2020年12月25日金曜日

第151号

     ※次回更新 1/8


豈63号 発売!購入は邑書林まで
俳句新空間第13号 発売中*

【広告】俳壇1月号・歌壇1月号(共同特集) 新春鼎談:戦後75年 詩歌の歩み

【急告】「豈」忘年句会及び懇親会の延期

【新企画・俳句評論講座】

・はじめに(趣意)
・連絡事項(当面の予定)
・質問と回答
・テクスト/批評 》目次を読む

【新連載・俳句の新展開】

句誌句会新時代(その一)・ネットプリント折本 千寿関屋 》読む
句誌句会新時代(その二)・夏雲システムの破壊力 千寿関屋 》読む
ネット句会の検討 》読む
俳句新空間・皐月句会開始 》読む
皐月句会デモ句会結果(2010年4月10日) 》読む
第1回皐月句会報(速報) 》読む
皐月句会メンバーについて 》読む
第2回皐月句会(6月)[速報] 》読む
第3回皐月句会(7月)[速報] 》読む
第4回皐月句会(8月)[速報] 》読む
第5回皐月句会(9月)[速報] 
》読む
第6回皐月句会(10月)[速報] 》読む
第7回皐月句会(11月)[速報] 》読む

■平成俳句帖(毎金曜日更新) 》読む

令和二年秋興帖
第一(11/6)大井恒行・辻村麻乃・関根誠子・池田澄子
第二(11/13)杉山久子・曾根 毅・山本敏倖・渕上信子
第三(11/20)松下カロ・仙田洋子・神谷 波・ふけとしこ
第四(11/27)網野月を・竹岡一郎・木村オサム・堀本 吟
第五(12/4)夏木久・加藤知子・望月士郎・岸本尚毅・林雅樹
第六(12/11)青木百舌鳥・花尻万博・小林かんな・早瀬恵子・真矢ひろみ
第七(12/18)坂間恒子・仲寒蟬・飯田冬眞・前北かおる・五島高資
第八(12/25)田中葉月・中村猛虎・小沢麻結・渡邉美保・なつはづき

■連載

中西夕紀第四句集『くれなゐ』を読みたい
8 大鍋に牛乳の沸いている景とは・・・。/嵯峨根鈴子 》読む

篠崎央子第一句集『火の貌』を読みたい
4 恋は続く/足立枝里 》読む

中村猛虎第一句集『紅の挽歌』を読みたい
6 中村猛虎句集選評/草深昌子 》読む

英国Haiku便り(番外篇1) 白黒写真と旧仮名 小野裕三 》読む

眞矢ひろみ第一句集『箱庭の夜』を読みたい
8 「箱庭の夜」読んではみたけれど・・・~俳句初心者が読むために~/佐藤 均 
》読む

なつはづき第一句集『ぴったりの箱』を読みたい
8 『ぴったりの箱』を読む/小林貴子 》読む

『永劫の縄梯子』出発点としての零(3)俳句の無限連続
 救仁郷由美子 》読む

【抜粋】〈俳句四季12月号〉俳壇観測215
令和に迎えた閉幕――鍵和田秞子の逝去・船団の散在
筑紫磐井 》読む

【連載通信】ほたる通信 Ⅲ (4) ふけとしこ 》読む

句集歌集逍遙 なかはられいこ『脱衣場のアリス』/佐藤りえ 》読む

ふけとしこ第5句集『眠たい羊』を読みたい
インデックスページ 》読む
9 ~生きる限りを~/髙橋白崔 》読む

葉月第一句集『子音』を読みたい 
インデックスページ 》読む
8 パパともう一人のわたし/北川美美 》読む

麻乃第二句集『るん』を読みたい
インデックスページ 》読む
17 無意識の作品化、俳句のフレームを超えて/山野邉茂 》読む

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉜ のどか 》読む

大井恒行の日々彼是 随時更新中! 》読む


■Recent entries

第5回攝津幸彦記念賞応募選考結果 ※受賞作品は「豈」62号に掲載

特集・大本義幸追悼「俳句新空間全句集」 筑紫磐井編 》読む

【100号記念】特集『俳句帖五句選』

渡邊美保第一句集『櫛買ひに』を読みたい 
インデックスページ 》読む

佐藤りえ句集『景色』を読みたい 
インデックスページ 》読む

眠兎第1句集『御意』を読みたい
インデックスページ 》読む

麒麟第2句集『鴨』を読みたい
インデックスページ 》読む

前衛から見た子規の覚書/筑紫磐井
インデックスページ 》読む

「WEP俳句通信」 抜粋記事 》見てみる

およそ日刊俳句新空間 》読む
…(今までの執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保 …
12月の執筆者 (渡邉美保

俳句新空間を読む 》読む
…(主な執筆者)小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子





俳壇1月号
特集・戦後75年 詩歌の歩み 筑紫磐井×川野里子(歌人)×野村喜和夫(詩人)鼎談




「兜太 TOTA」第4号 発売中!
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筑紫磐井著『女帝たちの万葉集』(角川学芸出版)

新元号「令和」の典拠となった『萬葉集』。その成立に貢献した斉明・持統・元明・元正の4人の女帝、「春山の〈萬〉花の艶と秋山の千〈葉〉の彩を競へ」の天智天皇の詔を受けた額田王等の秘話を満載する、俳人初めての万葉集研究。平成22年刊2,190円。お求めの際は、筆者までご連絡ください。 

【篠崎央子第一句集『火の貌』を読みたい】4 恋は続く 足立枝里

 央子さんと知り合ったのは、ルート17という超結社の句会だった。まだお互いに三十代で、にぎやかに句会をし、その後の飲み会では「句集を出すか結婚か、どちらが早いだろう」などと適齢期らしい話題で、盛り上がっていた楽しい時期であった。

東京の空を重しと鳥帰る
栗虫を太らせ借家暮らしかな
黒葡萄ぶつかりながら生きてをり
キャベツ刻む独身といふ空白に
葉牡丹の紫締まる逢瀬かな


 何回か句会を重ねると、彼女の句以外のことも見えてくる。大学時代に「万葉集」を研究し、短歌もたしなむ。句会で恋の句が多く出されていたが、私は故郷を詠んだ句にはあまりお目にかかっていなかった。「火の貌」で、央子さんの知らなかった一面を見たような気がする。

血族の村しづかなり花胡瓜
祖母の魂いま雲となり夏蚕邑
ほうたるや米磨がぬ日は子に戻り
海鼠腸やどろりとうねる海のあり
火の貌のにはとりの鳴く淑気かな


 そしていつの間にか(笑)結婚をし、ご夫婦で俳句と介護をされていた。

職業は主婦なり猫の恋はばむ
太股も胡瓜も太る介護かな
痩身の夫蟷螂に狙はるる
うなづくも撫づるも介護ちちろ鳴く
くもりなき遺影を抱へ年歩む


 彼女は何事も正面から受け止めて、自分のものにしているように見える。まるで一途な恋である。

 家族に、俳句に、縁のある土地に、央子さんの恋はまだまだ続いてゆくだろう。
 コロナの影響もあり、最近お会いしていないが、これからも是非ときめく句を見せていただきたい。句会をご一緒したい。

 「火の貌」の上梓おめでとうございます。

*************************

プロフィール
足立 枝里(あだち えり)
昭和四十一年 東京生まれ。「鴻」同人
平成十八年  「鴻」 入会
平成二十五年 鴻新人賞 受賞
句集『春の雲』

【中西夕紀第四句集『くれなゐ』を読みたい】8 大鍋に牛乳の沸いている景とは・・・。 嵯峨根鈴子

 大鍋に牛乳沸ける虚子忌かな

 大鍋に牛乳を沸かしているのは、「札幌 北の虚子忌俳句大会」の会場とありますが、私には何となく高濱家であっても構わないように思えました。底知れないエネルギーを放ち続ける大虚子の忌日に牛乳を沸かしているのです。しかも大鍋でです。虚子忌がとても新鮮に感じられます。何度か読み返している中に、やはり虚子忌として異彩を放つ一句だと思えました。筑紫磐井氏の「もりソバのおつゆが足りぬ高濱家」がついつい脳裏に浮かんできたりもします。

 中西夕紀さんは、第二句集『さねさし』では「写生ということを考え直してみよう」、そして第三句集『朝涼』では「よく見て、心に焼き付けてから、現実のものを遮断して心の中で昇華したものを描きたい」とあとがきにしたためておられます。第四句集『くれなゐ』では「挑戦。・・・自らも見えぬ明日の俳句を求めつづける」と大きく一歩踏み出す決意を表しておられます。さらに挑戦された句を見てみましょう。

蛇踏んで一日浮きたる身体かな

 私は蛇を踏んだ経験はありませんが、川上弘美の『蛇を踏む』をふまえた一句なんでしょうか。母にすり替わっていつの間にか浸透してくる蛇は、さしずめ新型コロナの不条理な感染のようでもあり、身の置き所もありません。
   
百物語唇なめる舌見えて

 唇を舐める語り手は白石加代子かも知れません。真っ赤な口紅に見え隠れする舌はてらてらと妖怪じみてきました。いよいよクライマックスの百話に近づいて行きます。

男客のそりと座り夏芝居

 舞台上での男客の所作のようでもあり、例えば銀座「卯波」に現れる「いの一番の隅の客」のようでもあります。「のそり」が上手いなぁ。

恋数多して長生きの砧かな

 宇野千代と砧とは、遠くて近い絶妙の距離感です。辺境に送られた兵士の妻が夜ごと打つ砧の音と華やかな恋多き老女の取り合わせが絶妙です。

 写生のじっくりと目を据えた佳句、長年培ってきた感覚の冴えた句も見られます。

垂るる枝に離るる影や春の水

 草田男の「冬の水一枝の影も欺かず」の春バージョンです。冬の水との違いがくっきりしています。春の水がより余情を誘います。

日陰から見れば物見え一茶の忌

 説明でなく一茶の忌が言い得ています。

豆腐煮るうゐのおくやま来し鴨と

 豆腐を煮る日常と、季節の移り行く鴨の渡りが地球的視野にまで広がります。「うゐのおくやま来し」で時間的にも奥行が生まれました。
 

店奥は昭和の暗さ花火買ふ

 これは昭和でなければならない暗さです。火付の悪い花火です。

金魚百屑と書かれて泳ぎをり

 写生の目が効いてます。屑がせつないですが、屑は強いのです。

 吟行にも励まれたようです。出羽三山神社での句です。

新酒酌む奥の暗きがわが寝所

穴惑見しも秘事とす湯殿山

 ぐっと踏み込んだ自己表現のようにも見えるのが「わが寝所」でしょう。

 『くれなゐ』には切り取った写生の画面から、解き放たれたような夕紀さんの心の中が垣間見えるような気がします。魚目先生が逝かれ、お若い句友を亡くされ、その上伯母上様まで亡くされたことは、おおきなショックであり、やはり俳句に表れるものなのでしょう。ランダムに好きな句を挙げさせていただきます。
 

こほろぎやまつ赤に焼ける鉄五寸
終戦日空に濃き雨うすき雨
旅にゐて塩辛き肌終戦日
先生のペンは撓へり梅擬
群青の山並越えよ半仙戯
鮎釣の見えざる足が石摑む
読めるまで眺むる葉書雪あかり
鵜を起こし鵜匠の一日始まりぬ
鵜篝の舟の人消す煙かな
今もふたり窓に守宮の登りゆく
鉄斎を一幅見せむ風邪ひくな
水揺れの冬日に酔うてゐたりけり


 最後に以下の二句で筆を擱きたいと思います。

日の没りし後のくれなゐ冬の山

 魚目師の教えとしての、「後ろを向く」と言う作り方を踏襲したように思えます。日没の後の闇の現物から目を離し、後ろを向いて心に広がるものを待って得たのが雪山でもなく、枯山でもなく「くれなゐの冬の山」だったのではないかと思えるのです。
 
ばらばらにゐてみんなゐる大花野

 みんないる大花野だけれど、ここでの眼目は「ばらばらにいて」だろう。一人一人が自由に自分の中の歓び悲しみ怒りを俳句にしてきた大花野は、ますますの広がりを見せることでしょう。
   

【眞矢ひろみ第一句集『箱庭の夜』を読みたい】8 「箱庭の夜」読んではみたけれど・・・~俳句初心者が読むために~ 佐藤 均


 (与太郎)
 俳句になじみがありません。短詩という形式自体になじみが薄い。ほとんど無いに等しい。自分の本棚を見ても、それらしいのは「日本童謡集」、「日本唱歌集」、「啄木歌集」、「アイヌ神謡集」が全て。無理をすると茨木のり子のいくつかの詩集があるが、これはもともと後藤正治氏の「清冽」に触発されたからという具合だ。だから「箱庭の夜」も、決してスラスラと進むものではなかった。
 

 (三河町の叔父)
 それだけ読んでいれば大丈夫。世界最短詩である俳句は、すべてを言い尽くすことはできないし、作り手も最初からそんなこと考えてない。写生を唱えた正岡子規にしてもそうだ。作者が提供するのは、いわばヒントのようなもの。漱石に言わせれば扇の要。読者にも積極的に参加してもらう、つまり読者が自分なりの読みをしてもらわないと完結しない。短いから読むのは早くても、読み解くまでには長く掛かって当然だ。
 この句集は、少なくとも意味内容は取れる句が大多数と思うけど。一昔前の俳句には、全く不明のものも多かった。音韻だけを念頭に置いた俳句とかね。
 

 (与太郎)
 これでも、わかりやすい方なのか。日本の伝統文化には能とか、茶の湯とか、受け取る側の色々な意味での参加を前提としているような分野があるけど、それらと同じか。
 

 (三河町の叔父)
 俳句を「自由詩」とした詩人だっている。日本に限らず、もともと詩は重層的で多義性を特徴にしていると言えるんじゃないかな。「薔薇の名前」という映画にもなった小説で有名なウンベルト・エーコは、芸術作品は享受者の積極的な介入によって意味内容が発見される「開かれた」形態としている。それは、万人が享受できるという意味で、限りなく公平なものだ。逆にその性質を活かして、平等な寄合の形態、無縁の結界空間として、場を重んじたのは日本独特の伝統かもしれない。短連歌に始まり、中世の花の下連歌、近世の俳諧の連歌、現在のWEB句会にまで脈々と通じるもの。
 

 (与太郎)
 読んで感じたこと、としか言えなくても良いのかな?
 

 (三河町の叔父)

 大丈夫。もともと一義的、絶対的な読みなどありえない。そもそも、俳句の源流である長連歌のポイントは「三句放れ」にある。同じ文言の句を、全く違う情景として捉え直すことを要諦とする文芸など、世界各地の、どの時代にも類がない。比較文学の先生の受け売りだけどね。一句独立といいつつ、俳句には「俳諧の連歌」発句としての名残りがあるのかもしれない。
 

 (与太郎)
 俳句を発句のように楽しむというのは、歴史倒錯というか、逆行というか、
 

 (三河町の叔父)
 俳句に限らず、詩は本来、いろんな読み方ができるということ。俳句の先生が作句にあたって「全てを言いきるな」とか「自分で結論を出すな」とか言うことがあるけど、そのことと関連している。芭蕉だって「いひおほせて何かある」と言ってる。
誤解無いように付け加えると、「読み」にもアングル、深度があることは当然のことだ。芝不器男の「あなたなる夜雨の葛のあなたかな」の鑑賞を虚子が発表して、一躍注目されたことは有名だ。言葉に従って、いかに深く読むかということは、多義性とは別の次元の話だよ。空想レベルで読み解けば、自分勝手な独善解釈というか、妄想になってしまう。
 作者は何を伝えようとしたのか、何に心を動かされたのか、元々そんなものは無いのか。100%読み解くことはありえない。でもね、目の前の俳句をこう読めば俄然輝き始める。全く取っ掛かりのない、どこが良いのかわからないような句でも、アプローチの仕方を変えると頭のなかにスッと入ってくる。そういう経験は俳句に限らず短歌や詩、絵画や音楽でもよくあることだよね。そういう読みを披露することが鑑賞であり、良い鑑賞とは、思いもかけなかった切り口、深度で作品にアプローチしたものだと思うんだ。
 

 (与太郎)
 少し気が楽になったかな。それでは、単なる感想ということで話そう。
 一つは切り取った情緒、ということ。句のつながりといったものに何か意図するものがあるのかどうかはわからないが、印象として残るのはひとつひとつの句の中に切り取った風景情景だ。ただ明らかな風景情景とはいいがたいので、私としては、情緒といいたい。
 

 (三河町の叔父)
 俳句は叙情詩か叙景詩か、このことを議論するだけでも千夜はかかってしまいそう。伊藤比呂美は、詩の役目として「うた」「かたり」「まじない」の3つを挙げている。「まじない」は言葉でものを動かそうとするもので、叙情でも叙景でもない第三の機能。俳句にもあるかもしれない。脇道に逸れたね。ここでは、具体的に俳句を読んでみよう。

秋空へつづく白線引きにけり

  例えば、この句。構成要素としては、秋空、白線、つづく、引く、この4つしかない。意味も表現も全く秘密めいたものはなく、単純明快だ。上から下まで一つの散文のようにも読める。しかし、君が指摘したように、単に情景を描いたものとは思えない。情景を読者に伝えようとするならば、記述内容の具体性が乏しすぎる。もちろん、五七五の十七音字で言えるはずもないけど。
 白線とは何のことか、何のために誰が引くのか、秋空につづくとはどういう状況を指しているのか、等々について情報不足。職場や学校で、上司や教師に状況を伝言するのなら、少なくとも「何の」白線を、「誰が」なぜ「引いた」のかぐらいは必須の情報として伝えないといけない。小中学校の作文で、5W1Hを書きなさいと教わるけど、それが書かれていない。
 でもね、逆に言えば、作者にとって、十七音字の制約のなかで、状況を正確に描写することよりも、別のことが大事だったわけだ。白い線が、舗装道路に引くセンターラインか、立て看に書く白マジックだろうが、白テープを画鋲で貼り付けようが、どうでも良いというか、それは読者の想像にお任せしますということ。現実の景色は句作りの発起点になったかもしれないが、言葉にした以上、ノンフィクションじゃあるまいし、ファクトにこだわることに大した意味はない。どうぞ想像力を奮い立たせて、ご自分が最も楽しめるように読み取ってください・・・ということ。
 

(与太郎)
 でも作者としては、俳句を創作する以上、どこかに「思い」というか「感動」というか、人に伝えようとするものがあるはずだ。
 

 (三河町の叔父)
 伝えようとするかどうかは別にして、確かにあるだろう。テーマというと大きくなりすぎるから、モチーフと言ったの方が近いかな。作り手の創作動機となったもの、君の言う情緒といってもいいかもしれない。句を鑑賞する場合、この情緒の有りどころがわかれば、読むための重要な情報となる。
 この句の場合どうだろう。「白線」を引くこと、これがまず第一、しかもその白線は秋空に「つづく」状態にあること、これが第二だ。作者はたとえ現実から遠ざかろうと、言葉を紡いで何ものかを伝えようとする。
 

 (与太郎)
 著者が句集の帯に書いてるけど「日常のなかでふと気づいたり、思い出す、些事ですがかけがえのないもの」をモチーフにしてるらしい。
 

 (三河町の叔父)
 白い線が空に向けて引かれる・・・という状況が、非日常の特異な体験といったものでは無いだろう。むしろ一般生活でよく見かける、他愛もない風景といえる。実際の景としては「運動会のため、校庭に学生が白のラインパウダーを引いて、振り返ってその線を見ると、線の先に秋空が広がっていた・・・」なんていうところかな。
 

(与太郎)
 飛行機雲のことかと思った。
 

 (三河町の叔父)
 ああ、そうか。でも、それだと「つづく」という語が活きてこない。普通に読めば、白線と空は別の場所にあって、空は線の延長線に繋がる景じゃないといけない。秋空だから、よく晴れた天高い青空が先にある。一方、線を見る主体の視点はこちら側にあり、空に向けて引かれる白線を目で追うことになる。こちらと空を繋げる白線が引かれることに驚いたという感まである。振り返ると、足元まで引いてきた白い線のその先に秋空が広がっていた・・・と読むこともできる。
 秋の空は当然晴れわたってはいるが、哀愁を帯びている。もう盛りを過ぎて、衰退に向かうことへの諦めであり、晴れ渡っているからこそ哀しみは一層深くなる。こういう読みは中学か高校の国語の授業でよく聞いたはずだ。このあたりは「秋空」という季語の持つ力が背景にある。そこに真っ白い線が空へと伸び上がっている。空に線は接しているか微妙だ。微分積分の授業で教わった「無限」の概念のように、空に対してずーっと近づいていくのだが、決して繋がることはない線。自分で引いてきたと思っていたが、悠久の彼方では繋がることが宿命付けられている線。こんなふうに読むと、この白線がイメージとして読み手の心に残り、寓意ではないが、何かの暗喩にも思えてくるから不思議だ。私としては、秋と白色はつき過ぎの感があって気になるけどなあ。ちょっとした言葉の切れっ端のような句だけれども、読み進めると、どんどん奥が深まる感じ。ドライブ感。これが俳句を読む醍醐味だろう。
 

 (与太郎)
 もう少し情緒について言いたい。
 私は音楽を聴くのが好きだ。意識して聞き始めてもう50年近くになる。ジャンルは問わない。都はるみからフクウエ・ザゥヲセ(アフリカの親指ピアノ奏者)までがモットーである。
 さて、私は音楽、曲の中で重要なのは繰返しだと思っている。かなり乱暴だが、移調転調といった技法も広い意味では繰返しだと最近思う。繰返しが情緒を作る。別な言葉では直感と言ってもよいと思う。だが中には繰返しを意識させない音楽もある。私にとってはドビュッシーのピアノ曲がそうだ。
 俳句ではどうだろうか。繰返しはない。もし俳句に繰返しがあったら、漫談のネタにはなるだろうが、俳句として成り立つのかは定かではない。この辺については教えていただければ幸いである。句の中で、情景は切り取られそこにあるだけである。たくさんの句が並べられているのを読み進む感覚は、繰返しのない音楽を聴く感覚に似ていた。不安定なもの、嫌なものではないが、軽い船酔いに近いもの。
 

 (三河町の叔父)
 まず、一般的に俳句は一句を単位として扱われる。複数の俳句から、例えば句集とか連作シリーズと銘打った俳句の集合体から、傾向のようなもの、方向性などが取りざたされることはあるが、一つひとつの句は各々独立して扱われる。つまり句集に含まれる俳句の全体的な連続性、統一性といったものはあまり問われないし、作り手も頓着してないのではないか。句集の性格として、全体を読んで何らかのものを読み取る、それこそ情緒を受け取るということにはなっていない。
 この「箱庭の夜」も著者が「三十年にわたる句作の私的記録」と書いているが、一般的には、俳人が一定の期間を区切って、この期間に作った俳句を句集にしましたっていうのが多い。更にこの句集は、「変遷こそ真」と著者があとがきに書いたように、色々な作り方をしてきた俳句をそのまま掲載しているようだ。だから、小説のように一つの物語を筋に従って読んでいくような、読みの仕方を固定して各々の句を鑑賞するということができない。いわば多種多様な一句一句の船に乗ってしまうと、海に慣れてない読者は、君のように船酔いを起こしてしまうことだってある。
 もちろん、掲載句を何らかの視点から編集することは可能で、その仕方によっては、読む側が読みやすくなるかもしれない。「箱庭の夜」は四章構成で、コルトレーンの「至上の愛」の章編成にヒントを得たと筆者があとがきに書いている。各々の章の中は、句集によくあるけど、四季によって分類掲載されている(無季は各章の最後に掲載)。ところが、著者も書いているように、四章の区分基準が読者にはわからない。
 

 (与太郎)
 第一章「認知」第二章「決意」第三章「追求」第四章「賛美」という章の名前から推察すると、ある方向性に気づいて、色々試して、納得できるところまで達した・・・こういう道筋が推察できるけど、掲載されている俳句から、その経緯を辿ることができない。単なる時系列とも違うように感じる。コルトレーンの「至上の愛」は、東洋インド神秘主義とかユダヤのカバラ思想の影響とか言われているけど、そのこととどう関連してるのか、余計にわからなくなってしまう。
 

 (三河町の叔父)
 断っておくけど、君は俳句に繰返し(リフレイン)はないと言ったが、句集全体ではなく、個別の句に視点を移すと、修辞(レトリック)としてはかなり使われている。詩の技法はつまるところ「オノマトペ」と「リフレイン」に尽きると断言している人だっているぐらいだ、

大空は大地の中なり田水沸く (大:意味内容)
日を集め日に遠くあり石蕗の花 (日:単語、音)
納豆汁の納豆が好き逆もそう (納豆:単語、音、意味内容のずらし・反復)
父ひとりリビングにゐる五月闇 (i音:父の「ち」、ひとりの「ひ」、リビングの「リ」、ゐるの「ゐ」) など

 何をリフレインするかによって、著者の狙いももちろん違う。音のリフレインはリズムを整え、意味を強めたり、なめらかな印象を与えたりすると言われているけどね。俳諧の連歌では、畳語(いろいろ、行き行きて・・・)をよく使っていたし、短歌や現代詩でも多く使われている。
 納豆汁の句などは、いわばレトリックに遊ぶ感が強い。下五「逆もそう」とは、納豆の入った納豆汁も好きの意であろう。いわば、トートロジー、内容の裏返し、反復でしかない。昔の言葉で言えばナンセンスだ。面白いと感じるかどうかは読者に依るだろう。
 

 (与太郎)
 学生のころから持っていた「俳句」を外れるような、これが俳句なのか、これが詩なのかと感じたものを敢えて挙げると、

外灘にかげろふブラックスワンかな ブラックスワンは金融用語。想定外に発生する事象
逆張りのミセスワタナベ明易し  ミセスワタナベは金融市場の俗語。日本の一般投資家
県道にミミズのたうつ電波の日  電波の日は6月1日 総務省所管の一般には知られていない記念日 
彼岸へと仮線貸方いのち借方さくら 貸方借方は、貸借対照表(バランスシート)の書式、項目

など、一般的に知られてないような言葉、特定分野の専門用語を使っている句で、眼目というか、表現し伝えようとしているものが様々或いは不明で、これが不安定で揺れ動いている感じというか、不安になってくる原因かもしれない。(笑)
 

 (三河町の叔父)
 なるほど、君の船酔いの原因がわかってきた。この句集を読んでいるうちに、学校で「文学とは」「詩とは」と教わったことから外れているような感触を持ったのだろう。しかし俳諧の連歌が盛んな江戸期は、ナンセンス、パロディ、ジョーク、いわば何でもありの状態だった。近代・明治に入って子規が俳句を「文学」としたときから、短詩型は眉間に皺を寄せるようなものになった・・・と言えば言い過ぎかな。でもね、大和言葉、雅語に限られていた「連歌」に対して、いわゆる俗語にまで語彙を広げて作られたのが「俳諧の連歌」であり、そのことが短詩型の表現を大幅に拡充して生気を与えた。とにかく「俳」、変わったことをやろうということが脈々と引き継がれている。
 いみじくもディヴィット・バーレイ氏が句集の帯で「思いがけない遊びの世界を繰り広げ」と指摘しているが、納豆の句とか君が挙げた句を指しているのじゃないかな。バーレイ氏の母国は北アイルランド・イギリスで、「フィネガンズ・ウェイク」を書いたジェイムズ・ジョイスをはじめ多くの詩人を輩出し、俳句とも縁の深いイマジズム発祥の地でもある。言葉遊びの感覚は、俳諧の連歌ばかりでなく西洋詩の伝統においても、特に変わったことでも遺棄すべきことでも無い。むしろ、詩の親戚と言えるだろう。
逆に、遊びとは反対に向かった句もある。

家族捨て魚になりたき寒夜かな

 第一章「認知」に掲載の句で、内容や形から、比較的初期の句ではないかと想像する。一つの情景や言語空間を造形するような句が多い中で、身辺の独白とも、ぼやきとも受け取れる句である。こういうのを境涯俳句とでも言えばよいのか。結核や乳がんなどの闘病生活を綴った一昔前の境涯短詩とはだいぶ趣が違うけど。日中の出来事を、夜遅く自宅の薄暗いところから見つめ直し、舌の上で言葉を転がしている様子が目に浮かぶ。楽しい句会や吟行などで句を作っているのではなく、深夜の書斎で作句している著者の姿を想像してしまう。
でも、夜だから暗い印象ばかりかというと、そうでもない。句集では、諧謔味の強い口語俳句など、色々な句作りをしていて、ライトバースのような軽いタッチの句も多くある。読み方も句によって変えないと、君のように船酔い状態になるかもしれない。

大袈裟なことばかり箱庭の夜

 箱庭を夏の季語と捉えるかどうか判然としないが、句集の名前を配して、自分の句作りの姿を自嘲的に描写したとも読める。重層的に読むことができる、典型的な俳句だ。自分の信じる一つの作句方法に、一生を通じて執着する人もいれば、色々な作り方を楽しむ人もいる。俳句との付き合い方は人それぞれ、千差万別だろう。
 

 (与太郎)
 句集を通じて感じたものとして、もう一つは色だ。一読ではわからないので、再読してみた。一つ一つの句には、赤なり青なりの色が詠まれているが、全体の色は、やはり「箱庭の夜」だ。真っ暗、真っ黒ではない。ボーと何かに照らされている。輪郭をたどれないわけではないが、だが明確ではないので、様々にたどれる。雨はない。普通に考えたら月夜なのだろうが、月自体は見えない。受ける印象は「箱庭の夜」であって、「夜の箱庭」ではないと、私は感じる。スペイン語で言えばOsculoか。句集全体としてはやはり夜の色なのだろう。やはり全体は「箱庭の夜」なのだろう。
 

 (三河町の叔父)
 光と闇が神と悪魔の領域。色が、光の波長の反射・吸収度と知覚する受容体に依存するとすれば、浮世の領域ということになるのだろうか。明と暗、昼と夜が句に詠まれる中で、君が句集全体から朧夜のように何かに照らされていような夜をイメージしたことは、作り手の立ち位置を感じ取っているのかもしれない。色々な趣向、方向性、含意を句に持ち込み、もちろん一筋縄では読めない句が多いが、私が感じるのは、作り手は暗い場所からものを見ているように感じる。
 君が拘った色に関しては、白玉、白梅、青饅など季語を含めて、白そして青(蒼・紺)がよく使われている。先に挙げた「秋空につづく白線・・」においても、白色がポイントとして用いられていた。

はくれんの碧空ずらす力かな

 この句では、碧空の青と白木蓮の白の対比がそもそものモチーフになっている。はくれんの白は、アイボリーがかったオフホワイト系の白色。因みに花言葉として挙げられているのは「気高さ」「高潔な心」「慈悲」等である。そもそも白色とは、全ての可視光線が乱反射したときに、人がその表面を知覚する色である。古来、すべての色を拒絶する有り様に、人は純粋性、高い精神性を認めていたことになる。
 白木蓮は花を咲かせるとき、葉は無く、枯木のような枝の先に白い豪華な花弁を上空に向けて広げる。土地からの栄養をすべて、木としての先端にある花弁の開花に注ぎ込む。ゆっくりと、見るたびに花弁を広げていく容姿、動きに生命の力強さを感じたのだろう。一方、開いていく、或いは風に揺れる花弁によって、場を譲ることになるのは碧空である。白い花弁が開く動きに従い、碧空はそそくさと脇に追いやられる。それを「ずらす」と表現した。無論、レトリックとしての矛盾と誇張を併せ用いている。ずらしてなどいないし、はくれんに力があるわけでも無い。しかし読み手は納得してしまう。あの白木蓮ならそのぐらいのことやるかもしれないと。それは、詐欺とわかっていても、真正面から堂々と嘘をいわれると思わず同意してしまう人間心理に似ている。「ずらす力かな」と大袈裟に、誇張して言い切った効果ともいえる。
 他にも、次のように色を使った句があり、色の持つイメージ喚起力に依っている。

身の奥の青き焰といふ余寒
敗戦記念日産土に挿す黒き傘
大岩を割る青蔦のうねりかな
白靴の片割れ大正偽浪漫
煮つめれば人魚は蒼く枯木立

 

 (与太郎)
 うーん、少しは腑に落ちてきたような。初めて、なじみの薄い俳句の本を読むということは、決してスラスラと進むものではなかった。本書の著者略歴にもある通り、奇を好むせいか何を詠んでいるのかわかりかねることが多かったし、また私自身が著者以上に性怠惰であるから、季語の意味も調べることもなければ知らない言葉(たくさんある)を辞書で引くこともせず済ませてしまった。俳句素人代表として、感じたことを言わせてもらった。
 

(三河町の叔父)
 俳句は極端に短いために、それを補うための仕掛けが開発されている。季語などはその代表選手だろう。俳句を読む前の段階で、季語の意味するところ・本意や、これまで当該季語が使われた有名な俳句を少しは読んでおくと、鑑賞がとてもしやすくなる。アプリオリな知識がある程度必要なことは、奇異な感じを受けるかもしれないけどね。確かに面倒だけど、絵の展覧会に行くと、絵が書かれた背景などをキュレーターがわかりやすく解説してくれるけど、あれと同じだ。
 一方、東京で普通の生活をしている君が、知らない季語や言葉が多かったということは、逆の意味で問題だな。俳句の言葉が日常生活と離れてきているということだ。君が専門としている音楽は、もともと音に意味を伴わない。そのために容易に海外の音楽などと交流・交歓もできる。言語は生来意味を伴うから、そう簡単にはいかない。そのうえ歴史的にみても、意味内容などはどんどん変化してしまう。どんなに新しい文体、語彙を使ったとしても、数十年もすれば陳腐化してしまう。でも、だからこそ魅力があるともいえる。
 ネットで表現がとても短くなり、若い人たちは新しい言葉を使い、また新しい使い方をしている。その速度はますます速くなっていて、俳人は大変だ。「不易流行」の流行が速すぎるし、何が不易なのかもあやふやになっているかもしれない。でも、よくわからないから、どんどん変わっていくから、俳句は面白い。そう感じてくれると本望だけど。

参考:この稿は、句集の著者(真矢ひろみ)を含む俳句関係者に行った取材等をベースにして、対談形式にまとめたものです。

【中村猛虎第一句集『紅の挽歌』を読みたい】6 中村猛虎句集選評  草深昌子(青草主宰)

 中村猛虎 句集「紅の挽歌』を読ませていただきました
 素晴らしい第一句集の御上梓を心よりお喜び申しあげます。

 何と驚きましたことに、最愛のご今室さまがあまりにもお早くお浄土へ参られましたとのこと、胸に迫ってなりません。
 この重厚なる一集は相思相愛の証として永遠に生き続けることでしょう

 モノローグの見事なる構成に感じ入るばかりです

さくらさくら造影剤の全身に
余命だとおととい来やがれ新走
秋の虹なんと真白き診断書
葬りし人の布団を今日も敷く
早逝の残像として熱帯魚

 これほどの手厚い看取りはないものと存じます

順々に草起きて蛇運びゆく
たましいに話しかけてる日向ぼこ
蕗味噌やだんだん土に帰る君
黒葡萄その一粒の地雷原
初めての再婚ですと近松忌
冬すみれ死にたくなったらロイヤルホスト
子の一歩父の一歩に春の泥
シニガハチ好きな九九です春の暮
母の日の大丈夫大丈夫大丈夫
夏雲に押され床屋の客となる
茹ですぎのブロコッリーの別れかな
春の水君の形に拡がりぬ

たんぽぽがよけてくれたので寝転ぶ
へろへろの朝日新聞台風来
僕たちは三月十一日の水である
少しずつ君が芙蓉になっていく
雪掻きて墓を掘り出す三回忌
ボケットに妻の骨あり春の虹


 「花月のコスモロジー」を心に抱いている実作者としましては、表面的には真逆の俳句に思われますが通底しているものに変わりはないでしょう
 その表現のまこと新鮮なることに大いなる刺激を賜りました。

 一見奇想天外に見えるものが一呼吸置きますれば、これこそがまともなのではないかと思われもしました。

初空や人を始めて五十年
ビックバン宇宙が紫陽花だった頃


 この世とあの世は繁がっています。
 人は死なないのです、見えなくなっただけです。
 世界のすべては、季節内存在から自由にはなれないつまり今という永遠に何回も立ち会うことができるのだということを「紅の挽歌」の余白のどこからも気付かされます

 この度は本当に有羅うございました。
 またおめでとうございます。
 ご自愛くださいまして、いよいよのご発展をお祈り申しあげます。

【広告】俳壇1月号・歌壇1月号(共同特集) 新春鼎談:戦後75年 詩歌の歩み

筑紫磐井×川野里子(歌人)×野村喜和夫(詩人)鼎談

 [内容]

戦後75年の詩歌の世界

戦後短歌の見取り図

「第二芸術」論に関心はなかった

創り直された花鳥諷詠

もともと詩を書くことが、ある種、前衛

戦中から戦後、季語は無傷だったか

前衛って何なのか?

戦後、女性の書き手が少なかった

近代を背負って出て来た戦後の女性たち

高濱虚子という流れ

辞(切字)と詞(季語)の対立

短歌、俳句の「前衛狩り」の時代

「私」という作者の立ち位置

戦後の詩歌はダブルスタンダードか

解釈によって「私」が変わる

われわれも必ず加害者

「悪」を引き受ける文体の喪失

時間を汲み上げる

『永劫の縄梯子』出発点としての零(3) 俳句の無限連続 救仁郷由美子

  浩浩と米代の川ひとり秋  『宇宙開』

 日本海に河口を開く米代川の地にて安井浩司は、昭和十一(一九三六)年二月二十九日に誕生する。なお、昭和十一年は閏年にあたる。誕生日は毎年誰にも来るものと思うが、安井はグレゴリオ暦の方法によって四年に一度の誕生日を迎える。まさに「異彩の俳人」の誕生日である。「ひとり秋」は孤独の秋と読めるが秋をひとり占めしているとも読む。大きくうねる河口に立ち、澄んだ空と海が眼前にある醐味は格別である。安井浩司ならば万有一如というであろう。
 
  句をなす友よ、いずれにせよその荒野の軌なき道を歩む他無いのである。
       『安井浩司俳句評林全集』

 
 朝鮮の友にささげる鶴の吸物  『霊果』
   訣別の友はもしや神(かむ)今食(いまけ)   『氾人』
 友よまず小川の魚を隠語とし 『汝と我』
 春日上り海部の友は登校せず 『句篇』
 枯野遥か縄を掘ればはや友に  『山毛欅林と創造』
 清友よ「媛」と銘せる酒酌まん  『空なる芭蕉』
 交響詩「巨蛇」を揮う若き友  『宇宙開』


 〈友になりておなじ湊を出(いで)舟(ふね)のゆくえも知らず漕ぎ別れぬる〉、この歌は西行の歌であるが、この歌がもたらす存在のままの孤独のかたりかけが「友」の各句にも流れている。

 西行心触れゆくのだ花薄荷  『氾人』
 
 存在が感応する魂の寄り添いは孤独の相互交感を生み出し「朝鮮の友」「清友よ」の句などには索(もと)め合う友との時空を超えた交流が流れ入る。安井浩司の「友」とは仲間内の意ではない。志を同じくするもの、同行者、道づれ〈雪袴ツアラストラ参ろうか 『汝と我』〉と同位なのである。そう、三人称的なかたりかけから、個我を超え、私達が一般的に抱く友の印象は消える。友の意味は〈直心の交(まじわり)〉であり、心と心の直交は個我を超えいる。故に、一句における〈友〉は読者自身でもあるのだ。

 見落せばおきなぐさも雑草に 『乾坤』
 去・今・来せきれいのせわしさよ『風餐』
 出雲大社巨蛇波のよぎるのみ 『山毛欅と創造』


 掲句三句を正統な写生句といえばひとはいぶかしがるだろうか。なぜならば、豊口陽子の「安井浩司私論」に〈『汝と我』所収の「汝も我みえず大鋸(おが)を押し合うや」の句を、あれは純然たる写生句だと作者はいたずらっぽく笑うのである〉とある。豊口陽子は「拈華微笑(ねんげみしょう)」、安井浩司との俳句的関係性へと暗黙知を働かせる俳人である。――であるならば〈冬青空泛かぶ総序の鷹ひとつ『四大にあらず』〉もまた写生句とみる。冬の晴れた日、空を見やれば、透明で実体がありそうなのだが無い、その無の青の深さに身ぶるいせずにはいられない。それは「空(くう)」そのものである。冬の空に安井俳句とともに自己を「ひとつ」泛べてみてはどうだろうか。俳句表現が表わす言語の豊かさ、自然と言語の二元性を超えて我が身心に不二の感覚が生じるはずだ。安井俳句は観念的であり、形而上学的だと言われる。それは安井浩司の東洋的哲学心と詩心の高さゆえなのだが、人間の側の視点である形而上学を離れて、自己は自己であり、他己は他己であり、なおも自他を超えて言語があることを教える安井俳句。それゆえに俳句を学びつくしたいと思うのである。

 夏垣に垂れる系図も蛇のまま  『風餐』
 醜(しこ)の翁も芋饗祭りへ這い行くぞ 『四大にあらず』 
 わが庭の朝鮮ぎぼうしいつ日より 『霊果』
 韓人きて音を入れれば竹震う   〃


 安井の動詞使いは美しく「垂れる」「這う」などの語が、現象を表し、自然の機能の動きを表し時間を表出する。つまり、このような動詞を働かせることは、エドマンド・リーチのいう「不可視的現実を表現した可視的現象」を俳句に起こすということになろう。また「わが庭」「韓人きて」の句は我と汝の対句であり、対句であることでかたりが生じ、「我が庭」「入れれば」から主体性が消え、それは汎個性的なものとなり、古代より現代までの「地下水脈による結びつきの記憶」としての神話性「古代実存」が立ち表れる。

 花曇る眼球を世へ押し出せど 『汝と我』

 道元『正法眼蔵』に「自己の皮肉(ひにく)骨髄(こつづい)を脱落(とつらく)するとき桃(とう)華(か)眼睛(がんぜい)づから突(とっ)出来(しゅつらい)相(そう)見(けん)せらる」とある。自己そのものを究めれば、身心脱落する。言わば桃の花が目玉の中から突出してきてはじめて桃華に出合うことが出来ることの意といわれる。「眼睛づから突出来相見せらる」と「眼球を世に押し出せど」この合一を発見したとき、安井浩司の東洋的哲学心に触れ得た。互いに異なる物質が融け合い一体となる、無碍自在、花の自性は言語の届かないところにある。いわば不立文字。だが、「押し出せど」である。

 マリア図や炎天の雪ふいに来し『空なる芭蕉』
 天国を問えば叱るや永平寺  『宇宙開』

やはり永田耕衣の言う通り、俳人は悟っても悟り切れない存在なのである。

 柘榴種散って四千の蟲となれ 『汝と我』

 種子が因、花や実が果、土、水、太陽等々の縁(条件)。これらすべてが関わりあって生命がある。この考え方が「縁起」であり、これは仏教的哲学思想といわれる。安井の句は種が散った地に花が咲き実がなるとだけいうのではない。四千の種散り花咲き、花咲けば当然蟲も来る。この縁起のすごさである。なおも田村隆一の詩「四千の日と夜」も関わって来る。ひとつの柘榴の実は個としての一、「四千」は種子と蟲の個々の因、それに土、水、太陽があり、一つの構成要素が全体である。西洋的二元論である全体と全体以外のトポス、このような考えには到りつけない。重重無尽、あらゆる事物、事象は互いに無限の関係性をもって融合し一となる。「東アジアの詩人」安井浩司『句篇』全六巻の出立の句である。
 そして、句篇最終巻『宇宙開』の句集名は後記に「俳人・志賀康の著書『山羊の虹』において、今日的状況の中で改めて抄われたものである」と記される。俳句的関係性が安井俳句の本質にある。この本質が安井俳句のかたりを開く。このかたりが読み手の自由な受け取りと応答を可能とする。それは平等な水平的関係となるのである。その上で、俳句対俳句のとらえ返しと反復が俳句の無限連続なりとなる。これが安井浩司の俳句なのである。

 鷹遊ぶ夕べの空を彩(だ)みかえす 『山毛欅林と創造』 

【なつはづき第一句集『ぴったりの箱』を読みたい】8 『ぴったりの箱』を読む  小林貴子

  1968年静岡県生れ。2018年現代俳句新人賞、19年攝津幸彦記念賞準賞を受賞し、活躍盛りを迎えられた。

 ぴったりの箱が見つかる麦の秋
 涙痕のざらざらとして白鳥座


 句集名となった一句目。物体にぴったりする箱が見つかった時の嬉しさは格別。二句目とも、下五が効いている。

 縁日のひよこに戻りたい三日月
 アスパラガス愛にわたしだけの目盛り


 ヒヨコがピヨピヨ歩いているうちに形を変え、色はそのまま三日月になってしまったとは、アニメーション化してみたい。二句目、私も目盛りが人とは異なるなと納得。

 手術着がすうすう台風直撃中
 ぺちぺちと歩くペンギン梅雨明ける
 塗り薬の円を広げて秋惜しむ


 納得以上に、こういう感覚は私も覚えていたので、私が作りたかったと思い、ほれぼれと作者に嫉妬してしまう。

 森はふとひかがみ濡らし楸邨忌
 荒星やことば活字になり窮屈


 言葉が活字になって窮屈とは、楸邨も諾うだろう。しかし、なつはづきさんの俳句の言葉は、活字になっても伸び伸びしている。今の作者に俳句がぴったりの箱だから。

(「岳」2020年12月号より転載。転載にあたり、漢数字を算用数字に書き換えました。)

英国Haiku便り(番外篇1) 白黒写真と旧仮名  小野裕三

 僕が在籍するロンドンの王立芸術大学で、先日、ある人の写真作品を囲んで数人で合評をする機会があった。壁に掛けられた彼の作品はすべて人体をモチーフにしており、かつすべて白黒であった。ある人が、「どうして君は白黒で撮るの?」と質問すると、彼は写真の中にある色の濃い部分を指差して言う。

 「ほら。この部分、液体みたいな質感がありますよね。僕は白黒写真の持つこの質感が好きなんです。カラー写真だと、この感じが失われてしまう」

 確かにその部分は、誰かの肉体の一部を写した静止写真であるにもかかわらず、あたかもそれが濃い色の水であるかのような液体的質感が感じられた。
 言うまでもなく、白黒写真は写真技術が発達する過程での過渡的な形式であり、今や我々が日常的に写真を撮る時に白黒スタイルを使用することはほぼない。映画やテレビなどの業界でも、稀な例外を除き、白黒で作品を作ることはない。白黒スタイルが意図的な選択として残るのは、芸術作品としての写真というジャンルだけだ。しかし、そのように一般的には廃れた技術が写真芸術においては意味あるものとして残るのも、それでしか表現できない質感があるからだ、ということなのだろう。
 そんな会話を聞きながら、はっと思い当たったことがある。というのも、俳句でも似たような現象が起きている。もはや日常的には廃れたスタイルであり、かつ小説や詩などの隣接領域でももはやそのスタイルが使われることはなく、にもかかわらず俳人のうちの少なからぬ人たちが採用し続けるひとつのスタイルがある。それは、「旧仮名」だ。僕の印象では、旧仮名もどこか白黒写真に似て、水のような流動的な質感をもたらす。実際、平仮名というもの自体が漢字を崩して書くこと、つまり文字を流動化させる過程で形づくられたものだし、そんな質感を平仮名は今も宿しているように思える。
 そして実は、俳句と写真にはひとつの共通する要素がある。それはどちらも基本的には「瞬間」を切り取る芸術形式であり、それゆえに「時間」の流れを扱うのは不得手、ということだ。そのような共通の性質を持つ写真と俳句で、それぞれにおいて白黒と旧仮名という、一般的には廃れたスタイルが現役のものとして少なからぬ人に使われ続けているのは興味深い事実だ。時間を扱いにくい代わりとしての何か別の流動的な質感を、写真家と俳人たちは古いスタイルを意図的に採用することによって獲得しようとしている。そんなふうにも思える。

(『現代俳句』2020年9月号より一部改訂し転載)

2020年12月11日金曜日

第150号

    ※次回更新 12/25


俳句新空間第13号 刊行!

俳句四季11月号 「今月のハイライト 豈 創刊四十周年」!
【急告】「豈」忘年句会及び懇親会の延期

【新企画・俳句評論講座】

・はじめに(趣意)
・連絡事項(当面の予定)
・質問と回答
・テクスト/批評 》目次を読む

【新連載・俳句の新展開】

句誌句会新時代(その一)・ネットプリント折本 千寿関屋 》読む
句誌句会新時代(その二)・夏雲システムの破壊力 千寿関屋 》読む
ネット句会の検討 》読む
俳句新空間・皐月句会開始 》読む
皐月句会デモ句会結果(2010年4月10日) 》読む
第1回皐月句会報(速報) 》読む
皐月句会メンバーについて 》読む
第2回皐月句会(6月)[速報] 》読む
第3回皐月句会(7月)[速報] 》読む
第4回皐月句会(8月)[速報] 》読む
第5回皐月句会(9月)[速報] 
》読む
第6回皐月句会(10月)[速報] 》読む
第7回皐月句会(11月)[速報] 》読む

■平成俳句帖(毎金曜日更新) 》読む

令和二年秋興帖
第一(11/6)大井恒行・辻村麻乃・関根誠子・池田澄子
第二(11/13)杉山久子・曾根 毅・山本敏倖・渕上信子
第三(11/20)松下カロ・仙田洋子・神谷 波・ふけとしこ
第四(11/27)網野月を・竹岡一郎・木村オサム・堀本 吟
第五(12/4)夏木久・加藤知子・望月士郎・岸本尚毅・林雅樹
第六(12/11)青木百舌鳥・花尻万博・小林かんな・早瀬恵子・真矢ひろみ

令和二年夏興帖
第一(8/7)仙田洋子・辻村麻乃・渕上信子
第二(8/14)青木百舌鳥・加藤知子・望月士郎
第三(8/21)神谷 波・杉山久子・曾根 毅・竹岡一郎
第四(8/28)山本敏倖・夏木久・松下カロ・小沢麻結
第五(9/4)木村オサム・林雅樹・小林かんな・岸本尚毅
第六(9/11)妹尾健太郎・椿屋実梛・井口時男・ふけとしこ
第七(9/18)真矢ひろみ・田中葉月・花尻万博・仲寒蟬
第八(9/25)なつはづき・渡邉美保・前北かおる・浜脇不如帰
第九(10/2)水岩 瞳・のどか・下坂速穂・岬光世
第十(10/9)依光正樹・依光陽子
第十一(10/16)松浦麗久・高橋美弥子・姫子松一樹・菊池洋勝
第十二(10/23)川嶋ぱんだ・中村猛虎
第十三(10/30)小野裕三・佐藤りえ・筑紫磐井
補遺(11/27)堀本 吟


■連載

なつはづき第一句集『ぴったりの箱』を読みたい
7 ときめき/辻村麻乃 》読む

眞矢ひろみ第一句集『箱庭の夜』を読みたい
7 『箱庭の夜』雑感/藤岡紙魚男 
》読む

中村猛虎第一句集『紅の挽歌』を読みたい
5 「紅の挽歌」より10句選評/小川蝸歩 》読む

中西夕紀第四句集『くれなゐ』を読みたい
7 射程の長さ/山中多美子 》読む

【抜粋】〈俳句四季12月号〉俳壇観測215
令和に迎えた閉幕――鍵和田秞子の逝去・船団の散在
筑紫磐井 》読む

【連載通信】ほたる通信 Ⅲ (4) ふけとしこ 》読む

英国Haiku便り(16) 小野裕三 》読む

篠崎央子第一句集『火の貌』を読みたい
3 恋と血と/吉田林檎 》読む

句集歌集逍遙 なかはられいこ『脱衣場のアリス』/佐藤りえ 》読む

ふけとしこ第5句集『眠たい羊』を読みたい
インデックスページ 》読む
9 ~生きる限りを~/髙橋白崔 》読む

『永劫の縄梯子』出発点としての零(2)
 救仁郷由美子 》読む

葉月第一句集『子音』を読みたい 
インデックスページ 》読む
8 パパともう一人のわたし/北川美美 》読む

麻乃第二句集『るん』を読みたい
インデックスページ 》読む
17 無意識の作品化、俳句のフレームを超えて/山野邉茂 》読む

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉜ のどか 》読む

渡邊美保第一句集『櫛買ひに』を読みたい 
インデックスページ 》読む
6 『櫛買ひに』を読む/山田すずめ 》読む

大井恒行の日々彼是 随時更新中! 》読む


■Recent entries

第5回攝津幸彦記念賞応募選考結果
※受賞作品は「豈」62号に掲載
特集・大本義幸追悼「俳句新空間全句集」 筑紫磐井編 》読む
「兜太と未来俳句のための研究フォーラム」アルバム
※壇上全体・会場風景写真を追加しました(2018/12/28)
【100号記念】特集『俳句帖五句選』

佐藤りえ句集『景色』を読みたい 
インデックスページ 》読む

眠兎第1句集『御意』を読みたい
インデックスページ 》読む

麒麟第2句集『鴨』を読みたい
インデックスページ 》読む

前衛から見た子規の覚書/筑紫磐井
インデックスページ 》読む

「WEP俳句通信」 抜粋記事 》見てみる

およそ日刊俳句新空間 》読む
…(今までの執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保 …
7月の執筆者 (渡邉美保

俳句新空間を読む 》読む
…(主な執筆者)小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子





俳壇1月号
特集・戦後75年 詩歌の歩み 筑紫磐井×川野里子(歌人)×野村喜和夫(詩人)鼎談



「兜太 TOTA」第4号 発売中!
Amazon 藤原書店

豈62号 発売中!購入は邑書林まで


筑紫磐井著『女帝たちの万葉集』(角川学芸出版)

新元号「令和」の典拠となった『萬葉集』。その成立に貢献した斉明・持統・元明・元正の4人の女帝、「春山の〈萬〉花の艶と秋山の千〈葉〉の彩を競へ」の天智天皇の詔を受けた額田王等の秘話を満載する、俳人初めての万葉集研究。平成22年刊2,190円。お求めの際は、筆者までご連絡ください。 

【なつはづき第一句集『ぴったりの箱』を読みたい】7 ときめき  辻村麻乃

   鰡飛んで一瞬恋になる揺らぎ

 人には心が動く一瞬がある。どきんとして全身に血が巡る。その動きは恋であったり、偶然の一致やリンクに気づいた感動であったりする。
 最近は、恋よりも素晴らしい作品に出会った時の感動や連綿と続く伝統や遺伝の確かな歩み、物理的な距離感を飛び越えて相手の心に寄り添えた時など違う時にときめく。
 なつさんの俳句にはそんなときめきを感じる。
自身の発見を自信を持って十七音にし、即他者に知らしめるという俳句の多い中で、異質な純粋さを感じるのだ。
 そして、自分の心が動いた瞬間を捉え反芻しながら、これでいいのだろうかと一旦心の箪笥にしまうような奥ゆかしさがある。
 それは、幼少期に形成された性格とその後に受けた様々な影響から成り立つ。
 人は大人になっても、幼少期の家族との関係がずっと影響する。なつさんの句集の中のご家族との関係や育った環境を感じさせる句。 

  天狼星わずかに傾ぐ父の椅子
  蚊遣火やあの日の玄関へ帰る
  夜に飲む水の甘さよ藍浴衣
  星の夜や結うには少し早い髪
  古絨毯家族そろっていた凹み


  社会の中で働けば、時に攻撃的な気持ちになったり、憂鬱になったりする。

  ティンパニーどんどん熊ん蜂が来る
  日向ぼこ世界を愛せない鳩と
  黒鍵に躓いている冬の蜂
  雁渡し退職の日のハイヒール
  今日を生き今日のかたちのマスク取る


 その日々を刻むような句の数々も、その一瞬を切り取る事である一人の歩んだモノクロームな写真集のような美しい光と影となる。

  ぴったりの箱が見つかる麦の秋

 あ、これだと直感的にわかった時の感動が麦の秋という一面が金色の実りの穂の秋と撮り合わされている。更に毎日を一生懸命に生きていくことで、もしかしたら違う箱が欲しくなるかもしれない。

 集中、一番惹かれたのはこの句である。

  はつなつや肺は小さな森であり

 肺の画像を見ると肺胞が森のようになっているのがわかる。その事を初夏の心地良い深呼吸によって気付かれた作者の言葉は宝箱に納められ、そこから森へと蝶のように帰って行くのだ。
  その宝箱を開くのは、この句集を紐解く読者なのである。

【新連載・俳句の新展開】第7回皐月句会(11月)[速報]

投句〆切  11/11 (水)
選句〆切  11/21 (土)

(5点句以上)
10点句
絶版といふも冬めくもののうち(水岩瞳)

【評】 或る本を求めていて絶版と知ったときの無念さは忘れられない。その時の気分が「冬めく」という季語の持つ気分とまことによく通じ合っている。 ──仲寒蟬
【評】 文庫本でも油断していると絶版ということもある。句集や歌集であればいっそう身近である。──依光正樹

8点句
長き夜の次のページに象歩む(望月士郎)

【評】 先日、孫と動物園に行った。その日も、その夜も、次の日も、孫の話には像とキリンが出てくる。当分この子の脳の頁に像が歩いているのだろう・・・?──夏木久

7点句
まづ石を持つて出てくる冬の蟻(渡部有紀子)

【評】 そうかも。なんとなく納得します。 ──渕上信子

6点句
猫消えし枯野に痒き一所あり(篠崎央子)

【評】 眺めていたら早くも尾の先までも草叢に没し、後を追ってみたいが既に叶わず。されば眼で追うほか無いので、ちょうど今はあの辺に居るかなそれともあの辺に居るかなと勘を働かしているうち、風で動くのか猫で動くのか判然しないがどうも、動く所がある。痒いと皮膚感覚を以て心理を陳べた点に小膝を打ちます。あたかも猫一発で戴かされちまったようで悔しいですが特選にて戴きました。 ──平野山斗士
【評】 ふと見かけた猫か、飼っていた猫か、いずれにせよその猫がいなくなった枯野。そして枯野に一所痒いと感覚される所がある。痒いの擬人化が、この場合消えた猫とドラマ的相乗効果を発揮し、詩的に功を奏した。 ──山本敏倖

5点句
大綿を連れて新聞回収人(飯田冬眞)

【評】 大綿がふわりとついて来ること冬の道で覚えがあります。大綿が新聞紙の塵のようで面白いと思いました。 ──小沢麻結

(選評若干)
残る虫とは斯く乱れ斯く乱し 3点 青木百舌鳥

【評】 盛りの時期を過ぎて衰えた声で鳴いている虫ですが、その虫がこのように乱れ、このように乱していると言っているのが、面白いです。人間にも当てはまるような~選挙で負けたトランプ大統領の今でしょうか。 ──水岩瞳

靴ずれの靴を許せず冬木立 4点 なつはづき
【評】 実感です。今でこそ履きやすい靴しか履かなくなりましたけど、若かりし頃などデザイン重視で靴選びなどしていて靴ずれの痛かったこと。誰に当たることも出来ず一人取り残された感覚が良く表現されて、冬木立が効いていますね。 ──田中葉月
【評】 靴ずれの靴に逆切れする輩が60歳前後の男性に多く、コンビニ、電車内等でも傍若無人のクレイマーぶりをよく見かける。孤立無援の誇り高き自尊と単なる痴呆の間、紙一重のところを綱渡る。 ──真矢ひろみ
【評】 靴ずれをするような靴を買ったのは自分で、靴ずれをするような歩き方をしたのも自分なのに、許せない。立ち止まって、冬木立に寄りかかりながら、具合を確かめる。ひどい。これは残るタイプの靴ずれだ。このままか歩くか思案する。と、いつか冬木立になってしまうんじゃないだろうか。 ──中山奈々

河豚ちりや生きるとは的な話もし 3点 渕上信子
【評】 この句、中八がまったく気にならない。それどころか、「生きるとは」の後に少しの間(「なんちゃって」感を含んで)を挟んだ後の「的な」の三拍が、三連符のように素早くタタタと妙に軽快なのだ。ちょっと腹の出た中年のオッサンが目に浮かぶのは「河豚ちり」という季題の文字効果だろう。この鍋は大人数で囲む鍋ではない。普段はしないような話もしつつ、一対一でちびちび突く鍋だ。 ──依光陽子

蒲団干すことも鳥語の丘の街 4点 平野山斗士
【評】 かつて森を開いた丘陵のニュータウンに、少しだけ住んでいたことがあります。言われてみれば、古い住人は鳥語を使っていたように記憶します。 ──望月士郎

保全林人なく木の実降りしきる 2点 佐藤りえ
【評】 先日、木の実に降られて感動したので。 ──千寿関屋

竈猫今度は後ろ足を上げ 3点 西村麒麟
【評】 横着な動き。 ──岸本尚毅
【評】 情景が見えてユーモアたっぷり。 ──松代忠博
【評】 退屈なんでしょうね。もうすぐ春よ。 ──渕上信子

大根の永久の白さや入歯は金 2点 北川美美
【評】 大根の白さは眩しい。でもそれを食べる歯が金歯なのがとっても可笑しく、微笑ましい。歯も永遠に白いと思っていた時代が懐かしい。 ──篠崎央子
【評】 入れ歯は永遠ではないのか。研究者に聞いてみたところ、金という物質はビッグバーンの時発生して以来、永遠に残り続けているものだとか。大根の永遠の白は感傷に過ぎないかもしれない。 ──筑紫磐井

猿山の猿見下ろして松手入れ 2点 篠崎央子
【評】 人間界も見下ろして。 ──仙田洋子
【評】 公園の高みの松でしょう。 ──岸本尚毅

純白の卵が十個雁渡る 3点 松下カロ
【評】 地上には白い卵い十個、器に盛られているのか卓上にオブジェのように一列に並んでいる。かたやはるかを行く列、またはひとかたまりの動くモノ。一瞬、ネガとポジの逆転を見る。静止と移行のすがた。対比が絵画的。
俳句的に統合すれば、卓上に真っ白な卵十個、窓外頭上に帰る雁の列。この簡潔な二句一章の取り合わせの妙をしばし味わう。
ニンゲンの統合能力のみが、卵と黒い飛行物を「鳥」のカテゴリーに入れ、また「俳句」という詩の囲いの中で系統づけることができている。 ──堀本吟

鮟鱇鍋火星に海のあるそうな 4点 真矢ひろみ
【評】 水を使わずアンコウのもつ水分のみで煮るという鍋、混沌とした様子が火星っぽかったのかな、と思いました。 ──佐藤りえ

がうがうと宙飛ぶ夜風神の旅 2点 小沢麻結
【評】 出雲へ向かう神々の中にはプライベートジェットみたいなのでぶっ飛ばす者もいるのだろう。ソラ飛ぶ、今の何?風神? ──妹尾健太郎
【評】 ひときわ風の強い晩に、家の外の風音を気にしているのでしょう。やがて、ごうごうと音を立てているその風が、まるで宙を飛んで出雲へ向かう八百万の神のように思われてきたのです。「宙飛ぶ夜風」という措辞が空想と現実とを無理なくつないでいて、共感できました。 ──前北かおる

寒卵食ふ隠居後のコロンブス 1点 仲寒蟬
【評】 特選。嗚呼、この句大好き。 ──渕上信子

秋の山鳥のむくろを捨てにゆ く1点 仙田洋子
【評】 死んでしまった飼鳥を埋める場所をさがし、秋の山をゆく。秋山の冷えて澄んだ大気の透明感と、鳥を亡くした悲しさや喪失感が重なる。「捨てにゆく」という感情を廃した語が効いている。 ──青木百舌鳥

ついてくる猫さへをらず酉の市 3点 飯田冬眞
【評】 寂しげな酉の市。 ──岸本尚毅

やっぱり|冷(つべ)たい小春日の石のベンチ 2点 妹尾健太郎
【評】 思わず「つべたい」と口に出る。 ──岸本尚毅

犬に陽や柊の蕾のゆるみ 2点 中山奈々
【評】 何気ない日常の景に惹かれました。 ──北川美美

どこでもドア開け故郷の鰯雲 3点 中村猛虎
【評】 ドラえもん的ななつかしさ。 ──岸本尚毅

【眞矢ひろみ第一句集『箱庭の夜』を読みたい】7 『箱庭の夜』雑感  藤岡紙魚男(古書はるか堂店主)

  この稿では、俳句初心者ではあるが永年活字に親しんできた一読書子として、印象に残った句を中心に感想を述べてみたい。

 蒼天をピアノに映し卒業す
 末黒野に空の真青の始まれり
  
 この二句は青と黒の鮮やかな色彩を感じさせるとともに、春の明るさと未来を思わせる。私の卒業式にも、確かに蒼天はピアノに映っていたと感じさせる句である。
 「やあ失敬」と朧月夜を後にせり
 テレビ句会でよく拝見した金子兜太氏の人物の特徴を、「やあ失敬」という四文字で一瞬に切り取った巧さ、金子氏の声が聞こえるように感じた。
 静物の傾ぐ昼過ぎ蟻地獄 
 ぼうたんの蕊震へをり白日夢  

真夏の時間が止まった世界を「静物の傾ぐ」と表現して面白いと感じた。ダリの『記憶の固執』の世界か。また次の句は、初夏に牡丹の蕊が震えるのを見ているうちに、いつしか催眠術にかかったように脱力感を覚えて、そのまま白日夢の世界に。まるで鏡花の世界のようでもある。
 在ることのはかなき重さ遠花火  
 苦界には始めと終わり秋深む 

 こうした死を意識した内面の世界に切り込んだ二句も印象深かった。第二章(決意)の途中にある一句に、
 ステージⅢとてみつ豆の甘さかな
とさらり詠まれているが、それが句集全体の通奏低音として流れているのは間違いないように思われる。
 ぼうたんの揺るるは虐殺プロトコル    
虐殺プロトコルは、伊藤計劃のSF小説「虐殺器官」で提示された概念と思われる。詩歌でもよく取り上げられる豪華な花、牡丹を、このカルト的SFのモチーフである言葉と配合させている。その大胆さに驚いた。

 次に、句集を通じて感じた、俳句の傾向について述べたい。
 大丈夫青饅が好きならば
 白玉の歪み好きです不惑です
 窪地フェチ春を清らに言えません
 相撲協会危機管理局ヒアシンス

 句集には、揚句など口語調の俳句が少数ではあるが含まれており、ユーモアを感じる句が多かった。それも所謂下ネタまである。江戸期の俳諧を思えば、この程度は許容範囲で、むしろ大人しいレベルなのだろう。
 
  「鬼」の出てくる句が多いのも特徴となっている。鬼の文字が出てくる俳句は全章にわたって十一句あり、うち六句は鬼を直接描写している。総数三〇〇の句の中で、この数は極めて多いように感じる。
 鬼の腕を濡らすひとすじ春の水
 夢に来て海馬に坐る春の鬼
 花影の妣より少しずれて鬼

揚句はいずれも春の句であり、生命の息吹を感じる。鬼に対する作者の捉え方は、大ヒットしている「鬼滅の刃」などに見られるような魔物、妖怪の類とは違い、宿神と人の間に立つ精霊のように捉えているように思う。安定した日常世界にやってくる、異界からの来訪者であり、魂の再生をもたらすものある。春の水が腕を濡らし、人間の脳の中心である海馬に来て座るのは、このような鬼の力を暗示している。それは、折口信夫の「まれびと」を思った。
 初空やマレビトを待つがらんどう
 マレビトを待つ末黒野の端っこに

 そのことを裏付けるように、まれびとが揚句に登場する。空疎になったもの、空虚な心に魂を注入するのがまれびとであり、人は聖なるものとして登場を待ちこがれ歓迎する。それは秋田の「なまはげ」のように、祭りや宗教行事に登場する鬼の性質である。
 虚子の忌や百鬼夜行の美しきこと
 鬼をそのように捉えるとすれば、この句の読みも変わってくる。虚子の忌は四月八日、春たけなわの時期である。百鬼夜行といえば京都であろうか、花も盛りの真夜中、魑魅魍魎、もののけ、鬼どもの群れ・行列に出会すのである。しかし著者は、元来、見たものは命を落とすといわれる夜行を美しいと賛美しているのだ。単なる幻想の描写というより、喩或いは一種のイメージのようにも読める。
 虚子の忌と百鬼夜行を繋ぐものを思えば、虚子をまれびと、または折口が芸能論で言及した「翁」のような存在として位置付けているのではないか。能の冒頭に出てくる「翁」は彼岸と此岸を結び、場を設える。とすれば、百鬼とは虚子周辺の多くの文人等を指すものと思われる。俳人はもちろんのこと、漱石まで含めてその多士済々は、虚子の存命中から現在に至るまで周知のとおりである。虚子(の霊)が古代からの基層、伝統との中継ぎとして場を整え、鬼たちはおどろおどろしくも、まことに美しい多彩な世界を繰り広げている・・・・そのようなストーリーを彷彿とさせる。私は、虚子が昭和初期に高弟たちと行った吟行「武蔵野探勝会」を思い浮かべた。この句を通じて、読者は、良くも悪くも、虚子の大きさに思いを馳せるのではないか。
 夜神楽の死にゆく鬼の淡きこと
 人に魂をもたらした後、鬼は山へ、常世の国へ戻る。夜神楽を見る者には、その死がまことに呆気なく感じられる。しかし、それは当然のことであり、もともと異界の住人が出処に戻るに過ぎない。神や魂を得た英雄に追われて姿を消すことは、形としては死であるが、いわば宿命であって、諦観はあるにしても悲嘆とは無縁である。
 実のところ、私はこの鬼に某俳人の姿を重ね合わせた。先の揚句で鬼を俳人と読んだ影響かもしれない。ただし「精魂を傾ける」という一般的な意味での鬼である。半世紀を超えて俳句に真摯に向き合い、病を得てからの日常は過酷を極めたはずだが、淡々として句作を続け天寿を全うした。

 句に取り上げる素材、モチーフの面から、マクロ・宇宙とミクロ・動植物との配合による句が印象に残った。
 星よりの細き光を蜘蛛渡る
光る蜘蛛の巣の上を、蜘蛛が渡っていく。星の光とする以上、夜の場面であろう。無論、巣を照らす星からの光を特定することはできない。星が光っている以上、蜘蛛の巣も照らしているはずという想念に過ぎない。この想念の延長線に、数千光年も離れた星からの微細の光と、地球上のミクロの世界に生きる蜘蛛との邂逅に至り、それを「渡る」という実態に見出している。
 光年の先行く秋の道をしえ
 金星にふれて末枯はじまりぬ
 星こぼる朴の落葉の裂け目より

 同様に、宇宙と動植物の接点を取り上げた句である。「先行く」「ふれる」「裂ける」という言葉が、邂逅を演出して両者を「繋ぐ」描写になっている。
 月天心アポトーシスの始まりぬ
 趣は少々異なるが、これもマクロ・ミクロ取り合わせと言える。アポトーシスは、あらかじめ計画・予定された細胞の自死活動を指す。癌細胞はアポトーシスが起きず、増え続けることによって生物に死をもたらす。月の威力・慈愛であろうか、アポトーシスが「始まる」ことは、癌患者にとって朗報となる。伝統を踏まえた月と、ミクロの世界で億万の細胞が直面するイベント「自死」との配合である。

 終わりに俳句初心者としての思いを述べて拙稿を閉じることとしたい。
俳句が現代でも文芸上の有力な表現手段として存在ひを維持し得ているのは、作者の鋭敏かつ繊細な神経が潜在的に捉えている様々な危うさ(肉体的、精神的危機といっていいのかもしれない)に形を与えることができる表現行為だからだと私は思っている。定型短詩という極端に窮屈な枠の中ではロジックで語ることが出来ないために、ときには難解、晦渋な語彙・表現が飛び出す。そしてそれがまた魅力でもある。
 この稿で取り上げたのはほんの一部に過ぎないが、この句集には、そうした意味で多彩な表現方法で作者の危機に形を与えた秀句が数多く収録されていると感じた。

【中村猛虎第一句集『紅の挽歌』を読みたい】 5 「紅の挽歌」より10句選評  小川蝸歩(俳句会「綱」会員)

 余命だとおととい来やがれ新走

演芸評論家の「江國 滋」の俳何を思った

 死神にあかんべえして四月馬鹿
 おい癌め酌みかはさうぜ秋の酒

中七の「おととい来やがれ」のフレーズが
精一杯の強がりを見せているが、
やはり最愛の人の余命を知ることは切ない
下五の季語「新走」が痛いほど歓効いている

この空の蒼さはどうだ原爆忌

この句の肝は中七の「蒼さはどうだ」の表記である
字余りとなったが全く気にならない
原爆に対する鎮魂より、見事に復興を果たし
空に蒼さを取り戻した人達への賛歌とも思える
句の仕上がりに好感が持てる

着膨れてオスの役目の終わりけり


オスの役目とはなんだろう?簡単に言えば
それは種を残すことである、本能のままに
上五の「着膨れて」は、理性やしがらみを
表しているように読める
この句には男のエレジーを感じる

部屋中に僕の指紋のある寒さ

この手の句は好き嫌いが別れる句だろう
読み手が詠者の感性を受け取り、感じればいい
句なので、あえて選評はしない

初めての再婚ですと近松忌

俳味があって面白い。縁あって再婚するような
ことがあれば、先に女房が逝くことなく、
曽根崎心中の「今度こそは一緒に・・」の
下りを想像した

地球に原子炉手に線香花火

大小の対比によって構成された句
事故が発生すればメルトダウンの原子炉
線香花火の最期の火の玉
どちらも危うさを感じさせる反核の句ができた

缶蹴りの鬼のままにて卒業す

作者にしては素直な句。時として鬼でいる方が
楽でいい時がある
幼い頃にはなかなか気づかないのだ
鬼でいいずっとこのまま木下闇 蝸歩

そうか君も所詮歯車蟻の列

抗って、抗った人でないと作れない句
リズム感もありだいすきです

キウイに種あり人の妻といる

火遊びの最初は小さな種でまだいいが
本気になれば、枇杷ほどの大きな種に・・・
取り返しのつかないことになってしまう
キウイの種とは上手く言ったものだ

たましいの溢れて水のないプール

作者の心の叫びが聞こえる
たましいは溢れているのに、プールには水がない
こういう作句の構成が詠者の真骨頂であろうか