を身体に当てはめ嘆いていると解釈する。
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