2020年12月25日金曜日

【眞矢ひろみ第一句集『箱庭の夜』を読みたい】8 「箱庭の夜」読んではみたけれど・・・~俳句初心者が読むために~ 佐藤 均


 (与太郎)
 俳句になじみがありません。短詩という形式自体になじみが薄い。ほとんど無いに等しい。自分の本棚を見ても、それらしいのは「日本童謡集」、「日本唱歌集」、「啄木歌集」、「アイヌ神謡集」が全て。無理をすると茨木のり子のいくつかの詩集があるが、これはもともと後藤正治氏の「清冽」に触発されたからという具合だ。だから「箱庭の夜」も、決してスラスラと進むものではなかった。
 

 (三河町の叔父)
 それだけ読んでいれば大丈夫。世界最短詩である俳句は、すべてを言い尽くすことはできないし、作り手も最初からそんなこと考えてない。写生を唱えた正岡子規にしてもそうだ。作者が提供するのは、いわばヒントのようなもの。漱石に言わせれば扇の要。読者にも積極的に参加してもらう、つまり読者が自分なりの読みをしてもらわないと完結しない。短いから読むのは早くても、読み解くまでには長く掛かって当然だ。
 この句集は、少なくとも意味内容は取れる句が大多数と思うけど。一昔前の俳句には、全く不明のものも多かった。音韻だけを念頭に置いた俳句とかね。
 

 (与太郎)
 これでも、わかりやすい方なのか。日本の伝統文化には能とか、茶の湯とか、受け取る側の色々な意味での参加を前提としているような分野があるけど、それらと同じか。
 

 (三河町の叔父)
 俳句を「自由詩」とした詩人だっている。日本に限らず、もともと詩は重層的で多義性を特徴にしていると言えるんじゃないかな。「薔薇の名前」という映画にもなった小説で有名なウンベルト・エーコは、芸術作品は享受者の積極的な介入によって意味内容が発見される「開かれた」形態としている。それは、万人が享受できるという意味で、限りなく公平なものだ。逆にその性質を活かして、平等な寄合の形態、無縁の結界空間として、場を重んじたのは日本独特の伝統かもしれない。短連歌に始まり、中世の花の下連歌、近世の俳諧の連歌、現在のWEB句会にまで脈々と通じるもの。
 

 (与太郎)
 読んで感じたこと、としか言えなくても良いのかな?
 

 (三河町の叔父)

 大丈夫。もともと一義的、絶対的な読みなどありえない。そもそも、俳句の源流である長連歌のポイントは「三句放れ」にある。同じ文言の句を、全く違う情景として捉え直すことを要諦とする文芸など、世界各地の、どの時代にも類がない。比較文学の先生の受け売りだけどね。一句独立といいつつ、俳句には「俳諧の連歌」発句としての名残りがあるのかもしれない。
 

 (与太郎)
 俳句を発句のように楽しむというのは、歴史倒錯というか、逆行というか、
 

 (三河町の叔父)
 俳句に限らず、詩は本来、いろんな読み方ができるということ。俳句の先生が作句にあたって「全てを言いきるな」とか「自分で結論を出すな」とか言うことがあるけど、そのことと関連している。芭蕉だって「いひおほせて何かある」と言ってる。
誤解無いように付け加えると、「読み」にもアングル、深度があることは当然のことだ。芝不器男の「あなたなる夜雨の葛のあなたかな」の鑑賞を虚子が発表して、一躍注目されたことは有名だ。言葉に従って、いかに深く読むかということは、多義性とは別の次元の話だよ。空想レベルで読み解けば、自分勝手な独善解釈というか、妄想になってしまう。
 作者は何を伝えようとしたのか、何に心を動かされたのか、元々そんなものは無いのか。100%読み解くことはありえない。でもね、目の前の俳句をこう読めば俄然輝き始める。全く取っ掛かりのない、どこが良いのかわからないような句でも、アプローチの仕方を変えると頭のなかにスッと入ってくる。そういう経験は俳句に限らず短歌や詩、絵画や音楽でもよくあることだよね。そういう読みを披露することが鑑賞であり、良い鑑賞とは、思いもかけなかった切り口、深度で作品にアプローチしたものだと思うんだ。
 

 (与太郎)
 少し気が楽になったかな。それでは、単なる感想ということで話そう。
 一つは切り取った情緒、ということ。句のつながりといったものに何か意図するものがあるのかどうかはわからないが、印象として残るのはひとつひとつの句の中に切り取った風景情景だ。ただ明らかな風景情景とはいいがたいので、私としては、情緒といいたい。
 

 (三河町の叔父)
 俳句は叙情詩か叙景詩か、このことを議論するだけでも千夜はかかってしまいそう。伊藤比呂美は、詩の役目として「うた」「かたり」「まじない」の3つを挙げている。「まじない」は言葉でものを動かそうとするもので、叙情でも叙景でもない第三の機能。俳句にもあるかもしれない。脇道に逸れたね。ここでは、具体的に俳句を読んでみよう。

秋空へつづく白線引きにけり

  例えば、この句。構成要素としては、秋空、白線、つづく、引く、この4つしかない。意味も表現も全く秘密めいたものはなく、単純明快だ。上から下まで一つの散文のようにも読める。しかし、君が指摘したように、単に情景を描いたものとは思えない。情景を読者に伝えようとするならば、記述内容の具体性が乏しすぎる。もちろん、五七五の十七音字で言えるはずもないけど。
 白線とは何のことか、何のために誰が引くのか、秋空につづくとはどういう状況を指しているのか、等々について情報不足。職場や学校で、上司や教師に状況を伝言するのなら、少なくとも「何の」白線を、「誰が」なぜ「引いた」のかぐらいは必須の情報として伝えないといけない。小中学校の作文で、5W1Hを書きなさいと教わるけど、それが書かれていない。
 でもね、逆に言えば、作者にとって、十七音字の制約のなかで、状況を正確に描写することよりも、別のことが大事だったわけだ。白い線が、舗装道路に引くセンターラインか、立て看に書く白マジックだろうが、白テープを画鋲で貼り付けようが、どうでも良いというか、それは読者の想像にお任せしますということ。現実の景色は句作りの発起点になったかもしれないが、言葉にした以上、ノンフィクションじゃあるまいし、ファクトにこだわることに大した意味はない。どうぞ想像力を奮い立たせて、ご自分が最も楽しめるように読み取ってください・・・ということ。
 

(与太郎)
 でも作者としては、俳句を創作する以上、どこかに「思い」というか「感動」というか、人に伝えようとするものがあるはずだ。
 

 (三河町の叔父)
 伝えようとするかどうかは別にして、確かにあるだろう。テーマというと大きくなりすぎるから、モチーフと言ったの方が近いかな。作り手の創作動機となったもの、君の言う情緒といってもいいかもしれない。句を鑑賞する場合、この情緒の有りどころがわかれば、読むための重要な情報となる。
 この句の場合どうだろう。「白線」を引くこと、これがまず第一、しかもその白線は秋空に「つづく」状態にあること、これが第二だ。作者はたとえ現実から遠ざかろうと、言葉を紡いで何ものかを伝えようとする。
 

 (与太郎)
 著者が句集の帯に書いてるけど「日常のなかでふと気づいたり、思い出す、些事ですがかけがえのないもの」をモチーフにしてるらしい。
 

 (三河町の叔父)
 白い線が空に向けて引かれる・・・という状況が、非日常の特異な体験といったものでは無いだろう。むしろ一般生活でよく見かける、他愛もない風景といえる。実際の景としては「運動会のため、校庭に学生が白のラインパウダーを引いて、振り返ってその線を見ると、線の先に秋空が広がっていた・・・」なんていうところかな。
 

(与太郎)
 飛行機雲のことかと思った。
 

 (三河町の叔父)
 ああ、そうか。でも、それだと「つづく」という語が活きてこない。普通に読めば、白線と空は別の場所にあって、空は線の延長線に繋がる景じゃないといけない。秋空だから、よく晴れた天高い青空が先にある。一方、線を見る主体の視点はこちら側にあり、空に向けて引かれる白線を目で追うことになる。こちらと空を繋げる白線が引かれることに驚いたという感まである。振り返ると、足元まで引いてきた白い線のその先に秋空が広がっていた・・・と読むこともできる。
 秋の空は当然晴れわたってはいるが、哀愁を帯びている。もう盛りを過ぎて、衰退に向かうことへの諦めであり、晴れ渡っているからこそ哀しみは一層深くなる。こういう読みは中学か高校の国語の授業でよく聞いたはずだ。このあたりは「秋空」という季語の持つ力が背景にある。そこに真っ白い線が空へと伸び上がっている。空に線は接しているか微妙だ。微分積分の授業で教わった「無限」の概念のように、空に対してずーっと近づいていくのだが、決して繋がることはない線。自分で引いてきたと思っていたが、悠久の彼方では繋がることが宿命付けられている線。こんなふうに読むと、この白線がイメージとして読み手の心に残り、寓意ではないが、何かの暗喩にも思えてくるから不思議だ。私としては、秋と白色はつき過ぎの感があって気になるけどなあ。ちょっとした言葉の切れっ端のような句だけれども、読み進めると、どんどん奥が深まる感じ。ドライブ感。これが俳句を読む醍醐味だろう。
 

 (与太郎)
 もう少し情緒について言いたい。
 私は音楽を聴くのが好きだ。意識して聞き始めてもう50年近くになる。ジャンルは問わない。都はるみからフクウエ・ザゥヲセ(アフリカの親指ピアノ奏者)までがモットーである。
 さて、私は音楽、曲の中で重要なのは繰返しだと思っている。かなり乱暴だが、移調転調といった技法も広い意味では繰返しだと最近思う。繰返しが情緒を作る。別な言葉では直感と言ってもよいと思う。だが中には繰返しを意識させない音楽もある。私にとってはドビュッシーのピアノ曲がそうだ。
 俳句ではどうだろうか。繰返しはない。もし俳句に繰返しがあったら、漫談のネタにはなるだろうが、俳句として成り立つのかは定かではない。この辺については教えていただければ幸いである。句の中で、情景は切り取られそこにあるだけである。たくさんの句が並べられているのを読み進む感覚は、繰返しのない音楽を聴く感覚に似ていた。不安定なもの、嫌なものではないが、軽い船酔いに近いもの。
 

 (三河町の叔父)
 まず、一般的に俳句は一句を単位として扱われる。複数の俳句から、例えば句集とか連作シリーズと銘打った俳句の集合体から、傾向のようなもの、方向性などが取りざたされることはあるが、一つひとつの句は各々独立して扱われる。つまり句集に含まれる俳句の全体的な連続性、統一性といったものはあまり問われないし、作り手も頓着してないのではないか。句集の性格として、全体を読んで何らかのものを読み取る、それこそ情緒を受け取るということにはなっていない。
 この「箱庭の夜」も著者が「三十年にわたる句作の私的記録」と書いているが、一般的には、俳人が一定の期間を区切って、この期間に作った俳句を句集にしましたっていうのが多い。更にこの句集は、「変遷こそ真」と著者があとがきに書いたように、色々な作り方をしてきた俳句をそのまま掲載しているようだ。だから、小説のように一つの物語を筋に従って読んでいくような、読みの仕方を固定して各々の句を鑑賞するということができない。いわば多種多様な一句一句の船に乗ってしまうと、海に慣れてない読者は、君のように船酔いを起こしてしまうことだってある。
 もちろん、掲載句を何らかの視点から編集することは可能で、その仕方によっては、読む側が読みやすくなるかもしれない。「箱庭の夜」は四章構成で、コルトレーンの「至上の愛」の章編成にヒントを得たと筆者があとがきに書いている。各々の章の中は、句集によくあるけど、四季によって分類掲載されている(無季は各章の最後に掲載)。ところが、著者も書いているように、四章の区分基準が読者にはわからない。
 

 (与太郎)
 第一章「認知」第二章「決意」第三章「追求」第四章「賛美」という章の名前から推察すると、ある方向性に気づいて、色々試して、納得できるところまで達した・・・こういう道筋が推察できるけど、掲載されている俳句から、その経緯を辿ることができない。単なる時系列とも違うように感じる。コルトレーンの「至上の愛」は、東洋インド神秘主義とかユダヤのカバラ思想の影響とか言われているけど、そのこととどう関連してるのか、余計にわからなくなってしまう。
 

 (三河町の叔父)
 断っておくけど、君は俳句に繰返し(リフレイン)はないと言ったが、句集全体ではなく、個別の句に視点を移すと、修辞(レトリック)としてはかなり使われている。詩の技法はつまるところ「オノマトペ」と「リフレイン」に尽きると断言している人だっているぐらいだ、

大空は大地の中なり田水沸く (大:意味内容)
日を集め日に遠くあり石蕗の花 (日:単語、音)
納豆汁の納豆が好き逆もそう (納豆:単語、音、意味内容のずらし・反復)
父ひとりリビングにゐる五月闇 (i音:父の「ち」、ひとりの「ひ」、リビングの「リ」、ゐるの「ゐ」) など

 何をリフレインするかによって、著者の狙いももちろん違う。音のリフレインはリズムを整え、意味を強めたり、なめらかな印象を与えたりすると言われているけどね。俳諧の連歌では、畳語(いろいろ、行き行きて・・・)をよく使っていたし、短歌や現代詩でも多く使われている。
 納豆汁の句などは、いわばレトリックに遊ぶ感が強い。下五「逆もそう」とは、納豆の入った納豆汁も好きの意であろう。いわば、トートロジー、内容の裏返し、反復でしかない。昔の言葉で言えばナンセンスだ。面白いと感じるかどうかは読者に依るだろう。
 

 (与太郎)
 学生のころから持っていた「俳句」を外れるような、これが俳句なのか、これが詩なのかと感じたものを敢えて挙げると、

外灘にかげろふブラックスワンかな ブラックスワンは金融用語。想定外に発生する事象
逆張りのミセスワタナベ明易し  ミセスワタナベは金融市場の俗語。日本の一般投資家
県道にミミズのたうつ電波の日  電波の日は6月1日 総務省所管の一般には知られていない記念日 
彼岸へと仮線貸方いのち借方さくら 貸方借方は、貸借対照表(バランスシート)の書式、項目

など、一般的に知られてないような言葉、特定分野の専門用語を使っている句で、眼目というか、表現し伝えようとしているものが様々或いは不明で、これが不安定で揺れ動いている感じというか、不安になってくる原因かもしれない。(笑)
 

 (三河町の叔父)
 なるほど、君の船酔いの原因がわかってきた。この句集を読んでいるうちに、学校で「文学とは」「詩とは」と教わったことから外れているような感触を持ったのだろう。しかし俳諧の連歌が盛んな江戸期は、ナンセンス、パロディ、ジョーク、いわば何でもありの状態だった。近代・明治に入って子規が俳句を「文学」としたときから、短詩型は眉間に皺を寄せるようなものになった・・・と言えば言い過ぎかな。でもね、大和言葉、雅語に限られていた「連歌」に対して、いわゆる俗語にまで語彙を広げて作られたのが「俳諧の連歌」であり、そのことが短詩型の表現を大幅に拡充して生気を与えた。とにかく「俳」、変わったことをやろうということが脈々と引き継がれている。
 いみじくもディヴィット・バーレイ氏が句集の帯で「思いがけない遊びの世界を繰り広げ」と指摘しているが、納豆の句とか君が挙げた句を指しているのじゃないかな。バーレイ氏の母国は北アイルランド・イギリスで、「フィネガンズ・ウェイク」を書いたジェイムズ・ジョイスをはじめ多くの詩人を輩出し、俳句とも縁の深いイマジズム発祥の地でもある。言葉遊びの感覚は、俳諧の連歌ばかりでなく西洋詩の伝統においても、特に変わったことでも遺棄すべきことでも無い。むしろ、詩の親戚と言えるだろう。
逆に、遊びとは反対に向かった句もある。

家族捨て魚になりたき寒夜かな

 第一章「認知」に掲載の句で、内容や形から、比較的初期の句ではないかと想像する。一つの情景や言語空間を造形するような句が多い中で、身辺の独白とも、ぼやきとも受け取れる句である。こういうのを境涯俳句とでも言えばよいのか。結核や乳がんなどの闘病生活を綴った一昔前の境涯短詩とはだいぶ趣が違うけど。日中の出来事を、夜遅く自宅の薄暗いところから見つめ直し、舌の上で言葉を転がしている様子が目に浮かぶ。楽しい句会や吟行などで句を作っているのではなく、深夜の書斎で作句している著者の姿を想像してしまう。
でも、夜だから暗い印象ばかりかというと、そうでもない。句集では、諧謔味の強い口語俳句など、色々な句作りをしていて、ライトバースのような軽いタッチの句も多くある。読み方も句によって変えないと、君のように船酔い状態になるかもしれない。

大袈裟なことばかり箱庭の夜

 箱庭を夏の季語と捉えるかどうか判然としないが、句集の名前を配して、自分の句作りの姿を自嘲的に描写したとも読める。重層的に読むことができる、典型的な俳句だ。自分の信じる一つの作句方法に、一生を通じて執着する人もいれば、色々な作り方を楽しむ人もいる。俳句との付き合い方は人それぞれ、千差万別だろう。
 

 (与太郎)
 句集を通じて感じたものとして、もう一つは色だ。一読ではわからないので、再読してみた。一つ一つの句には、赤なり青なりの色が詠まれているが、全体の色は、やはり「箱庭の夜」だ。真っ暗、真っ黒ではない。ボーと何かに照らされている。輪郭をたどれないわけではないが、だが明確ではないので、様々にたどれる。雨はない。普通に考えたら月夜なのだろうが、月自体は見えない。受ける印象は「箱庭の夜」であって、「夜の箱庭」ではないと、私は感じる。スペイン語で言えばOsculoか。句集全体としてはやはり夜の色なのだろう。やはり全体は「箱庭の夜」なのだろう。
 

 (三河町の叔父)
 光と闇が神と悪魔の領域。色が、光の波長の反射・吸収度と知覚する受容体に依存するとすれば、浮世の領域ということになるのだろうか。明と暗、昼と夜が句に詠まれる中で、君が句集全体から朧夜のように何かに照らされていような夜をイメージしたことは、作り手の立ち位置を感じ取っているのかもしれない。色々な趣向、方向性、含意を句に持ち込み、もちろん一筋縄では読めない句が多いが、私が感じるのは、作り手は暗い場所からものを見ているように感じる。
 君が拘った色に関しては、白玉、白梅、青饅など季語を含めて、白そして青(蒼・紺)がよく使われている。先に挙げた「秋空につづく白線・・」においても、白色がポイントとして用いられていた。

はくれんの碧空ずらす力かな

 この句では、碧空の青と白木蓮の白の対比がそもそものモチーフになっている。はくれんの白は、アイボリーがかったオフホワイト系の白色。因みに花言葉として挙げられているのは「気高さ」「高潔な心」「慈悲」等である。そもそも白色とは、全ての可視光線が乱反射したときに、人がその表面を知覚する色である。古来、すべての色を拒絶する有り様に、人は純粋性、高い精神性を認めていたことになる。
 白木蓮は花を咲かせるとき、葉は無く、枯木のような枝の先に白い豪華な花弁を上空に向けて広げる。土地からの栄養をすべて、木としての先端にある花弁の開花に注ぎ込む。ゆっくりと、見るたびに花弁を広げていく容姿、動きに生命の力強さを感じたのだろう。一方、開いていく、或いは風に揺れる花弁によって、場を譲ることになるのは碧空である。白い花弁が開く動きに従い、碧空はそそくさと脇に追いやられる。それを「ずらす」と表現した。無論、レトリックとしての矛盾と誇張を併せ用いている。ずらしてなどいないし、はくれんに力があるわけでも無い。しかし読み手は納得してしまう。あの白木蓮ならそのぐらいのことやるかもしれないと。それは、詐欺とわかっていても、真正面から堂々と嘘をいわれると思わず同意してしまう人間心理に似ている。「ずらす力かな」と大袈裟に、誇張して言い切った効果ともいえる。
 他にも、次のように色を使った句があり、色の持つイメージ喚起力に依っている。

身の奥の青き焰といふ余寒
敗戦記念日産土に挿す黒き傘
大岩を割る青蔦のうねりかな
白靴の片割れ大正偽浪漫
煮つめれば人魚は蒼く枯木立

 

 (与太郎)
 うーん、少しは腑に落ちてきたような。初めて、なじみの薄い俳句の本を読むということは、決してスラスラと進むものではなかった。本書の著者略歴にもある通り、奇を好むせいか何を詠んでいるのかわかりかねることが多かったし、また私自身が著者以上に性怠惰であるから、季語の意味も調べることもなければ知らない言葉(たくさんある)を辞書で引くこともせず済ませてしまった。俳句素人代表として、感じたことを言わせてもらった。
 

(三河町の叔父)
 俳句は極端に短いために、それを補うための仕掛けが開発されている。季語などはその代表選手だろう。俳句を読む前の段階で、季語の意味するところ・本意や、これまで当該季語が使われた有名な俳句を少しは読んでおくと、鑑賞がとてもしやすくなる。アプリオリな知識がある程度必要なことは、奇異な感じを受けるかもしれないけどね。確かに面倒だけど、絵の展覧会に行くと、絵が書かれた背景などをキュレーターがわかりやすく解説してくれるけど、あれと同じだ。
 一方、東京で普通の生活をしている君が、知らない季語や言葉が多かったということは、逆の意味で問題だな。俳句の言葉が日常生活と離れてきているということだ。君が専門としている音楽は、もともと音に意味を伴わない。そのために容易に海外の音楽などと交流・交歓もできる。言語は生来意味を伴うから、そう簡単にはいかない。そのうえ歴史的にみても、意味内容などはどんどん変化してしまう。どんなに新しい文体、語彙を使ったとしても、数十年もすれば陳腐化してしまう。でも、だからこそ魅力があるともいえる。
 ネットで表現がとても短くなり、若い人たちは新しい言葉を使い、また新しい使い方をしている。その速度はますます速くなっていて、俳人は大変だ。「不易流行」の流行が速すぎるし、何が不易なのかもあやふやになっているかもしれない。でも、よくわからないから、どんどん変わっていくから、俳句は面白い。そう感じてくれると本望だけど。

参考:この稿は、句集の著者(真矢ひろみ)を含む俳句関係者に行った取材等をベースにして、対談形式にまとめたものです。

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